Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

試行(思考)錯誤ラングウェッジ

 おかんが股関節の手術をして入院している岡大病院に見舞いに行ってきた。十八まで岡山県内に暮らしていたけど病気や入院とは縁がなく初めて岡大病院に行くことになった。

 おやじの運転で家から一時間半ぐらいかかった。さすがに大きな病院で駐車場から病室まで遠い。

 行った時はおかんがリハビリルームでリハビリをしていたので少し見てた。左右のポールをつたいながら歩くリハビリ。だいぶゆっくりだがおやじが言うには先週よりはかなりましになったと。

 終わってから相部屋の9階へ。おかんの部屋の人たちは足腰の手術とかで入院しているので死に関わることはないので明るい。

 病院によくあるほの暗い死の匂いはしなかった。反対側はおそらく重病や死に直面している方々が入院している棟だから、目には見えないし匂いは嗅ぎとれないが、第六感みたいなものがそれを感じてしまうだろう。

 祖父が亡くなる半年前に見舞いに行った時の病院には、小さな病院だったからそのほの暗い死の匂いが病院内に漂っていた。

 生きているものは本能的にそれが頭で理解するというよりも、感覚として受容できるのだろう。

 知り合いの霊感強い人は生命に何か危険なことが起こりそうな人は黒い膜のようなものに覆われていると言っていた。

 岡大病院の看護婦さんはけっこう可愛い人が多かった、たまたま見かけた子がそうだったのかな。ナース服フェチじゃないし。
 岡山弁から遠く離れていると久しぶりに聞く女の子の岡山弁は可愛らしい感じだ。友達の結婚式の二次会で聞いた同級生の男の岡山弁はおっさん臭いのに。年齢的な問題か、三十路近くはもはやおっさんみたいな。

 地元を出て今年で9年目だと方言を東京で使うことないし、忘れかけてる。言葉は使わないと脳内にあってもすぐにそのメモリーを呼び出せない。
 英語をずっと使っていると脳は英語の文体で思想して思考する。だから日本語で思考するのは違う文脈になる。

 方言と標準語もそうなのかな。こっちの友達からすれば標準語は気持ち悪いし都会ぶるなと思うだろうけど、僕は関西に一年足らず住んでいたが自分がエセ関西弁を話すのがいやで岡山弁で話してた。関西弁で思考できなかった。

 東京に行ったらすぐに標準語にモードが切り替わったから自分は東京の方が向いてたんだと思う。
 カメレオンみたいに周りの景色に溶け込むように同化したのなら適応できたことになるわけだ。

 環境と言語は結び付いていて切り離せない。

 持ち帰った小説は一冊も読みきれてない。明日帰京する新幹線の中で「虐殺器官」は読了できそうだ。

 この作品は確かに凄い、言語を操り、虐殺を引き起こす男と暗殺部隊の戦いだが、著者がこれを書いた時点では両足の感覚は失われていたはずだし、ガンが転移しこの作品を含めて世に出た三冊をベッドの上で猛烈な勢いで書き上げたりしている。
 何かを残そうとしたその想いの熱量や明確な意志が作品から溢れ出ている。

 作品に大事なのはそういう溢れ出すなにかであることは間違いない。