Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『野のなななのか』

 今週の『タマフル』のムービーウォッチメンで当たったのが大林宣彦監督の新作『野のなななのか』だったので休みだし今日しか観に行けねえなって思って有楽町スバル座に。レディースデイだけどもほとんどシニアなお客さんで大林監督のお客さんって監督の同年齢とか近い人がやっぱり多いのかなって思った。前作『この空の花』はアップリンクだったから場所柄的に若い客層だったけどね。劇場の問題なのか、どうなのか。



監督・大林宣彦
主演・品川徹/鈴木光男、常盤貴子清水信子、村田雄浩/鈴木冬樹、松重豊/鈴木春彦、柴山智加/鈴木節子、山崎紘菜/鈴木かさね、窪塚俊介/鈴木秋人、寺島咲/鈴木カンナ、安達祐実/山中綾野ほか







名匠・大林宣彦監督が北海道芦別市を舞台に描いた人間ドラマで、2011年の監督作「この空の花 長岡花火物語」の姉妹編ともいえる作品。ひとりの老人の死によって郷里へ集まった家族の姿と、その老人の人生に大きな影響を及ぼした戦争体験を通し、3・11以降の日本再生のあり方を問う。芦別市で古物商を営む元病院長・鈴木光男が92歳でこの世を去り、離れ離れに暮らしていた鈴木家の人々が葬式のため帰郷する。そこへ現われた謎の女・清水信子により、次第に光男の過去が明らかになっていく。1945年の太平洋戦争終結直前、光男は樺太ソ連軍の侵攻を体験しており……。タイトルの「なななのか」は、四十九日の意。(映画.comより)




 キテたわあ、前作の方がまだ理解しやすかったように思えた僕には。大林監督が歴史や人の繋がりを描くとなればやはりというか、いくつかの時代や登場人物が同時にそこにあるわけで。なんだこれ?という問いに大林宣彦作品としか言えない。言語化しずらい線で描けないもんなんだなあと思う。
 前作『この空の花 長岡花火物語』では死者であるあの娘は一輪車に乗っていた。今作では死者であるものと生活をしていた、死者であるものと共にいるというのは共通的なものだと思うのだがなんとなくそうだなって思っても最後の方まで明かされないしわかりずらい。
 16歳で死んだ綾野が残した中原中也の本を持って光男の元にやってきた信子を繋ぐもの。そして16歳という年齢。だとしたら16歳の時の信子以降、そして鈴木家を出て行くまでの長い時間を幼少期のカンナと秋人は一緒に生活していたわけでってなると……。


 光男の過去の樺太での件もけっこう後半にやってくる。途中ちょっとうとうとした。命が終わる時に新しい命が生まれてくる。死んだものの中から新しく生まれてくるもの。全然関係のない誰かの死が新しく生まれてくる誰かと関わっている、繋がっている。だからこの世界は誰もが無関係ではない。戦争と原発放射能)の問題を随所に入れながら一族の歴史と共に死に往く者が若き人へ送るような、告げるような、忘れないで引き継いでほしいと願うような祈りが前作同様に大林さんの意志が前面に出ている。パンチドランカーみたいにこれでもかと浴びせられる台詞や場所の展開や死者や生者が同居し多層なものがワンシーンの中にある。


 僕たちも死者の中から生まれて来たのかもしれない。どこからやってきたのか、決してわかることはないだろう。生きる意味も考えれば考える程にわからなくなってしまう。自分という人間ほどわからないものはない、しかし、他者と触れ合わねばもっとわからなくなっていくし、輪郭を失う。人間は人間との関わりの中でしか自分という輪郭を認識できないのだろう。そして歴史も今、ここにいるという認識だけでは見えない。現在に至る過去があり現在から連なる未来があるという事実が、その想像力がなければ現在の地点、今僕がいるということも実は掴めないしなんとなくでもわからないものだろう。


 はっきりいえばこの作品がすごいんだけどわけがわからないという部分が多い。しかしながら、そのためにふいに思い出すようななにかを映してしまっているし観せてしまっている。わかりやすさの向こう側にある安直さや考える事を放棄させるようなものとは違う、脳のまったく違う場所が刺激されるような感覚だから。


 掴めないものに人は惹かれてしまうし嫌悪してしまう。やはり現実と虚実を行き来する表現に対しての言葉がうまく見つけられない。だからもっともっと言葉を見つけて自分の中で探さないといけない。


 いつか見つかるといいのだけど。





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