Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「シンセミア」

 昨日は朝からtwitterにて仲俣さんが石川忠司著「新・龍馬論 ~維新と近代とリアリズム」を読んでいるのをツイートされていて、数日前に出版元の原書房の大西さんが出るよと書かれていてなんとなしに気になっていた。


 そんな中で仲俣さんとRTとかでやりとりしてて、「明治維新がデカかったのは西洋の言葉が入ってきて言葉が変わったから時代も思想も完全にシフトチェンジした、言葉が変わると考え方も変わるはずですよね。」という僕に対して「それだけじゃないよ。石川さんの本、読むべき。とくに大塚信者は。目が醒めるはず。」と。
 「そう言われると読まねば! 大塚信者は否定できないしというか現役だし。『新・龍馬論』ですよね、すぐには読めないですが読みます。」に対して「ほかの本を差し置いても読んだほうがいいよ。もの書きになりたいなら。」と返してもらったので買おうと思って、とりあえずamazonでチェックしたら発売日の翌日なのに品切れだったので、家を出て近所のツタヤに行き、やっぱりないからもう一軒の本屋に行ったけどない。


 もう一軒の本屋に行くためには246の地下である三茶駅を通るのでもう電車乗って渋谷に行ってしまおうと思って渋谷に。開店して一時間もしない時間だったブックファーストで検索したらB2にあるみたいなので行ったら五冊ぐらいあったので購入して家に帰る。


 先週の一週間は新型インフルで休んでいた。その間に買っていた「シンセミア」四巻を地味に読み進んでいた。「新・龍馬論」を買いに出かける前には四巻の最終章辺りだった。このまま最終章を読み切って「新・龍馬論」読んで寝ないで仕事に、一週間ぶりに行って夜の八時から朝の五時までやったら死ねるなあって思って寝ようとした。


 が、寝れずに「シンセミア」を読み切ったら三時を過ぎていた。しっかし、この小説は凄い勢いでいろんな出来事を巻き込んで内封しながら繋がっていった。戦前の事が現在までに深くこんがらがってほどけない「神町」において三世代ぐらいがそこでどうにもならなくなり、錯綜し混乱し、裏切られ、出し抜いて、まるで不幸のオンパレードの観覧車みたいに目まぐるしく変わる。
 確かに文庫では四巻、ハードカバーでは上下巻に分かれるほどに分厚い本になる。登場人物も五十人とかかなり多いのでそれぞれのエピソードや事件が書かれる必要、それが繋がっていることを描き出す、説得力を持つためにはこの枚数が必要だったんだろう。


 しかし、最後のオチはありなのかというか、ある意味で続くための伏線のような、終わりなのに始りみたいな感じだった。三部作として「シンセミア」の次には三月ぐらいに「ピストルズ」が、そしてそれらに続くものが出るらしい。「神町サーガ」と思っていたが著者の阿部和重氏は「サーガ」とは言っていないらしい。


 最後まで読むとなんだろうな、「母性」が勝ったわけでも「母性」が物語をうまくまとめたわけでもないんだけど、女性が生き残ったというか、男性の主要キャラはボロボロに消えていった。女性達は生き残ったというのが読み終わった最初の感想。「性」がこの作品にかなり大きな重さを与えているだけに好き嫌いはあるのかもしれないが、ここを避けて通れる人間などいないし、物語で「性」をいろんな角度から書かれている作品は好きだ。

新・龍馬論 ~維新と近代とリアリズム

新・龍馬論 ~維新と近代とリアリズム