Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年5月24日〜2022年6月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年06月掲載


先月の日記(4月24日から5月23日分)


5月24日

幸村誠著『ヴィンランド・サガ』26巻。人が犯した罪は許されるのか、戦場で育ち、生きるために人を殺してきたトルフィンの贖いとその生き様が他者の心を動かす。人は変わることができるか、読む人の心の奥の方に響いてくる、ほんとうに素晴らしい作品。


大友克洋著『THE COMPLETE WORKS 4 さよならにっぽん』を購入して読んでいたのだが、タイトルにもなっているシリーズ連作『さよならにっぽん』を読んでいて「あっ、なぜか『気分はもう戦争』と間違えて買ってた」と思った。そもそも『気分はもう戦争』はこの「THE COMPLETE WORKS」シリーズに収録されるのかな。
矢作俊彦原作作品だけど、このシリーズって原作ありのものも入るんだろうか、どうなんだろう。『気分はもう戦争』がもし出るなら、矢作俊彦さんの小説『あ・じゃ・ぱん』も合わせて講談社文庫とかから出してくんないかな。

 

5月25日

太田省一著『放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか』を読み始める。星海社は新書はいい本がちょこちょこ出ている。「三木鶏郎グループ」に大学入学と共に永六輔さんが入ったところまで読んだけど、日本のテレビの歴史ってそもそもまだ百年も経ってない。そういう黎明期に関わった人たちはすでに亡くなったりしているけど、その弟子世代とか覚えている人たちはまだ残っているし、放送作家という人たちのマルチな活躍というのも興味深い。
表紙は鈴木おさむさんと秋元康さんと大橋巨泉さんのイラスト、大橋巨泉さんは幼い頃にわずかばかりだがテレビで見たような記憶はあるけど、実際のところは本当にそうだったのか懐かしの番組を見たイメージなのか判別はつかない。ただ、自分と同じ誕生日の有名人を調べると丸山眞男マルセル・マルソー草間彌生大橋巨泉って出てくるから、クセが強すぎるだろと思うけど、それだけで親近感はある。
帯に名前が書かれている近年の放送作家のところには鈴木おさむ三谷幸喜君塚良一三木聡宮藤官九郎と脚本家としても活躍しているというか軸をそちらに移していった人たちが多い感じ。最近だとオークラさんも『ドラゴン桜2』とか大きな作品の脚本を手がけるようになっている。
放送作家たちが何になったのかということが章ごとに10年代ごとに分けられている。60年代「タレント」、もうひとつの60年代として「小説家」、70 年代が「アイドル時代を作った人たち」、80年代が「バラエティ時代を作った人たち」、90年と00年代は「脚本家」、そして「YouTube」と代表的な放送作家たちがどういう時代を作ったのか、なにと関わっていったのかわかりやすい章仕立てになっている。だから、テレビや音楽、メディアの歴史もわかりそう。

アヴちゃん×古川日出男 インタビュー「徹底的にやることは、美醜関係なくすごみを生む」

アヴちゃん「ストライクでもいいから振り抜くことって、私はすごく大事だと思っていて。でも、たくさんの人が関わる緻密な作品をつくっていると、それが怖くてできないという人も多いと思うんです。それこそ映画って大博打ですし、『その中の冠をやるんだったらちゃんとしてなきゃ…!』と思って、そこでこそブン回す、肩が抜けるくらいに振るっていうことができたのでうれしかったですね」

アヴちゃん「でも、ゼロにかけていくことは、やっぱり狂気だとみんなは感じると思う。『ゼロかけるゼロはゼロじゃん』って思われるけど、ゼロを壊して何者でもない数にしたいって想いが、歴史の中で何かを変えていったと思うんです。『犬王』のような、たくさんの潰えていったものを拾い上げる作品ができたことは、すごく救いですけど、例えば私がここに立つまでに出会ってきた、たくさんのバンドの子たち、やめていった子たち、ゼロにかけて命を絶ってしまった子たち……。そこでやっぱり徒花(あだばな)として、ゼロにかけても壊れなかった、壊れ方がわからなかったまま来ることができた私が、映画の主演をやれるだなんて『日本、明るい!』と思って」

古川「さっきアヴちゃんがした、ゼロをかけてもゼロにならないっていう話が、すごく深いような気がするんですね。醜さを持って生まれた犬王が舞台をやるたびに美しさを少しずつ取り戻していくんだけど、先日、湯浅監督と対談したときに映画の感想として最終的に僕の頭に浮かんだのは『醜×0=美』という式だと言っていて。本当はゼロをかけたのだから美になんかならないはずなのに、ゼロをブチ壊してそこから美を生んだっていう。それが、いろんな彩りの光を混ぜてもドドメ色にならないというアヴちゃんの発想にも近いと思うし、この先何も仕事がないっていうときにも出てきたもの(=曲)があるから今につながっているんだと思う。その『ゼロをかけてもゼロにならないんだよ』っていう想いが一本ずっと筋を通しつづけているから、この『犬王』という映画はカッコいい人がつくっているものになったんだと感じます」

古川「自分が仕掛けたわけじゃないのに、ここまで広まったということは、必要とされるものが始まっているんだろうなと思う。それこそ、ロシアのウクライナ侵攻が始まって、例えばみんな今、反戦って言うかもしれないし、そういう行動を起こさなきゃって思うかもしれない。でも『平家物語』や『犬王』を観てもらえれば、そしたらもう『戦争イヤじゃん。さぁて、どうしたらいいべ? 何かする?』みたいな気持ちになると思う。なので求められているものを、自分が出したいと思うよりも先に世界が『今、世に出ろ』と言ってくれたような感じがしています」

いやあ、全部読んだけどめちゃくちゃいい対談だった。この長さでもWebならアップできるし、かなりお二人の気持ちや創作だけではなく考えも素直に出ている感じで、すごくいい組み合わせだと思う。

 

5月26日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年06月号が公開になりました。56月は『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』『メタモルフォーゼの縁側』『神は見返りを求める』を取り上げています。


水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年5月26日号が配信されました。4月5月に観た映画日記です。『TITANE/チタン』『ニトラム』『ハケンアニメ!』『ベルファスト』『スパークス・ブラザーズ』『カモン カモン』『パリ13区』『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』『北の橋』『死刑にいたる病』『シン・ウルトラマン』『EUREKA/ユリイカ』などについて書いています。


目が覚めて、MacBook Airを開いて昨日放送した番組をTVerで眠気覚しがてら流す。我が家にはテレビがないし、音楽もPCの中のiTunesか壊れかけのiPod nanoしかない。
スマホのバイブが鳴ったので、目覚ましだと思って手に取ったら、電話がかかってきていて知らずに取ってしまっていた。
「あのお、こちらはマコトさんの携帯でしょうか? 私は以前法泉院におりました川村です」
と高齢だと思われる男性の声がした。
マコトは父の名前なので、僕と父を間違えて電話してきたことになるのだが、そんなことそもそもあるだろうか、なんだろう、これと思ったので、一応「マコトは父です。息子のマナブですが、お間違えですか?」と返した。
「あれ、そうなんですか。前にメモしたのがマコトさんの番号だと思ったんですが、すみません」
実家の近くに法泉院という真言宗系の寺院があり、幼い頃は遊びに行ったり、相撲大会があったり、神楽をやっていたりした記憶があった。祖父母もある時期から山の上にある寺院ではなく、こちらにお参りするようになっていた。
祖父の葬式の時にお経をあげてもらったのも法泉院の住職さんだったので、おそらくその人だろうと思った。
だが、わからないのはなぜ僕の携帯番号をその人に、父なのか母なのか、家族の誰かが父のと間違えて教えたんだろう、そもそもそんな間違い起きるか?という疑問があった。
話をしてみると、確かに祖母の名前も出てきて、お世話になったという話もされていて、辻褄はあう。
震災後に実家に帰った際に、祖母の兄の初生雛鑑別師だった新市さんのことを聞こうと思って祖母にインタビューをしたことがあって、祖母の一生についても聞いていた。その時に、祖父が亡くなった頃の話もあって、法泉院の川村さんの話もあり、祖父が可愛がっていて、川村さんも慕ってくれていたと言っていた。それらは文字起こししているので、電話のあとにワードで確認した。
川村さんは祖母が新市さんの話もよくされていたと言われた。間違いなく、この人は我が家のことを知っている。父とも時折話をしていたと言われた。友達がいるイメージがゼロで、サボテンいじりと数独ばかりやっている父にも普通に話す相手がいたんだなと思った。
父は外に飲みにいくこともなく(父の出不精のおかげで我が家は外食に行くことはなく、瀬戸内海に釣りにいった帰りだけ笠岡のラーメン屋のとんぺいに寄ってラーメンを食べるのだけが唯一の例外で、僕が基本的に外食に行くのが苦手なのは幼少期からそういう経験がほぼゼロに近いから)、趣味であるサボテンの知り合いがいるぐらいだろうと思っていたので、会った時にはいろいろ話をしていたと言われて、ちょっと驚いた。
とりあえず、実家の電話番号を伝えてから15分ほど話をしていた。川村さんはそもそも四国にいたが、岡山でも護摩を焚く仕事をするようになってから、法泉院を任されるようになった。その時に、祖父母に息子のように可愛がってもらったのだという。実際に父と川村さんの年はあまり変わらないみたいだった。数年前にやめてから地元の兵庫に戻ったとのことだった。
一応、終わった後に30分ほど経ってから実家に電話をしたら、すでに川村さんから電話がかかってきたらしい。一応、なにがあるかわからないから、実家に電話しといたほうがいいかなと思ったのだが、川村さんは法泉院の昔のことを知っている人から話を聞きたいみたいなことを言っていたらしい。祖母は健在だが101歳ですでにボケがひどくなっているから、難しいだろうし、耳も悪いから電話で長く話すのも無理だろう。実際に会って話をすれば、急にしっかりして話をする可能性もなくもないが。
祖父は亡くなっていて、コロナパンデミックになってから実家に帰っていないので三年以上は祖母に会っていないが、祖父母と時間を過ごした方からの不思議な間違い電話。ほぼ面識がない人との会話でなぜか気持ちが軽くなったように感じた。


コトゴトブックスで注文していた西村賢太著『雨滴は続く』(「西村賢太追悼文集」付き。←は後日別に)が届いた。実は今まで西村作品を読んだことがなかったのだけど、「私小説家・西村賢太」誕生前夜という部分に惹かれて。読み始めたけど、冒頭から引き込まれる。


大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』が発売日なので散歩がてら書店に行って購入。『シン・エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』も鑑賞済みなので、大塚さんによる「おたく」の歴史を踏まえた芸術論を読むのがたのしみ。

 

5月27日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『QあんどA』(前編)では、現在『MIX』を連載している「サンデー」レーベルの月刊少年誌「ゲッサン」創刊と今作の登場人物たちについて書いています。

 庵野秀明の、というよりおたく的な表現の根本的な倒錯はその出自が未来派にせよ、ジガ・ヴェルトフにせよ、彼らがモンタージュ、つまり空間と時間の固定された状態からの「解放」と「編集」を以て観客に体験せしめようとした「事実」を持たない点にある。「事実」は「生活」とか「現実」とも言い換えられる。(『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』P96より)

 


翌日の28 日に公開される映画『犬王』の公開記念イベント『琵琶歌と「語り」の魔術―後藤幸浩(薩摩琵琶奏者)×古川日出男(作家)』を六本木の文喫に聞きに行った。
アニメ『平家物語』とアニメ映画『犬王』について琵琶監修と演奏をされた後藤さんと原作者である古川さんがトークをされた。
琵琶の音やその語り、能の時間の長さ(なぜ現代の能は長くなったのかの推測、かつては現在よりも短かったことは文献などでわかっているので、そこから導き出した理由として教えていく際にどうしても長くなっていき最終的には今の長さになったのではないかと古川さんは話されていた)、そして、歴史(正史)に残されなかった人たちの鎮魂としての物語(語り)とそれを現在に揺らすために持ちうる身体性についてなど話は多岐に渡って、ほんとうにおもしろかった。あと二人の会話のリズムとテンポがだいぶ合っていたのもよかった。 
後藤さんによる琵琶の演奏が最初と終盤で二回あった。琵琶から鳴る音の揺らぎの幅というか、イエスでもノーでもない境界線を行き来するような空間の波のようだった。それは古川さんがずっと書いてきた作品にも僕が感じていたものだ。
最後のふたりのセッション(後藤さんの琵琶の演奏と古川さんの朗読、数時間前に古川さんの朗読も決まったらしく、即興でのセッションとなった)はその場をまるで「此岸」と「彼岸」の狭間みたいな場所にして、二人が僕ら観客を連れて行くようなものに思えた。それはまるで願いを含んだ、かつての者たちへの祈りみたいようだった。
朗読された『平家物語 犬王の巻』のラストシーンの朗読と琵琶の演奏の融合はいろんなものが晴れていくような、心に終わっていた仄暗いものが光に向かうような鎮魂歌のようであり、とても心に響いた。

過去現在未来の時間軸を繋ぐものがあるなら、それはそんな此岸と彼岸の狭間にあるような気がする。
僕がはじめて古川さんのサイン会に来て、朗読を聞いたのはここだった。文喫ができる前にあった青山ブックセンター六本木店、14年前にはあったが、今はもうない。今日とあの日が重なるような感じで、僕の中で過去と現在がダブる、空間が重なる。そう考えられば、『平家物語』も『犬王』というかつての時代を描いた物語も現在の僕らと重なるはずだ。
14年前のイベントは『ベルカ、吠えないのか?』の文庫本発売記念トーク&サイン会だった。凄まじいものを見て聞いてしまうと、終わってから古川さんに挨拶をしようと思っても言葉がうまく出てこなくて、自分でもびっくりで、いつもみたいに話ができなかったけど、その時にもらった「100うぉん」を古川さんにお見せした。なんか見せたかったのは、きっと「犬」つながりだから。
アニメ『平家物語』とアニメ映画『犬王』を観て、古川さんの小説も読んだら、ノンフィクション作品『ゼロエフ』もぜひ読んでほしい。しっかり現在の世界と過去が繋がっていくから。
『ベルカ』もアニメ化しないかな、冷戦に駆けていった犬たちの系譜と歴史を描いているので、まさに今の戦争状態(ウクライナ侵攻)とも通じるものだから。
水曜日のダウンタウン』の中で好きな芸人ランキングで圧倒的な強さを誇っているサンドウィッチマンの話になった時に「サンドの伊達ちゃんに会わせちゃダメだよ」みたいなことが言われていて、みんな会うと好きになっちゃうからっていう理由だったんだけど、同じように古川さんの朗読は生で聴いちゃダメなんだよね、あの体験したら朗読の概念がガラリと変わるし、あんな朗読ができる人はほぼ存在いないと思う(役者だったり、表舞台に立つ人でもたぶん無理だと思う)。14年前に『ベルカ、吠えないのか?』の朗読を聴いてから、都内以外に高知県竹林寺やロサンゼルスのUCLAでも朗読を見て聞いたけど、やっぱりその時は幽玄に入り込んだみたいな空間になっていた。

 

5月28日

TOHOシネマズ渋谷で初日初回の湯浅政明監督『犬王』を鑑賞。
朝イチの回だったけど、七割ぐらいは埋まっていた気がする。入場者プレゼントの松本大洋×古川日出男「犬王お伽草子」ももらえた。
試写会で観た時には「なにかうまくつかめない、わからない部分がうまく咀嚼できない」という部分が正直あったのだけど、二回目のほうがするりと入ってくるような気がした。もちろん、前日に古川さんと後藤さんの対談を聞いていたことも大きかったのかもしれないし、今回は後藤さんが弾いた琵琶の音を意識して聞いたから一回目に観た時よりも琵琶の音がよくわかった。
物語の終盤で友有が自らつけた名を捨てないこと、琵琶法師の座には戻らないこと、そして犬王の物語をやめないと役人に連れていかれそうになった時にずっと歯向かい続けたシーンで自然と涙が溢れてきて止まらなかった。そのあとの犬王のシーンでの苦渋の表情と友有のことを思っての彼の判断にも胸をうたれた。そこにはまさに友情というものがあり、失われることになった者たちが一番大事にしていたものを守ろうと足掻いた、人生があった。だけど、「犬王」も世阿弥の書には出てきても彼の曲は一切残っていない。だが、その名だけは残っている。
『犬王』はまさに登場人物たちの名前を巡る物語でもあるが、それは古川日出男作品に通底する部分だ。『犬王の巻』を読んでから古川さんの他の作品を読むとその通奏低音に気づく人も増えるのかもしれない
あと、一番嬉しかったのはエンドクレジットが終わったあとに自然と拍手が鳴ったことだった。公開初日に観れてよかった。

『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な(一回目の時の感想)


12時半から中野駅で20年来の友人と待ち合わせをしていたので、映画が10時半ぐらいに終わったので歩いて向かった。日差しが強く、梅雨はどこへ、もう終わったのかという暑さだった。渋谷を北上して富ヶ谷や代々木八幡を通って甲州街道に向かう。
富ヶ谷や代々木八幡は用事がないし、知り合いもいないのでまったく行かないエリアだが、オシャレなお店がたくさんあって、ファミリー層やカップルなど若い人たちがたくさんお店に並んでいたり、歩いていた。実際に歩いたりしないとそういう雰囲気はわからないものだ。
その後、笹塚で甲州街道を越えてから新中野方面へ。新中野駅近くで「あれ、見覚えがあるな」と思ったら、毎年元旦に神田川沿いを歩いている時に通るバスの停車場があった。一時間二十分ほど歩いたら中野駅に着いた。そこで友達二人と、その息子くんと一緒にセントラルパークへ行ってランチをしながら、5歳児はよく話すので彼の問題に答えたりして話をした。その後、公演にある噴水が湧き上がる水遊びができる広場で息子くんを遊ばせながら話をした。三時間ぐらいがあっという間だった。コロナの脅威もなくなってきたから、こうやって直接に会うことができるようになったのは本当にいいことだなって思う。


さすがに帰りは電車に乗った。晩飯のおかずを買いに行くついでに、twililightに寄って出たばかりの小山田浩子著『パイプの中のかえる』を購入。店主の熊谷さんに以前小説をオススメしてもらった小山田さんのエッセイ集。
『ものするひと』を読んでファンになったオカヤイヅミさんが表紙イラスト、ニコラのカウンターで一緒になる横山雄さんによる装幀。寝る前にちょっとずつ読んでいこうかなと思う。

 

5月29日
なにか夢を見たはずなのだが、それを全然覚えてない感じで起床。
昨日同様に本日はかなり暑くなるというのを天気予報で見ていたので、すぐに洗濯機を回す。洗濯物を干してから少しだけ散歩がてら外に出る。夏だとしか思えない日差し。この暑さが続かないで、急に梅雨入りして雨降りが続く感じなのだろうか。暑くて雨が降ったら最悪だが、今年はどうなるのか。
アアルトコーヒーの庄野さんにオススメしてもらったアレン・エスケンスの小説があるかなとブックオフを覗いたらデビュー作があったので購入した。タイトルが『償いの雪が降る』というもので、この作家さんの発売されている三冊はこういう感じのタイトルになっている。ちょっと詩的な感じ、内容はミステリーらしい。

「クロワッサン」での野木さんと古川さんの対談でも「名前」の話がでていたと思うんだけど、古川日出男作品には「名前(呼び名)」が変わっていくという通奏低音な部分もある。 
脚本家・野木亜紀子は600年前の「失われた物語」に何を見出したのか? 映画『犬王』を語る

 

5月30日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『QあんどA』(後編)では、亡き兄と繰り返される日常について書いています。実兄あだち勉を彷彿させるキューちゃん、ループものからのあだち充なりの脱却の意味とは?


スター・ウォーズ』ランド・カルリジアン単独シリーズ、『ハン・ソロ』版で進行中 ─ ルーカスフィルム社長が進捗明かす

2020年12月に発表されていた『スター・ウォーズ』のランド・カルリジアンを描く新シリーズ「Lando(原題)」が、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)に出演したドナルド・グローヴァーを主演として現在も進行していることがわかった。英Total Filmとの取材で、米ルーカスフィルムキャスリーン・ケネディ社長が明かしている。

ドナルド・グローヴァー主演の「スター・ウォーズ」シリーズはちょっと観たい。『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』にドナルド・グローヴァー出ていたのを今知った。でも、その前に『アトランタ』シーズン3を見なければ。

朝晩とリモートワーク、昼休憩の時に家賃と住民税を払いに銀行に行ったら月末だからかなり混んでいた。家賃の縁込みはウェブでもできるけど、税金の支払いの紙っていうか送ってくるのはコンビニか銀行だから、とりあえず、ついでという感じで銀行で支払う。ただの気持ちの問題だろうけど。

今年のサマソニにはリバティーンズが出演するので行く気だったが、お金のこともあったので月が変わったらチケットを買おうと思っていたら、彼らが出演する土曜日もぴあとかが売り切れ始めたと友達が教えてくれたので、ローチケで取った。支払いは2日までなので、すぐにカードで払わなくて大正解。
日曜日はすでに売り切れているらしい。個人的にはリバティーンズがワンマンしてくれればいい話なのだが。いろんな面でコロナパンデミックが直撃した後遺症と日本がどんどん貧しくなっていることなど、相対的に海外からのアーティストを呼ぶことも難しくなっている。チケット代だって昔よりは上がってきている。ただ日本人の収入だけが上がっていない。

The Libertines - Time For Heroes (Official Video)

 

5月31日

TOHOシネマズ日比谷で『トップガン マーヴェリック』の初回IMAX上映を鑑賞。
前作『トップガン』は都合二回観て予習はバッチリ。9時前上映開始だったので、今日は渋谷まで歩いて銀座線に乗って日比谷へ。

トム・クルーズを一躍スターダムに押し上げた1986年公開の世界的ヒット作「トップガン」の続編。アメリカ海軍のエリートパイロット養成学校トップガンに、伝説のパイロット、マーヴェリックが教官として帰ってきた。空の厳しさと美しさを誰よりも知る彼は、守ることの難しさと戦うことの厳しさを教えるが、訓練生たちはそんな彼の型破りな指導に戸惑い反発する。その中には、かつてマーヴェリックとの訓練飛行中に命を落とした相棒グースの息子ルースターの姿もあった。ルースターはマーヴェリックを恨み、彼と対峙するが……。主人公マーヴェリックをクルーズが再び演じ、「セッション」のマイルズ・テラー、「ビューティフル・マインド」のジェニファー・コネリー、「アポロ13」のエド・ハリスが共演。さらに前作でマーヴェリックのライバル、アイスマンを演じたバル・キルマーも再出演する。「オブリビオン」のジョセフ・コジンスキーが監督を務め、「ミッション:インポッシブル」シリーズの監督や「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家として知られるクリストファー・マッカリーが脚本に参加。(映画.comより)

36年前のヒット作の続編、しかもトム・クルーズはまだ現役でスーパースターであるという、どこかで次元とか歪んでいるように思えてしまうが、これが現実である。
他のIMAXで観た他の映画の予告で、この作品の予告を観た時に素直に観たいなと思った。映画の冒頭でマーヴェリックが乗ったマッハ10を目指す戦闘機が飛び立ち、実験を止めにきた空軍の少佐が戦闘機のソニックブームを地上で受けるという場面があり、それも予告編に入っていた。その時に画面から観客に向けてその轟音と共にそこにいるような感覚がサウンドシステムのおかげで感じられるので、これはまさにIMAXで観るしかない作品だなと思った。
スクリーン画面が大きくて音が全方向スピーカーから鳴って体に届くというか響くところであれば、戦闘機が飛んでいる際にパイロットに見えるものや飛んでいる速さだけでなく、またエンジン音などが感じられるという体験も含めて、この映画はまさにIMAXや4DXで観るために作られたものだった。体験型アミューズメントとも言える。
内容は前作を観ていればかなり楽しめるものとなっている。正直前作を観ていないと半分も楽しめないかもしれない。

冒頭からして前作と同じ音楽や字幕を使うことで重ねている。そして、この36年分の時間の経緯を物語の中で、二時間ちょっと回収していくのだが、それがかなりうまい。
前作における親友の死、その息子との関係性が軸として描かれる。この辺りは『カモンカモン』では伯父と甥だったが、今作でもマーヴェリックと親友の息子であるルースターも擬似父息子関係であり、子を持たない中年以上の男性が父になる、父的なプレイをするというのは、今の時代的なものも感じられた。これは「父性」の問題とも重なる。

80年代以降に青春を過ごした人がすでに中年以上になっているということも感じたし、次世代に引き渡せるものはあるのか、という問いでもあるようにも思える内容だった。
「父性」が失われている、失われていく、前時代的なものがどう現在へ挑めるか、なにを残せるのか、というのは、作中でも海軍のパイロットはそのうち自動化されるのでいらなくなるというセリフにもあったように、人が担っていたことをAIや機械が変わりにするようになれば、その仕事に従事していた人たちはいらなくなる。現在の戦争はとくに人を減らそうとしてきている。その意味でも20世紀を生き延びてきた、いわゆる大人たちが経験やそれによって得た知恵をいかに子供世代に引き渡せるのか、大事なものを引き継げるかという部分がある。それがいちばん難しいものだとは思うのだけど。

自分も中年なので、僕にはなにもなく、次世代に引き渡すことなどないので、邪魔はしないようにしていこうと思う、そのくらいのことは考える。おそらく、40代前半と30代後半の世代は上と下をつなげる役割や可能性があったはずだが、ネットが現れて替わりに担ったことで、宙ぶらりんになったところもあると思っていて、そうなるとあとは才能のある新しい可能性について邪魔をしないという選択肢ぐらいしかない。


帰りに書店で宇野常寛著『水曜日は働かない』を購入。僕は昔のバイトのシフトの流れもあって、この十年近くは基本的に木曜日が休み(働かない)。

 

6月1日
メフィスト賞2022年上期座談会

「第64回メフィスト賞」決まってる! おもしろそうなタイトルだし、メフィスト賞は「一ジャンル一作家」を謳うからこその選出な感じもありおもしろそう。
僕は8月末になんとか送りたいが、座談会の中で「性的虐待を扱った投稿作、今回は多かったように思います」とあり、映画監督たちのセクハラ問題ともリンクしているところもあるし、昨今のフェミニズムへの関心とかも反映されているのかな、と思ったりした。


ニコラに行って、上のトワイライライトで開催中のフェアのコラボデザートである「クリームダンジュ『動物になる日』風」というレアチーズケーキとアルヴァーブレンドをいただく。口の中に入れたらすぐになくなっちゃう、濃厚ではないが口の中に甘さとまろやかさが残る。

月が変わったのもあるが、体重が人生でマックスになっているのできちんと減量しないとほんとうにやばいラインに入ったので、夜は基本的にプロテインだけにすることにした。あとは週に二回か三回はランニングをする&スクワットと腕立て100回ずつを半年は続けたいと思う。
あとはSNSデトックスとしてまた半年はTwitterに「メルマ旬報」と「予告編妄想かわら版」と「あだち充論」の記事がアップした時に投稿、InstagramFacebookには観た映画や舞台、書籍などの画像やタイトル名をアップするぐらいにしようと思った。

 

6月2日

佐向大監督『夜を走る』を ユーロスペースにて鑑賞。

教誨師」の佐向大監督がオリジナル脚本で撮りあげた社会派ドラマ。郊外の鉄屑工場で働く2人の男。不器用な秋本は上司からも取引先からもバカにされながら、実家で暮らしている。一方の谷口は家族を持ち、世の中をうまく渡ってきた。それぞれ退屈で平穏な日常を送る秋本と谷口だったが、ある夜の出来事をきっかけに、2人の運命は大きく揺らぎはじめる。無情な社会の中で生きる人々の絶望と再生を、驚きの展開で描き出す。「きみの鳥はうたえる」の足立智充が秋本、舞台やドラマを中心に活動し「教誨師」で映画初出演にして注目を集めた玉置玲央が谷口を演じる。共演には「夕方のおともだち」の菜葉菜、「罪の声」の宇野祥平、ドラマ「孤独のグルメ」の松重豊ら個性豊かな俳優陣が集結。(映画.comより)

Twitterなどで樋口毅宏さんや映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんなどが試写で観たあとにかなり高評価だったことで気になっていた作品だった。他の観た人は『アンダー・ザ・シルバーレイク』を彷彿した(前半と後半でまるで違うから)ということを言っている人もいたし、公式サイトで菊地成孔さんもコメントを寄せていたのでとりあえずおもしろいかかなり意外性のある作品なんだろうなと思っていた。

予告編で見ても正直この物語がどこに進んでいくのかわからない。主人公の秋本と谷口が飲んだある夜の出来事をきっかけに物語が動き出す。しかし普通に考えるとその出来事(事件)が起きれば普通はこの二人が協力してそれをなんとかやりすごすか、バレたことで大事になっていって二人とも破滅してしまうか、など想像の範囲内に収まるのかなと思って観ていると、確かに想像以上の展開になって驚かされる。
秋本が思いもしなかった方向に行くことになる。物静かで感情を出さなかった秋本がある集団と関わったことで、それまで隠していた感情を一気に爆発させていく、それはまさにカオスであり、なにが起きているのかうまく掴めなくなっていく。

谷口は実家にいて結婚もしてない秋本とは違い、妻と四歳の娘がいるのだが、どちらかというと谷口のほうが事件に関わる様々なことに巻き込まれていく度合いは高いように見えた。だが、秋本の暴走によってそれまで人生をうまくノリなどでやってきた彼にとって最大のピンチが訪れることになっていく。この秋本と谷口の対比も非常によかった。
僕としては中盤移行の物語が一気に違う方向に向かっていくのは確かにいろんな人が高評価するだろうなと思うけど、驚きはしたもののそこまで響かなかった。
ちょっとだけ松本人志監督『しんぼる』みたいな、なんつうかカルトっぽさは逆にリアリティあるのかなあとか思ったりもしたけど、大絶賛はできない。ただ、2022年の年末にこの作品を年間ランキング上位にあげる人もいるだろうなと思う怪作であることは間違いない。


燃え殻著『それでも日々はつづくから』を読みながら、火曜深夜に放送された燃え殻さんがパーソナリティーをつとめるラジオ番組『BEFORE DAWN』を聴いていた。先週ぐらいに番組宛に出していたメッセージが読まれた。それは毎回オンエア時に五曲ほど曲が流れるのだが、その中の一曲はカヴァー曲が選ばれているので、そのことについて書いたものだった。
自分が好きなカヴァー曲というと奇妙礼太郎さんが松田聖子さんの『SWEET MEMORIES』だろうか。あとは向井秀徳さんが七尾旅人さんの『サーカスナイト』もかなり好き。

 

6月3日

先日購入した河野真太郎著『新しい声を聞くぼくたち』を読み始める。第一章で『怪獣8号』と『ジョーカー』についての話が出ていて、読んでいるとうなづくことが多い。
フェミニズム」をめぐる言説の中で、男性性が再考されている、というか現在さまざまなところで問題になっていることはその男性性とその加害性の話でもある。そして、そこでも世代や立場(収入や結婚したり子供の有無や住んでいる場所など)などでも違いがあり、「僕はマジョリティ側ではなく、女性などのマイノリティ側に近いのに」という声や考え方があるので、その立場によって同じ男性でも分断や分裂を生んでしまっている。
世界は完全に違うフェーズに入っているので、旧来の家父長制的な男性はどうしても新しい価値観などを否定したり、加害する側になってしまってきている。まず、知らないことには自分の無意識の加害性にも気付けない。ややこしいなとは思うのだけど、でも、知らないうちに加害をし続けるのは耐えきれないし、嫌だなと思うからこういうものをまず読むことで意識できるようにするしかないのだと思う。

朝晩とリモートワークだったので、ずっとradikoで深夜の番組を流しながら作業。『おぎやはぎのメガネびいき』を聴いていたら、ヒップホップユニットのchelmicoがゲストだった。翌週の金曜日は彼女たちのライブで、ニューアルバムが出たばかりなのでiTunesで音源を買った。聴き込んでたのしみたい。

親友のイゴっちから「ジャンプ+」に掲載された一ノへ著『ヨイトピア』という読み切り作品をラインで教えてくれたので読んでみた。
浅野いにおさんっぽい感じがするのは、作品にあるアイロニーとポップに見える絵がいい緊張関係になって、読者に突き刺さってくるからかなと思った。そして、表現というものは毒にもなる。誰かの人生を変えてしまうし、一線を越えさせてしまうものだということを描いていて、これを「ジャンプ+」でやっているところが、王者「ジャンプ」ブランドだからこそ、と思える。

 もはや説明の必要もないだろうが、ワイドショーにせよ、バラエティにせよこの国のテレビの文化そのものが、多分にこの「いじめ」の快楽の提供によって成り立っている。週に一度、生贄を選ぶ。目立ちすぎた人や失敗した人を週刊誌が選ぶこともあれば、それをワイドショーが自分たちで見つけ出すこともある。そしてタレントたちが「多数派の」「目立ちすぎていない」「失敗していない」立場から石を投げる。そうすることで、自分たちは「まとも」で「大丈夫」な側だと安心する。こうして娯楽産業の多くが「数字」をつくり、それで食べている人々がいる。番組を観ていた視聴者たちはSNSを用いてそれとまったく同じことをする。そうすることで何者にもなれない自分をごまかして安心する、死んだ魚のような目をした人々がいる。そしてそんな死んだ魚のような目をした人たちに、正義という名の棍棒を与えて誰かを殴り倒せと耳元でささやき、その人の中に湧き上がった黒い感情を監禁し、集票に利用するメディアや言論人たちがいる。
 閉じた相互評価のネットワークの中で、いま、誰を叩くと安全に自分の株が上がるのかを考えて石を投げる。そしていちばんうまくターゲットの顔面に石をヒットさせた人間が座布団をかせぐ。そんな大喜利が、いまSNSで常態化している。(宇野常寛著『水曜日は働かない』P147より)

金間 若者は表面的にはそうであることを隠す、装う能力が格段に上がっています。昔は見るからに意思がないイエスマンみたいな人がいましたが、今は行動を細かく見ていかないとわからない。
たとえば大学のゼミや研究室に外部の方がお土産を持ってきて「どうぞみなさんで」と言うと学生たちは「ありがとうございます!」とさわやかに言うんだけれども……まず誰も受け取ろうとしない(笑)。困ってとりあえず一番近い人に渡そうとしても引いていくから「じゃあ、ここに置いておきますね」となる。なぜか。
率先して受け取ることで目立ちたくないし、受け取ってみんなに配るという責任を取りたくないし、「施しを受けた」という貸し借りのある状態を重たく感じるからです。「ゼミ生は10人だけど、15個入りだったらどうしよう」「配り方をみんなで決めるのも負担だ」「欲しがっている卑しいやつと思われたくない」などと考えて受け取らない。
そこでは、失敗したり目立ったりすることへの恐怖心が渦巻いているんですね。大学の講義でも講師から「良い質問をしたね」と言われて名前を覚えられるのが恐怖だし、「あ、あの人は質問する人なんだ」と同級生から思われるのがイヤ。だから質問しない。これは周囲から「叩かれる」とまで思っているわけではありません。というのも、叩いたらその人も目立ってしまいますよね。でもやはり目立ちたくないので表立っては叩かないからです。(あなたのまわりにも?一見優秀だが実は主体性がない「いい子症候群」の若者たち(飯田一史)より)

 

6月4日

起きると12時前だった。夕方からリモートワークだったので、休日ではないものの、ほとんど一日で自由に使える時間がない状態だった。深夜2時過ぎに寝たとはいえ、疲れがとれたというわけでもない。
このまま家にいると一日外に出なくなってしまうので、とりあえず散歩がてら駅前に向かった。BOOKOFF松尾スズキさんの小説『宗教が往く』単行本がかなりの美品で200円だったので購入した。
文春文庫で上下巻として出ているものは持っていて、それを前に読んでいるのだが、単行本のほうが金色がメインで使われていて豪華な感じなのでタイトルにある宗教感ぽさがつよい。文庫版は赤いがメインの装幀デザインになっているのでだいぶ印象が異なる。
来週の月曜日に久しぶりの本多劇場松尾スズキ作・演出『ドライブインカリフォルニア』を観に行くので、それでおそらくBOOKOFFで松尾さんの名前が飛び込んできたんだと思う。

 そして何度でも言うが、それらの全てが庵野秀明に直接、継続されたわけではない。むしろ多くは隔世遺伝的である。円谷英二手塚治虫や様々な戦後の子供文化の中に持ち込まれた機械芸術論や映画的手法(モンタージュ/構成)などとしてプロパガンダ、即ち戦時下のあらゆる視覚表現に工学的に「実装」された前史がまずある。そして戦後、それらは公職を追放された人々によって子供文化やTVに、そして世代的経験として手塚治虫らによって「戦後」に生き延び、それを隔世遺伝的に受けとめ自分たちの美学・方法としたのが恐らく一九六〇年前後に生まれた私たちいわゆる「おたく」世代である。(大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』P250より)

散歩から帰ってきて昼ごはんを食べてから、宇野常寛著『水曜日は働かない』が残り50ページもなかったのでそれを読み終わり、続けて残ページがほとんどない大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』も読み終わった。
どちらも庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン』についての言及があり、それぞれが語るものは書籍のテーマや評論家としてのスタイルが違うものの、僕には違和感がなく読めたし、あの時に感じていたことが言語化され、さらにその奥の方へ導いてくれている評論になっているなと思った。
ラストでの庵野監督の故郷である宇部市の駅から出て走り出すシンジとマリ、そこから空撮による実写映像が入り込んでくること、「旧劇場版」シリーズでの実写が入り込んでくることとは意味の違う今回の実写映像が入り込んでくることの意味などは興味深い。
宇野さんが書かれていたように、シンジとマリが走り出したそこは斜陽していく日本経済と「平成」という時代を生きてきた僕らが過ごした場所でもあり、新しいものはない。すでに見てきて生きてきた場所だからだ。
主人公のシンジにとって、母のレプリカである「レイ」、思春期における初恋相手である「アスカ」たちというテレビアニメシリーズからのヒロインたちではなく、「新劇場版」から登場して、彼を物語の、世界の外側へ連れて行くという存在としての「マリ」。庵野監督自らかオフィシャルサイトで作中のことを自分の家族のこととして語らないでほしいと言うニュアンスの表明を出したが、もやはりそれは無理がある。
NHKで放送されて、現在ではアマプラなどでも見れるようなったあのドキュメンタリーを見て、シンジとマリの関係性に庵野監督と妻である安野モヨコさんを彷彿しない方が土台無理な話である。同時に「シン・エヴァ」で完結したと思われる過去作を含める「エヴァンゲリオン」シリーズは庵野秀明監督の「私小説」であると思わない方が難しい。そもそもこのシリーズは1995年のテレビシリーズ放映からずっと語られてきた物語なのだから、そこにどう考えても庵野秀明の人生と経験が重なっているのを僕たちは見てきてしまっている。
「シン・エヴァ」を含めて「エヴァンゲリオン」シリーズはやはり歴史に残る作品であり、庵野秀明という作家性が突出し破綻しながらも立ち直って行く過程を露骨なまま見せつけながら、多くの(国内外の)ファンを巻き込んでいき「平成」日本を代表する作品になった。もう、それだけですごいし素晴らしいものだ。
問題というか、僕らが考えないといけないものは宇部市の駅から走り出したシンジとマリたちが進んだであろう時間を、「平成」「令和」となんとか生き延びてきた僕らはすでに見てきている。過去と現在だけではなく未来についてどんなものをつないでいけるのかが、この先の創作の作り手と受け手にとって大事な問題になってくるのだろう。そのことを考えながらどこまで創作に活かせるのか、と考える。

参加していたクラファン、漫画家・西島大介さんが、ベトナム戦争を描く大長編『ディエンビエンフー』『同TRUE END』を、こだわりのIKKI装幀で全16冊シリーズとして電子刊行する完全完結計画である「〆切は米軍完全撤退3月29日。電子書籍で『ディエンビエンフー』全16冊を完結させたいド!」。そのリターンで「最終巻の巻末にお名前を「サイズ大」で記載、「似顔絵キャラ」として奥付手前エンドロールに登場」するというのがあり、ラフだがそれがメールで送られてきてサイトを見た。
僕の名前は他のページだが、イラストはこのページのようだ。画像は僕らしきキャラのところだけに切り取っているが、実際には上にクラファンに参加した人の名前が掲載されている。このキャラかなり僕っぽいし、気に入りそうなので問題がなければ今後自分のアイコンにしたい。

 

6月5日

台湾出身の高妍(ガオイェン)著『緑の歌 - 収集群風 - 』上下巻。
浅野いにお著『おやすみプンプン』の翻訳版を読んだ高校生の高妍さんは、同じく浅野作『うみべの女の子』を読んだ。その作中で歌詞が使用されたはっぴいえんど『風をあつめて』を知ることになる。
『緑の歌 - 収集群風 - 』では『風をあつめて』と村上春樹著『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』が大きな軸となっている。
そして、帯分に上巻では元はっぴいえんどメンバーだった松本隆、そして下巻では村上春樹がコメントを寄せている。村上作『猫を棄てる』装幀イラストを描いているのが彼女であるという繋がりもあり、その辺りはあとがきに書かれている。

『緑の歌 - 収集群風 - 』は「ガール・ミーツ・細野晴臣」と言った青春物語とも言える。そして、細野晴臣村上春樹だけでなく、岩井俊二など日本のミュージシャンや作家や映像作家などの名前や作品も出てくる。エドワード・ヤン透明雑誌ナンバーガールフォロワーの台湾のバンド)も出てくる。
ありえたかもしれない可能性として「シティ・ポップ」が世界中で発掘され、再び脚光を浴びたことと近いのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ただ、文化というのは国境を軽々と越えて、誰かに届くということ。そして、受け取った側の思いや気持ちもまたその誰かに届くかもしれないということ、循環し、また知らない世代や届いていかなかった場所へ届いて行く、という可能性というか希望だなって思う。

これが好きだっていう想いがとてもまっすぐで強くて、響く青春物語。海辺で育って早くそこから出て行きたかった少女の緑(リュ)が台北の大学へ進学してからいろんな出会いをしながら日本文化にも触れて行くことになるのだけど、やっぱり高妍さんが『うみべの女の子』を読んでその作品が届いたのは、『うみべの女の子』も海辺から外側に出ていけなかった少女と少年の物語だったからなんじゃないかなって思う。そこに引用されたのが『風をあつめて』だったし、歌詞にあるように「風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて 蒼空を翔たいんです 蒼空を」という願いは海辺から違う世界へ行きたいという願いと重なったと思うし。

浅野いにおが台湾の新鋭・高妍を絶賛、いつか忘れゆく“大切なもの”が刻まれた恋と成長の物語「緑の歌 - 収集群風 -」

高 先ほど言ったことの繰り返しになりますが、今日の対談で最も浅野さんにお伝えしたかったのは、そもそも「緑の歌」は「うみべの女の子」がなければ存在しなかったということでした。さらには、はっぴいえんどや、細野さんの台湾公演、村上春樹さんの「ノルウェイの森」や、エドワード・ヤン監督の映画など、そうしたものが1つでも欠けていたら、あのマンガは描けなかったと思います。それは自分自身から自然に出てくる力ではなくて、過去の偉大な先人たちからいただいた力によるものです。その結果、「緑の歌」は日本と台湾で同時発売できることにもなり、改めて「読み続けること」や「作り続けること」の力を実感しています。

↑第1話『風をあつめて』&第2話『海辺のカフカ』も対談のあとに試し読みで載ってます。

『17才の帝国』全5話を見る。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンでは未来を描けなかった(ようやく「ゼロ年代」初頭の僕たちが見てきた風景に戻ってきた)。ラストでの実写で映る庵野監督の故郷の宇部市は失われた30年、「平成」のほとんどの時間で経済大国から一気に斜陽していく日本の、その地方都市のひとつであり、手を繋いで走り出した彼と彼女の先に明るい未来があるようには思えない、それを僕たちはすでに見てきたのだから知っている。
『17才の帝国』は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンからつながるものとして、描かれるひとつの未来を提示したものと見れるのだろうな、と昨日宇野さんの『水曜日は働かない』と大塚さんの『シン・論』を読み終えたからか、そんなことを思った。
まあ、偶然だがAIソロンという三つの塔は、『シン・論』で大塚さんが書いていた「シン・エヴァ」におけるエッフェル塔のローアングルであったり、ある意味で父と母がいる皇居に向かって、かつてヒルコだったゴジラがラストで凍結されている姿も塔であるということとにちょっと通じている。庵野秀明監督が隔世遺伝的に使っている塔とローアングルというものはどこからやってきたのかという話から『シン・論』は始まる。

 

6月6日

仕事を早上がりして、小雨の中を下北沢まで歩く。本多劇場松尾スズキ作・演出『ドライブイン カリフォルニア』を鑑賞。本多劇場に来たのはコロナパンデミック前にナイロン100℃の舞台『百年の秘密』の再演だったと思う。

裏手に古い竹林が広がるとある田舎町のドライブイン
経営者のアキオ(阿部サダヲ)は妹に対して、兄妹愛と括ってしまうにはあまりにも純粋な思いを抱いていた。妹マリエ(麻生久美子)は14年前、店にたまたま訪れた芸能マネージャー若松(谷原章介)にスカウトされ、東京でアイドルデビューするも結婚を機に引退。その後、夫の自殺など数々の経験を重ね、中学生の息子ユキヲ田村たがめ)と共に地元に帰ってくる。
このカリフォルニアという名のドライブインには、腹違いの弟ケイスケ(小松和重)、アルバイトのエミコ(河合優実)が働いていた。そして兄妹の父親ショウゾウ(村杉蝉之介)、高校教師の大辻(皆川猿時)、アキオの恋人マリア(川上友里)、若松の妻クリコ(猫背椿)、クリコの不倫相手ヤマグチ(東野良平)などを巻き込み、複雑に時が流れだす・・・・・(公式サイトより)

舞台装置が変わらずに、ワンシチュエーションで物語が展開していくものとなっており、ドライブインを経営しているある一族の血を巡る物語になっている。語り手はその一族の最後の子、とも言えるマリエの息子ユキヲであり、彼は母とともに帰ってきてから事故死しており、幽霊として物語るという役割を担っている。母のマリエが東京に行き、自分の父と出会う手前から回想のように物語は始まる。幽霊である彼は過去に遡って自分が死ぬまでを見ることで何が起きたのかを再確認することで成仏しようとする。
マリエとユキヲが故郷に戻ってきてから本格的に物語は始まる。ユキヲには音が聞こえない、生まれ持った障害ではなく、父が自殺してしんでしまったのを見たせいでそうなっている。だが、ラジオの音やなにか障害を持っている人の声は聞こえるという設定になっており、彼は死んだはずの祖父・ショウゾウとのやりとりで一族に隠された秘密を知ることになって行く。

偶然だが、同じ本多劇場で鑑賞したナイロン100℃の舞台『百年の秘密』と近い部分もあり、一族の歴史と三世代を描いているという共通点もある。
『百年の秘密』は舞台ならではの、役者が何役もやることで、違う時間軸の登場人物が舞台の上で交差する、レイヤーが重なるという演出があり、とても素晴らしかった。
ドライブイン カリフォルニア』は大人計画の本公演でないせいか、大人計画的な暴力や性の暴発みたいなものが少しカジュアルになっていて、出演者的にはほぼ大人計画なので期待していたのでそこは物足りなく感じてしまった。
大辻役の皆川猿時さんの紙芝居(って体)のシーンは爆笑だったし、舞台のいろんな場面で笑ってしまうところが多かった。二時間少しという長さもあるのか、最後がわりと一気に畳み込んだ感じもあり、余韻は残らない。また、最後に百二十年に一度しか咲かないというものが咲いたというシーンがあるのだが、そのシーンで登場人物たちがそれを見れた理由が、大人計画らしい気もするし、前にも近いなにかを舞台で見たような気がした。アキオが終盤に語る海と波の話、生きていることは無駄ではないというちょっと演説っぽいいいシーンで「宇宙は見える所までしかない」という台詞が聞こえて、松尾さんが岸田國士戯曲賞を受賞した『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』にかけているのかなって思った。聞き間違えではないと思うのだが。

個人的には大人計画本公演でもっとブラックで観終わったあとになんとも言えない気持ちになる舞台が観たいなと思った。映画などで気になっていた河合優実さんはけっこうコメディエンヌみたいな役もできそうな感じだった。谷原章介さんはよく考えれば僕が中二の時に見てどハマりしたドラマ『未成年』で主人公の博人(いしだ壱成)の兄役で出演されていた。谷原さんは役者以外でも司会業でも成功しているし、今のいしだ壱成さんの状況を見るとなんだか複雑だ。実際の谷原さんはスッとした長身ではなく、ガタイもいい長身だった。


舞台を観終わってからニコラでちょっとご飯。先週からメニューにあって、食べたいと思っていた「飯山産グリーンアスパラ 温泉卵と白トリュフオイル」をいただく。ほんとうに美味しい。季節のものだから、その時にしっかり味わうのは至福だし、素材の味が強いのがいい。

 

6月7日

森山大道著『犬の記憶』&『犬の記憶 終章』と書店で目が合う、犬の視線と。家に帰ってから前者と後者の帯文が古川日出男さん(解説も書かれていた)と柴崎友香さんという好きな作家だったことに気づく。
『ベルカ、吠えないのか?』『犬王』と作品タイトルにおける「犬」とこの写真が無意識に僕の中で繋がったのかもしれない。買う時には装幀の写真に惹きつけられていたから、帯をまったく見ていなかった、文字を認識していなかった驚き。

紺野アキラ著『クジマ歌えば家ほろろ』を読む。鳥なのか宇宙人なのか、謎の生物クジマと中学生の新とその家族の関わりを描いている。シュールなとこあるけど、ギャグ漫画みたいな感じもあって読んでいてかなりおもしろい。日本に来る前にはロシアにいたクジマはロシア語や喋れたりするなど、おもしろい要素がうまく噛み合っている。しかし、クジマの正体はわからないままずっと続きそうな、でもある程度進んだら展開に困りそうな、気になる漫画。

 

6月8日
‘Joker’ Sequel: Todd Phillips Reveals Working Title, Joaquin Phoenix Reading Script in New Pics

ホアキン・フェニックス主演『ジョーカー』続編のタイトルは『Joker: Folie à Deux(感応精神病)』というものらしい。しかし、あのあと不満を持つものたち(プアホワイト的な)のカリスマになっていくジョーカーを描くんだろうけど、トランプ政権による断絶と分断を前作はある種描いていたと思うから、あの先にはよりダークで悲惨なことしかなさそうではあるが。

『群像』2022年07月号は古川日出男さん連載『の、すべて』が前回の休載から復活していた。そこではスサノオの話が展開されていた。次回から舞台が90年代から現在へ飛ぶのかなってちょっと思ったりしたけど、どうなっていくのか。
『ゼロエフ』『おおきな森』で装幀を手がけている水戸部功さんが師匠である装幀家菊地信義さんへの追悼文を寄せられていた。菊地さんを追ったドキュメンタリー映画も観ていたし、そこでも水戸部さんの様子も映っていたので、文章に感情移入できる部分が大きかった。水戸部さんの装幀デザインは見ると、これは水戸部さんっぽいなとわかる作家性がある。いつか、という気持ちがある。
また、今月号から批評家・宇野常寛さんの新連載『庭の話』が開始されている。『遅いインターネット』の続き、現在のコロナパンデミックウクライナ侵攻というリアルタイムなことを踏まえながら、FacebookTwitterなどのSNSによって世界はどんなふうに断絶していったのか、そこに「Anywhere」でどこでも生きれる人と、「Somewhere」である場所でしか生きない人その対立や分断をSNSが大きくしてしまっているという話がでてくる。宇野さんのこの論はおもしろいが、読むとSNSますますやりたくなくなってくる。

 

6月9日

YouTubeダースレイダー×プチ鹿島ヒルカラナンデス』を見た時(元々は弁護士の三輪記子さんにオススメしてもらって見始めた)にダースさんとプチさんのお二人がトークイベントに出ると言われていた青山真也監督『東京オリンピック2017  都営霞ヶ丘アパート』を下北沢駅に新しくできた「K2 シモキタエキマエシネマ」で鑑賞。
僕個人としては誘致の時点から東京オリンピックには反対していたし、家にはテレビもないので開会式にそれぞれの競技も閉会式も一切見ていない。ウェブのニュースなどで目に入ることはあったけど、自分が見ようとしたことはなかった。

2020年の東京オリンピック開催にむけた国立競技場の建て替えのため、2017年に取り壊された公営住宅を追ったドキュメンタリー。1964年のオリンピック開発の一環で国立競技場に隣接して建てられた都営霞ヶ丘アパートは、平均年齢65歳以上の住民が暮らす高齢者団地になっていた。単身で暮らす者が多く、何十年ものあいだ助け合いながら共生してきたコミュニティであったが、2012年7月、このアパートの住人に東京都から一方的な移転の通達が届く。転居を強いられた住民たちの2014~17年の3年間の記録から、オリンピックに翻弄された人々と、五輪によって繰り返される排除の歴史を追う。監督は本作が劇場作品初監督となる青山真也。(映画.comより)

僕はこの「都営霞ヶ丘アパート」のことはまったく知らなかった。以前ニュースで、前回の東京オリンピックで家を立ち退きさせられた方が、今回の2020年の東京オリンピック開催に関して、再度立ち退きをさせられたというものは見た記憶があった。この映画でそういう方が出てくるのでおそらくその方なのだろうと思う。
映画では前回の東京オリンピックの時に国立競技場に隣接する形で50年以上経ったこの都営霞ヶ丘アパートに住む方々を映している。前回のオリンピックの頃にここに引っ越してずっと暮らしてきた住人の方々は高齢者になっており、住み慣れた終の住処になるだろうと思っていたそのアパートを都から一方的に立ち退くように言われる。
都からの住民へのアンケートには移住したくないという選択肢がそもそも用意されていないという話もあり、彼らを立ち退かせるのが決定事項であることがわかる。
長年の顔見知りであり、ずっと住んできたことで共生してきたそのコミュニティを都という行政がもう一度東京オリンピックをするために一方的に破壊する、ぶち壊して行く姿が映し出されている。

映画の中でも言われていたが、住民たちに告げにくる都の職員たちになにかを言っても変わらない、彼らたちはトップダウンで降りてきた決定をただ遂行するだけだからだ。彼らも都と住民たちの板挟みにあったのだろうと想像に難くない。職員たちには決定事項を変える権限もないし、おそらく派遣であったり契約社員の人にそういうことをさせているのではないか、と思う。大学を舞台にしているが同じようなことは渡辺あや脚本『ワンダーウォール』でも似たことが描かれていた。
長い時間をかけて作られたコミュニティは基本的にはそのままのメンバーが一緒に移るのであれば、多少の変化はあっても継続できる可能性はあるが、やはり場が変わってしまうと難しい。そして、なによりも住民の方々が高齢者であるということはいろんな問題が出てくる。

この映画を見ていると自然と涙が出そうになる。
住民の方々は最後には抵抗しても無駄だとわかっており、住み慣れたアパートを出て行く。ここには東京オリンピックが奪ったものがあるし、そもそもなぜ国立競技場を立て直す必要があったのか、ザハ案が一度ダメになり二転三転した新国立競技場、そして、今ではその付近の木々を伐採する話が出ている。東京オリンピックもそもそも神宮一帯の再開発のためにやったという話もある。たぶん、それは本当だろう。そういうことしか考えてないデベロッパーなんかが政府や経済連なんかと再開発をして儲けたい人たちが勝ち組と呼ばれる世界だ。だけど、そういう奴らはコミュニティが失われた町や場所には魅力がないということがわからないのだろうし、ただアジアで、いや世界から見ても没落していく日本の中心部を再開発しても喜ぶのは一部の富裕層やそういう人間だけだ。などいろんなことが頭に浮かぶが、そういうことすらも行政や金を持っている人たちが動けば一般市民がなんとかしようとしても無力であるのだろうな、という無気力感も感じてしまう。
この映画を東京オリンピックに関わった人たちやそれを見て楽しんだ人たちはどう思うのだろうか?


「ビルケナウ」2014年

ゲルハルト・リヒターの代表作が日本へ! 16年ぶりの国内大規模個展が6月開催

統一前の東ドイツで青春期を過ごし、ベルリンの壁建設前に西ドイツに移住して以降は、旧ソ連を中心に発展した「社会主義リアリズム」への批評的回答として「資本主義リアリズム」と呼ばれる芸術運動を仲間たちとともに展開したリヒター。彼の作品が絵画を起点にしつつ写真や鏡などを用いてイメージの多義性、その成り立ちや解体を想起させるのは、そういった時代精神の体現とも言えるだろう。

リヒター作品の代名詞とも言うべき「アブストラクト・ペインティング」。40年以上描き続けられる同シリーズは、大きなスキージ(へら)で絵具を塗り、さらに削るというプロセスで描かれている。今回の大きな見どころである《ビルケナウ》(2014)も同様の手法を用いて制作されており、おそらくこのセクションに関わるかたちで展開するはずだ。ちなみに同作の絵具の下層にはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りしたとされる写真のイメージが隠されており、この作品を描いたことでリヒターは「自らの芸術的課題から自由になった」とも述べている。


下北沢駅京王線に乗って渋谷へ、半蔵門線に乗り換えて半蔵門駅で降りてから千鳥ヶ淵付近を歩いて、東京国立近代美術館ゲルハルト・リヒター展を観に行く。
先ほど引用した箇所にあった「資本主義リアリズム」という単語に惹かれて、という部分も今回の展示を観ようと思ったのが大きい。もともとはイギリスの批評家であるマーク・フィッシャーの書籍『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』を読んだことで、彼の『資本主義リアリズム』を読んだ。その表紙はずっと前に見ていて、radioheadのアルバム『Hail to the Thief』とそっくりなので覚えてはいた。そこからニック・ランドに関するものをは必然でもあった。そして、翻訳版が刊行されたニック・ランド著『絶望への渇望』の装幀に使われていたのが、このゲルハルト・リヒターの「ビルケナウ」の一番左端のものだった。そういうリンクというか繋がりで僕は展示に足を運んだ。
圧倒される。デカいし、実際に観てみると絵の具が削られた凸凹などの質感がわかる。鑑賞者自身が見つめ返されるような作品たちが展示されていた。10月まであるのでもう一回観に行きたいと思う。

マーク・フィッシャー著『資本主義リアリズム』 野田努レヴュー

 新自由主義が基本的に人の弱みや満たされない欲望につけ込んで入ってくることは、我が国の政治家たちを見れば一目瞭然であり、歴史の分水嶺ともなったサッチャーの言葉=「これしか道はない」は、訳者もあとがきで指摘しているように安倍内閣が執拗に使っているフレーズでもある。フィッシャーが言うように「反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのものに反対しているのではなく、むしろ公的資金の特定の運用に反対しているのだ」。そして、こうした新自由主義(非道徳的な合理性)と新保守主義(道徳的で規制的な合理性)は、たがいに矛盾しながらも「資本主義リアリズム」のなかで融合する。
 その結果、現在ぼくたちは自由にお買い物を楽しみ、そして自由に転職して失業するという不安定さのなかで生きる/死ぬことを甘受している。ラップのMCバトルは、あらかじめ敗残者に溢れた世界を生きることを前提とする社会、それが当たり前(リアル)だと思わせるという点で「資本主義リアリズム」を補完する。それは起業家ファンタジーとの親和性を高めるはするものの、みんなが勝利する世界をますます想像しづらくする。

↑のポスターといくつかのポストカードを購入した。買ったが、ワンルームの我が家には合わなそうな気がするが、この柄がいいなと思った。「ビルケナウ」のものもあったが、あれが部屋に飾られていたら、気分が滅入りそうだなと思い、まだ暖色で赤や青や白がメインのこちらにした。


「資本主義リアリズム」という単語が浮かんでいたので、こうやって購入すること自体、なにか違っているような気もしなくはなかったが。頭にはやっぱりずっとradioheadの曲が流れていた。

帰りは半蔵門駅ではなく九段下駅半蔵門線に乗って三茶まで帰る。トワイライライトにスティーヴ・エリクソン著、島田雅彦訳『ルビコン・ビーチ』単行本の古本があったので購入。前に文庫版で読んでいたのだが、単行本のこの装幀の感じがいいなって思った。久しぶりに読もうと思ったのは、今トマス・ピンチョン作品を読んでいるのだけど、エリクソンはピンチョンの系譜にはいる小説家であり、世界を幻視する作家の想像力をまた感じたいと思った。おそらく今の僕にはかなり刺激になる。
その後、下の二階のニコラが開店したのでビールとラルドのクロスティーニを。ラルドも生ハムの輸入ができなくなる問題と同様でこれから入ってこなくなるかもしれないとのこと、また今の円高だけでなく金のない日本は今まで海外から買えていた食材なども他国に買い負けてしまい入らなくなるだろう、とか選挙の話を曽根さんとした。

 

6月10日

仕事を少し早上がりして恵比寿へ行き、途中にある恵比寿神社にお参りをする。恵比寿で飲む時には時間があれば、何度か足を運んでいる。この日も時間よりはまだ早かったので寄ったら、数人お参りをしていた。それも若いと言っていい世代だった。
調べてみても前は天津神社という名前だったが戦後の区画整理遷座されて今の名前と場所になったらしい。旧天津神社の資料が乏しく、どういう縁起があるのかわからないとwikiにはあるが、たぶん「恵比寿神社」という恵比寿の部分が福ありそうな感じがするからお参りをしている人が多そうな感じがする。

LIQUIDROOMChelmicoの「gokigen TOUR」初日を友人の青木と観る。青木も言っていたが客層が若く(僕たちが中年だから)て、大学生から二十代中頃が大半だったように見えた。一部中年以上がいたが、僕みたいに最初はTBSラジオおぎやはぎのメガネびいき』にメンバーのMamikoが出演していて名前は知っていたり、そこから聴き出したというクソメン・クソガールもたぶんいたんじゃないかな。
僕は正確に言うと、ツタヤ渋谷店のラップコーナーにMamikoのソロアルバムがベッドサイドミュージックということで置かれていて、Chelmicoのメンバーということを知らずに聴いたらすごくよくて、Chelmicoなのか!と思ってからアルバムを聴き始めたという最近聴き始めたファンである。
Chelmicoの二人とサポートのDJという三人だけのステージ、確かにポップで明るくてたのしいライブだった。まだライブ中に声を出したり、タオルを回すのもダメだったみたいだが、キャパ制限はなくソールドアウトで売り切れているライブの熱はあって、RachelとMamikoの二人のトークでの温度感も暑すぎ、冷静になりすぎず、やっとライブが普通に近い形ができるようになった喜びが溢れているライブだったし、フロアがほんとうにいい感じで揺れていて、笑顔がたくさんあったのを観ることができてうれしかった。
下記のMVの好きな曲も聞けたし、ニューアルバムの『三億円』もよかった。

chelmico/チェルミコ - 「ラビリンス'97」

 

6月11日

起きてからMacBook Airを開いて、radikoで深夜ラジオを流しながら昼までの予定をどうしようか考える。今日から公開のヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー』がユーロスペースで上映なので、散歩がてら行こうと思い、ウェブでチケットを取る。以前にユーロスペースで予告編を見ていて、気になっていた作品。
水道橋博士のメルマ旬報」チームの荒井カオルさんがこの作品にはエグゼクティブプロデューサーとして関わっており、また、ヤン・ヨンヒ監督と結婚されていてパートナーとしてもこの作品に出ているようだったのも気になったポイントのひとつでもあった。

「ディア・ピョンヤン」などで自身の家族と北朝鮮の関係を描いてきた在日コリアン2世のヤン・ヨンヒ監督が、韓国現代史最大のタブーとされる「済州4・3事件」を体験した母を主役に撮りあげたドキュメンタリー。朝鮮総連の熱心な活動家だったヤン監督の両親は、1970年代に「帰国事業」で3人の息子たちを北朝鮮へ送り出した。父の他界後も借金をしてまで息子たちへの仕送りを続ける母を、ヤン監督は心の中で責めてきた。年老いた母は、心の奥深くに秘めていた1948年の済州島での壮絶な体験について、初めて娘であるヤン監督に語り始める。アルツハイマー病の母から消えゆく記憶をすくいとるべく、ヤン監督は母を済州島へ連れて行くことを決意する。(映画.comより)

恥ずかしながら「済州4・3事件」を知らなかったのだが、ヤン・ヨンヒ監督の母が韓国政府をある意味では無視し、北朝鮮へ息子を三人送るほどだった理由がその事件にあったことがわかる。これは政治、国によって大事なものを奪われて、それでもなんとか生き永らえた人の人生を顧みる映画でもあるが、娘である監督が撮影することでより「家族」と「国家」というものが強く前面に押し出されていっている内容になっている。

ヤン・ヨンヒ監督と結婚した荒井カオルさんがお母さんに結婚したいとお願いにする時からカメラは回っており、彼は自分が被写体になるということを受け入れている。そこからは夫が亡くなってから大阪で一人暮らしをする母の元に監督夫妻が何度も足を運び、メンバーが新しく加わった「家族」が少しずつ繋がっていくのが映し出されていた。そこでタイトルにもある母が作る「スープ」の作り方、そしてそれをみんなで食べるということが「家族」になっていく儀式、行為として映し出されていた。同じものを同じ場所で食べる、ということ。もちろんそこには思想や国籍やいろんな違いがあっても、時間を共にすることでしか生まれない感情や気持ちというものがある。
冒頭で亡き父を撮影していた映像も使われるが、そこではヤン・ヨンヒ監督の父は娘の結婚相手にはアメリカ人と日本人以外ならいいと言っているシーンがある。それがフリにもなっているが、日本人である荒井さんが挨拶にきても母は喜んでいる様子が映し出されていた。もちろん、父の考えと母の考えは違うところはあるのだろうけど、そこには年齢を重ねているということも大きいのかなと感じた。荒井さんが着ているTシャツがミッキーマウスとかいろんなバージョンがあるのだが、最初に挨拶に来た時にスーツから着替えた時にミッキーマウスだった時に、あえて資本主義の象徴であるミッキーのデザインの服を着るってこの人すごいな、と思ったけど、そういう意味ではなくただ好きで着ているだなということはのちのTシャツのバリエーションでわかった。

「スープ」とは家族のことであり、美味しくなるまで何時間も煮込む。だから、外部から新しく家族に参入するためには時間がかかるし、同じ時間を共有しないといけない。けっして同じ考えや思い出もなくても重なってくる部分が少しでも増えると一緒にいるのが不思議ではなくなっていく。
この映画において、荒井カオルという部外者がヤン・ヨンヒ監督の家族に入って行くことで、彼女の一家にとっては当たり前だったものが、違う視点と存在によってさらに浮き彫りになっていく。そして、認知症になってかつての記憶が失われて行く母が体験した「済州4・3事件」と国家への思い、それが「イデオロギー」の部分になり、三人で済州島での平和式典に行った時に過去と現在が重なっているが、母の記憶は鮮明ではなくなっていた。

最後の部分でヤン・ヨンヒ監督が今まで母の北朝鮮へ兄たちを送ったことなど理解できなかった部分が、この事件を知ることで否定できなくなったと話す。この部分はかなり監督の思いが溢れているシーンで涙ぐんでしまった。同時に監督が最後に思いを吐露しているので、語りすぎなのかもしれないと思いつつも、あの場所で彼女があの思いを口にするのは、ある種辛いことは忘れてもいいという彼女の思いがそうさせていたのだろう。三人で事件被害にあった方々の墓地に行った時に、忘れてもいいという話をしたあとに、ひどいことをした人たちは忘れてはいけないとしっかり言われていた。そこが実に大事なことだ。国家だけではなく、個人同士の関係でも起きる事柄は、被害にあった人は忘れてもいい、思い出したくないものはそうしたほうがいい。だが、加害者は忘れてはいけない。

そして、観終わるとやはり自分の家族のことを考えてしまう。夕方、毎週恒例の実家への電話で祖母と話をする。祖母も認知症になっているので、普段はいろんなことがわかっていなかったり忘れたりしているらしいと母からは聞く。毎週電話で話をするだけだが、それだけでも実家から離れて暮らす僕ができる少ない祖母孝行のひとつだ。

 

6月12日
仮面ライダーBLACK SUN』の衣装は伊賀大介さんだと下記のニュースで知る。『シン・ウルトラマン』の衣装も伊賀さんだったから、このまま『シン・仮面ライダー』も伊賀さんなんじゃないかな、と思ってる。実際は違う人かもしれないけど、伊賀さん大作映画で衣装をいくつも手がけているのであり得る。 
西島秀俊×中村倫也仮面ライダーBLACK SUN」特報公開、スタッフ情報も発表(コメントあり / 動画あり) 


午前中にあった渋谷での予定がなくなってしまったが、渋谷には行っていたのでドンキでデオドラントスプレーを買う。いつも同じ匂いのものを購入しているのだが、なぜずっと使っているダークチョコレートという匂いのものはドンキの渋谷ぐらいしか見ない。書店にも寄ったが欲しいと思う新刊はなかったので買わずに帰る。
夕方からのリモートワークまで家にある小山田浩子著『パイプの中のかえる』と森山大道著『犬の記憶』とスティーヴ・エリクソン著、島田雅彦訳『ルビコン・ビーチ』を読んだ。やっぱりエリクソンの小説は幻視的な視線で書かれているせいか読んでいるとどうも微睡んでしまう。

 

6月13日
〈考える〉と〈悩む〉にもみくちゃにされる私たちにできることは
アメリカで痛感した〈観察する〉ことのポテンシャル

 1942年の5月9日に日系アメリカ人の強制立ち退きは効力を発するようになるのだけれども、収容所に向かう彼らの姿は、プロの写真家たちに記録されている。
 たとえばドロシア・ラングの写真を、藤幡さんは、拡大して観察する。たとえば着飾った日系人の少女の顔を。どんどんと拡大していったら、何が見つけ出せるだろう? 被写体の目には、何かが映っているという事実だ。それでは、実際に被写体のその目を超拡大すると、何が現われるのか?
 撮影者の姿である。そうなのだ、カメラマンがそこには映っている。

 けれども懸念もある。スマートフォン全盛の現代、私たちは自撮り(セルフィー)というのをしてしまう。その画像に、あなたの瞳にはだけれども、誰が映っているだろうか? 超拡大した時に、撮影者は誰だろうか?
 あなた自身だ。そこには〈他者〉がいない。
 あなたは、20年後40年後80年後に、その画像データをどんどんと拡大してみて、しかしそこに「あなた自身」以外を見出せない。

古川日出男さんの月に一回「論座」での連載「考えるノート」が更新されていたので読む。ここで取り上げられている「全米日系人博物館」には2017年に足を運んだ。館内は撮影ができなかったが、強制転居させられた日系移民の方々が住んでいたバラックの一部(壁があったはずだ)だけではなく、持ち物や多くの写真が展示されていた。

「あなた自身だ。そこには〈他者〉がいない。」という部分で、他者の物語である「小説」や「映画」に興味がなくなっていく、自分から発信できる物語だけが大事になっていく、というのはこのSNSの時代で証明はされていることなんだろう。だから、小説を読むという行為が時代に反していくようになる可能性がある。そして、〈他者〉のいない世界を僕は求めていないので小説を読むし、映画も観るし、芸術というものに触れていたい。

さて神道にもギャルの通勤にも欠かせない鏡ですが
インスタグラムの時代に入り
写真の価値が石油のそれにとって変わると
人々はセルフィーのモニターばかりを見るようになってしまい
誰も鏡を見なくなるだろうと言われています
これは古代から続く 左右逆層の人物像が壊れ
つまり鏡が砕け散るという 非常に危険な兆候であると我々は危惧し
三種の神器のひとつである鏡を見続けるわけですが
鏡を見て 己の考えを鑑みるに
JAZZ DOMMUNISTERS『Cupid & Bataille,Dirty Microphone』 
2「悪い噂 feat.漢 a.k.a. GAMI

上記のN/K(菊地成孔)のリリックを思い出した。スマホは現在のおける三種の神器の鏡になっているようにも思える。だとしたら、スマホという神器を持っている我々は神に等しいとすれば、そもそも神はいなくそこから派生した物語にも意味を見出さない人が増えるのは納得でもある。

 

6月14日

ドミニク・グラフ監督『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』 を文化村のル・シネマで鑑賞。チケットを取った後で約三時間の上映時間ということを知る。「月刊予告編妄想かわら版」でも取り上げたし、公式サイトのコメントがわりと純文学系の作家さんのものも多くて、もしかしたらおもしろいかもって思って足を運んだ。

ドイツの児童文学作家エーリッヒ・ケストナーが1931年に発表した大人向け長編小説「ファビアン あるモラリストの物語」を、「コーヒーをめぐる冒険」のトム・シリング主演で映画化。1931年、ベルリン。時代は狂躁と頽廃の20年代から出口の見えない不況へと移り変わり、人々の心の隙間に入り込むようにナチズムの足音が忍び寄る。作家志望の青年ファビアンは、目的のない無為な日々を過ごしていた。女優を夢見るコルネリアとの恋や、唯一の親友であるラブーデの破滅。世界が大きく変わる予感と不安の中、ファビアンはどこへ行くべきか惑い、焦りを募らせていく。やがてコルネリアは女優の夢をかなえるためファビアンのもとを離れるが……。コルネリアを演じるのは「ある画家の数奇な運命」でもシリングと共演したサスキア・ローゼンタール。監督は、ドイツでテレビ映画を中心に手がけてきたドミニク・グラフ。2021年・第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

主人公のファビアンは映画を観ていると30歳は超えていて、タバコ会社のコピーライターのような仕事をしているが、怠惰的であり夜遊びをずっとしている。だが、親友のラブーデはファビアンの書くものに力が信じており、早く作家になってほしいと思っている。ラブーデと行った見世物小屋に近い店でドリンクバーの会計のバイトをしているコルネリアと出会ったファビンは店を出てベルリンをずっと歩きながら彼女の住んでいるアパートに着くが、そこは自分の住まいであり、彼女こそが隣にこしてきた隣人だった。
女優志望のコルネリアと作家志望のファビアンは蜜月となり、親友のラブーデの父の所有する別荘地に行って仲を深めていく。
ファビアンを含め、みんなずっとタバコを吸っている。時代ということもあるのでそれが当時のリアルなのだろう。1930年代のベルリンであろうが、東京であろうがパリであろうがニューヨークであろうが、みんなどこでもタバコを吸っていたのが事実であり、それが描写されているのはちゃんとしているなと思う。たとえば、黒沢清監督による『スパイの妻』では1940年代の神戸が舞台だが、登場人物を含めほぼタバコを吸っていないのはおかしいという話があった気がする。タバコの煙はなにか思案しているように人を見せる効果もあると思う。

この映画はナチスの足跡が聞こえ始めた時代が舞台だが、ファビアンという青年が親友と恋人を失う話でもあり、そしてラストでは思いがけない終わり方をする。悲劇にも見えるし、サブタイトルにある「またはファビアンの選択について」が思いの外意味が重いものとなってくる。ラストでとあることがあり、実家に帰る列車の中で冒頭でセックス寸前までいくある女性と再会する。もし、彼女の誘いに乗っていたらあのラストはなかったとも思えるし、一度別れてしまった恋人のコルネリアからの電話を実家で待ち、彼女に会いに再びベルリンへ出ようとする選択は彼には幸福への一歩だったはずだし、コルネリアにとってもそうなるはずだったのだが。えっ?その終わり方なの?と思うラストではある。
青年ファビアンの恋と友情の終わりを描いているともいえるし、親友のラブーデとファビアンという文学青年の末路は、あのあとに台頭してくるナチスとの対比的なものになっているようにも思える。文学の敗退を示唆しているように思えた。

ファビアンとコルネリアが出会った時に、その後の蜜月期間のシーンがいくつかインサートされたり、過去の実際のベルリンが写っているモノクロの映像を使ったりとしているのだが、けっこう音楽も含めてゴチャゴチャしている。ファビアンの苛立ちの表現と言われればそれまでだが。三時間はちょっと長い。でも、すごくおもしろいわけでもなく、悪いとも言えない感じ。なにかがうまく伝わってきていない。

バルガス・ジョサ著/寺尾隆吉訳『街と犬たち』(光文社古典新訳文庫ノーベル賞受賞作家マリオ バルガス=リョサのデビュー作『都会と犬ども』が今回は著者表記が変わって改題しての新訳ってことなのかな。寺尾さんはコルタサル著『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』も訳されていて、そちらは以前読んでいた。

 

6月15日

トム・ヨーク×ジョニー・グリーンウッド×トム・スキナーによる新バンド・The Smileファーストアルバム『A LIGHT FOR ATTRACTING ATTENTION』限定盤イエローLPが届いた。5月1日にBEATINKで注文していたもの。
iTunesでこのアルバムのデジタル音源はすでに購入してずっと聴いている。大きなLPジャケットが欲しい(いつか飾りたい)という気持ちもあったのでレコードプレイヤーがないけど、発売のお知らせがあってからすぐに予約をしていた。このアルバムは本家のradioheadとは違うカッコ良さやリズムもあり、トム・ヨークradioheadという大きな枠から自由に音楽を作っている喜びみたいなものもあるんだと感じる。

The Smile - We Don't Know What Tomorrow Brings



梅雨で気圧の問題もあるが、三月末以降からの事柄がやはり地味にダメージを与えてきている。おまけに住民税と区民税が来たが高いっ! 
精神的にも金銭的にも打撃を食らい続けている感じなので、なんとかやられないように体力をつけるしかないし、いろんなものをデトックス的に邪魔なものを体から出さないとやられちゃうなって思えているので、まだ持ち堪えられると思う。一日中やる気は起きなかったけど、そういう日もあると思うしかない。

夜から友人とオンラインミーティングとして毎週30分ほど話をすることにしたので、そこで少し今後のことを話す。目標を決めて動き出す際には誰かと一緒に共有しながら進む方が離脱しないでやっていける可能性が高い。お互いに近々の目標のためにいいやりとりができてよかった。ちょっと沈んでいた気持ちも多少あがった。

 

6月16日
朝から「あだち充論」の最終回となる『MIX』編を執筆していたが、どうも調子が上がらない。連載中ということもあるし、来月に刊行される19巻から一気に変わる要素があるので、どこまで書こうかということが自分の中でうまくジャッジできていないことが原因かもしれない。


夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとスコーンをいただく。来月には選挙はあるが、たぶん大きなことは変わらないだろうし、よくなるイメージもない。インボイスもこのまま行けば始まるだろうし、円安が加速して物価は上がっている。ほんとうにいろんなものがなくなったり、奪われていくかもしれない、という危機感だけが高まっている。とかそういう話をカウンターでする。

NHKが”連ドラ”を作る仲間を一般公募。彼らがホンキで変わりたい理由

前から気になっていたNHKの「WDRプロジェクト」についてライターの木俣冬さんがプロジェクト立ち上げた保坂慶太さんにインタビューをしている記事があった。これはますます応募したくなる内容であり、たまたまだが、先々日から途中で見るのを止めていた『ストレンジャー・シングス』シーズン1を再開して、シーズンの最終話までを見ていた。脚本を書くモードに来月はなると思う。

 

6月17日

飯田一史さんの新刊『ウェブ小説30年史 日本の文芸の「半分」』(星海社新書)をご恵投いただきました。発売日は21日となっているので少し早く届いた。
ウェブサイト「monokaki」で飯田さんに連載してもらっていた「Web小説書籍化クロニクル」が元になっていて、一応僕が連載時の担当編集でした。
500ページ越えの読み応えたっぷりな新書で、僕はウェブ小説についてまったく知らなかったので連載で読みながら、時代背景や投稿サイトの移り変わりやジャンルの隆盛などを知ることができたので、エンタメ関連の方や出版関連の方は読んでみてほしい一冊になっている。


もともと「monokaki」初代編集長の有田さんが対談企画で最初に飯田さんにお声がけして、二代目編集長の松田さんが連載企画を通して、僕が連載担当という形だった。お二人とも現在はDeNAとエブリスタから他社に移ってエンタメ作品作りをされていて、「monokaki」の母体であるエブリスタ自体が去年末に株式譲渡されて、親会社がDeNAからメディアドゥに変わったりと、いろいろと経たなあと思う。
親会社が変わっていろいろ移行したりすることもあり、「monokaki」は以前のように定期的に記事を公開できない状態になっていて、個人的には一番たのしかった作家さんなどのインタビューは行けなくなったりしているのでなくっていたりしている。

数年前に行ったタロット占いでその年の前後五年、十年の運勢を書いた「人生の棚卸し」というものをもらっていて、2022年が所謂断捨離の年で過去の古いパターンを手放し、「当たり前」と信じていたもの、古いアイデンティティを作り直させられる年になる。過去から続けているものと決別して新しい人生に変わっていく年と書かれていた。
それもあってか親会社が変わるって年末に聞いた時も驚かなかった。まあ園監督のことについてはSNSに書いても仕方ないのでブログにはいろいろニュースとか見たその時々の気持ちとかは書いていて、水道橋博士さんが気がついたら選挙に立候補を表明していたりとお世話になっていた人もそれぞれに人生の転機に立っている感じだし、ずっと書いてきた「あだち充論」も今回で『MIX』編なので終わるし、自分から手放さなくても「当たり前」なものがどんどん目の前から消えていくから、占い当たってる気がする。
自分にちゃんとした土台がないから色々と不安だったりするけど、生きていて不安じゃない時なんかそもそもないし、いつだって戦前戦中戦後なのでなんとか生き抜いていくしかない。かと言っても勝てば官軍みたいな生き方はできないけど、そこそこ生きていけるやり方を見つけたいなって思う。

 

6月18日
THE SMILE / トム・ヨーク×ジョニー・グリーンウッド×トム・スキナーによるザ・スマイル1stアルバム発売記念!店頭でボーナス・コンテンツにアクセスできるQRコード施策がスタート!!」ということで対象店舗に代官山蔦屋書店が入っていたので、散歩がてら行ってきて二階の音楽エリアに貼られているポスターのQRコードを読み込んでボーナス・コンテンツをゲットしてきた(画像のポスターの見えていない部分にQRがありました。一応23日はQR有効なので画像では出していません)。
MVとして公開している八本の動画のアニメーションデータと4体のdemonsの画像データがダウンロードできた。


The Smileの音源はすでにデジタルとレコードで持っているので購入はできなかったので、一階の書店で前から気になっていた&昨日直木賞候補作として発表された呉勝浩著『爆弾』を買って帰った。

 

6月19日

iPod nanoがついにご臨終となってしまった。上の状態にはなっていたし、もうタッチパネルがほとんど反応しない感じにはなっていた。次の曲へ送れなくなってなぜか前の曲も戻るだけは生きていた。
メニュー画面にも戻らないのでタッチパネルのどこかに当たったら勝手に同じアルバムを繰り返したりイレギュラーなエラーが起きたらもうシャッフルにすら戻れない感じになっていた。
もううんとすんとも言わなくなったので、開いていた隙間からなかはどんなふうになっているのか見てみた。パネルの奥に本体がある(画像ではわかりずらいが)のがわかる。さすがに五年以上使っていたら壊れてしまうだろうなと思う。問題は後継種がなく、AppleiPodシリーズをなくしてしまっていることだ。とりあえず、中古で同じタイプを買うか悩んでいる。

昨日の深夜帯に放送された『佐藤栞里オールナイトニッポンZERO』を散歩の最中に聴いた。iPod nanoがもう使えなくなったのでしばらくは外に出る時はradikoのアプリでラジオを聴く感じになるかなと思う。
佐藤栞里さんは『オードリーのオールナイトニッポン』のリトルトゥースでもあって、その想いがわりと最初に話をされていたのだけど、その熱量がほんとうに好きなんだなってわかる感じでよかった。あと笑ったり話をしてる時の声の感じとかが大きさとかがどこか上品さを感じる。おとなしいわけではなくて明るいのに上品なところがあって、やっぱりこういう人ってそうそういないと思う。性格がすごくいいんだと思うし、いろんな人の愛情をしっかり受け取ってきた人なのだろう。逆にすごいダークサイドに一度落ちていたからこそのって感じはやっぱりないから、稀有なタレントさんだなと聴きながら思った。

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』

来月吉祥寺シアターで上演されるロロの舞台のチケットを購入する。
前回は酒を飲んでいってしまい、うとうとしすぎてしまったのでほんとうに面目ないというか申し訳ないという気持ちもあって、今度はしっかり観る。
「いつ高」シリーズの世界観をそのままスケールアップした作品になるらしいので、「いつ高」ファンとしても期待。

 

6月20日

呉勝浩著『爆弾』を読み始めた。まだ第一部だがかなりおもしろいし、どうなっていくのか楽しみな作品。
装幀がちょっと好きなタイプで気になっていたら、直木賞候補になったのでそのタイミングで買った。
カバーだと本の「背」の部分にタイトル「爆弾」の後ろに逆さまになっている東京タワーが見える。カバーを外すとカバーに使われている写真の天地が普通のものになっていて、「背」の部分にちょうど東京タワーが来るようなデザインになっている。そして、東京タワーの下の部分に「爆弾」と著者名がある。終盤に東京タワーに爆弾が仕掛けられているとかあるのかなあ、と装幀探偵をしてしまった。普通に考えたら都民を無差別に人質に取る爆弾テロっていうのは話の核だから、「東京」からで東京タワーってことなんだろうな。
塔や電柱をどのアングルで撮るか、みたいなことは庵野秀明監督や岩井俊二監督、その下の世代の新海誠監督などの作品に見られるノスタルジー的なものも、そもそもアヴァンギャルドの時代からの遺産だよって、彼らは隔世遺伝的に(あるいは孫的な影響で)やっているんだよって話を大塚英志著『シン・論』に書いてあったのを思い出す。「塔」をモチーフに小説を書き続けている作家としては上田岳弘さんがいる。
「塔」とはやはり象徴であり、象徴でしかないけど、東京スカイツリーがまだ東京の象徴にならないってそこを舞台にした物語とか、多くの人に共有されるバックボーンがないからなのかな。
講談社のサイト「tree」で『爆弾』の試し読みができるんだけど、縦書きの小説をそのままサイトが横書きなのでコピペしただけのものなのでクソ読みにくい。これなら書店で立ち読みしたほうが絶対にいい。


『ニシダ更生プログラム』


ララランドYouTubeチャンネル『ララチューン』を見た。ラランドのツッコミ担当であるニシダに対して相方のサーヤやマネージャーや近いスタッフの人々が思っていること、直してほしいこと、でも、彼には届かないだろうなという気持ちなども含めて伝えられていく。元テレ東の佐久間さんなどもVTRで出演するなど、ニシダに直してほしいことや仕事で感じていることを関係者が話し、それを映画館のような場所で彼が見る。それを別室でそれをサーヤとニシダが憧れているという南海キャンディーズ山里亮太がモニタリングするというものになっている。
最後には山里がニシダの元にいき思いを伝えるのだが、最後の方は見ていると涙が出てきてしまう。もし、これで彼が変わらなかったとしても、それは残念だけどそういう人だったとしか言えず、だが、人気も出て知名度も増しているこの状況で彼が変われば一気にラランドは四段階ほど上にいけるという話もあるので、こんなチャンスを捨てないで欲しいし、そういう場所にまず居れるということが素晴らしいことでみんなが行きたがっている場所なのだと知って欲しいと思ってしまった。だって、あんなにいろんな人が言ってくれるのは期待してくれているということなのだから。
いろんな人がニシダと同じではなくても、自分のダメな部分が彼と共鳴するところもあるだろうし、僕もあった。だからこそ他人事ではなく、周りの人たちの声や気持ちが沁みてくる。

 

6月21日
梅田サイファー - 梅田ナイトフィーバー’19 ,トラボルタカスタム ft. 鋼田テフロン / TFT FES vol.3 supported by Xperia & 1000X Series

佐藤栞里オールナイトニッポンZERO』の中で佐藤栞里さんがコロナ療養中に何度も繰り返し聴いていたというのがこの梅田サイファーの『梅田ナイトフィーバー’19で、放送中にも『THE FIRST TAKE』の楽曲に合わせてノリノリでラップをしていた。このことに『クリーピーナッツのオールナイトニッポン』で触れるのかなと思ったら触れていなかった気がする。聞き流してしまったのかもしれない。

散歩しながらTBSラジオの『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』を聴いていた。ハガキコーナーでどちらがいいかみたいな時に、「さかなクン、もう中学生、ゾンビだらけの町から抜け出すならどっち?」という二択があった。さかなクンなら知恵も豊富だし包丁とかも使うのうまいだろうし、ゾンビの危険部位を取ったりできそうみたいな話をしていて、それがおもしろかった。

歩きながら来月移行のスケジュールを考えていた。7月末に締切のある「小説現代長編新人賞」は日程的には難しいので出さないことにしていたが、この間友達に話した作品がアイデア的にも内容的にもちょっと感動系のエンタメにいけそうだし、半年間はできるだけ書くモードにしたいのでそれも書くことにした。
脳内で登場人物を誰にするかのキャスティングをしていたら、書けそうな気がしてきた。夕方からのリモートまで「小説現代」に掲載されて単行本化された『爆弾』の続きを読む。これ直木賞取ったらすぐに映像化決まりそうな気がする。

 

6月22日
家で仕事をしていると共同通信から電話がかかってきて「参議院選挙と内閣支持についての調査」の協力をお願いしますと言われた。
そもそもかかってきた時の相手の声が自動録音の機械的なもので、回答してもらえるのであればボタンの「1」を押してくれたら、ショートメッセージで質問事項のあるURLを送るという。ちょっと怪しいなと思いつつ、ランダムで無作為に選んだ番号にかけているというので、次はないかもと思って了承したらすぐにショートメッセージが来た。

質問1「あなたは今回の参議委員選挙に関心がありますか。」
質問2「あなたのお住まいの郵便番号を、7桁の数字で入力してください。」
質問3「XXX選挙区(郵便番号を入力しますと選挙区が表示されます)には、次の方々などが立候補しました。あなたは、どの候補者に投票したいと思いますか。」
質問4「次に比例代表の投票先をお尋ねします。あなたはどの政党に投票したいと思いますか。」
質問5「比例代表では政党名または候補者名で投票できます。あなたは政党名で投票しますか、または候補者名で投票しますか。」
質問6「それはどなたでしょうか。(質問4で「政党」、質問5で「候補者名」を選択した場合候補者が表示されます。それ以外を選択した方は質問7へ進んでいください)。」
質問7「あなたは普段どの政党を支持していますか。」
質問8「あなたは岸田内閣を支持しますか、支持しませんか。」
質問9「あなたの性別をお答えください」
質問10「あなたの年代をお答えください」
質問11「あなたの職業をお答えください」

これが質問の全部。無作為で選んだ人たちが回答しているものを集計すれば統計的にはある程度結果を予測はできるだろう、投票事前の感じは数さえ集まればある程度は掴めルだろうなと思った。
あとは一旦出たこの事前の調査で出た数字がどのくらい投票する人に、しない人に影響をするのか。ということだが、「空気」を読む日本人という国民性は民俗学者柳田國男が最初の選挙の時に周りの顔色を窺っていた投票者たちを「魚の群れ」と言ったことから大きくは変わっていない。だが、円安や物価が上がって生活がきびしくなっている現実に対して、有権者がどれほど怒りやいらだちを感じているかで、原因でもある政権与党をどう判断するか、対抗勢力が弱いと言ってもなんらかの動きは起きそうではある。

20時から先週から始まった友人とのオンラインミーティングという名の創作に関する話し合い。いろいろ考えていたことが話すことで自分の中で固まっていくのとやる気が出るのがありがたい。まずは7月末が最初の区切りでそこから広げていく。

 

6月23日
昨日のミーティングのあとから始めた「あだち充論」の最終回の校正戻しをしていたら、日付が変わって2時を過ぎていた。TVerで『あちこちオードリー』を見ながら寝落ちした。
朝起きてちょっと経ってから、戻した原稿に対してのレスポンスが編集担当さんからすぐ返ってきたので加筆修正をした。これで「PLANETS」ブロマガで連載させてもらっていた『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本社会の青春』が終わる。
タイミング的にも去年の今頃は「週刊ポスト」で連載していた『予告編妄想かわら版』が夏に終わると言われた時期だったのを思い出した。
長年続いてきたものが終わっていくとどうしても感じることがこの上半期は続いていた。下半期はこれから先のことに繋がっていくように動いていくことが大事になるし、たぶん働くことや生活なんかの自分の生き方が大きく変化していく時期になっていくんだと思う。


今月はこの曲でおわかれです。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『De Arriba』Music Video


chelmico - O・La [Official Music Video] / track produced by DJ FUMIYA (RIP SLYME)