Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年10月24日〜2022年11月23日)

先月の日記(9月24日から10月23日分)


10月24日

木下龍也著『オールアラウンドユー』を読む。現代短歌の旗手の中でも『情熱大陸』にも出たりと代表的な若手の歌人であり、トップランナーとして短歌を引っ張っていっている感じがしている人。買ったまま読んでいなかったので、読んでみた。
掲載されている短歌全体的に色気がある。穂村弘さんにも感じる色気、この感じはなんというかいわゆるモテる人が持つ匂いとかしぐさみたいなもの、繊細さといたずら心があって母性本能をくすぐるようなものだとそうではない側の人間としては感じるものだ。ようするにたいていの男性からするとうらやましい、と思えるものが短歌から溢れている。と思えた。
男女関係なく現代短歌はツイッターなどとの相性の良さもあって、歌集もたくさん出るようになっているし注目もされている。Wikipediaを見ると木下さんは穂村弘さんの歌集を読んだことがきっかけで作歌を始めたとあった。そう考えると納得できるところもある。
上の世代を代表する歌人穂村弘さんで、彼の影響を受けている木下龍也さんが今注目されているというのはとてもいい流れと循環のサイクルだ。そして、木下さんの歌集を読んだ人がまた作歌をはじめて短歌の世界が豊かにつながって広がっていく。木下さんも穂村さんのようにエッセイなども書かれていくのだろうか、それも読んでみたい。

 

――渡辺さんがよくお仕事をされていたテレビ局も……ということですね。

渡辺 ただ、大組織も一枚岩ではないので、中には「これは絶対におかしい」と感じてなんとかしようともがいている方たちも確実にいらっしゃるんですよ。そういう方がたまたま私のところに来てくださったことが、近年の私の脚本の傾向につながっていると思います。

――佐野Pが最初に渡辺さんとお会いしたのが2016年ということは、『WW』や『ここぼく』とほぼ同時期に『エルピス』の企画開発も始まっていたということですか?

渡辺 そうですね。だからその……ちょうど安倍政権の絶頂期みたいなときですよね。当時、政権与党の批判が言えなくなっている萎縮した空気を感じていました。昔は、総理大臣や政治家の悪口なんてみんな平気で言っていたし、新聞にもそういう風刺漫画が普通に載っていたじゃないですか。それがこの10年くらいで、誰も言わないというか言っちゃいけないような風潮になって、それがものすごく怖かったんです。

――常にクオリティの高い作品を書かれる渡辺さんの、脚本の書き方が気になっています。以前、どこかのインタビューで「頭の中にファイルがどこからか届き、それを読み込んでいく」イメージで書かれるとおっしゃっていて、なんだそれは! とびっくりしました。

渡辺 そうなんですよ(笑)

――そのファイルが届くために、まずは登場人物の履歴書を綿密に考えたり、人物相関図を掘り下げたりはされるんですか?

渡辺 掘り下げるというより、今回の『エルピス』なら、キャスティングがまだ全然決まっていない段階から、佐野さんと私の間で主人公は長澤まさみさんで思い浮かんでいて。じゃあ、長澤さんの周りに誰と誰と誰がいて、どんな関係性でどんなことが起きたら面白いだろう、というイメージを最初にひたすら膨らませます。

なんというか、面白いことが起きる配置というかバランスみたいなものがあるんですよ。それを考えて考えて、あるとき「いける!」という感覚がカチッとハマったとき、なんか天からファイルが届くんです(笑)。あとはそこで起きていることを、ただ傍観者として書き留めていく、という作業ですね。

「リスクが高い」とどこからも断られた…ドラマ『エルピス』が実現に至るまで 脚本家・渡辺あや 1万字インタビューより

渡辺 私は人を傷つけない表現なんてないんじゃないかと思っています。しかし今、リスクに対して制作側が過敏になり、傷は非常に避けられる風潮があると感じています。今回も私と佐野さんは最後の最後まで議論を重ねていきました。佐野さんはプロデューサーとして作品や役者さんのことを守らなくてはいけない立場にあります。でも私は、今の社会の中で人間の業を肯定したり、受容できる場はエンタメぐらいだと思っています。報道やドキュメンタリーでは無理でも、ドラマや映画ならそれは描ける。人間って、そもそも都合の悪い生き物だと思うんですよ。

「途中で怖くなってしまったようです」 「エルピス」脚本・渡辺あやが明かす 民放で社会派ドラマが実現しない理由より

今夜からフジテレビで放送開始のドラマ『エルピス』の脚本を手がけている渡辺あやさんのインタビュー記事が公開されていた。
以前にNHKで放送された『ワンダーウォール』(のちに劇場版が公開)と『今ここにある危機とぼくの好感度について』の二作は『エルピス』に繋がっているのがよくわかる。あの二作品は今の日本だけではなく、世界中で起きていることを描いている作品だった。
もちろんインタビューでも言われているように巨大なテレビ局の中でもさまざまな意見や利害関係や考え方、政権との関わりがあり、一筋縄ではいかない。その二作品は大学を舞台にしていたが、今回はそれがテレビ局になっているバージョンとも言えるようだ。
ほんとうにたのしみでしかない作品。TVerでリアルタイムで見たいけど、明日は久しぶりに出社して他社にインタビュー取材で伺うのであまり目が冴えても、頭が冴えても支障が出そうなので明日以降のたのしみにしたい。まあ、放送後にTwitterでいろんな反響が出るだろうけど、そこもスルーしておかないと。

フジテレビ『silent』

各所で話題になっているドラマ『silent』の第一話をようやく見る。三話まではTVerで配信されているので気になっていた。
泣ける恋愛ものを今の自分が見てハマるだろうか、とか思っていたのだが、夏帆さんも出演しているらしいと知ってちょっと興味が沸いた。なるほど、僕らの世代でいうと『愛していると言ってくれ』にちょっと近い感じだ。
主人公の青羽紬(川口春奈)と高校時代の元彼である佐倉想(目黒蓮)を中心に描くドラマだが、高校卒業後に想から急に振られてしまった紬。東京に上京してタワレコでバイトをしている彼女は同級生だった戸川湊斗(鈴鹿央士)と付き合っている。紬がある日、電車で想を見かける。そこから物語は始まっていくのだが、という話。

佐倉想は高校を卒業するあたりから耳に違和感があり、現在では難聴になっていて耳が聞こえない。想は恋人のような桃野奈々と一緒に過ごしていることが多いが彼女も聾者であり、二人は手話でやりとりをしているのが中盤以降にわかる。
一話の最後では想を見つけた紬が会えなくなってからの思いを言葉で彼にぶつけるものの、耳の聞こえない彼は手話で「うるさい、聞こえない」と伝える。その手話を彼女がわかるはずもなく、かつての恋人同士だった二人だが今は会話すらできない状態になっているというラストで終わった。
ああ、これは確かに泣いてしまう。伝えようとしても伝えることができず、それを受ける側もその手段を失ってしまっている。もう、届かないのだということはせつなく、かなしく、いたい。それが一話のラストシーンならば、この先どうなっていくのか、多くの人が次回以降を期待するし、話題になるもわかる。

冒頭での付き合い始めた際のクリスマスでお互いにあげたのがイヤフォンで色違いみたいな件が映画『花束みたいな恋をした』と同じじゃんって思ったけど、そういう人はわりといるポピュラーなことなのだろう。まあ、音楽好きだったカップル(あるいはきっかけが音楽だとか)だし、高校生だから妥当なプレゼントだし。スピッツを想が聴いているシーンがあって、これをきっかけにまた十代や二十代の人たちがスピッツを聴くきっかけになっていくのだろうか、すでにSpotifyなんかではスピッツを知らない世代が新しいファンにとして聴いているのだろうと想像する。
あとは『愛していると言ってくれ』だと榊晃次(豊川悦司)に年の離れた義妹の栞(矢田亜希子)がいたが、『silent』では紬には弟(青羽光:板垣李光人)、想には妹(佐倉萌え:桜田ひより)がいてふたりも高校の同級生であることで繋がっているというのも大事な要素(&設定)になっている。この辺りの人間関係や家族関係によって、想が高校の同級生たちには伝えていなかった(教えていなかった)耳が聞こえなくなったことが別のラインで伝わっていくという展開になっていて、この辺りもすごくわかりやすくていいドラマになっていた。

主人公ではなく相手役の想が難聴になって手話を使っている設定だが、確かに昨今の映像作品では手話を使っているものが増えてきている。映画『コーダ あいのうた』や濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』(韓国手話)という国際的にも評価の高い映画にも手話は重要な要素として出てきていた。また、古川日出男著『曼陀羅華X』でも主人公の老作家の血の繋がらない息子は聾者であり、手話が二人の会話(コミュニケーション手段)になっていた。これは近年よく言われている「語り(ナラティブ)」ということも強く関係しているだろうし、もちろん手話はボディランゲージでもあるので映像的には映える部分もあるはずだ。
あとはコロナパンデミックによって人々がマスクをして口元が見えなくなったということも影響しているのだろう。冒頭で紬が想の声を聞いてその声が好きになったというところ、そこで彼は言語について話をしていた。世界中にはいろんな言語があると。言語が違えば意思疎通は難しい、そして言葉で話す紬とその声が聞こえずに手話を使っている想はまったく違う言語を使って生活をしている。かつて当たり前にできていたことができなくなってしまっている。言語が違ってしまっている。そういうものを描いている作品なんだと思う。
もちろん、同じ言語だからと言って意思疎通ができるわけではないし、今の世界の状況は敵か味方に別れてしまい、もはや会話が成り立たない。相手の側に歩み寄るということはできなくなっている。そういう意味ではこのドラマは意思疎通についてを今なりのやりかたで描こうとしているのであれば、素晴らしい作品になると思う。とりあえず、四話の放送日前には二話と三話を見よう。

 

10月25日

久しぶりに竹橋駅近くの会社に出社。九段下駅で降りてから十分ほどの距離。さすがに九段下駅から東西線に乗り換えて数分の無駄な乗り換えはしたくない。オフィスは改装工事をしてからははじめて入ったけど、前よりも席は減っている感じだった。まあ、リモートワークの人が増えているし、みんなが出勤するわけではないからちょうどいいのだろう。
とりあえず、十五時から集英社でインタビュー取材の仕事があったのでそれまでオフィスで作業をしていた。会社から歩いて十分ほどの距離にあるので出社したほうがいろいろと楽なこともあった。しかし、普段人がいないところで作業することになれてしまったせいか、たくさん人がいると落ち着かない。
座っていた席の島というか長机というか、そのブロックには同じチームのスタッフの人もいなかったので、ずっとradikoで『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』『Creepy Nutsオールナイトニッポン』『フワちゃんのオールナイトニッポン0』を聴きながら作業をしていた。家を出るときは『空気階段の踊り場』を聴いていたので、普段とあまり変わらないといえば変わらない感じで仕事をした。
元々火曜日は朝の仕事がない日だったが、インタビューの日時の候補からこの日がベストだったので休みではなくなったけど、一日分稼げるからいいかって気持ちだった。
もらった候補日の他の日はすでに予定を入れていたが、その一つは相手のスケジュールの問題で延期になっていた。だけど、諸々インタビューに関しては決めたり、お願いすることが多いので、その日に変えることもできなかったけど、この日でよかったんじゃないかなって思った。早めにインタビューできたほうが文字起こしとか構成とかも余裕ができるのはありがたい。


昼休憩の時に神保町駅のほうに歩いて行って、インタビューする際に訪れる住所を一度確認してから、東京堂書店阿部和重著『Ultimate Edition』を購入した。約十年ぶりの短編集らしい、この前に出た長編『ブラック・チェンバー・ミュージック』の舞台は神保町だったので、なんかそこから繋がっている感じもして少し嬉しかった。

いつも記事の写真をお願いしているフォトグラファーさんと集英社の指定されたビル前で待ち合わせしてから受付をして中に入る。今回はお話を聞かせてもらう編集者さんが三名で話を聞くこちらは一名なので同時に文字起こしなどの余裕はまったくなく、ICレコーダーで会話が録音できてなかったら死ぬと思いながら、時折レコーダーのデジタル表示が動いているか確認していた。
最初はリモートインタビューみたいな感じになりそうだったけど、やっぱり対面じゃないとわからないことがある。相手の顔をしっかり見るとか話している空気感とかで話をどう展開するかとか、リモートはその辺りがほんとうに難しいし、なによりも余談がしにくい。
話が横道に逸れていくとそこから本題に関わる話とか意外な部分が聞けることがあるけど、やはりそういう空気にするのは対面でないと初対面では特に難しい。いろいろ聞かせてもらえたので文字起こしをして、そこからどう構成していくかで記事の出来も変わってくるのでしっかりやらないといけない。終わってからは会社に戻らずに九段下駅まで歩いてそこから一本で最寄り駅まで帰った。
久しぶりに出社したけど、バイトスタッフなので時給ということもあるのでリモートならすぐに終わって次の仕事とか移りやすいし、予定があったらすぐに動けるけど出社と退社の移動する時間には時給は発生しないことを考えるとちょっと損したような気持ちにもなってしまう。だから、一回家に帰ってから残りをリモートに切り替えた。これは社員とかだと年棒性とか毎月のサラリーが決まっているからまた違う感覚なのだろうけど、時間で働いていると移動時間ができるだけないほうがいいと思ってしまう。

『接続する柳田國男

太田出版のWebマガジン「OHTABOOKSTAND」で大塚英志さんによる柳田國男に関する連載が始まっていた。しばらく続くようなので追いかけて読んでいきたい。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年11月号が公開されました。11月は『窓辺にて』『土を喰らう十二ヵ月』『ある男』『グリーン・ナイト』を取り上げました。

 

10月26日
仕事の休憩時間を午前中にスライドさせて二週間ぶりに歯医者に行って、前にレーザー治療してもらったところを診てもらう。この期間中に一度歯茎がぷくりと膨らんだこともあり、完治はしてないなとわかっていた。
先生もだいぶよくなったけど完全には治っていないとのことで再びレーザーを照射してもらった。今回は一種類だけだったが、前回の時のような痛みはほとんどなかった。これも菌がほとんどいなくなっているか、活動が弱まっているということなのだろう。
次回も二週間ぐらい経ったらまた診てもらうことになった。レーザーはすぐに治っちゃうから儲からないんだよねって終わったあとに言っていたので、効き目はやはり高いみたい。最初に顎が痛くなった時のことを考えるともう痛みはまったくないと言えるほど治ってきている。だが、また菌が残っていれば歯茎が腫れる可能性もあるので、あと数回二週間置きぐらいにレーザーするならこちらとしては負担がほぼないので助かるのだが。


仕事が終わってから渋谷に出てシネクイントへ。上映中のニック・モラン監督『クリエイション・ストーリーズ 世界の音楽シーンを塗り替えた男』を鑑賞。
水曜日のサービスデーだったこともあるのか、かなりお客さんは入っていた。クリエイション・レコーズのレーベルからデビューしたり、音源を出したバンドのことを考えると僕ら40代以上がどうしても多くなってしまうのは仕方ない。

1990年代のブリットポップ・ムーブメントを牽引し、オアシス、プライマル・スクリームティーンエイジ・ファンクラブマイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどを輩出したイギリスの音楽レーベル、クリエイション・レコーズ。その創設者アラン・マッギーの波瀾万丈な人生を映画化。

スコットランド生まれのアランはロックスターを夢見ていたが、保守的な父親と衝突してばかり。ついには故郷を飛び出しロンドンで暮らし始める。仲間と共にクリエイション・レコーズを設立し、トラブル続きのレーベル運営の中、アランは宣伝の才能を開花させていく。次第に人気バンドを輩出する人気レーベルとなるが、その一方、レーベル運営のプレッシャーや家庭問題によって精神的に追い詰められていく・・・

トレインスポッティングダニー・ボイルが製作総指揮を手がけ、同作の原作者アービン・ウェルシュが脚本、同作に出演したユエン・ブレムナーが主演を務めた。監督は『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』などの俳優ニック・モラン。(映画.comより)


アラン・マッギーが語る『クリエイション・ストーリーズ』。その音楽革命の裏側、Oasisに関する証言も | CINRA

内容としてはアラン・マッギーと「クリエイション・レコーズ」meets『トレインスポッティング』という映画であり、当時のイギリスにおける文化背景も序盤で強く感じるものとなっていた。映画『トレインスポッティング』に関わっている人たちが作った作品なのでそう見えるのは当然とも言えるし、「トレスポ」好きな人には間違いなくたのしめる一作になっている。
家父長制を絵に描いたような強権的な父に反抗するかのようにデヴィッド・ボウイセックス・ピストルズに魅了されて音楽を始める主人公のアラン。後半では彼の創造性や芸術性があることを後押ししてくれた母の理解があったことがわかり、涙を誘う展開も用意されている。そして、ドラッグによってボロボロになったアランを救ってくれるのは母亡き後は父と妹たちだった。そういう意味での家族についての、父と息子の物語でもある。

ミュージシャンとしてデビューするために友人と故郷のグラスゴーからロンドンに出ることになるアランだが、一緒に行かなかった二つ下の友人がボギーという少年で、彼ものちにロンドンに出てくることになる。アランが作ったレーベル「クリエイション・レコーズ」から音源を出して人気になっていたジーザス&メリーチェインのドラムをボギーはアランから言われてするようになるが、その時点で彼はプライマル・スクリームの活動も行っていた。そう彼はプライマル・スクリームのフロントマンであるボギー・ギレスピーであり、時代を作った「クリエイション・レコーズ」創設者のアラン・マッギーとプライマル・スクリームのボギー・ギレスピーが少年時代から一緒に音楽をしていたということが後の時代を作る一つの要因(可能性)となっており、ロックの歴史のひとつになっていた。
映画としては二時間なのでアランがロサンゼルスでライターの女性にレーベルを畳むまでを宿泊しているホテルのプールサイドでインタビューを受けているという感じで進んでいく。ちょうどそのときは世界中でヒットしてロックスターとなっていたオアシスのライブがアメリカで行われているという時期ということになっていて、それを示すような看板が移動中の車から見えるシーンが出てくる。

アランがグラスゴーからロンドンに出てきてから知り合った仲間とレーベルを立ち上げ、借金と返済を繰り返しながら、いろんなバンドを見つけては世に出していくという歴史を描いているが、そこには音楽と情熱とドラッグがあった。
九十年代のイギリス、ロンドンの音楽シーンというもの、もちろん所属していたバンドたちが売れていくこともあり、大手レーベル(ソニーなど)の傘下にもなっていくのだが、彼らは魂を売り渡すのかどうかという葛藤もあり(そのたりの描写は多くはないが少しはある)。
映画を見ているとインディーレーベルだった「クリエイション・レコーズ」が果たし役割のようなものがわかる。メジャーとインディーの垣根は彼らのレーベルの出現によってかなり無くなっていった。だが、それは同時にインディーでも大ヒットを出して業界で戦える人たち(日本でも出てくることになったが)の出現であり、世界中に広がっていく。だが、現在の世界で考えれば、IT系に多いスタートアップ企業は最終的にはGoogleなどにバイアウトしてしまえば勝ちみたいな流れを考えるとアランたちのパンクスピリットとは真逆なような気がする。

ネットフリックスなどで六話から九話ぐらいの連ドラにすればそれぞれのバンドについて一回ずつぐらいはできそうだし、内容も濃くできた部分はかなりあっただろう。しかし、主役はアランなので彼の人生を彩るものとしてバンドメンバーたちや彼らが様子も描かれている感じになっていた。彼らのバンドストーリーも見たいという気にはなった。作中で出てくるのはジーザス&メリーチェインやプライマル・スクリームだけではなく、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインティーンエイジ・ファンクラブやオアシスなどレーベルから世に出ていった有名なバンドばかり。
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインがアルバム『ラヴレス』の制作が二年かかり、金もかかりすぎてレーベルが倒産しかけるなどのエピソードも出てくる。そのせいでバンドのリーダーであるケヴィン・シールズとアランたちレーベルの関係が悪化して、マイブラは移籍することになったと言われているが、映画の中ではケヴィンは自分のやりたいことを押し通していく強引さがあり、だからこそ時代に残るバンドでありアルバムを作り上げた。アランたちが被害者のようにも見えなくもないが、どこを主軸にして物語を見るかで全然違う質のものになってくる。これもロックの歴史における一ページである。
母が亡くなったあとにグラスゴーに帰ってロンドンに戻る列車に乗れなかったアラン(この列車に乗れないために間に合わないという件は度々出てくる。実際の話かどうかはわからないが『トレインスポッティング』を感じさせる)は諦めて地元のライブハウスに妹と行くのだが、そこでオアシスのライブを見て感動し契約を結ぶ。そう、偶然の出来事からオアシスというビッグバンドのデビューが決まる。
オアシスのメンバーも実際の彼らとは微妙に似ていないのだけど、ノエルの太々しさと未来を見据えていた感じなどはうまく出ていたと思うし、僕は4thアルバムのツアーからしかオアシスのライブは生で観れていないが、兄弟喧嘩を繰り返し世界で最大級のロックバンドになったオアシスがすでに解散してしまっている現在を知っているものからすれば、彼らの運命が決まったその瞬間を見るだけで涙が出てきてしまった。ここからオアシスの歴史が始まったのだという未来人のような視点からの感動があった。そして、その終わりのことも脳裏に浮かんでいた。

Primal Scream - Loaded (Official Video)




帰り道の東京百貨店前の信号を渡る時に見えた渋谷スクランブルスクエア。毎回夜通るときは思うけど、あれだけちょっと近未来感、悪い意味で『ブレードランナー』的な想像力の中にある建物。

僕がオアシスやレディオヘッドを聴くようになったのは高校からで、同級生の友人が聴いていたのがきっかけだった。いまだに付き合いがあるので観終わったあとにラインで「『クリエイション・ストーリーズすごくよかった!」と送ったら、「ネットじゃボロクソに書いてあったがw」と返ってきた。なんというか、がっかりもした。
二十年以上の友人であり、何度も海外のロックバンドの来日ライブに一緒に行っていたから僕が最初にこの映画の感想を伝えたいのが彼だった。しかし、友人であるはずの僕が観た感想の「よかった」という言葉に対して、「どこがよかったの?」とかではなく、まだ観ていないからといってネットでの感想や反応について書いてくることの意味が正直わからないし、最後の「w」はほんとうに人の気持ちを逆撫でるものだとわかっていないのだろう。
僕ら中年以上のおじさんがSNSなんかで文章の最後に笑いの意味で使う「w」は冷笑系というか、いろんなものを下に見ているような感じがする。僕はそう感じたのが何年も前だったから、そこからはできるだけ使わないように気をつけている。冷笑系によってこの世界が悪くなった部分が確実にある。なんだかやるせない気持ちになったし、会話にはならないなと思ったのでラインを閉じて歩いて家の方に向かって歩いた。

 

10月27日
『エルピス―希望、あるいは災い―』 第1話あらすじ

TVerでやっと『エルピス―希望、あるいは災い―』第一話を見た。映画『ジョゼと虎と魚たち』以降、ほとんどの映画やドラマを見ている渡辺あやさんが脚本を手掛けるドラマ。演出を大根仁さん、プロデューサーに佐野亜裕美さんということも話題になっていたが、エンディングのクレジットを見たら衣装(スタイリング)のところに伊賀大介さんの名前があり、企画のところにはテレ東を退社した上出遼平さんの名前もあった。この企画というのはエンディングの企画・プロデュースということらしい。音楽は大友良英さんで主題歌はSTUTSが音楽プロデュースを手掛ける音楽集団。
もう主役の長澤まさみさん含め役者陣もすごくいいが、スタッフも手練ればかり、各局のドラマやバラエティーで頭角を現していたり、新しいものを作っている人たちは局を変わったり、フリーになったりしながらこうやって集まることで新しいチャレンジをしているわけで、優秀な人たちは今後作品ごとに集まるようになっていく作り方が増えていくターニングポイントの作品にもなりそう。
一番最初に勝海舟役で映画に出ている役者として松尾スズキさんが演じる人物が出てきていきなり笑いそうになってしまったが、彼が眞栄田郷敦演じる岸本に向けて言った言葉が一話の最後に彼の過去と結びついていることがわかるのもうまい展開だった。
冤罪をテーマにしているが、長澤まさみ演じる主人公の浅川と岸本、そして浅川の元カレであり現在は官邸キャップのエース記者の鈴木亮平演じる斎藤というメイン三人の関係性や置かれている状況を見せながら進めていくのだけど、どうなっていくのか先が見たくなる見応えのある展開だった。また、情報バラエティに報道から飛ばされてチーフプロデューサーの村井を岡部たかしさんが、一話で重要な役割を果たし道筋を作ることになるヘアメイクの大山を三浦透子さんが演じている。この辺りの配役もとてもいい。
渡辺あや脚本ドラマだと前作はNHKで放送された『今ここにある危機とぼくの好感度について』は多少コメディというか笑える要素もあったが、今作はかなりシリアスなものになっていく感じがするが、最後まで絶対に見ると思う。しかし、いろいろ展開としては怖い感じになっていきそうな。

ドラマを見終わってからニコラに行ってスコーンとアルヴァーブレンドをいただく。


昼過ぎに熊倉献著『ブランクスペース』1巻から3巻(最終巻)のコミックを買っていたので読み始める。
少し前に親友のイゴっちからオススメされて気になっていたので、一気に読もうと思っていたもの。偶然だが、昼前に散歩がてら買い物で家を出るときにradiko で聴いていた『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』(26日深夜に放送された分)でも佐久間さんが今週のオススメのエンタメとして紹介されていた。だから、読むにはベストなタイミングだった。

『ブランクスペース』 #1 緑茶も紅茶も

ある雨の日、女子高生の狛江ショーコは、同級生の片桐スイが不思議な力を持っていることを知る。 ふたりの出逢いをきっかけに、やがて"空白"をめぐる物語が動き出す―――。 デビュー作『春と盆暗』が話題となった新鋭が描く、新たなる奇譚。

主人公のショーコと想像したものを目には見えない「空白」として生み出すことができるスイの物語は、ふとしたことから友達になった二人の日常系のほのぼのした作品かと思いきや、それとは違う方向に動いていく。彼氏が欲しいがいつも振られているショーコはなにかが人より秀でているということもない平凡な女の子。そして、幼い頃からその不思議な能力のことを理解し、誰にも言わないようにしてきたスイ。
スイはクラスの中でイジメられるようになり、その「空白」でナイフなどを作り出し始めてしまう。そのことを察知したショーコは「彼氏を作ろう」と提案する。彼女の能力は思い浮かべたらすぐに形になるのではなく、その材料というか素材をイメージしたものを合体させていくものだった。スイは図書館でいろんな本を借りており、鋼材であったり何かを作る際の素材になるものについて調べていた。文学も好きでいろんな作家の文章や詩人の詩などが作中で引用もされている。

「彼氏」を作るためにはまず人体について把握しないといけないため、スイは解剖学などを学んでいく。だが、工具などは作れても「生命」は素材だけがあってもどうもうまく形を成さない、つまり生命を吹き込めないでいた。だが、スイはほんとうに「テツヤ」という彼氏を作ることに成功してしまう。
残念ながらショーコにはその姿は見えない。テツヤと過ごすことでスイはなんとかイジメなどを耐えることができるようになるのだが、以前に彼女が想像して作ろうとしていた飢えた犬が知らぬ間に「空白」として動き出しており、町に不穏なことが起き始めてしまう。
「空白」として生み出せるようなものはある種のイマジナリーフレンドのようにも見える。だが、人が想像できることは実現できるという言い方もあるが、世界中にはあらゆる人が想像した「なにか」が溢れているはずであり、それはほとんど形になることはない。これは「想像」でありながらも「創造」について描いている作品でもある。

なにかを「創造」して作り上げることの難しさであり、喜びであり、後悔である。作り出したものが創作者を幸せにするとは限らない。だが、目に見えないからほんとうに存在していないとは言えない、という僕らのイメージともこの物語は結びついていく。
この物語にはショーコとスイ以外にも「空白」に関わる人たちがでてくる。すでに亡くなった人が書いた自費出版で一冊だけ存在流小説を読んだ男とその書き手の甥っ子にあたる人物であり、小説に出てくる女性も彼らには見えないが彼らと一緒にコーヒーを飲む席にいるという不思議な状況が起きていく。
最終的には巨大化した凶暴な飢えた犬の「空白」とテツヤやその女性たち「空白」が見えない戦いをすることになる。ショーコは主人公でありながら、不思議な能力はなく、なんとかスイを助けようと奮闘する姿が描かれる。そこには損得もなく、ただ友達だというだけである。学年が変わってからクラスが変わってからはスイがクラスでどんな扱いを受けているのかショーコは知る術がなく、スイもそのことを話さない。それもあって、スイは作り出した「テツヤ」に癒しを求めるようにもなるが、スイにとって目に見える世界に繋ぎ止めてくれる唯一の存在が彼女だとも言える。だから、ガール・ミーツ・ガールの物語と言ってもいいのだろう。
日常系にも見えるちょっとほのぼのしている絵柄だからこそ、この物語は成り立っている感じもする。例えば、『GANTZ』のようなリアルな絵柄ではこの少しふんわりとした世界観は成立しないだろう。リアルさを求めると「空白」で存在しているものが嘘っぽくなってしまう可能性もある。この絵柄だからこそ活きる設定と物語展開だと思える。
三巻で終わるからこそ間伸びしないで描き切れた内容だと思う。やっぱり「想像」と「創造」におけるプラスとマイナスを日常系SFという形で描いている素晴らしい作品だと思った。

 

10月28日
朝からリモートワークで先日のインタビューの文字起こしを進めながら他の作業も並行してやっていた。昼休憩の時に銀行に行って通帳記入と国民年金の支払いに行って、昼食を買いに出た。家から出てすぐの時にradikoで『四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919』を聴こうと思って、イヤフォンジャックをスマホ本体に差そうとしたら手元が狂ってスマホが地面に落ちてしまった。そのまま拾ってからイヤフォンを差しこんでラジオを聴きながら駅前に向かった。
途中でスマホをいじろうとしたらメイン画面のよく使うカレンダーアプリのアイコンの下にゴミみたいな黒い点のようなものがあったので指で払おうとしたが取れず、光の加減で画面に逆卍みたいな感じでヒビが入っていた。久しぶりに見たヒビ割れ画面。
黒い点は落ちて地面に当たった時にヒビが入った最初の地点というか箇所であり、わずかに欠けている感じでそこからヒビが上下左右に広がる形になっていた。まあ、パッと見ではわからないぐらいなので放っておけばいいのだが、僕はこうなってしまうと気になってしまって仕方ないのでそのままAmazonの画面から過去に注文したところから再注文でガラスフィルムを頼んだ。
これで何回目かは忘れたが、スマホ本体の画面自体が割れることを考えたらガラスフィルムを買い替えておけばそれが割れても本体が割れる可能性は低くなる。このまま割れたままだと次に落とした時には衝撃がフィルムを通り越して本体の画面に直撃してしまう恐れがある。画面が割れたままでずっと使っている人がいるのを見るけど、そういうのは僕には信じられない。確かに本体画面が割れているとスマホ自体が高価なものだからすぐに機種変更とかできないから若い人は割れたままでも気にしていない(変えられない)人が多い印象だけど、そのヒビ割れはやっぱりそのままでいいということにしてしまうとなにかがこぼれ落ちるような気がしてしまう。さらにボロボロにもっとひどく割れていってしまうという恐怖感がある。


銀行に行ってから買い物をしたあとにトワイライライトに寄って、昨日書店で見て気になっていた小沼理著『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』を購入して、店長の熊谷くんとちょっと世間話をした。


家でリモートワークの続きをしていたら、先日アマゾンで頼んでいた阿部和重著『Deluxe Edition』文春文庫版がポストに届いた。今読んでいる『Ultimate Edition』の前に出た短編集だが、これは読んでいなかったので読みたくなったので探したが、わりと前の文庫でいくつかの書店を行ったが見当たらなかったので困った時のアマゾンで探して頼んでいたもの。こちらは文春で今回の短編集の単行本は河出書房から出ている。
阿部作品はデビューした講談社からよく出ていた時期や新潮社からよく出ていた時期などがあり、今は文庫でもなかなか書店で見つからないことが増えてきている。平成に出てきた重要な日本文学を代表する作家だから、作品が電子書籍で読めるのは大切だけど、書籍でもある程度は大きな書店では揃えておいてほしいものだけど。

フジテレビで放送中の『silent』を四話まで見た。今クールは気になるドラマが多いので久しぶりにTVerで何作か見ている。
『エルピス―希望、あるいは災い―』はなんと言っても渡辺あや脚本という時点で見ない理由がない。個人的なことを言えば、かつてのシネクイントで『ジョゼと虎と魚たち』を観て完全に持っていかれてしまったわけだが、その脚本が渡辺さんだった。彼女が岩井俊二監督のオフィシャルサイト「円都通信」内のシナリオ応募コーナー「しな丼」に応募したことでプロデューサーの目に止まり、『ジョゼ』で脚本家デビューしたことを知っていたにもあって、その後名前が変わった「プレイワークス」に僕も応募して一応引っかかって作品を開発するところまでは行った。その後は担当さんとうまく行かずに(僕がいろいろとわかっていなかった)映像化とかには進めなかった。

その後も渡辺あや脚本の映画が公開されれば映画館に観に行っていたし、『天然コケッコー』の素晴らしさとかはmixiにすごく思い入れを持って書いた。映画公開に合わせてNHKの『トップランナー』に渡辺さんがゲスト出演の時には応募して当てて観覧もした。ぐらいには好きな脚本家さんであり、NHKでいちばん最初に脚本を書いた『火の魚』が2009年で、翌年には『その街のこども』がさらにその翌年の2011年には朝ドラ『カーネーション』を手掛けることになった。
僕は初回から最終話まで見た朝ドラは『カーネーション』と宮藤官九郎脚本『あまちゃん』しかない。その後は『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー原作を元に日本を舞台にしたもの)、『ワンダーウォール』、『ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜』、『今ここにある危機とぼくの好感度について』とNHKで放送されたドラマ脚本を書かれた。
『ワンダーウォール』『今ここにある危機とぼくの好感度について』は大学を舞台にしながらも、安倍政権下になってからの日本社会の縮図のひとつとして大学組織における個人と組織というものを描いていた。そこには見えない透明な壁があり、それに押しつぶされる個人が苦情を言おうとしてもその対応をする者も派遣社員や委託社員であり、怒りや願いは届かないというシステムになっている、というどこにもで起きている構造をしっかりと描いていた。

『エルピス―希望、あるいは災い―』は大学組織からテレビ局に舞台を移して(企画自体は『今ここにある危機とぼくの好感度について』よりも前にあったので、そちらが今作の大学ver.的な部分もある)いることでよりすごいものになるだろうと思っていたけど、一話を見るとやはり画面から目が離せないものになっていた。朝ドラの放送時間帯は朝食や出勤などの準備で見るものだから説明セリフとは言えなくても画面を見ていなくてもわかるものというのがそれまでは当たり前だったものの、『カーネーション』は画面を見ていないとわからない、セリフには頼らないで役者の動きや表情で物語る作品になっていたが、そのことをあらためて思い出した。やっぱり渡辺あや脚本は明らかになにかが違う。そして、それを映像化しようとする者の覚悟が問われているものとなる。
最終回まで確実に見るドラマだなと思ってとりあえず初回は二回見たので二話の前にもう一回見ようと思う。

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『silent』に関しては、僕らの世代でいうと『愛していると言ってくれ』とかを思い出す人が多いのだろうけど、十代二十代の若い世代だけではなくそういう上の世代にもウケているというニュースを見かけた。

LINE、タワレコ、世田谷代田…ドラマ「silent」が“実名”にこだわる理由〈脚本家、プロデューサー・インタビュー〉

このインタビューの中で脚本を手がけている生方さんは「『手話を使う』『川口春奈目黒蓮2人のラブストーリー』という“お題”をもらったところからスタートしました」と答えている。
生方さんが脚本家の坂元裕二さんを尊敬すると答えているのはなんとなくわかる。一話を見ている時に『花束みたいな恋をした』にちょっと近しいものがあるなと思って、プロデューサーとかスタッフがその映画に関わっているのかなと思ったんだけど、坂元さんのドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』には関わっている人たちだった。
最初から「川口春奈目黒蓮」というキャスティングは決まっていてやるならラブストーリーというのはわかる。そこに「手話を使う」プロデューサーが三題噺のようにお題を出したことがたぶん重要なんだと思う。

なぜ手話なんだろうか、ということ。去年公開された『ドライブ・マイ・カー』では韓国手話、今年一月に公開された『コーダ あいのうた』は主人公以外の家族が聾者で家族間のコミュニケーションは手話だった。
曼陀羅華X』として刊行された古川さんの小説のその最初のパートである『曼陀羅華X 1994-2003』は「新潮」2019年10月号に掲載されて、リアルタイムで読んだ時に僕はそこで主人公の老作家とその息子が手話でやりとりをしている場面の描写があったので、これは今言われている「ナラティブ(語り)」ということに関する古川さんとしてのひとつの可能性や方向性を出しているのかなと思った記憶がある。
実際には『曼陀羅華X』はオウム真理教をモデルにしている教団が出てくる。老作家はかつて教団に拉致されて彼らの予言書を書かされており、逃げ出す時に教祖の息子を連れ去って自分の子供として育てていた。生まれたばかりの息子は聾者だった。老作家のガールフレンドは戸籍上は彼の母だが、息子とのやりとりのために二人は手話を覚えて彼にも教えることになったという設定があった。
その頃から手話については少し気になっていたら、『ドライブ・マイ・カー』『コーダ あいのうた』という世界的にも評価された作品で手話が出てきたのでなにか流れがあるのだろうかと考えていた。今年公開になる三宅唱監督で岸井ゆきの主演『ケイコ 目を澄ませて』は耳が聞こえないボクサーの実話をもとに描いた人間ドラマであり、そこに続いていくものになるだろう。そして、タイミング的にも『silent』最終回近くで公開になるはずなので、話題になるんじゃないかな。そもそも前評判がかなりいい映画なので、追い風にはなるだろう。この「手話」というのは確かに「ナラティブ(語り)」ということにも呼応はしているはずだが、おそらく現在のコロナパンデミック下における状況が一番反映しているようにも思える。
この数年僕たちはずっとマスクをしていて相手の口は見えず、自分の口も基本的には他者にはあまり見せなくなっている。同時にSNSにおける分断なども言われているが、同じ言語を話していても会話にならないということが起きてしまっている。もともとそういうことはあったけど可視化されたと言えばそうなのだろうけど。

『silent』の冒頭では高校卒業間近になって耳が聞こえなくなる佐倉想が言語について一年生のあいさつで生徒代表なのか体育館で話しているシーンがある。その声に惹かれた主人公の青羽紬は彼との距離を縮めていき、付き合うことになる。ドラマでも言語のことをあえて言っていると思った。
日本語や英語やさまざまな言語が世界中にはある。それが違うと意思疎通はなかなか難しい。そして、聞こえていた音が聞こえなくなる難聴が発症してしまったため、そのことを知られないために同情されたくないために紬に別れを告げ、同級生たちと連絡を絶った彼が数年後に東京で紬と再会してというドラマである。
紬と想はかつてはなんら問題がなく言葉によって意思疎通ができていた。それが当たり前すぎて疑うことはないものだった。だが、難聴になった彼には彼女の声は届かない。もう共通言語が失われてしまっている。彼は実は声は出せるのだが基本的には家族の前でしか話さない。彼はもともとは聾者ではないから、でも自分の声で話しても自分自身にはその声は聞こえない。だから相手には届いても、それに対して相手が話す言葉は届かない。もちろん作中ではスマホが話した言葉を文章にしてくれるアプリで会話は成り立っている。だが、そこにはどうしても埋められない溝がある。
また、想は生まれつきの聾者ではないので、生まれつきの聾者の人からすれば自分達とは少し違うという感じに見られている。というバリエーションも描かれている。障害を持っていてもそれがいつからなのか、ということでその人が見てきた景色や辛さの度合いは違うし、理解できることとできないことがある。差別される人の中でもそこでさらなる差別や区別は実際には起きてしまう。
そういうことを丁寧に描こうとしていると思えるし、現在の紬の恋人であり、想とも友人だった戸川湊斗の存在もかなり大きい。彼のある種の諦めのようなもの、親友への思いと彼女への思い。自分では彼女は満たされていないのではないかという不安。お似合いだった二人の季節を知っているからこそ、彼女が彼の横にいる時がいちばん笑っていてきれいだということ、それは湊斗にはできないことであると知っている。その彼の気持ちや想いをしっかり一話使ってやっていたのもすごく好感が持てた。僕ら多くの人は湊斗の側だろうし、主人公やヒロインみたいなポジションにはいないことを知ってしまっている。その意味でも湊斗という登場人物がいることは視聴者が感情移入しやすいなと思った。あとはこのまま回が進んで行っても今のところはダークサイドには落ちないかなという気もする。
このドラマは途中で二部とか数年後に飛ばないと大きな展開が作れないような気がするから、今出ている登場人物たちがどうなるかはちょっと想像できないところはあるけど。このまま時間が何年か後とかに進まないようであれば、大きな事件か出来事(『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』のスタッフがいるけど、東日本大震災みたいなことが作中に起きるとかではないと思うが)が起きないと難しい気はする。
手話に関してはこのコロナにおける状況が反映されているのだろうし、たぶん幅広い層がこのドラマに惹きつけられるのはシンプルなラブストーリーが見たいという気持ちとこの時代における心情がうまく重なっているからなんだろう。


仕事が終わってから夜は予定をいれていなかったので少し歩きたいと思って蔦屋代官山書店へ。単行本の時に気になっていたけど、読んでいなかった山本文緒著『自転しながら公転する』 の新潮文庫版が出ていたのでとりあえず買ってみた。単行本の時と装幀デザインは同じ写真を使っている。このデザインはとてもいいと思う。山本さんはお亡くなりになってしまったが、僕は作品は読んだことがないのでこの作品から読もうかなと思ったというのもある。


その帰り道で気づいたが、三宿の交差点近くの道路がずっと工事中だったが、工事が終わったらしく、三宿二丁目から淡島通りが繋がっていた。最終的には淡島通りから井の頭線池ノ上駅近くを抜け、東北沢駅前から井の頭通りの大山交差点まで抜ける道路になるらしい。

 

10月29日
Amazonプライムで配信が始まった『仮面ライダーBLACK SUN』を見ながら寝ようかなと思ったけど、気が向いた時にしっかり見ようと思ってやめてradikoでラジオを聴いていたら寝落ちしていた。

私はじつは新作の執筆にも入った。これは小説ではない。しかしながら、私が執筆に臨む時、あらゆる対象は文学的に腑分けされる。というわけで、その新作というのはノンフィクション(=非「小説」)ではあるのだけれども、当然フィクションの力によって駆動されている。私のいまの仕事の状況はとんでもないものであるから、こんな時期に新作を起動させるのは無茶というか、無理無体というかベラボウというか乱暴というか、俺なにやってんだよ死んじゃうじゃんこれじゃあ、なのだが、しかしスタートさせた。起筆後の何日か、私はほとんど歯が折れるかと思った。じつを言うとわたしは過去に、それは具体的には2016年3月の、小説『ミライミライ』の連載第1回の執筆のさなかになのだけれども、ぎりぎりと気合いを入れすぎて前歯を折ったことがある。私はそういう時だけは、他の同業者に、「あんたも歯が折れるぐらい本気で書いてみろよ」と突きつけたい気持ちになるのだが、こういうのもハラスメントなのだろう。何ハラ? そして私が思い出すのは、ああ、いまってハラコ飯の季節だなあ、ということで、それが何かを知りたい人は『ゼロエフ』の第3部をブラウズするか、さっさとネット検索してほしい。
古川日出男の現在地(2022年10月28日)「本気になる」より

起きてから古川さんのブログが更新されているのに気づいて、寝たままスマホで読む。歯が折れるほどの本気、という言葉に鼓舞されるというか、やってみろと言われているような気がした。それは最後の「ハラコ飯」の話になっているから。『ゼロエフ』で僕は古川さんと二か所で二回、「ハラコ飯」を一緒に食べているから。そのことは長いあとがきでも触れられている。

読んだとに夕方の仕事までの時間をどうしようかと思ったけど、昨日渋谷にいったときにジュンク堂書店にあるかなと思って探していた本が出ているかもと思って散歩がてら渋谷へ向かう。
31日がハロウィンだからこの週末の土日の渋谷はコスプレした人たちで溢れるのだろうか。コロナパンデミックになってからいろいろとためこんだものがここで爆発したりお祭り騒ぎになっても不思議ではない。昼間の渋谷はまだそんな雰囲気はなくて落ち着いていた。


ジュンク堂書店で高島鈴著『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』を見つけて購入。
家に帰ってから序章と「第1章 アナーカ・フェミニズムの革命」までを読んでから、買ったままの窪美澄著『夏日狂想』を読み始めた。こちらは小林秀雄中原中也を語る上で欠かせない、そして二人と三角関係になった長谷川泰子をモデルにした主人公の物語であり、明治の終わりに生まれ大正時代に彼らに出会うのだが、『『布団の中から蜂起せよ』に通じるものがあるなと思う。
令和に書かれたエッセイを大正を舞台にした小説が響き合っている。少しでもマシな方へ時代が動けばいいけど、安倍政権と統一教会の政治と宗教の問題は二冊で書かれているような特に女性の生きづらさを増すことになった家父長制などを求めていることが判明している、人々の自由や権利に逆行しているものであるから、それは壊れてさって崩れ落とさないといけない。それぞれの生活の中でなにかが少しでもマシな方へ動くような気持ちや言葉を持たないといけないのは、どんどんそちら側の方へ押し戻そうとする権力や都合のいい人たちは存在しているから。どちらも読み応えがあるし、頭の中でいろんなことが巡るとてもいい書籍。

 

10月30日
仮面ライダーBLACK SUN』

時は2022年。国が人間と怪人の共存を掲げてから半世紀を経た、混沌の時代。
差別の撤廃を訴える若き人権活動家・和泉 葵は一人の男と出会う。
南光太郎──彼こそは次期創世王の候補、「ブラックサン」と呼ばれる存在であった。
50年の歴史に隠された創世王と怪人の真実。
そして、幽閉されしもう一人の創世王候補──シャドームーン=秋月信彦。
彼らの出会いと再会は、やがて大きなうねりとなって人々を飲み込んでいく。
(公式サイトより)

Amazonプライムで配信が始まった『仮面ライダーBLACK SUN』を二話まで視聴。82年生まれの僕が幼少期にリアルタイムで見ることのできた最後の昭和「仮面ライダー」が『仮面ライダーBLACK』とその続編にあたる『仮面ライダーBLACK RX』だった。それもあってやはりほかの「仮面ライダー」とは違う思い入れがある。あとは敵役であるシャドームーンがカッコいいという印象が残っているので、「ガンダム」におけるアムロとシャアという好敵手みたいなものとして幼少期に刷り込まれているものになっている。

監督は白石和彌さんであり、若松孝二監督に師事していたもんなと思われる世界観というか設定になっていた。2020年と50年前の学生運動が盛んだった1970年が交差している。
1970年に南光太郎と秋月信彦は大学生ぐらいの青年であり、怪人差別をさせないという運動に参加していくことになる。そして、現在の世界においては幽閉されていた秋月信彦はヘヴン(創世王から作られたもの)を飲まされていたので老けておらずそのままの姿であり、南光太郎はそれを拒否していたために年相応という感じで老いているということになっている。
最初にブラックサンとシャドームーンを西島秀俊さんと中村倫也さんが演じると発表された際に、幼馴染のような関係性もあるふたりにしては年が離れすぎていて、大丈夫か?と思っていたがなるほどこういう設定があるからこそ年齢の離れている二人の役者さんが演じても問題がないようになっているのだなとわかった。

この井上淳一さんという方のツイートの一連のツリーを見たが、これはそうだと二話でわかるものだった。
明らかに岸と安倍という祖父と孫の総理大臣や学生運動世代(≒怪人)というメタファというかガッツリやっているし、人間を怪人に改造するというのはまさに「731部隊」における人体改造である(野田秀樹さんのNODA MAP『エッグ』でも扱われていた)し、怪人へのヘイトスピーチは現在における在日の方々であったり性的マイノリティへのものであり、メタファでもなんでもなくわかるようにやっている。
現実的な怪人たちは政権とべったりでそのことで利用もされている。そうではない主人公の南光太郎と秋月信彦も彼らと戦うというわけではない、らしいという手前で二話は終わっている。これはかつての1970年の彼らの青春の季節における新城ゆかり(芋生悠)との関係性や想いも反映されていそうだ。1970年代の雰囲気がわかりやすく伝わる衣装もいいなと思ったら伊賀さんだった。

『エルピス―希望、あるいは災い―』でもスタイリングを務めているメルマ旬報チームの伊賀大介さんが今作でもスタイリングで参加されていた。伊賀さんは大根仁監督作品はもちろん、アニメの細田守監督作品、『シン・ウルトラマン』という人気話題になった映画もだし、最近だと『大豆田とわ子と三人の元夫』や『17才の帝国』などのテレビドラマにも参加している。
『シン・ウルトラマン』と『仮面ライダーBLACK SUN』という長い歴史を持つヒーロー作品の節目の作品に関わっていることはすごいことだし、スタイリストの北村道子さんの作品集が出ているけど、伊賀さんにスタイリングについてのインタビューとか作品やその時代に合わせて意識するようなこととかを聞いてまとめたような書籍とかどこか作って出してくれないかな。

二話まで見ている感じだとまだ南光太郎と秋月信彦が変身しても怪人なのだろう。ビジュアル的には仮面ライダーではなく怪人ぽいフォームになっていて、いわゆる仮面ライダーみたいな姿、完全体になるのはもう少し先のようだ。今の状態は『真・仮面ライダー 序章』の仮面ライダー・シンに近い感じだった。
この作品と来年公開の庵野秀明監督『シン・仮面ライダー』は「仮面ライダー生誕50周年企画作品」ということだから、最初の『仮面ライダー』が放映されたのは1970年代ということを考えると、今回における学生運動の季節だったこともリンクする。
白石和彌監督が手掛けるならばもちろんそれらをモチーフに入れ込みながらも、安倍政権以降の日本社会やなぜこういうヘイトが溢れる時代になっているのかという深掘りも作品に入れることで原作の漫画である石ノ森章太郎による「仮面ライダー」への回答をしようとしているようにも思える。

起きると左目のまぶたが少しだけ腫れていた。虫に刺されたのか、寝ている時に左側の顔が枕にめり込んでしまったりして変な当たり方をしていたのか、両目とも二重だけど、腫れているとさらに奥二重みたいな感じになっていた。気のせいかまぶたが腫れていると幼くなった感じの顔つきになっている。

 

10月31日

『ポータブル・フォークナー』を寝る時に少しずつ読み進めている。『ポータブル・フルカワヒデオ』ともいえる『とても短い長い歳月』も読みたくなったので久しぶりに手にしてみた。
最後の部分にこの作品集をミックスしたDJ産土こと三田村真と古川さんのコメンタリーが収録されている。ちなみにDJ産土こと三田村真は『ミライミライ』の登場人物である。そこで今作にミックスされた過去の作品について読んでいると初期の『13』や『沈黙』や『アビシニアン』を読み返したくもなってきた。
前日に古川さんの「現在地」を読んだ感想をメールしていたら、その返信が返ってきた。「小野賢章 × 細谷佳正 朗読劇 THE CLASSIC ~「平家物語」「犬王の巻」の世界~」もあって京都に行かれたようでその帰りにお返事を返してくれたみたいだった。前に「現在地」でも触れていた「長編詩」は来月、そう11月には出るよと教えてもらった。8日の「皆既月食」のライブイベントに加えて11月の楽しみが増えた。

映画『零落』

知らぬ間に浅野いにお『零落』の映画化の発表されていた。実は映像化するという話は耳に入っていたので監督は竹中直人さん、主役の斎藤工さんが漫画家の深澤ということは知っていた。
大学生で深澤と関係をもつことになる風俗嬢のちふゆは趣里、深澤の妻で漫画編集者であるのぞみがMEGUMIが演じると発表されていた。これは原作漫画が大好きな人間からすると原作の雰囲気からはわりと違う役者さんのキャスティングになっていた。
趣里MEGUMIはなんか違うと思うんだけどなあ、ちふゆを実写化でやるなら河合優実だと思ってたところもある。だが、実際にどういう風に演技をするのか、脚本や演出もだし、役者さん同士の絡みでこのちょっと大丈夫かなという気持ちはなくなるかもしれない。浅野いにおファンとしては映画館で観た上で判断はしたい。あまりヒットはしなかったけど、『うみべの女の子』の実写化のキャスティングはよかったし、あの漫画の雰囲気が漂っていた。

10月も最終日だが、朝と晩どちらもリモートワーク。
昨日夜からの仕事は『オールナイトニッポン55周年記念 佐久間宣行のオールナイトニッポン0 presents ドリームエンターテインメントライブ in 横浜アリーナ』の有料配信を見ながら作業をしていた。昨日はノーマルの配信を見たので、今日は副音声の解説ありを聴きながら作業をした。
ライブはミュージシャン枠で花澤香菜さんとライムスターとサンボマスター、芸人さんはしゅーじまん、はんにゃの金田、森三中の黒沢さんという布陣だった。なぜかCreepy Nutsも出ると思っていたのは、たぶんオールナイトニッポン関連の別のイベントである「東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない」とごちゃ混ぜになっていたからだろう、こちらにも佐久間さんが出るから。あとドリエンの冒頭で佐久間さんがR-指定の熱愛報道をイジっていたからライムスターの前に二人が出ると思っていて、サンボマスターの山口さんが大トリだと言った時に、あ、クリーピー出ないんだって、勘違いだってわかった。
横アリは遠いのでやっぱり行こうとは思えなくて、アジカンのライブですら行ってないし、でもこういう風に配信があるのはほんとうにありがたい。一回普通に全編を通してみて楽しんでから、副音声のあるほうを見るとかなりたのしめた。
佐久間さんがアーティストのライブ中はライブを直接には見れなく、違う場所で映像を見ながら副音声という形で話すというものだったが、佐久間さんが表で演者とトークをしにいっているときには花澤さんもひとりで長い時間話していたし、しゅーじまんと金田コンビが一番長く副音声をしていたけど、それがおもしろかったから個人的には大満足だった。
三四郎オールナイトニッポン』好きとしては、金田ゲスト回もなかやまきんに君ゲスト回と同じぐらい何回もリピートで聴いている。見終わってから気づいたけど二人の掛け合いは前から好きだったから余計に心地よかったんだと思う。

佐久間さんはテレ東を退社したこともそうだし、ラジオでも妻子とか家族の話もされているけど、コロナによって大きく変わった世界でみんなが抱えていることや感じたことなんかも含めながら、サラリーマンとしての部分とクリエイターとしての部分どちらも話せる稀有な存在としてその身近さがプラスにかなり働いたことはあるのからこそ、ここまで支持されているように思える。
佐久間さんの強さは類似する人はほぼ皆無だということなんだろう。この一強すぎる人に憧れると戦い方を間違える人もいそうだ。演劇とか映画とかエンタメで好きなものを好きっていうことをはっきり言えることが佐久間さんの良さであり、魅力なんだろうけど作ってきたものはおもしろくて魅力があるという裏付けがあるからこそ、誰も真似のしようがないんだよな。

今年もあと二ヶ月、とりあえずここまでできないことが多すぎたし動けなかった。気持ちとか抱えている問題は一気には好転することはないから体を動かすとか目標を決めて強引に動き出すしか風景や気持ちには変化は起きないのだろうな。

 

11月1日
『エルピス―希望、あるいは災い―』第二話を見る。

東日本大震災で起きた原子力発電所放射能と汚染水問題と欺瞞しかなかった東京五輪を報道した側の責任と呵責をわずかな時間で描いてドラマで見せてきた(TVerでは安倍晋三元首相の画像の静止画だったが、リアルタイムのテレビではニュース動画だったらしい)。
佐野PがTBSで企画が却下されて関テレに移籍したから実現したという話はインタビューで話されているけど、そもそもTBSで無理だったというのがこのドラマでも描いてるテレビ局の中でも利害や思惑や上層部と現場の考えが違うということを表してる気がする。
死刑は時の政権によって、彼らの思惑と都合だけでいきなり実施される。安倍政権下でオウム真理教の死刑囚が一気に死刑になったのはどちらも国民へのテロを犯した存在であり、安倍政権は彼らを処刑することで自分たちの相似形を消すことによって正義の側のフリをしようとしたようにしか見えなかった。
で、違う宗教団体へ怨恨で安倍は殺されたわけだから巡り巡っている。
偶然だが、配信開始になった『仮面ライダーBLACK SUN』では岸と安倍の祖父と孫をモデルにした総理大臣たちが描かれている。きっとこれは2010年代の歴史修正主義ポストトゥルースの跋扈へのフィクションからの返答であり、抗いかたなんだと思う。しかし、『エルピス』はまだ二話だというのに、先を見るのは正直怖い。

Mirage Collective – “Mirage” (Official Visualizer)



第1回 「諸行無常セッション」とは何か(聞き手:九龍ジョー

「『平家物語 諸行無常セッション(仮)』映画化記念 「皆既月蝕セッション」古川日出男×坂田明×向井秀徳」のサイトが公開になって古川さんのインタビューが公開されていた。九龍さんが一番適役な聞き手なのは間違いがない。昨日ぐらいに九龍さんが『平家物語 諸行無常セッション(仮)』についてのツイートをRTしていたのもこの流れがあるからだったんだろうな。
太田出版hon-nin』で連載していた『叱れフルカワヒデオ叱れ』の担当がたしか九龍ジョーさんだったはずだから、この機会は九龍さんもかなりうれしいんじゃないかなと勝手に想像した。

竹林寺で「諸行無常セッション」を見た時の感想かなにか書いているかなと思ったら、Facebookに書いていた。以下そのまま引用。


古川日出男×向井秀徳×坂田明平家物語諸行無常セッション』を観に八十八ヶ所のひとつである竹林寺に。高知駅から1時間20分ほどだったのでのんびり歩いていく。
知らない町の知らない道、やがて川沿いを歩く。海に注ぐ川沿いの景色、潮の匂い、地形、船なんかは高校が瀬戸内海の面する笠岡市だったし、親戚が福山の鞆の浦で漁師だったから知ってるような気がする。
北アイルランドもロサンゼルスも福島も月島も地元の井原市も、車社会として整備された近代の町はどこかはじめてという気がしない。僕以外のものはなにもないような、僕以外のものがすべてあるような、いろんな町の道を歩く度に思う。
地図アプリを見ながら歩いていく。日曜日の町で歩いている人はいない。途中で竹林寺にいく道が明らかに山道、石段があって途中の木に「へんろ」と赤字で書かれた布があった。
祖母がよく八十八ヶ所、お遍路さんをしていたからこの道も祖母がかつて歩いたはずの道だろう。山道は涼しい、陽が当たらない道はひっそりとしていて生き物の気配がない、天狗が出てきそう。
開場より30分前には着いたので竹林寺の中に。撮影に来ていた河合さんがいたので挨拶したら、メルマ旬報チームでもある松原隆一郎さんもいらしたのでご挨拶を、古川さんの奥さんの千枝さんにもご挨拶して立ち話。
整理番号入場のために駐車場近くで待機。いとこのだいちゃんの車でやってきた浦谷さんに会ってお二人と少し話を。
開場して真ん中、六列目ぐらいのイスをget。トイレに行ったらThis is 向井秀徳いるし、ザゼンのベース吉田さんもいるし。終わったら吉田さん物販してた。
最初は向井秀徳ソロ、寺でのライブでも「繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動」「くり、くり、くり、くりくりくり繰り返される諸行無常」と『6本の狂ったハガネの振動』をやる。『Water Front』は桂浜的な歌詞に、『魚』も、『ふるさと』も陽が落ち始めた境内に合う、琴線にどうしても触れてしまう。『MY CRAZY FEELING』もね。『天国』が鳴り響く。
あなたがいれば そこは天国
あなたがいない そこは地獄
あなたがいれば 地獄も天国
あなたがいない 天国は地獄
次は坂田明さん。サックス漫談かと思うぐらいにトークでお客さんを笑わす、歌うしサックスでも歌う。ずっと第一線にいる人はキュートでユーモアがある。サックスめちゃくちゃカッコいいしさ。なんかズルいよね。
古川さんが出てきて、盛者必衰諸行無常の響きありと。『平家物語』のあまりにも有名な冒頭。我が物顔で政を自分達の都合のよいことで押し通す、他者の言葉に耳を貸さないものはどんなに栄えても必ず滅びるということ、いまの安倍政権が浮かばない人はいないだろう。
向井さんと坂田さんとの諸行無常セッションが始まる。坂田さんが原文を読み、古川さんが訳した文を、時には英語が、向井秀徳がエレキを鳴らし、坂田さんが原文を読みサックスが鳴る、古川さんは朗読パフォーマンスモード全開で、こちら側とあちら側を往き来してるみたい、重なる原文と訳した文、楽器の音がこの場所をこちら側とあちら側の境目に呼び込んでしまうみたい。
心地よくてうとうとして彼岸に連れていかれそうになると、いきなりぶん殴られて此岸に引き戻されるような感覚、ロスで観た『耳なし芳一』の時みたい。ゴーストの囁きが混ざる、過去と現在が混ざりながら爆ぜる。
古川さんが朗読パフォーマンスの時にあっちに行ってしまうと思うあの感覚。
アンコール『自問自答』が歌われながら同時に『平家物語』の最後のほう、琵琶法師が歌え歌え琵琶を鳴らせと!
途中から古川さんアドリブでマイクに向かっていたと思う。
とんでもない異空間になっていた。あれは映像で観てもすごいだろうけど、あの場所に居て観ることに意味があるとしか言えないものなはずだ。
終了後に松原さんと感想を立ち話して、行きが偶然にも一緒の飛行機だった管啓次郎さんと関戸さんが千枝さんと話されていたのでご挨拶を。古川さんは関係者の方々やいろんな方と話をされていて顔を出せそうにないからご挨拶はできなかった。まあ、仕方ないよね。『犬王の巻』の感想と共に後日メールしよう。
浦谷さんたちが車に乗っけて駅まで行くよーと言ってくださったので甘えて乗せていただく。
あの街灯のない山道とか夜は恐怖だろう、だけど昔は夜はそういうものだったんだ。琵琶法師には光が届かない、『犬王の巻』の友魚のことが浮かんだ。
『朗読劇銀河鉄道の夜』チームの皆さんと会えたのも嬉しいし、あの場所で『平家物語諸行無常セッション』観れて本当によかった。
やっぱり移動することがキーになるんだろうな。

 


佐久間宣行著『脱サラパーソナリティ、テレビを飛び出す~佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)2021-2022~』&東野幸治著『この素晴らしき世界』新潮文庫版を渋谷のジュンク堂書店で購入。佐久間さんの本は明日発売日だが、やはりジュンク堂には前日にはあった。

二ヶ月ぶりに会った知り合いと渋谷で二時間近く話をしてから、別れる時に「良いお年を」と言い合った。次に会うのは来年というのはわかっていたので自然とそういう言葉が出た。11月に入ったから今年ももう二ヶ月だから、間違えてはいないのだろう。
言った時よりもその帰り道で「よいお年で」という言葉が口から出た時よりももう少し輪郭を持ったような、今年の時間の流れを強く感じさせた。
今年はなんにもできなかった。というか終わっていくとか変わっていくものをただ見ていた。「ことばと新人賞」も『ことばと』最新号が出ていたので新人賞のところを見たら二次通過に残っていなかった。いつもこの新人賞に送っている友人も同じだった。そのことをラインをしたら彼はあるメルマガで連載がいよいよ始まると教えてくれた。それはとてもうれしいし心から楽しみにしていたのでほんとうによかった。
家に帰ってTwitterを見ていたら水道橋博士さんがうつ病と診断されて休職しているという話が出ていた。博士さんはしっかり休んでもらって少しでも良くなってほしいし、ご家族は大変だろうけど支えてあげてほしい。

僕はブログでも書いているけど、自分がお世話になっている(いた)とか知り合いだとかいう理由では投票していないと決めていた。それは柳田國男が最初の普通選挙で自分の考えではなく、周りの人間の顔色を見て誰に投票するかを決めていたという日本的な村社会の情けなさを「魚の群れ」と嘆いたというのを知っていたからでもある。そもそも山本太郎の言動には昔から不信感があったから博士さんが出馬しようがれいわには入れるつもりはなかったし、入れなかった。
博士さんに投票した人はその人なりの思いや願いがあったのだろうからそのことは否定できない。そして投票した人たちも今回の休職に関しては責任とか感じないでいいとは思う。いろんなことが複合的に混じり合って、そのタイミングで起こったことだろうから。ただ、世の中には自分に近寄ってきた、集まってきた人のエネルギーを吸い込んで(取り込んで)しまうタイプの人間がいる。僕がそう思うようになったのは園監督と出会ったからだ。

「東京ガガガ」や自主映画時代や商業映画を作る際に園さんの周りには言い方は悪いが、僕も含めてだが有象無象の人たちが集まってきていた。
TOKYO TRIBE』公開時に洋泉社のムックに詩人としての園さんのことを作品と絡めて書いた。詩とは体内にある血や思考が言語となって噴き出すものであり、園さんという杯(器)に集まってきた有象無象の人たちの汗や血液や経血や精液なんかが流れ込んでいると。だから、園さんは若々しいのだ、終わらない青春を過ごしているのだ、と。
そして杯に自身から流れ出たものが吸い込まれた人たちは通り過ぎていく、青春を。まるで夢や希望から脱皮するように。その時期が今思うと『地獄でなぜ悪い』ぐらいまであったような気がする。
園さんが自身のセクハラや性加害について声をあげた人たちに対して、最初に出した声明文では謝罪がなく、事実と違うことを報道したり、扇動した人たちを訴えると書かれているのを読んだ時に愕然とした。完全に一番の悪手だったし、一番やってはいけないことだった。まずは被害に遭ったと声をあげた人に謝罪するしかないのに。もう、ダメだと思った。周りにいるやつらは何してるんだと思ったが、僕が知っている人たちはだいぶ前からほとんどいなくなっていた。

僕は園さんに近いところにいるように見えただろうけど、報道とかであったことは知らなかった。それは言い訳ではなく、近いところにいるから知っているんだろうと思われていたのかもしれないし、その話を誰かに言われたことも聞かれたこともなかった。人間関係というのは各個人同士だけのものがあって、他人はわからない関係性やグラデーションがある。
もしかすると僕がもう一歩踏み込んでいなかったのは、距離を最低限取っていたのは僕の血や精液(これはもちろんメタファである)が飲み込まれてしまう、青春や夢や希望が消えてしまうと無意識に感じていたからなんじゃないかとこれを書きながら思った。つまり、れいわ新撰組の代表に感じるのはそれに近いものだと言えるし、そう感じる。だから、近づいてはヤバいのだと。うつ病になるのはそれだけが原因というわけではないし、いろんな要素が絡んでいるけど、影響はゼロではないと思った。

最初から連載陣に入れてもらっていた「水道橋博士のメルマ旬報」は博士さんが政治家になったことで九月末にクローズした。あれ、博士さんが政治家になったから「メルマ旬報」終わったんだけど、博士さんが休職しちゃったとなるとクローズすると決まってからの自分の中で湧き上がっていたいろんな気持ちとか喪失感とテンションが下がりまくっていたこととか、あの日々や時間ってなんだったんだよ、と思わなくもないのだけど(文章で書くとなんかひどい感じになってしまうが)、クローズの問題に関しては前にも博士さんが体調不良で休んでいて復帰した時に本当は「水道橋博士のメルマ旬報」って畳むべきだったし、このことは何人かの人たちとは話したことがある。
終わり方ってやっぱり大事なんだと改めて思う。
なによりも博士さんには早く元気になってほしいとほんとうに思うし、願ってる。治すのに時間は前よりもかかるかもしれないけど、博士さんが一番やりたいことであるはずの『ビートたけし正伝』と『百瀬博教一代』を書くことが一番必要なのかもしれない。

Shunji Yamada『閉店後のカフェ』

 

11月2日
前日の夜に読み始めた佐久間宣行著『脱サラパーソナリティ、テレビを飛び出す~佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)2021-2022~』は日付が変わって深夜の一時半ぐらいに読み終わった。佐久間さんがテレ東を退社してからのコロナパンデミック下で放送されたラジオをまとめたものになっていた。
最近スポティファイで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を最初の放送から聴き始めていて、ちょうど2021年に入って5月ぐらいまで聴いていた。僕はラジオを久しぶりに聴き始めるようになったのはコロナが拡大してリモートワークになった時期からだから、今聴き直している部分はリアルタイムで聴いているものだったのでちょっと懐かしい感じもするし、短いタイムスリップしているような感覚にもなる。
未来からあの時のこと知っているし、みたいな。それもあってか、今回の書籍の部分はつい最近聞き直したところが多かったので、読んでいるとラジオでの声が蘇る感じですらすら読み進めれた。読むラジオ的な書籍なんだけど、そこに現実のラジオも重なっていた。
実際のラジオだと佐久間さんの笑い声がすごく重要であり、あの笑い声がいろんなことを吹っ飛ばしたり、聴いていて心地よくなる。おもしろいと思ったら素直に感情を出して笑ってしまう佐久間さんというおじさんはおじさんが嫌われる原因のほとんどからかけ離れたところにいる。そのことはリスナーが佐久間さんへ寄せる信頼であったり、話を聴きたいと思わせる要因でもあると思う。これは中年男性以降の、まあおおまかにいえば男性のケアの問題にも関わっているのだろう。

TBSテレビ『ラヴィット!』

『ラヴィット!』は当日放送されたオープニングは昼過ぎと本編は19時にTverがアップされたらその日にだいたい作業しながら見て(流して)いるけど、ほんとうにエンタメ(笑いに食にテーマパークに音楽にトークに流行)がこれでもかって入れてあってこういうものはやっぱりテレビでしかできないものだなって思う。
テレビがないので僕はリアルタイムでは試聴できていないけど、生放送で『ラヴィット!』ができているのは黎明期のテレビにあったようなワクワク感とかハプニング的なものもあって、希望というか可能性なんだろうなって。
令和の『笑っていいとも!』みたいな感じもあるんだけど、『ラヴィット!』は『ラヴィット!』として昭和と平成という時代をデータベースにしながらもそれを遊びながらも笑いでコーティングしているのがすごい。『笑っていいとも!』みたいに芸人以外の文化人とか新しく出てきたみたいな人がレギュラーになって一般にも知られていくという感じにはならないと思う。川島さんの回しとかの能力とレギュラーの芸人さんたちの場を作る空気感で成り立っている部分はある感じがするから、海のものと山のものともわからない人が入るとそれは難しそうな。

今日のシークレットゲストはCHEMISTRYだったけど、見てたら驚くぐらいに若かった。特に堂珍さんが変わらない。二人とも40代半ばだけど、デビューの前から『ASAYAN』で見ていたから知っているわけだけど、あの頃の10代とかが今40代ぐらいの中間管理職ぐらいになって、テレビ局でもディレクターとかプロデューサーになって、好きだったものや影響を受けた人たちと仕事をしたり、呼んだりするということがある。というがそれが二十年周期みたいに世代ごとにそれぞれのジャンルにある。だから、下の世代に影響を与えて支持される人は最初のピークのあとにもう一回再ブレイクというか波がくることがある。そう考えるとわりやすく大衆的なものであるテレビではないYouTubeSNSを見て影響を受けた若い世代の人たちが大人になって、自分達が好きだった人を呼ぼうとした時にはテレビじゃないだろうし、そもそも共通認識にはなっていないから、流行の繰り返しとか二十年周期的なものは目に見えない形になっていくのだろうか。

CHEMISTRY - PIECES OF A DREAM ,Point of No Return / TFT FES vol.3 supported by Xperia & 1000X Series


syrup16g宮本浩次YEN TOWN BANDChara椎名林檎コーネリアスピチカート・ファイヴ……約30年もの間、活躍を続けるベーシスト・キタダマキ。初めてキャリアを訊いた【インタビュー前編/連載・匠の人】

兵庫さんのキタダマキさんのインタビュー前編。
Salyuのファーストアルバムが出る頃から追いかけるようになって、彼女のライブではずっとマキさんがベースだった。そことは関係なくSyrup16g観に行くようになったから、ベーシストというとキタダマキさんと亡くなったDragon Ashの馬場さんっていうのが自分の中にはある。

 

11月3日

先週予定していたが、スケジュールが合わなくなってしまったので今日に延期になっていた村上春樹ライブラリーにやってきた。


村上春樹、あれから1年を語る。」村上さんの周りに起こった変化の一つ、移転先の新しい事務所で行われたロングインタビュー。世界は激動の1年、村上さんはどう過ごしていた?


2017年にUCLAで行われた古川日出男さんの朗読を観に行ったときに知り合ったエリック・シリックスさん。先月一日に早稲田大学で開催された古川日出男×向井秀徳朗読セッションをリアルタイムでレコードに一発録りするというレコードプロジェクト『A面/B面 ~Conversation & Music』をエリックさんを企画していた。そのときにコロナパンデミック前にイベント終わりに古川夫妻と打ち上げした以来の再会となって少し話をした。
エリックさんは現在は早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)で准教をされていて、「今度村上春樹ライブラリー案内しますよ」と言われたのでその言葉に甘えて遊びに来た。30分ほど一階のカフェでお茶をしながら古川さんの作品のことなんかを話をしてからライブラリーのほうへ上がった。


村上春樹作品や翻訳した作品、海外で翻訳された書籍が展示されていて、装幀好きとしてはたまらないものとなっていた。僕はレイモンド・カーヴァーの翻訳者として村上春樹さんに出会ったから、その印象がずっとあって、彼の小説を読み始めたのは二十代半ば以降だった。サイトでも年譜がアップされているけど、ご自身のオリジナル小説も多いのだがそれ以上に翻訳された作品がかなり多いのがわかる。
村上作品で翻訳された海外の書籍なんかはエリックさんにどこの言語かとか教えてもらったりしながら見たけど、国じゃなくて言語で同じ作品でもいくつもの装幀パターンやバリエーションがあったりして、そのデザインでどんな売り方がしたいのかもなんとなくわかる。昔は日の丸的なものがどこかに入っているものが多かったり、タイトルもなんでこれみたいな時期が2000年より前のものも多い。書籍が刊行順に並んでいるところ最初に入ったエリアはトンネルがモチーフになっていると教えてもらった。


別フロアでは企画展「翻訳が拓く世界」が開催中で、そちらも案内してもらった。ほかの日本人作家の翻訳本について二人であれこれ言い合ってたのしかった。今は予約制で時間が区切られているけど、ゲストで入れてもらったので長居できた。当日でも入れるけど時間帯ごとに予約以外プラス十人ぐらいらしい。
一階のカフェは予約なくても使えるし、ホワイトチョコのドーナッツは美味しかった。大学は明日が学祭で学生がたくさんいて、祝日だったからかカフェもライブラリーにも人はたくさんいた。
早稲田大学国際文学館主催で作家さんのトークイベントとかもやっているので(桐野夏生さんや多和田葉子さんとか一線級の人が)サイトをチェックして、気になったら観に行くといいと思うし、僕もまたイベントで遊びに行くと思う。無理だろうけど、いつか村上春樹さんと村上龍さんの対談とかしてほしいな。
今度はエリックさんをトワイライライトに連れていって熊谷くんに紹介できたらなと思ったので軽く日程を決めた。


20時からニコラで開催されたイベント「閉店後のカフェ」にいく。Yatchiさんと山田俊二さんのふたりのピアノのライブ。前に予定されていたが、コロナの影響で中止になっていたものの振り替え公演という形だった。お客さんは満席でみんな料理をたべたりワインを飲んだり、デザートとコーヒーや紅茶を、という感じでとてもよい雰囲気になっていた。
Yatchiさんは始まる前にカウンターで少しお話をさせてもらった。ピアノはちゃんとエロくていい音で心地よかった。ほとんどYatchiさんのことは知らなかったのだけど、インスタをフォローさせてもらったら、折坂悠太さんのライブのバンドセットの重奏の鍵盤としてライブも参加されているようだった。
折坂さんがメジャーレーベルに所属するギリギリの時にニコラでのライブを観ているので、いろんなところで人間関係は繋がっているなと改めて思った。折坂さんのライブを撮っているのは古川さんをずっと撮影している河合(宏樹)さんだったりする。
僕はずっと観客の側だから見るということしかできていないけど、おもしろそうなところに呼ばれるようになりたいなとも思いつつも、いや、そういう考えよりもしっかり自分のことも向き合うことが大事だし、それ以降のことは考えても仕方ないなとも思った。自分をあまり過大評価してもよくないし、あたりまえだと思ってしまっているけど、ただそこに居るだけなのだから。
折坂さんと重奏のライブでのYatchiさんの鍵盤の演奏もみたい。山田はカウンターの常連友達というか知り合いで、彼のピアノも何度も聴いているけど、最初はちょっと緊張しているような気がしたけど、後半はのびのびしているように見えたし、お客さんもずっとやっていた「閉店後のカフェ」に来ていた人たちも多かったのでお客さんと笑顔で話をしていて、微笑ましかった。
お客さんがほとんど帰ったあとに残って知り合いと話していたら、アンコールで連弾していたのだけど、自然と一緒に弾き出して「閉店後のカフェ」その後の連弾が始まった。とてもリラックスしている音が明るく店内に響いていた。

折坂悠太(重奏)-トーチ @ SWEET LOVE SHOWER SPRING 2022

 

11月4日

今泉力哉監督『窓辺にて』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。

「愛がなんだ」の今泉力哉監督が稲垣吾郎を主演に迎え、オリジナル脚本で撮りあげたラブストーリー。

フリーライターの市川茂巳は、編集者である妻・紗衣が担当している人気若手作家と浮気していることに気づいていたが、それを妻に言い出すことができずにいた。その一方で、茂巳は浮気を知った時に自身の中に芽生えたある感情についても悩んでいた。そんなある日、文学賞の授賞式で高校生作家・久保留亜に出会った市川は、彼女の受賞作「ラ・フランス」の内容に惹かれ、その小説にモデルがいるのなら会わせてほしいと話す。

市川の妻・紗衣を中村ゆり、高校生作家・久保を玉城ティナ、市川の友人・有坂正嗣を若葉竜也、有坂の妻・ゆきのを志田未来、紗衣の浮気相手・荒川円を佐々木詩音が演じる。第35回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、観客賞を受賞した。(映画.comより)

今泉監督『街の上で』の続編みたいだなと思った。共通の役者さんが数名いることもあるし、ロケ場所も同じなんじゃないかなと思えるカフェというか喫茶店もでてきた。主人公の市川茂巳(稲垣吾郎)の友人の有坂正嗣(若葉竜也)とその浮気相手の藤沢なつ(穂志もえか)は『街の上で』はカップルだったからというのもあるのかも。
市川茂巳と妻で編集者の市川紗衣(中村ゆり)と彼女が担当している小説家で浮気相手の荒川円(佐々木詩音)の三角関係。そして、有坂正嗣と妻の有坂ゆきの(志田未来)と正嗣の浮気相手の藤沢なつという三角関係。どちらの夫婦も一方が浮気をしているというふたつのラインがあり、物語は展開していく。

茂巳は直木賞っぽい文学賞を受賞した高校生の久保留亜(玉城ティナ)に受賞会見の時に質問したことをきっかけにやりとりをするようになる。彼女にはちょっとヤンキーっぽい水木優二(倉悠貴)という彼氏がいる。茂巳と留亜は恋愛関係などになることはなく、かつて作家だったが今は物書き(フリーライター)の中年男性とこれからも書き続けるであろう天才的な高校生作家として交流をしていくことになる。
浮気が作中で描かれるのでラブホテルのシーンが何度か出てくる。これは今泉監督の前作『猫は逃げた』は城定秀夫監督『愛なのに』のコラボもラブホが出てきたのでその流れもあるのかなと思ったりもした。『街の上で』と『猫は逃げた』の流れで観ているとその延長にあるような気がしたからか、二時間半近い上映時間は正直長く感じてしまった。
最終的に紗衣の浮気相手の荒川円と茂巳が向き合って話をするシーンが見どころでもあるし、荒川が作家として停滞していたところから脱するきっかけになるのだが、小説家というものは映画やドラマで書かれるとちょっと安易な使われ方になってしまうよなとも思った。
なにかを打破したり、個人的な経験や体験や想いとが発露できて小説になることはあるはずだけど、濾過されるまで時間はもっとかかるというかゆっくりゆっくり醸成されていくものでもある。一気に書き上げることはできなくもないのだろうけど、その辺がちょっと気になってしまった。
観にきていたあきらかにおじいちゃんに近いような年齢のおじさんのいびきが途中から聞こえてきたから笑いそうになってしまった。スローテンポな感じもするし、大きな派手な事件とかは起こらないから会話のやり取りとかを楽しめないとそうなってしまうのかもしれない。だけど、間違いなく『街の上で』が好きだった人には響く作品だし観て欲しい。

映画は時間を作って観に行ったが、朝晩とリモートで仕事をしていた。
今月になってから夜の仕事がシフトを出す際に五時間以上にしてほしいとのことだったので、前よりも終わるのが平日は二時間遅くなってしまった。それもあってか仕事が終わってお風呂に入ってから寝る前に本を読むという習慣が崩れ始めている。
メルマ旬報の連載も終わったし、その分の原稿料がなくなるから夜仕事の時間が増えるとそれをまかなえるのだけど、時間が減ってしまうのはストレスが溜まりそうだからうまく気分転換したり、適度にサボろう。

 

11月5日
起きてからしばらくうとうとしていた。寝る時に『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』をスポティファイで聞いていたせいか、夢の中に佐久間さんが出てきて、どういう展開なのか流れなのかはわからないが最後のあたりでは伊集院光さんに僕が会いに行くという不思議なものだった。寝ていても聴こえてくる声が脳内の記憶とかイメージの場所を刺激したのだろうか。でも、ほかのお笑い番組とかドラマを見ながら寝落ちしてもその番組や作品に出ている人が夢に、ということはあまり記憶がない。

夕方の17時から24時までリモートで仕事が入っているので、このまま家にいると一日中家にいることになってしまうので散歩がてら蔦屋代官山まで歩く。小説とかでは欲しいものはなかったが、二階の漫画コーナーに松本直也著『怪獣8号』8巻が新刊台に置かれていたので購入して帰る。
帰ってから『怪獣8号』8巻を読み始めると天才たちに置いて行かれてしまうキャラの葛藤とそこからの覚醒が描かれていて少し胸が熱くなった。主人公のカフカが副隊長に連れて行かれた場所の件で江戸時代から「怪獣」が現れていて、人は戦ってきたという話が出てきた。ああ、そういう設定になっていたのかと思うし、もちろんフィクションだけど江戸時代からということになれば、「怪獣」はやはり自然災害のメタファがいちばんしっくりくる。

『怪獣8号』を読んでから買ってきた味噌漬けの豚肉を焼こうかと思ったが時間がまだお昼前だったので、見れていないドラマ『silent』五話をTVerで見る。今回は三年ぐらい付き合っていた紬(川口春奈)と湊斗(鈴鹿央士)が別れるところがメインで展開。最後には想(目黒蓮)と紬がカフェでやりとりをして未来に進むのかなという感じで終わった。しかし、予告編でも出てきたが耳が聞こえなくなってからの想の近くにいた奈々(夏帆)との関係性や彼女の想いみたいなものも次回は描かれそう。そう考えると登場人物それぞれの想いや気持ちの決着を一話ぐらいは使ってしっかり描いていくのであれば、より心に沁みるものになっていくんだろうなって思う。

焼いた味噌漬けの豚肉と棒棒鶏サラダとご飯で昼ごはんを済ましてから、夕方までの間で小沼理著『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』と高島鈴著『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』の残りを読み終える。
誰かの日記は自分とは異なる現実や日常であって、それを読むことはそこには書かれていない自分のそれらの輪郭も浮かび上がるような気がする。そこには他者がいて、その人の人生がある、ということはなにか救いのようなやわらかな光のような暖かさが感じられる。
パートーナーや家族のことが書かれている日記には嫉妬ではないけど、羨ましさもある。それは自分が一人暮らしが長いからなんだろう。誰かと一緒に生活をしていないという時間はなにかが積み上がるという感じはしないし、最近書籍でもいろんな人の日記が出ているけど、そういうものでパートナーと暮らしていたり家族で住んでいない人のほうが少ないと思う。自分ではない誰かと空間を共有していないと書けることは限られるというか、僕のように備忘録的に観た映画や読んだ小説とかのことしか書くことってあまりないような気もする。
日記は過去のことしかないから、当時感じていた著者の気持ちや考えが読むと今に孵化するように読み手の中に入ってきて、少し混ざる。読んでいくことで時間軸がいくつか増える。それを知れるという多様性や多幸感があるように思えるから、読んでいくとページが少なくなってくると少し寂しくなった。
高島さんの本はしっかりと読者をアジってる、煽っているのがちゃんと伝わってくるもので、社会や世界の方が間違えている、人が人らしく生きにくくしているという表明であり、敵意をむきだしにしているものだった。この本を読んだことで生きる活力を持つ人は絶対にいる。

仕事の前に週一回の電話を実家にかける。来週金曜日から日曜日までコロナパンデミック前ぶりの実家に帰省するという話は二週間前ぐらいに話をしていた。101歳の祖母と母が電話を変わったのでいつものやりとりをした。祖母はいつもほとんど同じことを言っているけど、その時に来週帰るよと伝えた。
母と電話を変わってからその後ろで祖母が居間にいるであろう父や兄に「来週帰ってくるんじゃって」ということを言ってた。そうすると父はいらんことを言うなというニュアンスのことを言っているのがわずかに聞こえてきた。
ボケがきている祖母はこのまま僕が帰るまでの間はずっと、帰ってくるのは何日だ?みたいなことを家族に毎日のように聞くから、言わなくてよかったのにということを母から言われた。だとしたら、ちょっと前にこの日に帰省すると伝えているのだから、おばあちゃんには帰るまでは言わないでとか先に言ってくれていたらまだしも、全然聞いてないし、知らんがなっていう感じがして理不尽だなって思いながら電話を切った。

 

11月6日
寝る前にツイッターを見ていたら、交通事故のニュースがあって大型トラックに衝突したバイクに乗っていた若者が亡くなったというものがあった。その若者はYOSHIという歌手・俳優と書かれていた。
僕はその名前を見て何年か前に観た大森立嗣監督の映画『タロウのバカ』という映画に出ていた少年の名前と一緒だなと思ったが、実際に亡くなったのはその映画に出ていた彼だった。
『タロウのバカ』には菅田将暉と仲野太賀が出ていたので観に行った記憶がある。YOSHIが亡くなった日にちょうどテレ朝の仲野太賀主演ドラマ『ジャパニーズスタイル』第三話のゲストが菅田将暉というのはタイミングというかなにかを感じさせてしまうものになっていた。偶然だけど、そういうときに人は自分が理解できるように物語に当てはめてしまう。それがいいのか悪いのかはわからない。



『タロウのバカ』公開時のインタビューなんかで生意気だけど、おもしろそうな人だなと思っていたが、その後の活動はしらなかったのでYOSHIKIプロデュースのボーカリストオーデーションで彼のことを知ったという人が多いのもツイッターで見て知った。
若くして亡くなるとどうしても神格化されやすい。彼のWikipediaを見てみると最初に注目されたきっかけが、

2016年、13歳のとき、Off-Whiteのベルトを腰ではなく首に巻いて『Off-White南青山』のグランドオープンパーティに訪れた際、Off-Whiteを起業したファッションデザイナーのヴァージル・アブローに出会う。「そのベルトの使い方は面白い」とヴァージルのInstagramにYOSHIの写真を投稿してもらい、一夜明けたらYOSHIのInstagramのフォロワーが約1万5千人に増えていたという。

というインパクトのあるものだし、そのヴァージル・アブローも去年癌でなくなって世界中でニュースになったので神格化やカリスマみたいな感じにしようとする人が現れても不思議ではない。ただ、これをきっかけに『タロウのバカ』を観て大森立嗣監督作品に出会う若い人も少なくてもいそうだから、そういう別れとともに出会いがあればと思う。

起きてから246を越えて昭和女子大学方面に向かってブックオフでなにか気になるものがないか見てみるがピンとくるものはなかった。そのままキャロットタワー2階のTSUTAYAに行って書店フロアで『すばる』12月号の古川さんが今年の5月にUCLAで講演した「『現代(いま)が文学的ターニング・ポイントとなるための要件』」が掲載されているので立ち読みをする。読み終わったあとにさすがにこれは買っておこうと思ってレジに持っていく。

〈言葉〉は、果たして、この二年あるいは五年で、巨大なインパクトを受けたのか。何か変わったのか。僕らは〈文学〉をやってると、〈言葉〉というのは書き言葉だと思ってしまうわけですよ。書かれたものを読む、あるいは、書くために文字を使う。これが〈文学〉だと。文字ですね。
 でも、ご存知のようにもうひとつ、〈言葉〉には話し言葉というものがあります。いま話してる言葉です。これは文字ではないですよね。僕がこう喋ってても。これは、無文字です。
 で、パンデミックになってから少なくともこの〈言葉〉に対して何が起きたかははっきりわかる。マスクを着けているから表情が見えないですよね。口元が全然。
〈言葉〉っていうのは、僕がこうやって喋ってることをテープに録ってそのまま文字に起こすと、今日のこの会場で古川はこういうことを喋ったんだよと全部わかるかといったら全然わかりません。(以下、あえて間を空けながら)ど こ で、ゆ っ く り 喋 っ て(と語り、今度は力んで)力を入れたのか、(力みをやめて)抜いたのか、など全然わからない。そういうものを表現しているのは、実は、言葉が持っている身振り、表情ですよね。
 僕はアメリカの手話のことはわかりませんが、日本の手話だと、手だけではなく顔の表情とかもすごく使います。眉を上げ下げするとか。パンデミックになって聾の人たちがいちばん困ったのは、みんなマスクをしてしまうこと。口元が見えていれば、口の動きだけで人が何を言っているのかわかるし自分たちもそうやって口を使っている。それが無視されて、言葉の表情というものを奪われてしまった。パンデミックになって起きたことは、「話し言葉の貧困」だと思います。話し言葉が極端に貧しくなっていった。表業の消えた世界です。
 でも、そうやって話し言葉が貧困になったなと思うと同時に、本当に貧困になってるのは話し言葉だけなんだろうか、というふうに僕は考え始めたんです。書き言葉の貧困というのは、たとえばこの二年、この五年で起きてはいないのか?と。
『すばる』2022年12月号掲載「『現代(いま)が文学的ターニング・ポイントとなるための要件』」P71-P72より

ここで古川さんが言われている手話に関しては、『曼陀羅華X』の主人公の老作家の息子である啓のことも思い浮かべるし、ドラマ『silent』が大ヒットしている背景にあることにも通じていると感じる。マスクで口元が見えないということとコミュニケーション に関してのメタファとしてドラマは現在を、今を描き出していると思っている。だからこそ、若い世代だけではなく上の世代にも届いているはずだ。

使い始めてどのくらい経ったのかわからないがMacBook Airと一緒に使っている外付けHDが壊れてしまったようで新しくデータがコピーできなくなった。
2TB(テラバイト)の容量のうちまだ1.5TBぐらいは空いているのだけど、こうなったら新しいものを買って今入っているデータを移しておかないと後々困りそう。
MacBook Air自体の容量は少ないのでiTunesや音声データとか容量のでかいものを外付けに逃していたのに。金曜日に実家に帰るから今月はあまり金銭的に余裕がないから、こういう機械類の急な出費は痛い。

 

11月7日

アマゾンプライムで配信中の『仮面ライダーBLACK SUN』の九話と最終話である十話を仕事前に見る。最終回のオープニングはオリジナルのオープニングテーマがかかり、映像もそちらに寄せているものとなっているようだった。そこでスタイリストで参加している伊賀大介さんの名前を発見して、なんかスマホで写真を撮ってしまった。
十話のラストにおける葵の行動とこれからやろうとしていることを見ると1972年と2022年が円環でつながるようなものになっており、光太郎や信彦と行動を共にしていたゆかり再びのようになってしまっていた。ゆかりが暴力革命を目指したような方向性に葵も向かうとなるとそれはなんというか現実よりもロマンを取るというか、そうやって日本の学生運動は敗北して瓦解していったのに、と思ってしまう。そして、これはシーズン2を作るための流れやフリということもありえるのかなと思ったり。あと葵のモデルはどうみてもとグレタ・トゥーンベリなんだけど、作中で彼女が改造されて怪人になっちゃったというのは転向のメタファっぽいけど、あれはいいのだろうか。などと思いながらも十話が一番見応えがあった気がした。
リモートで仕事を始めながらPLANETSチャンネルの座談会を自分のPCで流しながら作業をした。

批評座談会〈仮面ライダーBLACK SUN〉

ここでも宇野さんが言われていたが、主人公の光太郎の過ごしてきた50年がほぼ感じられないというか、まず魅力的ではない。もちろん役者の西島秀俊さんは光太郎として演技をしているけど、それに寄りかかりすぎているという見方もできるのだが、キャラクター描写というかエピソードがないので主人公感があまりない。ただBLACK SUNになる人という感じになっている。
ここでも話が出ていたようにツイッターなどのSNSでこの作品が賛否両論になっているが、フィクションに政治性を入れることなんか世界的には普通のことだし入れるべきだという考えはあって、マーベルなんかかなり政治色は入っているのに関わらず、今の日本はそれができなくなっているというか、しっかり描いてこれていなかったからこの作品を叩いて潰してしまうとこの次の作品が出てくる土壌がなくなったり、当たり前にならないことが危惧されていた。
やはり十話が一番盛り上がったし、あれが一話だったらなという話もあったのであの最終話からのシーズン2をやるとしたらどんなふうにやるのか見てみたいと思ったし、ぜひシーズン2をやってほしい。
学生運動ともろもろの現実でのことをトレースして取り込んでいるけど、うまくいっていない部分もあるし、怪人のバックグラウンドもわかりにくいし設定が弱いのでツッコミどころが多いという話も出ていたが、ここでの座談会は頷けることばかりだった。
配信ドラマのフォーマットで作るようになってまだ時間はさほど経っていないし、世界でも見られるという意識もこれから研ぎ澄まされていくんじゃないかな。森直人さんがフリップに書かれていたけど、ギレルモ・デルトロ×若松孝二というのはすごくわかりやすい。BLACK SUNとシャドームーンが仮面ライダーになるまえの怪人みたいな中間形態のフォルムはカッコいいから、そこは世界でもウケそうというのもわかる気がする。僕もちょっとフィギュア欲しくなったのは正直なところ。


休憩で家を出ると近所の病院だったようなところ、昔からすでに廃院みたいになっていた建物が完全に解体されて建物自体がなくなっていた。それで辺りを見渡したけどマンションは何棟も建っているけどだいたい高くて五階ぐらいのものしかなかった。僕が住んでいるこの辺りは高いマンションとかは建てられない地域なのかもしれない。ここにマンションが建っても周りとほとんど同じ高さになるだろうから景色はあまり変わらないのかなと思って通り過ぎた。


駅前のツタヤで『群像』最新号を買い、西友でフライの惣菜を買ってから帰り道にあるトワイライライトに寄って店主の熊谷さんと少し話す。村上春樹ライブラリーの感想などを伝えて、エリックさんと来月お店に来る日はイベントがないかなどを聞いた。
気になっていたリトルモアから出版された詩人の大崎清夏著『目をあけてごらん、離陸するから』というエッセイを購入した。


朝晩とリモートで作業だったが、夜は作業が一旦おさまったところでコンビニに行こうと外に出るとなにかいつもよりも明るくて空を見上げた。月がスーパームーンなのかなと思えるほどの明るさだった。明日は皆既月蝕になるらしいけど、その前触れのようなものなのだろうか。

 

11月8日
起きてから前日放送された『エルピス』第三話を見る。冤罪事件を追っているアナウンサーの浅川恵那が正義だと思って突き進んでいくという流れだった。そのことによる反応や反響のプラスとマイナスが次週以降に描かれるのだろうが見ながら痺れる。そして、世間的には勝ち組である若手ディレクターの岸本卓郎が同級生が自殺で死んだことを抱えていることが明かされる。そして彼のようには思わないで痛みを忘れていく連中が成り上がってずっと勝ち続けること、勝ち組であり続けることをその同級生たちが集まる結婚式で描いていく。卓郎がこの先痛みと向き合うことになっていくのだと思う。


ドラマを見終わってから学芸大駅近くにあるBOOK AND SONSで開催中の『石田真澄 夏帆写真展「otototoi」』 を見に行こうと思っていたので家を出る。
家からは歩いて40分以内のところで世田谷公園前を通っている三宿通りをほぼ南下する感じになっている。前に兎丸愛美さんがモデルになった笠井爾示写真展「羊水にみる光」を見にいったことがあるので三宿通りを歩きながらデジャブのように、ゆっくりとしだいに思い出していく感じだった。気温は二十度を超えていたので上に羽織っていると少し汗ばむ感じだった。
展示は一階と二階にそれぞれあって、写真集からのものだと思うけど淡い光と夏帆さんが映ったものが多くて、やわらかくてやさしい写真が多かった。写真集とは別のZINEもサンプルで置かれていたが、実物は売り切れていた。


BOOK AND SONSから家に帰ってきて『群像』2022年12月号掲載の『の、すべて』第11回を読む。今回は語り部である河原が語られる存在である大澤光延の妻である大澤奈々(旧姓:櫻井)に話を聞くというものになっていた。彼女の実家は製薬会社であり、医療関係のことやワクチンのことを、そして夫である光延について古くからの付き合いである河原のインタビューに答えるという形。二人には五人の子供がいることがわかる。
そして、政治とは恋愛に似ているのだと。イメージが響きあい、ロマンティックでありアート(芸術)でないのだと、芸術家である河原に話す。そして、テロの襲撃を受けて二年以上経つが、居場所をマスコミや世間に知られていない入院中の光延のもとに河原が訪ねていき話をする。そこで光延は政治家の暗殺の話をする。伊藤博文犬養毅高橋是清は銃殺、原敬は刺殺されたが、大澤光延は殺されなかった、死ななかった。そのことの意味はなにかと語って終わる。
この河原が光延の身近な人たちにインタビューするのは彼の伝記を書くためだが、当人ではない他者が語ることでその輪郭が露になるという流れであり、妻まで言ったのだからここでひとつの章というか区切りはついて、新章に入るということなのだろう。


平家物語   諸行無常セッション(仮)』映画化記念 古川日出男×坂田明×向井秀徳「皆既月蝕セッション」 をWWWにて鑑賞。

かつては単館映画館の雄だったシネマライズ。僕が最初に上京してそこで観た映画は『アメリ』だった。その後も何十回も足を運んだ。しかし、現在はWWWとWWW Xというライブハウスになっている。
2015年にWWWで「記録映像 シブヤ炎上轟音上映会~AKASAKA / SAPPORO~」というナンバーガールの15周年記念のライブ上映を観た。僕はナンバガには間に合わなく、古川さんと向井さんの朗読ギグにも間に合わなかった。その後、古川さんの小説を読むようになってから、ZAZEN BOYSのリズムがわかるようになったというかかっちりハマるようになって2010年代は一番ライブに足を運んだバンドになった。その上映の時も本日同様にステージの奥のスクリーンに映像を映すものだった。その後もここで環ROYとか好きなアーティストのライブを何度か観ているが、明らかに二階部分に当たるところがいちばん観やすい箱であり、一階というかステージ前のエリアは正直見上げる形になるので観にくい、特にスクリーンが。というわけで二階エリアの最前にあるバーのど真ん中をゲットした。このセッションは全体像を見ることがいちばんいいとわかっていた。

河合宏樹監督が最初に挨拶をしてから映画『平家物語   諸行無常セッション(仮)』が上映された。高知県竹林寺という最高のロケーションで映像もカッコよくて臨場感があるし、古川さん坂田さん向井さんの言葉と音によって彼岸と此岸の間にいるかのように思える、そんなトリップ感すらある。
寺院と鐘の音というのは磁場というのか、明らかにその場所が現実(生活)の空間とはまるで違う。異次元や亜空間なんかの狭間に人を置くというか漂わせる。そのことが映像にも出ていると思う。
観客として竹林寺で観ているけど凄すぎて怖かったし、今日観客の人終わりかけの頃何人か泣いてたのは凄すぎるとか感動とかごちゃ混ぜになっていたんだと思う。この作品は爆音というかいい音響施設で観るのに適しているから来年映画館でぜひ観てほしい!

映画『平家物語   諸行無常セッション(仮)』を観てから「皆既月蝕セッション」はどうするんだろう、同じことできないよなと思ったら、古川さんによる『逆回転耳なし芳一』(『耳なし芳一』をわけたシーンを最後から最初に戻っていくから、最初に耳がちぎられてしまうというところ)から『平家物語』の木曾義仲の件と『犬王の巻』へ。
坂田明さんは竹林寺の時も今日のセッションでも感じたけど、声量がとんでもなくて、サックスを吹かれているから心肺が強いんだとは思うけど、体の芯にぶつかるみたいな声を出されていてそのことに感動する。僕が坂田さんを最初にお見かけしたのは坂田さんが書かれているミジンコについての本を出された時にB&Bで向井さんがゲストだったトークイベントだった。それもあって、この三人が一緒にセッションしていることって不思議ではないんだけど、観客として見ていたものが融合しちゃった感じもある。

アンコールで向井さんが歌い出してひたすら繰り返した「蕎麦屋の二階」は笑っちゃったし、笑っちゃうぐらいカッコいいしバカバカしくてたのしかった。声が風邪ではないだろうけど、いつもより声が涸れている感じだった。コロナパンデミックになってから向井さんはステージではビールを飲まなくなっていたけど、今年になって中村達也さん率いるLOSALIOSとの対バンの時ぐらいからビールをまた飲むようになった気がする。同時にZAZEN BOYSはまたそれまでずっとやってきた楽曲のリズムが変化している、特にカシオマンのギターのリフとかが。
そして、古川さんですよ。朗読のモードがまたOSがアップデートされたというかいうかバージョンが次のフェイズに入ってる。鬼気迫るというか、空間を完全に掌握しているんですよ、もちろんお二人とのぶつかりあいもしながらのセッションはあるにしても。

古川さんは『平家物語』上梓してすぐの2017年になってからトランプが大統領に就任したアメリカに渡米してロサンゼルスのUCLAで三ヶ月日本文学のゼミをされていて、僕が遊びにいったのは2月終わりと3月頭だったけど、3月のUCLAでの「GHOST STORIES NIGHT」というイベントの中で小泉八雲著『怪談』収録『耳なし芳一』の朗読をされた。同時に英語と中国語の訳があり、後ろのスクリーンには小林正樹監督『怪談』の「耳無芳一の話」が流されていた。今日もいらっしゃっていたが管啓次郎さんのワークショップの発表会で生徒の発表の間に朗読があったはずなんだけど、あの時も完全に朗読のレベルが異質だったし、幽玄みたいな空間になっていた。あの時もフェイズが変わったんだなと思ったし、そのことは古川さんに伝えた。
その後、日本に戻ってきてから5月の竹林寺での坂田明さんと向井秀徳さんとの『諸行無常セッション』があった。そして、2022年11月8日、今日の『皆既月蝕セッション』では『逆回転耳なし芳一』が朗読されて僕の中でこの五年を経て繋がって鳴り響いたように思えた。
ライブが終わってから古川さんにその話をしたら意識的ではなかったらしく「ほんとだ、繋がっているね」と言われていた。マジか、とも思ったけど、映像で前のセッションでがっつり『平家物語』の朗読をしているから『平家物語』から浮かぶのは琵琶法師、なら『耳なし芳一』というのはそうなんだよね。だけど、UCLAのことは無意識だったと思うけどなにかが結びつけているように思える。

耳なし芳一』は般若心経を耳だけ写経し忘れて、怨霊に耳を千切られて持っていかれてしまうというものだけど、2017年と2022年ということで考えるとすごく意味があると感じる。耳が千切られても音がまったく聞こえなくなるわけではないのだけど、象徴的だ。聞こえなくなるという感じがする。
2017年はトランプが大統領になって「アメリカ・ファースト」と言って、現実の壁を作ろうとしたし「ポスト・トゥルース」が世界中に広まっていった。トランプが象徴するように自分たちが正しいと思うもの以外のものには聞く耳を持たないものであって、外部の声は届かないし聞こえない、と言えた。

2022年は依然としてコロナパンデミックの最中である。人々はずっとマスクをしていて、他人の口元は二、三年近く見る機会が減っている。話題になっているドラマ『slilent』は主人公のかつての恋人が聾者になっており、東京で再会するというものだ。耳の聞こえない相手との恋愛ものは昔からあるから定番といえば定番だ。だけど、見ているとすごく今っぽいと感じる。それは主人公の紬は高校時代の恋人だった想から勧められて彼が好きだった音楽を聴くようになって、現在ではタワレコでバイトをしている。想は高校卒業間近で耳が聞こえにくくなって難聴となり、そのことを紬や友人たちに知られたくないから自ら別れを言い出して彼女たちと連絡を絶った。だが、彼女たちは再び出会ってしまった。しかし、彼にはもうほとんど音は聞こえず、手話か文字を書いたりスマホでの文字入力での会話のやりとりしかできない。また、彼は聞こえないが声は出すことができるが、家族以外の前では出さない。紬たちと再会しても声は出さなかった。自分が話して相手に届いて、相手がそれに声で返しても彼には聞こえないからだ。それならスマホで相手の声を文字に変換して、それに彼が文字を入力するほうが間違いがない。ただ、紬が最初に想のことが気になったのはその声だった。
この『slilent』における現在性というのは声による会話と手話という違うコミュニケーションの差をどうしていくか、かつて当たり前に伝わっていたものが伝わらなくなってしまったあとの人と人のコミュニケーションを描いていることだと思う。そしてマスクが当たり前になってしまった世界では聾者の人たちは聞こえなくても相手の口元を見ることでなにを言おうとしているのかが計れたがそれができなくなってしまっている。
コロナパンデミックになってからのコミュニケーションの難しさ、伝わらなさ、2017年以降に顕著になった自分が信じているもの以外は聞かない、聞こえないという他者不全、そんな世界をどう回復していくのかコミュニケートできるのかということを描いていると感じる。

2017年と2022年の『耳なし芳一』の朗読を聞きながら、聞き終えて僕の中ではそれらのことが浮かんで、結びついていた。これは単純な思い込みだが、やはり『曼陀羅華X』『ドライブ・マイ・カー』『コーダ あいのうた』と聾者が出てくる作品が僕の中では繋がっている。それはナラティブ(語り)ということが言われ始めたぐらいから、言葉だけではない語りがあって、そのことは言葉よりも先にあったはずで、コミュニケーションができなくなっていく社会や世界で見つめ直そうとしている、語るべきだという思いが創作者にあるんじゃないかなって。もちろん手話は映像的に映えるから映像に向いているという部分はあるのだけど。
そんな風に「耳」からの連想していた。聞こえているから届くとは限らないし、意味が理解できるわけではない。言語が異なるから相手に伝わらないのであれば、その言語を理解しようとしないとなにを言いたいのかはわからないし、互いに伝わる言語を作るかボディランゲージでもいいから伝えようとするしかない。たぶん、今それが置き去りに、ないがしろにされていると思う。
だから、古川さんが2017年と2022年に『耳なし芳一』と『逆回転耳なし芳一』を朗読したことを考える。そして感じたことはこうやって書いてみる。

ライブ終わってからフロアで何年かぶりにお会いできた方が何人かいらして、少しだけどお話ができたのもうれしかった。対面で人と話すことも少ないし、いきなり会っても会話がうまくとはならないからぎこちないし続かなかったりもするんだけど、それも含めて話している感じがした。 SNSでなんとなく近況とか生きてるってわかってはいるんだけど、実際に会うということはすごいことなんだなって改めて思った。

 

11月9日

休憩時間に急いで家を出て渋谷駅で11日から13日の帰省のための新幹線の往復チケットを購入した。なんかネットで買うには登録とかしないといけないんだけど、数年に一回しか使わないからいいやって。それで渋谷まで来てチケットを買ったが帰る金曜日も戻る日曜日もほんと指定席は埋まっていた。週末だから仕事でも観光とかでもみんな動いているんだなと改めて思った。
そのあとは散歩がてら家まで歩いて帰ろうと思ってスクランブル交差点を渋谷駅からTOHOシネマズがある方を渡った。そのまま道玄坂方面を坂を上ろうと思っていたら、そこからスクランブル交差点をTSUTAYA方面に向かおうと赤信号で待っている海外の人たちが数人いた。ひとりは大きなバッグを背負っていて、それは明らかに「マリオブラザーズ」のクッパのトゲのついた甲羅を模倣したものでかなりのインパクトがあった。デカくて目立つものだった。そして、そのバッグを背負っている人の顔は見たことのあるものだった。彼はどう見てもアメリカのミュージシャンでベーシストのThundercatだった。
僕が気づいた時に周りの人も何の人だろうみたいに見ていたが、欧米系の白人の人が声をかけていて、あっ、これはやっぱり本人っぽいなと思った。お付きの人のごつい人たちではなく友達な感じの普通の人たちと一緒だったのでワンチャンあるなと思って、青信号になって大盛堂書店前に渡り切ったところで勇気を出して、Thundercatなの?と聞いてみたらそうだと言った。手とかのタトゥーや髪型も明らかに彼なのだが、一応聞いてみないとと思って。そのあとはヘタクソな英語で聞いたら、仕事やライブではなくバカンスというか遊びにきたと言っていた。
アルバムがすごく好きで今年5月の来日ライブにも行ったということを伝えたらすごく笑顔になったので、写真を撮ってくださいとお願いして撮ってもらった。最後に握手をしてもらったので、エンジョイと声をかけて別れた。Thundercatは『ドラゴンボール』とか日本のマンガやアニメ大好きだし、ほんとうに日本好きなんだなあ。
昨日の「皆既月蝕セッション」あとに古川さんに挨拶して帰るときに握手してもらって、帰って風呂入ったり手は洗ってるけど、その次に握手してもらったのがThudercatっていうのはなんかすごいな。なんだろ、皆既月蝕パワーなのか。

Thundercat - 'Dragonball Durag' (Official Video)




夕方にニコラに行って作業しながら黒いちじくとマスカルポーネのタルトとあるヴァーブレンドをいただく。やっぱり毎週飲んでいるコーヒーを飲むと落ち着く。先週は「閉店後のカフェ」でビールは飲んだけどコーヒーを飲んでいなかったので、二週間ぶりだった。
今日は朝と晩と8時から24時までリモートワークだけど、ほんとうに昼間に渋谷に新幹線のチケット買いにいってよかった。ウェブで買ってたらThundercatに会えてないわけだし、足を運ぶとこういういいことがある。もちろん、反対に悪いことが起きたり巻き込まれる可能性も増えるのだけど、ラッキーな一日だった。

 

11月10日

今日というのか本日の24時からTOHOシネマズ新宿で『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』をIMAXで観るので、映画館で観た以来の一作目をアマプラでレンタルして観る。というか作業しながら自分のパソコンで流していた。流れとかどういうキャラクターとその関係性かがわかっていれば深夜にたのしめると思った。
明日の11日公開作品だが、新海誠監督『すずめの戸締まり』と同じ公開日なのは仕方ないが、TOHOシネマズのスクリーンを新宿や日比谷というIMAXがあるところを見るとほとんどがすずめに取られていて、TOHOシネマズ日比谷のIMAXで観てから新幹線に乗って帰るつもりだったが、終わるのが13時過ぎの回しかなくそれだと実家に着くのが18時以降になる可能性があるので諦めて、24時の最速上映で観て朝方帰って仮眠してからお昼前に家を出て12時の乗り換えしない便で帰ることにした。
驚くというか怖いのはIMAXとかだけではなく何個もスクリーンがあるところで三つか四つは『すずめの戸締まり』を上映するということになっており、平日の金曜日の午前中からそこまでほとんどのスクリーンで満席になるほどに観に来るわけないし、ほかの公開映画がスクリーン取られて上映回数が減っている。なんか横暴だなって思うし、そんなに初日から観に行く映画じゃないだろって思うけど、興行収入とかで記録を作るためにはスクリーンを独占するという手法で公開の金曜日から土日の週末を抑えておいてできるだけ観客を入れたいということなのだろう。そういうのは経済的には正しいのかもしれないが、新海誠作品が人気があるとしてもそのやり方って多様性ぶち壊している権力者の振る舞いなんだけど、それでいいのだろうか。と『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』のIMAX上映が減らされてしまった人としては思う。もちろん、こちらも大作なんだけど、今の日本の映画はアニメでなんとか維持されているし、そこに客がいるからそれが許されるんだろうけど。まあ、映画館で僕は観に行く理由は完全になくなった。
だが、アメリカではスクリーンのほとんどを『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が占めているというニュースを見て、どっちもガッカリだよという気持ちになった。

 

11月11日

24時から日付が11日になった直後に上映されるライアン・クーグラー監督『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』をTOHOシネマズ新宿で観るために夜の新宿へ。歌舞伎町には夜はほぼ来ないけど、アジア系の人よりも黒人系の人の方がたくさん見かけたがなんか勢力図とかまた変わっているのだろうか、まるでわからない世界。

マーベル・シネマティック・ユニバースの一作として世界的大ヒットを記録し、コミックヒーロー映画として史上初めてアカデミー作品賞を含む7部門にノミネート、3部門で受賞を果たした「ブラックパンサー」の続編。主人公ティ・チャラ/ブラックパンサーを演じたチャドウィック・ボーズマンが2020年8月に死去したが、代役を立てずに続編を製作した。

国王ティ・チャラを失い、悲しみに包まれるワカンダ。先代の王ティ・チャカの妻であり、ティ・チャラの母でもあるラモンダが玉座に座り、悲しみを乗り越えて新たな一歩を踏み出そうとしていた。そんな大きな岐路に立たされたワカンダに、新たな脅威が迫っていた。

監督・脚本は前作から引き続きライアン・クーグラーが担当。ティ・チャラの妹シュリ役のレティーシャ・ライト、母ラモンダを演じるアンジェラ・バセットをはじめ、ルピタ・ニョンゴマーティン・フリーマン、ダイナイ・グリラ、ウィンストン・デューク、フローレンス・カスンバらが前作キャストが再登場。新たに「フォーエバー・パージ」などで知られるテノッチ・ウエルタが参加した。(映画.comより)

映画が終わると深夜の3時前になっていた。本作と『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』パンフが売店で販売されていたので並んで購入する。パンフ販売が公開日からだから日付が変わって映画が始まる時だったので映画前に買えなかったのは仕方ない。
同じく11日公開新海誠監督『すずめの戸締まり』も0時から公開で終わるとそれを観た観客もパンフやグッズを買うので、鉢合わせの形になり、深夜というのに劇場内はかなり混雑していた。こんな時間にこんなに人が集まるというのはどちらの作品にもちゃんと集客力や人気があるということだ。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』は実質的には前作の主人公であるティ・チャラことブラックパンサーの妹のシュリが主人公。ティ・チャラ王亡きあとは二人の母親である先代王のティ・チャカの妻であるラモンダがワカンダを統治していた。物語はシュリが次のブラックパンサーとなるという物語なので2019年の『アラジン』を彷彿させるところもあった。
『アラジン』では王の娘であるジャスミン姫が主人公アラジンと結ばれるのは今まで通りだが、アラジンが玉の輿的に王になるのではなく、彼女自身が王だった父の意志を継いで王になるというところが新しい時代やフェミニズムの力を感じさせるものだった。アラジンはジャスミン王の夫でありパートナーとしてそれまでと基本的には変わらない感じになっていた。それを観た時にはこの作品を観た小さな女の子たちはお姫様になりたいという気持ちだけではなく、自分が主人として王にだってなっていいんだと思うのであれば、希望はあるなというものだった。僕は男性であるけど、やっぱり今までやってきた仕事なんかも女性が多い職場だったり、一緒に仕事をしてきたのも女性が多かったし、僕自身が正社員ではなくバイトなので社会がどのくらい男性の正社員が金銭的にも立場的にも融通されているかとかもまあ多少は肌身で感じてきたからそういう姫が王になればいいというメッセージはすごくいいなと思えた。
今作ではティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマンが現実で亡くなっており、続投ができず、代役を立てないことが発表されていたので彼女がメインになるだろうということは予想されていたのもあって、予告編などから想像できる展開ではあった。
また、今回ワカンダと戦うことになる海の帝王のネイモアとその一族たちとの戦いがなんだろう、あんまり興奮しなかったかなあ。そもそも初登場とあるネイモアと海の帝国の誕生の背景や設定などに関してかなり時間を使っているので途中でダレるところは正直あった。
あとネクストアイアンマン的な存在であるアイアンハートことリリ・ウィリアムズが思ったほど活躍もしないし、二つの国の対決にも参加しているがそこまでの見せ場はなかったような気がした。というわけで『ブラックパンサー』を観た時の興奮にはまったく届かない二作目となったが、しかし、それでもチャドウィック・ボーズマンが亡くなった場所は埋めることはできないし、なかったことにはしないで前に進もうとした、この作品に関わった人にはやはり敬意を払いたいと思える作品だとは言える。

作中では兄のティ・チャラを自分の用いる才能である科学技術で救えなかったシュリは、前作登場時からだが神や一族にある伝統のようなものを信じずに、科学者として技術開発をすることによって国や民の生活をよりよくしようとする現代的な考えの存在に、無神論者にも見える。彼女自身が次のブラックパンサーとなるというのは兄の役割を自分が引き受けることであり、それを次世代に引き渡していく役割や責任を持つことを選んだということだ。そう考えれば、この二作目で明らかにチャドウィック・ボーズマン演じたティ・チャラからシュリは大きなものを受け取ったのだし、成長をしたということだろう。でも、終盤とエンドクレジットに差し込まれるシーンでは次の王になるのはシュリではないし、その戴冠式みたいな儀式の時に彼女が訪れて会いにいった人のことを考えると、彼女はワカンダには囚われない生き方を選んだようにも見えるが、今後はどう展開していくのだろうか。
ポストクレジットシーンでは血は引き継がれるという王道なことはやっていたが、それがいちばんしっくりは来るだろうから文句は言えない。あとは敵役であるネイモア以外の主要人物がほとんど女性というのも今の時代という感じがした。
観終わってから一時間半ほど歩いて帰ろうと考えていたが、眠さもあるし座席にずっと座っていたので腰がきつかったのもあって劇場をでてすぐにタクシーに乗った。ちょうどクレジットカードのポイントをDポイントに交換していた分があったのでそのポイントを使ってD払いをしたら足りなかったのは百円ちょっとだったので助かった。


10時過ぎに起きてから渋谷駅まで歩いて山手線で品川駅まで出る。金曜日は有給とって『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』観てから実家に帰るというつもりだったので、映画が前倒しになった形。とりあえず、12時台ののぞみに乗れたのでよかった。


三時間半ほどで広島県福山駅に着いた。いつもはここからバスで実家近くまで帰るのだが、バスの時間も福山についてから一時間後ぐらいだったので今まで乗ったことのなかった福塩線神辺駅まで出て、そこから井原鉄道に乗り換えて帰ることにした。それでも福塩線にノルマで30分もないけど時間があまったので駅併設のテナントを見て歩いた。
福山城が建つ山がもともとは蝙蝠山と呼ばれていて、中国でコウモリは福を呼ぶ生き物とされていたことから福山と呼ばれるようになったらしい、そういう背景があるので「バットマン」の舞台であるゴッサムシティと福山氏が友好都市提携を結んでおり、こバットマンの等身大が置かれていたらしい。福山城バットマン関連のライトアップなども映画公開時にはしていたようだ。


福塩線神辺駅まで電車に乗ったが学校帰りの中学生や高校生が多かった。みんなマスクはしているけど、通勤通学の時間にたくさん人が居る場所に長い時間いないといけないからこうなるとコロナになる可能性は減らないよなと思った。帰る前に母が福山でもコロナはそこそこ出ているというのは仕方ないことだろう。ある程度の大きさの都市部では通勤出勤でどうしても人の密度が高くなってしまうから。
神辺駅で井原線に乗り換えて、地元の子守唄の里高屋駅まで乗る。井原線にはかなり前に一度だけ乗ったような気がするが、福山から帰るのに使ったのはたぶんはじめてだと思う。
コロナパンデミック前の2019年9月に帰って以来なので三年ぶりの実家だった。今年で102歳になった祖母と父と母はそれだけ分老いていたが、元気そうだった。四人で一緒に晩御飯を食べたが違和感もなにもなくそこにいるのが当たり前な感じだった。福山のほうに働きにいっている兄は22時過ぎぐらいに帰ってきたのでいろいろ話をしてから、二階で寝た。不思議と懐かしいという感じがしないのがちょっと不思議だった。

 

11月12日

朝起きて母に作ってもらった朝食を食べてから父と一緒に墓参りにいく。かなり勾配の墓地なのでさすがに祖母も登れないし、股関節が悪くて数年前に手術でボルトを入れている母も当然来れないので、二人で掃除もかねて参った。父が前に来たのは8月末ぐらいだったらしいが、少し伸びた草とかを取ったり除草剤を撒いた。
曽祖父母の墓石には十字があるのはキリスト教徒だったからで、父も幼少期は家の近くのあった教会に通っていたという話は何度も聞いていたし、その時期の写真も見たこともある。この時ではないが夜に話をしていたら、父にとっては祖父である住平さんは内村鑑三となんらかに繋がりがあったらしいとのことだった。
内村鑑三ウィキペディアを見ると再臨運動というのをしている時期があり、それは東京や関西が中心だったがのちに北海道から岡山まで及び、多くの聴衆が出席したとあった。その時に聴衆として参加して内村の話を聞いて刺激されてキリスト教に改宗したのか、入信したのだろう。今まで我が家で内村鑑三という名前は聞いたことがなかったけど、知らないことの方が多いのが当たり前なんだろう。


「中国地方の子守唄」に関する看板。


墓参りから帰ったあとに父の車に乗せてもらって井原市立図書館へ。「中国地方の子守唄」に関する研究というか卒論であったり、生まれ育った高屋町の地名の由来や江戸時代に幕府の天領だったり、福山藩の一部っだったことなんかをあたらめて調べようと思っていた。
三階の実習室を借りて、井原市に残る伝説なんかについて井原市教育委員会が残したものなどを見て、持ってきていたMacBook Airでそれを書き(打ち)写していたり、二階から持ってきた資料を読んだりした。


三時間半ほどしてから図書館を出てから現在はリニューアルの改装中で一時閉鎖されている井原市平櫛田中美術館まで歩いていく。
小学生の頃はよく授業の一環で観に行っていたが、子供には怖さのある彫刻や建物だった記憶がある。大人になるとその凄さも多少はわかるようになってくるし、地元を代表する芸術家などでもっと知りたいと思うようになったし、なにかネタにはなるよなっていうところもある。
令和5年4月18日にリニューアルオープンということで中には入れないが、外見の見た目も前とは全然違う近代的な建物になっていた。ここに関しても父が話してくれたのだが、平櫛田中の代表作というと六代目尾上菊五郎をモデルにした「鏡獅子」だが、今リニューアルする前の平櫛田中美術館ができたころに内装の仕事をしていた父は「鏡獅子」が搬入されるときに手伝ったと言っていた。そういうことも知らなかったことのひとつだった。


平櫛田中美術館の外観を見てから井原駅へ向かった。駅の構内に設置されている場所は美術館が閉館中のこの時期には平櫛田中の作品がわずかだが展示されている。僕はそのことを実際には見ていなかったが、ネットで調べて自分の短編小説に出して書いていた。だから、一回はちゃんと自分の目で見たいと思っていたし、そこでもメインにしたのは「鏡獅子」ではなく「転生」という鬼が人を吐き出しているという作品だったのでしっかり直で見たかった。
井原市ゆるキャラ「でんちゅうくん」は不思議なキャラクターだ。というのはもちろん名前は平櫛田中から取られているし、彼の代表作である「鏡獅子」がモデルになっている。だが、この「鏡獅子」は先ほども書いたように六代目尾上菊五郎がほんとうはモデルだ。正確には歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎が「鏡獅子」に扮した姿を平櫛田中が彫刻作品として作り上げたものをディフォルメしたものである。つまり、ほんとうのモデルである六代目尾上菊五郎の存在がポンと消えていることになっているとも言える。ゆるキャラにしてはモデルが明確に存在しているが、井原市と歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎は関係はない。これは「ガンダム」シリーズにおけるモビルスーツには人間が搭乗していたが、「SDガンダム」シリーズになるとそのモビルスーツ自体がひとつの生命(キャラクター)になっている。そして、最終的にはそのSDキャラクターが巨大なSDキャラクターに乗り込むという不思議なことが起きていたのだが、その感覚に近いようなことになっている気がしなくもない。



いちばん直で見たかった「転生」。長い舌のようだが、よく見ると人間であり、生ぬるい人間は食うに食えないということを表していると言われている。だいたい二メートルの高さがあるが、筋骨隆々であり実際の人間の体型なので顔の表情がとくに印象に残った。一緒に展示されている「鏡獅子」の木彫彩色は思いのほか大きくて迫力があったが、こちらは彩色されているものがより見たくなるものだった。
今度帰ったときにはリニューアルオープンしているだろうから、その時は美術館で改めて観てみたいし、今のこのイレギュラーの状態を自分の目で見ることができてよかった。


平櫛田中作品を観たので井原駅から家までは散歩がてら40分ほど歩いて帰る。途中のホームセンターで風呂とトイレ掃除につかうカビキラーとかブラシを買ったらけっこう重かった。我が家はみんな足腰が弱くて屈むのもつらいのもあるけど、おばあちゃんがボケて活動的でなくなってからは掃除が完全に手を抜いているというかできていない感じで、久しぶりに帰ってみると基本的にはキレイ好きな人間としては風呂場やトイレの汚れが気になって仕方なかった。
近所の高屋川は水が全然なくて草がボーボーで、道を広げる工事をしていた。昔は泳いだり遊んだりした場所だったし、外来種である歯がオレンジ色のヌートリアも時折見たけど、だいぶ前からここは子供が遊べない、ヌートリアも住めない場所になってしまった。

家に帰ってから風呂場の壁のタイルにカビキラーをかけまくってからブラシでゴシゴシこすったり、トイレもできるだけ尿で黄ばんだ便器とかを汗まみれになって掃除をした。掃除しに帰ったわけではないけど、気になったままでそのままにしておくほうが気持ちが悪いのは性分だからどうにもならない。
掃除をしたあとに兄は仕事でいなかったのでまた四人で晩御飯を食べた。そのまま僕はずっとビールを飲みながら、おばあちゃんと父と母といろんな話をした。おばあちゃんはボケがかなりきているから同じことを何度も聞いてくるし、それに答えてもわかっていないところがあったり、叔父(父の弟で祖母の次男)が生まれた時に未熟児だったのか小さくてダメになるかもと思ったということを何度も話すが、僕と叔父が入れ替わっていた。次男繋がりなんだろうか、父も母もそれは違うとか言っても繰り返された。よほどインパクトが強かったのか記憶に残っていていて、事実ではないことが本当のことのように混濁しているんだろうなって一緒にいるとよくわかった。
おばあちゃんとは指相撲を何度かして全部僕が勝ったけど、その握る力がほんとうに強くて100歳越えてるのにあんなに力が出るのはすごいなって思った。シワシワの手はとてもあたたかった。

 

11月13日
外から小さな雨の音が聞こえていたが、ご飯を食べるころには次第に強く降るようになっていた。おばあちゃんと最後に挨拶をして握手というか手を握ってお別れをしてから福山駅まで父の車に乗せてもらったが、雨はやまずにずっと降っていた。
渋滞するかもしれないので早めに着いたので一時間前の福山から品川の乗車券に変えてもらって11時台ののぞみに乗った。指定席はほぼ満席だった。そして三列席の真ん中だったのでほとんどそこに座った状態だったので腰がかなり痛くなった。
新幹線は品川駅で降りて、山手線で渋谷駅まで行ってからそこからは歩いて帰ったが、東京は雨が降っていなかった。


夕方過ぎてからニコラにお土産のもみじ饅頭を持って行って、ガトーショコラとアルヴァーブレンドをいただいた。いつもの馴染みのある場所とコーヒーのあたたかさは落ち着くものだった。

STUTS×SIKK-O×鈴木真海子 - Summer Situation (Live at USEN STUDIO COAST 2021)


好きな曲のライブバージョンがアップされていた。

 

11月14日

コトゴトブックスで注文していたアアルトコーヒーの庄野雄治著『融合しないブレンド』(【限定焙煎「融合しないブレンド〜コーヒー豆ver.〜」&特製ブックカバー&古書付き】)が届いた。『融合しないブレンド』が出る頃にどこで買おうかなと思っていたが、ちょうど木村さんとお茶をした後ぐらいだったのでコトゴトブックスでお願いしていた。
金曜日に配達されてきたが、ちょうど実家に帰った日だったので、今日再配達してもらった。古書は向田邦子著『寺内貫太郎一家』だったのも、家に帰って戻ってきたタイミングだとなんか符号する感じもする。
ニコラにヘルプで入る時しかコーヒーを淹れないので、豆が届いたら家でも淹れてみるタイミングとしてはいいかなと思ったのもちょっとある。最近はいろんな人の日記やエッセイを読んでいて、ちょうど読み終えたので寝る前に一編ずつ読もうかな。

午前中に行った整骨院で腰と背中がいつも以上にバキバキに固まっていると言われた。確かに新幹線の往復もだし、普段は仕事終わりにしているストレッチなんかもまったくしなかったから固くなってしまうわけだ。今週はもう一回来ればと言われたのでタイミングを見て行こうと思った。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の最新作は昨日寝る前に見たけど、木曜日放送の『silent』最新話は朝晩のリモートの作業中には集中して見れないなと思ってまだ見れていない。先週の金曜日の深夜からのラジオを聴くだけでほとんどの時間はたのしめたから助かった。

僕はあと8ヶ月で60歳になるんですけど……年齢は感じますよ。年齢を超越できる人間はいない。20歳、30歳、40歳、50歳は何にも感じませんでしたが、今59歳になって、何と言うんですかね、サナギが蝶になる感じというか。それは青年というか若造みたいだったのが、おじさんやパパという時期を越して、いきなりおじいさんになる感じというか……。実際、僕は家庭と子供が無いので、パパっぽい時期が無いんです。写真を見てもずっと同じ顔をしていて、50代で流石に変わるかなと思ったら変わってなくて。コロナ禍は偶然ですけど、57、58歳になって急に変わってきた。もちろん変わらない部分もあるんですけど、現実的に老けるということがドサッと襲ってきたのは事実ですね。なので年齢は感じていて、これを表現に使わない手は無いなと思いますし、自然に反映されますね。最終的に70歳や80歳になると老けて体が動かなくなって円熟していくしかないかもしれないですが、60歳はまだ暴れるおじいちゃんなんです。おじいちゃんの第一形態というか。
(中略)
個人的には今が一番アナキズムです。海外には(ウィリアム・S・)バロウズみたいなかっこいい80歳もいましたかしね。ああいう極端な例は日本にいなかったですが、バブル期を20代で経験して、60歳になった人の動き方はあるでしょうし、今まで日本にいなかったようなタイプの人たちが出てくるのかもしれないですよね。歳を取ったら円熟というのは希望で言っているだけで、円熟なんか80歳になっても遅くない。あんちゃんメンタリティーがおじさんメンタリティーに変わっただけですよ。

3年ぶり関西公演「かっ飛ばす」菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールーー菊地成孔が語るダンスカルチャー、60歳を迎える「サナギが蝶になる感じ」

菊地さんのインタビューがあった。ぺぺまた観たいけど今回は東京はない。ドラマ『岸辺露伴は動かない』の主題歌である『大空位時代』を音源で出してほしい、そしてまたライブで聴きたい。

 

11月15日
スマホを使うにしてもそれでYouTubeばっかり見ていると結局ひろゆきやDAIGOやガーシーの方へ流れて信奉者というか疑いがなくたのしいよとか言うようになって、こちらとしてはリテラシーなくなってるぞという方に行くけど、radikoでラジオを聴いている人はあんまりそっち側にはいかない気がする。その差はなんなんだろうと考えていた。その差は今の時代にはすごく大きなことだと思う。
最近のラジオは同時に映像も配信しているけど、やっぱりラジオ局とそこのスタッフが作るということは出る側にきちんと緊張感があるんだと思う。もちろん聴衆率が低ければ番組は終わるんだけど、やっぱり公共の放送というパブリックなものというのがデカい。YouTubeという枠組みの中でやっている人は出演者が編集したりとスタッフを兼ねている人もいるが、スタッフも自分で雇ったりしていると他者性や客観性がどうしてもなくなっていくし、数の論理で過激なことだったり数字を稼ぐために逸脱してしまう部分が出てくる。もちろん過激なものはおもしろいし刺激的だが、大事なものを売り渡したりしてしまう可能性がある。そういうものに直感的に嫌悪感を持っているのだと思う。だから、この辺りの問題はいかに客観性を持つか、パブリックなものとはなにかをある程度は考えていないと刺激を求めて過激なほうへ、カルトな方へ向かいやすいのかもしれない、などと寝起きの頭で思った。

午前中は去年末に泌尿器科でもらったボアラという軟膏がなくなっていたので、久しぶりに病院に行って新しいのを処方してもらおうと思って雨の中駅近くにある病院に向かった。僕の前にはひとり待っている人がいたので順番的に二番目だったので9時半の診察開始から5分以内には診てもらえた。
症状自体は悪化していなくてストレスとか体調を崩すと抵抗力とか弱くなるので皮膚が赤くなるというのは変わらないみたいだった。軟膏の処方箋をもらって帰る途中に軟膏を出してもらった。前は口唇ヘルペスがストレスとかではできやすかったが、今年になってからは二週間ぐらいで治っては気がついたら赤く炎症するというのを繰り返していた。思いのほかわかりやすい体だった。

11日に実家に帰ったので毎週見ているドラマをTVerで見るタイミングがなかった。『エルピス―希望、あるいは災い―』第四話「視聴率と再審請求」と『silent』第六話「音のない世界は悲しい世界じゃない。」はじっくり見ようと思っていたので今日ようやく見ることができた。『鎌倉殿の13人』は昨日見たけど、その二つとはなんか違うのは大河ドラマで今までずっと見ていて物語も終盤であり、主人公の義時はダークサイドに落ちているのと現代劇ではないと言うのもあるような気がする。

『エルピス』は主人公の浅川恵那がずっと飲み込めないこと、吐くという行為が最初から描かれていたが、もう一人の主人公である岸本拓朗もチーフディレクターの村井によって自分の過去と向き合わされることで吐くという行為、そして覚醒への始まりに至るという展開になっていた。
「勝ち組」という言葉に翻弄されつつもしがみつき、ずっと自分と母親は負け続けているのだという拓朗の告白、白と黒の勝ち負けの二元論では掴めない、その中にあるグラデーション、それぞれに感じるものや立場をいわゆる勝ち組と呼ばれる場所にいるはずの青年が語るシーン。その構図もテレビ局における人間関係や権力や利害関係も重なっていく。
村井役の岡部たかしさんを僕がちゃんと認識したのは小泉今日子さんの会社「明後日」の2018年の公演舞台『またここか』だった。でも、僕の感触では明らかにそれ以降にテレビドラマや映画で岡部さんを見る機会は一気に増えた気がする。映像関係の人が観に来ていてそこからキャスティングされる機会が増えたんじゃないかなと思うのだけど、実際はどうなのだろう。
『エルピス』は内容的に集中して見ないといけないと感じるし、見終わると恵那たちのような吐き気というか胃に重いものがたまるような、すぐに咀嚼できないものが現れたような気になる。それもあって何度もすぐに見返せるタイプのものではない。

続けて『silent』を見始めて思うのは、『エルピス』とは方向性は違うがこちらも目が離せない内容であること。当然ながら手話のシーンでは字幕は出るが、手話のわからない僕たちは画面を見る以外になにを話そうとしているのか伝えようとしているかがわからない。つまり、手話を扱ったこのドラマはながら見が非常に難しい。
『silent』はもはやスマホで映像や音楽を垂れ流ししながら、ほかのことができるようになった世界において画面を見ないと内容がわからないものとなっていて、そのある種の不自由さが釘付けにするものになっていると思う。しっかりと見るという環境に視聴者を置ければドラマがしっかり作られていれば深く届くという証左なんだろう。手話は映像的に映えるということだけではなく、画面をしっかり見るしかないという状況に視聴者や観客を向かわせることになっている。
第六話は想と大学時代から友人になって、彼に片思いをしていた生まれつきの聾者である奈々にスポットがあたった回になっていた。二人が出会った数年前は今のようにショートではなくセミロングぐらいの髪の長さの奈々を夏帆が演じている。そうそう昔の夏帆だって感じにもなった。
2007年公開の渡辺あや脚本『天然コケッコー』の主演が夏帆であり、ある時期までの彼女はその時のイメージが強く残っていた。映画自体は素晴らしすぎてmixiにすごく熱のこもった文章を書いたはずだ。舞台が自分の地元を彷彿させるものだったのも大きかった。夏帆黒沢清監督によるドラマ『予兆 散歩する侵略者』と宮藤官九郎脚本『監獄のお姫さま』ぐらいから一気にフェーズが次に入った感じがする。
想の高校時代の彼女であり、東京で再会した紬に会いに行った奈々はカフェで手話でのやりとりの中で、紬が想から手話を習っていると言われ、「私が想くんに手話を教えたの」「プレゼント使いまわされた気持ち」「好きな人にあげたプレゼント」「包み直して他人に渡された感じ」と手話で伝え、彼の声はどんな声と聞く。好きな人と電話したり、手を繋いで話をしたりする夢をたまに見るのだと、それに憧れるけど相手ができてもその夢は自分には叶わないのだと、手に入ることはないのだと伝えることになる。このあとの最後に奈々と想が路上で会うシーンで一気に持っていくのだけど、なんというかほんとうにすごいなって、奈々が主人公の恋敵というよりも彼女にも視聴者は感情移入できたし、立場の違いも明確にしているが聾者でもグラデーションがもちろんある。それは『エルピス』の拓朗における勝ち組のそれとも重なっている。
「私が想くんに手話を教えたの」「プレゼント使いまわされた気持ち」「好きな人にあげたプレゼント」「包み直して他人に渡された感じ」という手話のセリフは本当にすごいなと改めて思った。

 

11月16日
RAMU - Aoyama Killer Monogatari (Night Tempo Showa Groove Mix)


昨日放送した『マツコの知らない世界』の特集「80's Japanese POPSの世界」 のゲストがNight Tempoだったので見ていたら、最後にスペシャルゲストで菊池桃子さんが出てきたのだが、菊池桃子さんと夏帆さんは同じ顔の系統な気がする。その間の中間の顔があるとよりわかりやすいと思うのだが、個人的には系統は同じだと思うんだよなあ。


昨日買った田中慎弥著『完全犯罪の恋』講談社文庫版と加藤シゲアキ『できることならスティードで』朝日文庫版を休憩中にちびちび読む。
朝晩とリモートワークだったけど、整骨院に今週は二回行けたので腰の調子がかなりよくなった気がする。先日の雨で一気に冬になったような肌寒さだし、コロナの陽性者も東京はまた一万人を越えて始めてきたのでいろいろと年末に向かってまたヤバい感じになってきた。

 

11月17日

『silent』第6話を見返した。いわゆる主人公の恋敵であるポジションの奈々(夏帆)にスポットがあたる回。終盤の紬(川口春奈)と奈々がやりとりするシーンにおける奈々のセリフ(手話)のすごさ、ラストのスマホを耳に持ってくるシーンでの彼女の夢と現実の決して埋まらないものを見せる演出がやはりうまい。
とはいえ、もはや恋敵ですらここまで視聴者に感情移入できるように描かないとドラマを見てもらえないし、テンプレ的な性悪女的なものはやりにくいというのもあるのだろう。
ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー』でも今回のヴィランであるネイモアと彼が統治する帝国とワカンダの戦いも同様であり、ネイモアたちはスタンダードなテンプレ的な悪ではなく、第三国や当事者以外の存在の利害関係や政治的なものによってワカンダと戦うしかなくなる。
9.11以降の世界では勝ったものが正義であり、それぞれの価値観と利害のための正義と正義が戦い殺し合いだした。勝てば正義とされ、負ければ悪となる。自己責任という言葉もそれに拍車をかける。
安倍政権の長期化(それを支え続けた統一教会について右翼は文句を言わないのだから、もはや右翼は右翼ですらない。日本とか政権与党になにもない自分を重ねている奴は中年男性から上が多いのはわからなくもないが、トランプ支持者の白人男性たちと変わらないメンタリティだ)や、トランプが大統領になってポスト・トゥルースが蔓延してしまったから嘘や虚偽でも数を取ればよくなるし勝てばなにをしてもよくなると考えるやつが増加する、三権分立や民主主義を破壊してもよい、嘘をつき続けて責任を取るとだけ言ってなにしなければ国民は忘れていき責任の所在はなくなる。
ウェブでの数字やviewが取れれば勝ちとなる世界ではかつての教養や知識はバカにされたり、意味を失う。品や教養がない世界になるのは経済的な貧困さが増しているのもあるし、スマホばかり見ていたらアルゴリズムによるオススメの行く末は想像に難くない。自分で考えることを放棄していることにすら気付けなくなってしまう。
大きな物語が終焉したあとに細分化と断絶が増していく世界では、人は繋がりすぎてもいけないしアルゴリズムに支配されない未知との遭遇がより重要になる。分厚い本が鈍器でもあり、時代に対する一緒のテロに、読者はある種のテロリストになるということを古川さんが前に話されていた。そのことが日に日に沁みるようになっているのは、時代や環境や周りの人たちと自分の関わり方もあるのだろう。
『silent』や『ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー』はこんな時代のいい側面のひとつだとは思う、だけど反対側の部分がひどすぎる。


去年、ニコラが10周年の時に出した『Nicome Vol.6』二刷りができたので、お店に行った時にいただいた(寄稿者だから)。ニコラでお茶やお食事をする際にお土産として連れて帰ってもらえるとうれしいです。

 

11月18日

朝晩とリモートワーク。このままだと家から出なくなってしまうので昼休憩時に渋谷に散歩がてら行く。ついでに日曜日観ようと思っていた映画の日時指定券を購入した。その帰りに東急百貨店 渋谷・本店前の信号を渡ろうして建物を見上げたらなぜか『左利きのエレン』とのコラボの「閉店SALE」の垂れ幕がかかっていた。
いつも渋谷に来ると顔を出すのは七階の丸善ジュンク堂書店。広さももちろんだが品揃えも多岐にわたっているし、外国の文学や小説、外文がしっかり揃っているのもありがたい書店なので、百貨店の建て替えと再開発の関係で1月末で閉店というのはかなり痛い。
渋谷で外文がしっかり整っているのはここぐらいだったし、青山方面まで行けば青山ブックセンター本店があるが、歩いて行くにはちょっと遠い。代官山蔦屋書店も外文はあるが棚があまりなくて、年々書籍の棚は減っている。新刊系はあるが昔の作品を、と思ってもないことが多いのでたいていは丸善ジュンク堂書店で買っていた。
渋谷は2002年に上京してから単館系映画館に足を運ぶことで馴染んでいった街だったが、その映画館もなくなったり移動したりして、かつてとは全く違う状況になっている。東急百貨店一帯が再開発されて新しくなった時には前のこの景色はどんどん薄れていくだろうし、渋谷っていう場所は留まらないから景色が変わり続けていてほんとうに生き物みたいだと思う。

リモート作業中と休憩中はビュロー菊地チャンネルのフェイクラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」と radikoで『ハライチのターン!』『おぎやはぎのメガネびいき』『ナインティナインのオールナイトニッポン』『マヂカルラブリーオールナイトニッポン0』を聴いていた。

大恐慌へのラジオデイズ」の最後の20分ぐらいでジャニーズの話、というかKing & Princeの話があって、僕はあまりキンプリのことは知らないけど、ジャニーズ帝国の中心人物であるジャニーさんが亡くなり、SMAPがいなくなったあとのSMAP席を彼らにという部分があったのであれば、かなりの負担もあっただろう。グループ名は本来なら玉座につく正当な王というものだが、祝福が反転し呪縛になってしまって彼らは離脱するしかなくなったようにも見えなくもない。

是枝裕和×坂元裕二が初タッグ!映画「怪物」来年公開、「夢が叶ってしまいました」

坂元さん脚本ということで非常に観たいのだが、今の所タイトルが『怪物』というだけでキャストも内容もわからない状態。特別映像では少年二人が森のような緑豊かな場所にいるということだけしかわからない。どちらかが成長した姿が菅田将暉さんとかが演じるんじゃないかなと、『花束みたいな恋をした』から引き続き坂元裕二脚本映画に出たりしないかなと期待している。

 

11月19日

サム・ファーザーズが彼の師であり裏庭の兎とリスが彼の幼稚園であったなら、老いた熊が動き回る森は彼の大学であり、老いた雄の熊自身、もうずっと前に妻を亡くし子もいなくなったので今や性を超越し自らの祖先と化していた熊自身が彼の最終学歴だった。
ウィリアム・フォークナー著/マルカム・カウリー編/池澤夏樹訳/小野正嗣訳/桐山大介訳/柴田元幸訳『ポータブル・フォークナー』収録『熊』P265より

寝る前に読んでいた『熊』に出てきた一文。すごく印象に残ったのでメモしておいてこうやって書き出してみると「彼の大学であり」以降の文章ってすごく複雑だ。
そもそも意味が分かりにくいのはフォークナーぽくもあるけど、これたぶん今のプロの作家が書いたら編集者や校閲からチェックが入ると思う。流れるような文章ではないけど、うまく咀嚼できないというか気になってしまう強いインパクトがある。しかし、この『熊』は読んでいると異様に眠くなる。


起きてからTVerで『silent』第7話を見る。前回の奈々が紬に言った「プレゼント」ということが回収というか違う意味に転換する内容だった。彼女が想にあげたものを包みなおして紬に渡されたというセリフがあったが、ふたりが人間として向き合い話をすることで、その意味が反転してそのことに意味と喜びを感じたような感じになったほっこりするものだった。最後には手話教室の教師である春尾(風間俊介)と奈々が知り合いであるということが最後に視聴者にわかって終わった。
奈々への好感度というか視聴者は感情移入できる回が続いたので、このあとにどう主人公である紬へ主軸を戻していくのかが期待。タイトルの『silent』は難聴になって耳が聞こえなくなった想と紬のやりとりが手話になったことなんかも含めていると思うが、さすがに最終回とかで紬の耳が聞こえなくなるみたいな展開はやらないだろうし、90年代ならやっていたかもなって。野島伸司脚本『この世の果て』みたいなラストは今の時代にはやらないと思うし、プロデューサーも脚本にOKは出さないと思うから、衝撃的なラストではないだろうけど、ここまで注目を集めたドラマが紬と想が結ばれるみたいな終わり方以外にはどう着地するのか。あとは想とその母の律子(篠原涼子)の親子関係とかも出てくるかな。

近藤恵介・古川日出男|読書会「古川日出男、長篇詩『天音』譚」


長篇詩『天音』刊行記念イベントの情報がなかなかでなかったが、今日やっと出た。イベントの日時が来週土曜日だったので出していたシフトを調節してもらって行くことにした。というか絶対に行きたかったから休ませてくれなかったらめちゃくちゃねばったと思うが、いつも遅刻もせずにしっかりシフトを守っているのでOKはすんなりだった。よかったよかった。
詩人・古川日出男としてのモードを見たいと思っていたし、近藤さんと古川さんはLOKO GALLERYで何度も協働で制作してきたから場所(上記の写真はその時のイベントのもの)としては一番最適なのはよくわかるからこそ、ここでのイベントには行きたかった。来週が楽しみだ。

 

11月20日

前から楽しみにしていたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『バルド、偽りの記録と一握りの真実』をヒューマントラストシネマ渋谷の朝イチの回にて鑑賞。

公式サイト

「レヴェナント 蘇えりし者」「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で2年連続のアカデミー監督賞受賞を果たしたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が、自伝的要素も盛り込みながら、ひとりの男の心の旅路をノスタルジックに描いたヒューマンコメディ。

ロサンゼルスを拠点に活躍する著名なジャーナリストでドキュメンタリー映画製作者のシルベリオ・ガマは、権威ある国際的な賞の受賞が決まり、母国メキシコへ帰ることになる。しかし、何でもないはずの帰郷の旅の過程で、シベリオは、自らの内面や家族との関係、自らが犯した愚かな過去の問題とも向き合うことになり、そのなかで彼は自らの生きる意味をあらためて見いだしていく。

イニャリトゥ監督にとっては2000年に発表した「アモーレス・ペロス」以来、故郷メキシコで撮影した作品となった。「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」「Biutiful ビューティフル」も共同で手がけたニコラス・ヒアコボーネとイニャリトゥ監督が脚本を担当し、「愛、アムール「セブン」などで知られる撮影監督のダリウス・コンジが65ミリフィルムでメキシコの風景とシルベリオの旅路を美しくとらえた。主人公シルベリオ・ガマを演じるのは、「ブランカニエベス」などで知られるメキシコの俳優ダニエル・ヒメネス・カチョ。2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2022年12月16日から配信。11月18日から一部劇場で公開。(映画.comより)

観ていて感じたのはラテンアメリカ文学におけるマジックリアリズムをガンガン映画で映像でやりまくってるなあというもの。前々作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』から引き継がれてるものもあるし、わかりやすさとか楽しいエンタメを求める人にはまったく勧めない。たぶん、理解ができないから。しかし、アメリカ文学の巨匠であり、サーガを描いたウィリアム・フォークナーと彼の影響を受けたマリオ・バルガス=リョサガブリエル・ガルシア=マルケスたちラテンアメリカ文学好きな人たち、そして、日本文学ならば大江健三郎中上健次古川日出男作品を読んで好きな人には刺さる一作。彼らの小説を実写化でやるとかなり近いものになるのではないかと思う。だから、彼らの作品を実写でやるのは並大抵ではないし、難しいのだなと逆説的にわかった気になった。
今作はネトフリが作って配信される映画だが、先に一部映画館で公開という作品である。製作費がすごくかかってるのがよくわかるのは画だけでなく、作中に出てくる家の大きさや調度品やパーティー会場などもだが、出てくるエキストラの人数もかなり多い。金持ちの道楽じゃないけど、金があるところと(互いの利益や考えはあるとして)映画製作者が組んでやるからできる映画芸術というものはある。
こんなもん(褒めている)世界中で理解したり楽しめる層は一部しかいないよ、とは思わなくもないのだが、それは日本に住んでる僕の感覚だし、海外の人はわりとラテンアメリカ文学的な世界観は理解してるのかもしれないと考える。ゴダールの映画(『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』)でもフォークナーの名前や彼の作品名出てくる(かつての教養としてなのかもしれないし、当時ゴダールがたまたま読んでいたのかもしれない)し、ラテンアメリカからの移民は世界中に数えきれないほどいるわけで、ネトフリなら世界中の至るところで観られるのだからしっかり評価もされるし楽しめる人も多いのかもしれない。日本だと受けは悪いだろうなってなんとなく思ってしまうが、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』が楽しめた人は絶対に面白がれる。あの批評性とかが好きならばニヤニヤすると思うんだけど。
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の批評的な視線と作風、創作者とその人物が作り出した作品との関係性があり、その現実と創作のミルフィーユみたいな多層構造の接ぎ木みたいにマジックリアリズムが使われているのも映像としてかなり意欲的に意図的にやっているから、ところどころでやりすぎだよと思って笑えてきたけど、素晴らしい作品でした。

 

11月21日
朝と晩リモートワーク。隙を見て整骨院へ行って診てもらう。先週は腰がガチガチだったけど、今週は多少はマシになっていた。先々週は新幹線での往復でずっと座りっぱなしだったし、実家にいるときは普段やっている肩甲骨や腰なんかを動かす体操をしていなかったのでモロに影響が出ていつも以上に肩甲骨や腰なんかが固くなっていた。治療後にほかの患者さんがいなかったので普段は診てもらっている時に話す程度だが、終わってからも少し先生と世間話をした。
週に一回実際に会って話すというのはこの整骨院とニコラしかないけど、こういう距離で通えて顔を見て話せる場所があるというのはコロナパンデミックになってからかなり助けられている。
その後、実家からお米を送ってもらう日について母からメールが入っていたので返信をする。兄の勤め先が尾道のほうに支店を出すのでそのスタッフとして呼ばれているらしく、実家からだと高速使ったりしてもかなり時間がかかるので会社が借りてくれたウイークリーマンションに住むことになるというのは帰った時に聞いていた。とりあえず、今日広島のほうに行ったようでしばらくはそちらで生活するらしい。そうなると実家は祖母と父と母だけになる。メールを送ったら母から電話が来て話をしているとそれなりに寂しいのだろうなと感じた。そう考えると今月上旬に帰郷したタイミングはちょうどよかった。ボケが進んでいる祖母はおそらく兄が仕事から帰ってこないみたいな感じでそのことを父と母に何度も聞くことになるのだろう。

『われらが歌う時』以降のリチャード・パワーズ作品は新潮社から刊行順にコンスタントに出版されていてうれしい。『オルフェオ』以降には刊行の翌年には日本語で読めているのはすごいし素晴らしいことだと思う。
『われらが歌う時』はオバマ元大統領誕生を予見したみたいな小説でもあるのだが、単行本は絶版になっているのか、新潮社のサイトにはなくAmazonでも下巻が高くなっている。文庫版は出ていないので今はなかなか読むのが難しくなっているのがもったいない。

 

11月22日
Mirage Collective - Mirage (Studio Live Session) 



YONCEに加えてbutaji、長岡亮介ハマ・オカモト、荒田洸らも「エルピス」主題歌に参加


00時までリモートで仕事をしていたので、終わると同時でMirage CollectiveのYouTubeチャンネルで配信公開されたYONCEがボーカルのライブセッションをリアルタイムで見る(聞く)。
『大豆田とわ子と三人の元夫』でも組んでいた佐野PとSTUTSが再びという形になっている。「大豆田〜」でも主題歌にはいろんなバージョンがあったが、今回もそれを踏襲するというかバージョンをいくつか用意していてアルバムとしてもリリースするということらしい。こういうこともしっかりやっているのはおもしろいことがやりたいからだろうし、同時代のジャンルが違う人たちと何かを作るということも含めていろんな戦い方があるのだということ、そしてニュースになったり話題になることを仕掛けていくことで作品自体をさらに広く届けようとする強い意志の現れだと思った。

曲を聞いてからドラマ『エルピスー希望、あるいは災いー』第五話「流星群とダイアモンド」を見る。前回は恵那が正義にまっすぐだったが、今回は拓朗が突っ走るという展開。
いろんな力によって恵那は冤罪事件のことを諦めかけており、拓朗がひとりで取材を進めていくことになる。そこで死刑囚の松本が逮捕される一番大きな決め手となる証言をした男に不信感を覚えた拓朗が彼の周りの人物たちに体当たりのように話を聞き込みしていく。そこで彼の発言が虚言であり、それによってなんらかの報酬を得続けていることが元妻からの証言を撮影することに成功する。
拓郎は前の恵那同様にスタッフをだまして生放送にそのインタビュー動画を流そうとするがそれはバレてしまい叶わない。だが、チーフプロデューサーの村井に共犯だと思われた恵那はその動画を放送後に呼ばれて見せられ、拓郎がとんでもない取材をしたことを知って冤罪事件をあらためて追いかけようと決める。という流れだった。
警察や検察の判決を覆すことになる元妻の証言。だが、恵那の元恋人である政治部の斎藤の存在と彼を可愛がっている現副総理の大門は警察庁長官の出身であり、今後どのように二人が暴こうとする真実の前に立ち塞がるのかが気になる。今の所だと真犯人は大門や警察か政府の有力者の関係者であり、それを隠蔽しているような匂わせも多少あり、三億円事件の犯人が警察や政府関係者の子供だったという説辺りを参考にしているのかもしれない。三億円事件に関しては実は事件自体が作り事で当時の過激派や学生運動をやっていた連中をローラー作戦的にしょっぴくために行われたという話もある。国家権力というものは時にその暴力装置を使うことをためらわず、大きな力によって個人を簡単にひねりつぶすことができる。真相はわからないことが多く、ブラックボックスの中は一般市民には触れられない、見ることはできない、知ることはできない、その中を知ろうとすると消されてしまう、という可能性はゼロではないが、同時に陰謀論的なものもそのせいで出てくることになってしまう。陰謀論的なものを語る人がすべて嘘ではないとしても、生半可な気持ちでそういうものに深く入れ込んでいくと単純に信じていたもの全部を疑うことになってしまう危険性もある。そういう意味でほんとうに今の世界はややこしすぎる。おそらくこれから後半は個人と集団(国家権力)というものをさらに深いところで描いていくドラマになっていくはずだ。一回放送分をほんとうに見るといろんな感情が沸き出てしまい、眠れなくなってしまう。


仕事が終わってから親友のイゴっちと久しぶりにご飯に行く。何を食べても美味しい居酒屋さんでたくさん食べてビールを飲んだ。気心知れているからこそ言えることや話したいことがあって、それが言い合えたし聞くことができてとてもたのしい時間だった。
二軒目ということで駅近くのすずらん通りの中にあるクラフトジンを中心にした「BAR CIELO」というところに入った。バーテンダーの人にいろいろ説明してもらいながら四杯ほど僕は飲んだ。イゴっちは飲み比べとかしながらいろんなジンを楽しんでいた。
ふだんまったくお酒を飲まないけど、こうやって一緒に飲みながら時間を共にできるのはたのしいことだし、信頼してる人じゃないと長い時間は無理だなって思う。あとこういう感じで楽しく飲めた日の後はほとんど二日酔いにもならないのが不思議だ。

 

11月23日

起きると窓の外では雨が降っている音がしていた。休みだから代わりに昨日出勤していたので夕方の仕事までは時間があるから、21日に発売になった古川日出男長篇詩『天音』を買いに行こうと思って家を出た。
雨は降り続けていたので傘を差して歩いて丸善ジュンク堂書店渋谷店に行ったけど置いていなかった。昨日の時点で入荷したとツイートしていた紀伊国屋書店新宿店に行くのがベストだと思ったので副都心線に乗った。新宿三丁目駅で降りれば傘を開けずに地下から紀伊國屋書店に行けるから雨もさほど気にならない。
祝日だけど雨ということもあるのか電車の乗客はそれほど多くなかった。二階の詩集が置いてあるレジ近くのコーナーで『天音』がポップと共に数冊積まれているのを見つけ、写真を撮ってから購入して帰る。
コーナーのところの写真は無断で撮っているのでネットでは上げられないなと思いつつ、渋谷駅までの帰りの電車の中でGoogleフォトで撮った写真を確認しようとしたら「この日を覚えていますか?」みたいな過去の画像を勝手に集めたものが画面の上に出ていた。
今日は昔付き合っていた人の誕生日なので、その関連の画像が出てきた。彼女が『ハル、ハル、ハル』の単行本を貸してくれなかったら古川さんの小説を読まなかったし、それがきっかけだったからそんな日に『天音』を買うのはちょうどいいなって思えた。
『ハル、ハル、ハル』を読んでなかったら、たぶん『ゼロエフ』の取材で古川さんと一緒に福島県宮城県を歩くこともなかったし、作中に僕が出てくることになかったと思う。そう考えると人になにかを貸すとかおすすめすることで人生が変わっちゃうことがあるのは、とてもすごいことだし怖いことだしおもしろいことだなって。だけど、やっぱりその時にデータじゃなくて本だったりCDだったりと物質であることが大事だと思う、手渡すことができて返す時にも手渡すことが前提だから。

今回はこの曲でおわかれです。
オーニソロジー - アマリリス (Official Video) 

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年9月24日〜2022年10月23日)

先月の日記(8月24日から9月23日分)


9月24日

ウィリアム・フォークナー著/マルカム・カウリー編/池澤夏樹訳/小野正嗣訳/桐山大介訳/柴田元幸訳『ポータブル・フォークナー』

普通の小説を読むことはちょっとした小旅行に似ている。
読者は数日だけ自分の家を離れて他の地に行く。
大河小説を読むことは夏の数週間を避暑地で暮らすことになぞらえられるだろう。
しかしフォークナーを読むことはそのままヨクナパトーファ郡に移住することである。
広大な土地を案内され、多くの人びとに紹介され、有力な家系の先代や先々代の事績を聞き、近くの森を舞台にした伝説的な熊狩の話を聞き、この土地の没落と退廃についての嘆きを聞かされる。
満を持して移り住んでいただきたい。──池澤夏樹 (「世界文学全集Ⅰ-09」月報より)


古川日出男著『とても短い長い歳月』こと「ポータブル・フルカワ」が出た際に初めてフォークナーの『ポータブル・フォークナー』のことを知った。「ヨクナパトーファ・サーガ」の年代順になった今作はサーガ好きとしては分厚くて(&二段組)最高。
分厚い本は図書館で借りても一回では読めない可能性が高いし、そもそも入れてくれるかもわからない。鈍器的な重さとか物体としての強さっていうのも大事なことだと思う(その分価格は高くなってしまうがそこは諦めるしかないし、個人的にはそういうものは家に置いておきたい)。
古川日出男阿部和重青山真治という僕の上の世代が描く「サーガ」はいろんな影響があるが、彼らが影響を受けた大江健三郎中上健次ガブリエル・ガルシア=マルケス(彼だけでなくラテンアメリカ文学を世界クラスにした作家たち)もウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」からの影響が直接的にも間接的にもある。
先祖返りという形なのかもしれないけど、そこから持ち帰れるものはまだあるし、自分が好きな作家たちが多大な影響を受けた作家のサーガを読むことでより彼らの作品への没入度もあがると思う。サーガというのは年代記でもあるし、さきほど引用したように小旅行にもなる。時間を越えていく旅にもなる。。

先日のREIのライブで来た友人は朝の7時ぐらいの新幹線で帰る予定で乗車券を取っていたが、台風15号の影響で静岡県に大雨が降ったことで東海道新幹線の一部区間の運転が見合わせになったことなどもあり、朝からの午前中の新幹線は運休になっていた。
午後から再開されるという話で、ウェブで乗車券を午後の回に変更したというので帰る前に飯を食べに行こうという話になった。
僕はあまり覚えてないが、彼が行こうと言ったハンバーガー屋には数年前に一緒に行ったらしい。確かにその店には過去に二、三度は行ったはずだけど、彼と行ったかどうかは覚えていなかった。
三茶の「ベーカーバウンス」にオープンして数十分経った頃に歩いて行くと店内にはお客さんが一人ぐらいだった。雨も降りそうだったし、お昼にはちょっと早かったというのもあるのだろう。
そういえば、二週間ほど前にTVerで「寺門ジモンの取材拒否の店」を見た際に三茶にあるハンバーガー屋が出ていた。ジモンさんが足を運んだお店は間借りでやっているらしいのだが、そのオーナーの人はもともと三茶で有名なハンバーガー店を創業した渡邉さんという有名な方らしかった。そのお店は「KRONE DINER/クローネダイナー」という名前で、9月は影響がどうなるかわからないという話を渡邉さんがジモンさんに話をしていて、一応許可も取ってハンバーガーを食べるという撮影をしていた。
「ベーカーバウンス」は何時からかなって調べた時にその「KRONE DINER/クローネダイナー」の話の記事が出ていて、テレビで見たあの人が作ったのが「ベーカーバウンス」なんだとわかった。最初に行ったのは10年以上ぐらい前だったが、まだインスタ映えみたいな言葉もなかったし、テレビとか情報番組やバラエティでこれでもかという積み重ねたハンバーガーを見ることは増えてきたがあの頃はそういうものはあまり見かけなかった気がする。たぶん、「ベーカーバウンス」からそういう流れができたということなのだろう。


数年ぶりに行ったお店でアボカドチーズベーコンバーガーを頼んだ。飲み物はやっぱりコーラだろうと思って、その二品を注文した。
実際にできたものが運ばれてくるとデカい&高い。ナイフとフォークもあるが、バーガー袋も用意されているのでそこに入れて食べることにした。潰してできるだけ高さを口に入るサイズにしようとしても全然小さくならないので口に入る分を噛んで少しずつ食べていく感じになる。その際にソースや肉汁とかが鼻や口周りにつくのがわかる。豪快な食べ物だなあと思うし、価格も1,800円なので豪勢で背徳感を感じるような気もする。
ベーコンもアボカドも美味しいが肉がやっぱり美味しい。下のバンズは支えるためかちょっと硬めになっていたが食べているうちに上からの肉汁や食材からでたもので濡れて柔らかくなっていった。
ほんとうに久しぶりにハンバーガーというものを食べたけど、こういうものならたまに食べたいと思える。ここはひとりで行っても違和感はないし、家からもそこまでは離れていない。ほんとうに美味しかった。そして、こういう時はやっぱりコーラがなんといっても一番合う。
食べ終わってから友達を電車の方へ見送っていこうとしたら雨が強く降り出した。明日も雨らしいのでもうちょっと洗濯はできないのがつらい。

 

9月25日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年9月25日号が配信されました。最終回は小説『セネステジア』です。一番最後にはある詩を引用させてもらいました。
読者の皆様、水道橋博士編集長をはじめ関係者の方々、約10年間お付き合いいただきありがとうございました。


兎丸愛美連載『旬刊うさまるまなみ』2022年9月25日号

兎丸愛美さんの10年間の写真人生についての文章なのでぜひ読んでみてください。

成長著しいIT企業「スピラリンクス」が初めて行う新卒採用。最終選考に残った六人の就活生に与えられた課題は、一カ月後までにチームを作り上げ、ディスカッションをするというものだった。全員で内定を得るため、波多野祥吾は五人の学生と交流を深めていくが、本番直前に課題の変更が通達される。それは、「六人の中から一人の内定者を決める」こと。仲間だったはずの六人は、ひとつの席を奪い合うライバルになった。内定を賭けた議論が進む中、六通の封筒が発見される。個人名が書かれた封筒を空けると「●●は人殺し」だという告発文が入っていた。彼ら六人の嘘と罪とは。そして「犯人」の目的とは――。(公式サイトより)

浅倉秋成著『六人の嘘つき大学生』を読み始めて、全体の約三分の二を読んだ。
最終選考での六人でのディスカッションはある種の「クローズドサークル」のようになっており、また、語りの主人公格が最初はある人物だと思わせておきながら、それぞれの罪が書かれた封筒が開けられるとその該当人物に最終選考に勝った内定者が当時の話を聞いているという流れが続いていく。そこでは六人のうち誰かが亡くなったことで内定者となった人物が選考に落ちた残りの四人や当時の人事部の人に話を聞いており、そのターンが終わる時に主人公格であり、内定を勝ち取った人物と誰が亡くなったのかがわかる感じになっていた。そして、亡くなった人物が残したものと最後に話を聞いた人物から内定者はみんなの過去を告発した封筒を置いた犯人だと思われていたことが判明するものの、どうやらその人物ではないことが明かされる。そして、その人物が真犯人を見つけようとするのが残りの三分の一になっているみたいだった。
どんでん返しとも言えるが最終選考の残った人物たちがどんどん内定から転げ落ちていく展開となり、誰が犯人か疑心暗鬼になりつつも自分だけは内定を取りたいという心理ゲームになっていく。
読んでいくとページが止まらない感じで非常に読みやすく、登場人物の心境もよくわかる。本屋大賞に選ばれてロングセラーとして長く売れているのもよくわかる。最後まで読まないと犯人はわからないが、まあ、タイトルが『六人の嘘つき大学生』ということにオチが関わっているのだろう。となると内定者であり、他の人物たちから犯人ではないかと疑われている人物も犯人の可能性が残されている。

古川日出男×坂田明×向井秀徳×河合宏樹監督による『平家物語 諸行無常セッション(仮)』映画化記念「皆既月蝕セッション」のツイートを見たのでそういえば、最初に坂田明×向井秀徳コンビを見た時のことを思い出した。

竹林寺での「諸行無常セッション」を観る数年前に坂田明さんと向井秀徳さんによるミジンコトークB&Bで見ていた。その時のかっこいい「This is 向井秀徳」写真。これもう9年前みたい。

夕方にLINEで連絡をもらったのでトワイライライトへ。以前は同じく「メルマ旬報」チームでもあり、B&Bでイベントを担当していたが、現在はご自身が立ち上げた「COTOGOTOBOOKS(コトゴトブックス)」の店主である木村綾子さんがトワイライライトにはじめて行くので時間あったらとお声がけしてもらったので、お店で合流してドリンクを頼んでから屋上でお茶をさせてもらった。
たまたまだけど、この日が僕にとって「メルマ旬報」の最終回が配信された日でもあったので、こういうタイミングで連絡をもらったらやっぱりなにかをサボってでも行くのが正しい姿勢というか、実際に会うことを優先させたほうがいいと直感で判断した。作業が遅れてもそれは取り返せるが、人に会うというタイミングは取り戻せない。
一時間ほど楽しくお話をさせてもらった。偶然でもこういう時に声をかけてもらえてほんとうにうれしかった。

 

9月26日
「村上RADIO~村上春樹 presents 山下洋輔トリオ 再乱入ライブ~」をradikoで聴く。
前に菊地成孔さんのフェイクラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」で話していたやつだとわかった。
ゲストとして作家の小川哲さん、都築響一さん、菊地さんが出ているが、都築さんのパートは多少あるけど、皆さん無駄遣いってぐらい短い。特に小川さんはなんで呼ばれているのか全然わからない。ジャズに関係あるようには思えないし、どういう理由なんだろうか。
山下洋輔菊地成孔は師弟関係、菊地さんもペン大とか今やっている音楽工房とか下の世代を育てたり、一緒に制作するのを一緒にやっている。結局人垂らしが無邪気にできてしまう天才か下を育てたり(世に出したり)した人だけが残っていくのかなとも思う。山下さんはどうやらその二つの要素を持ち合わせている。
村上さんは大西順子さんが大好きなのに、彼女を菊地さんがプロデュースしたアルバムには一切触れないという話は「大恐慌へのラジオデイズ」で何度か聞いているけど、そういう辺りは人間らしい村上春樹という感じがする。

野田:ここ最近の『キングオブコント』の方向性は、わりと物語(風なコント)が勝つ方向かと。

村上:うんうん。

野田:最高の人間って、吉住の演技力もあるし。

村上:“お話”にしてくるよね。

野田:お話にしてきそうな気がするんだよね。そしたら勝つかもね。

マヂラブ「“お話”があると映えるんですよね~」KOC2022決勝進出者決定を受けコメントより

この話って芥川賞がこの数年文体とか実験的であるとかでの評価ではなく、現在における問題を作品においてうまく物語にできているかで評価されていることに近いのかなと読んでいて感じた。
書かれている問題への対応とかは倫理観に縛られなくてもいいけど、物語であることが重要視される。候補作も受賞作も物語性が強いものが増えている。純文学というフォーマットというよりもエンタメより枚数の少ない、かつての中間小説の短いものに芥川賞が寄っていってるから、純文学系の文芸誌はそっちに寄るしかない、のかもしれない。
わかりやすさとか共感できるとかが物語に求めるものが上位にくると、他者性とか他者という気持ち悪さ(自我に侵食してくる)とか読んでしまうと心の奥の方に澱がたまっていくとかはどうしても毛嫌いされてしまうし、受け入れられなくなっていく。
アニメシリーズも旧劇場版の「エヴァ」はそういう意味では90年代後期における文学であり純文学だったんだと思う。新劇場版はエンタメとしてヒットさせないといけないわけだから、過去シリーズを見ていない初見の人でもある程度はわかることが必要だった。
庵野秀明という鑑賞者における他者性は薄れたし、同時に作品(庵野秀明)自体がマリという他者に救われて終わる。新劇場版を観ておもしろかったという旧シリーズを観てない人へ対するもどかしさとかって、あの気持ち悪さ、他者性こそが「エヴァ」なんだよって僕は思ったし、90年代後期の空気感だったと思う。人類補完計画はインターネットの普及とグローバル化によって成し遂げられているのだから、新劇場版はもう他者性を描けなかったし、庵野秀明は肥大化する必要がなかった。
僕がライブやフェスでサークルモッシュをするやつは全員死んでほしいと思うのもそれに近くて、演奏しているミュージシャンに圧倒されたいし、それが観たいのであって、集団でわちゃわちゃして音楽をつまみにして自分が主体になるというのが生理的に無理であり、クラップユアハンズとかを舞台にいるアーティストが煽るのも、それをやっている人たちを観るのも嫌いだし、そういう時は心が死んでいるので微動だにしなくなる。
この「物語」的なものを覆せるのは圧倒的な個人だけだが、それもやがて「物語」に飲み込まれていくしかないのだろう。
純文学系の文芸誌はエンタメの文芸誌と合体して生き残るしかないのだろうか、「物語」に対するぶり返しがくるとはどうも思えないし。個人が自発的に発信できる時代というのは結局、わかりやすい物語に落とし込んでいくしかなくなるから、「物語」にカウンターをしようとするとよりインディーズな場所しかなくなる気がする。


「木爾チレン×倉田茉美「恋愛と創作」『私はだんだん氷になった』(二見書房)刊行記念」トークイベントを見にB&Bに行ってきた。
木爾チレンさんと倉田茉美さんという実の姉妹によるトーク。新作『私はだんだん氷になった』もいろんな書店で積まれているのを見る話題作。前作『みんな蛍を殺したかった』もある種のイヤミスであり、重版を重ねていることもあって、新刊も書店員さんからの評判もいい感じがSNSから伝わってきていた。
メルマ旬報の忘年会なども含めてお二人には何度か会っているが、トークイベントって大丈夫かなとちょっと不安だったがまったく問題なかった。
『バチェラー・ジャパン シーズン2』でも大活躍した妹の茉美さんの人前でもしっかりと発揮される魅力(タレント性)もあったし、彼女が司会の部分も担ってトークのテーマを少しずつ新刊や創作活動について寄せていくハンドリングができていた。生まれてからずっといる姉妹であり、恋愛も創作に関しても話してきたという信頼感やなんでもわかっているからこそのやりとりが見えたのが一番の売りなんだと思った。
チレンちゃんはあまり自分がという感じでトークを引っ張っていくタイプではないが、自分が好きなものについて語る時にスイッチが入る感じがあり、そこから姉妹が共有している想い出や記憶にダイブしてから一気にトークにドライブがかかっていた。ああいう感じは長い時間を過ごしていないとおそらく出せない質のものだと思う。これは新刊が出る度とか年に一回と回数を重ねていって、いつか倉田姉妹対談集みたいなことにするとおもしろいんじゃないかな。

新刊に絡めてチレンちゃんがかつてジャニオタであり、「嵐」の「夢小説」を書いていて、そこでは「神」と呼ばれていた話などは非常におもしろかった。僕自身は「夢小説」などはまったく知らなかったが、前に「monokaki」の記事の中で知った程度であるが、携帯小説から現在の投稿サイトに移行する期間の間には「夢小説」があるし、そこで書いていたという人の中から現在プロの作家になっている人も何人もいる。また、チレンちゃんはボカロも好きだったこともあってボカロ小説も書いている。
「女による女のためのR-18文学賞」を受賞してデビューした作家陣の中で窪美澄さんをはじめとした多くの人は初期の頃はデビュー後は依頼で官能小説を書くことが多いというのも賞の傾向としてはあったが、チレンちゃんはボカロ小説やティーン向けの青春小説やゲームのノベライズを手がけていた。
前から本人にも伝えているが、彼女が書いてきた小説は作者の同世代というよりは下の世代や10代に向けたものが多く、そのことで下の世代のファンが成長してくるとかなり状況が変わってくるのではないかと思っていた。
残念ながら、今の所は僕にはロングインタビューする機会はないのだが、チレンちゃんに作家インタビューする人がいるなら、「夢小説」や「ボカロ小説」など現在に続くネット文化についてもしっかり聞くとおもしろい話になると思う。
彼女にしたらひとつの「黒歴史」かもしれないけど、それを掘り起こすことで共有できる「黒歴史」を歩んできた人たちが反応すると思うし、「黒歴史」という言葉を生み出した『∀ガンダム』のようにかつてのモビルスーツという過去の遺産が彼女たちの中で動き出すかもしれない。
木爾チレンというペンネームはその頃から使っているもので、その名前を使うことで当時読んでいてくれた人が気づいてくれるかもという話もあったので、偶然新刊を書店で見かけた人の中には再び木爾チレンに出会ってしまう人もどこかにはいる、というのもひとつの物語だと思う。


『みんな蛍を殺したかった』『私はだんだん氷になった』は下の世代だけでなく、幅広い世代に読まれているが、デビュー作『静電気と、未夜子の無意識。』から最新作『私はだんだん氷になった』までチレンちゃんが書いてきたものひとつに「ルッキズム」がある。これはかつて思春期を生き延びた大人でもその後も付き合っていくものであり、10代が思春期を迎える際に直面する人生を決めてしまうかもしれない質のものである。だからこそ、彼女の作品は10代(の女性と昔なら自分でも書いてしまっていたはずだが、現在では男女も関係なく、性別すらも関係なくというのが正しいのだと思う)に突き刺さり続けるはずだ。そういう理由からチレンちゃんは強力なファンがどんどんできるんじゃないかなと想像していた。たぶん、これは当たっている。
姉妹のトークの中で姉妹感の関係性やキャラクターも含めて「ルッキズム」について書くという軸ができたのではないかなと思える。姉が陰キャで妹が陽キャというのは意図的だったのかお揃いの服のカラーにも現れていたが、わりと対人関係や恋人などに対してドライである姉とそうではない妹という反転のようなものもあった。お互いがお互いのない部分を補完しているだろうし、近くなりすぎないようにどこか無意識な部分で調節しているのかもしれない。
『静電気と、未夜子の無意識。』の時にもらったサインと今日かいてもらったサインを見比べたら猫が増えていた。そして、今日の日付が一年ズレているのはお愛嬌ということで。
『みんな蛍を殺したかった』『私はだんだん氷になった』に続く三部作目は再来年に出るみたい。緑・青だから、次の装幀のメインカラーは赤かオレンジかな。


水道橋博士のメルマ旬報」副編集長の原さんも来ていたので四人で一緒に。三人が細くて僕が太いためにより太さが際立ってしまいました。連載が終わってちょうどいいタイミングで原さんに会えたのもよかった。

 

9月27日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年10月号が公開されました。10月は『千夜、一夜』『もっと超越した場所へ。』『アフター・ヤン』『君だけが知らない』を取り上げました。



ヴァルディマル・ヨハンソン監督『LAMB/ラム』 を ホワイトシネクイントにて鑑賞。

アイスランドの田舎で暮らす羊飼いの夫婦が、羊から産まれた羊ではない何かを育て、やがて破滅へと導かれていく様を描いたスリラー。「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などの特殊効果を担当したバルディミール・ヨハンソンの長編監督デビュー作。

山間に住む羊飼いの夫婦イングヴァルとマリアが羊の出産に立ち会うと、羊ではない何かが産まれてくる。子どもを亡くしていた2人は、その「何か」に「アダ」と名付け育てることにする。アダとの生活は幸せな時間だったが、やがてアダは2人を破滅へと導いていく。

「プロメテウス」「ミレニアム」シリーズのノオミ・ラパスが主人公マリアを演じ、製作総指揮も務めた。アイスランドの作家・詩人として知られ、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の歌劇脚本を手がけたショーンがヨハンソンとともに共同脚本を担当。(映画.comより)

情報ほぼ入れずに観たが、所々笑ってしまった。だってシュールなコントにも観えるから。亡くした娘と同じ「アダ」という名前を産まれてきた「何か」に名付ける羊飼いの夫婦。いわゆる半人半獣であるそれは顔は羊だが、首から下は半分ずつが羊で人間という「何か」であり、なぜ産まれたのかなどは明かされない。その姿もすぐではなくある程度経ってから観客にはわかるようになっている。
そして、羊飼いの夫婦と「アダ」以外には夫の弟がおり、彼も最初はその「何か」を受け入れられず、またなにかの禁忌に思えたのか殺そうとするが、それはできずに次第に受け入れていく。四人の家族団欒の時間が過ぎたのちに弟は街に戻っていくことになり、そのあとにはクライマックスが来るのだが、観ていてわりとポカーンとしてしまう状況になる。
羊飼いというのもキリスト教的なモチーフだろうし、詳しい人ならいろんな要素から導き出せるのかもしれないが、最後の最後にまたシュールすぎるなって思ってしまった。
今作は羊はもちろん、犬や猫も出てくる。A24作品は動物が出てくるものが多いと思うのだが、今作を観てA24は新しい神話や民話になりえるものを作ろうとしてるのかもしれないと思った。
『LAMB /ラム』をホワイトシネクイントで観終わってから、下の階に降りたら「松尾ジンギスカン」があって、『LAMB /ラム』のチラシも置いてあったんだけど、あの映画観た後に羊肉を食べる勇気はなかった。


大塚英志著『北神伝綺 妹の力』を購入。今まで未刊行だった三作品が全部出た。表紙は北神の妹の滝子のモガスタイル。
1890年代に「少女」という概念ができ、世紀が変わってから「少女小説」が生まれて、それを読んでいたのが滝子の世代で彼女たちがモガ・モボになっていく。だが、その華美な格好は世界恐慌支那事変で消えていくことになる。うちの祖母(存命)は1921年生まれだから、世界恐慌支那事変が起きる頃は15歳ぐらいだから、まさに少女だった。

平家物語 諸行無常セッション(仮)』映画化記念 「皆既月蝕セッション」の先行申し込みしたものが取れたというメールがきて、その後には「古川日出男が言葉を放つ。向井秀徳がそれを受けて演奏し、歌う。「文学」と「音楽」が斬り結ぶ。このイベントの音源を、ディスクカッティング旋盤により、その場でレコードに収録・制作」する【柳井イニシアティブ】レコードプロジェクト『A面/B面 ~Conversation & Music』の抽選も当たったとメールが来た。こんな日だからかよけいにうれしい。

安倍元首相の国葬の日だったようだが、TVもないし映画を観にいって歩いて帰っていた時間に始まったらしく、Twitterなどではそのことに関しての意見がTLを流れていた。僕個人としては国葬は反対だし、彼がやってきたことで日本が貧しくなって信用を世界だけではなく国民の間でも失い、同時に分断と断絶を生んだと思っている。
そもそも祖父の岸の時代からアメリカとの関係性なども含めて、敗戦国としてアメリカに隷属している国だったと思ったら、政治家たちが韓国の僕(しもべ)でもあったという、まあ、こんな話を小説で書いたり、ドラマにしたら大抵はボツになるようなことがどんどん出てきている。テロは許されないが、そのテロによって明らかになってしまった。政権与党である自民党もこんなイレギュラーは想像できなかっただろう。想像を越えることが起きてしまうのが現実だ。テロは想像できても、その背景にあった統一教会問題が噴出するなんてなかなか想像できない。
1995年のオウム真理教による日本という国へのテロ、教祖の麻原をはじめとした死刑囚たちは一斉に死刑が執行された。その時に僕は安倍政権と彼らオウム真理教は裏表の関係にしか見えなかったし、安倍政権は日本へ国民へのテロをしているとしか思えないことばかりしていたからだ。だからこそ、安倍政権でオウムの死刑囚を殺さないといけなかった。相似形である彼らを殺すことで正義という仮面を被ることができ、彼らに似ていることを気づかせないようにしたかったのだと僕には思えた。そして、テロリストを殺したテロリストがさらなるテロによって殺されたという風にしか見えなかった。
結局、彼らがひたすら壊し続けた民主主義、彼らが票集めするために相互利用していた宗教団体を恨む人物からの暴力によって自らも殺されてしまった。国葬に反対するのは単純な理由だ、民主主義を破壊した政治家を神格化するような儀式はするべきではない、ということだ。
残念なことはこの国葬が日本にとっては先進国から、G7から転げ落ちることになった日としてのちのち語られそうであることだ。機密文書を破棄するような政府や嘘ばかりついている政治家を支持するような人は基本的人権とか民主主義というものをしっかり学び直したほうがいい。

 

9月28日
朝から晩まで家でリモートの仕事。お昼に駅前に買い物に行った時だけ家を出たぐらい。なんだか気分が晴れないというかやる気も起きないし、大丈夫かなと思うけど、とりあえず「メルマ旬報」が9月末で一応クローズするからそういうことも関係はしてるんだと思う。やっぱり10年っていうのは長い。でも、一個いいアイデアが浮かんだからそれを活かしたい。


新潮文庫の発売日だったらしく、トルーマン・カポーティ著『ここから世界が始まる トルーマン・カポーティ初期短編集』と村上龍著『MISSING 失われているもの』を買い物ついでに購入。前者の解説には村上春樹さんなのでW村上が関わる文庫本を買ったということになる。
作家歴が長い村上龍さんだけど、新潮からはずっと書籍を出していなかったのでこの作品が初めてなのかな。それで初文庫という形なんだと思う。


新潮文庫は最初の一作目は背の部分が白。二作目以降は著者が好きな色を選べるという話は聞いたことがある。
伊坂さんのデビュー作『オーデュボンの祈り』文庫版も白は最初の方もの、二作目『ラッシュライフ』で選んだ青系の色がその後は続く。一作目はそれ以降で重版がかかれば二作目以降の背の色になる。そんなわけで持っているにもかかわらず、デビュー作がないと思って買ったらダブったという話。

syrup16gが5年ぶりのアルバムリリース、12月に大阪と神奈川でワンマン開催

追加で東京ワンマン出てほしいが、五十嵐さんが再始動してくれたのはうれしい。新曲オンリーライブには足を運んでいないのでアルバムを聴いて、どんな曲なのか新鮮に味わいたい。

 

9月29日

石原海監督『重力の光』をシアター・イメージフォーラムにて鑑賞。 

アートと映像の領域を横断し、さまざまな作品を手がける石原海監督が、北九州市の教会に集う人びとが演じるキリストの受難劇と彼らの歩んできた苦難と現在の物語を交差させたドキュメンタリー。

困窮者支援を行うNPO法人「抱樸(ほうぼく)」の奥田知志が牧師を務める福岡県北九州の東八幡キリスト教会には、元極道、元ホームレス、虐待被害者など、さまざまなバックグラウンドを持つ人びとが集まってくる。傷ついた愛すべき罪人ともいうべき彼らが演じる、イエス・キリストの十字架と復活を描いた受難劇と、彼らが経験してきた苦難と現在、礼拝の模様や支援活動など、フィクションとドキュメンタリーを交錯させながら、人間の「生」に迫っていく。(映画.comより)

信仰、世の中からはみ出したり阻害されたり罪を犯した人たちの居場所ともなりえるもの。同時に人が集まり、次第に集団における価値観や倫理が個よりも優先され、自分で考えることを停止する可能性もあるもの。今観ると複雑な気持ちにもなる。
作品の中で受難劇を演じている人たちの芝居の練習風景と彼らのバックグラウンドとして過去についてのインタビューシーンが交互に描き出されていく。その中でイエス役をしているおじさんが元極道であり、刑務所に何回も入っていたという方なのだが罪人でもあるイエスと彼のそれまでが重なるようにも感じられて、教会側の出し物だと思うのがそのキャスティングはお見事とも思った。
救いの手を差しのべる人、そして困窮している人はその手を握る。慈悲の心というか弱きを助けようとする姿勢などは素直にすごいなと思う。同時にその差し伸べる人が善人であれば問題はないけれど、やはりその人が悪人であったり、誰かを利用しようとしているような人だったら、と思うと怖いなとも。
僕は今の所信仰というものは持てないなと思っているのだけど、身近な人が何かの宗教だとかを信仰を持った時にどう接するのかなと考えるとやっぱり多少の距離は取ってしまうかな。客観視がある人なら問題はないのだろうけど。


ラフカディオ・ハーン著/円城塔訳『怪談』。装幀の絵(へオルへ・ヘンドリック・ブレイトネル「白い着物の少女」)がすごく「怪談」というのとラフカディオ・ハーンこと小泉八雲感があると思うし、すごくいいデザイン。


「俺を殺した晩もこんな晩だったな」と六部の声で囁くというのが小説『北神伝綺 妹の力』冒頭にあって懐かしかった。大塚作品で以前に読んでいたはずだ。作中の柳田國男(原作者の大塚英志)の「カタリ」を聞いた読者は「フィクション≒マヨイガ」に入り込む、読了したら「どっとはらい」と言えばいい。

二十代のときはDragon Ashのライブ行けばダイバーとなり人の波の上をダイブしていて、ダイブするのはDragon Ashだけと決めてた。そのぐらい好きだったし、Kjがアルバムやシングルを出すたびにタトゥーを増やしてたからそれに憧れて自分の作品が出たらタトゥー入れていこうみたいなことを思っていたけど、四十代になっても両腕だけじゃなく身体にはひとつもタトゥーは入っていない。
みたいなことを五七五七七で書くのが今の現代短歌というイメージ。間違っている可能性大。


夕方過ぎにニコラでナガノパープルとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。同じカウンターに知り合いの藤枝くんが役者の友達と一緒に来ていて、途中からは三人で話をする感じになった。けっこう話してしまって気持ち申し訳ないのだが、人と話す機会があまりないから話せる時にはガッツリ話してしまう。大人なので多少そういうのを気にしたいとは思う。

 

9月30日

タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。

平庫ワカの同名コミックを、永野芽郁の主演、「ふがいない僕は空を見た」のタナダユキ監督のメガホンで映画化。鬱屈した日々を送っていた会社員・シイノトモヨは、親友のイカガワマリコが亡くなったことをテレビのニュースで知る。マリコは幼い頃から、実の父親にひどい虐待を受けていた。そんなマリコの魂を救うため、シイノはマリコの父親のもとから遺骨を奪うことを決意。マリコの父親と再婚相手が暮らす家を訪れ、遺骨を強奪し逃亡する。マリコの遺骨を抱き、マリコとの思い出を胸に旅に出るシイノだったが……。亡き親友マリコ奈緒、シイノが旅先で出会うマキオを窪田正孝マリコの父を尾美としのり、その再婚相手を吉田羊が演じる。(映画.comより)

原作となるコミックも話題になった当初読んでいたので話の筋はわかっていた。やはり永野芽郁主演というのも大きく惹かれる部分だった。観終わってスタッフロールで脚本に向井康介タナダユキという名前が見えた時に、「ああ、ということは監督はタナダユキさんだったんだ」と思ったぐらい、永野芽郁奈緒が出るぐらいしか知らなかった。
死んでしまった親友の遺骨を持って少しだけ日常から離脱したシイノの短い冒険譚といえる作品。コミックも一巻だったし、サブエピソードも追加しにくいというのもあるのだろうけど、90分もなかった。そのぐらいの長さはちょうどいい。
死んでしまったマリコを演じたのは奈緒であり、彼女は去年公開の『君は永遠にそいつらより若い』での好演も素晴らしかったので記憶に残っていた。今作と『君は永遠にそいつらより若い』で奈緒が演じた女性はレズビアンとは言えないだろうが、親友や近い距離になった女性との間に恋愛のようなものを抱く(精神的に救いを求める)という感じが近い人物にも見える。また、その役柄は基本的には男性に阻害、暴力を受けているというところもあり、その流れから女性へ期待したり、救いを求めるという部分もあったのかもしれない。
今作ではマリコは実父に暴力だけではなく性的な虐待も受けている女性であり、付き合う男性にも暴力を振るわれていた存在だった。なにかのタイミングでピンと張っていた糸が切れるように彼女はベランダから飛び降りて死んでしまう。それを救えなかったシイノは遺骨を彼女の両親から奪って、生前にマリコが行きたいと言っていた海を目指すことになる。
マリコの父親はほんとうに最低でクズな人間だが、こういう人はそれなりにいるのだろうとも思う。性的な虐待はしていなくても、暴力や言葉で罵倒し続けていくと子供を肉体的だけではなく精神的にも壊してしまう。
そういう時に思うのは、ある程度の世代の男性が自分で自分のことをケアできないという問題だ。結局、自分で自分の機嫌が取れない。家父長制にあぐらをかいたままで、妻や子供を顎でつかうことに違和感がない、当たり前だと思っているような人、そして、自分でケアができないから仕事であったり私生活であったり自分の思い通りにならなかったりすることがあると、家の中で力の弱い存在にあたることになる。
幼い頃から長い期間、父親や母親(あるいは親族の年長者の誰か)から暴力や言葉で尊厳を奪われ続けるとそれをされた相手(子供やされた側)は逆らわなくなり、相手ではなく自分が悪いと思い込んでしまう(思わされてしまう)。そういう悪循環が起きると自分の価値や自由などないと諦めてしまう。だから、そういう自分でケアができないおじさんやおじいさん(もちろん毒親は母もありえるし、祖父や祖母、兄や姉などもありえる)は早く消えてくれた方がいろんな人にとってはいい。
同時にそういう親世代を見ていた僕ら中年はそもそも結婚したり子供を持つことができない人が上の世代と比べるとどうしてもその割合は多くなってしまうけど、もし結婚や子供を持つという状況になった時に、いやそれ以前にそんなダサい人にならないよう(なってしまわないよう)に、自分の気持ちとかはケアできるような人になる(でいる)しかないと思う。など映画を観て思ったりした。
マリコは死んでしまって、シイノはその遺骨をまきに行く。そして、元の日常に戻ってくる。遺骨を海へ運ぶときの出会いとかマリコにできなかったことを代替的にすることになるクライマックス周辺はいろいろどうかなと思うところもあった。だが、大事なのは残されたシイノがマリコときちんとお別れをすることだったし、生きることで彼女のことを忘れないということだった。亡くなった人との一時の別れの儀式を描いている作品となっていた。
大切なものが亡くなったり、失われたり、奪われたりしたあと、その対象に対する自分の気持ちをどうするのか、そういうことはやはり考えてしまう。偶然だが、今日で「水道橋博士のメルマ旬報」は廃刊だった。

水道橋博士のメルマ旬報』が本日で廃刊になりました。
約10年の間、読んでくださった皆様ご愛読ありがとうございました。
編集長の博士さん副編集長の原さん、執筆陣とスタッフを含めたメルマ旬報チームの方々おつかれさまでした。また、どこかで。
最後にこの一週間ずっと聴いている曲を最後に。
SUPERCAR / PLANET (Official Music Video) 

 

10月1日
3月末に園子温監督のセクハラ・パワハラ問題が榊監督の性加害の問題と共にSNSを発端に、過去に被害に遭った方々が声をあげたことでウェブニュースなどでも取り上げられた。その後、園監督側はニュースサイトなどに事実と異なる部分があるとして相手側を訴えて裁判をすることになった。
そして、昨日9月30日で約十年間続いた『水道橋博士のメルマ旬報』が博士さんの政界進出などもあり、廃刊という形でクローズになった。
四十歳になった3月とその半年後の9月と今年になってから訪れる衝撃、あるいはその反動。不惑になりたいが気持ちが動じることしか起きない。まあ、続いていたものは突然の場合もあるが、なにか予兆のようなものがありながらもなんとかギリギリのラインで続いていたという場合の多いが、終わる時にはやっぱりなと思うのが常でもある。

昨日は『笑点』で桂歌丸師匠とのやりとりでお茶の間を長年楽しませてくれた三遊亭円楽師匠が亡くなったというニュースがあった。弟子でもある伊集院光さんと親子会なども近年行われていたし、落語の世界から離れた弟子に再び落語をする機会を与えたようでもあった。
ラジオスター、ラジオの帝王とも言われる伊集院さんは自分のラジオでも何度も師匠の円楽さんの粋な振る舞いを話されていた。それは聞くだけでカッコいいお師匠さんなんだなってわかるものだったし、弟子であることを誇れる、彼の弟子になったことが大事なアイデンティティであり、指針だったことがよくわかるものだった。また、SNS上ではまさに「粋な」人柄を示すような円楽師匠のエピソードをいくつも見ることになった。
そして、これを書いている1日の午前中にはプロレスラーのアントニオ猪木さんが死去したというニュースが目に入ってきた。僕はプロレスファンではないがさすがに知っている超有名プロレスラーであり、毀誉褒貶のある人物であるということは知っている。
僕よりも何歳か上の団塊ジュニア以上の人たちにとっては人生を変えてしまったスーパーヒーローの一人だった。僕は上の世代の人がプロレスやアントニオ猪木について書いたり語ったりしているのを読んだり聞いたりしただけだが、多くの人の人生に多大な影響を与えた人のひとりだった。

同時に僕ぐらいの少し下の全盛期を知らなかった人からすると、彼らが崇拝し人生を変えたと言うアントニオ猪木ビートたけしも気がついたら王国を築いており、すでに王様だった。だから、なんかすごい人なんだろうなっていう感じで見ていた。プロレスは冬の時代に入っていったし、K−1やPRIDEが出てくるのは90年代以降だったはずで僕は格闘技というものに惹かれなかったのでそちらにも疎かった。
物心ついた頃にはビートたけしはすでに王だったので、番組でコメントをするだけの人だった。小学生の3、4年生ぐらいから『ダウンタウンのごっつええ感じ』が始まったので思春期にがっつり影響を与える(それは祝いであり呪いでもある)存在の筆頭がダウンタウンであり、松本人志だった。
その後、松本人志は自分がシステムとルールを作った世界でのゲームマスターとなっていき、吉本の芸人(だけでなく、他事務所の芸人たちも)は基本的にはそのルールの中で戦うことになり、彼はより誰にも倒されない存在となっていった。
ゲームマスターにはそのルールの下で戦っているものには倒せない。内部からルールをハックするにしてもすでにできあがっているシステムとその影響下にある人たちの考えを変えるのはとても難しい。
キングキングの西野さんと梶原さんはそのルールから逸脱することで違う王国を作ったし、オリエンタルラジオの中田さんも同様だった。だから、彼らは吉本から離れていく(マネジメント契約を終了したり退所する)方向を取るしかなかったのは当然の判断だった。僕とほぼ同世代のロスジェネ末期でゆとりよりも上の1980年代初頭生まれのどこにもいけなさと松本人志の呪いを受けた世代においてもっとも冴えたやりかただった。
連想的に書いてみたが、下の世代に語られる人というのは聖人君子というわけではないが、その言動や振る舞いを語りたいと思わせる人である。大抵の人間はそんな人物ではないので自分で自分を語るしかない、そういう意味でもSNSはそれを加速させる装置なんだろう。
10月から3月末までちょうど半年あるから、またSNSはほぼ休眠期間にしようかな。「月刊予告編妄想かわら版」しか連載はないし、その配信日とこの日記公開した時だけツイートしたりすればいいかなって思う。


レコードプロジェクト『A面/B面 ~Conversation & Music』 
出演者:古川日出男向井秀徳

イベント内容:古川日出男が言葉を放つ。向井秀徳がそれを受けて演奏し、歌う。「文学」と「音楽」が斬り結ぶ。このイベントの音源を、ディスクカッティング旋盤により、その場でレコードに収録・制作します。斬り結ばれる「文学」と「音楽」とが、どのように物質としてのレコードに刻まれるのか。
A面(20分):対談の音声を収録
B面(20分):主に音楽を収録
の予定ですが、縛りはなし。リアルな衝突が行なわれる“公開収録”です。

【柳井イニシアティブ】レコードプロジェクト『A面/B面 ~Conversation & Music』(10月1日開催)より

↑のサイトページの「レコード・ルネッサンス、デジタル収録の幻影、一発本番の緊張感 こんなデジタル時代になぜレコードを刻むのか」という文章を書いているのは早稲田大学国際文学館の助教授のエリック・シリックスさん。
2017年トランプが大統領になった年の2月末から3月頭に一週間ほどロサンゼルスに行った(古川さんがマイケル・エメリックさんに呼ばれて大学で日本文学を教えていたので遊びに行った)際にUCLAで初めてエリックさんにお会いした。その後、彼は日本に来て早稲田大学で日本文学のことを学んでいて、コロナパンデミック前の古川さんが出演したイベントのあとに古川さん夫妻とエリックさんと僕で会場近くのお店で軽い打ち上げがてらご一緒したことがあった。
受付をしたあとにエリックさんが「学さん」って声をかけてくれて、「ああ、あれ、もしかしてエリック、あ、エリックじゃん」って思って(わかって)、久しぶりの再会となった。今は早稲田の国際文学館で働いているみたいで、村上春樹ライブラリーなどもやっているとのことだった。
始まる前と終わったあとに話をさせてもらって、今度村上春樹ライブラリーなど案内してもらえることになった。彼は柴田元幸さんを尊敬しているので、うちの近所にある柴田元幸さんの朗読イベントを何度も開催している熊谷くんが店主のトワイライライトに一緒に行こうという話になった。
なんというか、久しぶりに再会だけど、とてもうれしかった。昨日でメルマ旬報が終わったっていうのもあったから、新しい出会いではなく久しぶりに会えたことでなにか面白そうなことが始まりそうな予感がうれしい。

『A面/B面 ~Conversation & Music』のプロジェクトは男女比でいうと女性が多かった印象。年代はバラけているけど、僕ぐらいから上の世代が多かった印象。でも二十代ぐらいの男女もかなりいた。おそらく早稲田の学生の人もいただろうし、古川さんと向井さんの作品に触れている人たちも大学とは関係なく応募してきていたと思うので、全体的な観客のバランスはよかったと思った。
古川さんと向井さんが音を刻む瞬間に立ち会えて最高だった。僕はお二人の「朗読ギグ」には間に合わなかったので、二人がぶつかり合いながら融合する場面を見れたのもとてもうれしく、感動した。
2008年の『ベルカ、吠えないのか?』文庫版発売時のトークとサイン会から僕は古川さんのイベントに行くようになったのだが、その前ぐらいが「朗読ギグ」を頻繁にやっていた時期で、知った時にはやらなくなるフェーズに入っていたと思う。
古川さんはもともと早稲田大学に通っていた(中退している)ので、地名とか場所に馴染みがある。自作した詩や『おおきな森』や持ち込んだ文庫本からリリックを、言葉を朗読しながら、向井さんに話しかけながら、二人のトークや掛け合いの部分が曲の合間にあった。
向井さんはNumber GirlZAZEN BOYSの楽曲から数曲歌いながら、その度にまさに古川さんの朗読に反応して歌っていく。坂口安吾のテキストを読んだこともあり、安吾のゴーストをふたりが呼び起こして呼んでいるような風景にもなっていた。『おおきな森』には坂口安吾も出てくるが、その場面の朗読や、安吾を読んだことで書かれたナンバガの曲であったり、桜というワードなどがレコードに刻まれていった。
古川さんと向井さんから放たれる音が気持ちよかった。ただただ素晴らしい空間だった。
二人がいるステージの壁の側面にはスクリーンがあり、そこに映像が映し出されていた。壁の後ろにある部屋で溝のない(まだ録音されていない)レコード盤に二人が放つ音がリアルタイムで録音されていく風景だった。
そして、そのレコードにはあの場にいた人みんなの鼓動や呼吸も、朗読やギターや歌と共にレコード盤に刻まれた。きっと、坂口安吾のゴーストも揺れて、居たんじゃないかなと思えた。

終わってから再び高田馬場駅に向かって歩く。唇に違和感を感じて、舌で触ってみるとまたプクッと腫れていた。口唇ヘルペスができていた。ストレスが溜まるとできるというのは自分でわかっている。
昨日で廃刊だったし、その前からの流れもあってストレスはあったのだろうし、口唇ヘルペスは口に違和感があってその一日から三日ぐらいで赤く腫れて小水疱ができるので、タイミング的には先月末のことがモロに出ている。おまけに二日ぐらい前から以前に虫歯になった時に治療して銀歯にしたところの辺りが痛い。これもたまに起きるんだが、調べてみるとことは歯根膜炎だと思うんだけどストレス溜まると痛みが出てくる(&歯茎が腫れる)。このふたつが同時に出ているのでわりと強いストレスを感じていたみたい。体は正直だ。
古川さんと向井さんがゼロ年代の終わりにやっていた「朗読ギグ」が一度も見れなかった、間に合わなかったので今日のこのプロジェクトで二人が融合しぶつかり合う最高のコラボを見れてよかった。もし、見れてなかったらストレスはもっと強くなって、とんでもないことになっていったかもしれない。
渋谷駅で降りて家まで歩いて帰ったが、さすがに土曜日の渋谷は人だらけでコロナって言葉はどこかに行ったみたいな気が少しだけした。

 

10月2日

村上龍著『エクスタシー』&『メランコリア』&『タナトス』をBOOKOFFでサルベージ。村上龍さんの作品はわりと装幀デザインや使われている写真の雰囲気も好きなものが多い。これは天野小夜子さんという女性がモデルになっていて、彼女は村上龍監督『トパーズ』に出演した人らしい。今で言うと満島ひかりさんぽさもある。

薄緑のツナギを着て自転車に乗っていた夏帆さんを見かけた。まだ、舞台『阿修羅のごとく』出演中だから、シアタートラムに向かっていたのかもしれない。

夕方からリモートで日付が変わるまで仕事。やっぱり右奥歯のところの歯茎にできた腫れ物(フィステル)のせいか、その下の顎(リンパなのか)も痛い。痛み止めを飲んだが、切れるとやはり痛くて、放置していてもこれは治りそうにないなと思ったのでいつも行く歯医者の予約を月曜朝10時にする。ここで以前に右奥歯の虫歯を治して神経をとってもらって銀歯で詰め物をしている。この腫れはウェブで調べるとおそらく根尖性歯周炎の症状らしいので、治療してもらったところで診てもらった方が早いなと思った。
いつもいっている歯医者はアプリで予約ができる。わりと新しいもの好きな院長だからか、PayPayでも支払いができるようになったのはかなり早かった。この予約アプリのいいのはどの時間帯が空いているのかがすぐわかるところだ。もちろん予約してなくても行けば診てくれるが、予約最優先なので予約の人の治療の隙間時間とか予約が飛んだりしたら診てもらえるので、予約なしだとかなり待たされることになる。
今の所我慢できる痛みではあるが、激痛のときにそれだとかなりしんどいことになる。待つのは嫌なので早い時間帯で予約だけしておいて、朝起きてもし痛みがなかったら一時間前にアプリから予約をキャンセルするか、電話でキャンセルを伝えればいいと思った。痛み自体はロキソニンで抑えていたが、寝て少し経って目が覚めたら深夜の三時過ぎで痛みを感じたので、もう一回ロキソニンを飲んで寝た。

 

10月3日
起きてから少し早めにリモートワークを開始して、昼の休憩時間を前倒しする形で、予約していた歯医者へ行った。診察券と保険証を出して待っていたが、ひとり自分よりは若いだろう三十代か二十代後半の男性がすごく貧乏ゆすりをしながら、なにかぶつぶつ言いながら待合室のソファに座って待っていた。どうやら歯がかなり痛いらしく、イラついている感じだった。
僕は10時予約で9時50分ぐらいに着いたのだが、彼は少し前から待っているようで、受付の人に「この人(僕ね)が先ですか、僕はいつになるんですか!」と言っていたが、「予約の人が先になるので、その間とかの空いた時間になりますから待ってもらうしかありません」ときっぱり言われていた。
こういう状況になるから、予約は歯が痛くなった瞬間にしないといけない、それが無理でもできるだけ早くしないと悪循環が始まってしまう。起きた時点で歯が痛かったら予約をするしかない。僕が聞いている感じだと午前中は予約埋まっている感じだったから、彼は運が悪かったとも言える。
予約しようにも空いていないのであれば、もう待つしかない、あとはタイミングと運次第で治療を受ける時間が決まる。久しぶりにあんなにイラついている人を見た。痛みに負けて人にどう見られるかとかどう対面で振る舞えばいいのかができなくなっている。もともとできない人がさらに悪化したようにも見えた。
僕が呼ばれるまでは10分もかからなかったが、その間になんか大きな音がそのイラついた男性の方から聞こえたが、どうやらスマホApple Musicとか音楽アプリからの曲だった。2回聞こえたが、一回は間違いなくhideの曲で、もう一曲もビジュアル系の感じのものだった。予約もできないでイラついているくせに、歯医者の待合室でわりとデカい音を出してしまう時点で、残念な人だなって思ってしまったし、こういう人が知り合いだったらかなり嫌だなと思った。
名前を呼ばれて、先生に痛みや腫れについて話をしたあとに、レントゲンを撮られた。とりあえず、レーザーで治療してみて、それで治れば問題がないが、ダメだったら銀歯の被せを取って、歯の奥の方の内部を治療するということになった。
レーザー治療というのは今までやったことはなかったのだが、二種類のレーザーを膿ができている部分にあてて原因となる細菌を処理するものらしい。肉を焼くわけではないが、かなり強い光を当てるので表面の肉が焼ける(焦げる)感じになると言われた。ちょっと痛いよって言われた。いやいや、めっちゃ痛かった。最初は我慢できたけど、ある程度の時間続けてやっていると光の当たっている箇所が細い針で虫歯になっているところを突き刺しているような鋭い痛みを感じて、ちょっと泣きそうになった。それが最初のレーザーで、2回目の種類の違う方はそこまでの痛みはなかったが、やはり長く感じた。最後にうがいをした時に口の中が焦げた、焼けた肉の感じがした。
翌週ももう一度診てもらって、数回で終わるかもしれないし、ダメなら被せを外しての治療になるということで経過をみることになった。とりあえず、細菌が繁殖しないようための抗生物質の処方箋を出してもらった。痛み止めは併用して飲んでもいいらしいので、またロキソニンを昼に抗生物質と一緒に飲んだ。痛み自体はロキソニンで抑えられていると思うが、顎とかの痛みとか噛んだ時の違和感はかなり減っているので効いていると信じたい。レーザーならあと2回ぐらいは我慢するからこれで治ってほしい。

そこで以前にも紹介した全身投与また局部での抗菌剤を使わずある波長の光に反応する局部投薬で殺菌できるMB(メチレンブルー)光照射殺菌法がとても有効です。一定の波長の光を照射すると活性酸素が発生し細菌のみを不活性化させることができます。これを1週間に一度程度、排膿している箇所や炎症を起こしているところに照射してあげるだけで、体感的にその場ですっきりした感じが得られ、症状の緩和が得られます。もちろんしっかり原因を追求し問題を解決してあげなければ当然振り返します。(抗生剤による副作用の回避に殺菌効果の高いMB光照射殺菌法の紹介より)

↑治療でやってもらったレーザーというのはたぶんこの光照射殺菌法のことだと思う。


真造圭伍著『ひらやすみ』5巻&『センチメンタル無反応 真造圭伍短編集』が出ていたので昼休憩の時に購入。
『センチメンタル無反応 真造圭伍短編集』では著者の真造さんが経験した悪性リンパ腫の抗がん治療の話も収録されていた。その作品もだし、ほかの作品も『ひらやすみ』へと続く萌芽みたいなものがあって、一緒に出ることの意味はデカいなと思った。


佐々木敦著『ゴダール原論: 映画・世界・ソニマージュ』も『ひらやすみ』と一緒に購入したが、この書籍自体は2016年に出たものだった。
ゴダールが亡くなったので、映画コーナーに積んであった。僕はまったくゴダールのよいファンでもないし、作品も有名なものぐらいを数えるほどしか観ていないが、佐々木さんのゴダール論から入るのもいいかなって思った。装幀のゴダールの写真もかっこいいし、帯コメントが菊地成孔さんと阿部和重さんだった。

 

10月4日

起きてから何か観ようかなと検索して、火曜日でサービスデーであり、試写場をもらったが観に行けてなくてちょっと気になっていたセリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』をル・シネマで観ることにした。サービスデーの平日の午前中だということもあるし、ル・シネマという場所柄年齢が上の女性のお客さんが三分の二ぐらいだった。

「燃ゆる女の肖像」のセリーヌ・シアマが監督・脚本を手がけ、娘・母・祖母の3世代をつなぐ喪失と癒しの物語をつづった作品。

大好きだった祖母を亡くした8歳の少女ネリーは両親に連れられ、祖母が住んでいた森の中の一軒家を片付けに来る。しかし、少女時代をこの家で過ごした母は何を目にしても祖母との思い出に胸を締め付けられ、ついに家を出て行ってしまう。残されたネリーは森を散策するうちに、母マリオンと同じ名前を名乗る8歳の少女と出会い、親しくなる。少女に招かれて彼女の家を訪れると、そこは“おばあちゃんの家”だった……。

本作が映画初出演のジョセフィーヌ&ガブリエル・サンス姉妹がネリーとマリオンを演じ、「女の一生」のニナ・ミュリス、「サガン 悲しみよこんにちは」のマルゴ・アバスカルが共演。2021年・第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

幼い少女のネリーが自分と同じ年だった母マリオンと時間を共にするというファンタジー要素のある作品。すごくミニマムな物語だなと思う。
ネリーと少女のマリオンは双子(ジョセフィーヌ&ガブリエル・サンス姉妹)が演じているので、見た目は同一人物に近い。ネリーの母(ニナ・ミュリス)とネリーの祖母(マルゴ・アバスカル)とネリーの父(ステファン・ヴェルペンヌ)が主な登場人物であり、冒頭でネリーの祖母が亡くなった病院で同じ階に入院していたおばあちゃんたち以外には出てこない。
現在の時間軸ではネリーとネリーの父と母マリオン、過去の時間軸ではネリーと少女マリオンと祖母(ネリーの祖母が若い頃)が登場する。祖母の家(母が生まれ育った家)の片付けをネリー一家はしにやってくるが、マリオンはつらくなってどこかへ行ってしまう。父が片付けをしている中、ネリーはかつて母が遊んでいたという森に遊びに行くと、なぜか時空を越えて、少女だった母と出会う。
現在と過去の境目、母が作っていた小屋というか木材を集めて作った隠れ家が起点となっていて、北に行くか南に行くかでネリーは過去か現在を行き来する。でも、どちらにしてもそこはネリーにとっては「おばあちゃん家」だが、一方では若い祖母と少女の母がおり、もう一方では現在の母はいなくなって父のみがいる。
ネリーが現在と過去のどちらにも行ける理由は明かされないが、少女の母も現在に来れてしまう。そこで未来の夫であるネリーの父と普通に会って会話をするし、母(ネリーの祖母)がいつ亡くなるかを知ってしまう。
タイムパラドックス的にこれってどうなってんの?」という野暮なツッコミをすると頭がこんがらがるので気にしないほうがいい。大事なのはネリーと少女マリオンの交流であり、セリーヌ・シアマ監督が前作『燃ゆる女の肖像』で描いたシスターフッドに近いものが母と娘の間で行われるという感じになっている。73分ほどの短い作品だが、幼い少女にとってのその子だけに見える友達(イマジナリーフレンド)を描いた作品のようでもあるし、祖母と母と娘という三代をうまくファンタジー要素を入れてコンパクトに描いた作品でもあって、監督の力量を感じた。これ長くして、他の人物とか出したらたぶん物語が崩壊すると思うし、ちょうどいい塩梅になっていると思う。

そういえば、起きてすぐにスマホを見たら、北朝鮮がミサイルを飛ばしていた。なんか、安倍政権化のことも聞いたりしていると、岸田政権がやばいから頼んでミサイルを飛ばしてもらって、北朝鮮に抗議する形にして防衛や軍備がとか言って支持率をなんとか回復したいのかなって思ってしまう。
北朝鮮がミサイルを飛ばしている期間とか年間における回数とかのデータを前に見たら、いろいろ怪しいなと思えてしまう。陰謀論みたいだけど、確実なことはわからないけど、政治の世界や国家間のおける国民には知らせていないことなんかはもちろんあるだろうし、そこをどういう情報を見てフェクトチェックするのか、報道を鵜呑みにするのかしないのか、そもそもどこから情報を入れるのかみたいなことからなんだけど、みんないろいろありすぎてめんどくせーってなっていると思う。そうなれば、上で物事を決める人にはもってこいだし、そうしたいのかなって邪推はしてしまう。カオスすぎるよ、世界の状況が。

TVerで本日放送分の『ラヴィット』を見る。基本的には放送回はずっと配信で毎日見ているが、今日は『笑っていいとも!』がスタートしたという日だったことからテーマが「オススメのウキウキするもの」だったが、最後には「明日も見てくれるかな?」「いいとも!」という掛け合いが川島さんとゲストの間で行われて、局が違うけれどなにかを越えて引き継いだ感じがした。とてもすごいことを軽々としていた。
朝の北朝鮮のミサイルで放送自体も短縮されていたようだし、テレフォンショッキングで呼ばれた芸人の森谷日和さんもなんとか最後には間に合って出演できていた。やっぱりこの番組すごい。令和を代表するバラエティになっていくんじゃないかな。これからもどんどんおもしろいことをしていってくれそう。

 

10月5日

『ジョーカー』をTOHOシネマズ渋谷で鑑賞。満席だった。しかし、この映画をポップコーン食いながら観てるやつの気が知れない。
コメディアンになりたかった道化師(ピエロ)のアーサーがジョーカーになっていく様を観ながら、何度も泣けてきた。
関係ないけどNetflixで見てるドラマ『アトランタ』出演者が二人出ていて嬉しかった。
アーサーと自分の小説をパクられたと京アニを燃やし、殺戮をした青葉が重なる。彼が小説家志望だったのか、原作者になりたかったのかは知らないが、彼は物語を作ろうとしたがなれなかった。
宮崎勤にしろ、少年Aにしろ彼らの部屋には書きかけの、終わらすことができなかった小説があったと言われている。
僕が今、週三でスタッフをやってる「monokaki」はエブリスタのオウンドメディアだ。エブリスタにしろ、カクヨムにしろ、なろうにしろ、小説を簡単に書ける小説投稿サイトのプラットフォームだ。
小説を、文章を書くことはセラピーになる。しかし、一部の人間には被害妄想などの精神的なダメージを与え、最悪な場合は深刻なことになる。しかも、小説を書くプラットフォームは読者(ユーザー、ユーザーとかコンテンツと言い出した時に出版業界界隈は大事なものを失ったと思う)から直接反応がある。普通に精神がタフでないとそもそも耐えきれない。
表現なんて恥ずかしいものを人に晒す、自意識と自己顕示欲が否定される、その時、アーサーのように大事なものがどんどん崩壊していく。コンテストで賞を取ったり、編集者から声をかけられてデビューできるような人間は文章も書けるし、比較的精神がタフだ。そうじゃない人は負のスパイラルに陥る。まあ、デビューしてから病む人ももちろんいるが。
負のスパイラルに入った人たちは作品をパクられた、誰々さんにSNSで誹謗中傷を受けているなどの被害妄想がますます増して精神が壊れていく。実際に作品がパクられたり誹謗中傷をされている人もいるからさらに複雑に問題が入り交じり多層化してしまう。
小説投稿サイトというプラットフォームは大塚英志的に言えば、アガルタの門を開いたという感じだろうか。門を開いて神≒悪魔に願いを叶えてもらえば、同じぐらいの罪を背負うことになる。例えば、転生し七回愛するものを自らの手で殺めるという罪を。
ジョーカーとなったアーサーはゴッサムシティにカオスを解き放つ。
ただ、暴力がそこにはある。
貧しいものたちが富むものたちから奪う。残念ながら今の世界とリンクしている、いやしてしまっている。そして、わかっていたけど見ないようにしていた青葉の問題は僕らではなく、僕の問題に直結してしまう。その感覚。
僕は運がいいというだけでダークサイドに落ちていない、という認識がずっとある。出版関係の知り合いが増えれば増えるほどに、ほとんど高学歴で名前の通るいわゆる一流な出版社とか大手企業な人たちの知り合いが増えていく。僕に大概優しいのは、本来的な資質なのか、余裕があるからなのか、自分が舐められてるだけなのか。
ただ、そこにたいしてさほど怒りもなく憤りもないのは、壊れてしまうほどにはたぶん落ちていないから。ただ、たまに思うのは精神的にタフすぎるのか、そもそも最初から壊れている可能性も頭をよぎる。
アル中みたいなもんで、体が丈夫じゃないとアル中になる前に人は死ぬように、壊れていても体が丈夫すぎれば気づかないままかもしれない。
ジョーカーから青葉を見いだした以上は、このジョーカーみたいにダークサイドに堕ちて尚且つ時代性ともリンクしても、ほとんどの人には共感されることもない彼に向かい合えってことだろうか。
SNSをずっとしていると酩酊状態になっているから、みんなアル中だ、まともな判断も議論もできるわけもないのに、とこの頃思う。

↑3年前にFacebookで書いていた文章。その後、「ジョーカー」のコスプレをして電車で火をつけたりしたやつがいたりと、この『ジョーカー』の影響などはニュースで見たりするようになった。だが、それは彼あの上部をパクっただけで、アーサーの本質とは違う気がしている。この映画が嫌いだという人も知り合いの人の中にはいるし、許せないという人もいる。
僕はアーサーに同情したというよりも、彼の中にある「誰かになりたいがなれない」というものにシンクロしてしまったし、重ねてしまう部分がある。安倍元首相への山上徹也が起こした銃撃はテロであったが、安倍の死によって彼が影響を持っていた背景が世の中に一気に漏れ出してしまった。安倍政権と自民党がずっと隠していた臭い膿があふれんばかりに出てきてしまっているが、それは一発の銃弾がひとりの政治家を殺したことがきっかけだった。
アーサー(ジョーカー)は自分が憧れていたコメディアンを殺す。力もなくおもしろくもない、何も持たないものの叛逆と怒りだった。山上の場合は自身の家族が統一教会によって崩壊したことがきっかけとなり、宗教団体と懇意にしている、互いに利用していた人物の中の大物である安倍を狙ったとされている。
『ジョーカー』の続編はハーレイ・クイン役でレディ・ガガが出演し内容としてはミュージカル映画になるという報道がされている。ホアキン・フェニックス演じるジョーカーとレディ・ガガ演じるハーレイ・クインが歌い踊る風景はまだイメージがうまく沸かないが、『ジョーカー』が現在の世界における格差と分断、そして怒りと暴力の発露を描いたあとにどんな現実世界を照射するのかは期待しているし、同時に怖くもある。

小野 形容にも詩的な表現が多くて、どう日本語にしたらいいのかかなり悩みました。アメリカ南部の田舎で起きていることを描くのに「ラインの乙女」だったり、ギリシャ神話だったり大げさで古典的なものを引き合いに出したりするんですよね。演劇の比喩もやたらと多い。当時の読者からも、この人何を書いてるんだろうと思われたんじゃないかという気がするんですけど、どうなんでしょう。

桐山 当時もそう思われていたと思います。ただそれもフォークナーはある程度意図してやっています。「南部」自体がつくられた概念であって、そこに舞台的なところがあるということを自覚したうえで、ユーモアを込めて大げさに書いている。形容詞については、フォークナー自身ロマン派や象徴主義が好きだったので、半ば自虐的に使っているところもあると思います。

小野 ロマン主義的や象徴主義的な詩で使われるような表現を、土埃が舞っていて方言が飛び交っているヴァナキュラーな世界を描くのに使われると、その落差にマジでやってるんだろうかって驚いちゃうんですよ(笑)。

池澤 それはモダニズムだと思う。ジェイムズ・ジョイスは『ユリシーズ』で『オデュッセイア』をダブリンという小さな町に押し込めて、六月一六日の一日の話にした。そういう土台としての古典の使い方。その点ではフォークナーのほうが、ヘミングウェイよりずっと新しいですよ。その先にガルシア = マルケスがいる。落差は明らかに意図したものですよ。

柴田 それもフォークナーの「勇気」ですよね。ちょっとアメリカ文学史のおさらいみたいになっちゃうけど、フェニモア・クーパーが猟師なんかの姿を描くときにアメリカの自然に全くそぐわない、ヨーロッパ的で仰々しいロマンティックな言葉を使ったのを、マーク・トウェインは全然リアルじゃないと批判した。その後トウェインを引き継いだヘミングウェイが文学的な言葉を使わずに削ぎ落とした文章で小説を書き、一方でフォークナーはそれと正反対のことを自覚的に過剰にすることによって、それを価値のあるものにした。

小野 でも今あんなことをしたら、編集者にやめてくださいって言われそうですよね。

柴田 モダニズムの効用ってのはそこだよ(笑)。何をやっても読者はついてきてくれるっていう前提に立てる。というか、ついてこなくてもいいという前提。フォークナーが書いていたのが、リーダーフレンドリーが前提条件ではない時代だったということは間違いなくありますね。

「【豪華訳者陣による唯一無二の新訳!】『ポータブル・フォークナー』刊行記念、池澤夏樹×柴田元幸×小野正嗣×桐山大介による翻訳奮闘話、公開!」より

『ポータブル・フォークナー』刊行してすぐにこんな訳者陣によるトークが公開されていたのか、知らなかった。まだ最初に短編を二つぐらいしか読めていないが、これを読むとやっぱり買ってよかったなと思う。フォークナーのユーモアを感じたい。

 

10月6日

戸部田誠(てれびのスキマ)著『芸能界誕生』が出ていたので購入。
戦後、日本における芸能プロダクションができた流れとして進駐軍とジャズバンド、そのバンドマンたちがやがて渡辺プロダクションホリプロ田辺エージェンシーなどを作っていくようになった。ということは知識としては知っていた。僕よりも上の世代の人の方がその辺りはたぶん詳しいと思うのだが。
テレビバラエティが大衆に広く受け入れられていく背景としてクレージーキャッツドリフターズというバンド(ミュージシャン)がいたことが大きい。だからこそ、クレイジーキャッツの最後の遺伝子を引き継ぐ星野源が「おげんさんといっしょ」という生放送の音楽バラエティをすることの価値を菊地成孔さんは評価しているはずだ。

渡辺プロダクションの前にマナセプロダクションという渡辺美佐さんの父と母が起こした芸能プロダクションがあり、仙台に疎開していた曲直瀬家とある進駐軍の将校の偶然の出会いから日本の芸能プロダクションが始まっていく。曲直瀬家自体が江戸時代にイギリス人と日本人、その子供はアメリカ人と日本人のハーフと結婚という国際色のある、そして英語が流暢に話せたということがキーになっていく。ジャニーズ事務所もロスの真言宗の住職の子供だったジャーニー喜多川とメリー喜多川という姉弟が指揮していく。
敗戦国となりアメリカの隷属となった日本でのし上がっていくためには英語を話せること、アメリカ的なエンターテイメントへの憧れとそれをどう日本風に組み直していくかということが大きなものだったのだろう。そこからエルビス・プレスリービートルズが世界を席巻していく中で、日本的なローカライズが徐々に起きていく。
堺正章さんや井上順さんがいたザ・スパイダーズはビートルズの音源を早く入手して日本で一番ビートルズの曲がうまくて早くできるバンドだった。だが、そこから自分達のオリジナル曲で勝負しないといけないことがいくつかあり、GS(グループサウンズ)を起こすことになっていく。ライバルだったバンドには沢田研二さんや萩原健一さんがいた。彼は俳優と僕は認知しているが、親世代からすればバンドマンやミュージシャンというイメージもリアルタイムで見ているからあるのだろう。

昨今の芸能人の独立問題などは戦後に彼らが作り上げた芸能プロダクションという構造が金属疲労しているように崩れ落ちていっている証左なんだろう。それは戦後日本社会の映し鏡であり、巨大なものとなっていろんなものを駆動させていたシステムはが時代遅れになったり、OSをアップデートしても使えないものになっているにも似ている気がする。
変えないといけないとわかっていても見て見ないふりをしてきたことで、どんどん既存の構造の外に飛び出す人たちが出てきている。といっても戦後から70年近く経っているのだから、いろんなものが時代と合わなくなってしまうのは仕方ないし、第一世代が作り上げたものを受け継いだ第二世代、孫世代の第三世代は大きな会社であればあるほど、伝統やほかの会社などの関係性ができあがってしまっているからなにかを変えるというのもかなり難しい問題だというのもわからなくはない。そういう時には個人や新興のところが隙間から抜け出していくという自由さもあるだが、同時に長年培ったものを持っているところの底力を新世代が見せつけられたり、壁だと感じることも多々あるだろう。

結局一日で読み終えてしまったが、とんでもない本をてれびのスキマさんは書いてしまったなと思った。戦前から繋がっているが、戦後日本社会における芸能プロダクションの歴史(系譜)であり、まさに「芸能」=「エンターテイメント」の正史になっている。もう、大河ドラマだよ、これ。芸能プロダクションの話だし、いろんな利害関係があるから映像化とか難しいだろうけど。正史ということは彼らに敗れていった人たち、勢力を拡大できなかった人たちの歴史は書かれていないわけで、そちら側の言い分もあるだろう。だが、残念ながら歴史として残されるのは勝者の時代の覇者たちから見た史観になる。そうやって残されない歴史や個人の物語をなかったことにするのも違う。だが、それらは残されていなかったり、勝者によって書き換えられてしまう。これは芸能だけではなく、すべてのジャンルで起きていることでもある。
「ジャズ」という言葉の意味が戦後からどんどん変容していっているというのもこれを読んで再認識した。そっか、昔は「ジャズ」という言葉に音楽以外のものも含まれていたのだと。
ロカビリーの時代、GSの時代、表舞台に出ていた人(プレイヤー)たちが裏方に回っていくが、かつての仲間や友人知人たちが離反しながらも、なにかあったときに声をかけたりすることで現在では大きなプロダクションの最初に繋がっていたりする。
渡辺プロダクションというところから派生したり、繋がっている芸能プロダクションがたくさんある。最後の方で中村倫也松坂桃李菅田将暉という今勢いのある俳優が所属しているトップコートの名前も出てくるが、渡辺プロダクション創設者である渡辺晋・美佐夫妻の次女の渡辺万由美さんが代表取締役だった。すげえなって単純に思う。途中で中村八大さんの名前が出てきて、「ああ、『星野源のおんがくこうろん』で取り上げていた人だ」って思って、この本星野源さんが読んだらすごく楽しんでくれそうな気がした。

太陽光パネル、2億枚の「終活」 寿命20年で大量廃棄も

太陽光パネルのニュースが出ていた。2020年の『ゼロエフ』の取材で福島に行った際にいろんな場所で太陽パネルを見かけた。


この写真は国道6号線の日程の三日目にNHKの車に乗せてもらっていったソーラパネル群がある場所で撮ったもの。海が近いので津波でやられた場所、そこに太陽光パネルを広範囲で敷いていた。異様な風景だったことを覚えている。もちろん海沿いは被害を受けていて、そこに住んでいた人たちはもっと町の方に移動していたりするが、また大きな津波が来たら今度はこの巨大な太陽光パネルが町を襲うことになる。
同時に過疎化している地域では森林を伐採したところに太陽光パネルを敷いたりしている場所があるらしく、そこも木を切ったら大雨などで山崩れが起きやすくなっているから、山とか丘の上から太陽光パネルが流れてくる可能性もあるという話を確かこのときにしたはずだ。
たしかに太陽というエネルギーはエコなのかもしれないけど、それを電力にしたりする装置自体はまったくエコではない。寿命もあるし、大きな自然災害の時には人にとって最悪な凶器になってしまう可能性がある。そして、メンテナンスができなくなったものなどはそのまま放置される可能性もある、というかたぶん放置される。
住民などが少ない市町村だったら、おそらく予算の問題で撤去されないでそのまま残されることも考えられる。放っておけばその下の土壌は日の当たらないいい土壌にはならないし、大雨や台風で民家を襲うかもしれない。太陽光パネルをやっている会社やその事業に投資したような人はそういうことを考えているのだろうか、儲けるだけ儲けて逃げ出している人もいるんじゃないだろうか。
ソーラーパネル群を見た時にとても悲しい気持ちになったのは、人がいなくなっても自然災害などがなければこの残骸だけが残っている風景が脳裏に浮かんだからだと思う。

夕方前に『あのこと』という映画の試写を観にいくつもりだったが、低気圧のせいかどうも頭痛がしたのでキャンセルしてちょっと家で寝転んでいた。雨も降っているし気温もずいぶん下がったのでかなり寒かった。温かいものを飲んで気を楽にしようと思って家を出てニコラへ向かう。
その後、ニュースで今年ノーベル文学賞が発表されたが、フランス人作家のアニー・エルノーさんでこの映画の原作を書いた人だった。今日観ていたら、ノーベル賞受賞のタイミングで映画が観れたわけだが、こういうのは仕方ない。縁がなかったとことだろう。


モンブランとアイノブレンドをいただく。もういっぱいアルヴァーブレンドを飲んだらかなり体が温まった。

木曜日は仕事をしないことにしているから、とりあえず読書を進める。雨ということもあるけど、テンションが上がらない感じ。SNSInstagramには読んでいる書籍とニコラで食べたものとかあげているけど、TwitterFacebookは基本的にポストを一日のレコードプロジェクトからあげていない。
宣伝することが特にないっていうのも大きいんだと思う。Twitterの牧歌的な時代を知っていると今の感じは宣伝として使うか、敵か味方にわけないためには鍵アカウントにしてクローズしたほうが無難っぽいというのもなんか変だなって感じだ。Twitterのおかげで連載陣になった『水道橋博士のメルマ旬報』も終わったし、なんかSNSいいかなって気分にもなっている。
友人知人の人たちが創作であったりとか作品とか仕事についてのツイートを見ていると、今までは宣伝というか少しでも広まったらいいなとRTしていた。当然ながら勝手にこっちがそういうことをしていただけなのは重々承知だけど、でも、これは絶対に読んでほしいと思っていた『ゼロエフ』が出た時とかもほとんど反応なかった(一部の人はあったけど)し、メルマ旬報終わる時も終わるってことへ対してのツイートにちょっと反応があるだけで、連載とか読んだみたいなことは皆無だった。そういうのが繰り返されるとなんか自分が悪いのだけど、どうでもよくなってしまうし、自戒も含めてみんな自分が好きで自分にしか興味ないんだよなって思う。SNSはそれを増加されるとはわかっているけど、加速というよりも常態化してきている。こういうブログに一ヶ月分の長い文章を上げたらさらに読まれなくなるということはわかる。でも、それでいい気がする。仕事でスタッフをやっているウェブサイトのTwitterの公式アカウントは自分がツイートとか仕込んでいるから、そっちで充分じゃんとも思う。
検索されないと存在していないような扱いになる世界だと検索されないようになることがカウンターになるかもしれないし、まさに「幽霊」的な存在として振る舞えるんじゃないかなと思ったり、そういう考えは自分の創作で物語や形に落とし込みたい。

 

10月7日

ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ』追悼上映をル・シネマで鑑賞。
雨の中、なんとなく観たくなって足を運んだ。観たことあったっけ?と思ったが冒頭での主人公のミシェルが自動車を盗んで、追ってきた警察官を射殺するシーンをで、観たこと確実はあるなあと思い出したけど、前にも同じことを思った気がする。ミシェルもヒロインのパトリシアも画面に映っているだけで画になってしまうから長く感じても観れてしまうし、仕草とかがカッコいいんだよなあ。今だとほんとうに考えられないほどどこでもいつでもタバコを吸っている。
パトリシアが好きな小説としてフォークナーの『野生の棕櫚』の話をしていた。『ポータブル・フォークナー』が出るまではアメリカでは彼の評価はあまり高くなかったが、海外のフランスとかの方が読まれていたみたいな話を聞いたことがあるから、そういうことが反映されているのかもしれない。
逃げたいけど逃げられない世界を描いているようでもあるけど、ヌーベルバーグの始まりの記念碑的な作品であり、この映画から始まったものが今に続いていることだけは確かだ。映画館で観る機会があるならやっぱり観たいと思ってしまう作品だし、ジャン=リュック・ゴダールという監督はそういう存在だ。

Causeway | Official Trailer HD | A24


A24制作のAPPLE TVで配信する『Causeway』というドラマの情報がA24のメーリングリストで届いた。ジェニファー・ローレンスとブライアン・タイリー・ヘンリーが主演で、予告編見る感じではかなりよさそう。APPLE TVかあ、いっそ映画館で公開してくれるほうがうれしいのだが、とても気になる。

強い雨がずっと降っていた。おかげで外に出た時にびしゃびしゃになってしまった。おまけに気圧のせいか頭痛は続いている。
家に帰ってきてから途中で、今日『群像』最新号が発売だったと気づいて、また外に出るが雨は雨のままだったからまた濡れてしまった。もう仕方ないと諦めて、帰りに入浴剤を買って湯船に浸かって体を温めた。このまま寒くなるかと思いきや、来週は一気に気温が上がる日があるらしい、この一、二週間で体調崩す人は多そうだ。自分もそうなるかもしれないからできるだけ気をつけないとやばい。今は体調崩すと精神的にも弱りそうな予感しかないから。

 

10月8日

日付が変わって寝る少し前にトマス・ピンチョン著『重力の虹』上巻を読み終えたので、下巻に入り、70ページほど読む。もう、何の話なのか全然わからない。これ何回も読まないとほんとうにわからない作品だと思う。しかし、まずは読み進めていくしかない。ピンチョンって読める時は一気に読めるんだけど、波動というかテンションが合わないとまったく読めないの不思議。
『V.』から発表順で読んでいっているけど、これは今年中に『メイスン&ディスクン』の上巻に行ければいい感じじゃないかなあ。


『群像』2022年11月号掲載の古川日出男連載『の、すべて』第10回を読む。都知事だった大澤光延がテロに遭っている。彼の自伝を書いている河原真古登は光延と近い人物に話を聞いている。その中で今まで語られてこなかった、見えてこなかった大澤光延と周辺の人物たちの関係性や歴史が浮き上がってくる。
テロに遭った大澤光延が政治家になる前の青年時代、そして現在を結ぶミッシングリング、読んでいるとどこか安倍元首相のことが脳裏をよぎる。前作『曼陀羅華X』はオウム真理教のことを描いているから、この『の、すべて』が安倍元首相すら彷彿させるのであれば、それは対であるようにも感じられる。僕は何度か書いているけど、安倍政権とオウム真理教は裏表の存在だったように感じるから。この作品がどこに向かうのか、スサノオ都知事と呼ばれている大澤光延と彼をめぐる人たちはどうなっていくのか、全然先が読めない。

14時からのTBS『お笑いの日2022』をTVerでリアルタイム配信していたので、それを流しながら夕方17時からのリモートでの作業もしていた。『キングオブコント2022』も最初から最後まで充分楽しませてもらった。何度か声を出して笑ってしまった。優勝したビスケットブラザーズさんおめでとうございました! 
冒頭の決勝進出者の名前を入れたリリックのラップのオープニングから最高だった。毎年『キングオブコント』を見るとやる気が起きることが多い。こういう戦いの場所に、最後まで残っている人たちの勇気と希望が眩しいけれど、自分もなんとかしたいと思えるほどに皆さん輝いている。
『M―1グランプリ』はリアルタイム配信がないので、テレビがないと見れない。今回みたいな形でのTVerでの配信はやってほしい。あとParaviに加入しているので『お笑いの日2022』の各ブロックが見れるのはありがたいことだ。

ASIAN KUNG-FU GENERATION 『星の夜、ひかりの街 (feat. Rachel & OMSB)』Music Video


アルバム『プラネットフォークス』の中で好きな曲のMVがアップされていた。

 

10月9日
アパートの壁は薄い。昨日の夜から隣の部屋から会話らしき音が聞こえてきていたが、日付が変わってもその音は時折聞こえていた。三連休だし、知り合いか誰かが来ていて飲みながら話でもしているのだろう。隣人は60歳近い男性のおじさんで、時折寝言なのか深夜に声が聞こえることがある。たまにだと仕方ないのだが、会話というのは内容はわからないものの、音としては伝わって届いてしまう。男女の営みではないことは音からわかってしまうのだけど、いっそのこと男女の営みが聞こえてきた方がおもしろいと思ってしまうが、それは聞こえなかった。

日付が変わる前からParaviで「キングオブコント反省会」を見ていた。ネルソンズ和田まんじゅうの離婚ネタをわりと引っ張っていた気がする。前までは打ち上げという感じで演者それぞれがバーベキューしながら、下の順位からMCの二人が話を聞いていくというもので、みんなお酒を飲んでいたはずだが、今回はノンアルコールだと言っていた。前回とか誰か飲みすぎてなにかやってしまったのか、というよりは飲んだ人を出すほうがアクシデントやタガが外れてしまう危険性があるから、最初からそうさせないためにノンアルコールにしていたっぽい。確かにやらかしちゃうとコンテスト自体にも傷がつくし、なにかをやらかした演者にもダメージがあるからという配慮はわかるけど、打ち上げでも酒が飲めないっていう世界線どうよ?

朝起きてからも、隣人の話し声みたいなものは聞こえてきていた。だが、元々独り言なのか電話なのかわからないが、ちょくちょく話し声みたいなものは聞こえてくるのだが、音としてどうももう一人いる感じの、違う声みたいなものが時折聞こえていたので、昨日の話し相手が泊まってそのまま起きて話をしていたのだろう。
そういう時はわざとYouTubeiTunesから曲を流し、わりとデカい音にするのだが、それもあまり反応はない。たぶん向こう側にはほとんど届いていない。
その上で、昨日の『キングオブコント2022』のオープニングのファイナリスト紹介の梅田サイファーのラップを3回聞いた。

【公式】キングオブコント2022 オープニング(後日公式サイトがアップしていた)



梅田サイファーにはCreepy NutsのR- 指定も所属しているグループ。水曜日の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』で佐久間さんが指摘していたが、Creepy Nutsは『M―1グランプリ』『R-1グランプリ』のテーマソングを担当しているので、R-指定が今回の『キングオブコント』もラップしたことで三冠という形になっている。ほんとうにすごいことだし、彼らの時代なんだなって思う。
同時に同世代や下の世代のラッパーたちが悔しいだろう。そういう焦りや妬みや僻みがダークサイドに向かわせるのではなく、光の側に向かう一部の人たちが時間がかかってもCreepy Nutsの対抗馬として、名を上げてくるのかもと思ったりもした。しかし、梅田サイファーのオープニングラップがカッコ良すぎる。

昼間に散歩がてら一時間ほど歩くが、渋谷方面に行く気もしなくて、途中で引き返して246沿いを三茶方面に戻った。帰り際に来週のZAZEN BOYSのライブチケットを発券した。
夕方からリモートワーク。作業用BGMとして金曜土曜日の「オールナイトニッポン」を聴いていた。来週からの「オールナイトニッポン」と「JUNK」では『キングオブコント』の話をする感じかな、それを聞くのもたのしみ。

 

10月10日
エルビラ・ナバロ著/宮﨑真紀訳『兎の島』

Twitterで見て気になっていた国書刊行会から出た小説。発売は数日前だったので、実物見たいなと思って、散歩がてら渋谷のジュンク堂書店に行く。外文コーナーには置いてなかった。おそらく一、二冊は入荷したがすでに買われてしまって品切れになっているパターンかなと思った。
「スパニッシュ・ホラー文芸」と国書刊行会のサイトには書かれているから、ヨーロッパ地域の棚を見たけどなかった。さすがに入荷していないということはないだろうからすでに売り切れたというのが一番しっくりくる。
箱に入れるタイプのちょっと豪華な感じで、書籍自体の装幀は金の箔押しの兎のデザインなので、実際に見てからどんな感じなのか確かめたい装幀なんだよなあ。絶対にカッコいいと思うんだけど、こういうのは実物見たい。


何も買わずに帰ってきて、夕方までポール・オースター著/柴田元幸訳『写字室の旅/闇の中の男』の「写字室の旅」を読み出した。中編の作品が読みたいなと思ったのは今書いている中編がおそらく近いタイプの構造だから。

数日前に見た夢がなぜか使っているMacBook Airの画面に微妙なヒビが入っているというものがあって、起きた時にすぐにテーブルに置いてあった現実のMacBook Airを確認するということがあった。
確かに現在の我が家で一番高級なものであり、同時にテレビの代わりにラジオの代わりに音楽再生プレイヤーの代わりになっているし、夕方からのリモートワークもこちらのPCを使っているので仕事にも重宝している。そういう意味でも一番大事なものかもしれないものがヒビ割れるというのは不気味というか不安だ。スマホも画面が割れないように強化ガラスシールを貼っているので本体自体の画面が割れたことはない。これはMacBook Airの画面にもそういう強化ガラスの保護シールを貼れっていうお告げなのだろうか。

 

10月11日
午前中に予約していた歯医者に行って、先週レーザーをあてたところを診てもらった。今日は二種類のレーザー処置ではなく、前回の痛みの少なかった方の二番目のレーザーをあてるだけで終わった。処方箋を出すほどでもなく、痛みもほとんどなかった。
二週間後にもう一回診てもらうという流れになった。その時にまた歯茎や顎あたりに痛みが出ていたりするようであれば、銀歯を外しての治療になるらしい。いやだあ、外してなんか細い管とかを差し込んで根本にある細菌を除菌とかして、また銀歯を作ってはめるまでの流れを考えたらお金も時間もかなりかかるし。頼むから今回のレーザー照射で細菌は大人しくなって消えてほしい。治療は10分もかからなかったので休憩時間にあててもわずかなものだった。さすが仕事が早い。

家に帰ってからリモートワークの続きをやっていた。途中で知り合いの人がコロナのワクチン接種四回目を受けたというツイートを見た。そういえば自分の四回目の接種券は届いていたけど、60歳以上とか基礎疾患とかあるみたいなことが書かれていたのでしばらくは受けられないんだなって思っていたので放置したままだった。
世田谷区のサイトでワクチンの四回目について見てみるとオミクロン対応のワクチンに変わったらしい。「従来型ワクチンの四回目接種で設けていた対象者の制限は無くなった」と書かれていたので、とりあえず予約サイトを開いてみた。近々で明日の午前と午後に数件予約が可能だったのでお昼の時間帯で予約をした。昼休憩のついでに受けられるのでありがたい。
でも、こういうのって調べないと出てこないし、一人暮らしの人とか高齢の人(60歳以上はそもそも四回目接種券が届いた時にすぐに受けられたのだが)で情報をうまくキャッチできない人は知らないままなんじゃないかなと思う。そういう中で、保険証を2024年に廃止してマイナンバーカードを保険証とするという方向に政府が動いているというニュースを見た。これはどう考えても愚策だろう。マイナンバーカードの義務化したいだけだろうし、こんなセキリティとかもろもろダメダメなカードに保険証とか個人情報を集めていくなんて絶対にロクなことにならない。まあ、国民の個人情報を企業とかに売りたいんだろうかと思われても仕方ないし、たぶん売るんだろうなとしか思えない。そうやって個人情報のデータは国家や企業に把握されて管理されていくことになっていくのだろう、SFみたいな話だがそっちに向かっているようなことばかりだ。
いろんなものが監視されていき、そこからはみ出れば当たり前だった医療すらも受けられなくなったりする。これは個人の尊厳や生き方の自由にも関わってくると思う。管理されるディストピアの中では人々はそれなりの自由の中で生きられるのかもしれないが、そういうことを考えると伊藤計劃著『ハーモニー』のことが浮かんでくる。死ねなくなった世界は果たしてユートピアなのかという問題について。

古川さんの公式Twitterアカウントで『MONKEY』英語版vol.03についてツイートされていた。『ゼロエフ』の第一部である「福島のちいさな森」の英訳が掲載されているとのことだったのでSWITCHのサイトから早速注文をした。
古川さんのお兄さんはお会いしたことはないが闘病中とのことなので早く回復、治ってほしい。そして、『ゼロエフ』が全部英訳されて海外でも全部読める日が来てほしいと関わった人間としては思う。もっと読まれてほしい、ほんとうそれだけ。

朝晩とリモートワーク。作業中はずっとradiko を聴いていて、今日は昨日の深夜の『空気階段の踊り場』『伊集院光深夜の馬鹿力』『Creepy Nutsオールナイトニッポン』『フワちゃんのオールナイトニッポン0』を流していた。
長時間作業をしているとそれだけでは足りないのでTverから『ラヴィット!』を流す。それでも時間は余るので最近はスポティファイで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を一番最初の頃から聴いているからその続きを聴いた。前に『83 Lightning Catapult』は最新回まで全部聴いてしまったので、その次という感じ。
数日前から聴き直して、今日は2020年4月のテレ東の上出遼平さんがゲスト回を聴いたが、上出さんも佐久間さん同様に元テレ東の人になっているから、不思議な感じもある。現在はその時から比べたら未来であるから、過去の事柄を聴いているちょっとしたタイムトラベル感がある。『群像』最新号には上出さんの新連載『歩山録』というのが始まっていたから読んでみようかな。上出さんの声はかなり優しい感じがした。

最近はずっと椅子に座って作業をしているので、週一で整骨院に行っても体が歪んでいると言われる。いちおう教えてもらった運動はしているのに。だから、仕事が終わるとこのところ湯船を溜めてちょっと高いバブを入れて浸かっている。今一番のストレス解消は風呂に入ることになっているが、これからどんどん寒くなるから毎日のように風呂に入ることになりそう。

 

10月12日
後藤正文の朝からロック)言い負かす言葉ではなく

ゴッチさんのコラムを朝起きてから読む。確かに今はいろんな状況や環境、大きな声に追いやられていた(いる)人たちが挙げた声に対して、冷水を浴びせるような言説がSNSを中心にまかり通っている感じがする。それを見たくないという気持ちもあって、SNSをあまりやりたくないなというのも気持ちの一部にはある。
しかし、知らないから許されるということではないから、今どんな声があるのかを知ることは大事だし、論破みたいな言葉で勝ち負けとか自尊心を保つために他の人たちを嘲笑ったり貶めたりするような人が支持されたり、そういう人を持ち上げる状況は本当にダメだと思う。
ホロコーストヘイトスピーチから始まったという記事も読んだけど、そういうことなんだろう。割れ窓理論のように家のガラスが石を投げられて割られたりしたままだと、それをいいことに同じことをしてもいいと思って石を投げても大丈夫という考えのものたちが同じ行動を起こし、その家屋は廃墟になってしまったり、犯罪が起こりやすい地域になってしまうのと同じようなことが今僕たちのいる世界では起きているし、そのエンジンにSNSをはじめとしたインターネットはなってしまっている。

昼休憩の時に駅前のキャロットタワーまで歩いて行って、四階にある世田谷文化生活情報センターでワクチン接種の四回目を受けてきた。中はスタッフさんばかりで接種を受けにきた人はほとんど見当たらなかったので時間よりちょっと早かったが受付をしてもらって、スタッフさんの誘導通りに書類に判子とか押してもらったりして10分以内にはワクチンが打ち終わっていた。その後に15分待機しないといけないのでそれを含めても30分も時間はかからなかった。
二回目にワクチンを打った際には翌日の副反応がかなり出たが、三回目はほぼなかった。今回の四回目は明日副反応が出るのだろうか、気持ち打ってない方の右手がだるい気がするのは気のせいなのか。一応明日が休みだから今日接種したということはあるけど、副反応でないでほしい。


帰り際にトワイライライトに寄って、店主の熊谷さんからオススメされた窪美澄著『夏日狂想』を購入。サイトページを見るとどうやらこの作品の主人公の礼子は中原中也小林秀雄と三角関係になった女優の長谷川泰子がモデルらしい。


お店では『水平線をなぞる』菅原敏 詩集『季節を脱いで ふたりは潜る』企画展が開催中で、企画のひとつで「詩のおみくじ」(ワインボトルに、扇谷一穂さんによって書かれた菅原敏さんの詩のリボンが詰まっているのを注ぎ口から見えている一節だけ見て引くというもの)というのがあって一本引いてみた。

帰ってから夕方ぐらいから気持ち右肩がだるい感じはするものの、朝晩とリモートワークをした。このだるさが副反応なのか、違うのか。三連休も夜は仕事をやっていたので明日の木曜日は久しぶりのただのやすみ。まあ、締切近い原稿をしっかりやろう。
ワクチン接種前に本屋に行って『新潮』を立ち読みした。「新潮新人賞」が発表になっていたので、選考委員の選評はどんなものかと思ったからだ。その中で田中慎弥さんは「低調」というタイトルをつけていて、選評の最後にきびしくも書き手にむけて真摯なエールを送っていた。

 今年で選考委員をやめる。私自身、この新人賞出身なので、思い入れ強くやってはきたが、今回に見られる通り、毎年の水準はそんなに高いものではなかった。勿論、出だしはそこそこでもいい。月並だが、書き続けられるかどうかが一番大事。作家を目差そうという人たちへ、いくつか。十九世紀を中心に過去の小説を、こんなもの面白くない、と思いながらでいいので読むこと。手応えや達成感より、不安や迷いを大事にすること。いつまでも不安でいられるくらいのスタミナを身につけること。死なないこと。

 

ザ・リバティーンズが明かすサマソニの真相と本音。ゲイリーに訊く日本への思いと再結成後の決意

―『SUMMER SONIC 2022』の公式発表は読みましたが、土壇場の出演キャンセルで不可解でもありました。あらためてご自身の口から事情を説明いただけますか?

ゲイリー:残念なことだけど、あれは日本政府側の決定だったんだ。必要な入国書類もちゃんと提出したし、日本に行ってフェスで演奏できるはずだった。The Libertinesが初めて日本で演奏したのが2002年の『SUMMER SONIC』だったし、日本にふたたび行ける見込みにバンドとして本当に興奮していた。

ところが、ピートの入国審査に関して一切話し合いが進まず、なしのつぶてだった。だから今回の事情は本当に、それに尽きると俺は思っている。今回、The Libertinesを楽しみにしてくれた人たちに対して、本当に俺たちはどんなにお詫びしても足りない。

ゲイリー:いまはショーに遅れることもプロモーターと揉めることもないし、ファンとつねに良い関係を保ち、できる限り良い演奏をやっている。だけど、マスコミは決してそういう視点から物事を見ない。

なにか書き立てられるのは誰かが間違いをしでかしたときだけで、それは必ずニュースになる。人々の心の眼をはじめ、マスコミやソーシャル・メディアでなにより重視されるのは「ネガティブさ」だ。最近の報道をサーチしても「『いい話』を読んだのはいつだったっけ?」と思ってしまうくらいに。

―たしかに。

ゲイリー:とにかく「ネガティブさ」は売れるんだ。俺たちにはたしかに前歴があったし、一部の人々はその過去に固執することにし、俺たちに対する見方や考え方も変わらない。

で、一部の人々が俺たちについて否定的なことを言おうとするのなら、その見方が間違っていると証明するのは、バンドの一員である俺たちにかかっていると思う。否定的な人たちの見方を正すこと、俺たちにできることはそれだけだよ。

寝る前にスマホを見ていたらリバティーンズのドラマーであるゲイリーへのインタビュー記事を見つけた。
ゲイリーはインタビューの中でも謝罪していて、サマソニ2022にリバティーンズが出演できなくなって出演キャンセルになったのはやはりピートのビザの問題だったという話をしていた。おい日本政府!と思ってしまう部分はあるが、ピートの今までのことも加味されてしまう可能性は高いだろうし、ほんとうにいろいろと時間はなかったのかもしれない。
と思いたいし、話半分で聞こうと思ってしまうのは、リバティーンズというバンドを二十年近く聴いてきていろんなことがあった(裏切りに思えるようなことも)からだが。
ピートとカールとジョンとゲイリーというオリジナルメンバーで早いうちに日本に来てライブをしてほしいとはほんとうに思う。フェスは正直どうでもいいので彼らだけのワンマンで来てほしい。
ここでゲイリーも話しているように今の世界では「ポジティブ」はものは広くは伝わらない。「ネガティブ」は売れるし一気に広まっていってしまって、そのことは正しくなかったことがわかってもそちらは広まらないで誤解されたまま、嘘が本当のように知れ渡っていってしまう。そういう意味でも過去のことや嘘の情報が蔓延しやすい世界では正直なところ、今現在の自分達のやり方や戦い方なんていう行動や思想をわかってくれる人だけにわかってもらうというある意味では愚策のようなことしかできないだろうし、それぐらいしか真摯なことはない感じもする。数の論理でいけば、そういうものは簡単に吹き飛んでしまう質のものだけども。でも、愚策なままで真摯な姿でなにかをやろうとしている人を信じたいし、そういう人の側でいたい。

 

10月13日
水曜日のダウンタウン』『あちこちオードリー』をTVerで見ていたら日付が変わっていて、そのまま寝た。寝る前からワクチンの副反応かちょっとだけ右肩がダルくて気持ち熱っぽかった。朝の5時過ぎぐらいに一度目が覚めたのでトイレにいったが、ダルさはなくなってなかった。それから一時間半ごとぐらいに目が覚める感じで、熱っぽさはあったので休みなのでできるだけ寝ることにした。
11時前に起きてから微妙な熱っぽさとダルさがあるものの、家を出た。本来は15日〆切の「群像文学新人賞」用の原稿を書く日にしようと思っていたが、いかんせん進まないままになっていた。頭が正直全然働かないので、どうしようかと思ってとりあえず歩いてみようと思った。
明日の夜に知り合いの人たちと渋谷でご飯を食べる予定を入れていたので、その店の下見も兼ねて渋谷まで歩く。何度か地図アプリを見ていてもどこにあるかわからなかったが、素通りしていたことに気づいた。場所は把握したので書店に寄ってから帰ろうとおもったが、明日も渋谷に来るのは決定しているので、久しぶりにツタヤ渋谷店によって音楽CDを10枚ほどレンタルした。
借りたのはTIN PAN ALLEY、ART-SCHOOLthe band apart、ミツメ、Creepy Nuts藤井隆、SAMOEDO、Kroi、METAFIVE、くじらでTIN PAN ALLEY『キャラメルママ』以外は全部新譜コーナーにあったもので、新作で一泊二日なのでちょうど明日返せばいい。
アルバムのジャケットデザインみたいなもので選びたいという気持ちもあるし、前から聴いていたアーティストも僕がAmazonミュージックやSpotifyなんかを音楽プレイヤーとしては利用していないから、出ていると把握するためには形のほうがありがたい。配信オンリーとかだったらiTunesストアで音源を買うけれど、こんなものもあるんだってわかるための形はやっぱり必要だし、そういうデザインのアートワークを見るのは本当にたのしい。今の時代で言えば贅沢なことなのだろうけど。


森博嗣著『オメガ城の惨劇 SAIKAWA Sohei’s Last Case』が出ていたので書店で購入する。この間探しにいった『兎の島』も面出しで置かれていたが二冊買うとしんどかったので今回はこちらを。『兎の島』はそこまで太くはなかったが、箱に入っている形で装幀の感じもとてもよかったので今度買いたいなと思う。ペラペラめくったら一ページあたりの文字数はそこまで多くはない短編集という感じだった。
『オメガ城の惨劇』は副題に「SAIKAWA Sohei」とあるように『すべてがFになる』の主人公の一人である犀川創平を彷彿される。作中ではカタカナのサイカワソウヘイになっているので、まったくの同一人物とは言えない感じになっている。また、この作品には森博嗣作品に何度も出てくる真賀田四季らしきマガタシキも登場している。だから、帯には「「F」の衝撃、再び。」と書けるわけだ。しかし、このカタカナにするだけで同一人物から少しだけズレるというのはおもしろいし、日本語というのは漢字もひらがなもカタカナもローマ字も使って同じ名前を違う形で表現できちゃうから、それが叙述トリックにも使えたりもする。ただ、そういうものは海外で訳す時には壁になったりもするんだとは思うけど。
この本を買って帰る時にスケジュールを脳内でぐるぐる回して再考していた。中途半端なものを出して、賞に応募したというなんちゃってなやった感になっても仕方ないので、今書いているやつは太宰治賞に出した方が賢明だろうな。家に帰ってからスケジュールを修正したけど、これはもう動かせないな。今年中にケリをつけないと詰みすぎている。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『掃除機』

レンタルしてきたCDをiTunesに取り込んでいる時に見た記事で、来年のKAATでの舞台の情報があった。岡田利規さんの戯曲を本谷有希子さんが演出する舞台らしく、その二人の組み合わせだけでも気になるけど、出演と音楽で環ROYさんの名前があったので、これは絶対に観たい!と思える組み合わせだった。来年の3月に公演する舞台だけど、半年先なんてすぐだろうな。最終日が誕生日だけど、さすがにその日じゃない平日に観に行こうかな。


17時前ぐらいにニコラへ行って、ナガノパープルとシャインマスカットとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。ちょっと秋らしくなってきたので温かいコーヒーがちょうどいい、その温度がなにかを柔らかくしてくれるみたい。前に食べたナガノパープルも美味しかったけど、この時期のシャインマスカットthe旬という感じもあって、秋だなとより感じさせてくれる美味しさと歯応えだった。

 

10月14日
チェンソーマン』ノンクレジットオープニング / CHAINSAW MAN Opening│米津玄師 「KICK BACK」


朝からリモートワークで仕事。昨日の夜まではまだワクチンの副反応が多少あったけど、起きたらほとんどなくなっていた。
休憩中にようやくアニメ『チェンソーマン』一話をAmazonプライムで見る。漫画は一度も読んだことがなく、前に『SWITCH』のジャンプ+特集の時に佐々木敦さんの藤本タツキ論を読んでいたぐらい。
見ていると主人公のデンジは死んだ父親が残した借金のために臓器や片目を売っても返済はできず、ポチタというチェンソーの悪魔と共に「悪魔」を駆除するデビルハンターとして借金を少しずつ返しているという話だった。途中でデンジとポチタはゾンビの悪魔に殺されてしまうが、彼の血を飲んで蘇生したポチタとの契約によって、ポチタの心臓をもらうことでデンジは復活してチェンソーの悪魔に変身して、ゾンビの悪魔を倒す。そして、最後には公安の女性がやってきて、自分のところで働くか、今すぐここで処分されるかを選べと言われる。
見ていて思ったのは、この『チェンソーマン』という作品が若い世代を中心に人気あって大ヒットしているのは納得できるなと思える登場人物の置かれた状況だった。デンジは亡くなった父の借金を返すために働いているが、ロクな仕事にもつけずにヤクザに騙されて悪さの手伝いをさせられている。そうなっていけば「普通の生活」がしたいという夢を抱くことしかできず、さらにそれが到底困難なものでそこから抜け出すことはできないという諦めは同居している。そうなっていくとなにも考えないほうがよくなっていく。これは『花束みたいな恋をした』の主人公のひとりの麦が働き始めて、好きだった漫画や小説や舞台というものを読んだり見たりする気力がなくなっていき、パズドラしかできない(思考することを放棄する)という状況になったことに似ている。
誰かを支配化に置く時には相手から思考することを放棄させるか、できなくさせるほうが支配する側には都合がいい。ヤクザはそれに近いことをやって、デンジを安く使って利益を得ている。
親世代の借金を返す。まさに失われた30年の最中に、ゼロ年代以降に生まれた若い人たちが置かれているものとデンジは近いからシンクロする部分はあるのだろう。そして、『ワンピース』における「悪魔の実」のようなアイテムが平凡な人の人生を一変させる(こちらも連載初期の数巻ぐらいしか読んでいないがルフィはただの少年ではなく、血筋や血縁関係におけるある種の英雄神話構造のパターンに当てはまるんじゃないかと思う。違うかもしれないが)「悪魔の実」が当たり前になって、それを読んでいた人たちからすれば「〇〇の悪魔」という言葉は受け入れやすいのだろう。そして、『チェンソーマン』における「悪魔」というのは怪物であり、『怪獣8号』における「怪獣」が自然災害なんかのメタファにも考えられるように、「悪魔」は人知を超えた存在であり、人々を殺したり、嫌っているというのであれば、それは例えばグローバリズムとかGAFAとか今の世界を形作っている事柄、また現在における生きづらさや自由に見えて人々から選択肢を奪っていく(自由意志に見せて、実はアルゴリズムとかから私たちは選ばさせられているという状況)などの物質化としての「悪魔」のように見えなくもない。だからこそ、「悪魔」を倒すのは同じ「悪魔」や「怪物」でしかない。それしか戦えない世界のようにも思える。ヒーローがヒーローとしていることが難しい時代というのは、そういうことでもあるのだろう。
一話を見たので次回も見るかもしれないけど、漫画を読みたいという気持ちはそこまで起きなかった。それはヤクザのように近い年齢であっても、彼のように搾取する側ではないからデンジを恐れることもなく、かといってデンジのようにチェンソーの悪魔となって怒りやなにか溜め込んだものを炸裂させてほかの悪魔を倒すことに喝采を叫ぶような若者でもない。つまり自分が宙ぶらりんだから感情移入はしにくく、面白い作品であり多くの人から求めらていることはわかるけど、自分はそこのマーケットにいる人間ではないように思えるからなんだと思う。


仕事が終わる少し前に晩御飯を食べにいく予定だった中の一人が濃厚接触者になったとのラインがきたので、今回はとりあえず延期という形になった。前日に夜渋谷に行く時に返そうと思ってレンタルしていたCDはあるので、渋谷にはとりあえず行かないといけないなと思って調べていると、ジャン=リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ』追悼上映が19時からあったのでチケットを予約した。
レンタルを返してからBunkamuraのル・シネマに行く。お客さんは二十人もいないぐらいだったと思う。『気狂いピエロ』は何度か観ているけど、わりと内容は覚えていない。最後の顔を青くするシーンとかはいろいろなところで見るから知っているつもりになっているのかもしれない。これは家で配信とかで観ていたら途中で観るの諦めるんじゃないかって思ったし、だからこそ劇場で観るべき作品だなと強く感じた。
逃亡劇で最後は主人公が死ぬというのはこの前に観た『勝手にしゃがれ』と同じパターンであり、現在において観るとなんか腑に落ちないというか物語をやり切る(展開のわかりやすさ)ということよりも他の要素がやりたくて作ったのかなと思うし、そうじゃないとこんな展開にならないだろうと思うと途中から笑えてきた。どう考えても脚本ありきじゃなくて即興でやっている。だから歪さが際立っているし、それがあるからこそ人々の脳裏になにかを残していく。
作中でいろんな作家の名前を主人公の「ピエロ」と呼ばれるフェルディナンとヒロインのマリアンヌがやりとりの中で言っている場面ではまたフォークナーの名前が出てきていたし、『響きと怒り』のタイトルも台詞に出てきていた。やはり1960年代ぐらいにゴダールはフォークナーを読んでいてそれなりに影響を受けていたということなのだろう。そういうことは熱狂的なファンが世界中にいるだろうから、ネットでも調べれば出てくるのだろうけど、調べようとは思わない。
追悼上映ということでゴダールの初期の代表作の二作を映画館で観れたという経験ができたことが個人的にはよかった。

観終わって歩いて家に帰ろうとしたら、延期になったご飯の濃厚接触者になっていないメンバーが下北沢で飲んでいるので来ないかとラインとDMが来ていたので、一度家に帰ってから下北沢駅近くの新台北へ行った。お店はずっと満席で、金曜日の晩ということもあるのか下北沢は活気があってコロナ前みたいなザワザワ感が戻ってきていた。

 

10月15日
「MONKEY(英語版)」VOL.3 CROSSINGS: A MONKEY’S DOZENが起きてドアを開けると届いていた。
古川日出男著『ゼロエフ』の第一部「福島のちいさな森」をKendall Heitzmanさんが翻訳した「The Little Woods in Fukushima」を読んでみたくて。時間はかかるだろうけど、『0(ZERO)f』すべての英訳が出て世界中で読まれることを願っている。

古川日出男の現在地」もはや緊張感しかない 2022.09.24 – 2022.10.14 東京・福島・埼玉

英語版「MONKEY」誌に、私の『ゼロエフ』から第一部「福島のちいさな森」が英訳されて載った。柴田元幸さんからのリクエストで、私は実家のシイタケの写真を提供することになり、もちろん私自身はそうしたものを撮影していないので、兄に提供してもらった。「福島のちいさな森」は、この兄に私(という9歳離れた弟)がインタビューする状況がメインになっている。その兄が、かつての原木栽培のシイタケを、その後の菌床栽培のシイタケを、撮影したものが誌面を飾り、しかも扉は、本当に美しい1葉のシイタケの写真で占められた。撮影者のクレジットに、兄の名がある。私は、こんなふうに「兄弟の合作」ができるとは思っていなかった。本当に本当に感動した(その背景には、兄がいま癌と闘っているという事情もある)。Kendall Heitzman さんの手で英語に生まれ変わった文を読みながら、私は、こみあげてくる感情を抑えきれなかった。

という文章を前日に読んでいた。版元のSWITCHのオンラインサイトで注文したのは数日前だったが、届いたタイミングはバッチリだったように思える。

 

古川さんの公式サイトのお知らせで村上春樹ライブラリーのWEBサイトに書かれたエッセイ「体感していない出来事の記憶」のことを知った。
村上さんと古川さんでがっつり対談というかトークをされるのをいつか聞きたい(読みたい)とは思うけど、やれるとしたら村上春樹ライブラリーだろうなと期待はしている。
月末に村上春樹ライブラリーに行くので、そのこともあってか自分のセンサーが反応しやすくなっているのだろうし、シンクロではないけど呼んでもらっているような気持ちもちょっとする。こういう時の直感はたいてい間違っていない。


渋谷まで歩いて半蔵門線永田町駅まで行って、有楽町線に乗り換えて豊洲駅で降りようと思ったけど、いつも通り早く家を出てしまったのでひとつ前の月島駅で降りてから歩いて豊洲ピットを目指した。
晴海埠頭は取り壊し作業のために一帯には入れなくなっているのは前に見に行った時に看板と立ち入り禁止の柵を目にしていた。晴海通りにある橋からは晴海客船ターミナルの展望台の赤い部分もはっきり見えるし、そもそもまだ解体されていないようだった。


ZAZEN BOYS豊洲ピットでのワンマンライブは最強で変態的で最高だという当たり前のことを再確認するものだった。この間のLOSALIOSとの対バンの時に前とリズムパターンが変わった気がしたけど、やっぱり深化して進化していた。アンコールの最後は『KIMOCHI』だった。かなり久しぶりに聴いた。
ZAZEN BOYSの今日のセトリをツイッターなどで見ていると新曲『永遠少女』って曲は今までのライブでは聴いたことはなかったけど、「1945年」とかの歌詞はなぜか知ってた。一日に早稲田大学で開催したレコードプロジェクト『A面/B面 ~Conversation & Music』で向井さんがこの曲をアコギでやってたから聞き覚えがあったんだと思う。
ユーチューブでアップされている向井さんのエレアコの『自問自答』のロシアによるウクライナ侵攻や1945年の終戦の時なんかの歌詞が入っているのと『永遠少女』の歌詞は繋がっていると思えるものだった。

 

10月16日

渋谷から半蔵門線に乗って押上駅まで乗って東京スカイツリーへ。はじめて押上駅まで乗った気がする。上京して最初にバイトした時の二十年来の友人二人とその息子君と四人でスカイツリーに上った。日曜日なのでソラマチなど一帯の施設は家族連れが多くて混んでいる感じだったが、まだ海外旅行者の数もそこまで多くは感じなかったし、コロナ前はもっと土日は混んでいたんじゃないかと思えた。
そこそこの混み具合だったので展望台へのエスカレーターも15分ぐらいで乗れたりとストレスはさほど感じなかった。隅田川や荒川や東京タワーや新宿方面も見えて新鮮だった。富士山は曇っていたので見えなかった。


カフェでくつろいだ後に併設されているすみだ水族館にも足を運んだ。そこまで大きな水族館ではなかったけど、スカイツリーと一緒に見ると時間的にもちょうどいい感じに作られているんだろうなって感じだった。
ペンギンの餌やりの時間帯だったので見物している人もたくさんいた。ペンギンがちょっと小さく感じられた。他の水族館で何度か見たフンボルトペンギンとかよりもひとまわり小さい感じだったが、サイトを見るとマゼランペンギンという種類らしい。
息子君は走り回るということはなかったけど、元気で躍動的に動いていた。来年小学生という年齢もあるのか、お母さんに甘えているというボディタッチとかそういう触れ合いを求めている感じだった。マザコンとかではなく、男の子はそういう感じで母親にできるだけ甘えたいのだろう。自分もあのぐらいの頃は母に甘えていたのだろうなと思ったりした。実際のところはどうかはわからないけど、まあ忘れちゃうんだよな。
大人三人がしっかり会話するという感じはなかったけど、休日に集まって一緒に時間を過ごせるというのは大事なことだし、付き合いが長いからこそこういう遊びのような集まりはできるだけ続けていきたいなと思う。東京に来てから出会って二十年も付き合いが続く人なんてほとんどいないから。
久しぶりに多くの家族連れがいる空間に居たのでとても新鮮だった。子供たちの騒ぐ声とかはうるさいとかは思えないし、それぞれの家族とか集団とかがたのしそうにしているといいことだなと微笑ましくなった。普段はひとりで行動しているからこそ、そう思えているだけで家族や集団で週末とかいつもいる人はそれで嫌なことも我慢していることもあるのだろうとは思うけれど。どちらもいい部分とわるい部分があるのは当然で、誰かと居る時間というのはとても大事なものだから、なんかやさしい気持ちにはなれた。

 

10月17日

小川哲著『君のクイズ』は休憩の時に外出した際に購入。以前、TVプロデューサーの佐久間さんがラジオで、ゲラで読んで締め切りは過ぎていたが帯分を送るほどおもしろかったという話があったが、帯に名前とコメントがあるからこの作品のことなのだろう。
装幀デザインがA24作品の日本版のポスターやパンフレットを手がけている大島依提亜さんだった。

大島 例えば、映画のポスターやパンフレットというのも、冷静に考えると、映画本編の周囲にあるもの、なんです。

ーー 映画の外側にあるもの、ということでしょうか?

大島 僕は本の装丁の仕事もしていますけど、本の場合はパッケージと文章が一体化されているから、デザインも作品の一部になるんですよね。でも映画の場合は違う。タイトルロールなどをデザインした場合は、映画の一部になるかもしれないけど。

ーー つまり、私たちが大島さんのつくったポスターに惹かれて映画館に行ったり、パンフレットを大切に持っている人たちがいたりするのは、大島さんのデザインが、鑑賞者と映画の架け橋になってるからなんですね。ポスターやパンフレットは、確かに映画の外側にあるものですが、大島さんの作品は、結果として一部になっているんではないでしょうか。

大島 そう言ってもらえるのは、とても嬉しいです。ですが、やはり僕の仕事は映画本編に属するものではなく、その断絶があるからこそ、橋渡しの役割が担えるのかもしれません。

「映画好きなら誰もが一度は触れている、大島依提亜さんのデザインの秘密にせまる! 宝物のようにとっておきたくなるポスター・パンフレットとは?」より

2年前のインタビュー記事。確かに大島さんの書籍の装幀は映画に比べるとあまり見かけていない(僕が見つけていないだけか)から新鮮だったが、すごく気になるデザイナーさん。

朝晩とリモートワークの一日だった。Radikoで昨日の有吉さんとかのラジオを聴いたあとは、NHKオンデマンド大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』最新話を見る。
ダークサイド側に落ちて、権力を持つものとなってより存在感を増していく主人公の北条義時。義時が武士の頂に北条家が君臨するように鎌倉殿も含めて政を動かしていく。仲間達だったものとの最後のぶつかり合いが次回以降に起きる流れだからこそ、平穏な日常風景を描いていた。源実朝が妻へ自分の本当の気持ちを話すところ、そして歌人として魅力を出し始めているが、来週の慌ただしさとの対比のようにも見えた。
その後はTVerで『霊媒探偵・城塚翡翠』『アトムの童(こ)』の一話をながら見。前者は小説で読んでいるのでいろいろ思うところはあるけど、見た感じのキャスティングはバッチリだと思う。城塚翡翠を清原果耶が演じているのは適役だし、彼女のアシスタントの千和崎真を小芝風花が演じていて、若手女優の中でもかなり強い二人がいるのは心強いというか、原作小説も三冊目まで出ているからこのドラマが最後まで好評だったら続編は作れるよなって思う。まあ、三冊目まで出ているから書店で装幀デザイン見るといろいろ感のいい人はわかる話ではある。
後者は日曜劇場らしい、今までの香川照之さんが大体出てるイメージのやつとか一回も見たことがないけど、水戸黄門的な勧善懲悪的なパターンになるんだろうなと思う。香川さんが降板してオダギリジョーさんがラスボスみたいになったことで主人公の安積那由他演じる山崎賢人と向き合うと現代的というか今っぽさが出たと思うし、岸井ゆきのがヒロインというのも良い感じ。はじめて観たのは『友だちのパパが好き』なのかな。初主演の『おじいちゃん、死んじゃったって。』はいい作品だったけど、やっぱり『愛がなんだ』出てから一気に飛躍したイメージはある。この二作品は今の所次回も見たいなと思った。

仕事で先方に依頼していたお会いする日時の候補日が三つ返ってきたが、全部仕事が休みの日だった。最初に日程はぎりぎりあとにある予定をスライドさせればなんとかなりそうだった。残りの二つはどちらもとも予定を入れていて、相手との約束があったのでそちらをキャンセルして別の日にお願いするのはしんどかったが、仕事だから仕方ない。
とりあえず、残りの二つの約束はなんとか死守したいので、この仕事に関わる別の方にスケジュール確認のメールだけは素早く送って、すぐに電話をかけてみた。その人も最初の僕が後のスケジュールをスライドさせる日がいちばん効率的に動ける、前の仕事の流れでそこに来てもらえるということになったので、そこしかないという話になった。すぐに先方へ連絡やもろもろ必要な作業をしていった。あとは先方がその日を急にキャンセルとかしなければ問題はない。
こういう時はそういうトラブルというかイレギュラーなことは起きる可能性があるので油断はできないけど、もうそうなったら運の問題でしかない。とりあえず、このまま決めた日でいってほしい。その日はもともと休みだったのが出勤になってしまっているから、もうこのまま残りの二つの休みの日の予定は変えたくないんだけど、ほんとうに運次第だからあとは祈るしかない。

 

10月18日
友人にタワレコ渋谷店限定のポスターをゲットしてくれと頼まれたので散歩がてら渋谷に。オープンちょうどを狙って歩いたらちょうどぐらいに着いたが、店前に人がたくさん並んでいた。どうやらIVEの新譜目当てらしかった。
僕はアイドルに興味がないし、アニメもほとんど興味がない(『新世紀エヴァンゲリオン』に関しては「旧劇場版」は僕らの青春期における「文学」だったと思う。それは他者性とは本来気持ち悪いものだという庵野秀明の自意識と露悪的なものが溢れ出てしまっていたからこそだが、それこそが大江健三郎から続く日本の「文学」的なものでもあったように今なら思える。リアルタイムで見た僕らもまた使徒に侵食されるようにあの作品から無自覚に「文学」的なものを受け取ったのだろう。あとはリアルタイムで14歳の学年で、苗字が「碇」被りのおかげで常用漢字ではない僕の苗字は「エヴァ」が国民的なアニメになっていく、有名になっていく度に間違えて読まれなくなったという個人的なこともある。だが、基本的にはアニメを追いかけてみるということはほとんどない)。

前に「萌え」について友達としたことがあるが、僕にはどうやらそういうものがない。わかりやすく言えば、あだち充高橋留美子というサンデーの二大巨頭のどちらが好きかという話かもしれない。
あだち充は全作品を持っているぐらいに好きだし(ただ僕はそこまで野球好きではないという点がミソでもある)「PLANETS」であだち充論を四年間連載したぐらいには読み込んでいる。
一方の高橋留美子作品だと昔買ったことがあるのは『めぞん一刻』と「人魚」シリーズのみである。『うる星やつら』も『らんま1/2』もアニメしていたら見るぐらいでコミックは買ったことがない。この二大巨頭における僕が正反対の興味になってしまう理由とはなんだろう。おそらく「萌え」の概念だろう。
高橋留美子作品なら『うる星やつら』『らんま1/2』『犬夜叉』『境界のRINNE』などの長期連載した人気作品は基本的にはラムちゃんを筆頭にコスプレされる要素がある。たぶん、そこの根っこには「萌え」があるのだろう。
あだち充作品はコスプレのしようがない。ただの野球のユニフォームか水着であり、それは僕達の日常にあるものだ。『虹色とうがらし』は時代劇×SFだったが、根本が落語であり、あだち充劇団が時代劇をやっているわけで、そこには読者の側がその格好をしたいという欲望をもたらさないように思える。
たぶん、僕が好きな漫画作品は基本的には絵の線がキレイであり、基本的にはコスプレ的なものはしにくい要素がある、つまり「萌え」ないものなのだろうと思う。漫画だけではなく、イラストにしても装丁なんかのデザインにしても「萌え」的な要素は嫌いとまでは言わないが購買欲は極端に下がる。

田島昭宇さんでいうと「MADARA」シリーズのキャラクターはコスプレしやすい雰囲気があるような気はするが、『多重人格探偵サイコ』はコスプレできなくはないが、「萌え」要素よりもスタイリッシュさやかっこよさになるのでおそらくコスプレしようとすると難易度がめちゃくちゃ高くなるはずだ。コスプレイヤーの身体的なもの、手足の長さとか顔の小さとか生まれ持ったものがかなり大きいと思う。でも、主人公格はスーツだから、サブキャラのレザーものとかはクロムハーツとかロックテイストの服装は漫画に書かれた元になったブランドのものを揃えようとするとやばい金額になる。
ほかに好きな漫画家さんだと幸村誠さんは『プラネテス』は宇宙でデブリを拾う話で絵柄やキャラクター的にも「萌え」はないし、『ヴィンランド・サガ』はヴァイキング時代を描いているのでその世界観自体は『虹色とうがらし』の時代劇的なものがあり、コスプレしても映える格好ではない。
西島大介さんと浅野いにおさんは絵柄としては「萌え」があるような感じだが、西島さんの絵を見ればわかるが、西島作品のキャラクター造形の芯の部分なんかは昔のディズニー、それを自らの漫画に組み込んだ手塚治虫漫画に出てくるキャラクター造形(球体を重ねる感じのやつね)を引き継いでいるのがわかる。作風でわかりにくいが、正統的な手塚漫画、日本の漫画の歴史にあるキャラクター造形である。ただ、作品に盛り込んでいるアイロニーやバックグラウンドが複雑なため批評性が先に目につきやすいのだと思う。
浅野いにおさんもあえてだろうが、近年では「萌え」る雰囲気をキャラクターに持たせているが、背景は写真とかの画像を取り込んでCG処理するなどリアルさの中にある漫画的な身体を描いているし、西島さん同様に岡崎京子さんの影響下にあるから、作品から世界や読者やシステムに対するアイロニーや批評精神、そして自らが影響を受けてきたものを作品世界に忍ばせている。だから、僕は好きな漫画と言えるのだけど、「萌え」消費をする気持ちがないのとそういうキャラクターに対しては何も感じない。

世界は高橋留美子的な価値観に覆われてしまって、あだち充的な価値観がどんどんなくなっていると「あだち充論」では何度も触れた。大人になることを拒否し、責任を取ることを拒否し、「母性」というスカートの中でずっと子供のままでいたいという世界と「萌え」は結びついているように思える。こちら側があきらかにマイノリティーになっている。それはそれでいい。ただ、そちらの価値観のままで進んでいけば、今みたいな世界からは抜け出せない。
もちろんあだち充的な責任を持つ主体に全員がなればいいとも思わないし、なれるとも思わない。ただ、そのバランスが、両輪でうまく進んでいっていたのがおそらく80年代ぐらいまでだった。そこから一気に高橋留美子的な、宇野常寛さんが提唱したような「母性のディストピア」は加速していった。

関係ないことを書き始めたら、止まらなくなってしまった。
ツイッターとかフェイスブックに前まではメモがてら書いていたことを書かなくなったから、思いついたら一気にとりとめのないこと、連想的に浮かんだら日記で書いてしまう。読まれるかどうかではなく、とりあえず書いて自分の脳内を整理する感じに近い。


THE 1975 5thアルバム『 Funny in a Foreign Language / 外国語での言葉遊び』

The 1975 - Happiness (Official Video)



今年の「サマーソニック2022」東京初日のトリを務めたのはTHE 1975だった。
僕にとって20年ぶりのサマソニはラインナップに入っていたリバティーンズのために足を運ぼうと思ってチケットを買ったので、彼らが開催の一週間前に出演キャンセルのアナウンスが出てすぐにヤフオクで売った。そういうわけでTHE 1975のライブは観れてはいない。基本的にはフェスにはもう行きたいと思えない僕をフェスに行くかと思わせてくれる存在がリバティーンズだったし、キャンセルということの衝撃(まあ、ありえるかもとファンに思わせてしまっているのが彼らリバティーンズなわけだが)、バンドにも運営にもムカついたのでしょうがなかった。ちょっと観ておけばという後悔はある。
2000年代初頭のロックンロールリバイバルアメリカのストロークスとイギリスのリバティーンズから始まった。リアルタイムで見ることができた近い世代のロックスターが彼らであり、最低で最高の物語がリバティーンズにはあった。反対にセレブな家柄出身でありスマートでスタイリッシュという「 NY」さをストロークスは持っていた。芸人のニューヨークの番組ではたびたびストロークスの曲が使われているのでちょっと懐かしく感じる。
アイドルとアニソンとヒップホップにロックンロールは駆逐されたのがこの二十年だった。それらに心が揺さぶられない、なにかがフィットしない十代や二十代でロックを求める人たちがいるなら、君たちにはTHE 1975がいる。僕たちにストロークスリバティーンズがいたように。

渋谷と家を往復する間はradikoで「Creepy Nutsオールナイトニッポン」を聴いていた。ゲストが東京03でなにか発表があるとのことだったので、前に放送作家のオークラさんが「佐久間宣行のオールナイトニッポン0」にゲストで出られた際に、東京03Creepy Nutsコントライブみたいなことをやりたいと言っていた記憶があったので、たぶんそういう組み合わせでライブイベントをやる発表だろうなと思ったら、まさにその通りだった。

東京03 FROLIC A HOLIC」の特別版「東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない」

番組には途中でからオークラさんも参加してイベントのタイトルの「なんと括っていいか、まだ分からない」という部分にもはっきり理由を話していて、それを聞くとこれは2Daysあるからどちらかには行きたいし、なんとかチケット確保して目撃したい。
武道館で二日やるっていうのはキャパがかなりデカいとはいえ、この組み合わせで佐久間さんもすでにゲスト出演者で名前が上がっているがもう何人か出演になるみたいだからチケットすぐにソールドアウトすることになるだろうな。先行で取っておきたい。

 

10月19日

宇野常寛著『砂漠と異人たち』が出ていた。20日発売ということだったが、1日早く店頭に並んでいたみたい。ページ数のわりには気持ち重みを感じるから、いい紙を使っているのかもしれない。

情報社会を支配する相互評価のゲームの〈外部〉を求め、「僕」は旅立った。

そこで出会う村上春樹ハンナ・アーレントコリン・ウィルソン吉本隆明、そしてアラビアのロレンス――。

20世紀を速く、タフに走り抜けた先人の達成と挫折から、21世紀に望まれる主体像を探る「批評」的冒険譚。

「第一部 パンデミックからインフォデミックへ」をこの日のうちに読む。次の「第二部 アラビアのロレンス問題」で実際に砂漠のあるアカバが舞台になるようだ。目次を見る感じだと『群像』連載中の『庭の話』へ繋がっていくのかな。とツイートしたら、著者の宇野さんが引用ツイートの形で、

と答えてくれていた。

 

10月20日 

木曜日はTCGメンバーズカードの割引きが普段よりもしてもらえて1100円で映画が観れるので新宿に出てテアトル新宿へ。オープンが10時10分からだったが10時前に着いたので、歌舞伎町の方に歩いて行っていつもの「いわもとQ」へ。朝ご飯と昼ご飯兼用ということで鶏天そばの盛りにいか天を追加したものをいただく。そばも美味しいけど、ここの天ぷらはさっぱりしていて具も大きくてほんとうに好き。


テアトル新宿に戻るとオープンしていたので階段を降りて中に入る。来月公開の今泉力哉監督『窓辺にて』の主演の稲垣吾郎さんが着用した衣装と作品内に登場する小説家の書いた作品も展示されていた。
主人公の妻が編集者で彼女が小説家と不倫をしているというのが予告編でわかるのだが、しっかり実物を作っているみたい。小説の装幀デザインを見る感じだと金原ひとみさんとかの作品に寄せている感じもする。下の写真の二冊は金原さんが「すばる」や「新潮」で連載していた小説が書籍化された時みたいな装幀だなって思ったし、上の二冊は筑摩書房とか朝日新聞出版者からから出てそうなデザイン。


久保田直監督『千夜、一夜』を10時半から初回の回を見る。もともとは安藤政信さんが出演しているので観たいなと思った作品。予告編でも人間ドラマをしっかり描いていそうだったので気になっていた。

劇映画デビュー作「家路」で高く評価されたドキュメンタリー出身の久保田直監督が、日本全国で年間約8万人にも及ぶという「失踪者リスト」に着想を得て制作したヒューマンドラマ。「いつか読書する日」の青木研次がオリジナル脚本を手がけ、愛する人の帰りを待つ女性たちに待ち受ける運命を描き出す。

北の離島にある美しい港町。登美子は30年前に突然姿を消した夫の帰りを待ち続けている。漁師の春男は彼女に思いを寄せているが、彼女がその気持ちに応えることはない。そんな登美子の前に、2年前に失踪したという夫・洋司を捜す奈美が現れる。奈美は自分の中で折り合いをつけて前に進むため、洋司がいなくなった理由を求めていた。ある日、登美子は街中で偶然にも洋司の姿を見かける。

主人公・登美子を田中裕子、奈美を尾野真千子、春男をダンカン、洋司を安藤政信が演じる。(映画.comより)

よく考えれば主演の田中裕子さんは『おしん』で主演されていて、尾野真千子さんは『カーネーション』で主演を、ということでNHK朝の連続ドラマの主演女優同士だなと観ている時に思った。
登美子は30年前にいなくなった夫をずっと待っているが、昔から彼女のことを好きだった春男をダンカンさんが演じていて、その佇まいとか表情とかがとてもよくて若くてたけし軍団とかわからない人からしたら渋い年配の俳優さんだと思うんじゃないかな、というぐらいに素晴らしい演技だった。
佐渡島が舞台になっていて、北朝鮮とか漂流してきた船が何度か打ち上げられていたりと失踪者も拉致の可能性があるかもと思わせるのだが、奈美の夫の洋司が現れたことで物語は僕が想像している感じではない方向へと動いていった。

突然姿を消した夫は、ある種の「ゴドー」のようになっている。登美子からすれば彼は空虚な中心であるが、あまりにも時間が経ち過ぎている。30年待っている登美子の対のように2年ほど夫の洋司を探している奈美は夫ではない男性との関係を始めようとしていく。彼女には人生プラン(出産する年齢など)があり、登美子のようにずっと待つことなど自分には無理だと思っている。それはもちろん悪いことではない。ただ、そういう時に洋司は登美子に連れられて帰ってきてしまう。
そして、洋司はいなくなった夫の代替として、登美子とやりとりをするシーンが終盤にある。そのために洋司が必要だったのだろう。
一度妻の元から消えた男性だからこそ洋司に登美子はいなくなった夫への気持ちを言えたりすることができた。ずっと近くにいる春男にはそれは無理だったのだろう。だが、春男も終盤近く消える。そう考えるとこの作品において女はいなくなった男を待つ存在であり、男たちは帰る理由はないけど、帰らない理由もないままどこかを漂っている。

登美子は夫がいなくなったことで周りから「特別」な存在として、普通ではない人として「見」られることが嫌だったと話をする。かわいそうだと思われたくもない、だが、周りはそういう風に彼女を見続けている。そういう意味で彼女は呪縛されているし、意地になってそこで待ち続けている。だからこそ、一度出て行って戻ってくることになった洋司との会話はいなくなった夫とのやりとりのシミュレーションであり、精神医療におけるロールプレイングみたいなものに見えた。それがあったからこそ、最後の春男とのそのやりとりになっているのだろう。
あとは亡くなった父親が片足を戦争で失っていて、戻ってきてからは人が変わってしまったと母親が登美子に話している場面がある。母が亡くなった際に登美子がその父の義足を棺桶の中に入れようとしたりするシーンがあり、登美子自身は至ってマジメ(ふざけてはいない)だが、それゆえに滑稽さを出してしまっていてコントみたいになっていてちょっと笑ってしまった。


夕方にニコラに行って、牛ほほ肉とイタリア栗のミートソースと赤ワインをいただく。
今日はプロ野球のドラフト会議らしく、曽根さんとカウンターに座った赤崎くんが野球談義をしていた。「今年もドラフトに呼ばれなかった」「ずっとドラフトで名前を呼ばれるのを待っている」的なネタが出る一日でもある。

 

10月21日

コゴナダ監督『アフター・ヤン』 初日をホワイトシネクイントにて鑑賞。

独創性豊かな作品を世に送り出している気鋭の映画会社A24が新たに製作した『アフター・ヤン』は、長編デビュー作『コロンバス』が世界中の注目を集めた映像作家コゴナダとのタッグ作だ。小津安二郎監督の信奉者としても知られる韓国系アメリカ人のコゴナダ監督は、派手な視覚効果やスペクタクルに一切頼ることなく、唯一無二の未来的な世界観を本作で構築した。さらにSFジャンル初挑戦となったこのプロジェクトで、敬愛する坂本龍一(オリジナル・テーマ「Memory Bank」を提供)とのコラボレーションを実現。音楽を手掛けるAska Matsumiyaの美しいアレンジに加え、岩井俊二監督作品『リリイ・シュシュのすべて』で多くの映画ファンの胸に刻まれた名曲「グライド」を、Mitskiが歌う新バージョンで甦らせた。

人間と何ら変わりない外見を持つヤンは、高度にプログラミングされたAIによって知的な会話もこなすベビーシッター・ロボットだ。そんなヤンとかけがえのない絆で結ばれた家族の姿を見つめる本作は、SF映画の意匠を凝らしたヒューマン・ドラマ。ヤンの体内のメモリバンクに残された映像には何が映っているのか。そこに刻まれたヤンの記録/記憶は、いったい何を物語るのか。そしてAIに感情は宿るのか_。本作はそうした幾多のミステリーを提示しながら、さして遠くない未来に現実化しうる人とロボットとの関係性を観る者に問いかける。人間と人工知能のあわいを伏線豊かに描き、静謐な映像と心に響く音楽が観る者を魅了する、かつてない感動作が誕生した。
公式サイトより)

AIロボットの名称が「テクノ」だし、メインテーマは坂本龍一だし、監督は韓国の出身、全体的にアジア的な要素がかなり多い作品になっていた。父のジェイクは白人系、母のカイラは黒人系、娘は中国人の養女、ロボットのヤンも中国系であるので多民族な家族が描かれていた。
作中はかなり先の未来になっていて、自動車は運転はせずにオートで勝手に目的地に走っているので、運転手のいないタクシーに近い。彼らが住んでいる都市も緑が多くて、調和されている感じだった。映画『ブレードランナー』や『ブレッドトレイン』的なネオン的な近未来アジアとは違うので、間違ったアジア感というものではなかった。
この映画の世界では「日本」という国はもう存在してないか、中華連邦のひとつに組み込まれているかなと思えた。あるいはアメリカの州に組み込まれているか、どちらにせよ、現状のままでは100年後200年後には「日本」はたぶんなくなっているだろうと思えるので、観ながら「日本」存在してなさそうって思っていた。

なぜジェイクとカイラが中国人の娘をなぜ養女にしているのかは一切描かれない。このジェイクの四人家族は誰も血が繋がっていない家族でもある。もしかすると自然分娩ということは一切なくなって遺伝子をデザインした子供を誕生させられる世界なのかもしれないが、あの辺りのことはわからないがヤンというほぼ人間と変わらないロボットがいる世界だからそういうことはありえる。だとすると人口が適度に抑えられているような環境設定になっているとも考えられなくもない、これから人口は減っていくのでそういうシミュレーションした世界にも見える、そういうリアリティがある。

壊れてしまったロボットであるヤンの記憶をある装置を使って、彼を購入したジェイクや妻のカイラが見ることで彼らが知らなかったヤンの体験してきた(生きてきて見てきた)出来事を知ることになっていく。
他者(他人)の記憶と時間をめぐるという体験、そしてその記憶の持ち主がどんな眼差しで世界を関わる人間たちを見ていたのかを知ることになる。そこに人間と人工知能に境界線はあるのか、違いはあるのか、ということに繋がっているし、観ていて考えさせられる。
映像がほんとうにキレイだし、ジェイクたちが住む家の中の家具や調度品などのデザインなどもシンプルながら美しかった。

前作『コロンバス』は気になったままで未だに観れていない作品だが、制作の「A24」はコゴナダ監督の作家性をめいいっぱい引き出していると思う。そして、ここから生まれた作家性の高い作品たちによって、「A24」が世に放つ作品はそれぞれが違う色や角度や感触を持ちながらも、冒険心を持った新しい映画の可能性を試していっていると感じる。
「A24」は完全に今の映画業界のトップランナーであり、おもしろい作品や監督たちが世に出るきっかけを作っている。今、自分自身にはほとんど野望や夢というのがなくなっているが、いつか「A24」で映像化するような物語や小説を書いて映画化されたらと思う。たぶん、世界中の映像関係者や物語を作る人たちがそう思っているだろうけど。

作中ではUA『水色』のインストゥルメンタルが流れ、懐かしの『リリイ・シュシュのすべて』のリリイ・シュシュの『Glide』のカバーも何度か流れ、最後のエンドロールでも一曲流れていく。これらの曲をかつて聴いている側としてはとても不思議な余韻が残る。このことについてはパンフレットで映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんが「『アフター・ヤン』における日本の音楽家の痕跡とその「ヴェイパーウェイブ」感」にもしっかりと書かれていた。

UA - 水色 



Mitski - Glide (cover) (Official Audio) 

―『アフター・ヤン』はSFでもありながら、コゴナダ監督らしい家族の話になっています。コゴナダ監督にとって「家族を描くこと」にはどんな意味があるのでしょう?

コゴナダ:家族を描くことには、私が人生で葛藤してきたことが表れているんだと思います。

私は、この世界から切り離されているような孤独を強く感じて生きてきました。世界をひとりで漂っているような気分になることが多くて、自分の心を安心させてくれるような命綱がないと感じるときがある。だからこそ、誰かとつながる感覚を求めているのだろうと思います。

一方で、誰かとつながっていることで生じる苦しみもありますよね。つながりを持つと安心感を得られるだけではなく、責任感も伴ってきますし、将来、大切なものを喪失する苦しみも味わうことになります。

この世界にひとりで存在することと、そのなかでつながりを強く求めることによって生じる苦しみ――これは私が現在進行形で抱える葛藤です。

―ヤンがテクノと呼ばれる人型AIのなかでも特別な存在であったのは記憶が残っていたからですね。この作品では、アイデンティティーの拠りどころとして、「出身」や「人種」「血縁」よりもむしろ、「過去の記憶」に重きが置かれているように受け取れました。

コゴナダ:まさに。私がこの映画をつくるにあたって、地域や人種よりもむしろ「記憶」こそが重要でした。私の両親は韓国や日本で過ごした記憶が数多くありますが、私の場合は韓国や日本の記憶はごく幼いときのものしかなくて、大半はアメリカでの記憶で占められています。

だからこそ、そこに葛藤が生じるのです。私たちの記憶は地域や時代に縛られたものなのか、それともそれを超えたものになりえるのか。その答えは私にはわかりません。ただ、アートはその答えを追求するひとつの手段だと思います。だからこそ私はアートが好きだし、アートをつくる側にもなっているのです。

「『リリイ・シュシュ』との共鳴も。A24『アフター・ヤン』監督が語る、現代の孤独と「つながり」の重さ」より

↑ このコゴナダ監督へのインタビューはすごく映画のいいガイドになっていた。インタビューを読んでいくと映画のシーンやセリフ、背景がより深くわかるものになっていた。
彼もアメリカで育ったから自身のアイデンティティが揺らいでいた話とかもあるし、これは今の世界だと移民大国のアメリカ以外の国でも同じような体験をしている子供たちがたくさんいるので、コゴナダ監督作品に出会うことでアイデンティティについて悩んでいることが薄らいだり、自分のそれを確立させるためにアートを始める人もいるだろうなと思う。そういう人たちが先祖返りのように小津安二郎監督にも出会う可能性もあるし、こうやって未来へ繋がっていくんだろうな。

森博嗣著『オメガ城の惨劇 SAIKAWA Sohei’s Last Case』を読み終わる。僕は森博嗣の良い読者とは言えないので、「S&Mシリーズ」を途中まで、「四季シリーズ」、「百年シリーズ」、「Wシリーズ」を数冊、「スカイ・クロラシリーズ」を読んでいる程度であり、「Vシリーズ」「Gシリーズ」「Xシリーズ」などは読んでいない。
今作では「S&Mシリーズの主要人物である犀川創平であろう「サイカワソウヘイ」が登場している。買った時にカタカナにしているからそこに意味があるのだろうなと思ったら、そこは当然ながら意味があり、作品のエンディングなどに関わっていた。正直、読みやすいけどトリックや諸々には驚きはなかった。理由は「サイカワソウヘイ」という名前にあるように思えた。
読み終わってから、森博嗣Wikipediaでシリーズ作品を調べていろいろと納得はした。おそらくこれだけで森博嗣作品をずっと読んできた読者にはネタバレに近いような気はするが、単行本の帯コメントか作品紹介文読んでピンと来るだろうしなあ。
でも、過去のシリーズを網羅している人にはニヤニヤできる感じの作品になっているのは間違いない。過去のアーカイブによってより作品世界に深みを持たせているのは、森博嗣という作家が非常に多作であり、いくつものシリーズが連なってサーガを形成しているからだ。これはほんとうに長年書き続けた人だからこそできる世界観の構築だ。この作品単体で読む楽しみはもちろんあるが、明らかにこれから読み始めても楽しみは少なからず半減する。そもそも重要人物である真賀田四季という存在がどんな人物であり、インパクトはあったのかがわからないので『すべてがFになる』とかは読んだほうがいいとは思う。

 

10月22日
日付が変わってからも宇野常寛著『砂漠と異人たち』の「第二部 アラビアのロレンス問題」を読み進めていた。第二部は第一部の約二倍の文量があるようで全然終わらない気がしていたが、読み応えがあってとてもよかった。
アラビアのロレンス」として有名なT・E・ロレンスについて彼の生涯や英雄でありペテン師であるという評価の話から、ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』のことに話は展開していた。
少し前に講談社新書の『ハンナ・アレント』を買っていたがまだ読めていない、名前は知っているけど彼女の著作を読んだことはないので、ここで出てきていて興味が沸いている。夜に最後まで読み終わったが、宇野さんが前から書かれていたSNSとプラットフォームについてのことが今作でもいくつか書かれていたのでメモ的に引用する。

ロレンスの行動が結果的にイギリスの植民地支配に加担してしまったように、今日のSNSのプラットフォーム上での相互評価のゲームにおいてはスコアそのものを目的化することで、プレイヤーたちは無自覚のままゲームそのものの燃料として利用されてしまう。情報を発信することで、そしてその発信が他のプレイヤーからのリアクションによって数値化され発生したスコアの上昇が承認への欲望を満たすことで、僕たちは百年前にロレンスを破滅させたものと同じ罠に陥るのだ。僕たちはプラットフォームを用いて発信しているのではなく、実のところプラットフォームに発信させられているのだ。
宇野常寛著『砂漠と異人たち』P147より

 たとえば今日の情報社会を観察したときその中核に存在する代表的なSNS――FacebookTwitterInstagramなど――は、吉本の提唱した三幻想の組み合わせで構成されている。プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。シリコンバレーの人々が吉本を参照したなどということがあるはずもない。彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。吉本隆明の提唱した三幻想が人間と人間との間に発生する関係のパターンを網羅し正確に分類するものであったことが、四半世紀後の情報技術によって証明されたと考えればよいだろう。
 そして、いま僕たちはこれらの幻想をコントロールする情報技術によって、吉本隆明のいう「関係の絶対性」の内部に閉じ込められている。
宇野常寛著『砂漠と異人たち』P259より

 前提としてSNS接触的なメディアである。比喩的に述べれば出版や放送が一方的な所有のメディアであるのに対し、SNSは双方向的な関係性のメディアだ。SNSとは触れ合うことを阻害する装置なのではなく、物理的な距離を無視して、人間と人間を触れ合わせる装置なのだ。今日の情報技術は、見る/見られるという一方的なコミュニケーションではなく、とっくの昔に触れ合うことを前提とした双方向的なコミュニケーションが支配的になっている。それは「所有」の原理が支配する眼差しの地獄ではなく、「関係性」の原理が支配する触れ合いの地獄なのだ。
 見る/見られることを前提した所有から、触れ合うことを前提とした関係性へ――情報技術の進化は、僕たちの社会を支配する原理を書き換えた。そして、この触れ合いのもたらす生成こそが、フィルターバブルによって閉じ込められた共同体をもたらすのだ。しかし、僕たちは二〇世紀に、所有の原理に、見る/見られることが支配する世界に回帰することはできない。より自由な社会と多様な表現を求めたとき、一方向の情報発信しか許されない時代に回帰することはできないし、何より僕たちは既に情報技術によって、あらゆるものに、そしてモノだけではなくコトに触れる欲望を覚えてしまった。したがって問題は、触れ合うことで生成する共同体をどう開くか、という次元にあるのだ。
宇野常寛著『砂漠と異人たち』P268-269より

「第二部 アラビアのロレンス問題」から「第三部 村上春樹と「壁抜け」のこと」、最後の「第四部 脱ゲーム的身体」を読むと、ロレンスと村上春樹における「速さ」の話がうまく結び付けられていて、最後に繋がっていく。ロレンスの失敗と村上春樹の暗礁に乗り上げてしまった原因を宇野さんは論じていく。そして、情報社会の中におけるゲームと「速さ」にどう対処するのかという話が「第四部」で語られる。
「脱ゲーム」とあるように、昨今のSNSやプラットフォームに僕らが参加してしまうそのゲームから降りることが提案されている。僕もそのことに同意するし、今までの宇野さんの著作を読んできてそう思っている。
個人的には9月末で「水道橋博士のメルマ旬報」が廃刊になったことで、そこに参加するきっかけだったツイッターもほとんどやらなくなった。意図的にそうしようと思ってそうしている。個人的にはここで書かれているようにそれらのゲームに参加したいという欲望はほとんどなくなっている。
たとえば、このブログもはてブというプラットフォームにアップするのだから、そこに囚われているしその形式によって書かされている部分はある。だが、タイムラインでは基本的には流れない。そして、検索してもここに書かれている事柄にはなかなか辿り着かない。たくさん読まれているわけでもないから、検索エンジンアルゴリズムではこの日記自体もこのページもなにかの単語を検索しても上位に来ることはない。だが、それでいいと思う。
村上春樹と「壁抜け」のことに関しては、村上春樹作品における主人公の「僕」は女性たち(母性)の庇護によって、「壁抜け」することができ、時代や空間を飛び越える超常的な力を持つことができ、また性的搾取という部分は確かに否めない。それは宇野さんが前から書いてきたことであり、大人になる(責任を持つ)主体であるはずの「僕」は誰かに殺人などを代行してもらい(通過儀礼的なもの)ながらも、自分は女性とのセックスなどの快楽は自分が行う。そして、主人公と関係を持った女性が現実世界では『羊をめぐる冒険』に出てくる「羊」に連なる「悪」的な存在と対峙することになる。
この辺りは大人になりたくない、責任を取りたくないと「母性」のスカートの中で遊び続ける男の子であり、高橋留美子作品における諸星あたるやヒロインがいないと空を飛べない宮崎駿作品の主人公を彷彿させる。宇野さんの提唱した「母性のディストピア」でそれらは詳しく書かれている。
ロレンスと村上春樹というふたりの人物を取り上げることで、彼らが取り込まれてしまった、あるいは抱いてしまった「速さ」という罠、そして、「遅さ」ということから世界の見え方を変えながらも、どう接続(コミットメント)していくかを「庭」という概念から宇野さんは考えていこうとしている。『群像』で連載中の『庭の話』に繋がっている、この書籍が前作にあたるというのもよくわかった。

10月23日
起きてから散歩がてら昼ごはんを買いに三宿のほうにあるスーパーに行く。途中の緑道に出ようとしたらこの猫が見えた。何年も歩いている緑道や地域なのでそこにいる猫はほとんど見たことがあるはずなのだが、この猫は見かけたことがなかった。成猫というほど大きくもなく、ぱっと見は仔猫よりも少し大きいぐらい。耳にも不妊手術したあとの切り込みみたいものもなかった。
地域猫ということで野良猫の不妊手術をしていった結果、仔猫が生まれなくなっていき、普段から歩いている自分としてはこの数年で成猫や年老いた見慣れた猫しか見ることがなくなっていた。仔猫はほとんど生まれない状況になっていたのもあって、この猫を見てちょっと驚いて久しぶりに猫の写真を撮った。
近づいているとサッと距離を取りつつ逃げているから、人に慣れている感じでもない。飼い猫で外に遊びに出ているだけかもしれないけれど、野良猫の可能性もちょっとある。石原慎太郎都知事時代に東京からカラスは減ったが、この十年ほどで東京から猫も減った。同時に狸やハクビシンが都内にもどんどん現れるようになった気がする。
東京に暮らすようになって、カラスや猫について興味を持つきっかけは古川日出男作品を読むようになったことや歩くようになったからだった。だから、以前書かれた小説に出てくる東京やそこにいるカラスや猫たちの状況と今では違うものになっている。だから、フィクションだけど、ドキュメンタリー的な部分がある。
毎年元旦は『サマーバケーションEP』の聖地巡礼のように井の頭公園神田川の源流から神田川沿いを歩いて、隅田川まで出てそこから晴海埠頭まで歩いていたが、それは東京五輪が終わったその後の元旦までと決めていたので今年の元旦に終わった。今年は家でのんびりしようと思っていたけど、なんとなく『LOVE』の舞台である目黒川沿いを歩いて天王洲アイルまでで東京湾に出るのもいいなと思い始めている。家から天王洲アイルまで歩いても二時間ちょっとだし、晴れていれば歩こうかな。


小松理虔著『新地方論 都市と地方の間で考える』を帰り際に書店で購入。『ゼロエフ』取材時に福島県いわき市を案内してもらったのが理虔さんだった。理虔さんは地方にいながら行動と思考をしながら、未来への可能性をいろいろ試みている人なのでこの新書も読みたいなって思っていた。


宇野常寛著『砂漠と異人たち』を読み終えてから、大塚英志著『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』を引っ張り出した。

田河は自らの読者を義勇軍に勧誘するだけでなく創作の指導を行っていたわけだが、それは読者との交流という美談には当然、収まらない。繰り返すが「素人」の創作者の育成は、戦時下の重要政策であり、満洲においてはまんがは文化工作の手段として意識され、「満洲の特殊性に鑑み、当局として日満漫画家を積極的に養成する必要」(今井一郎「漫画と宣伝」「宣撫月報」1938年9月号)が説かれていたものである。

戦争中に『のらくろ』が果たした“知られざる役割”…“まんが”は戦争にどのように利用されたのか 『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』より #2

大塚さんが過去のツイートをRTしていたのもあるのだが、買ったまま最後まで読んでいなかった。上記にあるように「文春オンライン」で自分が興味のある田河水泡が描いた「のらくろ」については触れられていて、それを読んだから新書も読んだ気になってしまっていた。

今、小説として田河水泡のことを「のらくろ」から語り直すというものを書いているけど、それは田河水泡が漫画家になるまでの高見澤仲太郎だった頃のアヴァンギャルドな青春期や青年時代の話なので、ここで取り上げられている田河水泡が「戦争」に協力してしまった(のちに彼はかなり後悔しているが)話は小説には関係ないけど、今読むのがちょうどいい時期、タイミングなんだろうなって感じる。
『砂漠と異人たち』でSNS的なゲームから降りるという話は、『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』で書かれている「プロもアマチュアも動員される」という部分と繋がっている部分が少なくともある。昨日寝る前に第一章は読んだので、今日は「第二章 満蒙開拓少年義勇軍田河水泡・坂本牙城のまんが教室」を夕方の仕事までに読みたい。

今月はこの曲でおわかれです。
Beck - Old Man (Audio) 

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年8月24日〜2022年9月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年09月掲載 小説『セネステジア』


先月の日記(7月24日から8月23日分)


8月24日

中上健次著『現代小説の方法[増補改訂版]』を読み始めた。数日前に『仕事でも、仕事じゃなくても 漫画とよしながふみ』を買いに行ったら、出ていることに気づいて購入していた。
講座での小説作法の語り下ろしと「音の人 折口信夫」、「坂口安吾・南からの光」を増補している。語り下ろしは話がいろいろ飛んでいる気がする。構成をかなりしたんじゃないかなって思わなくもないけど、当時第一線にいた中上だからこその発言というか小説をどう書くのかという話はおもしろいし、その先の景色を見せてほしかったと思った同世代の人や少し下のリアルタイムで彼の作品に触れていた人たちは思ったんだろうか。

 本当は、短篇小説も長篇小説もはっきり違いがある。短篇小説は詩に近い、長篇小説は叙事詩とかね、そういう言い方もちょっと違う。長篇小説というのは、基本的に構造を支える、構造の中に内在する運動みたいなもの、それが大きく違うんじゃないかという気がする。序破急とか、起承転結、これは構造の中で成り立つ運動とか速度とか現れるんだけど、それが速度であるんだけど、力を発揮すると構造みたいな形になって、それは形で言えば、四つの形でできるんじゃないか。これは『枯木灘』を書いたときもこんなこと考えたんです。作家の秘密だけど、自分のノートを買ったら、四つに割るんですよ。第一部、二部、三部、四部とこういうふうに割っちゃうんですよ。これがどんなふうに展開するだろうと、『枯木灘』の時は一番嬉しかったんですよね。それを書けるのが嬉しかったから、本当の物語の構造そのものみたいな、これは運動であり、運動がこういう形になってくると構造として見えてくる、構造としての働きをするっていうことなんです。
 物語というものをほとんど疑いなしに、疑うような物語を書ける、そういうことなんです。例えば主人公がいて、長篇の場合はこれが最後に変化する。突き動かされて、これが何度も変化する、そういう構造なんですね。主人公がここにいた、それが変化するために、何をもってくるかというと、対立する人間が要るんです。対立する人間をもってくると一番分かりやすい。対立する人間、動かすものを対立させて捉えていく。対立させようと思ったとたんに、対立には誰が要るか。たとえば融合みたいな形で、副主人公を迎えるんです。それで変化の過程がずっとあって、ある形で迎えるということ。対立という形になると、例えば弦を、琴でも、ギターでもいいんだけど、ボーンと弦を弾く。その弾く行為として、弾く道具として、対立項を、ある人物とある人物が対立するようなものを書いていこうと思っていたんです。
 対立する相手というのは誰なのか、決定されているんです、常に。相手というのは、父であり、悪であり、決定されているんです。父であり、悪であり、自然であり、神でありと、それで決定されるんです。何故かと言うと、これは小さい神である、小さい子どもです。みなし児、私生児である。これは主人公として決定されているんです。すると当然、ドラマチックにこうやっていこうと、対立と考えたとたんに、この相手が、悪であり、父、そういう者であり、じぶんより先にあるもの、そういう形になってるということなんです。それが、秋幸の場合においては、基本的には先行する作品--ギリシャ悲劇や旧約的なもの、カインとアベルの物語だとかを含んでいたから余計、この対立でもまた、長篇小説を導く時のモチベーション、対立を持ったとたんに、当然父になり、悪になり、浜村龍造になり、同時に彼が見果てぬ夢みたいに見ている仏の浄土でも、同時にそれがバックに支え持っている、われわれの文化の頭の中にパックされている、叙事詩的な世界という形になります。
 これはいろんな形で、長編小説の構造というのは、姿を変える。構造が装いをするというか、恋愛小説でも、犯罪小説でも、あるいは若者たちの物語、『コインロッカー・ベイビーズ』(村上龍)なんていうのは、これじゃ完全にみなし児、私生児ですね。コインロッカーに捨てられて、次々に成長して展開していく、そういうドラマです。変化していって、途中で事件が起こる。そういうふうになっている。これが長篇小説の方法なんです。じゃこれで短篇小説が書けるかというと、書けない。お分かりでしょう。なんでだめか、だって枚数がないのもの。こんな悠長なこと、こんな大掛かりなもの、枚数五十枚で書けなんて無理だもの。そうすると、それと拮抗するような、長篇小説には長篇小説の構造っていうのがあります。
中上健次著『現代小説の方法[増補改訂版]』P101 – 104より

対立するものとしての父や悪、神というのは中上健次村上春樹という作家が描いてきたものであり、納得もできる。しかし、現在は対立するはずの大きな存在が作りにくい、実は敵でもなく、敵ですらなかったということもあるせいで、その対立構造は難しいものとなっている。とくにわかりやすい英雄譚とか以外では。
当然のことだが、中上健次が生きていた時代よりも今の方が複雑になりすぎているということを読んでいて感じた。でも、物語というものの基本形はそうなっているので、伝えやすいものとしてそのパターンがなくなることはないと思う。白か黒でどんどん分断していってしまう世界では複雑性に耐えられなくて、拒否するためにわかりやすい物語パターンで世界を捉えてしまう人はそれなりにいるのだとは思う。陰謀論とかQアノンとかポストトゥルースとか、世界だけではなく日本でも同様に。

23日に放送された『マツコの知らない世界』であだち充さん、浅野いにおさん、そして、田島昭宇さんと、僕が好きでほぼ全作品を持っているはずの漫画家さんたちが紹介されてうれしかった。ナイスセレクト。
僕は王道ジャンプ大好きな人ではないし、『ワンピース』も連載始まった最初の頃はまだジャンプ買ってたから読んだ記憶がわずかにあるけど、チョッパーぐらいまでしかわからない。『幽遊白書』はリアルタイムで読んでたけど、『ハンター×ハンター』は正直一話も読んだことがない、みんながあまりにも勧めすぎるから読む気がなくなったのも大きな理由ではあるが。
最近は「オールナイトニッポン」を聞くとマヂマブもEXITもほかの芸人さんとかもワンピースかハンターハンターや『呪術廻戦』の話や考察をすることが多くて、みんな好きなんだなって思う。単純に読んでないのは絵が好きじゃないからなんだけど、これだけ大人気だから伝わらないだろう。それらがかつての『北斗の拳』や『ドラゴンボール』的な位置になっているから、わかっていないとなんのことだかわからないという状況になってしまう。それもあって、読んでみようかなとたまに思うけど、なにか踏み込めない。
ジャンプでもないしマガジンでもないのでサンデー的な人間であるのは自覚しているけど、絵柄というか線が好きになれるかどうかってことはあるから、好きな漫画家さんってのはどうしても多くはならない。
読むには読むけど好きではない線の作品は家には残さないから、一部の漫画家さんのものだけが残るってことになるけど、みんなそういうものなのだろうか。


宮嶋茂樹著『ウクライナ戦記 不肖・宮嶋 最後の戦場』をご恵投いただきました。送っていただいた目崎さんありがとうございました。
西島大介さんがベトナム戦争を描いた漫画『ディエンビエンフー』の中で主人公のヒカル・ミナミは米軍陸軍の報道部のカメラマンだった。作中で米軍の腕利きのスナイパー・インソムニアとヒカルの会話の中で「一流のカメラマンなら一流のスナイパーになれる」みたいなやりとりがあったのを覚えている。
一発の銃弾が戦況を変える、一枚の写真が時代を変える。そのためにはその時その場所にいなくてはいけない。それがもっとも大事なことで、ネットが繋がれば繋がるほどに、コロナパンデミックが終わらないことで、よりリアルの価値が高まっている。いや、再認識することになった。
カメラはどんどん小さく高性能になっていき、誰もがスマホで高画質の写真を撮れるようになって、プロではない人でもその場にいれば決定的な、衝撃的な写真や動画を撮れるようになった。そのことから始まることや変化の兆しはもちろんあるのはわかる。
だが、自己愛を増長させる鏡。セルフィーとしての現代の三種の神器であるスマホは自己愛を増長させ続ける。自分とその周りを撮ることで、他者と知らない世界との境界線を引いていく。
他者の物語よりも自分の物語に耽溺してしまう可能性が増えるし、「ひとりで死ね」のような言葉が平気で放たれる世界を助長することにもなっているのだろう。これらのイメージはJAZZ DOMMUNISTERSのリリック、菊地成孔さんの影響があるのだと思う。
もちろん、自己愛は悪いことではない。誰もがメディアになる時代は顔を出したり、表に出ることでファンを作るのがマイ市場を作ることになる。スマホが当たり前にあり、幼少期から撮られることが、自分で撮ることが当たり前の人の自己愛とそれ以前の人では感覚も違ってくるのは簡単にできる予想だ。
カメラが、写真や動画を撮るということ自体が暴力性を孕んでいるという認識があるか、ないかというのも個々人で違うのだろうけど、僕はそれを認識している人が撮るほうが届くように思えるし、信頼できると思っている。まだ読んでないから感想でもなんでもないことを書いてしまった。

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年8月23日号が配信されました。今月は廃刊になるのでその気持ちについて書きました。『owari no kisetsu』というタイトルはrei harakamiの曲から。今まで一番短いんじゃないかな。来月の最後の連載は最長にします。


8月25日

朝晩とまったく仕事を入れないようにしている木曜日。起きてから銀行に行って、その帰りに書店で石沢麻依著『月の三相』を購入した。
石沢さんは「群像新人文学賞」を受賞したデビュー作『貝に続く場所にて』で、そのまま芥川賞を取っているので、この『月の三相』は二作目になる。まず、装幀がとてもいいので気になっていた。単行本を買ってみるとやはり装幀は川名潤さんが手がけられていた。こういう装幀が増えるといいんだけどなあ、減っていってる気がなんとなくしている。


Pityman『ぞうをみにくる』をカフェムリウイにて鑑賞。
祖師ヶ谷大蔵はじめてきた。ウルトラマン商店街ってあるから円谷プロダクションがあるのね&木梨サイクルが近くにあった。とんねるずのノリさんの実家ってここなんだと思いながら、カフェに向かう。
知人の藤江くんが出演していたので観に来たが、ほぼ二人芝居だった。

動物園の待合室を舞台に、象の飼育員の幹介とその恋人・弥生の姿が描かれる。幹介は、象のハナコのために、弥生が住む場所から遠く離れた動物園で働いている。弥生はそんな幹介に「こんな動物園辞めて帰って来てほしい」と頼むが、幹介の態度は要領を得ず……。

という内容だが、弥生が感情豊かというかエキセントリックな感じがあり、多少メンヘラぽさもあり、なんか内容と関係とこで懐かしさを感じた。ゼロ年代には幾度となく見てきたキャラクターだが、この数年はあまり見ていなかったような。僕が見てなかったからキャラクターとしては定着してたのかな。
弥生が引っ張らないと話が動かないので、会話と行動で幹介を揺さぶらないといけない。二人がどんどん揺れていくと真実と揺るがないものが表出してくるという展開。
藤江くんは受け手なのだが、後半は感化されたように感情を出す役柄。
象がなにかのメタファーみたいな感じかな、と思ったらわりと実存としての存在として二人の関係性に影響を与えるものとしてあった。東日本大震災後の話でもあるから、少しだけ飴屋さんの『ブルーシート』のことを思い出した。
帰りは小田急豪徳寺まで戻って、世田谷線で帰ろうと思ったけど、豪徳寺から家までのんびり歩いて帰った。
地図アプリを見ながら夜とか馴染みのない町並みや道路を歩いていると不安ということはなく、どこか解放されたような気持ちになる。アプリで表示されている地図を見ているから家の方角はわかっているから安心感はあるし、何日もかかるような距離じゃないから散歩の延長線というところもある。夜の散歩のほうが家に帰った人たちの生活の営みが漏れ出している感じがするのもいい。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年09月号が公開されました。9月は『さかなのこ』『百花』『LAMB/ラム』『マイ・ブロークン・マリコ』を取り上げました。

 

8月26日

昨日、祖師ヶ谷大蔵に行くまでの電車の中で『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』の最初の一編であるマルケスの代表作でもある『大佐に手紙は来ない』を読んでいた。
何回か読んでいる作品だけど、老夫婦のやりとりと大佐が求めるものは失われてしまっていること、などもあるが、舞台になっている時代がコロンビアの「暴力の時代」と呼ばれた頃で、政治的混乱とテロリズムが横行していたというのは、今の日本にも通じているようにも思えた。あとマルケス版『ゴドーを待ちながら』の変奏曲みたいなとこもあるし、魅力的な短編だと改めて思った。
この文庫版は買ってから訳者あとがきだけを読んで放置していた。数年前に『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語 ガルシア=マルケス中短篇傑作選』という単行本が出ていて、その時に買って読んでいた。
この文庫版は改題されて収録されている『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』が表題から外されているので、あれ、別の短編集なのかなって思って買ったら、改題して文庫版あとがきだけが追加していただけだった。
海外の小説がこれだけ翻訳されて読める日本という国の豊かさであり、他国から見れば本当に贅沢なことだ。これからは日本という国の経済的な凋落とか貧しさとかなどの問題でどんどん新しく翻訳されることが難しくなってくるだろうなと思う(同時に翻訳された本を読む人も減ってくるだろうから)ので、興味ある作家のものは旧訳が好きなら新訳が出れば買っておかないといけないなとは思う。
これを読んだら、今連作っぽく書いている作品のひとつは元々出すつもりだった老夫婦をメインにして、このオマージュ的なことをしたくなった。ずっと届かないものを待っている老夫とそのことをあえて口にしない老婦のシーンを他のところの対比として出すのはいいのかもしれない。今の日本的な象徴として。

夕方に実家から送ってもらったお米が届いてから、駅前に買い物に出た。茶沢通り近くの駅に抜ける方の細い一通の道の方を歩いていたら、キャロットタワー方向から老夫婦らしき男女がゆっくりと歩いていた。おばあさんのほうはシルバーカーというのか、手押し車の持ち手を両手で掴んで体重を預けるような形でゆっくりと歩いていたが、途中で足腰が悪いのか崩れるように地面に倒れてしまった。
ちょうど横を通り過ぎるぐらいだったので、声をかけてなにか手伝おうとした。近くには二十代後半ぐらいの男性がいてその人も「大丈夫ですか」と声をかけてきた。おじいさんのほうは「しっかりしろ、立て」と腕を引っ張るようにして立ち上がらせようとしていたが、おばあさんのほうは疲れているのかシルバーカーにも手を伸ばさずにいた。倒れたままではなく少しだけ体を起こした形にはなったが、ひとりで立ち上がるのは難しそうだった。
二十代後半ぐらいの女性がキャロットタワーの方から歩いてきて、声をかけてきた。「どうしたんですか?」と聞かれたので、歩いていたら体勢を崩して転ぶ形になってしまったと伝えた。彼女はおばあさんに「大丈夫ですか」と声を優しくかけて、おじいさんにも「何か手伝いますか」と声をかけた。
おじいさんは腕を引っ張ってなんとか立たせようとするのだが、おばあさんはあまり力が入らないようだった。言葉もあまり出てこないから、痛いところがあるのかもわからなかった。倒れたところは車道の部分だったのが車は来ていなかったので、とにかく歩道のほうに動いてもらうほうが安全だという話になって、シルバーカーにはイスみたいに座れるところがあるので、そこになんとか座ってもらおうということになった。
おじいさんが言うにはおばあさんは痴呆症が始まっていて、あまりよくわかっていないらしい。そして、今日はキャロットタワーでのワクチン接種の四回目に行ってきた帰りのようだった。もしかするとワクチンを打った後だから力があまり入らないとかもあるのかもしれないが、実際はどうなのかわからない。そこから彼女がおばあさんの背中にまわって抱えるように立たせてあげて、僕はシルバーカーの向きを変えて、みんなでおばあさんをなんとかシルバーカーに座らすことができた。
おばあさんからは少しだけおしっこのような匂いがしたように感じた。さきほど痴呆症がひどくなっていて、寝たきりであまり歩いていなかったとも聞いたが、転けた時に漏らしているのかもしれない。だけど、そのことも伝えられないし、自分でもわかっていないのかもしれない。
おじいさんは僕らに「大丈夫だから行ってください」と言うのだが、どう考えてもそのまま放置しておくのは危ない。おじいさんはどうしようもなさとかおばあさんへのある種のいらだちみたいなものを出していたので、余計に離れにくかったということもある。
「いい加減に立ってくれよ、みんなが迷惑してるだろ」と少し声を荒げてまた腕を引っ張ろうとした時に、そこにいた僕ら三人はほぼ同時に「迷惑じゃないから大丈夫です」とそれぞれが言った。二十代の女性は「怒らないであげてください」と付け足していた。おそらくおじいさんにはこういうところを見られていることやこの状況が恥ずかしいという気持ちだったのだろう。それは無意識なのだろうが、僕らにもわかった。おじいさんは何度か困ったような顔でお礼を言った。もう大丈夫だからここで少し休んでから行きます、と。微妙に車道ではないが、車道寄りの歩道だったので、もう少し動いてもらったほうがいいのかもしれない位置だった。
老々介護というのは大変なことだし、特に上の世代の男性というのは家父長制にあぐらをかいてきたので、家事関係などを任せてきたのでできない人が多いし、こういうケアという時にはじめて体験することがあっても、そのことを相談する人がいなかったり、助けてもらえなかったりして、その困惑とか怒りみたいなものが介護する相手に出たりもすることがありそうだなと感じた。だから、あの時、見ず知らずの三人が「迷惑じゃないです」と言うのは世代的なものもあるだろうけど、そう言わないとこの状況は悪くなるということを無意識に感じたからということもあったと思う。
二十代の男性はスマホに電話がかかってきたのか少し離れたところにいった。女性もさきほどから何度かスマホの画面を見ていた。僕もこのまま駅前に行こうかと思ったが、このままで大丈夫かなと思っていると、彼女が「私時間あるので用事があるのなら行ってください」と僕に言い、老夫婦に「もしよかったらこのまま近いようでしたら一緒にお家まで行きましょうか」と言った。めちゃくちゃいい人だと思って、ちょっとびっくりしていると「彼氏も近くにいると思うので近いなら行きますよ」と付け加えた。
マスクはしているが確かに顔は整っているように見えるきれいな方だったが、その言葉を聞いて僕は二つのことを思った。マジでいい人だし、そりゃあ彼氏がいるわな、と。そして、彼女は無意識なのか意図的なのか去りにくそうにしている僕へ彼氏いるからというある種のガードをしたようにも見えた。たしかにずっといるとそれはそれで彼女へ迷惑なことになりかねない、そういう可能性もゼロではないと判断して駅前の方に向かった。

 

8月27日

イターシャ・L・ウォマック=著/押野素子=訳/大和田俊之=解説『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』

――映画『ブラック・パンサー』の公開は、アフロフューチャリズムにとって最大の出来事だったと思いますか?

「最大の出来事とは言わないまでも、転機になったとは思います。まるで宇宙に飛び出していくロケットのようでした。あの映画の成功のおかげで、ブラック・スペキュレイティヴ・フィクションやアフロフューチャリズムに関わってきた私たちのステージが上がり、そのおかげで会話がスムーズになったんです。テレビのプロデューサーや出版社と話す時、『ブラック・パンサー』のようなアフロフューチャー系の作品だと言えば、何の話か分かってもらえるようになりましたからね。数年前までは……いや、数年前ですらなかった。映画が公開される数週間前に、ある出版社の人間に連絡を取って、自分の作品を見せていました。『ブラック・パンサー』が公開された日、私のプロジェクトに興味はないという彼からのメールが届きました。ブラック・スペキュレイティヴ・フィクションのプロジェクトだったのですが、彼は私の作品にはオーディエンスがいないと思っていました。『ブラック・パンサー』の公開日にそんな返事が来るなんて、なんとも皮肉な話だと思いましたね。今はオーディエンスがいることを説明して、『ブラック・パンサー』を例に挙げれば、それだけで話が通じるようになりました」

「アフロフューチャリズムでは、世界は破滅に向かうのではなく、既に破滅した世界を再建していく話なので、そこには希望があるのでしょう。再建していくなかで紆余曲折はありますが。普通のSFとはそこが少し違うのではないかなと思います。コミュニティを大切にする点や、人間の精神のしなやかな強さにもインスピレーションを感じられるはずです。それから、アフロフューチャリズムに触れると、すべての文化が時間と空間との関係を持っていることを再認識させられます。あらゆる文化が、未来や時間という概念と関係を持っているのです。アフロフューチャリズムが人気を博した後、ほかの文化圏の人も、『ちょっと待て、我々も自分たちの文化的な観点からフューチャリズムを見ているぞ』と言い始めたのです。」(『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』著者インタヴューより)

『ブラック・パンサー』で主人公のティ・チャラ /ブラックパンサーを演じたチャドウィック・ボーズマンは残念ながら亡くなってしまったが、11月に続編の『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が公開されるのがすごくたのしみだし、王がいなくなった物語をどう展開してケリをつけるのか、もちろん王がいなくなれば、次の王が生まれて新しい物語が始まるのだろうけど、それをしっかり見届けたい。


ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』はMCUフェーズ4の最後の作品となるらしいが、アベンジャーズも含めて僕がずっと何年もMCU作品を観ていなかったのは、単純に「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」「ソー」というメインキャラのデザインがダサすぎて見たいと思えなかったことが大きい。
興味を持てたのはフェーズ2の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』からだったし、その後もシリーズでちゃんと見たのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と『スパイダーマン』という感じだった。その中でも『ブラックパンサー』はビジュアルも音楽も全部がおもしろく感じて次作をたのしみにしていたので、主人公が亡くなってしまった世界をどう描けるのか、描こうとしているのかが気になるし、現実で起きたアクシデントと悲しみをどうフェイクションの中で昇華できるか、希望に繋げることができるのかはすごく重要だと思うし、作り手たちの意思表示となる。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』はMCUフェーズ4の最後の作品となるらしいが、アベンジャーズも含めて僕がずっと何年もMCU作品を観ていなかったのは、単純に「アイアンマン」「キャプテン・アメリカ」「ソー」というメインキャラのデザインがダサすぎて見たいと思えなかったことが大きい。
興味を持てたのはフェーズ2の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』からだったし、その後もシリーズでちゃんと見たのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と『スパイダーマン』という感じだった。その中でも『ブラックパンサー』はビジュアルも音楽も全部がおもしろく感じて次作をたのしみにしていたので、主人公が亡くなってしまった世界をどう描けるのか、描こうとしているのかが気になるし、現実で起きたアクシデントと悲しみをどうフェイクションの中で昇華できるか、希望に繋げることができるのかはすごく重要だと思うし、作り手たちの意思表示となる。

結局MCUフェーズ3以降はディズニープラスでのみ見れるドラマシリーズも増え始めてきたので、追いかける気はなくなってしまった。映画館だけで完結させてほしいし、映画館で観たいという少数派だというのもわかっている。
だが、メディアミックスとシェアワールドをいろんな媒体に跨ってやるようになると、胃もたれするというか、それをKADOKAWAになる前の角川書店大塚英志×田島昭宇「MADARA」サーガで体験していたこともあって、お腹いっぱいってなるところもある。
結局、ビックリマンシールの後ろに書かれた物語の破片を集めるような、「物語消費論」から何十年も経っても、消費させるためにはそうなってしまうし、結局資本のデカいところに集中して、新興のところであろうがインディーズであろうが飲み込まれていく。いろいろ考えちゃうから純粋にたのしめないところがある。でも、売れなきゃ届かない人がいるし、場所がないと次のものも生まれない。自分の中では堂々巡りになる。

「アフロフューチャリズム」と呼ばれるものの中で、『ブラックパンサー』の衝撃というのは人種を超えて届いていたと思ったし、世界的に多くの人がイメージできるエポックなヒーローとしてブラックパンサーは認識された。そして、その舞台となったワカンダの自然と化学文明の奇跡的な融合はまさにSF的なユートピア的な未来予想図だったのだと思う。
『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』は単行本のデザインもいいなと思ったら、ブックデザインは加藤賢策さんだった。さすがだなって思って手に取った。

 

8月28日

ジョーダン・ピール監督『NOPE/ノープ』をシネクイントにて鑑賞。
この二日ほど『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』を読んでいたからSF的なものとホラー的なものと監督が撮り続けてきた黒人を主体(主人公に)にしたものとの融合をさらに楽しめたちと思う。

ゲット・アウト」「アス」で高い評価を受けるジョーダン・ピールの長編監督第3作。広大な田舎町の空に突如現れた不気味な飛行物体をめぐり、謎の解明のため動画撮影を試みる兄妹がたどる運命を描いた。
田舎町で広大な敷地の牧場を経営し、生計を立てているヘイウッド家。ある日、長男OJが家業をサボって町に繰り出す妹エメラルドにうんざりしていたところ、突然空から異物が降り注いでくる。その謎の現象が止んだかと思うと、直前まで会話していた父親が息絶えていた。長男は、父親の不可解な死の直前に、雲に覆われた巨大な飛行物体のようなものを目撃したことを妹に明かす。兄妹はその飛行物体の存在を収めた動画を撮影すればネットでバズるはずだと、飛行物体の撮影に挑むが、そんな彼らに想像を絶する事態が待ち受けていた。
ゲット・アウト」でもピール監督とタッグを組んだダニエル・カルーヤが兄OJ、「ハスラーズ」のキキ・パーマーが妹エメラルドを演じるほか、「ミナリ」のスティーブン・ユァンが共演。(映画.comより)

何度か笑っちゃったけど、「エヴァ」好きなら楽しめるんじゃないだろうか。監督自身が『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』からの影響を公言しているけど、UFO的な今作における謎の物体の最後の方に出てくる姿はもろに「エヴァ」の使徒だし、『シン・ウルトラマン』のゼットン的なものを感じさせる。
ネタバレしていても楽しめる作品だとは思うが、大画面で見る方が謎の物体と舞台になっている牧場の広さもよくわかるはず。しかし、あのキャラクターや行動がどういう意味を持っているのか、批評のしがいがありそうな内容だった。一回観ただけだとわからないことばかりだ。
UFO的な空飛ぶ何かが実は円盤とかのエイリアンが乗っている飛行物体と思わせてからの、実はひとつの巨大な生命体である種捕食者であるというのがジョーダン・ピエール的だった。
映画の最初の始まりの部分から始まるこの作品はその物体を撮影するためのチームのようなものが組まれるが、それは手元のスマフォばっかり見てるんじゃない、その先の空を見上げろって言っている感じもした。電子機器がその物体が近づくと停止してしまうから、カメラマンの一人は手動の手回しで起動するフィルムに撮影するカメラを持っている。デジタルとの対比でもあるが、同時にフィルムに撮影しているとデジタルと違って、他者に撮影しているものを同時には共有できない。そういう対比もしっかり描かれていた。
この作品は「見る/見られる」「撮る/撮られる」「ある者/ない者」なんかの要素がいくつかの層になっていた。そこに監督が描く差別とかの構造とSFでありホラーの要素を混ざり合うことでフィクションだけど、それ故に現代的な視線を担保できるリアリティがあった。でも、壮大なアイロニーを含んだコントにも見える。知性と批評性のある物語はどこかコント的なものになっていくという気がする。


クラファンで参加していたのでリターンとなっていた『igoku本』が届いた。『ゼロエフ』取材時にいわき市の紹介と案内をしてくださった小松理虔さんと江尻浩二郎さんがメンバーというので読んでみたかった一冊。しかし、分厚くていい。鈍器って感じがする本。

 

8月29日

宮崎智之著『モヤモヤの日々』が発売になっていたので購入。
宮崎くんの新著、最新型日記文学。連載中は書籍化したら読もうと思ってあえてリアルタイムで追いかけていなかった。このズレた時間も現在と重なる(つながる)ことでこれから読む際の豊穣さになるといいな。

物理学者でミュージシャンのステフォン・アレクサンダーは、ジャズ界のレジェンド、ジョン・コルトレーンの『Giant Steps』(一九六〇)が、アインシュタイン相対性理論を聴覚的・物理的に図式化したものであると、TEDトークで明かした。アレクサンダーはコルトレーンが描いた図を偶然発見し、それが量子重力論を幾何学的に描いたもので、曲中の音符やコードチェンジと一致していることに気づいた。この発見が口火を切り、音楽と量子物理学の類似性について研究が進み、アレクサンダー率いるチームは、西洋の音階がDNAの二重螺旋に似ていることを発見した。
『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』より

JOHN COLTRANE - GIANT STEPS (2020 REMASTER) [FULL ALBUM]



いくつかの小説が日本で映画化されたが、アメリカで公開されたものはない。彼の作品は、中国と韓国で翻訳されており、高い人気を誇っている。

伊坂の小説がまだ英語に翻訳されていなかった時点でも、彼の作品のなかにはアメリカ人に(というか少なくともハリウッドに)受ける要素がある、と日本の批評家たちは気づいていた。彼の小説のなかには、登場人物のしゃべり方が「まるでアメリカ映画の会話を日本語に移しただけのよう」なものがある、と批評家の佐々木敦は言う。

「日本人がハリウッド映画の吹替版を観ていると、会話が非常に不自然に感じてしまうことがあります。それを常に連想させるのが、伊坂の作品とその登場人物の会話なのです」

ハリウッド映画化で注目を集める伊坂幸太郎が「米紙に語ったこと」

伊坂幸太郎ファンだし、予告編を見ても面白そうな感じだし、『アトランタ』のペーパーボーイも出てるし、IMAXとかで観たい。
IMAXなら新宿か日比谷のTOHOシネマズで観る感じだろうな、公開初日は木曜日で休みだから朝イチで行きたいからチケットを取らねば。


ニコラでアルヴァーブレンドとガトーショコラをいただく。外に出て誰か話したり、一緒の時間を共有することはほんとに大切だと思う。必要な一服。

 

8月30日

朝起きてから歩いて渋谷PARCO内にありホワイトシネクイントへ。壁に飾られている公開作のポスター。
『アフター・ヤン』『LAMB ラム』『ZOLA ゾラ』は「A24」制作&関連作品であり、前から「A24」作品はホワイトシネクイントでやっていることが多い。前に観た『X』もそうだったりするので、僕がよく来る理由になっている。あと、ここにはないが、前年アメリカでは公開されている映画『グリーン・ナイト』はTOHOシネマズシャンテで公開らしい。ホワイトシネクイントでもやってほしいんだけど、どうだろう。


ジャニクザ・ブラヴォー監督『Zola ゾラ』 をホワイトシネクイントで鑑賞。
A24製作ということで気になっていた作品。ちょうど朝イチの10時から上映だったということもあり、観に来たのだがお客さんはさすがに五人ぐらいだった。

2015年にデトロイトの一般女性アザイア・“ゾラ”・キングがツイッターに投稿した計148のツイートと、その内容をもとにしたローリングストーン誌の記事を映画化したロードムービー

ウェイトレスでストリッパーのゾラは、勤務先のレストランにやって来た客ステファニと、ダンスという共通の話題を通して意気投合し、連絡先を交換する。翌日、ゾラはステファニから「ダンスで大金を稼ぐ旅に出よう」と誘われ、急な展開に戸惑いながらも一緒に行くことに。しかし、それは悪夢のような48時間の始まりだった。

ゾラを「マ・レイニーのブラックボトム」のテイラー・ペイジ、ステファニを「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のライリー・キーオが演じた。監督は、長編デビュー作「Lemon」がサンダンス映画祭で注目を集めた新鋭ジャニクサ・ブラボー。(映画.comより)

この映画を観ながら思い出したのは庵野秀明監督の実写映画『ラブ&ポップ』だった。
ステファニがダンスのあとはホテルに向かって、そこで売春サイトで客を取っており、ゾラ自身は体は売らない。今作においてゾラはダンサーであることをアイデンティティにしており、売春はしないということを守る。その反対にいるのがステファニと言えるのだろう。
ホテルに何人もの客がやってくる。彼らとステファニの絡みだけでなく、それぞれの男性が衣服を脱いでいくみたいな感じがなぜか『ラブ&ポップ』のホテルシーンに近いと思ったのかもしれない。昔の記憶なので全然違うかもしれないけど。
ラブ&ポップ』さとビッチな感じと水着とかセクサーを武器にしている女性ということでは同じくA24製作でハーモニー・コリン監督『スプリング・ブレイカーズ』もある。
途中でゾラ視点からステファニ視点になる時にはそれまでの話と逆のことが彼女の視線で語られるのだが、それは途中で終わってしまうため、真実なのか誰かの妄想なのかよくわからない。
ステファニをポン引きさせている黒人のXは悪いことしているわりには、極道すぎないし、ステファニは娘がいるという話が出てくるが、どうやって彼女を操って逆らわないようにしているのかは描かれていない。別にドラッグとかで漬けにしているわけでもないから、長年の関係性でステファニは逆らうという選択肢がないっていうことなんだろうか。

ステファニを演じているライリー・キーオは『アンダー・ザ・シルバーレイク』で急に消えてしまう女性を演じていたが、この映画のサイトの紹介を見ているとエルヴィス・プレスリーの孫娘らしい。そうか、そのことをすっかり失念していた。なにかでそういう人がいると聞いたか見ているのに彼女だと思わなかったのか、顔と名前が一致していなかったのか。そう考えるとプレスリーの孫娘が『アンダー・ザ・シルバーレイク』でLAにおける都市伝説に出ていることの意味はもっと大きなものだったのだろうなって今更思った。

映画としては大事なことがなにかわからないまま進んでいる感じで、ゾラにも感情移入はできなかったし、彼女にとっては悪夢な48時間だろうけど、ちょっとしたエロスはあるけど、SNSと今を映し出した青春映画という感じにしたいみたいだけど、ツイートを元にしているだけで映画の中ではその感じは薄い。
冒頭とかは二人ともひたすらスマホを触っているけど、後半に向かっていくとそれどころではなく、連絡用としてだけスマホがなっていた気がする。バイオレンスはあるけど、思いのほか激しくもないし多くもないし、R18なのは男性器が出るからなんだろうな、性行為シーンはかなり抑えて撮ってあるし、今を舞台にしたちょっと危ない稼業の人たちを描いたピンク映画っぽい映画かなあ。


田島昭宇 色紙本『SHO-U TAJIMA SHIKISHI WORKS』が届いた。
『MADARA』シリーズだけではなく、『BASARA』の伐叉羅(ダークサイドの影王の転生後の話とか大好物です)たちのカラーも見れるし、あと「おじ恋ナース」ってバリエーションも多くてなんかたのしい。

午前中に映画を観てから、早いところでは明日発売だが大塚さんの小説『北神伝綺』が出ているかなと渋谷の書店を数軒回ったが出ていなかった。ジュンク堂書店渋谷店に向かう際に東急百貨店前の交差点で井上順さんがお店の方から歩いてきたので、ついガン見してしたら目が合ってしまった。
メフィスト賞」用に書いていた作品に井上順さんご本人を出そうと思っていて、井上さんは「渋谷の生き証人」ということもあるし、赤坂と青山という「政」と「芸」の中心部だった場所を出したいと思っていた。そこでミュージシャンであり俳優であるという実在のエンターテナーを作品に出すとどうだろうと思っていて、何度か渋谷でお見かけする井上さんっていい意味でトリックスターみたいな感じにならないかなって。あと誕生日が父とまったく同じであるというのもなんだかよかった。
だけど、思いのほか「メルマ旬報」廃刊というのはダメージというか、やる気が起きなかったし書き進めなかった。八月中は喪に服したということにした。これはただの言い訳だ。結局、今後のスケジュールを再設定した。
目の合った井上順さんは当然なのだが、ちゃんと見ればおじいさんであり、戦後すぐ生まれの父とほとんど同じ時間を生きているのだなと感じた。もちろん、エンターテナーであり人前に出続けているからこその若さはある。それは見られるということでしか得られない老化を阻止する魔法だ。だから、その年にしては若々しいし、おしゃれだった。

帰りに代官山蔦屋書店に寄ったけどやっぱりなくて、三茶の駅前の銀行でもろもろ振り込みをしてご飯の食材を買って家に帰る途中で、大倉孝二さんとすれ違った。心の中でいつも「『ピンポン』のアクマだ」と思っている自分がいる。家に着いてからNIKEのランアプリを見たら15キロ歩いていた。歩きすぎた。

ご飯を作って食べてから作業をしてから夕方ウトウトしていた。休みだったから、目が覚めたら積読の本を読もうと思ったがスマホを触って、ジュンク堂書店の在庫を見たら『北神伝綺』が在庫ありになっていた。明日発売だから、もう明日でいいやとは思ったのだが、明日は朝晩とリモートで仕事だしなあと思って、家を出ようとすると雨が降っていた。さきほど洗濯したばかりのTシャツはずぶ濡れになっていたので、諦めてもう一度洗濯機に入れた。
Tシャツでは少し肌寒い。雨に濡れても帰ってから湯船に浸かればいいやと思った。気温も下がっていたが、そこまで湿度は高くなくて雨がちょっと気持ちいい。
緑道を歩いていると数メートル先に、左目の片隅のほうになにかが飛んでいるのを捉えた。わりとデカい物体。数歩近づくと黒っぽい茶色がかったヒキガエルが緑道を横切ろうとジャンプをしていた。大きさはたぶん手のひらに乗せたらちょうど乗るぐらいのデカさでそこそこ大きかった。雨がうれしいのか元気に飛んでいた。普段からよく歩く緑道だが、こんな大きなヒキガエルはどこに潜んでいるのだろうなと思いながら、246に出てそのまま道玄坂方面を上った。

行って帰るその間はずっとradikoで『Creepy Nutsオールナイトニッポン』を聴いていた。DJ松永は体調不調でお休みで、ゲストのSKY-HIとR-指定の二人のトークだったがとてもよかった。
アイドル(AAA)をしながらも早稲田に入って、ライムスターの宇多丸さんたちを輩出したサークル「GALAXY」(ジェーン・スーさんもいて、宇多丸さんの後輩。それもあって、『タマフル』にスーさんが出て話せる人だってTBSラジオもわかって、今の位置になったんじゃないかな、でも、きっかけはその先輩後輩関係だったはず)にも所属していたSKY-HIとR-指定のトークはラッパーとして知り合ってから長いこともあって、ヒッポホップ黎明期からいたライムスターたちに憧れてラップを始めた世代としての共通の話もあるし、フリースタイルの話だったりとか、SKY-HIと名付けられた話なんかもあって、松永いなかったから素直に二人が語っている感じもした。

店に着いた時には東急百貨店は閉まっていて、書店は営業しているのでエレベーターのある入り口の方だけ開放されていた。エレベーターに乗ると東急百貨店の屋上のビアガーデンが8月31日までと書かれたお知らせが壁に貼られていた。
来年2023年の1月末で東急百貨店本店は営業が終了し、春から解体されて2027年をめどに再開発が始まる。つまり現状の東急百貨店での屋上でのビアガーデンは明日までとなる。夏の終わりと共にその歴史は終焉する。
そんなことを一度も屋上のビアガーデンには行かなかったと思いながら書店のある階について、すぐに『北神伝綺』を見つけて購入して、五分も経たないうちにエレベーターで地上に戻る。雨の中、R-指定とSKY-HIのトークを聞きながら円山町の坂を上って、246沿いを三茶方面に向かっていくと反対方向から燃え殻さんが歩いてきたんだけど、雨だし相手が気づいてないのに声をかけないほうがいいかって思って素通りした。

家に帰ってみたら6キロちょっと歩いていたから一日で20キロ以上歩いていて、さすがにこれは歩きすぎだ。
湯船を溜める時間であとがきを読む。基本的にはあとがきとか解説から読んでしまう。もちろん、そこに本書を読んでからとかネタバレがあります、とあればそこで一旦止める。
単行本で買って読んでいた作品を文庫版で買うのは、著者へのお布施というか応援しているよという意味合いが強いので、あとがきか解説から読むことになる。
最近は文庫版からという書籍もあるけど、単行本から文庫版になるのであれば、どちらも買う読者へのサービスとしてあとがきか解説は欲しいけど、ないものも最近増えてきたような気が。そうでもないか、どうだろう。
作家の乙一さんもあとがき大好きで、あとがきだけ集めた本が欲しいということを前に言っていたような気がするのだが、大塚さんの小説とかのあとがきを読むのも好きで、民俗学系のことは問題ないのだけど、たいてい続編とかの話とかあっても書かないしいろんなことへの文句とかを正直に書いていて、そういうのは結構好きだ。

  どこかで書いたがぼくの民俗学上の師である千葉徳爾は、柳田國男の直接の弟子だが、生前ぼくに「民俗学とは偽史なのだ」と不意に語ったことがある。それは二つの意味があって、一つは、民俗学という言説は、人が、自分が帰順したい甘美な歴史をいささかロマン主義につくり出す脆さがあり、その点で偽史の魅惑に近いゆえ、扱いに注意だということ。そしてもう一つ、事実として、戦時下、偽史作家の一部が柳田國男に接近していたことの意味への注意だ。戦時下、柳田の周辺には左翼からの転向者が集まったことも千葉は指摘していたが、「炭燃日記」という戦時下の日記には「偽史」関係者の名が散見する。
大塚英志著『北神伝綺』あとがきより

今回のあとがきの千葉徳爾氏の「民俗学とは偽史なのだ」というのは何度か読んでいることだし、大塚さんにとってその言葉が影響しているのだろうと思う。それは「偽史三部作」とかにも顕著だったなと読者としては思う。
1995年に漫画として始まった『北神伝綺』(柳田國男)、『木島日記』(折口信夫)、『八雲百怪』(小泉八雲)という三部作ではそれぞれ()に入る民俗学者狂言回し的なポジションで、主人公となる架空のキャラクターとバディを組むというスタイルになっていた。僕がリアルタイムで読み出したのは『木島日記』だったから1999年ごろからだろうか、都市伝説や偽史というものがエンタメとして機能していたし、楽しめていた。その後、偽史をマジで正史と自分達の思想のために入れ替えようとする連中が跋扈してくる時代となっていった。
民俗学という言説は、人が、自分が帰順したい甘美な歴史をいささかロマン主義につくり出す脆さがあり、その点で偽史の魅惑に近いゆえ、扱いに注意だ」というのはまさにこの20年ぐらいで僕らが見てきたこの日本が陥った、今現在も続く光景であるから、かつて何気なく楽しんでいたこのフィクションである「偽史三部作」シリーズ自体が嫌なリアリティを持つ現在に僕たちがいるとも思う。

 

8月31日
起きてから朝の仕事を始めてすぐに「SNKRS」のナイキ×sacaiコラボのコルテッツの抽選に申し込んだが、やっぱり落ちた。今履いているスニーカーは底がかなりすり減っているのでそろそろ新しいものが買いたいのだけど、これだ!と思うものがずっとないまま数ヶ月過ぎている。
その間はただソールがどんどんすり減っていっている状態になっている。そのせいで雨の日はタイル系の地面を歩いていると滑りやすいし、東京百貨店とかに入るとタイルの床の上を歩いているとキュキュと大きな音がしてしまって少し恥ずかしい。9月中に欲しい形のスニーカーが見つかるといいのだけど。

朝晩とリモートワークの日だった。週に一回のオンラインミーティングがあったので同僚のスタッフと週次報告がてら話す。人と話す機会がリモートになってからどうしても減っているので定期的なミーティングはいろいろと助かっている。
8月31日というとまさに夏の終わりという感じがするけど、外で働いている人からすればまだまだ夏だろう。昔ガソリンスタンドでバイトしている頃は10月ぐらいにならないと暑さからは解放されなかった記憶がある。これから台風とかが来て、一気に気温が下がったりしながら秋があっという間に消えてすぐに冬になるんだろうなって思うけど、今年はどういう感じになるのだろう。
8月という時期が終わるとやっぱり心寂しい感じもしてしまう。夏休みの終わりというイメージは学校にいかなくなってもそれが強く残っているのはよく考えると不思議なことだ。そして、タイミング的な問題としては明日の9月からは意識や気持ちを切り替えるにはちょうどいい。

 

9月1日
雨音で聞こえて、ゆるりと意識が戻るように目が覚める。窓の外から聞こえる雨音はかなり大粒だとわかるような音だった。目覚めはいいのですぐに起き上がり、窓を開けると昨日夕方に洗濯して干していたTシャツがずぶ濡れになっていたので、ハンガーから外して玄関をあけて洗濯機に放り込んだ。
傘を持って7時すぎには家を出る。とりあえず、雨の中を渋谷まで歩いて、道玄坂の地下道から副都心線に乗って新宿三丁目駅まで乗る。そこから歌舞伎町にあるTOHO
シネマズ新宿まで歩く。雨は止んでいて傘が邪魔になった。


伊坂幸太郎さんの殺し屋シリーズと呼ばれる小説の二作目にあたる『マリアビートル』をハリウッドで映像化した『ブレット・トレイン』。
木曜日は休みだし、1日は「映画の日」ということでお得に観れるし、公開初日というタイミングだった。予告編を何度か見ていたが大画面で観たいなと思っていたのでIMAXがある新宿にした。TOHOシネマズ日比谷でもよかったのだが、この次に観る映画の上映スケジュールも兼ねてこちらにした。

作家・伊坂幸太郎による「殺し屋シリーズ」の第2作「マリアビートル」を、「デッドプール2」のデビッド・リーチ監督がブラッド・ピット主演でハリウッド映画化したクライムアクション。

いつも事件に巻き込まれてしまう世界一運の悪い殺し屋レディバグ。そんな彼が請けた新たなミッションは、東京発の超高速列車でブリーフケースを盗んで次の駅で降りるという簡単な仕事のはずだった。盗みは成功したものの、身に覚えのない9人の殺し屋たちに列車内で次々と命を狙われ、降りるタイミングを完全に見失ってしまう。列車はレディバグを乗せたまま、世界最大の犯罪組織のボス、ホワイト・デスが待ち受ける終着点・京都へ向かって加速していく。

共演に「オーシャンズ8」のサンドラ・ブロック、「キック・アス」シリーズのアーロン・テイラー=ジョンソン、「ラスト サムライ」の真田広之ら豪華キャストが集結。(映画.comより)

デッドプール』を手がけているデヴィッド・リーチ監督によるアクション映画であり、一番の売りはやはり主演がブラッド・ピットということだろう。
舞台は原作通り日本ということになっているが、殺し屋たちがバトルをすることになる新幹線(映画では高速列車ということものになっている)をリアルではなく、日本と聞いてかつてイメージしたようなものをあえて取り込んでファンタジーとして描いている。そのことでポップさが際立っているし、日本のようで日本ではないという不思議な世界観になっていた。

個人的にはドラマ『アトランタ』に出演していたブライアン・タイリー・ヘンリーとザジー・ビーツが出ている (『ジョーカー』にも二人は出ていたけど)のもよかった。ブライアン・タイリー・ヘンリー演じる双子の殺し屋のひとりである「レモン」とその相棒であるアーロン・テイラー=ジョンソン演じる「タンジェリン」のバディコンビがすごくよかった。
一応出てくる人物たちは基本的には殺し屋なのだが、このバディコンビのやりとりやコンビ感は非常によくて、原作同様にレモンは機関車トーマスオタクというか、なんでもトーマスにかけて話をするという役どころ。このコンビだけの物語でも充分たのしめるし、見てみたいなと思えるものだった。

ブラピ演じるレディバグ(天道虫)の意味、彼は悪運にずっと見守られているようなイメージだが、実はそのことで生きながられてきた人物でもあり、この作品において「運」というものは大事なファクターとして機能しているし、何よりも因果応報というものがテーマというか軸にある。
新幹線らしき列車の中であんだけ暴れたりしたら、無理だろうとかツッコミどころはたくさんあるが、そういうマトモなことは考えないでただ日本ぽい世界を舞台にしたハリウッドのどっ直球のエンタメだと思えば素直に観れると思う。

伊坂幸太郎作品を読んでないほうがより素直に楽しめそうな気はするが、バカバカしくて(褒めてます)なんにも考えなくていいアクションエンタメ作品。大画面で観てよかったなと思った。でも、最初にIMAXの大画面で『ブラック・パンサー/ワカンダ・フォーエバー』の予告編を観た時にちょっと感動して泣いてしまった。


『ブレット・トレイン』を観てから次の映画まで一時間以上空いていたので、TOHOシネマズ新宿からすぐのところにある「いわもとQ」へ行って早めの昼食にする。いつもはもりそばと鶏天丼にするのだが、お米をそんなに食べないようにしようと思ってもりそばと天ぷらセットにした。
天ぷらはエビとイカとオクラとカボチャとかき揚げだった。かき揚げはあんまり好きじゃないけど、他のものは全部美味しかった。
最近は家でもカップ麺やコンビニのもりそばを買って食べるようになってきたが、それまでそばは新宿で映画観た流れでここで食べる以外そばは食べなかった。やっぱりここのそばは改めて美味しいんだなって思った。ほとんど外食しないけど、新宿に来たら「いわもとQ」につい寄ってしまう。


「いわもとQ」をあとにして改装した紀伊国屋書店で時間を潰す。新刊系とかも最近出た書籍で欲しいものは買っているので、買いたいというものはなかった。それから時間が近づいてきたのでテアトル新宿に向かう。
映画の日であり、観たいと思っていた作品がこの日から公開だったので『ブレット・トレイン』からの沖田修一監督『さかなのこ』という流れになった。
一日で観れる映画は二本が限界かな、どちらもシリアスなものではないから観れるということもあるだろうけど、シリアスなものだったら二本目にしないとたぶん胃もたれ的に辛いと思う。

『さかなのこ』はさかなクンの自伝を元に、「さかなクン」的な主人公のミー坊をのん(能年玲奈)が演じていることも話題になっているが、まず素晴らしいキャスティングというか、脇役の役者さんたちもよかったし、なにより微笑ましい内容だった。
沖田監督の前作である映画『子供はわかってあげない』が僕にはイマイチに思えたのは、原作の漫画がよすぎるのもあったが、作品における大事な部分などを端折ったことで内容がチグハグになってしまい、うまく感情移入ができなくなったからだと思っていた。

魚類に関する豊富な知識でタレントや学者としても活躍するさかなクンの半生を、沖田修一監督がのんを主演に迎えて映画化。「横道世之介」でも組んだ沖田監督と前田司郎がともに脚本を手がけ、さかなクンの自叙伝「さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生!」をもとに、フィクションを織り交ぜながらユーモアたっぷりに描く。

小学生のミー坊は魚が大好きで、寝ても覚めても魚のことばかり考えている。父親は周囲の子どもとは少し違うことを心配するが、母親はそんなミー坊を温かく見守り、背中を押し続けた。高校生になっても魚に夢中なミー坊は、町の不良たちとも何故か仲が良い。やがてひとり暮らしを始めたミー坊は、多くの出会いや再会を経験しながら、ミー坊だけが進むことのできる道へ飛び込んでいく。

幼なじみの不良ヒヨを柳楽優弥、ひょんなことからミー坊と一緒に暮らすシングルマザーのモモコを夏帆、ある出来事からミー坊との絆を深める不良の総長を磯村勇斗が演じる。原作者のさかなクンも出演。(映画.comより)

のんが男性であるさかなクン的な存在であるミー坊を演じることでこの作品にはある種のノンバイナリー的な要素があった。また、ご本人でもあるさかなクン自体も「ギョギョおじさん」として出演していることで半自伝であるものの、本物が作り物であるフィクションに登場することで現実が侵入している形になっていた。そういう部分だけでもいろいろと多層的な構造になってしまっているが、観る分にはなんら支障はない。そんなことを考えながら観るのは構造とかをすぐに考えてしまう僕のような一部の人ぐらいだろう。構造とか気になる人もそこも含めて充分に楽しめるはずだ。

ミー坊の母は魚が好きすぎる我が子を何が何でも肯定し続ける。しっかりとは描かれていないがそのことで家族は分裂か別居する形になっている。もしかすると撮影したり、脚本にあったのかもしれないが、カットしているのだと思われる。
さかなクンの実父はプロ棋士だと聞いている。現実はどうなのかは知らないけど、映画ではミー坊が高校を出てからは父と兄、母とミー坊という風に家族は別れて住んでいた。そのことからも間違いなくミー坊は母性によって完全に全肯定されて庇護されている存在だった。
「海」≒「母性」でもあるからミー坊には海にまつわるものから祝福されているともいえるのだろう。冒頭近くの小学生時代に海に行ったシーンにおける巨大なタコの行く末が父性の冷酷さと暴力性を図らずとも描いてしまっているのも印象的であり、母との対比になっている。この辺りは脚本の前田司郎さんらしさなのかもしれない。

夏帆好きとしてやさぐれ感のある女性を演じる夏帆さんもよいのだが、ミー坊の同級生である夏帆演じるモモコは現実にはいない存在であり、映画としてオリジナルな人をあえて配置したことで揺らいでしまってる(揺さぶろうとしている)ところがある。
「男でも女でもどうでもいいじゃないですか」と最初にテロップを出し、女性であるのんがほぼさかなクンである人物を演じているのに、モモコが一時ミー坊のアパートに転がり込んでくることで、ある種テンプレ的な男女感や家族感みたいなことをミー坊に考えさせている場面がある。沖田監督や前田さんはあきらかにそこでこの映画に意図的にノイズを発生させている。このノイズがノンバイナリーと謳う上で非常に重要なものであり、あの違和感こそが今の時代の多様性への変動への賛意のように僕には感じられた。


新宿から帰ってきてニコラで「ウサギのラグー、南瓜とさつまいものフジッリ『乙女ごはん』風」とワインをいただく。
9月になったし月初めのぜいたくをしようと思っていたので、昼に天ぷらを食べたけど、夜もぜいたくをした。今月でメルマ旬報も終わるし、スケジュールも新しく9月から組み直したので美味しいものを食べてテンションをあげようと思っていたのもある。テンションあげないとやってられないし、9月というのは区切りがちょうどいい。今年もあと四ヶ月、三分の一だ。
ちなみにこのメニューは三階のトワイライライトでの展示とのコラボメニューなので、この時期だけだし、今までニコラでもウサギの料理は出たことがなかったはずだ。
今回はじめてウサギを食べたと思う。いわゆるジビエではなく養殖の、人が育てたウサギのようで獣感はほとんどなかった。鶏肉に近いみたいで、料理に使っている部分も太もものレッグのところだと教えてもらった。骨ごと煮込むといい出汁が出るとのことだった。
ウサギと一緒に入っている南瓜とさつまいもの甘さがあって、料理に合わせてもらった白ワインは少し塩味があったからどちらもたいへん美味しかった。
基本的に木曜日は働かないことにしているので、めいいっぱい休みを楽しんだ。観た映画二本ともおもしろかったしご飯は美味しかった。一気に年末まで進むだろうから四ヶ月はスケジュールをしっかりこなす。
しかし、昨日と今日と合わせて30キロ以上歩いていたせいか足が痛かったので帰ってからのんびり湯船に浸かった。

 

9月2日
ラフカディオ・ハーン著/円城塔訳『怪談』

装幀のデザインもしっかり怪談的な雰囲気もあるが、円城塔さんがラフカディオ・ハーン小泉八雲)を訳すというアイデアというか企画自体が素晴らしいと思うし、その組み合わせは読みたい。
小泉八雲自体は近代日本にやってきた異邦人であり、彼が聞いて書き残したことはおそらく現在で言うところの「ナラティブ」にも通じているのだと思う。円城さんの直訳ということでどう「怪談」が変わるのかもたのしみ。ちょうど大塚英志さんの「偽史三部作」シリーズの20年ぶりに書籍化された『北神伝綺』の小説を読んでいたりするので個人的にはタイムリー。
三部作は『北神伝綺』では柳田國男、『木島日記』では折口信夫、『八雲百怪』では小泉八雲、この三人とももらい子幻想であったり、実母はほかにいるとかを「ここではない母なる国や場所」を追い求めていたように描かれていた。彼らの思想がどう近代化する日本に影響を与えたのか、あるいは近代化する上でかつてあったものを切り離していったのか、みたいなことに大塚さんは興味があったのだろう。そういう部分はどこかロマンティックというかセンチメンタルさも感じるところもある。
近代化した際に現れた「私」という概念、柳田國男が詩(文学)を捨てて官僚になったこと、彼の友人であった田山花袋自然主義作品である『蒲団』を発表したことで私小説が生まれたことなんかをずっと描いているのは、現在に繋がる近代化の始まりになにか起きたのか、「私」なんて結局キャラクターなんだよって所から始めないと、自分と社会の距離や向き合い方がわからないっていうことなんだとは思うようになった。
大塚さんに今度インタビューができるときがあれば、そういうことを改めて聞いてみたいし、聞けるように自分の考えを構築させていかないといけない。

↑旧版から誤植以外は変更ないみたい、でも装丁は気になる。刊行時のインタビュー はこちら。
『木島日記』復活!『木島日記もどき開口』は柳田國男vs.折口信夫の「仕分け」バトルです
【前編】


【後編】


古谷一行さん亡くなられてたのか。僕らの世代からすればDragon AshのKjこと降谷建志の父であり、金田一なんかを演じていた有名な役者さんというイメージ。
祖父・父・息子(降谷凪)のスリーショットをKjがインスタにあげていた。息子くんは岩井俊二監督『ラストレター』に出演していたし、父よりも祖父みたいに役者のほうに行くのかもしれないな。

 

9月3日

 学ぶとは、死ぬことだぞ。彼は授業の初め、またざわついた教室を鎮めるようにそんな話をした。人間はいかに生きるかを学ぶために、いかに死ぬかを学ばなければならない。死とは、私たちを待つ最後の出来事というだけではない。自分の特権や偏見と向きあい、それらを捨てるとき、私たちはよりよく生きることができる。それが深い学びというものだ。ウェストがよく口にした言葉だった。
榎本空著『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』P49-50より



3年ぶりの快快の新作『コーリングユー』を神奈川芸術劇場にて鑑賞。友人の田畑ちゃんも誘っての観劇、彼とはコロナ前に同じくここでロロ「いつ高」シリーズを観ていた。
今回の『コーリングユー』は快快の師匠というか学生時代の恩師である詩人である鈴木志郎康さんの詩と向き合って、作り上げた作品。

詩(死)というものに身体性を与えると生(声)が浮き上がってくる。演劇とパフォーマンスのMIX的な境界線付近を漂うな、そんな場所にいるのが快快だと思っていた。それは今作にも引き継がれているが、かつて全開だったポップさとカラフルさは彼らの年齢や人生経験とも繋がっているのか潜めている。もちろん、肉体としても二十代のようなものと三十代後半では違う。違うからこそ向き合えるものがあるし、失ったものと得たものがある。
二十代の終わり頃から快快の舞台を観にいくようになったから十数年間観ていることもあって、その連続性にあるものがシャドウとしてもこの舞台に重なっているような、層を作っているみたい感じた。

鈴木志郎康さんの詩と何度も繰り返される叫び声である「キャー!」という声。
舞台に設置された電話ボックスの中に入り、三人がそれぞれに師である鈴木志郎康さんへ語りかける言葉。彼は痴呆症になっていて、いろんなことを忘れていっている。
かつて自分の内部から外部から生み出した詩のことも彼らのことも世界のことも、失っているのか、どうなのか。どこかにはかつての記憶はあるのだろうか、あってもそれを接続するなにかのパーツが壊れてしまう、損なわれてしまっているのだろうか。過去と現在が結びつかなくなっているのかもしれない。

舞台が終わってから田畑ちゃんと夕方からビアガーデンというわりには地方の寂れた海沿いにあるダメな飲食店のようなビルの四階部分にある屋上で飲む。
土曜日の十七時前にはいつも実家に電話しているから、途中失礼して電話をする。祖母と毎週数分話す。101歳の彼女は毎回同じことを僕にいう。もう長生きしてしまった彼女はいろんなことを忘れている。実家で一緒に過ごしている家族からすれば、かつてあんなにも怖かった祖母が痴呆症でいろんなことを忘れ、できなくなっているのを見続けている。
僕は数年に一度しか帰省しないが、毎週電話をして声だけは聞いている。互いに声を聞いているが、祖母は僕の言っていることが理解できているのかはわからない。ただ、声を聞かせることで安心してもらう、という儀式になっている。

演者である三人が鈴木志郎康さんへ電話する時にそのことを思い浮かべたわけではないが、その感覚には見覚えがあった。
少し前にあった知り合いの女性も祖母が痴呆症になって、私のことが誰なのかわかっていない。だから、祖母は忘れていくならできるだけ会いに行って私が覚えていてあげようと言っていた。そうだよねって思う。そして、そう言った彼女も僕も舞台の三人もやがて覚えていたことを忘れていってしまうか、思い出せなくなってしまう日がくる。それが繰り返されていく。だけども、そういう気持ちや思いや記憶はどこかに残っていると思う。ただ、僕らがたどり着けないような場所や空間にあるのだと思う、思いたい。

「キャー」という叫び声が何度もしつように繰り返される。その叫び声は叫んだ人間の現在地として刻まれる。そして、私はここにいますよという自己表現であり、自己認識であり、他者への呼びかけになっている。
切実さでもあり愉快犯でもあり、誰かに届く叫び声は私ではない他者がいるという希望のようである。

「笑う」こととは、かつて狩猟時代の原始人たちが集団で狩りをしている時期に発生したというのを何か読んだことがある。
当時の狩りはまさに命懸けであり、食うか食われるかでしかない。追い詰めた獣をしっかり仕留めれば集団に肉を持ち帰ることができるが、一歩間違えれば獣のひとつきで殺されてしまうかもしれない。
たとえば、原始人と獣が一人と一匹で向き合った時、人が恐れを出した瞬間に勝負は決まる。恐れから叫びが出てしまうと獣が勝つ、獣に殺されるという勝敗が決まってしまう。だから、人は恐怖に打ち勝つために叫びを打ち消すように笑うようになったらしい。笑うこととは死への反逆であり、恐怖を押しつぶすことだった。叫びが転じて笑いになった。笑うことは生への執着である。叫びはその前段階であるとも言えるのかもしれない。

詩とは人間の内部(内面)にあったものが噴き出すようなものだと思う。例えば血がそうであるように、生きているうちには内部から外部へ噴き出すことはない、大量に噴き出せば死んでしまう。
詩とは人間の内側にあるもの(思考やいろんなもの)がまるで血飛沫のように噴き出して、外部を染めるものだと僕は考えている。その血飛沫を浴びてわかる人となんにも感じない人がいる。

鈴木志郎康さんの詩と三人の出演者の動きと身体性(休憩という名の時間ではラーメンやソフトクリームやほうじ茶をそれぞれが食べて飲んでいた。口から発せられる詩の朗読やセリフ、そして叫びは口から出るものであるから、口に入れるものとして、生きるためのエネルギーとして食すというシーンは今考えるとすごく意味があったんだなと思った。口になにかを入れるということは実はとてもセクシャルなものである。)。
わたしはどこのわたしですか?という問い。あなたはどこにいますか?わたしはここにいますよという叫び。
観ている時はうまく咀嚼できなかったことがこうやって書いてみると少しは理解できるような気がする。ここから違う形の快快のやりかたも広がっていくような気もする。

僕が最初に観に行ったのは『My name is I LOVE YOU』だった。その時はゼロ年代の終わりで観た時にポップさとカラフルさにワクワクした。それで十年代はポップでカラフルな散弾銃で世界が色づけばいいなって思っていた。
ゼロ年代はモラトリアムな時期を過ごせたが、世界がいい方向に進んでいるとは思えなかったから、だからという希望があった。
快快の演劇とパフォーマンス的な世界になったらいいなと、あの頃の僕は願っていた。残念ながら、十年代はゼロ年代よりもさらに悲惨な時代になってしまった。カラフルとは真逆な白か黒という敵か味方かという風に世界はどんどん断絶し細分化していった。
だからこそ、もっと最悪なことが起こりそうな20年代に少しでもポップでカラフルさが花開いてほしい、それはわかりやすく言えば多様性であり、個々人それぞれが自分の意思で考えてものを言って、場の空気を汲まないでいい状況だ。そうなってほしいと言い続けるしかないと思う。

田畑ちゃんとビアガーデン風なところで飲んだ後にもう一件行って、たくさん飲んで話して酔っ払う。電車に乗って中目黒駅までを目指すが、途中の車内で吐きかけるがマスクをしていてセーフ。口の中いっぱいにゲロをあるがなんとか吐かないで耐える。マスクしてなかったら口元からゲロがはみ出していたのが見えていたかもしれない。中目黒駅で降りてトイレに行ってすぐに吐いた。そこから歩いて帰るのは諦めて駅前でタクって家に着いてからもう一度トイレで吐いて、すぐに気を失うように寝落ちした。

 

9月4日

 現代社会では、感動はもはや「商品」でしかないようにも見える。しかし、あとで自分が恥ずかしくなるほどに爆発する激情は、はたして「商品」として意図的に製造しうるものなのだろうか。その後長い間受け継がれていくような「激情のほとばしり」は、人間のコントロールを超えた所にしか生じない。2021年には1年遅れでオリンピックが開催され「感動」の2文字がメディアに溢れた。スポーツの感動は、おそらくその勝ち負けが人間の意図的なコントロールの外側にはみ出すところに生まれるのだろう。本物の「感動」は人為の及ばぬところにしか生じないのではないか。自分が「2番目以降のロウソク」である場合も、1本目が巧まずして燃えているのでなければ、その火は燃え移ったりしない。人間は「感動しようとして感動する」ことはできないのだ。しかし、「他者を感動させよう」とする人々はいる。表現者がそれである。
石井ゆかり著『星占い的思考』P68-69より

先日買った石井ゆかり著『星占い的思考』を読み始めた。占いはわりと好きだし、十二星座それぞれの性格とかが書かれているので、キャラクターを作る時に参考にできそう。元々作品を書く時にはイメージキャストというか実際に役者さんなどの画像をキャラ表に貼って、そこにプロフィールを書いている。その際に生年月日とかも書くのでその時に星座の特徴を入れ込んだらいいなって。もちろん、その通りにしなくてもいいし、あえて反対の性格にとか特徴にしてみるというのもおもしろいと思う。
映画『ブレット・トレイン』のレモンは『機関車トーマス』のキャラクターの特徴を会った人物とかにあてはめて話をしていた。星座好きでやりとりをする相手の生年月日を聞いてその人物に星座からの特徴を当てはめて会話するみたいなこともできるだろうな。興味もあるけど勉強的な意味も込めてたのしい読書。

 

9月5日
朝晩と家でリモートワーク。途中友人から手違えでかかってしまった電話に出て少し話をする。ちょっとブレイクタイム的な感じになった。
休憩中に前に購入していた宮崎智之著『モヤモヤの日々』を読み始める。日記文学というのが合っているのか、20年12月から21年11月という一年近くの日々のことが彼の視点でユーモアもありつつ、時に軽やかに物事について考察しつつ日常の豊かさを感じさせてくれる。

 

9月6日
【速報】五輪汚職事件で特捜部が組織委元理事の高橋治之容疑者を再逮捕 出版大手「KADOKAWA」ルートで(なぜか記事がNot Foundになってた)

角川書店についての大塚さんの新書が出た時のインタビュー。角川四代として角川源義、春樹、歴彦、川上量生についての話。このタイミングで読んでもらうのがいい気がする。全部で四回。
大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(1/4)

大塚 本に書いていることを繰り返すことになるかもしれないけど、君が驚いたっていう田河水泡は高見沢路直っていう村山知義たちと一緒に「大正期新興美術運動」=「大正アヴァンギャルド」で活躍した前衛美術家だったわけだよね。
 よく言う例えだけど身体中を白く塗ってパンツ一枚でわけのわかんない踊りをするっていうのがアートなんだよっていうのを最初にやった人たちなんだよ。美術館に石を置いて逃げてくることが芸術なんだよっていうさ。

---- トイレを置いているだけでも芸術だっていうようなことの始まりのようなものですね。

大塚 うん、戦後の1960年代ぐらいだったら今再評価されている赤瀬川原平たちがやっていたハプニングアートみたいなものはとうにやっていたし、ましてや今の現代アートのレベルは彼らが二十歳そこそこでやんちゃな時代に殆ど、やっちゃってることなんだよね。
 問題は大正アヴァンギャルドっていうものが短期的な若気の至りだったということになっていて、それがそのあとソビエトの方針が変わってプロレタリア芸術の方にみんな行っちゃうんだけど、実際は大衆レベルでアヴァンギャルドの「その感じ」ってのは生き延びていったわけです。
 大正アヴァンギャルドのメンバーだった高見沢路直が構成主義とか機械芸術論とかのちに呼ばれるもの、そういう考え方というものとアメリカから入ってきた大量消費大量生産である機械芸術であるディズニーと統合して『のらくろ』というまんがを描いた。それは田河水泡個人だけではなく昭和5、6年ぐらいから10年間ぐらい日本のまんがの中にディズニーというものを大正アヴァンギャルドの枠組で再構築していくという巨大なうねりのようなものが起きていって、外見的に見るとミッキーマウスのパチモンが大量に登場されてくるってことになる。

---- 「ミッキーの書式」と大塚さんが言われるようなものを内側に組み込んでいくことで日本の漫画のキャラクターの原型になったので、「鳥獣戯画」から派生したものではないということですね。

大塚 言わば「鳥獣戯画」が持っていた書式は大正アヴァンギャルドによって切断されてしまったので、「鳥獣戯画」の書式の延長に今のまんがはないっていうことです。

---- 田河水泡が『のらくろ』を描きますが、のらくろって軍人なんですよね?

大塚 そうだよ、最初は捨て犬でハチワレの足が4本白いっていう不吉なワンちゃんだったんだけど陸軍の駐屯地で拾われるんだよ。

---- 最初から二足歩行ですか?

大塚 最初は四足歩行だった。でも、だんだんとディズニー化していって二足歩行になっていく。

---- のらくろはディズニー化していき、なおかつ軍人化していったことで生身と内面を持つことになりました。

大塚 そう成長しちゃうんだよね。軍人になって階級が上がっていくから結果として成長せざるをえなくなる。そういうことが宿命なのと戦時下のまんがなので最初は犬と猿の軍隊で戦うっていうレベルだったんだけど、昭和12年の日中戦争が始まった時点でリアルな戦場の中国大陸に舞台が移していく。中国とは描いていないけどどう見ても中国大陸でさ、そういう意味でもまんがが現実に合流してしまう。

---- 嫌でものらくろは生身の肉体になっていってしまいました。

大塚 そうディズニーが出会わなかったリアルというものにのらくろは身体のレベルでも、世界観のレベルでも出会わないといけなくなってしまう。

---- そのことが日本のまんがの始まりにまずあるわけですね。

大塚 結果としてのらくろはミッキーみたいな身体だったら普通は高いところから落ちても死なないのに、のらくろは戦場で負傷して単行本一巻分負傷しているという展開になっていったり、挙げ句「思うところがあって」陸軍を去っていったりとかね。

---- すごい内面が出てきてますよね。

大塚 歴史や身体みたいなものを意識した瞬間にそこには個人が出来上がるから、のらくろは個としてのキャラクターを描くみたいな。そこに初めて成功したってことなんだよね。

大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(3/4)

↑1回目から最後の4回目までを久しぶりに読み返したら3回目で田河水泡について聞いていて、僕が田河水泡と「のらくろ」に興味を持ったのは大塚さんへのインタビューとその時の新刊の書籍がきっかけだったんだなと思い出した。

起きてから散歩がてら渋谷方面まで歩く。思ったよりも暑くて少し前までの秋っぽさの訪れはどこか違う方向に向かった感じだった。台風が来ているわりには気温は高かったので歩いているとかなり汗をかいた。
ちょっと気になっていた嵐山光三郎著『桃仙人 小説フ深沢七郎』という中公文庫を書店で探したがなかった。石井ゆかりさんのエッセイでこの作品について触れていたので興味を持ったのだが、深沢七郎作品は数冊見かけたがこちらがなかったのが残念。著者名で並ぶから関連書籍という感じで一緒には置かないものだけど、深沢七郎作品があるから一緒じゃなくても在庫があったらなとつい思ってしまう。そんなに売れるタイプの作品じゃないし、文庫版が出たのも約十年前だからなくて当然ではあるのだけど。

 

9月7日

一年ぶりの健康診断。親会社が変わったこともあって毎年行っていた北参道のクリニックではなく、同じく副都心線東新宿駅を降りてすぐの新宿健診プラザというところへ。
9時半からになっていたが、受付は9時10分から9時50分の間となっていた。初めて行く場所には余裕を持って早く到着するようにしているので8時50分には着いてしまった。
玄関を入ったところで早めに着いたと言おうと思ったら、記入した書類を出してくださいと言われて出したら、問題なかったらしく書類にあるバーコードを機械に通してから6階にエレベーターで向かった。そこで番号札を渡されて天井からぶらさがっているモニターに自分の札の番号が呼び出されるのを10分ちょっと待った。
呼ばれたカウンターで本日の健康診断で受けるものや料金(会社払い)とかのことを確認してから、すぐ前の更衣室で着替えて記入したものを入れたファイルを持って5階へ。そこでUの字を書くように身体測定から診断が始まった。
最初のところでファイルは渡しており、ひとつずつが終わると担当してくれたスタッフさんが次の診断のところに持っていってくれる。僕も少しずつ移動して、肩につけている番号(2206)呼ばれるたびに視力や血圧や採血、視力や眼圧などをしていった。身長が173.9cmと出たのを見た。体重と身長を一緒に計れるものだったが、この場合は174cmと言ってもいいのだろうか。
お腹にゼリー塗って見るエコー検査もなんか不思議な気持ちになったが、やっぱり年に一回のバリウム検査はなれないもので、毎回なんとかゲップをしないように耐えている。そして、右に二回転してくださいとかあの時になんだか複雑な、圧倒的な敗北感があるのは僕だけなのだろうか。
とりあえず、二時間も経たないで最後のバリウム検査まで終わった。もらった下剤はすぐに飲んだが、今までのところのように食事はついていないみたいでお食事券みたいなものをもらった。東新宿駅に向かわず少し歩いて新宿三丁目駅直結している紀伊国屋書店に寄って帰ろうと思ったが、わりとすぐに腹が下ってきたのでピカデリー新宿に駆け込んだ。紀伊國屋に寄ってから電車に乗って渋谷まで帰り、そこからは歩いて帰ろうと思った時にTwitterで文芸誌「群像」発売日だと見たので、ジュンク堂書店渋谷店に寄ろうと思った。地上に出てわりとすぐの東急百貨店が見えた頃にまた腹が痛くなったので耐えて書店が入っている階のトイレにまた駆け込んだ。新宿も渋谷も書店で位置や場所を把握していて、ある程度はどこのトイレが使えるかというのはわかっているから、焦らなくて済んでいるという部分もある。
「群像」を買ってから家に向かって歩いていると小雨が降っていた。台風の影響なんだろう。しかし、あまり強い雨ではなく日差しはあまりないものの、暑さはあってTシャツはかなり汗で濡れた。

 

9月8日

「群像」10月号掲載の古川日出男連載『の、すべて』9話を仕事の休憩中に読んだ。
語り部である河原とZOOMで話すある人物との会話の中で「死刑」とその制度についての話が出てくる。もちろん、これはオウムの死刑囚たち(からの『曼陀羅華X』)を連想させる。そして、河原が今回ZOOMで話を聞いていた彼や彼女が語る大澤光延(この作品における中心人物であり、都知事になっていた男)、はまるで空虚な中心のようにも見えてくる。
そう考えればある種「日本の、すべて」へ繋がるだろうし、古川さんはそのニュアンスも入れているのかもしれない。河原が話を聞いている光延と関係のある彼や彼女たちとのやりとりから、彼をあぶりだすかのように。


仕事を早上がりしてから恵比寿まで歩いていく。前に来たのはチェルミコのライブだったリキッドルームへ。LOSALIOS / ZAZEN BOYS LOSALIOS Presents “TWO TRIBES”という対バンライブを観に来た。
ZAZEN BOYSは向井さんがギターのエフェクトを多用していたり、カシオメンのギターのリズムがいつもと違うようなフレーズもあったりと、次のフェイズに入ったのかなと思ったけどやっぱりカッコいい。演奏が終わるたびにLOSALIOSのファンらしき人たちが「すげえ」って何回も言っていたのが印象的だったし、ファンとしては誇らしかった。
LOSALIOSはドラムが中村達也さんなんだけど、僕は初めて中村さんのドラムを生で体験することになったのだけども、そのプレイスタイルは速くて重い、なんというか鬼神みたいだなって思えた。手数もすごいし、なんというか豪快さがあるけどご本人はどこかチャーミングっていうのもファンが多いのもよくわかる感じ。ほかの三人もすごいプレイヤーだから、もうゴリゴリな時はこれができるのは俺たちしかいないだろって感じがする、ああ、カッコいいなってシビれた。
どちらもリズムが変態的で技巧が卓越していて、女性がベースっていうのが共通はしていた。こういうのを聴いていたら普通のバンドのサウンドを聴いてもいいとは思ってもあまり惹かれなくなってしまうのは仕方ないっちゃ仕方ない。ボーダーの向こう側だから。来月のZAZEN BOYSのワンマンがもっとたのしみになった。

 

9月9日

水道橋博士のメルマ旬報』の副編集長でもある原さんこと原カントくんさんがパーソナリティを務める「渋谷のラジオ」の番組「渋谷のほんだな」に出演。曲以外の話をしている箇所はリンクのnoteに音源がアップされています。
原さんと二人で話をしたはたぶんこれが二回目、一回目は博士さんが休養を発表した日に連絡して赤坂で話したことがあるぐらいだと思う。メルマ旬報のことや本の紹介をしたんけど、やっぱり話をしててもうまくまとめれてなかった気はするけど、お時間あればどうぞ。
この番組を九年とか毎週やってたり、他の媒体とかで司会とかもろもろやってる原さんの経験値がハンパないなあと改めて思った。

紹介した本はこちら、
古川日出男著『ゼロエフ』(講談社


大塚英志著『北神伝綺』(星海社


浅野いにお著『零落』(小学館


リクエストした曲はこちら、
JAZZ DOMMUNISTERS - あたらしい悲しいお知らせ(Feat. I.C.I & OMSB)



踊ってばかりの国 - ニーチェ


ASIAN KUNG-FU GENERATION - 海岸通り



選んでいたけど時間の問題で流せなかった曲、
The Ravens -「白鯨」 




夕方にニコラで和梨マスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。やっぱり梨は美味しい。柑橘類も好きだけど、果物だとやっぱり梨が一番好きかもしれない。

 

9月10日

「渋谷のほんだな」に出演した後にちょうど発売だったので買った『深解釈オールナイトニッポン 10人の放送作家から読み解くラジオの今』を読み始めたら日付が変わって深夜に読み終わった。
コロナパンデミックになってから、リモートワークで家にいるのでradikoで普段聴かない深夜ラジオを仕事中に聴くようになった、というわりとよくいるタイプで、JUNKとオールナイトニッポンを習慣的に聴くようになったのがこの2年ぐらいの変化なのかもしれない。そのおかげで、ここで登場している放送作家さんたちがやっている番組も聴いているので親近感はあったし、話も全部ではないがわかった。
放送作家も師弟関係というわけではないけど、先輩後輩という関係性もわかるような構成になっていた。ナイナイの二人が最後にインタビューに答えているというのもオールナイトニッポンっていうブランドをずっとナイナイが担ってきているという証なんだろう。
でも、よくよく考えるとラジオ番組で初回から最終回まで全部聴いたことあるのってTBSラジオ菊地成孔の粋な夜電波』だけしかないし、擬似ラジオ『大恐慌へのラジオデイズ』も今まで全部聴いているから、一番好きなラジオパーソナリティーって菊地さんだな、僕は。


7時前に起きて8時20分上映の川村元気監督『百花』を観るためにTOHOシネマズ渋谷まで歩いていく。気温はそれほど高くないので歩くのにはちょうどいい感じだった。さすがにちょっと秋っぽい風になってきている。
原作は文庫を買ったけど読んでなかったが、映画として素晴らしい作品になっていた。
若年性アルツハイマー病を患い、記憶を亡くしていく母ともうすぐ子供が生まれ父になる息子の話。母の百合子役を原田美枝子さんが演じているから、息子じゃなくて娘にして原田さんの実の娘である石橋静河がやったらフィクションとノンフィクションが混ざり合うからおもしろいかなあと観ながら思ったけど、やはり母と息子だからこその関係性とその記憶と忘却についてなんだなあと思った。原作と脚本と監督を川村元気さんがやっているわけだから、男性、息子から見えた母というのをやりたかったのかな。インタビューとか読んだり見たりしていないのから実際のところはわからないのだが。

認知症になっている母が同じことを繰り返すという描写が何度かあり、記憶の迷路というか日常が少しホラーというかファンタジーのようになっていた。そして、予告編でも出てくる崩壊した街を歩いているかつての母というシーンがあって、「月刊予告編妄想かわら版」でも書いたのだが、阪神・淡路大震災というのは当たっていた。主人公の泉が小学生時代に母が男と駆け落ちのような形になっていて一年ほど居なくなっているのだが、やはり年齢的に考えて阪神・淡路大震災に遭遇したという過去が描かれていた。
駆け落ちした相手がどうなったのかを映画では描いていないが、あえてということなんだろう。そういう省略がうまくて余計なことは説明していないのもよかった。小説だと書いているかもしれないけど映像にするときにカットしてるのかな、たぶん。そのおかげで余韻が残るのがとても映像的にもいい表現になっていた。

菅田将暉はもう作品で外すことがなくなってきていて、やっぱり神がかってきていると感じる。彼の時代だというのは間違いがない。僕らの頃だと窪塚洋介安藤政信に憧れみたいな感じがあったけど、彼らが出ているからと観に行った映画はわりと外してることがあったから。
ポプラ社で自身の映画のノベライズというか小説にして書いていた西川美和監督を引っ張ってきて小説を発売してそれが映画化され、幻冬舎パピルスの編集長が移籍したことでそこに登場していたアーティストたちも一緒に移動してきたような形で岩井俊二監督も小説を書いて映画化していく流れがあった。映画プロデューサーである川村元気さんも自身の小説を発表し発売するようになり、その小説が映画化していったがそれが今回は川村さん自身が監督をやり映画化になっている。そういう流れを考えると『百花』はひとつの到達点かもしれない。原作を持っているとこが強いっていう当たり前のことなんだけど。

菊池寛が一般の人にむけてやろうとした教養をメディアミックスでさらに押し広げたのが角川春樹だった。「メディアミックスしかない」出版社が角川書店でありKADOKAWAになって、いろんなほころびが東京五輪のきな臭さと共に露呈してきているのもなんだか時代の流れを感じなくもない。
良くも悪くも一族経営な出版社というのと一族経営だったところがどんどん合併して統合していったところの違いが出ている気もする。メディアミックスを主体にしていくとそれ自身がプラットフォームとなって工学化していくから、数の論理で動くとそういうことが起きやすいのかもしれない。このさきKADOKAWAは中国とかの会社に買収とかされて、いろんな作品の権利とかまんま持っていかれるだろうなって何年も前に話したことがあるのを思い出した。行き過ぎないメディアミックスをしながら出版をしていくしかないのかなあ、インディーズではなく大手が続けるには。
作中に出てきたKOEっていうAIアーティストがエンディング曲を歌ってたけど、あれ岩井監督のリリイ・シュシュのオマージュだよね? 違うかな、川村元気作品って映像化したらたいてい岩井俊二監督を感じさせるものがある。

コンビニに行って買い物して歩き出したら、背中側の方で爆発音みたいなのがして、歩いている人がそっちを見ていたけど光とは見えず。そのまま歩き出すと連続で鳴っていたから花火なんだって思ったけど、この時期って花火やるんだっけと何度か振り返ったがその姿は見えず。
家に帰ってから調べたら神宮球場で野球の試合で上げたらしい。神宮の花火ならちょっと上の階とかに住んでいたり高いところにいたら見えただろうな。

数日前に書肆侃侃房が刊行している文芸誌「ことばと」の新人賞である「ことばと新人賞」の発表があった。前に二度ほど二次通過や最終に残ったことがあるので期待していたが、最終にすら残っていなかった。本が出たときに一次通過や二次通過した人の名前も載るのだろうが、そこには残っていたいがどうだろう。残っていたところで意味はないかもしれないが。
夜にNHKの「WDRプロジェクト」の結果のメールが届いた。2025件の応募で一次通過は42名であり、僕は残れなかった。応募したのが田川水泡についてのものだった。
のらくろ」という田川水泡に生み出されたキャラクターが生みの親を語る、その「のらくろ」を語り部に配して漫画家・田河水泡になるまでの高見澤仲太郎の生涯を物語るという風な構造の小説にしよう。「WDRプロジェクト」に送ったシナリオをベースにしながら「群像新人文学賞」に応募できる小説に書き上げたい。と思ったらWEB応募だと一ヶ月しかなかった。プリントアウトなら10月末までなのでどっちにしろ時間はないんだけど、これは「群像」だと思う。

 

9月11日
今日はもともと東京に上京したときに最初にバイトをしたゲーセンの友達と一緒にスカイツリーに行こうという約束をしていた。昨夜に友人の息子くんがちょっと喉に違和感があるという連絡があった。息子くんもスカイツリーに来る予定だったのでこんな時期だし大事を取って延期にした。
朝起きてから予定がなくなったのでうたた寝を何度かした。夢を見たはずだが、こうやって文章を書こうと思うとすっかりと忘れている。有名人が出てきたような気がするのだけど、誰だったんだろう。
11時前にさすがに起きてから、散歩がてら駅前にご飯を買いに出た。本屋も見たが欲しいものはなかったけど、3階のバブリックシアターで観劇しにきた人が開場前なのかたくさんいた。先週始まった舞台『阿修羅のごとく』を観に来ているのかなって思ったけど、それはキャロットタワーを出て世田谷線の改札前を過ぎたところにあるシアタートラムでやっているから別の舞台みたいだった。『阿修羅のごとく』のチケットは先行や一般でも取れなくて、でも配信では観ようと思わないから当日券が出るみたいなので、朝イチの当日券整理番号をゲットする電話をかけてみようかなと思っている。

松本人志が爆笑・太田光にM―1審査員オファー 「認めてるんだなぁ」の声 

テレビがないので実際の場面を見ていないけど、お笑い好きな人は太田さんが「M-1グランプリ」の審査員をしてくれたらって思うところはあるだろう。同時にこの松本さんからのオファーをウェブニュースで見たときには、太田さんが審査員したらいろんなことが終わるなって感じた。
IPPONグランプリにしろ、ドキュメンタルにしろ、松本人志ゲームマスターとして頂点に君臨するものはいくつかある。「M-1グランプリ」は紳助さんがその位置にいたけど、今は彼に憧れて漫才師になった松本さんがその座にいるし、実際に顔になっている。キングオブコントもそうなっているが。
ゲームマスターにはそのゲームの参加者たちは勝てない。審査員も同様のことが起きる。
太田さんはずっと漫才をしてきた芸人であるが、審査員をすればそのゲームの参加者のひとりとなるから、松本さんには絶対に勝てない、というか軍門に下るに近い形になる可能性がある。
クレバーな太田光代社長は審査員をしないようにさせるとは思うのだけど、今回公の場でしかもカットできない生放送で松本さんが言った一言はどちらにしろ松本さんに有利に働く。
太田さんが断っても仕方ないなって思うけど審査員やってほしかったな、という声、太田なに断ってんだよ、松本さんは昔のことを水に流そうとしているぞ、という声。太田さんが引き受けても断っても松本さんはひとつも損をしない。
もし、松本さんが何気ないリップサービスとして言ったとしても、いろんな思惑があって言ったとしても、それを実際にやってしまえる影響力と勘所の押さえどころもお笑い能力並に高いというのが松本人志のすごさだなと思う。おそらく彼の築いた帝国を倒せたり、覆せるのはどう考えても松本人志やテレビに影響を受けなかった世代になるんだろう。
だが、太田さんにツイッターなどのSNSで誹謗中傷などが出ているので、法的に対応するという話が出ていたから、それを封じる意味で審査員をやるというのはゼロではないかもしれない。

radikoで『吉田拓郎オールナイトニッポンGOLD』を聴いていたらゲストの菅田将暉さんが映画『百花』の話の流れから、彼の祖母がある時期から彼を芸名の「将暉」と呼び出しはじめ(祖母の周りの人も菅田将暉というから)、でも昔からの本名である「大将」(本名は菅生大将)とも呼んでいるという話があった。菅田さんから見えるとどうやら祖母の中では「菅田将暉」「菅生大将」というふたりの人物が別々に存在している。しかし、彼の身体はひとつである。だが、祖母にはふたりの人物に見えている、あるいは認識されている。
芸名(ペンネーム)があると本名との乖離が生まれてくるとはいう。ペルソナが入れ替わったりする。横山やすしが本名の木村雄二ではなく、日常でも横山やすしとして振る舞うようになっていったという話を聞いたこともある。彼は芸人・横山やすしとして死んだというわけだが、相方の西川きよしは本名の潔をひらがなに読みやすくしただけだから、狂わなかったというのをなにかで読んだ気がする。
だけど、横山やすしと向き合って本名のままで仮面をかぶらずに生き抜いた西川きよしという人の方が本当の意味では狂っていると思う。本当の変態は普通の格好をしているというのに近いというか。という風に芸名と本名がある人の話とかは聞いたりするわけだが、当の本人ではなく、その親族がこの場合は孫だが、ふたつの人格として受け取ってしまうというのははじめて聞いたような。聞いたことないだけで、わりと著名人で芸名使っている人の家族や親族ではそういうことって起こっているのかな。

 

9月12日

昼の休憩中に書店に寄って古谷田奈月著『無限の玄/風下の朱』文庫版を購入した。
単行本発売時にB&Bで古谷田さんと仲俣暁生さんのトークイベントに行った。しかし、その後に舞台『刀剣乱舞』などの演出を手掛ける劇作家の末満健一さんのインタビューがあって、中目黒のワタナベエンターテインメントまで行かないといけなかったので後半戦は見れなかった。帰る前に仲俣さんに単行本をお渡しして、古谷田さんにサインをもらっていただけませんかとお願いをした。後日、仲俣さんとお茶をする際にサインしてもらった単行本を返してもらったという想い出がある。だから、今回の解説を仲俣さんが書かれていると聞いたので文庫版も購入した。
収録されている『無限の玄』は三島由紀夫賞を受賞し、『風下の朱』は芥川龍之介賞候補になっていた。個人的にはこの『無限の玄/風下の朱』のあとに刊行された『神前酔狂宴』のほうがシンクロする部分が多かったし、内容的にも三島賞っぽいのはそちらだなと思った。『無限の玄/風下の朱』から家や家族や国や国家へと広げていったのが『神前酔狂宴』だった。
脚本家を目指しているフリーターが明治神宮側の式場バイトをしているという話なのだが、そこで起きる茶番劇は神話を現代風にしたようなものだった。明治神宮という場所、ある種の天皇小説さもありながらも、結婚と家族と金と愛というものから平成の日本を浮かび上がらせていた。しかも笑えるというものだったという記憶がある。
古谷田さんはおそらく同学年であり、ゼロ年代以降に上京した80年以降生まれの人間が体験できたモラトリアムの様子を嘘くさくなく描いていた。団塊ジュニアよりも下で、ゆとりよりも上で、ロスジェネの最後尾にいた宙ぶらりんな世代の空気というのは間違いなくあって、山上徹也の安倍晋三銃撃事件以降そのことを考えている。
『無限の玄/風下の朱』を文庫版で読み返したら、新刊『フィールダー』を読もうかな。

前日、ツイッターで書肆侃侃房のアカウントで短歌ムック「ねむらない樹」vol.10の読者投稿欄の募集を見かけた。テーマは「電」もしくは自由だった。とりあえず、思い浮かんだものを一回三首まで応募できるようなのでサイトの応募フォームから三首作って送ってみた。

 

9月13日

深田晃司監督『LOVE LIFE』をTOHOシネマズシャンテにて鑑賞。ル・シネマでも上映しているのだが、14時以降とかしかないので、久しぶりにシャンテへ。
10時台の回だったが十人以上はお客さんがいた。わりと年代はバラけていたし男女差も半々ぐらいか。

「淵に立つ」でカンヌ国際映画祭ある視点部門の審査員賞を受賞するなど、国際的に高い評価を得ている深田晃司監督が、木村文乃を主演に迎えて描く人間ドラマ。ミュージシャンの矢野顕子が1991年に発表したアルバム「LOVE LIFE」に収録された同名楽曲をモチーフに、「愛」と「人生」に向き合う夫婦の物語を描いた。

再婚した夫・二郎と愛する息子の敬太と、日々の小さな問題を抱えながらも、かけがえのない時間を過ごしていた妙子。しかし、再婚して1年が経とうとしたある日、夫婦は悲しい出来事に襲われる。そして、悲しみに沈む妙子の前に、失踪した前の夫であり敬太の父親でもあるパクが戻ってくる。再会を機に、ろう者であるパクの身の回りの世話をするようになる妙子。一方の二郎も、以前つきあっていた女性の山崎と会っていた。悲しみの先で妙子は、ある選択をする。

幸せを手にしたはずが、突然の悲しい出来事によって本当の気持ちや人生の選択に揺れる妙子を、木村が体現。夫の二郎役に永山絢斗、元夫のパク役にろう者の俳優で手話表現モデルとしても活躍する砂田アトム。第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

という話であり、「月刊予告編妄想かわら版」09月号の最初の原稿では、

『淵に立つ』『よこがお』で海外での評価も高い深田晃司監督。彼が矢野顕子の曲『LOVE LIFE』を何度も聴いて、思い浮かんだシナリオを20年後に映像化した『LOVE LIFE』。妙子(木村文乃)は二郎(永山絢斗)と再婚し幸せな日々を送っていた。そんな中、子供の父親である失踪していた元夫のパク・シンジ(砂田アトム)が彼女たちの前に現れる。
 パクは韓国籍でろう者であったため、妙子が身の回りの世話をするようになっていく。「私はあなたを許さない」「わかってる」というやりとりも元夫婦の手話でから見ることができます。
 ここからは妄想です。妙子とパクの元夫婦の楽しそうな雰囲気を遠くから見ている二郎。しかし、彼には「奥さんの人生も二郎さんの人生もめちゃくちゃになってしまえばいいって」と山崎という浮気相手がいるのも予告編で見ることができます。
 妙子と二郎が誰を選ぶのかという話にもなりそうですが、予告編には葬式でパクが妙子を平手打ちする場面もあります。もしかすると、二人の子供が亡くなるのかもしれません。そのことで妙子は二郎と別れ、パクとも縁を切る。妙子は二人と離れて誰も知らない場所で新しい人生のスタートを切る、彼女のなりの新しい「LOVE LIFE」を探そうとするそんなラストかもしれません。

という妄想をしていた。提出後に画像を使用許可をBOOKSTANDのスタッフさんが宣伝会社に聞いたところ、

作品紹介に関して一点縛りがございまして、
本作がヴェネチア国際映画祭コンペティション部門に
選出されております。

映画祭側からのお達しとして、
映画祭上映日の9/6より前にSNSなどで試写の感想が
出回らないように、とのルールが設けられています。

同じく、ライターのみなさまの主観が入ったり、
具体的なシーンに言及したりするレビューが
9/6より前に掲載されることもNGとされています。
宣伝部としてはとても苦しいのですが…。
あくまでプレス資料の内容に沿ったものであれば大丈夫です。

と言われたと連絡があった。正直めんどくさっと思った。そんなルールがあることをはじめて知ったけど、そうすると予告編を観て妄想するのは不可能だ。予告編だけだがそこでわかる内容や具体的なシーンからどうなるかを考えるから、あたりさわりのないことしか書けない。
予告編でもあれ出てるやんって思ったし文章を直すのはなんか嫌だったので、同日公開の『百花』に変えた。そっちのほうが時間も労力もかかるけれど、ヴェネチア国際映画祭のお達しなんか僕には関係がないことだから。
僕の妄想ラストとかまったく合っていないわけですが、観てる時に感じたのは『百花』と通じている部分があるということ、そして、「アフター・『ドライブ・マイ・カー』」という要素がかなりあるなというものだった。

今作では妙子はある人物から周りからは忘れろと言われるだろうが、生きるために忘れるな、と言われる場面がある。『百花』は記憶を失っていく母と過ごすうちに息子が忘れていたことを思い出すシーンがある。両作品に出ている人物が割と主要人物に近い場所にいるのもある。対のようでありながら、二作品はかなり通じている気がする。血の繋がりと家族の話としても近いテーマを扱っている。
『ドライブ・マイ・カー』と『LOVE LIFE』は韓国と韓国手話、そしてそれぞれに出てくる夫婦が失ったものなどかなり重なるところがある。前者は役者と脚本家という庶民とは言えない生活をしている人たちだが、後者は福祉課で働いていて団地住まいという一般的な人たちでその部分はかなり対比的ではある。

語り=ナラティブという言葉をよく聞くようになってからか、同時多発的に「手話」を創作作品で見る頻度が増えてきた。もちろん、口を使った話すということだけではなく、手を使って話すということもナラティブであり、それは映像的には映えるものでもある。
今年の一月に観た『コーダ あいのうた』も主人公以外の家族は聾者であり、家族の会話は手話だった。それよりも前に小説だが、『曼陀羅華X』においてある教団の教祖の息子をさらった老作家がその子を自分の子として育て始めたが、教祖同様に息子も聾者であったため、老作家は手話を覚えて息子との会話は手話でやりとりをするようになっていた。2019年の連載最初で読んだ時にちょっとした違和感のようなものを感じた。古川さんはあえてここで手話を使うという設定にしている、あるいは登場人物がそう欲したことでそうなっていた。それはナラティブということとたぶん繋がっているのだろうと思った。

映画『ドライブ・マイ・カー』の韓国手話は一部では違うとかデタラメという声もあるようだが、手話がわからない人にとってはそのやりとりを見ると自分だけ阻害されたような、気になる。その手の動きは秘密のやりとりのようであり、自分には理解ができない。だが、それは耳が聞こえない人たちが普段から感じていることでもある。そういう反転が起きることで始めて、立場が変わって普段は気づかないことに気づく。そういう意味でも手話というものが描かれることは必要だと思う。そこにはその視線というものへの配慮というか、自分がどう考えるか捉えるかがより大事なことになっている。

『LOVE LIFE』は妙子が再婚した夫の二郎の父と母との関係性も重要だった。義父が二人の結婚に賛成をしていないこともあり、序盤に怒りというか溜まっていたものを吐き出すシーンがある。それは「中古」というワードがきっかけになる。
義父の妙子への気持ちはや発言は現在ではダメなことなのだが、かつて当たり前だった家族像の価値観で生きてきたおじさんらしさでもある。そのあとに義母が妙子に謝りながらも言ったたった一言がいちばん残酷であり、彼らの世代が悪気ないし、その鈍感さが克明に描かれていた。
僕のような結婚もしたこともなく、子供いない中年男性でも「おお、そういうセリフ入れてるんだ。こういうことを言わないようにしないといけないし、誰かが行った時には伝えれるようにはなりたい」って思えるものだから、近い状況になったことがある人はかなり嫌な気持ちを思い出したりするのだろう。
家族という形の難しさを深田さんはずっと描いてきているからこそ、入れている場面だと思う。

正直、あの予告編見ただけだと序盤以降の展開は想像できない。メインビジュアルの雨に濡れて周りに黄色い風船が浮かんでいる妙子は後半のある場面近くのシーンだけど、あれは思いっきり予想を裏切られた感じがしたなあ。
家族という他人である男女が婚姻なりなんなりで一緒に生活を始めていく、子供が生まれればその人物を挟んで血の繋がりができる。
今作でも血の繋がりというものの強さや個人が拠り所にしたり大切にするということが描かれている。同時にその際に家族でも血が繋がらない者はどうなるのか、どう関係性を築いていくのかという問いのようなものが最後に描かれていた。
深田晃司監督作だと『淵に立つ』『よこがお』の系統の作品。『海を駆ける』は最後にマジックリアリズムみたいなことが起きてわらったけど、深田監督は家族について描く時に「損なわれて」から人がどう思い生きていくかということを見つめたい人なんだろうと今作を観終わって感じた。
最後に映画のタイトルと構想元になった矢野顕子さんの『LOVE LIFE』が流れてきて作品としては終わるけど、彼らの人生はこれから続くんだなって思えて終わり方はよかった。

水曜日のカンパネラエジソン

家に帰ってから作業をしながら昨日深夜のラジオをradikoで聞いていた。オールナイトニッポンMUSIC WEEKの初日の一発目である「水曜日のカンパネラオールナイトニッポンX」を聴いた。
PARCOの屋上でやっていたイベントで二代目になってすぐのライブを少し見かけたことがあったが、詩羽さんの声とか話すテンポがとてもいい。このままレギュラーでやってくれたらいいのに。 水曜日ではないことは冒頭で話をしていた。

 

9月14日

「WKW(ウォン・カーウァイ)4K」という映画監督のウォン・カーウァイの過去作である『恋する惑星』『天使の涙』『ブエノスアイレス』『花様年華』『2046』の五作品が「4K」レストアになったもの。
午前中に早く仕事を開始して映画を観に行く時間を作った。『花様年華』のチケットを数日前にサービスデイなんだと思って購入していたのだが、木曜日だと勘違いしていた。実際は水曜日の14日の初回だったので、映画観る時間分を仕事開始時間前倒ししてから、映画館に向かった。休憩時間を行き帰りの時間にあてればいいだろうという考えである。
ウォン・カーウァイ監督作品は『恋する惑星』『天使の涙』は何度か映画館で観ているが、『ブエノスアイレス』『花様年華』『2046』は観たことがなかった。『ブエノスアイレス』はレンタルで一度借りた様な記憶はあるが、『花様年華』『2046』は一度も観たことがないものだった。『花様年華』は1962年の香港が舞台ということで観てみたいなと思ったのが大きいが、内容等はまったく知らないままで観た。
水曜日がサービスデーということもあるのだろうが、主演のトニー・レオンが好きなのかなと思われる僕よりも上ぐらいの女性がかなりいた。

【予告編】〈WKW 4K〉ウォン・カーウァイ4K 

1962年の香港。地元新聞社の編集者であるチャウと、商社で秘書として働くチャンは同じアパートへ同じ日に引っ越してきて、隣人となる。やがてふたりは、互いの伴侶が不倫関係であることに気付き、一緒に時間を過ごすことが多くなる。誰にも気づかれないよう慎重に、裏切られ傷ついた者同士が次第にささやかな共犯にも似た関係を育んでいくが――。(「WKW4K」より)

主演のチャウを演じるトニー・レオンもカッコよくて哀愁があるが、マギー・チャンが演じる隣人のチャンの服装、チャイナドレスがすごく素敵でいろんな服を着ているのを観るのもたのしかった。今までチャイナドレスを見てもなんというかコスプレだなって思うところがあったが、今作でかなり印象が変わった。
チャンのドレスはセクシーさもあるし賢明な感じもするし、柄とかもおしゃれで素敵だった。Wikiを見てみると「作品の中で主演女優のマギー・チャンやアパートのオーナー役レベッカ・パンが次々と着こなす美しいチャイナドレスは、アートディレクターのウィリアム・チョンが自分の母親が60年代に着ていた服をリメイクしたもの」と書かれていた。映像作品の服装ってほんとうに大事だし、特に年代もので昔を舞台にするとその時の服装を再現するか、こういうものもあったんだよって思わせてくれる服装だと作品の世界観がより確固なものとなっていく。
互いの妻と夫が不倫関係なのではと気づいてからのチャウとチャンの二人の密会というかボーダーラインは越えないものの、心はかなり近いところで寄り添っている感じが、大人の恋愛として描かれていた。今作もクリストファー・ドイルが撮影に入っているが、やはり映像に見惚れてしまう。そのおかげで二人が雨宿りするシーンもホテルや部屋で一緒にいるときも儚さがあって、映像としても魅惑的だった。
チャウが新聞小説を書き始めて、ホテルに仕事場を移すのだけど、そのホテルの部屋の番号が「2046」であり、そこではじめて僕は『2046』というこのあとに作られた作品がもしかしたら『花様年華』と関係があったり、繋がっているのかと思った。調べてみたら続編というか完全に繋がっている作品であることがわかるのだが、僕はそういうことをまったく知らないままだった。木村拓哉さんが出るってことで話題になってたよなってぐらい認識だった。
この日に映画を観たのでシネクイントのポイントカードが4つ貯まったので一回無料で観れるのでいい機会だから明日の休みにウォン・カーウァイ作品を観ようとスケジュールを確認したら、初回が『2046』だったのでそちらのチケットに引き換えた。『花様年華』と『2046』を繋げて観ることはすごくいいタイミングになると自分では感じている。今書こうとしている作品のヒントがあると本能というかなにかが訴えてきたから。

映画が終わると外に出てすぐにタクシーに乗って家に戻って作業に戻る。その後、もともとライブに行くので少し早上がりをする予定だったが、予定よりも30分以上は作業をした。


数時間前に来たばかりのホワイトシネクイントが入っているPARCOの目の前の「WWW X」まで家から歩いた。ずっと楽しみにしていた菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」お披露目ライブ「反解釈0」 にやってきた。
グッズ販売で白Tシャツを買ったが、荷物になるのでとりあえずロッカーに入れて身軽な格好で入場した。平日ということもあるし、客層的にも上ということもあるのだろう、19時半から開始だった。始まるまでのBGMも実験的なものであるとか、いわゆる気持ちのいいわかりやすい音は流していなかった。

 「もうバンドはやらないでおくべきか、やるのか?」を考えた。もう歳も歳だし。そして、昨年の秋頃から「来年(22年)は、コロナだオリンピックどころではない酷い世界になる。途轍もないことになるだろう」という直感が働き、そのための音楽が必要になる。第一には自分に。そして年が明け、直感は当たった。いつだって現代は混迷する酷い社会だが、今の現代は今までの現代よりも酷い。バンドを結成することにした。年齢的に言っても、高い確率で人生最後のバンドになるだろう。上手くゆくと20年ぐらいはやるので。
 
 「ラディカルな意志のスタイルズ」は、米国の女性評論家、スーザン・ソンタグの代表的な著作の一つで、愛読書でもあるけれども、音楽とは一切関係ない(というか、音楽と書物が関係を結ぶことはできない。「楽譜集」という書物でさえ、音楽とは、偽りの関係しか持っていない)。長い間、翻訳書名が「ラディカルな意志のスタイル」だったのが、2018年から完全版となり、「スタイルズ」に改まったので、「これはバンド名みたいだから、いつかバンドを作ったら名前を借りようっと」と思っていた。その時が来たのだ。せっかく日本語の名前をつけたので、バンド名を他国語には翻訳しない。
 
 <インストルメンタルのダンスミュージック>、以上の説明がつかない(ft ヴォーカルが2曲入るが)。ダンスというより、痙攣的な反射に近いかもしれない。全体的な質感は、電気楽器を使わない金属質で、メンバーは理念的には女性と男性(ジェンダーとかではなく、肉体が)が半々であることを目指しているが、初動ではまだそこまでには至っていない。活動しながら半々に向かう予定だ。ビジュアルは全て、日本のブランド「HATRA」が担当する。
立ち上げに関する声明文より

「ラディカルな意志のスタイルズ」のメンバーは菊地成孔(ss,as,ts,perc)、松丸契(as)、相川瞳(viv.perc)、林正樹(pf)、秋元修(Dr)、北田学(bass cl)、Yuki Atori(bass)、ダーリンsaeko(perc)という八名。
インストルメンタルのダンスミュージックと菊地さんが言われている様に、一曲は歌うというよりは菊地さんの朗読(ポエトリーリーディングジャン=リュック・ゴダールに捧げていた。省略する社会にはするなと)、アンコールでゲストボーカルが入ってマイケル・ジャクソンの『BEAT IT』カバー曲(けものさんのアルバムでもカバーしていたから菊地さんが好きなのか?)で歌ありが二曲。
ほんとうにパーカッションが心地よく、無意識に踊ってしまうダンスミュージックというか、 DCPRG感はリズム隊で残っている感じがするが打楽器が増えたことで太古な、原始的であり近未来的な音になっていて、なんだか聴いているうちに体が揺れてしまう音だった。あまりにもカッコ良すぎて何度か笑ってしまった。
コロナパンデミック以降で観ているライブは、菊地成孔向井秀徳が関わるものが半分以上なので、二人のリズムにずっと揺れている。

 

9月15日

昨日行ったPARCOとWWWに再び、という形になったが起きてから歩いてホワイトシネクイントへ。ウォン・カーウァイ監督『2046』 を鑑賞。

1960年代後半の香港。記者で作家のチャウはかつてひとりの女を心の底から愛したが結ばれることはなかった。過去の思い出から逃れるように自堕落な生活を送っていた彼は、ある日ジンウェンと出会う。彼女には日本人の恋人タクがいたが、父親の反対でタクは日本に帰ってしまった。チャウはふたりに触発され近未来小説を書き始める。(WKW4Kより)

今作は『花様年華』から繋がっている部分もあるが、チャウが自分が出会った人たちをモデルにしたSFというか近未来小説『2047』を書いており、その世界と現実の世界が交互に描かれる。木村拓哉フェイ・ウォンカップルは現実では日本と香港で別れてしまうが、小説の中では一緒にいる形になっていた。ただ、フェイ・ウォン演じるジンウォンをモデルにした登場人物はアンドロイドということになっていた。
冒頭は木村拓哉演じるタクのモノローグから始まる。60年代の香港というレトロさと近未来小説の世界観というのは悪くはないが、近未来のイメージがゼロ年代初頭ということもり、今見るとちょっと古臭いというか前世紀における近未来感は正直ある。だからこそ、おとぎ話というかフィクションとしてみることもできる。
チャウはシンガポールに渡った時に愛した女性、彼女の名前というのが前作に通じている。そして、またしても隣人と恋仲になるわけだが、その相手のバイ・リンというのをチャン・ツィイーが演じていて小悪魔的な雰囲気があった。
おそらくこの一作だけを観ても好きにはならないかもしれないが、『花様年華』と続けて観たことで僕の中ではとても好きな映画になったと感じる。『花様年華』の前には『欲望の翼』があるが、それは昔レンタルで観た記憶はなんとなくあるが詳細は思い出せない。実質、『花様年華』『欲望の翼』『2046』が1960年代を描いた三部作というかシリーズになっているみたい。できれば、三作流れで観た方がより楽しめたのだろうが、二作品を観れてほんとうによかった。まさにこのタイミングで観れたことが僕には大事だった。
「恋愛はタイミングで、早くても遅くてもうまくいかない。」というモノローグは恋愛以外のこともに通じている。というか人生がそういうものだといえる。

平家物語 諸行無常セッション(仮)』映画化記念 「皆既月蝕セッション」古川日出男×坂田明×向井秀徳

2017年に高知県竹林寺にて行われた「平家物語 諸行無常セッション」の映画化、とその記念の再セッションもやるというライブイベント。
僕は実際に高知の竹林寺に行ってこのセッションを観た。帰りの空港に暇すぎて二時間以上前に行って待っていると古川さんたち出演者さんたちと遭遇してしまうということもあった。一緒の便ではなかったし、向井さんは朝からビール飲んでてたくましいなと思ったし、当時はZAZEN BOYSのベースだった吉田一郎さんがローディとして同行されていたけど、朝イチでうどん食べてた記憶がある。
僕は発売したばかりの『平家物語 犬王の巻』を持ってきていたので古川さんにサインをしてもらった。映画『犬王』についてはフェスみたいな雰囲気とクラップユアハンズという僕が世界で一番嫌いなライブ作法などがあるので、その部分が正直まったく乗れなかった。そのことは日記とかnoteに書いているが、それ以前に「平家物語 諸行無常セッション」を生で観てしまっていたこともけっこう影響していた。
古川日出男×坂田明×向井秀徳っていう組み合わせは本当にとんでもないのよ、しかも竹林寺というロケーションだったから、あれ観ちゃったら無意識でも比べちゃうわけでさ、でもほとんどの人は観てないから伝わらない。
平家物語 諸行無常セッション」を観に行った時に河合監督たちが撮影していたのも知っているので、アニメ『平家物語』や映画『犬王』が放送や公開されたら、どこかでセッションの映像を出すのかなとひそかにたのしみにはしていた。
今回の「皆既月蝕セッション」という映画上映+ライブイベントの場所は「WWW」(元シネマライズ)だが、同じ場所で2015年に「ナンバーガールデビュー15周年企画 記録映像 シブヤ炎上轟音上映会~AKASAKA / SAPPORO~」というのを観ているから、同じとこじゃんってちょっとテンションあがった。

「プラネットフォークス」 5-hour liner notes (Introduction) 


ASIAN KUNG-FU GENERATION×#古川日出男 による『プラネットフォークス』対談と、レコーディング風景を交えたスペシャル映像をYou tubeに公開されていた。
昨日、映画『平家物語 諸行無常セッション(仮)』の監督である河合さんが12時と17時にお知らせがあると言っていたけど、二つ目はこちらだった模様。
『皆既月蝕セッション』は数日前に古川さんにメールした際に少しだけ聞いていた。こちらは知らなかったけど、アジカンとのコラボというかがっつり話を聞くものを長尺でアップというのはどちらのファンでもあるのですごくうれしい。


夕方に一服がてらニコラに行って、アルヴァーブレンドとガトーショコラをいただく。やっぱりこの組み合わせがいちばん好きかもしれない。

なんとか「笹井宏之賞」に五十首作って応募できた。あれが短歌と言われたら、自分でもわからないけど、それを元にして『鱗粉と忘却』という小説を書こうと思う。
花様年華』と『2046』を観たことも大きいし、前日に「ラディカルな意志のスタイルズ」のライブに行ったことでしっかりやらなきゃなと強く思えた。

 

9月16日
踊り子 / Vaundy:MUSIC VIDEO



mabataki / Vaundy:MUSIC VIDEO



「Vaundyのオールナイトニッポン0」を聴いていて、流れてきた『踊り子』はそう言えば聴いたことあるぞって思って、新曲には菅田将暉が出ているって話はしていたけど、MVに菅田将暉小松菜奈の夫婦がそれぞれ出演しているのね。
サマソニリバティーンズが来ないからチケット売ったから行かなかった。観に来た友達が土曜日の夜に泊まった時に話していて、「Vaundy」のことを言っていて、「Vaundy」を「バウンディ」って読むって教えてもらった。字面で認識しているんだけど、読み方がわかっていなかった。これは前からちょくちょくあって、書籍も装幀デザインで認識していることが多いから、著者名とかタイトルもデザインの一部として把握しているから、なんて読むのかわかっていないことがある。だから、著者名とかタイトルを言われてもピンと来ないことがある。装幀見ればわかるってことがあるんだが、それに近いんだと思う。
Vaundyってアニメが大好きで創作意欲に溢れてるのがラジオから伝わってきた。映画監督をやりたいって話をしていて、そのために自分でMVも作っているとのこと。すごいなって。なんだか、純粋な光が一気に光速を超えていくような、それをキレイだなと思って見ているような気持ちだった。

なんだかいろんなものに置いていかれてるなってこのところよく思うのだけど、先端にそもそもいないんだから、好きなことを好きだと言っていこう。そのためにはスタイルがいるんだろう。
春分の日の翌日生まれだから、秋分の日って一年のちょうど半分。3月の誕生日前後ぐらいからいろんなことが起こっていて、笑えないことが多かった。ちょっとnot不惑過ぎたからもう半分は不惑なスタイルで行きたい。前厄かと思ったけど、来年が前厄だった。

ロンブー田村淳も絶賛『シン・サークルクラッシャー麻紀』を書いた佐川恭一とは何者か 

町屋良平さんとこの前イベントでお話をさせてもらった時に、自分ぐらいまでは芥川賞でも文体とかでも評価してもらったけど、そのあと以降は内容にどんどん寄っていっていると言われてたのを思い出した。
文体にこだわったり、ある種の常識でアウトなものを描くと評価されにくくなっているというニュアンスだった。
小説が役に立つとか思っていたり、なにかを解決しないとダメとか思っている人が増えているのか。オープンエンドがエンタメでも減っている感じもする。役立たないからいいとは言わないが、芸術や文化というものに答えや役立つということを求めたら、最終的には人間という存在の有無に行き着くと思う。「正しさ」という看板で「人間のどうしようもなさ」を奪っていく(消していく)とやがて他者性を失ったただ息苦しい世界だけが待っていると僕は思う。

 

9月17日


1920年代の東京 高村光太郎横光利一堀辰雄』&『東京百年物語2 一九一〇〜一九四〇』
買ったままでちょっと読んで、放置していたのを読み始める。田河水泡についての資料として1920年代の東京が知りたくて買ったもの。
「近代」ということを考えると、大塚英志作品の影響もあるけど、柳田國男にしろ、夏目漱石にしろ、田河水泡にしろ、捨て子たちだった。柳田は幼い頃妄想した虚構の母というものに取り憑かれていたが、ほかの二人は実の親からは離されて育てられている。「近代」は捨て子たちが作った。だから、彼らは自分達が持てなかった家族を形成していく。それが戦中、戦後を得て核家族化していく。そして、核家族後の世界では子供の数は減っていき、老人たちが捨てられていく。

夏目漱石の『道草』は田河水泡の自伝を読んでいると重なる部分がある。だが、田河水泡夏目漱石とは違って根っからの根アカであり、前衛集団「マヴォ」離脱後は落語作家となって、その後漫画家となって代表作「のらくろ」を描くことになる。
捨て犬の「のらくろ」は田河水泡こと高見澤仲太郎であり、今で言うならアバターである。「近代」以後に田山花袋たちが自然主義から作り上げた「私小説」も、結局のところは「私」というキャラクターを纏っている、キャラクター小説である。
のらくろ」とはキャラクター漫画であり、田河水泡の「私漫画」である。ミッキーはすでに存在していたから捨て犬で四足歩行だった「のらくろ」はディズニー化して二足歩行になり、兵隊になる。そこに内面が生まれて、戦争を拒否したり、「アトムの命題」と言われるような傷つく身体となっていく。

内弟子長谷川町子がいて、幼い頃の手塚治虫は「のらくろ」を模倣していた。二人とも戦中の「大政翼賛会」のメディアミックス的な漫画に関わっていたりもするが、漫画の神様と言われる手塚治虫よりも前に日本の漫画に「アトムの命題」を持ち込んでいる人物であるのが田河水泡という人。
だから、マンガ・アニメカルチャーが日本が世界に誇る文化というなら、田河水泡を掘り下げることが大事なんじゃないかなと思う。だけど、どうやら誰もやろうとしない。僕は百年前の東京に親近感を覚える。大きな地震があって、世界の秩序が混沌としていくその前兆のような時期という部分でも「大正」と「令和」は似ているような気もする。
のらくろ」というキャラクターが生みの親であり、同時にもう一人の自分を語るという構造で田河水泡を描くことが一番リアリティがあるんじゃないかなと思う。資料として読んでいくとやっぱりこの時代はおもしろい。堀辰雄の著作を読みたくなってきたけど、書店でも『風立ちぬ』ぐらいしかなくて、『聖家族』はないからAmazonで中古を頼んだ。


twililight(トワイライライト)の屋上で行われた「管啓次郎『本につれられて』朗読会」に夕方から行ってきた。
タイミングというものはおもしろいもので、14日にWWW Xで菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」の初ライブを観た。バンド名はスーザン・ソンタグの書籍名から取られている。最初に出た際には『ラディカルな意志のスタイル』だったが、2018年に管啓次郎さんと波戸岡景太さんによる改訳と改題で『ラディカルな意志のスタイルズ』となった。それを菊地さんが「これはバンド名みたいだから、いつかバンドを作ったら名前を借りよう」と思っていたらしく、ご本人からすれば最後のバンドになるであろう新バンドを「ラディカルな意志のスタイルズ」と名付けた。
音源はまだ存在しておらず、今回の初披露ライブが「反解釈0」とされ、次回以降からは「反解釈1」という風にナンバリングが増えていくという形を取るらしい。ボーカルの存在しない「インストルメンタルのダンスミュージック」であり、パーカッションの多様もあり、太古のリズム、いや原始的であり同時に近未来的なダンスミュージックだった。ちなみに曲のひとつに「折りたたみ北京」というものがあり、あの中華SFアンソロジーの一編からタイトルが取られている。
ライブの時に「ラディカルな意志のスタイルズ」Tシャツを買っていたので、管さんのイベントに行くなら着ていかなきゃと思って着ていった。こういう話の種は大事だと思う、それもコミュニケーションになるから。そして、家を出る時に『コロンブスの犬』の文庫版をバッグに入れた。

台風は近づいているけど、トワイライライトの屋上でのイベントは問題なく開始された。18時から開始された時は空はまだ明るかったが徐々に紫も入ったような濃い青になっていった。その空の感じは嵐が来る前の重さを伴ったような青さにも見えた。
最初に3階でイベントの参加費を払ったあとに「本に連れられて」と「トン族の歌にふれて 旅とシンポジウム」をもらっていた。
本を読むことに自体に迷っている学生のために書いたふたつのエッセーが収録されている「本に連れられて」を管さんが朗読された。
最初の「本のエクトプラズム」は大学の図書館についてのものだが、読み始めると空がどんどん濃くなっていったが、屋上というロケーションがとてもよかった。土曜日に三軒茶屋の町の明かりや日常と真下の茶沢通りの交通音とかが朗読のBGMになる。続けて「立ち話、かち渡り」の朗読になった。
どちらも本を読むのが好きな人間としてとても勇気づけられたというか、そうだよね、そうなんですよ、図書館とか書店という場所が好きな理由はそういうことだし、本を読むという行為をやさしく肯定してもらうというか、無駄な力が抜ける感じがした。
質問のあとに『本は読めないものだから心配するな』の文庫版あとがきである「本を書き写すことをめぐる三つの態度について」の朗読がされて、ちょうど一時間になってイベントは終了した。

歩くのが好きだからよく歩いているけど、たまにワープしたみたいに時間が一瞬飛んでいるようにだいぶ先を歩いていることがある。何も覚えていない時もあるし、考え事をしていると体だけは動いていて、周りを認識した時にワープしたような気持ちになる。似たようなことは本を読んでいる時に多々起きる。文字を読んでいるから小説なら物語を目で追っているはずなのに、なにかするりと抜けてしまうことがある。とりあえず、最後までは読み終えているが、内容をあまり覚えていない。
でも、森に入って歩いていくとその全体像は掴めないのに、肌や衣服にこすれた葉っぱや枝の感触やそれでできた擦り傷、水溜りや木々の隙間から覗く太陽、鳥の鳴き声や虫の飛翔とか、そういうもの森から出ても覚えているような。それらは本を読んだ時に自分の内面に起きた変化、というか化学反応としての心象風景なんだと思う。
本はたくさん読んでいくとその森はどんどん大きくなっていく。歩いている小径が前に通った小径と繋がっていたりするし、知らない場所へも導いていく。ありがたいこともその森に迷っても本を閉じればとりあえずは脱出はできるし、複数の本を並行で読んでいても森のいろんな入り口から入って出てを繰り返すことができる。
そういうことが管さんの朗読と書かれた文章から僕の中に浮かび上がってきた。前からあったものが声と音によってしっかりとした輪郭を持ったようにも思えた。

終わって家から持ってきた『コロンブスの犬』にサインをしていただいた。管さんと僕はふた回り違うが同じ戌年であり、犬に反応してしまうという話もさせてもらえた。
本って読み終わるってことがなくて、ずっと読み続けるものなんだろうなって思う、肉体的に記憶的に限界がくればやがて読めなくなってしまうまでは。
「本のエクトプラズム」の中の一文で「教養は、やはり大切だよ。教養というのはひけらかしやお飾りのための知識ではない。<いま・ここ>に生きながら、その場にないもの、時間的にも空間的にも隔たったものを想像するための前提となる知識のことだ。なぜそれが必要なのか。<いま・ここ>を共有しながら、見えないもの、存在しないことにされているものやことをよく意識するために必要なのだ。」とあって、僕はそういう教養のある世界を欲してるし、そういうものを持てる人でありたいと思う。とてもいい朗読会だった。

 

9月18日

舞城王太郎第一詩集『Jason Fourthroom』(ナナロク社)
昨日、トワイライライトで購入したもの。読み始めると『土か煙か食い物』デビュー前から舞城王太郎舞城王太郎になっていたとわかった。千行詩というか、連なっていく言葉と物語に乗ってしまうと最後まで読んでしまう。舞城詩的ボーイ・ミーツ・ガール。
メルマ旬報の最後の原稿として書くのは『鱗粉と忘却』という小説の「忘却」パートのプロトタイプにしようと考えていたけど、この『Jason Fourthroom』を読んでいたら、千行詩みたいな感じにするのもいいのかなって思った。

『ボクらの時代』村上淳×浅野忠信×オダギリジョーを見た。この三人でも最高なんだけど、ここにプラスで永瀬正敏さんと安藤政信さんがいたら単館系に惹かれて上京した自分としては最強の五人だなあ。
オダギリさんが村淳さんと浅野さんの背中を追う中で、「浅野さんはCHARAさんと、村淳さんはUAさんと結婚してたから、僕もミュージシャンと結婚しなくちゃいけないのかなって思ってた」というところはおもしろくて、村淳さんが「そうだよ」って笑いながらって、浅野さんが「どっちも離婚している」って笑いながら言っている感じもとてもよかった。

菊地成孔による新バンド・ラディカルな意志のスタイルズ 初ライブで示した“反解釈”というコンセプト

この記事の最後のセトリで「折りたたみ北京」と最後のカバー以外の曲名を知った。 しかし、音源はしばらくでないままで「反解釈」シリーズライブを続けていくのかな。家でも聴きたいから音源はやっぱり欲しい。

起きてから家を出る前に玄関を開けると雨が降ったあとで、地面が濡れていた。Yahoo天気予想の雨雲レーダーを見ているとすぐに雨が降る感じだったので傘を持って出ると、すぐに降り出した。
大粒で強く降っている感じだったので、駅前で昼食と台風が来た時に窓ガラスに貼る用の養生テープを買って家に戻った。ご飯を食べているときにさきほどよりももっと強く雨降りの音がした。
今の状況でこれだと日本列島を横断する今回の台風が関東に近づいてきた時にはかなりヤバい状況になりそう。三連休開けの火曜日までは台風で天気は悪いみたいだから、多くの人は家で過ごす感じになると思う。
ライブ関係とかはどうしても中止とかになってくるだろう、交通機関が止まるとどうにもならないから。気のせいか左の上の奥歯が痛い。

 

9月19日
深夜の3時ぐらいまで起きていた。日付が変わったぐらいからNHKオンデマンドで『鎌倉殿の13人』の最新話を見た。主人公の北条義時が父の時政と畠山の対立の板挟みになる。最終的には畠山軍は敗れ、義時が父を政治から排除するための布石をどんどん打っていくという回だった。
ほんとうにシビれる展開というか、源氏から北条へとクーデターというか政(まつりごと)の内部での思惑と関係性によって、義時が源頼朝から引き継いだ意志や政治をどうやって行っていくのか、そのためにどんな人間にならないといけないのか、政(まつりごと)をするために必要な判断と決意ができる人間へとなっていくを描いている。毎回すごいと思うドラマだし、大河ドラマを最初から最後まで見たことはほとんどないので、やはり今作には惹かれる要素がたくさんある。
シルバーウィークで三連休だが、結局深夜の3時前まで起きていた。時折雨がザーと降る音がしては止んでみたいな感じだった気がする。

起きてから雨雲レーダーを見ると昼過ぎからまた雨が降りそうだったので、早めに外に出ようと思った。ずっと家にいるのはしんどい。夕方からリモートで仕事があるので、午前中に外に出ていないとどこにも行かないままで一日が終わってしまう。
散歩がてら9時にはオープンしている代官山蔦屋書店に向かった。台風が近づいているせいかかなり湿度が高いのか、歩き出してもTシャツが肌にまとわりつくような感じがした。風は強いけど、それ以上に湿度が気になった。


書店で前から気になっていた佐々木敦・児玉美月著『反=恋愛映画論──『花束みたいな恋をした』からホン・サンスまで』を購入した。装幀には映画『リコリス・ピザ』の主人公とヒロインが出会うシーンが使われていた。『リコリス・ピザ』は観てもあまり好きにはなれない映画だったが、やはりこのシーンは印象的だし、絵になる。発売はP-VINE。このレーベルは音楽と映画関係の書籍が出ていて、気になるものが多いから年に何冊かは買っている。


帰りは雨はまだ降っていなかったが風は強くなっていた。緑道沿いを歩いているとかなり大きな鳥がいた。調べてみるとどうやらアオサギだった。ほとんど動かなかった。何分かしたら首だけが向いている方向を変えた。
一羽ということではないだろうからつがいでもう一方のオスかメスがいるのだろうか。そうであれば、卵を産んでここで育ててからまた移動するのかもしれない。
大きな鳥って二度見してしまうというか、ギョッとするのは日常生活の中で目にする鳥がカラスやスズメやツバメやメジロのサイズが鳥という認識になっているからなんだろう。

 

9月20日
昨日が敬老の日だったので、「monokaki」スタッフ仕事はカレンダー通りなので休みだった。となると普段は休みな火曜日も出勤ということになる。今週は23日の金曜日も秋分の日で休みになっているため、普段休みな木曜日は働いて、金曜は休みという形になっているので、三日休んで三日働いて三日休んでということになる。
ただ、それは「monokaki」スタッフの仕事だけで、もうひとつの夕方からのマッチングアプリのcsスタッフバイトは土日も祝日も働いているので(「あだち充論」の連載も終わったし、とか原稿料がなくなったらそっちを増やすしかないわけだが)、Googleカレンダー見たら17日の土曜日は管さんのイベントに行くので休みだったけど、翌日の18日の日曜日から、朝か夜どちらか仕事が入っているか、両方入っているかでなんらかの仕事がある日が28日の水曜日まで続いていた。29日の木曜日まで11日間休みがなかった。
月に一回とかの連載がなくなるということは夜の仕事を増やすことになるので、動きにくくはなる。先にシフトを出さないといけないから。今月でメルマ旬報の連載も終わることになるので、しょうじきしんどい。ただ、今の状況ならなんとか大丈夫だけど、あると思っていたものは急に終わったりするのでその辺りは油断ならない。
ということはできることは、やらないといけないことはひとつしかない。そのためにはまずは体力を、精神が落ちないように体の健康は維持しておくことが前提になる。いろいろと世知辛いがまあその中で適度に時間を作って、ギチギチにならないようにはしているし、そのバランス感覚というか動きやすさを意識していくことは忘れないようにしたい。

Mitski - Glide (cover) (Official Audio) 

今週から公開されるA24の新作『LAMB』も楽しみだが、来月公開の『アフター・ヤン』も予告編を見るだけで期待値は上がっている。YouTubeを見ていたら、『アフター・ヤン』の中で岩井俊二監督作品『リリイ・シュシュのすべて』から『グライド』がカバーされているようだ。このカバーもとてもいい。 

 

9月21日
星野源オールナイトニッポン | ニッポン放送 | 2022/09/20/火 25:00-27:00 

冒頭20分のナンバガの話からの曲への流れがとてもいい。

水曜日はリモートでの作業中に深夜にオンエアされたTBSラジオの『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カーボーイ』、ニッポン放送の『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポン0』、 J-WAVEの『BEFORE DAWN』と聴くものがたくさんあるので作業BGMに困らない。

休憩中に外に出たら、湿気もなくてTシャツでは肌寒い感じで秋っぽくなっていた。メルマ旬報チームでもある木爾チレンさんの新刊『私はだんだん氷になった』が出ていた。買おうと思ったけど、来週の月曜日の26日に下北沢のB&Bで木爾チレンさんと実妹の倉田茉美さんのトークイベントに行く予定なので、B&Bでその時に書籍買ったほうが店的にもいいだろうなって思って見送った。かなり入荷していたし前作『みんな蛍を殺したかった』も評判が良くて重版が何度もかかったから今作は最初から刷り数が増えたんじゃないかなって思う。

The Smashing Pumpkins - Beguiled (Official Music Video)


Zwanもビリーのソロもライブで観ているけど、やっぱりスマパンが好きだし、ビリーはプロレスとかいろいろやってるけど、死なないで生きてロックをやっていることがうれしい。カートみたいに若くして死んで伝説になるのに憧れるのはガキの頃だけで中年になったら、生き延びたビリーのほうにより感情移入できる。僕の好きなロックスターだよ、ビリー・コーガンは。

 

9月22日
休憩中に歩いていたら、知り合いとすれ違って、挨拶がてら「ねむそうだね」と言ったら、「いつも同じ」と言われた。確かにこれから仕事に行く人に対して、そういうことは顔の表情的にメイクしてないとか諸々失礼なのかもしれない。「こんにちは」とかなんとなく照れ臭いものではあるが、今度からはそうしたいなって思った。

鳥嶋氏:
 僕も『ジャンプ』が面白くなくて、小学館の資料室でよく昼寝していたんです。
 それに飽きて、いろんな漫画や小学館の雑誌のバックナンバーを読み始めて。その時に『少女コミック』に載ってた『泣き虫甲子園』があだちさんで、「上手い人だなぁ」って思ったんです。
 その後、『ナイン』が『月刊サンデー』で始まった時に「あぁ、この人、来るな」って。そうしたら『タッチ』ですからね。

白井氏:
 古典的なギャグもね、スカートが風の中でパァッと広がったり。何ひとつ進化はしていないんだけど、確立された「あだち節」がピシッと決まっている。あれは時代の風とかそういうものと一切関係ない。

鳥嶋氏:
 僕がとくに感心したのは、あだちさんの縦位置カットなんですよ。節の葉っぱとか日差しが入って、登校しているシーンを上からの俯瞰で撮って。校門があるから一発で、「学校が始まるよ」ということが分かる。

鳥嶋氏:
 『750ライダー』はラブコメというか、あだちさん風なんですよね。バイクが好きな兄ちゃんと、彼が想いを寄せる女の子の、日常の何気ない話。ただそれだけで。

白井氏:
 そう。それで石井いさみさんの弟子に、あだち充さんがいたのよ。あの時、あだちさんをいじめたりせずに良かったなと思って(笑)。

鳥嶋氏:
 石井さんのアシスタント! 分かるなぁ……。

白井氏:
 石井さんのところに毎週、原稿を取りに行くわけじゃない。あの時あだちさんに辛く当たったりして、向こうがこちらに嫌な印象を持っていたりしたら、それがずーっと続くわけだから。

鳥嶋氏:
 そういう時に、編集はドキドキしますよね。「おぉ、こいつだったんだ」って。

白井氏:
 あの時に悪態をついたり「お前のおかげで遅いんだ」みたいなことを言ってたらね、違った関係が生まれていたかもしれない。だからやっぱり、無名の人は大事にしないと。
 『ジャンプ』はみんな無名でスタートするかもしれないけどさ、ウチはそういうわけじゃないから。
 そういうのって自分が言ったことは忘れても、言われたことは覚えているからね、作家って。「あの時、夜中に声をかけられて“がんばれよ”って言われました」みたいなことをさ、作家が言うわけ。
 僕はいつ言ったのか分かんないんだけど、そういうことを言わせるものがあったんだろうね、その作家が一生懸命描いているのを見てさ。

めぞん一刻』や『美味しんぼ』を手がけた小学館の伝説的漫画編集者・白井勝也氏に、元週刊少年ジャンプ編集長の鳥嶋和彦氏が訊く!──ライバル同士だった二人がいまこそ語る”編集者の役割”より

漫画編集者のレジェンドクラスの対談。あだち充さんに関しての部分はこのぐらいだが、白井さんはあだちさんと高橋留美子さんが活躍する80年代になる前には「少年サンデー」から「ビッグコミック」に異動して副編集者みたい。
もちろん時代の変化というものはあるので、対談を読んでも今は使えなかったり、できないことはある。編集者と漫画家といえど人間関係なので合う合わないもあるし、タイミングもある。
大御所の昔話という見方もできるが、同時に時代を作るような仕事をしてきた人たちの考え方や行動力を知るという機会でもある。僕が「PLANETS」のブロマガで連載していた『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春』(あだち充論)であだち充がデビューした1970年から取り上げているが、白井さんはおそらくあだちさんの担当編集者となった人たちの一つ上の「少年サンデー」黎明期の編集者なんだろう。


1920年代の東京 高村光太郎横光利一堀辰雄』を読んだので堀辰雄作品を読みたいなって思って、『燃ゆる頰・聖家族』新潮文庫版を取り寄せた。
映画化もされた『風立ちぬ』は読んでないけどそこまで惹かれない(それは映画のせいでもあるが)から、堀辰雄の師である芥川龍之介自死をモチーフにした『聖家族』読みたいなと思って調べたら、新潮文庫だと今は『風立ちぬ・美しい村』『大和路・信濃路』しか新潮文庫では残ってなくてほかは絶版になっていた。
Amazonで探したら90円だったので文庫で読みたくて頼んだのがきた。昭和49年の三十三刷で160円。ということは48年前。
1920年代の東京』を読んでいると詩と小説が近いところにあって(そりゃそうなんだけど)、気持ち今の状況も似てきた気がする。もともと大手の出版社になったところもその頃のインディーズの同人誌とかから始まったわけで、短歌とか詩とか盛り上がっているのは100年前に近いんじゃないかなって思っている。あと「アヴァンギャルド」「機械芸術論」みたいなものはウェブとかメタヴァースに置き換えてみることもできるのかもしれない。
「一九三〇年代から四〇年代については、日本ファシズムに収斂していく政治と文学の暗い狭間の光景」と『1920年代の東京』の冒頭にあるけど、その萌芽となる1920年はやっぱり関東大震災があった。東日本大震災の2011年ということをその時期と重ねると2010年代から現在までは世界的なファシズムにウェブによって加速した感じだなとかイメージもできる。

田河水泡について調べていると彼が生まれたのが「明治」の終わりで青春期はがっつり「大正」時代だし、彼が漫画家になる1920年代だから、今から100年前だからちょうど祖母が生まれた時期、三世代なら想像力は間に合う、というか届くと思う。
祖母のアルバムを見たら着物の人とセーラー服の人の両方がいる。そもそも「少女」という概念ですら1890年代あたりにできている。結婚し出産するまでの女性が丁稚奉公とかの労働力としてではなく、学校に通うようになっていったのがその時代だ。そこに出版社とかは目をつけて、「少女」という言葉を作って、その子たちをターゲットにした「少女誌」を作っていった。でも、その時の作り手はおっさんしかいない(職業婦人も多くはなかったし、出版社にも女性は少なかった)から彼らの求める「良妻賢母」になるような思想で雑誌が作られていた。
「少女漫画」だって手塚治虫たちがずっと描き手だった時代があって、その影響下で女性の少女漫画家たちが生まれて、次第に男性漫画家は少女誌では描かなくなっていった。あだち充はそういう最後の時代に「少女コミック」にいた漫画家でもある。あだち充と少女漫画の歴史を少し調べてもそのぐらいはわかる。上のおたく第一世代では当然だったことでも、その子供や孫世代のオタクは知る由もない。継承っていうのは大事だけど、やっぱり難しい。そういう文脈がわかるしある種の武器にはなるんじゃないかな、とは思う。
漫画学校とか漫画を教える大学とかもあるからその辺りは教えているかもしれないけれど、マンガ・アニメカルチャーが日陰の存在ではなく当然のカルチャーとして最初から消費している若い世代はそういうことを踏まえておくほうが海外とかで仕事をする際に、戦争とかの歴史がわかっているほうがたぶん変な誤解や軋轢を生まないで済むかもしれない。特に中国とこれから仕事をしていくメディア関係者は。


シルバーウイークというわけで、明日の秋分の日から三連休ということもあり、給料日が休みなのでちょっと早めの振り込みだったのでご馳走を食べようと、ニコラで真鯛としめじ、ひら茸、舞茸のスパゲティーニと白ワインをいただく。ピスタチオのペンネも久しぶりにメニューにあったけど、旬のものを食べたい欲望がまさったのでこちらにした。
たいてい春分の日の翌日になるのが誕生日なので、もう不惑の一年目の半分が経ってしまった。秋分の日イコール阿部和重さんの誕生日という覚え方をしているのは、デビュー作『アメリカの夜』で主人公が秋分の日生まれで彼岸に誕生日があるとかないとか書いていて、反対側の春分の日だわって思ったからよく覚えている。

D - composition 古川日出男 / Utena Kobayashi / Gotch / 佐藤優介 / Subtle Control /Miru Shinoda / Eucademix


『ゼロエフ』が朗読されるということは、登場人物の僕も朗読の一部というかそこに含まれる(孕まれる)のか。はじめての経験だけど、とても不思議な気持ち。

 

9月23日

REIのライブを観にきた地元の友人が昼過ぎに最寄駅に着いたので、そのまま合流してトンカツ屋に行って昼飯を食べる。ひとりではトンカツ屋に行くこともないのでいつぶりかわからないぐらいぶり。精肉店の上の二階にあるお店で前にも友人とは来たことがあったのだが、満席で僕らが数分待ったあとは何人か並んでいた。エビフライも食べたかったのでミックスC定食にしたが、美味しかった。気持ちおしんこと漬物が塩味が強い気がしたけど、味噌汁が調和してくれる感じの味で全体的にバランスがいいトンカツだなって思った。

The 1975 - All I Need To Hear 


友人が夕方のライブに行くまではテレビがないのでMacBook Airの画面でYouTubeを流していた。彼はこの間のサマソニにも来ていて、ヘッドライナーの「The 1975」をアルバム出る前ぐらいからフェスで観て追いかけていたので、来年のジャパンツアーも行くらしい。今度出るアルバムからのリード曲などを聴いてから過去のMVなどを見たりした。

「メルマ旬報」最後の連載は長い詩にしようと思っていたけど、前に書いた中編『セネステジア』をリライトすることにした。その作品は自分でもかなり好きな作品で地元の井原市が出てくるのだけど、これが形にできていないのは僕の力量不足でしかないが僕の書きたい物語だなってリライトする前に読み返したら、そう思えた。父離れではないけど、元居たところから出ていく話だから、今の心境と通じたのかもしれない。



今月はこの曲でおわかれです。
STUTS - World’s End feat. Julia Wu, 5lack (Official Audio)



ミツメ - Basic (feat. STUTS) | mitsume - Basic (feat. STUTS) (Official Music Video)