品川のエプソン水族館に行ってきた。
イルカのショーをしていた。そこは岩井俊二「ウォーレスの人魚」のラボを想像させた。動物園と水族館に行くと動物に対しての興味もあるが僕らが見ていると言うよりも見られている感じがしてしまう。
エイのヒラヒラと泳ぐ感じの雄大さは何故かやすらいで好きでたぶん水族館で見たいのはエイとクラゲだ。なにか落ち着く。
ペンギンは人気があって親子連れとかで通路が埋まった。ピョンピョンと跳ねるように歩く、前に進む姿はどんくさいイメージ。水中を泳ぐ姿は泳ぐと言うのは適切ではなく、やはり水中を飛んでいる。大きいペンギンはエヴァの量産型を思わす。
残念ながらクラゲはいなかった。一応物語にこの水族館を導入しようか迷っていたけどクラゲがいないとなると、うーむ。「アカルイミライ」の話をするにはクラゲが欲しかったんだけど。品川のウォーターフロント、東京湾沿いを少し泳いだあんまりクラゲがいなかったけどフィクションとして大量発生させてやろうかとすら思う。ホタルと対になる感じで発行クラゲが夜の東京湾にボヤーと光るその群れを。幻惑として発行する群れを見させた方がいいのかもしれない。
帰りにアンナミラーズに寄ろうとしたら待ちだった。初めて生で見た。噂には聞いていたがあの制服は確かに胸を強調しているなあ、メイドが流行る前からあるってことはある種の元祖なんじゃないかと思ったりするけど。帰りに何か信号前で訴えている人がいたけど最近ニュースでしていた京浜ホテルだった。知らない所が多過ぎる。
サカナクション「セントレイ」PVがYou tubeに上がっていた。
すごくアンセム的な気がする。僕にとってのDragon Ash「百合の咲く場所で」やくるり「ロックンロール」のような。
charlieこと社会学者の鈴木謙介氏が「エクス・ポ」の連載の中で宇多田ヒカル「光」とRADWIMPS「オーダーメイド」のことを書いていたのでちょっと前に聴き直した。
RADWIMPSの世界観は何億分の一の確立(精子が卵子に辿り着いて受精する)で生まれたことは奇跡だけど実はそれは悲劇だったんじゃないか、でも君と出会えて僕は承認されてこの世界にいていいんだ、だから生きてていいんだ、生きていくんだという自己肯定の上に成り立っている。
昔あった「あの人が私の事を好きでいてくれるから私は私が好き」ということに近い感覚なのかもしれない。
わかる気はする、人は他人に認められる事で必要とされる事で自らの存在価値を見出すから。でもそうやって自己肯定できない人はどうするんだ?
世界が僕を認めないんだと壊れていくしかないのか、籠城のような部屋に閉じこもってネットでもう一つの世界に接続して痛みを吐き出すしかないのか、それは悲し過ぎる。し悲し過ぎた。
世代論なのか僕個人の自意識なのかわからないけど、僕も他人に認めてもらいたいし、必要とされたいけど誰かに承認されないと自己肯定できないってのはない。
だって、その人がいなくなったら自己否定になってしまう。それでは個人と個人の関係性は築けない気がする。
世界は人と人が繋がる可能性があって、繋がっていてもその人が消えれば想い出になるし、その感情も普遍的ではない。
全てのものは消える、永遠はその刹那の一瞬の中に冷凍マンモスのように閉じ込められてしまう。それを取り出そうとすれば全てが粉々に砕けてしまうような、感覚の刻だと僕は想像している。
繋がる世界って色んな人との関係性の中で存在するその場所、関係性に応じた自分の在り方で成り立つ世界、君と僕だけの世界など存在はしない、大多数の中にいる自分と関係性のある人の円が存在し円同士が連なりさらに大きな円が惑星がそれらを内在させている。
RADWIMPSは好きだけどどうも僕の心臓部、いや深層部に突き刺さらないのは僕は自分なりに自己肯定する事でなんとかやってきたし、そうすることでわりと物事を客観視するようになってしまったからだろう 。
僕らは世間的にはある種の否定される世代、勝手に失われたことにされてしまったことへの怒りがどこかに潜んでいて、でもそんなことを言っている時間も過ぎ去ってしまった。何もしなくても時代はやっぱり変わるから少しずつでも他者のいる世界へ出て行こうと、もっと繋がりを求めているんじゃないかと思う、だから僕にはアンセムに聴こえる。
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