Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「BOOKSTAND」で「月刊予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『冬眠する熊が二度目の春に至る』


岸田國士戯曲賞に、古川日出男や範宙遊泳作品がノミネート
http://kai-you.net/article/12670


 今日昼間に観て驚いたのと嬉しくなったのがこの↑ニュースだった。
 確かに去年の今頃だったか、シアターコクーンで観た蜷川幸雄演出の『冬眠する熊に添い寝してごらん』は素晴らしく古川日出男作品らしいほどに古川さんが暴れていてそれを蜷川さんが向かい合って演劇に昇華した作品だった。観れてよかったと思っているし、小説家・古川日出男に影響を受けている僕も演劇でもとんでもない作品を、戯曲を古川さんは書くのだなと思った。古川さん自体は十代の頃は演劇をしてて早稲田の頃にされていたはずで演劇畑の人だったわけだから蜷川さんからの戯曲のオファーは嬉しかっただろうし、その辺りの事は『小説のデーモン』にも書かれているのだけど古川さんがまた新しく進むきっかけになったはずだ。


 いち古川日出男ファンとして本当にノミネートはおめでとうございますという気持ちで、受賞しちゃってくださいとしか言えない。




 古川さんの戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』が岸田賞ノミネートということで去年、大盛堂さんでやらせてもらった僕の選書フェアで古川さんの五作品は古川さんに自作についてコメントいただいたのでそれを再録というか画像をアップ。
 古川さんのコメントを僕が代筆したので字が汚いから申し訳ないけど、古川さんの実際の時はかなり達筆な感じです。サインもらう時とかの字を見ていると。



 『水道橋博士のメルマ旬報』に書いた『冬眠する熊に添い寝してごらん』についてを再録。小説の中で観ている感じとかメタ・フィクションみたいな書き方になっているけど。



『桜色feather』
 Phase6


 僕は目撃します。目撃したんです。目撃をしてきたんです。目撃をしました。そう、目撃です。この眼で、両の目で、でもそれは目撃したという単語で表せますが実際にはこの耳で、左右の耳でも聞きました。
 舌では味わってはいません、ウソです。ウソをつきました。途中で喉が渇いた僕はコカコーラゼロを飲みました。ゼロだけども味は存在しています。コーラとは何かが違う、損なわれているのか補われているのかはわからないなにかを味わいました。
 肌は、触覚はもちろんあります。まず耳はあるはずの音の連なり、声や音響などは空気の振動ですから触覚としても感じられていますし、両隣りにいる人たちとのテリトリーとしてのわずかな感覚の距離の中で感じました。
 匂いはもちろんありました。匂うのです。イヤらしい意味でもイヤらしくない意味でも漂っていました。なぜならばそこにいた観客の九割は女性だったのです。彼女は、いや群としての彼女たちの纏う動物としての<メス>としての本能を僕には嗅ぐ事ができました。僕は数年前のある一時の期間だけですが生理中の女性を当てる事がかつて、過去形の中で嗅げました。
 なぜか? 
 そう匂いです。意識したくなくても嗅げたのです。血の臭い、鉄の匂い、生存本能、かつてそこにいた僕の無意識が反応する、とでも言えるのか言えないのか。しかし、嗅げたのです。現在形ではない過去形としてです。僕の中の<犬>がどこかに去ってしまったのかもしれません。話を戻しましょう。彼女たちの母として姉として育てると言う視線や愛しい人を見つめる放熱の証が舞台に注ぎ込まれているから、そう、いるから想いが熱によって気化して匂いとなって動物の<オス>としての僕は嗅ぎ取れたのです。
 しかし、この五感だけで体感できたのか、否。もっとそれ以上のものが僕の内部で燃えた。そう黒い水が、赤く燃えるようにエネルギーが欲望するように駆け抜けて僕の中から百年の歴史にダイブし潜るように連なったのです。
 僕は人の、犬の、熊の、時間に狙撃されながら同時にその戯曲を目撃したのです。

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STORY
伝説の熊漁師を高祖父(祖父の祖父)にもつ川下兄弟。
兄の一はライフル競技でオリンピック代表にも選ばれている有名人。
弟の多根彦は若くしく出世街道をひた走るエリート商社マンだ。
川下家には代々「男子、二十五歳にして一子をもうけるべし」という家訓があったが、
兄の一は平然とそれを破り、弟の多根彦が代わりに実践しようとしている。
多根彦には女詩人の恋人・ひばりがいて、家訓の実現は時間の問題と思われた。
ひばりを育てた祖母との対面も果たし、
両家の初顔合わせは回転寿司屋で行なわれることになる。


時はさかのぼり―明治時代後半。
いずこともなく現れた富山の薬売りは、
川下兄弟の先祖である熊捕り名人に熊の胆を売らないかともちかける。
新潟の石油村では、石油会社の幹部が熊猟師を呼び出し、
猟師の山を開発しないことを条件に、ある取り引きを匂わせるのだった。


時代に翻弄されていく熊猟師。
そして川下兄弟の固い絆が愛憎に変わるとき、
百年を越える人と熊と犬の時間の歯車は、いっせいに動き出す―。
古川日出男作・蜷川幸雄演出『冬眠する熊に添い寝してごらん』パンフレットより

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 果たしてこの<僕>は誰でしょうか、この物語『桜色feather』の主人公の大沢海斗としての<僕>でしょうか。それは正解であり不正解でもあります。なぜならこの物語の書き手としての<僕>=碇本学が介在し混入することで今回の「Phase6」は書かれているからです。『桜色feather』自体は三月の二十五日配信の「Phase10」まで続きます。今回『冬眠する熊に添い寝してごらん』を書く事は去年の時点で決まっていました。
 海斗としての<僕>は碇本としての<僕>の一部分でもあります。<僕>も海斗同様に弟であり、物語の主人公の一人である多根彦も弟です。
 リアルタイムで起きる出来事というか体験したことを約十年前に書いた「脚本」だった『桜色feather』にぶちこみながら小説風に物語を展開するという連載は書き進めていて、正確には二回目であることに気付きました。どう考えてもタイトル通りに桜が舞い始める頃の三月二十五日を最終回にするにはニ話ぐらい足りないことを。まず、物語を補完するエピソードが二つ浮かびました。
 ひとつは「兄」の陸のエピソードが、そして美羽さんのエピソードは以前脚本で書いたものとは違う展開で新しく書けるはずだと。
 ジャニーズのファンとのチケット争奪戦を経て手に入れた『冬眠する熊に添い寝してごらん』について海斗が観賞し、これは兄と弟の戯曲でもあるので兄の陸を失った彼が観る事で物語は展開できるはずだと去年の時点で考えていました。
 でも、どうしても書き始めると出てくる一人称である<僕>がいつも以上に海斗のものにはなりません。これを完全な小説として書いていたのならば問題はなかったはずですが碇本学という個人の体験をフィードバックするドキュメンタリー要素を多様に持ち込んだために海斗の<僕>にワタクシであるものが異様な密度で交ざり混んでしまうのです。そこから浮かぶ疑問は<僕>は誰であるのかということでした。


 <私>と書いてしまうと存在としての私が存在しているような錯覚。
 英語なら<I>でしか書けないのに日本語ならば<私><僕><俺><わし><うち><わたし><ボク><ぼく><オレ>など様々に書き分けられる。この事は日本における近代小説の誕生から多様な一人称によってすでにキャラクター小説として日本文学が始まったことに繋がっているはずです。たぶん、おそらくは。
 一人称に何を選ぶかでキャラクターが駆動してしまう。そう僕たちはこうやって書く事でキャラクターとしての振る舞いをせざるをえない、あるいはさせることになります。
 新聞も本も読む人が減っていてもスマフォやパソコンで様々なデバイスでかつてよりも多くの文字数を読んで情報を手に入れている現代では同時に双方通行可能になっていて受け手であった僕たち自身も発信ができるようになりました。そこでの振る舞いも<僕>のキャラクターを規定する。ただ、接する人によって対応や態度が変わるように、普段から<僕>を使っていても年下の人や友人と話す時には<俺>にもなる。これは当然のことです。キャラクターは時と場所と人によって変わる。
 様々な角度があり接する人の数だけ自分がいる。分裂症ではないが世界で人間の中で生きていくということは多重人格のような自分をこの体に宿して増やしていくようなものだろう。だって、僕とあなただけの関係性の中にいる僕は、その僕だけだから。


 僕が本当に存在しているのかという疑問、この世界は本当にあるのだろうかという問いは思春期の頃からよく考えていました。僕が見えない世界、僕の両目が捉えることのない後ろ側は実はなにもなくて振り向いたときだけ一瞬、わずかすぎる時間の中で綿密に作り上げたドット絵が描かれて見ないとすぐに消えているような感覚。
 記憶は曖昧だが、僕が小学生の頃にフジテレビの『世にも奇妙な物語』を見ていた。主演はたぶん武田真治さんだったはずだ。僕の記憶ではそうなっている。記録では違うかもしれない。記憶は作り替えられるものだから、個人の都合によって。
 武田さん演じる主人公の男は様々な体験をするが、最終的には彼が見ていた体験していた世界は実は存在していなかった。最後の最後に研究室のようなシーンになって中央に天井に伸びる円柱のガラスの中で酸素がぶくぶくと上に向かっていく。そのガラス管の真ん中辺りにはむきだしの人間の脳みそが固定されていて電極のような線が何本か刺さっている。男が体験していた世界はこの脳が見ていた夢みたいな世界だったのだ。
 戦慄した。
 小学生だったはずの僕の中にその可能性が恐怖にも変わる。この僕が今見ている世界は本当に存在しているのだろうか、これは脳みそが見ている夢じゃないと誰が言えるのだろうか。僕が生きている世界はどうやらひとつの物事の見方だけで判断してはならないのだと思った。今ならば様々な層のレイヤーによって世界は成立していることがわかる。
 でも、想像してみよう。過去を、未来を、僕が存在しているとして僕の前に居た人たちの営みと歴史を、僕の後に居る人たちの営みと日常を。
 

https://www.shinchosha.co.jp/book/306075/
『新潮』掲載のものにさらに原稿用紙にして50枚足されている完全版。
『新潮』掲載版の上演台本と違うのは二幕に分かれていない部分と、ひばりの祖母の会話とばば友たちの会話の部分だろう。上演台本ではなかった部分のその会話は舞台を観ているので演劇ではなくてもよかったかもしれないが、文字として、文章として読むには必要だと感じられた。
古川日出男作品における小説の地の文としてそこは完全版として絶対に入れなければならない箇所なはずだ。舞台を観賞後に読むとあの風景がまざまざと甦るし、観賞しない人が読めばこの戯曲がどう演劇として成されるのか観たいという欲望を持つだろう。
エネルギーが欲望するように、読み手の中で想像力が沸き上がり孕まれていつしか外へ生み出されるものがこの戯曲、物語にはあって、古川日出男作品のこれまでのものと否応なく呼応している。


 『冬眠する熊に添い寝してごらん』について書くためにこんな遠回りしてしまったのは僕がこの戯曲を書いた小説家・古川日出男さんの影響下に強くあるからです。地の<僕>が海斗の<僕>よりも濃くなってしまうから……。
 キャスティングは主人公である川下兄弟の弟の多根彦を上田竜也KAT-TUN)、兄の一を井上芳雄、女詩人・ひばりを鈴木杏、川下兄弟の高祖父である伝説の熊猟師を勝村政信 が演じている。一言で言えるならば古川日出男が真面目にふざけたら笑いまくりでカッコいいんだよ!ってことに尽きる舞台だった。
 ジャニーズの上田竜也主演で蜷川幸雄演出だからこそできた古川日出男戯曲であるのは言うまでもない。かつて演劇をしていて小説家になった古川さんが戯曲にぶちこんだ自由自在さを真面目にふざける(僕はよく言うのだけど古川さんの小説はけっこう笑える。ある意味やりすぎで細部の細部まで書いてたりとかメガノベル『聖家族』は東北六県を巡る冒険譚でもあるが実は東北六県ラーメン巡りでもある、絶対にふざけてるでしょと古川さんに聞いた事があるが「フフ」と微笑みで返された)物語を蜷川さんの演出と上田さん含めキャストや舞台装置がシアターコクーンに召還していた。
 客席の比率が女性・男性が九対一だった。当然か! 蜷川さんがジャニーズとよく仕事するのはマジメで力があるからというのは観ると自然と納得していた。ジャニーズのファンはきちんとチケット取って観に来るから集客力がある。ここ超大事なとこ。だからこそ古川さんがなにやってもいいって蜷川さん言ったよね、じゃあ全力でとなればこの演劇みたいな冒険もできるしもちろんのこと出演した演者のスキルも当然あがる。それは圧倒的に強い。ジャニーズというエンターテイメント集団の強さを僕は身をもって感じた。二度目だと思った。かつて視聴率では苦戦したが二度の映画化で大ヒットを飛ばした宮藤官九郎脚本『木更津キャッツアイ』がなぜ成り立ったのか映画化にOKを出して場を提供したのは確かジャニーズ事務所の人だったはずだ。
 所属するタレントの成長のために他の事務所なら結果が見通せないような断るかもしれない企画もおもしろそうじゃんとできてしまう度量、それがフィードバックされてタレントの経験値が上がる。だからいいスパイラルが形成されていく。最初から結果ありきではなく、そこは最低限の担保がある。しかもその最低限は他のタレントと比べられないほど多いから、応援するファンの熱量が支えているから強いと僕は感じた。
 ファンが育てるという意識がそのジャンルを多様に豊かな文化に導くのか、否か。時と運にもよるのかもしれない。だけどその意識がそのジャンルを支え豊穣な結果を導く可能性は高い。
 

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一 回転寿司のコンベアを見ていると、アメリカの歴史をこの日本は引き受けたんだなあ、なんてことも思うんだよ。いやさ、機械文明史ってことだけど。
ひばり ま……。
一 自動車王のヘンリー・フォードというのがいてね。
(中略)
ひばり 運命の一九〇八年。
一 この年、T型フォードが開発されるんだ。真実の大衆車だ。
ひばり あの、大量生産の、T型フォード?
一 そう。それから一九一〇年っていうのが、また記念碑的な年だ。人類史上初のガソリンスタンドが、この年、生まれているんだぜ。でも、それよりも……大量生産の流れ作業だった。フォードはミシガン州だったかどこかに大工場を作ってね、流れ作業の「究極化」を図る。それに着手したのが一九一〇年だ。じきに三年かそこいらで、その「究極化」はあるシステムになる。フォード・システム―。
ひばり それは、何? 一さん。
一 ベルト・コンベアだ。コンベア式。これを導入して、規格化された無数の部品から、瞬時に、徹底した分業をもってT型フォードが生まれるシステムが完成する。フォードは一日に千台の量産を、この組み立てラインに夢見たんだ。しかも、夢をやすやす実現させた。二分で一台のT型フォードが作られて……最終的には二十四秒で一台が生産されることになる。それが、ベルト・コンベアあってのことだ。
ひばり コンベア、フォード・システム。


ひばりのポエジーが、見えないところで沸点に近づく。


一 同じコンベアで、日本人は回転寿司を作った。発明した。ここには伝統文化の機械文明化があった。しかも「食」という、民族の肝の。それは現在、輸出さえされているんだ。どうだい? この究極のテクノロジーの日本化……。俺はね、凄いと思うよ。一九〇三年やら一九〇七年やら一九一〇年のアメリカの自動車王の姿を重ねる時、回転寿司とともに歴史は回転しているんだと思うよ。
古川日出男著『冬眠する熊に添い寝してごらん』P102〜P104より

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 古川さんが連載し物語上で書いた大地震のあとに起きた東北東日本大震災、福島出身の古川日出男という小説家は連載していた『黒いアジアたち』に苦悩し本としては出さないことにした。この経緯は創作論として書かれた『小説のデーモンたち』に詳しい。それは黒い水、赤く燃える水、それは豚と猪と石油のエネルギーからなる近代社会を描く小説だった。
 戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』は『黒いアジアたち』の血を変容させながら『ベルカ、吠えないのか?』『ゴッドスター』『ドッグマザー』といった犬たちの物語を引き連れた近代社会エネルギーを巡る物語になっていた。
 父と母がいる。
 父の父と父の母がいる。母の父と母の母がいる。
 倍々に増える血筋。世代を遡る。数世代前はなにをしていたか、何を生業にしていたか。日本はどんな時代だったか、明治維新文明開化の音がする前はこの国は閉じられていた。鎖国だ。でも、実際には外国と出島のような場所で貿易もしていた。でも閉じられていた。そして開かれた。明治維新は内戦だった。
 主権を争う日本国内の争い事だった、勝てば政(まつりごと)を掌握できた。できたさ、だから明治維新の鐘の鳴る音が導いて、富国強兵、脱亜入欧の名のもとに日本列島は動き出したね、どこに?
 世界に。
 閉じられていた黄金の国ジパングはその蜃気楼さながらの靄を晴らすように大砲をぶっぱなしてヨーロッパ列強の一員になれるように、アジアなのに。だから、侵略があって思惑や謀略が何重にも動き出していって戦争がある。
 大きなおおきな戦争。
 第一次世界大戦があって第二次世界大戦があったね、あったんだよ。習っただろう当然。あるいは見聞きしただろう。僕は祖母から第二次世界大戦について聞かされたよ。そう僕らの祖父母以上の世代は第二次世界大戦を経験している。
 物語は時空を超えて展開される。近代社会を動かした歯車は、革命はなんだったのか。例えば、回転寿司が回るように、ベルトコンベアーでぐるぐると客の前を回って通りすぎていく。寿司屋で出会った男女が話をしているのが見える。男がこれはかつてのフォード式の進化系だと告げる。日本の食文化にそれが取り入れられて逆に輸出なんかもしちゃう、それが回転寿司なんだよと兄が言う、弟の恋人に。
 大量生産が可能になって加速しフォード社の車が一気に大衆車になっていく、車が走るようになるから道路が作られる。山や森や畑や川や自然が削られてなかったはずの車が走るための道路が世界中で作られていく。繋がっていたはずの山や野は分断されて熊は、閉じ込められてしまった。
 大量生産には莫大な石油が消費される。消費されるからエネルギーがどんどん必要になってそれをめぐって国同士で戦が起きる。だから、この戯曲ではエネルギーが欲望するという。エネルギーが欲望した先に展開される世界は僕らの世界に地続きのままに、いまここにある。

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兄 石油はな、なにも中東や南米でしか出ないわけじゃない。なにもアラスカやシベリアや、北海油田でしか掘り出されないわけじゃない。だから、出たさ。
弟 日本でも。
兄 国内でも。いいか、港といったら、たとえば直江津だ。いまは佐渡汽船の発着所にもなっている直江津……あそこには昔々の大昔、明治三十四年に巨大な製油所が完成している。当時日本最大の……大日本帝国で最大級の……。明治三十四年っていったら、西暦に換算したら一九〇一年だ。一九〇一年! それはな、アメリカが日本国内に設立した会社の持ちもんだった。その原油からの精製のための施設が。そんでな、その会社のマークは「握手印」だった。日本人とアメリカ人の――。そんな「握手印」の灯油が売られたんだ。直江津のその巨大製油所で大量に作られて、大量に売られたんだ。そして原油はどこから来たのか? どこで生産されていたのか? 国内だよ。もちろん日本国内だよ。そして、越後だよ。新潟県こそは全国に冠絶する産油県だった……。
古川日出男著『冬眠する熊に添い寝してごらん』P25、P26より

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 舞台のひとつである越後油と呼ばれていた石油を産出していた新潟の石油村は今現在、停止中だが柏崎刈羽原発が立っている。百年と今を繋ぐこの戯曲は古川日出男という作家にしか積み上げることはできないのだと観ていて震えた。
 正直な気持ちを言えばやるかもしれないと心の隅の方で思っていた。でも、ジャニーズの上田さんが主演、蜷川幸雄演出でエンタメでもある演劇でそっちにぶっこむことはないのだろうなと油断していた。この小説家が、古川さんが妥協するわけがなかった。
 鈴木杏さんがとんでもなく凄かった。古川さんのリズムで台詞を言えていた。すげえ女優さんなんだなあと感服しまくりだった。
 上田さん演じる多根彦は後半では狂気というか兄への愛が憎しみ変わるのに、だけども残っている愛が、運命が彼を死なせてはくれない。エキセントリックに見えなくもない後半の多根彦は壊れながらも冷静に兄への想いのベクトルを前半からは違う場所に持っていく繊細さが上田さんにはあった。多根彦が血の繋がる兄の一へ向けた叛逆する想いが物語を終点に導く、そこは伝説の熊猟師であった高祖父とライフルのオリンピック代表である兄が交差する時間だ。タイトルが示すように物語は終焉する。
 二匹の犬と二頭の熊が、血の繋がる熊猟師の一族が、それぞれの生き物の時間が交差して終幕する。
 席が二階席の一番後ろじゃなければもっと最高だったと思う。台詞が完全には聞き取れないのと一階の客席の通路を演者が使うのが角度的には見えづらかったから。
 僕が二十代半ばに出会って人生を変えられた園子温さんと古川日出男さんはある意味で詩人であり言葉が世界を貫く人たちだから僕は惹かれラインの向こう側を知った。よく考えればお二人とも過剰であり異常なまでに多作で前に僕が寄稿した文章を思い浮かべた。

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 商業映画デビュー『自殺サークル』が公開された2002年以降の作品の多さにまずは圧倒されるだろう。2012年に亡くなった新藤兼人監督が「傑作なんて偶然生まれるにすぎない。どんどん作りゃあいいんだ」と生前語っている。その事に同意する園監督の「質よりも量」で勝負すると言う姿勢が表れている証拠だ。
 「東映実録ヤクザ路線」が日本映画界を席巻した1970年代には、深作欣二監督の周囲には中島貞夫監督や工藤栄一監督といった作家が多数並走していたが現代にはそうしたムーブメントはほとんどない。同時代に自分と同じように並行し走れるものがいないのならば自分で時代を作ってしまえばいい、そして世間に作品が認められないなんて嘆くよりも自分の作品を無視できないぐらいに量産して世間に時代に認めさせようと作品を量産していく。自分の作品が受け入られるコンテクストを自分自身で生み出すのだと園監督は自分の作家としてのあり方を示している。
『別冊映画秘宝 凶悪の世界映画事件史』より

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 古川さんは園さんとは違う考えや作家としての在り方だと思うけど、僕にはやはり近しいものが感じられる。いつかお二人が邂逅しないかな。
 以下は『野性時代』に掲載されていた『黒いアジアたち』について僕がブログに書いていたこと。記憶が変わるし薄れるが書き遺したものは後々でそれを補える。『冬眠する熊に添い寝してごらん』を観て読んだ後では僕の中で繋がるものがある。


08/12/06
 「野生時代」に古川日出男著『すきとおる浅い青いところからはじまるものと奥深い緑からはじまるもの』という小説が載るらしい、『聖家族』後の最初の巨編となる新シリーズ『黒いアジアたち』の第1弾・プロローグだと公式サイトに書いてあった。えっ!また長編書くんですかっ!と思ったけど古川さんは止まらない作家なのだろう。


08/12/15
 世界は詩のように崩潰する。       古川日出男「沈黙」より


 音、空気の振動からなる音、連なる振動の波動の連続、あるいは・・・。
闇と音が再会をしてかつての関係は断ち切られて対峙した、現在進行形の過去を見ながら現在進行形の現在を、だからルコは音を手に入れた、いや音としてのルコとなる、そして闇と化した者へと対峙する。
 「沈黙」を読み終わる、しかし同時に収録されている「アビシニアン」は始まっていない。
 それから「野生時代」で開始された新しい物語の綴りの「黒いアジアたち」シリーズ・プロローグ「すきとおる浅い青いところからはじまるものと奥深い緑からはじまるもの」を読む、またも壮大な景色の片鱗が読みながら脳内に広がる、広大な物語の断片が、そこには在る。


09/04/12
 「野性時代」五月号が出た。読みたかったのは本格的に連載が開始された古川日出男「黒いアジアたち 続・すきとおる浅い青いところからはじまるものと奥深い緑からはじまるもの」の第二回。古川さんの作品に限った事ではないのかもしれないが、小説を声に出して読んだ方がはるかに面白い。文体が直に届くような感覚である。しかし、読みながら感じたのは自分の滑舌の悪さでもあったりする。
 サブタイトルにあるようにすきとおる浅い青いところである海と奥深い緑である森で物語が展開し始めている、まだ二話だから物語は始まったばかり。最初に読み出すと猪について、その森について物語が語られている。
 古川作品には動物が登場人物のように異様なまでの存在感を示す。それは軍用犬の犬の家系だったり、町に潜む猫だったり、東京の上空を支配する鴉だったりした。
 読んだ感じとしては前作にあたるメガノベル「聖家族」的な物語よりはデビュー作「13」に近い印象を覚える。古川さんの物語は「アラビアの夜の種族」などもそうだけども神話的な物語構造というか、巨大な感じがする。彼が書こうとするのは現代の神話体系なのかと去年刊行されている作品をほぼ読んで感じた事だった。「聖家族」はそれもありながらまた違う雰囲気を持っているようにも感じた。
 この「黒いアジアたち」シリーズがどのくらいの長さになるのか知らないけど、けっこうな長編になりそうな雰囲気が第一話読んだ時点で思えた。それにしてもこんな物語がどうして書けるんだろう。やっぱり以前言われたように空中に存在する物語を引き寄せ、そこに手を伸ばして、耳をすまして、嗅ぎ取っているんだろうか。

09/05/17
 そういえば休憩中に深夜の本屋で「野性時代」に連載中の古川日出男「黒いアジアたち」を立ち読み。まだ序章って所。今のところは豚と豚の先祖である猪が対になっている感じ、あと海と森が。カリマンタンが出てきたかな、この物語すごく長くなりそうな気がする、アジアの神話的な感じにするのかもしれない。


09/06/13
 「野性時代」に連載されている古川日出男「黒いアジアたち」第4回「光、光、光、闇」を読む、まあこの連載を読む為に購入してる。今の所、海の民と森の民の主人公がいて、海の民には豚が、森の民には猪がいる、というか一緒にいる状況になっている。豚は猪を改良した家畜だったかな、確か。
 読んでいると同時間帯で展開されているようだけど、海の民の少年の家族が豚の島で豚を預けられて育てて、大きく育てた後にその島に向かう途中に海賊と言うか奇襲に遭って少年と豚一匹以外が殺される。一人と一匹が流されてブルネイ島へ。豚は禁忌の生き物で彼らはそのイスラムの宗教者たちの範囲には入れないが華人たちの区画には入れる、そこで優秀な豚と少年は共に買われて主の元で奉公人となり、豚は優秀な種をまき散らし彼らを潤す。
 森の民である少年は狩りの途中で猪と共に闇の底へ落ちる。彼らは共に行動することになる。この辺りは「ベルカ、吠えないのか?」の地底で生まれてやがて子孫の一匹が這い出た時にスプートニクに犬が乗って新しい犬暦が始まって犬たちが宇宙を仰いで吠えた辺りの地底での話を喚起させる。
 月に一回の発売で読んでいるので前回までの展開をわりと忘れている。読んでいて森の民がやがてこの暗闇から這い出て猪を飼いだして豚へと品種改良していくのではないか、つまり海の民の少年テーに豚を預けた豚使いに森の民のタオがなるんじゃないかって、そうなると同時間帯で展開されてるこの物語は過去と現在を交互に書いているのではないかと思ったけど、確認したらタオの部族がいるのはボルネオ島だった。
 でも、この可能性はあると思うんだよなあ。古川作品の神話性が宿る作品は時代を重ねる事で物語の密度が増すし、繋がるから。小説は連載を追うよりも本として出た時に一気に読む方が楽しいんだけどね、実際は。


09/07/15
 「野性時代」を買っているのは古川日出男連載作品「黒いアジア」を読むため。二、三年かかるらしいけど終わるまで。今回は第五回目「汝ロックフェラー」というタイトルでタイトル通りにアメリカの石油王のジョン・ロックフェラーを主軸にというか彼の人生を石油王に成り上がるまでを、あるいは数字の因果律と共に展開。前回まではボルネオ島などが舞台で、海の青年と豚、森の青年と猪を主軸に進んでいた。


09/08/12
 最近本買い過ぎだったんで「野性時代」と「クイックジャパン」は立ち読み。「野性時代」連載の古川日出男「黒いアジアたち」は一ページ四段組みだっけな、それが十数ページあったかな、全てを立ち読みするには集中力がいる。立ちっぱだし。物語はタオとテー、猪と豚を軸に今回はわりと展開、前回のロックフェラーは一切出ずに。


09/09/13
 本屋で「野性時代」の古川日出男連載「黒いアジアたち」を立ち読みで読み切る。「バベルバベルバベルバベルバベル」みたいなタイトルだった、なんこバベルが続いてたか忘れた。
 樽(バベル)ということで黒い宝石が湧き出る場所に人が集まって集落ができて村になってというものと豚男としてのテーと出会う酢女(名前が酢女って古川さん!)で新しい生命の始まりが。いやあ一気に単行本で読みたい


09/12/06
 三番目が角川「野性時代」連載中の「黒いアジアたち」第一話「すきとおる浅い青いところからはじまるものと奥深い緑からはじまるもの」だった。調べたらその号はうちにあった。
 主人公のテーでありテーヤジャンと彼が暮らす海、そして十九世紀という設定のとこぐらいまで。この話は連載が進むにつれてわかるんだけど石油=「黒い」、アジアの石油の物語=「黒いアジア」という十九世紀のアジアの石油に関する物語、このままだと「聖家族」よりも分厚い作品になりそうだねって角川の古川さんの担当のF氏と朗読が終わった後に話をした。


09/12/13
 「野性時代」一月号の古川日出男「黒いアジアたち」第十話「緑が呼吸している」を読む、立ち読みしようと思ったが来月は休載みたいだし、休憩中だから早く休憩室に帰ろうと思って板尾創路さんが表紙の「本人」と一緒に購入した。
 豚男と猪男、テーとタオが邂逅する。この作品の広がりというか物語は世界史というかやっぱり歴史を内封しながらも膨張して溢れ出してきている。「聖家族」よりも長くなるだろう、そういう歴史を含んだ、孕んだ物語として二、三年後には世の中に一つの書物として産み落とされるはずだ。


 スマトラの熊の爪が脱落した。
 福建の天眼ちゃんが脱落した。
 ブギス人の天下一が脱落した。
 海南人の天下一が脱落した。
 ジャワ人の天下一が脱落した。
 福州人の天下一が脱落して、これで実質「天下四分の一」が全員、ぬけた。


 という箇所を読んで笑った。やっぱり古川日出男と言う作家はマジメに真剣にふざけている。だからこそカッコいい、そして逸脱して違う景色を見せる事が可能だと笑いながら思う、いや文章から感じる。


10/03/14
 帰りに本屋で「野生時代」連載の古川日出男「黒いアジアたち」第12回「土郎、登場(承前)」を立ち読みして読みきる。古川さんの書くのは歴史と動物の間にいる人(物語)だ、歴史を展示した動物園みたい。「黒いアジアたち」は「聖家族」よりきっと長いね。しかし、豚と猪という人間の側にいる動物と、自然の側にいる動物、黒い宝石の石油を描く、アジアにおいて。主人公といえる豚と猪に関する男が三人揃い、カリマンタン島や日本、石油王ロックフェラーのアメリカとスケールは壮大だ。


12/01/07
 文芸誌『新潮』二月号を買う。掲載されている古川日出男『二度目の夏に至る』を読むために。
 ここ最近の古川さんの小説以外の朗読イベント以外でのある意味では肉声というか言葉としての文字を読むのならば『SWITCH』で連載されている『小説のデーモンたち』がある。ここには作家の創作に関する事が想いが綴られている。震災後は古川さんの福島出身の作家としてのドキュメンタリーになっていたように思う。そこで書かれていた京都を舞台にした作品についてのことなど。その作品の取材のために大震災の日には京都にいたこと。それは『馬たちよ、それでも光は無垢で』にも詳しい。



 今回の『二度目の夏に至る』は前に『新潮』に掲載された『冬』と『疾風怒濤』の続きにあたる。
 この二作はまだ掲載のみで単行本化されていない。おそらくは三作まとまって『ドッグマザー』として刊行されるようなそんな気がする。『ドッグマザー』として書かれていたのが改題されて『二度目の夏に至る』になったのかな。うーむ、その辺は謎。
 古川日出男 朗読 『東へ北へ』のイベント時に古川さんに「僕は『馬たちよ、それえも光は無垢で』に書かれていた書かれない、書く事ができなくなった『冬』『疾風怒濤』に連なる『ドッグマザー』という小説はどうなるんですかと聞く。『ドッグマザー』はなんとしてでも書く、そして三つをまとめて来年には本として出すからと。」って件があるからたぶん出るとしたら『ドッグマザー』としてだと思う。


 『冬』『疾風怒濤』が刊行されている『ゴッドスター』の後の話だったので『ゴッドスター』のカリヲが成長し京都に行った話の系譜であるのは間違いないが『ゴッドスター』ではカリヲのママである「あたし」が主語で語られる物語がこの京都シリーズではカリヲであろう「僕」の視点で物語が進んでいく。
 新潮から刊行された『LOVE』(文庫)と『MUSIC』と『ゴッドスター』から始まる『新潮』掲載の『冬』『疾風怒濤』『二度目の夏に至る』は共に東京の湾岸地区から大地震液状化してしまったような場所から舞台が京都に移っていく。
 『LOVE』『MUSIC』は『ベルカ、吠えないのか?』の犬小説に対応するかのような猫小説だった。しかし物語の始まりは江戸時代に埋め立てられ拡張された土地を舞台だった。『MUSIC』で京都に舞台を移し猫が宙を飛ぶ!
 『二度目の夏に至る』は流れ的にも『ゴッドスター』を読んでいる方が物語がわかりやすい。『冬』『疾風怒濤』ももちろんのこと。まずカリヲだった彼の養父であったメージ(彼は自分の事を明治天皇だと言っている)とその飼い犬の伊藤博文(と名付けられている)と彼のママの事を読んで知っている方が物語に深みというか厚みが増す。


 以前にスイッチパブリッシングで行われたイベントで古川さんは「世界文学」を書きたい。日本には世界にあるようなキリスト教だとかそういう国と直接結びついて文化を形成するほどのものがない。だからそれならば日本にあって世界にはない「天皇」を描く天皇小説を書く事で「世界文学」化したいと言われていた。
 最初から『ゴッドスター』の系譜の流れは古川さんの中でそういう天皇小説的なものとしてあり、系譜が綴られる度にマジで天皇小説を書こうとしていたんだと気付かされた。
 だから舞台は東京から京都に移行するのだしそこにはある種の新興宗教的なものも、霊的な不思議な力を宿す人達も出てくる。そして当初に書こうとしていた物語から計画は変わっていったはずだ。


 3.11の東北関東大地震があり『馬たちよ、それでも光は無垢で』が書かれた。それは異質な小説だった。かつて古川さんが書いた東北六県を舞台にした『聖家族』の長兄が現実の福島に行った古川さんの前に現れてくるのだから。ドキュメンタリー的な進み方をしている中で突如フィクションの創造物の中の人物がそこに同居してしまう。
 『二度目の夏に至る』の『新潮』の紹介文には「僕はここ京都で聖家族を作る―大震災後のひびがはいった世界で、謎めいた「教団」の闇の中で、ポスト3・11の想像力が爆発する!」とある。そう今作では「聖家族」というワードが出てくる。
 日本という国の中で「聖家族」とは? 
 小説の最後の一文はビックリしましたがこれはどうもまだ続きそうな感じがしました。どうなるんでしょうか。


 『二度目の夏に至る』ではカリヲのママからの手紙という感じで大震災後の東京の現状や原発事故後の光景が綴られていくのと京都での彼が交互にくるような構成で。だから地震がなければこういう形にならなかったはずだし、古川さんもこう書かなかったはずだ。
 だけども現実の表現は当たり前だけど目の前で起きた事を吸収し飲み込んで進んでインプットしたものをアウトプットしていく。
 冒頭の雄鹿の角の話の所がすごくよくて。未刊行で連載も中断したはずの『黒いアジアたち』では猪と豚がメインだったし、古川さんの小説にはカラスや猫や犬たちが動物たちがいて歩いている人間の視線とそれらの動物の視線とか高低差があって世界の見方が幾通りも存在し交差して物語が沸騰していく。
 雄鹿の角がなぜ必要か、それは一夫一婦ではない彼らはその角でメスを奪い合うのから。それが彼らを雄として雌を勝ち取り子孫を残すために必要だから。それはメタファーみたいに「僕」の院主とのあの行為に重なる。



『ドッグマザー』
http://www.shinchosha.co.jp/book/306074/
 『冬眠する熊に添い寝してごらん』を観賞していつも以上に感じたのは古川日出男という小説家は時間についてひたすら書いている作家なんだということだった。
 有限の人生の時の中で自分が生まれていない前の世界、死んだ後の世界、生きている今の世界の大きな流れを想像することが小説は、いや物語にはできる。
 時間を描ける装置として。
 目に見えないものを可視化し接続して、世界(すべて)の時を行き来する。百年という時間を生きられなくても過去と未来と現在を繋げることができる。そんな想像力の萌芽は日々の中にこそあるんだ。

冬眠する熊に添い寝してごらん

冬眠する熊に添い寝してごらん

小説のデーモンたち (SWITCH LIBRARY)

小説のデーモンたち (SWITCH LIBRARY)

ドッグマザー

ドッグマザー