Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ブラックパンサー』『15時17分、パリ行き』


 映画の日に『ブラックパンサー』をTOHOシネマズ渋谷にて。満席とは行かなかったが12時の回でわりと埋まっていた。何人かの集団できている感じもあったし、海外の旅行者なのか在住している人なのかはわからないが外国の人も何人か見かけた。
 もっとラップとかけどケンドリック・ラマーとかガンガンかかってるのかと思ったけど、アフリカの民族音楽みたいなリズムも多用されていて、爆音系のとこかいいスピーカーのサウンドシステムのとこで聴いたらまた感じ方が変わってきそう。

 物語としては「陛下」になる王の長男の完璧な「通過儀礼」をテーマでやるのがさすがハリウッドだなって思った。王になるものは一度死んで還ってくるとかシナリオはしっかりキャンベルの神話論を軸にして、最後のメッセージとかをアップデートしているからさらに届く。
 賢者は橋を架けるが愚者は壁を作るという話はトランプ政権下のアメリカで創作する人からの返答だ。だと言っても日本のアメリカに併合しているトップ(総理大臣)の言動や行動はメキシコとの国境に巨大な壁を作ろうとしているトランプと同じ類のものだ。だが、彼がこの作品を観たら読解力のなさでさらに勘違いをしそうな気がして怖い。
 王家に生まれたから「王」になれるわけではない、資格はあるとしても国を収める、政(祭り事)を執り行うためには資質と他者への想像力が必要だ。残念ながら今の政治家のトップの彼にはそれに加えて「知」も感じられない。王家もかもしれないが政治家も二世、三世と世襲的に続いていくのが普通になっているが、そこにはきちんとした教育による「知」と他者への想像力がないといけないはずだ。それがないものは、身内しか守らない愚者になる。

 今作『ブラックパンサー』でも出てきたが、王家が続くためには、例えば兄弟や姉妹、従兄弟などの親戚という関係性の中で、ただ嫡子だからといって「王」にしていいというわけではない。もしも、嫡子が愚か者なのば、彼は王になってはいけない。資格がないものがその座に君臨すれば、政は乱れ、彼に忖度するものたちによって状況はさらに悪化してしまう。これだとただいまの日本でしかない。
 主人公であるブラックパンサー/ティ・チャラは王子であり、王になる。彼は国のことだけではなく、世界に目を向けるようになる。ほぼ100%の人は王家や皇族ではない。だが、想像力によって彼らのことを考えることができるし、彼らもそうであるはずだ。ネットやSNSの発達で「私」の物語が圧倒的になって行く中で、やっぱり「他者」性を回復していくしかないと思う。それがなくなっていくと混沌さはより深刻になっていく。せめて、カウンターとして20年以降の世界で重要なことになっていくものだと思っている。
 あとは昨日、試写で観た『アイ、トーニャ』のセリフの中に「シャキール・オニール」ってたぶん出てきていて、今作だと「ティム・ハーダウェイ」が出てきてそれらの固有名詞で反応して笑ってしまうのはブルズ黄金期にNBA観てたから仕方ないけど、周りはまったく反応してなかった。当たり前だな。


15時17分、パリ行き

 1日公開の作品では、『シェイプ・オブ・ウォーター』『ブラックパンサー』同様に話題作なのがイーストウッド監督『15時17分、パリ行き』だろう。2月9日に試写で観せて頂いていた。イーストウッドの近年の作品だと、『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』と続いて実話がベースの映画を作っている。今作では、実際にテロを防いだ三人の若者を、当事者である三人が演じているというアクロバティックすぎることをやってしまっている。
 イーストウッドだからできるのか、いや、彼が彼らに演じてほしいと言って実現しているわけだが、正直レベルがすごすぎてよくわかんないw 同時に素人がメインだからイーストウッド監督作で実話、そして本人が本人を演じているというのが売りなのだが、役者として客を引っ張ることができない部分の弱さは露呈する。

 内容とすれば、三人の幼少期から描いていてるのは、テロを防ぐためへの道筋がどういうものであったのかということで、それがほとんどである。だからこそ、たまたま彼らがそのパリ行きの電車(特急かな)に乗っていたことの意味が大きく、人生というものはそういう偶然の積み重ねで奇跡は起きるし、あるいは惨劇が起こるということが伝わってくる。