Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年7月24日〜2022年8月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年08月掲載


先月の日記(6月24日から7月23日分)

 

7月24日

ガルシア・マルケス  新しいラテンアメリカの作家たちが最も影響を受けた作家はフォークナーでしょう。一つ興味深いことがあります。私の作品にはいつもフォークナーの影響が指摘されますが、よく考えてみると、そう私に思い込ませたのは実は批評家たちですから、確かに影響関係はあるのかもしれませんが、今ではそれを拒否したいような気持ちにもなります。しかし、私が驚いているのはもっと一般的な現象です。実は、「スダメリカーナ=プリメラ・プラナ」文学賞の審査員として、未発表の小説を七十五作も読んだのですが、そのなかでフォークナーの影響が感じられない作品はほとんどありませんでした。駆け出しの作家だから、それが露骨に現れて余計に目につくということは確かにあるでしょうが、それにしても、どうやらフォークナーはラテンアメリカ小説全体に浸透しているようなんですね・・・・・・ つまり、誇張と紙一重な言い方で思い切って図式化すると、今名前の挙がった祖父世代と私たちを隔てる大きな違い、おそらく唯一の違いはフォークナーなんじゃないでしょうか。フォークナーのおかげで世代が入れ替わったと言えるかもしれませんね。
バルガス・ジョサ  なぜそれほどフォークナーの影響が色濃く出ているのでしょうね? 現代文学で最も重要な作家だからなのか、それとも、単にあの奇抜で独特な示唆的文学が真似しやすいということなんでしょうか?
ガルシア・マルケス  語りの作法の問題でしょう。フォークナーの作法はラテンアメリカの現実を語るには非常に有効です。知らぬ間に我々はそれを見抜いていたのでしょう。つまり、ラテンアメリカの現実を前にして、これを小説として語ろうとすると、ヨーロッパ作家の手法やスペイン古典文学の手法では歯が立たないわけです。そこにフォークナーが現れて、その現実を語るのにうってつけの手法を見せてくれる。ヨクナパトーファ群の河岸がカリブ海と繋がっていることを考えれば、実はこれもさほど不思議な話ではないのでしょう。ある意味フォークナーはカリブの作家であり、ラテンアメリカの作家なのかもしれませんね。


ついに『ポータブル・フォークナー』(ウィリアム・フォークナー著、マルカム・カウリー編、池澤夏樹訳、小野正嗣訳、桐山大介訳、柴田元幸訳)出るみたい。 

この前の「講演会「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点」でバルガス・リョサの『ガルシア・マルケス 神殺しの物語』が刊行されるって話もあったし、リョサマルケスの対談集『疎外と叛逆』を読んでいてもラテンアメリカ文学の始まりにはフォークナーがいる話も出てきていた。そういうものが続けて刊行される時期なのだろうか。

講演会「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点―マリオ・バルガス・ジョサ『街と犬たち』の魅力/ 日本語版



午前中に散歩がてら蔦屋代官山まで歩いた。帰ってきてからTシャツを着替えようとしたら首の襟首の部分が右側だけ丸く日焼けしていた。

 

7月25日

前日に購入していた綾部祐二著『HI, HOW ARE YOU?』読了。
綾部さんが自身の相反する部分をわかった上で、自分の気持ちを殺さないために陽キャとして動いていき、知り合いのいないNYでおもしろい人たちと出会って居場所を築いた冒険譚である。ちょっと自己啓発的な感じになっているのかな、と思ったがそんなことはなかった。読んで勇気をもらったりする人は多そう。
日本の赤とアメリカの青のグラデーションとしての紫色という話は今ほんとうに大事で必要なことだな、と思った。混ざり合う部分が広がっていくとアメリカでも勝てる、やりたいことができる強さになるという話。白と黒の二元論が混ざり合うグラデーションの灰色よりも紫のほうが色気があっていいかなとも感じた。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年08月号が公開されました。8月は『裸足で鳴らしてみせろ』『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』『バイオレンスアクション』『NOPE/ノープ』を取り上げました。


昼前にスーパーに買い物に出たが、この暑さは暴力的すぎる。
サマソニリバティーンズ出演日だけチケットを取っているが、コロナがまた感染爆発しているのも怖いが、野外で立ちっぱなしでライブ観るのはこのままの暑さだとほんとうにヤバいと思う。
小雨ぐらいが降るぐらいでちょうどいいぐらいなんじゃないだろうか。個人的にはリバティーンズ観たら帰るつもり。ヘッドライナーのTHE 1975まで待って帰るのは時間的にも体力的にもしんどいし、いろんなリスクが高すぎる。

 

7月26日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年7月25日号が配信されました。今月は十七編の詩とそれぞれに自分が撮った写真をつけたものにしてみました。


不平等な現実に抗う〈民主主義〉をめぐって - 古川日出男論座

最後の文章で大きく頷いて同意した。

秋葉原殺傷事件の犯人である加藤智大の死刑が執行されたというニュースを見る。事件は14年前の2008年に秋葉原で無差別殺傷事件が起こり、八人が亡くなった。インターネットの掲示板で嫌がらせを受けたこと、世の中が嫌になったという理由で加藤は犯行をおこしたと言われている。
加藤は今年39歳で1982年生まれであり、学年は違うが僕とは生年は一緒だ。安倍元首相殺害犯の山上は1980年か1981年生まれであり、82年生まれの少年Aたちと80年代初頭生まれが起こした犯罪はどうしてもある種の括りができるし、なぜその世代というかその時に生まれた者たちがダークサイドに落ちていくのか、彼らは知り合いでも知人でもないがやはり他人事には思えない。
そういうことを言うと世代論で語らない方がいいとか言われるけど、学生運動やっていたもう老人になっていた人たちがあの時の青春をひきづったまま法改正だとかに反対したり、震災後に国会議事堂までデモしていたのも大きく考えれば世代論になると思う。もちろん、あの時に学生運動が成功していたら、という可能性のことや「ありえたかもしれなかった未来」ということがずっとあるだろうし、現在の日本社会や民主主義の根幹が壊れていくのに我慢できないということはあるのだろう。だけど、それも同じ時代を生きてきたからこその価値観であり、世代論でまとめると本質を見失うと言われるけど、半々だろう。世代としての塊として、その時代を生きる人間として重なりあう部分がそれぞれにあるはずだし。
死刑に関しては、国家の暴力であり個人的には反対である。犯罪を犯したものは死刑にしていいとなれば、加藤のような世界に絶望した人間は誰かを殺傷したあとに死刑を待つだけになる。近年そういう考えの犯罪者も増えているのは、生活の貧困だけではなく思想の貧困さとあまりにも可能性が見出せない社会を見せつけられることも大きいはずだ。結局それが死刑を求めてまったくの無関係の他者を殺めたり傷つけるという行為に出るものを増やしているのだと感じる。
タイミングの問題もあるが、山上が起こした安倍殺害とこの加藤の死刑執行が関係ないようには思えない。そのことも気に掛かる。

 

7月27日

大塚英志著『木島日記 うつろ舟』が本日発売。
今日はたまたま吉祥寺シアターでロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』を観に行く日だったので、少し早めに吉祥寺に行って書店で購入しようと思ったら、ジュンク堂書店にはなくてブックスルーエに行ったらコミックコーナーにあったので購入した。
前に吉祥寺で西島大介さんと飲んだ時に、だいたい大塚さんあそこで作業しているよって言われたお店に時間があったので行ったら、本当にいらしたので中に入ってコーヒーを購入して隣の席についてご挨拶をさせてもらった。
大塚さんには小説『木島日記 もどき開口』刊行時にインタビューさせてもらった時にお会いしたのが最後で、その時期は毎月連続刊行がある時期で数回作品に関してお話を聞かせてもらっていたので数年ぶりにお会いできた。
今作『木島日記 うつろ舟』が星海社から刊行された経緯とか、少しだけ聞かせてもらった。舞台が始まるので20分ほどお話を聞かせてもらって、こんな機会はないのでわがままを言って出たばかりの書籍にサインをしてもらった。
cakesでインタビュー行っていろいろあって怒られた後に、僕一人でインタビューしに行った。その後何度かインタビューに呼んでもらうことになったのだが、その一人で行った時に帰り際に持って行っていた小説『多重人格探偵サイコ・フェイク』にサインをお願いした以来だと思う。
大塚さんからしたら作業中だし、迷惑なファンの一人ではあると思うけど、ずっと読んでいる作家さんの新刊が出た日に著者に会えたらサインもらいたいよね。
大塚さんには来年連載中の漫画が形になる時にインタビューさせてくださいねってお願いもした。一応、個人的にはまだこういう運とか縁みたいなものは残っているかどうかはけっこうデカい。
来月以降の『北神伝綺』『北神伝綺 石神問答』も星海社から出るのでたのしみ。さすがに家の近所とか渋谷で買うけども。


ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』@ 吉祥寺シアター 
「いつ高」シリーズを観ていたら、時間の層が重なってより楽しめる所はあるが、この作品だけでも本当に素敵な作品で、かつて居た人と今居る人が一緒にいる空間の描き方が素晴らしかった。ラジオやコント愛、笑いが溢れる空間になっていた。
お客さんで来ていた小学校に入ってないぐらいの女の子が声出して笑っていて、それもすごくいい雰囲気になっていた。これで岸田國士戯曲賞候補になって受賞しちゃえばいいのに。
『ここは居心地がいいけど、もう行く』ってタイトルもある登場人物が出てきてから、もしかしてそういう意味なの?と思い始めて最後まで観ると日常と非日常が心地よく混ざり合うように感じた。

終わってから一緒に観劇した友人と電車で下北沢まで行き、茶沢通りを南下してトワイライライトで軽くお茶をしながら話をした。
久しぶりに会うので近況などもあったし、互いにお世話になっていた人の現状など話せる人が周りにいないのでその話とか。友人からはこの先ある場所で寄稿する話が進んでいると聞かされてうれしかった。声をかけてくれた方もすごい人でいろんなことを面白がっている人だし、その人が関係する場所で友人が長年調べていたことを発表できるというのはとてもいいことだ。もちろん、チャンスでもあるけど、友人の形にしたいという思いや行動が届いたことがとてもうれしかった。

 

7月28日

朝起きてから、「WDRプロジェクト」の原稿をチェックして最後の修正と調整をして応募する。
その後、銀行によって家賃とか税金を支払って、書店で燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』新潮文庫版を購入する。解説が町田康さんだった。

昼過ぎに映画の試写に行くつもりだったので、一旦家に帰ってからそのまま渋谷方面に歩いて行こうと思って試写状を見たら、前日の18時までに予約をしていないといけなかったことがわかり諦める。
とりあえず、渋谷の書店に行って、マーク・フィッシャーの新刊が出ているかなと思ったがまだでておらず、汗だくで12キロほど歩いていた。


二日続けてのトワイライライトになるが、夜のトークイベントを申し込んでいたので少し早く行ってニコラでお茶をしようと思ったらお店も混んでいたので食事はしないでビールとコーヒーを飲みながら、『西村賢太追悼文集』を読み進める。19時開始で30分前に開場だと思っていたら、30分勘違いしていて19時半から開始だった。

19時少し過ぎてからトワイライライトに行って、トークが始めるのを待つ。倉本さおり+町屋良平『読むこと、書くこと、その往復』トークイベントで来店参加。トワイライライトが3月11日にオープンしてから何回もお店には行っているが、店舗でのイベントには今回初参加だった。
お二人のトークのテンポと温度感などすごく合っていて、退屈しないでずっと聞いていられた。これってけっこうレアなというか、トークイベントってもちろんその登壇者のファンや興味ある人が来ているからたのしめるのだが、トークが淀みなくうまく噛み合っているかどうかというのはやはりなかなか難しい。しかし、今回のお二人は噛み合い方が滑らかでシリーズ化してほしいものだった。
読む&書く時の体調とか、インプットするまでの種まきや水撒きの話も個々の違いと似た部分の話が聞けてよかったし、終わってから初めてお会いした町屋さんに挨拶して、『ほんのこども』の感想と80年代初頭生まれの問題なんかをお話しできてよかった。
江國香織さんと古川日出男さん大好きな倉本さんとも古川さん話もできたし、江國さん好きな町屋さんに二人で江國さん&古川さんはインプットは全然違うけど、ものの捉え方は一緒なんだと思うという話もさせてもらった。

 

7月29日
燃え殻さんのラジオ『BEFORE DAWN』をradikoで聞きながら、リモート作業。
大盛堂書店の山本さんも本の紹介でコメントを寄せられていた。山本さんが紹介された佐原ひかりさんは「氷室冴子青春文学賞」出身で、その賞は僕がスタッフをしている「monokaki」の母体である「エブリスタ」が公募している。
佐原さんの活躍と評価を見ると、「氷室冴子青春文学賞」出身者の作家さんがこのまま活躍していくと、「メフィスト賞」や「R-18文学賞」という小説好きな思い浮かべる作家群が出ていく場所のようなものになるんじゃないかなと期待している。僕は「monokaki」だけなので関わっていないのだけど。

燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』の新潮文庫版が出ていたので、順番ではなく、なんとなく開いた場所を読んでみる。単行本の時に読んでいるので、読んだことがあるよなあと思う、文章に再会するような感じがした。単行本で読んでいるものはまず、最後の文庫版のあとがきとか解説から読むので、町田康さんの解説から読んだ。町田さんらしいエピソードを持ってきていた。
山本さんも言われていたけど、燃え殻さんの書かれるものは「逃避行」とか「ここからどこかへ逃げる」というものが核にあって、それが多くの人を惹きつけるし、読み手に深く沈み込んでいくのだと思う。
逃げたいけど逃げられないとか、ふらっとどこかに逃げたくなるとか、でも家族や仕事やとかもろもろあってそれができない人の背中を押すこともあるだろうし、できない人の代理というか代わりに燃え殻さんがそれをしていることで心が軽くなる人もいるのだと思う。

小説『これはただの夏』は主人公の「ボク」と同じマンションに住む小学生の明菜の物語であるが、父になれない子供を持たない中年男性が子供と過ごす話である。マイク・ミルズ監督『カモン カモン』や『トップガン マーヴェリック』同様のテーマだなとも思う。
先進国で結婚しないで父にもならない男たちが、どう大人になるか、父になるかという問題がこの数年描かれるようになっている。それは僕も同様の中年で結婚もしていないし子供いないから余計にそう感じるのだとも思うのだけれど。
ソフィア・コッポラ監督『SOMEWHERE』はハリウッドの映画スターのジョニーが前妻がしばらく家を空けることになり、別に暮らしていた11歳の娘のクレオを預かることになってしばらく同居するというものだった。
『これはただの夏』と『SOMEWHERE』はどちらも主人公と時間を共にする子供の母はいなくなる。『これはただの夏』でも明菜の母も、『SOMEWHERE』のクレオの母も、ある種「逃避行」をしているし、短い期間だが「ここからどこかへ逃げる」ことで人生のバランスを取ろうとしているように見える。だから、『これはただの夏』は逃避行された側を描いた作品である(彼女たちは帰ってくる)ので、燃え殻さんがずっと書いてきたこととは見え方が真逆だが、軸は通じている。

燃え殻さんの小説やエッセイを読むとその「逃避行」的な部分も憧れもあるのだけど、僕はどこかへふらっと行けるタイプではない。だけど、シンパシーを感じるのはそもそも僕が東京に居て暮らしていることが僕なりの「逃避行」のひとつの形であるからなのだろうと書きながら思った。もちろん、妄想や想像も「逃避行」のひとつになっているんだろう。田舎の人間が大都市で生活すること、地元に戻らないという選択を取り続けるのは「逃避行」の常態化ということもできるのかもしれない。


マーク・フィッシャー最終講義『ポスト資本主義の欲望』が出ていたので購入。
『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』刊行時にタイトルと装丁に惹かれて出会った時にはすでに著者はこの世にはいなかったが、こうやって形に残っていくことはとても大切なことだと思う。


前に古本で買った村上龍坂本龍一著『EV.Cafe 超進化論』(鼎談:吉本隆明河合雅雄浅田彰柄谷行人蓮實重彦山口昌男)を読了。
『愛と幻想のファシズム』に至る過程というか龍さんが、小説を書くために歴史や経済や生物学などをどんどん学んでいた時期なんだとよくわかる。

 

7月30日

朝起きてからスーザン・ソンタグ著『ラディカルな意志のスタイルズ』があるかなと蔦屋代官山書店まで散歩がてら歩いていく。やっぱり人文書コーナーにあったので購入。菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」のバンド名はこの書籍から取られている。

 「ラディカルな意志のスタイルズ」は、米国の女性評論家、スーザン・ソンタグの代表的な著作の一つで、愛読書でもあるけれども、音楽とは一切関係ない(というか、音楽と書物が関係を結ぶことはできない。「楽譜集」という書物でさえ、音楽とは、偽りの関係しか持っていない)。長い間、翻訳書名が「ラディカルな意志のスタイル」だったのが、2018年から完全版となり、「スタイルズ」に改まったので、「これはバンド名みたいだから、いつかバンドを作ったら名前を借りようっと」と思っていた。その時が来たのだ。せっかく日本語の名前をつけたので、バンド名を他国語には翻訳しない。(ビュロー菊地だよりより)

スーザン・ソンタグの名前は聞いたことはあったけど読んだことがなかった。新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」の初お披露目ライブである「反解釈0」の先行チケット申し込みをした流れもあって、この際に読むのはいい機会だと思った。
『ラディカルな意志のスタイルズ』の訳者は管啓次郎さんと波戸岡景太さんのお二人だった。管さんは「朗読劇『銀河鉄道の夜』」などでお会いしていて、波戸岡さんって名前を知ってるなと思ったら管さんも発表者として出演された特別シンポジウム「古川日出男、最初の20年」に出られていた方だとわかった。シンポジウムを見にいっていたので、こういう所で菊地成孔さんからのラインが繋がるのはなんだか心地いい。

そんな中、「ビュロー菊地チャンネル」のブクログの最新回「コロナ感染記」が公開された。登録していなくても今回は読めるようになっているらしく、ツイッターでも回ってきた。
チャンネル登録しているのでメールのほうに来ていていたので、仕事が終わったら風呂に入りながら読もうと思っていたけど、それで早めにウェブで読んだ。
菊地さんがコロナに感染したのは前の日記にもあったが、新バンド『ラディカルな意志のスタイルズ』のライブを期待していて(チケットが確保できたわけではないが)、その由来の書籍を買った日にこういう文章を読んでしまうといろいろと心配にはなる。
感染してから9日ほど経過して日記も書けるようになったらなによりであるが、ライブで元気なというか新しいことを始める菊地さんをしっかりとこの目で観たいと思わせてくれた。

あと、日記におけるストリートの繋がりと知性で動いたという部分も考えさせられる。スマホではどうにもならない事柄、生存に関わる部分はネットやスマホだけに頼っていたら無理だということが可視化されているのがコロナの時代だし、どちらも駆使しなくてもいいが、ほどよく使える状態でないと助かるものも助からないということがみんな肌身にわかってきていると思う。
スナックが客の生存確認になるような顔見知りの関係性とかはないよりはあったほうがいい。僕にとってはニコラがそれにあたるけど、顔見知りがいなくても(作らなくても)生きていける都会という場所は一歩間違えれば、年を重ねている人は簡単に孤独死してしまう可能性がコロナによって比較的上がってしまったわけだ。SNSも生存確認的な場所になっているところはあるし、Facebookは使っている世代が中年以降だろうからそうなっている部分もある。


Apple 1984 Super Bowl Commercial Introducing Macintosh Computer (HD) 


『ポスト資本主義の欲望』の最初の注に出てくるAppleのCM。
ジョージ・オーウェル著『1984』を彷彿させ、ソ連など共産主義の灰色な世界をカラフルな服の女性アスリートが放ったハンマーが演説をしている男性が映っているモニターを破壊する。

『神回だけ見せます!』#6 マスクマン!(ゲスト:蛭子能収)が公開されてるのに気づいた。一気にシーズン2とも言える「#10」までの5回が配信されていた。

伊集院光さんと佐久間宣行さんによるこのシリーズは前回のシーズも全部何回も見たけど、次のものを撮影したと言われていて楽しみにしていたからうれしい。この「#6」の蛭子さんは素というか、テレビでは見たことのないような、家庭での亡くなった妻との時間を過ごしていた時に近い状態をある意味でテレビに映し出されている。ドキュメンタリー的なものが強く、最後にCG画像で出てくる若き頃の蛭子さんと妻の声を誰がやっていたのかが明かされるのだが、ほぼ当ててしまった伊集院さんもすごいし、その正体も驚きしかない。

『神回だけ見せます!』#9 プロ野球中継 巨人–中日・伝説の神イニング 

野球好きの伊集院光さんの細かな部分の指摘と裏方だったからわかる佐久間宣行さんのスイッチングの凄さの話がより試合を面白く見せてくれる。松井秀喜さんの喜びの顔を撮れた理由の説明も納得。

『神回だけ見せます!』#10 日本のバラエティーを創った男・井原高忠(ブラウンさん)

水道橋博士のメルマ旬報」チームでもある吉川圭三さんがプロデューサーだった番組で、最初に井原さんについてコメントされていた。前のシリーズの最後「#5 萩本欽一(ブラウンさん)  」もすごくおもしろくて、萩本さんとオードリーの若林さんふたりでやったラジオも聴いたりしたし、YouTubeのコメント欄ではやはりこの配信を見てからきた人が多かった。

今回新たに5回分配信されたのを見始めたら一気に全部見てしまったのだが、シリーズを通して日テレサーガと日本のバラエティの歴史を描いているように見える。MCが元テレ東の佐久間さんと伊集院光さんという日テレ外部の人間であるが、テレビ局の裏方だった人と出演者としてずっと活躍している人というコンビ。しかもどちらもラジオ番組でMCをしていて多くのリスナーがいて語りもうまく、エンタメ関係の造詣があるからこそ、語れる角度があるという非常にいい組み合わせ。

井原さんが元ジャズのベーシストだったという話が出てくるが、日本のTVバラエティや大手芸能プロダクションはジャズと音楽から始まってるし、ベースになっている。音楽的な部分がテレビを作ってきたという話も出てきて興味深い、今はそういうものはどうなっているんだろうか。
クレイジーキャッツやドリフなど音楽畑から出てきた人たちがバラエティを作ったのちに、漫才ブームなど経て吉本勢が日本のバラエティ番組を支配していった流れがある。そこにはジャズのリズムとは違う関西弁のリズムがあっただろうし、最初にあった音楽的なものは薄れていったんだと思う。


菊地成孔さん曰く「一人クレイジーキャッツ」な星野源さんはその始まりの遺伝子を引き継いでいるからこそ、『おげんさんといっしょ』もできるわけだし、現在性を持ちながらもかつてあった音楽も笑いも含んだバラエティ的なこともできるんだろう。
あとはジャズの孫的なラップをやっているラッパーという存在が先祖返りしてもっとバラエティ的なものに出てくる、変えられるターンが来たりするのかなと思わなくもないが、今の所そういう感じはあまりない。

 

7月31日
2年前の今日(7月31日)から『ゼロエフ』の国道6号線パートの取材が始まった(歩き出した)。終わったのは8月10日。もう2年前なのか、まだ2年前なのか。

目撃!にっぽん 「震災10年の“言葉”を刻む ~小説家・古川日出男 福島踏破~」



ナ・ホンジン(『チェイサー』 『哭声/コクソン』)原案・プロデュース ×バンジョン・ピサンタナクーン監督『女神の継承』をヒューマントラスト渋谷で朝イチの回を鑑賞。『哭声/コクソン』が衝撃的だったこともあるし、土着的な物語っぽいのも惹かれてなんとなく前情報はほぼなく観た。

「チェイサー」「哭声 コクソン」のナ・ホンジンが原案・製作、ハリウッドリメイクされた「心霊写真」や「愛しのゴースト」を手がけたタイのバンジョン・ピサンタナクーン監督がメガホンをとった、タイ・韓国合作のホラー。タイ東北部の村で脈々と受け継がれてきた祈祷師一族の血を継ぐミンは、原因不明の体調不良に見舞われ、まるで人格が変わったように凶暴な言動を繰り返すようになってしまう。途方に暮れた母は、祈祷師である妹のニムに助けを求める。ミンを救うため、ニムは祈祷をおこなうが、ミンにとり憑いていたのは想像をはるかに超えた強大な存在だった。(映画.comより)

一応、祈祷師であるニムをドキュメンタリー撮影しているクルーがいて、その流れから彼女の姪っ子のミンや姉のノイ、長兄なども撮影しているというフェイクドキュメンタリー的な作品になっている。その中で本来は妹だったニムが祈祷師になるのではなく、姉のノイが継承するはずだったが彼女はそれを拒んだことで妹が継承したことなどがわかり、一族間でのわだかまりのようなものも明らかになっていく。

ノイの娘であるミンが次第に凶暴になったり、ひどい言動をするようになって別人のように振る舞うようになる。ニムたちは彼女の出ている症状から次の継承者がミンであると思うのだが、実は彼女に取り憑いていたのはニムたちの一族のものではなく、ミンの父方の一族が起こした出来事が原因だったことが判明する。ニムは自分では手に負えないとさらに強力な力を持つ祈祷師に助けを借りて、ミンに取り憑いた存在を取り払おうとするのだが、という話。
その部分があるのでふたつの強い力のぶつかり合いみたいなところもあるので、『貞子vs伽椰子』ぽさもあるなと思えた部分があったけど、あのラストみたいな爆笑は起きずに、終始かなり怖かった。何も食べずにコーヒーを飲みながら鑑賞していたので途中怖くてちょっと吐き気がした。空きっ腹だったからダメージが来たのだろう。

ドキュメンタリータッチだから、外部(部外者)的な視線(カメラの視覚)と土着的な内部(歴史や民族的もの:精霊とか諸々)が混ざり合う感じになっていた。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とアニミズム的なものを掛け合わしたホラー作品というのが一番わかりやすいかもしれない。対決が終わったあとにニムのある発言が撮影されているという部分があるのだが、それがいちばん怖いっちゃ怖いし、作品に対してのエクスキューズぽさもあった。


アアルトコーヒーの庄野さんにオススメされた浅倉秋成著『失恋の準備をお願いします』を読み終わる。
元々のタイトルは『失恋覚悟のラウンドアバウト』だったが、改題してタイガ文庫で出ている。改題前のほうがいいタイトルだなと最後まで読むと感じた。
伊坂幸太郎さんの『チルドレン』ぽいやさしい感じもあったし、森見登美彦さんっぽい会話のテンポややりとりがあるので、二人が好きならおそらく楽しめるエンタメ作品。そう考えるともっと売れて評価されていてもよさそうな気もした。
ひとつの舞台を章ごとに語り手がいて、連作短編的につなげていくのは伊坂さんぽいし、読みやすくてやりとりもおもしろかった。設定もわりと突飛なものがありましたが、登場人物たちをセリフのやりとりのいい流れでその違和感をなくして、世界観に入り込ませていくのは上手だなって思う作品だった。

 

8月1日

水曜日にインタビュー取材に行くので久しぶりに会社に行き、先方に借りっぱなしになっているポメラを回収した。部屋の端っこに積んである段ボールの中から発見できたので、そのまま持って行ったノートパソコンで作業をしてもよかったが、現在本来使っているフロアが改修中で、大きめのフロアにいろんな事業部が集まって仕事をしている感じで、知った顔もいないし、そもそもリモート長くなったせいで人と一緒の場所で作業するのが違和感あるのでポメラを持ってすぐに会社を出た。
最寄りの竹橋駅東西線なので、歩いて九段下駅までそこから半蔵門線で渋谷まで行ってから残りを歩いたら汗だくになった。体がかなり熱を持っている感じだったので、家に着いてから水風呂に入った。これだけ暑いと水風呂にしても「つめたっ!」という状態が続かずにすぐに慣れた。心地よい感じで体の熱が放出される感じが心地よかった。

 

8月2日

ハチミツ二郎著『マイ・ウェイ東京ダイナマイト ハチミツ二郎自伝-』読了。
整骨院帰りに銀行に寄って、開いたばかりの書店で購入して読み始めて、ああ、これは最後まで一気にこの日のうちに読まないとダメなやつだと思った。
僕が東京に来てから最初に観たお笑いのライブは東京ダイナマイトのものだった、はずだ。記憶が覚束ないが映画の専門学校の関係というか繋がりで彼らのライブの無料招待枠があるというので足を運んだ。箱ではなく空が開けていたから今考えると日比谷野音とかだったと思う。この本に出てくるフリーでやっている時に日比谷野音でやったライブだったのではないかと思う。ちょうど2002年、上京した年だ。違うとしても映画学校関連でどこか野外で東京ダイナマイトのライブを一度観ている。

心不全とコロナ罹患による二度の死にそうになった経験、お笑い芸人として事務所を渡り歩き、吉本の劇場でショー・ストッパーになりトリを務めるようになった話など、15才で東京に出てきて20才でNSCの東京第一期生になって芸人になってから現在までのことが書かれている。
妻と娘と家族のこと、サンドウィッチマンの伊達さんなど昔から一緒にやってきた芸人仲間とのこと、ビートたけし中田カウス立川談志長州力など粋な人たちの交流と彼らからもらった言葉、松本人志太田光という先輩芸人たちのことなどがかなり赤裸々に綴られている自伝だった。
最終的には実家の家族、自分の今の家族における人間関係の話が淡々とだが語られていく。そこで明かされていく事柄が家族というもののややこしさ、人間同士のつながりの強さともろさが書かれており、胸に響く。ちょっとだけ、映画『嫌われ松子の一生』みたいな肌触りのようなものがあった。

作中でハチミツさんがかつて世話になったが、トラブルになったり関係性を絶っているような感じになっている先輩の名前が黒塗りで出てくる。ひとりは黒塗りの箇所の一箇所の漢字が見えたりして、名前がわかるという仕掛けになっており、申し訳ないがわかった瞬間笑ってしまう。なにがほんとうなのか他者である読者には実際のところはわからない。これはハチミツさん側から見えた出来事だから。
この先輩後輩関係のところを読んでいるといろいろと頭に浮かぶものはあるが、結局のところ、双方の話を聞いてもおそらく記憶していることは違うだろうし、感情も記憶も残念ながら生きていく日々の中で変わって行ってしまう。
人間は憧れと蔑み、恩と仇など自分の人生におけるそれらの感情と共に他者のことを人生に刻みつけていく。

ともあれ、『あちこちオードリー』だったか、上から可愛がられている人よりも下から慕われている人のほうが信用できるというのを見た記憶があって、残念ながら僕は下には慕われそうにはないので邪魔をせず、陰ながら応援するというスタイルで生きていこう。エアポケットの、上から足蹴り、下から踏み台にされる世代としては。
お笑いとプロレスというものに影響をド直球で受けた世代であるハチミツさん、年齢からすれば団塊ジュニアに属するはずだ。個人的には僕よりも上の世代の彼らのことが時折羨ましいなと思うのはまず人口的に多く、いろんなものが細分化されずにデジタルに移行する前のアナログだった時期に思春期を過ごしていることである。だから、共通認識(あるいは固有名詞)でわかる事が最後に多いパイであり、それだけで未だに商業的に成り立つ最後の世代だということだ。

就職氷河期とか失われた30年がなければ、団塊ジュニア上司とうまく関係を築くための専門用語集みたいな形のコミュニケーション本みたいなものが出ていたのかなと思う。
いろいろと思い浮かんだことを書いたけど、『マイ・ウェイ東京ダイナマイト ハチミツ二郎自伝-』はすごくおもしろいので、お笑い好きな人や自伝とかノンフィクション好きな人にはオススメ。

 

8月3日
二年ぶり二度目のキングジムさんの本社に出向き、新製品「DM250」が発売になったポメラについてのインタビューをさせていただく。もうひとり編集部から伺う予定だったが体調不良なので一人でお話を伺った。
前にお話を聞いた時は三人で伺ったので、話を聞きながら、一人は同時に文字起こしをし、一人は写真を撮ったりと役割分担ができたが、一人だと話を聞く以外は無理なので、録音が失敗しなければ大丈夫だと思い込んで、一時間半近く広報部と開発部の方お二人にポメラについていろいろと聞かせてもらった。
実際に対面でインタビューするのはかなり久しぶりだったけど、ZOOMとかでは顔色や声色などの情報量はどうしても少なく距離感が難しい。

新製品「DM250」のキーボードの打ち心地やボタンを押したあとの返りなんかも前作「DM200」と並べて押させてもらったりしてその違いもわかったりした。こういう微細なことがやはり大きなことだし、質問や僕が相手の話に対しての反応、そういうものへのリアクション、さらにそれへのリアクションというライブ感が大事な要素となる。インタビューはテーマや取り上げるものについて、どこまで話をしてもらえるかは無駄話的なことのアイドリングがほんとうに必要だと改めて思った。
縦書きと横書きの違いと問題、若い世代はそもそもパソコンを使わないのでキーボードで文章を打たない(打てない人がいる)話などこちらから質問にはあまり関係がないけど、多少フックとなる話題を提供することで、話してもらえる内容が変わってくる感じもやはりあったし、そういう時には相手側もご自身のポメラに僕の話から感じたことを打たれていたから、記事にはあまり使えない部分が多かったけど言ってよかったなと感じた。
インタビューさせてもらうのはやっぱりおもしろいしたのしい。もちろん、自分が興味あるものだからっていうのが大きいけれど。
インタビューするなら相手のこととか対象物については最低限調べたりとか諸々しないといけないのは当然で、それでようやく準備はゼロに近づく。あとは人間同士だから相性もあるし、その日の機嫌とかいろんな要素が作用してくるから、準備をしていないと臨機応変な対応は難しくなってしまう。

僕はインタビューとかのやりかたを習ったわけではなく、最初にインタビューさせてもらったのが大塚英志さんだったし、その後に原作で関わっている漫画作品を全部読んでから再度インタビューに来いと言われたことでそれが準備の最低限のことになったというのも大きいんだと思う。
その後もいろんな作家さんのインタビューとかをさせてもらうときにはできる限り出ている書籍や作品を読んでいくようになった。単純にそれをしておくと話の最中に、相手がこの人はちゃんと自分の作品をしっかり読んできてくれたとわかってもらえる状況になる、信頼に近いものが感じてもらえると話を聞いていてもうれしいし、相手もしっかり作品や自分についてあまり話していなかったことを話してくれる。そういう時の話はすごくおもしろいし、他には出ていないものだったりするけど、そういうものは記事としては基本的には使えなかったり、世に出せないことだったりもする。
そういう経験を何回かしているから個人的にインタビューするのは好きなんだと思う。


仕事が終わって、久しぶりのインタビューのご褒美としてニコラで信濃地鶏スモークと白桃のスパゲティーニをいただく。
地鶏も白桃も長野産でこの時期恒例のお楽しみ、ワインは北イタリア産でほのかに桃の香りもあるものを選んでもらった。旬のものを旬な時に食べられることの贅沢としあわせ。

8月4日

水道橋博士のメルマ旬報」チームの村中誠さんの展示をギャラリーゴトウで鑑賞。
村中さんとはお会いして話をさせてもらったのは初めてだったけど、いろいろとお話ができてうれしかった。
展示の絵はまずカッコいい。こういう絵が装幀に使われたらめちゃくちゃいいのに、まさにジャケ買いしたくなるセンス。余白の使い方とか動物であれ人であれ、何を省略するか描かないかというところの抽出の感じがとても素敵だと思う。



銀座線の渋谷駅で降りてスクランブル交差点に行こうと歩いていて、久しぶりに岡本太郎作『明日の神話』を見た。デカくてビビッドであるものにははやり足を止めてみてしまう力がある。


「村中誠展」を銀座で観てから渋谷に戻って、大盛堂書店さんに寄って凪良ゆう著『汝、星のごとく』を購入。
凪良ゆうさんは「monokaki」で「本屋大賞」受賞前にインタビューさせてもらって記事を掲載させてもらって、1回目のノミネートで行くのかな? あとあの内容だけど(悪い方に取られかねないし)支持されるのかな? と思っていたら受賞された。
前に水道橋博士さんがサイン入れにお店に来られた時にお邪魔した際に、博士さんと入れ替わりで凪良さんが来店してサイン入れをされていた時にご挨拶だけはさせてもらうという機会があった。
書店員の山本さんもこの作品は「小説現代」掲載時からかなり推されていたので、買うなら大盛堂だよなって思っていた。で、サイン入りのものもあったけど、なくてもいっかと思ってレジに行ったら、店員さんにサイン入りもありますよと言われたので諦めてサイン入りを買った。
わかるよ、わかるんだよ、サイン入った書籍は返本できないし、そっちから売りたいのは。それがお店としては正解なんだよ、人気のある作家さんのサイン本はある程度ハケるから心配はないんだろうけど。

数年前からサイン入りの本が書店によく並ぶようになったと思う(僕が書店でバイトしたのは二回あって、文教堂三軒茶屋店(今はない)と中目黒ブックセンターでゼロ年代中頃だったけど、サイン本なんか入荷したのを見たことなかったんだよなあ)。
作家さんは出版社に頼まれてサイン入れて、それが書店に送られて並ぶんだけど、サイン入った本が売れなくて(残ったまま)何年もお店に置かれているのたまに見ちゃうから、出版社さんあんまりサイン本を作り(送りすぎる)とのちのち作家さんも本屋さんも読者もちょっと悲しい気持ちになるよ、と思ってしまう自分がいる。
コロナパンデミックになって、サイン会とかできなくなったのもあって、サイン入りのものが書店に並ぶようになったということもあるのだろうか。


先日買った舞城王太郎著『短篇七芒星』はサイン入りしか近くの書店には置いてなかった。ナンバリングと絵とセリフがあったから、これなんだろうと思っていて、舞城さんのツイッターアカウント見たら、サイン本一冊ずつに漫画の一コマずつを描いているという恐ろしいことをしていた。これ描くのもだし、画像撮る時間考えたらエグい。しかも、どんなにがんばっても全部揃えることは不可能。そういうところが舞城王太郎ぽくはあるが。

 

8月5日

大塚英志著『木島日記 うつろ舟』読了。
サブキャラである土玉と安江がやっぱりいい味を出していた。ある場面では映像を撮影する円谷英二らしき人物が出てくるし、木乃伊の老人のひとりが平賀源内と思われる人物もいたりして、実際の歴史との符号などがあり、そこもちょっと読んでいてワクワクする小ネタというか。この作品に出てくる清水という陸軍少尉は『多重人格探偵サイコ』に出てくる清水老人だし、スパイMは『オクタゴニアン』にも出てくる人物であり、大塚英志さんが手がけた他の作品ともシェアワールド化しているのも一連の作品を読んできたものとしてはうれしい。
「うつろ舟」と「UFO」に関するものを主人公の木島平八郎がどう「仕分ける」かという話でもあるが、偽史とオカルトというものが20年前より現在の世界のほうがよりリアルさを感じさせることが一番怖い。正史が崩れてしまうと偽史が成り立たないというか、遊びやフィクションにもなりにくい、逆にリアリティが出てしまうような。
折口信夫にできた痼についての描写がエロティックな感じになっているのも今作の特徴というか、折口という人物のセクシャリティや人物像、来歴とも違和感がなく感じられた。

 

8月6日

日本有数のドヤ街として知られる東京・山谷。

この地で2002年に民間ホスピス「きぼうのいえ」を創設した山本雅基氏と妻・美恵さんは、映画『おとうと』(山田洋次監督)のモデルとなり、NHK『プロフェッショナル』で特集されるなど「理想のケア」の体現者として注目を集めた。

ところが、現在の「きぼうのいえ」に山本夫妻の姿はない。
山本氏は施設長を解任され、山谷で介護を受け、生活保護を受給しながら暮らす。美恵さんは『プロフェッショナル』放送翌日に姿を消し、行方が分からないという。

山本氏は、なぜ介護を担う立場から受ける立場になったのか。
なぜ美恵さんは出て行ってしまったのか。
山本氏の半生を追う中で、山谷という街の変容と、特殊なケアシステムの本質を見つめた、第28回小学館ノンフィクション大賞受賞作。(公式サイトより)

末並俊司著『マイホーム山谷』読了。ドヤ街が成り立った戦後の日本社会、そして沈んでいく(老いていく)経済を体現する町でもある山谷。だが、よそ者を受け入れる町はケアするよそ者たちも受け入れ、地域での包括的なケアのできる日本でも進んだ町になっていた。
夫婦をモデルした映画やNHKのドキュメンタリーでも取り上げられた山本夫妻、妻はドキュメンタリー放送翌日に家を出ていく。残された夫はやがて自身が関わった山谷の介護やケアシステムに助けられる存在となっていた。
高齢化するホームレスなどを受け入れる山谷の包括的なケア。このノンフィクションは著者の末並さんの取材が活きているからこそ、ある町のことやそこでケアに関わる人たちの話を聞きながら、現在の日本社会の問題が浮かび上がっている。
ホーム・レスではなくファミリー・レスな世界において、この先のことを考えると他人事ではない話。
最後に家を出て行った山本さんの妻への取材が成功しており、そのことで夫婦それぞれが抱えていた問題と彼らの希望だった「きぼうのいえ」が実際はどんな状況だったのかがわかってくるのもノンフィクションとしての完成度を高めているように感じた。
平坦でわかりやすく、取材者としての感情を出さないことでフラットに山本さんたちのことを書いているので非常に読みやすかった。今年の「本屋大賞 ノンフィクション本大賞」には入ってないけど、介護系の棚に置かれてもっと読まれるといいな。


『群像』2022年9月号でお目当ての古川日出男連載『の、すべて』8回目と宇野常寛連載『庭の話』3回目を読む。
前者は舞台が1990年代から現在へ時間が動き、語り部が語るべき人物である大沢光延が政治家(都知事)になり、都庁でテロに遭ったまでを前々回と前回で描いていたが、同時にコロナパンデミックの話も並行している。政治と宗教というまさにリアルタイムな話とコロナパンデミックというこちらもこの数年世界中を揺るがした出来事であり、現在進行形の話が混ざり合いながらなぜこの小説が「恋愛小説」であり、「恋愛小説」を書かねばならないのかというこの作品の主軸が現れたような回だった。
後者は「庭」という比喩を使いながら、これからのサイバースペースと実空間の双方を包括する「次のもの」として「庭」という場所を前提として話を進めている。今回は「小網代の森」へ宇野さんが訪れた際の印象とその森を保護し作り上げた生物学者の岸由二氏と仲間たちの活動から「作庭」というものについて展開しながらも話を進めていく。「動いている庭」から「多自然ガーデニング」へと思考を拡大することを学ぶのではなく、その発想をいかにサイバースペースと実空間に対しての発想の応用を考えるヒントに、ということが書かれている。
どちらも一冊に纏まるのはしばらく先だと思うが、連載を読みながら纏まるのをたのしみにしている。

 

8月7日
三四郎のオールナイトニッポン0(ZERO)』今週は相田が体調不良でお休みだったので、小宮&赤もみじの村田と四千頭身の都築がゲストだった。
今回もむちゃくちゃでおもしろかった(都築のファッションいじりは鉄板だ)し、三四郎の番組でゲスト来る回は当たりが多い。なかやまきんに君ゲスト回、はんにゃ金田回、しずる池田回、パーパーほしのディスコ回は何度も聴いてはその度に笑ってしまう。
三四郎は東京出身で成城学園中学、高校というのも彼らのアイデンティティや芸風には大きいんだなとトークで彼らの地元や育ってきた環境の話で強く感じる。
今いちばんたのしみにしているラジオは菊地成孔さんのフェイクラジオである『大恐慌へのラジオデイズ』とこの『三四郎オールナイトニッポン0(ZERO)』だったりする。

『オードリーのオールナイトニッポン』もコロナパンデミックになってから聴くようになったし、楽しみにしている番組だが、リトルトゥースかと言われるとそこまででないなと思う。前に『あちこちオードリー』でニューヨークがゲストの時に「自分達(オードリーもニューヨーク)は最後のガラケー世代」と言っていたのが印象的だった。
実際にはオードリーのふたりは1970年後半生まれなのでガラケー世代で、ニューヨークは80年代後半なのでゆとり世代だと思うが、お笑いに対してのスタンスややりかたに対して「最後のガラケー世代」という言い方をしていたのだと思う。ニューヨークからすれば、女優さんとか女性タレントとワンチャン行きたいみたいなことを言う意識が今の芸人にはなく、昔の昭和的な芸人だというニュアンスだったと思う。

三四郎オールナイトニッポン0(ZERO)』もradikoでもyoutubeでも過去のを聞いていて、音楽はサブスクで聴きたくないからSpotifyは使っていなかった。
先月ぐらいにずっと使っていたiPod nanoがついにお亡くなりになったので、外出中はradikoでラジオを聞きながら歩くようになった。という流れもあって、ラジオを聴くということだけでSpotifyを登録して『83Lightning Catapult』を聴き始めた。
三四郎相田周二アルコ&ピース酒井健太が二人でやっている番組で、先週から聴き始めたらもう7月分まで聴き終えてしまった。
今日も散歩がてら一時間半ほど歩く時に『83Lightning Catapult』を聴いていた。タイトルに「83」が入っているのは二人が1983年生まれであるということからだが、相田と酒井のやりとりを聴いているとある種の無邪気さがあり、闇落ちしないですんだ(もちろん芸人として成功もしている)んだよなって。

実際に80年代生まれを分ける大きなキーは『ポケットモンスター』以前以降だと思う。そう思っていると、安倍晋三襲撃犯の山上徹也を含め1980年初頭生まれについて考えてしまう。
闇落ち、ダークサイドへの転落、『スター・ウォーズ』におけるアナキン・スカイウォーカーダース・ベイダーへなったというわかりやすい「光」の側だった者が反転して「闇」の側になるということはどんふうに起きるのか。
日本のフィクションだとなにがあるのかなって考えていたら、『ビックリマン』シリーズの「アリババ」がそうだった。七神帝と呼ばれることになる若い戦士だが、彼は闇落ちして仲間たちの前に敵として立ちはだかることになる。
だが、調べてみるとその後の『新ビックリマン』以降にも。もう一度闇落ちして悪魔として主人公たちの前に立ちはだかっていた。二回も闇落ちさせられていた。最終的にはその罪を償うための存在になるとあった。個人的には昔から「アリババ」は好きなキャラクターだったのだけど、たぶん、七神帝の中で主人公格である「ヤマト」以外でいちばん物語があるのが「アリババ」だったことが大きいのかもしれない。ある種可哀想な宿命が判官贔屓的なものを呼び起こしている部分もあったのだろう。
ビックリマン』シリーズにおける「アリババ」という存在をモチーフにしたら、80年代初頭生まれについて書けることがあるんじゃないかなと思った。


二年前に『ゼロエフ』の取材に行く前に何作かノンフィクション作品を読んだ。
村上春樹著『アンダーグラウンド』とこの『約束された場所で』は東日本大震災同様に簡単に「風化」されてしまったオウム真理教について考えるきっかけになったが、この信者側を取材したものは今読まれたほうがいいと思う。

 

8月8日

最初は、たとえばビートルズジョン・レノンからオアシスのリアム・ギャラガーの共通点は、丸縁のサングラスを似たように愛好しているくらいだと思えていたが、実際には、カウンターカルチャーの受動性という行き詰まり、あるいは、フィッシャーの言う「なあ、それはすべて精神の問題だ」という感受性は、ブリットポップ的な快楽主義の「ぼやけて、かすんで、酔っ払って、疑い深く、キザな」バイブスの背後にある推進力であり、それはかつての粗野なボヘミアンの麻薬パーティーにとって受動性が推進力となっていたのと同じことだったのだ。
 このことは、アシッド的な俗世界を描いた歌に目を向ければ、直ちに明らかとなる。ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」(1967)とオアシスの「シャンペン・スーパーノヴァ」(1995)の2曲だ。30年近くあいだがあいていて、(政治的にも)異なる2つの世界から生まれた曲だが、それにもかかわらず、サイケデリックな憂鬱が2つの曲を結びつけている。同じような幽霊的でメランコリックな転移が、ジョン・レノンオノ・ヨーコの1969年のパフォーマンス《平和のためのベッド・イン》と、――その朽ちた残骸のようにして1998年にテート・ギャラリーという陰鬱なホワイト・キューブから再出現した――トレイシー・エミンの作品《マイ・ベッド》とのあいだに見受けられる。
 90年代資本主義の憂鬱のもとでの、60年代のこの表面的なくりかえしは、前世紀の「世紀病」的デカダンスと似ている。ずっと以前の夢が、悪夢のようにぎこちなく死体解剖されるが、そこには近代を準備する自己意識の覚醒が欠けている。この意味で、ブリットポップとはまさしく残酷博覧会だ。新自由主義の幽霊とゾンビの行列が展示され、それがサイケなもの[=心(psyche)]に取り憑き、後を付け回しているのである。
『マーク・フィッシャー最終講義 ポスト資本主義の欲望』 編者解説 マット・コフーン「悲惨な月曜の朝はもうたくさんだ」より

The Beatles - Lucy In The Sky With Diamonds (Remastered 2009)



Oasis - Champagne Supernova (Official Video)



朝晩とリモートで作業。休憩中に読み進めていた『マーク・フィッシャー最終講義 ポスト資本主義の欲望』の第5講までが終わり、講義パートが終わったので編者解説を読んだ時に気になったのが上記の引用部分。
ビートルズとオアシスというイギリスを代表するロックバンド、そのバンドの有名な二曲について幽霊的でメランコリックと書かれている。そう言われるとそうかもしれないな、と思わなくもないが、60年代と90年代の「時代精神」というか、悪夢が似ているというのはなにかおもしろいなと感じた。
オアシスは実際に何度かライブを観ているし、「シャンペン・スーパーノヴァ」も好きな曲だけどメランコリックなイメージはあまりなかった。


オススメしてもらって読んだ読み切り漫画、一ノへ著『死守れ日常系ヲ』。
ヒーローものという前提があるのだが、主人公の初巣みいが変身してヒーローとして敵から地球を守ろうとする際の姿形を見て、一瞬松本人志監督『大日本人』的な感じなのかなと思った。
だが、日常系&世界系が混ざり合うこの作品はその後、初巣みいの親友である恩離ゆうが守ろうとする大切な日常の話にも展開していき、らせん構造的な様相を見せる。そこには以前鬱展開として話題になった『タコピーの原罪』のニュアンスに近いものも感じられなくもない。
エンタメの王道「ジャンプ」ブランド「ジャンプ+」で掲載しているということ、それらのニュアンスが描かれているということ自体が現在性として読者のリアリティだとも言えるのだろう。
かつてのセカイ系もとうの昔に過ぎ去り、精神病すらもカジュアルなものになった(現実が病んでいるのだから、もはやそれはただの景色でしかない)あとで、ポップでサブカル的なものが鬱展開を孕みながら見事な魔合体してエンタメに昇華した作品なのかもしれない。

 

8月9日

 フィッシャーの有名な概念のひとつに「憑在論(hauntology)」がある。概念の由来はデリダにあると本人も別のところで述べているが、フィッシャーは、過去が現在に取り憑き、現在を過去の写し絵のように変えてしまうロジカル・タイプとしてこの概念を提出している。そして現状を見る限り、その見立ては今でもそれほど間違ってはいない。
 憑在論の時代の特徴は「新しい」ものではなく、「アップグレード」されたものが現れる点にある。フィッシャーは2020年以降開催される東京オリンピック大阪万博を、また、過去の名作が「アップグレード」された近年映画の数々(たとえばスピルバーグによる『ウエストサイド物語』など)を、どういう思いで眺めることになったのだろう。iPhoneXXを想像することは可能かもしれない。だが、iPhoneに取って代わるまったく新しい別のものを想像することは難しくなっている、わたしたちはそういう状況にいるように思える。
 憑在論の時代は、実体のないノスタルジーに取り憑かれる傾向がある。Vaperwave、あるいは「シティポップ」などを、そうした兆候として捉えることもできるだろう。“Make America Great Again”を叫ぶ奇妙な髪型のアメリカ人が現れた当初は、ある意味で平和だった。しかしロシアの老政治家が、まさしく「取り憑かれた」かのような言動を振り撒きながら、東西が激しく対立する冷戦時代への回帰を促すような軍事行動をやめないとき、事態は笑えないレベルにまで進行したことに気づく。
『マーク・フィッシャー最終講義 ポスト資本主義の欲望』 大橋完太郎訳者解説より

僕自身は幽霊や亡霊というものに興味があるわけではない、心霊やホラーは苦手だ。マーク・フィッシャーの著作を読んでから強制終了した(退位した上皇、時代の象徴としてのSMAPの解散と安室奈美恵の引退)かのように思えた「平成」という時代は昭和の「幽霊」や「亡霊」のようなものだと前よりも強く思うようになった。実際安倍政権が長く続いている時には、巣鴨プリズンからの亡霊が憑いているように思えていたのはそのイメージも関係していた。
その考えは「憑在論(hauntology)」に近くて、日本製「シティポップ」がネットを通じて世界中で聞かれるようになったことなどは実体のないノスタルジー(ありえたかもしれない未来(≒バブル期日本を当時の他国から見た景色としてのもの、あるいは現在の時点から見てのハッピーでカラフルなポップさへの羨望))だろうし、80'sを舞台にしたドラマや映画が作られるのはネット以前の世界へ戻りたいという欲望やこの世界をその時点からやり直しを求める気持ちなのではないかと思うようになったのは、フィッシャーや木澤佐登志著作などを読んだことが大きい。

幽霊や亡霊を祓うためになにをするのか、時代を逆行させる者たちが望むもの、それらを変革させるためにはどうすればいいか。ホラー映画『貞子vs伽椰子』ではないが、最恐には最恐をぶつける。過去の哲学や小説から持ち寄ったもので陰謀論や幽霊たちを、と考えるが、結局そういうものが「新しい歴史教科書をつくる会」などになっていった面もあるのだろう。『貞子vs伽椰子』のラストシーンはホラー映画としては二大有名ホラーキャラクター対決としてはわかりみがすごくある終わり方であり、爆笑してしまったが同時にそれは最悪な結末となっていた。
そう考えると「アップグレード」するも大事なことのように感じるが、「アップグレード」しかできずに、新しい未来を想像できないこの世界においてはそれは戦いにすらならないのだろう。
かつてのものとは一新するようなこれまでにない新しい考え方や行動が「最恐」や「幽霊」たちに対する武器や戦い方になるはずだけど、それが今は非常に困難なものであることを再認識してしまって僕は途方に暮れてしまう。


工藤梨穂監督『裸足で鳴らしてみせろ』をユーロスペースにて鑑賞。予告編を見て気になっていた作品。

寡黙な青年ふたりの愛と欲望の行方を、偽りの旅と肉体のぶつかり合いを通して描いた青春映画。「オーファンズ・ブルース」がPFFぴあフィルムフェスティバル)アワード2018でグランプリを受賞した新鋭・工藤梨穂監督が、PFFスカラシップ作品として制作した商業映画デビュー作。
父の不用品回収会社で働く直己と、市民プールでアルバイトしながら目の不自由な養母の美鳥と暮らす槙。ふたりは美鳥の願いをかなえるため、直己が回収して手に入れたレコーダーで“世界の音”を記録することに。サハラ砂漠イグアスの滝、カナダの草原など各地の名所の音を記録していく中で、互いにひかれながらも触れ合うことができない直己と槙。言葉にできない彼らの思いは、じゃれ合いから暴力的な格闘へとエスカレートしていく。
「オーファンズ・ブルース」の佐々木詩音が直己、「蝸牛」の諏訪珠理が槙を演じる。(映画.comより)

養母である美鳥からの願いである「世界を見てきてほしい」という願いを叶えるために槙は直己が回収したレコーダーを手にし、彼女が望んだ世界を巡る旅で聴けるであろう音声を録音し始めることになる。
槙から届いた録音したカセットテープをうれしそうに聴いている美鳥。その病室を訪れていた直己は仕事の途中で日本にいるはずのない槙を偶然見つけることになる。美鳥が槙に旅費にしてほしいと渡した通帳には残高はなく(すでに誰かに下されており)、海外に行くのは不可能だった。
槙は美鳥に嘘をついて世界中を旅していることにして、有名なスポットや美鳥がかつて聞かされて自分が旅したように感じていた場所の音を自作して作っては録音していた。直己もそれに賛同して二人で世界旅行をしている槙が集めた音を作り始める。
友情のような関係となり、時折彼らはじゃれつくようにして体をぶつける。だが、殴ったり蹴ったりはせずに相手を力で抑え込もうとするものであり、それはどこか同性愛者でもない彼らのほのかに宿った恋心と友情の入り混じったようなものに見えた。

録音とじゃれあいを重ねていく中で、やがて美鳥にとって大事な場所の音を録音する。しかし、その後彼女が亡くなってしまうと直己は槙と一緒に美鳥がほんとうに行きたかったその場所へ行こうと彼を誘う。だが、彼とは冒頭からどこか不協和音のようなものがあった父との関係性からそれが叶わなくなり、直己はある行動に出てしまうという話である。
なんと言ってもラストシーンが素晴らしかった。冒頭はタイトルを彷彿させる足が映るところだが、ラストシーンでも足が出てくるので、最初と最後が繋がる円環を感じさせながらも、もう戻らない日常という直己と槙それぞれの人生に枝分かれしていくエピローグが悲しくも優しく響いた。
二人の戯れ合いは暴力と性行為未満であり、崩れるときには無邪気さはすでに通り過ぎている。戻れない日々と共に人生はそれでも続くと感じさせた。ラストでは二人がずっと録音してきた音声がある状況で流れるのがとてもセンチメンタルであり、美しくて儚い。これがきっとやりたかったんだろうなと思わせるシーンだった。
渋谷に行った時に銀行で通帳記入をしていたが、帰りのどこかで落としたことに気づく。映画の内容とリンクしているような、とりあえず寄ったコンビニとスーパーに電話したが落とし物で届いていないとのこと。スマホのアプリから通帳の停止だけ依頼した。

 

8月10日

2年前の今日(8月10日)は『ゼロエフ』の国道6号線パートの取材の最終日だった。もう2年前、まだ2年前。だんだんと時間が経つにつれて素晴らしい経験をさせてもらったのだとわかるようになっている感じもする。お手伝いしたこともあるけど、『ゼロエフ』はもっと読まれてほしい一冊。


休憩中にご飯を買いに行った西友帰りにトワイライライトに寄って、アイスコーヒーで一服。


西友に行く前にTSUTAYA三軒茶屋店で殊能将之著『未発表短篇集』が出ていたので購入していた。
殊能将之さんといえば、『ハサミ男』が有名な覆面作家メフィスト賞を受賞デビューして世に出た人。すでに亡くなっているが、ちょっとした伝説みたいな存在になりつつあるようにも感じる。薄い文庫だが、パラパラめくったら解説の大森望さんの文章がかなりあった。

TENDRE - HAVE A NICE DAY(Audio Visualizer)


↑知り合いの藤江琢磨くんががっつり出ているMVだった。

 

8月11日

前にトワイライライトでのイベントで書評家の倉本さおりさんが紹介されていたピラール・キンタナ著/村岡直子訳『雌犬』を買おうと思って、朝起きてから散歩がてら蔦屋代官山書店に行ったが在庫はなく、数日前に見かけていたジュンク堂書店渋谷店で購入した。
一ページ辺りの文字数はないので、わりと早く読めるかなと読みだしたが、歩いて汗をかいたこともあったのかウトウトしてしまってあまり進まなかった。

【はかせ日記】22/8/10 ママと参議院会館へ。目崎さん・ヤマモトくん来訪。東国原さん偶然。委員会レク。『メルマ旬報』去就会談。

朝起きてからSNSを見ていて読んでいた博士さんの日記を再度読む。『水道橋博士のメルマ旬報』は廃刊とのこと。博士さんが立候補して当選した時に終わりの始まりだなと思ったが思いのほか早かった。
選挙の出馬と当選に関しても、この「メルマ旬報」廃刊にしても執筆陣は博士さんから(副編集長の原さんを通じて)の連絡で知ったわけではなく、今回のようにTwitterやnoteでの日記で知った形となった。
もちろん、昨日博士さんと原さんがリモートワークで話したやりとりを博士さんは日記に隠さずに正直に書いたということだろうけど、せめて現在連載中の執筆陣には先に連絡が行くようにとかの配慮ぐらいはしてほしい。配慮がないというのはイコール興味がないと言われているように思えてしまう。執筆陣が読者のツイートで知ったということをツイートしているのは悲しいとしか言えない。
創刊号から連載をさせてもらった恩や感謝はあるけど、10年も連載させてもらった媒体が廃刊になるというすごく大事なことを執筆陣に伝えるのを後回しにするということに関して、僕は怒るとかはないけど、呆れたというか気持ちはかなり冷めてしまった。

博士さんが長期休養の際には「メルマ旬報」チームは回復して復帰されるのを待っていた。場を継続させることもだったし、「メルマ旬報」が小野家の収入源のひとつでもあったはずだから。しかし、復帰後は「メルマ旬報」には関わらず、阿佐ヶ谷ロフトでのイベントやユーチューブで番組を立ち上げたり、noteで日記を始められて、どこか置いてけぼりになっていた。そのまま執筆陣には何も言わないままで政界への出馬と国政進出(あれだけ執筆陣いたら、どこかの政党だったりなにかの宗教の関係者やそれらに近い人はゼロではないと思うから余計に一声かけるべきだと思った)、そして、今回も何の連絡もないまま「メルマ旬報」廃刊というのは不信感を持たれても仕方ない。
単純に配慮に欠けているとしか言いようがない。信頼や信用というのは当然だが永遠ではない。ある言動一発で消え去ったりするものだ。博士さんはわりとそういうことに鈍感なのかもしれない。

日本維新の会松井一郎市長から水道橋博士さんは訴えられて、そのスラップ訴訟に対する「反スラップ訴訟の法制化」を掲げてれいわ新撰組から出馬した。そして、比例で当選して政治家になった。個人的には「右の維新」「左のれいわ」という感じで下からのポピュリズムという左右の違いでしかなく、どちらも支持はできない。そのことは先月の日記にも書いた。だから、「メルマ旬報」は「右の維新」と「左のれいわ」に巻き込まれて終わったってことでいいんじゃないかな。
もちろん、いろんな考えがあると思う。「メルマ旬報」は博士さんを頂点にした連載陣たちが上下感のあるツリー構造の関係性ではない。リゾーム構造であり、博士さんとそれぞれの執筆陣の関係性というものが大きい。
こういうふうに書くと「お前は世話になった人を批判するのか」という人がいるかもしれないけど、感謝することや恩を感じることとその人がやっていること批判したり、それは受け入れられないというのは当然ながらひとりの人間の中で共存するというか起きうる。それがわからない(考えが一方的になっている)人は世界を敵か味方かでしか見れないのだろうし、一人の人間の中に正邪がどちらもあるということを認めれない人なんだろう。終わりどきがわからなくなっていたからいいタイミングという風に考えることもできる。それはそれでなにかが乖離しちゃうような気もするから、ただ終わるの悲しいねと素直に思ったほうが先には進めるのだろう。長年続いてきたものの終わりの悲しみとどこか信頼されていなかったように感じる悲しみと共に。

 

8月12日
19年ぶりにサマソニに行こうと思って、東京の8月20日のチケットを取っていたのだけど、日付が変わって寝る前にチラッとスマホTwitterを見たら、何やらサマソニリバティーンズという単語が目に入った。
リバティーンズがラインナップされている東京初日の20日の前日にフランスでのフェスの出演が彼らの公式サイトのライブページにアップされ、これはどう考えてもサマソニ来ないパターンだという意見が出ていた。
リバティーンズはもしかしたら来ないかもって思うバンドではあったが、サマソニのラインナップ第一弾の際に発表しているから、問題児であるピートが来日できるというのは確証があるんだと思って信じてチケットをリバティーンズを観るために取った。
結局起きてから仕事をしていて昼前にはサマソニからアナウンスが出た。

8/20(土)東京MARINE STAGE、8/21(日)大阪OCEAN STAGEに出演を予定しておりましたTHE LIBERTINESは、メンバーのビザの取得が困難と判断されたため、来日をキャンセルせざるを得ない状況となりました。数ヶ月にわたり関係機関と交渉を続けてまいりましたが、このようなご報告となってしまい深くお詫び申し上げます。

いやいやいや、だったら一番でかいマリンステージにラインナップしちゃダメじゃん。しかも開催の一週間前っていうのは正直もっと前からわかってたんじゃないの、っていう気はするし、リバティーンズのためだけに行こうと思っていた僕のような人間はかなりの数いるはずで、やっぱりリバティーンズだなという気持ちもありつつもサマソニを主催しているクリエイティブマンに対して詐欺だなとかこれならそもそもラインナップに入れるなという気持ちになってしまう。もちろんリバティーンズ側もダメだが、目玉のひとつとして出れるかが決まっていないのにラインナップしたクリマンがひどいと思ってしまう。

ゼロ年代初頭のロックンロールリバイバルを牽引したのがアメリカのストロークスとイギリスのリバティーンズだった。
僕は二度リバティーンズのワンマンには行ったけど、ツインボーカルのひとりピート・ドハーティが日本に来れなかった(ドラッグのやりすぎ&問題起こしまくり)ため、サポートを入れてもうひとりのフロントマンであるカール・バラーがひとりでボーカルを務めたライブしか観たことがなかった。今回はフルメンバー四人での来日ライブということで、おっさんホイホイだとしても観たいと思った。しかし、リバティーンズが来ないのであればサマソニに行く理由がなくなってしまった。

問題はKing Gnuもメンバーのコロナ陽性で出演が微妙な感じになってる。ただ、この日の大トリは10年代以降にデビューしたロックバンドの中でもっとも世界中で売れて評価されているThe1975がいるのが救い。
でも、問題はThe1975が日本好きで早めに来日しちゃうみたいで、コロナになったらどうすんねんっていう。もし、彼らも出れなくなったらマリンステージは壊滅的になる。

僕の中ではradiohead『Creep』が始まったあの大歓声の思い出と共にサマソニは完全に終わりました。

 

8月13日

数ヶ月ぶりに会った人に前に本をあげたら、お返しに読み終わったばかりという本をもらった。ちょっと前に庄野さんにオススメしてもらって読んだ『失恋の準備をお願いします』(『失恋覚悟のラウンドアバウト』で発売されたものがタイガ文庫でタイトルが変わって、文庫しか手に入らなかった)の著者の浅倉秋成さんの『六人の嘘つきな大学生』だった。
書名とか作家名はあまり覚えないんだけど、書籍(小説)はたいてい装幀デザインで認識している(書店に行く楽しみは新刊を見ることでもある)ので、何度も見かけているやつだなってわかった。これもなにかのきっかけというタイミングなんだろうか。

リバティーンズが来ないのであれば、19年ぶりのサマソニに行く理由はないのでチケットを手放すことにした。Facebookに書いても反応がなかったのでほんとうにどのくらいぶりなんだろう、ヤフオクを十数年ぶりに使って出品した。
主催者のクリエイティブマンが最後まで粘ろうがなにしようが、最初のラインナップ発表でリバティーンズの名前を出した以上は呼ばなければ詐欺だと言われても当然だろう。
ビザの問題でキャンセルになった、と言われてもリバティーンズのファンならみんなわかってる。ピートが来日するのは大変だって、スーパーモデルのケイト・モスがドラッグ中毒になって一度落ちてしまったのは当時の恋人であるピートのせいだ。
ピート・ドハーティなんか知らないよって人のほうが多いのはわかってるけど、ゼロ年代初頭にディオールオムのデザイナーだったエディ・スリマンがピートに惚れ込んで彼に衣装を提供していた。エディがディオールオムで発表した細タイとスキニーデニムにジャケットというロックスタイルはピートが纏うことで世界中に広がっていった。もちろん、パクリが横行してそれが定着したこともたぶん知られてはいない。
今はドラッグをやめていて当時の姿も見る影もなく太ったピートだとしても、日本のリバティーンズファンはずっとオリジナルメンバーが揃ったところを観たくて待っていた。
やっぱり来日しないのかよっていうのもリバティーンズっぽくはあるんだが、世界中で見ても感染爆発しまくってる日本に来たいかって言われたら来ないよって思う。本音をいえばこんな時期にフェスには行きたくはなかった。でも、コロナに罹患してもいいからリバティーンズを観たかった。それだけだよ。

 

8月14日
前日にヤフオク!に出したサマソニチケットが即決価格で先日のうちに落札された。相手側からの支払いをヤフーが確認するという時間があるらしく、クレジットでの支払いだとそうなるらしい。日が変わる前に落札で支払いもされていたが、支払いについての最終チェックで約四時間ほどかかるみたいなので、とりあえず寝た。

起きると支払いについてのチェックが終わっており、商品を発送してくださいという表示になっていた。散歩がてら世田谷郵便局に行き、レターパックを買ってチケットを入れて購入者に送付した。
購入者が支払ったお金は一旦ヤフー側が預かり、商品が届いたら購入者がその受け取り連絡をするとヤフーから僕に購入代品が入金されるという流れらしい。最初に設定した金額はかなり低くしていて、即決価格も定価よりも下にしていたが、その金額だとうれしいなと思っていたけど、手数料などが10%引かれての入金だった。そりゃそうか、引かれた分だと最初の設定金額よりは高いぐらいだった。
まあ、定価+手数料や諸々がかかっているので実際は五千円ほど損した感じになってしまったが、リバティーンズ来ないからサマソニには行かないので、できるだけ早めにさばきたかったので、まあよかったなと思うことにした。


「メルマ旬報」チームであり、文藝春秋の目崎さんからご連絡をいただいていたので、トワイライライトで集合して屋上でお茶をした。最初はアイスコーヒー、そのあとはサッポロの小瓶を飲んだ。
汗をちょっとかくぐらいの暑さだったけど、風は吹いていて気持ちよかった。日曜午後の茶沢通りは歩行者天国だから、風と一緒に三茶の町のいろんな音が屋上まで運ばれてきていた。
水道橋博士のメルマ旬報』創刊号から参加したオリジナルメンバーと目崎さんと僕は勝手に言っているけど、廃刊が決まったりしたし、今年はいろいろあったので僕のことを気にかけてくれて声をかけてくださったのだなとわかってありがたかった。二時間ほど四方山話をして解散。

僕が着ている「透明美容室」TシャツはThis is 向井秀徳がモデルをしていた台湾と日本のカルチャーストア「YU-EN商店」で購入したもの。
2019年に再結成したナンバーガールは今年の年末に再び解散するというニュースを昨日見た。僕はナンバガをリアルタムでハマらなかった。のちに古川日出男さんの文体に惹かれるようになって、そのリズムとZAZEN BOYSのリズムが呼応しているってわかってから一気に持っていかれた。この2010年以降で一番ライブに足を運んだのは間違いなくZAZEN BOYSだ。そこから遡ってナンバガを聴くようになって再結成後のワンマンライブも観に行ったけど、彼らの再結成の期間中ってずっとコロナパンデミックだったんだなと思うとなにか不思議な感じだ。

「メルマ旬報」はナンバガみたいに再結成というか復活することはないと思うけど、僕にはこの終わりは物書きになるための「幼年期の終わり」みたいなものだと考えた方がいいんだろうなって思う、っていうか目崎さんと話している時に急にその名作のタイトルが浮かんだ。いつかあいつも「メルマ旬報」で書いてたんだよって言われるようになるのが、それぐらいしか恩返しってできないと思うし。

NUMBER GIRL - OMOIDE IN MY HEAD @ “THE MATSURI SESSION”

 

8月15日
77回目の終戦の日。敗戦としないことは戦後の復興をもたらしたのかもしれないが、世代が変わり戦争を体験した人たちが減っていくとそのことが忘れていってしまうことに加担したような気がずっとしている。敗戦の日にしてしまえば、なぜ戦争なんかしてしまったのかという問いになったのではないかと毎年思うのだけど。


スケジュール通りの仕事なのでお盆もなかったし、終戦の日も家でリモート作業。午前中に郵便物が届く。その中に前に「COTOGOTO BOOKS」で注文していた町田康著『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』があった。サイン入りポストカード付きにしていたが、バンド「INU」時代の町田町蔵だったころの写真なんだろうか、詳しくは知らないけどせっかくだからおまけつきなこちらで購入していた。
このところ、何冊か読んだ文庫本の解説が町田康さんであることが多く、町田さんが新人賞の選考委員もしているから、その時にデビューした作家さんの小説の解説をお願いされているとかもあるんだと思う。あとは町田さんクラスであれば、解説も箔が付くというかファンも多いからその文庫を手に取る人も増えるってことなのかもしれない。あとは町田さんが新人作家などの作品もしっかり読んでいるから編集者が頼みやすいとかもあるのだろうか。
一度だけ町田康さんと古川日出男さんの対談でお見かけしただけで、作品をたくさん読んでいるいい読者ではないけど、この新書でもう少し町田さんのことを知ったら小説を読みたくなるといいなって思う。


休憩中に駅前のTSUTAYAで牟田都子著『文にあたる』を購入する。校閲者の牟田さんとはニコラの庄野さんのイベントでご一緒したりして、この本のことは聞いていたのでたのしみにしていた。エッセイでたくさんの話題が並んでいる本みたいなので寝る前にちょっとずつ読んでいこうと思う。

 

8月16日

朝起きてから午前中は映画を観に行きたいと思って、渋谷付近の映画館のサイトを見たがあまりこれだという作品がなく、K2シモキタエキマエシネマのサイトを見たら、朝イチの回はエリック・ロメール監督『緑の光線』 が上映だったのでそちらに決めた。
下北沢駅まで二十分ぐらい歩いていく。ロメールの作品はまったく観たことがないわけではないが、この『緑の光線』は観たことがなかった。お客さんは六人ぐらいか。旧作だけどチケット代は特に割引とかでもないのは残念だけど、まあ映画館で映画を観るということにお金を払うのは嫌ではない。
タイトルの「緑の光線」がわずかに、ほんとうにほんの一瞬日没する時に水平線に緑の光が見えて作品が終わる。主人公の孤独というかひとりでバカンスを過ごすこと、周りの人との感情の誤差というか理解されていない感じなど、彼女はどこかナイーブであったりちょっと前の言葉でいうとメンヘラ的な感じもゼロではないが、見ているとその孤独さの理解されなさを抱えた彼女のことが好きになるというか、誰しもが抱えている孤独であることもわかるし、少しだけ自分にもシンクロするように思えた。だからこそ、最後の緑の光がやさしい希望のようだった。



「グッモー!」と「サンキュー!」の気持ちがあれば。僕を育てた渋谷と映画【前編】&【後編】

今書いている作品の舞台が青山と赤坂で、渋谷も出てくるし、芸能的なものの要素も入れたいので、「渋谷の生き証人」でもある井上順さんご本人を「井上順」という登場人物にして出してみたらどうかなって思って、井上さんのことを調べてみようと思ったら、誕生日がうちの父親と全く同じだった。

ニコラのカウンターでご一緒することもある竜樹さんが劇伴担当してる『セイコグラム 転生したら戦時中の女学生だった件』を見た。なるほど、インスタを使ったというていでドラマをやると画面を縦に三分割にして左がスマホ画面、真ん中が実際のドラマ、右が心の声とかナレーション代わりのコメントのポストという形。
インスタ・ドラマ『転生したら戦時中の○○○だった件』第一弾は古川ロッパ、第二弾は田辺聖子、第三弾は『転生したら戦時中の漫画家だった件』なら田河水泡でいけるんじゃないかな。

夕方に原さんから博士さんからの「水道橋博士からメルマ旬報連載陣の皆様へ」というメールが届く。11日のnoteに廃刊のことが書かれてから6日経っていた。2日後の生誕祭へのお誘いもあった。生誕祭のイベントに参加する人はすでにチケット取ってるだろうし、そうじゃない人は行くつもりが最初からないか予定や仕事があるだろう。つまりどちら側にしても遅い。廃刊のことがなければ、イベントのお誘いもなかっただろう。心の底から「そういうとこやぞ!」と思った。

 

8月17日

円城塔著『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』読み始める。
アニメはほとんど見ないのだが、この作品と『平家物語』はほんとうにすごいなって思って全話見た。円城さんと古川さんの対談を昔見た気がするけど、たぶん「エクス・ポナイト」だったと思う。『ハル、ハル、ハル』の解説も円城さんだった。

twililightの熊谷さんのインタビュー『「余計なもの」こそ日々を明るくしてくれる』

 文体については、話しておかなあかんなというのが一つあります。最近は、文体の時代ではないのかなという気がしていて。いろんな最近の小説を読んでいると、文体を工夫するというか、文体自体にあまり特色はなく、みんなが了解する意味で、ニュートラルな言葉遣いをして、むしろ、ストーリーやその意味内容で読ませるものが多いのかなと。自分の文体について言うと、そういうものではなくて、文体そのものに表現の工夫をけっこうしているつもりではありますし、そこのところを、自分としては一つの読んでほしいところだなと思っています。(町田康著『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』より)

町田康著『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』から。先月トワイライライトで書評家の倉本さおりさんと小説家の町屋良平さんのトークイベントに行って、終わったあとにご挨拶して話をさせてもらっている時に、町屋さんがご自身が芥川賞を受賞したあとぐらいからの候補作は内容重視のものが増えてきたと言われていて、それってたぶんここで町田さんが書いている文体の時代ではないって方向になっているということなんだろう。

 

8月18日


初回を親友のイゴっちにオススメされて読んでいた園山ゆきの著『ブレス』一巻が発売になっていた。『ブルーピリオド』とかに続いていくような作品になると勝手に思っている。

清原果耶が10月スタートのドラマ「霊媒探偵・城塚翡翠」で主演

主人公の翡翠を清原果耶さんということは、相手(バディ)役の香月史郎を誰が演じるかがヒットするかどうかになってくると思う。正直、原作読んでいる人が気になるのはそこだと思う。
おそらく原作通りにやってしまうとある程度年齢を重ねた人が昔放送されたあるドラマのことを思い浮かべることになると思う。そして、そのタイトルをいうだけでこの小説の大筋の部分のネタバレになる。だから、脚本とか演出とかでどこまでやれるかっていうのが気になる。
映画『線は、僕を描く』の主人公のライバル役としても清原さん出演するようだけど、どっちも講談社原作。『線は、僕を描く』は『ちはやふる』の小泉徳宏監督がやるせいか、そちらにかなり寄っている感じになっていて、もはやメフィスト賞受賞作ということはなかった感じになっている。

『グリーン・ナイト』マスコミ試写のお知らせがきた。すごくうれしい。

「A24×原典J・R・R・トールキン×監督・脚本デヴィッド・ロウリー (『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』) が贈る、A24史上、最も美しく、最も壮大なダーク・ファンタジー

去年アメリカでは公開されたけど、日本は公開されずにスルーになっていたので余計に気になっていたA24制作作品。劇場に観に行こうと思っていたけど、試写で観ておもしろかったらまた劇場で観るつもり。なんでこれ去年の時点でスルーされたのか不思議。
A24制作でいうとミシェル・ヨー主演のマルチバースを描く『Everything Everywhere All At Once』も日本でも公開してほしいものだが。


夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとネクタリンとマスカルポーネのタルトを。ネクタリンは一ヶ月前ぐらいに食べたから今年二回目だった。曽根さんたちに「メルマ旬報」が終わることなんかを話して、ちょっとリラックス。


ニコラ帰りの夕日。帰ってから小説の執筆しようと思ったけど、やる気がどうも起きないので湯船に浸かって、ちょっとだけ「メルマ旬報」の原稿を書いた。

 

8月19日

ありま猛著『あだち勉物語』3巻。あだち充の兄である漫画家・あだち勉の弟子だったありま猛のよる70年代の漫画家青春ものとも言えるこの作品。
赤塚四天王であり、師匠の赤塚不二夫同様に飲む・打つ・買う三拍子の遊び人だった勉。その影響を受けながら漫画家として飯を食えるようにアシスタントをしているありま。あだち充も70年にデビューはしているが、この時期はまだ『ナイン』も書く前で原作ものや小学何年生とかに漫画を描いていた時代であり、充にとっても青春の延長のような時期。
あだち勉を漫画家として殺したのは赤塚不二夫と赤塚番でもあった編集者の武居俊樹であり、今回の中で勉がそのことに言及しているが、武居が弟の充の才能を信じ、「サンデー」から放逐された彼を「少女コミック」に呼ぶなど、のちに才能を開花させるまでを匿ったというか面倒を見たとも言える人でもある。武居はあだち兄弟にとっては非常に重要な人物である。3巻ではありまが武居に口答えするというエピソードが出てくる。
70年代というと近過去のような気がするが、約50年前だと思うと時間の感覚がうまく取れない。その頃20代だった彼らは亡くなっていなければ70代になっていて、父と同世代だ。

伝説の作家に「講談社のCIA」と呼ばれた男。初代担当編集・F

この文庫本は収録されている短編よりも、殊能将之メフィスト賞に『ハサミ男』を応募し、受賞が決定したけど連絡がつかない、連絡が取れてからも紆余曲折がある殊能と編集者のやりとりなどが書かれている「ハサミ男の秘密の日記」というメタフィクションっぽいものが読めるのがウリというか、それがメインである。
殊能将之の正体をすぐに大森望さんがすぐにわかった理由とかがSFファンダム的な繋がりだったりするのが時代を感じさせる。

朝晩とリモートワークをしていたが、午前中に「メルマ旬報」の編集の原さんからラインで意外な連絡が来た。その内容に関連する日時がちょうど空いていた、というか時間を作るために有給にしていてちょうど空いていたのでお受けすることにした。どうなるかは知らん。

 

8月20日
高橋一生×飯豊まりえ「岸辺露伴は動かない」第3期が12月に放送、スタッフも続投 

菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラールオーチャードホールでのライブで演奏されたこの『岸辺露伴は動かない』のテーマ『大空位時代』を音源化してほしい&ドラマのサントラを出してほしいとずっと思っているのだが、ドラマ第三期ということはありえるかもしれない。
オーチャードホールの時のMCで菊地さんが「大空位時代」の話をしていて、「大空位時代」=「Interregnum」、インターレグナムっていい単語だなって思った。
空位時代」の意味としては「ある政府、国家組織、社会秩序が一時的に連続性を失う時代、特に君主制国家における前君主の死去(もしくは退位)から次代君主の即位までの期間を言う」っていうものらしいけど、まさに民主主義の根幹である三権分立をぶち壊した安倍政権とそれを継いでいる現政権、そして空虚な中心としての東京の真ん中にある皇居と天皇という存在。そう考えると逆説的にも皮肉としても日本はずっと大空位時代だなって思った。
LAのハリウッドを舞台にした映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』を日本バージョンで赤坂&青山に舞台を移したら、いけるんじゃないかって書き始めていた作品のタイトルは別のものだったけど、『インターレグナム』にした。その小説はまだ原稿用紙三百枚ぐらいしか進んでいなくて、まだ半分以下の状態。執筆のスピード感を上げないといけない時期になってきた。

本来であれば、今日はサマーソニックに行っているはずだったが、目当てのリバティーンズがキャンセルになったのでチケットを手放した。リアルタイム配信もしているようだが、映像で見たいとは思わないので、散歩してから帰りにスーパで食材を買った。
木曜日にニコラでししとうをもらったので、昨日は豚バラ肉と一緒に炒めて食べた。今日はベーコンとミニトマトと一緒にごま油で炒めてからめんつゆとかつお節をかけて食べてみた。わりと美味しかった。

夕方から仕事だったので、それまで円城塔著『『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』の続きを読む。アニメと違うのは物語を語る存在が、メイン主人公のひとりである神野銘が使っている、彼女が「ペロ2」と名付けたコミュニケーション支援AIであるということ。それはナラタケの一ブランチであり、もうひとりの主人公である有川ユンが中心になって構築中のソフトウェアでもある。

 わたしはソフトウェアである。
 少なくとも、自分ではそう認識している。
 自分が人間だとは認識していない。
 自分が「自分のことをAIだと信じ込んでいる人間である」という可能性については折に触れて検討しているが、蓋然性はとても低い。別段、周囲にAI扱いされているがゆえに、自分はAIだと考えているわけではない。
 わたしには、多くの姉妹兄弟がいる。そのどれもが、ナラタケから分岐して生まれ、人間との共同作業によってそれぞれ個性を獲得している。乳幼児と一緒に育つものもあれば、成人の間で社会様式を学ぶものもある。ユーザー側の許諾があればその学習記録はサーバーに送られ、試行エンジン開発の資料に利用される。
 今こうしてわたしが行う思考はそうした、同胞たちの経験の上に積み上げられたものである。
 こうした思考のあり方が、人間とはやや異なるものであることから、わたしは自分がAIと呼ばれるのが妥当であると考えている。
円城塔著『『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』P129-130より

アニメを見ていることも大きいのだろうが、小説で神野銘と有川ユンを主人公にして一人称とかで書くよりも、「ペロ2」やその姉妹兄弟から見えた世界を書く方が、神野や有川たちだけでなく、「ゴジラ」を含めた怪獣たちや作中で超重要な分子というかキーになる「アーキタイプ」についても網羅して書ける距離であり、やり方としては正しいのではないかと思える。また、「ペロ2」たちソフトウェアたちの視線から世界を見るというのはやはり円城塔が描く世界感をさらに強調して違和感のないものにしているように読んでいて感じる。

 

8月21日
僕に海外ロックを教えてくれて、かつてリバティーンズが来日ライブした時も一緒に行った高校の友人である竹原は「サマーソニック2022」20日東京、21日大阪に参加していて、初日のヘッドライナーのTHE 1975を観てから海浜幕張からうちに来た。
朝イチで大阪に向かうので、ちょっとは休めせてほしいと前から言われていた。結局四時半には起きて品川に向かう予定だったが、久しぶりだったので電気を真っ暗にしてからも話をしていて深夜の二時を過ぎていた。付き合いが15年近いけど、40過ぎても付き合いがあるようになるとはその頃はまったく想像していなかった。

千原ジュニア×伊集院光伊集院光とは一体何者なのか?〜


千原ジュニアさんと伊集院光さんの対談を見たが本当におもしろい。お二人の共通点が中卒って以外はわりと対照的に見える芸人さんたちだけど、すごく共感というか調和している空気感になっている。ジュニアさんがしっかり話を聞こうとしている姿勢が話しやすい感じにもなっているのかな。
この前YouTubeで配信していた伊集院さんが自伝の本を作るために芸人になった時から現在までを語っていくというトークイベントがされていたこともあるんだろうが、師匠である三遊亭楽太郎さんに弟子入りして落語家になり、そしてラジオに出るようになって名前が伊集院光になるという展開の流れが軽やかというか、トークイベントで話をしているせいか滑らかな感じに聞こえた。やっぱり話は何度も話しているとそのネタは練り上がっていくんだろうか
師匠の楽太郎さんの粋な感じとか人間として魅力が弟子である伊集院さんから語られることで、それがどんどん広まっていっていると思う。下の人間に慕われる、尊敬される人は語られていくから残る。逆も然り。

 

8月22日

J-WAVEでオンエアされている燃え殻さんのラジオ『BEFORE DAWN』。先週は生放送ということもあり、メッセージを送って読まれると番組のステッカーをプレゼントということだったので送った。メッセージが読まれたのでステッカーが届いた。読まれたのは3回目だった。

今週の金曜日に入っていた予定を来月に、という連絡が来た。こちらとしてはいつでも問題ないので来月にスライドしてもらった。結局、有給を取っている金曜日はやるべきことをしろと言われているみたいだ、とちょっと苦笑。

出社しないで朝晩と家で作業をしているが、先週よりは部屋の中にいても気温が下がっているのを感じる。休憩中に昼飯とかを買いに行っても数日前より暑さは和らいでいる。一回気温が下がってから、また猛暑が戻ってこないとは限らないが、このぐらいが歩くのはちょうどいい。

 

8月23日
ものかきが育てた文房具。デジタルメモポメラ「DM250」インタビュー

先日キングジムさんに行ってお話を伺ってきたインタビュー記事が公開になりました。「ポメラ」ユーザーの方も、使ってないけど興味あるという方も読んでみてください。

群像新人文学賞」受賞のデビュー作『貝に続く場所にて』で芥川賞を受賞した石沢麻衣さんの二作目となる『月の三相』の単行本についてのツイート。
二作連続でいい装幀だなあと思うし、こういうデザインのほうが個人的には好き。漫画やアニメ的なイラストを使ったデザインがあらゆるジャンルの本で溢れかえっていて、もっととんがったものでもいいのなって感じることが多い。もちろん、装幀は書籍の顔だから手に取る可能性が高いもののほうがいいわけだから、イラストが増えるのもわからなくはない。
自分が好きなデザインというのは性癖みたいなものだろう。イラストでも自分が好きな漫画家やイラストレーターが書いていたら気になるし手を伸ばすが、僕はその好きな幅がかなり狭い。知り合いの人が書籍を出してもたいていなんでこのデザインでいいんだろうかと思うことが多々ある(たいていはイラストでそのセンスが自分とはまったく合わない)が、ご本人には問題がないのだろう。
執筆者というよりは出版社の編集者や営業とかのラインで決まるだろうし、たとえば新人作家に装幀に口を出させてくれる、意見を聞いてくれるところはどのくらいあるのかはわからない。もちろん、内容が反映されて装幀デザインが生まれる。だから、僕は装幀がダサいとか自分には合わないという場合には手を出さない。例外はその書籍を知り合いや信頼している人が薦めてくれた場合だ。たまにそういう時にでもいい出会いがあり、同時にこんなデザインじゃなかったらと思うことになるが。

本日が「メルマ旬報」の僕の締め切りなので、この日記をアップして書いていた原稿にこのURLを貼って、原さんに送る。


少し前に『フラワー・オブ・ライフ』を薦められて、嘉島さんが聞き手のインタビュー記事を読んでおもしろしかったので、『仕事でも、仕事じゃなくても 漫画とよしながふみ』を買ってきたら、『大奥』ドラマ化のニュースでいろいろとタイムリー。

漫画家・よしながふみが語る「自身の作品」と「社会の変化」——拡がる漫画表現


今月はこの曲でおわかれです。
yonawo - tokyo feat. 鈴木真海子, Skaai (Official Audio)



The Ravens - 楽園狂想曲