Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『クジラの胎内』

八重洲ブックセンターの内田さんと大盛堂の山本さんとお酒を飲みながら渋谷でお話を。内田さんに前に窪美澄さんの『晴天の迷いクジラ』文庫が出た時に書いたフリペの文章がよかったよと言われて嬉しかったのだけどどんなことを書いていたのか当の本人である僕は忘れてしまっていた。
書くまではずっとそのことについて考えてる。書き始める前まではそのことだけについて考えてたりもする。しかし書き始めて終わるとわりと内容に関しては忘却してしまう。読み直せばそういうことを書いんたんだなって思い出す。
なにを書いたんだろうとファイルのデータを見たら確かに書いたなって思い出した。なんだか自分の書いた文章ってのは不思議。




 『晴天の迷いクジラ』は各自それぞれに喪失を抱えた由人、野々花、正子の三人が訪れる場所に迷い込んでいる象徴的なクジラがいる。まるで先祖帰りして陸を目指すかのようなこの巨大な生物の行動は自殺に似ている。三人は「鯨の胎内」に入り再び出てくるという死の世界から戻って来るような通過儀礼の代わりに、その町で(彼らと同じように)大事なものを失った人とある種の偽装的な「家族」のような日々を過ごす。そして、死のベクトルから生のベクトルに向かって行く。それは癒しに似ている生への渇望であり、柔らかな日差しが差し込んで冷えきった体の緊張が解かれるような喜びのようにみえる。
 闇をきちんと見据えた上での光。それは共存し、どちらかがなくなることはない。彼らは死の側(絶望)から生の側(希望)に少しだけ向かいだす。そして、僕たちは出会った人たちとすべて別れて行く。得たものはすべて失ってしまう。あなたも僕もやがて消えて行く存在だ。
 だけど、いつかやって来る喪失と向かい合いながらも諦めずに日々を生きて行くこと。それは、死を見据えながら毎日を生きて行くということだろう。そんなふうに、それでも誰かと生きていきたいと思える小説が『晴天の迷いクジラ』であり、窪美澄という作家の作品の骨格にはあると思う。
 ほんの少しの光や温かさが冷めきった心をわずかばかりに癒す、完全には癒せなくてもそれで少しだけ笑えたら、前に進めたらそれはとても素敵な事だと思うから。
 この文庫化に至るまでに刊行された窪作品や雑誌に掲載されたものを読んだ個人的な感想になるけど、窪さんの作品の核である母娘の関係性は繰り返し語られ、急に誰かがいなくなってしまうことについて小説に書かれている印象がある。
 出て行く者と残される者、あるいは死んでしまった者と生きていく者という関係性はいつだって残された者の問題として残るのだけどそれも窪作品の核だ。
 出て行った者はきっと振り返らないだろう、振り返っても捨ててきた者について考える事はできるだけしないだろう。残された側はずっと考え続けることになる。
 窪さんがこの主題を描くのは窪さんが出て行った者ではなく残された側の人だったというイメージがあるのはそのせいだ。おそらく罪の意識を感じようが出て行った者はこのような小説はまず書けないはずだから。
 残された者が幾度も泣き苦しみ、哀しみの淵に佇んでその想いが愛しさから来るのか憎しみか来るのかがわからなくなるほどの考えた先で見つけようとした人と人の繋がりや隔たりについて考えた人だから書けるのではないか。だからこそ闇をきちんと見据えた上での光がさす方に読者を連れて行くことができるのだろう。そして、いろんな場所にいる残されたすべての人に届き、出て行った人にも届いてしまう。
 『晴天の迷いクジラ』にあるこの主題をさらに発展させてよりその想いを丁寧にさらに丁寧に綴っているのが『別冊 文藝春秋』で連載中の『さよなら、ニルヴァーナ』ではないかと僕は思っている。
 これから何人かの出会った、出会っていく大切な人たちに僕はこの『晴天の迷いクジラ』を薦めるし勝手にプレゼントすることになるだろう。僕の大切な人たちがよわっている時に届く言葉や物語がこの作品にはあるから。僕はそっとこの本を渡して言葉少なげに、再会する時を待ちながらその場を去るだろう。次に会うときのその人の笑顔を想像しながら。

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)