Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「THIS IS “「インコは黒猫を探す」”」

「すべての仕事は売春である」と。
そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。
“愛”は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。
多分。
それは手ごわく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。
そして“資本主義”も。
「pink」あとがき


惨劇が起こる。
しかし、それはよくあること。よく起こりえること。
チューリップの花びらが散るように。
むしろ、穏やかに起きる。
ごらん、窓の外を。
全てのことが起こりうるのを。
リバーズ・エッジ」あとがき


いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
いつも。たった一人の。一人ぼっちの。
一人の女の子の落ちかたというものを。
一人の女の子の落ちかた。
一人の女の子の駄目になりかた。
それは別のありかたとして全て同じ私達の。
どこの街、どこの時間、誰だって。
近頃の落ちかた。
そういうものを。
「ノート(ある日の)」『ちくま』


人影もまばらな夜に通りを抜けドーナツ屋に入ったとたん、そうだ、
あそこに行こう、とおもいたった。
町で一番高いマンションへしのびこむことにしたのだった。
びくびくしながら門をくぐり、わたしたちはガラスのドアを開けた。
管理人部屋を横目でにらみ、誰もいないことを確認した。
エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
ごとんごとんと機械の音。
手にはふかふかのドーナツと熱いコーヒーの入った袋。ドアが開く。
息をひそめて通路を曲がると、わたしたちの目の前に、夜明けの東京がひろがっていた。
群青から薄い青、そして茜色へのグラデーション。
雲はひとつもない。わたしは空を見上げた。
おはよう。おはよう。
「チワワちゃん」あとがき

文藝 秋号 2001 「岡崎京子特集」より



 僕が下北沢という町を最初に知ったのは演劇と音楽の町ではなかったと思う。岡崎京子さんの漫画を読んで、彼女が生まれ育ったその町の名前を知って、そこからちょうど興味を持ち始めた演劇だったり音楽が盛んな町だと。


 最初に買ったのは「ヘルタースケルター」だったはずだから、でもそれは03年に出てて、となると専門に入ったあとだからさっき書いた事は違うことになる。最初に演劇や音楽の町だと知って、岡崎京子作品に出会ったことになるのかもしれない。僕が最初に東京で住みたかったのは下北沢だったから。記憶は曖昧だ、あるいは勝手に脳内で補完され偽装される。


 下北沢のフリーペーパー「路字」に少しだけ絡ませてもらったり手伝いに行ったりしているのはそこからの派生だ。主要メンバーの一人である賢三さんは岡崎さんの小中の同級生だと言っていた。彼からすれば彼女は単に幼なじみ程度の幼少期から知る女の子だ。


 僕が「チワワちゃん」を買ってあとがきを読んだ時に思い描いた町で一番高いマンションは本多劇場と併設されているマンションだと思った。あの辺りで高い建物なんてあれぐらいしか思い浮かばない。だから僕も少しだけそのマンションに忍び込んでみたくなった。忍び込んでいないのだけど。
 「路字」を刷る時にたまに北沢タウンホールの上の階の方を使う。そこの窓から見える景色は渋谷や新宿だから、それに近い景色だったんだろう。そんな時に岡崎京子という人の作品や言葉がふいに思い浮かぶ。


 僕はオザケンフリッパーズも知らなかった。オザケンはテレビで知ってたけど曲はまるで、彼らがどういう存在だったのかはそこに「遅れてきた青年」だった僕は岡崎京子作品で知った。気が付いたら僕はそういうポップなものにリアルタイムには触れれなかった。


 だって、気が付いたらそれらは終わってしまっていたんだ、そういうこと。いろんなことを知り始めて二十代を向かえた時には僕らは「失われた世代」としての「ロストジェネレーション」扱いされてしまった。そこには怒りや哀しみ、切なさがあってポップなんてないかのように見えた。


 僕がポップについて考えたのは去年佐々木敦氏「ニッポンの思想」を読んでからだった。そして現実世界は確かにポップなものが復権し始めた。叶わないとしても僕はずっと岡崎京子さんの復活をずっと待っている。



 この十年の反復ではなく、違う方向性として無意識化でポップなものを求めてそれを天然だったり、ある人は意識的にしていくのが次のディケイドに起きるムーブメントみたいな気がしている、というか感じている。
 次の十年代の「テン年代」はポップな表現で彩られていくような、意識的に無意識的にそっちに引っ張っていく人たちが主役になるんじゃないかと思う。だからそれが無意識的じゃないのならば意識的にそっち側に移行していくことで心に色彩が描けるような面白い十年代になっていくんじゃないかなと思うし、僕もそちら側で楽しめるだけ楽しめるように。



 とそんなことを以前思ったし書いた。僕にとって岡崎京子作品は最高にポップだから、インフルで安静にしてた一週間そういうこととか考えていた。金曜日は三茶のシアタートラムで快快(faifai)「インコは黒猫を探す」を観に行く事にしていた。インフルも人に移す可能性はなくなっていたし、元々休みにしていて。
 その前の晩に専門の友人の高塚と電話で話をして、そういうたまたまタイミングが良い、悪いというのはわりと大事な事だ。何に? 人生においての友人として合う合わないとか大事な局面で話ができるとかできないとかそういう諸々において。


 舞台まで時間があるのでなぜか「THIS IS IT」観ようぜってノリになった。僕の中では映画でキングオブポップなマイケルを観て、ポップな色彩が溢れるような快快の舞台を一日で観る事は何か運命づけられているような気すらした。ポップなことを考えていたらポップな作品から今年をようやく始めるみたいなそんな日になりそうだった。


 海の向こうではヴァンパイア・ウィークエンドが、2ndアルバム『コントラ』でビルボードの総合チャートにて初登場1位。新しい時代の幕は完全に開かれていた、地下でそれらはゼロ年代の終焉を前に始まっていた事だったとしても。


 なんだかテロリズムみたいに、爆弾を持って自爆テロをして多くの人を自らの信仰と信念と共に巻き込んだ純粋すぎるが故に起きる悲劇みたいに、新しい時代の始まりに爆弾ではなくポップなものが大衆的なカラフルなそれらを爆発させて世界に色彩を取り戻す戦いが、前の十年を忘却させるための新しいポップのテロリズム


「Vampire Weekend - "Cousins"」


 恵比寿にて待ち合わせして恵比寿ガーデンシネマにて「THIS IS IT」を。場所がら的に年齢層の高い客層だった、がよく考えればマイケルは享年50歳なんだから彼らは同世代だったりするわけだからリアルタイムでマイケルを見ているとしたら感じることもまるで違ったんだろう。


 恵比寿に行くまでに「シネマハスラー」の宇多丸さんの「THIS IS IT」評を聴いた。マイケルに関してはこの番組のワンコーナー「サタデーナイト・ラボ」での「緊急追悼特集:決定版!西寺郷太マイケル・ジャクソン語り」 (前編)(後編)を聴くとまるで印象が変わるし、西寺さんが日本でのマイケルの負のイメージを払拭することに大きく貢献しているいう宇多丸さんの意見には多いに共感できる。




2009年6月に急逝したマイケル・ジャクソンが、同年夏にロンドンで開催するはずだった幻のコンサート「THIS IS IT」のリハーサルとその舞台裏を収めたドキュメンタリー。100時間以上に及ぶ楽曲とパフォーマンス映像や、舞台裏でのマイケルの素顔を記録。監督は、ロンドン公演そのものの演出も務めていたケニー・オルテガ


 多くの人が観てすでに絶賛しているのを聞いていた作品。僕はいつでも「遅れてきた青年」(by 大江健三郎)なのでマイケル自体も亡くなってからきちんと聴いたような人間で、特に彼に思い入れもない。ただ曲を聴くと本当にポップで楽しいなと思った。
 この映画は確かに映画館向きで、大画面で大音量で観るべきだと冒頭から感じた。DVDとかブルーレイで家で観てもすごいだろうけどある種のライブ感とか迫力を考えれば映画館で観たほうがいい。


 この作品でマイケルすげえって思うのは、この「THIS IS IT」の映像でのマイケルのパフォーマンスは全力なんか出してない、だってリハーサル風景だから手を抜いているし、マックスで歌を歌っていないのにも関わらず、圧倒的なものを見せつけられる。これがマックスの全力でライブ観たらそれはもう神を観ちゃったことになったんだろうなっていう想像力。この作品を観る上で想像力が発揮されるかどうかで評価は大きく変わる。


 ライブでやろうとしたセトリ順に進んでたと思うけどすごく楽しい。バックダンサーや演奏しているミュージシャンとかもエンターテイメントをいかに最上級にするかで選ばれている。少し泣きそうになったのはマイケルに憧れてマイケルの後ろで踊れる事になったバックダンサーの人たちの事。
 世界中からオーディションに集まって勝ち抜いた世界でもトップクラスのダンサーたち。尊敬してやまないマイケルの後ろでリハーサルをこなして夢みた舞台が目の前に迫って、そして彼らの神は目の前から永遠に消えてしまった。こんな悲劇ってないだろ?


 このツアーが終われば彼らは「THIS IS IT」でマイケルのバックダンサーを務めたという最強の名刺を手に入れることができた。そして最強のエンターティナーであるマイケルと同じ舞台に立てたはずだった。それらがすべて失われた喪失感を考えると泣きそうになった。


 マイケルは演奏にしても舞台の進め方に対しても自分の意志を伝えて自分の世界観や表現する事に妥協のしない人みたいだった。そして発言からすると本当にイノセンスな完全に無垢な人だったのだろう。
 最後の方で輪になってマイケルが「四年後には環境破壊を止める」ってスタッフに言ってて、おいおいって少し笑いそうになった。そういうことを普通にその場で言えてしまうこととか、純粋なイノセンスを持った人じゃないと無理だろう。


 自分のやっている事が世界中に伝播して世界を変えれると思って、願っている人だった。それはこの平気で悪意を向けられる世界において僕らが想像できないぐらいに傷つけられたのだろう。だからこそ純粋なままの無垢なポップスを持ち合わせていたのかもしれない。


 そんで渋谷のSomaで茶をして解散して三茶に。待ち合わせ時間までキャロットタワーの前で時間を潰し。阿部和重シンセミア」三巻目読んでたら読了した。あと一巻。しっかし、すげえなこの作品としか言えない。


スチャダラパー(feat.小沢健二) - 今夜はブギーバック(LIVE)


 待ち人が来たので世田谷線の三茶駅の隣にあるシアタートラムに。住んで三年ぐらいだけどトラム自体は初めて。快快の舞台は二度目。去年の「MY NAME IS I LOVE YOU」が初めてだったけどめっちゃ楽しかった。去年の11月に快快のゴリラのワークショップに行ったり。


 人でいっぱいだった。前売りは完売してたみたい。快快のメンバーさんも客の対応で忙しそう。リーダーのよんちゃんが販売のとこにいたのでちょっと挨拶して「エクス・ポ」テン/ゼロ号を買った。椅子に座ったけどすごく天井が高い小屋だった。席数もかなりあったし、最終的には両サイドに立ち見、通路に座布団的なクッションひいての当日券の人が座って収容できるだけのキャパ分人が入ってた。すげえ人気。


 「エクス・ポ」テン/ゼロ号の目次を読んでいると古川日出男氏の戯曲「OK豚ピューター」というのがあった。
 どう考えてもRADIOHEADの名アルバム「OK Computer」を完全にもじったタイトルで、また古川さんが真剣にふざけるなあって思った。真剣にふざけている事は最高にカッコよくて笑ってしまうんだ。
 「フルカワヒデオ200ミニッツ」 での200ミニッツ朗読ライブが「早稲田文学」3号にDVDに収録されているらしい。


 僕が快快との出会った、知ったのも古川日出男氏が関わっているとも言える。面白そうな人は繋がっているし、注目し合っている。身体性ということを考えると古川さんが快快に興味を持ったのはわかる感じ。


『体力をつけよう、体力を 希望とか絶望なんかより
 体力の方がずっと私を救う ぴーす』

 
 舞台の上手とは客席から向かって舞台の右側をいい、対して、左側は下手という。
 「インコは黒猫を探す」は一つの部屋を中心にそこにいる彼らの現在と三年前の過去がある意味でクロスオーバーし、飼われている二羽のインコが過去と現在をつなぎ、その部屋から見えた横断歩道? 道だっけな、そこに三年前にはいた黒猫と現在はいなくなった黒猫という差異が存在する。

 
 インコ二羽を人が演じている。現在と過去の彼ら、だから3×2。そこには来客としての友人もいる。三年前と同じような出来事が部屋で起こる。ケーキを作るために外出、キムチ鍋を作るために外出、家に向かうまでの道程を、三年前と現在が同時に。


 下手では三年前の彼らの出来事が展開する。メレンゲを作るために生卵を口に何個かふくんでダンスして口の中でメレンゲを作るみたいな、身体性を使った事、その後顔白い粉が塗られて、上手の現在というか、未来では顔を真っ赤に塗って火としてキムチ鍋をごとごとと煮る描写が演者の身体を使って表現される。下手と上手で起こる同じような出来事、しかし差異があり、舞台の真ん中では過去と未来(現在進行形)が混ざり合っている。


 テンションは高く、勢いよく進んでいく。サラダ油を使ったオイルマッサージの模倣や、そのサラダ油を落とすために風呂に入って泡だらけになったりと語る人間がいて、それを身体によって模倣あるいは真似る人間がいて、言葉が動き出して、身体が物語る。
 そこにはユーモアがあって、狙い通りに観客は笑ってしまう。そのテンションに冒頭から持っていかれているのでもはや僕らはそのハイテンションを受け入れることができる。そして交互にあるいは混沌みたいに混ざり合った過去と未来、日常のワンシーンがポップな色彩で溢れている。


 インコ二羽と登場人物たちは時に自身の立ち位置(演じているキャラクター)が変わる。インコでなかった人物がインコとして話し、過去の自分と未来の自分が変わって、そこにある過去と未来が、そこにいるものが誰にもでなって変われるみたいな楽しさがあって観ていてワクワクした。けっこう笑った、なんかその場で起きている事を純粋に楽しめた。


 身体性が際立ってるし、観たら楽しいし幸福感が溢れている。そりゃあ、人集まりますわなって納得する。三月にも快快はやるみたいだから興味ある人は観に行ったらいいと思う。こういうのはなんだかんだ言っても観て空気感を味わないとわかんないと思う。
 ダンスだったり身体を使うパフォーマンスってその場でのリアルタイムで観た時に起こる感触が全てないんじゃないかと。だってダンサーの黒田育世さんの動きとか観たらすげえとしか言えないんだもん、それを言葉にして巧く表現できる人は批評のプロぐらいなもんでさ。


 言葉で表現できないからこそ体を使ってると思うんだよなあ、身体性のパフォーマーって。だからこそ伝えたいけど伝わらない、それを体の動きによって爆発させると受け手にはものすごい感覚として、全て理解できないし受け取れないとしても伝わる感覚というものはあるから。


 だから快快の表現というかパフォーマンスは体中から溢れるものがうまくポップなものとして観客や受け手に、台詞だけじゃなくてダンスのような動きがプラスされて伝わってくる。彼らが意図したこと全てを理解できないとしても、そこにディスコミュニケーションがあったとしても、それはわからないから知りたい、感じたいというものに変わっていく。
 理解できていてわかっているともっと知りたい、体験したいというものに、そういう風に思えるのが健全なポップなんじゃないかなって。


小沢健二−愛し愛されて生きるのさ(OZAWA Kenji−LOVE IS WHAT WE NEED)


 「THIS IS IT」も「インコは黒猫を探す」も映画館や劇場でライブで生で体験することで僕の中に染み込んでくるような、僕は今猛烈にポップを欲しているのだと最近よく感じる。オザケン復活するしね、時代が求めているんだよ、そういうポップさ。
 僕は非常に一般的な感覚だと思う、誰かがブレイクする前から目をつけるような慧眼or隻眼(すぐれた、独自な見識の方の意味)もないしね、周りの友人・知人が薦めて注目するものがその後ブレイクして注目されるけど、僕はそのブレイク前夜とも言える時期に彼らに促されるように注目し、ハマる。そしたらあとはブレイクしていくのを見守るだけでしかない。僕が非常に一般的な視線だからそういうことになる。


 だから今、僕が欲しているそのポップなものってのは前夜祭の一瞬だ、この祭りが、「カーニヴァル化する社会」で広まっていくんだと思う。予想とか予言じゃなくて、実感として。


 だから快快の舞台とか今のうちから観に行っておいた方がいいよ、と。たまたま知って観に行くようになったけど。どう考えても手に負えなくなる感じがする、想像よりもいっとう速く。会場のキャパもでかくなっていくだろうし、チケも取れなくなっていくと思う。
 肥大化していろんなものを呑み込んで、取り込んでポップなモンスターみたいに増殖して拡大していきそう。ポップなものっていろんな事を呑み込んで取り込んで成長する芸術だったりアートだったり表現(ううん? 全部同じ意味か?)だと思う。


 キングオブポップと言われたマイケル・ジャクソンが死んだのは、ポップの再注目のためだったと思う。来るべき新しい時代の前の王は役目を終えて殉職した。その遺伝子は世界中にバラまかれたし、潜在的にもっているものをさらに喚起する。
 新しい時代の前に巨星が散るのはもうすぐ新しい何かが始まる合図だ。あるいは王が王子が帰還しもう一度始める。


小沢健二 - ある光

↑がめっちゃ好きなんだけどな、一番好きかな。ライブで聴いてみたい。


 観てるのがつまらない連中は観てるだけじゃなくて新しく何かを始めればいい。どちらを選ぶのかも勝手に決めれる。
 カウンターとしてのアンチポップな表現だって派生してくるし、もちろん存在する。


 前夜祭はもう始まっているし、僕らはこの新しい時代の祭りの始りには間に合うみたいだ。

pink (MAG COMICS)

pink (MAG COMICS)

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

キング・オブ・ポップ-ジャパン・エディション

キング・オブ・ポップ-ジャパン・エディション

エクス・ポ第二期0号

エクス・ポ第二期0号

早稲田文学 3号

早稲田文学 3号

LIFE

LIFE

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)