Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ソードアート・オンライン〈1〉アインクラッド 』

電撃文庫公式サイト
http://dengekibunko.dengeki.com/newreleases/978-4-04-867760-8/
クリアするまで脱出不可能、ゲームオーバーは“死”を意味する。この仮想空間は、ゲームであっても遊びではない。第15回電撃大賞<大賞>受賞者の新シリーズ!


 全世界累計でこのシリーズは1100万部突破というとんでもない大ヒット作。オススメされていたのもあって第一巻目を。
 電撃文庫って大塚英志さんの『摩陀羅 天使篇』や『リヴァイアサン』読んでからまったく触れてなかったけどここまでの大ヒット作をスルーしててちょっと恥ずかしいというか西尾維新の作品やこの著者の川原さんのようなヒットメーカーと文芸誌とかそういう純文学やエンタメ小説と呼ばれているものは深い溝があってラノベからそっちになって桜庭一樹さんみたいに直木賞取ったりする人もいるけどラノベが売れていることや多くの読者がいることはこっちではスルーされている感じ。



 読んだ感想だとRPGゲームになれているとやはり入りやすい。TRPGからファンタジー要素やロードオブリングの要素がロードス島戦記ドラクエなんか取り入れられて、それで遊んでいた世代には当然の景色だったりもするし、それがオンラインゲームになれば違和感ももうないのだろう。


 個人対システム、卵と壁みたいな要素もありつつ、ある種の電脳空間であるのに繰り返せない死んだら終わりという要素がそれまでの繰り返す日常や何度も死んで真のエンディングを目指す作品へのカウンター要素もあったのかリアリティーなのか受け入れられヒットした要因なのかな。
 夢を見せるのではなく夢から醒まさせる表現が必要だとかつて大塚英志さんは書いたがもはや現実はネットと切り離せないしネットはもちろん現実の一部で。 
 様々なレイヤーを行き来して同時に存在する微細の異なる自意識をいかに暴走させずに統合し同居できるか扱えるかというのが表現がキーになるのかな。っていうのを『多重人格探偵サイコ』でひとつの肉体に宿るいくつかの人格とそれを統合するプログラム人格で描いていたように思える。自意識が暴走し分離していくのがフィリップ・K・ディック作品なイメージでそこに神の存在や符号がシステムみたいな感じだよなあ。


 <ぼく>という一人称であるがゲーム状のキャラクターであるキリトである主人公だから明治以降の近代小説の始まりである<私小説>は<キャラクター小説>であったというのも大塚さんが書いていた事だろうがそういう感じだなって思った。そのことに違和感を持つ読者はいないだろう。大ヒットするのもわかる。読みやすいし、お約束的なヒロインとの関係とか王道感もあった。ヒロインと結婚するとは思わなかったしラスボスの正体もやっぱりだけどいい終わり方だった。
 とりあえずメモ程度に。

ソードアート・オンライン1アインクラッド (電撃文庫)

ソードアート・オンライン1アインクラッド (電撃文庫)