Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2021年8月24日〜9月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、2021年5月からは「碇のむきだし」では短編小説(原稿用紙80〜100枚)を書くことにしました。そのため、日記というか一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。


「碇のむきだし」2021年09月掲載 短編小説『レイテストナンバー』



先月の日記(07月24日から8月23日分)



8月24日
f:id:likeaswimmingangel:20210920184933j:plain
早起きは三文の徳な作業をしてから、散歩がてら六本木ヒルズまで歩く(一時間二十分ぐらい)。シネマイレージが貯まった分で『孤狼の血 LEVEL2』をTOHOシネマズ六本木にて鑑賞。
朝作業中に『松坂桃李オールナイトニッポン』を聴いていたけど、松坂さんはゲームとかミニ四駆の話ばっかりしてた。
映画の冒頭から方言である「はぶてる」が出てきて、数日前にTwitterで中国地方の人にしかわからないというやりとりをしたばかりだったのですごくタイムリーだった。『ノブナカなんなん?』がプライムタイムに昇格になるけど、「なんなん」も方言だし、千鳥のブレイクに藤井風旋風で岡山弁もなんだか全国区的になり始めている。
去年の「M-1」決勝進出者の三分の一が岡山出身で大阪出身よりも多かったのも、東京に進出したけど死にかけていた千鳥が東野さんによる「帰ろか千鳥」をターニングポイントにして大ブレイクしたことも無関係ではないと思う。
千鳥ふたりの人間的なかわいらしさとかもあるからだけど、ダウンタウンの呪縛をもろに受けた世代なのに、知らぬ間にそこから抜け出していた。たぶん、さんまさんの独自なリミックス関西弁みたいな、関西弁と岡山弁のリミックス岡山弁をキャラクターとして前面に押し出して、それが受け入れられたことでダウンタウンの呪縛から解き放たれたのではないかと思う。お笑いについて書いているライターさんがこの辺りのことは書いてるかな、たぶん。

で、映画に話を戻すと呉市をモチーフにした呉原市を舞台に広島弁と暴力の押収が繰り返され、繰り広げられるシリーズ第二弾。前作の大上(役所広司)から意思を引き継いだ若き刑事の日岡松坂桃李)を主人公にした劇場オリジナルの続編。前作からの因縁による新たな敵である上林(鈴木亮平)との攻防が繰り広げられることになるが、基本的には個と集団の話になっていて、上林が破壊をひたすら繰り返していくのはヒース・レジャー的なジョーカーを彷彿させた。ただ、彼がある種の復讐のように破壊していく理由が幼少期にあり、まるでトラウマみたいに描かれている。
トラウマとは本来、当事者ですら思い出せない、ないことにしている傷であり、「むかし、なになにがあってわたしのトラウマなんだよね」的なカジュアルなものではない。その程度で話せるものトラウマでもなんでもない。ただ、90年代後半から流行ったサイコミステリーのせいでトラウマという言葉がカジュアル化してしまい、わかりやすい物語のいち装置に成り果ててしまった。今作でもわかりやすくその装置は使われている。トラウマという単語のカジュアル化で90年代後半以降にわたしたちは簡単に精神をカジュアルに病める存在になった。
エンターテイメントはわかりやすくないといけない、複雑さや混沌は邪魔になる。その意味でも『孤狼の血 LEVEL2』はしっかりとエンターテイメントをしている。だから、商業映画としてとても正しい。
さすがに最後のは蛇足だと思うけど、飼いならされていない一匹狼の戦い方を描いたこと、これから(三作目とか)を匂わすためなんだろうけど、前作の主人公が大上って名前なんだからよいじゃないとは思った。ベテラン一匹狼の刑事だった大上から新人で何も知らなかった日岡が学んで受け継いだ、という継承の話なんだから、無駄にわかりやすくしても意味ないと思うんだけどな、つうかダサいし。こんだけ書いてるけど、めちゃくちゃおもしろかったし、楽しめた。

村上虹郎はメイン二人と絡むシーンが多くてオイシイ役どころだった。西野七瀬は名前は知ってるけど、なんてグループにいたか知らない(アイドルに興味がまったく沸かないので仕方ない)けど、いい面構えだけど、最後に起きている事件を考えたらなんで彼女は無傷なんだろう、この物語における事件に共通する両目を潰されくり抜かれていないのはなんでなんだろう。アイドルで人気あって、そのファンが観に来るから悲惨なシーンは演じさせられなかったのだろうか。最後にちょいと意味ありげなことするためだけに生かしたという言い訳はできるが。
終盤の松坂桃李鈴木亮平ガッチャマン対決は見所だし、あれやりたかったんだな、と。あとは個であるために集団に利用される、その反撃としての日岡の行動は映画を作るためにバカみたいに何社も製作委員会に加わり多少の金を出し、めちゃくちゃ口ばかり出す奴らへの白石監督からの嫌味のようにも見えた。

有吉さんがブレイクするのはバカに見つかることだ、と昔言ってたけど、エンターテイメントとして届けるためにはカジュアル化しないといけない。
さんまさんの関西弁や千鳥の岡山弁のように。それを本能的にできる人もいるし、無理矢理慣らしていく人もいるし、できるけどやらない人もいるし、どちらもうまくできない人もいる。ポップなものが好きな人がポップとは限らないし、なんかそういうことを考えることが増えてきた。
隙間というかグラデーションの境目がたぶん行きたいところなんだろう。かつて、そこはサブカルと呼ばれていた領域かもしれないけど、たぶんもう呼称のみが残っているだけな気もするし、サブカルっぽいものが好きだけどサブカルじゃないし、と行き場所が見当たらないので彷徨うしかない。だから、そういう人は自分がジャンルになるしかない、一代しか続かないけどさ。

f:id:likeaswimmingangel:20210920185131j:plain能楽とプロレスと介護を主軸に描いた宮藤官九郎脚本ドラマ『俺の家の話』があり、湯浅政明監督×松本大洋(キャラクター原案)×野木亜紀子脚本×大友良英(音楽)×古川日出男原作による世阿弥のライバルであった犬王を主人公にした映画『犬王』が来年公開され、世阿弥を主人公にした漫画『ワールド イズ ダンシング』一巻が発売された。
能楽」を主題とした作品がいろんなメディアで偶発的に発表されてきている。数年後にどうなっているか、『タイガー&ドラゴン』以降の落語と同じようになっていくか、どうか。


8月25日
週刊ポスト」で連載していた「予告編妄想かわら版」は連載終了しましたが、「BOOKSTAND」で新たに「月刊予告編妄想かわら版」としてリスタートしました。
翌月の各週に公開予定の一作品ずつを選んで、四作品のオチを「妄想」したものをアップしていきます。
映画の試写状もいまだにたくさん送ってもらってますし、四年ちょっと続けた連載だったのもあったし、映画に関する文章を書くのは続けたいと思っていたので、「水道橋博士のメルマ旬報」でもお世話になっている原カントくんさんにご相談して、「BOOKSTAND 映画部!」で月に一回という形で連載させてもらえることになりました。ありがたいです。

初回の9月では『その日、カレーライスができるまで』『ミッドナイト・トラベラー』『君は永遠にそいつらより若い』『ディナー・イン・アメリカ』を取り上げています。

f:id:likeaswimmingangel:20210920185255j:plain
パルコ劇場でマジロックオペラ『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』を鑑賞。
NHK朝ドラ『あまちゃん』以来の宮藤官九郎×能年玲奈による歌と演奏のロックオペラ。今年いちばん笑った気がする。出演している村上虹郎は歌めっちゃうまいし(UAの遺伝なのか)、グループ魂でもドラムな三宅さんの気持ち良すぎるドラム、ミュージシャンとしても好きな藤井隆さんの歌(ちょっと声が枯れてたけど、演じたのは大江千里をもじった大江三千里)も聞けた。
ぶっちゃけストーリーがどうこうではなく歌と演奏で響かせて届かせて、さらにキャラクターで笑わせてくる。
能年玲奈=のんがギターを弾き歌うパンクロック、舞台装置と映像でも見せて、LGBTQと多様性についても物語に取り込んで(この辺りはクドカンの思いなのか現在の状況について思っていることなのかはわからないが)畳み掛けながら、小劇場ネタや荒川良々さんがポイントポイントで仕掛けてくる、伊勢志摩さんが何役もやりながら元宝塚とか笑ったなあ、園子温監督『TOKYO TRIBE』で主演したYONUG DAISがラップを披露して、少路さんはサックスまで奏でて、宮藤官九郎はおじいちゃんのパンクロッカーとしてギターを鳴らす。
小池都知事のモノマネはあの大御所だし(映像を使って巨大なスクリーンに映し出される)、のんの超能力であるテレパシーの声は園組でお馴染みのあの人でここも終始笑ってしまう。たぶん、パルコ渋谷が新しくなってからというのではなく、今まで一回も行ったことがなかったはじめてのパルコ劇場をたのしんだ。約三時間、やりたい放題なのを観られてうれしかった。


8月26日
f:id:likeaswimmingangel:20210920185331j:plain
大塚英志著『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』を休憩中に本屋に行って購入。
西島大介さんのイラスト表紙だった角川文庫版『定本 物語消費論』が20年前。あれもそもそもリユースのようなものだったが、先月の星海社新書版が出て今回のアップデート版へ。プラットフォームとその疎外感&無償労働問題は他人事ではないし、京アニ事件とも関わっているはずなので読む。
創作の問題とプラットフォームという装置が人をダークサイドに落とさないわけがない、と思っている。無邪気に気づかないうちに落としているとも思ってる。
一応僕がスタッフである「monokaki」は小説投稿サイト「エブリスタ」のオウンドメディアだし、大塚英志著作をずっと読んできたのでそう思ってきた。宮崎勤にしても少年Aにしても、そういう人たちの一つの特徴として、みんながそうではないが書きかけの小説が残されていたりしたといわれる。

「人が<物語>を欲するのは<物語>を通して自分をとり囲む<世界>を理解するモデルだからである。」というのは『定本 物語消費論』に書かれていて、ずっと印象に残っている言葉だ。

物語を書くことはセラピーにもなるし、自分の人生を物語で補完するこもできる。だが、同時に書き終わらない物語、書けない物語を抱えた人たちがふとしたきっかけでダークサイドに落ちる。
京アニの青葉も同様だろう。諸刃の刃となった物語に囚われたものはそもそも客観視ができなくなり、世界がおかしいと混濁し始めてしまう。狂っているのが、物語を完結できないのは自分のせいだとは思わないし、自分の作品をパクられたと凶行に走る。
もちろんFBにしろツイッターにしろ、SNS無償労働であり、繋がっているように見せて人に疎外感を与えていく。その上情報はビッグデータとして集積され、やがてその情報を元にわたしたちは管理されていく。その上でどうSNSと付き合うのか、創作について考えるのか、とか。考えていたらけっこうしんどくなるけど、考えなくなってしまうと本当に管理されて楽ちん気持ちいいって状況に陥るので、嫌でも考える。そのために本を、他者の言葉を読む。


8月27日
「PLANETS」連載中の『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春』最新回は『KATSU!』二回目が公開になりました。
『虹色とうがらし』以降のあだち充作品における「父」の視線の変化と、平成不況が及ぼした「一般的な」家族構成の変化があだち作品にもたらした影響について書きました。
「父」の視線ということで安達家と兄のあだち勉さんについて触れてます。勉さんのお弟子さんであるありま猛さんの『あだち勉物語』も今回参考にさせてもらいました。
連載中に亡くなってしまった勉さんがいなければ、あだち充という漫画家は誕生しなかったのは間違いない。亡くなった兄が弟の元に現れるという『QあんどA』という作品でもあだち兄弟について触れようと考えてます。
連載の残りは『KATSU!』一回と『クロスゲーム』『アイドルA』『QあんどA』です。




水道橋博士のメルマ旬報』連載の「碇のむきだし」08月号公開しました。前回に引き続き短編小説『東京』(後半)です。
ウーバーイーツの配達員があれをあそこに運んだら面白いんじゃないかというイメージで書いたら「象徴的な父」と「超越的なもの」の話になりました。




f:id:likeaswimmingangel:20210920185536j:plain
佐藤正午さんの原作小説は未読な『鳩の撃退法』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
孤狼の血 LEVEL2』で広島弁を喋っていた西野七瀬が今回は富山弁を喋っていた。同様に村上淳さんも出ていたし、『子供はわかってあげない』では元教祖役をしていた豊川悦司さんも出ていて、夏の映画出演者わりとかぶってるのかな、と思ったり。
原作小説は文庫版でたしか上下巻あったはずなので、それを二時間にまとめていておもしろかったから、原作は間違いなくおもしろいはずだろう。
観終わってから「あれはこうじゃない?」みたいな考察を言い合うのがたのしいはずの作品だと思うのだが、いかんせん座組(キャスティング)が地味すぎるし、原作者の佐藤さんにめっちゃファンがいるタイプじゃないし、どこの客層狙ったんだろう。ちょっと謎だ。
佐藤さん山田風太郎賞を今作で取ったし、松竹と電通が主導で映画化しました〜、荒い目のザルで原作小説から残った部分で作りました〜みたいな。もしかすると『騙し絵の牙』ぐらいのポップさは必要なのかもしれない。
佐藤さんってwikiを見てたら「大学在学中、同郷の作家野呂邦暢の『諫早菖蒲日記』を読んで感銘を受け、ファンレターを書いて返事をもらったのをきっかけに小説を書き始める」とあって、最近野呂作品読んだばかりだから個人的には、なるほどなあ、と通じてる部分があるような気がする。
そんな風に人生は他者のちょっとした行動でいきなり別次元みたいな普段とは違う日常に入り込んでしまうことがある。この映画はそういう話だった。

大塚英志著『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』を読み終わる。以下は気になった部分。

「コンテンツ」のフリーレイバーへの依存は、別の問題を派生する。一つには「コンテンツ」そのものの無償化、低価格化という「抑圧」である。海賊版の経済的損失ばかり言われるが、例えばKADOKAWAのコミックプラットフォーム「コミックウォーカー」では雑誌連載のまんががweb公開されても一次使用料は支払われない。電子書籍の各プラットフォーマーへの転売でもプロモーション目的と称する「無料」配信が用いられ、著作権使用のフリーレイバー化が進んでいる。もっと深刻なのはクラウドワーカーなどと呼ばれるweb上のブラック企業的労働者を生むという、web労働問題。文章やデザイン、まんがなどを含め表現活動がwebでのやりとりに移行して以降、極端な価格破壊が進行して、web上に大量の下層労働者を産み出している。
 webには「嫌儲」というwebでの創作行為や活動に利益を求めない無償の美徳がある。こういった美徳は崇高な芸術や表現に於いて創り手は赤貧に耐えるべきだという、それこそ近代文学や芸術が産み出したファンタジーが作用している。その美徳が奇妙な倫理としてwebに持ち込まれた時、フリーレイバーは「芸術」や「文学」という「神」ではなく、プラットフォーム企業に奉仕させられるのである。ブラック企業が崇高な理念を掲げ、そこへの忠誠心を労働の動機にすり替えようとしていることと同じである。これはボランティアやNPOの「労働」の中にも潜む問題である。
 だが、webに於ける無償労働はこういったコンテンツ制作にもはや留まらないことはここで確認しておくべきだろう。今や、その「自己表出」のスキルや深度に関わりなく、webに何かを投稿した瞬間、それは無償労働のコンテンツと化す。その中で、人は「日々の行動そのものをコンテンツ化させられていること」にこそ気が付かなくてはいけない。
 そもそも、web上での日々の行動は自らコンテンツ化しなくとも既に「労働」なのだという議論が可能だ。例えば人がプラットフォームに参加する時に提供を求められる個人情報、あるいはプラットフォームがユーザーのweb上での行動から収集していくデータは、広告主への有効な広告枠の販売のツールとして「価値」を有し、「ビッグデータ」としてそれ自体が「商品」として販売される。
 つまりweb上の行動そのものが価値を生み出すという点で「労働」であるという考え方である。ブリセットの急進的な宣言が今や万人に等しくもたらされたわけである。

 ポストフォーディズム無償労働は消費や自己表出という快楽を伴い、こういう言い方は心ないかもしれないが、知的な負荷を極力、人に求めない。つまり「見えない」だけでなく、何より「心地好い」のだ。「自発的」に立ち退くホームレスと違い、「不快」とさえ感じないのだ。反知性主義の批判者は「反知性的であることの快楽」と、それをもたらす仕組みを理解していない。「反知性」は「知性」以上の快楽なのである。
 ぼくが以前『黒子のバスケ』の渡邊に興味を持ったのは、こいったシステムの中にいることが「不快だ」と彼が感じることが例外的にできたこと、そしてルーサー・ブリセットが予見した「システム」そのものを彼のチープなテロリズムの対象としたことにある。『黒子のバスケ』をめぐるメディアミックス的なシステムがたまたま彼の眼前にあっただけだが、十何年程前、盛んに議論されたこのポストフォーディズムの問題は、プロットフォームと「ユーザー」の関係の中でようやく、かろうじて、「見える」ものとなった、と言える。青葉真司が殺意を向けたのも同様の「システム」であったとしか説明のしようがない。
 しかしこのようなweb上の労働問題はフリーレイバーを通り越し、次の局面にある。そしてここで生じつつある「労働」の快適な全人格化や、「消費」の「フリーレイバー」化が、リアル社会の「労働」に反転する形でフィードバックされ、「労働観」を形成しているということを踏まえないと、「ブラック企業」や「介護労働」の問題は恐らく「旧労働問題」としか見えないままなのである。
 私たちはwebの内でも外でも、全人格的な、生そのもののプラットフォームへの従属を暗黙のうちに求められているのだ。
 そもそもプラットフォームはwebという社会システムの外部に出現した。それは網野善彦ふうに言えば「市」(イチ)が権力の外側に無縁の空間を成立するようなものだが、このような管理された空間の外部としてwebが期待された議論はその初期に於いて盛んになされた。しかし旧資本主義の外側に出来上がる市場は常に新しい権力の基盤になる。kミケという外部の市場や「2ちゃんねる」を出自とするストーリーをつくってきたニコニコ動画が安倍政権以降の「保守」を補完し、プラットフォーム作業がその新しい「保守」の権力基盤として利権化される光景は既に現実である。中国という旧資本主義の「外部」に於いては国家とプラットフォームの統合が進行している。「スマート産業」などとソフトに喧伝される社会像はあらゆる個人情報や個人の行動がスマホというデバイスで一元的に管理・監視され、「快適」なサービスを提供する社会のあり方で、人はそこで近代的個人としての自由や人権の一部(しかし結局は全て)を放棄すればいい。既に私たちはマイナンバーに国民総背番号制というディストピアをかんじることができなくなっている。そういうプラットフォーム国家が中国をモデルとしつつ(内閣府のスマートシティ構想のHPで示されるのは中国の事例である)、それを推進するデジタル庁の設置である。私たちは今、わずかのポイントと引き換えに近代的個人を国家というプラットフォームに切り売りしているはずである。
 ポストモダンとはそもそも人が「近代的個人」という呪縛から開放される時代を意味したはずである。なるほど、私たちはプラットフォーム国家に「個人」としての尊厳を移譲し、自らはそのデバイス化することを選択しつつある。
 それはソフトなジョージ・オーウェルの『一九八四年』に他ならないが、「逃避」と「創造」の快楽は「物語消費論」的に担保されているのだ。



8月28日
f:id:likeaswimmingangel:20210920190140j:plain
『プロミシング・ヤング・ウーマン』をシネクイントにて鑑賞。これは観るのがちょっと怖い(フェミニズムや自分の男性性に向き合うことになるから)。あとは『イン・ザ・ハイツ』は観ておきたい。

以下Cinra.netより

さまざまな議論を呼んだ『プロミシング・ヤング・ウーマン』は「有望な若き女性」を意味するタイトルでも関心を集めた。もともと、アメリカでは「プロミシング・ヤング・マン(有望な若者、有望な若き男性)」のほうが一般的に耳慣れした言葉だったのだ。
「プロミシング・ヤング・マン」は、医大を中退した女性が性暴力にまつわる復讐を行う本作のテーマとも近しいイシューで用いられるワードでもあった。このフレーズは、現実に起こった性暴力事件の加害者および被疑者となったエリート男子学生への擁護としても使われてきたのである。
たとえば、2012年にアメリカ・オハイオ州で起きたスチューベンビル高校強姦事件で加害少年に実刑判決が下された際、CNNのリポーターはこのようにコメントしている。「フットボールのスター選手で、優秀な生徒である将来有望な2人の若者(these two young men that had such promising futures)の人生の崩壊を目前にするのは、私のような部外者でも直視しがたいものです」。
こうしたエリート加害者側を擁護するようなメディアなどのスタンス、さらには豊富な資金を持つ者が有利となりやすい司法システムに対する批判は、2010年代中盤より拡大していく。大きなきっかけとなったのは、オリンピック選考会にも出場したスタンフォード大学の水泳選手ブロック・ターナーの性的暴行事件、そして、その判決がわずか禁錮6か月に終わったことだ。
この後、2017年頃からセクシャルハラスメント被害者が声をあげていく#MeTooムーブメントおよび性暴力被害撲滅を訴える#TimesUp運動が活性化したわけだが、2019年には、ニュージャージー州判事が、未成年間の性暴力事件の被告少年について「子どもを優秀な学校に入れる良い家庭の出自」であり「良い大学へ進学する可能性が高い若者」だとして厳しい法律の適用を避け、検察側に「被害者とされる少女とその家族に少年の人生が破壊されてしまうリスクを説くべきだった」旨を主張する事案も起きている。
フェネル監督によると、本作のタイトルにおいて、こうした加害者擁護ニュアンスの「プロミシング・ヤング・マン」という言葉は意識されていなかったという。つまるところ「現実がポップカルチャーに押し寄せていく映画」と評された『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、その構造により、作り手すら考慮に入れていなかった現実社会の不条理な事象をも噴き上がらせたと言える。



f:id:likeaswimmingangel:20210920190436j:plain「佐久間宣行のNOBROCK TV」の構成作家オークラさんがゲストの生配信で「東京芸人青春物語」の妄想キャスティングをしてた。
バナナマンおぎやはぎラーメンズ東京03バカリズム劇団ひとりなど佐久間さんとオークラさんが若い頃から仕事をして共に売れて成長していった芸人たちの青春をドラマ化したら、みたいな企画。
当たり前の話なんだが、同時代性というものがあり、あとから考えるとのちに活躍したり、そのジャンルで頭角を現す者たちが近い場所にいたり繋がっていたりする。生き残った、生き延びて天下を取った者たちの歴史は残る。そうでないものたちの歴史は残りにくい。
上京して最初にバイトしたゲーセンで一緒に働いていたウッチーは大学の友達とお笑いユニットを組んでいて、そのスペースラジオのライブを何度か観に行った。キング・オブ・コントのセミファイナリストまでは残ったが四人中二人が抜けて、二人になり、事務所の先輩であるラーメンズ小林賢太郎さんからアウェイ部というコンビ名をつけてもらってしばらく活動していた。ライブは二度ほど観に行ったが活動を休止した。
あの頃、自分の知り合いでいちばんブレイクする可能性があったのはウッチーだった。
たぶん、同時代性があったり、近い世代で売れていく仲間がいたら違ったのかもしれない。僕はただのフリーターでしかなかったし、文章を書いて原稿料すらもらったことがなかった。
大多数の夢追い人の青春は夢に破れていくもので、同世代に才能があるものがいても自分がそこに関係したりするとは限らないのだけど。
ちょっとだけロスジェネ末期は経済的にも価値観の変動とネットが当たり前になるというエアポケットに入ったことで、本来手にする感じだったものが下に一気にスライドした気はしている。
自分が取り残されたままだなあ、と感じることは年々増えていくが、才能豊かな若い世代の知り合いの活躍を見ると、なんとか流れに乗ってくれと思う。まあ、彼や彼女たちはきっとうまくやれるだろうから、人の心配している場合ではないのだが。

【生配信】登録者数15万人突破記念!構成作家オークラと生トーク


8月29日
f:id:likeaswimmingangel:20210920190632j:plainプチ禁酒法時代になったのでフォークナーを読み返していて、その流れで『土にまみれた旗』を読み終えた。
八月だから光文社文庫版『八月の光』を読む気だったけど、これを読み終えるのに思いの外時間がかかった。来春の『ポータブル・フォークナー』出る前に禁酒法時代が終わっていればいいのだけど。

f:id:likeaswimmingangel:20210920190705j:plain那覇潤『平成史』読了。フォークナー『土にまみれた旗』と一緒に8月中に読み進めていた。やっぱり政治の流れとはこうやって読まないと知らないことが多い。
安倍晋三は祖父の亡霊の傀儡というよりは政界の中心(潮流)からのけ者にされ、さらには自身を下野させた「平成」へ復讐していた感じもするし、そこに左右ともども「象徴的な父(昭和天皇)」を失ってからの右往左往があり、混沌して互いに歴史修正主義者となっていく、歴史が歴史でなくなっていってしまった。
『平成史』読んで、今まで名前は知っていたけど読んでなかった加藤典洋の本を読んでいこうかなと思った。


以下引用・自分の日記用メモ。

 中世まではユーラシア大陸のさいはて、ただの「岬」にすぎなかったヨーロッパが、近代世界のトップランナーへと飛翔する契機がアメリカ新大陸の発見(1492年)にあることは、よく知られています。対してポスト冷戦期、日本を含めた先進諸国の経済社会を急変させたのは、「中国の発見」ーーむろん物理的に見つけたわけではなく、安価で勤勉な労働力をいくらでも外注でき、パクリ同然の前近代的なジャンク産業(山寨)からオープンソースを徹底するポストモダンの先端企業まで、あらゆる時代相の適合的なビジネスパートナーをひと揃えする「中国市場」の出現でした。
 かくして登場した「新大陸」に由来する価格破壊型のイノベーションが普及し、「あたりまえの人」の生活が激変するなかで、かつてルネサンス以降の欧州で魔女狩りユダヤ人への迫害が生じたように、平成末期には反移民とレイシズムが各国に広がっていったのです。
 ルネサンス期の官僚が往々にして、魔術師や錬金術師の顔をもつ「なんでも屋」だったように、なにが専門かよくわからない海千山千のコンサル業者が政府の諮問機関をハックして、真偽不明の未来のビジョンを語る光景も常態化してゆきました。けっして日本のみの話ではなく、トランプ政権の初期にはゴールドマン・サックスの出身で映画プロデューサー、さらにネットメディア経営者と異色の経歴をもつ極右のスティーヴン・バノンがホワイトハウス入りし、時代の象徴のように扱われています(ただし2018年に決裂。20年に募金詐欺の容疑で逮捕)。
 中井氏によればルネサンスの末期にはついに、「もう未来を予見することはやめよう。予見は少しも事態を改善しない」との呼びかけが知識人によってなされ、欧州に近代を産み出すための熱病は1700年前後にようやく収束するそうですから、世界経済の中国へのリオリエント(方向転換/再東洋化)にともなう「ポスト冷戦のさらに後」の狂騒曲も、もうしばらくは続くのでしょう。



8月30日f:id:likeaswimmingangel:20210920190840j:plain書店で見つけてなんとなく購入した武田泰淳『ニセ札つかいの手記』を読み始めた。
最初の短篇『めがね』の男女の関係がめがねというフィルターを通したものでなかなかおもしろい。この武田泰淳という作家のことを僕はまったく知らなかったが、『富士日記』を書いた武田百合子の夫だった人だった。彼の書いた『富士』を読んでから『富士日記』読んだほうがいいのかな。どちらも分厚いが。

f:id:likeaswimmingangel:20210920190912j:plain9月からは村上春樹さんが訳したレイモンド・チャンドラーの「フィリップ・マーロウ」シリーズ七作品を読むことにした。月に誰かを決めてまとめて読んでみるのを続けたほうが読者もたのしいかなという理由から。でも、この『ロング・グッドバイ』はシリーズ5冊目なので読むのはだいぶあとになる。


8月31日
f:id:likeaswimmingangel:20210920190954j:plain
朝起きて二時間作業。9月から執筆する作品の準備などをした。最初にキャラクター表を作るのだけど、その際に登場人物に実際の役者さんをキャスティングする。そのほうがイメージが沸きやすいからだけど、9月と10月に新人賞の〆切がある作品のキャスティングは自分では気に入っている。

その後に朝一で渋谷駅から副都心線新宿三丁目駅まで行ってから、TOHOシネマズ新宿にて『ドライブ・マイ・カー』の二回目を観た。二年後だっけな、家福の奥さんが亡くなるまででちょっとうとうとしたけど、9月に書く作品にドライブの要素が入るのでそのためにもう一度観た。でも、途中完全に寝てしまった。
くるりの『ハイウェイ』からタイトルを取ろうと思っていて、実自分学にも同名のものがあるから新旧『ハイウェイ』の意味があってもいいかなと思ったけど、昨日読み始めたロラン・バルト『表徴の帝国』の中にあった言葉をタイトルにしようと観終わって決めた。

新宿の紀伊國屋書店に寄って、レイモンド・チャンドラーの「フィリップ・マーロウ」シリーズを村上春樹さんが訳したもので揃っていなかった『大いなる眠り』『リトル・シスター』を揃えた。これで七冊全部、9月に読むのがたのしみ。

f:id:likeaswimmingangel:20210920191031j:plain副都心線で渋谷に戻ってから、『イン・ザ・ハイツ』をヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。お客さんは結構はいっていて、女性の比率が高かった。あとわりと若い女性が多かった印象。
歌(ラップ)とダンスで物語るミュージカル作品でけっこう評判がいい作品。やっぱりラテン的なノリや腰つきなんかの動きは太陽みたいな明るさがあり、そこに移民としての生活や夢と現実を重ねてくるフルボッコ感のある強いエンターテイメントで圧巻。さすがにサブスクとかになって配信されても大画面と大音量なおかついい音で聴く体験ありきな作品だから劇場で観るのがオススメ。



『コロナ「禍」の銀河』でなく『コロナ「時代」の銀河』|コロナ時代の銀河|河合宏樹/古川日出男 - 幻冬舎plus
前に豊洲ピットでナンバガライブ観たあとに河合くんと話をしたときに聞いてた古川さんとの対談。全3回らしいけど、一回目が公開になったので読んでみてください。


9月1日
f:id:likeaswimmingangel:20210920191141j:plain
朝起きて2時間はPCに向き合うのを続けている。
9月に入ったので新しい作品に取り組む。登場人物表を作っていたら、考えていなかった関係性や物語に関わってくる要素が浮かんできた。まずは2週間で最後まで書いて1週間ほど置いてから推敲して仕上げる。9月公開分の「あだち充論」の資料としてロラン・バルト著『表徴の帝国』を前日に読んだ。「空虚な中心」についての部分が読みたかったからだが、この本に出てくるワードを上記の作品のタイトルにすることにした。

f:id:likeaswimmingangel:20210920191217j:plain夕方までのリモートワークが終わってからニコラに行って、「かぶとシャインマスカット、ゴルゴンゾーラのサラダ」を食べた。
毎年このサラダを食べる時にかぶを食べているような気がする。かぶって一人暮らしでは調理することないし。シャインマスカットとカブとゴルゴンゾーラを一緒に食べると甘さとゴルゴンゾーラバルサミコ酢なのかな、それらが合わさって甘じょっぱくてかぶの食感がもよくて美味しかった。


9月2日
f:id:likeaswimmingangel:20210920191330j:plain『ショック・ドゥ・フューチャー』をホワイトシネクイントにて鑑賞。
主役の女性はアレハンドロ・ホドロフスキー監督の孫娘のアルマ・ホドロフスキー。となるとホドロフスキー作品に出ていた監督の息子のお子さんなのかしら。

エレクトロミュージック全盛期を目前にした1970年代後半のフランスを舞台に、男性優位の音楽業界で新しい音楽の可能性を探る若き女性ミュージシャンを描いた青春音楽映画。1978年、パリ。若手ミュージシャンのアナは依頼されたCMの作曲に取り掛かるが、納得のいく仕事ができずにいた。そんなある日、アナは見たこともない日本製の電子楽器に出会い、理想のサウンドへのヒントを得る。

エレクトロミュージックの黎明期が始まる前夜みたいな時期を描いているが、そこにはわかりやすい男根主義的な業界にうんざりしながらも自分の音楽で未来を切り開こうとする女性たちがいて、女性の連帯が裏テーマというか、そこが一番見どころだった気がする。

渋谷から歩いて帰っている時に今書き始めた小説の終盤の仕舞い方のアイデアが浮かんだ。そのことに関連して、「銃が出てきたら発射されなくてはいけない」みたいなことを誰かが言ってたなあと思ったけど、思い出せないので検索した。
村上春樹作品で『海辺のカフカ』『1Q84』に二回ほど使われている「チェーホフの銃」の概念だった。
チェーホフがこう言っている。物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」
全然関係ないけど、久しぶりに長嶋有さんの『パラレル』を読みたくなった。

f:id:likeaswimmingangel:20210920191447j:plain小川公代著『ケアの倫理とエンパワメント』を読む。
様々なケアの問題は男性社会や家父長制に紐付いている。実家にいた時に無意識だったり当たり前のように享受していた事は祖母や母が担っていたことがよくわかる。一人暮らしが長くなれば、生活に関しては自分でやるようになるが、実家の長寿の祖母のケアは母がその多くを担っているなあ、と思う。父や兄の祖母に対しての言動は家父長制の影が見え隠れする。
コロナ禍になったことでよりあらわになってきたのがケアの問題であり、それぞれの家庭環境や貧富の差がいちばん出るのもそこである。自助ではまかないきれないケアの問題は当然ながら、公助として国が担うしかない。そうしなければ貧しい人たちはより貧しくなり、下手すれば、いやすでに家族内での感染で命を落としている人が出ている。

夫婦別姓を認めず、同性婚などを認めない現政権と自民党、というか日本会議所属の連中はすでに古くなりシステムとしても機能していない「古き良き日本」という幻想を追い求めている。そこには家父長制的なものがありき、なのだから夫婦別姓同性婚は認めるはずもなく、公助すべきところでしない。自助でなんとかしろというのもそれらの考え方と結びついているのだろう。10万の給付金が世帯主にまとめて振り込むという愚かさも。

濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』で描かれた主人公の家福の妻が亡くなり、みさきの故郷に行ったときに吐露する気持ちも、「男は人前で泣くな」的な教えにある種支配されていたことに起因していると思う。男性自身も知らないうちに擦り込まれたものに、ある瞬間気づくことがある。たぶん、その時に男性性や女性性ではなく両性具有的な視野や負担や気持ちに触れる。そうするとケアの概念やものの捉え方が変化してくる。
一回読んだからケアについて理解できたり、わかるわけではないので、今後も読むことになるだろうなと思う。
この本で紹介されていた平野啓一郎さんの『ある男』をはじめて読みたいと感じた。


9月3日
古川日出男訳『平家物語』がシリーズアニメに、外伝的な『犬王の巻』がアニメ映画『犬王』として来年公開。「宇治十帖」は偽物だと紫式部の亡霊が語りだす『女たち三百人裏切りの書』もやりそうな勢い。ノンフィクション『ゼロエフ』にも震災文学として『平家物語』の話も出てくるのでこの機会にぜひ読んでほしい。

 

f:id:likeaswimmingangel:20210920191556j:plain『怪獣8号』4巻。10〜15巻ぐらいでまとまるといいな。久しぶりに一巻から追いかけて買っているジャンプ作品。
主人公が一度夢破れた中年になりかけというのが自分には入りやすく、シンパシーを感じやすい。怪獣と巨大化、世界的な自然災害のメタファ、それを乗り越えるための超越した力とチームワーク。

f:id:likeaswimmingangel:20210920191624j:plain「ジャンプ+」で以前読んでいた藤本タツキ著『ルックバック』も出ていたので一緒に購入。ここで書かれている「可能性世界」的な構造は『インターステラー』や浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』にも描かれているのだが、そのことを普通に受け入れることができるようにもなっている。
同時に現在が悲惨で救いがたいから四次元というか多次元に感じられる場所にあるような、ありえたかもしれない未来と過去と現在が同時に存在するようなものをもとめているのかも。

f:id:likeaswimmingangel:20210920191647j:plain西島大介著『世界の終わりの魔法使い 4 小さな王子さま』発売。
年内に5巻と6巻が出て完結するみたい。「せかまほ」は版元が3つ目だけど、この完全版でひとつにまとまってよかった。

f:id:likeaswimmingangel:20210920191712j:plain木村綾子さんが店主の「COTOGOTOBOOKS」で購入した片岡義男著『言葉の人生』が届いた。


9月4日
f:id:likeaswimmingangel:20210920191818j:plain『シャン・チー/テン・リングスの伝説』をTOHOシネマズ渋谷で鑑賞。
シネマイレージデイ週間らしくいつもより料金が安くなっていた。映画館で何度も予告編観てもおもんなさそう、としか思わなかったが、あれはわざとつまんなさそうな予告にしたのだろうか?と思うしかない本編だった。マーベル×カンフー×中華神話的なエンタメでめちゃくちゃおもしろかった。
父と息子、継承における過去未来現在、オルペウスの冥府下りモチーフ、ネバーエンディングストーリー的なものもある(巨大な龍ね)し、カリフォルニアを舞台にした冒頭は移民問題と移民家族における祖国と引き継いできた血と名前の話もあり、中国向けであるとしても移民国家アメリカに住む人には自分ごとになる。世界的にも他人事ではないが、日本は入国管理局での事故死など全然理解度も進まないし、自分ごとして政府がそもそも考えていないという体たらく。
今作はカンフー映画としてたのしいし、主人公のシャン・チーと彼のガールフレンド(中国移民二世なのあかな、名前はケイティー)も美男美女ではない。ヒロインをアジアンビューティー的なものにしないというのもとても現代的だった。
沈没していく現在の日本のことがわりと最初の方で脳裏をよぎった。こりゃあ、エンタメで勝負にすらならないし、勝てないわ。アニメはまだ戦えると思うけど。
伝統と進化は相容れないものではないし、多民族や多様性は個人の権利と尊厳が守られて成り立つ。それが日本では「古き良き時代」という思い込みによる呪いで守られないから、自ら首を締め続けている。



9月5日
f:id:likeaswimmingangel:20210920191256j:plain
9月に読むと決めたフィリップ・マーロウシリーズ。その最第一作『大いなる眠り』についてWikiを見るとこの作品が世に出たのは1939年だった。祖母の兄であり、大叔父の河合新市さんがロサンゼルスに初生雛鑑別師として招かれて渡米した年だった。
村上春樹訳「フィリップ・マーロウ」シリーズ一作目を読了した。1/7なのであと六冊。
『大いなる眠り』は子供の頃にテレビせとうち(テレ東系)でお昼ぐらいに放送してたのを観た記憶があって、タイトルだけは覚えている。おそらくイギリスに舞台を移した1978年にものだと思うのだが。
『大いなる眠り』が出たのが1939年。大叔父の新市さんが初生雛鑑別師としてカルフォルニア州に呼ばれて行っていた年だった。そう考えると近しい気持ちにもなる。禁酒法時代の話も出てくるし、先月読んでいたフォークナー作品も禁酒法時代だったりする。そう考えるとコロナ禍の東京ともシンクロする。

f:id:likeaswimmingangel:20210920192119j:plain

「カンバスに向うまえにデッサンをするように最初の段階では、まず書物全体の草稿をざっと書くことからはじめます。そのさい自分に課する唯一の規律は決して中断しないことです。同じことを繰り返したり、中途半端な文章があったり、なんの意味もない文章がまじっていたりしてもかまいません。大事なのはただ一つ、とにかく一つの原稿を産み出すこと。もしかしたらそれは化物のようなものかもしれませんが、とにかく終わりまで書かれていることが大切なのです。そうしておいてはじめて私は執筆にとりかかえることができます。そしてそれは一種の最国近い作業なのです。事実、問題は不出来な文章をきちんと書き直すことではなく、あらゆる種類の抑制が事物の流れを遮らなかったら、最初から自分が言っていたはずのことを見つけることなのです」

レヴィ・ストロースのインタビューらしく、『ライティングの哲学』を読んできたら出てきた。僕はわりと細部をしっかり決めないで書くのでこっち側かもしれない。


9月6日
来月〆切の新人賞で題材にするのは『のらくろ』で知られている漫画家の田河水泡について。もともと僕が本名・高見澤仲太郎が田河水泡になるまでの物語を書きたいと思ったのは、何年も前に大塚英志さんの新刊インタビューに呼んでもらったのがきっかけだった。
宮崎駿が『風立ちぬ』で戦争をほぼ描かないというか描けないが、零戦のフォルムにフェティッシュを感じているから零戦や戦闘機を描きたいという欲望があるのは、幼少期に村山知義らが描いた戦闘機などの絵に影響を受けたからだと言われた。

僕は村山知義について知らなかったので、調べてみると学生時代に前衛集団「MAVO」というのを関東大震災の少し前から始めていた。そこに美大生であった高見澤も参加していた。彼はのちに『のらくろ』を描いて、手塚治虫にも影響を与え、長谷川町子も一時内弟子にしていた田河水泡となる。手塚治虫が「漫画の神様」なら田河水泡はその父、ゴッドファーザーともいえるのではないかと考えた。
高見澤は母がなくなったあとに父の再婚で邪魔になったのか、歌麿呂などの複製画などを描いていた絵描きの伯父夫妻に預けられる。そこで絵を描く下地は自然と身についたで。しかし、実父も伯父も早くに亡くなってしまい、彼はひとりで稼いで生きていくしかなくなる。兵隊にもなり戦地に赴いた(これらが捨て犬の『のらくろ』の元になる)。
二十代を前に兵隊をやめた高見澤は美大に入り、戦前日本におけるダダイズムの先駆となった「MAVO」に参加する。
学生時代には描いた絵を渋谷などで仲間と売ったりして、近所に住んでいた当時売れっ子の竹久夢二を引っ張り出して絵を買ってもらって酒を奢ってもらったりしたというのは水泡の妻の潤子が書き残していた。奥さんに語るほどにうれしかったのだろう。
大正デモクラシーと大正アヴァンギャルドの時代を生きて、日銭を稼ぐために落語作家になり、その原稿の余白に描いていた絵を編集者が見て、漫画描けるんじゃないですか?と言ったか言わなかったか知らないが漫画を描くようになったことで、『のらくろ』が生まれた。

夏目金之助夏目漱石)も高見澤仲太郎同様にある種捨て子であり、民俗学の祖である柳田國男折口信夫ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲たちも捨て子幻想があり、母なる国を求めていた。つまり近代における文学や漫画や民俗学の始まりにいる彼らは捨て子であり、近代は西洋文明と出会った(あるいはそれを介して日本を見つけた)捨て子たちの承認欲求や居場所を巡るものだったのかも、と考えるようになった。そういう思考は大塚さんに影響されまくっているのは仕方ない。
捨て子の高見澤仲太郎が名前を高見沢路直と、田河水泡と変えながら表現活動をしていったのを反映したように、捨て犬で陸軍のペットとして拾われた犬畜生であるのらくろが次第に四本足から二本足へ直立して人のようなり、やがて兵士として戦地で負傷するほどの進化を遂げる(アトムの命題はすでにのらくろで描かれていた)。そして、怪我を負ったのらくろは戦争なんかつまらない、無意味だと戦地から敵前逃亡を図るという極めて人間味溢れたキャラクターになっていく。『のらくろ』について書かなくても、仲太郎が生まれてからを描くとほぼ筋通りにはなるはず。
『みずのあわ』というタイトルは最初に思いついた時から決めていた。明日は田河水泡村山知義について調べに国会図書館に行く。


9月7日
f:id:likeaswimmingangel:20210920192419j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210920192441j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210920192450j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210920192457j:plain9時20分ぐらいに国立国会図書館について開館をちょっと待って入館した。
何年ぶりかわからないし、前に来たのは古川日出男さんのデビュー作『13』よりも前に書かれた『砂の王 ウィザードリィ外伝』を借りて読んだときだった。その時に入館カードも作っていてよかった。

書籍や雑誌を借りたり、その中でコピーしてもらいたいページを複写してもらう流れなどは戸惑ったが職員の方が丁寧に教えてくださったのでなんとかなった。しかし、あっという間に時間が経ってしまう。また、閲覧ゾーンは飲み物など持ち込み禁止というか水分が取れないのでめっちゃ喉が乾いた。

前日からネットで調べて目をつけておいた田河水泡村山知義と「MAVO」関連のものを探して、必要になりそうなものを選んで複写してもらってきた。

高見澤路直(美大生時代の田河水泡ペンネームというか活動ネーム)が表紙のデザインをして「癇癪玉をコラージュした《ラシヤメンの像》を表紙にしていたため、発禁回収処分」になったという3号も見れた(1号から7号までまとめて復刻されてそれぞれが別々だがひとつの箱に収録されているものが閲覧できる。全部表紙はカラーで複写してもらって、中も高見澤のものは複写してもらった)。

3号のイラストはよくよく見ると髪の毛みたいな毛が貼られているし、かんしゃく玉もイラストじゃなくて紙で作ったのがはっていあったりする。こういうのは実物見ないとわからない。
で、中を見たらふつうに村山や高見澤たちの写真があった。村山は田河水泡はあまり積極的には「MAVO」には参加していなかったと著作で書いていたけど、1号から作品は載っていたし、3号ではふたつの写真にモデルというか被写体になっていた。ひとつは逆さまになっているやつで手を左右に伸ばして身体が十字っぽい人がたぶん高見澤だと思われる。
そして、『死と悪魔』で六人ぐらいいる写真では、女性にちょっと見えるのが高見澤で、ずっと彼は長髪だったみたいだから、その役をあてがわられたのかもしれない。
1923年の関東大震災の少し前に結成されて、1925年には解散した「MAVO」は大震災から復興していく東京の街でいろいろと前衛的な表現をしながら青春を謳歌していたんだろうなと思う。

田河水泡 新作落語集」はあとがきがすごく大事なのだが、あとがきで著者名が入っていると著作権の問題で4ページしか複写できませんと言われて、Amazonで買ったほうが早いかと思ったら二、三万もしたのであきらめて、前半をノートに書いたりした。残りの四ページは複写してもらったので、手書きしたものを再度文字起こしして、複写の部分を書き起こして「あとがき」を完成させないといけない。そこには新作落語を書いて講談社に持ち込んで、落語作家になった高見澤が漫画家・田河水泡になるきっかけが書かれているのでかなり重要。というか小説で書こうと思うところのほぼラスト辺りの部分だと思う。しかし、手書きは字が汚いし、すぐに手首が疲れる。


9月8日

4thアルバム『Kid A』と双生児的な5thアルバム『Amnesiac』が発売21周年を記念し、ひとつの3枚組作品『Kid A Mnesia』が発売というニュースを朝見た。この二枚が出たあとのツアーの武道館ではじめてRADIOHEADを観たし、特別好きじゃないけどサマソニで『Creep』のイントロが流れた時には衝動的に叫んだ。『Kid A』『Amnesiac』はずっと聴き続けている、というか聴けてしまう。この二十年はなにか幽閉された時間の中に居るような気もする。それは取り残されたままの自分の一部みたいだな、と感じることもあるのが関係しているかもしれない。
『Kid A Mnesia』の限定の赤いヴァイナルを予約した。家にはレコードプレイヤーはない。いつか買うかもしれないが、レコードサイズジャケを飾りたい、所有しておきたいという願望。
Bluetoothのワイヤレスイヤフォンで急に話しだす人が怖い。あえてイヤフォンはコードのままのものにしているし、壊れかけのiPod nanoを使っている。ワイヤレスイヤフォンとかどんどん人と機械が融合するのに違和感をなくしていっている、そんなトランスヒューマニズム的なものにどうも違和感を感じてしまう。便利すぎるのとか手ぶらなのはなんか嫌だ。『Kid A』『Amnesiac』はたぶん「人間単体」としての人間へのさよならとしてのポストロックみたいに聴こえる。

f:id:likeaswimmingangel:20210920192657j:plain気圧のせいか少し頭痛がした。ガトーショコラにアアルト、アルヴァー、アイノと三種類をそれぞれを飲んだ。やっぱり最初に香ってくる匂いが全然違う。
トイレには折坂悠太さんのニューアルバムのポスターが貼られていて、便器に座ると折坂さんと向き合う、見つめ合う形になる。アミューズから送ってきたらしい。
アアルトコーヒーの庄野さんと折坂さんのイベントライブをニコラでやった時に観させてもらってよかったと今でも思う。ニューアルバムの初回限定版についてくるツアーのドキュメンタリーは「朗読劇『銀河鉄道の夜』」などの監督もしている河合さんだった。いろんなことが繋がっている。


9月9日
f:id:likeaswimmingangel:20210920192731j:plain
『新潮』掲載の古川日出男連載『曼陀羅華X』最終回を読む。
連載の途中には『ゼロエフ』の取材があった。晩秋の阿武隈川に行くギリギリまで瀕死になりかけたこの作品を蘇らそうと古川さんが執筆していたことを知っているし、そのため阿武隈川に行く前は夏の福島の時のように身体を鍛えたり動かせていなかったので、最後の日とかはかなりしんどそうだった(一日30キロ以上歩いたせいもあるが)。
『LOVE』『MUSIC』、『ゴッドスター』『ドッグマザー』に通じる東京湾岸(埋立地)を舞台にし(京都には行かないが)、犬が活躍するという共通点がある。震災がなければその4つに続く作品として『WAR』という物語が想定されていたと言われていたが、この『曼陀羅華X』はある種『WAR』的な部分があるんじゃないかなと思う。
物語はかつて国内でテロを起こした新興宗教団体があった。テロ以前に一人の作家が拉致されてその新興宗教の預言書を書かされた。彼はそこから抜け出す際に教祖の生まれたばかりの息子を奪って逃げた。彼はその息子を自分の子として育てていた。息子は聾者で耳は聞こえないので作家と息子は手話でやりとりをしていた。そこに警察犬であるゴールデンレトリバーも息子を守る存在として加わる。新興宗教団体の教祖たちやテロの実行犯は逮捕されており、死刑囚となっていたが団体の残りのメンバーたちによって教祖の奪回計画が練られていた。そして、それは起こり、預言書を書いた作家は息子を奪いに彼らがやってくるのに備えていた。
という軸があり、ストーリーはもっと複雑で入り組んでいるが、「オウム真理教」をモチーフにした部分がある作品。

曼陀羅華X』は連載中に物語を再生、再び産み落とすために作者によってなかったことにされたパートがふたつあり、なくなったパートのひとつである「Y/y」の物語はかなり好きだった。それは『LOVE』『ゴッドスター』に通じる湾岸の、埋立地を舞台にしたものだった。そこは完全に単行本になるときにはカットされるだろうから、なにか違う形であのパートが転生すればいいのになと思う。
まずは最終回まで書き終えて終わったのでよかった。単行本になったら全然違う印象になりそうな気もするが。個人的には『ゴッドスター』『ドッグマザー』がとても好きなので、『曼陀羅華X』はすごく響いたし、それらが好きな人はまとまったら読んでもらいたい。


9月10日
朝からリモートワーク。
今度「monokaki」の連載で取り上げる太宰治著『人間失格』を読む。「飲む・打つ・買う」の「買う」の部分だけがないとも感じるし、幼少期に実家の下男や下女に犯された的なことが書かれていて、幼児虐待&性的虐待じゃねえかと思った。
主人公の最初の独白のような「恥の多い生涯を送って来ました」という有名なフレーズよりもそっちのほうがきになってしまう。彼はその美貌により女には事欠かないし、それによって死なずにすんだりしてきたが、同時に廃人に向う道路を作り上げてしまう。
太宰治の自著伝的な扱いもされているし、これが太宰が最後に書き上げた小説であることも主人公の男が太宰と見なされる要因にはなっている。
十五年戦争下において太宰治は代表作のほとんどを書いた。その非日常が終わってしまうと入水自殺で女をひとり巻き込んで死んでしまう。
酒やクスリの過剰摂取は原因だっただろうが、戦争が終わって当たり前の日常がやってきたのに耐えられなかった、という印象がどうも拭えない。


9月11日
f:id:likeaswimmingangel:20210920192848j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210920192902j:plain起きて二時間PCとにらめっこ。あんまり進まなかった。
シネクイント(&ホワイトシネクイント)で映画を鑑賞した際におしてもらうスタンプが4つ貯まったので一回映画鑑賞が無料になるので、3回目の『ドライブ・マイ・カー』を観に来た。先月末に2回目を観た際にはうとうとしてしまった。無料だと人は集中できないのか、身銭を切るしかないのか、と思うのだが、二度目は意識すればきっと最初から最後までいけるはず。というわけで今回は眠らずに最後まで鑑賞。

冒頭の辺りに主人公の家福が『ゴドーを待ちながら』の舞台に出演しているシーンがある。家福の妻の音はくも膜下出血で急に亡くなる(短編『ドライブ・マイ・カー』は短編集『女のいない男たち』収録)が、彼女が『ワーニャ伯父さん』のワーニャ伯父さんのセリフを抜いたカセットテープがずっと家福のマイカー(赤いサーブ)から流れていく。これが作品におけるひとつの「語り」になっていく。しかし、彼女はすでにこの世界にはいない。
映画『ドライブ・マイ・カー』は「語り」が主題であり、カセットテープに録音された音の声だけではなく、劇中劇『ワーニャ伯父さん』は出演者が何ヶ国からも来ていて多言語だし、さらには韓国手話も登場する。この手話は耳で聞くのではなく目で見るものであり、ソーニャ役のユナが手話を稽古や舞台で使う際には周りから音が消える。手話を見るために出演者や観客は音を立てない。沈黙が会話となる。
ユナは全身で「語る」存在であり、そもそも自分のコミュニケーションツールである手話は通じないという諦念がある、だが、彼女の音のない「語り」は不思議とわかるし、伝わる。それは彼女の手話に対して対象者は全身で聞いて対話しようとするからだ。だから、話せないユナがもっとも雄弁にさえ見えてくる。

大切な存在を失ってしまった家福とみさきはその痛みについて他者に語ることをしてこなかった。ふたりは痛みを語ることで解放され、生きていくことを決意する。だから、ラストシーンでは呪いであり聖痕のようにみさきに刻まれていたものが消えている。
映画『ドライブ・マイ・カー』が本家の村上春樹に対して批評的なものとなっているのは、全編における多様な「語り」の先で主人公の家福が痛みを告白し、目の前の現実を生きることを選ぶからだ。というわけでやはり傑作なのでは、としか思えない。同時に村上春樹の凄さも改めてわかる。

ずっと隣の部屋の住人がおらず、何度も家賃をおさめる不動産とかいろんな人が来ていたが、今日表にあった洗濯機なども含めて全部トラックでもっていった。
家賃滞納の末の処理っぽい。何度か隣の人死んでるんじゃないか?と思っていたがそういう事件みたいなことではなかったようだ。
大家というかうちのアパートを含めて管理しているおじさんが高圧洗浄できる機械で部屋の前を掃除している音が響いていた。隣人は引っ越しをしてきたさいに偶然会って少しだけ話をしたら、芸人だと言っていた。この数年で彼を見たのは最初を含めて三回ほどしかない。
管理のおじさんに「事件とかではないんですよね?」と聞いたら、「家賃をずっと滞納しまくってただけ。表に出る人でYou Tubeとかに出てるみたい」「ああ、芸人って言ってましたもんね」というやりとりをした。
家賃払わずにずっと逃げてるのにYou Tubeで顔を出すというのはなんだか妙である。


9月12日
f:id:likeaswimmingangel:20210920193119j:plain散歩がてら行った書店で北村紗衣著『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書) が平台に積んであったので購入。
以前、北村さんが「BOOKSTAND.TV」に出演されて水道橋博士さんと原カントくんさんとトークをされていた様子はこちら↓


東京五輪期間はずっとParaviで『キングオブコント』を、Netflixで『M-1グランプリ』を見ていたのだけど、TVerでも過去の『キングオブコント』が一時的に見られるようになっていた。
バイきんぐが優勝した2012年はこのコンビの時の観客の反応が段違いになっていて、完全に空気が変わったのがわかる。同様なのは『M-1グランプリ』2007年の敗者復活から一気に優勝に駆け上がったサンドウィッチマンの漫才も同様だった。
お笑い好きには知られていたかもしれないが、世間的にはまったくの無名だったことがプラスに働いたのももちろんあるんだと思う。コンテストの常連になると見慣れてしまって優勝できなくなるというパターンもある、爆発力が削がれてしまうから。笑い飯ジャルジャルは最終的には王者にはなったが、そういうパターンだった。
今年の『キングオブコント』の決勝進出者に『M-1グランプリ』王者であるマヂカルラブリーがいるが、漫才か漫才じゃない問題も勃発したけど、見慣れてしまった感があるから優勝は難しんじゃないかなと思ってしまう。

個人的には空気階段に優勝してほしいが、3年連続だし今年取らないと難しくなるのかもしれないから、一気にいってほしい。蛙亭も好きだけど、爆発力には欠ける気もする。
審査員が松本さん以外は入れ替えというニュースがあった。東京03の飯塚さん、バイきんぐの小峠さん、ロバートの秋山さん、かまいたちの山内さん、かもめんたるの岩崎さん辺りの歴代優勝者から選ばれるのかなと思うのだが、誰が審査員になるかで決勝進出社の運命は変わってくる。
立川志らく師匠が『M-1グランプリ』の審査員になった際に「私がそこで良い悪いを点数をつける。それによってその人の人生が変わる。ものすごく責任があるんだけども、それを含めて運なんですよ。結局は。だから出演者にどれだけの運があるかっていう。だから別に。」
この運ってのがやっかいなものだ。理論的に考えなさすぎるとスピリチュアルな方面によっていきがちだし、自己啓発にハマる可能性もある。でも、それらもゼロではないだろうから難しい。

f:id:likeaswimmingangel:20210920193225j:plain円城塔、怪獣を語る』が読みたくて、『火花』が掲載された時ぶりに『文學界』を買ったような気がする。5大文芸誌で『文學界』をほぼ買ってこなかったのは古川日出男作品が掲載されることがないから、という理由しかない。

ノブコブ徳井さんが嫉妬するメンツがいい。



ずっと安藤くんファンなので、ホアキン・フェニックスが『ジョーカー』を演じたように、安藤政信主演でどぎつい内容の映画をやってほしい。



『ビルド・ア・ガール』は音楽ジャーナリストが主人公なので観ようと思ってるんだけど、日本版と本国版の予告編を見ると、日本版のほうがポップというキャッチーになっていて、売り文句のひとつは「『ブリジット・ジョーンズの日記』制作陣が贈る」ってことらしいけど、『ブリジット・ジョーンズの日記』が日本で公開されたのは「9.11」の翌日だ。まだ、その頃ビリー・アイリッシュもまだ生まれてない(同年の12月生まれ)。
ブリジット・ジョーンズの日記』以降にロマンティック・コメディ作品が刷新されてないってこともあるんだろうし、新世紀に入ってからの世界はロマンティック・コメディというジャンルが成立しにくくなったという部分はあるんだろうな。



9月13日
朝から晩までリモートワーク。人と話さなかった。これは朝と晩の仕事がリモートワークだとけっこう起きている。まったく外出しないわけではなく、コンビニやスーパーや本屋には行っているし、会計を済ました際に有人であれば、「ありがとうございます」とは返すのだが、それは礼儀のひとつでしかないので話したということに自分ではカウントされない。

J-WAVE『TOPPAN INNOVATION WORLD ERA 』 の12日に放送されたものをradikoで聞く。ナビゲーターはASIAN KUNG-FU GENERATION後藤正文さんでゲストは小説家の古川日出男さんのトークがあった。トーク終わりでNUMBER GIRL『TUESDAY GIRL』が流れる展開だった。
人の話を聞くこと、文章をしっかり読むことについてであったり、なにもかもがインスタントな表現になっていく中で、もっと長期的な視野で流れを掘り起こしたものを長い射程で放つことの意味について二人がゆっくりとしかししっかりと届く声で会話をしていた。とてもいいトークだった。

また、「コロナ禍」と言わないほうがいいという話もあって、それがなにかのきっかけですぐに終結するわけではなく、ゆっくりと解決していくものであるということ。「コロナ禍」と言うニュアンスの中に過ぎ去るものだという認識があるのかもしれない。僕はそれを言い過ぎてしまっていた、その言い方を改めようと思った。
おそらく、この状況はもっと長い間影響を与え続けるし、僕らはその中で生きていくしかない。もう少し、いろんなものをインスタントで表現できるようになった結果としての今についても考えていかないといけないし、考えることをずっとしていくしかないのだなと話を聞きながら思った。
表現者はエンドマークを打つのではなく、ひたすら考え続けて、考えていくことゆっくりと深くしていくことしかない。あまりにもインスタント的に消費するのが当たり前になって、人の話も最後まで聞けないし、文章を読むことができなくなっている。だからこそ、長期的な視野が必要であり、長く遠くへ届く表現をしていかないと瞬間で消費されてしまうだけになる。


9月14日
f:id:likeaswimmingangel:20210920193446j:plain小川公代著『ケアの倫理とエンパワメント』で紹介されていた平野啓一郎著『ある男』文庫版を読み始めた。
単行本と同じ装丁デザインなので、正直『ケアの論理とエンパワメント』を読まなければそのまま読まなかったと思う。この装丁は単行本が出たときから「ないわ」と思っていたから。でも、読み始めたらとても引き込まれる展開でおもしろい。
最初に小説家がバーで出会ったある男との出会いから始まり、その男が探すことになる「X」の正体についての物語になっていく。ちょっと太宰治著『人間失格』の導入に似ている気がした。
あと、これは『文學界』に掲載した作品みたいだけど、そうするとこれって「純文学」になるのだろうか。と一瞬思う。
前に栗原裕一郎さんが「「純文学」は「制度」であり「ジャンル」ではない」とツイートしていたのを思い出した。
文學界』は玉石混交となって、文芸誌というよりは総合誌寄りな感じになっているのだろうか。いまいちよくわからない。

今日朝の作業が終わって一時間半ほど散歩して、家の近所のコンビニに寄ったら、『ある男』の映画に出ている女優さんと旦那さんが店に入ってきた。ふたりとも帽子かぶっててもマスクしてても目の辺りでわかるのはなんだろう。美形の人って目元から違うし、そこと顔のサイズの比率とかが整っているからなのだろうか。旦那さんがイメージと違ってデカかったのが意外。

f:id:likeaswimmingangel:20210920193524j:plainレイモンド・チャンドラー著『高い窓』も読み始める。
フィリップ・マーロウ」シリーズの三作目。今月中に全七冊読める気がしない。だが、読めるところまで読んでおく。

f:id:likeaswimmingangel:20210920193550j:plain田河水泡関連を調べていたら、ちょうど『1920年代の東京』という本が出ていた。
やっぱり「100年」前ということは自分から考えて祖父母世代が生まれた時代だったりするから遡れるリアリティがあるのかもしれない。
1923年に起きた関東大震災というものによって破壊された東京、そして「大正」とその終わりから「昭和」へ入っていく中で戦争に向かっていくことになる日本の感じとかは、「平成」を考えることにもなりそうだし。


9月15日
朝少し寝坊したので7時過ぎて机の前に。なんか変な夢を見ていたから、眠りが浅かったのかもしれない。毎日二時間は書けなくても、をはじめてから休日じゃないのに7時過ぎに起きてPCを打つのは初だった。
9時からリモートワークだったので、1時間20分で一旦終了。夜にリモートワーク終わってから足りない40分やってノルマをこなす。いろんな状況を鑑みて半年後の3月ぐらいには今置かれている立場とか諸々が大きく変わっていくのだろうなと思う。それまでにできそうなことはあまり多くはないがゼロではない。とりあえず、半年間集中してひとつずつ形にしていく、それぐらいしか明るい未来を引き寄せることはできないだろうなという想いが日々強くなっている。


9月16日
アニメ『平家物語』を視聴するためにFOD加入しましたよ。最終回までは入っているしかない。


視えないものを視る、聴こえないものを聴く、という幻視者としての古川日出男という作家が現代語訳した『平家物語』を原作としているけど、それを具現化しているのが主人公の「びわ」だなと見ていて感じた。

4年前に高知県竹林寺で行われた古川日出男×向井秀徳×坂田明による「平家物語諸行無常セッション」を観ていたので、音楽的には向井秀徳のイメージがあった。だが、女性たちを主軸にしている作品であり、アニメの絵やキャラクターの感じも含めて、羊文学の塩塚モエカの声が作品にとても合っていると思う。

現在はFODで先行配信し、来年からはフジテレビ系で放送されるこのTVアニメ『平家物語』から始まり、来年の劇場アニメ『犬王』へと繋がっていく。その流れと展開はお見事で非常に戦略的で正しいと思う。
古川さん自身はブログで、個人的には『アラビアの夜の種族』と『ベルカ、吠えないのか?』と『MUSIC』はアニメーションで見たいと書かれていたけど、『平家物語』のアニメの一話を見たら、『ベルカ、吠えないのか?』がアニメ化されたらいいのになとなぜだか思った。冒頭の野犬のせいだと思うけど。

f:id:likeaswimmingangel:20210920193812j:plain「幻視の作家」ということでアメリカの作家のスティーヴ・エリクソン氏と古川さんが「東京国際文芸フェスティバル2016」で対談したあとのツーショット写真を(撮影したのは私)。そういえば、エリクソンの作品って映像化されていない気がする。

f:id:likeaswimmingangel:20210920193842j:plainニコラの常連さんからオススメされてお借りした清原なつの著『千の王国百の城』を読了。
SFとファンタジー要素の強い作品が集まった短編集だった。一緒に貸してもらったのが萩尾望都さんの作品なので、70年代辺りの少女漫画がアメリカのSF小説の影響を受け入れてハイブリッドしていった頃の作品であり、今読んでも物語が屹立していて、その強度に違和感がない。絵柄とかは昔のものだなと感じるがそれはそれで味になっている。
懐かしく感じるのは、たぶん彼女やその世代の少女漫画に影響を受けた作家たちの作品に僕が触れてきたというのもありそう。
最後の解説が大森望さんなのだが、早川書房から出ているから疑問はないけど、「大森望」というペンネームは清原なつの作品に出てきた登場人物からとったものだと書かれていて、「大森望」ってペンネームなんだと今更知った。


9月17日

f:id:likeaswimmingangel:20210920193912j:plain
PLANETSから新創刊された『モノノメ 創刊号』が届いた。
いろんなテーマとそれに関して執筆者の方々がどんな風に物事を考えているのかを読むがとてもたのしみ。ネットワークとその速さではなく、雑誌だからこその遅さとネットワークから飛び出ていくものについてしっかり考えるきっかけになりそう。

f:id:likeaswimmingangel:20210920193937j:plain
これはおもしろいだろ、と思っていた『レイヴ・カルチャー──エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』を購入。
いつ読めるかわからないけど、エレキングブックスはこういう書籍を出してくれるのでいい。


9月18日
f:id:likeaswimmingangel:20210920194024j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210920194027j:plainf:id:likeaswimmingangel:20210920194151j:plain
雨の中渋谷まで歩いて副都心線新宿三丁目駅まで乗って、テアトル新宿に。昨日から公開されている『君は永遠にそいつらより若い』の初回を鑑賞。
主人公・堀貝(佐久間由衣)は欠落感を抱えて生きている大学四年生、就職先も児童福祉司として決まっていて、故郷の和歌山に卒業後は帰って勤めることになっている。堀貝はひょんなことから一学年下の猪乃木(奈緒)と出会い、次第に意気投合としていく中で、猪乃木の過去に起きた不条理な悪意による暴力とそのせいで彼女の人生や家庭が崩壊したことを知ることになる。
また、背が高く処女であること、自分は他の人ができることができないという劣等感を抱えている堀貝は少しだけ飲み会で話をした穂峰(笠松将)に興味を持つが、彼はその後いつものように友人の吉崎(小日向星一)と家飲みをした後に自殺をする。穂峰は住んでいる部屋の下の階でネグレクトが行われており、その少年をしばらく自分の部屋に住ませて保護していたことで誘拐と間違わられて警察沙汰になるような青年だった。そんな彼が自ら命を経ったことに堀貝も吉崎も理解できないまま最後の学生生活を過ごすことになる。
堀貝は猪乃木という他人に自分の秘密や抱えているものを話すことができるようになっていく。そこにはシスターフッド的な部分もある(少しだけ同性愛的なものもある)けど、他者に理解されたい、それが叶うのは一瞬、刹那かもしれないし、相手が同じでも次はないかもしれない。だからこそ、ふたりの時間はやさしく儚い。しかし、堀貝は猪乃木と出会ったことでその欠落感や劣等感に向き合い変化していく。
『ドライブ・マイ・カー』でも個人の痛みを他者に語ることで生きていくことを選ぶという展開があったが、こちらも内容的には近しいものがあると思う。どちらも今の時代、現代性がしっかりと作品に反映されているようにも思える。

赤い髪の佐久間由衣はビジュアル的にも映えるのだが、その演じる堀貝は欠落感や劣等感を抱えているという存在であるのだけど、でも普通に見ても美形じゃんって観始めた頃に思ってしまった。そのルッキズム的なものを自分が無意識にやってしまっている、と気づく。そういうものから逃れることはできないけど、気にしないといけない。

三枚目の画像は映画『君は永遠にそいつらより若い』パンフレット。めちゃくちゃ分厚い。1800円だったので鑑賞料金より高かった。TCGカードでテアトル系列では映画はいつも1300円で観れているので、コロナになってからはそういう割引とかで観る時はアイスコーヒーを劇場で一杯は買うようになった。劇場に金を落とす方法のひとつとして。もう、自分の好きなものに対してはできるだけ金を落とす以外に存続させる可能性はないし、微力でもやっておいたほうがいい。
映画や映像系に関係している人間が映画とか観ないで金も落とさないで文句言っていたり(試写ばかりなのに文句を言っている人はそもそもどうかと思う)、出版関係の人間が書籍や雑誌を買わないで業界がどうたらこうたら言うのも終わってるなと思う。

シナリオが掲載されているのもうれしいけど、内容が濃すぎる。いい意味でパンフを作成した編集者の熱意が暴走してとてもいい形に纏まった感じがする。原作者の津村記久子さんのインタビューから、この作品に大きな影響を受けた竹宮ゆゆこさんという小説家の流れも入ってる。
映画のパンフレットはできればシナリオを掲載してほしい。読める機会がほぼないというのもあるけど、役者の誰かのファンがファンアイテムとしてパンフ買ってシナリオ読んだことで、シナリオに興味持って書き出す人とか、そういう可能性が閉ざされている気もする。まあ、撮影で削ったものとか実際の映像の齟齬とか出てくるから掲載したくないっていうのもあるのかもしれないが。
前に本を処分する際に今までずっと買い溜めていたパンフレットも手放したけど、その時に好きな監督と役者さんのもの以外だと好きな作品でシナリオが掲載されているものだけを残した。

f:id:likeaswimmingangel:20210920194230p:plainツイッターの『君は永遠にそいつらより若い』の公式アカウントの中の人が劇中のセリフをつかった上手い返しをしてきた。


9月19日
f:id:likeaswimmingangel:20210920195106j:plain読み進めていた平野啓一郎著『ある男』読了。
平野作品は『ドーン』以降しか読んでいないが、『マチネの終わり』同様に非常に読みやすい。同様に社会的な問題などが大きく物語に関わってきて、主人公を通して著者の思いのようなものが代弁されているように感じなくもない。主人公の家庭の問題(妻との関係がどこか不穏、幼い子どものことは大事)があり、妻では女性との関係や思いで揺れる。辺りは共通しているような。
デビュー当時の作品を読んでいないからわからないのだが、すごく抑制して書かれているように思う。
ある男性が亡くなって、その兄がやってきて顔を見て弟ではないと言ったことから、その亡くなった男性は他人の戸籍を使っていたことがわかり、弁護士である主人公がその謎と本来の戸籍の持ち主を探すというものは、平野さんが前から言っている「分人主義」的なものを物語に特化したんだと思う。それってフィリップ・K・ディックとかSF作家たちもネット時代を予期するような作品で描いてきてはいた。
だから、読みやすくて抑制されていて、バランスも取れるのになんだか残念だなって思うのは、絶対にこの人はド変態だろと思うのにその変態性が作品にほぼない。新海誠が『君の名は。』で大ヒットを飛ばしてからの感じに似ている。ヒットするのもわかるし、多くの人に受け入れるのもわかる。だけど、僕が読みたいものは変態的というかエッジが効いてるものなんだろうなと思う。


9月20日
f:id:likeaswimmingangel:20210920195150j:plain
起きて作業してから散歩がてら渋谷に行く。だいぶ前に外付けHDにデータを移行した際にいくつかミスって消えてしまって、散歩の時に使っているiPod nanoにはデータがあるが、PCでは聴けないものがある。
近所のTUTAYA三軒茶屋店はレンタルCDエリアを縮小してしまったので、アーティストのアルバムが揃っていないとかの状況になっている。TUTAYA渋谷店ならまだあるだろうと思った。今回は環ROYのフルアルバム5枚とKID FRESINO関係のものSIMI LABとそのメンバーだったOMSB、『大豆田とわ子と三人の元夫』の音楽を担当してたSTUTSなんかのアルバムをもとめて借りた。
上の写真はその帰りに通ったドン・キホーテ渋谷店が前まであった場所。東急百貨店も再開発で数年以内には今の形ではなくなる。渋谷にあったかつての風景がいとも簡単に塗り替えられてしまう。でも、それが残念だとかはあまり思えないのは渋谷が変わり続けている街だからなんだと思う。

f:id:likeaswimmingangel:20210920195246j:plainアンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』をなんとなく買って読んでみた。どこかで聴いたことのあるものであったりするが、新書のよいところは深過ぎにライトでわかりやすく読めるところだ。スマホを使う時間をある程度決めて制限すること、SNSは使いすぎると孤独感が増してしまう。また、ストレスをためやすいのでうつ病になりやすいという話も出てきている。適度な運動(一日ちょっとでも歩く)をすることでそのストレスはだいぶ軽減される。たしかに僕は毎日歩いているし、この日だって渋谷と家の往復とプラスα歩いて10キロを越えていた。その辺りがストレスをためすぎないように自制できているのかもしれない。

17時から阿佐ヶ谷ロフトAで園子温監督がゲストの『アサヤン』の観覧チケットを取っていたのだが、園監督へ映画次回作の公開オーディションを開催というのをツイッターとかで見て、それはワークショップから作った映画『エッシャー通りの赤いポスト』が公開するときでいいんじゃないかなって思ってしまった。ハリウッドデビュー作『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』公開前だし、博士さんとはすごく久しぶりだろうから園さん倒れたりしたし、復活してハリウッドで映画を撮るような流れとかを聞きたかった。公開オーディションってなんか現場が異様な空気、下手したらめっちゃ寒くなりそうだから配信で観ようと思った。で、観覧チケットって20時前に東京都のもろもろで阿佐ヶ谷ロフトAからお客を出さないといけなくて、出てからじゃないと配信のURL送られないから、リアルタイムでは見れないという。
園監督には会いたいけど、『東京ヴァンパイアホテル』の脚本で呼んでいただいたけど、何の力にもなれなかったし、それからなにかをできているわけでもないから、なにか形になって会いたいというのもデカい。とか言っていると会わないうちに時間は過ぎてしまうにもわかってる。そういういろんな思いが混ざってしまって難しい。
結局、PeatixのチケットであるQRコードを阿佐ヶ谷ロフトで入場時に読み込んでもらってないためか、配信のURLは送られてこなかった。観覧チケットって配信込みの料金じゃないのかな。入場していてもしてなくても配信のURLは送ってきてもらえるものだと思っていたのだが、そうではないのか。よくわからない。

生で配信を見れないので「COTOGOTOBOOKS」をオープンした木村綾子さんが小泉今日子さんのSpotifyポッドキャスト番組『ホントのコイズミさん』に出演しているのを聴いた。18年前に木村さんは小泉さんにお会いしたことがあったそうだけど、その時の小泉さんの行動がずっと木村さんにとっては大事なもの、進んでいく原動力になったというのはすごくよい話し。小泉さんはあまり覚えていなかったのだけど、きっと彼女は多くの人に勇気や思いを伝えている人なんだなって思える。とてもいいペースのふたりの会話だった。

まずは、『スマホ脳』も読んだし来月の10月から22年3月まではデジタルデトックスもしながら、半年間を集中してできるだけ作品を仕上げることしかないな、と改めて思った。


9月21日
f:id:likeaswimmingangel:20210921221143j:plain
次回の「あだち充論」の『KATSU!』三回目で宇野常寛著『母性のディストピア』の宮崎駿監督について引用しようとメモった箇所。改めて素晴らしい文化評論だと思う。僕が宮崎駿作品がずっと苦手だった理由が読んだときにはっきり理解できたし。

宮崎駿にとって世界の肯定性は(『もののけ姫』では放棄された)「飛ぶ」というイメージと深く結びついていた。さらに言えば、男性的ナルシシズムと深く結びついていた。熟年の飛行機乗りを主役に据えた『紅の豚』(1992)や、飛行機の開発者の生涯を描いた『風立ちぬ』(2013)……宮崎駿が主人公への自己投影を隠さないとき、そこには必ず飛行機の存在が伴われていた。P90

本作においてラピュタとは男性的なものの決定的な敗北から始まっていることが分かる。本作においてラピュタとは男性的なロマンティシズムと自己実現の象徴だ。そしてパズーの空を飛ぶこと=ラピュタへの憧れは、失われた父性と密接に結びついている。パズーはその後少女を救うべく空へ飛び立つのだが、その冒険は輝かしい父性への接続ではなく失われたそれの回復として位置づけられている。パズーの暮らす鉱山町にはたくましく、気持ちのいい男たちが働いているがその町がそう遠くない将来にさびれていくことが示唆されている。そう、この「男性的なもの」は既に失われ、天空の城から地上の鉱山町に堕ち、さらにその地上の町での理想化されたコミュニティ(パズーの親方が代表する鉱山の男たち)もまた、斜陽を迎えているのだ。P99

宮崎駿の基本的なモチーフは近代的かつ男性的な自己実現の不可能性だと言える。
未来少年コナン』では男性未満の少年コナンが、やはり守られるべき少女(ラナ)を所有することで冒険を繰り広げ、結果的には社会的な自己実現を果たす。『ルパン三世 カリオストロの城』では守るべき少女(クラリス)を所有することで自らを「おじさん」と自嘲するルパンが男性性を回復する。『天空の城ラピュタ』では、こうした男性に「所有」されるべくその存在を与えてくれる「母」的な女性性への依存(女性性の所有)なくしてはもはや男性的な自己実現は成立しない世界が批評的に強調される。
 男性が男性であるだけで男性的な自己実現の回路に接続できた(「飛ぶ」ことができた)世界はもはや(まさに劇中の「ラピュタ」がそうであるように)既に失われたものでしかなく、(女性性を所有して)疑似的な回復を試みたとしてもやがて、滅びゆくものでしかない。前述した『天空の城ラピュタ』の二重構造は、この宮崎駿のアイロニカルな世界観を端的に表現していると言える。
 ラナ、クラリス、そしてシータというヒロインたちは、いずれも男性主人公の近代的かつ男性的な自己実現を保証するために存在するキャラクターであり、かつ、彼らを無条件で必要とする(肯定する)「母」的な存在でもある。より正確には(前述のドーラとシータの関係が示すように)宮崎駿は彼女たちを「母」的な存在に結び付けている。P117

風の谷のナウシカ』の宮崎自身によるマンガ連載は1982年から1994年まで継続し、既知のように84年にアニメ映画化されている。『魔女の宅急便』は1989年公開であり、まさに『天空の城ラピュタ』で男性的な自己実現を断念するその裏側で、宮崎は空を飛ぶ少女を描き続けてきたのだ。

 宮崎駿は『天空の城ラピュタ』以降、主体的なコミットのできない男性(少年)を反復して描き続けてきた。そしてその結果、現在では彼等は事実上死者の世界に引きずりこまれている、あるいは母胎の中に取り込まれている(『崖の上のポニョ』)。そんな男たちの代わりに、これらの「空を飛ぶ」ヒロインたちは主体的なコミットを引き受けてきたのだ。
 つまりここでは、男性的なものとしては既に断念されている歴史への主体的なコミット、近代的な自己実現が女性的なものとしてはまだ可能とされている。これは既知の性差別構造に依存することで、男性はもう飛べないが女性ならまだ飛べるのだーー女性にはまだ大きな物語が作用しているのだーーというファンタジーを成立させていると言えるだろう。P118

宮崎駿は、いったいいつから飛べなくなっていたのだろうか。いや、宮崎駿が飛べたことは果たしてあったのだろうか。いや、私の知る限り宮崎駿は一度たりとも自分の力で飛んだことはないのだ。そこには常に男性主人公を無条件で肯定してくれる女性(母=妻=娘)がいた。彼女たちは救われるべき存在として男たちの前に姿を現し、(政治的には無力な)彼らに安全な冒険を与えた。可哀想な女の子を守る、というロマンを与えてくれた。彼女たちの胎内に取り込まれることで初めて、彼女たちの胎内にいる間だけ、彼らは「飛ぶ」ことができたのだ。P133



9月22日
f:id:likeaswimmingangel:20210922234209j:plain中上健次の『岬』が読みたくなって何年かぶりに読んだ。中編の『岬』のみを。
BGMはジャズのほうがいいんだろうけど、DC/PRGのスタジオコーストのラストライブの音源にした。不思議と文章と鳴っている音が噛み合っているように感じた。
赤く濁った血、血の濃く揺るがない繋がり、切りたくても逃れようとしても手放してくれない血の、血の一族の話。テンプルを掌打されて崩れ落ちるような感じ、鈍くて重い。
続編の『枯木灘』『地の果て 至上の時』も含めて10月は中上健次作品を読み返えすのもいいかもしれない。
中上健次って生きていればうちの父(ビートたけしさんと同学年のはず)よりひとつぐらい上の年齢だが、40代で亡くなっているから「父」世代って感じがしないから素直に読めるっていうのもどっかにある。


9月23日
f:id:likeaswimmingangel:20210921221205j:plain
数日前に購入して読み進めていた石井玄著『アフタートーク』を『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』を聴きつつ読了。
コロナが広まってリモートワークになってからはradikoにお世話になっている。リアルタイムでは聞かないが朝から仕事や作業をするときはいつも深夜ラジオを聴いているので、石井さんの名前もニッポン放送の番組では何度も出るので気になっていた。おそらく、僕のようにコロナが広まっていく中で家で仕事をすることが増えた人はラジオを聴くようになった人は多いはずだ。やはりパーソナリティーがリスナーである自分に話しかけてくれる、ように思えるのは大きい。
『アフタートーク』を読むと石井さんの「好き」というものが彼を動かし、人生を大きく好転させていったのが強く伝わる。おそらく「オールナイトニッポン」だけではなく「JUNK」などのラジオの深夜放送があることで日々を乗り越えている人や、たのしみにしている人に勇気を与えれるものになるだろうし、ちょっとしたラジオ好きな人のバイブルみたいになっていくのかもしれない。
人は最終的にはいろんなことを「諦めて」いくかもしれないが、そうさせない唯一の源泉は「好き」という単純でシンプルなものしかないのだろう。


今回の「いまさら読む名作読書日記」は太宰治著『人間失格』を取り上げました。
喀血するシーンに前フリがあるというのを、それって「チェーホフの銃」なんじゃないみたいな話をしてます。


今月はこの曲でおわかれです。
KID FRESINO - Retarded @ SHIBUYA全感覚祭


C.O.S.A. × KID FRESINO - LOVE @ りんご音楽祭2017