“LIVE FOREVER -The last waltz of Syrup16g-”
以下ライブのことをmixiで書いた日記より
始まりはまるで囁くかのように始まった「きこえるかい」だった。
ラストライブは武道館だった、好きなバンドのsyrup16gは3月1日終わった。
最初はなんだか三人の音がかみ合ってないように聴こえた。曲は普段よりはテンポが速かったように感じたがそれでもどこかぎこちなく、終わる事にたいして気持ちがたぶん不安定だったのかもしれない。
代表曲を連発するも僕にはなにかノレないものがあって、好きな「生活」や「神のカルマ」も正直やったかどうか覚えてないぐらいだ。やったのはわかるが感覚がどうやら麻痺してるような。
完全に曲にのれるようになったのはアンコール始まる前の本編の半分を過ぎた辺りの「ex.人間」だった。
「パープルムカデ」「天才」「ソドシラソ」「Sonic Disoder」「coup d'Etat〜空をなくす」「リアル」流れはホントにゾクゾクしてかき鳴らすロックンロールは間違いなくsyrup16gだった。
そして今日完全に終わる事が改めて身にしみた。
「リアル」は圧巻だった、ボーカル五十嵐さんの詞は生き辛いことやどうしようもない哀しさでありがならそれとは逆のやわらかな光やほのかな風のような希望も感じさせるものだと思ってるがこの詞はやっぱり鳥肌が立ってしまう、そしてあの歌ってる五十嵐さんと絡み合うようなドラムとベースはカッコ良すぎる。
このバンドはやっぱりこの3ピースでぎりぎりのバランスでやっているから届かせられるのだと思った。セールスという意味では大きなバンドではないが、深く深く届くものがある、すごく鋭利に届く。
僕の周りだと一緒に行ったアオケンぐらいしか聴いてないしね、まあこのバンドが好きな人間とは基本的な情緒レベルは近いと思ってる、まあそれにしても聴いてる人間が近くにほぼいないのが残念ではあるが。
その後アンコール1では解散発表後に発売されたラストアルバムから「さくら」「ニセモノ」「イマジネーション」「Scene through」とラストライブなのに新曲?という聴いた事ない曲を含めたものだった。
観客から溢れんばかりの悲鳴にも似た、正確には悲鳴もあったが、舞台の三人に向けられ投げ掛けられていたたくさんの「ありがとう」が場内に響き、それを受けたように始まった「イマジネーション」で涙が出てきた。
アンコール2で「She was beautiful」「落堕」「真空」の三曲、この日一番凄まじく僕の中に鳴り響いたのは「真空」だった。
ほんとにあの日のこの曲は祈りだった。僕は祈ってるように見えて、叫ぶように祈りながらかき鳴らすロックンロールが神に抗おうとしていた。
神に祈っても祈りは哀しいまでに届く事はない、だからロックは神なんぞ糞みたいなものには祈りを捧げない。
ロックはこの瞬間を永遠の中に閉じ込めるために叫びながら楽器をかき鳴らしながら神を殺す。
アンコール3では明日に、これからの日々を迎えるための「翌日」「Reborn」だった。3時間半の全33曲。
「翌日」はなんだか前から好きで、ああ明日からシロップってバンドはいなくて聴いてきた、好きだった人の中では生きていくんだろうなって。
最後は予想してた様に「Reborn」
解散ライブはバンドにとってもファンにとっても葬式だ。
普通の葬式と違うのは死んでからじゃなくてその日バンドが死ぬことだ。
葬式は死んだ人の為にするものじゃない、死んだ人間にとって葬式なんか意味がない、何回忌って意味もない。
もし輪廻転生ってものがあるならば何回忌ってしてる時にはどっかの子供になってまた生まれてるし、例えば「あの人が亡くなって」と泣いているおばあさんが叩いて殺した蚊に生まれ変わってたかもしれない。
じゃあ、何でするかのかって言うと残された人の気持ちの問題でしかない、気持ちに整理をつけるためのお別れの儀式だから、あとは世間体だけ。
ラストライブもそう、お別れの儀式だから。
どう考えてもお墓とかいらんしょ、火葬する意味ある?
土葬して微生物に分解されて食物連鎖に繋がった方が意味あるでしょ。
そしたら死んだ人が分解されてやがて花の養分になって酸素とか二酸化炭素とかになって空に放たれてやがて雲になり雨を降らす、雨が上がったら空に虹がかかる。
お墓なんていう目印ないとみんな忘れてしまうから、人はやがていなくなるのに形にこだわってしまう。
雨が上がった空にかかる虹を見て大事な人を想い出す方がきっと素敵だと思うけど、そういうことを考えて日々生きてるわけです。
気落ち悪いですか?うん、しょうがないね、現代人なわりにはノスタルジーとかカタルシスとか好きだからさ。
僕は葬式もしていらんし墓もいらないと考えている人間です。
シロップというバンドは生傷というよりはかさぶたのような感じだ。
痛みの上にできたかさぶたは再生し生きていこうとする強さも感じさせるし、でもかゆくてかさぶたを剥がしてしまう。
その下の血を見て生きている事を感じ、死ぬ事について思う。
本気で生きるなら死ぬ事について考えないわけにはいかない、希望を信じるなら絶望を感じる事が絶対的に必要だから。
終わった後に哀しくはなかった。
終わった後にバイト行ってレジしてたら悲しくなった。
叫びたい衝動にかられた、だからスピーカーからシロップをデカクして流した、客はシロップってバンド知らないだろうなと思った。クソ食らえ。
アジカンのゴッチが日記にシロップのライブを観た事を書いていたのを読んだ。 五十嵐さんは「武道館でライブする時は死ぬ」とまで語っていた。その為、ASIAN KUNG-FU GENERATION主催のNANO-MUGEN FESのオファーがあった際は断った経緯がある。とウキペディアにまで書かれている。
アジカンとシロップ一緒に観てみたかったなあ、と思う。
日々は擦り減ってる、摩耗して最後にはなくなる。
ふといつもレジしながら目に入る床を見て思った。
どうでもいいことで日々は擦り減っていく、止める事はできない。
だからいつまでもこんなことしてる場合じゃない、止める事はできない、祈りは届かない。
いつかの雨上がりの虹になるまでは、感情の叫びを、魂の咆哮を。
さよなら、そしてありがとう、syrup16g。
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その日のライブDVD「the last days of syrup16g」が出た。
あの葬式から約3ヶ月が経った。
Syrup16gのラストライブからそれだけ経った。
ラストライブはやっぱり葬式だ、生きながらにして終わる、死んでいく、想いだけはたくさん残された側に残して。
当日二階席でボーカルギター・五十嵐さん側で観たがあの日Syrup16gは武道館でやる時は死にますという五十嵐さんの発言通り終わりを告げた。
あの日感じていた、曲のテンポが速いと思ってたことは映像で観て聴くとやっぱり速かった。全33曲だから仕方なかったのか興奮のために速いのかわからないが速い方が響く、そして届く。
今まで好きなバンドが解散することは幾度とあったし、経験はしている。だけどラストライブに行ったことがあるのはSyrup16gだけだ。
シロップは歌詞の内容上、暗いと敬遠もされるし、人の弱さを嘆く様に思われやすい、確かに声高らかに希望を歌うバンドではなかった。
しかし、絶望から見える世界を、それでも何か残るものを探しているバンドだったから僕は聴いてすぐに好きになった。
その何か残るものを希望だとも言えたし、どうしようもない平坦な戦場の今日ではなく何かが始まりそうな「翌日」と名付けた。
一番惹かれたのは歌詞を歌いながら時折入る五十嵐さんの叫びだった。問いかけのような祈りのような叫びがそこにはあった。
悲しみを憂いている叫びではない、咆哮だ、雄叫びだ。悲しみを突き破ってどうしようもない日常をかなぐり捨て何かを探す叫び声だ。
絶望から見える世界で何か残るものを手繰り寄せるための咆哮だった。
僕はそう信じている。でなければ惹かれていない。
このDVDを観て新たにファンになる人もいるんだろう、しかしもうシロップは終わっている。しかし作品だけは残されている。 いつだって間に合わなかった人はいる、だけどもそれによって出会って価値感や生き方が変わる人もいるだろう。
出会う時には何かが終わって、
別れる時は何かが知らないうちに始まりを告げている。
終わりを観れたことで僕の中で何かは始まったと考えよう。
今でも聴くときに五十嵐さんの叫びが僕に響いてきて仕方ない。
咆哮することは生きてる間だけできる。
感情の発芽、それらを自分の中に押し込んでしまうことも時には必要だけど。
感情の発露、そして咆哮しろ、ここにいるんだって知ってもらいたいなら叫べ、生き様を示せ、あと何回心臓は脈を打つ、ドクンドクンと。
あと何回だ。あとどのくらいの時間残ってる、知らねえよ、誰にもわかんねえから叫べ、ここにいるんだって咆哮をしろ。
そしたら誰かに出会うさ、出会うってことは終わりの始まりだけど、いつかはみんな別れて行く、でも誰にも会わないで消えて行くよりはまだマシだろ。
あと何回心臓は脈を打つ、ドクンドクンと。あとどのくらいかわからないから僕は叫んでるよ。感情を発露させて彷徨いながら咆哮してる。
Syrup16gが僕に教えてくれたこと。
the last day of syrup16g [DVD]
- アーティスト: syrup16g
- 出版社/メーカー: UNIVERSAL SIGMA(P)(D)
- 発売日: 2008/05/28
- メディア: DVD
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