Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年7月24日〜2022年8月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年08月掲載


先月の日記(6月24日から7月23日分)

 

7月24日

ガルシア・マルケス  新しいラテンアメリカの作家たちが最も影響を受けた作家はフォークナーでしょう。一つ興味深いことがあります。私の作品にはいつもフォークナーの影響が指摘されますが、よく考えてみると、そう私に思い込ませたのは実は批評家たちですから、確かに影響関係はあるのかもしれませんが、今ではそれを拒否したいような気持ちにもなります。しかし、私が驚いているのはもっと一般的な現象です。実は、「スダメリカーナ=プリメラ・プラナ」文学賞の審査員として、未発表の小説を七十五作も読んだのですが、そのなかでフォークナーの影響が感じられない作品はほとんどありませんでした。駆け出しの作家だから、それが露骨に現れて余計に目につくということは確かにあるでしょうが、それにしても、どうやらフォークナーはラテンアメリカ小説全体に浸透しているようなんですね・・・・・・ つまり、誇張と紙一重な言い方で思い切って図式化すると、今名前の挙がった祖父世代と私たちを隔てる大きな違い、おそらく唯一の違いはフォークナーなんじゃないでしょうか。フォークナーのおかげで世代が入れ替わったと言えるかもしれませんね。
バルガス・ジョサ  なぜそれほどフォークナーの影響が色濃く出ているのでしょうね? 現代文学で最も重要な作家だからなのか、それとも、単にあの奇抜で独特な示唆的文学が真似しやすいということなんでしょうか?
ガルシア・マルケス  語りの作法の問題でしょう。フォークナーの作法はラテンアメリカの現実を語るには非常に有効です。知らぬ間に我々はそれを見抜いていたのでしょう。つまり、ラテンアメリカの現実を前にして、これを小説として語ろうとすると、ヨーロッパ作家の手法やスペイン古典文学の手法では歯が立たないわけです。そこにフォークナーが現れて、その現実を語るのにうってつけの手法を見せてくれる。ヨクナパトーファ群の河岸がカリブ海と繋がっていることを考えれば、実はこれもさほど不思議な話ではないのでしょう。ある意味フォークナーはカリブの作家であり、ラテンアメリカの作家なのかもしれませんね。


ついに『ポータブル・フォークナー』(ウィリアム・フォークナー著、マルカム・カウリー編、池澤夏樹訳、小野正嗣訳、桐山大介訳、柴田元幸訳)出るみたい。 

この前の「講演会「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点」でバルガス・リョサの『ガルシア・マルケス 神殺しの物語』が刊行されるって話もあったし、リョサマルケスの対談集『疎外と叛逆』を読んでいてもラテンアメリカ文学の始まりにはフォークナーがいる話も出てきていた。そういうものが続けて刊行される時期なのだろうか。

講演会「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点―マリオ・バルガス・ジョサ『街と犬たち』の魅力/ 日本語版



午前中に散歩がてら蔦屋代官山まで歩いた。帰ってきてからTシャツを着替えようとしたら首の襟首の部分が右側だけ丸く日焼けしていた。

 

7月25日

前日に購入していた綾部祐二著『HI, HOW ARE YOU?』読了。
綾部さんが自身の相反する部分をわかった上で、自分の気持ちを殺さないために陽キャとして動いていき、知り合いのいないNYでおもしろい人たちと出会って居場所を築いた冒険譚である。ちょっと自己啓発的な感じになっているのかな、と思ったがそんなことはなかった。読んで勇気をもらったりする人は多そう。
日本の赤とアメリカの青のグラデーションとしての紫色という話は今ほんとうに大事で必要なことだな、と思った。混ざり合う部分が広がっていくとアメリカでも勝てる、やりたいことができる強さになるという話。白と黒の二元論が混ざり合うグラデーションの灰色よりも紫のほうが色気があっていいかなとも感じた。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年08月号が公開されました。8月は『裸足で鳴らしてみせろ』『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』『バイオレンスアクション』『NOPE/ノープ』を取り上げました。


昼前にスーパーに買い物に出たが、この暑さは暴力的すぎる。
サマソニリバティーンズ出演日だけチケットを取っているが、コロナがまた感染爆発しているのも怖いが、野外で立ちっぱなしでライブ観るのはこのままの暑さだとほんとうにヤバいと思う。
小雨ぐらいが降るぐらいでちょうどいいぐらいなんじゃないだろうか。個人的にはリバティーンズ観たら帰るつもり。ヘッドライナーのTHE 1975まで待って帰るのは時間的にも体力的にもしんどいし、いろんなリスクが高すぎる。

 

7月26日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年7月25日号が配信されました。今月は十七編の詩とそれぞれに自分が撮った写真をつけたものにしてみました。


不平等な現実に抗う〈民主主義〉をめぐって - 古川日出男論座

最後の文章で大きく頷いて同意した。

秋葉原殺傷事件の犯人である加藤智大の死刑が執行されたというニュースを見る。事件は14年前の2008年に秋葉原で無差別殺傷事件が起こり、八人が亡くなった。インターネットの掲示板で嫌がらせを受けたこと、世の中が嫌になったという理由で加藤は犯行をおこしたと言われている。
加藤は今年39歳で1982年生まれであり、学年は違うが僕とは生年は一緒だ。安倍元首相殺害犯の山上は1980年か1981年生まれであり、82年生まれの少年Aたちと80年代初頭生まれが起こした犯罪はどうしてもある種の括りができるし、なぜその世代というかその時に生まれた者たちがダークサイドに落ちていくのか、彼らは知り合いでも知人でもないがやはり他人事には思えない。
そういうことを言うと世代論で語らない方がいいとか言われるけど、学生運動やっていたもう老人になっていた人たちがあの時の青春をひきづったまま法改正だとかに反対したり、震災後に国会議事堂までデモしていたのも大きく考えれば世代論になると思う。もちろん、あの時に学生運動が成功していたら、という可能性のことや「ありえたかもしれなかった未来」ということがずっとあるだろうし、現在の日本社会や民主主義の根幹が壊れていくのに我慢できないということはあるのだろう。だけど、それも同じ時代を生きてきたからこその価値観であり、世代論でまとめると本質を見失うと言われるけど、半々だろう。世代としての塊として、その時代を生きる人間として重なりあう部分がそれぞれにあるはずだし。
死刑に関しては、国家の暴力であり個人的には反対である。犯罪を犯したものは死刑にしていいとなれば、加藤のような世界に絶望した人間は誰かを殺傷したあとに死刑を待つだけになる。近年そういう考えの犯罪者も増えているのは、生活の貧困だけではなく思想の貧困さとあまりにも可能性が見出せない社会を見せつけられることも大きいはずだ。結局それが死刑を求めてまったくの無関係の他者を殺めたり傷つけるという行為に出るものを増やしているのだと感じる。
タイミングの問題もあるが、山上が起こした安倍殺害とこの加藤の死刑執行が関係ないようには思えない。そのことも気に掛かる。

 

7月27日

大塚英志著『木島日記 うつろ舟』が本日発売。
今日はたまたま吉祥寺シアターでロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』を観に行く日だったので、少し早めに吉祥寺に行って書店で購入しようと思ったら、ジュンク堂書店にはなくてブックスルーエに行ったらコミックコーナーにあったので購入した。
前に吉祥寺で西島大介さんと飲んだ時に、だいたい大塚さんあそこで作業しているよって言われたお店に時間があったので行ったら、本当にいらしたので中に入ってコーヒーを購入して隣の席についてご挨拶をさせてもらった。
大塚さんには小説『木島日記 もどき開口』刊行時にインタビューさせてもらった時にお会いしたのが最後で、その時期は毎月連続刊行がある時期で数回作品に関してお話を聞かせてもらっていたので数年ぶりにお会いできた。
今作『木島日記 うつろ舟』が星海社から刊行された経緯とか、少しだけ聞かせてもらった。舞台が始まるので20分ほどお話を聞かせてもらって、こんな機会はないのでわがままを言って出たばかりの書籍にサインをしてもらった。
cakesでインタビュー行っていろいろあって怒られた後に、僕一人でインタビューしに行った。その後何度かインタビューに呼んでもらうことになったのだが、その一人で行った時に帰り際に持って行っていた小説『多重人格探偵サイコ・フェイク』にサインをお願いした以来だと思う。
大塚さんからしたら作業中だし、迷惑なファンの一人ではあると思うけど、ずっと読んでいる作家さんの新刊が出た日に著者に会えたらサインもらいたいよね。
大塚さんには来年連載中の漫画が形になる時にインタビューさせてくださいねってお願いもした。一応、個人的にはまだこういう運とか縁みたいなものは残っているかどうかはけっこうデカい。
来月以降の『北神伝綺』『北神伝綺 石神問答』も星海社から出るのでたのしみ。さすがに家の近所とか渋谷で買うけども。


ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』@ 吉祥寺シアター 
「いつ高」シリーズを観ていたら、時間の層が重なってより楽しめる所はあるが、この作品だけでも本当に素敵な作品で、かつて居た人と今居る人が一緒にいる空間の描き方が素晴らしかった。ラジオやコント愛、笑いが溢れる空間になっていた。
お客さんで来ていた小学校に入ってないぐらいの女の子が声出して笑っていて、それもすごくいい雰囲気になっていた。これで岸田國士戯曲賞候補になって受賞しちゃえばいいのに。
『ここは居心地がいいけど、もう行く』ってタイトルもある登場人物が出てきてから、もしかしてそういう意味なの?と思い始めて最後まで観ると日常と非日常が心地よく混ざり合うように感じた。

終わってから一緒に観劇した友人と電車で下北沢まで行き、茶沢通りを南下してトワイライライトで軽くお茶をしながら話をした。
久しぶりに会うので近況などもあったし、互いにお世話になっていた人の現状など話せる人が周りにいないのでその話とか。友人からはこの先ある場所で寄稿する話が進んでいると聞かされてうれしかった。声をかけてくれた方もすごい人でいろんなことを面白がっている人だし、その人が関係する場所で友人が長年調べていたことを発表できるというのはとてもいいことだ。もちろん、チャンスでもあるけど、友人の形にしたいという思いや行動が届いたことがとてもうれしかった。

 

7月28日

朝起きてから、「WDRプロジェクト」の原稿をチェックして最後の修正と調整をして応募する。
その後、銀行によって家賃とか税金を支払って、書店で燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』新潮文庫版を購入する。解説が町田康さんだった。

昼過ぎに映画の試写に行くつもりだったので、一旦家に帰ってからそのまま渋谷方面に歩いて行こうと思って試写状を見たら、前日の18時までに予約をしていないといけなかったことがわかり諦める。
とりあえず、渋谷の書店に行って、マーク・フィッシャーの新刊が出ているかなと思ったがまだでておらず、汗だくで12キロほど歩いていた。


二日続けてのトワイライライトになるが、夜のトークイベントを申し込んでいたので少し早く行ってニコラでお茶をしようと思ったらお店も混んでいたので食事はしないでビールとコーヒーを飲みながら、『西村賢太追悼文集』を読み進める。19時開始で30分前に開場だと思っていたら、30分勘違いしていて19時半から開始だった。

19時少し過ぎてからトワイライライトに行って、トークが始めるのを待つ。倉本さおり+町屋良平『読むこと、書くこと、その往復』トークイベントで来店参加。トワイライライトが3月11日にオープンしてから何回もお店には行っているが、店舗でのイベントには今回初参加だった。
お二人のトークのテンポと温度感などすごく合っていて、退屈しないでずっと聞いていられた。これってけっこうレアなというか、トークイベントってもちろんその登壇者のファンや興味ある人が来ているからたのしめるのだが、トークが淀みなくうまく噛み合っているかどうかというのはやはりなかなか難しい。しかし、今回のお二人は噛み合い方が滑らかでシリーズ化してほしいものだった。
読む&書く時の体調とか、インプットするまでの種まきや水撒きの話も個々の違いと似た部分の話が聞けてよかったし、終わってから初めてお会いした町屋さんに挨拶して、『ほんのこども』の感想と80年代初頭生まれの問題なんかをお話しできてよかった。
江國香織さんと古川日出男さん大好きな倉本さんとも古川さん話もできたし、江國さん好きな町屋さんに二人で江國さん&古川さんはインプットは全然違うけど、ものの捉え方は一緒なんだと思うという話もさせてもらった。

 

7月29日
燃え殻さんのラジオ『BEFORE DAWN』をradikoで聞きながら、リモート作業。
大盛堂書店の山本さんも本の紹介でコメントを寄せられていた。山本さんが紹介された佐原ひかりさんは「氷室冴子青春文学賞」出身で、その賞は僕がスタッフをしている「monokaki」の母体である「エブリスタ」が公募している。
佐原さんの活躍と評価を見ると、「氷室冴子青春文学賞」出身者の作家さんがこのまま活躍していくと、「メフィスト賞」や「R-18文学賞」という小説好きな思い浮かべる作家群が出ていく場所のようなものになるんじゃないかなと期待している。僕は「monokaki」だけなので関わっていないのだけど。

燃え殻さんの『すべて忘れてしまうから』の新潮文庫版が出ていたので、順番ではなく、なんとなく開いた場所を読んでみる。単行本の時に読んでいるので、読んだことがあるよなあと思う、文章に再会するような感じがした。単行本で読んでいるものはまず、最後の文庫版のあとがきとか解説から読むので、町田康さんの解説から読んだ。町田さんらしいエピソードを持ってきていた。
山本さんも言われていたけど、燃え殻さんの書かれるものは「逃避行」とか「ここからどこかへ逃げる」というものが核にあって、それが多くの人を惹きつけるし、読み手に深く沈み込んでいくのだと思う。
逃げたいけど逃げられないとか、ふらっとどこかに逃げたくなるとか、でも家族や仕事やとかもろもろあってそれができない人の背中を押すこともあるだろうし、できない人の代理というか代わりに燃え殻さんがそれをしていることで心が軽くなる人もいるのだと思う。

小説『これはただの夏』は主人公の「ボク」と同じマンションに住む小学生の明菜の物語であるが、父になれない子供を持たない中年男性が子供と過ごす話である。マイク・ミルズ監督『カモン カモン』や『トップガン マーヴェリック』同様のテーマだなとも思う。
先進国で結婚しないで父にもならない男たちが、どう大人になるか、父になるかという問題がこの数年描かれるようになっている。それは僕も同様の中年で結婚もしていないし子供いないから余計にそう感じるのだとも思うのだけれど。
ソフィア・コッポラ監督『SOMEWHERE』はハリウッドの映画スターのジョニーが前妻がしばらく家を空けることになり、別に暮らしていた11歳の娘のクレオを預かることになってしばらく同居するというものだった。
『これはただの夏』と『SOMEWHERE』はどちらも主人公と時間を共にする子供の母はいなくなる。『これはただの夏』でも明菜の母も、『SOMEWHERE』のクレオの母も、ある種「逃避行」をしているし、短い期間だが「ここからどこかへ逃げる」ことで人生のバランスを取ろうとしているように見える。だから、『これはただの夏』は逃避行された側を描いた作品である(彼女たちは帰ってくる)ので、燃え殻さんがずっと書いてきたこととは見え方が真逆だが、軸は通じている。

燃え殻さんの小説やエッセイを読むとその「逃避行」的な部分も憧れもあるのだけど、僕はどこかへふらっと行けるタイプではない。だけど、シンパシーを感じるのはそもそも僕が東京に居て暮らしていることが僕なりの「逃避行」のひとつの形であるからなのだろうと書きながら思った。もちろん、妄想や想像も「逃避行」のひとつになっているんだろう。田舎の人間が大都市で生活すること、地元に戻らないという選択を取り続けるのは「逃避行」の常態化ということもできるのかもしれない。


マーク・フィッシャー最終講義『ポスト資本主義の欲望』が出ていたので購入。
『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』刊行時にタイトルと装丁に惹かれて出会った時にはすでに著者はこの世にはいなかったが、こうやって形に残っていくことはとても大切なことだと思う。


前に古本で買った村上龍坂本龍一著『EV.Cafe 超進化論』(鼎談:吉本隆明河合雅雄浅田彰柄谷行人蓮實重彦山口昌男)を読了。
『愛と幻想のファシズム』に至る過程というか龍さんが、小説を書くために歴史や経済や生物学などをどんどん学んでいた時期なんだとよくわかる。

 

7月30日

朝起きてからスーザン・ソンタグ著『ラディカルな意志のスタイルズ』があるかなと蔦屋代官山書店まで散歩がてら歩いていく。やっぱり人文書コーナーにあったので購入。菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」のバンド名はこの書籍から取られている。

 「ラディカルな意志のスタイルズ」は、米国の女性評論家、スーザン・ソンタグの代表的な著作の一つで、愛読書でもあるけれども、音楽とは一切関係ない(というか、音楽と書物が関係を結ぶことはできない。「楽譜集」という書物でさえ、音楽とは、偽りの関係しか持っていない)。長い間、翻訳書名が「ラディカルな意志のスタイル」だったのが、2018年から完全版となり、「スタイルズ」に改まったので、「これはバンド名みたいだから、いつかバンドを作ったら名前を借りようっと」と思っていた。その時が来たのだ。せっかく日本語の名前をつけたので、バンド名を他国語には翻訳しない。(ビュロー菊地だよりより)

スーザン・ソンタグの名前は聞いたことはあったけど読んだことがなかった。新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」の初お披露目ライブである「反解釈0」の先行チケット申し込みをした流れもあって、この際に読むのはいい機会だと思った。
『ラディカルな意志のスタイルズ』の訳者は管啓次郎さんと波戸岡景太さんのお二人だった。管さんは「朗読劇『銀河鉄道の夜』」などでお会いしていて、波戸岡さんって名前を知ってるなと思ったら管さんも発表者として出演された特別シンポジウム「古川日出男、最初の20年」に出られていた方だとわかった。シンポジウムを見にいっていたので、こういう所で菊地成孔さんからのラインが繋がるのはなんだか心地いい。

そんな中、「ビュロー菊地チャンネル」のブクログの最新回「コロナ感染記」が公開された。登録していなくても今回は読めるようになっているらしく、ツイッターでも回ってきた。
チャンネル登録しているのでメールのほうに来ていていたので、仕事が終わったら風呂に入りながら読もうと思っていたけど、それで早めにウェブで読んだ。
菊地さんがコロナに感染したのは前の日記にもあったが、新バンド『ラディカルな意志のスタイルズ』のライブを期待していて(チケットが確保できたわけではないが)、その由来の書籍を買った日にこういう文章を読んでしまうといろいろと心配にはなる。
感染してから9日ほど経過して日記も書けるようになったらなによりであるが、ライブで元気なというか新しいことを始める菊地さんをしっかりとこの目で観たいと思わせてくれた。

あと、日記におけるストリートの繋がりと知性で動いたという部分も考えさせられる。スマホではどうにもならない事柄、生存に関わる部分はネットやスマホだけに頼っていたら無理だということが可視化されているのがコロナの時代だし、どちらも駆使しなくてもいいが、ほどよく使える状態でないと助かるものも助からないということがみんな肌身にわかってきていると思う。
スナックが客の生存確認になるような顔見知りの関係性とかはないよりはあったほうがいい。僕にとってはニコラがそれにあたるけど、顔見知りがいなくても(作らなくても)生きていける都会という場所は一歩間違えれば、年を重ねている人は簡単に孤独死してしまう可能性がコロナによって比較的上がってしまったわけだ。SNSも生存確認的な場所になっているところはあるし、Facebookは使っている世代が中年以降だろうからそうなっている部分もある。


Apple 1984 Super Bowl Commercial Introducing Macintosh Computer (HD) 


『ポスト資本主義の欲望』の最初の注に出てくるAppleのCM。
ジョージ・オーウェル著『1984』を彷彿させ、ソ連など共産主義の灰色な世界をカラフルな服の女性アスリートが放ったハンマーが演説をしている男性が映っているモニターを破壊する。

『神回だけ見せます!』#6 マスクマン!(ゲスト:蛭子能収)が公開されてるのに気づいた。一気にシーズン2とも言える「#10」までの5回が配信されていた。

伊集院光さんと佐久間宣行さんによるこのシリーズは前回のシーズも全部何回も見たけど、次のものを撮影したと言われていて楽しみにしていたからうれしい。この「#6」の蛭子さんは素というか、テレビでは見たことのないような、家庭での亡くなった妻との時間を過ごしていた時に近い状態をある意味でテレビに映し出されている。ドキュメンタリー的なものが強く、最後にCG画像で出てくる若き頃の蛭子さんと妻の声を誰がやっていたのかが明かされるのだが、ほぼ当ててしまった伊集院さんもすごいし、その正体も驚きしかない。

『神回だけ見せます!』#9 プロ野球中継 巨人–中日・伝説の神イニング 

野球好きの伊集院光さんの細かな部分の指摘と裏方だったからわかる佐久間宣行さんのスイッチングの凄さの話がより試合を面白く見せてくれる。松井秀喜さんの喜びの顔を撮れた理由の説明も納得。

『神回だけ見せます!』#10 日本のバラエティーを創った男・井原高忠(ブラウンさん)

水道橋博士のメルマ旬報」チームでもある吉川圭三さんがプロデューサーだった番組で、最初に井原さんについてコメントされていた。前のシリーズの最後「#5 萩本欽一(ブラウンさん)  」もすごくおもしろくて、萩本さんとオードリーの若林さんふたりでやったラジオも聴いたりしたし、YouTubeのコメント欄ではやはりこの配信を見てからきた人が多かった。

今回新たに5回分配信されたのを見始めたら一気に全部見てしまったのだが、シリーズを通して日テレサーガと日本のバラエティの歴史を描いているように見える。MCが元テレ東の佐久間さんと伊集院光さんという日テレ外部の人間であるが、テレビ局の裏方だった人と出演者としてずっと活躍している人というコンビ。しかもどちらもラジオ番組でMCをしていて多くのリスナーがいて語りもうまく、エンタメ関係の造詣があるからこそ、語れる角度があるという非常にいい組み合わせ。

井原さんが元ジャズのベーシストだったという話が出てくるが、日本のTVバラエティや大手芸能プロダクションはジャズと音楽から始まってるし、ベースになっている。音楽的な部分がテレビを作ってきたという話も出てきて興味深い、今はそういうものはどうなっているんだろうか。
クレイジーキャッツやドリフなど音楽畑から出てきた人たちがバラエティを作ったのちに、漫才ブームなど経て吉本勢が日本のバラエティ番組を支配していった流れがある。そこにはジャズのリズムとは違う関西弁のリズムがあっただろうし、最初にあった音楽的なものは薄れていったんだと思う。


菊地成孔さん曰く「一人クレイジーキャッツ」な星野源さんはその始まりの遺伝子を引き継いでいるからこそ、『おげんさんといっしょ』もできるわけだし、現在性を持ちながらもかつてあった音楽も笑いも含んだバラエティ的なこともできるんだろう。
あとはジャズの孫的なラップをやっているラッパーという存在が先祖返りしてもっとバラエティ的なものに出てくる、変えられるターンが来たりするのかなと思わなくもないが、今の所そういう感じはあまりない。

 

7月31日
2年前の今日(7月31日)から『ゼロエフ』の国道6号線パートの取材が始まった(歩き出した)。終わったのは8月10日。もう2年前なのか、まだ2年前なのか。

目撃!にっぽん 「震災10年の“言葉”を刻む ~小説家・古川日出男 福島踏破~」



ナ・ホンジン(『チェイサー』 『哭声/コクソン』)原案・プロデュース ×バンジョン・ピサンタナクーン監督『女神の継承』をヒューマントラスト渋谷で朝イチの回を鑑賞。『哭声/コクソン』が衝撃的だったこともあるし、土着的な物語っぽいのも惹かれてなんとなく前情報はほぼなく観た。

「チェイサー」「哭声 コクソン」のナ・ホンジンが原案・製作、ハリウッドリメイクされた「心霊写真」や「愛しのゴースト」を手がけたタイのバンジョン・ピサンタナクーン監督がメガホンをとった、タイ・韓国合作のホラー。タイ東北部の村で脈々と受け継がれてきた祈祷師一族の血を継ぐミンは、原因不明の体調不良に見舞われ、まるで人格が変わったように凶暴な言動を繰り返すようになってしまう。途方に暮れた母は、祈祷師である妹のニムに助けを求める。ミンを救うため、ニムは祈祷をおこなうが、ミンにとり憑いていたのは想像をはるかに超えた強大な存在だった。(映画.comより)

一応、祈祷師であるニムをドキュメンタリー撮影しているクルーがいて、その流れから彼女の姪っ子のミンや姉のノイ、長兄なども撮影しているというフェイクドキュメンタリー的な作品になっている。その中で本来は妹だったニムが祈祷師になるのではなく、姉のノイが継承するはずだったが彼女はそれを拒んだことで妹が継承したことなどがわかり、一族間でのわだかまりのようなものも明らかになっていく。

ノイの娘であるミンが次第に凶暴になったり、ひどい言動をするようになって別人のように振る舞うようになる。ニムたちは彼女の出ている症状から次の継承者がミンであると思うのだが、実は彼女に取り憑いていたのはニムたちの一族のものではなく、ミンの父方の一族が起こした出来事が原因だったことが判明する。ニムは自分では手に負えないとさらに強力な力を持つ祈祷師に助けを借りて、ミンに取り憑いた存在を取り払おうとするのだが、という話。
その部分があるのでふたつの強い力のぶつかり合いみたいなところもあるので、『貞子vs伽椰子』ぽさもあるなと思えた部分があったけど、あのラストみたいな爆笑は起きずに、終始かなり怖かった。何も食べずにコーヒーを飲みながら鑑賞していたので途中怖くてちょっと吐き気がした。空きっ腹だったからダメージが来たのだろう。

ドキュメンタリータッチだから、外部(部外者)的な視線(カメラの視覚)と土着的な内部(歴史や民族的もの:精霊とか諸々)が混ざり合う感じになっていた。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とアニミズム的なものを掛け合わしたホラー作品というのが一番わかりやすいかもしれない。対決が終わったあとにニムのある発言が撮影されているという部分があるのだが、それがいちばん怖いっちゃ怖いし、作品に対してのエクスキューズぽさもあった。


アアルトコーヒーの庄野さんにオススメされた浅倉秋成著『失恋の準備をお願いします』を読み終わる。
元々のタイトルは『失恋覚悟のラウンドアバウト』だったが、改題してタイガ文庫で出ている。改題前のほうがいいタイトルだなと最後まで読むと感じた。
伊坂幸太郎さんの『チルドレン』ぽいやさしい感じもあったし、森見登美彦さんっぽい会話のテンポややりとりがあるので、二人が好きならおそらく楽しめるエンタメ作品。そう考えるともっと売れて評価されていてもよさそうな気もした。
ひとつの舞台を章ごとに語り手がいて、連作短編的につなげていくのは伊坂さんぽいし、読みやすくてやりとりもおもしろかった。設定もわりと突飛なものがありましたが、登場人物たちをセリフのやりとりのいい流れでその違和感をなくして、世界観に入り込ませていくのは上手だなって思う作品だった。

 

8月1日

水曜日にインタビュー取材に行くので久しぶりに会社に行き、先方に借りっぱなしになっているポメラを回収した。部屋の端っこに積んである段ボールの中から発見できたので、そのまま持って行ったノートパソコンで作業をしてもよかったが、現在本来使っているフロアが改修中で、大きめのフロアにいろんな事業部が集まって仕事をしている感じで、知った顔もいないし、そもそもリモート長くなったせいで人と一緒の場所で作業するのが違和感あるのでポメラを持ってすぐに会社を出た。
最寄りの竹橋駅東西線なので、歩いて九段下駅までそこから半蔵門線で渋谷まで行ってから残りを歩いたら汗だくになった。体がかなり熱を持っている感じだったので、家に着いてから水風呂に入った。これだけ暑いと水風呂にしても「つめたっ!」という状態が続かずにすぐに慣れた。心地よい感じで体の熱が放出される感じが心地よかった。

 

8月2日

ハチミツ二郎著『マイ・ウェイ東京ダイナマイト ハチミツ二郎自伝-』読了。
整骨院帰りに銀行に寄って、開いたばかりの書店で購入して読み始めて、ああ、これは最後まで一気にこの日のうちに読まないとダメなやつだと思った。
僕が東京に来てから最初に観たお笑いのライブは東京ダイナマイトのものだった、はずだ。記憶が覚束ないが映画の専門学校の関係というか繋がりで彼らのライブの無料招待枠があるというので足を運んだ。箱ではなく空が開けていたから今考えると日比谷野音とかだったと思う。この本に出てくるフリーでやっている時に日比谷野音でやったライブだったのではないかと思う。ちょうど2002年、上京した年だ。違うとしても映画学校関連でどこか野外で東京ダイナマイトのライブを一度観ている。

心不全とコロナ罹患による二度の死にそうになった経験、お笑い芸人として事務所を渡り歩き、吉本の劇場でショー・ストッパーになりトリを務めるようになった話など、15才で東京に出てきて20才でNSCの東京第一期生になって芸人になってから現在までのことが書かれている。
妻と娘と家族のこと、サンドウィッチマンの伊達さんなど昔から一緒にやってきた芸人仲間とのこと、ビートたけし中田カウス立川談志長州力など粋な人たちの交流と彼らからもらった言葉、松本人志太田光という先輩芸人たちのことなどがかなり赤裸々に綴られている自伝だった。
最終的には実家の家族、自分の今の家族における人間関係の話が淡々とだが語られていく。そこで明かされていく事柄が家族というもののややこしさ、人間同士のつながりの強さともろさが書かれており、胸に響く。ちょっとだけ、映画『嫌われ松子の一生』みたいな肌触りのようなものがあった。

作中でハチミツさんがかつて世話になったが、トラブルになったり関係性を絶っているような感じになっている先輩の名前が黒塗りで出てくる。ひとりは黒塗りの箇所の一箇所の漢字が見えたりして、名前がわかるという仕掛けになっており、申し訳ないがわかった瞬間笑ってしまう。なにがほんとうなのか他者である読者には実際のところはわからない。これはハチミツさん側から見えた出来事だから。
この先輩後輩関係のところを読んでいるといろいろと頭に浮かぶものはあるが、結局のところ、双方の話を聞いてもおそらく記憶していることは違うだろうし、感情も記憶も残念ながら生きていく日々の中で変わって行ってしまう。
人間は憧れと蔑み、恩と仇など自分の人生におけるそれらの感情と共に他者のことを人生に刻みつけていく。

ともあれ、『あちこちオードリー』だったか、上から可愛がられている人よりも下から慕われている人のほうが信用できるというのを見た記憶があって、残念ながら僕は下には慕われそうにはないので邪魔をせず、陰ながら応援するというスタイルで生きていこう。エアポケットの、上から足蹴り、下から踏み台にされる世代としては。
お笑いとプロレスというものに影響をド直球で受けた世代であるハチミツさん、年齢からすれば団塊ジュニアに属するはずだ。個人的には僕よりも上の世代の彼らのことが時折羨ましいなと思うのはまず人口的に多く、いろんなものが細分化されずにデジタルに移行する前のアナログだった時期に思春期を過ごしていることである。だから、共通認識(あるいは固有名詞)でわかる事が最後に多いパイであり、それだけで未だに商業的に成り立つ最後の世代だということだ。

就職氷河期とか失われた30年がなければ、団塊ジュニア上司とうまく関係を築くための専門用語集みたいな形のコミュニケーション本みたいなものが出ていたのかなと思う。
いろいろと思い浮かんだことを書いたけど、『マイ・ウェイ東京ダイナマイト ハチミツ二郎自伝-』はすごくおもしろいので、お笑い好きな人や自伝とかノンフィクション好きな人にはオススメ。

 

8月3日
二年ぶり二度目のキングジムさんの本社に出向き、新製品「DM250」が発売になったポメラについてのインタビューをさせていただく。もうひとり編集部から伺う予定だったが体調不良なので一人でお話を伺った。
前にお話を聞いた時は三人で伺ったので、話を聞きながら、一人は同時に文字起こしをし、一人は写真を撮ったりと役割分担ができたが、一人だと話を聞く以外は無理なので、録音が失敗しなければ大丈夫だと思い込んで、一時間半近く広報部と開発部の方お二人にポメラについていろいろと聞かせてもらった。
実際に対面でインタビューするのはかなり久しぶりだったけど、ZOOMとかでは顔色や声色などの情報量はどうしても少なく距離感が難しい。

新製品「DM250」のキーボードの打ち心地やボタンを押したあとの返りなんかも前作「DM200」と並べて押させてもらったりしてその違いもわかったりした。こういう微細なことがやはり大きなことだし、質問や僕が相手の話に対しての反応、そういうものへのリアクション、さらにそれへのリアクションというライブ感が大事な要素となる。インタビューはテーマや取り上げるものについて、どこまで話をしてもらえるかは無駄話的なことのアイドリングがほんとうに必要だと改めて思った。
縦書きと横書きの違いと問題、若い世代はそもそもパソコンを使わないのでキーボードで文章を打たない(打てない人がいる)話などこちらから質問にはあまり関係がないけど、多少フックとなる話題を提供することで、話してもらえる内容が変わってくる感じもやはりあったし、そういう時には相手側もご自身のポメラに僕の話から感じたことを打たれていたから、記事にはあまり使えない部分が多かったけど言ってよかったなと感じた。
インタビューさせてもらうのはやっぱりおもしろいしたのしい。もちろん、自分が興味あるものだからっていうのが大きいけれど。
インタビューするなら相手のこととか対象物については最低限調べたりとか諸々しないといけないのは当然で、それでようやく準備はゼロに近づく。あとは人間同士だから相性もあるし、その日の機嫌とかいろんな要素が作用してくるから、準備をしていないと臨機応変な対応は難しくなってしまう。

僕はインタビューとかのやりかたを習ったわけではなく、最初にインタビューさせてもらったのが大塚英志さんだったし、その後に原作で関わっている漫画作品を全部読んでから再度インタビューに来いと言われたことでそれが準備の最低限のことになったというのも大きいんだと思う。
その後もいろんな作家さんのインタビューとかをさせてもらうときにはできる限り出ている書籍や作品を読んでいくようになった。単純にそれをしておくと話の最中に、相手がこの人はちゃんと自分の作品をしっかり読んできてくれたとわかってもらえる状況になる、信頼に近いものが感じてもらえると話を聞いていてもうれしいし、相手もしっかり作品や自分についてあまり話していなかったことを話してくれる。そういう時の話はすごくおもしろいし、他には出ていないものだったりするけど、そういうものは記事としては基本的には使えなかったり、世に出せないことだったりもする。
そういう経験を何回かしているから個人的にインタビューするのは好きなんだと思う。


仕事が終わって、久しぶりのインタビューのご褒美としてニコラで信濃地鶏スモークと白桃のスパゲティーニをいただく。
地鶏も白桃も長野産でこの時期恒例のお楽しみ、ワインは北イタリア産でほのかに桃の香りもあるものを選んでもらった。旬のものを旬な時に食べられることの贅沢としあわせ。

8月4日

水道橋博士のメルマ旬報」チームの村中誠さんの展示をギャラリーゴトウで鑑賞。
村中さんとはお会いして話をさせてもらったのは初めてだったけど、いろいろとお話ができてうれしかった。
展示の絵はまずカッコいい。こういう絵が装幀に使われたらめちゃくちゃいいのに、まさにジャケ買いしたくなるセンス。余白の使い方とか動物であれ人であれ、何を省略するか描かないかというところの抽出の感じがとても素敵だと思う。



銀座線の渋谷駅で降りてスクランブル交差点に行こうと歩いていて、久しぶりに岡本太郎作『明日の神話』を見た。デカくてビビッドであるものにははやり足を止めてみてしまう力がある。


「村中誠展」を銀座で観てから渋谷に戻って、大盛堂書店さんに寄って凪良ゆう著『汝、星のごとく』を購入。
凪良ゆうさんは「monokaki」で「本屋大賞」受賞前にインタビューさせてもらって記事を掲載させてもらって、1回目のノミネートで行くのかな? あとあの内容だけど(悪い方に取られかねないし)支持されるのかな? と思っていたら受賞された。
前に水道橋博士さんがサイン入れにお店に来られた時にお邪魔した際に、博士さんと入れ替わりで凪良さんが来店してサイン入れをされていた時にご挨拶だけはさせてもらうという機会があった。
書店員の山本さんもこの作品は「小説現代」掲載時からかなり推されていたので、買うなら大盛堂だよなって思っていた。で、サイン入りのものもあったけど、なくてもいっかと思ってレジに行ったら、店員さんにサイン入りもありますよと言われたので諦めてサイン入りを買った。
わかるよ、わかるんだよ、サイン入った書籍は返本できないし、そっちから売りたいのは。それがお店としては正解なんだよ、人気のある作家さんのサイン本はある程度ハケるから心配はないんだろうけど。

数年前からサイン入りの本が書店によく並ぶようになったと思う(僕が書店でバイトしたのは二回あって、文教堂三軒茶屋店(今はない)と中目黒ブックセンターでゼロ年代中頃だったけど、サイン本なんか入荷したのを見たことなかったんだよなあ)。
作家さんは出版社に頼まれてサイン入れて、それが書店に送られて並ぶんだけど、サイン入った本が売れなくて(残ったまま)何年もお店に置かれているのたまに見ちゃうから、出版社さんあんまりサイン本を作り(送りすぎる)とのちのち作家さんも本屋さんも読者もちょっと悲しい気持ちになるよ、と思ってしまう自分がいる。
コロナパンデミックになって、サイン会とかできなくなったのもあって、サイン入りのものが書店に並ぶようになったということもあるのだろうか。


先日買った舞城王太郎著『短篇七芒星』はサイン入りしか近くの書店には置いてなかった。ナンバリングと絵とセリフがあったから、これなんだろうと思っていて、舞城さんのツイッターアカウント見たら、サイン本一冊ずつに漫画の一コマずつを描いているという恐ろしいことをしていた。これ描くのもだし、画像撮る時間考えたらエグい。しかも、どんなにがんばっても全部揃えることは不可能。そういうところが舞城王太郎ぽくはあるが。

 

8月5日

大塚英志著『木島日記 うつろ舟』読了。
サブキャラである土玉と安江がやっぱりいい味を出していた。ある場面では映像を撮影する円谷英二らしき人物が出てくるし、木乃伊の老人のひとりが平賀源内と思われる人物もいたりして、実際の歴史との符号などがあり、そこもちょっと読んでいてワクワクする小ネタというか。この作品に出てくる清水という陸軍少尉は『多重人格探偵サイコ』に出てくる清水老人だし、スパイMは『オクタゴニアン』にも出てくる人物であり、大塚英志さんが手がけた他の作品ともシェアワールド化しているのも一連の作品を読んできたものとしてはうれしい。
「うつろ舟」と「UFO」に関するものを主人公の木島平八郎がどう「仕分ける」かという話でもあるが、偽史とオカルトというものが20年前より現在の世界のほうがよりリアルさを感じさせることが一番怖い。正史が崩れてしまうと偽史が成り立たないというか、遊びやフィクションにもなりにくい、逆にリアリティが出てしまうような。
折口信夫にできた痼についての描写がエロティックな感じになっているのも今作の特徴というか、折口という人物のセクシャリティや人物像、来歴とも違和感がなく感じられた。

 

8月6日

日本有数のドヤ街として知られる東京・山谷。

この地で2002年に民間ホスピス「きぼうのいえ」を創設した山本雅基氏と妻・美恵さんは、映画『おとうと』(山田洋次監督)のモデルとなり、NHK『プロフェッショナル』で特集されるなど「理想のケア」の体現者として注目を集めた。

ところが、現在の「きぼうのいえ」に山本夫妻の姿はない。
山本氏は施設長を解任され、山谷で介護を受け、生活保護を受給しながら暮らす。美恵さんは『プロフェッショナル』放送翌日に姿を消し、行方が分からないという。

山本氏は、なぜ介護を担う立場から受ける立場になったのか。
なぜ美恵さんは出て行ってしまったのか。
山本氏の半生を追う中で、山谷という街の変容と、特殊なケアシステムの本質を見つめた、第28回小学館ノンフィクション大賞受賞作。(公式サイトより)

末並俊司著『マイホーム山谷』読了。ドヤ街が成り立った戦後の日本社会、そして沈んでいく(老いていく)経済を体現する町でもある山谷。だが、よそ者を受け入れる町はケアするよそ者たちも受け入れ、地域での包括的なケアのできる日本でも進んだ町になっていた。
夫婦をモデルした映画やNHKのドキュメンタリーでも取り上げられた山本夫妻、妻はドキュメンタリー放送翌日に家を出ていく。残された夫はやがて自身が関わった山谷の介護やケアシステムに助けられる存在となっていた。
高齢化するホームレスなどを受け入れる山谷の包括的なケア。このノンフィクションは著者の末並さんの取材が活きているからこそ、ある町のことやそこでケアに関わる人たちの話を聞きながら、現在の日本社会の問題が浮かび上がっている。
ホーム・レスではなくファミリー・レスな世界において、この先のことを考えると他人事ではない話。
最後に家を出て行った山本さんの妻への取材が成功しており、そのことで夫婦それぞれが抱えていた問題と彼らの希望だった「きぼうのいえ」が実際はどんな状況だったのかがわかってくるのもノンフィクションとしての完成度を高めているように感じた。
平坦でわかりやすく、取材者としての感情を出さないことでフラットに山本さんたちのことを書いているので非常に読みやすかった。今年の「本屋大賞 ノンフィクション本大賞」には入ってないけど、介護系の棚に置かれてもっと読まれるといいな。


『群像』2022年9月号でお目当ての古川日出男連載『の、すべて』8回目と宇野常寛連載『庭の話』3回目を読む。
前者は舞台が1990年代から現在へ時間が動き、語り部が語るべき人物である大沢光延が政治家(都知事)になり、都庁でテロに遭ったまでを前々回と前回で描いていたが、同時にコロナパンデミックの話も並行している。政治と宗教というまさにリアルタイムな話とコロナパンデミックというこちらもこの数年世界中を揺るがした出来事であり、現在進行形の話が混ざり合いながらなぜこの小説が「恋愛小説」であり、「恋愛小説」を書かねばならないのかというこの作品の主軸が現れたような回だった。
後者は「庭」という比喩を使いながら、これからのサイバースペースと実空間の双方を包括する「次のもの」として「庭」という場所を前提として話を進めている。今回は「小網代の森」へ宇野さんが訪れた際の印象とその森を保護し作り上げた生物学者の岸由二氏と仲間たちの活動から「作庭」というものについて展開しながらも話を進めていく。「動いている庭」から「多自然ガーデニング」へと思考を拡大することを学ぶのではなく、その発想をいかにサイバースペースと実空間に対しての発想の応用を考えるヒントに、ということが書かれている。
どちらも一冊に纏まるのはしばらく先だと思うが、連載を読みながら纏まるのをたのしみにしている。

 

8月7日
三四郎のオールナイトニッポン0(ZERO)』今週は相田が体調不良でお休みだったので、小宮&赤もみじの村田と四千頭身の都築がゲストだった。
今回もむちゃくちゃでおもしろかった(都築のファッションいじりは鉄板だ)し、三四郎の番組でゲスト来る回は当たりが多い。なかやまきんに君ゲスト回、はんにゃ金田回、しずる池田回、パーパーほしのディスコ回は何度も聴いてはその度に笑ってしまう。
三四郎は東京出身で成城学園中学、高校というのも彼らのアイデンティティや芸風には大きいんだなとトークで彼らの地元や育ってきた環境の話で強く感じる。
今いちばんたのしみにしているラジオは菊地成孔さんのフェイクラジオである『大恐慌へのラジオデイズ』とこの『三四郎オールナイトニッポン0(ZERO)』だったりする。

『オードリーのオールナイトニッポン』もコロナパンデミックになってから聴くようになったし、楽しみにしている番組だが、リトルトゥースかと言われるとそこまででないなと思う。前に『あちこちオードリー』でニューヨークがゲストの時に「自分達(オードリーもニューヨーク)は最後のガラケー世代」と言っていたのが印象的だった。
実際にはオードリーのふたりは1970年後半生まれなのでガラケー世代で、ニューヨークは80年代後半なのでゆとり世代だと思うが、お笑いに対してのスタンスややりかたに対して「最後のガラケー世代」という言い方をしていたのだと思う。ニューヨークからすれば、女優さんとか女性タレントとワンチャン行きたいみたいなことを言う意識が今の芸人にはなく、昔の昭和的な芸人だというニュアンスだったと思う。

三四郎オールナイトニッポン0(ZERO)』もradikoでもyoutubeでも過去のを聞いていて、音楽はサブスクで聴きたくないからSpotifyは使っていなかった。
先月ぐらいにずっと使っていたiPod nanoがついにお亡くなりになったので、外出中はradikoでラジオを聞きながら歩くようになった。という流れもあって、ラジオを聴くということだけでSpotifyを登録して『83Lightning Catapult』を聴き始めた。
三四郎相田周二アルコ&ピース酒井健太が二人でやっている番組で、先週から聴き始めたらもう7月分まで聴き終えてしまった。
今日も散歩がてら一時間半ほど歩く時に『83Lightning Catapult』を聴いていた。タイトルに「83」が入っているのは二人が1983年生まれであるということからだが、相田と酒井のやりとりを聴いているとある種の無邪気さがあり、闇落ちしないですんだ(もちろん芸人として成功もしている)んだよなって。

実際に80年代生まれを分ける大きなキーは『ポケットモンスター』以前以降だと思う。そう思っていると、安倍晋三襲撃犯の山上徹也を含め1980年初頭生まれについて考えてしまう。
闇落ち、ダークサイドへの転落、『スター・ウォーズ』におけるアナキン・スカイウォーカーダース・ベイダーへなったというわかりやすい「光」の側だった者が反転して「闇」の側になるということはどんふうに起きるのか。
日本のフィクションだとなにがあるのかなって考えていたら、『ビックリマン』シリーズの「アリババ」がそうだった。七神帝と呼ばれることになる若い戦士だが、彼は闇落ちして仲間たちの前に敵として立ちはだかることになる。
だが、調べてみるとその後の『新ビックリマン』以降にも。もう一度闇落ちして悪魔として主人公たちの前に立ちはだかっていた。二回も闇落ちさせられていた。最終的にはその罪を償うための存在になるとあった。個人的には昔から「アリババ」は好きなキャラクターだったのだけど、たぶん、七神帝の中で主人公格である「ヤマト」以外でいちばん物語があるのが「アリババ」だったことが大きいのかもしれない。ある種可哀想な宿命が判官贔屓的なものを呼び起こしている部分もあったのだろう。
ビックリマン』シリーズにおける「アリババ」という存在をモチーフにしたら、80年代初頭生まれについて書けることがあるんじゃないかなと思った。


二年前に『ゼロエフ』の取材に行く前に何作かノンフィクション作品を読んだ。
村上春樹著『アンダーグラウンド』とこの『約束された場所で』は東日本大震災同様に簡単に「風化」されてしまったオウム真理教について考えるきっかけになったが、この信者側を取材したものは今読まれたほうがいいと思う。

 

8月8日

最初は、たとえばビートルズジョン・レノンからオアシスのリアム・ギャラガーの共通点は、丸縁のサングラスを似たように愛好しているくらいだと思えていたが、実際には、カウンターカルチャーの受動性という行き詰まり、あるいは、フィッシャーの言う「なあ、それはすべて精神の問題だ」という感受性は、ブリットポップ的な快楽主義の「ぼやけて、かすんで、酔っ払って、疑い深く、キザな」バイブスの背後にある推進力であり、それはかつての粗野なボヘミアンの麻薬パーティーにとって受動性が推進力となっていたのと同じことだったのだ。
 このことは、アシッド的な俗世界を描いた歌に目を向ければ、直ちに明らかとなる。ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」(1967)とオアシスの「シャンペン・スーパーノヴァ」(1995)の2曲だ。30年近くあいだがあいていて、(政治的にも)異なる2つの世界から生まれた曲だが、それにもかかわらず、サイケデリックな憂鬱が2つの曲を結びつけている。同じような幽霊的でメランコリックな転移が、ジョン・レノンオノ・ヨーコの1969年のパフォーマンス《平和のためのベッド・イン》と、――その朽ちた残骸のようにして1998年にテート・ギャラリーという陰鬱なホワイト・キューブから再出現した――トレイシー・エミンの作品《マイ・ベッド》とのあいだに見受けられる。
 90年代資本主義の憂鬱のもとでの、60年代のこの表面的なくりかえしは、前世紀の「世紀病」的デカダンスと似ている。ずっと以前の夢が、悪夢のようにぎこちなく死体解剖されるが、そこには近代を準備する自己意識の覚醒が欠けている。この意味で、ブリットポップとはまさしく残酷博覧会だ。新自由主義の幽霊とゾンビの行列が展示され、それがサイケなもの[=心(psyche)]に取り憑き、後を付け回しているのである。
『マーク・フィッシャー最終講義 ポスト資本主義の欲望』 編者解説 マット・コフーン「悲惨な月曜の朝はもうたくさんだ」より

The Beatles - Lucy In The Sky With Diamonds (Remastered 2009)



Oasis - Champagne Supernova (Official Video)



朝晩とリモートで作業。休憩中に読み進めていた『マーク・フィッシャー最終講義 ポスト資本主義の欲望』の第5講までが終わり、講義パートが終わったので編者解説を読んだ時に気になったのが上記の引用部分。
ビートルズとオアシスというイギリスを代表するロックバンド、そのバンドの有名な二曲について幽霊的でメランコリックと書かれている。そう言われるとそうかもしれないな、と思わなくもないが、60年代と90年代の「時代精神」というか、悪夢が似ているというのはなにかおもしろいなと感じた。
オアシスは実際に何度かライブを観ているし、「シャンペン・スーパーノヴァ」も好きな曲だけどメランコリックなイメージはあまりなかった。


オススメしてもらって読んだ読み切り漫画、一ノへ著『死守れ日常系ヲ』。
ヒーローものという前提があるのだが、主人公の初巣みいが変身してヒーローとして敵から地球を守ろうとする際の姿形を見て、一瞬松本人志監督『大日本人』的な感じなのかなと思った。
だが、日常系&世界系が混ざり合うこの作品はその後、初巣みいの親友である恩離ゆうが守ろうとする大切な日常の話にも展開していき、らせん構造的な様相を見せる。そこには以前鬱展開として話題になった『タコピーの原罪』のニュアンスに近いものも感じられなくもない。
エンタメの王道「ジャンプ」ブランド「ジャンプ+」で掲載しているということ、それらのニュアンスが描かれているということ自体が現在性として読者のリアリティだとも言えるのだろう。
かつてのセカイ系もとうの昔に過ぎ去り、精神病すらもカジュアルなものになった(現実が病んでいるのだから、もはやそれはただの景色でしかない)あとで、ポップでサブカル的なものが鬱展開を孕みながら見事な魔合体してエンタメに昇華した作品なのかもしれない。

 

8月9日

 フィッシャーの有名な概念のひとつに「憑在論(hauntology)」がある。概念の由来はデリダにあると本人も別のところで述べているが、フィッシャーは、過去が現在に取り憑き、現在を過去の写し絵のように変えてしまうロジカル・タイプとしてこの概念を提出している。そして現状を見る限り、その見立ては今でもそれほど間違ってはいない。
 憑在論の時代の特徴は「新しい」ものではなく、「アップグレード」されたものが現れる点にある。フィッシャーは2020年以降開催される東京オリンピック大阪万博を、また、過去の名作が「アップグレード」された近年映画の数々(たとえばスピルバーグによる『ウエストサイド物語』など)を、どういう思いで眺めることになったのだろう。iPhoneXXを想像することは可能かもしれない。だが、iPhoneに取って代わるまったく新しい別のものを想像することは難しくなっている、わたしたちはそういう状況にいるように思える。
 憑在論の時代は、実体のないノスタルジーに取り憑かれる傾向がある。Vaperwave、あるいは「シティポップ」などを、そうした兆候として捉えることもできるだろう。“Make America Great Again”を叫ぶ奇妙な髪型のアメリカ人が現れた当初は、ある意味で平和だった。しかしロシアの老政治家が、まさしく「取り憑かれた」かのような言動を振り撒きながら、東西が激しく対立する冷戦時代への回帰を促すような軍事行動をやめないとき、事態は笑えないレベルにまで進行したことに気づく。
『マーク・フィッシャー最終講義 ポスト資本主義の欲望』 大橋完太郎訳者解説より

僕自身は幽霊や亡霊というものに興味があるわけではない、心霊やホラーは苦手だ。マーク・フィッシャーの著作を読んでから強制終了した(退位した上皇、時代の象徴としてのSMAPの解散と安室奈美恵の引退)かのように思えた「平成」という時代は昭和の「幽霊」や「亡霊」のようなものだと前よりも強く思うようになった。実際安倍政権が長く続いている時には、巣鴨プリズンからの亡霊が憑いているように思えていたのはそのイメージも関係していた。
その考えは「憑在論(hauntology)」に近くて、日本製「シティポップ」がネットを通じて世界中で聞かれるようになったことなどは実体のないノスタルジー(ありえたかもしれない未来(≒バブル期日本を当時の他国から見た景色としてのもの、あるいは現在の時点から見てのハッピーでカラフルなポップさへの羨望))だろうし、80'sを舞台にしたドラマや映画が作られるのはネット以前の世界へ戻りたいという欲望やこの世界をその時点からやり直しを求める気持ちなのではないかと思うようになったのは、フィッシャーや木澤佐登志著作などを読んだことが大きい。

幽霊や亡霊を祓うためになにをするのか、時代を逆行させる者たちが望むもの、それらを変革させるためにはどうすればいいか。ホラー映画『貞子vs伽椰子』ではないが、最恐には最恐をぶつける。過去の哲学や小説から持ち寄ったもので陰謀論や幽霊たちを、と考えるが、結局そういうものが「新しい歴史教科書をつくる会」などになっていった面もあるのだろう。『貞子vs伽椰子』のラストシーンはホラー映画としては二大有名ホラーキャラクター対決としてはわかりみがすごくある終わり方であり、爆笑してしまったが同時にそれは最悪な結末となっていた。
そう考えると「アップグレード」するも大事なことのように感じるが、「アップグレード」しかできずに、新しい未来を想像できないこの世界においてはそれは戦いにすらならないのだろう。
かつてのものとは一新するようなこれまでにない新しい考え方や行動が「最恐」や「幽霊」たちに対する武器や戦い方になるはずだけど、それが今は非常に困難なものであることを再認識してしまって僕は途方に暮れてしまう。


工藤梨穂監督『裸足で鳴らしてみせろ』をユーロスペースにて鑑賞。予告編を見て気になっていた作品。

寡黙な青年ふたりの愛と欲望の行方を、偽りの旅と肉体のぶつかり合いを通して描いた青春映画。「オーファンズ・ブルース」がPFFぴあフィルムフェスティバル)アワード2018でグランプリを受賞した新鋭・工藤梨穂監督が、PFFスカラシップ作品として制作した商業映画デビュー作。
父の不用品回収会社で働く直己と、市民プールでアルバイトしながら目の不自由な養母の美鳥と暮らす槙。ふたりは美鳥の願いをかなえるため、直己が回収して手に入れたレコーダーで“世界の音”を記録することに。サハラ砂漠イグアスの滝、カナダの草原など各地の名所の音を記録していく中で、互いにひかれながらも触れ合うことができない直己と槙。言葉にできない彼らの思いは、じゃれ合いから暴力的な格闘へとエスカレートしていく。
「オーファンズ・ブルース」の佐々木詩音が直己、「蝸牛」の諏訪珠理が槙を演じる。(映画.comより)

養母である美鳥からの願いである「世界を見てきてほしい」という願いを叶えるために槙は直己が回収したレコーダーを手にし、彼女が望んだ世界を巡る旅で聴けるであろう音声を録音し始めることになる。
槙から届いた録音したカセットテープをうれしそうに聴いている美鳥。その病室を訪れていた直己は仕事の途中で日本にいるはずのない槙を偶然見つけることになる。美鳥が槙に旅費にしてほしいと渡した通帳には残高はなく(すでに誰かに下されており)、海外に行くのは不可能だった。
槙は美鳥に嘘をついて世界中を旅していることにして、有名なスポットや美鳥がかつて聞かされて自分が旅したように感じていた場所の音を自作して作っては録音していた。直己もそれに賛同して二人で世界旅行をしている槙が集めた音を作り始める。
友情のような関係となり、時折彼らはじゃれつくようにして体をぶつける。だが、殴ったり蹴ったりはせずに相手を力で抑え込もうとするものであり、それはどこか同性愛者でもない彼らのほのかに宿った恋心と友情の入り混じったようなものに見えた。

録音とじゃれあいを重ねていく中で、やがて美鳥にとって大事な場所の音を録音する。しかし、その後彼女が亡くなってしまうと直己は槙と一緒に美鳥がほんとうに行きたかったその場所へ行こうと彼を誘う。だが、彼とは冒頭からどこか不協和音のようなものがあった父との関係性からそれが叶わなくなり、直己はある行動に出てしまうという話である。
なんと言ってもラストシーンが素晴らしかった。冒頭はタイトルを彷彿させる足が映るところだが、ラストシーンでも足が出てくるので、最初と最後が繋がる円環を感じさせながらも、もう戻らない日常という直己と槙それぞれの人生に枝分かれしていくエピローグが悲しくも優しく響いた。
二人の戯れ合いは暴力と性行為未満であり、崩れるときには無邪気さはすでに通り過ぎている。戻れない日々と共に人生はそれでも続くと感じさせた。ラストでは二人がずっと録音してきた音声がある状況で流れるのがとてもセンチメンタルであり、美しくて儚い。これがきっとやりたかったんだろうなと思わせるシーンだった。
渋谷に行った時に銀行で通帳記入をしていたが、帰りのどこかで落としたことに気づく。映画の内容とリンクしているような、とりあえず寄ったコンビニとスーパーに電話したが落とし物で届いていないとのこと。スマホのアプリから通帳の停止だけ依頼した。

 

8月10日

2年前の今日(8月10日)は『ゼロエフ』の国道6号線パートの取材の最終日だった。もう2年前、まだ2年前。だんだんと時間が経つにつれて素晴らしい経験をさせてもらったのだとわかるようになっている感じもする。お手伝いしたこともあるけど、『ゼロエフ』はもっと読まれてほしい一冊。


休憩中にご飯を買いに行った西友帰りにトワイライライトに寄って、アイスコーヒーで一服。


西友に行く前にTSUTAYA三軒茶屋店で殊能将之著『未発表短篇集』が出ていたので購入していた。
殊能将之さんといえば、『ハサミ男』が有名な覆面作家メフィスト賞を受賞デビューして世に出た人。すでに亡くなっているが、ちょっとした伝説みたいな存在になりつつあるようにも感じる。薄い文庫だが、パラパラめくったら解説の大森望さんの文章がかなりあった。

TENDRE - HAVE A NICE DAY(Audio Visualizer)


↑知り合いの藤江琢磨くんががっつり出ているMVだった。

 

8月11日

前にトワイライライトでのイベントで書評家の倉本さおりさんが紹介されていたピラール・キンタナ著/村岡直子訳『雌犬』を買おうと思って、朝起きてから散歩がてら蔦屋代官山書店に行ったが在庫はなく、数日前に見かけていたジュンク堂書店渋谷店で購入した。
一ページ辺りの文字数はないので、わりと早く読めるかなと読みだしたが、歩いて汗をかいたこともあったのかウトウトしてしまってあまり進まなかった。

【はかせ日記】22/8/10 ママと参議院会館へ。目崎さん・ヤマモトくん来訪。東国原さん偶然。委員会レク。『メルマ旬報』去就会談。

朝起きてからSNSを見ていて読んでいた博士さんの日記を再度読む。『水道橋博士のメルマ旬報』は廃刊とのこと。博士さんが立候補して当選した時に終わりの始まりだなと思ったが思いのほか早かった。
選挙の出馬と当選に関しても、この「メルマ旬報」廃刊にしても執筆陣は博士さんから(副編集長の原さんを通じて)の連絡で知ったわけではなく、今回のようにTwitterやnoteでの日記で知った形となった。
もちろん、昨日博士さんと原さんがリモートワークで話したやりとりを博士さんは日記に隠さずに正直に書いたということだろうけど、せめて現在連載中の執筆陣には先に連絡が行くようにとかの配慮ぐらいはしてほしい。配慮がないというのはイコール興味がないと言われているように思えてしまう。執筆陣が読者のツイートで知ったということをツイートしているのは悲しいとしか言えない。
創刊号から連載をさせてもらった恩や感謝はあるけど、10年も連載させてもらった媒体が廃刊になるというすごく大事なことを執筆陣に伝えるのを後回しにするということに関して、僕は怒るとかはないけど、呆れたというか気持ちはかなり冷めてしまった。

博士さんが長期休養の際には「メルマ旬報」チームは回復して復帰されるのを待っていた。場を継続させることもだったし、「メルマ旬報」が小野家の収入源のひとつでもあったはずだから。しかし、復帰後は「メルマ旬報」には関わらず、阿佐ヶ谷ロフトでのイベントやユーチューブで番組を立ち上げたり、noteで日記を始められて、どこか置いてけぼりになっていた。そのまま執筆陣には何も言わないままで政界への出馬と国政進出(あれだけ執筆陣いたら、どこかの政党だったりなにかの宗教の関係者やそれらに近い人はゼロではないと思うから余計に一声かけるべきだと思った)、そして、今回も何の連絡もないまま「メルマ旬報」廃刊というのは不信感を持たれても仕方ない。
単純に配慮に欠けているとしか言いようがない。信頼や信用というのは当然だが永遠ではない。ある言動一発で消え去ったりするものだ。博士さんはわりとそういうことに鈍感なのかもしれない。

日本維新の会松井一郎市長から水道橋博士さんは訴えられて、そのスラップ訴訟に対する「反スラップ訴訟の法制化」を掲げてれいわ新撰組から出馬した。そして、比例で当選して政治家になった。個人的には「右の維新」「左のれいわ」という感じで下からのポピュリズムという左右の違いでしかなく、どちらも支持はできない。そのことは先月の日記にも書いた。だから、「メルマ旬報」は「右の維新」と「左のれいわ」に巻き込まれて終わったってことでいいんじゃないかな。
もちろん、いろんな考えがあると思う。「メルマ旬報」は博士さんを頂点にした連載陣たちが上下感のあるツリー構造の関係性ではない。リゾーム構造であり、博士さんとそれぞれの執筆陣の関係性というものが大きい。
こういうふうに書くと「お前は世話になった人を批判するのか」という人がいるかもしれないけど、感謝することや恩を感じることとその人がやっていること批判したり、それは受け入れられないというのは当然ながらひとりの人間の中で共存するというか起きうる。それがわからない(考えが一方的になっている)人は世界を敵か味方かでしか見れないのだろうし、一人の人間の中に正邪がどちらもあるということを認めれない人なんだろう。終わりどきがわからなくなっていたからいいタイミングという風に考えることもできる。それはそれでなにかが乖離しちゃうような気もするから、ただ終わるの悲しいねと素直に思ったほうが先には進めるのだろう。長年続いてきたものの終わりの悲しみとどこか信頼されていなかったように感じる悲しみと共に。

 

8月12日
19年ぶりにサマソニに行こうと思って、東京の8月20日のチケットを取っていたのだけど、日付が変わって寝る前にチラッとスマホTwitterを見たら、何やらサマソニリバティーンズという単語が目に入った。
リバティーンズがラインナップされている東京初日の20日の前日にフランスでのフェスの出演が彼らの公式サイトのライブページにアップされ、これはどう考えてもサマソニ来ないパターンだという意見が出ていた。
リバティーンズはもしかしたら来ないかもって思うバンドではあったが、サマソニのラインナップ第一弾の際に発表しているから、問題児であるピートが来日できるというのは確証があるんだと思って信じてチケットをリバティーンズを観るために取った。
結局起きてから仕事をしていて昼前にはサマソニからアナウンスが出た。

8/20(土)東京MARINE STAGE、8/21(日)大阪OCEAN STAGEに出演を予定しておりましたTHE LIBERTINESは、メンバーのビザの取得が困難と判断されたため、来日をキャンセルせざるを得ない状況となりました。数ヶ月にわたり関係機関と交渉を続けてまいりましたが、このようなご報告となってしまい深くお詫び申し上げます。

いやいやいや、だったら一番でかいマリンステージにラインナップしちゃダメじゃん。しかも開催の一週間前っていうのは正直もっと前からわかってたんじゃないの、っていう気はするし、リバティーンズのためだけに行こうと思っていた僕のような人間はかなりの数いるはずで、やっぱりリバティーンズだなという気持ちもありつつもサマソニを主催しているクリエイティブマンに対して詐欺だなとかこれならそもそもラインナップに入れるなという気持ちになってしまう。もちろんリバティーンズ側もダメだが、目玉のひとつとして出れるかが決まっていないのにラインナップしたクリマンがひどいと思ってしまう。

ゼロ年代初頭のロックンロールリバイバルを牽引したのがアメリカのストロークスとイギリスのリバティーンズだった。
僕は二度リバティーンズのワンマンには行ったけど、ツインボーカルのひとりピート・ドハーティが日本に来れなかった(ドラッグのやりすぎ&問題起こしまくり)ため、サポートを入れてもうひとりのフロントマンであるカール・バラーがひとりでボーカルを務めたライブしか観たことがなかった。今回はフルメンバー四人での来日ライブということで、おっさんホイホイだとしても観たいと思った。しかし、リバティーンズが来ないのであればサマソニに行く理由がなくなってしまった。

問題はKing Gnuもメンバーのコロナ陽性で出演が微妙な感じになってる。ただ、この日の大トリは10年代以降にデビューしたロックバンドの中でもっとも世界中で売れて評価されているThe1975がいるのが救い。
でも、問題はThe1975が日本好きで早めに来日しちゃうみたいで、コロナになったらどうすんねんっていう。もし、彼らも出れなくなったらマリンステージは壊滅的になる。

僕の中ではradiohead『Creep』が始まったあの大歓声の思い出と共にサマソニは完全に終わりました。

 

8月13日

数ヶ月ぶりに会った人に前に本をあげたら、お返しに読み終わったばかりという本をもらった。ちょっと前に庄野さんにオススメしてもらって読んだ『失恋の準備をお願いします』(『失恋覚悟のラウンドアバウト』で発売されたものがタイガ文庫でタイトルが変わって、文庫しか手に入らなかった)の著者の浅倉秋成さんの『六人の嘘つきな大学生』だった。
書名とか作家名はあまり覚えないんだけど、書籍(小説)はたいてい装幀デザインで認識している(書店に行く楽しみは新刊を見ることでもある)ので、何度も見かけているやつだなってわかった。これもなにかのきっかけというタイミングなんだろうか。

リバティーンズが来ないのであれば、19年ぶりのサマソニに行く理由はないのでチケットを手放すことにした。Facebookに書いても反応がなかったのでほんとうにどのくらいぶりなんだろう、ヤフオクを十数年ぶりに使って出品した。
主催者のクリエイティブマンが最後まで粘ろうがなにしようが、最初のラインナップ発表でリバティーンズの名前を出した以上は呼ばなければ詐欺だと言われても当然だろう。
ビザの問題でキャンセルになった、と言われてもリバティーンズのファンならみんなわかってる。ピートが来日するのは大変だって、スーパーモデルのケイト・モスがドラッグ中毒になって一度落ちてしまったのは当時の恋人であるピートのせいだ。
ピート・ドハーティなんか知らないよって人のほうが多いのはわかってるけど、ゼロ年代初頭にディオールオムのデザイナーだったエディ・スリマンがピートに惚れ込んで彼に衣装を提供していた。エディがディオールオムで発表した細タイとスキニーデニムにジャケットというロックスタイルはピートが纏うことで世界中に広がっていった。もちろん、パクリが横行してそれが定着したこともたぶん知られてはいない。
今はドラッグをやめていて当時の姿も見る影もなく太ったピートだとしても、日本のリバティーンズファンはずっとオリジナルメンバーが揃ったところを観たくて待っていた。
やっぱり来日しないのかよっていうのもリバティーンズっぽくはあるんだが、世界中で見ても感染爆発しまくってる日本に来たいかって言われたら来ないよって思う。本音をいえばこんな時期にフェスには行きたくはなかった。でも、コロナに罹患してもいいからリバティーンズを観たかった。それだけだよ。

 

8月14日
前日にヤフオク!に出したサマソニチケットが即決価格で先日のうちに落札された。相手側からの支払いをヤフーが確認するという時間があるらしく、クレジットでの支払いだとそうなるらしい。日が変わる前に落札で支払いもされていたが、支払いについての最終チェックで約四時間ほどかかるみたいなので、とりあえず寝た。

起きると支払いについてのチェックが終わっており、商品を発送してくださいという表示になっていた。散歩がてら世田谷郵便局に行き、レターパックを買ってチケットを入れて購入者に送付した。
購入者が支払ったお金は一旦ヤフー側が預かり、商品が届いたら購入者がその受け取り連絡をするとヤフーから僕に購入代品が入金されるという流れらしい。最初に設定した金額はかなり低くしていて、即決価格も定価よりも下にしていたが、その金額だとうれしいなと思っていたけど、手数料などが10%引かれての入金だった。そりゃそうか、引かれた分だと最初の設定金額よりは高いぐらいだった。
まあ、定価+手数料や諸々がかかっているので実際は五千円ほど損した感じになってしまったが、リバティーンズ来ないからサマソニには行かないので、できるだけ早めにさばきたかったので、まあよかったなと思うことにした。


「メルマ旬報」チームであり、文藝春秋の目崎さんからご連絡をいただいていたので、トワイライライトで集合して屋上でお茶をした。最初はアイスコーヒー、そのあとはサッポロの小瓶を飲んだ。
汗をちょっとかくぐらいの暑さだったけど、風は吹いていて気持ちよかった。日曜午後の茶沢通りは歩行者天国だから、風と一緒に三茶の町のいろんな音が屋上まで運ばれてきていた。
水道橋博士のメルマ旬報』創刊号から参加したオリジナルメンバーと目崎さんと僕は勝手に言っているけど、廃刊が決まったりしたし、今年はいろいろあったので僕のことを気にかけてくれて声をかけてくださったのだなとわかってありがたかった。二時間ほど四方山話をして解散。

僕が着ている「透明美容室」TシャツはThis is 向井秀徳がモデルをしていた台湾と日本のカルチャーストア「YU-EN商店」で購入したもの。
2019年に再結成したナンバーガールは今年の年末に再び解散するというニュースを昨日見た。僕はナンバガをリアルタムでハマらなかった。のちに古川日出男さんの文体に惹かれるようになって、そのリズムとZAZEN BOYSのリズムが呼応しているってわかってから一気に持っていかれた。この2010年以降で一番ライブに足を運んだのは間違いなくZAZEN BOYSだ。そこから遡ってナンバガを聴くようになって再結成後のワンマンライブも観に行ったけど、彼らの再結成の期間中ってずっとコロナパンデミックだったんだなと思うとなにか不思議な感じだ。

「メルマ旬報」はナンバガみたいに再結成というか復活することはないと思うけど、僕にはこの終わりは物書きになるための「幼年期の終わり」みたいなものだと考えた方がいいんだろうなって思う、っていうか目崎さんと話している時に急にその名作のタイトルが浮かんだ。いつかあいつも「メルマ旬報」で書いてたんだよって言われるようになるのが、それぐらいしか恩返しってできないと思うし。

NUMBER GIRL - OMOIDE IN MY HEAD @ “THE MATSURI SESSION”

 

8月15日
77回目の終戦の日。敗戦としないことは戦後の復興をもたらしたのかもしれないが、世代が変わり戦争を体験した人たちが減っていくとそのことが忘れていってしまうことに加担したような気がずっとしている。敗戦の日にしてしまえば、なぜ戦争なんかしてしまったのかという問いになったのではないかと毎年思うのだけど。


スケジュール通りの仕事なのでお盆もなかったし、終戦の日も家でリモート作業。午前中に郵便物が届く。その中に前に「COTOGOTO BOOKS」で注文していた町田康著『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』があった。サイン入りポストカード付きにしていたが、バンド「INU」時代の町田町蔵だったころの写真なんだろうか、詳しくは知らないけどせっかくだからおまけつきなこちらで購入していた。
このところ、何冊か読んだ文庫本の解説が町田康さんであることが多く、町田さんが新人賞の選考委員もしているから、その時にデビューした作家さんの小説の解説をお願いされているとかもあるんだと思う。あとは町田さんクラスであれば、解説も箔が付くというかファンも多いからその文庫を手に取る人も増えるってことなのかもしれない。あとは町田さんが新人作家などの作品もしっかり読んでいるから編集者が頼みやすいとかもあるのだろうか。
一度だけ町田康さんと古川日出男さんの対談でお見かけしただけで、作品をたくさん読んでいるいい読者ではないけど、この新書でもう少し町田さんのことを知ったら小説を読みたくなるといいなって思う。


休憩中に駅前のTSUTAYAで牟田都子著『文にあたる』を購入する。校閲者の牟田さんとはニコラの庄野さんのイベントでご一緒したりして、この本のことは聞いていたのでたのしみにしていた。エッセイでたくさんの話題が並んでいる本みたいなので寝る前にちょっとずつ読んでいこうと思う。

 

8月16日

朝起きてから午前中は映画を観に行きたいと思って、渋谷付近の映画館のサイトを見たがあまりこれだという作品がなく、K2シモキタエキマエシネマのサイトを見たら、朝イチの回はエリック・ロメール監督『緑の光線』 が上映だったのでそちらに決めた。
下北沢駅まで二十分ぐらい歩いていく。ロメールの作品はまったく観たことがないわけではないが、この『緑の光線』は観たことがなかった。お客さんは六人ぐらいか。旧作だけどチケット代は特に割引とかでもないのは残念だけど、まあ映画館で映画を観るということにお金を払うのは嫌ではない。
タイトルの「緑の光線」がわずかに、ほんとうにほんの一瞬日没する時に水平線に緑の光が見えて作品が終わる。主人公の孤独というかひとりでバカンスを過ごすこと、周りの人との感情の誤差というか理解されていない感じなど、彼女はどこかナイーブであったりちょっと前の言葉でいうとメンヘラ的な感じもゼロではないが、見ているとその孤独さの理解されなさを抱えた彼女のことが好きになるというか、誰しもが抱えている孤独であることもわかるし、少しだけ自分にもシンクロするように思えた。だからこそ、最後の緑の光がやさしい希望のようだった。



「グッモー!」と「サンキュー!」の気持ちがあれば。僕を育てた渋谷と映画【前編】&【後編】

今書いている作品の舞台が青山と赤坂で、渋谷も出てくるし、芸能的なものの要素も入れたいので、「渋谷の生き証人」でもある井上順さんご本人を「井上順」という登場人物にして出してみたらどうかなって思って、井上さんのことを調べてみようと思ったら、誕生日がうちの父親と全く同じだった。

ニコラのカウンターでご一緒することもある竜樹さんが劇伴担当してる『セイコグラム 転生したら戦時中の女学生だった件』を見た。なるほど、インスタを使ったというていでドラマをやると画面を縦に三分割にして左がスマホ画面、真ん中が実際のドラマ、右が心の声とかナレーション代わりのコメントのポストという形。
インスタ・ドラマ『転生したら戦時中の○○○だった件』第一弾は古川ロッパ、第二弾は田辺聖子、第三弾は『転生したら戦時中の漫画家だった件』なら田河水泡でいけるんじゃないかな。

夕方に原さんから博士さんからの「水道橋博士からメルマ旬報連載陣の皆様へ」というメールが届く。11日のnoteに廃刊のことが書かれてから6日経っていた。2日後の生誕祭へのお誘いもあった。生誕祭のイベントに参加する人はすでにチケット取ってるだろうし、そうじゃない人は行くつもりが最初からないか予定や仕事があるだろう。つまりどちら側にしても遅い。廃刊のことがなければ、イベントのお誘いもなかっただろう。心の底から「そういうとこやぞ!」と思った。

 

8月17日

円城塔著『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』読み始める。
アニメはほとんど見ないのだが、この作品と『平家物語』はほんとうにすごいなって思って全話見た。円城さんと古川さんの対談を昔見た気がするけど、たぶん「エクス・ポナイト」だったと思う。『ハル、ハル、ハル』の解説も円城さんだった。

twililightの熊谷さんのインタビュー『「余計なもの」こそ日々を明るくしてくれる』

 文体については、話しておかなあかんなというのが一つあります。最近は、文体の時代ではないのかなという気がしていて。いろんな最近の小説を読んでいると、文体を工夫するというか、文体自体にあまり特色はなく、みんなが了解する意味で、ニュートラルな言葉遣いをして、むしろ、ストーリーやその意味内容で読ませるものが多いのかなと。自分の文体について言うと、そういうものではなくて、文体そのものに表現の工夫をけっこうしているつもりではありますし、そこのところを、自分としては一つの読んでほしいところだなと思っています。(町田康著『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』より)

町田康著『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』から。先月トワイライライトで書評家の倉本さおりさんと小説家の町屋良平さんのトークイベントに行って、終わったあとにご挨拶して話をさせてもらっている時に、町屋さんがご自身が芥川賞を受賞したあとぐらいからの候補作は内容重視のものが増えてきたと言われていて、それってたぶんここで町田さんが書いている文体の時代ではないって方向になっているということなんだろう。

 

8月18日


初回を親友のイゴっちにオススメされて読んでいた園山ゆきの著『ブレス』一巻が発売になっていた。『ブルーピリオド』とかに続いていくような作品になると勝手に思っている。

清原果耶が10月スタートのドラマ「霊媒探偵・城塚翡翠」で主演

主人公の翡翠を清原果耶さんということは、相手(バディ)役の香月史郎を誰が演じるかがヒットするかどうかになってくると思う。正直、原作読んでいる人が気になるのはそこだと思う。
おそらく原作通りにやってしまうとある程度年齢を重ねた人が昔放送されたあるドラマのことを思い浮かべることになると思う。そして、そのタイトルをいうだけでこの小説の大筋の部分のネタバレになる。だから、脚本とか演出とかでどこまでやれるかっていうのが気になる。
映画『線は、僕を描く』の主人公のライバル役としても清原さん出演するようだけど、どっちも講談社原作。『線は、僕を描く』は『ちはやふる』の小泉徳宏監督がやるせいか、そちらにかなり寄っている感じになっていて、もはやメフィスト賞受賞作ということはなかった感じになっている。

『グリーン・ナイト』マスコミ試写のお知らせがきた。すごくうれしい。

「A24×原典J・R・R・トールキン×監督・脚本デヴィッド・ロウリー (『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』) が贈る、A24史上、最も美しく、最も壮大なダーク・ファンタジー

去年アメリカでは公開されたけど、日本は公開されずにスルーになっていたので余計に気になっていたA24制作作品。劇場に観に行こうと思っていたけど、試写で観ておもしろかったらまた劇場で観るつもり。なんでこれ去年の時点でスルーされたのか不思議。
A24制作でいうとミシェル・ヨー主演のマルチバースを描く『Everything Everywhere All At Once』も日本でも公開してほしいものだが。


夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとネクタリンとマスカルポーネのタルトを。ネクタリンは一ヶ月前ぐらいに食べたから今年二回目だった。曽根さんたちに「メルマ旬報」が終わることなんかを話して、ちょっとリラックス。


ニコラ帰りの夕日。帰ってから小説の執筆しようと思ったけど、やる気がどうも起きないので湯船に浸かって、ちょっとだけ「メルマ旬報」の原稿を書いた。

 

8月19日

ありま猛著『あだち勉物語』3巻。あだち充の兄である漫画家・あだち勉の弟子だったありま猛のよる70年代の漫画家青春ものとも言えるこの作品。
赤塚四天王であり、師匠の赤塚不二夫同様に飲む・打つ・買う三拍子の遊び人だった勉。その影響を受けながら漫画家として飯を食えるようにアシスタントをしているありま。あだち充も70年にデビューはしているが、この時期はまだ『ナイン』も書く前で原作ものや小学何年生とかに漫画を描いていた時代であり、充にとっても青春の延長のような時期。
あだち勉を漫画家として殺したのは赤塚不二夫と赤塚番でもあった編集者の武居俊樹であり、今回の中で勉がそのことに言及しているが、武居が弟の充の才能を信じ、「サンデー」から放逐された彼を「少女コミック」に呼ぶなど、のちに才能を開花させるまでを匿ったというか面倒を見たとも言える人でもある。武居はあだち兄弟にとっては非常に重要な人物である。3巻ではありまが武居に口答えするというエピソードが出てくる。
70年代というと近過去のような気がするが、約50年前だと思うと時間の感覚がうまく取れない。その頃20代だった彼らは亡くなっていなければ70代になっていて、父と同世代だ。

伝説の作家に「講談社のCIA」と呼ばれた男。初代担当編集・F

この文庫本は収録されている短編よりも、殊能将之メフィスト賞に『ハサミ男』を応募し、受賞が決定したけど連絡がつかない、連絡が取れてからも紆余曲折がある殊能と編集者のやりとりなどが書かれている「ハサミ男の秘密の日記」というメタフィクションっぽいものが読めるのがウリというか、それがメインである。
殊能将之の正体をすぐに大森望さんがすぐにわかった理由とかがSFファンダム的な繋がりだったりするのが時代を感じさせる。

朝晩とリモートワークをしていたが、午前中に「メルマ旬報」の編集の原さんからラインで意外な連絡が来た。その内容に関連する日時がちょうど空いていた、というか時間を作るために有給にしていてちょうど空いていたのでお受けすることにした。どうなるかは知らん。

 

8月20日
高橋一生×飯豊まりえ「岸辺露伴は動かない」第3期が12月に放送、スタッフも続投 

菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラールオーチャードホールでのライブで演奏されたこの『岸辺露伴は動かない』のテーマ『大空位時代』を音源化してほしい&ドラマのサントラを出してほしいとずっと思っているのだが、ドラマ第三期ということはありえるかもしれない。
オーチャードホールの時のMCで菊地さんが「大空位時代」の話をしていて、「大空位時代」=「Interregnum」、インターレグナムっていい単語だなって思った。
空位時代」の意味としては「ある政府、国家組織、社会秩序が一時的に連続性を失う時代、特に君主制国家における前君主の死去(もしくは退位)から次代君主の即位までの期間を言う」っていうものらしいけど、まさに民主主義の根幹である三権分立をぶち壊した安倍政権とそれを継いでいる現政権、そして空虚な中心としての東京の真ん中にある皇居と天皇という存在。そう考えると逆説的にも皮肉としても日本はずっと大空位時代だなって思った。
LAのハリウッドを舞台にした映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』を日本バージョンで赤坂&青山に舞台を移したら、いけるんじゃないかって書き始めていた作品のタイトルは別のものだったけど、『インターレグナム』にした。その小説はまだ原稿用紙三百枚ぐらいしか進んでいなくて、まだ半分以下の状態。執筆のスピード感を上げないといけない時期になってきた。

本来であれば、今日はサマーソニックに行っているはずだったが、目当てのリバティーンズがキャンセルになったのでチケットを手放した。リアルタイム配信もしているようだが、映像で見たいとは思わないので、散歩してから帰りにスーパで食材を買った。
木曜日にニコラでししとうをもらったので、昨日は豚バラ肉と一緒に炒めて食べた。今日はベーコンとミニトマトと一緒にごま油で炒めてからめんつゆとかつお節をかけて食べてみた。わりと美味しかった。

夕方から仕事だったので、それまで円城塔著『『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』の続きを読む。アニメと違うのは物語を語る存在が、メイン主人公のひとりである神野銘が使っている、彼女が「ペロ2」と名付けたコミュニケーション支援AIであるということ。それはナラタケの一ブランチであり、もうひとりの主人公である有川ユンが中心になって構築中のソフトウェアでもある。

 わたしはソフトウェアである。
 少なくとも、自分ではそう認識している。
 自分が人間だとは認識していない。
 自分が「自分のことをAIだと信じ込んでいる人間である」という可能性については折に触れて検討しているが、蓋然性はとても低い。別段、周囲にAI扱いされているがゆえに、自分はAIだと考えているわけではない。
 わたしには、多くの姉妹兄弟がいる。そのどれもが、ナラタケから分岐して生まれ、人間との共同作業によってそれぞれ個性を獲得している。乳幼児と一緒に育つものもあれば、成人の間で社会様式を学ぶものもある。ユーザー側の許諾があればその学習記録はサーバーに送られ、試行エンジン開発の資料に利用される。
 今こうしてわたしが行う思考はそうした、同胞たちの経験の上に積み上げられたものである。
 こうした思考のあり方が、人間とはやや異なるものであることから、わたしは自分がAIと呼ばれるのが妥当であると考えている。
円城塔著『『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』P129-130より

アニメを見ていることも大きいのだろうが、小説で神野銘と有川ユンを主人公にして一人称とかで書くよりも、「ペロ2」やその姉妹兄弟から見えた世界を書く方が、神野や有川たちだけでなく、「ゴジラ」を含めた怪獣たちや作中で超重要な分子というかキーになる「アーキタイプ」についても網羅して書ける距離であり、やり方としては正しいのではないかと思える。また、「ペロ2」たちソフトウェアたちの視線から世界を見るというのはやはり円城塔が描く世界感をさらに強調して違和感のないものにしているように読んでいて感じる。

 

8月21日
僕に海外ロックを教えてくれて、かつてリバティーンズが来日ライブした時も一緒に行った高校の友人である竹原は「サマーソニック2022」20日東京、21日大阪に参加していて、初日のヘッドライナーのTHE 1975を観てから海浜幕張からうちに来た。
朝イチで大阪に向かうので、ちょっとは休めせてほしいと前から言われていた。結局四時半には起きて品川に向かう予定だったが、久しぶりだったので電気を真っ暗にしてからも話をしていて深夜の二時を過ぎていた。付き合いが15年近いけど、40過ぎても付き合いがあるようになるとはその頃はまったく想像していなかった。

千原ジュニア×伊集院光伊集院光とは一体何者なのか?〜


千原ジュニアさんと伊集院光さんの対談を見たが本当におもしろい。お二人の共通点が中卒って以外はわりと対照的に見える芸人さんたちだけど、すごく共感というか調和している空気感になっている。ジュニアさんがしっかり話を聞こうとしている姿勢が話しやすい感じにもなっているのかな。
この前YouTubeで配信していた伊集院さんが自伝の本を作るために芸人になった時から現在までを語っていくというトークイベントがされていたこともあるんだろうが、師匠である三遊亭楽太郎さんに弟子入りして落語家になり、そしてラジオに出るようになって名前が伊集院光になるという展開の流れが軽やかというか、トークイベントで話をしているせいか滑らかな感じに聞こえた。やっぱり話は何度も話しているとそのネタは練り上がっていくんだろうか
師匠の楽太郎さんの粋な感じとか人間として魅力が弟子である伊集院さんから語られることで、それがどんどん広まっていっていると思う。下の人間に慕われる、尊敬される人は語られていくから残る。逆も然り。

 

8月22日

J-WAVEでオンエアされている燃え殻さんのラジオ『BEFORE DAWN』。先週は生放送ということもあり、メッセージを送って読まれると番組のステッカーをプレゼントということだったので送った。メッセージが読まれたのでステッカーが届いた。読まれたのは3回目だった。

今週の金曜日に入っていた予定を来月に、という連絡が来た。こちらとしてはいつでも問題ないので来月にスライドしてもらった。結局、有給を取っている金曜日はやるべきことをしろと言われているみたいだ、とちょっと苦笑。

出社しないで朝晩と家で作業をしているが、先週よりは部屋の中にいても気温が下がっているのを感じる。休憩中に昼飯とかを買いに行っても数日前より暑さは和らいでいる。一回気温が下がってから、また猛暑が戻ってこないとは限らないが、このぐらいが歩くのはちょうどいい。

 

8月23日
ものかきが育てた文房具。デジタルメモポメラ「DM250」インタビュー

先日キングジムさんに行ってお話を伺ってきたインタビュー記事が公開になりました。「ポメラ」ユーザーの方も、使ってないけど興味あるという方も読んでみてください。

群像新人文学賞」受賞のデビュー作『貝に続く場所にて』で芥川賞を受賞した石沢麻衣さんの二作目となる『月の三相』の単行本についてのツイート。
二作連続でいい装幀だなあと思うし、こういうデザインのほうが個人的には好き。漫画やアニメ的なイラストを使ったデザインがあらゆるジャンルの本で溢れかえっていて、もっととんがったものでもいいのなって感じることが多い。もちろん、装幀は書籍の顔だから手に取る可能性が高いもののほうがいいわけだから、イラストが増えるのもわからなくはない。
自分が好きなデザインというのは性癖みたいなものだろう。イラストでも自分が好きな漫画家やイラストレーターが書いていたら気になるし手を伸ばすが、僕はその好きな幅がかなり狭い。知り合いの人が書籍を出してもたいていなんでこのデザインでいいんだろうかと思うことが多々ある(たいていはイラストでそのセンスが自分とはまったく合わない)が、ご本人には問題がないのだろう。
執筆者というよりは出版社の編集者や営業とかのラインで決まるだろうし、たとえば新人作家に装幀に口を出させてくれる、意見を聞いてくれるところはどのくらいあるのかはわからない。もちろん、内容が反映されて装幀デザインが生まれる。だから、僕は装幀がダサいとか自分には合わないという場合には手を出さない。例外はその書籍を知り合いや信頼している人が薦めてくれた場合だ。たまにそういう時にでもいい出会いがあり、同時にこんなデザインじゃなかったらと思うことになるが。

本日が「メルマ旬報」の僕の締め切りなので、この日記をアップして書いていた原稿にこのURLを貼って、原さんに送る。


少し前に『フラワー・オブ・ライフ』を薦められて、嘉島さんが聞き手のインタビュー記事を読んでおもしろしかったので、『仕事でも、仕事じゃなくても 漫画とよしながふみ』を買ってきたら、『大奥』ドラマ化のニュースでいろいろとタイムリー。

漫画家・よしながふみが語る「自身の作品」と「社会の変化」——拡がる漫画表現


今月はこの曲でおわかれです。
yonawo - tokyo feat. 鈴木真海子, Skaai (Official Audio)



The Ravens - 楽園狂想曲

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年6月24日〜2022年7月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年07月掲載


先月の日記(5月24日から6月23日分)

6月24日

四方田犬彦著『さらば、ベイルート』の装幀と帯文に惹かれて購入。四方田犬彦さんの名前は知ってはいたが、書籍を読んだことはなかったのでこれがはじめて。
この本はノンフィクション作品であり、女性映画作家であるジョスリーン・サアブという方のことを書いている。僕はジョスリーン・サアブ監督という名前も知らなかったし、おそらく作品も観たことはないのだと思うが、なにかが「読め」と言っている気がして手に取った。

中東から西サハラヘ、さらにヴェトナムへ、瓦礫のなかで女性たちの人生を見つめ、歴史の証言者たろうとしたドキュメンタリスト、ジョスリーン・サアブ。骨髄を癌で犯され余命いくばくもない彼女から、わたしは最後の作品への協力を依頼される。それは元日本赤軍幹部・重信房子と娘メイの、母娘の絆の物語だった。だが、そんなことがはたして可能なのだろうか……。歴史は無慈悲に進行し、記憶は両手から零れ落ちる砂のように消えていく。死の直前まで彼女が見つめていたものは何だったのか? 知られざる女性映画作家の足跡をベイルートに辿り、その生涯を凝視する珠玉のノンフィクション。(河出書房新書サイトより)


引っ越し人生70年、吉祥寺に戻った四方田犬彦。ここは終の住処になるか

先月、作家の樋口毅宏さんが四方田さんにインタビューしていた記事。

古川日出男の現在地>連載ブログ第79回「満月と併走する」

古川さんイタリアから日本へ帰ってこられたみたい。30日のイベント「「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点―マリオ・バルガス・ジョサ『街と犬たち』の魅力」モードになるには少し時間がかかるのかも、と思いつつ、僕もまだ読みかけの『街と犬たち』をまずは読み終わらないといけない。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」が公開になりました。
四年近く続いてきた連載も今回の『MIX』編で最終回となります。「前編」では、刊行中の18巻までのストーリーと登場人物たちについて取り上げています。


水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年6月24日号が配信されました。今月は十八編の詩とそれぞれに自分が撮った写真をつけたものにしてみました。

 

6月25日

小川洋子堀江敏幸著『あとは切手を、一枚貼るだけ』文庫本を買っていたけど、読み始めていなかったので少し読んでみる。まずは最初の一編め。
小川さんと堀江さんがそれぞれ交互に手紙として書いたやりとりをしたというていの作品。以前、単行本で出た時に読みたいと思ったまま読んでいなかったので、文庫で出てくれてよかった。


「WDRプロジェクト」に出す脚本の参考としてクエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』を先日観て、今日はダニー・ボイル監督『トレインスポッティング』を観た。
続きが気になる脚本ということで、書いてみようと思う登場人物たちがいる舞台がどうおもしろくなるかをこれらの作品に当てはめることはできるのかなと思いつつ。

前者は物語の中での時系列をズラしているので、中盤ぐらいから「あれ? たしかさっきこの人は?」みたいになっていく。物語のテンポが早いのとうんちくのような語りの台詞がリズムを刻んでいるところはやはり惹きつけられるし、各シークエンスごとになにかが起きているのも飽きさせないものとなっている。
後者は時系列としては普通に前に進むだけであるが、ヘロイン中毒の若者たちの怠惰的な青春と言っていいのかわからないが、転がり落ちておく人生を描いており、公開してからイギリスやアメリカ、日本でも熱狂的に支持されてヒットした作品だ。ある時期「トレスポ」のオレンジのポスターはおしゃれアイテムみたいな感じになっていたのを覚えている。
映像がスタイリッシュでスピード感があるからこそ、ヘロイン中毒の若者の怠惰がよりその時代と結びついていたのだろう。「トレスポ」の世界はただ見事にヘロイン中毒になって堕ちていく、その様子が性や暴力やスコットランドという国の雰囲気をも描いている。しかし、これは現在の世界は成り立たない物語でもあると感じる。

スマホというものが現れて以降の世界と以後の世界はやはり違う。そしてヘロイン(おおまかにドラッグというもの)のように現在では世界中でSNSがそのドラッグよりもヤバいものとして浸透している。この映画に感じるある種素直な怠惰や堕落みたいなものではなく、SNSがいろんなものを破壊して侵食しているので、観ながら少しだけのどかだなと思ってしまった。
パルプ・フィクション』と『トレインスポッティング』どちらも参考にはなりそうだが、舞台の1920年代をちょっと掘らないとまだ掴めないなあと思った。でも、この二作品ぐらいのテンポとリズムでいけたらけっこうおもしろいんじゃないかなと脳内で映像を浮かべてみる。

 

6月26日
日付が変わってもなかなか眠れずにいた。「ほぼ日イトイ新聞」で公開されていた佐久間宣行さんをゲストに迎えた『知恵と武器と感度。』を全部読んでしまった。

この中でも「09 お笑いと千利休」の話がすごく頷けるものだった。お笑いが権威化していった先にあるものとして、かつての千利休のことを引き合いにだしている。

深夜二時半ぐらいのラインが届いて、先日亡くなったコラムニストの小田嶋隆さんが以前に書いたものを再掲載した記事だった。
「晩年」という言葉から感じるものについての話から物書きとしての姿勢というか生き方について書かれており、そこに必要なものはプロの書き手であるという「覚悟」なのだと読み終わって感じた。送ってもらったお礼をしてから、ちょっと経ったら眠りに落ちていた。

 私のような職業的な書き手と彼らのようなアマチュアの凄腕に差があるのだとすれば、「職をなげうっているかどうか」だけだ。

 つまり、文章を書くことを専業として食べて行けるのかどうかは、もはや才能や筆力の問題ではないということだ。ライターとして独立できるのかどうかは、ひとえに「いま食えている仕事を投げ出すことができるのか」にかかっている。


起きると正午近くになっていた。部屋の空気はクーラーの除湿のタイマーが切れていたから、少し暖かくなっていて外はかなり暑いのだろうなと思わせるものだった。
こうやって文章を書いている時にはほぼ覚えていないが、なにか夢を見ていた気がする。おそらく自分の知り合いが出てきたような、夢だったのではないかとわずかにその切れ端を掴んでいるように思えるけど、それは千切れるのではなく風化して握っている感触としてはパサパサになって、最終的には砂みたいに分解して消えるイメージ。だからもうどういう内容で誰がでていたのかわからない。

炊飯器をセットして昼のご飯をおかずをスーパーに買いに行くついでに、その前にある区役所の出張所に選挙の期日前投票もしておこうと思って、送られてきていた投票券を持って家を出た。八月と言われても納得な熱気だった。
梅雨明けってしてないはずだが、これはなし崩しに「梅雨明けてました」とか言われそうだ。雨が降るとしてもゲリラ豪雨のようなものだと困るし、雨が降らないと降らないで農作物などいろいろと今後に影響が出てしまう。
おまけに円安で物価は上がっているのに給与は上がらずに、インボイスとか労働者からさらに搾り取ろうとしている。開催する必要のなかった東京五輪の収支なんかはしっかり出さないままで委員会は解散して、使ったお金はブラックボックスでもうわからないというか国民を誤魔化したままであいつらはオイシイところだけもらって逃げる。ただのクソだが、その構造を残念ながら変えることができない。

選挙でも政権与党に対抗する政党やそれらが一致団結しない(できない)のをいいことに、日本に住んでいる人たちがどんどん貧しくなり、無知にして逆らうこともできなくしていきたいのだろうなと思えるようなことしか今の政府はしていない、アメリカでは最高裁での中絶する権利を却下する判決が出ている。女性の身体を女性自身が決めることができない、しかも何十年も前に出された判決が覆されている。これはトランプ大統領政権下での保守化したことのひとつの結果のひとつだろうけど、これでまたアメリカでは大きな動きが出てくると思う。
日本ももうありえもしない「家父長制」的なものを復権させようとしているのが政権与党であり、彼らは確実に自分達の思うままに人を動かしたり、操るために個人の自由やその権利を保障するという法律も変えることを目標にしているのだろう。だが、それでも自民党が勝つだろうし、補完勢力でしかない公明党とその反対勢力に見せかけているだけの維新はただそれに追随しているように見える。

ただ、小田嶋隆さんのコラムに書かれていたように、「しかし、こんなバカなことが長く続くはずがない。」と思いたい。出張所に行ったら、そこでの期日前投票は7月3日からだった。一週間後だ、それでもいい。どうせ投票する先は決まっているから揺るがない。
お昼のおかずをスーパーで買って帰った。これだけ暑いと雨が降ると気持ちいいのになあ、と思うが日差しが強くなるばかりだった。その時ちょうど着ていたのはバンド「踊ってばかりの国」のNIETZSCHE(ニーチェ)のロゴが入ったバンドTシャツで、家に帰ってからその曲を聴いた。

踊ってばかりの国ニーチェ』LIVE@新木場USEN STUDIO COAST(2022.1.05)

 

6月27日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」が公開になりました。
『MIX』編「後編」で今回が最終回となります。現在における「父性」の問題として『トップガン マーヴェリック』と『カモン カモン』を引き合いにしてあだち充作品における「父性」について書きました。そして、この連載におけるテーマであった「戦後日本社会の想像力」としての「主体的に責任を取る大人になる」ことについて最後にまとめていました。
約四年近くの連載が終わりました。最初に企画書を出してみなよとお声がけしていただいた宇野常寛さんには感謝しかありません。ほんとうにありがとうございました。
また、連載の担当をしてもらった「PLANETS編集部」の菊池俊輔さん、中川大地さんにも本当にお世話になりました。いろいろとご迷惑をかけてしまった部分もありましたが、最後まで並走してもらえてうれしかったです。


今年はこの連載も終わり、数ヶ月前からいろいろなことが起こっていて、そのことについて落ち込んだり、どうしたらいいのかなと考えることが多くて、どうしても今までのモードや気分ではいられなくなっているというのがほんとうのところです。そういう時期は過ぎたんだろうなとも感じています。
たぶん、前みたいに自分の好きなものに突き進んでいったほうが僕には後々いいんだろうな。今年の下半期は来年以降のために種植えて耕す時間にしたいなと思います。

山下達郎オールナイトニッポンGOLD」をradikoで再生して仕事中にBGMとして流して聴いていた。
先日、散歩で代官山蔦屋書店に行った時に、2階の音楽フロアに山下達郎さんの新譜がCDだけではなくレコードとカセットテープといろいろなバリエーションのものが置かれていた。どんなニューアルバムなのかなと気になっていたので、ラジオを聴いてみようと思ったという、まさにプロモーションに引っかかった形だった。新譜は11年ぶり、テーマも「11年」ということもある、途中で東日本大震災の話もされていた。
世界中でのシティポップ再評価の波はいろんな要素があるけど、山下さん自身はサブスクは自分が死ぬまで解禁しないと言っていたはずで、そのせいもあってかYouTubeでは過去のアルバムとかまるごと違法アップロードされてそれが聴かれまくっている。そうやって出会う人たちもいる、でも、作り手に還元されなければジリ貧になっていく、というかもはやそうなっている。

ただ、漫画もかつては日本の作品の海賊版が国境をいとも簡単に越えていた、著者たちも出版社も知らないままに。文化は簡単に国境というラインは越えていく、そうやって何も繋がっていない、本来届かない場所にいない人たちに届いて、その遺伝子が別の進化を始めるということもある。
山下さんのパートナーである竹内まりやさんの昔の楽曲とかも今海外で聞かれているけど、それらはやっぱり前向きなことではなく、「ありえたかもしれない可能性」の消費の部分もあるし、英語圏内の曲は掘り尽くされているっていうこともあるだろうし、『ストレンジャー・シングス』シリーズもそうだけど、やっぱり1980年代から90年代というインターネット以前の世界にみんな戻ってやりなおしたいって欲望はあるんだろうなと感じるところもある。これは毎回書いていることだけど。
でも、過去に戻ってやり直せないし、ありえたかもしれないすべての可能性にコンタクトする方法はないし、あるとしたらやはり三次元よりも先の次元に行くしかないだろうし、つまり現状では想像でしかそれは叶わない。だから、輝かしい過去だけが亡霊のようにずっとくっついてくる。
山下達郎さんの音楽が、ということではなく、新譜の曲も聴いたけどやはり素晴らしいものであるのは間違いない。でも、この世界の現状としてはこうやって書いたことなんかを考えてしまう。

山下達郎「LOVE'S ON FIRE」


MV見たら出演している「Girl」役の人が河合優実さんだった。

稲垣吾郎さんがMCを務めるラジオ番組『THE TRAD』の【ENTERTAINMENT MAP】というコーナーに燃え殻さんが出演されたというのでこちらもradikoで聞いてみた。
稲垣吾郎さんと燃え殻さんは声の感じといい、話し方のテンポといい、同世代で同じものを見て影響を受けてきたということもあり、ほんとうにいいやりとりをされているなと思う。
燃え殻さんの小説『これはただの夏』映像化するなら、主人公は稲垣さんだといいんじゃないかなと思ったり。SMAPの『夜空ノムコウ』の話もよかった。

 

6月28日

起きてから渋谷までは歩いてそこから副都心線新宿三丁目まで。渋谷に行くまでは三十分ほどだが、この猛暑はやっぱりしんどい。汗だくだくとまでは行かないが、額の汗を何度か拭いながらユニクロの下の地下通路を通って副都心線乗り場へ向かう。
数年前からちょっとずつ見るようになった男性の日傘率も上がってきているように感じる。僕は持ったことはないが、雨でも傘差したくないっていうのもあるけど、生命が大事だから日傘を持つ人が増えるのはいいことだと思う。もはや僕らが幼かった頃の夏とは比べようもないほどに、日本の夏はクーラーなしだと死んでしまほどの酷暑になってしまっているからそのための対策は必要だ。僕はこまめに水分を取ることにしている。

青山真治監督『サッド ヴァケイション』 をテアトル新宿にて鑑賞。3月21日に亡くなった青山さんの代表作である『EUREKA』は先月テアトル新宿で上映された。『EUREKA』は一度も劇場で観たことはなかったのでこの間足を運んだのが初めてのスクリーンで観ることのできる機会となった。今作『サッド ヴァケイション』は2007年の公開初日にシネマライズで舞台挨拶付きを観ているので15年ぶり。

中国からの密航者を手引きする健次は、父親を亡くした少年アチュンを引き取ることに。職業を変え、アチュンや幼馴染の男の妹ユリと家族のような共同生活を送っていたある日、健次はかつて自分を捨てた母親・千代子に再会する。捨てられた恨みを果たすため、母と共に暮らし始める健次だったが……。青山真治が自身の代表作「Helpless」「EUREKA ユリイカ」に続く“北九州サーガ”の集大成として作り上げた1作。前2作と共通する人物も多数登場。(映画.comより)

サッド ヴァケイション』は『Helpless』『EUREKA』に続く「北九州サーガ」三部作目となる作品。『Helpless』から白石健次(浅野忠信)、『EUREKA』から田村梢(宮崎あおい)、三部作全てに登場するのは秋彦(斉藤陽一郎)であり、三部作を観ることでその世界観がより濃く届くものともなっている。
2007年の映画公開前に出版された小説版を読んでから、映画は観ていたはずだが、ある程度内容は朧げに覚えていたが、再見すると登場人物たちの関係性や些細なシーンは忘れていたので新鮮な気持ちで観ることができた。

白石健次という名前が小説家の中上健次からであり、彼の「紀州サーガ」からのインスパイアやオマージュとして「北九州サーガ」はあったはずだ。特に前二作では暴発的な犯罪を犯したり、それに巻き込まれた人たちの物語であったが、『サッド ヴァケイション』はかなり「血」について濃厚な物語になっており、「母性」と「父性」をめぐる内容である。
健次をかつて捨てた母、そして母の新しい家族、種違いの弟、優しい義父、義父が運営する運送会社には問題を起こしたり、どこかに居られなくなった人が集まっている。この大きな擬似家族は、偶然、健次が母を見つけたことから大きな悲劇に巻き込まれていく。
だが、その悲しい出来事すらも母は飲み込んで行ってしまう。母親役である石田えりさんの微笑みは物語に進むにつれどんどん怖くなってくる。それは「母性」であるものの、すべてを飲み込んで支配していくような黒々とした波のようであり、健次は母への復讐を果たそうとするが、それすらも彼女の胎内に戻されるかのように飲みまれてしまう。
最後の母と息子が向き合うシーンではある衝撃の真実が母から知らされ、彼が起こした復讐がとんでもないことを引き起こしてしまったことを知り、その衝撃と絶望が彼を襲うことになる。その「血」にまつわる出来事や展開はやはり中上健次作品を彷彿とさせる。

2022年の現在になって見ると、健次が面倒を見ていたユリの劇中でのこともいろいろと言われてしまうのだろうなと思う。そこには「男性性」による加害による被害を受けてしまう展開があり、昔からだが物語において「女性」が殺されたり、性的な被害にあうなどのことが脳裏によぎってしまう。だが、今作においては健次の母という「母性」が「家」を守るためにではあるが、どこか狂っているほどの力ですべてを飲み込もうとしていることもあり、単純にユリのことだけがなにか言われるということはないとは思うのだが、そういうことを言う人もいそうだなとは思った。

『EUREKA』に引き続き、『サッド ヴァケイション』でも茂雄(光石研)と秋彦(斉藤陽一郎のやりとりはおもしろくてたのしくて、声を出して笑ってしまった。あれはアドリブに見えるんだけど、どうだったんだろう。
今作において一番アットホームというか和むのが彼らのシーンだった。青山真治監督が亡くなっていなかったら、茂雄と秋彦が出るような『サッド ヴァケイション』の先の物語が撮られていたのかな。


テアトル新宿を出て、次はTOHOシネマズ新宿に行く前に「いわもとQ」によっていつものを食べる。そばを食べるのは新宿で映画を観るときにここに寄るときぐらい。


TOHOシネマズ新宿にて『メタモルフォーゼの縁側』を鑑賞。シネマイレージデイで料金も安いこともあるのか、平日の昼間だけどかなりお客さんは入っていた。『サッド ヴァケイション』『メタモルフォーゼの縁側』どちらも光石研さん出ていたのである意味で「光石研デイ」。

鶴谷香央理の漫画「メタモルフォーゼの縁側」を芦田愛菜宮本信子の共演で実写映画化し、ボーイズラブ漫画を通してつながる女子高生と老婦人の交流を描いた人間ドラマ。毎晩こっそりBL漫画を楽しんでいる17歳の女子高生・うららと、夫に先立たれ孤独に暮らす75歳の老婦人・雪。ある日、うららがアルバイトする本屋に雪がやって来る。美しい表紙にひかれてBL漫画を手に取った雪は、初めてのぞく世界に驚きつつも、男の子たちが繰り広げる恋物語に魅了される。BL漫画の話題で意気投合したうららと雪は、雪の家の縁側で一緒に漫画を読んでは語り合うようになり、立場も年齢も超えて友情を育んでいく。「8年越しの花嫁 奇跡の実話」の岡田惠和が脚本を手がけ、「青くて痛くて脆い」の狩山俊輔が監督を務めた。(映画.comより)

原作である漫画は読んだことがなく、周りで読んでいる人から評価が高かったのでおもしろいのだろうなとは思っていた。映像化で漫画を読もうか考えたがとりあえず映画を観た。
BL漫画から始まった年の離れた友人関係を描いていくのだが、好きなものを好きって言い合える友達がいたら最高だし、年齢とかそういうものが関係なくなるって話で素敵な作品だった。
作中で二人が好きな作品の展開とうららと雪の物語が時折重なり(百合的なことではないが)、うまく多層化していく。また、うららの思春期における将来への悩みなども雪との関係性、そして幼馴染とその彼女という同級生たちとの適度な距離で展開されていく。
作中のBL作品を雪がみんないい人でやさしくて見守りたくなるというふうなことを言っていたが、それはこの映画の登場人物にも言えることで、ほとんど悪意のようなものは介在しないで進んでいく。そういう意味ではファンタジーかもしれないが、観ていて心地よく優しい気持ちになれる。

ハケンアニメ!』はお仕事もので舞台がアニメ制作だったが、今作はBL漫画を軸に展開していく、どちらも観ると勇気をもらえるし、悪とか悪意というものがなく、今の時代の感じもある。
悪や悪意がないわけではなく、そういうものを物語に入れなくてもいいというか、観客や受け手がそういうものを望んでいないのかもしれない。ぺこぱの人を傷つけないお笑いみたいなものから続いているような気もする。だとしたら、この世界は悪と悪意で満ちていて、みんな創作からはそれを避けたい時代ということなのかもしれない。

 

6月29日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年07月号が公開されました。7月は『リコリス・ピザ』『ソー:ラブ&サンダー』『戦争と女の顔』『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』を取り上げています。


仕事終わってからニコラでアイスコーヒーを飲んで一服。外に出ると夕方過ぎなのにうだるような暑さだった。長いこと外いたら熱中症になってしまうだろうなと思う、ほんとうに危険だ。ひさしぶりのアイスコーヒー、すっきりとして美味しかった。
その後、友人とやっているミーティングという名の作業進行確認。週に一回やることで作業を少しでも進めないといけないという気持ちを持てるのがありがたい。

 

6月30日

魚豊著『チ。-地球の運動について-』第8集(最終巻)。想いや願いが次へ次へとバトンタッチされて引き継がれていくという話でもあり、最後のページの絵ではなく文章のところで知っている名前が登場した。たぶん、この終わり方は決めていたんじゃないかなと思う。アニメ化されるということだけど、演出次第では大失敗してしまう可能性がありそうな、気がしてしまうのはなぜだろう。


安田佳澄著『フールナイト』第4巻。『フールナイト』はTBSの「金10」とかで実写化したら面白いんじゃないかな。あの頃の『ケイゾク』『I.W.G.P.』みたいな感じというか、今の若手の映像クリエイターがメインでやったらカッコよさとこの作品の核がうまく融合しそう。
4巻では貧民街的な場所が出てくるが、政治的な対立や裏で糸引いているかもしれない人物などは今の日本社会っぽいというか、フィクションに現在を落とし込んで違った世界観で物語っている、アイロニーとかぶちこむながら著者のイメージと混ざり合って力強い作品になっていっているように感じる。


16時までになんとかマリオ・バルガス・ジョサ著『街と犬たち』を解説まで読み終えてから歩いて渋谷まで、ジュンク堂書店渋谷店でちょっと涼みながら新刊を見てから、半蔵門線に乗って半蔵門駅まで。
駅からは10分ちょっとでインスティトゥト・セルバンテス東京。麹町付近ってあまり用事がないけど、何度かは近くに来たことがあるような場所だなと思った。
インスティトゥト・セルバンテス東京で『「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点―マリオ・バルガス・ジョサ『街と犬たち』の魅力』のイベントを見る(聞く)。

1960年代、世界文学史に金字塔を打ち立てたラテンアメリカ文学のブーム、その発端となったのはマリオ・バルガス・ジョサ(1936年ペルー生まれ)の出世作『街と犬たち』(1963年刊行)の成功でした。本作の新訳刊行を記念して、ラテンアメリカ文学の愛読者として創作を続けている小説家、古川日出男さんをゲストにお迎えし、翻訳者の寺尾隆吉氏(早稲田大学教授)、文学研究者の仁平ふくみ氏(京都産業大学准教授)とともに、世界を驚愕させたラテンアメリカ文学の魅力を語ります。

https://ciudad-y-perros.peatix.com/

というものだったが、仁平さんはいらっしゃらなくて、寺尾さんと古川さんの二人でのトークイベントになった。始まる前に受付をされているスタッフさんとイベントに来ていた知り合いであろう人たちの話し声が聞こえて、スペイン語だったのかな、たぶん。その明るい声とハグとかの感じがなんとなく伝わってきて、異国ではないけど文化が違う場所なんだなあと思った。こちらがここでは基本的にはアウェイであり、マイノリティなんだなあという気持ちになった。

研究者である寺尾さんがマリオ・バルガス・ジョサ(マリオ・バルガス・リョサ)の年表を元に、リョサガブリエル・ガルシア=マルケス、フリオ・コルタサル、カルロス・フエンテス四人を挙げながら、ラテンアメリカ文学ブームの話へ。
古川さんはマリオ・バルガス・リョサはリアリズムの作家であるこということを言われていた。ガブリエル・ガルシア=マルケスやフリオ・コルタサルマジック・リアリズムで幻想的なものを描くが前者は土着的であり、後者は都市部的なもので、自分はマルケス的な土着的なものに近いし、生まれた環境など通じる部分の話をされていた。

その後、リョサマルケスを殴ったパンチ事件などの話(日本でいうところの野坂昭如大島渚を殴ったあれみたいなものだろうか)もあり、その発端というかリョサマルケスの作品を網羅して批評として書いた『神殺しの物語』についてもレクチャー、この事件以後二人は会うことはなく、リョサが『神殺しの物語』を発禁したのでほとんど読めないものとなっていたのだが、なんと寺尾さんが翻訳していて今年の10月とかに出るという話もあった。
リョサはリアリズムの作家だが、『街と犬たち』刊行時の編集者がやった宣伝(舞台となった学校で小説がたくさん燃やされたとか、実際にはなかったことを喧伝し話題にした)などは魔術的なものがあったし、作品としては現実を描いていて、幻想の方向に向かなかった。だがマルケスの『百年の孤独』について批評がしっかりできるのだからマジック・リアリズムがわからないわけではなく、資質として向いていないのでやらなかったのではないかという話も出ていた。
読者を受動的ではなく能動的な存在として信じている部分があったからこそ、『街と犬たち』では誰が何を語っているのかわかりにくく、時系列も過去から未来という当たり前の一通ではなく時間軸が混在しているなど、読み手としては脱落してしまう人も多いだろうが、喰らいついてくれば血肉になる作品となっている。その辺りは終始作家として変わらなかったし、処女作からそうだったという話は興味深かった。

古川さんはマルケスたちマジック・リアリズムの書き手の方、幻想的な資質にある人なので、『おおきな森』ではマルケスコルタサルボルヘスたちが出てくるというのはある種納得であり、その話やラテンアメリカ文学の始点でもあるウィリアム・フォークナーの話も最初にのちほどしたいと言っていたけど、時間がなくてその話題がお二人でされなかったのでそこも聞きたかった。終わってから古川さんにご挨拶した。次にお会いできるのはしばらく先になりそうだが、これをきっかけでリョサの作品も読めたのでよかった。

STUTS - 夜を使いはたして / Yoru Wo Tsukaihatashite feat. PUNPEE "90 Degrees" LIVE at USEN STUDIO COAST


上半期が終わった。下半期への想いとかのマイテーマソングという感じがこの曲には感じている。

 

7月1日

スラヴォイ・ジジェク著『分断された天 スラヴォイ・ジジェク社会批評集』は下記のTwitterでの動画を見て、「ジジェク」って名前は聞いたことあったけど、こんな人なんだって思って興味がわいた。どういうものを書いているのか読んでみたいと思って、名前で検索したら先月の下旬に新刊が出たばかりだったので購入をした。


twililight(トワイライライト)で月も変わったので上巻だけ買ったままで下巻を買っていなかったトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクソン』下巻を買って一緒にアイスコーヒーを。今はオカヤイヅミさんの展示が始まっているので鑑賞。オカヤさんの漫画『ものするひと』がとても好きで、そこからインスタなどフォローしていたので生の原画を見れてうれしい。

今、ひとつの時代が終わろうとしていることを実感する2人の“龍”。が、その実像が不鮮明なのはなぜか。そこで、この疑問を気になる6人の論客(吉本隆明河合雅雄浅田彰柄谷行人蓮実重彦山口昌男)にぶつけてみた。現代思想の核心に迫る磁場・サロン「進化のカフェ」で白熱鼎談の幕がおとされた。

アイスコーヒーを飲みながら店内の本を見ている時に目が合ったのが古本コーナーにあった村上龍坂本龍一著『EV.Cafe 超進化論』だったので、こちらも購入。単行本としては1985年に出版されたもののようだった。


シネクイントで前からたのしみにしていたポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』を鑑賞。

マグノリア」でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したほか、カンヌ、ベネチア、ベルリンの世界3大映画祭の全てで監督賞を受賞しているポール・トーマス・アンダーソン監督が、自身の出世作ブギーナイツ」と同じ1970年代のアメリカ、サンフェルナンド・バレーを舞台に描いた青春物語。主人公となるアラナとゲイリーの恋模様を描く。サンフェルナンド・バレー出身の3人姉妹バンド「HAIM(ハイム)」のアラナ・ハイムがアラナ役を務め、長編映画に初主演。また、アンダーソン監督がデビュー作の「ハードエイト」から「ブギーナイツ」「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」など多くの作品でタッグを組んだ故フィリップ・シーモア・ホフマンの息子クーパー・ホフマンが、ゲイリー役を務めて映画初出演で初主演を飾っている。主演の2人のほか、ショーン・ペンブラッドリー・クーパーベニー・サフディらが出演。音楽は「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」以降のポール・トーマス・アンダーソン作品すべてを手がけている、「レディオヘッド」のジョニー・グリーンウッドが担当。2022年・第94回アカデミー賞で作品、監督、脚本の3部門にノミネート。(映画.comより)

予告編を何度か見ているけど、おしゃれな感じもありつつ、王道の青春映画みたいな雰囲気があって、本編はどういう感じなのだろうかと期待していた。主人公のゲイリーとヒロインのアラナは年が十歳近く離れている設定なのだが、最初に二人が出会ってゲイリーがどんどん積極的にアラナに話しかけることで物語が始まっていく。その後は恋愛というよりはビジネスパートナー的な関係もありつつ、という流れなのだが、どうも二人に感情移入ができなかった。
子役出身で野心家でビジネスも手がけていく「恐るべき子供」とでも言えそうなゲイリーに共感しないだけではなく、彼の葛藤とか苦悩が特に感じられない、感じられなかったせいか、相手のアラナは家族関係での問題や将来に対しての悩みなんかはあるのだけど、ノレなかった。
期待しすぎっていうのはあったとしても、この二人のビジュアルにそこまで惹かれていないというのもあったのかもしれない。この二人が一緒にいても恋愛や青春を僕がうまく感受できなかったんだと思う。途中で出てくるショーン・ペンブラッドリー・クーパーのシークエンスっているかなって思ったり、アラナがトラック運転するシーンはよかったけど。物語自体はちゃんと想いが伝わる感じで終わったけど、観ていて特に感動もなく。単純にポール・トーマス・アンダーソン監督と僕の相性が悪いのかもしれない。
個人的にはビジュアルとか音楽はよくて実際に観たらおもしろくなったパターン。

 

7月2日

田島昭宇 装画展『夢限パヤパヤ』サイン会 @ 吉祥寺リベストギャラリー創

田島さんが描かれてきた小説の装画の展示は6月30日〜7月12日まで開催。サイン会は抽選だったけど、今回も当たったのでラッキーということで17時からの回だったので15時半前に家を出て下北沢駅から井の頭線に乗って吉祥寺駅へ。リベストギャラリー創というところには来たことはなかったけど、地図アプリ見ながら歩いたら北口の商店街のアーケードを抜けた先にあって思いのほか駅から近かった。
17時少し前にギャラリー近くに行ったら、タバコを吸っている田島さんをお見かけしたのでご挨拶して少し立ち話をさせてもらった。かなりお久しぶりだったけど、お元気そうだった。その後、中に入って今回の画集を購入してサインをしてもらう。浮花さんもいらしたのでお話をさせてもらった。展示も充分見ることができて、サイン会が終わったあとにお声がけしてもらっていたのでギャラリー内でいただいた缶ビールを飲みながら談笑。田島さんともお酒を飲みながら色々話をさせてもらって大満足。
古川日出男著『サウンドトラック』文庫版の装画も初めて生で見れて嬉しかった。ちょうど午前中に先日の「ラテンアメリカ文学」のイベントのことでメールしていたものに、古川さんがメールを返してくださっていたので、そういう自分が好きで影響受けている人とやりとりが同じ日に出ているのはとても光栄だし、嬉しいことだなって思った。


KADOKAWAから出ている「山田風太郎ベストコレクション」の文庫本の装画を田島さんが手がけられていて、何冊か読んでいるんだけど、原画を見ると全部集めておきたいなって思う。三月に亡くなった青山真治監督の『Helpless』『地球の上でビザもなく』の原画もあり、書籍では色がついていたが、原画はモノクロのものだった。


サイン会が終わって家に帰ってから、ポストカードのランダム封入(六枚入り)のものを開けた。『サウンドトラック』の上巻のものも入っていた。久しぶりに『サウンドトラック』を読もうかな、と文庫版を本棚から取り出した。

 

7月3日
来週の日曜日、10日が参議院選の投票日だが早めに期日前投票をしに行く。候補者と政党名を書いて投票。候補者は前から決めていたので問題はなく、比例の政党は誰を当選させたいかと考えて党名を書いて投票した。
実家に送る書類があったのでそのまま世田谷郵便局まで歩いていって投函。帰りに肉のハナマサによってあとは焼くのみのバラ肉と鶏肉を購入したが、量がかなりあるので何日かもちそう。

トワイライライトで買った村上龍坂本龍一著『EV.Cafe 超進化論』文庫版をちょこちょこ読んでいる。単行本は1985年刊行らしく、今ならところどころアウトだろうと思わなくもない部分もあるが、この時期は村上龍さんが『愛と幻想のファシズム』執筆中みたいで「狩り」や「経済」の話は前のめりな感じ。
猿と人の違いとかから動物はインセスト・タブーを犯さないって話があって、人間も親しくなりすぎるとセックスしなくなる、性衝動が起こりにくくなるって話をしている。だから、不倫したり浮気するんだろうなあ、と思うんだけどそれも続けばまたセックスレスになるという繰り返しが起きるよね、とか思ったり。
あと幼なじみと幼少期からの付き合いあっても親しいから性的衝動は起こりにくいってことがあるはずで、思春期があるからトリガーが引かれるってこともあるのかな。あるいは親しいから性衝動が起こりにくくなるはずの人たちが恋をしたり、結ばれるというのはある種のインセスト・タブーだから、受け手は無意識にタブーを破ることを期待してるところはあるのかもしれない。
父性がなくなっていく、母性的なものに飲み込まれて父性が完全に没落していくということを紀州サーガ(『枯木灘』以降)で中上健次が当時書いていて、それはどん詰まりだからある程度したらその先に向かうはずだと期待しているのに、下の世代の糸井重里さんや高橋源一郎さんをまったく認めてない村上龍っていうのもおもしろい。

 

7月4日

雨が降ったおかげで少しは外を歩くのが楽に感じた。気温自体は高いが日差しが弱いとだいぶ感覚が違う。スーパーに買い物に行ったついでに下旬にある著者による朗読会を申し込んだので、佐藤究著『爆発処理班の遭遇したスピン』を購入。直木賞受賞作『テスカトリポカ』も凄まじかったのも印象に残っているが、今作は短編集。

爆発物処理班の遭遇したスピン…鹿児島県の小学校に、爆破予告が入る。急行した爆発物処理班の駒沢と宇原が目にしたのは黒い箱。処理を無事終えたと安心した刹那、爆発が起き駒沢は大けがを負ってしまう。事態の収拾もつかぬまま、今度は、鹿児島市の繁華街にあるホテルで酸素カプセルにも爆弾を設置したとの連絡が入った。カプセルの中には睡眠中の官僚がいて、カバーを開ければ即爆発するという。さらに同時刻、全く同じ爆弾が沖縄の米軍基地にも仕掛けられていることが判明。事件のカギとなるのは量子力学!?
他に、日本推理作家協会賞短編部門候補「くぎ」、「ジェリーウォーカー」「シヴィル・ライツ」「猿人マグラ」「スマイルヘッズ」「ボイルド・オクトパス」「九三式」を収録。(講談社サイトより)


昨日実家に送った書類が早くも届いたようで電話がかかってきた。東京から岡山まで一日もかからずに届いたことになるのだが、そんなに早かったっけな? レターパックだから早いってことなのだろうか。
調べていることで父に聞きたいことがあったので、質問を書いたプリントを送っていた。たしかにそれにボールペンとかで質問の答えを書くのは大変だろうし、五十年近く前のことなので覚えているかも疑問だったが、協力してくれると連絡の電話の時に言ってくれた。
久しぶりに電話でかなり長く話したが、声は元気そうだった。文章に残したいので書いて送り直してもらったものを僕が文字起こしする。ある程度は電話で聞いたりはしたが、メモも取れなかったので、やはり書いてもらわないと詳細はわからない。
一応ファミリーヒストリー的なものにもなるので、祖母の話も入るし、父のことも書ければこの百年ぐらいの我が家というか、祖母の血筋の物語が書き留めることができるんじゃないかなって思う。

 

7月5日

古川日出男さんが毎月寄稿している《考えるノート》の第5回「戦場でのおびただしい〈死〉の報に触れながら 戦争と平和、非日常と日常、善と悪――翻弄されることで見える何か」で取り上げられていて、公開されたら観に行こうと思っていたフランチシェク・ヴラーチル監『マルケータ・ラザロヴァー』を渋谷のイメージフォーラムにて鑑賞。

チェコ・ヌーベルバーグの巨匠フランチシェク・ブラーチルが、ブラジスラフ・バンチュラの同名小説を映画化。13世紀のボヘミア王国を舞台に、宗教と部族間の抗争に翻弄される少女の数奇な運命を壮大なスケールで描く。修道女になるはずだった少女マルケータは、領主の父ラザルと敵対関係にある盗賊騎士コズリークの息子ミコラーシュと恋に落ちる。しかし、両氏族間の争いはますます激化していき……。後に「アマデウス」でアカデミー衣装デザイン賞を受賞するテオドール・ピステックが美術・衣装、ヤン・シュバンクマイエル監督作などを手がけるズデニェク・リシュカが音楽を担当。中世を忠実に再現するため、衣装や武器などの小道具を当時と同じ素材・方法で作成し、極寒の山奥で当時と同じように暮らしながら548日間にもわたる撮影を敢行した。日本では2022年に劇場初公開。(映画.comより)

中世を描いた作品であり、ボヘミア王国を舞台にしているが、軸としてはキリスト教があり、登場人物たちは神を信じているかいないかという違いでわけられているようにも思えた。また、荘厳さと野蛮さが同時に描かれている作品であり、モノクロだからこそより崇高さも感じるものとなっていた。
語り部が一応いるし(徐々に存在感はなくなって薄れるが、修道士のベルナルドだったのかな。だとすると劇中には後半は色々出てくるが語り部としてはその代わりに薄れたってことかな)、章ごとだったり場面展開や状況が変わる前に字幕で説明があり、その後にどういうことが起きるかが簡単に示される。

舞台っぽさもあるし、聖書に書かれていることを反映したような雰囲気もある。中世のことやボヘミア王国に関してほとんど知らないので、どのくらい当時を再現できているのか、時代考証などが忠実かはわからないが、シーンや登場人物たちが映る画が魅力的だし、セリフや音楽のリズムもどこかクラシックさを感じさせ、これを作ろうとした監督の意欲とある種の狂気を感じる。どこか逸脱しているものが画面に浮かび出ている。

ロハーチェック家は父のコズリークが異教徒であり、野蛮さと暴力性の権化というか象徴になっている。息子のミコラーシュはマルケータを拉致して陵辱するが、次第に大切に思うようになっていく。もう一人の息子のアダムは片腕がないのだが、妹のアレクサンドラと寝たこと(近親相姦)がバレて父に左腕を切り落とされている。ここではインセスト・タブーが起きている。その妹であるアレクサンドラは兄と寝ていたが、捕虜として連れてこられた伯爵の息子で次期へナウの司教となるクリスティアンと恋に落ちる。そして彼の子供を身籠ることになる。
そう考えるとアレクサンドラは敬虔なクリスチャンであるマルケータとは対照的な女性として描かれているようにも思える。だが、終盤にアレクサンドラは発狂したクリスティアンを殺し、捕らえられるが、マルケータはミコラーシュを失うが子供を宿して物語は終わる。そして最後の字幕によるモノローグはちょっとだけ『チ。-地球の運動について-』に似た終わり方をしていた。物語はここで終わるが、次世代になにかが引き継がれていくという感じである種のオープンエンドさも感じさせる。

映画の公式サイトには古川さんもコメントを寄せられているが、なにも調べずに観るとところどころわからない部分があるし、あとから登場人物の説明など読んで理解できた部分もあるが、「未知の世界」に入っていく(魅入られていく)体験ができる作品である。
狼や馬や鳥やネズミや動物たちもたくさん出てくるし、当時の近代化されていない自然と共にある中世の匂いがするかのようだった。約三時間の上映時間だが、長く感じないわけではないが短くもなく、このくらいの時間をかけないと描けない世界観なんだなってわかるものだった。

 

7月6日

ちょっと空いた時間にニコラに行っていちじくとマスカルポーネのタルト、コーヒーは庄野さんがちょっとだけおまけで送ってくれたというウガンダというもの。スッと入ってくるけどそのあとに濃さがくるという味だった。

ニコラのカウンター友達というか知り合いの竜樹さんが劇中音楽を担当していますとツイートしてたMBS制作のドラマ『ロマンス暴風域』。監督のひとりが『猿楽町で会いましょう』の児山隆さんで、映画の劇中音楽も竜樹さんが担当していたから、その流れなのかな。第一話をTVerで鑑賞する。最後に次週へのいい引っ張りのセリフがあった。主演の渡辺大地さんは文化系さがあるので、こういう役は抜群に合う感じがする。



コーヒー飲んだあとに本屋によってジャンプコミックス松本直也著『怪獣8号』七巻、馬上鷹将作画&末永裕樹原作『あかね噺』一巻、藤本タツキ著『さよなら絵梨』を三冊購入。『さよなら絵梨』はジャンプ+で公開されている時に読んでいるが、コミックになってなにか変わっているのかなと思った。『怪獣8号』は一巻から読んでいるのでたのしみ。
『あかね噺』は落語ものということでちょっと気になっていた作品。これはアニメ化と実写化するだろうな、落語家となるあかねをちょいと前なら広瀬すず辺りが適任な気もするが、今なら誰だろう。宮藤官九郎脚本『タイガー&ドラゴン』が作った流れが今に続いているわけだけど(その始まりは高田文夫さんだった)、『あかね噺』がメディアミックスで映像化したら、新しい流れがまた生まれそう。

19 時前に実家からの荷物が届く。その中に父に頼んでいた質問の回答を書いてくれたものも入っていた。父の実筆を見るのはだいぶ久しぶりだなと思う。

 

7月7日
今年になってから特に初生雛鑑別師の大伯父の新市さんのことをちゃんと書かないといけないなと思うようになった。四年近く続いた「あだち充論」の連載も終わったし、今年は他にも自分が関わってきたものや人たちが大きな変化を迎えていて、いろいろと終わっていく(いやでも関係性や状況が変わっていく)時期というか一年なんだなって思うことしか今のところ起きていないからなのだが。
それで新市さんのことはノンフィクションの新人賞に出そうとまた調べ直そうと思った。二十代前半の頃に大伯父がいた北アイルランドに遊びに行った父へ当時のことや彼にとっては伯父である新市さんはどんな人だったのかと聞こうと、質問を書いたプリントを送った。父はメールとかできないし、PCも使えないので直筆で書いてもらうしかなかった。
コロナ前に実家に帰った際にも色々聞いてはいた。高校を出た後は大阪の大阪ダイヤに就職して、ザ・フォーク・クルセダーズのコンサートに行っていたとか、ヨーデルが好きだというのでスマホYouTubeからヨーデルの曲を流して聞かせたらかなり嬉しそうにしていた。

父は登山をしていて、アルプスに行きたかったのでソ連からウィーンに行って、山歩きをしてから北アイルランドの伯父さんのところに三ヶ月ぐらいいたと昔は言っていた。
五木寛之さんの『青年は荒野を目指す』の影響をドンピシャ受けた世代だから、それでソ連を経由したと言っていた。てっきりシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに行ったかと思ったら、2回ジェット機に乗り換えてウィーンに行くパックだったと言われた。パックかよ、シベリア鉄道乗ってねえのかなとは思った。
コロナ前の時に聞いたら小田実さんの『何でも見てやろう』の影響だとも言っていた。今回は書類を送った時に電話ではやっぱり『青年は荒野を目指す』の影響って言っていたから、結局その二つが彼らの戦後生まれ(父はビートたけしさんと同学年)のバイブルだったんだろう。
Peter, Paul and Maryは昔来日コンサートに行ったら、レコードのバージョンじゃない違うアレンジで歌ったのがすごく嫌だったみたいで金返せと思ったって言っていたのが僕の記憶に残っている。実家にはPeter, Paul and Maryとか昔のヨーデルのレコードが帯とかついたままのかなりの美品で残っている。僕らが生まれてからはレコードとか聴いてなかったから、そのままだったのだろう。

父が質問に答えてくれたものを送り返してくれたが、新市さんについて知らなかったこともわかったけど、行った際に養鶏場は手伝っていなかったらしく、詳しくは知らないしわからないと書いてあった。庭の芝刈りとかはしていたようだ。
新市さんと共にマン島に収容されて日本に帰ってこなかった伊藤さんという人のことはちょっと書かれていた。彼ら二人については戦前の仲間だった方が戦後しばらく経ってから、伊藤さんが亡くなったあとに北アイルランドに行って、一人残っている新市さんに日本に帰ってこいと会いに行った時のことが書かれている資料がある。そこで書かれている二人の人間性みたいなものは父が書いているものとほとんど同じなので、そこは間違いがないのだろうとわかった。

昔のことは当人か近くにいた人が何かに書き記して、さらにそれが時代を経ても残っていなければ実際のところや詳細はわからない。ある程度の資料とか証言とかでなんとなく見えてくる全体像を掴んだり、一部だけわかっていることから広げていって、そこからほかの細部をイメージして事実と照らし合わせて拡大させていく。
パズルの破片を自分で作ってははめていき、なんとかひとつの像が見えるようにする。だから、そこはノンフィクションといえど、ミッシングリングみたいに至る所が失われているから創造的な部分が大きい。想像力で補える部分とそうではない部分があるし、事実は歪めてもいけない。
新市さんと伊藤さんが日本に帰らなかった理由に関しては、資料と我が家の話からひとつの予想ができている。だが、それが事実だとすると傷つく人もいるだろうなと思う。その辺りのことも考えないといけない。

去年の夏に「週刊ポスト」の連載が終わって、原稿料もよかったからダメージ大なんだけど、春先にその連載を振ってくれた副編集長の人と近所でばったり会った。その日に調べ物をしていたら、「小学館ノンフィクション大賞」って主催が「週刊ポスト」と「女性セブン」だって気づいて、ああ、これは去年の夏以降にもらっていなかった原稿料を取りに行く感じでやったほうがいいなって思った。
ノンフィクションの賞だと「開高健ノンフィクション賞」もあるんだけど、それは集英社だし、集英社は馴染みがないし縁もない。だから、小学館のほうで引っ掛かれば、小学館で漫画を引っ張ってきてくれた漫画家のあだち充さんについて書いてきた「あだち充論」も多少考えてくれそうだよねって浅はかな気持ちもある。
今年の夏は「小学館ノンフィクション大賞」と「メフィスト賞」のふたつを書き切って応募する。結果はどちらも今年中には出る。
三月に四十になった途端、今までの足場がどんどん崩れていっていくのを見たので、結局新しいことは始めないといけないタイミングなんだなって思った。僕がうまくやれてるのって損得とか考えない時だし、自分が好きなものに突き進んでいってちょっと客観視ができないぐらいがちょうどいい。


友達とランチの予定を入れていたがお子さんが発熱したとのこと延期になったので、なにか映画を観ようかなって思ってちょっと気になっていたヨアキム・トリアー監督『わたしは最悪。』をル・シネマにて鑑賞。木曜日はBunkamuraサイトの会員だと1200円とお得な日だった。

「母の残像」「テルマ」などで注目されるデンマークヨアキム・トリアー監督が手がけ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で女優賞を受賞、2022年・第94回アカデミー賞では国際長編映画賞と脚本賞の2部門にノミネートされた異色の恋愛ドラマ。30歳という節目を迎えたユリヤ。これまでもいくつもの才能を無駄にしてきた彼女は、いまだ人生の方向性が定まらずにいた。年上の恋人アクセルはグラフィックノベル作家として成功し、最近しきりに身を固めたがっている。ある夜、招待されていないパーティに紛れ込んだユリヤは、そこで若く魅力的なアイヴィンに出会う。ほどなくしてアクセルと別れ、新しい恋愛に身をゆだねたユリヤは、そこに人生の新たな展望を見いだそうとするが……。トリアー監督の「オスロ、8月31日」などに出演してきたレナーテ・レインスベがユリヤ役を演じ、カンヌ映画祭で女優賞を受賞。(映画.comより)

なんというか「R-18文学賞」受賞作家が「小説新潮」じゃなく「小説現代」で発表した長編小説みたいだなあ、と思った。他の人には違うと言われるかもしれないけど。
近年の様々な問題(30代になった女性の妊娠や女性の性の話、恋愛格差や親子問題、文化的な背景やそれで議論になる男性による女性への敵意や差別など)が章仕立てでフェミニズムを軸にうまく描かれていた。こういう問題における浸透率と理解度に関して日本は諸外国よりも数段遅れているんだろうな。

悪くはないけど、めっちゃよかったかと言われると難しい。ただ、物語の終盤における主人公のユリヤの元恋人のアクセルとのやりとりなんかも今までだったら男性視点で描かれていたものが多いから、その元恋人も女性だったし、ある病気で死期が近づいているとか御涙頂戴みたいな展開になって、その恋人が亡くなって男の主人公は成長していくみたいな、女性を犠牲にすることで成立していた部分があったと思う。今回はそのアクセルの病気はお涙頂戴みたいなには描かれてはいないようにも思えたので好感が持てた。
主人公のユリヤはいい人でもなく悪い人でもなく、自分の欲望に忠実な、素直な女性でそこは共感できるし、それがリアルなんだと思う。あとヨガにハマった女性と付き合っていた男性はちょっとエコな発想になるけど、同じようなヨガにハマる女性とは付き合わないっていうのは世界中で起きてる一種の「あるある」なんじゃないかな。

劇場内で始まる前に書店で買っていた「群像」の掲載されていた燃え殻さんのエッセイを読んでいた。終わってからトイレに行って廊下に出たら、燃え殻さんとばったりすれ違ったので、後ろ姿に声かけたら驚かせてしまった。申し訳ないと思いながら、帰りのエレベーターの中でエッセイを読んだことを伝え忘れたことを思い出した。

 

7月8日
タイカ・ワイティティ監督『ソー︰ラブ&サンダー』をTOHOシネマズ日比谷のIMAX3Dにて鑑賞。3Dはいらなかったというか特にその意味は感じなかった。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』メンバーが出るのが楽しみだったが、ほぼ序盤のみでしか登場はしなかったのが残念、シリーズ「3」めっちゃ楽しみにしてる。
タイカ・ワイティティ監督らしいというか、子供たちの扱い方とかはやっぱり『ジョジョ・ラビット』作るような人だよなって感じた。ヒューマニティーとユーモアのある人がヒーローものを作るとこうなるのだろう。過去作の「ソー」シリーズを観ていないから初期からそうなのかはわからないのだけど。

クリス・ヘムズワース演じる雷神ソーの活躍を描いた、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)の「マイティ・ソー」シリーズ第4作。「アベンジャーズ エンドゲーム」後の世界を舞台に、「神殺し」の異名を持つ悪役ゴアとの戦いを描く。サノスとの激闘の後、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々とともに宇宙へ旅立ったソー。これまでの道のりで多くの大切な人々を失った彼は、いつしか戦いを避けるようになり、自分とは何者かを見つめ直す日々を送っていた。そんなソーの前に、神々のせん滅をもくろむ最悪の敵、神殺しのゴアが出現。ソーやアスガルドの新たな王となったヴァルキリーは、ゴアを相手に苦戦を強いられる。そこへソーの元恋人ジェーンが、ソーのコスチュームを身にまとい、選ばれた者しか振るうことができないムジョルニアを手に取り現れる。ジェーンに対していまだ未練を抱いていたソーは、浮き立つ気持ちを抑えながら、新たな「マイティ・ソー」となったジェーンとタッグを組み、ゴアに立ち向かうことになる。前作「マイティ・ソー バトルロイヤル」から引き続きタイカ・ワイティティがメガホンをとり、主演のへムズワースやヴァルキリー役のテッサ・トンプソンらが続投。ジェーン役のナタリー・ポートマンが、シリーズ第2作「マイティ・ソー ダーク・ワールド」以来、およそ9年ぶりに本格的にMCU作品に復帰した。ゴアを演じるクリスチャン・ベールや、ラッセル・クロウといった豪華キャストも新たに参戦。(映画.comより)

今作を観終わって印象的だったのは、今年日本で公開されたマイク・ミルズ監督『カモン カモン』と26年ぶりの新作で世界中でヒットを飛ばした『トップガン マーヴェリック』と実は同じテーマや描こうとしている部分があったことだった。
現在の世界における「家父長制」の崩壊と「父性」の問題。先進国では特に顕著であり、実社会に大きな影響を与えている事柄だ。
今の映画ではかつての男女が恋をして結ばれるという王道な「ラブロマンス」が成り立たない、あるいは大きな共感やヒットには結びつかなくなっている。価値観や多様性の転換期の最中なのだから、今までの王道はもう王道ではなくなっている。
今作では男女の「ソー」が活躍し、恋愛的な部分も描かれている。しかし、最後まで観ると描かれたものは現在のアメリカが抱えている「父性」を巡る問題だった。

あだち充論」の最終回の『MIX』編で『カモン カモン』と『トップガン マーヴェリック』の二作品を取り上げた。『カモン カモン』は主人公の叔父と甥っ子、『トップガン マーヴェリック』は主人公とその親友の息子、という風に子を持たないまま、ある年齢を越えた男性の登場人物たちが擬似家族というよりも、擬似父息子の関係を得て「父性」を身につけたり、息子世代との交流でなれなかった(あるいはならなかった)「大人」へと成長していく物語でもあった。
『ソー︰ラブ&サンダー』は約二時間の笑えるポップコーンムービーであり、MCUの最新作であるものの、やはりマーベルはその辺りをしっかり物語に入れてきている。
たぶん、それはタイカ・ワイティティ監督の資質もあるのだろうが世界中でヒットするエンタメを創出しながらも、時代の中で変わっていく価値観や多様性をしっかり取り入れようとするマーベルのブランド力とその影響力がわかっているからこそ、の部分だろう。

この三作品では、主人公は白人男性(ソーは神だけどさ)であり、子のいない男たちの「父性」のありかたやその発芽をどう描いていくのかという共通点があるが、それはトランプ政権誕生以後のアメリカ社会におけるプアホワイトたちのアイデンティティとも当然関わっているし、オルタナ右翼へと繋がっていったからこそ、今描かなければいけない問題だということ。そのことは日本では起きていないというわけではなく、僕たちが見てきたネトウヨや差別主義者なんかになってしまう人たちの根底にあるものと重なっている。
自分のアイデンティティを国家や政権や宗教に託すなよ、くそダサいなとは思うけど、不安な時代になにもなくてなにも誇れない自分を国家やそういうもので重ねることでなんとか自分を保とうとする人がいるのもわからなくはない。
9.11以後の『ダークナイト』や『仮面ライダー龍騎』みたいに正義とはなにか?とヒーロー作品がヒーロー自身と世界に問いかけたように、今アメリカも日本などの戦後に先進国だった国々では「父性」をどう描くかが大事なテーマになってきていると思う。

昼前に安倍元首相が銃撃を受けて心肺停止というニュースを見る。その後も仕事用のノートパソコンで作業をしながら、自分のPCでTwitterなどを開いて流れてくる情報を見ていた。
今回のテロだと言っていいはずだが、それを見ているとオウムのテロを起こした死刑囚たちを死刑にしたことを思い出した。殺してしまったら事件の真相はわからなくなってしまうということを僕たちは知っているはずなのに。安倍晋三は語らなければ、話さないといけないことがたくさんあるから。
教育と民主主義をきちんとしないと言葉で語れないし、通じないとテロリズムに走る世界なんか間違ってるし絶対にダメだ。

今回のテロのことで古川さんの小説『曼荼羅華X』のことも浮かんできた。東日本大震災もいとも簡単に風化して東京オリンピックも復興五輪なんて嘘のまま開催された。そして、東日本大震災の風化の早さ、そしてオウムというテロを犯してしまった集団たちのことを風化させてしまったことについて、近い世代でリアルタイムで見ていた古川さんは書かなければならないと決めて、『曼荼羅華X』を書いた。僕はそのことを知っている。


古川日出男の現在地>第80回「この「時代」というもの」

私はいま、この「現在地」を今日綴るのはいやだと感じている。ほんの1時間前にその号外のニュースを受信して、だからいやだなと感じている。しかし書いてみる。私の雑誌連載中の小説『の、すべて』は、前回のエンディング部分で、著名な政治家がテロに遭うというシーンを書いた。その詳細を、物語はこれから描出するはずだった。けれども、今日、元日本国首相が銃撃テロに遭って、その死去の報を(号外として)受けたばかりの私は、いったい何をしていいのかわからない。

古川さんのブログが更新されていた。前号の『群像』に掲載された『の、すべて』のラストを読んでいて、次回は時代がたぶん現在に近づくと思っていた。そして今号を昨日買って読んでいた。だからこの第80回にも書かれているけど、前号のラストと今日の事件のことが重なった。
僕は安倍元首相への銃撃事件で古川さんの『曼荼羅華X』と現在連載中の『の、すべて』のことを思い出していて、仕事もうまく集中できなかった。


夕方すぎてニコラに行ってアアルトコーヒーとベイクドチーズケーキをいただいて一服して、カウンターで今日のことを話す。話すことが大事だったし、誰かがいる場所にいたかった。

 

7月9日

七日に『の、すべて』第7回を読んでいた。昨日の安倍元首相殺人事件で『曼荼羅華X』とこの作品のことが浮かんできたから、今日前回の第6回と第7回を読み返した。
政治家へのテロと宗教団体が背景にあるという部分でまさに予言的な部分がある。古川さんが「この「時代」というもの」で書かれていることがさらに身に染みるというかよくわかるものだった。

「今からでも乙武洋匡を(消去法で)当選させなければいけない3つの理由」

僕はすでに期日前投票していたが、宇野常寛さんの書かれていることに概ね同意だった。もちろん、個人的には考えの違う部分もある。
ここで書かれている「山本太郎」氏と「れいわ新選組」に関しては、宇野さんのように僕は東北出身者ではないがノンフィクション作品『ゼロエフ』の取材を手伝った者として、震災後に何度か福島県に行った者としても彼のことは信用していない、「日本維新の会」と「れいわ新選組」の関係性はどこかある種の同族嫌悪的なものも感じてしまう。
ネーミングセンスとして「維新」とか「新選組」と党名につけることがそもそも僕には理解できないし、小泉純一郎元首相が「自民党をぶっ壊す」と言って、日本を破壊してしまったあやうさに近いものがあるとずっと感じている。ようするに危なっかしいし、過信しているように思ってしまう。
自分が知っている人がそこから出馬しても僕が応援できなかったのは、代表が山本太郎であること、そのやりかた(国会ルールをハックしたこと)に賛同できないし、危険だとしか思えなかったからだ。
僕が「水道橋博士のメルマ旬報」で何年も前に書いていた小説は正直に言えば、大塚英志原作漫画『東京ミカエル』の設定をパクった(『東京ミカエル』も大江健三郎著『芽むしり仔撃ち』のオマージュというか子供たちが閉じ込められるという設定を使っている)もので、17歳になる前の少女たちが気がつくと壁に囲まれた閉鎖された渋谷にいて、それぞれが特殊な戦闘能力を与えられて、殺し合いながらなんとか17歳になるまで生き延びる(それが大人への通過儀礼)という話だった。その時に、僕は山本太郎をイメージした元俳優の政治家が総理大臣になっているという設定にしていたが、それは応援ではなく皮肉的な意味だった。
別に俳優が政治家になるのは今に始まったことではないし、ロナルド・レーガン大統領だって、政治家になる前はラジオアナウンサーであり、映画俳優だったのは有名な話だ。役者や芸人という人前に出て演じられる人、話芸が卓越している人が政治家に向いているかどうかはわからないが、その能力を最大限にすれば、人前に出ることが当たり前ではなかった他の候補者よりも魅力的に見えるし、注目もされるので支持される可能性は高くなる。その意味でも祭り的な要素を持つ選挙で、盆ダンスパーティーをして人を集めているのを見ていると、人に注目してもらうことや巻き込むのがやはり上手いんだなって思ったし、同時にイベンターみたいだなと感じた。
出馬した水道橋博士さんを僕の知り合いの人たちは応援していた。長年の関係性や付き合いがあるから応援したいというのはもちろんわかる。最初の普通選挙の際に周りの顔色を見てから投票した人たちを見た柳田國男がそれでは「魚の群れ」であり、「近代にならない」と嘆いていたことを知っていたから、僕は自分が考えることに近い人、政界にいてほしいと思う人に投票をした。

大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(2/4)

柳田としてはパブリックなものを作っていく最終手続きとしては選挙しかない。だから選挙の時、自分で考えるバックボーンを個々人が持つべきであって、群れとして行動しちゃダメですよ、そうすると近代にならないよって言っていたわけです。

いろいろと書いたけど、大塚英志作品を長年読んできて、ご本人にも何度かインタビューをさせてもらったりと僕はかなり影響を受けている。大塚さんの先生であった千葉徳爾さんは柳田國男門下生だったわけだから、大塚さんはいわゆる孫弟子にあたる。
僕は民俗学的なものを取り入れたフィクションを楽しみながら、大塚さんが読者に出会わせたかった文学に出会ったし、その出会ったものにも影響を受けてきた。もちろん、大塚さんが徳間書店から角川書店に移ってからやってきたメディアミックス作品も楽しんできた。それが戦前戦中に始まったものであり、大衆や民意を動かしてしまった危険なものであることを知っている。
戦後の文学者で最もメディアミックスを駆使して成功したのは亡くなった石原慎太郎であり、彼はそれを自民党に入党して伝えてしまった側面もあるし、最終的には都知事にまでなってしまった。そして、やらなくてもよかった東京五輪の招致にも大きく関わった。
そういうことは若い頃の石原慎太郎大江健三郎三島由紀夫江藤淳が出てくる『クウデタア<完全版>』が刊行された時に大塚さんにお話を聞いた時に知ったことではあるが。


大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談

 

7月10日

ニコラに徳島のアアルトコーヒーの庄野さんが来られて、店主の曽根さんとの「駆け込みアアニコ vol.12『小さな店が生き延びるためには』」というトークイベント、一時間後に庄野さんによる「アイスコーヒーのすべて」というコーヒー教室、どちらにも顔を出して、その後いつもの美味しいものしか出ないお店で打ち上げ。

ニコラに帰ってから数人の常連も加わって深夜過ぎまで飲んで話をしていた。僕は翌日の仕事があるので三時には家に帰る。
スマホで選挙結果を見ながらいろんな気持ちになるが、水道橋博士さんは国政に関わる政治家になるのだから、任期期間は国民のためにしっかり働いてもらいたい、それだけでしか言えない。当選おめでとうございました。
お酒のおかげですぐに寝落ちした。

 

7月11日
起きたらちょっとした二日酔い。ポカリを飲んで、しばらく経ったら大丈夫になった。
仕事の空いた時間に本日が誕生日の古川日出男さんにお誕生日のお祝いメールを書いて送る。あとから翻訳家の柴田元幸さんもこの日が誕生日だと知る。たぶん、毎年お二人が同じ日ということで驚いている気がするけど。

田島昭宇さんの装画展「夢限パヤパヤ」に古川さんが訪れていて、『サウンドトラック』文庫版の上下巻の装画の前で二人が写真を撮られていた。二人のファンとしてはとてもうれしい。


仕事が終わってから神代辰巳監督×長谷川和彦脚本×細野晴臣音楽『宵待草』をユーロスペースにて鑑賞。

頃は大正、浅草六区の活動写真館の弁士、黒木大次郎を首領株に「ダムダム団」というアナーキストの集団があり、弁士見習いの平田玄二が副団長格で数十名の団員がいた。成金代議士・谷川武彦の息子で大学生の国彦もいつしか彼らの仲間になっていた。ある日、温泉場へ行く乗合馬車で国彦は令嬢風の娘・しのと出会い、虚無的な男・北天才とも知り合う。だが翌朝、北は大木で首を吊っていた。北の通夜の翌日、しのが東京に帰ったのを知り、国彦も後を追うように帰京する。一方、交番襲撃に失敗したダムダム団は、今度は政界の黒幕・北条寺の孫娘を誘拐した。その娘を見た国彦は驚く。娘はしのだった。ところが彼女の方は誘拐とはつゆ知らず、国彦が自分を口説くために友人を使ったと思い、その夜二人は愛を確かめ合うのだった。(公式サイトより)

大正時代が舞台であるということ、アナーキストについてというのをあらすじで見たのでまったくどういう作品か知らないけど、長谷川和彦監督が脚本なら観てみようと思った。主人公の国彦たちが終始歌を歌っているし、テロ的なことをしているのに、中途半端なことばかりで国彦(高岡健二)としの(高橋洋子)と玄二(夏八木勲)の三人の逃避行になるが、ドタバタコメディっぽさもあり、やりたいことを詰め込んでなにがやりたいのかよくわからない作品だった。
最後の方でずっと前転しているとか、三人が歩いている雰囲気とか制作した当時のなにかはあるんだろうし、しのの身代金が上だけ本物で札束の中は新聞紙でそれを車からばらまくのは長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』の銀座の百貨店の上から札束をばら撒いたシーンを彷彿させた。
あと国彦がセックスをしようとしたり、近くで性行為がはじまりそうになると頭痛がしてしまうというのも、なんだか笑えない、やりすぎてるからコントみたいになっていて、それがおもしろいって人もいるんだろうなと思う。僕はいろんなものが過剰なせいで胃もたれした感じな作品だった。

と大塚さんがツイートされていた。僕は2014年に、
酒鬼薔薇、ネオ麦茶、秋葉原通り魔、遠隔操作ウイルス、2ちゃんねる直撃な世代の1982年生まれの男子たちがダークサイドに堕ちて、同学年に宇多田ヒカルがいるっていうのは、この年代の抱えていく問題なのかなあ、なにが問題かわらないけど。」
とツイートしていた。僕は早生まれの1982年だが、やはりいつも気になっていたし、今回の安倍元首相を殺害した山上は同学年かひとつ上だろう。

 

7月12日

昨日観た『宵待草』の口直しというか、気になっていたタイ・ウェスト監督『X エックス』 をホワイトシネクイントにて鑑賞。

史上最高齢の殺人鬼夫婦が住む屋敷に足を踏み入れてしまった3組のカップルの運命を描いたホラー。1979年、テキサス。女優マキシーンとマネージャーのウェイン、ブロンド女優のボビー・リンと俳優ジャクソン、自主映画監督の学生RJとその恋人で録音担当のロレインら6人の男女は、新作映画「農場の娘たち」を撮影するために借りた農場を訪れる。6人を迎え入れたみすぼらしい身なりの老人ハワードは、宿泊場所となる納屋へ彼らを案内する。マキシーンは、母家の窓ガラスからこちらをじっと見つめる老婆と目が合ってしまい……。出演はリメイク版「サスペリア」のミア・ゴス、「ザ・ベビーシッター キラークイーン」のジェナ・オルテガ、「ピッチ・パーフェクト」シリーズのブリタニー・スノウ。「サクラメント 死の楽園」のタイ・ウェストが監督・脚本を手がけた。(映画.comより)

史上最高齢の殺人鬼夫婦が出てくるホラー映画としても楽しめたんだけど、若さと老い、セックスと宗教をしっかり描いていて、「よっ! さすがA24製作作品」と思える出来だった。A24作品はできるだけ劇場で観ているけど、二年ほど僕としては期待外れなものが多かったから余計に嬉しかったんだと思う。
エンドロールあとに殺人鬼夫婦の若き頃を描いた『Pearl』っていう作品の予告編流れたけど、ギャグとか監督の希望ではなくマジでやるみたい。そして調べたら三部作としてやるみたい。となれば、『X エックス』が1979年、『Pearl』が1910年代ぽいから、三部作目が現在か2010年代辺りかな。

↑公式サイトに観たあとに見てくださいというネタバレコンテンツがあるが、それを見るとさすがだなと思える作り込みで、『Perl』もだしできれば三部作まで作って楽しませてほしい。

 

7月13日

あだち充著『MIX』19巻&『ゲッサン』2022年8月号を購入。
最新刊では『タッチ』における上杉和也が亡くなってしまったこと、『H2』における雨宮ひかりのお母さんが亡くなってしまったこと、に通じる突如の主人公の身内や深い付き合いのある人が亡くなってしまう出来事が起きる。そして、そこには『タッチ』でもそうだったが主人公を鼓舞する「賢者」的なサポートの役割としての原田正平がいる。あだちさんが彼を投入したのは大きな出来事が起こるのをなんらか予感していたのだろうと思う。
1980年代初頭にリアルタイムで『タッチ』読んでいた若者が現在にタイム・リープしたらあだち充まだ現役? 明青学園舞台なの?と思うんだろうな。


LIQUIDROOM 18thANNIVERSARY 踊ってばかりの国 / THA BLUE HERB @ LIQUIDROOM

THA BLUE HERBで最初から泣いてしまったし、ライブでは初めてな踊ってばかりの国も最高だったし、最後のコラボもあの場に居れてよかった。ほんと素晴らしかった。

↑セトリ。THA BLUE HERB最初にBOSSが登場する前にDJプレイがあり、BOSSが登場してそのまま「あかり from HERE」を少しラップしてから、このセトリに入ったはず。イントロ扱いってことかな。

久しぶりに生で『時代は変わる』聴いたけど、やっぱり圧倒的すぎた。
BOSSカッコよすぎる、今年51歳に最初からずっと泣かされた。


踊ってばかりの国の『ghost』はライブで聴いたら、想像を越えまくってきて鳥肌がすごかった。

 

7月14日
【完全】さよならプンプン【ネタバレ】浅野いにおインタビュー

1980年代初頭生まれの精神史のひとつとして、また読まれればいいと思う『おやすみプンプン』。 浅野いにお作品にはカルトや陰謀論はなんらかの形で出てくるのは僕らが子供の頃はそういうものは、ノストラダムスオウム真理教だけでなく、フィクション(『MMR』とか)であろうがいろいろあったから、違和感はないし時代の鬱的なものと呼応していたんだと思う。結局それはいろんなものを飲み込んでいたということが今わかりやすい形で表出しているだけ。
上の世代とは違うのは思春期(中学、高校)にネット黎明期があり、携帯を持ち始めたから、アナログからデジタル移行期のどちらでもあるけど、どちらでもない世代。
エアポケットに入り込んでいるように年々思うようになったし、就職氷河期世代でロスジェネも最後尾として被るから非正規が多くなり、ゆとり世代デジタルネイティブ)のちょっと前までのイメージ。
少年Aと呼ばれた彼が殺害したのが当時の小学5年生(1987年前後)で、僕の感じだと『ポケットモンスター』をリアルタイムで小学生の時にやっている世代が「ゆとり世代デジタルネイティブ)」の印象。僕個人で言えば、今まで一回も「ポケモン」をやったことないし、ピカチュウしか知らない。
少年A(酒鬼薔薇聖徒)、ネオむぎ茶西鉄バスジャック犯)、加藤(秋葉原無差別殺人犯)、PC遠隔操作犯、青葉真司(青葉は1978年生まれ、京都アニメーション放火殺人事件)、山上徹也(安倍晋三殺害事件)と同世代が起こしてしまった事件は他人事ではないというか、彼らと社会との関わりとかを考えていかないといけないし、それがたぶん犯罪者にならなかった自分たちの今後のこと考えることになる。

政府はインボイスとか国葬とかほんとうにやらなくていいことしかしないな。
NHKニュースには実績として「東日本大震災からの復興や日本経済の再生」って書いてあったけど、「復興五輪」とは嘘だったし、「日本経済の再生」ってどこがだ? 貧しくしかなってないぞ、加えて公文書の隠蔽と破棄とか三権分立の認識ないとか、民主主義を破壊しただけだった。東京プリズンから岸を出さないっていう時間軸の可能性を夢想してしまう。


小山虎著『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』(PLANETS刊行)が届いた。書籍がビニールに入っているので、こういう日でも中が濡れなくて安心。

 

7月15日
昼休憩で外に出た時は雨が止んでいたが、買い物をして家まであと数分というところまで戻ってきたら雨脚が強くなりだして間一髪。その後は強い雨がずっと降っていた。戻り梅雨という言葉があるのかわからないが、完全に梅雨みたいだ。
セブンイレブンでざるそばを買ったので、商店街の揚げ物屋さんの天政さんでイカとトリの天ぷらを買って気持ちは天ざるにした。うどん派だったが、この夏はちょっとそば派になりかけている。新宿の「いわもとQ」以外ではそばは食べなかったけど、味覚とか好みが変わり始めたのかもしれない。

朝起きてから仕事前になんとなく書籍を減らそうと思った。それですぐにバリューブックスの買取の申し込みをして売る本を選んだ。なにを残すかという判断になるわけだが、作家として何冊も残しているレギュラーチームはほぼ手をつけずに、最近読んだけど家に残しておかなくてもいいかなと思ったりしたものを段ボールにつめた。18時以降に回収を頼んでいたが、18時少し前にクロネコヤマトさんが取りにきた。雨の影響なのだろうか。

明日から三連休だが、夜はずっとバイトを入れているし、この日から来週の水曜日まではなんらかの仕事がある。その間に「WDRプロジェクト」に応募する脚本の一稿を仕上げないといけない。昨日最初の部分を書いたらわりと行けそうな感じになっていたので早めに最後まで書き終わらせて、二稿までは仕上げて応募できればと思っている。
それもあって、NHKで放送している「星新一の不思議な短編ドラマ」を何話か見たけど、クオリティが高いし、役者陣も豪華だし、まさに「朝ドラ」に対しての「夜ドラ」としてちょうどいい十五分ものになっていた。

快快/新作公演/コーリングユー

快快の3年ぶりの舞台、八月末から公演なら九月の初めに観に行こうかな。

 

7月16日

寝る前に『大江健三郎全小説3』に収録されている『セヴンティーン』を読む。続けて『政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)』も読もうと思ったが、『セヴンティーン』だけでもわりと時間がかかったので諦めて寝た。
数年ぶりに読んだのだが、内容をまったく覚えていなかったので最初は「あれ?こんな話だったっけな」と進めていくと徐々に思い出してきた。最初の箇所で勃起やオナニーに関しての部分があって、前に読んだ時にも石原慎太郎の『太陽の季節』の勃起した性器で障子を突き破るというのは、この作品と呼応するところがあり、突き破るというのが石原慎太郎的だなとも思う(男性性ありきというか家父長制っぽさの担保みたいな)のだが、戦後を代表する作家がそれを描くことが敗戦国としての日本で成長した男子の身体性とも深く関わっていたのだろうなと思えるが、そういうのは誰かがしっかり書いているはずだ。
僕の同世代が起こした事件のことが頭にあるから、この小説を久しぶりに読もうと思うきっかけだった。

起きてからバナナマンの八月頭に開催されるライブのチケットを取ろうとパソコンの前に十時前からいて準備をしたけど、まったく繋がらずに取れなかった。そのまま机に座ったまま、「月刊予告編妄想かわら版」の原稿を書いた。
四作品中、二作品を書いてから買い物に出たが、今日も雨降りだった。あの暑さはいったいなんだったのか、と思えるほど雨がずっと降っている。
買い物帰りにまた雨が強くなって降り出して、なんとかずぶ濡れになる前に家に帰れた。ご飯を食べてから残りの二作品も書いた。とりあえず、数時間放置してからもう一度見直してから原稿を送るため、軽く昼寝をした。
夕方からはリモートワークの作業をしてから、もう一度原稿を見直して修正をして原稿を送った。

 

7月17日
星新一の不思議な不思議な短編ドラマ」を初回から見始めた。
「逃走の道」は大人計画村杉蝉之介さんとコウメ太夫さんコンビだが、 コウメ太夫さん白塗りのイメージが強いけど違和感なくて味のある感じでよかった。


狩野さんが芸人として愛されるのもよくわかる。トークサバイバーでも証明されてたけど、トークもいけてエピソードもたくさんあるのがわかってすごくいい企画だった。
【超豪華】狩野英孝ガチ語り!いじりが凄い大物芸能人ベスト9!



TBSの金10で始まったドラマ『石子と羽男―そんなコトで訴えます?―』と日テレの土10で始まった坂元裕二脚本『初恋の悪魔』も見る。
一話を見る感じでは二話以降でどう盛り上げてくるのかとたのしみであるが、離脱者も多そうな印象。今の時代に合っている感じもするが、そういえば坂元裕二脚本作品の日テレドラマって僕はあまり見たことがないけど、この先どうなるか、TBS『カルテット』のバージョンが違うものに見えなくもない男女四人組のミステリアスコメディ。

夕方からの仕事が二十二時に終わってから、二十三時からミーティング。四十分ほど話をしてから寝る前に風呂に入って髪を洗おうと湯船を溜める。風呂に入ろうとしたらライン電話がかかってきていた。
水道橋博士さんの選挙活動の際に秘書として活躍していた山本くんからで、博士さん同様にコロナになっているとのことだった。湯船が冷めてしまうので入りながら電話。深夜帯に入っていたので、隣の話し声も多少聞こえるアパートではこの時間に電話するのは非常識だなとは思うところもあるので風呂場で電話をする。一時間半ほど話をしていたので風呂はかなり冷めたが、夏だったのでまあ大丈夫だった。冬ならやばかった。

 

7月18日

起きたら朝の八時過ぎで「海の日」ということで、夕方から仕事なので映画かなにか観ようと思って検索した。城定秀夫監督『ビリーバーズ』 が昼前に上映する回があったので渋谷まで歩いて行き、そこから副都心線新宿三丁目駅で降りる。紀伊国屋書店新宿店に顔を出したが欲しい小説や書籍はとりあえずなかったので少しブラブラしてから歩いて テアトル新宿へ。

漫画家・山本直樹がカルトの世界を通して人間の欲望をあぶり出した同名コミックを、「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫監督が実写映画化。とある無人島で暮らす2人の男と1人の女。宗教的な団体・ニコニコ人生センターに所属する彼らは、互いをオペレーター、副議長、議長と呼び合い共同生活を送っている。瞑想、見た夢の報告、テレパシーの実験など、メールで送られてくる様々な指令を実行しながら、時折届くわずかな食料でギリギリの生活を保つ日々。それは俗世の汚れを浄化し、安住の地を目指すための修行とされていた。そんな彼らの日常はほんの些細な問題から綻びを見せはじめ、互いの本能と欲望が暴き出されていく。「ヤクザと家族 The Family」「東京リベンジャーズ」など話題作への出演が続く磯村勇斗が映画初主演を務め、「かくも長き道のり」の北村優衣、「罪の声」の宇野祥平が共演。(映画.comより)

山本直樹さんの漫画が原作なので、もちろんどこまでエロさが出せるか、ということも重要な部分となるが、副議長役の北村優衣が見事にその役割を果たしていた。個人的には『青春の殺人者』の原田美枝子さんを彷彿させるような魅力のある女優さんだなと感じた。なんというか可愛いけどちゃんとエロい。陰と陽でいうと陽っぽさがある顔つきなので裸で海にいるとほんとうに瑞々しく美しさが増す感じだった。
メインの登場人物が三人なので、そのパワーバランス、男性が二人、女性が一人という関係性がカルト教団のメンバーで煩悩や俗世からの欲望から離れようとするのに、離れようとすることでさらに身近な異性の性的なものにより敏感になってしまう、という感じがしていて、それは体験したことはないけどリアルに感じられた。
古谷実作品における平凡な主人公が可愛くて自分のことを好きになってくる彼女ができることで不幸であったり事件に巻き込まれていくように、そういう女の子が主人公を好きになるというのが最大に皮肉に思えるのだけど、山本直樹作品ももちろんエロがあるから女の子は可愛くてエロい、そういう人がたった三人のうち一人の女性というのも普通に考えればファンタジーではあるのだが、まあ、そう要素がないと観ないし読まないということはあまり考えない方がいいのだろう。

安倍元首相の殺害と統一教会の関係性が騒がれている今だから、よりカルト教団というものを扱っているこの作品は現在の日本と嫌でもシンクロしてしまっているのも面白くもあり、怖い部分でもある。
オウム真理教にしろ統一教会にしろ、他の教団や宗教団体なども日本社会にしっかり根を張り、身近にいない感じがしてもどこにその信者がいるのかわからない。だが、それを信じたりすがったりすることでどこか救われている人たちもいるのだろうとは思う。
陰謀論やさまざまな情報がカオスに流れる中で、世の中で生きていく中で息苦しさを感じれば感じるほどに、会社や家族のことで悩む人が助けを求める時にそういう団体や宗教なんかがセーフティネットになってしまうところはある。人に迷惑をかけなければいいとは個人的に思うが、やはり暴走してしまうという問題もある。

僕はこの映画で描かれているような煩悩や俗世間のものを断捨離するようなことは正直すべきではないと思う。欲望を抱えて、なおかつそれをほどほどに自分で処理したり、悩みながら付き合っていくしかないと考えるから。どうせ誰も助けてはくれないし、僕たちが心の底から救われるということもないと思う。そういうちょっとした諦め、諦観みたいなものと共になんとかやっていくのが狂わずに、カルトにもならずに済む方法なんじゃないかなって前から思っている。
最後のニコニコ人生センターのある終わり方は見ていて笑ってしまったけど、ちょっとオウムの強制調査とかの雰囲気もあんな感じだったのだろうか。
何度かオペレーターの夢に出てくる川、それを渡り切ってしまうかどうかがモチーフにあったりしたのも死生観のわかりやすい表現で、ボートにオペレーターと副議長が乗っているのはおだやかでいいシーンだった。宇野翔平さんはますます存在感のある俳優さんになっている。宇野さんが出てくる終盤のシーンはかなり笑えた。

 

7月19日
朝晩と続けてリモートワーク。来月KAATで上演される快々の新作『コーリングユー』を観に行こうと思っていて、知り合いの誰か誘いたいと考えていたので、KAAT近くに住んでいる友人にLINEして誘うとOKだった。昼公演がある日に行って、そのまま飲む約束をした。
コロナがまた爆発的に増えているが、なにか大きな対策をするとは考えにくい。舞台なんかは出演者などがコロナにならなければ上演はされるはずだ。しかし、この状況だともうどこで貰っちゃうか本当にわからないだろう。ワクチン接種四回目もしたらもう少し気持ちに違うのだろうが、そういう話は会社とか自治体からは来ていない。
仕事で必要だったので、エンタメ関係のメディアのプレスリリースをいくつかまとめて読んだ。プレスリリースって自分の会社の作品や商品とか紹介するためだが、結局のところ自社で紹介したいものの資料がどのくらい揃っているか、なにを喧伝したいかっていうのが内部で意思疎通できていたらすぐにできる。資料作る人が書くのがベストだろうなってちょっと他人事みたいに思った。

大塚英志著『木島日記 うつろ舟』の書影が出ていた。大塚さんが出版元の星海社のツイートをRTしていた。ずっと未刊行だった『木島日記』の長編小説が20年ぶりの書籍化。もちろん買って読みます。

 

7月20日

『SWITCH』最新号「「少年ジャンプ+」とマンガのミライ」を書店で立ち読み。
冒頭に佐々木敦さんによる「「主人公」の死と再生 藤本タツキ試論」があったので長々と立ち読みはできないので早めに読んだが、やっぱりゆっくりと読みたいので購入した。

昨日に引き続き、朝晩とリモートワーク。夕方仕事をしながら、「直木賞芥川賞」受賞会見の中継をしているニコ生を流す。とりあえず、音だけ聞く格好でも話はわかる。
いつもより発表は早く感じたが、直木賞窪美澄さんの『夜に星を放つ』、芥川賞が高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』と決定した。
窪さんには何年か前によくしていただいていたので、直木賞を受賞が決まってほんとうによかったと思う。おめでとうございます!

直木賞芥川賞の受賞会見の中継をしているニコ生のスタッフであるパン生地くんこと高畑くんは、会見前に質問なにかある?とラインで聞いてくれるのでいくつか質問を送っていた。そんな流れもあり、今回も送っていたら窪さんの最後の質問がパン生地くんで僕の送った「家族関係」についてのものだった。
会見終わってからのニコ生の放送でも最後の質問よかったと褒められていた。これは我ら二人の手柄だと思いつつも、みんな「性」について聞きすぎだったし、そこばっかり聞いても仕方ないじゃないじゃんって、中継聞きながら思った。そういう質問が続いたからあれがまともな質問に見えたっていうのはあると思う。
R-18文学賞」受賞作家として世に出て、初の直木賞作家になったのが窪さん。「メフィスト賞」とかある賞を取った作家群みたいな流れがあるけど、近年「R-18文学賞」から多様な作家さんたちが出てるから、直木賞受賞作家が出たことでひとつの区切りにはなるのかなあ、と思ったりもした。

直木賞の窪さん「恥じない作品書いていきたい」 一問一答


以前僕が書いた窪さんの小説のレビュー
窪美澄晴天の迷いクジラ』書籍(新潮社)


いつか誰かと居たことを懐かしむ前に、差し込む光のように(『さよなら、ニルヴァーナ』)

 

7月21日

前に約束をしていたがお子さんが発熱したためにランチが延期になっていた友達から、明日空いていたらランチ行かないとお誘いをしてもらったのですぐにOKを伝えていた。お昼前にタイカリーピキヌー近く駒沢大学駅前で待ち合わせ。
246沿いを三茶からまっすぐだが、世田谷郵便局と世田谷警察より西にはほぼ用事がないので、何年かぶりに駒澤大学方面に向かって歩いた。
友達がグリーンカリーを頼んだので、僕は同じ辛さ2のレッドカリーを注文したら、お店のおばちゃんにカントリーカリーがオススメだよって言われたので、なにがカントリーなのかわからないがそちらにした。
カリーがサラサラというか水っぽいので、食べやすくて胃に溜まっている感じがしなかったので思いのほか早く完食してしまった。食べ終わると唇がちょっとヒリヒリしたけど、最高の辛さの7とか食べられる人はもう胃とかもろもろが強すぎるのだろう。僕は2でもちょっと辛かった。もちろん、美味しかったし、病みつきになる人がたくさんいるのもわかる味だった。
その後は、近くのカフェに行って紅茶とデザートをいただきながら、いろいろと話をしていたらあっという間に二時間ほど経っていた。店を出てから若林の方まで散歩がてら歩いていき、家の近所まできた友達とそこで別れてから家の方に歩いた。一日で12キロほど歩いていたが、ナイキのランアプリで距離を測っていたので、どこを歩いたかを見たら246沿いと環七どちらともかなりの距離をまっすぐ歩いていた。


家に帰るとポストに西村賢太さん遺作『雨滴は続く』とのセットで頼んでいたコトゴトブックス制作『西村賢太追悼文集』が届いていた。『雨滴は続く』はとても面白かったので、こちらもたのしみ。文庫サイズなので持ち運びにも良さげ。


夕方過ぎにニコラに『西村賢太追悼文集』を持って行って、アルヴァーブレンドとネクタリンとマスカルポーネのタルトをいただく。
木曜日は仕事を入れない日にしているので久しぶりになにもしない休日になった。

 

7月22日
「ラディカルな意志のスタイルズ」

 「もうバンドはやらないでおくべきか、やるのか?」を考えた。もう歳も歳だし。そして、昨年の秋頃から「来年(22年)は、コロナだオリンピックどころではない酷い世界になる。途轍もないことになるだろう」という直感が働き、そのための音楽が必要になる。第一には自分に。そして年が明け、直感は当たった。いつだって現代は混迷する酷い社会だが、今の現代は今までの現代よりも酷い。バンドを結成することにした。年齢的に言っても、高い確率で人生最後のバンドになるだろう。上手くゆくと20年ぐらいはやるので。

 ライブは、解散まで全て、公演名を「反解釈」とする。9月14日(水)が「反解釈0」で、11月27日(日)が「反解釈1」となり、以降、カウントが続けられる。衣装が完備されるのは「反解釈1」からである。今後、「ライブに来てくださいよ」というのは「反解釈に来てくださいよ」と言い換えられることになる。(「ラディカルな意志のスタイルズ」より)

「ビュロー菊地チャンネル」からブロマガ更新のお知らせがきた。
前から菊地成孔さんが話していた新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」についての話だった。バンド名はアメリカの批評家であるスーザン・ソンタクの代表的な著作であることは以前から話が出ていたが、バンドのビジュアルは日本のブランド「HARTA」が担当することも発表された。
最初のライブ「反解釈0」が9月13日ということなので、チケット情報を見ると数日後から先行抽選の申し込みが始まるようだ。もちろん申し込むし、それで取れなかったならなんとか一般で取って観にいきたい。
DC /PRGの解散ライブは閉館して無くなってしまったスタジオコーストでしっかりと見届けたが、始まりに加担したいというか観たいという欲望もある。菊地さんがどんなバンドを始めるのかが一番興味あるし、ライブで体感したい。
と書いたら、本日二本目のブロマガがメールに届いて、菊地さんコロナになったとの報告だった。菊地さんが治るまでは「ビュロー菊地チャンネル」は10日ほど休止の形になるとのこと、ちょっと残念だが早く治っていただきたい。

小栗旬×保坂慶太 対談

「WDRプロジェクト」のサイトを見たら、二日前に対談が追加されていた。
現在放送中の『鎌倉殿の13人』で主演を務めている小栗旬さんとプロジェクトの発起人の保坂さんの対談。小栗さんはアメリカで映画の撮影を体験しているので、海外での脚本がどういうものなのかということを知っているのでなるほどと思える人選。
話の中でアメリカの脚本には登場人物の気持ちとか設定が細かく書かれているという話が出ていた。僕がかつて映画学校やシナリオセンターで脚本を勉強した時には登場人物の「気持ち」は書くなと教わった記憶がある。
「気持ち」や「感情」はセリフやト書や柱(場所)とかの変更で見せるものだと言われたはずで、シナリオ本などを読んでも、プロの脚本家でもト書とかセリフに感情や気持ちについて書いている人はいない気がする。それもあって説明セリフみたいなものも増えやすい面も日本の映画やドラマにはあるのかなと感じなくもない。
この「WDRプロジェクト」は海外で主流になっている複数人での脚本開発をしていくものだから、従来の日本の脚本というよりはアメリカとか海外的な脚本作りを目指していきたいってことを暗に示しているのかもしれない。

「雉鳩荘が完成する」

古川日出男の現在地」の最新回が更新されていた。一度お邪魔した雉鳩荘も屋内が完成したようだ。あとはお庭を、ということなのだろう。庭をよぎっていく近所の猫たちは雉鳩荘にちょくちょく顔を出しているのだろうか、僕が行った時には新顔と言われていた一匹を見かけたけど、庭には来るようになっているといいのだが。
ここで書かれているように短編や中編という作品も作品集としてひとつの形になってほしい。『太陽』『焚書都市譚』もどちらも文芸誌に掲載された時に読んでいるけど、一冊にまとめられると手に取って読める機会が増えるし、これを読んだ編集者さんがすぐに連絡して早く形になるといいな。

安倍元首相の国葬閣議決定したというニュースを見る。結論ありきのやり方で閣議という見えない形で国民生活や人々の思想などに関係することを決めていくという横暴さと傲慢さ。ほんと、民主的って言葉を捨てたいとしか思えない自民党、彼らを支持した人は近代とかどうでもいいんだろう。
国葬が予定されている9月27日は平日の火曜日、小学校とか中学校とかでは黙祷という言葉は使わないで、学校側に彼らの意思で生徒たちに黙祷をさせようと政府や今回の国葬に関わる連中や組織が動くのだろう。親側がその日は休ませるという人も出てくるだろう。民主的ではないやりかたによってさらに分断が進む、それを彼らは利用したいのだとしか思えない。自民党公明党とか補完勢力に投票した連中がクラファンでもして国葬っぽいことをすればいいと思わなくもないが、それはまた違うし、ただ分断が進む。
国民はおおむね国葬に理解を示しているとか平気で言うやつが大臣とかな時点で終わっている。だが、大多数から支持されている、過半数以上から支持を得て政権を運営している(選挙で勝ったというのは事実)、ということになっている彼らは数の論理でやりたい放題にやって、少数意見を切り捨てる、無視している。それはどこも民主的ではない。
ほんとうに民主主義ということを蔑ろにしていけば、ただ国として終わるだけであり、腐っているものを終わらして再生させようとしても、このままではただ終焉のみがやってきて、新しい始まりはないようにしか感じない。
政治というのは民意の反映だとは言うが、その母体というか支持するもの、力を得た理由が宗教であったりするとこれはまた別物だ。一神教でなく、八百万の神がいるという日本ではいろんなものを受け入れてしまいすぎて、気づかないうちに茹でガエルになってしまうということなのだろうか。
アメリカの状況を見ても、「古き」家族観や家父長制を誇示したい、変化させたくないという勢力が蔓延っているわけで、変化を恐れる人々と新しい価値観や変化を求める人たちの意見や考えが激しくぶつかっている過渡期という見方もできるのかもしれない。僕は後者の変化を求める人たちの側にいたい。

 

7月23日
起きてから、先行の抽選で落ちて取ることのできなかった向田邦子原作『阿修羅のごとく』の舞台チケットを取ろうとPC前にスタンバイ。
まったく繋がらず、繋がった時にはすべての回は終了していた。東京はシアタートラムが箱で、出演者のことなんかを考えると即完なのもわかるけど、小泉今日子さん、小林聡美さん、安藤玉恵さん、夏帆さんの四姉妹をしっかりと自分の目で見たかった。
オンライン配信とかするかどうかはわからないけど、やっぱり舞台系は空気感とかも含めて、ライブじゃないとわからないというか伝染するような緊張感とかを味わいたいという気持ちが強い。


安倍元首相銃撃事件のあとに『大江健三郎全小説3』収録の『セヴンティーン』を読んでいて、チケット争奪戦に敗れたあとに『政治少年死す──セヴンティーン第二部』を読み始めて一時間ほどで読み終わった。
二作品の主人公のモデルとされているのは山口二矢だけど、もちろん今回の安倍元首相殺害犯の山上徹也とはまったく思想も主義も違う。
17歳の右翼少年と母親が宗教にのめり込んで家庭が崩壊したのを味わった中年(80年初頭生まれ)の山上は別物ではあるが、山上と「少年A」をはじめとする82年生まれの犯罪を起こしてしまった彼らとは同世代の人間としては、彼ら(僕ら)が14歳、17歳というあるポイントを過ごした時の時代とか社会の流れとかがどんなふうに影響をしたのか、しなかったのか。
80年前後生まれのやっかいさみたいなことは同世代の僕らがこの先抱えていくだろうし、なんらかの形にしていくことになるんだと思う。そのひとつとして浅野いにおさんの『おやすみプンプン』がある。
小説家の古川日出男さんの一連の作品たち、中でも『南無ロックンロール二十一部経』と『曼荼羅華X』がそうだったし、オウム真理教をリアルタイムで見てきた彼らと同世代の人が自分達の世代の問題として風化させないように形にしていったように、これから僕たちの世代が向き合ってなにかの形にしていくんだと思う。
80年前後生まれが思春期を過ごした90年代という時代と今を結ぶこと、それは「失われた30年」と言われる日本の斜陽の時代の始まりだった。山上が同世代と知ってから、なぜかこの曲が浮かんできて、久しぶりに聞いたら10代の時よりも強く優しく響いた。

【LIVE】Four Seasons -Kyocera Dome Osaka, 2020.2.11-



偶然だがこの曲名がアルバムタイトルになっているTHE TELLOW MONKEYの5thアルバム『FOUR SEASONS』は1995年に発売された。

夕方から「本の場所」の「佐藤究朗読会」イベントに参加してきた。佐藤さんは直木賞を受賞した『テスカポリトカ』発売時にインタビューさせてもらいたくて江戸川乱歩賞受賞以後の作品を読んでいた。その後Twitterで相互フォローになったので、インタビュー依頼をしようと思っていたが諸々タイミングが合わず、依頼もできないままになってしまった。発売後に『テスカポリトカ』は山本周五郎賞直木賞をW受賞することになり、ああ、インタビューしたかったという気持ちがずっと残っていた。
今回のイベントは新刊の短編集『爆発物処理班の遭遇したスピン』発売と合わせたもので、書評家の豊崎由美さんが作家さんをセレクトしたものだった。前回の古川日出男さんの朗読会にも参加していたから、雰囲気はわかっていたし佐藤さんどんな人かなぁ、と興味があり参加した。
20名より少ない参加者は女性の比率が高かった。バイオレンス的なもの、血が飛び散るものなど過激な作品が多いが、やはり「群像」出身という純文から出てエンタメを書かれるようになった作家さんなので、基礎というか骨格には純文的素養がある。ただエンタメだけと言う人よりも繊細さとか感情の機微みたいなものもありながら、エンタメ的な読んだら止まらないという勢いがある作家さんは思いのほかあまりいない。
朗読の前の話の中でワーキングクラスということ、ペンキ塗りの親父がいて高校出たあとはペンキ塗りをやっていた話であったり、アメリカの作家ブコウスキーが好きな話もあって、いろいろ共通点があった。うちの親父はほとんど仕事をしてなかったがインテリアのクロス貼りの仕事だったし、僕も佐藤さん同様に大学も出ていないし、ブコウスキーは墓参りするぐらい好きな作家だったりする。
『テスカポリトカ』を書く前のテスト的な短編『くぎ』を佐藤さんが朗読し、三島由紀夫が朗読した『サーカス』のカセットテープを聞いてから質問タイム、その後書籍を持ってきていたらサインしてもらえたので、ご挨拶を兼ねて並ぶ。
名刺渡して、ご挨拶したら「古川日出男さんの作品を手伝ってますよね」と言われたので、『ゼロエフ』の話をしたらサイン入れのお手伝いをされていた講談社の編集者さんも反応してくださった。

豊崎さんに挨拶して帰ろうとしたら「佐藤さんは来ないけど打ち上げいきませんか?」とお誘いいただいたので、参加したら豊崎さんと僕を含めて四人だった。
「本の場所」を主催している川崎さんも少ししてから打ち上げに参加された。前回の古川さんの打ち上げにも紛れていたが川崎さんとはお話はしておらず、不勉強ながら川崎さんがなんの人か知らないままだった。
顔を出してすぐに帰ると言われた川崎さんも少人数だし、ゲストの作家がいないこともあって、豊崎さんたちが川崎さんにいろいろ話を聞かれていた。普段そんなことはなかったらしい。
皆さんの話から、断片から推測すると川崎さんはCMディレクターでトップまでいかれた人であり、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にレギュラーで出演されていた、ということがわかった。幼少期に父と『元気が出るテレビ』を見ていたが、隣に座られている白髪の川崎さんの顔を見ても、僕の中の記憶は動かなかった。ひな壇に座っていたはずの川崎さんのことは思い出させなかった。
ここはバカなフリをして、川崎さんに経歴を伺うしかないと思って聞いてみると、「川崎徹」さんという僕より上の世代の人なら知ってるであろう敏腕のCMディレクターの方だった。そこから『元気が出るテレビ』の話とか、当時のプロデューサーだったテリー伊藤さんのことなどたくさん話してもらった。CMディレクターとして限界を感じた時の話とかも次元が違うというか、トップに行く人だけの孤独のようなものも感じた。
普段の打ち上げはゲストの方がいるので、川崎さんの話をここまで聞けることは今までなかったと豊崎さんが言われていたのが印象的だった。無知であるから恥知らずで聞けることもあるし、その中でたまたま最年少なだけで若い扱いしてもらってたけど、やっぱりあとあとわかってくると怖い部分はある。無知で許してもらえるのは二十代までだなあ、と改めて思いながら表参道から歩いて帰った。


今月はこの曲でおわかれです。
OMSB - CLOWN



Lucky Kilimanjaro『地獄の踊り場』

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年5月24日〜2022年6月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年06月掲載


先月の日記(4月24日から5月23日分)


5月24日

幸村誠著『ヴィンランド・サガ』26巻。人が犯した罪は許されるのか、戦場で育ち、生きるために人を殺してきたトルフィンの贖いとその生き様が他者の心を動かす。人は変わることができるか、読む人の心の奥の方に響いてくる、ほんとうに素晴らしい作品。


大友克洋著『THE COMPLETE WORKS 4 さよならにっぽん』を購入して読んでいたのだが、タイトルにもなっているシリーズ連作『さよならにっぽん』を読んでいて「あっ、なぜか『気分はもう戦争』と間違えて買ってた」と思った。そもそも『気分はもう戦争』はこの「THE COMPLETE WORKS」シリーズに収録されるのかな。
矢作俊彦原作作品だけど、このシリーズって原作ありのものも入るんだろうか、どうなんだろう。『気分はもう戦争』がもし出るなら、矢作俊彦さんの小説『あ・じゃ・ぱん』も合わせて講談社文庫とかから出してくんないかな。

 

5月25日

太田省一著『放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか』を読み始める。星海社は新書はいい本がちょこちょこ出ている。「三木鶏郎グループ」に大学入学と共に永六輔さんが入ったところまで読んだけど、日本のテレビの歴史ってそもそもまだ百年も経ってない。そういう黎明期に関わった人たちはすでに亡くなったりしているけど、その弟子世代とか覚えている人たちはまだ残っているし、放送作家という人たちのマルチな活躍というのも興味深い。
表紙は鈴木おさむさんと秋元康さんと大橋巨泉さんのイラスト、大橋巨泉さんは幼い頃にわずかばかりだがテレビで見たような記憶はあるけど、実際のところは本当にそうだったのか懐かしの番組を見たイメージなのか判別はつかない。ただ、自分と同じ誕生日の有名人を調べると丸山眞男マルセル・マルソー草間彌生大橋巨泉って出てくるから、クセが強すぎるだろと思うけど、それだけで親近感はある。
帯に名前が書かれている近年の放送作家のところには鈴木おさむ三谷幸喜君塚良一三木聡宮藤官九郎と脚本家としても活躍しているというか軸をそちらに移していった人たちが多い感じ。最近だとオークラさんも『ドラゴン桜2』とか大きな作品の脚本を手がけるようになっている。
放送作家たちが何になったのかということが章ごとに10年代ごとに分けられている。60年代「タレント」、もうひとつの60年代として「小説家」、70 年代が「アイドル時代を作った人たち」、80年代が「バラエティ時代を作った人たち」、90年と00年代は「脚本家」、そして「YouTube」と代表的な放送作家たちがどういう時代を作ったのか、なにと関わっていったのかわかりやすい章仕立てになっている。だから、テレビや音楽、メディアの歴史もわかりそう。

アヴちゃん×古川日出男 インタビュー「徹底的にやることは、美醜関係なくすごみを生む」

アヴちゃん「ストライクでもいいから振り抜くことって、私はすごく大事だと思っていて。でも、たくさんの人が関わる緻密な作品をつくっていると、それが怖くてできないという人も多いと思うんです。それこそ映画って大博打ですし、『その中の冠をやるんだったらちゃんとしてなきゃ…!』と思って、そこでこそブン回す、肩が抜けるくらいに振るっていうことができたのでうれしかったですね」

アヴちゃん「でも、ゼロにかけていくことは、やっぱり狂気だとみんなは感じると思う。『ゼロかけるゼロはゼロじゃん』って思われるけど、ゼロを壊して何者でもない数にしたいって想いが、歴史の中で何かを変えていったと思うんです。『犬王』のような、たくさんの潰えていったものを拾い上げる作品ができたことは、すごく救いですけど、例えば私がここに立つまでに出会ってきた、たくさんのバンドの子たち、やめていった子たち、ゼロにかけて命を絶ってしまった子たち……。そこでやっぱり徒花(あだばな)として、ゼロにかけても壊れなかった、壊れ方がわからなかったまま来ることができた私が、映画の主演をやれるだなんて『日本、明るい!』と思って」

古川「さっきアヴちゃんがした、ゼロをかけてもゼロにならないっていう話が、すごく深いような気がするんですね。醜さを持って生まれた犬王が舞台をやるたびに美しさを少しずつ取り戻していくんだけど、先日、湯浅監督と対談したときに映画の感想として最終的に僕の頭に浮かんだのは『醜×0=美』という式だと言っていて。本当はゼロをかけたのだから美になんかならないはずなのに、ゼロをブチ壊してそこから美を生んだっていう。それが、いろんな彩りの光を混ぜてもドドメ色にならないというアヴちゃんの発想にも近いと思うし、この先何も仕事がないっていうときにも出てきたもの(=曲)があるから今につながっているんだと思う。その『ゼロをかけてもゼロにならないんだよ』っていう想いが一本ずっと筋を通しつづけているから、この『犬王』という映画はカッコいい人がつくっているものになったんだと感じます」

古川「自分が仕掛けたわけじゃないのに、ここまで広まったということは、必要とされるものが始まっているんだろうなと思う。それこそ、ロシアのウクライナ侵攻が始まって、例えばみんな今、反戦って言うかもしれないし、そういう行動を起こさなきゃって思うかもしれない。でも『平家物語』や『犬王』を観てもらえれば、そしたらもう『戦争イヤじゃん。さぁて、どうしたらいいべ? 何かする?』みたいな気持ちになると思う。なので求められているものを、自分が出したいと思うよりも先に世界が『今、世に出ろ』と言ってくれたような感じがしています」

いやあ、全部読んだけどめちゃくちゃいい対談だった。この長さでもWebならアップできるし、かなりお二人の気持ちや創作だけではなく考えも素直に出ている感じで、すごくいい組み合わせだと思う。

 

5月26日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年06月号が公開になりました。56月は『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』『メタモルフォーゼの縁側』『神は見返りを求める』を取り上げています。


水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年5月26日号が配信されました。4月5月に観た映画日記です。『TITANE/チタン』『ニトラム』『ハケンアニメ!』『ベルファスト』『スパークス・ブラザーズ』『カモン カモン』『パリ13区』『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』『北の橋』『死刑にいたる病』『シン・ウルトラマン』『EUREKA/ユリイカ』などについて書いています。


目が覚めて、MacBook Airを開いて昨日放送した番組をTVerで眠気覚しがてら流す。我が家にはテレビがないし、音楽もPCの中のiTunesか壊れかけのiPod nanoしかない。
スマホのバイブが鳴ったので、目覚ましだと思って手に取ったら、電話がかかってきていて知らずに取ってしまっていた。
「あのお、こちらはマコトさんの携帯でしょうか? 私は以前法泉院におりました川村です」
と高齢だと思われる男性の声がした。
マコトは父の名前なので、僕と父を間違えて電話してきたことになるのだが、そんなことそもそもあるだろうか、なんだろう、これと思ったので、一応「マコトは父です。息子のマナブですが、お間違えですか?」と返した。
「あれ、そうなんですか。前にメモしたのがマコトさんの番号だと思ったんですが、すみません」
実家の近くに法泉院という真言宗系の寺院があり、幼い頃は遊びに行ったり、相撲大会があったり、神楽をやっていたりした記憶があった。祖父母もある時期から山の上にある寺院ではなく、こちらにお参りするようになっていた。
祖父の葬式の時にお経をあげてもらったのも法泉院の住職さんだったので、おそらくその人だろうと思った。
だが、わからないのはなぜ僕の携帯番号をその人に、父なのか母なのか、家族の誰かが父のと間違えて教えたんだろう、そもそもそんな間違い起きるか?という疑問があった。
話をしてみると、確かに祖母の名前も出てきて、お世話になったという話もされていて、辻褄はあう。
震災後に実家に帰った際に、祖母の兄の初生雛鑑別師だった新市さんのことを聞こうと思って祖母にインタビューをしたことがあって、祖母の一生についても聞いていた。その時に、祖父が亡くなった頃の話もあって、法泉院の川村さんの話もあり、祖父が可愛がっていて、川村さんも慕ってくれていたと言っていた。それらは文字起こししているので、電話のあとにワードで確認した。
川村さんは祖母が新市さんの話もよくされていたと言われた。間違いなく、この人は我が家のことを知っている。父とも時折話をしていたと言われた。友達がいるイメージがゼロで、サボテンいじりと数独ばかりやっている父にも普通に話す相手がいたんだなと思った。
父は外に飲みにいくこともなく(父の出不精のおかげで我が家は外食に行くことはなく、瀬戸内海に釣りにいった帰りだけ笠岡のラーメン屋のとんぺいに寄ってラーメンを食べるのだけが唯一の例外で、僕が基本的に外食に行くのが苦手なのは幼少期からそういう経験がほぼゼロに近いから)、趣味であるサボテンの知り合いがいるぐらいだろうと思っていたので、会った時にはいろいろ話をしていたと言われて、ちょっと驚いた。
とりあえず、実家の電話番号を伝えてから15分ほど話をしていた。川村さんはそもそも四国にいたが、岡山でも護摩を焚く仕事をするようになってから、法泉院を任されるようになった。その時に、祖父母に息子のように可愛がってもらったのだという。実際に父と川村さんの年はあまり変わらないみたいだった。数年前にやめてから地元の兵庫に戻ったとのことだった。
一応、終わった後に30分ほど経ってから実家に電話をしたら、すでに川村さんから電話がかかってきたらしい。一応、なにがあるかわからないから、実家に電話しといたほうがいいかなと思ったのだが、川村さんは法泉院の昔のことを知っている人から話を聞きたいみたいなことを言っていたらしい。祖母は健在だが101歳ですでにボケがひどくなっているから、難しいだろうし、耳も悪いから電話で長く話すのも無理だろう。実際に会って話をすれば、急にしっかりして話をする可能性もなくもないが。
祖父は亡くなっていて、コロナパンデミックになってから実家に帰っていないので三年以上は祖母に会っていないが、祖父母と時間を過ごした方からの不思議な間違い電話。ほぼ面識がない人との会話でなぜか気持ちが軽くなったように感じた。


コトゴトブックスで注文していた西村賢太著『雨滴は続く』(「西村賢太追悼文集」付き。←は後日別に)が届いた。実は今まで西村作品を読んだことがなかったのだけど、「私小説家・西村賢太」誕生前夜という部分に惹かれて。読み始めたけど、冒頭から引き込まれる。


大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』が発売日なので散歩がてら書店に行って購入。『シン・エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』も鑑賞済みなので、大塚さんによる「おたく」の歴史を踏まえた芸術論を読むのがたのしみ。

 

5月27日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『QあんどA』(前編)では、現在『MIX』を連載している「サンデー」レーベルの月刊少年誌「ゲッサン」創刊と今作の登場人物たちについて書いています。

 庵野秀明の、というよりおたく的な表現の根本的な倒錯はその出自が未来派にせよ、ジガ・ヴェルトフにせよ、彼らがモンタージュ、つまり空間と時間の固定された状態からの「解放」と「編集」を以て観客に体験せしめようとした「事実」を持たない点にある。「事実」は「生活」とか「現実」とも言い換えられる。(『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』P96より)

 


翌日の28 日に公開される映画『犬王』の公開記念イベント『琵琶歌と「語り」の魔術―後藤幸浩(薩摩琵琶奏者)×古川日出男(作家)』を六本木の文喫に聞きに行った。
アニメ『平家物語』とアニメ映画『犬王』について琵琶監修と演奏をされた後藤さんと原作者である古川さんがトークをされた。
琵琶の音やその語り、能の時間の長さ(なぜ現代の能は長くなったのかの推測、かつては現在よりも短かったことは文献などでわかっているので、そこから導き出した理由として教えていく際にどうしても長くなっていき最終的には今の長さになったのではないかと古川さんは話されていた)、そして、歴史(正史)に残されなかった人たちの鎮魂としての物語(語り)とそれを現在に揺らすために持ちうる身体性についてなど話は多岐に渡って、ほんとうにおもしろかった。あと二人の会話のリズムとテンポがだいぶ合っていたのもよかった。 
後藤さんによる琵琶の演奏が最初と終盤で二回あった。琵琶から鳴る音の揺らぎの幅というか、イエスでもノーでもない境界線を行き来するような空間の波のようだった。それは古川さんがずっと書いてきた作品にも僕が感じていたものだ。
最後のふたりのセッション(後藤さんの琵琶の演奏と古川さんの朗読、数時間前に古川さんの朗読も決まったらしく、即興でのセッションとなった)はその場をまるで「此岸」と「彼岸」の狭間みたいな場所にして、二人が僕ら観客を連れて行くようなものに思えた。それはまるで願いを含んだ、かつての者たちへの祈りみたいようだった。
朗読された『平家物語 犬王の巻』のラストシーンの朗読と琵琶の演奏の融合はいろんなものが晴れていくような、心に終わっていた仄暗いものが光に向かうような鎮魂歌のようであり、とても心に響いた。

過去現在未来の時間軸を繋ぐものがあるなら、それはそんな此岸と彼岸の狭間にあるような気がする。
僕がはじめて古川さんのサイン会に来て、朗読を聞いたのはここだった。文喫ができる前にあった青山ブックセンター六本木店、14年前にはあったが、今はもうない。今日とあの日が重なるような感じで、僕の中で過去と現在がダブる、空間が重なる。そう考えられば、『平家物語』も『犬王』というかつての時代を描いた物語も現在の僕らと重なるはずだ。
14年前のイベントは『ベルカ、吠えないのか?』の文庫本発売記念トーク&サイン会だった。凄まじいものを見て聞いてしまうと、終わってから古川さんに挨拶をしようと思っても言葉がうまく出てこなくて、自分でもびっくりで、いつもみたいに話ができなかったけど、その時にもらった「100うぉん」を古川さんにお見せした。なんか見せたかったのは、きっと「犬」つながりだから。
アニメ『平家物語』とアニメ映画『犬王』を観て、古川さんの小説も読んだら、ノンフィクション作品『ゼロエフ』もぜひ読んでほしい。しっかり現在の世界と過去が繋がっていくから。
『ベルカ』もアニメ化しないかな、冷戦に駆けていった犬たちの系譜と歴史を描いているので、まさに今の戦争状態(ウクライナ侵攻)とも通じるものだから。
水曜日のダウンタウン』の中で好きな芸人ランキングで圧倒的な強さを誇っているサンドウィッチマンの話になった時に「サンドの伊達ちゃんに会わせちゃダメだよ」みたいなことが言われていて、みんな会うと好きになっちゃうからっていう理由だったんだけど、同じように古川さんの朗読は生で聴いちゃダメなんだよね、あの体験したら朗読の概念がガラリと変わるし、あんな朗読ができる人はほぼ存在いないと思う(役者だったり、表舞台に立つ人でもたぶん無理だと思う)。14年前に『ベルカ、吠えないのか?』の朗読を聴いてから、都内以外に高知県竹林寺やロサンゼルスのUCLAでも朗読を見て聞いたけど、やっぱりその時は幽玄に入り込んだみたいな空間になっていた。

 

5月28日

TOHOシネマズ渋谷で初日初回の湯浅政明監督『犬王』を鑑賞。
朝イチの回だったけど、七割ぐらいは埋まっていた気がする。入場者プレゼントの松本大洋×古川日出男「犬王お伽草子」ももらえた。
試写会で観た時には「なにかうまくつかめない、わからない部分がうまく咀嚼できない」という部分が正直あったのだけど、二回目のほうがするりと入ってくるような気がした。もちろん、前日に古川さんと後藤さんの対談を聞いていたことも大きかったのかもしれないし、今回は後藤さんが弾いた琵琶の音を意識して聞いたから一回目に観た時よりも琵琶の音がよくわかった。
物語の終盤で友有が自らつけた名を捨てないこと、琵琶法師の座には戻らないこと、そして犬王の物語をやめないと役人に連れていかれそうになった時にずっと歯向かい続けたシーンで自然と涙が溢れてきて止まらなかった。そのあとの犬王のシーンでの苦渋の表情と友有のことを思っての彼の判断にも胸をうたれた。そこにはまさに友情というものがあり、失われることになった者たちが一番大事にしていたものを守ろうと足掻いた、人生があった。だけど、「犬王」も世阿弥の書には出てきても彼の曲は一切残っていない。だが、その名だけは残っている。
『犬王』はまさに登場人物たちの名前を巡る物語でもあるが、それは古川日出男作品に通底する部分だ。『犬王の巻』を読んでから古川さんの他の作品を読むとその通奏低音に気づく人も増えるのかもしれない
あと、一番嬉しかったのはエンドクレジットが終わったあとに自然と拍手が鳴ったことだった。公開初日に観れてよかった。

『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な(一回目の時の感想)


12時半から中野駅で20年来の友人と待ち合わせをしていたので、映画が10時半ぐらいに終わったので歩いて向かった。日差しが強く、梅雨はどこへ、もう終わったのかという暑さだった。渋谷を北上して富ヶ谷や代々木八幡を通って甲州街道に向かう。
富ヶ谷や代々木八幡は用事がないし、知り合いもいないのでまったく行かないエリアだが、オシャレなお店がたくさんあって、ファミリー層やカップルなど若い人たちがたくさんお店に並んでいたり、歩いていた。実際に歩いたりしないとそういう雰囲気はわからないものだ。
その後、笹塚で甲州街道を越えてから新中野方面へ。新中野駅近くで「あれ、見覚えがあるな」と思ったら、毎年元旦に神田川沿いを歩いている時に通るバスの停車場があった。一時間二十分ほど歩いたら中野駅に着いた。そこで友達二人と、その息子くんと一緒にセントラルパークへ行ってランチをしながら、5歳児はよく話すので彼の問題に答えたりして話をした。その後、公演にある噴水が湧き上がる水遊びができる広場で息子くんを遊ばせながら話をした。三時間ぐらいがあっという間だった。コロナの脅威もなくなってきたから、こうやって直接に会うことができるようになったのは本当にいいことだなって思う。


さすがに帰りは電車に乗った。晩飯のおかずを買いに行くついでに、twililightに寄って出たばかりの小山田浩子著『パイプの中のかえる』を購入。店主の熊谷さんに以前小説をオススメしてもらった小山田さんのエッセイ集。
『ものするひと』を読んでファンになったオカヤイヅミさんが表紙イラスト、ニコラのカウンターで一緒になる横山雄さんによる装幀。寝る前にちょっとずつ読んでいこうかなと思う。

 

5月29日
なにか夢を見たはずなのだが、それを全然覚えてない感じで起床。
昨日同様に本日はかなり暑くなるというのを天気予報で見ていたので、すぐに洗濯機を回す。洗濯物を干してから少しだけ散歩がてら外に出る。夏だとしか思えない日差し。この暑さが続かないで、急に梅雨入りして雨降りが続く感じなのだろうか。暑くて雨が降ったら最悪だが、今年はどうなるのか。
アアルトコーヒーの庄野さんにオススメしてもらったアレン・エスケンスの小説があるかなとブックオフを覗いたらデビュー作があったので購入した。タイトルが『償いの雪が降る』というもので、この作家さんの発売されている三冊はこういう感じのタイトルになっている。ちょっと詩的な感じ、内容はミステリーらしい。

「クロワッサン」での野木さんと古川さんの対談でも「名前」の話がでていたと思うんだけど、古川日出男作品には「名前(呼び名)」が変わっていくという通奏低音な部分もある。 
脚本家・野木亜紀子は600年前の「失われた物語」に何を見出したのか? 映画『犬王』を語る

 

5月30日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
『QあんどA』(後編)では、亡き兄と繰り返される日常について書いています。実兄あだち勉を彷彿させるキューちゃん、ループものからのあだち充なりの脱却の意味とは?


スター・ウォーズ』ランド・カルリジアン単独シリーズ、『ハン・ソロ』版で進行中 ─ ルーカスフィルム社長が進捗明かす

2020年12月に発表されていた『スター・ウォーズ』のランド・カルリジアンを描く新シリーズ「Lando(原題)」が、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)に出演したドナルド・グローヴァーを主演として現在も進行していることがわかった。英Total Filmとの取材で、米ルーカスフィルムキャスリーン・ケネディ社長が明かしている。

ドナルド・グローヴァー主演の「スター・ウォーズ」シリーズはちょっと観たい。『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』にドナルド・グローヴァー出ていたのを今知った。でも、その前に『アトランタ』シーズン3を見なければ。

朝晩とリモートワーク、昼休憩の時に家賃と住民税を払いに銀行に行ったら月末だからかなり混んでいた。家賃の縁込みはウェブでもできるけど、税金の支払いの紙っていうか送ってくるのはコンビニか銀行だから、とりあえず、ついでという感じで銀行で支払う。ただの気持ちの問題だろうけど。

今年のサマソニにはリバティーンズが出演するので行く気だったが、お金のこともあったので月が変わったらチケットを買おうと思っていたら、彼らが出演する土曜日もぴあとかが売り切れ始めたと友達が教えてくれたので、ローチケで取った。支払いは2日までなので、すぐにカードで払わなくて大正解。
日曜日はすでに売り切れているらしい。個人的にはリバティーンズがワンマンしてくれればいい話なのだが。いろんな面でコロナパンデミックが直撃した後遺症と日本がどんどん貧しくなっていることなど、相対的に海外からのアーティストを呼ぶことも難しくなっている。チケット代だって昔よりは上がってきている。ただ日本人の収入だけが上がっていない。

The Libertines - Time For Heroes (Official Video)

 

5月31日

TOHOシネマズ日比谷で『トップガン マーヴェリック』の初回IMAX上映を鑑賞。
前作『トップガン』は都合二回観て予習はバッチリ。9時前上映開始だったので、今日は渋谷まで歩いて銀座線に乗って日比谷へ。

トム・クルーズを一躍スターダムに押し上げた1986年公開の世界的ヒット作「トップガン」の続編。アメリカ海軍のエリートパイロット養成学校トップガンに、伝説のパイロット、マーヴェリックが教官として帰ってきた。空の厳しさと美しさを誰よりも知る彼は、守ることの難しさと戦うことの厳しさを教えるが、訓練生たちはそんな彼の型破りな指導に戸惑い反発する。その中には、かつてマーヴェリックとの訓練飛行中に命を落とした相棒グースの息子ルースターの姿もあった。ルースターはマーヴェリックを恨み、彼と対峙するが……。主人公マーヴェリックをクルーズが再び演じ、「セッション」のマイルズ・テラー、「ビューティフル・マインド」のジェニファー・コネリー、「アポロ13」のエド・ハリスが共演。さらに前作でマーヴェリックのライバル、アイスマンを演じたバル・キルマーも再出演する。「オブリビオン」のジョセフ・コジンスキーが監督を務め、「ミッション:インポッシブル」シリーズの監督や「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家として知られるクリストファー・マッカリーが脚本に参加。(映画.comより)

36年前のヒット作の続編、しかもトム・クルーズはまだ現役でスーパースターであるという、どこかで次元とか歪んでいるように思えてしまうが、これが現実である。
他のIMAXで観た他の映画の予告で、この作品の予告を観た時に素直に観たいなと思った。映画の冒頭でマーヴェリックが乗ったマッハ10を目指す戦闘機が飛び立ち、実験を止めにきた空軍の少佐が戦闘機のソニックブームを地上で受けるという場面があり、それも予告編に入っていた。その時に画面から観客に向けてその轟音と共にそこにいるような感覚がサウンドシステムのおかげで感じられるので、これはまさにIMAXで観るしかない作品だなと思った。
スクリーン画面が大きくて音が全方向スピーカーから鳴って体に届くというか響くところであれば、戦闘機が飛んでいる際にパイロットに見えるものや飛んでいる速さだけでなく、またエンジン音などが感じられるという体験も含めて、この映画はまさにIMAXや4DXで観るために作られたものだった。体験型アミューズメントとも言える。
内容は前作を観ていればかなり楽しめるものとなっている。正直前作を観ていないと半分も楽しめないかもしれない。

冒頭からして前作と同じ音楽や字幕を使うことで重ねている。そして、この36年分の時間の経緯を物語の中で、二時間ちょっと回収していくのだが、それがかなりうまい。
前作における親友の死、その息子との関係性が軸として描かれる。この辺りは『カモンカモン』では伯父と甥だったが、今作でもマーヴェリックと親友の息子であるルースターも擬似父息子関係であり、子を持たない中年以上の男性が父になる、父的なプレイをするというのは、今の時代的なものも感じられた。これは「父性」の問題とも重なる。

80年代以降に青春を過ごした人がすでに中年以上になっているということも感じたし、次世代に引き渡せるものはあるのか、という問いでもあるようにも思える内容だった。
「父性」が失われている、失われていく、前時代的なものがどう現在へ挑めるか、なにを残せるのか、というのは、作中でも海軍のパイロットはそのうち自動化されるのでいらなくなるというセリフにもあったように、人が担っていたことをAIや機械が変わりにするようになれば、その仕事に従事していた人たちはいらなくなる。現在の戦争はとくに人を減らそうとしてきている。その意味でも20世紀を生き延びてきた、いわゆる大人たちが経験やそれによって得た知恵をいかに子供世代に引き渡せるのか、大事なものを引き継げるかという部分がある。それがいちばん難しいものだとは思うのだけど。

自分も中年なので、僕にはなにもなく、次世代に引き渡すことなどないので、邪魔はしないようにしていこうと思う、そのくらいのことは考える。おそらく、40代前半と30代後半の世代は上と下をつなげる役割や可能性があったはずだが、ネットが現れて替わりに担ったことで、宙ぶらりんになったところもあると思っていて、そうなるとあとは才能のある新しい可能性について邪魔をしないという選択肢ぐらいしかない。


帰りに書店で宇野常寛著『水曜日は働かない』を購入。僕は昔のバイトのシフトの流れもあって、この十年近くは基本的に木曜日が休み(働かない)。

 

6月1日
メフィスト賞2022年上期座談会

「第64回メフィスト賞」決まってる! おもしろそうなタイトルだし、メフィスト賞は「一ジャンル一作家」を謳うからこその選出な感じもありおもしろそう。
僕は8月末になんとか送りたいが、座談会の中で「性的虐待を扱った投稿作、今回は多かったように思います」とあり、映画監督たちのセクハラ問題ともリンクしているところもあるし、昨今のフェミニズムへの関心とかも反映されているのかな、と思ったりした。


ニコラに行って、上のトワイライライトで開催中のフェアのコラボデザートである「クリームダンジュ『動物になる日』風」というレアチーズケーキとアルヴァーブレンドをいただく。口の中に入れたらすぐになくなっちゃう、濃厚ではないが口の中に甘さとまろやかさが残る。

月が変わったのもあるが、体重が人生でマックスになっているのできちんと減量しないとほんとうにやばいラインに入ったので、夜は基本的にプロテインだけにすることにした。あとは週に二回か三回はランニングをする&スクワットと腕立て100回ずつを半年は続けたいと思う。
あとはSNSデトックスとしてまた半年はTwitterに「メルマ旬報」と「予告編妄想かわら版」と「あだち充論」の記事がアップした時に投稿、InstagramFacebookには観た映画や舞台、書籍などの画像やタイトル名をアップするぐらいにしようと思った。

 

6月2日

佐向大監督『夜を走る』を ユーロスペースにて鑑賞。

教誨師」の佐向大監督がオリジナル脚本で撮りあげた社会派ドラマ。郊外の鉄屑工場で働く2人の男。不器用な秋本は上司からも取引先からもバカにされながら、実家で暮らしている。一方の谷口は家族を持ち、世の中をうまく渡ってきた。それぞれ退屈で平穏な日常を送る秋本と谷口だったが、ある夜の出来事をきっかけに、2人の運命は大きく揺らぎはじめる。無情な社会の中で生きる人々の絶望と再生を、驚きの展開で描き出す。「きみの鳥はうたえる」の足立智充が秋本、舞台やドラマを中心に活動し「教誨師」で映画初出演にして注目を集めた玉置玲央が谷口を演じる。共演には「夕方のおともだち」の菜葉菜、「罪の声」の宇野祥平、ドラマ「孤独のグルメ」の松重豊ら個性豊かな俳優陣が集結。(映画.comより)

Twitterなどで樋口毅宏さんや映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんなどが試写で観たあとにかなり高評価だったことで気になっていた作品だった。他の観た人は『アンダー・ザ・シルバーレイク』を彷彿した(前半と後半でまるで違うから)ということを言っている人もいたし、公式サイトで菊地成孔さんもコメントを寄せていたのでとりあえずおもしろいかかなり意外性のある作品なんだろうなと思っていた。

予告編で見ても正直この物語がどこに進んでいくのかわからない。主人公の秋本と谷口が飲んだある夜の出来事をきっかけに物語が動き出す。しかし普通に考えるとその出来事(事件)が起きれば普通はこの二人が協力してそれをなんとかやりすごすか、バレたことで大事になっていって二人とも破滅してしまうか、など想像の範囲内に収まるのかなと思って観ていると、確かに想像以上の展開になって驚かされる。
秋本が思いもしなかった方向に行くことになる。物静かで感情を出さなかった秋本がある集団と関わったことで、それまで隠していた感情を一気に爆発させていく、それはまさにカオスであり、なにが起きているのかうまく掴めなくなっていく。

谷口は実家にいて結婚もしてない秋本とは違い、妻と四歳の娘がいるのだが、どちらかというと谷口のほうが事件に関わる様々なことに巻き込まれていく度合いは高いように見えた。だが、秋本の暴走によってそれまで人生をうまくノリなどでやってきた彼にとって最大のピンチが訪れることになっていく。この秋本と谷口の対比も非常によかった。
僕としては中盤移行の物語が一気に違う方向に向かっていくのは確かにいろんな人が高評価するだろうなと思うけど、驚きはしたもののそこまで響かなかった。
ちょっとだけ松本人志監督『しんぼる』みたいな、なんつうかカルトっぽさは逆にリアリティあるのかなあとか思ったりもしたけど、大絶賛はできない。ただ、2022年の年末にこの作品を年間ランキング上位にあげる人もいるだろうなと思う怪作であることは間違いない。


燃え殻著『それでも日々はつづくから』を読みながら、火曜深夜に放送された燃え殻さんがパーソナリティーをつとめるラジオ番組『BEFORE DAWN』を聴いていた。先週ぐらいに番組宛に出していたメッセージが読まれた。それは毎回オンエア時に五曲ほど曲が流れるのだが、その中の一曲はカヴァー曲が選ばれているので、そのことについて書いたものだった。
自分が好きなカヴァー曲というと奇妙礼太郎さんが松田聖子さんの『SWEET MEMORIES』だろうか。あとは向井秀徳さんが七尾旅人さんの『サーカスナイト』もかなり好き。

 

6月3日

先日購入した河野真太郎著『新しい声を聞くぼくたち』を読み始める。第一章で『怪獣8号』と『ジョーカー』についての話が出ていて、読んでいるとうなづくことが多い。
フェミニズム」をめぐる言説の中で、男性性が再考されている、というか現在さまざまなところで問題になっていることはその男性性とその加害性の話でもある。そして、そこでも世代や立場(収入や結婚したり子供の有無や住んでいる場所など)などでも違いがあり、「僕はマジョリティ側ではなく、女性などのマイノリティ側に近いのに」という声や考え方があるので、その立場によって同じ男性でも分断や分裂を生んでしまっている。
世界は完全に違うフェーズに入っているので、旧来の家父長制的な男性はどうしても新しい価値観などを否定したり、加害する側になってしまってきている。まず、知らないことには自分の無意識の加害性にも気付けない。ややこしいなとは思うのだけど、でも、知らないうちに加害をし続けるのは耐えきれないし、嫌だなと思うからこういうものをまず読むことで意識できるようにするしかないのだと思う。

朝晩とリモートワークだったので、ずっとradikoで深夜の番組を流しながら作業。『おぎやはぎのメガネびいき』を聴いていたら、ヒップホップユニットのchelmicoがゲストだった。翌週の金曜日は彼女たちのライブで、ニューアルバムが出たばかりなのでiTunesで音源を買った。聴き込んでたのしみたい。

親友のイゴっちから「ジャンプ+」に掲載された一ノへ著『ヨイトピア』という読み切り作品をラインで教えてくれたので読んでみた。
浅野いにおさんっぽい感じがするのは、作品にあるアイロニーとポップに見える絵がいい緊張関係になって、読者に突き刺さってくるからかなと思った。そして、表現というものは毒にもなる。誰かの人生を変えてしまうし、一線を越えさせてしまうものだということを描いていて、これを「ジャンプ+」でやっているところが、王者「ジャンプ」ブランドだからこそ、と思える。

 もはや説明の必要もないだろうが、ワイドショーにせよ、バラエティにせよこの国のテレビの文化そのものが、多分にこの「いじめ」の快楽の提供によって成り立っている。週に一度、生贄を選ぶ。目立ちすぎた人や失敗した人を週刊誌が選ぶこともあれば、それをワイドショーが自分たちで見つけ出すこともある。そしてタレントたちが「多数派の」「目立ちすぎていない」「失敗していない」立場から石を投げる。そうすることで、自分たちは「まとも」で「大丈夫」な側だと安心する。こうして娯楽産業の多くが「数字」をつくり、それで食べている人々がいる。番組を観ていた視聴者たちはSNSを用いてそれとまったく同じことをする。そうすることで何者にもなれない自分をごまかして安心する、死んだ魚のような目をした人々がいる。そしてそんな死んだ魚のような目をした人たちに、正義という名の棍棒を与えて誰かを殴り倒せと耳元でささやき、その人の中に湧き上がった黒い感情を監禁し、集票に利用するメディアや言論人たちがいる。
 閉じた相互評価のネットワークの中で、いま、誰を叩くと安全に自分の株が上がるのかを考えて石を投げる。そしていちばんうまくターゲットの顔面に石をヒットさせた人間が座布団をかせぐ。そんな大喜利が、いまSNSで常態化している。(宇野常寛著『水曜日は働かない』P147より)

金間 若者は表面的にはそうであることを隠す、装う能力が格段に上がっています。昔は見るからに意思がないイエスマンみたいな人がいましたが、今は行動を細かく見ていかないとわからない。
たとえば大学のゼミや研究室に外部の方がお土産を持ってきて「どうぞみなさんで」と言うと学生たちは「ありがとうございます!」とさわやかに言うんだけれども……まず誰も受け取ろうとしない(笑)。困ってとりあえず一番近い人に渡そうとしても引いていくから「じゃあ、ここに置いておきますね」となる。なぜか。
率先して受け取ることで目立ちたくないし、受け取ってみんなに配るという責任を取りたくないし、「施しを受けた」という貸し借りのある状態を重たく感じるからです。「ゼミ生は10人だけど、15個入りだったらどうしよう」「配り方をみんなで決めるのも負担だ」「欲しがっている卑しいやつと思われたくない」などと考えて受け取らない。
そこでは、失敗したり目立ったりすることへの恐怖心が渦巻いているんですね。大学の講義でも講師から「良い質問をしたね」と言われて名前を覚えられるのが恐怖だし、「あ、あの人は質問する人なんだ」と同級生から思われるのがイヤ。だから質問しない。これは周囲から「叩かれる」とまで思っているわけではありません。というのも、叩いたらその人も目立ってしまいますよね。でもやはり目立ちたくないので表立っては叩かないからです。(あなたのまわりにも?一見優秀だが実は主体性がない「いい子症候群」の若者たち(飯田一史)より)

 

6月4日

起きると12時前だった。夕方からリモートワークだったので、休日ではないものの、ほとんど一日で自由に使える時間がない状態だった。深夜2時過ぎに寝たとはいえ、疲れがとれたというわけでもない。
このまま家にいると一日外に出なくなってしまうので、とりあえず散歩がてら駅前に向かった。BOOKOFF松尾スズキさんの小説『宗教が往く』単行本がかなりの美品で200円だったので購入した。
文春文庫で上下巻として出ているものは持っていて、それを前に読んでいるのだが、単行本のほうが金色がメインで使われていて豪華な感じなのでタイトルにある宗教感ぽさがつよい。文庫版は赤いがメインの装幀デザインになっているのでだいぶ印象が異なる。
来週の月曜日に久しぶりの本多劇場松尾スズキ作・演出『ドライブインカリフォルニア』を観に行くので、それでおそらくBOOKOFFで松尾さんの名前が飛び込んできたんだと思う。

 そして何度でも言うが、それらの全てが庵野秀明に直接、継続されたわけではない。むしろ多くは隔世遺伝的である。円谷英二手塚治虫や様々な戦後の子供文化の中に持ち込まれた機械芸術論や映画的手法(モンタージュ/構成)などとしてプロパガンダ、即ち戦時下のあらゆる視覚表現に工学的に「実装」された前史がまずある。そして戦後、それらは公職を追放された人々によって子供文化やTVに、そして世代的経験として手塚治虫らによって「戦後」に生き延び、それを隔世遺伝的に受けとめ自分たちの美学・方法としたのが恐らく一九六〇年前後に生まれた私たちいわゆる「おたく」世代である。(大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』P250より)

散歩から帰ってきて昼ごはんを食べてから、宇野常寛著『水曜日は働かない』が残り50ページもなかったのでそれを読み終わり、続けて残ページがほとんどない大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』も読み終わった。
どちらも庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン』についての言及があり、それぞれが語るものは書籍のテーマや評論家としてのスタイルが違うものの、僕には違和感がなく読めたし、あの時に感じていたことが言語化され、さらにその奥の方へ導いてくれている評論になっているなと思った。
ラストでの庵野監督の故郷である宇部市の駅から出て走り出すシンジとマリ、そこから空撮による実写映像が入り込んでくること、「旧劇場版」シリーズでの実写が入り込んでくることとは意味の違う今回の実写映像が入り込んでくることの意味などは興味深い。
宇野さんが書かれていたように、シンジとマリが走り出したそこは斜陽していく日本経済と「平成」という時代を生きてきた僕らが過ごした場所でもあり、新しいものはない。すでに見てきて生きてきた場所だからだ。
主人公のシンジにとって、母のレプリカである「レイ」、思春期における初恋相手である「アスカ」たちというテレビアニメシリーズからのヒロインたちではなく、「新劇場版」から登場して、彼を物語の、世界の外側へ連れて行くという存在としての「マリ」。庵野監督自らかオフィシャルサイトで作中のことを自分の家族のこととして語らないでほしいと言うニュアンスの表明を出したが、もやはりそれは無理がある。
NHKで放送されて、現在ではアマプラなどでも見れるようなったあのドキュメンタリーを見て、シンジとマリの関係性に庵野監督と妻である安野モヨコさんを彷彿しない方が土台無理な話である。同時に「シン・エヴァ」で完結したと思われる過去作を含める「エヴァンゲリオン」シリーズは庵野秀明監督の「私小説」であると思わない方が難しい。そもそもこのシリーズは1995年のテレビシリーズ放映からずっと語られてきた物語なのだから、そこにどう考えても庵野秀明の人生と経験が重なっているのを僕たちは見てきてしまっている。
「シン・エヴァ」を含めて「エヴァンゲリオン」シリーズはやはり歴史に残る作品であり、庵野秀明という作家性が突出し破綻しながらも立ち直って行く過程を露骨なまま見せつけながら、多くの(国内外の)ファンを巻き込んでいき「平成」日本を代表する作品になった。もう、それだけですごいし素晴らしいものだ。
問題というか、僕らが考えないといけないものは宇部市の駅から走り出したシンジとマリたちが進んだであろう時間を、「平成」「令和」となんとか生き延びてきた僕らはすでに見てきている。過去と現在だけではなく未来についてどんなものをつないでいけるのかが、この先の創作の作り手と受け手にとって大事な問題になってくるのだろう。そのことを考えながらどこまで創作に活かせるのか、と考える。

参加していたクラファン、漫画家・西島大介さんが、ベトナム戦争を描く大長編『ディエンビエンフー』『同TRUE END』を、こだわりのIKKI装幀で全16冊シリーズとして電子刊行する完全完結計画である「〆切は米軍完全撤退3月29日。電子書籍で『ディエンビエンフー』全16冊を完結させたいド!」。そのリターンで「最終巻の巻末にお名前を「サイズ大」で記載、「似顔絵キャラ」として奥付手前エンドロールに登場」するというのがあり、ラフだがそれがメールで送られてきてサイトを見た。
僕の名前は他のページだが、イラストはこのページのようだ。画像は僕らしきキャラのところだけに切り取っているが、実際には上にクラファンに参加した人の名前が掲載されている。このキャラかなり僕っぽいし、気に入りそうなので問題がなければ今後自分のアイコンにしたい。

 

6月5日

台湾出身の高妍(ガオイェン)著『緑の歌 - 収集群風 - 』上下巻。
浅野いにお著『おやすみプンプン』の翻訳版を読んだ高校生の高妍さんは、同じく浅野作『うみべの女の子』を読んだ。その作中で歌詞が使用されたはっぴいえんど『風をあつめて』を知ることになる。
『緑の歌 - 収集群風 - 』では『風をあつめて』と村上春樹著『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』が大きな軸となっている。
そして、帯分に上巻では元はっぴいえんどメンバーだった松本隆、そして下巻では村上春樹がコメントを寄せている。村上作『猫を棄てる』装幀イラストを描いているのが彼女であるという繋がりもあり、その辺りはあとがきに書かれている。

『緑の歌 - 収集群風 - 』は「ガール・ミーツ・細野晴臣」と言った青春物語とも言える。そして、細野晴臣村上春樹だけでなく、岩井俊二など日本のミュージシャンや作家や映像作家などの名前や作品も出てくる。エドワード・ヤン透明雑誌ナンバーガールフォロワーの台湾のバンド)も出てくる。
ありえたかもしれない可能性として「シティ・ポップ」が世界中で発掘され、再び脚光を浴びたことと近いのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ただ、文化というのは国境を軽々と越えて、誰かに届くということ。そして、受け取った側の思いや気持ちもまたその誰かに届くかもしれないということ、循環し、また知らない世代や届いていかなかった場所へ届いて行く、という可能性というか希望だなって思う。

これが好きだっていう想いがとてもまっすぐで強くて、響く青春物語。海辺で育って早くそこから出て行きたかった少女の緑(リュ)が台北の大学へ進学してからいろんな出会いをしながら日本文化にも触れて行くことになるのだけど、やっぱり高妍さんが『うみべの女の子』を読んでその作品が届いたのは、『うみべの女の子』も海辺から外側に出ていけなかった少女と少年の物語だったからなんじゃないかなって思う。そこに引用されたのが『風をあつめて』だったし、歌詞にあるように「風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて 蒼空を翔たいんです 蒼空を」という願いは海辺から違う世界へ行きたいという願いと重なったと思うし。

浅野いにおが台湾の新鋭・高妍を絶賛、いつか忘れゆく“大切なもの”が刻まれた恋と成長の物語「緑の歌 - 収集群風 -」

高 先ほど言ったことの繰り返しになりますが、今日の対談で最も浅野さんにお伝えしたかったのは、そもそも「緑の歌」は「うみべの女の子」がなければ存在しなかったということでした。さらには、はっぴいえんどや、細野さんの台湾公演、村上春樹さんの「ノルウェイの森」や、エドワード・ヤン監督の映画など、そうしたものが1つでも欠けていたら、あのマンガは描けなかったと思います。それは自分自身から自然に出てくる力ではなくて、過去の偉大な先人たちからいただいた力によるものです。その結果、「緑の歌」は日本と台湾で同時発売できることにもなり、改めて「読み続けること」や「作り続けること」の力を実感しています。

↑第1話『風をあつめて』&第2話『海辺のカフカ』も対談のあとに試し読みで載ってます。

『17才の帝国』全5話を見る。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンでは未来を描けなかった(ようやく「ゼロ年代」初頭の僕たちが見てきた風景に戻ってきた)。ラストでの実写で映る庵野監督の故郷の宇部市は失われた30年、「平成」のほとんどの時間で経済大国から一気に斜陽していく日本の、その地方都市のひとつであり、手を繋いで走り出した彼と彼女の先に明るい未来があるようには思えない、それを僕たちはすでに見てきたのだから知っている。
『17才の帝国』は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンからつながるものとして、描かれるひとつの未来を提示したものと見れるのだろうな、と昨日宇野さんの『水曜日は働かない』と大塚さんの『シン・論』を読み終えたからか、そんなことを思った。
まあ、偶然だがAIソロンという三つの塔は、『シン・論』で大塚さんが書いていた「シン・エヴァ」におけるエッフェル塔のローアングルであったり、ある意味で父と母がいる皇居に向かって、かつてヒルコだったゴジラがラストで凍結されている姿も塔であるということとにちょっと通じている。庵野秀明監督が隔世遺伝的に使っている塔とローアングルというものはどこからやってきたのかという話から『シン・論』は始まる。

 

6月6日

仕事を早上がりして、小雨の中を下北沢まで歩く。本多劇場松尾スズキ作・演出『ドライブイン カリフォルニア』を鑑賞。本多劇場に来たのはコロナパンデミック前にナイロン100℃の舞台『百年の秘密』の再演だったと思う。

裏手に古い竹林が広がるとある田舎町のドライブイン
経営者のアキオ(阿部サダヲ)は妹に対して、兄妹愛と括ってしまうにはあまりにも純粋な思いを抱いていた。妹マリエ(麻生久美子)は14年前、店にたまたま訪れた芸能マネージャー若松(谷原章介)にスカウトされ、東京でアイドルデビューするも結婚を機に引退。その後、夫の自殺など数々の経験を重ね、中学生の息子ユキヲ田村たがめ)と共に地元に帰ってくる。
このカリフォルニアという名のドライブインには、腹違いの弟ケイスケ(小松和重)、アルバイトのエミコ(河合優実)が働いていた。そして兄妹の父親ショウゾウ(村杉蝉之介)、高校教師の大辻(皆川猿時)、アキオの恋人マリア(川上友里)、若松の妻クリコ(猫背椿)、クリコの不倫相手ヤマグチ(東野良平)などを巻き込み、複雑に時が流れだす・・・・・(公式サイトより)

舞台装置が変わらずに、ワンシチュエーションで物語が展開していくものとなっており、ドライブインを経営しているある一族の血を巡る物語になっている。語り手はその一族の最後の子、とも言えるマリエの息子ユキヲであり、彼は母とともに帰ってきてから事故死しており、幽霊として物語るという役割を担っている。母のマリエが東京に行き、自分の父と出会う手前から回想のように物語は始まる。幽霊である彼は過去に遡って自分が死ぬまでを見ることで何が起きたのかを再確認することで成仏しようとする。
マリエとユキヲが故郷に戻ってきてから本格的に物語は始まる。ユキヲには音が聞こえない、生まれ持った障害ではなく、父が自殺してしんでしまったのを見たせいでそうなっている。だが、ラジオの音やなにか障害を持っている人の声は聞こえるという設定になっており、彼は死んだはずの祖父・ショウゾウとのやりとりで一族に隠された秘密を知ることになって行く。

偶然だが、同じ本多劇場で鑑賞したナイロン100℃の舞台『百年の秘密』と近い部分もあり、一族の歴史と三世代を描いているという共通点もある。
『百年の秘密』は舞台ならではの、役者が何役もやることで、違う時間軸の登場人物が舞台の上で交差する、レイヤーが重なるという演出があり、とても素晴らしかった。
ドライブイン カリフォルニア』は大人計画の本公演でないせいか、大人計画的な暴力や性の暴発みたいなものが少しカジュアルになっていて、出演者的にはほぼ大人計画なので期待していたのでそこは物足りなく感じてしまった。
大辻役の皆川猿時さんの紙芝居(って体)のシーンは爆笑だったし、舞台のいろんな場面で笑ってしまうところが多かった。二時間少しという長さもあるのか、最後がわりと一気に畳み込んだ感じもあり、余韻は残らない。また、最後に百二十年に一度しか咲かないというものが咲いたというシーンがあるのだが、そのシーンで登場人物たちがそれを見れた理由が、大人計画らしい気もするし、前にも近いなにかを舞台で見たような気がした。アキオが終盤に語る海と波の話、生きていることは無駄ではないというちょっと演説っぽいいいシーンで「宇宙は見える所までしかない」という台詞が聞こえて、松尾さんが岸田國士戯曲賞を受賞した『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』にかけているのかなって思った。聞き間違えではないと思うのだが。

個人的には大人計画本公演でもっとブラックで観終わったあとになんとも言えない気持ちになる舞台が観たいなと思った。映画などで気になっていた河合優実さんはけっこうコメディエンヌみたいな役もできそうな感じだった。谷原章介さんはよく考えれば僕が中二の時に見てどハマりしたドラマ『未成年』で主人公の博人(いしだ壱成)の兄役で出演されていた。谷原さんは役者以外でも司会業でも成功しているし、今のいしだ壱成さんの状況を見るとなんだか複雑だ。実際の谷原さんはスッとした長身ではなく、ガタイもいい長身だった。


舞台を観終わってからニコラでちょっとご飯。先週からメニューにあって、食べたいと思っていた「飯山産グリーンアスパラ 温泉卵と白トリュフオイル」をいただく。ほんとうに美味しい。季節のものだから、その時にしっかり味わうのは至福だし、素材の味が強いのがいい。

 

6月7日

森山大道著『犬の記憶』&『犬の記憶 終章』と書店で目が合う、犬の視線と。家に帰ってから前者と後者の帯文が古川日出男さん(解説も書かれていた)と柴崎友香さんという好きな作家だったことに気づく。
『ベルカ、吠えないのか?』『犬王』と作品タイトルにおける「犬」とこの写真が無意識に僕の中で繋がったのかもしれない。買う時には装幀の写真に惹きつけられていたから、帯をまったく見ていなかった、文字を認識していなかった驚き。

紺野アキラ著『クジマ歌えば家ほろろ』を読む。鳥なのか宇宙人なのか、謎の生物クジマと中学生の新とその家族の関わりを描いている。シュールなとこあるけど、ギャグ漫画みたいな感じもあって読んでいてかなりおもしろい。日本に来る前にはロシアにいたクジマはロシア語や喋れたりするなど、おもしろい要素がうまく噛み合っている。しかし、クジマの正体はわからないままずっと続きそうな、でもある程度進んだら展開に困りそうな、気になる漫画。

 

6月8日
‘Joker’ Sequel: Todd Phillips Reveals Working Title, Joaquin Phoenix Reading Script in New Pics

ホアキン・フェニックス主演『ジョーカー』続編のタイトルは『Joker: Folie à Deux(感応精神病)』というものらしい。しかし、あのあと不満を持つものたち(プアホワイト的な)のカリスマになっていくジョーカーを描くんだろうけど、トランプ政権による断絶と分断を前作はある種描いていたと思うから、あの先にはよりダークで悲惨なことしかなさそうではあるが。

『群像』2022年07月号は古川日出男さん連載『の、すべて』が前回の休載から復活していた。そこではスサノオの話が展開されていた。次回から舞台が90年代から現在へ飛ぶのかなってちょっと思ったりしたけど、どうなっていくのか。
『ゼロエフ』『おおきな森』で装幀を手がけている水戸部功さんが師匠である装幀家菊地信義さんへの追悼文を寄せられていた。菊地さんを追ったドキュメンタリー映画も観ていたし、そこでも水戸部さんの様子も映っていたので、文章に感情移入できる部分が大きかった。水戸部さんの装幀デザインは見ると、これは水戸部さんっぽいなとわかる作家性がある。いつか、という気持ちがある。
また、今月号から批評家・宇野常寛さんの新連載『庭の話』が開始されている。『遅いインターネット』の続き、現在のコロナパンデミックウクライナ侵攻というリアルタイムなことを踏まえながら、FacebookTwitterなどのSNSによって世界はどんなふうに断絶していったのか、そこに「Anywhere」でどこでも生きれる人と、「Somewhere」である場所でしか生きない人その対立や分断をSNSが大きくしてしまっているという話がでてくる。宇野さんのこの論はおもしろいが、読むとSNSますますやりたくなくなってくる。

 

6月9日

YouTubeダースレイダー×プチ鹿島ヒルカラナンデス』を見た時(元々は弁護士の三輪記子さんにオススメしてもらって見始めた)にダースさんとプチさんのお二人がトークイベントに出ると言われていた青山真也監督『東京オリンピック2017  都営霞ヶ丘アパート』を下北沢駅に新しくできた「K2 シモキタエキマエシネマ」で鑑賞。
僕個人としては誘致の時点から東京オリンピックには反対していたし、家にはテレビもないので開会式にそれぞれの競技も閉会式も一切見ていない。ウェブのニュースなどで目に入ることはあったけど、自分が見ようとしたことはなかった。

2020年の東京オリンピック開催にむけた国立競技場の建て替えのため、2017年に取り壊された公営住宅を追ったドキュメンタリー。1964年のオリンピック開発の一環で国立競技場に隣接して建てられた都営霞ヶ丘アパートは、平均年齢65歳以上の住民が暮らす高齢者団地になっていた。単身で暮らす者が多く、何十年ものあいだ助け合いながら共生してきたコミュニティであったが、2012年7月、このアパートの住人に東京都から一方的な移転の通達が届く。転居を強いられた住民たちの2014~17年の3年間の記録から、オリンピックに翻弄された人々と、五輪によって繰り返される排除の歴史を追う。監督は本作が劇場作品初監督となる青山真也。(映画.comより)

僕はこの「都営霞ヶ丘アパート」のことはまったく知らなかった。以前ニュースで、前回の東京オリンピックで家を立ち退きさせられた方が、今回の2020年の東京オリンピック開催に関して、再度立ち退きをさせられたというものは見た記憶があった。この映画でそういう方が出てくるのでおそらくその方なのだろうと思う。
映画では前回の東京オリンピックの時に国立競技場に隣接する形で50年以上経ったこの都営霞ヶ丘アパートに住む方々を映している。前回のオリンピックの頃にここに引っ越してずっと暮らしてきた住人の方々は高齢者になっており、住み慣れた終の住処になるだろうと思っていたそのアパートを都から一方的に立ち退くように言われる。
都からの住民へのアンケートには移住したくないという選択肢がそもそも用意されていないという話もあり、彼らを立ち退かせるのが決定事項であることがわかる。
長年の顔見知りであり、ずっと住んできたことで共生してきたそのコミュニティを都という行政がもう一度東京オリンピックをするために一方的に破壊する、ぶち壊して行く姿が映し出されている。

映画の中でも言われていたが、住民たちに告げにくる都の職員たちになにかを言っても変わらない、彼らたちはトップダウンで降りてきた決定をただ遂行するだけだからだ。彼らも都と住民たちの板挟みにあったのだろうと想像に難くない。職員たちには決定事項を変える権限もないし、おそらく派遣であったり契約社員の人にそういうことをさせているのではないか、と思う。大学を舞台にしているが同じようなことは渡辺あや脚本『ワンダーウォール』でも似たことが描かれていた。
長い時間をかけて作られたコミュニティは基本的にはそのままのメンバーが一緒に移るのであれば、多少の変化はあっても継続できる可能性はあるが、やはり場が変わってしまうと難しい。そして、なによりも住民の方々が高齢者であるということはいろんな問題が出てくる。

この映画を見ていると自然と涙が出そうになる。
住民の方々は最後には抵抗しても無駄だとわかっており、住み慣れたアパートを出て行く。ここには東京オリンピックが奪ったものがあるし、そもそもなぜ国立競技場を立て直す必要があったのか、ザハ案が一度ダメになり二転三転した新国立競技場、そして、今ではその付近の木々を伐採する話が出ている。東京オリンピックもそもそも神宮一帯の再開発のためにやったという話もある。たぶん、それは本当だろう。そういうことしか考えてないデベロッパーなんかが政府や経済連なんかと再開発をして儲けたい人たちが勝ち組と呼ばれる世界だ。だけど、そういう奴らはコミュニティが失われた町や場所には魅力がないということがわからないのだろうし、ただアジアで、いや世界から見ても没落していく日本の中心部を再開発しても喜ぶのは一部の富裕層やそういう人間だけだ。などいろんなことが頭に浮かぶが、そういうことすらも行政や金を持っている人たちが動けば一般市民がなんとかしようとしても無力であるのだろうな、という無気力感も感じてしまう。
この映画を東京オリンピックに関わった人たちやそれを見て楽しんだ人たちはどう思うのだろうか?


「ビルケナウ」2014年

ゲルハルト・リヒターの代表作が日本へ! 16年ぶりの国内大規模個展が6月開催

統一前の東ドイツで青春期を過ごし、ベルリンの壁建設前に西ドイツに移住して以降は、旧ソ連を中心に発展した「社会主義リアリズム」への批評的回答として「資本主義リアリズム」と呼ばれる芸術運動を仲間たちとともに展開したリヒター。彼の作品が絵画を起点にしつつ写真や鏡などを用いてイメージの多義性、その成り立ちや解体を想起させるのは、そういった時代精神の体現とも言えるだろう。

リヒター作品の代名詞とも言うべき「アブストラクト・ペインティング」。40年以上描き続けられる同シリーズは、大きなスキージ(へら)で絵具を塗り、さらに削るというプロセスで描かれている。今回の大きな見どころである《ビルケナウ》(2014)も同様の手法を用いて制作されており、おそらくこのセクションに関わるかたちで展開するはずだ。ちなみに同作の絵具の下層にはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りしたとされる写真のイメージが隠されており、この作品を描いたことでリヒターは「自らの芸術的課題から自由になった」とも述べている。


下北沢駅京王線に乗って渋谷へ、半蔵門線に乗り換えて半蔵門駅で降りてから千鳥ヶ淵付近を歩いて、東京国立近代美術館ゲルハルト・リヒター展を観に行く。
先ほど引用した箇所にあった「資本主義リアリズム」という単語に惹かれて、という部分も今回の展示を観ようと思ったのが大きい。もともとはイギリスの批評家であるマーク・フィッシャーの書籍『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』を読んだことで、彼の『資本主義リアリズム』を読んだ。その表紙はずっと前に見ていて、radioheadのアルバム『Hail to the Thief』とそっくりなので覚えてはいた。そこからニック・ランドに関するものをは必然でもあった。そして、翻訳版が刊行されたニック・ランド著『絶望への渇望』の装幀に使われていたのが、このゲルハルト・リヒターの「ビルケナウ」の一番左端のものだった。そういうリンクというか繋がりで僕は展示に足を運んだ。
圧倒される。デカいし、実際に観てみると絵の具が削られた凸凹などの質感がわかる。鑑賞者自身が見つめ返されるような作品たちが展示されていた。10月まであるのでもう一回観に行きたいと思う。

マーク・フィッシャー著『資本主義リアリズム』 野田努レヴュー

 新自由主義が基本的に人の弱みや満たされない欲望につけ込んで入ってくることは、我が国の政治家たちを見れば一目瞭然であり、歴史の分水嶺ともなったサッチャーの言葉=「これしか道はない」は、訳者もあとがきで指摘しているように安倍内閣が執拗に使っているフレーズでもある。フィッシャーが言うように「反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのものに反対しているのではなく、むしろ公的資金の特定の運用に反対しているのだ」。そして、こうした新自由主義(非道徳的な合理性)と新保守主義(道徳的で規制的な合理性)は、たがいに矛盾しながらも「資本主義リアリズム」のなかで融合する。
 その結果、現在ぼくたちは自由にお買い物を楽しみ、そして自由に転職して失業するという不安定さのなかで生きる/死ぬことを甘受している。ラップのMCバトルは、あらかじめ敗残者に溢れた世界を生きることを前提とする社会、それが当たり前(リアル)だと思わせるという点で「資本主義リアリズム」を補完する。それは起業家ファンタジーとの親和性を高めるはするものの、みんなが勝利する世界をますます想像しづらくする。

↑のポスターといくつかのポストカードを購入した。買ったが、ワンルームの我が家には合わなそうな気がするが、この柄がいいなと思った。「ビルケナウ」のものもあったが、あれが部屋に飾られていたら、気分が滅入りそうだなと思い、まだ暖色で赤や青や白がメインのこちらにした。


「資本主義リアリズム」という単語が浮かんでいたので、こうやって購入すること自体、なにか違っているような気もしなくはなかったが。頭にはやっぱりずっとradioheadの曲が流れていた。

帰りは半蔵門駅ではなく九段下駅半蔵門線に乗って三茶まで帰る。トワイライライトにスティーヴ・エリクソン著、島田雅彦訳『ルビコン・ビーチ』単行本の古本があったので購入。前に文庫版で読んでいたのだが、単行本のこの装幀の感じがいいなって思った。久しぶりに読もうと思ったのは、今トマス・ピンチョン作品を読んでいるのだけど、エリクソンはピンチョンの系譜にはいる小説家であり、世界を幻視する作家の想像力をまた感じたいと思った。おそらく今の僕にはかなり刺激になる。
その後、下の二階のニコラが開店したのでビールとラルドのクロスティーニを。ラルドも生ハムの輸入ができなくなる問題と同様でこれから入ってこなくなるかもしれないとのこと、また今の円高だけでなく金のない日本は今まで海外から買えていた食材なども他国に買い負けてしまい入らなくなるだろう、とか選挙の話を曽根さんとした。

 

6月10日

仕事を少し早上がりして恵比寿へ行き、途中にある恵比寿神社にお参りをする。恵比寿で飲む時には時間があれば、何度か足を運んでいる。この日も時間よりはまだ早かったので寄ったら、数人お参りをしていた。それも若いと言っていい世代だった。
調べてみても前は天津神社という名前だったが戦後の区画整理遷座されて今の名前と場所になったらしい。旧天津神社の資料が乏しく、どういう縁起があるのかわからないとwikiにはあるが、たぶん「恵比寿神社」という恵比寿の部分が福ありそうな感じがするからお参りをしている人が多そうな感じがする。

LIQUIDROOMChelmicoの「gokigen TOUR」初日を友人の青木と観る。青木も言っていたが客層が若く(僕たちが中年だから)て、大学生から二十代中頃が大半だったように見えた。一部中年以上がいたが、僕みたいに最初はTBSラジオおぎやはぎのメガネびいき』にメンバーのMamikoが出演していて名前は知っていたり、そこから聴き出したというクソメン・クソガールもたぶんいたんじゃないかな。
僕は正確に言うと、ツタヤ渋谷店のラップコーナーにMamikoのソロアルバムがベッドサイドミュージックということで置かれていて、Chelmicoのメンバーということを知らずに聴いたらすごくよくて、Chelmicoなのか!と思ってからアルバムを聴き始めたという最近聴き始めたファンである。
Chelmicoの二人とサポートのDJという三人だけのステージ、確かにポップで明るくてたのしいライブだった。まだライブ中に声を出したり、タオルを回すのもダメだったみたいだが、キャパ制限はなくソールドアウトで売り切れているライブの熱はあって、RachelとMamikoの二人のトークでの温度感も暑すぎ、冷静になりすぎず、やっとライブが普通に近い形ができるようになった喜びが溢れているライブだったし、フロアがほんとうにいい感じで揺れていて、笑顔がたくさんあったのを観ることができてうれしかった。
下記のMVの好きな曲も聞けたし、ニューアルバムの『三億円』もよかった。

chelmico/チェルミコ - 「ラビリンス'97」

 

6月11日

起きてからMacBook Airを開いて、radikoで深夜ラジオを流しながら昼までの予定をどうしようか考える。今日から公開のヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー』がユーロスペースで上映なので、散歩がてら行こうと思い、ウェブでチケットを取る。以前にユーロスペースで予告編を見ていて、気になっていた作品。
水道橋博士のメルマ旬報」チームの荒井カオルさんがこの作品にはエグゼクティブプロデューサーとして関わっており、また、ヤン・ヨンヒ監督と結婚されていてパートナーとしてもこの作品に出ているようだったのも気になったポイントのひとつでもあった。

「ディア・ピョンヤン」などで自身の家族と北朝鮮の関係を描いてきた在日コリアン2世のヤン・ヨンヒ監督が、韓国現代史最大のタブーとされる「済州4・3事件」を体験した母を主役に撮りあげたドキュメンタリー。朝鮮総連の熱心な活動家だったヤン監督の両親は、1970年代に「帰国事業」で3人の息子たちを北朝鮮へ送り出した。父の他界後も借金をしてまで息子たちへの仕送りを続ける母を、ヤン監督は心の中で責めてきた。年老いた母は、心の奥深くに秘めていた1948年の済州島での壮絶な体験について、初めて娘であるヤン監督に語り始める。アルツハイマー病の母から消えゆく記憶をすくいとるべく、ヤン監督は母を済州島へ連れて行くことを決意する。(映画.comより)

恥ずかしながら「済州4・3事件」を知らなかったのだが、ヤン・ヨンヒ監督の母が韓国政府をある意味では無視し、北朝鮮へ息子を三人送るほどだった理由がその事件にあったことがわかる。これは政治、国によって大事なものを奪われて、それでもなんとか生き永らえた人の人生を顧みる映画でもあるが、娘である監督が撮影することでより「家族」と「国家」というものが強く前面に押し出されていっている内容になっている。

ヤン・ヨンヒ監督と結婚した荒井カオルさんがお母さんに結婚したいとお願いにする時からカメラは回っており、彼は自分が被写体になるということを受け入れている。そこからは夫が亡くなってから大阪で一人暮らしをする母の元に監督夫妻が何度も足を運び、メンバーが新しく加わった「家族」が少しずつ繋がっていくのが映し出されていた。そこでタイトルにもある母が作る「スープ」の作り方、そしてそれをみんなで食べるということが「家族」になっていく儀式、行為として映し出されていた。同じものを同じ場所で食べる、ということ。もちろんそこには思想や国籍やいろんな違いがあっても、時間を共にすることでしか生まれない感情や気持ちというものがある。
冒頭で亡き父を撮影していた映像も使われるが、そこではヤン・ヨンヒ監督の父は娘の結婚相手にはアメリカ人と日本人以外ならいいと言っているシーンがある。それがフリにもなっているが、日本人である荒井さんが挨拶にきても母は喜んでいる様子が映し出されていた。もちろん、父の考えと母の考えは違うところはあるのだろうけど、そこには年齢を重ねているということも大きいのかなと感じた。荒井さんが着ているTシャツがミッキーマウスとかいろんなバージョンがあるのだが、最初に挨拶に来た時にスーツから着替えた時にミッキーマウスだった時に、あえて資本主義の象徴であるミッキーのデザインの服を着るってこの人すごいな、と思ったけど、そういう意味ではなくただ好きで着ているだなということはのちのTシャツのバリエーションでわかった。

「スープ」とは家族のことであり、美味しくなるまで何時間も煮込む。だから、外部から新しく家族に参入するためには時間がかかるし、同じ時間を共有しないといけない。けっして同じ考えや思い出もなくても重なってくる部分が少しでも増えると一緒にいるのが不思議ではなくなっていく。
この映画において、荒井カオルという部外者がヤン・ヨンヒ監督の家族に入って行くことで、彼女の一家にとっては当たり前だったものが、違う視点と存在によってさらに浮き彫りになっていく。そして、認知症になってかつての記憶が失われて行く母が体験した「済州4・3事件」と国家への思い、それが「イデオロギー」の部分になり、三人で済州島での平和式典に行った時に過去と現在が重なっているが、母の記憶は鮮明ではなくなっていた。

最後の部分でヤン・ヨンヒ監督が今まで母の北朝鮮へ兄たちを送ったことなど理解できなかった部分が、この事件を知ることで否定できなくなったと話す。この部分はかなり監督の思いが溢れているシーンで涙ぐんでしまった。同時に監督が最後に思いを吐露しているので、語りすぎなのかもしれないと思いつつも、あの場所で彼女があの思いを口にするのは、ある種辛いことは忘れてもいいという彼女の思いがそうさせていたのだろう。三人で事件被害にあった方々の墓地に行った時に、忘れてもいいという話をしたあとに、ひどいことをした人たちは忘れてはいけないとしっかり言われていた。そこが実に大事なことだ。国家だけではなく、個人同士の関係でも起きる事柄は、被害にあった人は忘れてもいい、思い出したくないものはそうしたほうがいい。だが、加害者は忘れてはいけない。

そして、観終わるとやはり自分の家族のことを考えてしまう。夕方、毎週恒例の実家への電話で祖母と話をする。祖母も認知症になっているので、普段はいろんなことがわかっていなかったり忘れたりしているらしいと母からは聞く。毎週電話で話をするだけだが、それだけでも実家から離れて暮らす僕ができる少ない祖母孝行のひとつだ。

 

6月12日
仮面ライダーBLACK SUN』の衣装は伊賀大介さんだと下記のニュースで知る。『シン・ウルトラマン』の衣装も伊賀さんだったから、このまま『シン・仮面ライダー』も伊賀さんなんじゃないかな、と思ってる。実際は違う人かもしれないけど、伊賀さん大作映画で衣装をいくつも手がけているのであり得る。 
西島秀俊×中村倫也仮面ライダーBLACK SUN」特報公開、スタッフ情報も発表(コメントあり / 動画あり) 


午前中にあった渋谷での予定がなくなってしまったが、渋谷には行っていたのでドンキでデオドラントスプレーを買う。いつも同じ匂いのものを購入しているのだが、なぜずっと使っているダークチョコレートという匂いのものはドンキの渋谷ぐらいしか見ない。書店にも寄ったが欲しいと思う新刊はなかったので買わずに帰る。
夕方からのリモートワークまで家にある小山田浩子著『パイプの中のかえる』と森山大道著『犬の記憶』とスティーヴ・エリクソン著、島田雅彦訳『ルビコン・ビーチ』を読んだ。やっぱりエリクソンの小説は幻視的な視線で書かれているせいか読んでいるとどうも微睡んでしまう。

 

6月13日
〈考える〉と〈悩む〉にもみくちゃにされる私たちにできることは
アメリカで痛感した〈観察する〉ことのポテンシャル

 1942年の5月9日に日系アメリカ人の強制立ち退きは効力を発するようになるのだけれども、収容所に向かう彼らの姿は、プロの写真家たちに記録されている。
 たとえばドロシア・ラングの写真を、藤幡さんは、拡大して観察する。たとえば着飾った日系人の少女の顔を。どんどんと拡大していったら、何が見つけ出せるだろう? 被写体の目には、何かが映っているという事実だ。それでは、実際に被写体のその目を超拡大すると、何が現われるのか?
 撮影者の姿である。そうなのだ、カメラマンがそこには映っている。

 けれども懸念もある。スマートフォン全盛の現代、私たちは自撮り(セルフィー)というのをしてしまう。その画像に、あなたの瞳にはだけれども、誰が映っているだろうか? 超拡大した時に、撮影者は誰だろうか?
 あなた自身だ。そこには〈他者〉がいない。
 あなたは、20年後40年後80年後に、その画像データをどんどんと拡大してみて、しかしそこに「あなた自身」以外を見出せない。

古川日出男さんの月に一回「論座」での連載「考えるノート」が更新されていたので読む。ここで取り上げられている「全米日系人博物館」には2017年に足を運んだ。館内は撮影ができなかったが、強制転居させられた日系移民の方々が住んでいたバラックの一部(壁があったはずだ)だけではなく、持ち物や多くの写真が展示されていた。

「あなた自身だ。そこには〈他者〉がいない。」という部分で、他者の物語である「小説」や「映画」に興味がなくなっていく、自分から発信できる物語だけが大事になっていく、というのはこのSNSの時代で証明はされていることなんだろう。だから、小説を読むという行為が時代に反していくようになる可能性がある。そして、〈他者〉のいない世界を僕は求めていないので小説を読むし、映画も観るし、芸術というものに触れていたい。

さて神道にもギャルの通勤にも欠かせない鏡ですが
インスタグラムの時代に入り
写真の価値が石油のそれにとって変わると
人々はセルフィーのモニターばかりを見るようになってしまい
誰も鏡を見なくなるだろうと言われています
これは古代から続く 左右逆層の人物像が壊れ
つまり鏡が砕け散るという 非常に危険な兆候であると我々は危惧し
三種の神器のひとつである鏡を見続けるわけですが
鏡を見て 己の考えを鑑みるに
JAZZ DOMMUNISTERS『Cupid & Bataille,Dirty Microphone』 
2「悪い噂 feat.漢 a.k.a. GAMI

上記のN/K(菊地成孔)のリリックを思い出した。スマホは現在のおける三種の神器の鏡になっているようにも思える。だとしたら、スマホという神器を持っている我々は神に等しいとすれば、そもそも神はいなくそこから派生した物語にも意味を見出さない人が増えるのは納得でもある。

 

6月14日

ドミニク・グラフ監督『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』 を文化村のル・シネマで鑑賞。チケットを取った後で約三時間の上映時間ということを知る。「月刊予告編妄想かわら版」でも取り上げたし、公式サイトのコメントがわりと純文学系の作家さんのものも多くて、もしかしたらおもしろいかもって思って足を運んだ。

ドイツの児童文学作家エーリッヒ・ケストナーが1931年に発表した大人向け長編小説「ファビアン あるモラリストの物語」を、「コーヒーをめぐる冒険」のトム・シリング主演で映画化。1931年、ベルリン。時代は狂躁と頽廃の20年代から出口の見えない不況へと移り変わり、人々の心の隙間に入り込むようにナチズムの足音が忍び寄る。作家志望の青年ファビアンは、目的のない無為な日々を過ごしていた。女優を夢見るコルネリアとの恋や、唯一の親友であるラブーデの破滅。世界が大きく変わる予感と不安の中、ファビアンはどこへ行くべきか惑い、焦りを募らせていく。やがてコルネリアは女優の夢をかなえるためファビアンのもとを離れるが……。コルネリアを演じるのは「ある画家の数奇な運命」でもシリングと共演したサスキア・ローゼンタール。監督は、ドイツでテレビ映画を中心に手がけてきたドミニク・グラフ。2021年・第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

主人公のファビアンは映画を観ていると30歳は超えていて、タバコ会社のコピーライターのような仕事をしているが、怠惰的であり夜遊びをずっとしている。だが、親友のラブーデはファビアンの書くものに力が信じており、早く作家になってほしいと思っている。ラブーデと行った見世物小屋に近い店でドリンクバーの会計のバイトをしているコルネリアと出会ったファビンは店を出てベルリンをずっと歩きながら彼女の住んでいるアパートに着くが、そこは自分の住まいであり、彼女こそが隣にこしてきた隣人だった。
女優志望のコルネリアと作家志望のファビアンは蜜月となり、親友のラブーデの父の所有する別荘地に行って仲を深めていく。
ファビアンを含め、みんなずっとタバコを吸っている。時代ということもあるのでそれが当時のリアルなのだろう。1930年代のベルリンであろうが、東京であろうがパリであろうがニューヨークであろうが、みんなどこでもタバコを吸っていたのが事実であり、それが描写されているのはちゃんとしているなと思う。たとえば、黒沢清監督による『スパイの妻』では1940年代の神戸が舞台だが、登場人物を含めほぼタバコを吸っていないのはおかしいという話があった気がする。タバコの煙はなにか思案しているように人を見せる効果もあると思う。

この映画はナチスの足跡が聞こえ始めた時代が舞台だが、ファビアンという青年が親友と恋人を失う話でもあり、そしてラストでは思いがけない終わり方をする。悲劇にも見えるし、サブタイトルにある「またはファビアンの選択について」が思いの外意味が重いものとなってくる。ラストでとあることがあり、実家に帰る列車の中で冒頭でセックス寸前までいくある女性と再会する。もし、彼女の誘いに乗っていたらあのラストはなかったとも思えるし、一度別れてしまった恋人のコルネリアからの電話を実家で待ち、彼女に会いに再びベルリンへ出ようとする選択は彼には幸福への一歩だったはずだし、コルネリアにとってもそうなるはずだったのだが。えっ?その終わり方なの?と思うラストではある。
青年ファビアンの恋と友情の終わりを描いているともいえるし、親友のラブーデとファビアンという文学青年の末路は、あのあとに台頭してくるナチスとの対比的なものになっているようにも思える。文学の敗退を示唆しているように思えた。

ファビアンとコルネリアが出会った時に、その後の蜜月期間のシーンがいくつかインサートされたり、過去の実際のベルリンが写っているモノクロの映像を使ったりとしているのだが、けっこう音楽も含めてゴチャゴチャしている。ファビアンの苛立ちの表現と言われればそれまでだが。三時間はちょっと長い。でも、すごくおもしろいわけでもなく、悪いとも言えない感じ。なにかがうまく伝わってきていない。

バルガス・ジョサ著/寺尾隆吉訳『街と犬たち』(光文社古典新訳文庫ノーベル賞受賞作家マリオ バルガス=リョサのデビュー作『都会と犬ども』が今回は著者表記が変わって改題しての新訳ってことなのかな。寺尾さんはコルタサル著『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』も訳されていて、そちらは以前読んでいた。

 

6月15日

トム・ヨーク×ジョニー・グリーンウッド×トム・スキナーによる新バンド・The Smileファーストアルバム『A LIGHT FOR ATTRACTING ATTENTION』限定盤イエローLPが届いた。5月1日にBEATINKで注文していたもの。
iTunesでこのアルバムのデジタル音源はすでに購入してずっと聴いている。大きなLPジャケットが欲しい(いつか飾りたい)という気持ちもあったのでレコードプレイヤーがないけど、発売のお知らせがあってからすぐに予約をしていた。このアルバムは本家のradioheadとは違うカッコ良さやリズムもあり、トム・ヨークradioheadという大きな枠から自由に音楽を作っている喜びみたいなものもあるんだと感じる。

The Smile - We Don't Know What Tomorrow Brings



梅雨で気圧の問題もあるが、三月末以降からの事柄がやはり地味にダメージを与えてきている。おまけに住民税と区民税が来たが高いっ! 
精神的にも金銭的にも打撃を食らい続けている感じなので、なんとかやられないように体力をつけるしかないし、いろんなものをデトックス的に邪魔なものを体から出さないとやられちゃうなって思えているので、まだ持ち堪えられると思う。一日中やる気は起きなかったけど、そういう日もあると思うしかない。

夜から友人とオンラインミーティングとして毎週30分ほど話をすることにしたので、そこで少し今後のことを話す。目標を決めて動き出す際には誰かと一緒に共有しながら進む方が離脱しないでやっていける可能性が高い。お互いに近々の目標のためにいいやりとりができてよかった。ちょっと沈んでいた気持ちも多少あがった。

 

6月16日
朝から「あだち充論」の最終回となる『MIX』編を執筆していたが、どうも調子が上がらない。連載中ということもあるし、来月に刊行される19巻から一気に変わる要素があるので、どこまで書こうかということが自分の中でうまくジャッジできていないことが原因かもしれない。


夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとスコーンをいただく。来月には選挙はあるが、たぶん大きなことは変わらないだろうし、よくなるイメージもない。インボイスもこのまま行けば始まるだろうし、円安が加速して物価は上がっている。ほんとうにいろんなものがなくなったり、奪われていくかもしれない、という危機感だけが高まっている。とかそういう話をカウンターでする。

NHKが”連ドラ”を作る仲間を一般公募。彼らがホンキで変わりたい理由

前から気になっていたNHKの「WDRプロジェクト」についてライターの木俣冬さんがプロジェクト立ち上げた保坂慶太さんにインタビューをしている記事があった。これはますます応募したくなる内容であり、たまたまだが、先々日から途中で見るのを止めていた『ストレンジャー・シングス』シーズン1を再開して、シーズンの最終話までを見ていた。脚本を書くモードに来月はなると思う。

 

6月17日

飯田一史さんの新刊『ウェブ小説30年史 日本の文芸の「半分」』(星海社新書)をご恵投いただきました。発売日は21日となっているので少し早く届いた。
ウェブサイト「monokaki」で飯田さんに連載してもらっていた「Web小説書籍化クロニクル」が元になっていて、一応僕が連載時の担当編集でした。
500ページ越えの読み応えたっぷりな新書で、僕はウェブ小説についてまったく知らなかったので連載で読みながら、時代背景や投稿サイトの移り変わりやジャンルの隆盛などを知ることができたので、エンタメ関連の方や出版関連の方は読んでみてほしい一冊になっている。


もともと「monokaki」初代編集長の有田さんが対談企画で最初に飯田さんにお声がけして、二代目編集長の松田さんが連載企画を通して、僕が連載担当という形だった。お二人とも現在はDeNAとエブリスタから他社に移ってエンタメ作品作りをされていて、「monokaki」の母体であるエブリスタ自体が去年末に株式譲渡されて、親会社がDeNAからメディアドゥに変わったりと、いろいろと経たなあと思う。
親会社が変わっていろいろ移行したりすることもあり、「monokaki」は以前のように定期的に記事を公開できない状態になっていて、個人的には一番たのしかった作家さんなどのインタビューは行けなくなったりしているのでなくっていたりしている。

数年前に行ったタロット占いでその年の前後五年、十年の運勢を書いた「人生の棚卸し」というものをもらっていて、2022年が所謂断捨離の年で過去の古いパターンを手放し、「当たり前」と信じていたもの、古いアイデンティティを作り直させられる年になる。過去から続けているものと決別して新しい人生に変わっていく年と書かれていた。
それもあってか親会社が変わるって年末に聞いた時も驚かなかった。まあ園監督のことについてはSNSに書いても仕方ないのでブログにはいろいろニュースとか見たその時々の気持ちとかは書いていて、水道橋博士さんが気がついたら選挙に立候補を表明していたりとお世話になっていた人もそれぞれに人生の転機に立っている感じだし、ずっと書いてきた「あだち充論」も今回で『MIX』編なので終わるし、自分から手放さなくても「当たり前」なものがどんどん目の前から消えていくから、占い当たってる気がする。
自分にちゃんとした土台がないから色々と不安だったりするけど、生きていて不安じゃない時なんかそもそもないし、いつだって戦前戦中戦後なのでなんとか生き抜いていくしかない。かと言っても勝てば官軍みたいな生き方はできないけど、そこそこ生きていけるやり方を見つけたいなって思う。

 

6月18日
THE SMILE / トム・ヨーク×ジョニー・グリーンウッド×トム・スキナーによるザ・スマイル1stアルバム発売記念!店頭でボーナス・コンテンツにアクセスできるQRコード施策がスタート!!」ということで対象店舗に代官山蔦屋書店が入っていたので、散歩がてら行ってきて二階の音楽エリアに貼られているポスターのQRコードを読み込んでボーナス・コンテンツをゲットしてきた(画像のポスターの見えていない部分にQRがありました。一応23日はQR有効なので画像では出していません)。
MVとして公開している八本の動画のアニメーションデータと4体のdemonsの画像データがダウンロードできた。


The Smileの音源はすでにデジタルとレコードで持っているので購入はできなかったので、一階の書店で前から気になっていた&昨日直木賞候補作として発表された呉勝浩著『爆弾』を買って帰った。

 

6月19日

iPod nanoがついにご臨終となってしまった。上の状態にはなっていたし、もうタッチパネルがほとんど反応しない感じにはなっていた。次の曲へ送れなくなってなぜか前の曲も戻るだけは生きていた。
メニュー画面にも戻らないのでタッチパネルのどこかに当たったら勝手に同じアルバムを繰り返したりイレギュラーなエラーが起きたらもうシャッフルにすら戻れない感じになっていた。
もううんとすんとも言わなくなったので、開いていた隙間からなかはどんなふうになっているのか見てみた。パネルの奥に本体がある(画像ではわかりずらいが)のがわかる。さすがに五年以上使っていたら壊れてしまうだろうなと思う。問題は後継種がなく、AppleiPodシリーズをなくしてしまっていることだ。とりあえず、中古で同じタイプを買うか悩んでいる。

昨日の深夜帯に放送された『佐藤栞里オールナイトニッポンZERO』を散歩の最中に聴いた。iPod nanoがもう使えなくなったのでしばらくは外に出る時はradikoのアプリでラジオを聴く感じになるかなと思う。
佐藤栞里さんは『オードリーのオールナイトニッポン』のリトルトゥースでもあって、その想いがわりと最初に話をされていたのだけど、その熱量がほんとうに好きなんだなってわかる感じでよかった。あと笑ったり話をしてる時の声の感じとかが大きさとかがどこか上品さを感じる。おとなしいわけではなくて明るいのに上品なところがあって、やっぱりこういう人ってそうそういないと思う。性格がすごくいいんだと思うし、いろんな人の愛情をしっかり受け取ってきた人なのだろう。逆にすごいダークサイドに一度落ちていたからこそのって感じはやっぱりないから、稀有なタレントさんだなと聴きながら思った。

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』

来月吉祥寺シアターで上演されるロロの舞台のチケットを購入する。
前回は酒を飲んでいってしまい、うとうとしすぎてしまったのでほんとうに面目ないというか申し訳ないという気持ちもあって、今度はしっかり観る。
「いつ高」シリーズの世界観をそのままスケールアップした作品になるらしいので、「いつ高」ファンとしても期待。

 

6月20日

呉勝浩著『爆弾』を読み始めた。まだ第一部だがかなりおもしろいし、どうなっていくのか楽しみな作品。
装幀がちょっと好きなタイプで気になっていたら、直木賞候補になったのでそのタイミングで買った。
カバーだと本の「背」の部分にタイトル「爆弾」の後ろに逆さまになっている東京タワーが見える。カバーを外すとカバーに使われている写真の天地が普通のものになっていて、「背」の部分にちょうど東京タワーが来るようなデザインになっている。そして、東京タワーの下の部分に「爆弾」と著者名がある。終盤に東京タワーに爆弾が仕掛けられているとかあるのかなあ、と装幀探偵をしてしまった。普通に考えたら都民を無差別に人質に取る爆弾テロっていうのは話の核だから、「東京」からで東京タワーってことなんだろうな。
塔や電柱をどのアングルで撮るか、みたいなことは庵野秀明監督や岩井俊二監督、その下の世代の新海誠監督などの作品に見られるノスタルジー的なものも、そもそもアヴァンギャルドの時代からの遺産だよって、彼らは隔世遺伝的に(あるいは孫的な影響で)やっているんだよって話を大塚英志著『シン・論』に書いてあったのを思い出す。「塔」をモチーフに小説を書き続けている作家としては上田岳弘さんがいる。
「塔」とはやはり象徴であり、象徴でしかないけど、東京スカイツリーがまだ東京の象徴にならないってそこを舞台にした物語とか、多くの人に共有されるバックボーンがないからなのかな。
講談社のサイト「tree」で『爆弾』の試し読みができるんだけど、縦書きの小説をそのままサイトが横書きなのでコピペしただけのものなのでクソ読みにくい。これなら書店で立ち読みしたほうが絶対にいい。


『ニシダ更生プログラム』


ララランドYouTubeチャンネル『ララチューン』を見た。ラランドのツッコミ担当であるニシダに対して相方のサーヤやマネージャーや近いスタッフの人々が思っていること、直してほしいこと、でも、彼には届かないだろうなという気持ちなども含めて伝えられていく。元テレ東の佐久間さんなどもVTRで出演するなど、ニシダに直してほしいことや仕事で感じていることを関係者が話し、それを映画館のような場所で彼が見る。それを別室でそれをサーヤとニシダが憧れているという南海キャンディーズ山里亮太がモニタリングするというものになっている。
最後には山里がニシダの元にいき思いを伝えるのだが、最後の方は見ていると涙が出てきてしまう。もし、これで彼が変わらなかったとしても、それは残念だけどそういう人だったとしか言えず、だが、人気も出て知名度も増しているこの状況で彼が変われば一気にラランドは四段階ほど上にいけるという話もあるので、こんなチャンスを捨てないで欲しいし、そういう場所にまず居れるということが素晴らしいことでみんなが行きたがっている場所なのだと知って欲しいと思ってしまった。だって、あんなにいろんな人が言ってくれるのは期待してくれているということなのだから。
いろんな人がニシダと同じではなくても、自分のダメな部分が彼と共鳴するところもあるだろうし、僕もあった。だからこそ他人事ではなく、周りの人たちの声や気持ちが沁みてくる。

 

6月21日
梅田サイファー - 梅田ナイトフィーバー’19 ,トラボルタカスタム ft. 鋼田テフロン / TFT FES vol.3 supported by Xperia & 1000X Series

佐藤栞里オールナイトニッポンZERO』の中で佐藤栞里さんがコロナ療養中に何度も繰り返し聴いていたというのがこの梅田サイファーの『梅田ナイトフィーバー’19で、放送中にも『THE FIRST TAKE』の楽曲に合わせてノリノリでラップをしていた。このことに『クリーピーナッツのオールナイトニッポン』で触れるのかなと思ったら触れていなかった気がする。聞き流してしまったのかもしれない。

散歩しながらTBSラジオの『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』を聴いていた。ハガキコーナーでどちらがいいかみたいな時に、「さかなクン、もう中学生、ゾンビだらけの町から抜け出すならどっち?」という二択があった。さかなクンなら知恵も豊富だし包丁とかも使うのうまいだろうし、ゾンビの危険部位を取ったりできそうみたいな話をしていて、それがおもしろかった。

歩きながら来月移行のスケジュールを考えていた。7月末に締切のある「小説現代長編新人賞」は日程的には難しいので出さないことにしていたが、この間友達に話した作品がアイデア的にも内容的にもちょっと感動系のエンタメにいけそうだし、半年間はできるだけ書くモードにしたいのでそれも書くことにした。
脳内で登場人物を誰にするかのキャスティングをしていたら、書けそうな気がしてきた。夕方からのリモートまで「小説現代」に掲載されて単行本化された『爆弾』の続きを読む。これ直木賞取ったらすぐに映像化決まりそうな気がする。

 

6月22日
家で仕事をしていると共同通信から電話がかかってきて「参議院選挙と内閣支持についての調査」の協力をお願いしますと言われた。
そもそもかかってきた時の相手の声が自動録音の機械的なもので、回答してもらえるのであればボタンの「1」を押してくれたら、ショートメッセージで質問事項のあるURLを送るという。ちょっと怪しいなと思いつつ、ランダムで無作為に選んだ番号にかけているというので、次はないかもと思って了承したらすぐにショートメッセージが来た。

質問1「あなたは今回の参議委員選挙に関心がありますか。」
質問2「あなたのお住まいの郵便番号を、7桁の数字で入力してください。」
質問3「XXX選挙区(郵便番号を入力しますと選挙区が表示されます)には、次の方々などが立候補しました。あなたは、どの候補者に投票したいと思いますか。」
質問4「次に比例代表の投票先をお尋ねします。あなたはどの政党に投票したいと思いますか。」
質問5「比例代表では政党名または候補者名で投票できます。あなたは政党名で投票しますか、または候補者名で投票しますか。」
質問6「それはどなたでしょうか。(質問4で「政党」、質問5で「候補者名」を選択した場合候補者が表示されます。それ以外を選択した方は質問7へ進んでいください)。」
質問7「あなたは普段どの政党を支持していますか。」
質問8「あなたは岸田内閣を支持しますか、支持しませんか。」
質問9「あなたの性別をお答えください」
質問10「あなたの年代をお答えください」
質問11「あなたの職業をお答えください」

これが質問の全部。無作為で選んだ人たちが回答しているものを集計すれば統計的にはある程度結果を予測はできるだろう、投票事前の感じは数さえ集まればある程度は掴めルだろうなと思った。
あとは一旦出たこの事前の調査で出た数字がどのくらい投票する人に、しない人に影響をするのか。ということだが、「空気」を読む日本人という国民性は民俗学者柳田國男が最初の選挙の時に周りの顔色を窺っていた投票者たちを「魚の群れ」と言ったことから大きくは変わっていない。だが、円安や物価が上がって生活がきびしくなっている現実に対して、有権者がどれほど怒りやいらだちを感じているかで、原因でもある政権与党をどう判断するか、対抗勢力が弱いと言ってもなんらかの動きは起きそうではある。

20時から先週から始まった友人とのオンラインミーティングという名の創作に関する話し合い。いろいろ考えていたことが話すことで自分の中で固まっていくのとやる気が出るのがありがたい。まずは7月末が最初の区切りでそこから広げていく。

 

6月23日
昨日のミーティングのあとから始めた「あだち充論」の最終回の校正戻しをしていたら、日付が変わって2時を過ぎていた。TVerで『あちこちオードリー』を見ながら寝落ちした。
朝起きてちょっと経ってから、戻した原稿に対してのレスポンスが編集担当さんからすぐ返ってきたので加筆修正をした。これで「PLANETS」ブロマガで連載させてもらっていた『ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本社会の青春』が終わる。
タイミング的にも去年の今頃は「週刊ポスト」で連載していた『予告編妄想かわら版』が夏に終わると言われた時期だったのを思い出した。
長年続いてきたものが終わっていくとどうしても感じることがこの上半期は続いていた。下半期はこれから先のことに繋がっていくように動いていくことが大事になるし、たぶん働くことや生活なんかの自分の生き方が大きく変化していく時期になっていくんだと思う。


今月はこの曲でおわかれです。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『De Arriba』Music Video


chelmico - O・La [Official Music Video] / track produced by DJ FUMIYA (RIP SLYME)