Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「パンク侍、斬られて候」

 古谷実ヒメアノ〜ル」最終巻である六巻が出ていたので読んだ。どこまでも救いのない話だった。平凡であることや非モテの話をメインでするのかと思ったら普通でないと気付いた社会的には悪であり、物語の元凶であった彼が、普通という事とそうではない事の、決められた枠から最初からはみ出してしまった者の生き方を描いていた。


 物語は最終的には事件の解決をみせると言うかそういう終わり方ではあるが、物語は終わらないし、彼から狙われていた安藤君の彼女のゆみや安藤君はホッとするだろうが、根本的な解決ではない。いくらでも彼のようにある意味では最初からはみ出してしまった人はいる。「ヒミズ」以降の古谷作品のどうしようもない救いのなさはゼロ年代の空気、幸せというものが手に入らない、普通には生きれなくなった人を描く。


 幸せとかそんなもんはこの世界にはもうないんだよという不道徳の時間である。そうなるかならないかはある程度は「運」であるという事実。広がる格差でもはや逆転などは起こる事もないことを幼い頃から知らされている。ネットで可視化されすぎてしまう身近な人間や現実生活を楽しんでいると思い込んで嫉妬しさらにねじれてしまう人、ゼロ年代に加速したのは繋がりとそこから漏れてしまう不安、悪意はいとも簡単に伝播した。


 
 おそらくはどうしようもない時間があったし、救いようのない出来事が起こりすぎてしまった。でも、僕はこの手の作品を読むともはやこの逆に向かっていくしかないと毎度思ってしまう。カウンターすることでしか前時代の空気感は変えれないし、そういう動きは少しずつ目に見える形で表現され始めている。と僕は思う。


 これ以上糞みたいなデフレに巻き込まれないためのポップやカウンター的なものが時代の空気感を作りだせば経済は上昇しなくても、しないと苦しいのは当然だけど、気持ちすらも暗いままだとやっぱり救いがない。人生に救いなんてないのかもしれないなんてそういうネガティブなことばかっりはもう飽きた。


 「メフィスト」に出していた作品の評がそもそもエンタメ作品じゃないし、自己満足で読者不在って書かれてた。エンタメじゃないなあとは思ってました、さすがに。読者不在かあ、最初から見えない読者に向けて書くことは難しいなあ、というかまだ世に出ていない、商業的にデビューしてない人間が読者を想定して書くという行為自体は予想以上に困難だ。でも、それができないとダメだとなると僕はまだまだ難しい。
 自己満足で書いたのは事実だし、というか古川日出男作品である「サマーバケーションEP」「LOVE」に対してのオマージュであり僕からの返答みたいな部分があったから。自分の書いた小説の読者は僕だったのだろう。あるいは古川さんに向けての。


 次に書く作品は読者を意識して、意識。出す賞用の、文芸誌に合う作品を書くってことだよね。そういうのがなんだかやっぱり違うと思ってしまうのは僕がまだまだ甘ちゃんで世界をわかってないのかもしれない。そうじゃないやり方でデビューするにはやっぱり編集者の人に持ち込んでデビューするしか道はないなと思う。


 今は考える事がいっぱいだけど、賞用にも書いて、書いて最後まで書いてなんとか数こなしてレベルあげるしかないんだろう。いやあ先は長いというか困難だ、でもそれしかしたくないんだからしょうがない。


 「新潮 2010年 05月号」を買った。特別付録で町田康「そこ、溝あんで」ってCD詩集が付いてた。町田さんの作品は「パンク侍、斬られて候」ぐらいしかきちんと読んでないけど、その作品は面白かったなあ。最近毎号「新潮」買ってるなあ。

ヒメアノ~ル(6)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

ヒメアノ~ル(6)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

新潮 2010年 05月号 [雑誌]

新潮 2010年 05月号 [雑誌]

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)