Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『甘い運命』

People In The Box「翻訳機」「聖者たち」MV

↑読みながら聞いていたのは彼らのニューアルバム『Wall, Window』だった。


 起きてFacebookを開くと八重洲ブックセンターの内田さんがこう書いていた。(以下引用と言う名のコピペ↓)
【驚報】窪美澄「さよなら、ニルヴァーナ」の凄さが凄すぎて凄いぞ!
きょう発売の別冊文春で10回目。
更生途上の殺人者と庇護者、被害者家族、そして殺人者に恋する娘。現実では決して混ざりあわないどうしが、フィクションならではの核融合を起こすさまを、ここ数回ずっと並外れた粘力で描きつくしている。
マジで読んでて呼吸困難になった。これまとめて読んだら死ぬるよ。
この盛り上がりぶりからみて、いよいよあと1、2回で終わるっぽい。もうめったに出会えない超傑作になると断言だ。あー早く売りてえー!


 とありもう別冊文春出たのかと思いバイトの帰りに読まねばと決める。でもⅨ「甘い運命」だったから9回目だと思うよ、内田さん。
 さすがにこれ毎号は買えない、高いよ、ごめん。単行本になったら絶対に買うから。好きな作家さんの連載はできるだけ読もうと決めたのは古川日出男さんが『野生時代』で連載していた『黒いアジアたち』が本という形にはならなかったのが僕個人にはデカかかった。
 アジアの黒い水≒石油を巡る物語でロックフェラーだとかそういう今の時代を作った者たちも出てくる小説だったが、猪と豚の話でもあったのだけどスマトラで大地震が物語の中で起きた。古川さんが作家だから起こしてしまったとも言えるだろう。そして、東北、東日本大震災が起きて古川さんの出身地である福島がどういう状況になったかはみんな知っている。そして、郡山の、福島出身の作家として彼はそれまでとは違う立ち位置になっていく。『黒いアジアたち』は頓挫し書籍にはならなかった。封印された。このことは創作論という名のドキュメンタリーともいえる『小説のデーモンたち』に詳しい。
 僕はいち読者として偉そうにも僕が数回読んでから単行本を待とうと思って読むのを止めてしまったから本が出ないのだとぐらいに思った、アホだと思うが読んでいるということは読んでいたら古川さんに伝えられたのだ、それを伝えたところで頓挫し出なかったことには変わりはなかったのかもしれないけど。そんなわけで水道橋博士さんの『週刊 藝人春秋』と樋口毅宏さんの『甘い復讐』は連載開始から終了まで毎週読み、もはやライフワーク的になっていた。そして古川日出男さんの『新潮』で連載している『女たち三百人の裏切りの書』と窪美澄さんのこの『さよなら、ニルヴァーナ』は雑誌が出る度にきちんと読んでいる。この二つ発売日が微妙に被るため、毎月出ている『新潮』と偶数月の8日に出る『別冊文藝春秋』は二ヶ月に一回同時に出るから、けっこうな文量だよ、ほんと。でも好きな作家さんの小説だから読むわけじゃん、で、どっちもとんでもないから読むと疲れるんですよ、ほんとに。


 とりあえず、僕がTwitterで今まで書いた『さよなら、ニルヴァーナ』でワード検索して出てくるものを。


2013年02月07日(木)
涅槃で寝て待てってか! RT @misumikubo ウフフ。RT @asai__ryo もう面白そうじゃん!キーッ!!“@misumikubo 別冊 文藝春秋 2013年 03月号より、『さよなら、ニルヴァーナ』という連載が始まります。


『さよなら、ニルヴァーナ』はきっと読むと凹みそうなので単行本まで待とうかな。今諦めて地元に戻ったら確実に病むのわかってるからしんどそうだわ。コートニーってカートと付き合う前はビリー・コーガンと付き合ってたよね。


2013年02月14日(木)
窪さんの『さよなら、ニルヴァーナ』一話読んだ。僕はこの作品の中でわかる部分や嫌な感じとかごちゃ混ぜになってあの少年の話題が出てきてそれもやりたいことのひとつだった。最終選考とか残って受賞した人の作品読んだ気持ちはね、面白かったらムカつく、でもつまんなかったらもっとムカつくです。


2013年02月15日(金)
@misumikubo 『さよなら、ニルヴァーナ』読みました。グサグサ感がハンパなかったです。最後までよろしくです。でも死なないでください。


『さよなら、ニルヴァーナ』読もうと『別冊 文芸春秋』買ったの初めてなんだがB&Bイベントの後で文春の目崎さんとお話してたらあれは現在の文芸として隅から隅まで読んだ方がいいと言われ、やっぱり目崎さんと白石さんも繋がっているという……


2013年03月27日(水)
1 窪さん『アニバーサリー』読了。戦前から東北東日本大震災までを母親になった女性を軸に描く。戦前から戦争が終わり高度経済期を生きてきたおばあちゃん世代の晶子と95年に女子高生だった真菜という世代を交互に描き最後に結びつけていく。意識的に窪さんがやっていると思ったのは、2へ


2 新潮から出ている前二作『ふがいない僕は空を見た』『晴天の迷いクジラ』の要素を掛け合わせた上で二つの時代を書いている。性的な衝動や行動は人間の性であり、それは子供を作る行為でもある、なぜわたしはここにいるのだろう?という存在意識の根本として。故に家族を描く際に、3へ


3 避けては通れない。それを出産という始まりから書いている。セックスをして子供が生まれたから家族になったの?なれるの?血の繋がりがあろうが個人個人の関係のなかで一緒に暮らすと言う事はどういうことなのか? 抱えきれなくなった想いの行く先はどこなのか、を書いていると思う。4へ


4 そして辛かったら逃げてもいいんだよというメッセージや登場人物の行動、そして血の繋がった家族ですら居場所がなくても疑似家族的な血の繋がりもないけども関係性を築ける人々の元に逃げる、あるいは作れるのならそれでいい、死ぬよりは絶対に生きていけるその可能性を。5へ


5 『アニバーサリー』は前二作で窪さんが書いてきたそれらと震災の後の人の心のありようや想い、不安を母になった真菜が感じている中で祖母ぐらいな晶子との関わりの中で少しだけ和らいでいく、真菜のこんな世界に産んでしまってごめんねという気持ちが少しでも青空に近づくように、6へ


6 書かれていて描写や台詞がふいに心の奥にある泉に小石が投げられて波紋が広がる。しかし、この見上げた空は移ろいやすく放射能も舞っているのかもしれない。それでも真菜が再び抱きしめた娘と歩き出すこの世界には色彩があり音があり匂いがしている、肌が感じる風の揺らぎも。7へ


7 数年後にはある程度揃い出すと思うが五十代と四十代の作家群が2011を経て書かざるえなくなったのはやはり1995という時代。ただの近過去ではない。彼らが二十代や三十代の頃に同世代が起こした世界の終わりに向けてのことを含めて日本が確実に変化した95〜11の季節。8へ


8 リアルタイムで見て聞いて感じて知っていた事を、2011の震災が原発問題の風化される速さを思う時にあっという間に風化された時代を語りなおそう、しなければいけないという書き手の人がたくさんいると思う。窪さんは連載中の『さよなら、ニルヴァーナ』も含めて意識しているはずだ。9へ


9 だから『アニバーサリー』と『さよなら、ニルヴァーナ』で窪さんは自身の作家性や自分の資質をこれでもかと投入しさらに幅広い読者に届けれるようシフトチェンジというかパワーを増しているように思えるのだ。という感想でした。まあ、僕の思い込みなんで半分ぐらい外れてると思うけど。


2013年04月17日(水)
窪さんの連載してる『さよなら、ニルヴァーナ』二話読む。『アニバーサリー』と核の部分は共有され、僕らが生きてる間に起きた大きな地震と目を伏せて忘れようとしたことを風化させずに現在進行形の物語に昇華しようとしてる。これ単行本でまとまったら反響すごいことになるわ。


2013年05月12日(日)
『さようなら、ギャングたち』、『さよなら渓谷』、『さよならドビュッシー』、『さよならソルシエ』、『さよなら、ニルヴァーナ』など「さよなら〜」とつくタイトルはなにか良さげだ。僕なら『さよなら、ブコウスキー』ですけどね。ブコウスキーが目の前にが現れてさあ大変みたいなやつね。


2013年06月07日(金)
『さよなら、ニルヴァーナ』の三回を読まねば。


2013年06月08日(土)
『別冊 文藝春秋』で連載中の窪美澄さんの『さよなら、ニルヴァーナ』第三話読んだ。彼(かつてのKid A)は語られるが未だに出てこない。『ゴドーを待ちながら』『桐島、部活やめるってよ』『チワワちゃん』のように中心は未だ不在。東京の空虚な中心である聖なる森のように。


窪さんやっぱ凄いです。 さよなら、 RT @lego_yuzu ニルヴァーナ!!


2013年06月22日(土)
窪さんの短編『雷放電』読んだらこないだの『アメトーーク』の結婚したい芸人が浮かんだ。窪さんのこの所の短編は結婚してる男性視点のやつ二個あるけど連載の『さよなら、ニルヴァーナ』とは読んでる感じが違う。短編は白石さんの小説のセンテンスに近い印象、気のせいかな。


2013年07月21日(日)
B&Bで窪さんが言っていた事で印象深いのはフィクションの中では現実ではイヤな事だったりも面白ければ読めるしいいと思うって言われていたこと。今連載してる『さよなら、ニルヴァーナ』では少年Aがモデルであろう青年を巡る物語だが彼がなぜあんなことをしたか考える手段でもあるはず。


2013年07月23日(火)
地味に連載タイトルのみをツイートって RT @misumikubo さよなら、ニルヴァーナ


2013年08月12日(月)
@misumikubo いえいえただのファンですから〜。『さよなら、ニルヴァーナ』書籍化するまで執筆めっちゃきつすぎると思いますけど待っております。夏バテしないでくださいね。


2013年10月08日(火)
窪さんの『さよなら、ニルヴァーナ』を読んでいると『カナリア』や元ガールズのクリストファーが幼少期に両親が入信していたからそのカルト集団で育った話が脳裏に浮かぶ。


@misumikubo 『さよなら、ニルヴァーナ』最新話読んでたらずっとこの連載読んでて感じるこれは鉈になったって書かれていたことなのかもしれないなって思ったんです。僕の中では。


ヤバいな、色々とゾクゾクするわ。『さよなら、ニルヴァーナ』書籍化する前から書店員さんと書評家さん今のうちから読んでおいた方が絶対いいよ。連載追ってた方がいい。


2013年10月09日(水)
ブログ更新うぉん! 『ムード・インディゴ うたたか』 http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20131009 映画と窪美澄さんの『さよなら、ニルヴァーナ』と柴田さん責任編集の『MONKEY』について少しばかり。


2013年12月07日(土)
別冊文藝春秋』連載の窪さんの『さよなら、ニルヴァーナ』最新話を読む。一話目の東京から田舎に戻った女性が妹の娘の面倒を見ている話だが、読みながらこの女性は未婚で出産経験なし、二話は少年Aに憧れる高校生の女の子、三話は少年Aに子供を殺された母親、四話は少年Aが幼少期いた教団→


少年Aを巡る群像劇にするのかなと思ったけどこの三人のタイプを出す事でひとつの大きな連なりにしているんだろうなと。今回の主人公から見えた女子高生の老いるなんて思ってないその輝きとかの描写なんか女性のが年を取りながら感じる思いなんだろう。連載毎にスパイラルのように物語が加速し始めてる


小説家になりたかった今回の主人公の思いとか小説を書くという動機だとか、仄暗さも含めてなんだけど彼女の思いと窪さんの作家感は当然違う。小説家は自分の想いをキャラクターに託すこともあるだろうけど、想っていない事もキャラクターが話しだすわけで。


最新話での子供を育てる面倒見ることの煩わしさやどうにもできない気持ちとかが書かれているから最後にあの次へと繋がる着地への仄暗い彼女の気持ちにNOとは言えない思えない流れとか本当に質が悪いよ、窪さんと思った。とてもいい意味でだけど。単行本になったらみんなビックリするだろうなあ。


2014年02月08日(土)
『さよなら、ニルヴァーナ』明日読めたらいいな。


2014年02月12日(水)
『別冊 文藝春秋』連載中の窪美澄『さよなら、ニルヴァーナ』最新話をようやく読む。窪美澄論書くなら第一の大聖堂がこれで建った。その経過を連載で僕たちは見てる感じだ。家族ができて誰かが損なわれるor自ら出ていく喪失感や捨てた側の後悔の念は窪さんの逃れられない作品テーマとして核として。


『さよなら、ニルヴァーナ』最新話はなっちゃんと莢(さやだっけ)の親子ぐらい年の離れた二人の女性が主軸。なっちゃん側で起きたことで泣きそうになる。二人の疑似母娘みたいな関係に『晴天の迷いクジラ』が浮かぶ。各章ごとに視線(主人公)を変えることで世界を多角的に細部を積み上げていく。


登場人物を章ごとに分けて繋げていく『さよなら、ニルヴァーナ』はまだまだ続きそうで、少年Aを巡り疑似家族的な方向に行くのか行かないのかなあなんて思ってたら、最後は続き読みたい!と思わせて終わるからさらにやられた感。莢はなぜか千代の富士の娘さんが浮かんだけど背はもっと低いよなあ。


窪さんこれ書き終えたら一人称の長編小説に一回トライするんじゃないかなあと思ったりした。


2014年02月22日(土)
『よるのふくらみ』もだし過去作も連載中『さよなら、ニルヴァーナ』も連作短編集として各登場人物の視線から一話が書かれて一冊の小説に綴られている。だから窪さんの連作短編集はやはり素晴らしく巧いし、いろんな読者から支持される。いろんな視線があるから。


2014年04月10日(木)
窪さんの『さよなら、ニルヴァーナ』最新話もまだ読めてないし、古川さんの『女たち三百人の裏切りの書』二話も園さんの『毛深い闇』も読めてない。


2014年04月11日(金)
メモ・『さよなら、ニルヴァーナ』7 磁石の裏側 少年Aと母の関係≒創作物と作り手、生み出されたものは自然発生的に自我による彷徨を始める。父と子と聖霊、父性の失われた世界で。母と子となに? 涅槃にあるのは父性でも母性でもない。


@misumikubo お疲れ様でした〜、台湾楽しんだら日本に帰っておいでなさい〜。『さよなら、ニルヴァーナ』最新話凄かったっす。


2014年04月12日(土)
昨日読んだ別冊文春連載の窪美澄さんの『さよなら、ニルヴァーナ』最新話が浮かんできた。こちらは少年A事件を巡るモチーフだけど。 RT 『秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」 http://www.j-cast.com/tv/2014/04/11201931.html


2014年06月08日(日)
『さよなら、ニルヴァーナ』最新話読まねえと。


今、連載もので連載の度に読んで追いかけているのは古川さんの『女たち三百人の裏切りの書』に樋口さんの『愛される資格』に窪さんの『さよなら、ニルヴァーナ』に浅野いにおさんの『デーモンズデッドデッドデデデデデストラクション』ぐらい。


2014年06月09日(月)
『さよなら、ニルヴァーナ』最新話「ただいま」を読んで莢と母の関係は今までの窪さんの作品の核である母娘関係でもあるし、母と子は著者と作品でもある。故に子の行動は母には制御できない。母の「誰かが急にいなくなってしまうことがほんとうに怖いのよ」という台詞は窪さんの想いだなって思って。


読んでて『晴天の迷いクジラ』が浮かんで来て関係性は反転してるけど、出て行く者と残される者、あるいは死んでしまった者と生きていく者という関係性はいつだって残された者の問題として残るのだけど窪さんの作品の主軸のひとつで、今回は丁寧にさらに丁寧に書いていて凄いなと思った。


前に窪さんに薦めてもらってみた映画『ピクニックatハンギング・ロック』も実はそういう要素があって。大塚英志著『夏の教室』あとがきでもそれに触れられていて印象深いんだけどそういうのを『晴天の迷いクジラ』文庫出たら大盛堂書店さんのフリペに書こうと思います。


2014年06月26日(木)
浅野いにお作品と窪美澄作品って読んでて僕は近しいものを感じるのはファスト風土化した場所を描いているんだけど前者はそれをあまり感じられない、後者はわりと感じられるが描いているものは共通しているところが多々あるんじゃないかなって思う事があって。


だから窪さんの新潮以外の新刊出る時は浅野さん装丁イラストだったら抜群だと思うんだけどなあ、相性がね。あとおそらくは読めば好きな層に届くんじゃないかな、と両者のファンである僕は漁父の利的になんとなく思ったのです。『さよなら、ニルヴァーナ』とかさ。


2014年08月08日(金)
『さよなら、ニルヴァーナ』の最新話「甘い運命」が凄まじくて何度か鳥肌がたった。
↑いま(今日)ここ!


Girls - Lust For Life - Don't Look Down



 主要な登場人物紹介しときますね。できるだけネタバレしないように。
 東京で小説家を目指していた今日子。震災後に翌年に夢を諦めて実家に戻るが自分勝手な妹夫婦とその娘と母との生活に倦む中、過去に凶悪犯罪を起こした少年Aが地元にいるという噂を聞く。
 少年Aに当時七歳の娘・光を殺された片山は神戸で夫と大学生の息子と平穏な暮らしを取り戻したが酒に溺れる母や鬱病から自殺未遂を起こした夫の世話に追われていた。
 少年Aが住むと噂される場所を訪れた片山は十代の莢と出会う。神戸生まれで東京育ちの彼女は少年Aをハルノブさまと敬い、彼に関する詳細なウェブサイトを作成していた。片山と莢は親しくなるが……。


 この三人と少年Aの視点で連載ごとに物語が進んでいく感じです。
 Twitterでもすでに書いていますがこの作品で大聖堂が建つと思います。窪美澄という作家さんの第一期が終わり、第二期に突入するような気がしているのはそんな予感、というか毎回読んでの実感です。だから、わかりやすい例えだと伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』です。『さよなら、ニルヴァーナ』という作品は。
ゴールデンスランバー』で伊坂さんご自身が自分の第一期が終わったと言われたのはそれまでの作品の集大成として書き上げた実感があったからだし、その次の作品以降のラインは今までのものとは少し違う視点や作家として突入したネクストステージに立った上で書いているという感覚があったからだと思います。


 個人的なことでもあるけどこの所、九十年代というキーワードを意識せずにはいられない。
 『アニバーサリー』が出た時にもそんな話はしていて↑の方に書いているけど『アニバーサリー』『ロックンロール二十一部経』『想像ラジオ』辺りを同時期に読んだので四十代後半から五十代前半の作家さんたちが同時多発的に九十年を書き出したな、時間を経て書ける距離を持てるようになったんだなと思った。と同時に僕は三十二で九十年代に十代だった世代だ。
 今の三十代から四十代前半は思春期から大学ぐらいが九十年代なのでそこの影響下にある。その世代がいろんな場所で世に出てきて、あるいは裏方で企画を動かせるようになっているということが終わらない八十年をようやく蹴飛ばして九十年代に影響受けた者たちの表現が出る土台が出来ているという実感。まあ、二十年周期で文化がリバイバルするのは単純にそういうサイクルだろうけど。



UA×村上淳CHARA×浅野忠信の子供たちが装苑表紙つう時代がくるなんて。九十年代カムバック感。

 って7月30日朝に立ち読みで見かけた装苑のツイートがおもくそバズった。今日の時点でリツイートが4,466、お気に入りが3,334を越えてる。
 UA×村上淳の息子は村上虹郎(河瀬直美監督『2つ目の窓』で主演していて村上淳と親子競演している)、CHARA×浅野忠信の娘はSUMIRE(装苑の専属モデルに何号か前からなっている)という存在を知らない人が多かったというのがこの数を生んでいるはずだ。その人たちは当然僕よりも年齢が上の人がメインだと思われる。
 『FRIED DRAGON FISH』で浅野さんを見ていいよねと思ったような彼の同年代ぐらいかな、ようするに単館系映画とかも観ていて岩井俊二映画好きで大人になったような人たちであろうと推測している。浅野さん自体もいま40歳なのでそのぐらいかな。
 とか諸々知り合いの人と話しているとその手の九十年代話が続いたというのもある。


 これはまったく『さよなら、ニルヴァーナ』に関係なさそうなんだけど、九十年代から現在に繋がっているものとして共通している。少年Aというキーワードとある宗教団体(だがオウムではない)が物語に出てくるし、少年Aは物語の重要人物である。そこに今までの窪作品で書かれてきたものがある意味では変容という形で語られている。
 母と娘という関係性、あるいは女系家族については幾度となく窪作品に出てくる主軸のひとつであり今作でももちろんある。今日子と母だけではなく、今作では片山と莢という少年Aで繋がってしまった赤の他人だが代理の娘として、代理の母として二人の関係がある。それは疑似家族でもある。『晴天の迷いクジラ』でのラストをさらに問いつめていくような物語の構造が『さよなら、ニルヴァーナ』にはある。
 父がいない、父性がないというのも窪作品における主軸のひとつである。デビュー作『ふがいない僕は空を見た』からすでにそれはあって最新話『甘い運命』においてはある人物の口からこの国には父がいないということを窪さんの作品には珍しく語らせている。これは戦後民主主義の崩壊のあと、もう耐用年数過ぎていたからあの大震災のあとに変わるかと思ったら逆に保守に走るというとんちんかんなことをしている奴らが求めているものは戦争へのロマン(まずはお前とお前らの親族とか家族が先に行け、だが絶対に行かないわけだ)だったりして家父長制度とかしょうもないものを求めるのは止めてほしい、ないものを追いかけてもないんだから。窪作品における父の不在は実際の家族の父親がいないということと同時にこの国の父性がもはやないというわかりやすいメタファーでもある。


 で今回の最新話「甘い運命」はそのタイトルのようにラストが映画のワンシーンみたいなクライマックスで次号に続くのだけど、そのドラマチックな展開を見守る人の心は優しさにも残酷さにもどっちにも取れる。そして思っているのだろう、傷ついたら帰っておいでと。この流れだとやっぱり小説志望の女性が次号にメインの視点になるのかな。あと二回ぐらいだと思うんだけど。
 「甘い運命」は初めの方のなっちゃん(片山)の家の件で涙ぐむ、その後終わりまで三回ほど鳥肌が立つという回でした。この『さよなら、ニルヴァーナ』はほんとうにとんでもない作品だよ、出て読んだらみんな信じるだろうけどね。

Wall, Window

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小説のデーモンたち (SWITCH LIBRARY)

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ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

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晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

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クラウドクラスターを愛する方法

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アニバーサリー

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よるのふくらみ

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