Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2024年7月1日〜2024年7月15日)

6月下旬の日記(2024年6月16日から6月30日分)


7月1日
昨日23時過ぎからradikoで『爆笑問題の日曜サンデー』(ゲスト:浅草キッド玉袋筋太郎)を聴き始めた。若い頃から浅草キッド爆笑問題はライバル関係だった。色々とあったのは水道橋博士さんの書いたものなどで多少は知っていたけど、お互いに年齢も重ねたことで一緒に戦ってきた人がまだこの業界に居てくれること、一緒に仕事ができるのが嬉しいんだろうなというのが伝わるトークだった。
玉袋さんと博士さんの関係も実際どうなっているのかわからないけど、太田さんがタイタンライブに出て漫才やってよ、と言っていたのが印象に残った。一筋縄ではいかないだろうけど太田さんの誘いが実現するといいな。
タイムフリーで聴いていたら、日付が変わって下半期に突入。6月下旬の日記をはてなブログにアップし、半年前の1月上旬のものをnoteにアップした。


一度目が覚めたので可燃ごみを出しに行った。緑のネットの下にすでに出してあるごみ袋は入っていてカラスからの襲撃は受けていなかった。うちのもネットの奥の方に入れて、ネットを下にかますようにして出した。このまま荒らされずに収集されるといいんだけどなあ。まだ5時にもなっていなかったのでもう一眠り。
朝のルーティンをやってからリモートワーク開始。下半期に入ったからかわからないけど、ゼロになっていた有給が復活していた。
今月末と来月末の私用のために休まないといけなかったのでその二日を有給申請した。残りは多くないけど、年内には使い切ることになると思う

BRUTUS』最新号のSF特集を購入。小川哲さんが「共感を寄せる歴史小説」として挙げていた四冊のうちの一冊が古川日出男著『アラビアの夜の種族』だった。
カルチャーページでランジャタイとgroup_inouが対談していた。国崎さんがYouTubeの企画でZAZEN BOYSの向井さんとトークしていたけど、僕の音楽的な嗜好ってランジャタイ、国崎さんとかぶっているのかなあ、好きなものの系統が近いのは確かだ。しかし、cpの髪型が見慣れなくてすごい違和感があった。

 古川日出男阿部和重も、フォークナー、大江健三郎、ガルシア=マルケスの系譜にあるサーガ的想像力の作家だろう。いずれも東北出身なのは共通するが、作風はかなり異なる。古川は先達の神話性や幻想性を受け継いでおり、特に『おおきな森』(2020年)では、中国東北部に建国された満洲と日本の東北に宮沢賢治が夢見たイーハトーブがつながり、ラテンアメリカ作家を思わせる人物が登場したうえ、『百年の孤独』のエピソードにまで言及する内容だった。奇想が複雑にからみあって繁茂する大作だ。それに比べ阿部の『シンセミア』(2003年)をはじめとする神町サーガは、幻想以上にインターネットの陰謀論や情報の錯綜が現実の確かさを揺るがす今の様子をよく描いている。

筒井康隆大江健三郎村上春樹阿部和重、小川哲……『百年の孤独』が日本文学に与えた絶大なる影響

百年の孤独』に関する記事で古川さんと阿部さんのことがちゃんと書かれていた。小川さんの名前があるのはやはり芥川賞直木賞受賞作家はネームバリュー的にわかりやすいし、挙げられている作家の中でも若い世代ということもあるのだろうか。筒井さんは『百年の孤独』文庫版で解説書いているから外しにくいだろうなとか考えてしまった。

Childish Gambino - Bando Stone & The New World (Official Trailer) 


チャイルディッシュ・ガンビーノ(ドナルド・グローヴァー)の次のアルバムは彼自身が監督&主演を務める映画『Bando Stone & The New World』のサウンドトラックであり、さらにそれがラストアルバムになるらしい。『Bando Stone & The New World』のトレイラーを観るだけでもこの作品がめちゃくちゃおもしろそう。
映像からすると世界が終わった、終わりかけの設定なのだろう。でも、現在の世界にはいなさそうな動物らしきものも、超常現象なのか不思議なレイザーが積み上がっているし、退廃した未来の話なのか、あるいは未知なる存在が地球にやってきた話なのか、それらとも違うのかはわからないけど、映画を観たい、音楽を聴きたいと思わせるものになっている。

リモートが終わってから『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』を最後まで読む。連載で読んでいたけど、最後の方は忘れている部分もあったりして、「こんな展開だったっけ?」と多少困惑しながらも人類史であり、火と人間の関係性、いや文明と殺戮の関連性が説かれながら語られて終着地点に辿り着いていた。
この先、古川さんが書くと話されていた時代をいくつも超えて、複数の時代を描く作品への萌芽みたいなものがあった。世界文学へどんどん近づいているような、そんな小説でありドキュメンタリーであり、フィクション&ノンフィクションノベルになっていた。

下半期の執筆スケジュールを遂行すべき、ライティング作業を開始。キャラクター表を作っているのでそれを見ていたら、もう一つの双生児的な作品の登場人物が絡むとおもしろいなと思って、追加してみた。自分でもびっくりしたけど、その人物はこちらで重要な人物と同じ苗字にしていた。ああ、彼らは姉と弟だったんだ。


寝る前にSpotifyポッドキャスト『83 Lightning Catapult』最新回を聴く。スポンサーまだ見つかってないみたいだけど、二人のやりとりも復活してだいぶ前と変わらない感じになってきたような気がする。

 

7月2日
6時前に一度目が覚めたのでペットボトル回収の日だったので出しに行った。朝の爽やかな空気というよりもすでにちょっと湿度があった。
寝る前に聴いていた『空気階段の踊り場』をもう一度聴き返しながら朝のルーティン。岡野さんがゲストで今年も単独ライブ「岡野博覧会」をやると告知していた。去年観たのもあるし、平日の昼間の回があるというのでチケットが取れたら行きたい。
その後、『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』を聴きつつ、読みかけだった木山捷平著『下駄にふる雨|月桂樹|赤い靴下』を最後まで読んだ。この前に読んだ講談社学芸文庫の二冊は地元の笠岡と東京の中央沿線、そして満州でのことを私小説として書いていたが、この文庫に収録されているものは60代とかになった木山の分身のような人物が北海道とか地元ではなく岡山市など他にも旅行に行っているものが多かった。
そういう意味ではチャールズ・ブコウスキーとも共通する点がある。自分の分身的な登場人物を通して描くので私小説ではないけど、限りなく私小説みたいなフィクションになる。
木山の講談社学芸文庫のものは『落葉・回転窓』『長春五馬路』が家にあるが、後者が中編で、彼の作品は基本的には短編が多いみたい。だから、彼の名前を冠した小説新人賞は短編での募集なんだろうな。

晴天の迷いクジラ』は各自それぞれに喪失を抱えた由人、野々花、正子の三人が訪れる場所に迷い込んでいる象徴的なクジラがいる。まるで先祖帰りして陸を目指すかのようなこの巨大な生物の行動は自殺に似ている。三人は「鯨の胎内」に入り再び出てくるという死の世界から戻って来るような通過儀礼の代わりに、その町で(彼らと同じように)大事なものを失った人とある種の偽装的な「家族」のような日々を過ごす。そして、死のベクトルから生のベクトルに向かって行く。それは癒しに似ている生への渇望であり、柔らかな日差しが差し込んで冷えきった体の緊張が解かれるような喜びのようにみえる。
 闇をきちんと見据えた上での光。それは共存し、どちらかがなくなることはない。彼らは死の側(絶望)から生の側(希望)に少しだけ向かいだす。そして、僕たちは出会った人たちとすべて別れて行く。得たものはすべて失ってしまう。あなたも僕もやがて消えて行く存在だ。
 だけど、いつかやって来る喪失と向かい合いながらも諦めずに日々を生きて行くこと。それは、死を見据えながら毎日を生きて行くということだろう。そんなふうに、それでも誰かと生きていきたいと思える小説が『晴天の迷いクジラ』であり、窪美澄という作家の作品の骨格にはあると思う。
 ほんの少しの光や温かさが冷めきった心をわずかばかりに癒す、完全には癒せなくてもそれで少しだけ笑えたら、前に進めたらそれはとても素敵な事だと思うから。
 この文庫化に至るまでに刊行された窪作品や雑誌に掲載されたものを読んだ個人的な感想になるけど、窪さんの作品の核である母娘の関係性は繰り返し語られ、急に誰かがいなくなってしまうことについて小説に書かれている印象がある。
 出て行く者と残される者、あるいは死んでしまった者と生きていく者という関係性はいつだって残された者の問題として残るのだけどそれも窪作品の核だ。
 出て行った者はきっと振り返らないだろう、振り返っても捨ててきた者について考える事はできるだけしないだろう。残された側はずっと考え続けることになる。
 窪さんがこの主題を描くのは窪さんが出て行った者ではなく残された側の人だったというイメージがあるのはそのせいだ。おそらく罪の意識を感じようが出て行った者はこのような小説はまず書けないはずだから。
 残された者が幾度も泣き苦しみ、哀しみの淵に佇んでその想いが愛しさから来るのか憎しみか来るのかがわからなくなるほどの考えた先で見つけようとした人と人の繋がりや隔たりについて考えた人だから書けるのではないか。だからこそ闇をきちんと見据えた上での光がさす方に読者を連れて行くことができるのだろう。そして、いろんな場所にいる残されたすべての人に届き、出て行った人にも届いてしまう。
 『晴天の迷いクジラ』にあるこの主題をさらに発展させてよりその想いを丁寧にさらに丁寧に綴っているのが『別冊 文藝春秋』で連載中の『さよなら、ニルヴァーナ』ではないかと僕は思っている。
 これから何人かの出会った、出会っていく大切な人たちに僕はこの『晴天の迷いクジラ』を薦めるし勝手にプレゼントすることになるだろう。僕の大切な人たちがよわっている時に届く言葉や物語がこの作品にはあるから。僕はそっとこの本を渡して言葉少なげに、再会する時を待ちながらその場を去るだろう。次に会うときのその人の笑顔を想像しながら。

Facebookの思い出の10年前のところで窪美澄著『晴天の迷いクジラ』文庫版発売時に渋谷の大盛堂書店が出していたフリーペーパー「大盛堂通信特別号」に寄稿した文章についてのものがあった。
八重洲ブックセンターの内田さんが僕の書いたものを褒めてくださっているもので、「実はボクは親本のとき、正子のパートと終章は蛇足ではないかと思った。あれがないほうが、もっと冷静で突き放した印象の、上等な物語になるのではないか、と感じたのだ。いま再読して、碇本氏のいう「遺された者の想い」というものが、終章には込められているのだな、とはっきり感じられた。碇本氏がさらに丁寧にそれが語られていると言う「さよなら、ニルヴァーナ」を、ボクがずっと読んできたからかもしれない。」と書かれていた。
上記の引用した文章は10年前に自分がフリーペーパー用に書いたものだが、今よりも小説に真面目に向き合えていたようにも思えるし、自分の物事の捉え方とかはほとんど変わっていないのもわかった。過去が今の自分を照らしている、ような、どこに向かうのか問いかけられているみたい。
先月、昔バイトが一緒だった年下の女の子とSNSでやりとりすることがあって、彼女もコロナパンデミックでいろいろ大変だったことなんかを話してくれたので、この文庫版を年賀状だけやりとりは続いていたのでその住所に送った。読んで感想を送ってくれて、やっぱりこの小説は届くんだなって思った。
何冊なのか十数冊なのかわからないけど、この『晴天の迷いクジラ』文庫版をいろんな人にあげてきた。その時、何か抱えるものがある人や精神的にきついと話している人とか、僕がなんとなくこの小説を読んだらちょっとだけ前を向けそうだなって思える人たちに。窪さんの小説はどれも読者に寄り添う優しさと眼差しがあると思うから読んでほしいし、読み継がれていく小説家になっていくはずだ。

皮膚科の予約を10時にしていたから先に銀行に行ったりして時間を潰した。時間になったので皮膚科クリニックに行って診てもらった。いつも通りの処方箋を出してもらうだけなのですぐに終わった。次回で最後になるといいのだけど


処方箋で塗り薬を調剤薬局でもらってからSpotifyでJAZZ DOMMUNISTERSのアルバムを聴きながら代官山蔦屋書店へ。菊地成孔大谷能生著『たのしむ知識 菊地成孔大谷能生の雑な教養』が数冊置かれていたので、できるだけキレイな状態のものを手に取った。
家に帰って洗濯したり昼ごはん食べてから、『たのしむ知識』を読んでいたらうとうとしたけど、最初の「話せばわかる」のパート部分は読み終えた。

JAZZ DOMMUNISTERSの楽曲を聴きながら歩いている時に急に、今書いている作品に出てくるある登場人物である美夏が手話を使っている風景が浮かんできた。昨日追加したキャラではなく、前からいた彼女がどういう役割なのかあまりわかっていなかった。
美夏は現在大学生で両親は離婚している。父も母も映画関係の仕事をしていて、父の晶は映画専門学校でも教えている。その父親と仕事をしたことのある40代の男性でライターをしている有川真治が主人公の一人だった。美夏は他の登場人物とも多少関わりはあるが、さほど重要な感じでは考えていなかった。
ただ、真治の弟夫婦がやっている料理屋でバイトをしている設定にはしていた。美夏は聾者で手話を使って話してコミュニケーションを取っている。そうであれば、父や母や姉たち家族は手話を使うことができる。もちろん弟夫婦も彼女が働きやすいようにしているし、多少はわかるのだろう。そこの常連たちもそのことを理解している。真治もお店には時折顔を出すので彼女とのやりとりがある。真治は手話はできないが、コミュニケーションはスマホなども使って取っている。
という一連のシーンや関係性が巡った。だとしたら手話を使うことで、声に出せない場面で彼女が真治なのか誰かに手話で伝えるシーンが出てくるかもしれない。あるいはある言葉を手話だとどう表現するのかを教えていて、その人が誰かにその手話を見せるかもしれない、そういう連鎖、イメージが脳内で跳ねていた。
井の頭公園の近くにあるスタバにある用事があって何度か行ったことがある。窓側の外から見える席で仕事をしている(僕が何度かインタビューをさせてもらった)方に僕は挨拶をしようと店内に入る。もちろん、入店する以上は何かを注文すべきだからカウンターに行くと、スタッフさんが聾者であり、私は耳が聞こえないので指差しで注文してくださいと書かれているものがメニューと一緒に置かれている。だから、そこのお客さんたちは彼女、女性のスタッフさんがレジをしている時には声を出しながらでもいいが、メニューを指指して注文している。
知り合いの人が窓側にいて挨拶をしようと店内に入って注文する時にはいつも彼女がレジをしていた。だから、その度に僕は指をさして注文をして、コーヒーを受け取ってその人の横にいって挨拶をしていた。たぶん、その光景があるから僕には美夏が居酒屋で働いていることに違和感がないし、イメージがすぐに湧いた。

火曜日はSpotifyポッドキャスト番組『アルコ&ピースのしくじり学園放送室P』(ゲスト:寺下真理子)『あのと粗品の電電電話』『ランジャタイの伝説のひとりぼっち集団』が配信されるので18時以降はこれらを順番に流しながらライティング作業をした。

 

7月3日
何か夢を見ていたような気がしたけど、その内容はまるっきり覚えていない。
目が覚めてから寝転んだままで『たのしむ知識 菊地成孔大谷能生の雑な教養』の続きを読んだ。
radikoで『アルコ&ピースD.C.GARAGE』と『JUNK 爆笑問題カーボーイ』途中までBGM的に流していていたらリモートワークの時間。暑い。冷房つけてないと部屋の中でも汗ばむ、サーキュレーターで室内の風を循環させているけど、夏が本格してくる8月9月が本当に怖い。光熱費が上がるし、つけなきゃつけないで室内で倒れてしまう。
作業中も引き続きradikoをお供に。『星野源オールナイトニッポン』『あののオールナイトニッポン0』といつもの水曜日の風景というか聴こえてくる声たち。
先週の粗品との泣きながらの放送の後だったけど、「あのANN0」は生放送ではなく、録音だったこともあってか、わりと冷静に話をしていた。続けてTVerで『あのの電電電波』を流したら、ゲストがAdoだった。番組のパートナーである猫のササキは霜降り明星粗品だし、Adoも去年一年間は「オールナイトニッポン」月曜日一部を担当していたので、画面に出ている三人が「オールナイトニッポン」ブランドに関わりのある人たちだった。
「あのANN0」でも『ロンドンハーツ』の運動会に出た時の話をしていたけど、今回の総合優勝はフワちゃんだった。50メール走では一位がフワちゃん、二位があのちゃんとここでも「ANN0」の月曜日と火曜日担当の勝負になっていた。
Adoは今21歳だと言っていて、将来の夢の一つとしてグラミー賞を受賞することだと言っていた。なんというか「アンファン・テリブル」という単語が浮かんだ。それはジャン・コクトー著『恐るべき子供たち(原題:Les Enfants Terribles)』のことであり、アメリカの小説家のトルーマン・カポーティが19歳の時に『ミリアム』でオー・ヘンリー賞を受賞した時に「アンファン・テリブル」と評されたということ脳裏でAdoが結ばれた。
そうか、僕は早熟の天才であり、あのちゃんやササキとのトークでもしっかりと自分の考えを持って話しているAdoに何か恐れのようなものを感じたのかもしれない。まるっきり違う存在には畏怖するか、憧憬するか、のどちらかになる、あるいは意図的に無視するかだろう。
曲調や歌声は確かに好きとは言えないが、Adoへの恐れがあるとするとそれが自分の感覚とは違うものが一気に価値観を変えて、新しいものへ移り変わっていくことへの怖さも含まれているのかもしれない。


昼休憩に出たら陽射しがかなり強かった。湿度は昨日ほどではなかったので額に汗をどんどんかくみたいなことにならなかったが、単純に暑さで肌が焼けるような気持ち。
百年の孤独新潮文庫が発売するのに合わせた友田とん著『『百年の孤独』を代わりに読む』が出ていた。勝手に新書だと思っていたけど、文庫だった。発売日に重版が決定というのもSNSで見たし、手に取った一冊がラスイチだった。やっぱり売れてるんだな、すごい。

韓国のバンド・HYUKOH(ヒョゴ)のYouTubeアカウントで新しい曲のMVの公開が予告されていたので気になっていたが、台湾のバンド・Sunset Rollercoasterとのコラボプロジェクトで8曲入りのアルバム『AAA』をリリースするみたい。
ヒョゴ自体は活動を休止というか四年ぶりの復活になる。今はなき新木場のスタジオコーストでのライブはコロナ最中の2020年だったが、たしかワールドツアーの最終になったはず、以降の他の地域はコロナ諸々で中止になった記憶がある。
四人組だが、ドラムがお休みだったので三人とサポートメンバーという体制でのツアーだった。僕が彼らのライブを観たのはその一回だけだけどすごくカッコよかった。
このコラボプロジェクトでもいいし、彼らのソロツアーでもいいからまた日本に来てほしいなあ。ということで昼休憩に出る時から彼らの過去のアルバムを時代順に聴いていた。戻ってからの作業のBGMはHYUKOHで。

[LIVE] 혁오 (HYUKOH) _ New born @ HYUKOH 2020 WORLD TOUR [through love] - SEOUL



昨日夜に全然進んでいなかったライティング仕事のことでちょっとだけ進展があった。ラインをして返信のなかった友達から、抱えていた大きなトラブルが片付いた、というか大きなエンドマークを打てる状態になったという報告があった。その話はずっと聞いていたので、ほっとしたし本当に良かったなって思った。
下半期に入ったことで上半期に起きていたこと、留まっていたことが進み始めたりしているのかもしれない。

リモート作業後は『たのしむ知識 菊地成孔大谷能生の雑な教養』を最後まで読み切った。菊地さんと大谷さんの対談の収録が坂本龍一さんの死去すぐからだったこともあり、最初からYMOという存在に与えられた影響、坂本龍一高橋幸宏というミュージシャンの先輩たちのことを語っていることも興味深い。二人ともジャズミュージシャンだけど、世代的にYMOの影響下にもあったこと、そういうことを改めて知れた。そのあとは自分のライティングを進める。

 

7月4日
起きるがどこか気だるさがある。可燃ごみを出しに行くと緑のネットの内側にちゃんとごみ袋が置かれていて、カラスの襲撃も受けていない。その後、外を出た時も荒らされた形跡はなかった。梅雨といえどこの暑さだし、カラスの子育てのシーズンは終わったから大人しくなった&ネットで諦めたということだろうか。
寝転んだままTVerで『あちこちオードリー』を流しながら朝のルーティン。ゲストのきしたかのの二人が江東区深川出身というのは少し前に深川を調べた時に知っていたが、その話を門前仲町とか近くの出身の若林さんが触れていた。見終わってからSpotifyでヒョゴを聴きながら読書をした。

8時半前に家を出る。もう30℃近い気がするが風はない、湿度はそこまではないので大丈夫かなって思ったけど渋谷を超えて青山墓地に入る頃には汗びっしょりになっていた。
TOHOシネマズ日比谷で11時から上映する『クワイエット・プレイス DAY1』を観に行こうと思っていて、歩いたら二時間かかるかかからないぐらい。この暑さ以上になったら外を歩くのは控えた方が良いレベルになってきたと体感でわかる。
歩きながらradikoで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴いていたが、その中で佐久間さんが急にできた休みの時間で映画『ルックバック』『ホールドオーバーズ』を観ようとウェブでチケットを取ってTOHOシネマズ日比谷に行ったという話をしていた。ちょうどそこに向かっているのですごくリアルタイムというか、シンクロしているような気がしていた。
佐久間さんは『ホールドオーバーズ』を観る時にポップコーンとかコーラを持って、メールについている「2次元コード」を出して入場口から入ろうとしたが反応しなかった。二作品連続でウェブからチケットを取っているのでメールが続いてしまっているのかと思って、見たが作品は間違っていなかった。日付を間違えたわけでもない。どうしてだと思っていたら理由がわかった。
TOHOシネマズ日比谷を選んでウェブでチケットを購入すると実は三つの劇場に分かれている。日比谷ミッドタウン4階にあるTOHOシネマズ日比谷、そのスクリーン12と13だけは東京宝塚ビル地下、さらに近くにあるTOHOシネマズシャンテとなっており、佐久間さんが観ようとした『ホールドオーバーズ』はシャンテだった。別の建物で買ったポップコーンとコーラだがスタッフさんに伝えて持ったままでシャンテに向かってなんとかギリギリ開始に間に合ったらしい。
これわりと「TOHOシネマズ日比谷あるある」とも言えるもので、僕は今のところ間違えたことはないが、そうなっても仕方ないよなってわかるトーク内容だった。
歩きながら前々日に購入していたチケットをTOHOシネマズのアプリで確認しようと「鑑賞前」に作品がなく、「2次元コード」を出そうとしたら出てこなかった。はて? どういうことだと思って鑑賞後の方を見たらそこにあった。一日中間違えてチケット取っていた。
というか4日で取ったつもりが昨日3日で取ってしまっていて、すでに鑑賞後のチケットになっていた。ということはこのまま行くと映画は観れない。その時点で青学近くの場所の青山墓地方面に向かう地点で、家から一時間ちょっと歩いたぐらいだった。ここで引き返すのは、映画に行かないのはきつい。
そもそもTOHOシネマズ日比谷で映画を観ようと思ったのは、メガネの割れたフレームの交換をお願いしていて、届いたと連絡があってから三週間ぐらい経っていたので早めに行かないといけないということと紐づいていた。
歩きながらアプリでもう一度同じ時間で今日のチケットを取った。昨日は水曜日のサービスデーだったので安かったが今日は割引も何もない日で普通に一般料金プラスIMAX鑑賞料金だった。仕方ないし、佐久間さんのミスを笑っていられない、どちらかというと僕の方が失敗としてはひどい。チケットを無駄にしている。



平日の11時台に爆発的に人気があったり、話題作でもない映画をIMAXで観る人は十人もいなかった。マイケル・サルノスキ監督『クワイエット・プレイス DAY1』IMAXで鑑賞。
音に反応して人間を襲う“何か”によって人類が滅亡に危機に瀕した世界で、沈黙を守って生き延びる一家を描いたサバイバルホラークワイエット・プレイス』のシリーズ第三作はニューヨークが舞台となり、前二作品の前に起きた“何か”が地球に襲来した最初の日を描くというものだった。
主人公のサミラは末期ガンとか余命いくばくもない状態であり、ホスピタルで愛猫のフロドと一緒に暮らしている。頻度はわからないがホスピタルのバスに乗ってマンハッタンにある劇場に行くことが楽しみで、その日も人形劇を観ていると劇場の外で異変が起きていた。どんどんと落ちてきている隕石には“何か”が一緒に乗ってきており、悲鳴や車が爆発するたびに音に反応した“何か”が人間を襲っていた。ニューヨークは“何か”による殺戮の舞台となってしまう。なんとかフロドと共に助かったサミラは同じように逃げてきたエリックという男性と共に行動を共にすることになる。
エリックはイギリス人だが法学を学ぶためにアメリカに来ていた。サミラが詩人であり、彼女の父はジュズミュージシャンだったことをエリックは知る。そして、ホスピタルでバスに乗る前にサミラが話していたピザ屋に行ってピザを食べに行くことを、エリックにも彼女は伝える。なぜそのピザ屋に行かないといけなかったのかなどは彼女の個人的なことが関係しており、この物語は余命いくバクもないサミラが最後になるかもしれないマンハッタンでその願いを“何か”から逃げ切って達成するというものになっていた。
最終的には“何か”はどうも泳げないらしいことがわかっており、マンハッタンにあるすべての橋は政府軍によって落とされてしまう。外部から侵入できないが中にいる人たちは閉じ込められてしまった。生き延びた人たちを船に乗せて逃す計画がその中で進んでいく。サミラは自分の願いを叶えてくれたエリックにフロドを託して、彼が“何か”から逃げ切ってその脱出船に乗れるように最後の行動を起こすことになる。

“何か”の正体はわからないが、やはり音を立ててはいけない、というアイデアが非常に活きていた。最初にニューヨークの騒音のレベルはずっと叫び声がずっと聞こえているぐらいと説明文が出てくる。その喧騒が止まらない街が一気に静まりかえってしまう、その光景だけでも見ものである。
生き延びた人たちは逃げるにしろ、目の前で誰かが無惨に殺されても声を出せない、手で押さえてなんとか声が漏れないように彼らに届かないようにしていた。サミラの部屋に二人と一匹が着いた時には外は大雨で雷が鳴っていた。だから、多少の話し声もそれにかき消されていたため、少しだけ音が出せた。
雷の落ちる前の音、それに反応して落ちた瞬間にサミラはずっと耐えていた気持ちを吐き出して叫ぶ、エリックも同様に次に落ちた時に叫んだ。その咆哮が切なく、生きようとする意志だった。あのシーンは悲しいけれど、生きているという証みたいで素晴らしいワンシーンだった。
役者の人たちはほとんど声を発しない、声を出せないので表情や仕草での演技になっていたのですごく難しかっただろう。何かに引っかかった時に立ててしまった音と共に“何か”がすごい勢いで襲いかかってくるのが単純に映像として怖い。“何か”は形状がクモとかに近いエイリアンみたいなんだけど、動きがとんでもなく早いから余計恐怖心が増してくる。大画面で観て正解だった。100分程度の上映時間だけど、ずっと緊張を強いるので体感時間としてはもう少し長いかと思ったけど、ちょうどうまく収まっていた。


さすがに帰りも歩いたら日射病か熱射病になるか、脱水症状になると思ったので銀座線に乗り、途中表参道で乗り換えて池尻大橋駅で降りた。あおい書店に寄ったらSNSで担当編集者の人がアップしていて気になっていた米澤泉著『小泉今日子岡崎京子』が出ていた。
岡崎京子ファンとしては買うしかない、小泉さんは舞台で一度観たいと思っていたけど『阿修羅のごとく』はチケット取れなかったりとかタイミングが合わず観れていない。何度か舞台を観に行った時にお見かけしたことはあるけど、カッコいいお姉さんってイメージがあるぐらい。

↑『水道橋博士のメルマ旬報』連載していた「碇のむきだし」に二回だけ書いてやめてしまった『dance alone(in,out) 〜岡崎京子さんのこと〜』。もう少し筆力があって粘れていたらいいものになったんじゃないかなと思わなくもない。
家に着いてからちょっとだけ横になって『小泉今日子岡崎京子』の最初の章「小泉今日子」の箇所を読んだ。汗もわりとかいたし歩いた距離もそこそこなので一時間ぐらい仮眠したいなと思っていたが眠れずに17時過ぎに家を出てニコラへ。


真鯛の昆布〆め 小夏 モッツァレアと白ワイン(コルデロ・ディ・モンテツェモロ ランゲ・アルネイス 2021)をいただいてから、食後にアルヴァーブレンドを飲みながらタバコを吸って一服。
以前に真鯛の昆布〆めのさくらんぼとクレソンソースを食べたことがあって、すごく美味しかった記憶が甦っていたので食事をするつもりはなかったけど、「真鯛の昆布〆め」という言葉に反応してしまった。一緒に出してもらった北イタリアのワインも食べる前に飲んだ時も美味しかったけど、食べてから飲むとよりまろやかになったように感じられた。
夕方から美味しいものを食べて飲んで、コーヒーとタバコという休日の最高の締めみたいな時間になった。

帰ってからすぐにシャワーを浴びて洗濯機を回した。冷房にしても部屋はそこまで温度が下がらない。
小泉今日子岡崎京子』の続きを読んでから、ライティング作業を。明日は何ヶ月かぶりに出社する日だけど、暑い中朝早い電車に乗るだけで地獄だなあ、と嫌な気持ちになる。
寝る前に『四千頭身 都築拓紀 サクラバシ919』を聴きながら読書していたら番組が最後まで行ってしまって『ハライチのターン!』を続けて聴いたら途中で寝落ちした。

 

7月5日
3時ぐらいに寝たのに6時半には目が覚めた。出社する日だったので7時過ぎにはリモートで諸々作業を進めておいてから家を出た。
渋谷まで歩いて半蔵門線九段下駅まで。激混みではないけど、久しぶりに仕事でこの時間に電車に乗ったけど、やっぱり乗りたくない。歩けるならできるだけ好きなラジオや音楽を聴きながら歩きたいと思ってしまう光景だった。
九段下駅東西線で一駅だけど、それも嫌なので歩いて竹橋駅直通ではある会社が入っているパレスサイドビルへ半年ぶりに来た。


10時ぐらいから頼まれていた契約書をスキャンしてデータに名前をつけてフォルダに入れて、シートに記入して紙にもナンバーを振った付箋を貼るということを久しぶりのオフィスでやっていた。
単純なんだけど地味に疲れるやつ、とりあえず区切りがいいところまでできたので17時過ぎに一度会社から出て家に帰ってリモートワークにさせてもらった。18時以降に帰ると渋谷方面に向かう電車になってしまうので避けたかっただけだが。それでも17時台でも電車はそこそこ混んでいた。毎日出社したり通学する人のストレスを考えるだけでゾッとする。リモートワークで基本的には出社しなくてよいのは本当にありがたい。


半年ぶりに出社したので、休憩時間は歩いて10分ちょっとの神保町へ。30℃以上はあるからできるだけ日差しを選んで歩いたけど、暑くてすぐに汗ばんだ。小学館集英社の横を通って駅の方へ。東京堂書店で『新潮』と『群像』最新号を購入。
前者は『百年の孤独』文庫版刊行による特集。菊地成孔さんと古川日出男さんが寄稿しているのでそれが読みたかった。帰りの電車で二人の文章だけは読んだ。
古川さんがラテンアメリカ文学に出会ったきっかけは親友が「日出男はボルヘス読むといいよ」と旅先から送ってきたハガキに書かれていたこと、そしてボルヘスを読んでからラテンアメリカ文学に興味を持ち、そしてマルケスを読むようになっていった。だが、その親友はそのハガキを出してあまり時間が経たないうちに亡くなってしまったということ、彼と一緒に高校時代に演劇をやっていたことが書かれていた。極めて個人的なことだからこそ、届く文章だった。
後者は同じく古川さんによる『うつほ物語』が掲載されていた。公式サイトのブログで手書きで書いていると言われていたのはこの小説だろう。先月は文芸誌を買わなかったので、今月は二冊でもいいやって気持ち。

家に帰ってリモートワークが終わってから、コンビニで買ったアイスコーヒーを飲みながらタバコを吸って一服。『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画』の最新回が更新されていたのでのんびりとタバコを吸いながら聴いた。
昨日歩いた時に日焼けもしたのもあるし、今日も暑かったからか皮膚が、体が熱を持っているような感じがする。水風呂にでも入ろうかと思ったけど、シャワーで止めておいた。なんか水風呂で風邪引いたら最悪だなって思ってしまった。出社したのが珍しいことだったのもあるけど、普段とは違う疲れ方をしていた。

 

7月6日
8時半に家を出て渋谷へ。午前中だけどすでに暑い、シネクイントに着く頃にはかなり汗だく。Tシャツの胸元もだいぶ汗で濡れていたが、額からの汗の量がかなり出ていて、着くまでに何度かメガネを外して拭わないといけなかった。帽子をかぶっていない(昔から帽子をかぶるのが苦手だ)頭皮が日光にどんどん照らされて汗が出やすいのだとは思う。
特に午前中には予定を入れていなかったけど、このままだと家にずっといることになると思って、昨日夜に映画館で色々と調べてイーサン・コーエン監督『ドライブアウェイ・ドールズ』を観ることにした。

ヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』に引き続き次回作『憐れみの3章』にも出演するマーガレット・クアリーが主演。予告編で見ていて気になっていたがまだ観れていなかった。上映時間も85分とコンパクトなのも観ようと思った理由の一つ。
奔放な生き方をしているレズビアンのジェイミー(マーガレット・クアリー)と友人で生真面目なマリアン(ジェラルディン・ビスワナサン)の二人は行き詰まりを感じている日々の生活から逃げ出したいと思っていた。
そんなある日、二人はマリアンの叔母がいるカリフォルニアのタラハシーへ車の配送をしながらアメリカ横断のドライブに出かけることにした。しかし、配送のために彼女たちが乗り込んだ車は別の人物たちが配送する予定だったものであり、トランクには謎のスーツケースが隠されていた。そのスーツケースを取り戻そうとするギャングたちが二人を追いかけてくることになり、彼女たちは様々なトラブルに巻き込まれていくコメディドラマ。

レズビアンシスターフッドを描いたロードムービーなのだが、時折サイケデリックな映像が何度か挟み込まれていた。舞台は1999年設定だけど、それらは60年代や70年代ぽさがあり、彼女たちとどうも関係がありそうに見えなかった。実際にジェイミーがレズビアンで、おそらくマリアンもそうなのだろうけど、そのサイケデリックな映像に出てくる女性とかイメージはなんというか男性的な視線みたいなものに感じられていた。実際にそこに出てくるある女性によって作られたものがスーツケースに入っていることが後半にわかったのでとりあえず納得はできた。スーツケースの中身がある大物政治家の運命を握っているということになるのだけど、展開も含めてコメディ的な要素が多くてアップテンポに進んでいった。 
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』にもギャグ的に使われていたディルド(作中ではヌンチャクがてら)が今作でもかなり意図的に扱われていた。
ジェイミーとマリアンは旅の中で恋人関係になっていく。体の関係もあり、それも描かれているが、女性同士の性愛においてディルドを使うのかどうか、あるいはセルフプレジャーとして使うのかはそれぞれの女性によっても違うことも描かれていた。
この映画に出てくるディルドは明らかに「家父長制」の象徴であり、LGBTQが広がっていく中で、その当事者たちがそれぞれの立ち位置とは対照的な「家父長制」をいかに脱するかという問いも含まれているように思えた。
どちらにも出てくるディルドはフニャフニャとは言わないが、シリコンなどでできているため昔作られたような木材なみたいな硬さではない。男性器が勃起して硬いこと、そして射精して女性器の中で受精することで一人の人間の生命が始まる。だが、このようなヘテロセクシャル異性愛者)とは違うLGBTQの人たちにとって、カチコチの男性器は自分たちを受け入れない認めない社会を作り出しているものであり、危険で凶暴なものだろう。
ゆえに映画に出てくるディルドの元になっている人物がどういう人なのかなども皮肉が効いているし、この作品に出てくる男性の登場人物は一応に鈍臭いというか役に立たないし、ほぼほぼ死んだり、いなくなっていくのもすごく象徴的だった。だが、どちらも監督が男性ということを考えると自らに向けた皮肉なのかもしれないし、女性二人を描くならこういう展開にするのが今現在の表現として必要なものだと思ったのかもしれない。
僕は映画としても楽しめたし、マーガレット・クアリーが魅力的な俳優ということも改めてわかったのだけど、ディルドが象徴することについて観終わってから考えてしまった。
「家父長制」ありきな社会で育ってきた僕は、結婚もしていないし子どももいない。今はそういう社会ではなくなっているのもわかる。だが、その新しい価値観が受け入れられて誰もが自分らしく、排除されない社会になるといいなというリベラルな考えをして入る。同時に古くてなくなった方がいい「家父長制」で生まれ育った自分の染みついたものが、どこまで自分を縛っているのか正直なところわからない。
なんか時代ごとに梯子を外されているような被害者意識もあるし、なんとか食らいつこうとしていてもどこかで限界が来てしまうのかもしれないという危機感も持っている。たぶん、多くの同世代の人たちはこの狭間でどうしたらいいか悩んでいると思う、そして息苦しさを感じながらもせめてまともな社会になってほしいけど、自分たちはどうせこぼれ落ちるんじゃないかなと感じているんじゃないかなって歩きながら考えていた。

行き来はradikoで『三四郎オールナイトニッポン0』を聴いていた。先週が単独ライブの最終日の広島公演の日だったので録音になっていた。録音があってからの深夜の生放送ということもあり、ラジオの楽しみさを前回で思い出し、テンションも高くテーマメールに送られてきたものからどんどん話題やネタが展開していく、いい時のトークの間合いになっていた。こういう時の「三四郎ANN0」は聴いていると笑ってしまう。歩きながら急に吹き出してしまうヤバいやつになってしまっていた。
番組とコラボをしたディズニープラスで配信中のドラマ『七夕の国』について相田さんが冒頭に出てきた役者さんがテレアポでバイトしている時に一緒にやっていた平原テツさんだったと話していた。
前に観に行った舞台『いつぞやは』で主演だった窪田正孝さんが降板して代わりに出演されていたので一度観たことがあるけど、すごくいい役者さん。

成城石井で冷やし担々麺を手にしてレジ付近に近づいた時にアルコールコーナーでサッポロビール350ml缶を三本買った。今日は『群像』掲載の古川さんの『うつほ物語』とガブリエル・ガルシア=マルケス著『百年の孤独』をできるだけ読もうと決めていたので、普段家でビールを飲むことはないけど、お供にビールがいる気がした。

16時半を過ぎた頃から雷鳴が聞こえ始めた。雨はすぐには降らずに大きな雷が時折落ちる音と光が窓の外に見えた。そのくらいの時間から『うつほ物語』を坂本龍一さんの曲をBGMにして読み始めた。最初は『千のナイフ』、それから映画『トニー滝谷』のサウンドトラック、『out of noise』に『async』という順番にしたが、読み始めて最初の方で雷が鳴っているのにうとうとしてしまった。
数分程度寝ていた。起きてからまた読み始めて音楽も聴こえていたが、窓の外の落雷はもっと大きなものとなって、次第に雨が降り始めた。家の中にいても激しくて大粒だろうなと思える雨の音、それに坂本さんのピアノの音色、古川さんが新たに創作して書いた琴の名人一家四代に渡る物語が心地いい。途中まで読んで急激に眠くなったので閉じた。やっぱり今日は『百年の孤独』を読むところまでいかなかった。

 

7月7日
7時ぐらいに目が覚めたが、二日酔いではないがどうも体がダルい、やる気が起きないしすでに室内が暑い。エアコンを冷房ではなくドライにしてサーキュレーターで風をまわす。radikoで『オードリーのオールナイトニッポン』を流して聴いていたらまた過ぎに寝落ちしてしまった。起きると9時を過ぎていた。
午前中は特に予定もなく、何も決めていなかったけど、天気予報見ると昼過ぎには酷暑といえる温度になるのがわかったので、散歩に行こうと家を出た。なんか「オードリーANN」な気分ではなかったので、先日一度聴いた『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画』最新回を聴きながら代官山蔦屋書店へ。
文芸誌コーナーで『文藝』最新号を手に取り立ち読み。特集1「世界文学は忘却に抵抗する」というものが掲載されていて、古川さんが「文学の時差」という論考を寄稿されていたので全部に目を通した。


帰りにサミット鉢山町店によっておかずを買って、そのまま帰るつもりだったけど、立ち読みして読んだことに引っ掛かりのようなものを覚えていたので、帰りに池尻大橋駅のあおい書店で『文藝』を購入した。
「文学の時差」において古川さんは「どうやったら作家になれるのか?」という問いに答えられるとしたら大量に本を読みなさいと、そしてその大量というは「私はだいぶ大量に本を読んだなと自負できるまで、だ。つまり本当に大量にだ。それから三人の作家、三つの作品を選ぶ。」と書かれていた。

 あなたがちゃんと三冊選べるのか、わからない。しかし選んでほしい。何年かかってもかまわない。三人の作家の、かぶらない三冊。選び了(お)えるとわかるけれどそれらの三冊は一冊だけは「あなたのすべてを満たす」ことがなかったわけだから、補完しあっている。客観的に補完的であるとは自分は言わない。しかしあなたはその三人の、三作の、いずれにも反応した、深く。いずれのことも「凄い」と思った。あとはその三作を、おりおり再読して、三読して、部分的な精読というものもして、そして、あなた自身が書く。書きつづける。たぶんそれだけでいいのだと自分はかんがえる。
『文藝』2024年秋号「文学の時差」P173-174 より

読んだ時に脳裏に浮かんだ作家は「大塚英志」「古川日出男」だった。あと一人は誰だろうか、この二人は間違いようがなく自分に影響を与えている。
もう一人の候補として「伊坂幸太郎」「村上龍」「フィリップ・K・ディック」「レイモンド・カーヴァー」の名前、それぞれに三作品選ぶとすると何があるだろうか、最終的には「村上龍」と「フィリップ・K・ディック」だった。「ディック」は『ヴァリス』『スキャナー・ダークリー』『高い城の男』だろう。そうするとある共通点が導きやすい「村上龍」の方がしっくりときてしまった。


大塚英志『摩陀羅 天使篇』『多重人格探偵サイコ』(角川スニーカー版)『木島日記 もどき開口』

村上龍コインロッカー・ベイビーズ』『ストレンジ・デイズ』『コックサッカーブルース』


古川日出男『サマーバケーションEP』『聖家族』『ドッグマザー』


三人の作家、三作品を選ぶと共通するのも、見えてくるのは中上健次だった。疑いようもなく、やはり中上健次となる。
個人的には阿部和重古川日出男、その前に村上龍村上春樹がいて、中上健次へ結ばれる。そうなれば、中上健次が書いていた小説、紀州サーガからさらに遡れる。


中上健次よりも前に日本文学界に現れて最前線にいた大江健三郎も同時代の人としてラテンアメリカ文学に影響を受けている。中上健次の未完の遺作となった『異族』が刊行されて間もなく、ガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』が文庫版となったのは何か因果が、時代性が連なったものがあるように思えてしまう。そして、ここまで名前を出してきた日本の作家たちとマルケスから見出されるのは、


架空の土地であるヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にした「ヨクナパトーファ・サーガ」を作り上げたウィリアム・フォークナーとなる。
僕が憧れるのは「サーガ」であり、小学生の頃から大塚さんが原作を書いていた漫画『魍魎戦記MADARA』がそういう世界観設定だったこともあって、小学生の頃から影響を受けているとも言えるし、そもそもそのサーガ自体が中上や遡ればフォークナーという文学から大塚さんが持ち込んだものだった。
自明のことだと思っていたけど、古川さんの論考を読みながら自分のことを考えてみると、僕が好きな小説は世界文学的な要素があり(論考は三島由紀夫についても言及している。それについても月末の「夏の文学教室」で「劇的なるものと三島由紀夫」というテーマで話されるので繋がっている)、フォークナーから連なるサーガを描くものだということだった。


Facebookの昔の投稿に関するものを見ていたら、7年前の2017年に当時ブックスルーエにいらした書店員の花本さんが『文藝』2017年秋号の特集「現代文学地図2000→2020」の中の一つのアンケート「来るべき作家たち2020」で僕の名前を挙げてくださっていた。それを知って当時本屋に買いに行ったのだと思う。
映画のノベライズを出した頃だったし、まだなんとかなるという甘い考えだった。時間は経ったが僕は単著すら出せていないし、形にすらできていない。こうやって期待してくれた人たちも何人もいたけど、その期待に僕は一向に応えられていない。だけど、このタイミングで起きていることが形になれば、自分の中で時間がかかってもいいから出せたら、と思う。

昼過ぎに木山捷平『落葉・回転窓』の短編一編、中上健次著『異族』のたぶん一回の連載分にあたるだろう文量を、と読書。夕方過ぎからライティング作業を始めた。
20時過ぎにはすぐにニュース速報で小池百合子現職の都知事選当選確実が流れる。そして、僕が投票した蓮舫さんは、石丸にも負けておそらく三位だということだった。現職も十分ダメだが、無党派層と若者層を石丸が取っていることは単純に怖いと思った。広島で彼がやってきたことや言動的にもプチ橋下感があるし、ひろゆきが支持される嫌な感じにも近いものを感じる。でも、それが現実だということ。
マスメディアだけではなく、SNSなどで完全に分断が起きて、自分が興味あるものや見ているもの以外は「ない」ということになっている。新自由主義に突き進んでも地獄しかないし、公共的なインフラとかが資本に持っていかれたりすることがどんなにヤバいか、後の祭りになって後悔した時はもう手遅れでどうにもならない状況が訪れているのだと思う。しかし、この結果はけっこう堪えるし、きつい。
石丸を支持している層、彼らを取り込んだのはTikTokYouTubeを上手く使ったことがデカかったみたい。そう考えるとやはりひろゆき堀江貴文や成田悠介的な価値観に通じているのだろうし、個人の利益を優先するという意識が強いのだろう。
TikTokや切り抜き動画的な短い動画での動員、それに対応できるのは、そういう人たちに対するために、その威勢の良さへ抗うために必要なものがあるとすれば分厚い小説や長い映画になるだろう。
どんどん短く切り取られた動画だけがインプレッションを稼いで人々の欲望を希求するようになったら、抑止力として飲み込まれないための装置として文学や映画が武器になっていく時代が来るかもしれない。そういうインプレッション地獄から脱出する人、おかしいことに気づいた人がたどり着くツールみたいなものにもなるかもしれない。


若松英輔著『小林秀雄 美しい花』は3年前の発売した時に、田河水泡関連(小林の妹が田河水泡の妻の高見沢潤子)のものとして購入したけどずっと積読していた。
選挙結果が出てからなんとなく手に取って読み始めた。小説家、批評家、詩人は繋がって連なっている。たぶん、そういうことを小林秀雄の評伝でもっと感覚として知りたいんだろうな。そして、田河水泡を描くための資料の一つだから、執筆はそろそろリスタートさせる時期だ。

 

7月8日
6時過ぎに起きて可燃ごみを出しに行くが、すでに暑い。エアコンは寝る時はドライにしているけど、室内は暑くなってきていた。冷房MAXにしてサーキュレーターで空気を回す。
リモートワークが始まるまでちょっとだけ読書をしてから作業を開始。いつも通り一人でやることをやっていく。先週久しぶりに出社したけど、やっぱり人が周りにいない状態で作業をコロナパンデミック以降そうなっているから、人がいるとなんか緊張してしまった。だから、非常に楽ちんな気持ち。

ーー本はいつも本屋さんで買うそうですが、どのように選ぶのでしょう。

江國:私にとっては洋服屋さんや雑貨屋さんと同じなんです。服や食器を見ていると、「絶対これはいいな」と思うものが見つかるじゃないですか。本も同じように、見た目で中身のよさがわかります。もちろん好きな著者の新刊は必ず買います。でも本屋さんに行って素敵なのは、そうじゃない本と出会えるところ。知らない著者なのに何か惹かれるような本と出会えるのが、醍醐味だと思っています。

――手触りなどの感触も大事でしょうか。

江國:そうですね。本は物体ですよね。それは著者だけの力じゃないはずなんです。物語やエッセイなどの中身を信じて、パッケージを作っている人たちがいる。だから、パッケージから中身が想像できる。どんな紙を使っているか。どんな絵が載っているのか。本の厚さはどうか、「丸背」か「角背」なのかとか。そうして中身にふさわしい装いになっている本というものが、好きなんだと思います。

江國香織が振り返る、旅としての読書 「本を読まなければ行けない場所がある」

「パッケージから中身が想像できる」というのは本当にそうで、著者が書いた文章があって、それを担当編集者やデザイナーが装丁をイメージして物体としての紙の本を作っている。中身から外見をどうするかという想像力は、その文章や物語から誘引される。
だから、手に取って見たときに「ダサい」「カッコ悪い」と一瞬でも思った本はどれだけ売れていようが評価が高くても、読んだら合わないかおもしろいと思えないものが大半。まれにこの装丁は最高だって思ったらそうでもないことはある。
著者が好きでずっと読んでいる作家さんだと、たまにこの装丁はないなって思っても買う。その時にはこの出版社でどうもあの編集者だからか、とわかればその人が担当の場合の書籍は基本的に手を出さなくなる。明らかにその人の「いいもの」と僕の「いいもの」は違うから。
書籍に手に取ったら装丁は誰かみたいなことは見るから、担当編集者もちゃんと記載しておいてほしい。そのぐらいの責任はちゃんと取った方がいい。
僕の「いいもの」や「カッコいい」と思える装丁デザインはいわゆる売れているものにはあまりないし、「本屋大賞」とか見ても候補のものでジャケ買いしたと思うのは年々減っていっているし、今年は10作品中1作品ぐらいだった。僕の感覚がそもそも一般的なものとズレているんだろうけど、刊行点数が増えてイラストの表紙が増えていった辺りからダサい装丁が増えてきたと思ってる。


休憩時間に書店で松本直也著『怪獣8号』13巻を購入。主人公の日比野カフカの後輩であり相棒の市川レノのカフカの窮地を救いにきた行動と熱い展開で涙が自然と流れてしまった。今総力戦みたいな展開になっているが、非常に読み応えがある。


その帰りにB&Bに寄って『LIFE HISTORY MIXTAPE 01』を購入。原カントくんさんがストーリーズでアップしていて、前にも見た記憶があったので買っておこうと思った。ラッパーたちの子供の頃の話を集めたインタビュー集。カセットテープをイメージしてデザインしてあるデザインなのも本を開くとわかるのもいい。

菅田将暉『美しい生き物』 


「10年日記」というのをつけている。今のは二冊目で「2022-2032」の期間のものになっていて、この一週間ほど書いていなかったのでGoogleカレンダーを見ながら簡単なことを記入していった。
今月末に野田地図最新作『正三角関係』を観にいくのだけど、一年前の2023年7月3日には野田地図の舞台『兎、波を走る』を観に行っていたことと亡くなった友人と飲んだと書いていた。
僕の中ではこの舞台はもちろん観て、非常に揺さぶられたしすごい作品だったという記憶はあったけど、彼女と観に行ったことをなぜか忘れていた。
去年のブログを見てみると観終わってから焼き鳥屋で飲んでいることが書かれていて、それを読んでお店の場所もしっかりと思い出した。だから、野田地図関連で言えば、『THE BEE』と『兎、波を走る』はその友達と観に行っている。前者の方を観た後は劇場から地下鉄直結部分にあるカフェみたいなお店で感想を言いながら閉店が近かったのでお茶をしたことも思い出した。
たった一年前のことも覚えていない。だから日記とか何かに書いておくことは大事だ。人間は忘れてしまうし、あるいは記憶を違うものに書き換えてしまう。
菅田将暉の『美しい生き物』は新しいアルバム『SPIN』に収録されていて、MVが公開された時に観ながら泣いてしまった。映画監督の大森立嗣監督が手掛けているが、彼が手がけた『タロウのバカ』という映画があった。その作品には菅田将暉と仲野太賀とこれがデビュー作となったYOSHIがメインで出演していた。
YOSHIはOff-Whiteを立ち上げたファッションデザイナーであるヴァージル・アブローと出会ったことで一気にインスタグラムでフォロワー数を伸ばした少年であり、X JAPANYOSHIKIが手掛けるボーイズグループオーディションでも注目されていたが、19歳の若さで大型バイク運転中にトラックに衝突してこの世を去った。彼を見出すことになったヴァージル・アブローもその前年の2021年に癌のために死去している。
YOSHIが16歳の時に公開されたのが『タロウのバカ』であり、年上だが作品で共演して菅田将暉や仲野太賀らとも仲が良かったようで、この曲は大森立嗣が監督しており、映画にも出ている菅田と仲野に奥野瑛太が出演している。また、大森立嗣監督の父である麿赤兒と彼が主宰している「暗黒舞踏集団・大駱駝艦」のメンバーも出ている。この映像時t来がYOSHIへの追悼の曲なのは間違いない。
僕はこの曲を聴きながらその亡くなった友達のことを考えていた。歌詞の中で「スターになって」という箇所があるが、コンビニに行った時にビールが飲みたくなってサッポロビールを買った。このビールは星のマークだ。偶然だろうが、シンクロはしている。

『83 Lightning Catapult』最新回を聴きつつ。この日記を書いた。毎週お馴染みの二人のトーク、いつもとあまり変わらない月曜日だった。

 

7月9日
起きてからradikoで『空気階段の踊り場』『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』『フワちゃんのオールナイトニッポン0』と流してライティング作業をする。
「フワちゃんANN0」ではロンドンに行って上白石萌音が主演している舞台『千と千尋の神隠し』を観たこと、『水曜日のダウンタウン』の藤井健太郎プロデューサーと合流して『ABBA Voyage』というABBAアバター(彼らが全盛期の20代の頃の姿)が映し出されてライブをするというものを観たと話していた。
舞台翌日に上白石萌音と一緒にロンドンの図書館に行った話など、今までの海外に行ったトークとはかなり違うものになっていた。友達と一緒に行動しているから感じることも行く場所も違っていて、そのことをトークしていたけど、本当に羨ましくなるほどに良い滞在だったのが伝わってきた。

平岩  浅野さんは漫画制作に積極的にデジタル技術を取り入れたり、イラストや作詞、ファッションブランドとのコラボ、YouTubeでも配信をしていたり、色々なアプローチのアウトプットをしていますよね。その中で、あえて漫画というメディアを選んで創作活動をしているのはなぜですか?

浅野  すごく乱暴な言い方をすると、漫画って映像と小説の中間にあるメディアだと思うんですよね。中途半端でもあるけど、いいとこ取りもできる。たとえば小説は主人公の心理描写が活字になっているけれど、映画でずっとモノローグを使ったら煩いじゃないですか。でも漫画ならそういう表現もできなくはないので、文学的なものをやりたいなら、漫画が向いていると思う。今描いている『MUJINA INTO THE DEEP』みたいなアクション漫画は、漫画よりアニメのほうがずっと良く見せられると思うんですよ。

平岩  浅野さんみたいに漫画を描くのにBlenderUnreal Engineを使っていると、制作に使うツール自体はもうアニメやゲームを作っている人達と同じで、アウトプットの結果が違うだけだったりしますよね。

浅野  そうですね。たしかに、僕が持っている背景の素材やアセットは映像やゲームでも流用可能なものなんです。漫画の原稿ではモノクロになるけど、作っている時はカラーなので別のメディアに展開できる可能性もあると思っています。それでもなぜ漫画を描いているのかと聞かれると、ロマンみたいな話になっちゃうんですけれど、僕はやっぱり「出版」が好きなんですよね。特に小学館は出版社の在り様として、どこか教養というものがベースにあるように感じていて、漫画にしても娯楽一辺倒じゃない付加価値があると認めてくれる気がするので、だから僕はここで描いているみたいな。

浅野  でも、最近流行っている漫画の中でタバコを吸っているシーンがよく出てくるんですけど、今はタバコって世間一般的には嫌われているじゃないですか。ネット上だと喫煙者にすごく当たりが強いけど、大学生とかは意外と吸ってたりするんですよね。ローカルにはネットで言われている絵空事とは違う雰囲気があって、そういうのが漫画にも表れてきている気がします。ネットはネット、みたいにみんな少し目が覚めてきたということかな、と。

平岩  SNSのタイムラインも自分で作っているので、ネットで目にするものって広いようで狭かったりしますよね。

浅野  エコーチェンバー現象というか視野の狭い世界に個々人がいることが常識化したから、ネットに書かれていないことが重要だよね、という空気になってきた気がしますね。徹底して自分の好きなものだけを目にして描くという漫画の作り方もあると思うんですけれど、リアルを求めるならば自分にとって不快指数の高いものも、なるべくフラットに見ないといけないなと思っています。

平岩  明らかに自分とは感性が違うだろうインフルエンサーとか、迷惑系YouTuberみたいな人や、そのフォロワー同士のやりとりを見ると、ものの考え方から言葉使いまで何もかも別世界だったりしますからね……。

浅野いにおが語る、漫画の「今」

浅野いにおさんのロングインタビューを読んで、やっぱり浅野さんは信用に値する漫画家だし表現者だなって改めて思った。
ここで話されている三大出版社(集英社講談社小学館)にそれぞれ明確なイメージを持っている世代は80年代前半で終わっていると思う。そういう分野に育てられたので浅野さんがここで描き続けていること、時代ごとに吸収しながら表現をアップデートしていることを真摯に語られていて、内容としてもすごくいいものだった。

ヨルゴス・ランティモス監督『憐れみの3章』をオズワルドシアターで試写。去年の『哀れなるものたち』以来のこの試写室だったけど、なんと入場前のスマホの電源落として封筒に入られらるという儀式がなくなっていた! それをやる警備員の人とかがいたから経費削減とかのことが関係しているのだろうか、なんだか残念。
ヨルゴス・ランティモス監督とA24の映画を観ていると彼らは新自由主義グローバリズムが侵食し当たり前になった世界で「新しい神話」を作ろうとしているように思えてくる。それもあって、日本というよりはキリスト教文化圏の方がモチーフや出てくるアイテムや生き物が何を示しているのかわかるだろうし、もっと観た後に残るものも違うということもあるのだとは思う。
神話には性交(生と死)が欠かせない、生まれてくるものがいて死んでいくものがいる、父と子と聖霊の三位一体がある、聖なる(邪な)動物たちがいる、肉体は傷つき損なわれてしまう、聖なる水は溢れる(枯れる)、神秘とはつねに誰かの不幸と悲劇と共に起きる。
前作『哀れなるものたち』的なものを期待していくと完全にハシゴを外される。その辺りもヨルゴス・ランティモス監督と三度目のタッグとなるエマ・ストーンが憎たらしく思えてくる、シュールさとアイロニー満載の、三本立てのコントだと言える。
僕ならこの映画のアンバサダーに東京03にお願いするだろう(10年以上前ならラーメンズだったかもしれない)。出演する役者たちは三つのそれぞれの作品に出演しているが、役柄や関係性が違うので多少混乱はする。受付でもらった資料の表紙には出演した俳優たちの顔がたくさん並べられており、それはどこか仮面のように見える。そう、俳優たちは同じ顔だけどその顔(仮面)ごとを違う役柄に当てはめているということを示唆しているのだろう。
例えば、エマ・ストーンは一作目では脇役的な立ち位置の不思議な女性(リタ)を演じているが、二作目ではある事故に遭って生還した主役的た立ち位置の女性(リズ)を演じ、三作目ではとあるカルト団体に所属していて、仲間の男性と組んで組織が探し求めている女性を探している女性(エミリー)という役どころになっている。それぞれの役名も違うし、別人ということになっている。
一作目では主人公格の男性の妻があることをきっかけにいなくなってしまう。そして、出会うのがエマ・ストーン演じるリタとなっていた。二作目では生還したリズの夫が妻の中身が違う誰かに入れ替わっている、彼女ではないと思うようになっていく。三作目ではエミリーは夫と娘を捨ててある団体に奉仕している(ため、夫からすれば妻は自分の元から去ったと言える)こともあり、どこか村上春樹作品における妻や恋人が主人公の「僕」との生活を捨てることにも近しいものが少し感じられた。
役者がそれぞれ三作品で別の三人の登場人物を演じること、三つがあることで繋がっていることなどもあり、不条理な三本立てのコントを観たような気持ちになった。
ところどころで笑ってしまったけど、まあ万人受けしないだろう。説明を省いているのである人からすれば不親切でわかりにくいと感じるはずだし、そもそも説明されてもたぶん楽しめない人は楽しめないタイプの映像作品になっている。完全に客を選ぶ作品だと思う。その意味で『哀れなるものたち』とは方向性が真逆、でもやりたいことは通じているから、ヨルゴスとエマタッグに拍手したいし、結局あんた最高じゃんって、映画でやりたいこと意識的にしっかりとやりきっている。

持論だけど主要人物が吐くシーンがある映画はいいものが多いと思っている。人間は一本の管だから、口から食べて肛門から排出するが、口も肛門も性交で出し入れされる場所にもなる、男女の凸凹だけでは限らずそれは性別は関係なく使われる部分(器官)でもある。管である人間における穴は性交と結びつく、故に性交を描くことは食べることにも通じていき、それは生きることであり個人の日常となっていく。だからこそ、口から何かを吐き出すことは生理的な違和感であり、日常からの拒否である。こんな世界を受け入れないためでもあり、私を守るために異物を吐き出す、ための吐瀉は生きることを諦めないレジスタンスでもあるように思える。
あのちゃんのファーストアルバムのタイトルが『猫猫吐吐』だった。あのちゃんの描いたマスコットキャラの「にゃんおえ」はまさに猫がゲロを吐いている姿になっており、去年の彼女の今年を象徴する漢字は「吐」だった。
というようにあのちゃんを体現する漢字の一つが「吐」であり、彼女は世界や社会への違和感や嫌悪や怒りを吐き続けているとも言える。ミュージシャンとしては「ano」名義ではポップさを纏いながらも精神的にはパンクだというライブをし続けている。
「吐」という行為と表現について考えるその前段には「詩人と血しぶき」ということを考えている時期があった。体内の血を撒き散らす、それは現実ではできないししたら死んでしまうから、詩人は血である自らの内側から出てきた言葉を声にして文字にして体外に撒き散らして世界を血でもある言葉で染めていく。ということをある映画のレヴューで書いていたことを思い出した。
あのちゃんが吐き出そうとする世界や日常への違和感や怒りがどんどんポピュラーになっていっているのは、さっき書いたようなレジスタンスに通じていて、多くの人が吐き出したいと思っていて彼女に共鳴しているのではないだろうか。

試写で知り合いの映画監督の方とお会いしたので、最寄り駅も同じなので一緒に帰って僕が好きな居酒屋さんでたくさん飲んで感想や他のことを話した。映画を観たあとにしっかり感想が言い合えるのはすごく楽しい。

 

7月10日
昨日ぐらいから背中の左側の腰のあたりに痛みがあって、今日起きてもそこの痛みはまだ残っていた。珍しく連日ビールを飲んだことが原因かもしれないし、あまり長く続くようなら病院に行った方がいいのかなと思いながらググってみる。
いつもの水曜日のルーティンがてらradikoで『アルコ&ピースD .C.GARAGE』を聴きながら朝の読書。
続いて『JUNK 爆笑問題カーボーイ』の途中からリモートワークを開始。その流れで作業中BGMがてら『星野源オールナイトニッポン』『あののオールナイトニッポン0』を。

「あのANN0」は収録であのちゃんの友達であるメイプル超合金の安藤なつがゲストだったが、二人のやりとりがほのぼのしていたし、安藤なつがあのちゃんをしっかり受け入れている包容力のあることもわかるし、あのちゃんも安藤なつを信用、信頼しているのがとてもよくわかるトークだった。女性同士ということもあるし、気を許せていることもあってかいつもよりも下ネタ関連の話題が多かったが、二人でキャッキャしていてほのぼのしていた。

リモートを一時間早く上がらせてもらって恵比寿へ。リキッドルームで『[GAL presents "PR vol.13] group_inou / パソコン音楽クラブ』のライブを。
スペシャ列伝」で初めてライブを観て気になってから、ファーストアルバム『FAN』以降のアルバムリリースツアーにはほぼ行き、2016年のWWWXでの活動休止ライブを見届けて早8年が経った。そんなgroup_inouがフェスではなくライブハウスでのライブをする、復活する日だったのでなんとしても行こうと思い、ずっと彼らを一緒に見に行っていた友人Aと共にライブを観に来た。彼もめちゃくちゃ興奮してた。
最初はパソコン音楽クラブからだったが、MCでも自分たちの前にgroup_inouがいてくれて道を作ってくれたから自分たちはその轍を歩いていけたという話をしていた。group_inouもMCの時にDJのimaiもコロナパンデミックが収まりかけた頃にライブハウスでパソコン音楽クラブに「group_inouとライブをしたいんです」と休止をずっとしている時に言われたことで心を動かされてこの日があることを話していた。
二組とも最高に楽しかったし、音が何よりも気持ちよかった。休止のライブ以来の『MAYBE』では体を揺らして叫んでいたし、他にも新曲『Happening』以外は僕らがライブに行っていた時に聴いていたものばかりでほぼベストなセトリだった。
フロアが揺れに揺れていて、観客それぞれが気持ちよくて楽しく踊れるダンスフロアが出来上がって、熱狂と共に音と戯れていた。一言、最高だった。

 

7月11日
6時に目覚ましで起きて可燃ごみを出してから昨日帰ってすぐに寝落ちしたので湯船に浸かってちょっと体を休められた。
『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴きつつ、朝の作業をする前に今日が誕生日の古川日出男さんへお祝いのメッセージのメールを書いて送る。夕方過ぎにお返事をもらったのだけど、その文面もうれしかったし、お祝いメール送ってよかった。
この日は古川さんだけでなく、古川さんとも関係性の深い翻訳家の柴田元幸さん、『水道橋博士のメルマ旬報』でもご一緒していた今年公開されて話題になった『辰巳』を監督した小路紘史さん、NEWSの加藤シゲアキさんが同じ誕生日。皆さんおめでとうございます!
古川さんの誕生日を覚えていると他の方々も思い出せるので、誕生日が同じ人が数人いると非常にわかりやすい。

We Live In Time | Official Trailer HD | A24 


昨日の時点でA24のメーリングリストから来ていたけど、アメリカで秋公開予定の『We Live In Time』の予告編が公開されていた。
アンドリュー・ガーフィールド&フローレンス・ピュー主演でめちゃくちゃ期待できそう(号泣してしまいそう)な映画だし、A24らしい座組(アンドリュー・ガーフィールドは『アンダー・ザ・シルバーレイク』主演だし、フローレンス・ピューは『ミッドサマー』主演とA24とも関係が深い)。ちゃんと日本劇場公開してほしい、たぶんするとしても半年ほど遅れるだろうから来年の春ぐらいになるのだろうけど、待ってる。


11時に伊勢丹本館の7階の「うなぎ つきじ宮川本廛」で友達と待ち合わせしていたので早めの昼ごはんでうなぎをいただく。一緒にご飯を食べた友達は一月に亡くなった友達の形見分けを三月に渡した時ぶりだったので、食べてから近況も含めて諸々話をした。
しかし、平日のお昼前なのに伊勢丹とかのレストラン階ってどのお店にもお客さんが開店前から店外にある椅子に座って待っていて、普段目にしない光景だから新鮮だった。
二人で伊勢丹でうなぎ食べてるから、おばさんとおじさんになったねえって話してた。若い時には来ようと思わなかったし、なんだかそういう変化は素直におもしろい。


紀伊国屋書店に寄って、二人で本を見ながらブラブラしていた。『百年の孤独』文庫版は見かけなかったので売り切れているのだと思うけど、マルケスコーナーができていて、海外版のものと日本で昔出ていた判型のものが展示されていた。


群像新人文学賞」を受賞した豊永浩平著『月ぬ走いや、馬ね走い』が気になっていたので購入して、ルノアールでもう少し話をしてから解散した。


家に帰ってきてから洗濯をしたりしてからニコラに行って、アメリカンチェリーとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただいて一服する。


夜はライティング作業をHYUKOH・落日飛車 Sunset Rollercoasterのコラボアルバム『AAA』とtoeのニューアルバム『NOW I SEE THE LIGHT』を交互に聴きつつ進める。

 

7月12日
四千頭身 都築拓紀 サクラバシ919』をradikoでタイムフリーで聴き終えてから寝た。ラジオでは前にゲストだった菅田将暉と一緒に都築が服を買いに行った話をしていた。芸人でオシャレな人もたくさんいるんだろうけど、菅田将暉と一緒に行くというエピソードは他には誰もできないと思う。
都築が服好きなのは前から話していて、Tシャツをズボンがてら履いたり、子供服を帽子みたいに被ったりとなかなか一般人からは理解しにくいことをしている。だからこそ、イジられたりもするけど、オシャレはそれまであった既成概念を突破したり、価値観を壊して再構築することでもあるので彼を笑っているとずっと後になってから、あの時笑ってたことが当たり前になった。あるいはあの時の変容したものがオシャレと言われている、ということは起こりうる。

深夜4時ぐらいに目が覚めたので缶の回収日だったので出しに行った。雨は降っていなかったし、そこまで湿度があるような気はしなかった。この一週間ぐらいで珍しく家でビールを飲む日が続いたので空き缶が出てしまったけど、回収ボックスに同じようなチューハイの空き缶が二十缶ぐらい出されていて、飲む人は家で習慣的に飲んでるんだなって思う。確かに寝酒としてぐっすり寝れる(実際は軽い気絶らしいが)からわからないでもないが、たぶん、今後は家で飲むことはないとは言わないけど習慣づかないなって思う。

で、目覚ましも鳴らずになんとなく体がちょっと筋肉痛ぽいなと思いながら起きたらリモートワーク開始のちょっと前だった。昨日わりと歩いていたから疲れたのかもしれない。
というわけで仕事を開始。radikoで『ハライチのターン!』『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』『ナインティナインのオールナイトニッポン』『マヂカルラブリーオールナイトニッポン0』といつものBGMを流していた。
「ナイナイANN」の冒頭で岡村さんが都知事選のことに触れていたが、やっぱりなんか違和感というか、コロナパンデミックの時の風俗についての時みたいなことではないけど、認識的に今の時代の感覚とはちょっとズレているような言い方が気になってすぐに止めて、「マヂラブANN0」を聴き始めた。
同世代というか矢部さんと同じ年ぐらいのおぎやはぎはそういう常識とか時代感わかっているんだなってトークを聴いたら思うから、その差みたいなものってなんなんだろう。


昼休憩の時には傘がないと出られないぐらいには雨が降っていた。駅前のTSUTAYA書店で佐々木敦著『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』を手に取って目次を見ていたら江藤淳大塚英志の名前があったのでそこをちょっと読んでから購入。

cp 活動を再開したのも、昨年結成20周年だったことに気づいて、せっかくだから何か音源を出そうってなって作り始めて、リリースしたらおのずとライブもやろうかとなって。

imai 全然意図的ではなくて。8年ぐらい経って、なぜか自然な流れで再開した(笑)。そんな感じだから、2人のテンポがハマったときはめちゃくちゃ速い。『HAPPENING』はトラックが1日でできて、「俺、すげえな!」って思いながら得意げにcpに送ったら半日で帰ってきた(笑)。実質2日くらいで作ったんだよね。

cp 活動というよりかは、遊びの延長って感じはあるかも。僕たち、ツアー中の移動の車内でずっとしゃべってて。そうすると、運転手の人が長時間の運転で脳がバグって、ぽろっと面白い言葉を言ったりする(笑)。僕らの周りにいるスタッフの人って、みんながハマるワードを言ってくれる人が多くて、そういう会話の中で生まれた言葉をメモして歌詞に生かすことは多いかな。

音楽も笑いも、グルーヴが必要だ。ランジャタイとgroup_inouアバンギャルドに突き進む2組の初対談

水曜日に復活した8年ぶりのライブを観たgroup_inouとランジャタイの対談。
読みながら漫画の影響も含めて、頷けるものばかりだったし、やっぱり国崎が振り切ってるのがすごい。彼がZAZEN BOYS大好きで向井秀徳さんとYouTubeで話しているのもすごくファンだというのが伝わったし、正直羨ましかったぐらいいい内容だった。

これまでの57年間もずっと本を読んできた。実際には50年間しか読んでいないはずだが。というのも私は小学2年生から「読書」を体験として・経験として・極めてアクティブな営為として意識しはじめたから。しかし読みつづけてわかったのは、自分が求めている本は私に「何かを考えさせる」ということだった。読めば、考える。考えさせられてしまう。そうするとどうなるか? 世間に対して従順にならない。それは自分が(10歳だの20歳だの50歳だのの頭でもって)考えたこととは違うからだ。ということは、どうなるのか? 抵抗する人間になる。私は抗っている。

私はずっとずっと抗っている。

古川日出男の現在地』読む・考える・抗う 2024.06.29 – 2024.07.12 東京・福島・埼玉

古川さんの現在地が更新されていた。「私は抗っている」という言葉は古川さんの小説もだし、そこから広がっていったいろんな小説家たちの作品を読んでいるとわかる、わかるという感覚がある。僕も抗いたい側だし、そういう風になっていったのは古川さんの小説を読むようになったことがやっぱり大きい。

夜は更新された『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画』を聴いてからライティング作業と読書。明日から三連休だけど雨っぽいので、できるだけ晴耕雨読

ラシダ・ジョーンズが、相次いで話題作を世に送り出す米制作会社A24と組み、Apple TV+から全世界配信されるドラマの製作総指揮を務めた。自身が主役を演じる物語の舞台は京都だ。町家が並ぶ小道の向こうに五重塔。観光客にもおなじみの風景とともに、銭湯やセックスショップ、さらには60年代の近代建築を代表する国立京都国際会館大谷幸夫設計)も登場し、クールな日本のイメージ満載だ。

同会館の建物は、劇中では電子機器メーカー「イマテック」の社屋という設定。主人公スージーラシダ・ジョーンズ)の夫であるマサ(西島秀俊)の勤め先だ。ただしマサは回想シーンでしか登場しない。息子と旅行に出たきり消息を絶ってしまったのだ。2人を乗せた北海道行きの飛行機が墜落したという。

2人の遺体は見つかっていない。マサの母ノリコ(ジュディ・オング)は墜落機に搭乗していなかった可能性に一縷(いちる)の望みをかけ、気丈に振舞っているが、スージーは淡い期待すら抱けず、悲しみに暮れていた。そんな彼女のところへタナカユウキ(國村隼)と名乗る男が現れる。マサの同僚で、会社からの贈り物を届けに来たと話す。大きな箱の中身は「サニー」。イマテック社製の家庭用ロボットだった。

タナカによると、ロボットはマサが開発した。夫から所属先は冷蔵庫部門だと聞かされていたスージーはとまどい、マサの本当の任務について探り始める。どうやら彼のロボット開発と飛行機事故には何らかのつながりがありそうなのだ。やがて、ロボットのプログラムを書き換える「ダーク・マニュアル」の存在や、その背後に暗躍するヤクザの影が浮かび上がる。ロボット嫌いのスージーだが、サニーの力を借りて謎を解こうと動き出すのだった。

Apple TV+「サニー」:A24が放つ異色の近未来ドラマ 出演者ジュディ・オング國村隼が語る“ロボットと共生する時代”

寝る前にAppleTV +の解約をミスって延長になってしまったのでA24が制作した近未来の日本を舞台にしたドラマ『サニー』第一話を見た。正直一話を見る限りあまり面白くは感じなかった。未来の日本だというのはわかるんだけど、これ十話で面白くなるんだろうか。
毎週一回ずつ更新されていくとなるとあと三ヶ月以上継続しないと最終回まで見れない。これを見るために更新したいという気持ちにはなっていない。最初は三話まで公開されているから、それを見て決めることになるんだろうけど、一話見て二話見たいって思っていないから望み薄い。

 

7月13日
休日で特に予定もないのでのんびりと起きた。とりあえず、土曜日のルーティンとしてTVerで『オールナイトフジコ』を見ようと思って再生したら、なぜかゲストで都知事選に出馬していた石丸伸二が出ていて見る気をなくした。佐久間さんにオズワルド伊藤、休みだったけどさらば青春の光の森田と好きなメンツがMCだから初回から結局見ているけど、初めて見なくていいやって。
radikoで『JUNK バナナマンバナナムーンGOLD』を聴きながら読書をしてから家を出る。天気予報で気温を見たら27℃だった。いつもよりも涼しく感じられて風も多少あったので非常に歩きやすかった。
散歩のお供は『三四郎オールナイトニッポン0』を、『プラダを着た悪魔』の続編が作られるという話題から序盤からトークを持っていっていた。いつも通りとも言える小宮がどんどん展開していき、相田が頷きながら話を促し、リスナーからのメールから渦巻き上に加速していく。三四郎のラジオという感じがちゃんとする回だった。単独ライブも終わったし、通常運転に戻った感じがしてとてもよかった。

家に帰ってからご飯を食べてからライティング作業を開始。アイデアも固まってきたし、登場人物の関係性とかもかなり決まってきたので、キャラクター表をバージョンアップした。そこに自分がイメージする俳優の画像を貼って、脳内でより作品がどんなものなのか考えていく。大枠は決めたのであとはそれぞれの章ごとに決めた日数で書き上げていく。

夕方コンビニ行ってアイスコーヒーを買ってきて一服してからほぼリアルタイムで『川島明 そもそもの話(ゲスト:六角精児)』を聴いた。俳優の六角さんがゲストだったけど、川島さんとの話のテンポもよかったしギャンブルとか借金の話とか昨今の若手芸人よりも芸人みたいな生き方をされていた。
もちろん、『相棒』出演で注目されたこともあって、借金返せたりと売れたからよかったわけだけど、それでもそういう生き方が顔とか雰囲気として纏うことで役柄にも生きているし存在感が増すということはあるんだろう。

中上健次著『異族』を少しずつ読み進めているが、今約930ページ中480ページと半分は越えた。読後感として村上龍著『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』に近いものを感じる。村上龍は中上の影響も受けていたし、六つ上の中上を兄のように慕っていた。同時代を生きる作家同士の連帯感や信頼感もあったのは村上龍が書いてきたものを読むと感じられた。
『異族』は中上の遺作になった作品でその二作品よりも後に書かれているので、村上龍が書いたものに影響をされたのかもしれない、あるいは取り込んだのかもしれない。元々中上健次の中にあった資質みたいなものを村上龍が感じ取って自分の作品に落とし込んでいたということもあるのかな。『異族』を読み終わったら村上龍作品を読み返したくなってきた。
コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』は80年代に発表されていて、『異族』は中上の未完の遺作として90年代に発表されているので、村上龍を読んでいた人間からすると先祖返り的なものもあるのだけど、この二人と関係する長谷川和彦映画監督のことも浮かんできた。
中上健次の小説『蛇淫』は映画『青春の殺人者』になり、村上龍の小説『コインロッカー・ベイビーズ』は元々長谷川和彦監督が撮る映画の脚本として村上が書いていた数本のシナリオのうちの一つが原型になっている。それらは長谷川監督がボツにしたため映像化されず、その後に長谷川監督がアメリカに行った際に知り合ったレナード・シュナイダーと知り合いになって彼が脚本として組んだのが『太陽を盗んだ男』になった。『コインロッカー・ベイビーズ』の原型になった脚本が映像化されていたら、おそらく『太陽を盗んだ男』は生まれなかったと思うと絶妙なラインで運命が動いたのだと思う。『コインロッカー・ベイビーズ』も村上龍を語る上でも欠かせない、日本文学の歴史に名を残す小説になっている。しかし、『異族』に出てくる登場人物の一人が作中ではずっと名前があるのに職業である「シナリオ・ライター」と書かれているから、きっとこういう繋がりのことを思い出すきっかけになったと思う。

 

7月14日
起きてからradikoで『さらば青春の光がTaダ、Baカ、Saワギ』を聴きながら目覚めの準備を。ラジオの中で森田さんがウーマンラッシュアワー村本大輔を追ったドキュメンタリー映画『アイアム・ア・コメディアン』を観に行った話をしていた。ちょっと気になっていたので、上映しているユーロスペースのサイトを見たら11時からの回があったのですぐにチケットを取った。

少しずつ読み進めていた古川日出男書き下ろし創作小説『うつほ物語』を最後まで読み終わった。終盤で『アラビアの夜の種族』や単行本『ハル、ハル、ハル』収録の『8ドッグズ』のことと繋がっていく感じがして、ちょっと驚いた。
古川さんがポストしているように『犬王の巻』と対になりというのも確かにわかる。どちらも楽器を演奏すること、芸能が大きな位置を占めているが、それと権力との関係性は真逆と言えるかもしれない。

大統領選に出馬する予定のトランプが演説中に撃たれて耳から血を流しながら右手を観客に突き上げている、あまりにも絵になりすぎな一枚の写真と共にニュース速報が流れてきた。
あまりにも混迷している世界で、日本でも安倍元首相が殺されたことを嫌でも思い出すような事件だった。民主主義における権力の暴走や政治家の偏った思想に対して暴力で、テロで終わらそうとする動きは昔からないわけではない。
トランプも好きではないし、安倍元首相も好きではなかったが、銃撃されて怪我を負う、殺されてしまってはやはり秩序が崩壊して無法地帯になってしまう。それはやっぱり民主主義的な世界から遠いところに行ってしまう。銃撃した殺害犯や加害者たちの苦悩や環境や信仰などもあるとしても、カオスをさらに深めて歯止めが効かなくなることに加担するだけだと思う、法を犯した者は法のもとで裁かれていかなければ、僕たちの生活を支えている土台がなくなって壊れてしまう。それは個人の尊厳と自由を失ってしまうことに通じる。
今回の暗殺未遂でアメリカ大統領選がどうなるのか、どこまで影響するのかはまだわからないが、それは当たり前だが敗戦以降アメリカの属国である日本の政治にも関係するし、生活している僕たち自身にもいずれ影響が出てくる。

日向史有監督『アイアム・ア・コメディアン』をユーロスペースにて鑑賞。三連休の中日、日曜日の午前中だったがお客さんはかなり入っていた。若い人もいたけど、思ったよりも五十代や六十代の人たちも観に来ていた。
政治的な発言をきっかけにテレビから消えたお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔を三年間追いかけたドキュメンタリー作品。作中に村本さんがテレビに出ているのは「タレント」で、俺は「コメディアン」だと言っていたのが印象に残った。
「タレント」は政治的な発言はほぼしない。いや、できない。それはテレビというメディアがスポンサーありきだから、スポンサーがないNHKのことも話していたが大麻についての発言でダメだったという話もしていた。スポンサーや広告業界に逆らうような、気に食わないような発言をする人はテレビには出られないし、出てもすぐに仕事がなくなってしまうという現実がある。
テレビ局員でも志があってもそこには逆らえないし、そういうことに従わないのであれば局をやめてフリーになるか、海外に行くという選択肢になる。日本には言論の自由はあるが、触れてはいけない、公の場所では言わないほうがいい、ことは思いのほかある。そのことについてユーモアを用いてアイロニー満載の笑いはテレビではできない。ことが村本さんをめぐる環境からもよく伝わってきた。
誰かが悪いわけではなく、それぞれがそれぞれの仕事をしていくと不幸になるシステムが完璧に近い形で構築されていて、逆らうことはそのシステムから追い出されるということになる。だから、みんな思っていても言わない、言わないことは思っていないこととされる、それが日本であり、さらには同調圧力もあるから流されてしまう。なあなあのままなら許されるのに、あるときに自分が思ったことや感じたことから組織や状況について意見をすると敵だと排除されてしまう。敵か味方しかないようになぜかなってしまっている、中間層が消えていき、互いに罵り合うだけで会話ができなくなっている。それはネットというかSNSが加速させてしまった。
「芸人とは何か?」という問いを村本さんはずっと抱えているようにも見えた。彼の出身地の福井の地元近くには原発がある。だから、原発マネーのことも知っているし、それによって地元の経済が成り立っていることも知っている。
でも、東日本大震災以降の日本でいろんな被災地にも足を運んで見てきたことや、地元との人と交流したことから原発問題にも在日朝鮮人問題や沖縄の基地問題などについてスタンドアップコメディとして弾丸を連射するごとく高速で話し続けて皮肉も満載のネタをやっていく。笑いとは緊張と緩和であり、観客は現実問題や目をさらしている状況について逃れられないまま、その問題における矛盾や人々の対応やあるいはおかしさをオチに持ってくると笑ってしまう。緩む。高速ジェットコースターに乗っているような、速さ。速さが壁や境界をするりと突き抜ける。
村本さん自体の家族との関係性などもあって、彼の思想や性格が形成されたこともわかる内容になっていた。ここがあるから、彼の発言や行動をおかしいとは思わないし、彼の人生、歴史が積み重なって今に至っていることがわかる。その説得力があることでよりネタの部分で笑える。
アメリカでスタンドアップコメディの挑戦はコロナパンデミックによって順調には進まなかった。テレビには出ないようにはなったがスタンドアップコメディのライブを全国でやっていたことが収入源だったが、それも感染拡大でライブができなくなってしまうなど計画が狂っていく。その中で彼がどう動いていったのか、家族との関わりも含めて芸人としての生き様はカッコよくて響いたし、泣いてしまった。もちろん、ネタでも何度も笑ってしまった。コロナパンデミック以前とその最中の三年間がしっかりと一人の芸人から世界が照射されている素晴らしいドキュメンタリーになっていた。

ヨルゴス・ランティモス×エマ・ストーン最新作『憐れみの3章』本予告│9月27日(金) 全国公開 


試写で観てからちょくちょくこの作品のことを考えている。不条理コント三本立てみたいな言い方はできるし、ヨルゴス・ランティモス作品は純文学書いていた人が、純文学的資質がある人がエンタメ作品に本腰を入れて書いてみたような感じもする。
メインの役者一人ずつ、顔の部分がマスクみたいになっているポスターがある。役者は作品の役柄ごとに自分の顔を顔なしのそれに当てはめるみたいな意味合いなのだろう。三つの作品ごとに役者は違う三役を演じている。
多重人格は一つの身体にいくつかの異なる精神が共存しているけど、役者は一つの精神を異なる役柄それぞれの身体に送り込んで一体化して役が終われば元の肉体に戻ってくるという感じなのだろうか。
マスクみたいに見えるポスターデザインはどこか不気味なんだけど、この作品の精神性を的確に現してると思う。劇場公開したらまた観に行かないとなあ、サーチライト・ピクチャーズのパンフは出来もいいから。


18時になったので家を出て下北沢のボーナストラックへ。茶沢通りを北上している時に見えた下北沢方面の空が黒くてもくもくしているから大雨降りそうだった。歩いて20分ちょっとの距離で鎌倉通りの坂を上っていったが雨は降らなくて風が吹いていたので歩きやすかったが、やはり湿度は高くて汗がつく頃にはだいぶかいていた。
大谷能生×菊地成孔菊地成孔大谷能生の教養としての雑談」『20世紀ジャズ名盤100』(イースト・プレス)『たのしむ知識』(毎日新聞出版)W刊行記念」をB&Bにて。
『たのしむ知識 菊地成孔大谷能生の雑な教養』は発売の時に読んでいたが、満席の会場で読んでいない人が半分以上いたので、菊地さんが発売してだいぶ経ってるよ、読んでないなら本の話しないつもりだったけど、そっちをするかって言いながらも書いてないことの雑談みたいな感じにはなった。
元大統領、で今回の大統領選に出馬しているトランプが撃たれた話から始まったんだけど、二人とも本を出しても読まれているという実感はないってところから本の話になっていった。
あとは菊地さんもラッパーとして出演する湯山玲子が手がけているクラシックとラッパーが共演するサントリーホールの話とかもしていて、本の内容よりは菊地さんと大谷さんのファンが聞きたい二人の雑談という感じだった。まあ、それが聞きたいのでこちらとしては楽しいしおもしろいというトークになっていた。
大谷さんが車のCMのナレーションやっていると話とか菊地さんがアストンマーチン一社提供のラジオやっているので車やタバコに関する仕事のことなんかも話していた。なるほどなあ、確かにそういう仕事はギャラもいいだろうし、デカいんだろうなとか思いつつ、フリーランスがどう生きるか稼ぐか、でもそういうところで声をかけられる人は限られているわけで、知り合いの人たちもちゃんと企業案件とかやっているから成り立っているのは聞いているとわかるので、今後の自分のことも考えつつ聞いていた。
大谷さんは携帯を持たなくなって5年ぐらい経っていて、最後に電話したのがフジロックの出た2019年で深夜の菊地さんのDJを大雨でいけないって言ったのが最後だったという話から、出演者であるミュージシャンだけが苗場のプリンスホテルに泊まれるみたいなのだけど、そこから見える景色の話やある種の優越感みたいなことを二人が大爆笑しながら話していて、それがおもしろすぎた。他のミュージシャンもそんなこと思っていてたぶん口にしないような話だった。
菊地さんはスマホではなくガラケーでどこまで生活ができるのかを実験しているという話をしていた。東京で暮らすには居酒屋でもQRコードを読み込んで注文して会計したりするところも増えたし、タクシーもアプリがないと中々捕まらない(菊地さんは電話して配車してもらっているが、アプリの方が優先されているとのこと)など、スマホがないと都市生活がどんどん不便になっている現状について。
僕はスマホにしてから10年以上経つが、いまだにユーバーイーツとかデリバリーで食事を頼んだこともないし(なんか自分が運ぶ側になるイメージとか、なんか申し訳ない気持ちになって無理)、スマホを使ってSNSとかしているだけだ。スマホを使わない人の生活の不便を正直わかっていないと思う。
都市生活するために最低限必要なものがスマホになっていく、確かに決済も含めて簡潔だしスピーディだ。だけど、そうじゃない(スマホを使えない人、持つことが金銭面も含めて無理な)人をどんどん排除しているという事実はある。そういう人たちに対応できる、対応できる余地はさすがに残しておかないとセーフティネットにすら辿り着けないということになってしまう。それは生存権に抵触してくると思うのだけど。


トークが終わってからサイン会だったので、家にあるのは持ってきていなかったので二冊目を購入して、お二人にサインをしてもらった。
JAZZ DOMMUNISTERSの新しい音源は出ないんですかって聞いたら、タイミングだよねって言われていたので来年とかに出たらいいんだけどなあ。前に読んだのは知り合いの誰かにあげよう。

 

7月15日
6時に目覚めて可燃ごみを出しに行ってから、今日も休みだったと思ってもう一眠り。起きたら10時を過ぎていた。久しぶりにしっかり寝たという充実感があった。
昨日夜に『川島明そもそもの話』『有吉弘行のSUNDAY NIGHTDREAMER』は聴いていたので、Spotifyで『あののオールナイトニッポン0』(ゲスト:安藤なつ)回を流しながら散歩へ。夕方以降にライティングするスケジュールにしていたから、お昼までに外に出ていないと出るきっかけを失うので普段よりは遅い時間だけど外に出た。
気温は30℃にもなっていなくて昨日同様風があったので非常に歩きやすかった。日差しも強くないし、ちょうどいい。暴力的な暑さで日射病や熱射病に気をつけないといけない中で歩くのは怖いし、日焼けもひどいことになるのでこのぐらいが歩くのはちょうどいいから気持ちいい。

代官山蔦屋書店をブラブラして何も買わずに家に戻ってから、近所のトワイライライトに行って前から読みたかった坂口恭平著『生きのびるための事務』を購入して店主の熊谷くんとちょっとおしゃべり。
休日だということもあってかお昼でもお客さんがたくさんいた。どんどんイベントも展示もやっているので、三茶にあまり用事がなかったお客さんからすると三茶=トワイライライトみたいな人も増えているのかもしれない。

Zazen Boys - 永遠少女 Live at 日比谷野音 5.26 2024 


5月の日比谷野音でのライブ映像がアップされていた。今度のLIQUIDROOMアニバーサリーライブ(2013年から毎年ZAZENがやる時は観ている)のあとは日本武道館でのライブ。年に最低でも二回、今年は例年以上で四回ZAZENBOYSのライブを観ることになる。菊地成孔さんのやっている音楽もだけど、音としての気持ちよさ、そして複雑性に惹かれている。大衆的なものではないけど圧倒的にカッコいいものに僕は揺れていたい。

夕方過ぎから読書をしてライティング作業を。昨日B&Bトークでも話に出ていた菊地さんがMCでゲストを迎える番組(ゲスト:菊池武夫)をタイムフリーで聴いて、その後にニッポン放送開局70周年特別番組の三四郎がMCの『三四郎の爆湧きラジオ』をBGMにして進めた。

From Q presented by Aston Martin Ginza 

夕方過ぎから読書をしてライティング作業を。昨日B&Bトークでも話に出ていた菊地さんがMCでゲストを迎える番組(ゲスト:菊池武夫)をタイムフリーで聴いて、その後にニッポン放送開局70周年特別番組の三四郎がMCの『三四郎の爆湧きラジオ』をBGMにして進めた。
タケオキクチのデザイナー出る菊池さんにジャズミュージシャンの菊地成孔さんが『燃えよドラゴン』でメンズビギの服を着ていた理由を聞くという、ファッションと映画での関係についてのトークは結構貴重なのではないかなあ、有名な話なのだろうか。それにしても菊池武夫も85歳だけどいろんなことを覚えていて話されているし。知識もすごい。それに対して菊地成孔さんが補助しつつ、さらに誰が知ってるんだそれぐらいのマニアックなジャズの話をしていて、菊池さんが喜んでいるのもわかる。知とセンスの対話だった。

ニッポン放送開局70周年特別番組「笑顔にナーレ! 三四郎の爆湧きラジオ」

三四郎のラジオにはきしたかのの高野とラブレターズの溜口がゲストだった。きしたかのTBSラジオ三四郎と同じ事務所なのに裏番組を今はやっていて、通常放送にはゲストで来れなくなったこともあって、それで呼ばれたのかなって思ったり。溜口はクイズ出題でテンション高く登場、これは11月もやるだろうな。しかし、この番組一時間は短すぎる。盛り上がりかけて終わってしまった。
番組の10周年記念の日本武道館のイベント開催日は11月24日、あと四ヶ月後。世界はもっとカオスになっているかもしれないし、まともにはなっているとは思えないけど、ちゃんと武道館で二人のトークを聴きたい。夏を生き延びる理由にはなる。

今回はこの曲でおわかれです。
toe - LONELINESS WILL SHINE