Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「失われた時間を求めて」

likeaswimmingangel2008-05-15

 阿佐ヶ谷スパイダースPRESENTS「失われた時間を求めて」作・演出:長塚圭史 出演:中山祐一郎/伊達暁長塚圭史/あともうひとり
 とチケットには書いてあるがあともうひとりは奥菜恵だった。


 友人に誘われてっと言っても前回の公演は申し込みを忘れ、今回も先行予約を忘れ、あかんやんと思っていたら追加で取れたので行こうと言われ観ることに。
 阿佐ヶ谷スパイダースの舞台は「ともだちが来た」「悪魔の唄」「桜飛沫」「イヌの日」を今までに誘ってもらった友人がこの劇団のファンなので誘ってもらってみている。


 今作はベニサンピットという森下駅から少し歩いた所だった。いつもの阿佐ヶ谷の舞台からすると小さい小屋だった。
 駅の地上出口に出てすぐあった地図を見てみると近くには隅田川があって新大橋があった。
 新大橋に見覚えがあると思ったら先月の終わりにした僕がした「スプリングバケーションEP」http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20080428古川日出男「サマーバケーションEP」を春にやってみたということ)で井の頭公園から始まる神田川の源流を辿って歩き続けると隅田川に出る、そして隅田川を南下すると東京湾に出るのだが隅田川を南下してるときに見かけた橋だった。


 あれだけの距離(途中東京ドームシティのラクーアで1時間弱程度温泉に入ってもかかったのは9時間ぐらい)を歩いたと思っていたがやっぱり電車だと近かったという事実、事実っつうか文明の利器、と懐かしく思った、ほんの少し前のことだけど。


 舞台はなにやら抽象的な感じの物語。登場人物は4人。
 舞台上には街灯とベンチ、ゴミ箱だけがあり、舞台は四方を溝に囲まれている、そこには落ち葉が落ちて積もっている。溝には橋というか渡れる程度の板があり上座下座、舞台の上方にも壁がありそこに一つずつのドアが設置されている。登場人物はそのドアを行き来する、時間はどうやら街灯が灯り夜らしいことはわかる。


 登場人物は何かを探していたり、それが猫だったり、ついここへ来てしまったり、誰かを待っていたり、なにかに怯えながら壊れているようなものが出会い、会話をし、別れ、出会う。


 冒頭のシーン、天井から大量の落ち葉が落ちてくる、ひらひらと、ひらひらと舞う様に落ちてくる。
 落ち葉はメタファーだと思われる。時間だったり想い出だったり記憶だったりと。
 と考えると時間という概念は流れるものではなく落ちていくものということになる。
 落ちていき積もり、色んなものと混ざりあっていく、そしてわからなくなっていく。


 この舞台を観た感じだとこの作品は輪郭が薄い、だからとても抽象的な感じを覚える。
 誰かと誰かの物語がそれぞれにあり少しは絡むが世界観があまり見えない。
 輪郭がはっきりしないで溶けかけている、溶けていくので中身が漏れ出して次第に消えていく、が存在はしている。
 たとえば「あ」という言葉の輪郭が溶け出していくと「あ」は存在するが「あ」は形を失って透明になる、見えないがそこに「あ」は存在はしているといったイメージだ。


 この手の話は僕はかなり好きなのでいいのだが、問題は観た後に誰に伝えるのは難しい物語だ。だって抽象的だからいまいち話の筋を自分でも捕らえられていないから。


 舞台はベンチと街灯、ゴミ箱の位置が変化するだけで違う空間であることを意味する。
 観終わった感じだと三つのドアは下座は「過去」へ通じている、上座は「未来」へ通じている、上方のドアは「現在」だと考えるとこの物語を理解しやすいのかもしれない。


 奥菜恵扮する女は猫を探している長塚圭史を追いかけている、理由はとくに明かされない。奥菜恵は長塚の弟だと言う伊達暁に会った時に言う。
 「出口はどこ?」ずっと同じ所を回っている、円をぐるぐると回っていると。伊達は上方のドアが出口だというが奥菜は信じない、開けるがそこは出口ではなかった。
 円をぐるぐる回る、しかし円をどこかで断ち切れば円は一直線の道になる、「過去」から「未来」へ繋がる道になる、しかしその時点で奥菜は「過去」「未来」を回っていると解釈できる、「現在」へは戻れない。


 中山祐一郎は落ち葉を集めてはゴミ箱へ入れては「間違えているんだ」といい、中身を外に出しては落ち葉を散らかす、彼は何かに捉えられているようだ、ある種の強迫観念。


 猫を探す長塚だが、彼にするといなくなったのは昨日だ。
 しかし奥菜が出会った彼の弟の伊達には兄さんにとっては昨日だけど自分にとってはその猫がいなくなったのはもう忘れたぐらい昔のことだと。
 長塚の猫を殺して食べたという中山、しかし長塚は怒らない、骨はどこだといい溝を探す。その時にとある懐かしいものを彼は見つける。


 この舞台の衣装は麻生久美子の旦那である伊賀大介
 先月行った「少年エキセントリック」のエキストラの待合室になっていた病院(だったもの?)の一階を歩いていたら部屋の窓が開いていてたまたま見えた部屋でスタイリングをしている伊賀さんがいたなあ。伊賀さんはダイニングバーでバイトしてる時に少し話したことがあるが感じのいい兄ちゃんだった。


 今回の舞台の衣装ってなんだかわりとまともに見える方の奥菜、伊達の二人は青の服だった。奥菜は上着ターコイズブルーなものでスカートも青、伊達はズボンがなんでか青。
 狂っているというか現実から逃避しているような長塚、中山の服はなんか地味目な色合いだったように思う。なんらかの意味があってのことなのかなあと観ながら思っていた。


 各自の時間や記憶、体験が落ちていき、世界のどこかエアポケットのような場所に積もっている。そこに来てしまったものは自分のものだか誰のものだかわからなくなってしまう。だからそこに長くいては現実に帰れなくなってしまう。
 失われた時間を求めて自分を失ってはいけない、失われたものはもう失われたものなのだから、それを求めれば自分もまた現実から失われていくのかもしれない。


 長塚圭史は長身なために奥菜恵がかなり小さく見えた。アーティストだといい始めた奥菜恵の演技は普通にいいなあと思えたしかわいいじゃないかまだまだ、アーティストだと言わないでも女優でいいのに。


 こういう物語の流れ方、思いっきり好きです。ただ内容がわかってるんだかわからないんだかぐちゃぐちゃになるのでなんだか観終わった後に白昼夢を観ていたような気持ちにはなったが。