Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

小沢健二『ひふみよ』ツアーファイナル@福岡サンパレス 06/25

 ゼロ年代は80年代の反復で、このテン年代orジュウ年代は90年代の反復になるだろうと聞いたことがある。


 例えばある人たちからすればバブル崩壊から90年前半にかけて思い浮かべる人、影響された人で小沢健二を上げる人はいる。僕の周りにいる人は小沢健二が好きな人が多い。


 彼はかつて「渋谷系の王子様」と称されていた。もはや「渋谷系」という単語も消えている。
 渋谷の中心にブックオフが出来て、HMVが撤退し、宮下公園は売名権を売ってNIKE公園となる方向で、スクランブル交差点から見えるツタヤ、日本各地はロードサイド化されて道路沿いにはブックオフとツタヤはだいたい見かけるような光景が増えた。
 かつての文化の拠点であった渋谷すらもはや平均的な日本の光景をもはや孕んでしまった。


 椎名林檎は「渋谷系」をもじって「新宿系」として名乗り『歌舞伎町の女王』をシングルリリースしたのが1998年だった。それですらも十年以上も前のことだ。


 社会学者の宮台真司『終わりなき日常を生きろ--オウム完全克服マニュアル』が出版されたのは1995年、この年を分岐として日本は圧倒的な変化や事件が起こる、阪神大震災にオウム地下鉄サリン事件


 岡崎京子が90年代を語る上で外せない名作漫画『リバーズ・エッジ』のあとがきに「平坦な戦場で僕らが生き延びること」と書いている。

 僕が小沢健二に興味を持った最初の理由は小学生の時に見たダウンタウンの『HEY!HEY!HEY!』で「うちに書庫が」と言って突っ込まれている彼でもなく、当時彼が歌っていた曲でもなく岡崎京子というこの国の80年代半ばから90年代半ばまでを代表しのちの漫画たちや表現者に圧倒的な影響を与えた彼女の作品による。


 そう「平坦な戦場で僕らが生き延びること」という言葉と小沢健二『戦場のボーイズ・ライフ』という曲から僕は興味持ってきちんと聴きだした。それはもうゼロ年代に入っていたと思う。


 終わりなき日常が過ぎて日本経済の「失われた十年」に思春期を過ごした僕らがいる。僕らは「ロストジェネレーション」と呼ばれているらしい、僕らは何も失っていなかったし、ただ「失われた十年」の中で生きてきただけで、失ったのは僕らじゃなかったけど。


 小沢健二が活動していた頃に彼と同年代あるいは少し下の年代、そして彼に憧れてやってきた遅れた世代の前に彼は帰ってきた、13年という歳月を経て。


 コンサートツアー『ひふみよ』が開始された。都内近郊のチケットは全て外れてなぜかツアー最終日の福岡サンパレスだけが取れた。これも運命だろうと僕は思った。


 僕の彼女は小沢健二の全盛期に間に合わなかった女の子だったし、彼女と最初に出会ったのはアナという福岡出身のシニカルでアイロニーたっぷりのMCにこれでもかというぐらいにポップな音楽をやっていて、メンバーの二人の大久保君と大内君のどっちかが教室で『今夜はブギーバッグ』を鼻歌で歌っていたらスチャのパートをもう一人が歌いだして音楽を始めた(人づてだけど)らしいぐらいに小沢健二に影響を受けているバンドのライブだった。


 彼らが出ていた「蓮沼フェス」を観に行って彼女に紹介されたのが福岡出身で先に名前を出した宮台真司氏の弟子に当たる社会学者のcharlieこと鈴木謙介氏で彼がTBSラジオでパーソナリティーを務めている番組が『文化系トークラジオ Life』だった。
 番組名の『Life』はcharlieと番組プロデューサーである黒幕こと長谷川Pが小沢健二のファンであったことに由来している。番組でも『ひふみよ』で復活することに関して『小沢健二とその時代』という回をしている。この数年はこの番組やcharlieのおかげでいろんな人と出会えたし影響を受けている。


 僕は直接的に小沢健二という人に影響は受けていないが間接的に彼に影響を受けていると思う。そういう繋がりや流れの中で僕は福岡に行こうと思った。


 「雨のよく降るこの星では 神様を待つこの場所では」と『天気読み』で歌われたような土砂降りの雨の福岡。九州に来るのは中学の修学旅行以来だろうから13年ぶりぐらいだろうか。ホテルで荷物を置いて会場である福岡サンパレスへ。雨の中多くの人が傘を差してグッズ売り場に並んでいた。


 僕らも並んで「うさぎ」の絵が書かれたTシャツを購入した。「うさぎ」は彼の父が編集している季刊誌『子どもと昔話』の中で連載されていた小説『うさぎ』であり、この物語はグロバリゼーションが支配する世界の欺瞞やそれを風刺しているもので彼の現在の立ち位置の一つを現しているものだったりする。


 小沢健二の『うさぎ』の連載も読んでいて、正確には彼女に貸されたので読んだのだけど、そして「うさぎ」の絵とか見ると思い浮かべるのはイギリスのロックバンドのRadioheadがモチーフで使っていた「ハンティングベアー」を思い出した。
 Radioheadのメンバーはオックスフォード郊外にある全寮制のパブリックスクールにてメンバー五人が出会いバンドを組んでいる。イングランドあるいはウェールズパブリックスクールは地主貴族を核とするイギリスの名望家階層の子弟を養成するものとしてイギリス社会では深く浸透しているらしい。


 小沢健二も所謂良家の出であり、東大卒である。Radioheadのボーカルでありでフロントマンであるトム・ヨークとは同じ年生まれだった。


 Radioheadがしている活動にはチベット独立運動支援や途上国の債務帳取り消し訴えた国際的キャンペーンである「ジュビリー2000」や人身取引をなくすキャンペーンやイギリス政府の地球温暖化に関する政策の変更を訴えるキャンペーンなどがあり、共通項が何個は見つかる。この辺りの事はプロの音楽ライターが書いてそうだけど。
 

 開場してから三階の席に。それなりに観やすい位置ではあった。会場の感じは中野サンプラザよりも大きくて国際フォーラムAよりは小さいと言ったところか、構造も似ていた。


 開演すると二曲目が終わるまで会場内に入れませんとアナウンスがされていた。19時を少し過ぎてから会場内の電気が消されてそこは暗闇になる。「門構えに音と書いて闇」という朗読がその後されるのだが、全ては暗闇の中で始まった。


 暗闇の中で聴こえてくる一曲目は『流星ビバップ』だった。その暗闇のままで『ぼくらが旅に出る理由』が演奏される。
 僕はこの曲を聴きながらふいに泣いてしまった。この曲に思い出があるわけじゃなかったが、でも小沢健二その人の声がCDで聴いていたのと違ってすごく逞しくて優しさに溢れているように感じたらうるっときた。


【LIVE】小沢健二ー僕らが旅に出る理由


 曲の途中で暗闇は照明の光によって消えて小沢健二が目に見えるようになると会場の歓声が炸裂する。
 13年待たされていた観客はその想いを成就させるかのような叫びやあるいは悲鳴を彼に届けようと、もしかしたらこれは夢なんじゃないかと思う自分たちの頬を張るように叫んでいる。叫びは祈りでもあるような中、ステージの中心にいる13年間待たせた男はその声を受け入れていた。


 待たせた男が悪いのか、待っている女が悪いのか、そんな事が脳裏に浮かぶ。


 二曲を演奏し、リズムに乗って小沢健二が朗読を始める。彼はこのコンサートツアーを始める時にアルバム『LIFE』やその頃の曲をやりますと、みんなはそれを持っていてくれたはずだと言っていた気がするがもちろん一筋縄でいかない男は、この13年という月日が経っていることを観客にきちんと呈示する。


 朗読は旅人として世界を回っていた彼の言葉として、現在の小沢健二の言葉として、みんなが聴きたかったかつての曲はアレンジもされて歌詞の一部も変更されながらも過去として、過去と現在が交互に現れていくようなライブだった。


 『天使たちのシーン』はアレンジが変わっていた。アルバム収録の音とは違うが僕はわりとすんなりと入ってきた。僕はライブの中盤まではわりと客観的に客席とかを観ていたのだけど、アレンジが違う事で多少戸惑う人も少なからずいたのは雰囲気としてあった。
 昔の曲のアレンジに思い入れがある人は特にそうなっていたと思う。新曲『いちごが染まる』は新しい彼がどうなっていくのかを静かに見守るような感じだった。


 「いちごが染まるとあなたは喜ぶ わざわざ見にくる 頬に笑みをたたえて」という歌詞だった。いちごと小沢健二その人を置き換え可能な感じがする。いちごが染まるように彼も機がが熟すのを待っていたのかもしれない。


 『ラブリー』のイントロが始まると会場内が震える、歓声で。みんなが聴きたいのはこの曲だろ?という感じの笑みを浮かべていたように見えた。実際は一時間後にやりますが歌詞変えてるからその練習ですということで練習タイム。


 「Life is comin' back」は「感じたかった」に、「Can't you see the way it's a」は「完璧な絵に似た」に変更されていた。その後の朗読での「大衆音楽」という言葉が象徴するかのよう。


 『カローラ2にのって 』を歌っていた人が『うさぎ』を書いてるんだからどうなのこの曲、やるの? やらないの? という疑問があったのだがやった。しかし、メロディーがその前の朗読で言っていたかのような「シルクロード」的な極めてアジアンチックなメロディーラインに乗っていたのが面白かった。


 『天気読み』や『戦場のボーイズ・ライフ』など聴きたい曲が演奏され、僕はどことなく周囲を何度も見回していた。
 一階席も見えたし二階席も角度的に見えた。小沢健二という九十年代を象徴するミュージシャンに興味もあったが、彼に恋い焦がれたかつての女の子がどう今の小沢健二を受け止めるのかの方が実際は興味があったのは確かだ。


 それはなんというか『新世紀エヴァンゲリオン 新劇場版』が公開される初日の初回に並んでいる人にどんな人がいるのかという方が本編の映画よりも気になるというようなものだろうか。


 ツアーが始まる前からの興味はそういう彼に影響を受けて待ちわびていた人、特に女性のファンと、かつての王子が帰還し世界を旅して覚醒し王になった小沢健二の振る舞いにあった。


 王というのは僕が勝手に思ってたことで、<ジョゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』で示された英雄神話の基本構造の中で彼は英雄神話を「出立」「イニシエーション」「帰還」の三部構造として把握していて、これはフランスの文化人類学者ジェネップが示した通過儀礼の三段階説の「分離」「移行」「統合」とも一致する>というのを大塚英志著『ストーリーメーカー』で昔読んでいたことに関係している。


 <英雄はこちら側の世界から「分離」されて向こう側の世界に「出立」し、向こう側での冒険や経験が主人公がそれまでの自分(例えば「子ども」であったり不安定で何かを「欠落」させた状態)から新しい自分に「移行」していく、「イニシエーション」の過程としてあり、そして最後は元居た世界に「帰還」し、その世界に再度「統合」される、という「行って帰る」物語の基本的な枠組みを物語として生きるわけです。>っていうのが英雄神話の基本的な構造で小沢健二がこれに当てはまるのではないかと考えていた。


 『ラブリー』の練習というかリハーサルの時点で僕が思ったのはかつての王子の小沢健二は昔キスをして恋させてしまったかつての女の子たちに王として帰還しその魔法を解こうとしてるみたいだった。
 別のいい方だと小沢健二はまた夢を見させるためではなくかつての夢から覚まさせるためにライブをやっているような気がした。客観的にライブを観ていたのでそう感じた部分があったとは思うが。


 『今夜はブギーバッグ』が始まると会場の温度とテンションは一気に上がった。福岡最終日だから来るとしてもスチャだろとつぶやいたら知人からスチャのファンに謝りなさいと言われたことがあったが、まあ本当にスチャダラパー来たよね。
 まあ謝るしかないぐらいに最高にいいパフォーマンスをスチャダラパーはしてくれた。小沢健二スチャダラパーの関係がいかにいいのかがわかる曲だった。


スチャダラパー(feat.小沢健二) - 今夜はブギーバック(LIVE)

↑前フリが長いので二分二十秒ぐらいから観たらよろし。


 小沢健二の『今夜はブギーバッグ (Nice Vocal)』とスチャダラパーの『今夜はブギー・バック (smooth rap)』が合体してたような気がした。さすがにテンション上がったというか久しぶりにライブで拍手以外で手を突き上げたね。


 新曲である『シッカショ節』は「歌謡曲」の元祖であるかような日本的な祭りの音楽的なリズムだった。ライブでのカウントも「ワン、ツー、スリー、フォー」ではなく「ひー、ふー、みー、よー」としているだけに海外を周り、だからこそ日本語でできることをしようとしているみたいだし、じゃないと『ラブリー』の歌詞の変更もなかったはずだ。この曲はスタッフからのサプライズで天井から提灯が降りてきて続けてもう一回やった。


 先に他のライブを観た人からすでに言われていたが一番好きだと言っても過言ではない『ある光』は最初のワンフレーズだけだった。で、そこから新曲の『時間軸を曲げて』に繋がっていった。歌詞を聴いているとどことなくSF的な感じもしたし、歌詞の中で自分のことを「我」という言葉を使っていて「王」っぽいと勝手に思った。


 で、『ラブリー』の本番が来た。ここでの盛り上がり方は歌詞が変わっても関係ないみたいらしかった。「Life is comin' back」は「感じたかった」に、「Can't you see the way it's a」は「完璧な絵に似た」になってもこの歌が持つある種の普遍的なポップは古くなる事はないようだ。


Kenji Ozawa - Lovely


 音や匂いは聴いたり嗅いだりした瞬間にその当時に一気に引き戻してしまう魔法がある。僕は聴きながらこの曲はやはり魔法がかかる奇跡的な曲なんだなって思った。


 小沢健二の歌詞の中には何度か「東京タワー」が出てくる。もうすぐ「東京スカイツリー」ができればかつての東京のシンボルは次世代の「東京スカイツリー」にその存在やポジションを明け渡す。
 かつての古き良き時代のシンボルとして「東京タワー」はなるのかなんて考えたりするけど、そんな時に復活したのも何か意味があるのかもしてないなんて思ったりもする。


 『愛し愛されて生きるのさ』は夢を見させるためではなくかつての夢から覚まさせるためにライブをやっているような気がしていた僕には歌詞がすごいメッセージだなって思った。現実を生きようって歌ってるようにも聴こえた。


小沢健二 愛し愛されて生きるのさ


 最後のアンコールは『いちごが染まる』をやった。MCでスチャのBOSEとの話でお客さんとダイレクトに繋がっているのがわかって嬉しいと言っていた。
 友達に協力してもらいながら自分でホームページを作ってBOSEに電話してブログに載せてもらった。そこだけしかなかったのにみんなが見つけてくれて、ブログやツイッターや電話や会ってライブやるよって言ってくれる繋がりで広がって、マスコミはあとから気が付いてフォローしてくれたと。


 愛すべき 生まれて 育っていく サークル
 君や僕をつないでいる穏やかな 止まらない法則


 『天使たちのシーン』の歌詞を体現するかのような今回のツアーコンサート『ひふみよ』だったのかなと観終わって歌詞を思い出していた。


 前出の大塚英志がかつて自分の作品(「僕は天使の羽根を踏まない」の文庫)のあとがきで書いていたことだが「しかし、ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある。それは小説だけではなく、まんがや批評めいた文章や、あるいは大学の教壇で授業をすることを含めて、ぼくの表現はすべからく、夢を見せるためではなく、夢から醒めさせるためにある、と言える。」と書いていた事が僕の脳裏のどこかに埋まっているためか僕にはこのライブにそれと同じようなものを感じてしまう。


 ただ、小沢健二がかつてかけてしまった魔法は、あるいは見せてしまった夢は強力すぎて本人ですら解くのに、醒まさせるのに非常に困難なものとなっているような、逆に解こうと醒まさせようとすることでそれを強固なものとしてさらに魔法がかかり、夢を見させてしまった人もたくさんいると思った。


 王子から王になったとしても彼は一国の主として安定を築こうとするとは思えないし、ましてや千年王国の基盤を作ることもなく、またふらりと旅に出かけてしまうのではないか。誰もが捕まえようとしても捕まえる事が出来ない旅人として放浪し時折現れて喜ばしてはまた風と共に去って行くのだろうか。そんなことを帰京し思いながら彼の曲を聴いている。


小沢健二 流れ星ビバップ

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ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

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