Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年8月24日〜2022年9月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年09月掲載 小説『セネステジア』


先月の日記(7月24日から8月23日分)


8月24日

中上健次著『現代小説の方法[増補改訂版]』を読み始めた。数日前に『仕事でも、仕事じゃなくても 漫画とよしながふみ』を買いに行ったら、出ていることに気づいて購入していた。
講座での小説作法の語り下ろしと「音の人 折口信夫」、「坂口安吾・南からの光」を増補している。語り下ろしは話がいろいろ飛んでいる気がする。構成をかなりしたんじゃないかなって思わなくもないけど、当時第一線にいた中上だからこその発言というか小説をどう書くのかという話はおもしろいし、その先の景色を見せてほしかったと思った同世代の人や少し下のリアルタイムで彼の作品に触れていた人たちは思ったんだろうか。

 本当は、短篇小説も長篇小説もはっきり違いがある。短篇小説は詩に近い、長篇小説は叙事詩とかね、そういう言い方もちょっと違う。長篇小説というのは、基本的に構造を支える、構造の中に内在する運動みたいなもの、それが大きく違うんじゃないかという気がする。序破急とか、起承転結、これは構造の中で成り立つ運動とか速度とか現れるんだけど、それが速度であるんだけど、力を発揮すると構造みたいな形になって、それは形で言えば、四つの形でできるんじゃないか。これは『枯木灘』を書いたときもこんなこと考えたんです。作家の秘密だけど、自分のノートを買ったら、四つに割るんですよ。第一部、二部、三部、四部とこういうふうに割っちゃうんですよ。これがどんなふうに展開するだろうと、『枯木灘』の時は一番嬉しかったんですよね。それを書けるのが嬉しかったから、本当の物語の構造そのものみたいな、これは運動であり、運動がこういう形になってくると構造として見えてくる、構造としての働きをするっていうことなんです。
 物語というものをほとんど疑いなしに、疑うような物語を書ける、そういうことなんです。例えば主人公がいて、長篇の場合はこれが最後に変化する。突き動かされて、これが何度も変化する、そういう構造なんですね。主人公がここにいた、それが変化するために、何をもってくるかというと、対立する人間が要るんです。対立する人間をもってくると一番分かりやすい。対立する人間、動かすものを対立させて捉えていく。対立させようと思ったとたんに、対立には誰が要るか。たとえば融合みたいな形で、副主人公を迎えるんです。それで変化の過程がずっとあって、ある形で迎えるということ。対立という形になると、例えば弦を、琴でも、ギターでもいいんだけど、ボーンと弦を弾く。その弾く行為として、弾く道具として、対立項を、ある人物とある人物が対立するようなものを書いていこうと思っていたんです。
 対立する相手というのは誰なのか、決定されているんです、常に。相手というのは、父であり、悪であり、決定されているんです。父であり、悪であり、自然であり、神でありと、それで決定されるんです。何故かと言うと、これは小さい神である、小さい子どもです。みなし児、私生児である。これは主人公として決定されているんです。すると当然、ドラマチックにこうやっていこうと、対立と考えたとたんに、この相手が、悪であり、父、そういう者であり、じぶんより先にあるもの、そういう形になってるということなんです。それが、秋幸の場合においては、基本的には先行する作品--ギリシャ悲劇や旧約的なもの、カインとアベルの物語だとかを含んでいたから余計、この対立でもまた、長篇小説を導く時のモチベーション、対立を持ったとたんに、当然父になり、悪になり、浜村龍造になり、同時に彼が見果てぬ夢みたいに見ている仏の浄土でも、同時にそれがバックに支え持っている、われわれの文化の頭の中にパックされている、叙事詩的な世界という形になります。
 これはいろんな形で、長編小説の構造というのは、姿を変える。構造が装いをするというか、恋愛小説でも、犯罪小説でも、あるいは若者たちの物語、『コインロッカー・ベイビーズ』(村上龍)なんていうのは、これじゃ完全にみなし児、私生児ですね。コインロッカーに捨てられて、次々に成長して展開していく、そういうドラマです。変化していって、途中で事件が起こる。そういうふうになっている。これが長篇小説の方法なんです。じゃこれで短篇小説が書けるかというと、書けない。お分かりでしょう。なんでだめか、だって枚数がないのもの。こんな悠長なこと、こんな大掛かりなもの、枚数五十枚で書けなんて無理だもの。そうすると、それと拮抗するような、長篇小説には長篇小説の構造っていうのがあります。
中上健次著『現代小説の方法[増補改訂版]』P101 – 104より

対立するものとしての父や悪、神というのは中上健次村上春樹という作家が描いてきたものであり、納得もできる。しかし、現在は対立するはずの大きな存在が作りにくい、実は敵でもなく、敵ですらなかったということもあるせいで、その対立構造は難しいものとなっている。とくにわかりやすい英雄譚とか以外では。
当然のことだが、中上健次が生きていた時代よりも今の方が複雑になりすぎているということを読んでいて感じた。でも、物語というものの基本形はそうなっているので、伝えやすいものとしてそのパターンがなくなることはないと思う。白か黒でどんどん分断していってしまう世界では複雑性に耐えられなくて、拒否するためにわかりやすい物語パターンで世界を捉えてしまう人はそれなりにいるのだとは思う。陰謀論とかQアノンとかポストトゥルースとか、世界だけではなく日本でも同様に。

23日に放送された『マツコの知らない世界』であだち充さん、浅野いにおさん、そして、田島昭宇さんと、僕が好きでほぼ全作品を持っているはずの漫画家さんたちが紹介されてうれしかった。ナイスセレクト。
僕は王道ジャンプ大好きな人ではないし、『ワンピース』も連載始まった最初の頃はまだジャンプ買ってたから読んだ記憶がわずかにあるけど、チョッパーぐらいまでしかわからない。『幽遊白書』はリアルタイムで読んでたけど、『ハンター×ハンター』は正直一話も読んだことがない、みんながあまりにも勧めすぎるから読む気がなくなったのも大きな理由ではあるが。
最近は「オールナイトニッポン」を聞くとマヂマブもEXITもほかの芸人さんとかもワンピースかハンターハンターや『呪術廻戦』の話や考察をすることが多くて、みんな好きなんだなって思う。単純に読んでないのは絵が好きじゃないからなんだけど、これだけ大人気だから伝わらないだろう。それらがかつての『北斗の拳』や『ドラゴンボール』的な位置になっているから、わかっていないとなんのことだかわからないという状況になってしまう。それもあって、読んでみようかなとたまに思うけど、なにか踏み込めない。
ジャンプでもないしマガジンでもないのでサンデー的な人間であるのは自覚しているけど、絵柄というか線が好きになれるかどうかってことはあるから、好きな漫画家さんってのはどうしても多くはならない。
読むには読むけど好きではない線の作品は家には残さないから、一部の漫画家さんのものだけが残るってことになるけど、みんなそういうものなのだろうか。


宮嶋茂樹著『ウクライナ戦記 不肖・宮嶋 最後の戦場』をご恵投いただきました。送っていただいた目崎さんありがとうございました。
西島大介さんがベトナム戦争を描いた漫画『ディエンビエンフー』の中で主人公のヒカル・ミナミは米軍陸軍の報道部のカメラマンだった。作中で米軍の腕利きのスナイパー・インソムニアとヒカルの会話の中で「一流のカメラマンなら一流のスナイパーになれる」みたいなやりとりがあったのを覚えている。
一発の銃弾が戦況を変える、一枚の写真が時代を変える。そのためにはその時その場所にいなくてはいけない。それがもっとも大事なことで、ネットが繋がれば繋がるほどに、コロナパンデミックが終わらないことで、よりリアルの価値が高まっている。いや、再認識することになった。
カメラはどんどん小さく高性能になっていき、誰もがスマホで高画質の写真を撮れるようになって、プロではない人でもその場にいれば決定的な、衝撃的な写真や動画を撮れるようになった。そのことから始まることや変化の兆しはもちろんあるのはわかる。
だが、自己愛を増長させる鏡。セルフィーとしての現代の三種の神器であるスマホは自己愛を増長させ続ける。自分とその周りを撮ることで、他者と知らない世界との境界線を引いていく。
他者の物語よりも自分の物語に耽溺してしまう可能性が増えるし、「ひとりで死ね」のような言葉が平気で放たれる世界を助長することにもなっているのだろう。これらのイメージはJAZZ DOMMUNISTERSのリリック、菊地成孔さんの影響があるのだと思う。
もちろん、自己愛は悪いことではない。誰もがメディアになる時代は顔を出したり、表に出ることでファンを作るのがマイ市場を作ることになる。スマホが当たり前にあり、幼少期から撮られることが、自分で撮ることが当たり前の人の自己愛とそれ以前の人では感覚も違ってくるのは簡単にできる予想だ。
カメラが、写真や動画を撮るということ自体が暴力性を孕んでいるという認識があるか、ないかというのも個々人で違うのだろうけど、僕はそれを認識している人が撮るほうが届くように思えるし、信頼できると思っている。まだ読んでないから感想でもなんでもないことを書いてしまった。

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年8月23日号が配信されました。今月は廃刊になるのでその気持ちについて書きました。『owari no kisetsu』というタイトルはrei harakamiの曲から。今まで一番短いんじゃないかな。来月の最後の連載は最長にします。


8月25日

朝晩とまったく仕事を入れないようにしている木曜日。起きてから銀行に行って、その帰りに書店で石沢麻依著『月の三相』を購入した。
石沢さんは「群像新人文学賞」を受賞したデビュー作『貝に続く場所にて』で、そのまま芥川賞を取っているので、この『月の三相』は二作目になる。まず、装幀がとてもいいので気になっていた。単行本を買ってみるとやはり装幀は川名潤さんが手がけられていた。こういう装幀が増えるといいんだけどなあ、減っていってる気がなんとなくしている。


Pityman『ぞうをみにくる』をカフェムリウイにて鑑賞。
祖師ヶ谷大蔵はじめてきた。ウルトラマン商店街ってあるから円谷プロダクションがあるのね&木梨サイクルが近くにあった。とんねるずのノリさんの実家ってここなんだと思いながら、カフェに向かう。
知人の藤江くんが出演していたので観に来たが、ほぼ二人芝居だった。

動物園の待合室を舞台に、象の飼育員の幹介とその恋人・弥生の姿が描かれる。幹介は、象のハナコのために、弥生が住む場所から遠く離れた動物園で働いている。弥生はそんな幹介に「こんな動物園辞めて帰って来てほしい」と頼むが、幹介の態度は要領を得ず……。

という内容だが、弥生が感情豊かというかエキセントリックな感じがあり、多少メンヘラぽさもあり、なんか内容と関係とこで懐かしさを感じた。ゼロ年代には幾度となく見てきたキャラクターだが、この数年はあまり見ていなかったような。僕が見てなかったからキャラクターとしては定着してたのかな。
弥生が引っ張らないと話が動かないので、会話と行動で幹介を揺さぶらないといけない。二人がどんどん揺れていくと真実と揺るがないものが表出してくるという展開。
藤江くんは受け手なのだが、後半は感化されたように感情を出す役柄。
象がなにかのメタファーみたいな感じかな、と思ったらわりと実存としての存在として二人の関係性に影響を与えるものとしてあった。東日本大震災後の話でもあるから、少しだけ飴屋さんの『ブルーシート』のことを思い出した。
帰りは小田急豪徳寺まで戻って、世田谷線で帰ろうと思ったけど、豪徳寺から家までのんびり歩いて帰った。
地図アプリを見ながら夜とか馴染みのない町並みや道路を歩いていると不安ということはなく、どこか解放されたような気持ちになる。アプリで表示されている地図を見ているから家の方角はわかっているから安心感はあるし、何日もかかるような距離じゃないから散歩の延長線というところもある。夜の散歩のほうが家に帰った人たちの生活の営みが漏れ出している感じがするのもいい。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年09月号が公開されました。9月は『さかなのこ』『百花』『LAMB/ラム』『マイ・ブロークン・マリコ』を取り上げました。

 

8月26日

昨日、祖師ヶ谷大蔵に行くまでの電車の中で『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』の最初の一編であるマルケスの代表作でもある『大佐に手紙は来ない』を読んでいた。
何回か読んでいる作品だけど、老夫婦のやりとりと大佐が求めるものは失われてしまっていること、などもあるが、舞台になっている時代がコロンビアの「暴力の時代」と呼ばれた頃で、政治的混乱とテロリズムが横行していたというのは、今の日本にも通じているようにも思えた。あとマルケス版『ゴドーを待ちながら』の変奏曲みたいなとこもあるし、魅力的な短編だと改めて思った。
この文庫版は買ってから訳者あとがきだけを読んで放置していた。数年前に『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語 ガルシア=マルケス中短篇傑作選』という単行本が出ていて、その時に買って読んでいた。
この文庫版は改題されて収録されている『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』が表題から外されているので、あれ、別の短編集なのかなって思って買ったら、改題して文庫版あとがきだけが追加していただけだった。
海外の小説がこれだけ翻訳されて読める日本という国の豊かさであり、他国から見れば本当に贅沢なことだ。これからは日本という国の経済的な凋落とか貧しさとかなどの問題でどんどん新しく翻訳されることが難しくなってくるだろうなと思う(同時に翻訳された本を読む人も減ってくるだろうから)ので、興味ある作家のものは旧訳が好きなら新訳が出れば買っておかないといけないなとは思う。
これを読んだら、今連作っぽく書いている作品のひとつは元々出すつもりだった老夫婦をメインにして、このオマージュ的なことをしたくなった。ずっと届かないものを待っている老夫とそのことをあえて口にしない老婦のシーンを他のところの対比として出すのはいいのかもしれない。今の日本的な象徴として。

夕方に実家から送ってもらったお米が届いてから、駅前に買い物に出た。茶沢通り近くの駅に抜ける方の細い一通の道の方を歩いていたら、キャロットタワー方向から老夫婦らしき男女がゆっくりと歩いていた。おばあさんのほうはシルバーカーというのか、手押し車の持ち手を両手で掴んで体重を預けるような形でゆっくりと歩いていたが、途中で足腰が悪いのか崩れるように地面に倒れてしまった。
ちょうど横を通り過ぎるぐらいだったので、声をかけてなにか手伝おうとした。近くには二十代後半ぐらいの男性がいてその人も「大丈夫ですか」と声をかけてきた。おじいさんのほうは「しっかりしろ、立て」と腕を引っ張るようにして立ち上がらせようとしていたが、おばあさんのほうは疲れているのかシルバーカーにも手を伸ばさずにいた。倒れたままではなく少しだけ体を起こした形にはなったが、ひとりで立ち上がるのは難しそうだった。
二十代後半ぐらいの女性がキャロットタワーの方から歩いてきて、声をかけてきた。「どうしたんですか?」と聞かれたので、歩いていたら体勢を崩して転ぶ形になってしまったと伝えた。彼女はおばあさんに「大丈夫ですか」と声を優しくかけて、おじいさんにも「何か手伝いますか」と声をかけた。
おじいさんは腕を引っ張ってなんとか立たせようとするのだが、おばあさんはあまり力が入らないようだった。言葉もあまり出てこないから、痛いところがあるのかもわからなかった。倒れたところは車道の部分だったのが車は来ていなかったので、とにかく歩道のほうに動いてもらうほうが安全だという話になって、シルバーカーにはイスみたいに座れるところがあるので、そこになんとか座ってもらおうということになった。
おじいさんが言うにはおばあさんは痴呆症が始まっていて、あまりよくわかっていないらしい。そして、今日はキャロットタワーでのワクチン接種の四回目に行ってきた帰りのようだった。もしかするとワクチンを打った後だから力があまり入らないとかもあるのかもしれないが、実際はどうなのかわからない。そこから彼女がおばあさんの背中にまわって抱えるように立たせてあげて、僕はシルバーカーの向きを変えて、みんなでおばあさんをなんとかシルバーカーに座らすことができた。
おばあさんからは少しだけおしっこのような匂いがしたように感じた。さきほど痴呆症がひどくなっていて、寝たきりであまり歩いていなかったとも聞いたが、転けた時に漏らしているのかもしれない。だけど、そのことも伝えられないし、自分でもわかっていないのかもしれない。
おじいさんは僕らに「大丈夫だから行ってください」と言うのだが、どう考えてもそのまま放置しておくのは危ない。おじいさんはどうしようもなさとかおばあさんへのある種のいらだちみたいなものを出していたので、余計に離れにくかったということもある。
「いい加減に立ってくれよ、みんなが迷惑してるだろ」と少し声を荒げてまた腕を引っ張ろうとした時に、そこにいた僕ら三人はほぼ同時に「迷惑じゃないから大丈夫です」とそれぞれが言った。二十代の女性は「怒らないであげてください」と付け足していた。おそらくおじいさんにはこういうところを見られていることやこの状況が恥ずかしいという気持ちだったのだろう。それは無意識なのだろうが、僕らにもわかった。おじいさんは何度か困ったような顔でお礼を言った。もう大丈夫だからここで少し休んでから行きます、と。微妙に車道ではないが、車道寄りの歩道だったので、もう少し動いてもらったほうがいいのかもしれない位置だった。
老々介護というのは大変なことだし、特に上の世代の男性というのは家父長制にあぐらをかいてきたので、家事関係などを任せてきたのでできない人が多いし、こういうケアという時にはじめて体験することがあっても、そのことを相談する人がいなかったり、助けてもらえなかったりして、その困惑とか怒りみたいなものが介護する相手に出たりもすることがありそうだなと感じた。だから、あの時、見ず知らずの三人が「迷惑じゃないです」と言うのは世代的なものもあるだろうけど、そう言わないとこの状況は悪くなるということを無意識に感じたからということもあったと思う。
二十代の男性はスマホに電話がかかってきたのか少し離れたところにいった。女性もさきほどから何度かスマホの画面を見ていた。僕もこのまま駅前に行こうかと思ったが、このままで大丈夫かなと思っていると、彼女が「私時間あるので用事があるのなら行ってください」と僕に言い、老夫婦に「もしよかったらこのまま近いようでしたら一緒にお家まで行きましょうか」と言った。めちゃくちゃいい人だと思って、ちょっとびっくりしていると「彼氏も近くにいると思うので近いなら行きますよ」と付け加えた。
マスクはしているが確かに顔は整っているように見えるきれいな方だったが、その言葉を聞いて僕は二つのことを思った。マジでいい人だし、そりゃあ彼氏がいるわな、と。そして、彼女は無意識なのか意図的なのか去りにくそうにしている僕へ彼氏いるからというある種のガードをしたようにも見えた。たしかにずっといるとそれはそれで彼女へ迷惑なことになりかねない、そういう可能性もゼロではないと判断して駅前の方に向かった。

 

8月27日

イターシャ・L・ウォマック=著/押野素子=訳/大和田俊之=解説『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』

――映画『ブラック・パンサー』の公開は、アフロフューチャリズムにとって最大の出来事だったと思いますか?

「最大の出来事とは言わないまでも、転機になったとは思います。まるで宇宙に飛び出していくロケットのようでした。あの映画の成功のおかげで、ブラック・スペキュレイティヴ・フィクションやアフロフューチャリズムに関わってきた私たちのステージが上がり、そのおかげで会話がスムーズになったんです。テレビのプロデューサーや出版社と話す時、『ブラック・パンサー』のようなアフロフューチャー系の作品だと言えば、何の話か分かってもらえるようになりましたからね。数年前までは……いや、数年前ですらなかった。映画が公開される数週間前に、ある出版社の人間に連絡を取って、自分の作品を見せていました。『ブラック・パンサー』が公開された日、私のプロジェクトに興味はないという彼からのメールが届きました。ブラック・スペキュレイティヴ・フィクションのプロジェクトだったのですが、彼は私の作品にはオーディエンスがいないと思っていました。『ブラック・パンサー』の公開日にそんな返事が来るなんて、なんとも皮肉な話だと思いましたね。今はオーディエンスがいることを説明して、『ブラック・パンサー』を例に挙げれば、それだけで話が通じるようになりました」

「アフロフューチャリズムでは、世界は破滅に向かうのではなく、既に破滅した世界を再建していく話なので、そこには希望があるのでしょう。再建していくなかで紆余曲折はありますが。普通のSFとはそこが少し違うのではないかなと思います。コミュニティを大切にする点や、人間の精神のしなやかな強さにもインスピレーションを感じられるはずです。それから、アフロフューチャリズムに触れると、すべての文化が時間と空間との関係を持っていることを再認識させられます。あらゆる文化が、未来や時間という概念と関係を持っているのです。アフロフューチャリズムが人気を博した後、ほかの文化圏の人も、『ちょっと待て、我々も自分たちの文化的な観点からフューチャリズムを見ているぞ』と言い始めたのです。」(『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』著者インタヴューより)

『ブラック・パンサー』で主人公のティ・チャラ /ブラックパンサーを演じたチャドウィック・ボーズマンは残念ながら亡くなってしまったが、11月に続編の『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が公開されるのがすごくたのしみだし、王がいなくなった物語をどう展開してケリをつけるのか、もちろん王がいなくなれば、次の王が生まれて新しい物語が始まるのだろうけど、それをしっかり見届けたい。


ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』はMCUフェーズ4の最後の作品となるらしいが、アベンジャーズも含めて僕がずっと何年もMCU作品を観ていなかったのは、単純に「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」「ソー」というメインキャラのデザインがダサすぎて見たいと思えなかったことが大きい。
興味を持てたのはフェーズ2の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』からだったし、その後もシリーズでちゃんと見たのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と『スパイダーマン』という感じだった。その中でも『ブラックパンサー』はビジュアルも音楽も全部がおもしろく感じて次作をたのしみにしていたので、主人公が亡くなってしまった世界をどう描けるのか、描こうとしているのかが気になるし、現実で起きたアクシデントと悲しみをどうフェイクションの中で昇華できるか、希望に繋げることができるのかはすごく重要だと思うし、作り手たちの意思表示となる。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』はMCUフェーズ4の最後の作品となるらしいが、アベンジャーズも含めて僕がずっと何年もMCU作品を観ていなかったのは、単純に「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」「ソー」というメインキャラのデザインがダサすぎて見たいと思えなかったことが大きい。
興味を持てたのはフェーズ2の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』からだったし、その後もシリーズでちゃんと見たのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と『スパイダーマン』という感じだった。その中でも『ブラックパンサー』はビジュアルも音楽も全部がおもしろく感じて次作をたのしみにしていたので、主人公が亡くなってしまった世界をどう描けるのか、描こうとしているのかが気になるし、現実で起きたアクシデントと悲しみをどうフェイクションの中で昇華できるか、希望に繋げることができるのかはすごく重要だと思うし、作り手たちの意思表示となる。

結局MCUフェーズ3以降はディズニープラスでのみ見れるドラマシリーズも増え始めてきたので、追いかける気はなくなってしまった。映画館だけで完結させてほしいし、映画館で観たいという少数派だというのもわかっている。
だが、メディアミックスとシェアワールドをいろんな媒体に跨ってやるようになると、胃もたれするというか、それをKADOKAWAになる前の角川書店大塚英志×田島昭宇「MADARA」サーガで体験していたこともあって、お腹いっぱいってなるところもある。
結局、ビックリマンシールの後ろに書かれた物語の破片を集めるような、「物語消費論」から何十年も経っても、消費させるためにはそうなってしまうし、結局資本のデカいところに集中して、新興のところであろうがインディーズであろうが飲み込まれていく。いろいろ考えちゃうから純粋にたのしめないところがある。でも、売れなきゃ届かない人がいるし、場所がないと次のものも生まれない。自分の中では堂々巡りになる。

「アフロフューチャリズム」と呼ばれるものの中で、『ブラックパンサー』の衝撃というのは人種を超えて届いていたと思ったし、世界的に多くの人がイメージできるエポックなヒーローとしてブラックパンサーは認識された。そして、その舞台となったワカンダの自然と化学文明の奇跡的な融合はまさにSF的なユートピア的な未来予想図だったのだと思う。
『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』は単行本のデザインもいいなと思ったら、ブックデザインは加藤賢策さんだった。さすがだなって思って手に取った。

 

8月28日

ジョーダン・ピール監督『NOPE/ノープ』をシネクイントにて鑑賞。
この二日ほど『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』を読んでいたからSF的なものとホラー的なものと監督が撮り続けてきた黒人を主体(主人公に)にしたものとの融合をさらに楽しめたちと思う。

ゲット・アウト」「アス」で高い評価を受けるジョーダン・ピールの長編監督第3作。広大な田舎町の空に突如現れた不気味な飛行物体をめぐり、謎の解明のため動画撮影を試みる兄妹がたどる運命を描いた。
田舎町で広大な敷地の牧場を経営し、生計を立てているヘイウッド家。ある日、長男OJが家業をサボって町に繰り出す妹エメラルドにうんざりしていたところ、突然空から異物が降り注いでくる。その謎の現象が止んだかと思うと、直前まで会話していた父親が息絶えていた。長男は、父親の不可解な死の直前に、雲に覆われた巨大な飛行物体のようなものを目撃したことを妹に明かす。兄妹はその飛行物体の存在を収めた動画を撮影すればネットでバズるはずだと、飛行物体の撮影に挑むが、そんな彼らに想像を絶する事態が待ち受けていた。
ゲット・アウト」でもピール監督とタッグを組んだダニエル・カルーヤが兄OJ、「ハスラーズ」のキキ・パーマーが妹エメラルドを演じるほか、「ミナリ」のスティーブン・ユァンが共演。(映画.comより)

何度か笑っちゃったけど、「エヴァ」好きなら楽しめるんじゃないだろうか。監督自身が『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』からの影響を公言しているけど、UFO的な今作における謎の物体の最後の方に出てくる姿はもろに「エヴァ」の使徒だし、『シン・ウルトラマン』のゼットン的なものを感じさせる。
ネタバレしていても楽しめる作品だとは思うが、大画面で見る方が謎の物体と舞台になっている牧場の広さもよくわかるはず。しかし、あのキャラクターや行動がどういう意味を持っているのか、批評のしがいがありそうな内容だった。一回観ただけだとわからないことばかりだ。
UFO的な空飛ぶ何かが実は円盤とかのエイリアンが乗っている飛行物体と思わせてからの、実はひとつの巨大な生命体である種捕食者であるというのがジョーダン・ピエール的だった。
映画の最初の始まりの部分から始まるこの作品はその物体を撮影するためのチームのようなものが組まれるが、それは手元のスマフォばっかり見てるんじゃない、その先の空を見上げろって言っている感じもした。電子機器がその物体が近づくと停止してしまうから、カメラマンの一人は手動の手回しで起動するフィルムに撮影するカメラを持っている。デジタルとの対比でもあるが、同時にフィルムに撮影しているとデジタルと違って、他者に撮影しているものを同時には共有できない。そういう対比もしっかり描かれていた。
この作品は「見る/見られる」「撮る/撮られる」「ある者/ない者」なんかの要素がいくつかの層になっていた。そこに監督が描く差別とかの構造とSFでありホラーの要素を混ざり合うことでフィクションだけど、それ故に現代的な視線を担保できるリアリティがあった。でも、壮大なアイロニーを含んだコントにも見える。知性と批評性のある物語はどこかコント的なものになっていくという気がする。


クラファンで参加していたのでリターンとなっていた『igoku本』が届いた。『ゼロエフ』取材時にいわき市の紹介と案内をしてくださった小松理虔さんと江尻浩二郎さんがメンバーというので読んでみたかった一冊。しかし、分厚くていい。鈍器って感じがする本。

 

8月29日

宮崎智之著『モヤモヤの日々』が発売になっていたので購入。
宮崎くんの新著、最新型日記文学。連載中は書籍化したら読もうと思ってあえてリアルタイムで追いかけていなかった。このズレた時間も現在と重なる(つながる)ことでこれから読む際の豊穣さになるといいな。

物理学者でミュージシャンのステフォン・アレクサンダーは、ジャズ界のレジェンド、ジョン・コルトレーンの『Giant Steps』(一九六〇)が、アインシュタイン相対性理論を聴覚的・物理的に図式化したものであると、TEDトークで明かした。アレクサンダーはコルトレーンが描いた図を偶然発見し、それが量子重力論を幾何学的に描いたもので、曲中の音符やコードチェンジと一致していることに気づいた。この発見が口火を切り、音楽と量子物理学の類似性について研究が進み、アレクサンダー率いるチームは、西洋の音階がDNAの二重螺旋に似ていることを発見した。
『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』より

JOHN COLTRANE - GIANT STEPS (2020 REMASTER) [FULL ALBUM]



いくつかの小説が日本で映画化されたが、アメリカで公開されたものはない。彼の作品は、中国と韓国で翻訳されており、高い人気を誇っている。

伊坂の小説がまだ英語に翻訳されていなかった時点でも、彼の作品のなかにはアメリカ人に(というか少なくともハリウッドに)受ける要素がある、と日本の批評家たちは気づいていた。彼の小説のなかには、登場人物のしゃべり方が「まるでアメリカ映画の会話を日本語に移しただけのよう」なものがある、と批評家の佐々木敦は言う。

「日本人がハリウッド映画の吹替版を観ていると、会話が非常に不自然に感じてしまうことがあります。それを常に連想させるのが、伊坂の作品とその登場人物の会話なのです」

ハリウッド映画化で注目を集める伊坂幸太郎が「米紙に語ったこと」

伊坂幸太郎ファンだし、予告編を見ても面白そうな感じだし、『アトランタ』のペーパーボーイも出てるし、IMAXとかで観たい。
IMAXなら新宿か日比谷のTOHOシネマズで観る感じだろうな、公開初日は木曜日で休みだから朝イチで行きたいからチケットを取らねば。


ニコラでアルヴァーブレンドとガトーショコラをいただく。外に出て誰か話したり、一緒の時間を共有することはほんとに大切だと思う。必要な一服。

 

8月30日

朝起きてから歩いて渋谷PARCO内にありホワイトシネクイントへ。壁に飾られている公開作のポスター。
『アフター・ヤン』『LAMB ラム』『ZOLA ゾラ』は「A24」制作&関連作品であり、前から「A24」作品はホワイトシネクイントでやっていることが多い。前に観た『X』もそうだったりするので、僕がよく来る理由になっている。あと、ここにはないが、前年アメリカでは公開されている映画『グリーン・ナイト』はTOHOシネマズシャンテで公開らしい。ホワイトシネクイントでもやってほしいんだけど、どうだろう。


ジャニクザ・ブラヴォー監督『Zola ゾラ』 をホワイトシネクイントで鑑賞。
A24製作ということで気になっていた作品。ちょうど朝イチの10時から上映だったということもあり、観に来たのだがお客さんはさすがに五人ぐらいだった。

2015年にデトロイトの一般女性アザイア・“ゾラ”・キングがツイッターに投稿した計148のツイートと、その内容をもとにしたローリングストーン誌の記事を映画化したロードムービー

ウェイトレスでストリッパーのゾラは、勤務先のレストランにやって来た客ステファニと、ダンスという共通の話題を通して意気投合し、連絡先を交換する。翌日、ゾラはステファニから「ダンスで大金を稼ぐ旅に出よう」と誘われ、急な展開に戸惑いながらも一緒に行くことに。しかし、それは悪夢のような48時間の始まりだった。

ゾラを「マ・レイニーのブラックボトム」のテイラー・ペイジ、ステファニを「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のライリー・キーオが演じた。監督は、長編デビュー作「Lemon」がサンダンス映画祭で注目を集めた新鋭ジャニクサ・ブラボー。(映画.comより)

この映画を観ながら思い出したのは庵野秀明監督の実写映画『ラブ&ポップ』だった。
ステファニがダンスのあとはホテルに向かって、そこで売春サイトで客を取っており、ゾラ自身は体は売らない。今作においてゾラはダンサーであることをアイデンティティにしており、売春はしないということを守る。その反対にいるのがステファニと言えるのだろう。
ホテルに何人もの客がやってくる。彼らとステファニの絡みだけでなく、それぞれの男性が衣服を脱いでいくみたいな感じがなぜか『ラブ&ポップ』のホテルシーンに近いと思ったのかもしれない。昔の記憶なので全然違うかもしれないけど。
ラブ&ポップ』さとビッチな感じと水着とかセクサーを武器にしている女性ということでは同じくA24製作でハーモニー・コリン監督『スプリング・ブレイカーズ』もある。
途中でゾラ視点からステファニ視点になる時にはそれまでの話と逆のことが彼女の視線で語られるのだが、それは途中で終わってしまうため、真実なのか誰かの妄想なのかよくわからない。
ステファニをポン引きさせている黒人のXは悪いことしているわりには、極道すぎないし、ステファニは娘がいるという話が出てくるが、どうやって彼女を操って逆らわないようにしているのかは描かれていない。別にドラッグとかで漬けにしているわけでもないから、長年の関係性でステファニは逆らうという選択肢がないっていうことなんだろうか。

ステファニを演じているライリー・キーオは『アンダー・ザ・シルバーレイク』で急に消えてしまう女性を演じていたが、この映画のサイトの紹介を見ているとエルヴィス・プレスリーの孫娘らしい。そうか、そのことをすっかり失念していた。なにかでそういう人がいると聞いたか見ているのに彼女だと思わなかったのか、顔と名前が一致していなかったのか。そう考えるとプレスリーの孫娘が『アンダー・ザ・シルバーレイク』でLAにおける都市伝説に出ていることの意味はもっと大きなものだったのだろうなって今更思った。

映画としては大事なことがなにかわからないまま進んでいる感じで、ゾラにも感情移入はできなかったし、彼女にとっては悪夢な48時間だろうけど、ちょっとしたエロスはあるけど、SNSと今を映し出した青春映画という感じにしたいみたいだけど、ツイートを元にしているだけで映画の中ではその感じは薄い。
冒頭とかは二人ともひたすらスマホを触っているけど、後半に向かっていくとそれどころではなく、連絡用としてだけスマホがなっていた気がする。バイオレンスはあるけど、思いのほか激しくもないし多くもないし、R18なのは男性器が出るからなんだろうな、性行為シーンはかなり抑えて撮ってあるし、今を舞台にしたちょっと危ない稼業の人たちを描いたピンク映画っぽい映画かなあ。


田島昭宇 色紙本『SHO-U TAJIMA SHIKISHI WORKS』が届いた。
『MADARA』シリーズだけではなく、『BASARA』の伐叉羅(ダークサイドの影王の転生後の話とか大好物です)たちのカラーも見れるし、あと「おじ恋ナース」ってバリエーションも多くてなんかたのしい。

午前中に映画を観てから、早いところでは明日発売だが大塚さんの小説『北神伝綺』が出ているかなと渋谷の書店を数軒回ったが出ていなかった。ジュンク堂書店渋谷店に向かう際に東急百貨店前の交差点で井上順さんがお店の方から歩いてきたので、ついガン見してしたら目が合ってしまった。
メフィスト賞」用に書いていた作品に井上順さんご本人を出そうと思っていて、井上さんは「渋谷の生き証人」ということもあるし、赤坂と青山という「政」と「芸」の中心部だった場所を出したいと思っていた。そこでミュージシャンであり俳優であるという実在のエンターテナーを作品に出すとどうだろうと思っていて、何度か渋谷でお見かけする井上さんっていい意味でトリックスターみたいな感じにならないかなって。あと誕生日が父とまったく同じであるというのもなんだかよかった。
だけど、思いのほか「メルマ旬報」廃刊というのはダメージというか、やる気が起きなかったし書き進めなかった。八月中は喪に服したということにした。これはただの言い訳だ。結局、今後のスケジュールを再設定した。
目の合った井上順さんは当然なのだが、ちゃんと見ればおじいさんであり、戦後すぐ生まれの父とほとんど同じ時間を生きているのだなと感じた。もちろん、エンターテナーであり人前に出続けているからこその若さはある。それは見られるということでしか得られない老化を阻止する魔法だ。だから、その年にしては若々しいし、おしゃれだった。

帰りに代官山蔦屋書店に寄ったけどやっぱりなくて、三茶の駅前の銀行でもろもろ振り込みをしてご飯の食材を買って家に帰る途中で、大倉孝二さんとすれ違った。心の中でいつも「『ピンポン』のアクマだ」と思っている自分がいる。家に着いてからNIKEのランアプリを見たら15キロ歩いていた。歩きすぎた。

ご飯を作って食べてから作業をしてから夕方ウトウトしていた。休みだったから、目が覚めたら積読の本を読もうと思ったがスマホを触って、ジュンク堂書店の在庫を見たら『北神伝綺』が在庫ありになっていた。明日発売だから、もう明日でいいやとは思ったのだが、明日は朝晩とリモートで仕事だしなあと思って、家を出ようとすると雨が降っていた。さきほど洗濯したばかりのTシャツはずぶ濡れになっていたので、諦めてもう一度洗濯機に入れた。
Tシャツでは少し肌寒い。雨に濡れても帰ってから湯船に浸かればいいやと思った。気温も下がっていたが、そこまで湿度は高くなくて雨がちょっと気持ちいい。
緑道を歩いていると数メートル先に、左目の片隅のほうになにかが飛んでいるのを捉えた。わりとデカい物体。数歩近づくと黒っぽい茶色がかったヒキガエルが緑道を横切ろうとジャンプをしていた。大きさはたぶん手のひらに乗せたらちょうど乗るぐらいのデカさでそこそこ大きかった。雨がうれしいのか元気に飛んでいた。普段からよく歩く緑道だが、こんな大きなヒキガエルはどこに潜んでいるのだろうなと思いながら、246に出てそのまま道玄坂方面を上った。

行って帰るその間はずっとradikoで『Creepy Nutsオールナイトニッポン』を聴いていた。DJ松永は体調不調でお休みで、ゲストのSKY-HIとR-指定の二人のトークだったがとてもよかった。
アイドル(AAA)をしながらも早稲田に入って、ライムスターの宇多丸さんたちを輩出したサークル「GALAXY」(ジェーン・スーさんもいて、宇多丸さんの後輩。それもあって、『タマフル』にスーさんが出て話せる人だってTBSラジオもわかって、今の位置になったんじゃないかな、でも、きっかけはその先輩後輩関係だったはず)にも所属していたSKY-HIとR-指定のトークはラッパーとして知り合ってから長いこともあって、ヒッポホップ黎明期からいたライムスターたちに憧れてラップを始めた世代としての共通の話もあるし、フリースタイルの話だったりとか、SKY-HIと名付けられた話なんかもあって、松永いなかったから素直に二人が語っている感じもした。

店に着いた時には東急百貨店は閉まっていて、書店は営業しているのでエレベーターのある入り口の方だけ開放されていた。エレベーターに乗ると東急百貨店の屋上のビアガーデンが8月31日までと書かれたお知らせが壁に貼られていた。
来年2023年の1月末で東急百貨店本店は営業が終了し、春から解体されて2027年をめどに再開発が始まる。つまり現状の東急百貨店での屋上でのビアガーデンは明日までとなる。夏の終わりと共にその歴史は終焉する。
そんなことを一度も屋上のビアガーデンには行かなかったと思いながら書店のある階について、すぐに『北神伝綺』を見つけて購入して、五分も経たないうちにエレベーターで地上に戻る。雨の中、R-指定とSKY-HIのトークを聞きながら円山町の坂を上って、246沿いを三茶方面に向かっていくと反対方向から燃え殻さんが歩いてきたんだけど、雨だし相手が気づいてないのに声をかけないほうがいいかって思って素通りした。

家に帰ってみたら6キロちょっと歩いていたから一日で20キロ以上歩いていて、さすがにこれは歩きすぎだ。
湯船を溜める時間であとがきを読む。基本的にはあとがきとか解説から読んでしまう。もちろん、そこに本書を読んでからとかネタバレがあります、とあればそこで一旦止める。
単行本で買って読んでいた作品を文庫版で買うのは、著者へのお布施というか応援しているよという意味合いが強いので、あとがきか解説から読むことになる。
最近は文庫版からという書籍もあるけど、単行本から文庫版になるのであれば、どちらも買う読者へのサービスとしてあとがきか解説は欲しいけど、ないものも最近増えてきたような気が。そうでもないか、どうだろう。
作家の乙一さんもあとがき大好きで、あとがきだけ集めた本が欲しいということを前に言っていたような気がするのだが、大塚さんの小説とかのあとがきを読むのも好きで、民俗学系のことは問題ないのだけど、たいてい続編とかの話とかあっても書かないしいろんなことへの文句とかを正直に書いていて、そういうのは結構好きだ。

  どこかで書いたがぼくの民俗学上の師である千葉徳爾は、柳田國男の直接の弟子だが、生前ぼくに「民俗学とは偽史なのだ」と不意に語ったことがある。それは二つの意味があって、一つは、民俗学という言説は、人が、自分が帰順したい甘美な歴史をいささかロマン主義につくり出す脆さがあり、その点で偽史の魅惑に近いゆえ、扱いに注意だということ。そしてもう一つ、事実として、戦時下、偽史作家の一部が柳田國男に接近していたことの意味への注意だ。戦時下、柳田の周辺には左翼からの転向者が集まったことも千葉は指摘していたが、「炭燃日記」という戦時下の日記には「偽史」関係者の名が散見する。
大塚英志著『北神伝綺』あとがきより

今回のあとがきの千葉徳爾氏の「民俗学とは偽史なのだ」というのは何度か読んでいることだし、大塚さんにとってその言葉が影響しているのだろうと思う。それは「偽史三部作」とかにも顕著だったなと読者としては思う。
1995年に漫画として始まった『北神伝綺』(柳田國男)、『木島日記』(折口信夫)、『八雲百怪』(小泉八雲)という三部作ではそれぞれ()に入る民俗学者狂言回し的なポジションで、主人公となる架空のキャラクターとバディを組むというスタイルになっていた。僕がリアルタイムで読み出したのは『木島日記』だったから1999年ごろからだろうか、都市伝説や偽史というものがエンタメとして機能していたし、楽しめていた。その後、偽史をマジで正史と自分達の思想のために入れ替えようとする連中が跋扈してくる時代となっていった。
民俗学という言説は、人が、自分が帰順したい甘美な歴史をいささかロマン主義につくり出す脆さがあり、その点で偽史の魅惑に近いゆえ、扱いに注意だ」というのはまさにこの20年ぐらいで僕らが見てきたこの日本が陥った、今現在も続く光景であるから、かつて何気なく楽しんでいたこのフィクションである「偽史三部作」シリーズ自体が嫌なリアリティを持つ現在に僕たちがいるとも思う。

 

8月31日
起きてから朝の仕事を始めてすぐに「SNKRS」のナイキ×sacaiコラボのコルテッツの抽選に申し込んだが、やっぱり落ちた。今履いているスニーカーは底がかなりすり減っているのでそろそろ新しいものが買いたいのだけど、これだ!と思うものがずっとないまま数ヶ月過ぎている。
その間はただソールがどんどんすり減っていっている状態になっている。そのせいで雨の日はタイル系の地面を歩いていると滑りやすいし、東京百貨店とかに入るとタイルの床の上を歩いているとキュキュと大きな音がしてしまって少し恥ずかしい。9月中に欲しい形のスニーカーが見つかるといいのだけど。

朝晩とリモートワークの日だった。週に一回のオンラインミーティングがあったので同僚のスタッフと週次報告がてら話す。人と話す機会がリモートになってからどうしても減っているので定期的なミーティングはいろいろと助かっている。
8月31日というとまさに夏の終わりという感じがするけど、外で働いている人からすればまだまだ夏だろう。昔ガソリンスタンドでバイトしている頃は10月ぐらいにならないと暑さからは解放されなかった記憶がある。これから台風とかが来て、一気に気温が下がったりしながら秋があっという間に消えてすぐに冬になるんだろうなって思うけど、今年はどういう感じになるのだろう。
8月という時期が終わるとやっぱり心寂しい感じもしてしまう。夏休みの終わりというイメージは学校にいかなくなってもそれが強く残っているのはよく考えると不思議なことだ。そして、タイミング的な問題としては明日の9月からは意識や気持ちを切り替えるにはちょうどいい。

 

9月1日
雨音で聞こえて、ゆるりと意識が戻るように目が覚める。窓の外から聞こえる雨音はかなり大粒だとわかるような音だった。目覚めはいいのですぐに起き上がり、窓を開けると昨日夕方に洗濯して干していたTシャツがずぶ濡れになっていたので、ハンガーから外して玄関をあけて洗濯機に放り込んだ。
傘を持って7時すぎには家を出る。とりあえず、雨の中を渋谷まで歩いて、道玄坂の地下道から副都心線に乗って新宿三丁目駅まで乗る。そこから歌舞伎町にあるTOHO
シネマズ新宿まで歩く。雨は止んでいて傘が邪魔になった。


伊坂幸太郎さんの殺し屋シリーズと呼ばれる小説の二作目にあたる『マリアビートル』をハリウッドで映像化した『ブレット・トレイン』。
木曜日は休みだし、1日は「映画の日」ということでお得に観れるし、公開初日というタイミングだった。予告編を何度か見ていたが大画面で観たいなと思っていたのでIMAXがある新宿にした。TOHOシネマズ日比谷でもよかったのだが、この次に観る映画の上映スケジュールも兼ねてこちらにした。

作家・伊坂幸太郎による「殺し屋シリーズ」の第2作「マリアビートル」を、「デッドプール2」のデビッド・リーチ監督がブラッド・ピット主演でハリウッド映画化したクライムアクション。

いつも事件に巻き込まれてしまう世界一運の悪い殺し屋レディバグ。そんな彼が請けた新たなミッションは、東京発の超高速列車でブリーフケースを盗んで次の駅で降りるという簡単な仕事のはずだった。盗みは成功したものの、身に覚えのない9人の殺し屋たちに列車内で次々と命を狙われ、降りるタイミングを完全に見失ってしまう。列車はレディバグを乗せたまま、世界最大の犯罪組織のボス、ホワイト・デスが待ち受ける終着点・京都へ向かって加速していく。

共演に「オーシャンズ8」のサンドラ・ブロック、「キック・アス」シリーズのアーロン・テイラー=ジョンソン、「ラスト サムライ」の真田広之ら豪華キャストが集結。(映画.comより)

デッドプール』を手がけているデヴィッド・リーチ監督によるアクション映画であり、一番の売りはやはり主演がブラッド・ピットということだろう。
舞台は原作通り日本ということになっているが、殺し屋たちがバトルをすることになる新幹線(映画では高速列車ということものになっている)をリアルではなく、日本と聞いてかつてイメージしたようなものをあえて取り込んでファンタジーとして描いている。そのことでポップさが際立っているし、日本のようで日本ではないという不思議な世界観になっていた。

個人的にはドラマ『アトランタ』に出演していたブライアン・タイリー・ヘンリーとザジー・ビーツが出ている (『ジョーカー』にも二人は出ていたけど)のもよかった。ブライアン・タイリー・ヘンリー演じる双子の殺し屋のひとりである「レモン」とその相棒であるアーロン・テイラー=ジョンソン演じる「タンジェリン」のバディコンビがすごくよかった。
一応出てくる人物たちは基本的には殺し屋なのだが、このバディコンビのやりとりやコンビ感は非常によくて、原作同様にレモンは機関車トーマスオタクというか、なんでもトーマスにかけて話をするという役どころ。このコンビだけの物語でも充分たのしめるし、見てみたいなと思えるものだった。

ブラピ演じるレディバグ(天道虫)の意味、彼は悪運にずっと見守られているようなイメージだが、実はそのことで生きながられてきた人物でもあり、この作品において「運」というものは大事なファクターとして機能しているし、何よりも因果応報というものがテーマというか軸にある。
新幹線らしき列車の中であんだけ暴れたりしたら、無理だろうとかツッコミどころはたくさんあるが、そういうマトモなことは考えないでただ日本ぽい世界を舞台にしたハリウッドのどっ直球のエンタメだと思えば素直に観れると思う。

伊坂幸太郎作品を読んでないほうがより素直に楽しめそうな気はするが、バカバカしくて(褒めてます)なんにも考えなくていいアクションエンタメ作品。大画面で観てよかったなと思った。でも、最初にIMAXの大画面で『ブラック・パンサー/ワカンダ・フォーエバー』の予告編を観た時にちょっと感動して泣いてしまった。


『ブレット・トレイン』を観てから次の映画まで一時間以上空いていたので、TOHOシネマズ新宿からすぐのところにある「いわもとQ」へ行って早めの昼食にする。いつもはもりそばと鶏天丼にするのだが、お米をそんなに食べないようにしようと思ってもりそばと天ぷらセットにした。
天ぷらはエビとイカとオクラとカボチャとかき揚げだった。かき揚げはあんまり好きじゃないけど、他のものは全部美味しかった。
最近は家でもカップ麺やコンビニのもりそばを買って食べるようになってきたが、それまでそばは新宿で映画観た流れでここで食べる以外そばは食べなかった。やっぱりここのそばは改めて美味しいんだなって思った。ほとんど外食しないけど、新宿に来たら「いわもとQ」につい寄ってしまう。


「いわもとQ」をあとにして改装した紀伊国屋書店で時間を潰す。新刊系とかも最近出た書籍で欲しいものは買っているので、買いたいというものはなかった。それから時間が近づいてきたのでテアトル新宿に向かう。
映画の日であり、観たいと思っていた作品がこの日から公開だったので『ブレット・トレイン』からの沖田修一監督『さかなのこ』という流れになった。
一日で観れる映画は二本が限界かな、どちらもシリアスなものではないから観れるということもあるだろうけど、シリアスなものだったら二本目にしないとたぶん胃もたれ的に辛いと思う。

『さかなのこ』はさかなクンの自伝を元に、「さかなクン」的な主人公のミー坊をのん(能年玲奈)が演じていることも話題になっているが、まず素晴らしいキャスティングというか、脇役の役者さんたちもよかったし、なにより微笑ましい内容だった。
沖田監督の前作である映画『子供はわかってあげない』が僕にはイマイチに思えたのは、原作の漫画がよすぎるのもあったが、作品における大事な部分などを端折ったことで内容がチグハグになってしまい、うまく感情移入ができなくなったからだと思っていた。

魚類に関する豊富な知識でタレントや学者としても活躍するさかなクンの半生を、沖田修一監督がのんを主演に迎えて映画化。「横道世之介」でも組んだ沖田監督と前田司郎がともに脚本を手がけ、さかなクンの自叙伝「さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生!」をもとに、フィクションを織り交ぜながらユーモアたっぷりに描く。

小学生のミー坊は魚が大好きで、寝ても覚めても魚のことばかり考えている。父親は周囲の子どもとは少し違うことを心配するが、母親はそんなミー坊を温かく見守り、背中を押し続けた。高校生になっても魚に夢中なミー坊は、町の不良たちとも何故か仲が良い。やがてひとり暮らしを始めたミー坊は、多くの出会いや再会を経験しながら、ミー坊だけが進むことのできる道へ飛び込んでいく。

幼なじみの不良ヒヨを柳楽優弥、ひょんなことからミー坊と一緒に暮らすシングルマザーのモモコを夏帆、ある出来事からミー坊との絆を深める不良の総長を磯村勇斗が演じる。原作者のさかなクンも出演。(映画.comより)

のんが男性であるさかなクン的な存在であるミー坊を演じることでこの作品にはある種のノンバイナリー的な要素があった。また、ご本人でもあるさかなクン自体も「ギョギョおじさん」として出演していることで半自伝であるものの、本物が作り物であるフィクションに登場することで現実が侵入している形になっていた。そういう部分だけでもいろいろと多層的な構造になってしまっているが、観る分にはなんら支障はない。そんなことを考えながら観るのは構造とかをすぐに考えてしまう僕のような一部の人ぐらいだろう。構造とか気になる人もそこも含めて充分に楽しめるはずだ。

ミー坊の母は魚が好きすぎる我が子を何が何でも肯定し続ける。しっかりとは描かれていないがそのことで家族は分裂か別居する形になっている。もしかすると撮影したり、脚本にあったのかもしれないが、カットしているのだと思われる。
さかなクンの実父はプロ棋士だと聞いている。現実はどうなのかは知らないけど、映画ではミー坊が高校を出てからは父と兄、母とミー坊という風に家族は別れて住んでいた。そのことからも間違いなくミー坊は母性によって完全に全肯定されて庇護されている存在だった。
「海」≒「母性」でもあるからミー坊には海にまつわるものから祝福されているともいえるのだろう。冒頭近くの小学生時代に海に行ったシーンにおける巨大なタコの行く末が父性の冷酷さと暴力性を図らずとも描いてしまっているのも印象的であり、母との対比になっている。この辺りは脚本の前田司郎さんらしさなのかもしれない。

夏帆好きとしてやさぐれ感のある女性を演じる夏帆さんもよいのだが、ミー坊の同級生である夏帆演じるモモコは現実にはいない存在であり、映画としてオリジナルな人をあえて配置したことで揺らいでしまってる(揺さぶろうとしている)ところがある。
「男でも女でもどうでもいいじゃないですか」と最初にテロップを出し、女性であるのんがほぼさかなクンである人物を演じているのに、モモコが一時ミー坊のアパートに転がり込んでくることで、ある種テンプレ的な男女感や家族感みたいなことをミー坊に考えさせている場面がある。沖田監督や前田さんはあきらかにそこでこの映画に意図的にノイズを発生させている。このノイズがノンバイナリーと謳う上で非常に重要なものであり、あの違和感こそが今の時代の多様性への変動への賛意のように僕には感じられた。


新宿から帰ってきてニコラで「ウサギのラグー、南瓜とさつまいものフジッリ『乙女ごはん』風」とワインをいただく。
9月になったし月初めのぜいたくをしようと思っていたので、昼に天ぷらを食べたけど、夜もぜいたくをした。今月でメルマ旬報も終わるし、スケジュールも新しく9月から組み直したので美味しいものを食べてテンションをあげようと思っていたのもある。テンションあげないとやってられないし、9月というのは区切りがちょうどいい。今年もあと四ヶ月、三分の一だ。
ちなみにこのメニューは三階のトワイライライトでの展示とのコラボメニューなので、この時期だけだし、今までニコラでもウサギの料理は出たことがなかったはずだ。
今回はじめてウサギを食べたと思う。いわゆるジビエではなく養殖の、人が育てたウサギのようで獣感はほとんどなかった。鶏肉に近いみたいで、料理に使っている部分も太もものレッグのところだと教えてもらった。骨ごと煮込むといい出汁が出るとのことだった。
ウサギと一緒に入っている南瓜とさつまいもの甘さがあって、料理に合わせてもらった白ワインは少し塩味があったからどちらもたいへん美味しかった。
基本的に木曜日は働かないことにしているので、めいいっぱい休みを楽しんだ。観た映画二本ともおもしろかったしご飯は美味しかった。一気に年末まで進むだろうから四ヶ月はスケジュールをしっかりこなす。
しかし、昨日と今日と合わせて30キロ以上歩いていたせいか足が痛かったので帰ってからのんびり湯船に浸かった。

 

9月2日
ラフカディオ・ハーン著/円城塔訳『怪談』

装幀のデザインもしっかり怪談的な雰囲気もあるが、円城塔さんがラフカディオ・ハーン小泉八雲)を訳すというアイデアというか企画自体が素晴らしいと思うし、その組み合わせは読みたい。
小泉八雲自体は近代日本にやってきた異邦人であり、彼が聞いて書き残したことはおそらく現在で言うところの「ナラティブ」にも通じているのだと思う。円城さんの直訳ということでどう「怪談」が変わるのかもたのしみ。ちょうど大塚英志さんの「偽史三部作」シリーズの20年ぶりに書籍化された『北神伝綺』の小説を読んでいたりするので個人的にはタイムリー。
三部作は『北神伝綺』では柳田國男、『木島日記』では折口信夫、『八雲百怪』では小泉八雲、この三人とももらい子幻想であったり、実母はほかにいるとかを「ここではない母なる国や場所」を追い求めていたように描かれていた。彼らの思想がどう近代化する日本に影響を与えたのか、あるいは近代化する上でかつてあったものを切り離していったのか、みたいなことに大塚さんは興味があったのだろう。そういう部分はどこかロマンティックというかセンチメンタルさも感じるところもある。
近代化した際に現れた「私」という概念、柳田國男が詩(文学)を捨てて官僚になったこと、彼の友人であった田山花袋自然主義作品である『蒲団』を発表したことで私小説が生まれたことなんかをずっと描いているのは、現在に繋がる近代化の始まりになにか起きたのか、「私」なんて結局キャラクターなんだよって所から始めないと、自分と社会の距離や向き合い方がわからないっていうことなんだとは思うようになった。
大塚さんに今度インタビューができるときがあれば、そういうことを改めて聞いてみたいし、聞けるように自分の考えを構築させていかないといけない。

↑旧版から誤植以外は変更ないみたい、でも装丁は気になる。刊行時のインタビュー はこちら。
『木島日記』復活!『木島日記もどき開口』は柳田國男vs.折口信夫の「仕分け」バトルです
【前編】


【後編】


古谷一行さん亡くなられてたのか。僕らの世代からすればDragon AshのKjこと降谷建志の父であり、金田一なんかを演じていた有名な役者さんというイメージ。
祖父・父・息子(降谷凪)のスリーショットをKjがインスタにあげていた。息子くんは岩井俊二監督『ラストレター』に出演していたし、父よりも祖父みたいに役者のほうに行くのかもしれないな。

 

9月3日

 学ぶとは、死ぬことだぞ。彼は授業の初め、またざわついた教室を鎮めるようにそんな話をした。人間はいかに生きるかを学ぶために、いかに死ぬかを学ばなければならない。死とは、私たちを待つ最後の出来事というだけではない。自分の特権や偏見と向きあい、それらを捨てるとき、私たちはよりよく生きることができる。それが深い学びというものだ。ウェストがよく口にした言葉だった。
榎本空著『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』P49-50より



3年ぶりの快快の新作『コーリングユー』を神奈川芸術劇場にて鑑賞。友人の田畑ちゃんも誘っての観劇、彼とはコロナ前に同じくここでロロ「いつ高」シリーズを観ていた。
今回の『コーリングユー』は快快の師匠というか学生時代の恩師である詩人である鈴木志郎康さんの詩と向き合って、作り上げた作品。

詩(死)というものに身体性を与えると生(声)が浮き上がってくる。演劇とパフォーマンスのMIX的な境界線付近を漂うな、そんな場所にいるのが快快だと思っていた。それは今作にも引き継がれているが、かつて全開だったポップさとカラフルさは彼らの年齢や人生経験とも繋がっているのか潜めている。もちろん、肉体としても二十代のようなものと三十代後半では違う。違うからこそ向き合えるものがあるし、失ったものと得たものがある。
二十代の終わり頃から快快の舞台を観にいくようになったから十数年間観ていることもあって、その連続性にあるものがシャドウとしてもこの舞台に重なっているような、層を作っているみたい感じた。

鈴木志郎康さんの詩と何度も繰り返される叫び声である「キャー!」という声。
舞台に設置された電話ボックスの中に入り、三人がそれぞれに師である鈴木志郎康さんへ語りかける言葉。彼は痴呆症になっていて、いろんなことを忘れていっている。
かつて自分の内部から外部から生み出した詩のことも彼らのことも世界のことも、失っているのか、どうなのか。どこかにはかつての記憶はあるのだろうか、あってもそれを接続するなにかのパーツが壊れてしまう、損なわれてしまっているのだろうか。過去と現在が結びつかなくなっているのかもしれない。

舞台が終わってから田畑ちゃんと夕方からビアガーデンというわりには地方の寂れた海沿いにあるダメな飲食店のようなビルの四階部分にある屋上で飲む。
土曜日の十七時前にはいつも実家に電話しているから、途中失礼して電話をする。祖母と毎週数分話す。101歳の彼女は毎回同じことを僕にいう。もう長生きしてしまった彼女はいろんなことを忘れている。実家で一緒に過ごしている家族からすれば、かつてあんなにも怖かった祖母が痴呆症でいろんなことを忘れ、できなくなっているのを見続けている。
僕は数年に一度しか帰省しないが、毎週電話をして声だけは聞いている。互いに声を聞いているが、祖母は僕の言っていることが理解できているのかはわからない。ただ、声を聞かせることで安心してもらう、という儀式になっている。

演者である三人が鈴木志郎康さんへ電話する時にそのことを思い浮かべたわけではないが、その感覚には見覚えがあった。
少し前にあった知り合いの女性も祖母が痴呆症になって、私のことが誰なのかわかっていない。だから、祖母は忘れていくならできるだけ会いに行って私が覚えていてあげようと言っていた。そうだよねって思う。そして、そう言った彼女も僕も舞台の三人もやがて覚えていたことを忘れていってしまうか、思い出せなくなってしまう日がくる。それが繰り返されていく。だけども、そういう気持ちや思いや記憶はどこかに残っていると思う。ただ、僕らがたどり着けないような場所や空間にあるのだと思う、思いたい。

「キャー」という叫び声が何度もしつように繰り返される。その叫び声は叫んだ人間の現在地として刻まれる。そして、私はここにいますよという自己表現であり、自己認識であり、他者への呼びかけになっている。
切実さでもあり愉快犯でもあり、誰かに届く叫び声は私ではない他者がいるという希望のようである。

「笑う」こととは、かつて狩猟時代の原始人たちが集団で狩りをしている時期に発生したというのを何か読んだことがある。
当時の狩りはまさに命懸けであり、食うか食われるかでしかない。追い詰めた獣をしっかり仕留めれば集団に肉を持ち帰ることができるが、一歩間違えれば獣のひとつきで殺されてしまうかもしれない。
たとえば、原始人と獣が一人と一匹で向き合った時、人が恐れを出した瞬間に勝負は決まる。恐れから叫びが出てしまうと獣が勝つ、獣に殺されるという勝敗が決まってしまう。だから、人は恐怖に打ち勝つために叫びを打ち消すように笑うようになったらしい。笑うこととは死への反逆であり、恐怖を押しつぶすことだった。叫びが転じて笑いになった。笑うことは生への執着である。叫びはその前段階であるとも言えるのかもしれない。

詩とは人間の内部(内面)にあったものが噴き出すようなものだと思う。例えば血がそうであるように、生きているうちには内部から外部へ噴き出すことはない、大量に噴き出せば死んでしまう。
詩とは人間の内側にあるもの(思考やいろんなもの)がまるで血飛沫のように噴き出して、外部を染めるものだと僕は考えている。その血飛沫を浴びてわかる人となんにも感じない人がいる。

鈴木志郎康さんの詩と三人の出演者の動きと身体性(休憩という名の時間ではラーメンやソフトクリームやほうじ茶をそれぞれが食べて飲んでいた。口から発せられる詩の朗読やセリフ、そして叫びは口から出るものであるから、口に入れるものとして、生きるためのエネルギーとして食すというシーンは今考えるとすごく意味があったんだなと思った。口になにかを入れるということは実はとてもセクシャルなものである。)。
わたしはどこのわたしですか?という問い。あなたはどこにいますか?わたしはここにいますよという叫び。
観ている時はうまく咀嚼できなかったことがこうやって書いてみると少しは理解できるような気がする。ここから違う形の快快のやりかたも広がっていくような気もする。

僕が最初に観に行ったのは『My name is I LOVE YOU』だった。その時はゼロ年代の終わりで観た時にポップさとカラフルさにワクワクした。それで十年代はポップでカラフルな散弾銃で世界が色づけばいいなって思っていた。
ゼロ年代はモラトリアムな時期を過ごせたが、世界がいい方向に進んでいるとは思えなかったから、だからという希望があった。
快快の演劇とパフォーマンス的な世界になったらいいなと、あの頃の僕は願っていた。残念ながら、十年代はゼロ年代よりもさらに悲惨な時代になってしまった。カラフルとは真逆な白か黒という敵か味方かという風に世界はどんどん断絶し細分化していった。
だからこそ、もっと最悪なことが起こりそうな20年代に少しでもポップでカラフルさが花開いてほしい、それはわかりやすく言えば多様性であり、個々人それぞれが自分の意思で考えてものを言って、場の空気を汲まないでいい状況だ。そうなってほしいと言い続けるしかないと思う。

田畑ちゃんとビアガーデン風なところで飲んだ後にもう一件行って、たくさん飲んで話して酔っ払う。電車に乗って中目黒駅までを目指すが、途中の車内で吐きかけるがマスクをしていてセーフ。口の中いっぱいにゲロをあるがなんとか吐かないで耐える。マスクしてなかったら口元からゲロがはみ出していたのが見えていたかもしれない。中目黒駅で降りてトイレに行ってすぐに吐いた。そこから歩いて帰るのは諦めて駅前でタクって家に着いてからもう一度トイレで吐いて、すぐに気を失うように寝落ちした。

 

9月4日

 現代社会では、感動はもはや「商品」でしかないようにも見える。しかし、あとで自分が恥ずかしくなるほどに爆発する激情は、はたして「商品」として意図的に製造しうるものなのだろうか。その後長い間受け継がれていくような「激情のほとばしり」は、人間のコントロールを超えた所にしか生じない。2021年には1年遅れでオリンピックが開催され「感動」の2文字がメディアに溢れた。スポーツの感動は、おそらくその勝ち負けが人間の意図的なコントロールの外側にはみ出すところに生まれるのだろう。本物の「感動」は人為の及ばぬところにしか生じないのではないか。自分が「2番目以降のロウソク」である場合も、1本目が巧まずして燃えているのでなければ、その火は燃え移ったりしない。人間は「感動しようとして感動する」ことはできないのだ。しかし、「他者を感動させよう」とする人々はいる。表現者がそれである。
石井ゆかり著『星占い的思考』P68-69より

先日買った石井ゆかり著『星占い的思考』を読み始めた。占いはわりと好きだし、十二星座それぞれの性格とかが書かれているので、キャラクターを作る時に参考にできそう。元々作品を書く時にはイメージキャストというか実際に役者さんなどの画像をキャラ表に貼って、そこにプロフィールを書いている。その際に生年月日とかも書くのでその時に星座の特徴を入れ込んだらいいなって。もちろん、その通りにしなくてもいいし、あえて反対の性格にとか特徴にしてみるというのもおもしろいと思う。
映画『ブレット・トレイン』のレモンは『機関車トーマス』のキャラクターの特徴を会った人物とかにあてはめて話をしていた。星座好きでやりとりをする相手の生年月日を聞いてその人物に星座からの特徴を当てはめて会話するみたいなこともできるだろうな。興味もあるけど勉強的な意味も込めてたのしい読書。

 

9月5日
朝晩と家でリモートワーク。途中友人から手違えでかかってしまった電話に出て少し話をする。ちょっとブレイクタイム的な感じになった。
休憩中に前に購入していた宮崎智之著『モヤモヤの日々』を読み始める。日記文学というのが合っているのか、20年12月から21年11月という一年近くの日々のことが彼の視点でユーモアもありつつ、時に軽やかに物事について考察しつつ日常の豊かさを感じさせてくれる。

 

9月6日
【速報】五輪汚職事件で特捜部が組織委元理事の高橋治之容疑者を再逮捕 出版大手「KADOKAWA」ルートで(なぜか記事がNot Foundになってた)

角川書店についての大塚さんの新書が出た時のインタビュー。角川四代として角川源義、春樹、歴彦、川上量生についての話。このタイミングで読んでもらうのがいい気がする。全部で四回。
大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(1/4)

大塚 本に書いていることを繰り返すことになるかもしれないけど、君が驚いたっていう田河水泡は高見沢路直っていう村山知義たちと一緒に「大正期新興美術運動」=「大正アヴァンギャルド」で活躍した前衛美術家だったわけだよね。
 よく言う例えだけど身体中を白く塗ってパンツ一枚でわけのわかんない踊りをするっていうのがアートなんだよっていうのを最初にやった人たちなんだよ。美術館に石を置いて逃げてくることが芸術なんだよっていうさ。

---- トイレを置いているだけでも芸術だっていうようなことの始まりのようなものですね。

大塚 うん、戦後の1960年代ぐらいだったら今再評価されている赤瀬川原平たちがやっていたハプニングアートみたいなものはとうにやっていたし、ましてや今の現代アートのレベルは彼らが二十歳そこそこでやんちゃな時代に殆ど、やっちゃってることなんだよね。
 問題は大正アヴァンギャルドっていうものが短期的な若気の至りだったということになっていて、それがそのあとソビエトの方針が変わってプロレタリア芸術の方にみんな行っちゃうんだけど、実際は大衆レベルでアヴァンギャルドの「その感じ」ってのは生き延びていったわけです。
 大正アヴァンギャルドのメンバーだった高見沢路直が構成主義とか機械芸術論とかのちに呼ばれるもの、そういう考え方というものとアメリカから入ってきた大量消費大量生産である機械芸術であるディズニーと統合して『のらくろ』というまんがを描いた。それは田河水泡個人だけではなく昭和5、6年ぐらいから10年間ぐらい日本のまんがの中にディズニーというものを大正アヴァンギャルドの枠組で再構築していくという巨大なうねりのようなものが起きていって、外見的に見るとミッキーマウスのパチモンが大量に登場されてくるってことになる。

---- 「ミッキーの書式」と大塚さんが言われるようなものを内側に組み込んでいくことで日本の漫画のキャラクターの原型になったので、「鳥獣戯画」から派生したものではないということですね。

大塚 言わば「鳥獣戯画」が持っていた書式は大正アヴァンギャルドによって切断されてしまったので、「鳥獣戯画」の書式の延長に今のまんがはないっていうことです。

---- 田河水泡が『のらくろ』を描きますが、のらくろって軍人なんですよね?

大塚 そうだよ、最初は捨て犬でハチワレの足が4本白いっていう不吉なワンちゃんだったんだけど陸軍の駐屯地で拾われるんだよ。

---- 最初から二足歩行ですか?

大塚 最初は四足歩行だった。でも、だんだんとディズニー化していって二足歩行になっていく。

---- のらくろはディズニー化していき、なおかつ軍人化していったことで生身と内面を持つことになりました。

大塚 そう成長しちゃうんだよね。軍人になって階級が上がっていくから結果として成長せざるをえなくなる。そういうことが宿命なのと戦時下のまんがなので最初は犬と猿の軍隊で戦うっていうレベルだったんだけど、昭和12年の日中戦争が始まった時点でリアルな戦場の中国大陸に舞台が移していく。中国とは描いていないけどどう見ても中国大陸でさ、そういう意味でもまんがが現実に合流してしまう。

---- 嫌でものらくろは生身の肉体になっていってしまいました。

大塚 そうディズニーが出会わなかったリアルというものにのらくろは身体のレベルでも、世界観のレベルでも出会わないといけなくなってしまう。

---- そのことが日本のまんがの始まりにまずあるわけですね。

大塚 結果としてのらくろはミッキーみたいな身体だったら普通は高いところから落ちても死なないのに、のらくろは戦場で負傷して単行本一巻分負傷しているという展開になっていったり、挙げ句「思うところがあって」陸軍を去っていったりとかね。

---- すごい内面が出てきてますよね。

大塚 歴史や身体みたいなものを意識した瞬間にそこには個人が出来上がるから、のらくろは個としてのキャラクターを描くみたいな。そこに初めて成功したってことなんだよね。

大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(3/4)

↑1回目から最後の4回目までを久しぶりに読み返したら3回目で田河水泡について聞いていて、僕が田河水泡と「のらくろ」に興味を持ったのは大塚さんへのインタビューとその時の新刊の書籍がきっかけだったんだなと思い出した。

起きてから散歩がてら渋谷方面まで歩く。思ったよりも暑くて少し前までの秋っぽさの訪れはどこか違う方向に向かった感じだった。台風が来ているわりには気温は高かったので歩いているとかなり汗をかいた。
ちょっと気になっていた嵐山光三郎著『桃仙人 小説フ深沢七郎』という中公文庫を書店で探したがなかった。石井ゆかりさんのエッセイでこの作品について触れていたので興味を持ったのだが、深沢七郎作品は数冊見かけたがこちらがなかったのが残念。著者名で並ぶから関連書籍という感じで一緒には置かないものだけど、深沢七郎作品があるから一緒じゃなくても在庫があったらなとつい思ってしまう。そんなに売れるタイプの作品じゃないし、文庫版が出たのも約十年前だからなくて当然ではあるのだけど。

 

9月7日

一年ぶりの健康診断。親会社が変わったこともあって毎年行っていた北参道のクリニックではなく、同じく副都心線東新宿駅を降りてすぐの新宿健診プラザというところへ。
9時半からになっていたが、受付は9時10分から9時50分の間となっていた。初めて行く場所には余裕を持って早く到着するようにしているので8時50分には着いてしまった。
玄関を入ったところで早めに着いたと言おうと思ったら、記入した書類を出してくださいと言われて出したら、問題なかったらしく書類にあるバーコードを機械に通してから6階にエレベーターで向かった。そこで番号札を渡されて天井からぶらさがっているモニターに自分の札の番号が呼び出されるのを10分ちょっと待った。
呼ばれたカウンターで本日の健康診断で受けるものや料金(会社払い)とかのことを確認してから、すぐ前の更衣室で着替えて記入したものを入れたファイルを持って5階へ。そこでUの字を書くように身体測定から診断が始まった。
最初のところでファイルは渡しており、ひとつずつが終わると担当してくれたスタッフさんが次の診断のところに持っていってくれる。僕も少しずつ移動して、肩につけている番号(2206)呼ばれるたびに視力や血圧や採血、視力や眼圧などをしていった。身長が173.9cmと出たのを見た。体重と身長を一緒に計れるものだったが、この場合は174cmと言ってもいいのだろうか。
お腹にゼリー塗って見るエコー検査もなんか不思議な気持ちになったが、やっぱり年に一回のバリウム検査はなれないもので、毎回なんとかゲップをしないように耐えている。そして、右に二回転してくださいとかあの時になんだか複雑な、圧倒的な敗北感があるのは僕だけなのだろうか。
とりあえず、二時間も経たないで最後のバリウム検査まで終わった。もらった下剤はすぐに飲んだが、今までのところのように食事はついていないみたいでお食事券みたいなものをもらった。東新宿駅に向かわず少し歩いて新宿三丁目駅直結している紀伊国屋書店に寄って帰ろうと思ったが、わりとすぐに腹が下ってきたのでピカデリー新宿に駆け込んだ。紀伊國屋に寄ってから電車に乗って渋谷まで帰り、そこからは歩いて帰ろうと思った時にTwitterで文芸誌「群像」発売日だと見たので、ジュンク堂書店渋谷店に寄ろうと思った。地上に出てわりとすぐの東急百貨店が見えた頃にまた腹が痛くなったので耐えて書店が入っている階のトイレにまた駆け込んだ。新宿も渋谷も書店で位置や場所を把握していて、ある程度はどこのトイレが使えるかというのはわかっているから、焦らなくて済んでいるという部分もある。
「群像」を買ってから家に向かって歩いていると小雨が降っていた。台風の影響なんだろう。しかし、あまり強い雨ではなく日差しはあまりないものの、暑さはあってTシャツはかなり汗で濡れた。

 

9月8日

「群像」10月号掲載の古川日出男連載『の、すべて』9話を仕事の休憩中に読んだ。
語り部である河原とZOOMで話すある人物との会話の中で「死刑」とその制度についての話が出てくる。もちろん、これはオウムの死刑囚たち(からの『曼陀羅華X』)を連想させる。そして、河原が今回ZOOMで話を聞いていた彼や彼女が語る大澤光延(この作品における中心人物であり、都知事になっていた男)、はまるで空虚な中心のようにも見えてくる。
そう考えればある種「日本の、すべて」へ繋がるだろうし、古川さんはそのニュアンスも入れているのかもしれない。河原が話を聞いている光延と関係のある彼や彼女たちとのやりとりから、彼をあぶりだすかのように。


仕事を早上がりしてから恵比寿まで歩いていく。前に来たのはチェルミコのライブだったリキッドルームへ。LOSALIOS / ZAZEN BOYS LOSALIOS Presents “TWO TRIBES”という対バンライブを観に来た。
ZAZEN BOYSは向井さんがギターのエフェクトを多用していたり、カシオメンのギターのリズムがいつもと違うようなフレーズもあったりと、次のフェイズに入ったのかなと思ったけどやっぱりカッコいい。演奏が終わるたびにLOSALIOSのファンらしき人たちが「すげえ」って何回も言っていたのが印象的だったし、ファンとしては誇らしかった。
LOSALIOSはドラムが中村達也さんなんだけど、僕は初めて中村さんのドラムを生で体験することになったのだけども、そのプレイスタイルは速くて重い、なんというか鬼神みたいだなって思えた。手数もすごいし、なんというか豪快さがあるけどご本人はどこかチャーミングっていうのもファンが多いのもよくわかる感じ。ほかの三人もすごいプレイヤーだから、もうゴリゴリな時はこれができるのは俺たちしかいないだろって感じがする、ああ、カッコいいなってシビれた。
どちらもリズムが変態的で技巧が卓越していて、女性がベースっていうのが共通はしていた。こういうのを聴いていたら普通のバンドのサウンドを聴いてもいいとは思ってもあまり惹かれなくなってしまうのは仕方ないっちゃ仕方ない。ボーダーの向こう側だから。来月のZAZEN BOYSのワンマンがもっとたのしみになった。

 

9月9日

水道橋博士のメルマ旬報』の副編集長でもある原さんこと原カントくんさんがパーソナリティを務める「渋谷のラジオ」の番組「渋谷のほんだな」に出演。曲以外の話をしている箇所はリンクのnoteに音源がアップされています。
原さんと二人で話をしたはたぶんこれが二回目、一回目は博士さんが休養を発表した日に連絡して赤坂で話したことがあるぐらいだと思う。メルマ旬報のことや本の紹介をしたんけど、やっぱり話をしててもうまくまとめれてなかった気はするけど、お時間あればどうぞ。
この番組を九年とか毎週やってたり、他の媒体とかで司会とかもろもろやってる原さんの経験値がハンパないなあと改めて思った。

紹介した本はこちら、
古川日出男著『ゼロエフ』(講談社


大塚英志著『北神伝綺』(星海社


浅野いにお著『零落』(小学館


リクエストした曲はこちら、
JAZZ DOMMUNISTERS - あたらしい悲しいお知らせ(Feat. I.C.I & OMSB)



踊ってばかりの国 - ニーチェ


ASIAN KUNG-FU GENERATION - 海岸通り



選んでいたけど時間の問題で流せなかった曲、
The Ravens -「白鯨」 




夕方にニコラで和梨マスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。やっぱり梨は美味しい。柑橘類も好きだけど、果物だとやっぱり梨が一番好きかもしれない。

 

9月10日

「渋谷のほんだな」に出演した後にちょうど発売だったので買った『深解釈オールナイトニッポン 10人の放送作家から読み解くラジオの今』を読み始めたら日付が変わって深夜に読み終わった。
コロナパンデミックになってから、リモートワークで家にいるのでradikoで普段聴かない深夜ラジオを仕事中に聴くようになった、というわりとよくいるタイプで、JUNKとオールナイトニッポンを習慣的に聴くようになったのがこの2年ぐらいの変化なのかもしれない。そのおかげで、ここで登場している放送作家さんたちがやっている番組も聴いているので親近感はあったし、話も全部ではないがわかった。
放送作家も師弟関係というわけではないけど、先輩後輩という関係性もわかるような構成になっていた。ナイナイの二人が最後にインタビューに答えているというのもオールナイトニッポンっていうブランドをずっとナイナイが担ってきているという証なんだろう。
でも、よくよく考えるとラジオ番組で初回から最終回まで全部聴いたことあるのってTBSラジオ菊地成孔の粋な夜電波』だけしかないし、擬似ラジオ『大恐慌へのラジオデイズ』も今まで全部聴いているから、一番好きなラジオパーソナリティーって菊地さんだな、僕は。


7時前に起きて8時20分上映の川村元気監督『百花』を観るためにTOHOシネマズ渋谷まで歩いていく。気温はそれほど高くないので歩くのにはちょうどいい感じだった。さすがにちょっと秋っぽい風になってきている。
原作は文庫を買ったけど読んでなかったが、映画として素晴らしい作品になっていた。
若年性アルツハイマー病を患い、記憶を亡くしていく母ともうすぐ子供が生まれ父になる息子の話。母の百合子役を原田美枝子さんが演じているから、息子じゃなくて娘にして原田さんの実の娘である石橋静河がやったらフィクションとノンフィクションが混ざり合うからおもしろいかなあと観ながら思ったけど、やはり母と息子だからこその関係性とその記憶と忘却についてなんだなあと思った。原作と脚本と監督を川村元気さんがやっているわけだから、男性、息子から見えた母というのをやりたかったのかな。インタビューとか読んだり見たりしていないのから実際のところはわからないのだが。

認知症になっている母が同じことを繰り返すという描写が何度かあり、記憶の迷路というか日常が少しホラーというかファンタジーのようになっていた。そして、予告編でも出てくる崩壊した街を歩いているかつての母というシーンがあって、「月刊予告編妄想かわら版」でも書いたのだが、阪神・淡路大震災というのは当たっていた。主人公の泉が小学生時代に母が男と駆け落ちのような形になっていて一年ほど居なくなっているのだが、やはり年齢的に考えて阪神・淡路大震災に遭遇したという過去が描かれていた。
駆け落ちした相手がどうなったのかを映画では描いていないが、あえてということなんだろう。そういう省略がうまくて余計なことは説明していないのもよかった。小説だと書いているかもしれないけど映像にするときにカットしてるのかな、たぶん。そのおかげで余韻が残るのがとても映像的にもいい表現になっていた。

菅田将暉はもう作品で外すことがなくなってきていて、やっぱり神がかってきていると感じる。彼の時代だというのは間違いがない。僕らの頃だと窪塚洋介安藤政信に憧れみたいな感じがあったけど、彼らが出ているからと観に行った映画はわりと外してることがあったから。
ポプラ社で自身の映画のノベライズというか小説にして書いていた西川美和監督を引っ張ってきて小説を発売してそれが映画化され、幻冬舎パピルスの編集長が移籍したことでそこに登場していたアーティストたちも一緒に移動してきたような形で岩井俊二監督も小説を書いて映画化していく流れがあった。映画プロデューサーである川村元気さんも自身の小説を発表し発売するようになり、その小説が映画化していったがそれが今回は川村さん自身が監督をやり映画化になっている。そういう流れを考えると『百花』はひとつの到達点かもしれない。原作を持っているとこが強いっていう当たり前のことなんだけど。

菊池寛が一般の人にむけてやろうとした教養をメディアミックスでさらに押し広げたのが角川春樹だった。「メディアミックスしかない」出版社が角川書店でありKADOKAWAになって、いろんなほころびが東京五輪のきな臭さと共に露呈してきているのもなんだか時代の流れを感じなくもない。
良くも悪くも一族経営な出版社というのと一族経営だったところがどんどん合併して統合していったところの違いが出ている気もする。メディアミックスを主体にしていくとそれ自身がプラットフォームとなって工学化していくから、数の論理で動くとそういうことが起きやすいのかもしれない。このさきKADOKAWAは中国とかの会社に買収とかされて、いろんな作品の権利とかまんま持っていかれるだろうなって何年も前に話したことがあるのを思い出した。行き過ぎないメディアミックスをしながら出版をしていくしかないのかなあ、インディーズではなく大手が続けるには。
作中に出てきたKOEっていうAIアーティストがエンディング曲を歌ってたけど、あれ岩井監督のリリイ・シュシュのオマージュだよね? 違うかな、川村元気作品って映像化したらたいてい岩井俊二監督を感じさせるものがある。

コンビニに行って買い物して歩き出したら、背中側の方で爆発音みたいなのがして、歩いている人がそっちを見ていたけど光とは見えず。そのまま歩き出すと連続で鳴っていたから花火なんだって思ったけど、この時期って花火やるんだっけと何度か振り返ったがその姿は見えず。
家に帰ってから調べたら神宮球場で野球の試合で上げたらしい。神宮の花火ならちょっと上の階とかに住んでいたり高いところにいたら見えただろうな。

数日前に書肆侃侃房が刊行している文芸誌「ことばと」の新人賞である「ことばと新人賞」の発表があった。前に二度ほど二次通過や最終に残ったことがあるので期待していたが、最終にすら残っていなかった。本が出たときに一次通過や二次通過した人の名前も載るのだろうが、そこには残っていたいがどうだろう。残っていたところで意味はないかもしれないが。
夜にNHKの「WDRプロジェクト」の結果のメールが届いた。2025件の応募で一次通過は42名であり、僕は残れなかった。応募したのが田川水泡についてのものだった。
のらくろ」という田川水泡に生み出されたキャラクターが生みの親を語る、その「のらくろ」を語り部に配して漫画家・田河水泡になるまでの高見澤仲太郎の生涯を物語るという風な構造の小説にしよう。「WDRプロジェクト」に送ったシナリオをベースにしながら「群像新人文学賞」に応募できる小説に書き上げたい。と思ったらWEB応募だと一ヶ月しかなかった。プリントアウトなら10月末までなのでどっちにしろ時間はないんだけど、これは「群像」だと思う。

 

9月11日
今日はもともと東京に上京したときに最初にバイトをしたゲーセンの友達と一緒にスカイツリーに行こうという約束をしていた。昨夜に友人の息子くんがちょっと喉に違和感があるという連絡があった。息子くんもスカイツリーに来る予定だったのでこんな時期だし大事を取って延期にした。
朝起きてから予定がなくなったのでうたた寝を何度かした。夢を見たはずだが、こうやって文章を書こうと思うとすっかりと忘れている。有名人が出てきたような気がするのだけど、誰だったんだろう。
11時前にさすがに起きてから、散歩がてら駅前にご飯を買いに出た。本屋も見たが欲しいものはなかったけど、3階のバブリックシアターで観劇しにきた人が開場前なのかたくさんいた。先週始まった舞台『阿修羅のごとく』を観に来ているのかなって思ったけど、それはキャロットタワーを出て世田谷線の改札前を過ぎたところにあるシアタートラムでやっているから別の舞台みたいだった。『阿修羅のごとく』のチケットは先行や一般でも取れなくて、でも配信では観ようと思わないから当日券が出るみたいなので、朝イチの当日券整理番号をゲットする電話をかけてみようかなと思っている。

松本人志が爆笑・太田光にM―1審査員オファー 「認めてるんだなぁ」の声 

テレビがないので実際の場面を見ていないけど、お笑い好きな人は太田さんが「M-1グランプリ」の審査員をしてくれたらって思うところはあるだろう。同時にこの松本さんからのオファーをウェブニュースで見たときには、太田さんが審査員したらいろんなことが終わるなって感じた。
IPPONグランプリにしろ、ドキュメンタルにしろ、松本人志ゲームマスターとして頂点に君臨するものはいくつかある。「M-1グランプリ」は紳助さんがその位置にいたけど、今は彼に憧れて漫才師になった松本さんがその座にいるし、実際に顔になっている。キングオブコントもそうなっているが。
ゲームマスターにはそのゲームの参加者たちは勝てない。審査員も同様のことが起きる。
太田さんはずっと漫才をしてきた芸人であるが、審査員をすればそのゲームの参加者のひとりとなるから、松本さんには絶対に勝てない、というか軍門に下るに近い形になる可能性がある。
クレバーな太田光代社長は審査員をしないようにさせるとは思うのだけど、今回公の場でしかもカットできない生放送で松本さんが言った一言はどちらにしろ松本さんに有利に働く。
太田さんが断っても仕方ないなって思うけど審査員やってほしかったな、という声、太田なに断ってんだよ、松本さんは昔のことを水に流そうとしているぞ、という声。太田さんが引き受けても断っても松本さんはひとつも損をしない。
もし、松本さんが何気ないリップサービスとして言ったとしても、いろんな思惑があって言ったとしても、それを実際にやってしまえる影響力と勘所の押さえどころもお笑い能力並に高いというのが松本人志のすごさだなと思う。おそらく彼の築いた帝国を倒せたり、覆せるのはどう考えても松本人志やテレビに影響を受けなかった世代になるんだろう。
だが、太田さんにツイッターなどのSNSで誹謗中傷などが出ているので、法的に対応するという話が出ていたから、それを封じる意味で審査員をやるというのはゼロではないかもしれない。

radikoで『吉田拓郎オールナイトニッポンGOLD』を聴いていたらゲストの菅田将暉さんが映画『百花』の話の流れから、彼の祖母がある時期から彼を芸名の「将暉」と呼び出しはじめ(祖母の周りの人も菅田将暉というから)、でも昔からの本名である「大将」(本名は菅生大将)とも呼んでいるという話があった。菅田さんから見えるとどうやら祖母の中では「菅田将暉」「菅生大将」というふたりの人物が別々に存在している。しかし、彼の身体はひとつである。だが、祖母にはふたりの人物に見えている、あるいは認識されている。
芸名(ペンネーム)があると本名との乖離が生まれてくるとはいう。ペルソナが入れ替わったりする。横山やすしが本名の木村雄二ではなく、日常でも横山やすしとして振る舞うようになっていったという話を聞いたこともある。彼は芸人・横山やすしとして死んだというわけだが、相方の西川きよしは本名の潔をひらがなに読みやすくしただけだから、狂わなかったというのをなにかで読んだ気がする。
だけど、横山やすしと向き合って本名のままで仮面をかぶらずに生き抜いた西川きよしという人の方が本当の意味では狂っていると思う。本当の変態は普通の格好をしているというのに近いというか。という風に芸名と本名がある人の話とかは聞いたりするわけだが、当の本人ではなく、その親族がこの場合は孫だが、ふたつの人格として受け取ってしまうというのははじめて聞いたような。聞いたことないだけで、わりと著名人で芸名使っている人の家族や親族ではそういうことって起こっているのかな。

 

9月12日

昼の休憩中に書店に寄って古谷田奈月著『無限の玄/風下の朱』文庫版を購入した。
単行本発売時にB&Bで古谷田さんと仲俣暁生さんのトークイベントに行った。しかし、その後に舞台『刀剣乱舞』などの演出を手掛ける劇作家の末満健一さんのインタビューがあって、中目黒のワタナベエンターテインメントまで行かないといけなかったので後半戦は見れなかった。帰る前に仲俣さんに単行本をお渡しして、古谷田さんにサインをもらっていただけませんかとお願いをした。後日、仲俣さんとお茶をする際にサインしてもらった単行本を返してもらったという想い出がある。だから、今回の解説を仲俣さんが書かれていると聞いたので文庫版も購入した。
収録されている『無限の玄』は三島由紀夫賞を受賞し、『風下の朱』は芥川龍之介賞候補になっていた。個人的にはこの『無限の玄/風下の朱』のあとに刊行された『神前酔狂宴』のほうがシンクロする部分が多かったし、内容的にも三島賞っぽいのはそちらだなと思った。『無限の玄/風下の朱』から家や家族や国や国家へと広げていったのが『神前酔狂宴』だった。
脚本家を目指しているフリーターが明治神宮側の式場バイトをしているという話なのだが、そこで起きる茶番劇は神話を現代風にしたようなものだった。明治神宮という場所、ある種の天皇小説さもありながらも、結婚と家族と金と愛というものから平成の日本を浮かび上がらせていた。しかも笑えるというものだったという記憶がある。
古谷田さんはおそらく同学年であり、ゼロ年代以降に上京した80年以降生まれの人間が体験できたモラトリアムの様子を嘘くさくなく描いていた。団塊ジュニアよりも下で、ゆとりよりも上で、ロスジェネの最後尾にいた宙ぶらりんな世代の空気というのは間違いなくあって、山上徹也の安倍晋三銃撃事件以降そのことを考えている。
『無限の玄/風下の朱』を文庫版で読み返したら、新刊『フィールダー』を読もうかな。

前日、ツイッターで書肆侃侃房のアカウントで短歌ムック「ねむらない樹」vol.10の読者投稿欄の募集を見かけた。テーマは「電」もしくは自由だった。とりあえず、思い浮かんだものを一回三首まで応募できるようなのでサイトの応募フォームから三首作って送ってみた。

 

9月13日

深田晃司監督『LOVE LIFE』をTOHOシネマズシャンテにて鑑賞。ル・シネマでも上映しているのだが、14時以降とかしかないので、久しぶりにシャンテへ。
10時台の回だったが十人以上はお客さんがいた。わりと年代はバラけていたし男女差も半々ぐらいか。

「淵に立つ」でカンヌ国際映画祭ある視点部門の審査員賞を受賞するなど、国際的に高い評価を得ている深田晃司監督が、木村文乃を主演に迎えて描く人間ドラマ。ミュージシャンの矢野顕子が1991年に発表したアルバム「LOVE LIFE」に収録された同名楽曲をモチーフに、「愛」と「人生」に向き合う夫婦の物語を描いた。

再婚した夫・二郎と愛する息子の敬太と、日々の小さな問題を抱えながらも、かけがえのない時間を過ごしていた妙子。しかし、再婚して1年が経とうとしたある日、夫婦は悲しい出来事に襲われる。そして、悲しみに沈む妙子の前に、失踪した前の夫であり敬太の父親でもあるパクが戻ってくる。再会を機に、ろう者であるパクの身の回りの世話をするようになる妙子。一方の二郎も、以前つきあっていた女性の山崎と会っていた。悲しみの先で妙子は、ある選択をする。

幸せを手にしたはずが、突然の悲しい出来事によって本当の気持ちや人生の選択に揺れる妙子を、木村が体現。夫の二郎役に永山絢斗、元夫のパク役にろう者の俳優で手話表現モデルとしても活躍する砂田アトム。第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

という話であり、「月刊予告編妄想かわら版」09月号の最初の原稿では、

『淵に立つ』『よこがお』で海外での評価も高い深田晃司監督。彼が矢野顕子の曲『LOVE LIFE』を何度も聴いて、思い浮かんだシナリオを20年後に映像化した『LOVE LIFE』。妙子(木村文乃)は二郎(永山絢斗)と再婚し幸せな日々を送っていた。そんな中、子供の父親である失踪していた元夫のパク・シンジ(砂田アトム)が彼女たちの前に現れる。
 パクは韓国籍でろう者であったため、妙子が身の回りの世話をするようになっていく。「私はあなたを許さない」「わかってる」というやりとりも元夫婦の手話でから見ることができます。
 ここからは妄想です。妙子とパクの元夫婦の楽しそうな雰囲気を遠くから見ている二郎。しかし、彼には「奥さんの人生も二郎さんの人生もめちゃくちゃになってしまえばいいって」と山崎という浮気相手がいるのも予告編で見ることができます。
 妙子と二郎が誰を選ぶのかという話にもなりそうですが、予告編には葬式でパクが妙子を平手打ちする場面もあります。もしかすると、二人の子供が亡くなるのかもしれません。そのことで妙子は二郎と別れ、パクとも縁を切る。妙子は二人と離れて誰も知らない場所で新しい人生のスタートを切る、彼女のなりの新しい「LOVE LIFE」を探そうとするそんなラストかもしれません。

という妄想をしていた。提出後に画像を使用許可をBOOKSTANDのスタッフさんが宣伝会社に聞いたところ、

作品紹介に関して一点縛りがございまして、
本作がヴェネチア国際映画祭コンペティション部門に
選出されております。

映画祭側からのお達しとして、
映画祭上映日の9/6より前にSNSなどで試写の感想が
出回らないように、とのルールが設けられています。

同じく、ライターのみなさまの主観が入ったり、
具体的なシーンに言及したりするレビューが
9/6より前に掲載されることもNGとされています。
宣伝部としてはとても苦しいのですが…。
あくまでプレス資料の内容に沿ったものであれば大丈夫です。

と言われたと連絡があった。正直めんどくさっと思った。そんなルールがあることをはじめて知ったけど、そうすると予告編を観て妄想するのは不可能だ。予告編だけだがそこでわかる内容や具体的なシーンからどうなるかを考えるから、あたりさわりのないことしか書けない。
予告編でもあれ出てるやんって思ったし文章を直すのはなんか嫌だったので、同日公開の『百花』に変えた。そっちのほうが時間も労力もかかるけれど、ヴェネチア国際映画祭のお達しなんか僕には関係がないことだから。
僕の妄想ラストとかまったく合っていないわけですが、観てる時に感じたのは『百花』と通じている部分があるということ、そして、「アフター・『ドライブ・マイ・カー』」という要素がかなりあるなというものだった。

今作では妙子はある人物から周りからは忘れろと言われるだろうが、生きるために忘れるな、と言われる場面がある。『百花』は記憶を失っていく母と過ごすうちに息子が忘れていたことを思い出すシーンがある。両作品に出ている人物が割と主要人物に近い場所にいるのもある。対のようでありながら、二作品はかなり通じている気がする。血の繋がりと家族の話としても近いテーマを扱っている。
『ドライブ・マイ・カー』と『LOVE LIFE』は韓国と韓国手話、そしてそれぞれに出てくる夫婦が失ったものなどかなり重なるところがある。前者は役者と脚本家という庶民とは言えない生活をしている人たちだが、後者は福祉課で働いていて団地住まいという一般的な人たちでその部分はかなり対比的ではある。

語り=ナラティブという言葉をよく聞くようになってからか、同時多発的に「手話」を創作作品で見る頻度が増えてきた。もちろん、口を使った話すということだけではなく、手を使って話すということもナラティブであり、それは映像的には映えるものでもある。
今年の一月に観た『コーダ あいのうた』も主人公以外の家族は聾者であり、家族の会話は手話だった。それよりも前に小説だが、『曼陀羅華X』においてある教団の教祖の息子をさらった老作家がその子を自分の子として育て始めたが、教祖同様に息子も聾者であったため、老作家は手話を覚えて息子との会話は手話でやりとりをするようになっていた。2019年の連載最初で読んだ時にちょっとした違和感のようなものを感じた。古川さんはあえてここで手話を使うという設定にしている、あるいは登場人物がそう欲したことでそうなっていた。それはナラティブということとたぶん繋がっているのだろうと思った。

映画『ドライブ・マイ・カー』の韓国手話は一部では違うとかデタラメという声もあるようだが、手話がわからない人にとってはそのやりとりを見ると自分だけ阻害されたような、気になる。その手の動きは秘密のやりとりのようであり、自分には理解ができない。だが、それは耳が聞こえない人たちが普段から感じていることでもある。そういう反転が起きることで始めて、立場が変わって普段は気づかないことに気づく。そういう意味でも手話というものが描かれることは必要だと思う。そこにはその視線というものへの配慮というか、自分がどう考えるか捉えるかがより大事なことになっている。

『LOVE LIFE』は妙子が再婚した夫の二郎の父と母との関係性も重要だった。義父が二人の結婚に賛成をしていないこともあり、序盤に怒りというか溜まっていたものを吐き出すシーンがある。それは「中古」というワードがきっかけになる。
義父の妙子への気持ちはや発言は現在ではダメなことなのだが、かつて当たり前だった家族像の価値観で生きてきたおじさんらしさでもある。そのあとに義母が妙子に謝りながらも言ったたった一言がいちばん残酷であり、彼らの世代が悪気ないし、その鈍感さが克明に描かれていた。
僕のような結婚もしたこともなく、子供いない中年男性でも「おお、そういうセリフ入れてるんだ。こういうことを言わないようにしないといけないし、誰かが行った時には伝えれるようにはなりたい」って思えるものだから、近い状況になったことがある人はかなり嫌な気持ちを思い出したりするのだろう。
家族という形の難しさを深田さんはずっと描いてきているからこそ、入れている場面だと思う。

正直、あの予告編見ただけだと序盤以降の展開は想像できない。メインビジュアルの雨に濡れて周りに黄色い風船が浮かんでいる妙子は後半のある場面近くのシーンだけど、あれは思いっきり予想を裏切られた感じがしたなあ。
家族という他人である男女が婚姻なりなんなりで一緒に生活を始めていく、子供が生まれればその人物を挟んで血の繋がりができる。
今作でも血の繋がりというものの強さや個人が拠り所にしたり大切にするということが描かれている。同時にその際に家族でも血が繋がらない者はどうなるのか、どう関係性を築いていくのかという問いのようなものが最後に描かれていた。
深田晃司監督作だと『淵に立つ』『よこがお』の系統の作品。『海を駆ける』は最後にマジックリアリズムみたいなことが起きてわらったけど、深田監督は家族について描く時に「損なわれて」から人がどう思い生きていくかということを見つめたい人なんだろうと今作を観終わって感じた。
最後に映画のタイトルと構想元になった矢野顕子さんの『LOVE LIFE』が流れてきて作品としては終わるけど、彼らの人生はこれから続くんだなって思えて終わり方はよかった。

水曜日のカンパネラエジソン

家に帰ってから作業をしながら昨日深夜のラジオをradikoで聞いていた。オールナイトニッポンMUSIC WEEKの初日の一発目である「水曜日のカンパネラオールナイトニッポンX」を聴いた。
PARCOの屋上でやっていたイベントで二代目になってすぐのライブを少し見かけたことがあったが、詩羽さんの声とか話すテンポがとてもいい。このままレギュラーでやってくれたらいいのに。 水曜日ではないことは冒頭で話をしていた。

 

9月14日

「WKW(ウォン・カーウァイ)4K」という映画監督のウォン・カーウァイの過去作である『恋する惑星』『天使の涙』『ブエノスアイレス』『花様年華』『2046』の五作品が「4K」レストアになったもの。
午前中に早く仕事を開始して映画を観に行く時間を作った。『花様年華』のチケットを数日前にサービスデイなんだと思って購入していたのだが、木曜日だと勘違いしていた。実際は水曜日の14日の初回だったので、映画観る時間分を仕事開始時間前倒ししてから、映画館に向かった。休憩時間を行き帰りの時間にあてればいいだろうという考えである。
ウォン・カーウァイ監督作品は『恋する惑星』『天使の涙』は何度か映画館で観ているが、『ブエノスアイレス』『花様年華』『2046』は観たことがなかった。『ブエノスアイレス』はレンタルで一度借りた様な記憶はあるが、『花様年華』『2046』は一度も観たことがないものだった。『花様年華』は1962年の香港が舞台ということで観てみたいなと思ったのが大きいが、内容等はまったく知らないままで観た。
水曜日がサービスデーということもあるのだろうが、主演のトニー・レオンが好きなのかなと思われる僕よりも上ぐらいの女性がかなりいた。

【予告編】〈WKW 4K〉ウォン・カーウァイ4K 

1962年の香港。地元新聞社の編集者であるチャウと、商社で秘書として働くチャンは同じアパートへ同じ日に引っ越してきて、隣人となる。やがてふたりは、互いの伴侶が不倫関係であることに気付き、一緒に時間を過ごすことが多くなる。誰にも気づかれないよう慎重に、裏切られ傷ついた者同士が次第にささやかな共犯にも似た関係を育んでいくが――。(「WKW4K」より)

主演のチャウを演じるトニー・レオンもカッコよくて哀愁があるが、マギー・チャンが演じる隣人のチャンの服装、チャイナドレスがすごく素敵でいろんな服を着ているのを観るのもたのしかった。今までチャイナドレスを見てもなんというかコスプレだなって思うところがあったが、今作でかなり印象が変わった。
チャンのドレスはセクシーさもあるし賢明な感じもするし、柄とかもおしゃれで素敵だった。Wikiを見てみると「作品の中で主演女優のマギー・チャンやアパートのオーナー役レベッカ・パンが次々と着こなす美しいチャイナドレスは、アートディレクターのウィリアム・チョンが自分の母親が60年代に着ていた服をリメイクしたもの」と書かれていた。映像作品の服装ってほんとうに大事だし、特に年代もので昔を舞台にするとその時の服装を再現するか、こういうものもあったんだよって思わせてくれる服装だと作品の世界観がより確固なものとなっていく。
互いの妻と夫が不倫関係なのではと気づいてからのチャウとチャンの二人の密会というかボーダーラインは越えないものの、心はかなり近いところで寄り添っている感じが、大人の恋愛として描かれていた。今作もクリストファー・ドイルが撮影に入っているが、やはり映像に見惚れてしまう。そのおかげで二人が雨宿りするシーンもホテルや部屋で一緒にいるときも儚さがあって、映像としても魅惑的だった。
チャウが新聞小説を書き始めて、ホテルに仕事場を移すのだけど、そのホテルの部屋の番号が「2046」であり、そこではじめて僕は『2046』というこのあとに作られた作品がもしかしたら『花様年華』と関係があったり、繋がっているのかと思った。調べてみたら続編というか完全に繋がっている作品であることがわかるのだが、僕はそういうことをまったく知らないままだった。木村拓哉さんが出るってことで話題になってたよなってぐらい認識だった。
この日に映画を観たのでシネクイントのポイントカードが4つ貯まったので一回無料で観れるのでいい機会だから明日の休みにウォン・カーウァイ作品を観ようとスケジュールを確認したら、初回が『2046』だったのでそちらのチケットに引き換えた。『花様年華』と『2046』を繋げて観ることはすごくいいタイミングになると自分では感じている。今書こうとしている作品のヒントがあると本能というかなにかが訴えてきたから。

映画が終わると外に出てすぐにタクシーに乗って家に戻って作業に戻る。その後、もともとライブに行くので少し早上がりをする予定だったが、予定よりも30分以上は作業をした。


数時間前に来たばかりのホワイトシネクイントが入っているPARCOの目の前の「WWW X」まで家から歩いた。ずっと楽しみにしていた菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」お披露目ライブ「反解釈0」 にやってきた。
グッズ販売で白Tシャツを買ったが、荷物になるのでとりあえずロッカーに入れて身軽な格好で入場した。平日ということもあるし、客層的にも上ということもあるのだろう、19時半から開始だった。始まるまでのBGMも実験的なものであるとか、いわゆる気持ちのいいわかりやすい音は流していなかった。

 「もうバンドはやらないでおくべきか、やるのか?」を考えた。もう歳も歳だし。そして、昨年の秋頃から「来年(22年)は、コロナだオリンピックどころではない酷い世界になる。途轍もないことになるだろう」という直感が働き、そのための音楽が必要になる。第一には自分に。そして年が明け、直感は当たった。いつだって現代は混迷する酷い社会だが、今の現代は今までの現代よりも酷い。バンドを結成することにした。年齢的に言っても、高い確率で人生最後のバンドになるだろう。上手くゆくと20年ぐらいはやるので。
 
 「ラディカルな意志のスタイルズ」は、米国の女性評論家、スーザン・ソンタグの代表的な著作の一つで、愛読書でもあるけれども、音楽とは一切関係ない(というか、音楽と書物が関係を結ぶことはできない。「楽譜集」という書物でさえ、音楽とは、偽りの関係しか持っていない)。長い間、翻訳書名が「ラディカルな意志のスタイル」だったのが、2018年から完全版となり、「スタイルズ」に改まったので、「これはバンド名みたいだから、いつかバンドを作ったら名前を借りようっと」と思っていた。その時が来たのだ。せっかく日本語の名前をつけたので、バンド名を他国語には翻訳しない。
 
 <インストルメンタルのダンスミュージック>、以上の説明がつかない(ft ヴォーカルが2曲入るが)。ダンスというより、痙攣的な反射に近いかもしれない。全体的な質感は、電気楽器を使わない金属質で、メンバーは理念的には女性と男性(ジェンダーとかではなく、肉体が)が半々であることを目指しているが、初動ではまだそこまでには至っていない。活動しながら半々に向かう予定だ。ビジュアルは全て、日本のブランド「HATRA」が担当する。
立ち上げに関する声明文より

「ラディカルな意志のスタイルズ」のメンバーは菊地成孔(ss,as,ts,perc)、松丸契(as)、相川瞳(viv.perc)、林正樹(pf)、秋元修(Dr)、北田学(bass cl)、Yuki Atori(bass)、ダーリンsaeko(perc)という八名。
インストルメンタルのダンスミュージックと菊地さんが言われている様に、一曲は歌うというよりは菊地さんの朗読(ポエトリーリーディングジャン=リュック・ゴダールに捧げていた。省略する社会にはするなと)、アンコールでゲストボーカルが入ってマイケル・ジャクソンの『BEAT IT』カバー曲(けものさんのアルバムでもカバーしていたから菊地さんが好きなのか?)で歌ありが二曲。
ほんとうにパーカッションが心地よく、無意識に踊ってしまうダンスミュージックというか、 DCPRG感はリズム隊で残っている感じがするが打楽器が増えたことで太古な、原始的であり近未来的な音になっていて、なんだか聴いているうちに体が揺れてしまう音だった。あまりにもカッコ良すぎて何度か笑ってしまった。
コロナパンデミック以降で観ているライブは、菊地成孔向井秀徳が関わるものが半分以上なので、二人のリズムにずっと揺れている。

 

9月15日

昨日行ったPARCOとWWWに再び、という形になったが起きてから歩いてホワイトシネクイントへ。ウォン・カーウァイ監督『2046』 を鑑賞。

1960年代後半の香港。記者で作家のチャウはかつてひとりの女を心の底から愛したが結ばれることはなかった。過去の思い出から逃れるように自堕落な生活を送っていた彼は、ある日ジンウェンと出会う。彼女には日本人の恋人タクがいたが、父親の反対でタクは日本に帰ってしまった。チャウはふたりに触発され近未来小説を書き始める。(WKW4Kより)

今作は『花様年華』から繋がっている部分もあるが、チャウが自分が出会った人たちをモデルにしたSFというか近未来小説『2047』を書いており、その世界と現実の世界が交互に描かれる。木村拓哉フェイ・ウォンカップルは現実では日本と香港で別れてしまうが、小説の中では一緒にいる形になっていた。ただ、フェイ・ウォン演じるジンウォンをモデルにした登場人物はアンドロイドということになっていた。
冒頭は木村拓哉演じるタクのモノローグから始まる。60年代の香港というレトロさと近未来小説の世界観というのは悪くはないが、近未来のイメージがゼロ年代初頭ということもり、今見るとちょっと古臭いというか前世紀における近未来感は正直ある。だからこそ、おとぎ話というかフィクションとしてみることもできる。
チャウはシンガポールに渡った時に愛した女性、彼女の名前というのが前作に通じている。そして、またしても隣人と恋仲になるわけだが、その相手のバイ・リンというのをチャン・ツィイーが演じていて小悪魔的な雰囲気があった。
おそらくこの一作だけを観ても好きにはならないかもしれないが、『花様年華』と続けて観たことで僕の中ではとても好きな映画になったと感じる。『花様年華』の前には『欲望の翼』があるが、それは昔レンタルで観た記憶はなんとなくあるが詳細は思い出せない。実質、『花様年華』『欲望の翼』『2046』が1960年代を描いた三部作というかシリーズになっているみたい。できれば、三作流れで観た方がより楽しめたのだろうが、二作品を観れてほんとうによかった。まさにこのタイミングで観れたことが僕には大事だった。
「恋愛はタイミングで、早くても遅くてもうまくいかない。」というモノローグは恋愛以外のこともに通じている。というか人生がそういうものだといえる。

平家物語 諸行無常セッション(仮)』映画化記念 「皆既月蝕セッション」古川日出男×坂田明×向井秀徳

2017年に高知県竹林寺にて行われた「平家物語 諸行無常セッション」の映画化、とその記念の再セッションもやるというライブイベント。
僕は実際に高知の竹林寺に行ってこのセッションを観た。帰りの空港に暇すぎて二時間以上前に行って待っていると古川さんたち出演者さんたちと遭遇してしまうということもあった。一緒の便ではなかったし、向井さんは朝からビール飲んでてたくましいなと思ったし、当時はZAZEN BOYSのベースだった吉田一郎さんがローディとして同行されていたけど、朝イチでうどん食べてた記憶がある。
僕は発売したばかりの『平家物語 犬王の巻』を持ってきていたので古川さんにサインをしてもらった。映画『犬王』についてはフェスみたいな雰囲気とクラップユアハンズという僕が世界で一番嫌いなライブ作法などがあるので、その部分が正直まったく乗れなかった。そのことは日記とかnoteに書いているが、それ以前に「平家物語 諸行無常セッション」を生で観てしまっていたこともけっこう影響していた。
古川日出男×坂田明×向井秀徳っていう組み合わせは本当にとんでもないのよ、しかも竹林寺というロケーションだったから、あれ観ちゃったら無意識でも比べちゃうわけでさ、でもほとんどの人は観てないから伝わらない。
平家物語 諸行無常セッション」を観に行った時に河合監督たちが撮影していたのも知っているので、アニメ『平家物語』や映画『犬王』が放送や公開されたら、どこかでセッションの映像を出すのかなとひそかにたのしみにはしていた。
今回の「皆既月蝕セッション」という映画上映+ライブイベントの場所は「WWW」(元シネマライズ)だが、同じ場所で2015年に「ナンバーガールデビュー15周年企画 記録映像 シブヤ炎上轟音上映会~AKASAKA / SAPPORO~」というのを観ているから、同じとこじゃんってちょっとテンションあがった。

「プラネットフォークス」 5-hour liner notes (Introduction) 


ASIAN KUNG-FU GENERATION×#古川日出男 による『プラネットフォークス』対談と、レコーディング風景を交えたスペシャル映像をYou tubeに公開されていた。
昨日、映画『平家物語 諸行無常セッション(仮)』の監督である河合さんが12時と17時にお知らせがあると言っていたけど、二つ目はこちらだった模様。
『皆既月蝕セッション』は数日前に古川さんにメールした際に少しだけ聞いていた。こちらは知らなかったけど、アジカンとのコラボというかがっつり話を聞くものを長尺でアップというのはどちらのファンでもあるのですごくうれしい。


夕方に一服がてらニコラに行って、アルヴァーブレンドとガトーショコラをいただく。やっぱりこの組み合わせがいちばん好きかもしれない。

なんとか「笹井宏之賞」に五十首作って応募できた。あれが短歌と言われたら、自分でもわからないけど、それを元にして『鱗粉と忘却』という小説を書こうと思う。
花様年華』と『2046』を観たことも大きいし、前日に「ラディカルな意志のスタイルズ」のライブに行ったことでしっかりやらなきゃなと強く思えた。

 

9月16日
踊り子 / Vaundy:MUSIC VIDEO



mabataki / Vaundy:MUSIC VIDEO



「Vaundyのオールナイトニッポン0」を聴いていて、流れてきた『踊り子』はそう言えば聴いたことあるぞって思って、新曲には菅田将暉が出ているって話はしていたけど、MVに菅田将暉小松菜奈の夫婦がそれぞれ出演しているのね。
サマソニリバティーンズが来ないからチケット売ったから行かなかった。観に来た友達が土曜日の夜に泊まった時に話していて、「Vaundy」のことを言っていて、「Vaundy」を「バウンディ」って読むって教えてもらった。字面で認識しているんだけど、読み方がわかっていなかった。これは前からちょくちょくあって、書籍も装幀デザインで認識していることが多いから、著者名とかタイトルもデザインの一部として把握しているから、なんて読むのかわかっていないことがある。だから、著者名とかタイトルを言われてもピンと来ないことがある。装幀見ればわかるってことがあるんだが、それに近いんだと思う。
Vaundyってアニメが大好きで創作意欲に溢れてるのがラジオから伝わってきた。映画監督をやりたいって話をしていて、そのために自分でMVも作っているとのこと。すごいなって。なんだか、純粋な光が一気に光速を超えていくような、それをキレイだなと思って見ているような気持ちだった。

なんだかいろんなものに置いていかれてるなってこのところよく思うのだけど、先端にそもそもいないんだから、好きなことを好きだと言っていこう。そのためにはスタイルがいるんだろう。
春分の日の翌日生まれだから、秋分の日って一年のちょうど半分。3月の誕生日前後ぐらいからいろんなことが起こっていて、笑えないことが多かった。ちょっとnot不惑過ぎたからもう半分は不惑なスタイルで行きたい。前厄かと思ったけど、来年が前厄だった。

ロンブー田村淳も絶賛『シン・サークルクラッシャー麻紀』を書いた佐川恭一とは何者か 

町屋良平さんとこの前イベントでお話をさせてもらった時に、自分ぐらいまでは芥川賞でも文体とかでも評価してもらったけど、そのあと以降は内容にどんどん寄っていっていると言われてたのを思い出した。
文体にこだわったり、ある種の常識でアウトなものを描くと評価されにくくなっているというニュアンスだった。
小説が役に立つとか思っていたり、なにかを解決しないとダメとか思っている人が増えているのか。オープンエンドがエンタメでも減っている感じもする。役立たないからいいとは言わないが、芸術や文化というものに答えや役立つということを求めたら、最終的には人間という存在の有無に行き着くと思う。「正しさ」という看板で「人間のどうしようもなさ」を奪っていく(消していく)とやがて他者性を失ったただ息苦しい世界だけが待っていると僕は思う。

 

9月17日


1920年代の東京 高村光太郎横光利一堀辰雄』&『東京百年物語2 一九一〇〜一九四〇』
買ったままでちょっと読んで、放置していたのを読み始める。田河水泡についての資料として1920年代の東京が知りたくて買ったもの。
「近代」ということを考えると、大塚英志作品の影響もあるけど、柳田國男にしろ、夏目漱石にしろ、田河水泡にしろ、捨て子たちだった。柳田は幼い頃妄想した虚構の母というものに取り憑かれていたが、ほかの二人は実の親からは離されて育てられている。「近代」は捨て子たちが作った。だから、彼らは自分達が持てなかった家族を形成していく。それが戦中、戦後を得て核家族化していく。そして、核家族後の世界では子供の数は減っていき、老人たちが捨てられていく。

夏目漱石の『道草』は田河水泡の自伝を読んでいると重なる部分がある。だが、田河水泡夏目漱石とは違って根っからの根アカであり、前衛集団「マヴォ」離脱後は落語作家となって、その後漫画家となって代表作「のらくろ」を描くことになる。
捨て犬の「のらくろ」は田河水泡こと高見澤仲太郎であり、今で言うならアバターである。「近代」以後に田山花袋たちが自然主義から作り上げた「私小説」も、結局のところは「私」というキャラクターを纏っている、キャラクター小説である。
のらくろ」とはキャラクター漫画であり、田河水泡の「私漫画」である。ミッキーはすでに存在していたから捨て犬で四足歩行だった「のらくろ」はディズニー化して二足歩行になり、兵隊になる。そこに内面が生まれて、戦争を拒否したり、「アトムの命題」と言われるような傷つく身体となっていく。

内弟子長谷川町子がいて、幼い頃の手塚治虫は「のらくろ」を模倣していた。二人とも戦中の「大政翼賛会」のメディアミックス的な漫画に関わっていたりもするが、漫画の神様と言われる手塚治虫よりも前に日本の漫画に「アトムの命題」を持ち込んでいる人物であるのが田河水泡という人。
だから、マンガ・アニメカルチャーが日本が世界に誇る文化というなら、田河水泡を掘り下げることが大事なんじゃないかなと思う。だけど、どうやら誰もやろうとしない。僕は百年前の東京に親近感を覚える。大きな地震があって、世界の秩序が混沌としていくその前兆のような時期という部分でも「大正」と「令和」は似ているような気もする。
のらくろ」というキャラクターが生みの親であり、同時にもう一人の自分を語るという構造で田河水泡を描くことが一番リアリティがあるんじゃないかなと思う。資料として読んでいくとやっぱりこの時代はおもしろい。堀辰雄の著作を読みたくなってきたけど、書店でも『風立ちぬ』ぐらいしかなくて、『聖家族』はないからAmazonで中古を頼んだ。


twililight(トワイライライト)の屋上で行われた「管啓次郎『本につれられて』朗読会」に夕方から行ってきた。
タイミングというものはおもしろいもので、14日にWWW Xで菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」の初ライブを観た。バンド名はスーザン・ソンタグの書籍名から取られている。最初に出た際には『ラディカルな意志のスタイル』だったが、2018年に管啓次郎さんと波戸岡景太さんによる改訳と改題で『ラディカルな意志のスタイルズ』となった。それを菊地さんが「これはバンド名みたいだから、いつかバンドを作ったら名前を借りよう」と思っていたらしく、ご本人からすれば最後のバンドになるであろう新バンドを「ラディカルな意志のスタイルズ」と名付けた。
音源はまだ存在しておらず、今回の初披露ライブが「反解釈0」とされ、次回以降からは「反解釈1」という風にナンバリングが増えていくという形を取るらしい。ボーカルの存在しない「インストルメンタルのダンスミュージック」であり、パーカッションの多様もあり、太古のリズム、いや原始的であり同時に近未来的なダンスミュージックだった。ちなみに曲のひとつに「折りたたみ北京」というものがあり、あの中華SFアンソロジーの一編からタイトルが取られている。
ライブの時に「ラディカルな意志のスタイルズ」Tシャツを買っていたので、管さんのイベントに行くなら着ていかなきゃと思って着ていった。こういう話の種は大事だと思う、それもコミュニケーションになるから。そして、家を出る時に『コロンブスの犬』の文庫版をバッグに入れた。

台風は近づいているけど、トワイライライトの屋上でのイベントは問題なく開始された。18時から開始された時は空はまだ明るかったが徐々に紫も入ったような濃い青になっていった。その空の感じは嵐が来る前の重さを伴ったような青さにも見えた。
最初に3階でイベントの参加費を払ったあとに「本に連れられて」と「トン族の歌にふれて 旅とシンポジウム」をもらっていた。
本を読むことに自体に迷っている学生のために書いたふたつのエッセーが収録されている「本に連れられて」を管さんが朗読された。
最初の「本のエクトプラズム」は大学の図書館についてのものだが、読み始めると空がどんどん濃くなっていったが、屋上というロケーションがとてもよかった。土曜日に三軒茶屋の町の明かりや日常と真下の茶沢通りの交通音とかが朗読のBGMになる。続けて「立ち話、かち渡り」の朗読になった。
どちらも本を読むのが好きな人間としてとても勇気づけられたというか、そうだよね、そうなんですよ、図書館とか書店という場所が好きな理由はそういうことだし、本を読むという行為をやさしく肯定してもらうというか、無駄な力が抜ける感じがした。
質問のあとに『本は読めないものだから心配するな』の文庫版あとがきである「本を書き写すことをめぐる三つの態度について」の朗読がされて、ちょうど一時間になってイベントは終了した。

歩くのが好きだからよく歩いているけど、たまにワープしたみたいに時間が一瞬飛んでいるようにだいぶ先を歩いていることがある。何も覚えていない時もあるし、考え事をしていると体だけは動いていて、周りを認識した時にワープしたような気持ちになる。似たようなことは本を読んでいる時に多々起きる。文字を読んでいるから小説なら物語を目で追っているはずなのに、なにかするりと抜けてしまうことがある。とりあえず、最後までは読み終えているが、内容をあまり覚えていない。
でも、森に入って歩いていくとその全体像は掴めないのに、肌や衣服にこすれた葉っぱや枝の感触やそれでできた擦り傷、水溜りや木々の隙間から覗く太陽、鳥の鳴き声や虫の飛翔とか、そういうもの森から出ても覚えているような。それらは本を読んだ時に自分の内面に起きた変化、というか化学反応としての心象風景なんだと思う。
本はたくさん読んでいくとその森はどんどん大きくなっていく。歩いている小径が前に通った小径と繋がっていたりするし、知らない場所へも導いていく。ありがたいこともその森に迷っても本を閉じればとりあえずは脱出はできるし、複数の本を並行で読んでいても森のいろんな入り口から入って出てを繰り返すことができる。
そういうことが管さんの朗読と書かれた文章から僕の中に浮かび上がってきた。前からあったものが声と音によってしっかりとした輪郭を持ったようにも思えた。

終わって家から持ってきた『コロンブスの犬』にサインをしていただいた。管さんと僕はふた回り違うが同じ戌年であり、犬に反応してしまうという話もさせてもらえた。
本って読み終わるってことがなくて、ずっと読み続けるものなんだろうなって思う、肉体的に記憶的に限界がくればやがて読めなくなってしまうまでは。
「本のエクトプラズム」の中の一文で「教養は、やはり大切だよ。教養というのはひけらかしやお飾りのための知識ではない。<いま・ここ>に生きながら、その場にないもの、時間的にも空間的にも隔たったものを想像するための前提となる知識のことだ。なぜそれが必要なのか。<いま・ここ>を共有しながら、見えないもの、存在しないことにされているものやことをよく意識するために必要なのだ。」とあって、僕はそういう教養のある世界を欲してるし、そういうものを持てる人でありたいと思う。とてもいい朗読会だった。

 

9月18日

舞城王太郎第一詩集『Jason Fourthroom』(ナナロク社)
昨日、トワイライライトで購入したもの。読み始めると『土か煙か食い物』デビュー前から舞城王太郎舞城王太郎になっていたとわかった。千行詩というか、連なっていく言葉と物語に乗ってしまうと最後まで読んでしまう。舞城詩的ボーイ・ミーツ・ガール。
メルマ旬報の最後の原稿として書くのは『鱗粉と忘却』という小説の「忘却」パートのプロトタイプにしようと考えていたけど、この『Jason Fourthroom』を読んでいたら、千行詩みたいな感じにするのもいいのかなって思った。

『ボクらの時代』村上淳×浅野忠信×オダギリジョーを見た。この三人でも最高なんだけど、ここにプラスで永瀬正敏さんと安藤政信さんがいたら単館系に惹かれて上京した自分としては最強の五人だなあ。
オダギリさんが村淳さんと浅野さんの背中を追う中で、「浅野さんはCHARAさんと、村淳さんはUAさんと結婚してたから、僕もミュージシャンと結婚しなくちゃいけないのかなって思ってた」というところはおもしろくて、村淳さんが「そうだよ」って笑いながらって、浅野さんが「どっちも離婚している」って笑いながら言っている感じもとてもよかった。

菊地成孔による新バンド・ラディカルな意志のスタイルズ 初ライブで示した“反解釈”というコンセプト

この記事の最後のセトリで「折りたたみ北京」と最後のカバー以外の曲名を知った。 しかし、音源はしばらくでないままで「反解釈」シリーズライブを続けていくのかな。家でも聴きたいから音源はやっぱり欲しい。

起きてから家を出る前に玄関を開けると雨が降ったあとで、地面が濡れていた。Yahoo天気予想の雨雲レーダーを見ているとすぐに雨が降る感じだったので傘を持って出ると、すぐに降り出した。
大粒で強く降っている感じだったので、駅前で昼食と台風が来た時に窓ガラスに貼る用の養生テープを買って家に戻った。ご飯を食べているときにさきほどよりももっと強く雨降りの音がした。
今の状況でこれだと日本列島を横断する今回の台風が関東に近づいてきた時にはかなりヤバい状況になりそう。三連休開けの火曜日までは台風で天気は悪いみたいだから、多くの人は家で過ごす感じになると思う。
ライブ関係とかはどうしても中止とかになってくるだろう、交通機関が止まるとどうにもならないから。気のせいか左の上の奥歯が痛い。

 

9月19日
深夜の3時ぐらいまで起きていた。日付が変わったぐらいからNHKオンデマンドで『鎌倉殿の13人』の最新話を見た。主人公の北条義時が父の時政と畠山の対立の板挟みになる。最終的には畠山軍は敗れ、義時が父を政治から排除するための布石をどんどん打っていくという回だった。
ほんとうにシビれる展開というか、源氏から北条へとクーデターというか政(まつりごと)の内部での思惑と関係性によって、義時が源頼朝から引き継いだ意志や政治をどうやって行っていくのか、そのためにどんな人間にならないといけないのか、政(まつりごと)をするために必要な判断と決意ができる人間へとなっていくを描いている。毎回すごいと思うドラマだし、大河ドラマを最初から最後まで見たことはほとんどないので、やはり今作には惹かれる要素がたくさんある。
シルバーウィークで三連休だが、結局深夜の3時前まで起きていた。時折雨がザーと降る音がしては止んでみたいな感じだった気がする。

起きてから雨雲レーダーを見ると昼過ぎからまた雨が降りそうだったので、早めに外に出ようと思った。ずっと家にいるのはしんどい。夕方からリモートで仕事があるので、午前中に外に出ていないとどこにも行かないままで一日が終わってしまう。
散歩がてら9時にはオープンしている代官山蔦屋書店に向かった。台風が近づいているせいかかなり湿度が高いのか、歩き出してもTシャツが肌にまとわりつくような感じがした。風は強いけど、それ以上に湿度が気になった。


書店で前から気になっていた佐々木敦・児玉美月著『反=恋愛映画論──『花束みたいな恋をした』からホン・サンスまで』を購入した。装幀には映画『リコリス・ピザ』の主人公とヒロインが出会うシーンが使われていた。『リコリス・ピザ』は観てもあまり好きにはなれない映画だったが、やはりこのシーンは印象的だし、絵になる。発売はP-VINE。このレーベルは音楽と映画関係の書籍が出ていて、気になるものが多いから年に何冊かは買っている。


帰りは雨はまだ降っていなかったが風は強くなっていた。緑道沿いを歩いているとかなり大きな鳥がいた。調べてみるとどうやらアオサギだった。ほとんど動かなかった。何分かしたら首だけが向いている方向を変えた。
一羽ということではないだろうからつがいでもう一方のオスかメスがいるのだろうか。そうであれば、卵を産んでここで育ててからまた移動するのかもしれない。
大きな鳥って二度見してしまうというか、ギョッとするのは日常生活の中で目にする鳥がカラスやスズメやツバメやメジロのサイズが鳥という認識になっているからなんだろう。

 

9月20日
昨日が敬老の日だったので、「monokaki」スタッフ仕事はカレンダー通りなので休みだった。となると普段は休みな火曜日も出勤ということになる。今週は23日の金曜日も秋分の日で休みになっているため、普段休みな木曜日は働いて、金曜は休みという形になっているので、三日休んで三日働いて三日休んでということになる。
ただ、それは「monokaki」スタッフの仕事だけで、もうひとつの夕方からのマッチングアプリのcsスタッフバイトは土日も祝日も働いているので(「あだち充論」の連載も終わったし、とか原稿料がなくなったらそっちを増やすしかないわけだが)、Googleカレンダー見たら17日の土曜日は管さんのイベントに行くので休みだったけど、翌日の18日の日曜日から、朝か夜どちらか仕事が入っているか、両方入っているかでなんらかの仕事がある日が28日の水曜日まで続いていた。29日の木曜日まで11日間休みがなかった。
月に一回とかの連載がなくなるということは夜の仕事を増やすことになるので、動きにくくはなる。先にシフトを出さないといけないから。今月でメルマ旬報の連載も終わることになるので、しょうじきしんどい。ただ、今の状況ならなんとか大丈夫だけど、あると思っていたものは急に終わったりするのでその辺りは油断ならない。
ということはできることは、やらないといけないことはひとつしかない。そのためにはまずは体力を、精神が落ちないように体の健康は維持しておくことが前提になる。いろいろと世知辛いがまあその中で適度に時間を作って、ギチギチにならないようにはしているし、そのバランス感覚というか動きやすさを意識していくことは忘れないようにしたい。

Mitski - Glide (cover) (Official Audio) 

今週から公開されるA24の新作『LAMB』も楽しみだが、来月公開の『アフター・ヤン』も予告編を見るだけで期待値は上がっている。YouTubeを見ていたら、『アフター・ヤン』の中で岩井俊二監督作品『リリイ・シュシュのすべて』から『グライド』がカバーされているようだ。このカバーもとてもいい。 

 

9月21日
星野源オールナイトニッポン | ニッポン放送 | 2022/09/20/火 25:00-27:00 

冒頭20分のナンバガの話からの曲への流れがとてもいい。

水曜日はリモートでの作業中に深夜にオンエアされたTBSラジオの『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カーボーイ』、ニッポン放送の『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポン0』、 J-WAVEの『BEFORE DAWN』と聴くものがたくさんあるので作業BGMに困らない。

休憩中に外に出たら、湿気もなくてTシャツでは肌寒い感じで秋っぽくなっていた。メルマ旬報チームでもある木爾チレンさんの新刊『私はだんだん氷になった』が出ていた。買おうと思ったけど、来週の月曜日の26日に下北沢のB&Bで木爾チレンさんと実妹の倉田茉美さんのトークイベントに行く予定なので、B&Bでその時に書籍買ったほうが店的にもいいだろうなって思って見送った。かなり入荷していたし前作『みんな蛍を殺したかった』も評判が良くて重版が何度もかかったから今作は最初から刷り数が増えたんじゃないかなって思う。

The Smashing Pumpkins - Beguiled (Official Music Video)


Zwanもビリーのソロもライブで観ているけど、やっぱりスマパンが好きだし、ビリーはプロレスとかいろいろやってるけど、死なないで生きてロックをやっていることがうれしい。カートみたいに若くして死んで伝説になるのに憧れるのはガキの頃だけで中年になったら、生き延びたビリーのほうにより感情移入できる。僕の好きなロックスターだよ、ビリー・コーガンは。

 

9月22日
休憩中に歩いていたら、知り合いとすれ違って、挨拶がてら「ねむそうだね」と言ったら、「いつも同じ」と言われた。確かにこれから仕事に行く人に対して、そういうことは顔の表情的にメイクしてないとか諸々失礼なのかもしれない。「こんにちは」とかなんとなく照れ臭いものではあるが、今度からはそうしたいなって思った。

鳥嶋氏:
 僕も『ジャンプ』が面白くなくて、小学館の資料室でよく昼寝していたんです。
 それに飽きて、いろんな漫画や小学館の雑誌のバックナンバーを読み始めて。その時に『少女コミック』に載ってた『泣き虫甲子園』があだちさんで、「上手い人だなぁ」って思ったんです。
 その後、『ナイン』が『月刊サンデー』で始まった時に「あぁ、この人、来るな」って。そうしたら『タッチ』ですからね。

白井氏:
 古典的なギャグもね、スカートが風の中でパァッと広がったり。何ひとつ進化はしていないんだけど、確立された「あだち節」がピシッと決まっている。あれは時代の風とかそういうものと一切関係ない。

鳥嶋氏:
 僕がとくに感心したのは、あだちさんの縦位置カットなんですよ。節の葉っぱとか日差しが入って、登校しているシーンを上からの俯瞰で撮って。校門があるから一発で、「学校が始まるよ」ということが分かる。

鳥嶋氏:
 『750ライダー』はラブコメというか、あだちさん風なんですよね。バイクが好きな兄ちゃんと、彼が想いを寄せる女の子の、日常の何気ない話。ただそれだけで。

白井氏:
 そう。それで石井いさみさんの弟子に、あだち充さんがいたのよ。あの時、あだちさんをいじめたりせずに良かったなと思って(笑)。

鳥嶋氏:
 石井さんのアシスタント! 分かるなぁ……。

白井氏:
 石井さんのところに毎週、原稿を取りに行くわけじゃない。あの時あだちさんに辛く当たったりして、向こうがこちらに嫌な印象を持っていたりしたら、それがずーっと続くわけだから。

鳥嶋氏:
 そういう時に、編集はドキドキしますよね。「おぉ、こいつだったんだ」って。

白井氏:
 あの時に悪態をついたり「お前のおかげで遅いんだ」みたいなことを言ってたらね、違った関係が生まれていたかもしれない。だからやっぱり、無名の人は大事にしないと。
 『ジャンプ』はみんな無名でスタートするかもしれないけどさ、ウチはそういうわけじゃないから。
 そういうのって自分が言ったことは忘れても、言われたことは覚えているからね、作家って。「あの時、夜中に声をかけられて“がんばれよ”って言われました」みたいなことをさ、作家が言うわけ。
 僕はいつ言ったのか分かんないんだけど、そういうことを言わせるものがあったんだろうね、その作家が一生懸命描いているのを見てさ。

めぞん一刻』や『美味しんぼ』を手がけた小学館の伝説的漫画編集者・白井勝也氏に、元週刊少年ジャンプ編集長の鳥嶋和彦氏が訊く!──ライバル同士だった二人がいまこそ語る”編集者の役割”より

漫画編集者のレジェンドクラスの対談。あだち充さんに関しての部分はこのぐらいだが、白井さんはあだちさんと高橋留美子さんが活躍する80年代になる前には「少年サンデー」から「ビッグコミック」に異動して副編集者みたい。
もちろん時代の変化というものはあるので、対談を読んでも今は使えなかったり、できないことはある。編集者と漫画家といえど人間関係なので合う合わないもあるし、タイミングもある。
大御所の昔話という見方もできるが、同時に時代を作るような仕事をしてきた人たちの考え方や行動力を知るという機会でもある。僕が「PLANETS」のブロマガで連載していた『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春』(あだち充論)であだち充がデビューした1970年から取り上げているが、白井さんはおそらくあだちさんの担当編集者となった人たちの一つ上の「少年サンデー」黎明期の編集者なんだろう。


1920年代の東京 高村光太郎横光利一堀辰雄』を読んだので堀辰雄作品を読みたいなって思って、『燃ゆる頰・聖家族』新潮文庫版を取り寄せた。
映画化もされた『風立ちぬ』は読んでないけどそこまで惹かれない(それは映画のせいでもあるが)から、堀辰雄の師である芥川龍之介自死をモチーフにした『聖家族』読みたいなと思って調べたら、新潮文庫だと今は『風立ちぬ・美しい村』『大和路・信濃路』しか新潮文庫では残ってなくてほかは絶版になっていた。
Amazonで探したら90円だったので文庫で読みたくて頼んだのがきた。昭和49年の三十三刷で160円。ということは48年前。
1920年代の東京』を読んでいると詩と小説が近いところにあって(そりゃそうなんだけど)、気持ち今の状況も似てきた気がする。もともと大手の出版社になったところもその頃のインディーズの同人誌とかから始まったわけで、短歌とか詩とか盛り上がっているのは100年前に近いんじゃないかなって思っている。あと「アヴァンギャルド」「機械芸術論」みたいなものはウェブとかメタヴァースに置き換えてみることもできるのかもしれない。
「一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景」と『1920年代の東京』の冒頭にあるけど、その萌芽となる1920年はやっぱり関東大震災があった。東日本大震災の2011年ということをその時期と重ねると2010年代から現在までは世界的なファシズムにウェブによって加速した感じだなとかイメージもできる。

田河水泡について調べていると彼が生まれたのが「明治」の終わりで青春期はがっつり「大正」時代だし、彼が漫画家になる1920年代だから、今から100年前だからちょうど祖母が生まれた時期、三世代なら想像力は間に合う、というか届くと思う。
祖母のアルバムを見たら着物の人とセーラー服の人の両方がいる。そもそも「少女」という概念ですら1890年代あたりにできている。結婚し出産するまでの女性が丁稚奉公とかの労働力としてではなく、学校に通うようになっていったのがその時代だ。そこに出版社とかは目をつけて、「少女」という言葉を作って、その子たちをターゲットにした「少女誌」を作っていった。でも、その時の作り手はおっさんしかいない(職業婦人も多くはなかったし、出版社にも女性は少なかった)から彼らの求める「良妻賢母」になるような思想で雑誌が作られていた。
「少女漫画」だって手塚治虫たちがずっと描き手だった時代があって、その影響下で女性の少女漫画家たちが生まれて、次第に男性漫画家は少女誌では描かなくなっていった。あだち充はそういう最後の時代に「少女コミック」にいた漫画家でもある。あだち充と少女漫画の歴史を少し調べてもそのぐらいはわかる。上のおたく第一世代では当然だったことでも、その子供や孫世代のオタクは知る由もない。継承っていうのは大事だけど、やっぱり難しい。そういう文脈がわかるしある種の武器にはなるんじゃないかな、とは思う。
漫画学校とか漫画を教える大学とかもあるからその辺りは教えているかもしれないけれど、マンガ・アニメカルチャーが日陰の存在ではなく当然のカルチャーとして最初から消費している若い世代はそういうことを踏まえておくほうが海外とかで仕事をする際に、戦争とかの歴史がわかっているほうがたぶん変な誤解や軋轢を生まないで済むかもしれない。特に中国とこれから仕事をしていくメディア関係者は。


シルバーウイークというわけで、明日の秋分の日から三連休ということもあり、給料日が休みなのでちょっと早めの振り込みだったのでご馳走を食べようと、ニコラで真鯛としめじ、ひら茸、舞茸のスパゲティーニと白ワインをいただく。ピスタチオのペンネも久しぶりにメニューにあったけど、旬のものを食べたい欲望がまさったのでこちらにした。
たいてい春分の日の翌日になるのが誕生日なので、もう不惑の一年目の半分が経ってしまった。秋分の日イコール阿部和重さんの誕生日という覚え方をしているのは、デビュー作『アメリカの夜』で主人公が秋分の日生まれで彼岸に誕生日があるとかないとか書いていて、反対側の春分の日だわって思ったからよく覚えている。

D - composition 古川日出男 / Utena Kobayashi / Gotch / 佐藤優介 / Subtle Control /Miru Shinoda / Eucademix


『ゼロエフ』が朗読されるということは、登場人物の僕も朗読の一部というかそこに含まれる(孕まれる)のか。はじめての経験だけど、とても不思議な気持ち。

 

9月23日

REIのライブを観にきた地元の友人が昼過ぎに最寄駅に着いたので、そのまま合流してトンカツ屋に行って昼飯を食べる。ひとりではトンカツ屋に行くこともないのでいつぶりかわからないぐらいぶり。精肉店の上の二階にあるお店で前にも友人とは来たことがあったのだが、満席で僕らが数分待ったあとは何人か並んでいた。エビフライも食べたかったのでミックスC定食にしたが、美味しかった。気持ちおしんこと漬物が塩味が強い気がしたけど、味噌汁が調和してくれる感じの味で全体的にバランスがいいトンカツだなって思った。

The 1975 - All I Need To Hear 


友人が夕方のライブに行くまではテレビがないのでMacBook Airの画面でYouTubeを流していた。彼はこの間のサマソニにも来ていて、ヘッドライナーの「The 1975」をアルバム出る前ぐらいからフェスで観て追いかけていたので、来年のジャパンツアーも行くらしい。今度出るアルバムからのリード曲などを聴いてから過去のMVなどを見たりした。

「メルマ旬報」最後の連載は長い詩にしようと思っていたけど、前に書いた中編『セネステジア』をリライトすることにした。その作品は自分でもかなり好きな作品で地元の井原市が出てくるのだけど、これが形にできていないのは僕の力量不足でしかないが僕の書きたい物語だなってリライトする前に読み返したら、そう思えた。父離れではないけど、元居たところから出ていく話だから、今の心境と通じたのかもしれない。



今月はこの曲でおわかれです。
STUTS - World’s End feat. Julia Wu, 5lack (Official Audio)



ミツメ - Basic (feat. STUTS) | mitsume - Basic (feat. STUTS) (Official Music Video)