『水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」
日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。
「碇のむきだし」2022年05月掲載
先月の日記(3月24日から4月23日分)
4月24日
メフィスト受賞作家である潮谷験さんのデビュー2冊目『時空犯』を読み始めた。今回の主人公の姫崎は探偵であり、デビュー作『スイッチ 悪意の実験』同様に主人公たちは報酬のある実験へ参加したことで事件に巻き込まれるというもの。ある種王道な設定かと思いきや、繰り返される時間というSF的な設定もあるというミステリー。
私立探偵、姫崎智弘の元に、報酬一千万円という破格の依頼が舞い込んだ。依頼主は情報工学の権威、北神伊織博士。なんと依頼日である今日、2018年6月1日は、すでに千回近くも巻き戻されているという。原因を突き止めるため、姫崎を含めたメンバーは、巻き戻しを認識することができるという薬剤を口にする。再び6月1日が訪れた直後、博士が他殺死体で発見された……。
2作目もかなりおもしろそう。わりと飛び道具的な同じ日を繰り返すという設定をどう活かしながら、ミステリーとして殺人事件を解いていくのか読み進めるのがたのしみ。
昨日今日と二日連続で17-24時とリモートで夕方から仕事があるので、起きてから午前中に散歩がてら家を出る。読み終えた本をBOOKOFFで売ったお金で又吉直樹著『人間』の文庫版を駅前のツタヤで購入する。単行本で出た時に気になっていたが、どうも装丁で惹かれなかった。文庫のこのデザインがドンピシャというわけでもないけど、こちらのほうが僕はまだ興味が出る、というぐらい。
BOOKOFFは少し前まで松本穂香さんと子役の寺田心くんがCMをやっていたのだけど、今日行ったら棚に刺してある「読み終わったら売ってください」みたいなポップがなかやまきんに君になっていた。個人的には読み終わって、家にずっと置いておこうと思わない書籍は売って、そのお金で新刊をまた買うというサイクルにしている。電子書籍は場所を取らないから家で邪魔にはならないが売ることはできない。どちらがいいのか、というのは人それぞれなんだろうけど、僕はやはり形があったほうがいい。
4月25日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『アイドルA』(前編)では、あだち充と担当編集者の関係性から生まれた読切作品、そして編集者たちのバトンリレーについて書いています。
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年05月号が公開になりました。5月は『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』『夜を走る』『ハケンアニメ!』『犬王』を取り上げています。
伴名練著『なめらかな世界とその敵』文庫版。斜線堂有紀さんの解説と文庫版のあとがきが読みたかったので先日買っていた。単行本の時点で読んでいるが、収録されている短編にソ連を舞台にしたものなんかがあり、現在のウクライナ侵攻などを鑑みて修正している箇所があると伴名さんがあとがきで触れていた。となるともう一回読むしかないのかなあ。
この作品はおそらくこれからSFの入門編として、今までSFに触れていなかった人が最初に読む作品になっていくんじゃないかなと思う。
最近は江國香織さんと川上弘美さんの短編集をいくつか読んでいるのだけど、ほんとうにお見事というか、読んだ後にいい話だなとか登場人物のセリフや行動だけでなく、関係性や描かれている場所なんかが残る。こんなにいいお手本を読んだからといって短編が書けるわけではないけど、月に一本書いていくリハビリをしていきたい。
4月26日
明日から来週の木曜日までは朝か夜どちらか、あるいは両方に仕事が入っている日があって、8日間休みがないので今日はできるだけ仕事に関することはしないでおこうと決めた。ただ、映画は観に行こうと思っていて気になっていた『パリ13区』が近くだと新宿ピカデリーぐらいしかなかった。渋谷ではどこもやっていなかった。午前中はどうせ暇だし、雨も降らなそうだったので家から一時間半ほど歩いて新宿へ向かう。
代々木という文字を見るようになって、そういえば『天気の子』の最後らへんの舞台ってこの辺だったような気がしたが、地図アプリが示す方へ歩いて行く。代々木公園はほんとうに大きいんだな、とその横の歩道を北上して代々木駅に向かっていると馬が見えた。「東京乗馬倶楽部」とあった。
『群像』で古川日出男さんが連載している小説『の、すべて』の主人公のコーエン(大澤光延)が住んでいるのが確か代々木二丁目で、物語には明治神宮や馬も出てくる。そのことが脳裏をよぎった。ああ、文字で読んでいた舞台はこの辺りだと思う少しだけ目に入ってくるものの解像度が上がるような気がした。
代々木駅から明治通りにでてそのまま北上して甲州街道を越えて、新宿三丁目にある新宿ピカデリーへ。
『カモン カモン』に込められた「切実な願い」を読み取る
映画を観る前に映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんが書いた『カモン カモン』についての文章を読んでいた。このところ観た映画で『ベルファスト』『カモン カモン』、そして観ようとしていた『パリ13区』はモノクロ映像の作品という共通点があった。
だが、『カモン カモン』の主人公は「ストレートの白人中年男性」であり、彼がインタビューする子供の中には移民の子供たちが出てくるが、『ベルファスト』は故郷北アイルランドから宗教観の対立から出ていこうとする家族、移民となることを決意するまでを描いたし、『パリ13区』も主人公のエミリーは台湾系のフランス人、もう一人の主人公のカミーユはアフリカ系フランス人、移民が多く暮らしているパリを描いていた。記事の中で書かれているように、
5年前に「ストレートの裕福な白人の中年男性が主人公の映画を撮っても、誰からも相手にされない」と語っていたミルズは、本作で初めて「ストレートの白人中年男性」を作品の中心に据えたのだ。
#Me Tooムーブメントだけでなく、LGBTQのことや移民問題なども含めた多様性を巡る事柄によって、「ストレートの白人中年男性」という主人公は確かに以前よりも減って行っている。マーベルのヒーローを描いた作品でもどんどん移民系の役者が増えてきている。アジア系は10年前、5年前と比べるとハリウッド大作の映画でもメイン所を占める割合は飛躍的に上がったのはわかる。
例えば、日本の小説でも典型的な「サラリーマンの中年男性」というのはもう主人公にはなりにくい、と思うことがある。男性作家はそれらの問題意識がどうしても女性作家よりも遅いし身近に感じてこなかったことで遅れてしまっている感じもする。だけど、そこで性差の話をするとまた違うのかもしれない。この辺りは言葉にしにくくて難しい。
新宿ピカデリーに来たのはだいぶ久しぶりだった。新宿で映画館に行くとなるとTOHOシネマズ新宿か新宿バルト9でシネコン系は観れるし、単館系ならテアトル新宿か新宿武蔵野館か新宿シネマカリテという感じなので、ここでしかやっていないものみたいな時ぐらいしか来ていないのだと思う。
平日の午前中の回にはしては大きなスクリーンではないというのもあるだろうが、そこそこお客さんは入っていたようだった。一応R18指定なので、中年というよりは50代や60代に見える人のほうが多かった気がする。僕ぐらいの世代のほうが少ない感じだった。
「ディーパンの闘い」「預言者」などで知られるフランスの名監督ジャック・オーディアールが、「燃ゆる女の肖像」で一躍世界から注目される監督となったセリーヌ・シアマと、新進の監督・脚本家レア・ミシウスとともに脚本を手がけ、デジタル化された現代社会を生きるミレニアル世代の男女の孤独や不安、セックス、愛について描いたドラマ。再開発による高層マンションやビルが並び、アジア系移民も多く暮らすなど、パリの中でも現代を象徴する13区を舞台に、都市に生きる者たちの人間関係を、洗練されたモノクロームの映像と大胆なセックスシーンとともに描き出していく。コールセンターでオペレーターとして働く台湾系フランス人のエミリーのもとに、ルームシェアを希望するアフリカ系フランス人の高校教師カミーユが訪れる。2人はすぐにセックスする仲になるが、ルームメイト以上の関係になることはない。同じ頃、法律を学ぶためソルボンヌ大学に復学したノラは、年下のクラスメイトたちに溶け込めずにいた。金髪ウィッグをかぶり、学生の企画するパーティに参加したことをきっかけに、元ポルノスターのカムガール(ウェブカメラを使ったセックスワーカー)だと勘違いされてしまったノラは、学内の冷やかしの対象となってしまう。大学を追われたノラは、教師を辞めて不動産会社に勤めていたカミーユの同僚となるが……。グラフィックノベル作家エイドリアン・トミネの短編集「キリング・アンド・ダイング」「サマーブロンド」に収録されている3編からストーリーの着想を得た。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)
男女共に全裸でいるシーンが多々あるし、セックスシーンもあったけど、そこまで大胆な感じはしなかったけど、モノクロだからこそ美しさは感じられた。
エミリーはパーソナリティー障害みたいな話がちょっと出てくるけど、わりと本能に忠実なというキャラクターだなと思った。だからこそルームメイトになったカミーユに対して映画が始まってすぐのころ(何度かセックスしたころ)に言ったことは彼女が感覚でわかったことなんだと思う。それが最後に活きてくるし、そういう終わり方になるのはまとまりもいいと思った。二人の関係性はフランス的なものかどうかわからないけど、他者との距離感からくる孤独や不安みたいなものをなんとか生き延びるための欲望としてのセックスみたいなものがあると思うし、今の時代のほうがより裸同士の付き合いというかその感触が非常に強く求められるし、求めたいという欲望が強くなっていると感じるので映画の内容もわかる気がした。
元ポルノスターと勘違いされてしまったノラとその元ポルノスターのトランスジェンダーの人なのかな、二人の関係性はとても現在的なものでもあり、エミリーとカミーユとの関係性にノラも関わってくるが、ノラとポルノスターとの話があるおかげでこの映画はかなり今という感じが濃くなったんじゃないだろうか。
4月27日
潮谷験さんのデビュー2冊目『時空犯』を読み終えたので、続けて3冊目の『エンドロール』を読み始めた。『時空犯』は同じ日がひたすら繰り返されるというSF的な構造があるが、それも重要な要素だがしっかりとしたミステリーになっており、すごいなと思う展開になっていた。やはりメフィスト賞受賞作家が描くキャラクターで、聡明な女性で博士と聞いて浮かぶのは森博嗣著『すべてがFになる』に登場した真賀田四季だろうか、四季は森博嗣作品においていろんなシリーズに出てくる重要な人物だった。『時空半』の北神伊織博士は四季とはタイプは違うが、メフィスト賞の系譜ということを少し読みながら思った。もちろんミステリーなので犯人がいるわけだが、最後に犯人に絞っていく際の主要人物のアリバイ崩しにも繰り返す時間の原因というSF的な要素もしっかり推理に活かされていて唸った。この潮谷さんはメフィスト賞を再び輝かせる人になっていきそうだ。
『エンドロール』はこんな内容である。
202X年。新型コロナウイルスのせいで不利益を被った若者たちの間で自殺が急増する。自殺者の中には死ぬ前に自伝を国会図書館に納本するという手間をかけている者がいた。その数200人。共通するのは陰橋冬という自殺をした哲学者の最後の著書と自伝を模倣するということ。
早世したベストセラー作家・雨宮桜倉を姉に持つ雨宮葉は、姉が生前陰橋と交流があり、社会状況の変化から遺作が自殺をする若者を肯定しているという受け止められ方をしてしまったという思いから、自殺を阻止しようとするが……。
かなり現在とリンクする内容になっている。とりあえず、主人公の雨宮葉が陰橋冬の著書と自伝を模倣して死んでいる人たちを止めようとしている理由がわかる最初の章だけを読んだ。陰橋冬という人物はまだ詳細がよくわからないが、自殺したというのであれば海外であればマーク・フィッシャーが浮かぶし、最近の日本であれば西部邁などがいるが、彼らというよりはもうちょっと違うモデルがいるのかなと思う。
そのモデルが自殺はしてないが、書いたものなんかをつがうベクトルに向けると自殺を模倣するような感じに著者がしたのかなって感じるけど。まだ、この物語がどうなっていくのかはわからないが、確実になくなった姉の桜倉の秘密や彼女がなにかを企んでいたみたいなことが物語の核になるんじゃないかな。
『水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年4月27日号が配信されました。映画『ベルファスト』を観たので、以前に北アイルランドに行った時の話を元に『シャムロックの三つの葉』という短編を書きました。
4月28日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『アイドルA』(後編)では、前々作と前作のヒロインたちの夢を叶える希望の存在としての(今作の主人公)里美あずさについて書いています。
真造圭伍著『ひらやすみ』3巻が出ていたので昼休憩の時に銀行に住民税を払いに行ったついでに購入。
今回は漫画家になりたい主人公のヒロトのいとこであるなつみが持ち込みをした後の話と芸大での友達の恋バナという青春という話、そして不動産屋のよもぎが部屋を紹介した小説家との話が動き出すという感じ。ヒロトは元役者だし、わりと創作系の人の登場人物の比率が増えてきた気はするが、夢と日常をいうものを描こうとしているはずなのでそうなるんだろう。あと中央沿線が舞台だから、それはそうだよなあとも思う。
そのままトワイライライトでアイスコーヒーを頼んで『飛ぶ孔雀』を購入して一服。
その帰りにニコラによって作業をしながら、苺とマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドを一緒に。話をしていたら、小学校中学校高校と毎年クラス替えがあったというと曽根さん夫妻とカウンターにいたお客さんに驚かれた。そういうものだと思っていたのだが、三年間は同じクラスだと言われたり、地域によってそういう違いもあるんだなあ、話してみたいなわからないことは多いけどおもしろい。
4月29日
古川日出男さんが毎月寄稿している《考えるノート》の最新回が公開されていた。
第5回「戦場でのおびただしい〈死〉の報に触れながら 戦争と平和、非日常と日常、善と悪――翻弄されることで見える何か」
私に言えるのは、戦争と平和であれ、生と死であれ、それらを「疑いなく対峙させられる」と事前的に思った途端、はまり込む罠もあるのではないか? ということだ。
舞台は13世紀半ば、動乱のボヘミア王国。
ロハーチェクの領主コズリークは、勇猛な騎士であると同時に残虐な盗賊でもあった。ある凍てつく冬の日、コズリークの息子ミコラーシュとアダムは遠征中の伯爵一行を襲撃し、伯爵の息子クリスティアンを捕虜として捕らえる。王は捕虜奪還とロハーチェク討伐を試み、将軍ピヴォを指揮官とする精鋭部隊を送る。
一方オボジシュテェの領主ラザルは、時にコズリーク一門の獲物を横取りしながらも豊かに暮らしていた。彼にはマルケータという、将来修道女になることを約束されている娘がいた。
ミコラーシュは王に対抗すべく同盟を組むことをラザルに持ちかけるが、ラザルはそれを拒否し王に協力する。ラザル一門に袋叩きにされたミコラーシュは、報復のため娘のマルケータを誘拐し、陵辱する。部族間の争いに巻き込まれ、過酷な状況下におかれたマルケータは次第にミコラーシュを愛し始めるが…(公式サイトより)
↑
《考えるノート》で取り上げられていた映画『マルケータ・ラザロヴァー』。これは公開されたイメージフォーラムに観に行きたい。モノクロで二時間半ほどあるようだが、同じくモノクロである5月中にテアトル新宿で青山真治監督『ユリイカ』デジタル・マスター版が公開されるようなのでそちらも行こうと思っている。
午前中にツタヤ渋谷店に行った。ちょうどオープンの10時に店前に着いたらかなりの人が待っていた。どうやら一階になにわ男子のポップアップが展開されているみたいで、それを撮影しようと待っている人が多かったみたいだった。
僕はそのままエスカレーターに乗って3階に行き、前借りようと思ってほとんど借りられていたスパークスのアルバムや外付けHDにデータ移行できずに消えてしまったスーパーカーのアルバムなどを借りた。あと、中村佳穂のニューアルバムも手に取ったが、新作でも防犯目的のプラスチックカバーがされているものがあり、店員さんに器具で解除してもらわないといけなかったので友人レジのほうに並んだ。
有人レジでは男性のお客さんがなにかを聞いていたようでその対応をしており、他の店員の姿はなかった。僕の前には60近い男性客がいらいらして待っていた。その男性が進んでスタッフの声が聞こえる棚のほうに向かってちょっと声を荒げた。それで男性店員が一人出てきて、彼の対応をしていたが、その男性客は「客が一番だろうが」などと怒っていた。
朝から嫌なものを見てしまった。確かにお客さんはお店にとって大切でも、朝イチでスタッフだってたくさんいるとは限らず、何かの対応に追われていることぐらいはわかるはずだ。また、僕は防犯解除のために並んでいたが、基本的には無人レジでレンタルなどはできる。男性客は無人レジでできないのか、有人レジでないといけないのかはわからないが、俺様という感じが強かった。こういう人ってケアっていう概念がないのだろうとも思った。
彼はそういう態度で生てきていて、それが通ってきていたのだろう。だが、もうそういう時代でもないことがわかっていないようだ。少しぐらい待ってもいいものだろうし、もし待たされても店員に苛立って声を荒げるのはダサい、お客さまは神様というのは嘘とは言わないがそうでもない。接客の仕事をしたことがある人ならわかるし、してなくてもわかるものだろうが、彼のような人はそういうことがまるで理解できていないように見えた。彼らはたとえば妻や女性になにかを言ってしてもらう(あるいは言わなくてもしてもらう)ことが当たり前で、自分がケアをする側になったという経験がないのだろうか。ケアという概念がわからない人は家父長制で生きてきて、そのまま死んでいける世代なのかもしれない。そう考えると可哀相にも見えてきた。また、こういう人って友達とかいないのではないかなとその姿を見ながら思った。いても同世代の同じような人たちのだろう。なかなかしんどいなあと思う。
防犯の解除をしてもらって無人レジでレンタルをして店を出ると小雨が降り始めてきた。
中村佳穂 “MIU” ミュージックビデオ
家に帰って音源を外付けHDに取り込みながら、読書をしていた。途中から江國香織著『東京タワー』を読み始める。この小説の冒頭が雨の東京タワーだった。江國さんは『雨はコーラがのめない』という作品も有名だが、雨の風景を書いているという印象がある。主人公の透が僕よりは学年が一つ上の1980年生まれだったで、同級生で友人の耕二と共に大学2年生ぐらいなので舞台としては2000年ぐらいなのだろう。
東京スカイツリーができる何年も前の物語。スマホはまだないし、携帯もちょっとずつ持ち始めた時代だから家の電話の前で相手からで連絡が来るのを待っているというシーンがあったりするのが、今との大きな違いかなと思う。
4月30日
戦争とは一つの悪ではなく悪それ自体である。人間の生産的な資源を後先もなく濫費することにはかならず、――アナーキーな暴力、無意味な放蕩、抗争、逆行、感染、異質性といったものからなる――軍事的な性格が備わっている。だからこそ犯罪は、共同体にたいする侵略という原始的な意味を保ちつづけ(その名残は強盗のなかに、あるいは逆に、犯罪にたいする刑罰の形式がもつ軍事的基盤のなかに見られる)、無意識は自ずと一つの内乱に喩えられることになるのである。サドの熱狂はこうした軍事的原理を共有しており、力、裏切り、供儀による栄光、そして堕落によって、分解的に「制御」されている。大衆にたいする中央集権的な平和化作用の崩壊こそが、サドのテクストに広がる歴史的かつ文学的な空間なのである。そのあとに悪や無秩序や崩壊を残しながら、異質的な諸力が体制の腐敗のすえに明るみに出た戦場を縦横に動きまわるにつれて、不均質に崩壊していく社会は武装した集団に変わり、強盗や法外な者たちからなる一団に変わっていくことになる。(ニック・ランド著『絶望への渇望 ジョルジョ・バタイユと伝染性ニヒリズム』P281-282より)
「世界はどこに向かっているのかな? 若い頃のわたしは、社会の進歩を信じていた。なぜかというと、自分自身が進んでゆくチャンスが見えていたからだ。だが、こうして六十になって、来られるところまでは来たとなると、後は行き止まりだけだという気がしてくる。あんたの言い分が正しいなら、社会にとっても後は行き止まりだ。しかしだね、このシドニー・ステンシルはずっと変化していなかったとしたら――そのかわり、一八五九年から一九一九年のあいだに世界はある病気にかかったが、その病気を診断できる人間が誰もいなかったのだとしたらどうだろう。兆候があまりに微妙だから――歴史を形作るさまざまな出来事の中に溶け込んでいて、ひとつひとつは何の影響もないようだから――誰にも気付かれないが、全体として見れば命にかかわる病気だったとすれば。ま、世間は先の戦争をこのように見ているわけだ。あれは新発見の奇病だったが、今は治療が成功して永遠に撲滅されたのだと」(トマス・ピンチョン著『V.』下巻P332より)
トマス・ピンチョン著『V.』下巻を読み終わったので、次は一度読んだことがある『競売ナンバー49の叫び』に。『V.』読み終わったけど、うまいこと世界を捉えられきれていない。おもしろいかおもしろくないかと言われたらおもしろい。だが、読み手である自分がそこを理解できていない、あるいは真面目に読み過ぎてしまう部分が邪魔をしているような。『競売ナンバー49の叫び』はDCPRGの曲名にも使われていたので、ちょっとだけ親近感がある。
「浅野いにお先生と押切蓮介による雑談」のYouTube聞いているが、浅野さんの声って高橋一生さんの声に似てるな。ということは骨格が近いだろうから、顔も似ているってことになる。
大塚英志原作×山崎峰水漫画『くだんのピストル』弐巻を読む。高杉晋作と岡田以蔵がメインとなっている。読みながら大塚さんは高校生の時に漫画家だった時期があり、その時の師匠がみなもと太郎さんだから、これは『風雲児たち』を大塚さんなりにやり直したいってことなのかなって思った。
5月1日
数冊を併読しているが、前に読んでいた江國香織さんと川上弘美さんの作品は読み終わったので、次のものへ移行した。『物語のなかとそと』はエッセイ、『猫を拾いに』は短編集でひとつの話やくだりが短いのでちょっとずつ読むのにちょうどいい。保坂和志著『ハレルヤ』は一編がそれほど長くない中編で、こちらも1日一編ずつぐらい読んでいくつもり。
5月1日はニコラの周年日。11周年。年末以来の皿洗いヘルプに18時から入る。24時の閉店まで賑わっていた。閉店後に常連な人たちと飲んだり話をしていたけど翌朝は仕事なので3時には帰る。まん防解除されたことで気兼ねなく集まれるようになってほんとうによかった。
5月2日
朝なんとか起きて9時からリモートワークで20時まで仕事をしていた。仕事だから読んでいた小説のジャンルがほんとうに苦手なタイプのもので、しかもそのジャンルのある種王道パターンだったので、辟易しながらも要約のためのメモをとりながら読んでいた。形式美みたいなものなのだろうけど、それがダメな人にとってはそれ故にしんどくなる。でも、読まれているっぽいし、好きな人は好きなんだろうなって。王道パターンという物語だからこそ、読めたり好きだという人がいるのもわかる。でも、パターンとして僕にはおもしろいとはまったく思えない。時間がかかってしまったのはそのせい。
ニコラのお二人は翌日の2日はしんどいのはわかってたから21時から皿洗いヘルプに行けますよと伝えていたからその時間からちょっとヘルプ。終わってからサルシッチャとそら豆のスパゲティーニとビールのまかないをいただく。
今年の3月11日からはニコラの上の3階に熊谷くんが店主なトワイライライトがオープンしたので、三軒茶屋に来る機会があれば、どちらも寄ってみてください。
続けていくのはほんとうにすごいことだし、いろんな要素が混ざり合うのだけど、素直におめでとうございます!という気持ちです。
僕にとってのニコラのようなお店があるなら、足を運んでお金を落とすことはとても大事なことだと思う。お店が閉店するときに残念みたいなことSNSでいうやつはさほど行ってないし金も落としていないだろうから、そういう残念な人間にならないように生きては行きたいな、と思う。
5月3日
渋谷まで散歩がてら歩く。ジュンク堂書店渋谷店に寄って、伊坂幸太郎著『マイクロスパイ・アンサンブル』と松波太郎著『カルチャーセンター』を購入。
伊坂ファンというのもあるが、これは「猪苗代湖の音楽フェス「オハラ☆ブレイク」でしか手に入らなかった連作短編がついに書籍化!」と謳われているように、ページをペラペラめくったら猪苗代という単語が見えたので読もうと思った。
『カルチャーセンター』は単純に表紙をSNSで見てから気になっていたもので著者や内容はまったくわからないが、帯の表は松浦理恵子さんと柴崎友香さんのコメントがあるが、裏側が保坂和志さんのコメントがあったので、『ハレルヤ』繋がりでいいかなと手に取った。
TVerオリジナルの『神回だけ見せます!』を初回の出川さんから5回目の萩本欽一さんまでを一気に見た。日テレの番組の神回を流しながら、佐久間さんと伊集院さんがワイプで見ながらコメントしていくというもの。出川さんの回は最後は知らないうちに泣いていた。見ればわかるけど、この回は現在のウクライナ侵略とも通じてしまっている。いつだって戦前で戦中で戦後であるということ。
最後の萩本さんの回もおもしろかったので、その流れでオードリーの若林さんと萩本さんがふたりでやったラジオをYouTubeで探して聞いている。
伊集院さんが言っていたけど、モグライダーの二人の形式は実はコント55号と同じであるというのは納得だった。そして、ラジオを聞いていると若林さんと萩本さんのやりとりがすごいし、若林さんがきちんとリスペクトしているからこそのツッコミが萩本さんうれしいんだろうなとわかる。
5月4日
朝散歩がてら歩く。首相官邸や国会議事堂を横目に、日比谷公園を横切って二時間ちょいで日比谷へ。『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』をTOHOシネマズ日比谷のIMAXにて鑑賞。
ここでない何処かを、一緒に居たいはずの誰かとのありえたかもしれない人生を、それを追い求めれば人は(ダークサイドに)堕ちていく、という話をサム・ライミのお得意分野で味付けしましたという映画だった。
「マルチバース・オブ・マッドネス」とついているように「マッドネス」な話だけど、年を取れば取るごとにありえたかもしれない世界や未来を夢見てしまう、という「35歳問題」の話でもある。「35歳問題」を絡めて誰かがこの映画について論じるでしょう。東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』に通じる部分もあったりする。
そして、『死霊のはらわた』のサム・ライミ監督がなぜこの映画のメガホンを取ったのかも観ていたらわかる気がした。過去という亡霊や死霊や悪霊たちが「こんな未来なんて望んでいなかったのになぜ? なぜ? 私の現実はこんな状況に陥ってしまったのだ」と語りかけてくるように、そのためにサム・ライミが必要だったんだと思う。故にその亡霊や死霊や悪霊をいかに使うがキーになるし、その意味ではダークヒーロー的な要素も含んでいた。
中年以降の人間、残り時間があきらかに無くなってきたと感じてる人にはエグく突き刺さる内容になっている。観ている僕たちはヒーローでもなければ、マルチバースを開くこともできないし、ありえたかもしれない他の自分の人生を見ることもできない。
いつか確実に終わるこの人生から逃げ出すことはできない。自死を選んだからといって逃げられるとは限らない。だから、人には物語や芸術というものが必要なんだと思う。だけど、物語や芸術によって縛られてしまうこともある。だからこそ、当たり前の日常とうまく付き合っていきながら、喜怒哀楽の感情をできるだけ、内側に溜めずに外側に出すしかバランスは取れないんじゃないかなとも思う。
今の現実世界を描こうとしたら平行世界やこのマルチバースみたいにいくつかのレイヤーを重ねるしかない。僕たちの現実世界は単純な「大きな物語」から冷戦終結以降に解放され、放逐され、インターネットによって複数のレイヤーがあることを知った中で生きてしまっているから。
『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』は明らかにフィクションだけど、その複数で複雑なレイヤーは僕には違和感なかった。
ありえたかもしれない未来ほど、人の心を捉えて呪い、がんじがらめにできるものなんてないから。
5月5日
GW期間中、朝か晩か朝晩と仕事が入っていないのがこの日だけだった。久しぶりのほんとうに何もない休みだったので、なにか観たいなと思ったのでヒューマントラスト渋谷で開催中の「ジャック・リヴェット映画祭」の中のひとつ『北の橋』を観に行った。
『セリーヌとジュリーは舟でゆく』が「不思議の国のアリス」ならば、ビュル・オジェと実娘のパスカル・オジェ共演作である本作はリヴェット版現代の「ドン・キホーテ」。ビュルとパスカルは撮影前にリヴェットに渡された「ドン・キホーテ」に魅了されたのだと言う。突然現れた閉所恐怖症の女テロリストのために、彼女の昔の恋人との連絡を引き受ける少女バチストは鎧の代わりに革ジャンを羽織り、馬の代わりにバイク、兜の代わりにヘルメットをかぶってドン・キホーテを演じてみせる。パリの街と符号する双六ゲームの上で、日常を生きながらにして幻想に駆られた俳優たちの身体と、現実の中から立ち現れてくるファンタジーが結びつく興味深い一編。(公式サイトより)
ほんとうに所々『ドン・キホーテ』みたいな荒唐無稽な行動をバチストは取ったりしていて、シュールなコントに見えたんだが、正直途中から眠くなってしまって三分の一ぐらい寝ていた。パリの街と符合する双六ゲームみたいなものは興味が沸いたんだけど、『アンダー・ザ・シルバーレイク』の謎を解く地図にもちょっと通じているという部分で。だけど、異様に眠くなってしまった。閉所恐怖症っていうのはわかったけど女テロリストにしては行動がいろいろ迂闊というかテロリストに見えなかった。
映画を観終わってから日差しが初夏じゃんっていう中を歩いて家に戻って一度荷物を置いてから、トワイライライトに向かう。小山義人さんの個展が開催中で、小山さんのイラストが装丁に使われている町屋良平著『ほんのこども』が気になっていたので購入。読み始めたけど、これは語り手が語る人物と混ざり合っていってしまうという話なのかな。
大恐慌へのラジオデイズ 第72回「アルファベット2文字の怪物」
「天才」についての菊地成孔さんの話はいつもおもしろい。前に菊池さんと佐々木敦さんとの対談の時にも「天才」とは家族(国家)からの抑圧から生まれるという話をされていたが、今回語っていることで言えば、「天才」はある種部屋の中でガスが終始充満している状態になっている人という話。あとは着火するだけなんだけど、着火しないまま世に出て行かない人もいる。菊地さんが音楽をやってきた中で見てきた「天才」との仕事の中で、自分の役割はチャッカマンなんだという話だった。
おそらく、自分で着火できちゃう「天才」もいるんだろうが、いろんなジャンルにおいてあとは着火だけという「天才」が大爆発させるきっかけとしてのチャッカマンとしてプロデューサーだったり編集者だったりみたいな存在がいるのだろう。でも、「天才」は人の意見を聞かないとも言っているから、チャッカマンの役割はコントロールすることでもなく、たぶんコントロールなんかできないだろうし、存在して関わることで着火することになるのだろう。あと「天才」は家族と仲いいって話も前に佐々木さんとの時にも話してた。
5月6日
朝と晩リモートワーク。一服がてらニコラでピスタチオと木苺のブリュレとアルヴァーブレンド。明日は雨という予報だったが、ズレたのかほとんど雨は降らないみたい。しかし、朝晩と椅子にずっと座っているのはやっぱりしんどい。
ニコラの前に本屋に行ったが、お目当ての『新潮』6月号は明日の7日発売だったみたいでなかった。町屋良平著『ほんのこども』は寝る前に読み終わった。物語を書いている町屋さんとほぼ同一人物に見える小説家が、父が母を殺し、彼もやがて人を殺めてしまったかつての同級生について書き始めるのだが、その境界線が崩れてっダブっていく、生きることを描くというよりも殺意や暴力や悪意について描いていくことでナチスドイツのホロコーストにまで想像力は及び、その歴史と作家の移行と意識がかつての友人とも混ざり合っていくというものだが、すごく心に澱のようなものを、それがなにかはうまく掴めていないが残るような不思議な、いや不穏な作品だった。その町屋さんの新連載と蓮實重彦が寄稿した「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が読みたい。
5月7日
雨が降りそうで降らない中、歩いて六本木ヒルズのTOHOシネマズ六本木に行く。公開日に観た『ドクター・ストレンジ:マルチバース・オブ・マッドネス』2回目をTCX(TOHO CINEMAS EXTRA LARGE SCREEN)で。観やすいところにしようと思ったのでプレミアシートにしたが、あれって観やすい場所でちょっとシートがいいぐらいで価格としては高すぎる気はする。
やはりディズニープラスで配信中の『ワンダ・ビジョン』を見ておいた方がいいに越したことはない作品だと思うのだが、見たらワンダことスカーレット・ウィッチにすごく感情移入しちゃうのかなって思う。だって、スカーレット・ウィッチが自分の息子たちとの生活を夢見た結果、暴走して最終的に自分でケツを拭くという展開がこの作品であり、その原因として『ワンダ・ビジョン』があるということだろうから。
というわけでMCUの拡張していく世界観に全部付き合うのはなんか嫌だ!という性格のためディズニープラスには加入しないまま映画館で公開されるMCUだけを観ようとしている人です。
そうするとどうなるか、1回目と同じでドクター・ストレンジのクリスティーンとのありえたかもしれなかった可能性という「35歳問題」について考え、最後のなんというのか悪霊たちを取り込んだゾンビフォームみたいなストレンジのダークヒーローさはカッコいいなと思いながら、大画面を楽しんでいた。作中に出てくる「イルミナティ」メンバーに関してはまったくわからないのだけど、ほかのドラマや作品になんらかの形で出てきてたキャラクターなんだろうな、でも、『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』でも超サプライズを楽しんでしまったので拍子抜けした感じはあったりした。
前回と今回で予告編を観た『ソー/ラブ&サンダー』には「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」メンバーが出るみたいなのでそれを楽しみに観にいっちゃうだろうな。これまでの「ソー」シリーズは観たことがないのだが。
毎月お楽しみな『群像』連載中の古川さんの『の、すべて』今月号は休載。先月、雉鳩荘でそのことについて話は伺っていた。その理由と休載における編集部の判断は作家への信頼だなあ、と思った。
多くなくても、自分の周りのいる信頼がおけるわずかな人には、信頼される生き方というか姿勢を見せていくしかないんだよなあ、とお二人と一緒に過ごさせてもらって感じた。
というわけで、今月は文芸誌を買わないかなあと思っていたけど、蓮實重彦氏による「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が読みたくて『新潮』を買った。
来週からテアトル新宿で『ユリイカ』のデジタル・マスター完全版が公開なので、それだけはスクリーンで観ようと思ってる。ビデオでしか観たことがなかったから。
蓮實さんの「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」を読んで、先日近くのブックオフで蓮實重彦&黒沢清&青山真治著『映画長話』があったのを思い出して買いに行き、最初の鼎談を読む。先日観に行って正直三分の一近く寝てしまったリヴェットの『北の橋』の話がされていた。
サム・ライミ監督が『スパイダーマン3』を撮ったという話からサム・ライミとブロックバスターについての話が出ていた。この鼎談本は2011年にリトルモアから一冊の本として刊行されている。この部分は2008年の収録のものだと最後に書かれていた。その時から14年後、刊行後11年後の2022年にサム・ライミ監督作『ドクター・ストレンジ:マルチバース・オブ・マッドネス』が公開されているというのが現在の時間。僕は今日2回目をTCXで観た。
この鼎談では最年少である青山さんは蓮實さんを「叔父」、黒沢さんを「年上の従兄」という感じで世代の違いについて最初に書いている。そもそもこの3人は立教大学の蓮實ゼミにおける「先生」と「ゼミ生」(黒沢・青山)であり、「監督」(黒沢)と「元助監督」(青山)という関係性でもある。『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督は学生時代に黒沢清監督に指導を受けていたわけだから、そういう師弟というか先生と生徒の流れがあったわけで、そこには当然ながら創作と批評の関係性があって、引き渡しながら引き受けた流れにおけるひとつの大きな結果だったんだろう。
しかし、青山真治監督は亡くなってしまい、蓮實重彦さんがその追悼文を書いている『新潮』を読んで、『映画長話』を読むと時間の流れを感じる、そういう日だった。
5月8日
第63回メフィスト賞受賞作家・潮谷験作品をデビュー作『スイッチ 悪意の実験』、二作目『時空犯』、三作目『エンドロール』と続けて読んでいる。メフィスト賞が新しいフェーズに入った感じもするし、復権を担う柱になりそうな作家さんだな、と改めて思う。時勢との距離感とある種の批評性がありながら、それらをミステリーにうまく混ぜこんでいる。まだ、第4章が読み終わったばかりだが、あるネット番組で三対三での「自殺」について肯定派と否定派が意見を戦わすという場面だったが、肯定側の「自殺」をしようと決めている人たち三人は作家、サッカー、ユーチューバーになりたかったがなれなかった人たちであり、否定側の三人(主人公たち)は同じく作家、サッカー、ユーチューバーとして成功し一定の評価を得ている人たちであり、その構図における問題や気持ちについてすごくうまいというか、読者の感情を揺らす場面だと思った。僕もそうだが、たいていの人は肯定側の人たちのように夢を叶えることができなかった人たちであり、『スイッチ 悪意の実験』の時にも描いていた「悪意」に近い人間の負の感情との付き合い方とか現実と理想の間での人の生き方をミステリーの中で書ける人が潮谷験という作家なんじゃないかなって感じた。
スーパーで買い物をして帰っている途中、ほとんど家の前というあたりで知り合いの方とすれ違った。マスクはしているものの、お互いに「あの人だ」と思った状態でおじぎして少しだけご挨拶をした。顔はわかるんだが、すぐにお名前が出てこなかった。連載させてもらっていた媒体の編集者さんで、担当の編集者さんの上司的な立場の方だった。何度か近所で会ったこともあるのに名前が出てこない。とりあえず、担当さんの名前を脳裏内で思い出し、下の名前が先に浮かんでそこからすぐには苗字も出てきた。そこからその担当さんがたまに書いていたその上司の苗字を思い出そうとした。家に着いてから、洗濯が終わったものを洗濯機から出して干していた。スマホで担当さんのメールを検索すればすぐに上司の人の名前も出るはずだが、そういうことばっかりしているからいろんなことを忘れていってしまうと思って、思い出そうとして考えていた。物干し竿にバスタオルやTシャツを干していたら、急にすれちがって挨拶した人の苗字が浮かんできた。浮かんだからなんだって話だけど、スマホに頼らなくてよかった気がした。
NHKドラマ『17才の帝国』:吉田玲子脚本(「けいおん!」「ガールズ&パンツァー」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「平家物語」等)×神尾楓珠&山田杏奈&河合優実&望月歩&染谷将太(帝国の若き閣僚たち)×星野源(狭間で苦悩する政治家)×佐野亜裕美プロデューサー(「カルテット」「大豆田とわ子と三人の元夫」)という座組みの強さ、というかこの座組みができるのがNHKというか。しかも、きちんとオリジナル作品。
「舞台は202X年。日本は深い閉塞感に包まれ、世界からは斜陽国の烙印を押されている。出口のない状況を打破するため、総理・鷲田はあるプロジェクトを立ち上げた。「Utopi-AI」、通称UA(ウーア)構想。全国からリーダーをAIで選抜し、退廃した都市の統治を担わせる実験プロジェクトである。若者が政治を担えない理由は、「経験」の少なさだと言われてきた。AIは、一人の人間が到底「経験」し得ない、膨大な量のデータを持っている。つまり、AIによっていくらでも「経験」は補えるのだ。それを証明するかの如く、AIが首相に選んだのは、若く未熟ながらも理想の社会を求める、17才の少年・真木亜蘭(まきあらん)。他のメンバーも全員20才前後の若者だった。真木は、仲間とともにAIを駆使し改革を進め、衰退しかけていた地方都市を、実験都市ウーアとして生まれ変わらせていく―。」
5月9日
朝と晩ともにリモートワーク。途中、週一回の整骨院に行ってほぐしてもらって電気をあててもらう。椅子に座ってずっとパソコンを打っているから体がどうしても前傾になってしまい、元々肩甲骨がガチガチなので余計に体が固まってしまう。最近寒くなってきたのもあるけど、梅雨ではないのだろうが気圧の変化で頭痛かなと思っていたのだけど、それと前傾姿勢のせいで首とか肩が固まってしまって血とリンパの流れが悪くなって頭痛になっている可能性もあるという話を聞いた。毎日湯船には浸かっているけど、肩甲骨を動かさないとやっぱり悪化するだけだなあ。
9日に日付が変わる頃に『17才の帝国』一話をNHKプラスで見始めた。日付が変わる前には大河ドラマ『鎌倉殿13人』を見ていて、今期ドラマでしっかり見ているのが『鎌倉殿13人』ぐらいしかない。源平合戦最後の壇ノ浦の戦い、菅田将暉演じる源義経が舟から舟へと舞うように飛んでいく、那須与一の扇の的のシーンはなく、安徳天皇と三種の神器のひとつである草薙剣が海へ沈んでいった回だった。戦の天才である義経は平家を倒してしまえば誰と戦えばいいのか?と問うように、選ばれた存在だった彼はもうひとりの天に選ばれた兄の源頼朝にとって邪魔な存在になってしまう。ここから二話ほどは義経の最後へと向かっていく、源平合戦とは違う悲しい話になっていくのだろう。しかし、源義経を菅田将暉が演じたのはほんとうに素晴らしいキャスティングだと思う。
同じくNHKドラマである『17才の帝国』もおそらく五話全部見そうな感じ。年を取ったらNHKへという気もしなくがないが、やっぱり放送局として強いってのは作品のクオリティに関係している。もちろん、受信料というお金があるわけだけど。
寝る前に買ったままだった内田百閒著『百鬼園随筆集』を読み始める。最初のいくつかを読んでから、最後の解説は誰が書いているのだろうかと思って見てみたら川上弘美さんだった。なんだか川上弘美さんの文章によく触れている五月。
5月10日
休憩時間に散歩がてらジュンク堂書店渋谷店に行った帰りに、246と旧山手通りの交差点で信号待ちをしていたら、電子盤みたいなところにあるステッカーにFNCYのステッカーが貼ってあった。ちょっと親近感。
FNCY - Live digest @ WWW presents dots
ジュンク堂書店渋谷店に行ったのはスタインベック著『怒りの葡萄』を書いたかったから。初生雛鑑別師だった大叔父のノンフィクションの資料として1939年ぐらいが舞台でカルフォルニア州が出てくる作品として検索したら出てきた。正直名前は知っているけど読んだことのないスタインベック。上下巻でかなりのボリューム。
文庫の新刊コーナーに文春文庫の新しく発売になったものが面出しされていた。平野紗季子著『生まれた時からアルデンテ』は前に書店で見て気になっていたやつで、食に関するエッセイとしてはスタンダードなものとして名前もよく聞いていたものだった。千葉雅也著『アメリカ紀行』は単行本の時に読んでいなかったので、『生まれた時からアルデンテ』と一緒に買うのはなんかいいなと思った。
小説も長編と短編集を何冊か併読しているけど、エッセイもあったほうが個人的には同時並行で読む際にいい気分転換になる。
5月11日
『新潮』2022年1月号掲載の古川日出男現代語訳「紫式部日記」読んでいたから、2024年の紫式部が主人公の大河ドラマ『光る君へ』気になる。
『平家物語』と『犬王』のアニメ化によるいろんなメディアへの稼働で、古川さん自身がいちばん大事にしている小説執筆のスケジュールが崩れちゃったりしている部分があるんだろうなと思う。だから、話題になったりヒットするのはいい部分と悪い部分は相応にあるんだろう。
オウム真理教をテーマにした『曼陀羅華X』だって、東日本大震災の早すぎる風化とつながっているし、東日本大震災が1000年に一度の大災厄と言われるからこそ、1000年前の日本というところから『源氏物語』を描いた日本で最初の小説家としての紫式部先輩のことを学び直そうとして『源氏物語』を読み直したり訳したりしていたら、池澤夏樹さんから『平家物語』の現代語訳の話がきて、という流れがある。そして、依頼があったわけでなく、ご自身でやりたくて『紫式部日記』現代語訳を書いたものが『新潮』に掲載された。つまり、これらは東日本大震災という出来事から巡り巡っている。
もちろん、『平家物語』現代語訳や『平家物語 犬王の巻』も『紫式部日記』現代語訳も素晴らしいんだけど、『ミライミライ』『おおきな森』『曼陀羅華X』なんて異常だよ。破格な小説なのに、そういうものがもっと読まれてほしいし、きちんと評価されてほしいし、ノンフィクション『ゼロエフ』も読んでほしい。だから、アニメ『平家物語』の始まりにある現代語訳だって2011年の東日本大震災から繋がってるんだよ、あれは震災文学としても語り継がれたものなんだよ、ということの意味は大きいけど、そういうことは漂白されて消費されていく。
仕事終わってからニコラでアメリカンチェリーとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをば。
白石和彌監督『死刑にいたる病』をシネクイント渋谷で昨日の最終回に鑑賞。映画館に着くとちょうど前の回の上映が終わったらしくかなりの人たちがロビーを下に降りるエスカレーター待ちをしていた。若い20代前半の女性客がほとんどである。ふむ、謎だ。この映画どう考えても若い女性客がこんなにも来るようなものには思えない。なんでだっけなあと思って、主役は阿部サダヲと岡田健史だから、岡田ファンだとしても言い方は悪いが平日でサービスデーだからってこんなに来るほどブレイクしてるかな、とか思って公式サイト見たら、メインキャストの一人が三代目とエグザイルな岩田剛典だった。
ああ、これか、これしか若い女性が観に行きている理由は思い当たらない。最終的にはイヤミスな感じの作品だったから、ある程度はリーチする層なのかなあ。
連続殺人事件の犯人で死刑囚の榛村(阿部サダヲ)から手紙をもらった大学生の筧井(岡田健史)が、死刑囚に殺人事件の一件だけ自分ではない誰かが犯人でそれを探してほしいと言われるという内容。
メインキャストが阿部サダヲ、岡田健史、岩田剛典、中山美穂だから、最終的なオチはこの中の誰かなんだろうなって思うんだけど、岩田が演じた金山という人物が超思わせぶりなキャラで幼少期に顔が傷ついてそれを隠すための長髪でいかにも怪しいっていう感じだから、まあ前フリじゃんって思うし、中山美穂さんは岡田の母だから、基本的には真犯人じゃないけど秘密はあるんだろうなっていう。で、主人公の岡田が犯人とかだったら『メメント』だからありえない。死刑囚と大学生は面会室で透明な仕切り越しに話をしていくわけで、どう考えても物語のラストシーンはそこに終結するしかないから、阿部サダヲがなんかやってんだろうなと岩田がいかにも怪しい感じで出てきた時に思った。
キャストで犯人予想ってある程度できる。ドラマ『流星の絆』とかなら、東野圭吾読んだことなくてもメインの三兄弟妹と向き合って最終回で画になるのは誰だって考えれば、最初から彼らの両親を殺した犯人なんて一人しかいない。単純にミステリー小説を映像化する時にどうしても犯人はキャスティングでわかっちゃう部分がある。だから、そこの塩梅が難しいと思うし、小説で最初に読んでおいた方がミステリー的な要素は楽しめるんじゃないかなと思う。
そもそもある程度文量のある作品を二時間ちょっとで映像化しようとするとどうしても細部とか省いちゃうから、連続ドラマとかのほうがミステリーは向いてるんだろう。ミステリーがドラマ化するのが増えたりするのは、最終的に犯人がわかるっていうことが大きくて、犯罪という問いに対して犯人という答えがある。
「平成」に入ってからミステリー小説がエンタメでもより大きなものになっていった背景ってやっぱり時代がどうなるかわからなくなっていったから、人々の「答え」がほしいという気持ちと呼応してた部分もあるんじゃないかなって思う。日常の謎が定番化したのとかって日々のふとした身近なところで起きたことにも原因や答えはあるって思いたいってこともあったのだろうか。でも、人生って意味不明なことばっかり起きるわけで、答えがあると思い出したらけっこうきついと思うんだよなあ。だから、ミステリーはエンタメとして非常に優れているし、書き手にしても最高の遊戯だと思うけど、実人生と半歩ズレたリアルぐらいな気持ちのほうがいいのかも。
『死刑にいたる病』は犯人とかのネタバレとかはどうでもよくて、実際にイヤミスっぽいなと思ったのはこの作品で取り扱っている「洗脳」や「マインドコントロール」が実は大きな要素になっているところ。
死刑囚榛村のいちばんヤバいのは何十人殺して、その度に手順通りに少しずつ痛めつけて処分するっていうこともなんだけど、「洗脳」や「マインドコントロール」の力においてで、基本的にこの作品における登場人物たちはその力の支配下に置かれている。正直それが一番怖いんだよね。
これって「尼崎事件」とかいろんな事件でもあるけど、他人を「洗脳」したり「マインドコントロール」できるっていう能力がある人は実際にいて、自覚してそれを意図的に使い始めると支配下の人たちは逆らえないし、その掌で踊らされて自らの手で人を殺めたりとかしてしまう。その場合は、真の犯人は手を下さなくてもいいわけで、殺人とかで立証するのがかなり難しくなってくる。
この辺りはほんとうに難しくて承認欲求が強い人とか、自己評価が低い人なんかは「洗脳」されたり、「マインドコントロール」されやすかったりする。その際に、言われていることを実行すればいいわけだから気は楽というか、「自分でなにかを決めない、決められない」という人はそういう人に支配されやすくもなる。ある種のカルトや宗教っていうのはそういう部分がある。
【ガチトーク】キングコング西野 後編 なぜ僕は叩かれる?西野ぶっちゃける!
知識がない科学は宗教に見える
と佐久間さんがキングコングの西野さんとの対談の時に言われていた。
西野さんにインタビューさせてもらったこともあるし、西野さんがやっていることはおもしろいと思っている。でも、たしかに彼がやっていることをある程度わかったり知っていないと宗教には見えるというのもわかる。
僕は個人的には集団というものが苦手なのでおもしろそうだなって何度か顔を出しても、そのうち集団の顔ぶれが決まってきたり、数が膨れ出してくるとそこから基本的には距離を取る。
これは漫画家の西島大介さんにインタビューした時に聞いたことが大きくて、西島さんはゼロ年代初頭には東浩紀さんとか言論的な場所に近いところにいたけど、群れてはいなかった。僕はわりと西島さんにはシンパシーをずっと感じてる。
基本的にルサンチマンを抱えた人たちが集団になって群れ始めると、特に男性が多い場所ではホモソーシャル化して内ゲバが起きて崩壊する。一人の女性(別に男性でもありえるけど)がサークルクラッシャーとなるということもあるだろうけど、それは基本的にはキッカケでしかないような気もする。
集団が持続していくためにはそれぞれがリア充的にそれ以外の場所に居場所があって、その集団においての序列がはっきりしている場合だけなんじゃないかなと思う。
映画における死刑囚榛村の他者への「洗脳」と「マインドコントロール」ぶりを見て、場を支配する力を持つということはそういう力が少なくてもあるということだろうし、カリスマ性ってそれが基本的には軸にあるのかなって思う。他者と距離感をどう取るかっていうことの難しさについて思う。
上京して20年。ミニシアター系を観るためにゼロ年代初頭の2002年からいちばん足を運んでいる街は渋谷。エイチ・アンド・エムはブックファースト渋谷だったし、とかとか変わり続けて、開発によって渋谷は姿を留めないからかつての風景が忘却されていく、健忘症になれる街、わずかな記憶の風景たちと現在のレイヤーが重なる。マルチバースやメタバースみたいなものがひとりの人間の中にすらある。死んでいった者たち、今生きている僕たち、これから生まれてくる者たち、のすべてのあらゆる可能性がどこかにあるんだと思う。それを浄土みたいな言い方をするのかもしれない、悟りを開いたらいけるのかもしれない、次元を越えるみたいなことなんだと昔から思ってる。たぶん四次元や五次元とかの先にある場所。ふつうに考えたみんなそんなところに行けるはずもないから、死んだらただの無、終わるだけ。無になるのは耐えきれないから、死後の世界と宗教が必要だった。そこにはどうしても物語の力が必要だったし、利用しなければ人は死に耐えきれなかった。そこから芸術は生まれたし、育まれた。儀式とは神話の反復であり、儀式をすることは型をトレースすることだった。前に虫歯になって詰めものをした奥歯が痛い、この痛みにわずかな人生の根拠を感じる。詰めものを外したところに四次元や五次元とかの入り口があるかもしれないが僕にはそこに入り込む力はない。
5月12日
<菊地成孔の日記2022年5月12日午前4時記す>
菊地さんが書いた上島竜兵さんのことから、前回書ききれなかった玉袋筋太郎さんと「町中華で飲ろうぜ」について、太田プロのことから玉袋さん&水道橋博士さんの浅草キッドのことから江頭さんと出川さんのことへ、そして上島竜兵さんのことへ。
僕は何年か前に、この日記で「老いたる者の義務として、これから死を表現する」と書いた。しかしそれは、死そのものを見せることでは無い。死神とダンスすることである。
一度だけ上島竜兵さんを生で見たことがあった。しかも、その現場は芸人にとっての戦場だった。
僕は『アメトーーク』の「竜兵会vs出川ファミリー」の収録の観覧をしたからだ。応募したら普通に当たったのでバイト先の友人と二人でテレ朝に行った。『アメトーーク』の観覧席には何人かの女性が帽子を被っている。それはカメラが観客席を撮る時にわかりやすい目安としてで、その日もそんな感じで帽子を渡して被らせていた。テレビでも映る場所は基本的には女性で、僕と友人みたいな男同士で来ている人はほぼいなかった気がする。そんなわけで僕は一番上の段の一番端っこに座って観覧した。その後、テレビを見たら大爆笑をしている僕らもチラッと映っていた。だけど、今はDVDもないし、その確認はできない。
調べてみると2007年5月31日(木)に放送された回なので、その一ヶ月前とかに観覧に行ったのだと思う。
<竜兵会>上島竜兵&肥後克広&土田晃之&安田和博&有吉弘行&カンニング竹山、
<出川ファミリー>出川哲朗&よゐこ&ウド鈴木&千秋、
というメンツだった。
天下人になる前の有吉さんがいたようだがほとんど記憶にはない。出川さんが今みたいに好感度が上がるちょっと前だったような気がする。観覧に来ていた女性客からうれしい悲鳴ではないものが上がっていたような気がする。
竜兵会と出川ファミリーそれぞれのチームプレーを堪能し、ザリガニとのバトルを涙を流しながら笑った。あの時のイメージでは出川さんがいちばん印象に残った。
と書いたが昔書いた自分のブログで「竜兵会」で検索してみると、
2008年08月14日に
そういえば、「クイックジャパン」の最新号は「アメトーーク」特集。また「出川ファミリーVS竜兵会」やってほしいな、観覧に行って大爆笑して笑いすぎて泣いたから。芸人としての生き様を魅せてくれた出川さんと竜兵さんには本当にリスペクト。最近、元猿岩石の有吉がおもしろくなっていていい、「アメトーーク」である種復活した感じもあるしなあ。出川さんと竜兵さんは本当に半年に一度ぐらいは見たい。
2009年04月12日に
やばい、色んな映画が今月観たいけど「鴨川ホルモー」「スラムドッグ$ミリオネア」「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」とかあるんだけどこの「上島ジェーン」は観に行きたいなあ。
なんか「その時…上島が動いた 」「ノーマニフェスト for UESHIMA」で爆笑した僕にはたぶん好きな作品っぽいし、やる映画館がシアターN渋谷のレイトショー、ここで観た過去のレイトショーは「ヅラ刑事」「少林老女」とくだらなすぎて笑えるものだったのでちょいと期待。
地獄を見てきて復活した男、ある意味では聖闘士星矢のイッキのような有吉さんも一緒に出てるので上島さんとの絡みはおもしろそうだ。「ノーマニフェスト for UESHIMA」ではかなり爆笑したし。
一度「アメトーーク」の観覧に行ったときが「竜兵会vs出川ファミリー」でその時の竜兵さんと出川さんのリアクション芸人として生き様を見てから尊敬できるというかやっぱり「さん」づけしなきゃって思うようになった。周りのサポートも抜群なのだけどね。
2009年07月16日に
「アメトーーク」のDVDが出たので買おうか迷っててもしかしたらって思ったらもうレンタルしてた。ダメじゃん、売れないよ。ということでレンタルに走った。最新刊の4〜6巻で観たいと思うのは4巻収録の「竜兵会」、五巻収録の「出川ナイト」、六巻収録の「板尾創路伝説」だった。これが一巻にまとまっていたら即買いなんだけどなあ。
で「出川ナイト」を見たかったので五巻を借りた。五巻には「エヴァンゲリオン芸人」と「ひな壇芸人」と関根さんのモノマネが、でも「出川ナイト」だけを見た、「出川大陸」とか久しぶりに声だして笑ってしまった。他は一切見てない。「出川ナイト」だけ繰り返し見た。これに「竜兵会」と「板尾創路伝説」があったら最高なのに、きちんとバラして収録してる。わかってるなあテレ朝というよりはプロデューサーの加地さんだっけ?「ロンハー」でもプロデューサーの人。
本当にDVDに収録してほしいのは一度だけ観覧に行った「竜兵会vs出川ファミリー」の回。あれは笑いの神が降臨してた。
2009年07月29日に
「アメトーーク」DVD4巻を借りたのを見る。「ガンダム芸人VS越中四郎芸人」「ハンサム芸人」「竜兵会」が収録。「ハンサム芸人」は放送時に見て面白くなかったので飛ばして一度も見なかった。「ガンダム芸人VS越中四郎芸人」はやっぱりケンコバさんが面白いって!!、やってやるんだって!のノリを通していて面白いし、ガンダム芸人に土田さんと品川さんがいるので安定感があり面白かった。
「竜兵会」はメインというかリーダーなのにイジラレる竜兵さんと周りのチームワークがいい、「出川ファミリー」と同じく「アメトーーク」らしい企画でまたやってほしい。
2009年10月23日に
「アメトーーク」はスペの残りというかある意味ではレギュラー放送はお休み的な「中学の時イケてない芸人」で、これは共感する人は多いだろうな、面白いし。僕は高校の修学旅行の時にずっと部屋で友達と金かけて大富豪してたな。
以前に糸井重里さんと森達也さんが本の出版記念トークで糸井さんが「アメトーーク」は面白いと森さんに勧めてたけど「ほぼ日」で糸井さんと番組Pの加地さんの対談コーナーが出てきた。
一度「アメトーーク」の竜兵会vs出川ファミリー観覧行った時に加地Pを観たけどめっちゃ番組中に笑ってたのが印象的だったな、笑い好きな人なのがわかるっていうか、あとすげえ背があるのに細いから記憶に残ってた。
2009年11月07日に
「アメトーーク」の「TKFたむらけんじファミリー」を見る。この「ファミリー」シリーズでは「竜兵会」「出川ファミリー」と並んでファミリーの長である人物が後輩やそのファミリーの一員に逆に可愛がられている感じがする。
芸人さんのバラエティにおけるひな壇でのポジショニングなどは一般社会においてもかなり参考になる。自分をいかに客観視してその集団における自分の仕事をいかにこなすかという部分で芸人集団は個々の力が弱くても団結力で倍増させる。
が、一般の会社に当てはめる時に問題になりそうなのがトップだ。バラエティならば司会がいかに仕切るかという力量によって芸人集団の力量は発揮できたりできなかったりする。ここで誰に振るか、合図を送って前に出すか等は場の空気を読めて流れを構築できる人物でないと辛い。
多々、できない人物が司会な場合には周りの芸人集団がそれすら手伝うか、補佐的な役割をする。一般の会社では使えない上司のために被害を被るのは部下でしかないし、普通は補佐できない。
ファミリー的な集団を形成する芸人のボスであるたむらけんじさんや上島竜兵さんに出川哲朗さんは基本的に仕切りが上手いというわけでもないし、トークがそれほど巧いわけでもない。しかし、周りに人が集まると言う人望があるというのは彼らの才能だったり実力だろう。
仕事もできなくて人望もない人間には人はついて行かないが、人望で人はついてきたりする。そうやって人が集まるという磁場を作れる人は周りの補佐や助けによって成功したりする。
年功序列や終身雇用制というシステムが崩壊していっているのに、就職した若年層はそれを強く求める傾向が出ていると言う。同じ会社に定年まで務めたいと思う割合がロスジェネ世代が就職した時期は低くなっていたのに対してそれ以降の世代で就職した若年層は一気に上がる。
不安が勝る時代に安定することを望むのは当然の事なんだろう。そういう時代に先輩が後輩を可愛がり、後輩が先輩を慕う芸人の集団の中に古き良き会社員の上下関係が垣間見て微笑ましく羨ましく思う人は多いと思う。
だけど彼らは同じ事務所に所属していても基本的にはフリーランスのような仕事で実力や才能、おまけに運がないと売れない。しかも芸人と言う職業はまったくもって超不安定な職だ。人気稼業は超が付く不安定さ。
普段可愛がっていても実力がないものはテレビにも呼ばないし出せないという現実がある。というシビアな部分が背景にあるのも事実。
まあ、大事なのは人に可愛がられる程度の愛想ぐらいは必要ということだろう。まあそれが時に徒になるタイプの人もいるけど。
圧倒的なカリスマ性があれば嫌でもいろんな人が近づいてくるだろうけどほとんどの人にそれは皆無だから、愛想ぐらいは必要だろうなと「アメトーーク」を見ながら考えてみたりする。
2014年05月26日に、
「格付けしあうマンガ家たち」というのが出てきたので話は少し逸れて加地倫三著『たくらむ技術』(新潮新書)の話を、まあそれが「格付けしあうマンガ家たち」の元ネタに繋がるわけで。
加地倫三という名前にピンとこなくてもテレビ朝日の『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』のプロデューサーだというとピンとくる人もいるかもしれませんし、両番組でスタッフなのにたまにテレビに映っていて指示を出してたり爆笑している人です。
この間の『ロンドンハーツ』スペシャルのドッキリVTRで酔っぱらったターゲットに呼ばれたロンブー淳さんが部屋に入ってきた瞬間に、加地さんは理由をひとことも話すことなくアイコンタクトをすると、それで淳さんは「ああドッキリね、了解」と理解したという瞬間が放送されていて改めて「この人たちとんでもない信頼関係と共犯関係を続けてるんだな」と思わされました。
新書では勝ち続けるために一定の負けをしておくとか、勝っている時にきちんと次の一手を打っておくとか、気配りやしたいことのために必要なスキルや言葉遣い、行動などについて書かれているが面白いことをするために必要なものとして体験から書かれているのでもちろん納得。
まあ実際に番組も面白いしそういう裏側がしっかりあるんだなと得した感じです。
一度『アメトーーク!』の観覧が当たって「竜兵会vs出川ファミリー」を観に行った時に涙が出てひき笑いになってしまうぐらいに笑いまくったんですがその時フロアにいた加地さんもかなり視界に入りました。
ステージというかスタッフの中では最前線にいる感じでカンペ出しながらすごく笑って楽しんでいるのを見てこの番組が強い理由がわかったような気がしてたんですが新書を読んでさらに納得したというか。
そりゃあ面白いものに貪欲な人がプロデューサーで演者と意思疎通してれば強いわと。
仕事論でもあるけどやりたいことをするために何がプラスαできてるとうまくいくかって考えるきっかけになる一冊でした。
だから『ひらマン』と共にオススメです。
ということを書いていた。この頃、特にゼロ年代後半は「アメトーーク」にめっちゃハマってたんだろうなと思う。こうやって残っているとあの時ってどうだったんだっけなと読み直せるのはありがたい。
この「竜兵会vs出川ファミリー」の前にも僕は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の「山崎邦正VSモリマン」の観覧にも当たって観に行っている。たぶん、この二つを生で観たということはお笑い好きな人には自慢できることだろう。その何年かあとに下記のようなことを書いていた。
2008年04月14日に
「ガキの使いやあらへんで」の毎年恒例「さようなら山崎邦正」をバイトから帰って朝一で見てます。
この人の顔芸っつうか顔はおもろいっすわあ。
山崎さんがおもしろくないという人はたくさんいるけども、実際にオモシロクないことが多いけども、存在がもうおもしろい。 正直昔は彼を見てもなんで出てるんだろうと思ってました。
年齢を重ねるとどんどんおもしろくなっていってます。最近は彼の作った顔だけでツボにハマります、たぶん病気ですね一種の。
昔松ちゃんがこんなニュアンスのことを言ってました。「山崎邦正というすべる、おもしろくない(松ちゃんから見たらおもしろいが世間的にはおもしろいと思えない)芸人がいることで他の芸人が活きる、おもしろくなる」と。
これは一般的な組織にも言えると思うんです、釣りバカのハマちゃんみたいなもんでしょうか。仕事はそんなにも出来ないけど場の空気をよくする人、みんなから虐められるのではなくイジられる人っていると思いますが、今の社会ってそういう人はいらないわけですよね。
仕事ができれば問題ないみたいな、となればそういう人だけの会社の人間関係は競争相手だけの世界でギスギスしたものになってしまうわけです。
人間はストレスを溜めると当然どこかが悪くなるわけで、今の状況はみんながストレスを溜めやすい環境なんでしょう。
バカすぎる親やクソなPTAがお笑い番組の罰ゲームに苦情を言います。子供が真似するだろうとかイジメを助長してるだの、そんな屑みたいなことを平気で言います。子供がテレビ局のスタッフが作った罰ゲームそのまま実践できるわけないしできたらそいつはすぐに大道具とかとして就職したらいい、真似するのは親の教育ができてないだけで良識のある子供は例え真似しても限度を考える。テレビ番組見てイジメするやつは見なくてもイジめるだろうしね。
罰ゲームでクレームを言うことでお笑い番組の企画がどんどん潰れていきます、そのことで飯が食えなくなった芸人は死活問題です。それはイジメではないですか?正確に言うとイジメどころか職を食を奪ってます。そのことまで考えてる親やPTAはいるんでしょうか?僕は不思議です。やってること矛盾してるし、考えてなさすぎて逆に笑える。
芸人さんは罰ゲームで痛い思いしても笑い的にはおいしいと思ってます、そういう職業だから。それを理解してない奴がお笑い番組見て平気でクレーム言うとか愚の骨頂だと思うんだけど。
僕が人生で一番笑ったのは山崎VSモリマンの観覧に当たって生で対決を観た時です。前々回ですかね。ごぼうで殴られる邦正さんを見て涙が出まくって爆笑しました。収録の後には顎が痛くて腹筋も痛いほどでした。折れたごぼうが足下に転がってきて見たら太くてびっくりしましたが。
もしあの番組見てごぼうで友達殴るような小学生いたら逆にすごいけどね、学校にあんかけ持っていってかけてるやついたら拍手するよ。
テレビがつまらなくなったのは作る側と見る側のレベルの低下でしょ、テレビ局は冒険しなくなったし視聴者は文句ばっか言うし、なんかどうしても法律にしろなんにしろクリーンにしたがる奴がいるんだよなあ。
澄んでキレイすぎる水には何にも住めないのに。清潔にしすぎたら逆に抗体なくなって菌に対する抵抗力なくなるし。そういう状態で抗体も抵抗力もないのに強力な何かに出会ったら人間は一気に持ってかれるよ、思想にしろなんにしろね。ネット規制しようがガキにエロ本見せないようにしたって、ある程度のこと逆に知らないと年取ってから知った時に暴走する。
たぶん、最近の若手芸人が好きではないのは暴走しないからなんだよなあ、良い意味で礼儀正しくて予想の範疇の中にいて、見ててハラハラしない。誰もダウンタウンにケンカを売らない、から誰もダウンタウンを越えられない。ダウンタウンのファミリーでもある今田・東野さんは昔暴走しまくってて今はあんまりしないけど、トークレベルと芸人いじりが半端なくうまいし、芸人を活かせている。
ダウンタウンの功罪はあまりにも完全に天下を取ってしまったから下の世代(影響された世代)がファミリーに入るか憧れの存在で誰もケンカを売れなくなってしまったことで台頭する下の世代がいないこと、僕ら思春期に完全に「ごっつ」を見てた世代(なんかロストジェネレーション世代と一致するような気も)があまりの強力な毒で彼らの笑いが価値基準になってしまっていて下の世代とか(でもナイナイは違う、ナイナイはダウンタウンに反旗は翻してないが、逆に怖れている感じ(岡村さんの浜田さんに対しての)もあるけど吉本ではナイナイは別格扱いされてるし、僕らは「めちゃイケ」が「めちゃモテ」時代から見てるから共に育った感じはある)お笑い番組で笑えなくなったことなんじゃないかなって思う。
ロストジェネレーションと「ごっつ」リアルタイム世代ってほぼ一致してると前から思ってるんだけど誰か研究とかしてないのかな。
今とあんまり変わらないというか、違う部分もいくつかあるけど、この時期はまだ松本病との距離感とか客観視できてない頃だろうなと読み返すと思う。
でも、こういう思考はある程度は残っているし、こういう最後のガラケー世代(『あちこちオードリー』でニューヨークが言ってたやつね)って基本的には一番生殺しにされていくと思う。OSアップデートできても限界があるから機種変して本体ごと変えないといけないわけで、変わるつもりがなくても世の中が変わっていくから、結局スマホ的な身体性に置き換えるか、もはやなにも持たないかみたいな感じにもなるのかな。
5月13日
吉川圭三著『全力でアナウンサーしています。』(文藝春秋刊)をご恵投いただきました。
店頭に並ぶは24日と少し先のようですが、吉川さん発売おめでとうございます!
テレビ局のアナウンサーという職業って不思議ですよね。会社員だけど、タレントのように世間では顔を知られていたりする。そんなアナウンサーという職業を知っている元テレビ局員だった吉川さんだからこそ書けるエンタメ作品になっているんじゃないかな、と読むのがたのしみです。
古川日出男の現在地「時間をさかのぼって、というのは見せかけで」
文章を読むとUCLA で書かれたとあった。トランプが大統領になった年に2017年の1月から3月まで古川さん夫妻は渡米されていた。僕が遊びに行ったのは3月でこのUCLAでの朗読も見せてもらった(聞いた、体験した)のが僕にはとても不思議なことだった。
異国のアメリカの地で小泉八雲が記した「怪談」を古川さんが日本語で朗読している姿を見るというのは時間や空間やいつもの日常から逸脱していて、あの世とこの世の狭間みたいな場所にいるような浮遊感のようなものも感じた。講演と朗読をされるらしいのだが、それを見れない(聞けない)のがとても残念だ。
いま、ちょうど千葉雅也著『アメリカ紀行』文庫本を読んでいて、また、アメリカに行きたいなあと思ったりしている。
初生雛鑑別師だった大伯父のことをノンフィクションでと思って去年ある賞というかコンテストに企画書を出した。最初の書類審査は通過してウェブ面談に進んだけど、あんまり手応えがなくて、いろんなサポート(編集者がついてくれるとか)がつく入賞的な最終3つには入らず、その下のなんか微妙なサポートがつく(編集はつかない)みたいな候補になりましたって言われたので、それじゃあ意味ないからお断りをした。
先日、偶然家の近所で「週刊ポスト」で連載に声をかけていただいた編集者さとばったりお会いした。去年の夏に週刊連載が終わってから家計がずっと沈没しかけているままだ。「週刊ポスト」主催の「小学館ノンフィクション大賞」の賞金はけっこういい。初生雛鑑別師のことをどうしようかなって考えていたところ、ばったり編集さんに会ってしまったので、去年の夏からもらえなくなってしまった原稿料をぶんどるつもりで「小学館ノンフィクション大賞」を取るしかないって思ったんだけど、あと三ヶ月だった。まあ、出すけど。
これ古川さんのことと関係なさそうなことだけど、前に雉鳩荘にお邪魔した時にマイケル・エメリックさんに呼ばれてロサンゼルスに行くって話は聞いていて、「全米日系人博物館」の話もされていた。今回の学会で多少触れるようなことがあるんじゃないかなって思うのだが。
ロスに行った時に「全米日系人博物館」を訪れていたのは、大伯父がお世話になった日系移民の人たちの第二次世界大戦時のことが知りたかったというのもあった。
前に出したコンテストでの企画書では最終的にはノンフィクション本として出して、それを元にアメリカのA24に映像化の企画を売りに行くという青写真を書いていた。
コロナパンデミックになって世界中が自由に行き来できなくなったことで、移民という故郷から離れて違う場所へ向かった人たちの希望や絶望も含めて前よりも考えるようになったのが大きかった。賞金でロサンゼルスやニューヨークに行けたらいいなと夢だけ見ておく。
「小学館ノンフィクション大賞」に初生雛鑑別師の大伯父のことを書いて出すつもりなので、選考委員のひとりである星野博美さんの『転がる香港に海苔は生えない』の中古本をAmazonで頼んでいたのが届いた。何度か書店で見かけて気になっていたけど、読んだことがなかった作品。はじめて行った海外は香港だったけど、返還後だったからここで書かれているのはその前の頃のことだと思う。
5月14日
傘を差して朝散歩。交差点近くの建設中の建物のサイドの外壁みたいなところに液晶モニターがあるのだが、エラーなのか画面がバグっていた。ちょっとだけ立って見ていた。急に画面が乱れたり、大きく動いたあとに場面になにか映ったりしないかなと期待してたのだが、もちろんなにも起きなかった。起きたらまさにSFだったのだが。
九〇年代から二〇〇〇年代の途中までのギャルとギャル男のガングロは、人種問題が大きな声になりにくい(ようにされてきた)日本における、だからこその、虚構の人種的アイデンティティの演出だったのではないか、と思いつく。日本においてヴァーチャルな黒人――あるいは東南アジア人、ネイティブ・アメリカンなど――になる。それは、差別されうる人種性をわざと演出することで、反転的に自らを特権化するという倒錯なのではないか。
ガングロギャルが「男ウケ」を拒否するというのは、女性というマイナー性から人種のマイナー性に軸足を移すことで外部的存在になるということなのかもしれない。ガングロとはつまりジェンダーのrace化だった、という仮説。
なぜ、ガングロ文化は終わったのか。二〇〇〇年代の末に。その頃には、グローバリズム化によって日本でも人種的多様性がいよいよリアルになり、「逆張り的な人種ごっこ」が時代遅れになったからではないだろうか。(千葉雅也著『アメリカ紀行』P153より)
千葉雅也著『アメリカ紀行』と一緒に買っていた平野紗季子著『生まれた時からアルデンテ』を読み始める。たぶん、前に本の名前は聞いていた書籍の文庫版だったので読んでみようと思った。
料理に関する本でいうと前に借りて読んでおもしろかったのは、澤口知之&リリー・フランキー著『架空の料理 空想の食卓』、アンソニー ボーデイン著『キッチン・コンフィデンシャル』がすぐ浮かぶ。『キッチン・コンフィデンシャル』は新潮の新書版で読んだけど、数年前に土曜社から新装版が出ているのでたまに書店で見かける。
僕は料理はまったく門外漢で作ることもほとんどだし、食べに行くということもしてこなかった。ニコラに行くようになって、いろいろと曽根さんたちと話をするようになってから、ああ、しっかりと料理とかお店について二十代から行っておけばよかったと思うようになった。
TBSラジオで『菊地成孔の粋な夜電波』が始まってからシーズン1からずっと最後まで聴いていて、現在も『大恐慌へのラジオデイズ』を聴くためにビュロー菊地チャンネルに加入しているのは、菊地さんが話す内容に惹かれているわけだけど、そこには音楽と食と映画とファッションがあるからなんだと思う。
とくに色気というものに関しては食と性というものは大きくて、人間というのは入口と出口があるひとつの筒であり、それを通過していくものたちによって活かされている。もちろん、音楽や衣服というのものはその筒を包み込むものでもあって、ある種の余計なもの、贅沢なものとして文化や芸術というものはある。
いろんなお店を知っていたり、食べ歩いている人もいるけど、だからといってその人たちが本当に美食家というか、いわゆるグルメな人でもないんだなと思うことも多々ある。その人が書く文章に色気があるというわけではない、イコールではないと思うのはそういう人たちが書いている文章にまったく色気がない場合があり、男性作家に多いと感じるから。僕ももちろんそうだけど。
おそらくいろんな店を知っているとか食べ歩いている人でダサいなって思うことがあるのって、スタンプラリー的な消費になってしまっていて、ある種ビックリマンシール集めみたいなことになっているからなのだろう。お店やそこの料理人や働く人との関係ややりとりよりもこれを食べました、SNSに写真アップ!どやっ、みたいな自己顕示欲みたいなことになっちゃってるからなのかなと思う。
食における解像度や、性における解像度によってその人が持つ色気みたいなものは深度が変わってくるのだろう。
100円マックとか吉野家とかの牛丼の安すぎる価格とか食のデフレ化っていうのは日本経済の失われた30年、というか平成以降ずっと下り坂で賃金も上がらずに、他国にどんどん置いていかれる中ではありがたいことではあったわけだけど、そのせいで不景気とかマジでやばいぞみたいなことを隠すことに、勘違いさせてきた一因にもなってきた。
価格が安いことが悪いわけでもなくて、その価格帯における高低差のグラデーションが感じられなくなっていく。お金があればそのグラデーションは気分次第で味わえるけど、ない人は低価格帯のところだけにしか行けないから断絶はどんどん広がっていく。
Kendrick Lamarニューアルバム『Mr. Morale & The Big Steppers』
夜のリモートワーク中はずっとKendrick LamarのニューアルバムをYouTubeで聴いていた。配信だけなのかな、アルバムはCDとかでは出さないのだろうか。このアルバムの破壊力、カッコよさとかほんとうに凄い。Kendrick Lamarの王朝はしばらく続くだろうなと思うし、やっぱり今の時代のキングオブキングなのだろう。ワールドツアーとか発表されていたが、もちろん日本にはきてはくれない。
5月15日
The Smile - You Will Never Work In Television Again
ちょっとしたことでやる気はなくなってしまう。というわけで起きる時にはいろんなことが連鎖的に関係なく発生して心をざわつかせる。とりあえず、怒っても仕方ないことはできるだけ心を平穏にして読書をする。一週間ほど放置プレイしていたトマス・ピンチョン著『競売ナンバー49の叫び』の続き。中盤すぎておもしろくなってきた。たぶん、なにかの焦点が合ったのかなと感じた。
BGMはThe Smileのアルバム『A LIGHT FOR ATTRACTING ATTENTION』をずっとリピート。音楽はサブスクで聴いていない。iTunesでリリースしていたシングルはすでに購入していた。アルバムにもそれらの曲は含まれている形なので、700円ちょっとで残りの9曲ぐらいが購入することができた。シングルもそれぞれの情報をアルバム名に編集したり、トラックナンバー入れたりアルバムカバーを手動で変えたりするのはめんどうくさいが。
もうすぐ『競売ナンバー49の叫び』が読み終われば、発表された年代順に読んでいるので、次は『重力の虹』になる。そのあとは『ヴァインランド』『メイスン&ディクソン』『逆光』『LAヴァイス』『ブリーディング・エッジ』という流れ。
1990年に出版された『ヴァインランド』に関しては、それ以前に二度取材を兼ねて来日したという噂もある。この辺りのことをネタみたいに入れて書いている日本の小説家ってひとりぐらいはいそうだが。
<菊地成孔の日記2022年5月14日午前5時記す>
石野陽子、優香という2人のパートナーを持っていた頃が絶頂期で、現いしのようこは絶頂期(深夜帯固定ではなかった頃の)「志村けんのだいじょうぶだあ」と「志村けんはいかがですか?」で退任、優香は「SHIMURA-X TV」(99~)から「志村笑!(~2014)」まで実に15年弱に渡ってパートナーを務め、2年後の16年に結婚。「志村座(2015)」から志村はパートナーを失う。
僕は、(愛する。として良いと思う)パートナーを失った2015年からの5年間が、志村けんの肉体と精神を蝕んだと思っている。<独身貴族、女優との浮名、酒飲み、愛煙家>という、よくある属性が、とうとう番組の画面の中にまで侵食し始めた時代である。
優香勇退後の「志村の時間」「志村の夜」では、「酔っ払ってセリフが落ち、そのまま真っ赤な顔の苦笑でコント終了」というテイクさえ当たり前になってくる。後の、感染症に対する免疫の弱さ、既往症による生命力の弱体化は、この時期、急速に進む。繰り替えすが、それは、久米宏がいない「テレビスクランブル」の、横山やすし謎の死亡までの数シーズンとのシンクロを見立てることさえできる(ここまでの流れに、特に、志村のもう一つの座長番組「バカ殿」は、敢えて含めていない。横山やすしに「バカ殿」があったら演芸の世界はどうなってただろうか)。
パートナーとしてのミューズがいると生き生きと力を発揮し、いなくなると自滅してしまう。というのは、特に珍しいことではない。志村けんが、あまりにオープンに正直に開放しただけだ。
この流れに、「ミューズではないが、支えた舎弟」の存在が浮かび上がってくる。その筆頭が上島竜兵に他ならない。
僕は今でも、男性で志村へのご奉公を貫いたのは上島だと思っている。しかし、志村の体調の劣化=自滅化に伴い、カンフルとして投入されたのが、千鳥の大悟とアンタッチャブルの柴田である。両名は志村一座最後のシリーズとなった「志村でナイト(18)」から、<絶頂期にある若手芸人のトライアウト(大悟)>、<謹慎が解けた状態からの、緩やかな芸能界復帰(柴田)>といった意味合いで実験的に投入され、しかし両名はレジェンドである志村と、めざましいケミストリーを見せ、結果として「看取った」形になる。
大悟は、<酒とタバコと女>を、半ば戯画的にキャラクターとしているが、芸風は明らかにダウンタウン松本人志を後継している。「テレビ千鳥」で見せる、大悟のノブいじりや、狂気のセンスは、松本による浜田いじりの正統的後継だが、<酒とタバコと女>というキャラクター(それはーまさに当世風にーギミックではなくリアルなのだが)と、マーケットのダウンタウンを知らない世代の増加によって、表面化しているのに可視化されない。
こうして、大悟が現在、悠々と保ち続けている万能感にも似た力は、ダウンタウン松本のセンスという極左と、志村けんを<師匠>と呼び、最後の飲み友達として志村を看取り、番組中に飲酒や喫煙する逸脱を芸として見せている、という極右の、両極を併せ持った帝国感に他ならない。
菊地成孔さんの日記、今回は「芸人批評」について長く書かれていた。(上記の引用部分で千鳥の大悟さんの名前が「大吾」になっていたのでこちらで直しています)
小林信彦さんの喜劇人批評の話から、紳助竜介の亡き松本竜助の演技、GSグループの中から出てきた沢田研二、井上純、堺正章といった演技者との活動、その中から大穴として岸辺一徳が勝ち上がるサーガとその驚き。
ダチョウ倶楽部と出川さんと江頭さんのそれぞれの話になり、志村けんさんの話になっていく。
志村さんに関してはパートナーとしてのミューズ(石野陽子、優香がいた時が絶頂期として)、そしてミューズがいない期間に支えた舎弟としての上島竜兵を挙げている。
志村さんと上島さんの役者との可能性と存在感、また、最後に座長としての志村けんに対してのカンフル剤となった千鳥の大悟さんとアンタッチャブルの柴田さんという二人が看取った形になったこと。
大悟さんは極左としてダウンタウンの松本さんのセンスと極右として志村さんを師匠と呼び、「酒とタバコと女」嗜むことで両極を併せもった帝国感という話。たしかに大悟さんの無敵感は『ドラゴンボール』における父は孫悟空なのに、師匠はピッコロという孫悟飯的なハイブリッドであるようにも思える。つまりそこには過ぎ去った「昭和」と「平成」があり、同時代の人は普遍的でノスタルジーを感じさせ、若い世代には新鮮にうつる存在になっているのかもしれない。その意味でも相方のノブさんはやはり年々浜田雅功化している(ツッコミなのに天然的なボケが発動し愛されキャラに転化している)、そして浜田さんとは違ってツッコミだが暴力性は排除されているのは現時代的だし、いい意味でミーハーだからこそ時代との波長が合う(そのため、大悟さんの時代錯誤的な価値観と真逆になって笑いを生む)。千鳥が天下取りに近づいている理由がわかるような気がする。
最後は上島さんの演技と阿部サダヲさんの演技の話になっていく。初期三人だった「グループ魂」は「サブカルのダチョウ倶楽部」だと思っていたという話が前フリになっていた。この日記は読んでいておもしろいし、菊地さんの芸人批評の長いのが読みたいと思ってしまう。
5月16日
仕事を15時過ぎに早上がりしてから、散歩がてら恵比寿まで歩いていく。雨はありがたいことにほとんど止んでくれたので傘はいらなかった。
コロナパンデミックで二度延期したTHUNDERCAT来日公演初日。ガーデンホールで密を避けるために一日の公演が1st setと2nd setの二部制に分かれた。しかし、いつの間に恵比寿ガーデンホールは東京ガーデンホールに名称が変わったんだろうか。床にテープでマスが作られてひとマスに一人ずつという感じになっていたが、左右ギリギリな感じで密だったのだが。ほんとうならフルで入れちゃったらパンパンになっていたのだろうけど、これだったらもう少し余裕が欲しいと思ったのは事実。
二部制に分かれたから、入場するまでもろもろグダグダで、運営!と思ったけど整理番号は早かったからまだよかった。1st setと2nd setのどちらを選びかというメールが来たのでGoogleの解答を送れるやつでおくっていたが、そのまま返信はこず、ZAZIKOのチケットでは1st setの時間帯になっていたのでそちらで入ろうとしたら、返信メールのステージがわかるものがいると言われて、もう入場っていうところで別の受付に行かされて、解答されないですねって言われて代わりに半券みたいなものをもらって、それと一緒に入場した。なんかチグハグというZAIKOのチケットで1st setの時間帯で表記されてるんだから、もうそれでよくない?と思った。すぐにその半券回収されるし、なんだかなって。
二度のライブの延期の間にTHUNDERCATはグラミー賞を受賞している。彼がもともと日本好きなので来日してくれたわけだが、違うアーティストだったらランクが上がったりしたらどうなったかわからない。普段行くライブとあきらかに客層が違う。年齢層も上だし、大人っぽいというか二十代とかが相対的に少なく感じた。音楽のジャンルも関係はしてるとは思うが。ちなみに海外のアーティストを観るのは韓国のロックバンドHYUKOH以来。
1st setステージはたぶん二時間近くあったんじゃないかな。次の2nd setの入場が20時半からだったが20時過ぎまでは演奏していた。アルバムで聴いていて好きな曲も何曲も聴けたのは嬉しかったが、なによりもサンダーキャットの超絶六弦ベースもカッコよすぎて笑っちゃうんだが、それに加えて盟友のドラマーであるルイス・コールのドラムもとんでもなかった。ほんとうに気持ちのいい演奏で、リズムに気づいたらのって踊ってしまう、魔法のようなリズムが鳴っていた。この二人プレイヤーとしての次元が違いすぎる。ほんとうにライブで観れてよかった。
Thundercat ft. Louis Cole & Genevieve Artadi - Satellite [from Insecure - Season 5]
5月17日
『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』の35歳問題に心が揺さぶられてしまい、劇場で2回観てしまったおかげでTOHOシネマズのシネマイレージポイントが6ポイントになり、次回の映画が一回無料になっていた。
TOHOシネマズ日比谷が入っている東京ミッドタウン日比谷の一階に眼鏡屋のアイヴァンが入っている。去年の3月に新しいメガネをそこで買ってから何度か落としてしまい、フレームにヒビ入って割れてしまっていたので、その交換も兼ねて、『シン・ウルトラマン』をTOHOシネマズ日比谷で観ようと思っていた。シネマイレージポイントで鑑賞料金の1800円は無料になっていて、IMAXのシアターでチケットを取っていたので、IMAX特別料金の500円のみを追加で支払っていた。なんかそれだけだと申し訳ないのでパンフも買った。「ネタバレ注意」となっていたので、観る前に読むのは諦めた。
家からTOHOシネマズ日比谷まで歩いて2時間ぐらいかかった。途中、首相官邸や国会議事堂の横を歩いていったがさすがに出勤時間と重なっていたので、省庁に勤めているであろう人たちがたくさん歩いていた。そこから『シン・ウルトラマン』を観るのはなかなかよい展開だった気がする。
『ウルトラマン』も『仮面ライダー』もリアルタイムでほぼ見れなかった隙間世代なので、どちらにも思い入れはないが、庵野秀明脚本なら観たいというTVシリーズ「エヴァ」放送時に中二だったリアルシンジ世代。平日の午前中だというのもあるが、さすがに客層は50代ぐらいが半数を占めていた。
日本を代表するSF特撮ヒーロー「ウルトラマン」を、「シン・ゴジラ」の庵野秀明と樋口真嗣のタッグで新たに映画化。庵野が企画・脚本、樋口が監督を務め、世界観を現代社会に置き換えて再構築した。「禍威獣(カイジュウ)」と呼ばれる謎の巨大生物が次々と現れ、その存在が日常になった日本。通常兵器が通じない禍威獣に対応するため、政府はスペシャリストを集めて「禍威獣特設対策室専従班」=通称「禍特対(カトクタイ)」を設立。班長の田村君男、作戦立案担当官の神永新二ら禍特対のメンバーが日々任務にあたっていた。そんなある時、大気圏外から銀色の巨人が突如出現。巨人対策のため禍特対には新たに分析官の浅見弘子が配属され、神永とバディを組むことになる。主人公・神永新二を斎藤工、その相棒となる浅見弘子を長澤まさみが演じ、西島秀俊、有岡大貴(Hey! Say! JUMP)、早見あかり、田中哲司らが共演。劇中に登場するウルトラマンのデザインは、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などの美術監督として同シリーズの世界観構築に多大な功績を残した成田亨が1983年に描いた絵画「真実と正義と美の化身」がコンセプトとなっている。(映画.comより)
『シン・ゴジラ』の時に若手の役人やスペシャリストが集まって、ゴジラ対策をしたように、「禍威獣特設対策室専従班」というスペシャリストたちが「禍威獣」を倒すために活躍するというラインがある。そのメンバーでもある斎藤工演じる神永が逃げ遅れた子供を助けに行った際に、禍威獣と戦っているウルトラマンの近くにいたためで実は死んでしまっており、その体にウルトラマンが入ることでひとりの人間の身体の中に神永とウルトラマンの魂が共存するという形になる。子供を命懸けで守ろうとした神永の精神に触れた、見たウルトラマンはそのことで人類への希望、滅ぶべきではないのかもしれないと感じ、「禍威獣特設対策室専従班」として行動しながら他のメンバーと一緒に禍威獣と戦っていく。
偽ウルトラマンや長澤まさみ演じる浅見が人間のままで巨大化するなどテレビシリーズで庵野秀明が好きだったというエピソードも入っている。観る前にTwitterでも山本耕史のことが話題になっていたが、外星人メフィラスは作中でもかなりおいしい役でインパクトがあった。メフィラスとウルトラマンの戦いはある存在によって決着はつかずに、メフィラスが退却するという歯切れの悪いものになってしまう。
その存在にとって(一応ネタバレ防止のため)、投下というか地球における人間という存在が他のマルチバースの知的生命体の脅威になるということからゼットンが召喚され、地球はすべて滅ぼされてしまうという展開になっていく。そこでもちろんウルトラマンが戦うことになるが、まったく歯が立たない。そこからは人類の知を結集させることでゼットンを倒す計算式を見出して倒すことに成功する、ヒーローと人類の勝利という感じになって終わる。ウルトラマンは神ではない、だから人類が自分達の力でなにもしないことは生きるということの放棄になってしまい、そして目の前の問題は解決しないという感じになっている。この辺りはやはり『シン・ゴジラ』の終盤を彷彿させるものがあった。その意味ではお仕事ものと言えるのかもしれない。
IMAXの大画面で楽しんで観ることができた。ゼットンのデザインとかは「エヴァ」の使徒じゃんと思ったりもしたけど。めっちゃ絶賛というわけではないけど、庵野秀明さんたち特撮好きがその影響を受けて、作り直すことに成功したことがわかるという意味でもオタクという世代の強さを感じさせるものだった。同時にこれはなにかの始まりという期待感はなく、沈没していく国が最後に見た夢みたいな哀愁のようなものを感じてしまう。
浅見が最初に「ウルトラマン」を見たときに「キレイ」と言ったこと、最後に神永に体を返すとも言える行動をある存在とのやり取りの中で終えて帰ってきた時に、自分が恋をしたかのように思えたあの「ウルトラマン」ではなくなったとどこかでわかったような悲しい顔、失恋に似たような表情をしており、他のメンバーの喜びと対照的だった。そのことを鑑賞後に先に見た友人から指摘されて、なるほどなあと思った。テレビシリーズでおさらいをする方が楽しめる作品なのは間違いないが、見てなくてもある程度はたのしめるのはさすがだなと思う。
「禍威獣」とされたが、「怪獣」というもの自体が自然災害のメタファだと思えば、「禍威獣」が現れる度にどんどんいろんなものが破壊されていく日本、というのはどこかでリアルさを感じてしまうだろうから、まさに今という作品だとも思う。
5月18日
日付が変わってから『競売ナンバー49の叫び』を読み終えて、次の『重力の虹』上巻に突入した。上下巻で1300ページぐらいあるこのピンチョンの代表作とも言えるこの作品を読み終えるのはどのくらいかかるだろうか。ピンチョンの作品は一気に読めるところと全然進まないところがあって不思議。あと歌がよく出てくるのも特徴なのかな。
ポストモダン文学を代表するトマス・ピンチョンのこの作品は百科全書的な知識の織り合わされたものであり、英語圏内文学でもっとも詳しく研究されている一冊と言われている。噂によると二、三回読むとわかってくるらしいのだが。前回は上巻ですぐに脱落したので今回はなんとか下巻の最後まで行きたい。
第一章 赤いエッフェル塔の歴史学
1 ローアングルの鉄塔の系譜学
2 「映画」的なものをめぐる見えない運動
3 板垣鷹穂の「映画的」手法
4 「後衛」たちの鉄塔
第二章 第3村問題と郷土映画
1 『シン・エヴァ』に於ける再「物語」化
2 戦時下に育まれた手塚治虫の映画理論
3 『海の神兵』と文化映画実装問題
4 柳田國男のデータベース的映画論
5 郷土巡礼
第三章 原形質と成熟
1 「成長」もアニメ的「動き」と捉える手塚の美学
2 『シン・ゴジラ』という蛭子譚
3 「変身」「変形」への執着
4 エイゼンシュテインの原形質とゲーテの形態学
5 原形質から生成される人造人間
大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』が来週発売。いやあ、たのしみ。このために『シン・ウルトラマン』観たところもあるし。
戦前から、そして戦中のメディアミックスと映画や芸術がどう戦争に利用され、あるいは利用(アニメ『海の神兵』は海軍だまくらかして作ったものだったりする)してきたのか。
戦争を生き延びた連中はそれを広告に転用してきたというのは今までも大塚さんが書いているけど、庵野秀明作品における鉄塔はなにからの引用なのかということとか映像学としても読み応えがありそう。これに加えて、夏には民俗学シリーズの『北神伝奇』と『木島日記』の今まで書籍化されていなかった三作品の小説も刊行されるし、大塚さんも63歳だし、やりのこしたことをできるだけやろうというモードに入ってきただろうか。
5月19日
青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版をテアトル新宿にて鑑賞。『Helpless』『EUREKA/ユリイカ』『サッド ヴァケイション』と続く「北九州サーガ」の第二作目。中上健次「紀州サーガ」、そしてウィリアム・フォークナー「ヨクナパトーファサーガ」に連なる青山真治によるサーガ、同時代の阿部和重は小説で「神町サーガ」を書いた。
三時間半のこの作品をスクリーンで観るのは初めてだった。昔、レンタルでビデオかDVDで観たはずで、その後、古川日出男さんの小説を読むようになってから三島由紀夫賞受賞作を何作か読んだ際に小説版『EUREKA/ユリイカ』も読んだので、たぶん最初にレンタルで借りてから数年後に小説は読んだのだと思う。阿部和重さんと古川日出男さんの小説を読んだことで中上健次とフォークナーの小説を読むようになったことでより青山真治作品におけるサーガとフォロワーとしての存在は僕の中で大きくなっていた。
ストーリー:ある九州の田舎町で、バスジャック事件が発生した。生き残った運転手の沢井(役所広司)と直樹・梢の兄妹(宮﨑将・宮﨑あおい)は、心に大きな傷を負ってしまう。それから2年が過ぎ、町に戻った沢井は、2人きりで暮らす兄妹とともに暮らし始める。そこに従兄の秋彦(斉藤陽一郎)も加わり、4人の奇妙な家族生活が始まった。
そんな中、彼らの周辺でまたも殺人事件が続発する。沢井は小さなバスを買い、喧騒の町をぬけて4人でゆくあてもない旅に出るのだが...。
20年近く経った今観ても圧倒的な作品だった。遠景からバスや自転車、登場人物たちが走るシーンの映像が素晴らしくて、ショットの概念なんだと思うけど(違ったらすみません)、ほんとうに久しぶりに「映画」という映画を観たなと思えた。
バスジャックと作中で起きる殺人事件というのは90年代後期に日本で起きた出来事でもあり、二十年以上経った今ではどこか忘れそうになっていたあの当時の空気みたいなものが蘇ってきた。やはり沢井が声を荒げてでも、ある人物に「死なんでくれ」という魂からの叫びは僕にもしっかりと届いた。
宮崎あおいだけでなく、デビューした頃の尾野真千子と後の朝ドラ主演女優、現在は名脇役、バイプレーヤーとして多くの作品に出ている松重豊、光石研、利重剛、塩見三省という面々。とくに当時四十手前の松重豊の面構えがよかった。
そして、なんと言っても役所広司がよくて、この前には黒沢清監督『CURE』にも主演しているわけで、役所広司という人のフィルモグラフィを見れば、現在評価されている監督たちの世に出る作品がいくつかあるわけで、しかもその作品が素晴らしいというのが恐ろしい、ぐらいすごい。また、今作に関わった人たちはそのことが誇りになっているだろうな、と思える。
三時間半ほぼモノクロで展開する意味が最後にわかる。
あと秋彦(斉藤陽一郎)とシゲオ(光石研)のやりとりは笑ってしまった。プラス梢(宮崎あおい)の三人は三作目『サッドヴァケイション』にも再登場することになる。もう閉館してしまったシネマライズで僕がスクリーンで観ることが間に合ったのは『サッドヴァケイション』だけだったので、今日スクリーンで観れてほんとうによかった。
青山真治監督作品で家にパンフがあるのは『サッドヴァケイション』と『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』だけだった。『サッドヴァケイション』はシネマライズで観たけど、シネマライズで公開した作品はパンフの四隅のどこかにシネマライズと入ってるから、シネマライズで観て購入したパンフは全部残してる。いちばん古いのは上京後にはじめてシネマライズで観た『アメリ』。
映画を観終わって三茶に帰ってからニコラへ。すぐに家に帰る感じではなかったので、ビールと前菜がてらスナップエンドウ塩とレモンとオリーブオイル、パプリカにつめたやりいかとほんれん草のラグーをいただく。パプリカこんなにも美味しいんだなあ、と前から気になっていたのを食べて至福だった。
5月20日
乙一 &中田永一&山白朝子&安達寛高著『沈みかけの船より、愛をこめて 幻夢コレクション』が出ていた。以前にも同じく朝日新聞出版から『メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション』というのが出ていて、その時にはもうひとり「越前魔太郎」が著者名に入っていた。
乙一 、中田永一、山白朝子、越前魔太郎というのは安達寛高氏のペンネームであり、ある種多重人格者の人格のひとつひとつに名前があるようなものに近いのかもしれない。
ひとりの作家がいくつかのペンネームを使用して使い分けているというのは現在はあまり多くないイメージがある。いるとしても乙一さんクラスの著名な作家でやっていて、ほかのペンネームでもヒット作を出したり、継続的に作品を出し続けているパターンはほぼないのではないだろうか。
タイトルと装丁デザインがいいので、それでもはや勝ちだなと思える一冊。前に主人公たちが海(のような亜空間)の底に向かっていくときに、この装丁デザインで描かれているような感じで、実物の倍以上のサイズのマッコウクジラたちが縦になって眠っていて、ある種ストーンヘンジのような形で浮かんでいるというシーンを書いたことがあったので、ああ、脳裏に浮かんでいた景色に近いなと思った。僕の場合は光とか届かない闇の中で発光するマッコウクジラたちみたいなイメージだったのだけど。
5月21日
ラジオ深夜便 5月19日(木)「雉鳩ノート」27日まで
古川日出男さんが今月ロサンゼルスに滞在(UCLAで基調講演)した時のことについて、アメリカの現在、観にいった舞台の話も聞けていい。日本とアメリカで違う自分で判断して安全を確認するということなどの話。
今、刊行順でトマス・ピンチョンを読んでいるが、舞台がロサンゼルスが出てくることも多いので親近感。僕も2017年の3月には古川さんご夫婦に会いにロサンゼルスに行き、UCLAに連れていってもらったことがあるので、このラジオを聴いていたら、また行きたいなと思う海外はまずロサンゼルスだなと思った。
古川日出男が語る、いま『平家物語』が注目される理由 「激動する時代との親和性」
古川さんのインタビューの前編が公開されていた。いろんなところで『平家物語』現代語訳をかくきっかけなどを話されているが、来週には映画『犬王』が公開されるので、ある程度の取材とかインタビューは収まっていくのかな。目の手術をしてからニット帽をかぶらず、眼鏡をしていない時の写真が増えたかな。
ピンチョンの『LAヴァイス』にしろ、デニス・ジョンソンの『煙の樹』にしろ、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』とかベトナム戦争が残した傷跡や戦地での小説を読むと、今の日本は近いものとして考えられる気になってくる。もう、日本自体が目に見えない焦土化している。
まだ、ベトナム戦争は民主主義の力やジャーナリズムで大統領とか政府が隠していたことを暴いて、終結させたし、大量破壊兵器をでっち上げてイラク戦争を起こしたことについても映画だったり小説でも書かれている。検証されている。機密文書とか破棄したら、基本的な根本が壊れる。信用できない国になっていることに気づかさないための「祭り」を続けようとしている。ドラッグとしてのオリンピックと万博にヘイトに。外に出る人が多いわけじゃないから、取り残されていくことに気づけないままドラッグ漬けにされる。海外の映画でもいいし、小説でもいい、外からの芸術に触れてる方がまだ気づける。ただ、それはもうインテリなハイソなものになってしまっている。
地獄を見てPTSDになったベトナム、イラク帰還兵とかみたいな状況に経済大国から転がり落ちたことを信じたくない人たちはなっているように思えてくる。まあ、自分が狂ってしまうから世界がおかしいと思わないとやっていけないし、差別主義者にならないとしょうもない自己を守れないから中高年がもろにそっちに流れる。社会や国に安定や自分の存在意義なんか求めたら、あるのは格差だったり階級という上下を作ることに参加させられるだけじゃないか。
しかも、上にいけるような人間は自ら手を下さないよ、数字だけにとらわれて、本質を見ようとしないから何十万売れているコピペ本が数千部の小説より素晴らしいと平気で言う人たちがいる。その程度の「私」しか誇りしか持てなかったのは社会のせいなのか、時代のせいなのかは知ったことではないけど。
敗戦後に、僕は終戦じゃなくできる限り敗戦と書くけど、それまで日本国万歳と言って米国鬼畜と言っていた人たちが、アメリカは素晴らしいとコロッと態度を変えたことに、当時の子どもたちは違和感や大人は信用できないと思ったという話は読んだり聞いたりしてきた。
上記で書いたような人たちは、なにかのきっかけで、それは敗戦のような出来事になるんだろうけど、きっと態度を急変させるだろう。悪いのは自分ではなく、国や社会やメディアだと責任転嫁するだろう。そんなものだと思う。まあ、死ぬまでドラッグ漬けな人の方が多そうだけどね。
でも、自分の子どもや孫とかにそんなだせえ姿を見せるってこととかなんにも思わないんだろうか。僕とか結婚もしてないし子どもいないけど、自分の友人知人の子どもとかにそういうダサい人間に見られたくないって一応思うけどな。
やっぱり粋だとかの美意識ってやせ我慢の部分もあると思うんだよね。そういうカッコいい大人がいなくなったってことも大きいんだろうな。メルマ旬報用の日記のメモ代わりに書いてたら長くなってしまった。
3年前の2019年の5月21日にフェイスブックにこんなことを書いていた。
佐久間 上に立つ人の姿でいうと、本には「(最高の料理人は)ふだんから普通のように振る舞っているから、見つめる人にしか本当のすごさはわからない」と書かれていましたね。
斉須 そう、普通の人。「すごさ」を誇示したりしない、普通に生きている人なんです。ちょっと地味に見えるくらいなんだけど、忍耐力があって、決断力もあって……「すごい」ってこういうことなんだと、フランスで学びました。
とくに3店舗目でお世話になったレストランのオーナーは、ほんとうに優れた人でしたね。素材の買い出しに自ら行く。それを僕らに見せながら「これでよかったかい?」と聞く。それでお礼を言うとね、「ありがとうは私のほうだよ」って返してくれるんです。「私のために働いてくれているんだから」って。
佐久間 うーん、かっこいい! 威圧的になってもおかしくない立場で。
斉須 しかも東洋から来た、どこの馬の骨かもわからない若造にです。ほんとうは資産家なのに一切むだ遣いもしないし、慎ましやか。こういう人がいるんだって、12年間でいちばんの驚きだったかもしれません。
「才能だけでは押し切れない」、「ずっと現場」。佐久間宣行が“生き方”を教わったシェフの哲学
テレビプロデューサーの佐久間さんが仕事のやり方の影響を受けたというふれんつレストランのオーナーで料理人である斉須さんの対談。とてもいい、これをメガネブランド「J!NS」が母体のウェブサイト「J!NS PARK」で公開しているのもおもしろい。
5月22日
散歩がてら行った蔦屋代官山書店の料理関係の本が置いてあるフロアで前日に読んだ佐久間さんと斉須さんの対談のことを思い出して、『調理場という戦場』文庫版を探したら面出しな感じで数冊置かれていた。ある種の定番として読み継がれているのだろうなと思った。
古川:そうですよね。だからさっきの『平家物語』の話に戻ると、『平家物語』というのが、いろんな人が関わって作るひとつのマトリックスだったとしたら、すごく不思議なことに、僕が書いた『平家物語 犬王の巻』もまた、いろんな人がその人なりに取り組んでいく作業のマトリックスになってしまったという(笑)。たとえば、野木さんがこの原作から、登場人物を2人に絞って、彼らが出会って交流を重ねながら最後のステージになだれ込むまでの脚本を書いてくれたり、湯浅さんが僕では描写しきれない犬王の動きを、自分の予想の何倍も上回る形でビジュアライズしてくれたり……みんなが、ある意味、寄ってたかって生産的なことをしてくれたわけです。普通、寄ってたかると搾取しちゃうんですけど、寄ってたかってクリエイションしちゃったっていう(笑)。それはもう、ありがたいとしか言いようがないですよね。
古川:もし、僕の現代語訳が、今おっしゃられたような「定本」みたいな形になるとしたら……ひとまず『平家物語』が戦争礼賛の話だっていうイメージは、もうここから数年で全部覆されるのではないでしょうか。『平家物語』というのは「軍記物語」だから、戦争礼賛の話だと思われがちだけど、実はある意味、反戦文学であり……戦争か平和かという話ではなく、それとは別の何かを描いた物語なんだっていうことがわかったっていう。
古川日出男が語る、新たな『犬王』の誕生 「ある表現者の架空の自伝という思いで書いた」
古川さんのインタビュー記事の後編が公開されていた。『平家物語が』が反戦文学であるというのは、ノンフィクション作品『ゼロエフ』の終盤でも語られるのだけど、個人的には『平家物語』現代語訳と『平家物語 犬王の巻』と『ゼロエフ』は書店とかで一緒に並べて欲しい。
寝る前に『鎌倉殿の13人』最新話を見てしまい、源義経と彼の周りの人たちの最後を見ていたら、自然と泣いていた。もともと涙もろかったけど、この所さらに涙もろさに磨きがかかっている気がする。年のせいなのか、精神的に弱っているのかはわからない。ただ、確実に涙もろくはなっている。条件反射的に悲しいシーンで泣いてしまうタイプだと自覚はしていたが、最近はやはりひどい。
最後まで天才軍師として、戦うことが生き甲斐だった男として源義経を描いたのは素晴らしかったし、静御前の女としての覚悟の見せ方、正妻の里の嫉妬なども含めて、多くの伏線が回収されていた。最後に源頼朝が届けられた義経の首がはいった首桶を抱きしめながら、平家をどうやって倒したのかを話してくれ、と物言わぬ、死んでしまった弟に語り掛けるのはどうしても涙を誘う。今作において三谷幸喜脚本はずば抜けて素晴らしいと唸るしかない。
5月23日
羊文学「OOPARTS」Official Music Video
アルバムを聴いて気になっていた曲のMVがアップされていた。
寝起きに見た夢が少しいつもと違って変だった。道路のような場所を車のようなものが走っていると思って見ていた(見えていた)ら、人の顔が走ってきていた。トラックの荷台にかなり大きめの顔だけが乗っている、そんな感じ。その顔には見覚えがあった。女優の夏帆さんとしか言いようのない顔であり、なにかのタイミングで車というか走っている向きが変わり、僕には見えていた右側メインではなく、Uターンのように左右が入れ替わり、左側がメインになってさっき来た方へ走り出した。その際に顔は夏帆さんではなく吉岡里帆さんの顔になっていた。二人とも好きな女優さんではあるが、似ている顔のタイプには思えない。不思議だなあと夢の中で思ったら、目が覚めてベッドの上だった。僕の深層心理はいったいどうなっているのか、いつも見る夢はもうちょっと抽象的だし、有名人とかが出てくることはない。見ているかもしれないが覚えていない。ちょっと変な夢、顔だけが走っていくというのも普通に考えたら不気味だけど、そこでは違和感は感じなかった気がする。
その後、起きてからリモートワークを開始した。作業用のノートパソコンは支給されたものを使っていて、我が家にはテレビとか音楽再生用の機械もないので、自分のMacbookAirを近くで起動して画像や音楽を流している。
とりあえず、二話の途中だったParaviオリジナルドラマ『それ忘れてくださいって言いましたけど。』をもう一度一話から最新話の五話まで流していた。出演者のひとりが夏帆さんだからということもある。なぜかおやじギャグのようなものが連発される展開になり、ちょっと萎えた部分があったり、舞台である下北沢のカフェ「CITY COUNTRY CITY」に来るはずの西島秀俊さんがずっと来ないので、スケジュール的に無理で別撮りしたため、他の出演者がいるカフェに来れない設定なのではないかと思ったり、五話のゲストの物理学者役の北村有起哉さんとカフェにいるメンツとのやりとりがおもしろかった。
見終わってからはネトフリで四話まで見ていたアニメ『SPY×FAMILY』を最新回まで流してみた。コミックはたしか二巻ぐらいまで追っていたのでこの辺りは読んでいるはずだが、アニメのほうがコミカルさは増しているようで微笑ましい。
仕事終わってからニコラに行って、いちじくとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドを。一服しながら、この日記の本日分を書く。
今月はこの曲でおわかれです。
MINAKEKKE - Odyssey (Official Music Video)