Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『思い出のマーニー』

 昨日の『ほんとうのうた』上映後に小島ケイターラブさんと話したこと。小島さんが自分が音楽を作っているときによくわからなくなる、これが正しいのかわらないけど作っていてアウトプットしていて本当に批評というものが大事なんだなと思うと言われていて僕も創作に批評は絶対に必要だと思っていて作り手が自分の作っているものを100%理解していたらそれはたぶんまったく面白くなく広がりのないものになるだろうし、そうならば作らないと思う。アウトプットする青写真もあり理想に向けて作るけど様々な要因で絶対にズレるしわからないものが混ざってくる。わからないものが漂っている。
 批評というのはそれに対しての言葉なので作った当事者も無自覚だったりわかっていなかったものが言語化されて示されるのでそこから次に向けて修正だとか否定しながら自分のよくわからないものにより近づいていける。ひとつの指標でありすべてではないし正しいわけでもないんだけど、例えば、新しいなにかの表現を作ったとしてもそれがみんな理解できない場合に新しい批評があればそこからみんな入っていけるし理解するモデルになる。ただ、それを全部受け入れるのではなく元に自分の考えや思いを組み込むことで自分が理解する形になっていくはず。アナウンスされた言葉は、作品を受け入れる空間を広げたり見方を変えるものなので変化したあとに受け手がこうなのかなとかやっぱり違うのかなとか考えること、作品に向き合うことは結局それに内包されているなにか、わからないなにかに動かされ興味を持ったり嫌悪する自分に向き合わされることになるんだと思う。より深く。
 だから作品に対しての批評というのは切っても切りはなせなくて、批評の言葉と創作がいい距離感であることは本当によいことなんだろうなと昨日からずっと考えていた。



『思い出のルーニー

 


監督/米林宏昌
キャスト/高月彩良・杏奈、有村架純・マーニー、松嶋菜々子・頼子、寺島進・大岩清正、根岸季衣・大岩セツ、森山良子・老婦人、吉行和子・ばあや、黒木瞳・久子、森崎博之・美術教師、安田顕・十一、戸次重幸・紳士、大泉洋・山下医師、音尾琢真・町内会役員ほか


イギリスの作家ジョーン・G・ロビンソンの児童文学「思い出のマーニー」(岩波少年文庫刊)を、スタジオジブリがアニメーション映画化。物語の舞台を北海道の美しい湿地帯に置き換え、心を閉ざした少女・杏奈が、金髪の少女マーニーと出会って秘密の友だちになり、体験するひと夏の不思議な出来事を描く。札幌に暮らす12歳の内気な少女・杏奈は、悪化するぜん息の療養のため、夏の間、田舎の海辺の村に暮らす親戚の家で生活することになる。しかし、過去のある出来事から心を閉ざしている杏奈は、村の同世代の子どもたちともうまくなじむことができない。そんなある日、村の人々が「湿っ地屋敷」と呼び、長らく誰も住んでいないという湿原の古い洋風のお屋敷で、杏奈は金髪の不思議な少女マーニーと出会い、秘密の友だちになるが……。「借りぐらしのアリエッティ」で監督デビューした米林宏昌の長編第2作。杏奈役はドラマ「GTO」や映画「男子高校生の日常」などで活躍する高月彩良、マーニー役はNHK連続テレビ小説あまちゃん」でブレイクした有村架純が、それぞれジブリ作品初参加でアニメ映画の声優に初挑戦。(映画.COMより)



 TOHOシネマズ渋谷でジブリの新作『思い出のマーニー』をイゴっちに百合っぽいけど全然違うよと言われていたのでどういう楽しみかたをしたらいいのかなと思いながら、そういう感じの宣伝だしコピーだったから。
 ネタバレになるけどたいてい夢の中というか現実じゃない時間で杏奈とマーニーが会うし浅瀬なんだろうけど湿原で川の向こうにある屋敷みたいな此岸と彼岸みたいな感じもあって、杏奈の瞳の色についてわりと最初にクォーターっぽいみたいなことを言われるわけだけど太った女の子に、まあその辺りでマーニーと杏奈に関係があるのはわかるっちゃわかる。
 で、実際はマーニーと杏奈は祖母と孫の関係だった。マーニーの娘のエミリー?は出て行って結婚して夫妻ともども亡くなってマーニーに育てられたがマーニー自身もすぐになくなったことで彼女は引き取られた、もらいっことして育ったのでその辺りのことは知らなく、それが最後の方でわりとさら〜とではなくくどいくらいに描かれているのは小学生とかが観るからあのぐらいの感じにしているのかなと思った。隔世遺伝子というか孫と祖父母のほうが関係は父母を挟んでいるだけに馬があったりとかするし。


 観ててマーニーが宮崎駿でエミリーが庵野秀明で、孫はいないみたいなジブリの裏メッセージなのかと思ったんだが。出戻りのエミリーががんばっている間に孫が出てくれば駿のすべてが託されるのかもしれないが、それはもう時間がないのかもしれない。