Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年4月24日〜2022年5月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


日記は上記の連載としてアップしていましたが、こちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年05月掲載


先月の日記(3月24日から4月23日分)


4月24日

メフィスト受賞作家である潮谷験さんのデビュー2冊目『時空犯』を読み始めた。今回の主人公の姫崎は探偵であり、デビュー作『スイッチ 悪意の実験』同様に主人公たちは報酬のある実験へ参加したことで事件に巻き込まれるというもの。ある種王道な設定かと思いきや、繰り返される時間というSF的な設定もあるというミステリー。

私立探偵、姫崎智弘の元に、報酬一千万円という破格の依頼が舞い込んだ。依頼主は情報工学の権威、北神伊織博士。なんと依頼日である今日、2018年6月1日は、すでに千回近くも巻き戻されているという。原因を突き止めるため、姫崎を含めたメンバーは、巻き戻しを認識することができるという薬剤を口にする。再び6月1日が訪れた直後、博士が他殺死体で発見された……。

2作目もかなりおもしろそう。わりと飛び道具的な同じ日を繰り返すという設定をどう活かしながら、ミステリーとして殺人事件を解いていくのか読み進めるのがたのしみ。


昨日今日と二日連続で17-24時とリモートで夕方から仕事があるので、起きてから午前中に散歩がてら家を出る。読み終えた本をBOOKOFFで売ったお金で又吉直樹著『人間』の文庫版を駅前のツタヤで購入する。単行本で出た時に気になっていたが、どうも装丁で惹かれなかった。文庫のこのデザインがドンピシャというわけでもないけど、こちらのほうが僕はまだ興味が出る、というぐらい。
BOOKOFFは少し前まで松本穂香さんと子役の寺田心くんがCMをやっていたのだけど、今日行ったら棚に刺してある「読み終わったら売ってください」みたいなポップがなかやまきんに君になっていた。個人的には読み終わって、家にずっと置いておこうと思わない書籍は売って、そのお金で新刊をまた買うというサイクルにしている。電子書籍は場所を取らないから家で邪魔にはならないが売ることはできない。どちらがいいのか、というのは人それぞれなんだろうけど、僕はやはり形があったほうがいい。


4月25日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
アイドルA』(前編)では、あだち充と担当編集者の関係性から生まれた読切作品、そして編集者たちのバトンリレーについて書いています。


「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年05月号が公開になりました。5月は『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』『夜を走る』『ハケンアニメ!』『犬王』を取り上げています。



伴名練著『なめらかな世界とその敵』文庫版。斜線堂有紀さんの解説と文庫版のあとがきが読みたかったので先日買っていた。単行本の時点で読んでいるが、収録されている短編にソ連を舞台にしたものなんかがあり、現在のウクライナ侵攻などを鑑みて修正している箇所があると伴名さんがあとがきで触れていた。となるともう一回読むしかないのかなあ。
この作品はおそらくこれからSFの入門編として、今までSFに触れていなかった人が最初に読む作品になっていくんじゃないかなと思う。

最近は江國香織さんと川上弘美さんの短編集をいくつか読んでいるのだけど、ほんとうにお見事というか、読んだ後にいい話だなとか登場人物のセリフや行動だけでなく、関係性や描かれている場所なんかが残る。こんなにいいお手本を読んだからといって短編が書けるわけではないけど、月に一本書いていくリハビリをしていきたい。

 

4月26日

明日から来週の木曜日までは朝か夜どちらか、あるいは両方に仕事が入っている日があって、8日間休みがないので今日はできるだけ仕事に関することはしないでおこうと決めた。ただ、映画は観に行こうと思っていて気になっていた『パリ13区』が近くだと新宿ピカデリーぐらいしかなかった。渋谷ではどこもやっていなかった。午前中はどうせ暇だし、雨も降らなそうだったので家から一時間半ほど歩いて新宿へ向かう。
代々木という文字を見るようになって、そういえば『天気の子』の最後らへんの舞台ってこの辺だったような気がしたが、地図アプリが示す方へ歩いて行く。代々木公園はほんとうに大きいんだな、とその横の歩道を北上して代々木駅に向かっていると馬が見えた。「東京乗馬倶楽部」とあった。
『群像』で古川日出男さんが連載している小説『の、すべて』の主人公のコーエン(大澤光延)が住んでいるのが確か代々木二丁目で、物語には明治神宮や馬も出てくる。そのことが脳裏をよぎった。ああ、文字で読んでいた舞台はこの辺りだと思う少しだけ目に入ってくるものの解像度が上がるような気がした。
代々木駅から明治通りにでてそのまま北上して甲州街道を越えて、新宿三丁目にある新宿ピカデリーへ。

『カモン カモン』に込められた「切実な願い」を読み取る

映画を観る前に映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんが書いた『カモン カモン』についての文章を読んでいた。このところ観た映画で『ベルファスト』『カモン カモン』、そして観ようとしていた『パリ13区』はモノクロ映像の作品という共通点があった。
だが、『カモン カモン』の主人公は「ストレートの白人中年男性」であり、彼がインタビューする子供の中には移民の子供たちが出てくるが、『ベルファスト』は故郷北アイルランドから宗教観の対立から出ていこうとする家族、移民となることを決意するまでを描いたし、『パリ13区』も主人公のエミリーは台湾系のフランス人、もう一人の主人公のカミーユはアフリカ系フランス人、移民が多く暮らしているパリを描いていた。記事の中で書かれているように、

5年前に「ストレートの裕福な白人の中年男性が主人公の映画を撮っても、誰からも相手にされない」と語っていたミルズは、本作で初めて「ストレートの白人中年男性」を作品の中心に据えたのだ。

#Me Tooムーブメントだけでなく、LGBTQのことや移民問題なども含めた多様性を巡る事柄によって、「ストレートの白人中年男性」という主人公は確かに以前よりも減って行っている。マーベルのヒーローを描いた作品でもどんどん移民系の役者が増えてきている。アジア系は10年前、5年前と比べるとハリウッド大作の映画でもメイン所を占める割合は飛躍的に上がったのはわかる。
例えば、日本の小説でも典型的な「サラリーマンの中年男性」というのはもう主人公にはなりにくい、と思うことがある。男性作家はそれらの問題意識がどうしても女性作家よりも遅いし身近に感じてこなかったことで遅れてしまっている感じもする。だけど、そこで性差の話をするとまた違うのかもしれない。この辺りは言葉にしにくくて難しい。


新宿ピカデリーに来たのはだいぶ久しぶりだった。新宿で映画館に行くとなるとTOHOシネマズ新宿か新宿バルト9でシネコン系は観れるし、単館系ならテアトル新宿新宿武蔵野館か新宿シネマカリテという感じなので、ここでしかやっていないものみたいな時ぐらいしか来ていないのだと思う。
平日の午前中の回にはしては大きなスクリーンではないというのもあるだろうが、そこそこお客さんは入っていたようだった。一応R18指定なので、中年というよりは50代や60代に見える人のほうが多かった気がする。僕ぐらいの世代のほうが少ない感じだった。

ディーパンの闘い」「預言者」などで知られるフランスの名監督ジャック・オーディアールが、「燃ゆる女の肖像」で一躍世界から注目される監督となったセリーヌ・シアマと、新進の監督・脚本家レア・ミシウスとともに脚本を手がけ、デジタル化された現代社会を生きるミレニアル世代の男女の孤独や不安、セックス、愛について描いたドラマ。再開発による高層マンションやビルが並び、アジア系移民も多く暮らすなど、パリの中でも現代を象徴する13区を舞台に、都市に生きる者たちの人間関係を、洗練されたモノクロームの映像と大胆なセックスシーンとともに描き出していく。コールセンターでオペレーターとして働く台湾系フランス人のエミリーのもとに、ルームシェアを希望するアフリカ系フランス人の高校教師カミーユが訪れる。2人はすぐにセックスする仲になるが、ルームメイト以上の関係になることはない。同じ頃、法律を学ぶためソルボンヌ大学に復学したノラは、年下のクラスメイトたちに溶け込めずにいた。金髪ウィッグをかぶり、学生の企画するパーティに参加したことをきっかけに、元ポルノスターのカムガール(ウェブカメラを使ったセックスワーカー)だと勘違いされてしまったノラは、学内の冷やかしの対象となってしまう。大学を追われたノラは、教師を辞めて不動産会社に勤めていたカミーユの同僚となるが……。グラフィックノベル作家エイドリアン・トミネの短編集「キリング・アンド・ダイング」「サマーブロンド」に収録されている3編からストーリーの着想を得た。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(映画.comより)

男女共に全裸でいるシーンが多々あるし、セックスシーンもあったけど、そこまで大胆な感じはしなかったけど、モノクロだからこそ美しさは感じられた。
エミリーはパーソナリティー障害みたいな話がちょっと出てくるけど、わりと本能に忠実なというキャラクターだなと思った。だからこそルームメイトになったカミーユに対して映画が始まってすぐのころ(何度かセックスしたころ)に言ったことは彼女が感覚でわかったことなんだと思う。それが最後に活きてくるし、そういう終わり方になるのはまとまりもいいと思った。二人の関係性はフランス的なものかどうかわからないけど、他者との距離感からくる孤独や不安みたいなものをなんとか生き延びるための欲望としてのセックスみたいなものがあると思うし、今の時代のほうがより裸同士の付き合いというかその感触が非常に強く求められるし、求めたいという欲望が強くなっていると感じるので映画の内容もわかる気がした。
元ポルノスターと勘違いされてしまったノラとその元ポルノスターのトランスジェンダーの人なのかな、二人の関係性はとても現在的なものでもあり、エミリーとカミーユとの関係性にノラも関わってくるが、ノラとポルノスターとの話があるおかげでこの映画はかなり今という感じが濃くなったんじゃないだろうか。


4月27日

潮谷験さんのデビュー2冊目『時空犯』を読み終えたので、続けて3冊目の『エンドロール』を読み始めた。『時空犯』は同じ日がひたすら繰り返されるというSF的な構造があるが、それも重要な要素だがしっかりとしたミステリーになっており、すごいなと思う展開になっていた。やはりメフィスト賞受賞作家が描くキャラクターで、聡明な女性で博士と聞いて浮かぶのは森博嗣著『すべてがFになる』に登場した真賀田四季だろうか、四季は森博嗣作品においていろんなシリーズに出てくる重要な人物だった。『時空半』の北神伊織博士は四季とはタイプは違うが、メフィスト賞の系譜ということを少し読みながら思った。もちろんミステリーなので犯人がいるわけだが、最後に犯人に絞っていく際の主要人物のアリバイ崩しにも繰り返す時間の原因というSF的な要素もしっかり推理に活かされていて唸った。この潮谷さんはメフィスト賞を再び輝かせる人になっていきそうだ。

『エンドロール』はこんな内容である。

202X年。新型コロナウイルスのせいで不利益を被った若者たちの間で自殺が急増する。自殺者の中には死ぬ前に自伝を国会図書館に納本するという手間をかけている者がいた。その数200人。共通するのは陰橋冬という自殺をした哲学者の最後の著書と自伝を模倣するということ。
早世したベストセラー作家・雨宮桜倉を姉に持つ雨宮葉は、姉が生前陰橋と交流があり、社会状況の変化から遺作が自殺をする若者を肯定しているという受け止められ方をしてしまったという思いから、自殺を阻止しようとするが……。

かなり現在とリンクする内容になっている。とりあえず、主人公の雨宮葉が陰橋冬の著書と自伝を模倣して死んでいる人たちを止めようとしている理由がわかる最初の章だけを読んだ。陰橋冬という人物はまだ詳細がよくわからないが、自殺したというのであれば海外であればマーク・フィッシャーが浮かぶし、最近の日本であれば西部邁などがいるが、彼らというよりはもうちょっと違うモデルがいるのかなと思う。
そのモデルが自殺はしてないが、書いたものなんかをつがうベクトルに向けると自殺を模倣するような感じに著者がしたのかなって感じるけど。まだ、この物語がどうなっていくのかはわからないが、確実になくなった姉の桜倉の秘密や彼女がなにかを企んでいたみたいなことが物語の核になるんじゃないかな。

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年4月27日号が配信されました。映画『ベルファスト』を観たので、以前に北アイルランドに行った時の話を元に『シャムロックの三つの葉』という短編を書きました。

 

4月28日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
アイドルA』(後編)では、前々作と前作のヒロインたちの夢を叶える希望の存在としての(今作の主人公)里美あずさについて書いています。


真造圭伍著『ひらやすみ』3巻が出ていたので昼休憩の時に銀行に住民税を払いに行ったついでに購入。
今回は漫画家になりたい主人公のヒロトのいとこであるなつみが持ち込みをした後の話と芸大での友達の恋バナという青春という話、そして不動産屋のよもぎが部屋を紹介した小説家との話が動き出すという感じ。ヒロトは元役者だし、わりと創作系の人の登場人物の比率が増えてきた気はするが、夢と日常をいうものを描こうとしているはずなのでそうなるんだろう。あと中央沿線が舞台だから、それはそうだよなあとも思う。



そのままトワイライライトでアイスコーヒーを頼んで『飛ぶ孔雀』を購入して一服。
その帰りにニコラによって作業をしながら、苺とマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドを一緒に。話をしていたら、小学校中学校高校と毎年クラス替えがあったというと曽根さん夫妻とカウンターにいたお客さんに驚かれた。そういうものだと思っていたのだが、三年間は同じクラスだと言われたり、地域によってそういう違いもあるんだなあ、話してみたいなわからないことは多いけどおもしろい。


4月29日
古川日出男さんが毎月寄稿している《考えるノート》の最新回が公開されていた。
第5回「戦場でのおびただしい〈死〉の報に触れながら 戦争と平和、非日常と日常、善と悪――翻弄されることで見える何か」

 私に言えるのは、戦争と平和であれ、生と死であれ、それらを「疑いなく対峙させられる」と事前的に思った途端、はまり込む罠もあるのではないか? ということだ。

舞台は13世紀半ば、動乱のボヘミア王国
ロハーチェクの領主コズリークは、勇猛な騎士であると同時に残虐な盗賊でもあった。ある凍てつく冬の日、コズリークの息子ミコラーシュとアダムは遠征中の伯爵一行を襲撃し、伯爵の息子クリスティアンを捕虜として捕らえる。王は捕虜奪還とロハーチェク討伐を試み、将軍ピヴォを指揮官とする精鋭部隊を送る。
一方オボジシュテェの領主ラザルは、時にコズリーク一門の獲物を横取りしながらも豊かに暮らしていた。彼にはマルケータという、将来修道女になることを約束されている娘がいた。
ミコラーシュは王に対抗すべく同盟を組むことをラザルに持ちかけるが、ラザルはそれを拒否し王に協力する。ラザル一門に袋叩きにされたミコラーシュは、報復のため娘のマルケータを誘拐し、陵辱する。部族間の争いに巻き込まれ、過酷な状況下におかれたマルケータは次第にミコラーシュを愛し始めるが…(公式サイトより)


《考えるノート》で取り上げられていた映画『マルケータ・ラザロヴァー』。これは公開されたイメージフォーラムに観に行きたい。モノクロで二時間半ほどあるようだが、同じくモノクロである5月中にテアトル新宿青山真治監督『ユリイカ』デジタル・マスター版が公開されるようなのでそちらも行こうと思っている。

午前中にツタヤ渋谷店に行った。ちょうどオープンの10時に店前に着いたらかなりの人が待っていた。どうやら一階になにわ男子のポップアップが展開されているみたいで、それを撮影しようと待っている人が多かったみたいだった。
僕はそのままエスカレーターに乗って3階に行き、前借りようと思ってほとんど借りられていたスパークスのアルバムや外付けHDにデータ移行できずに消えてしまったスーパーカーのアルバムなどを借りた。あと、中村佳穂のニューアルバムも手に取ったが、新作でも防犯目的のプラスチックカバーがされているものがあり、店員さんに器具で解除してもらわないといけなかったので友人レジのほうに並んだ。
有人レジでは男性のお客さんがなにかを聞いていたようでその対応をしており、他の店員の姿はなかった。僕の前には60近い男性客がいらいらして待っていた。その男性が進んでスタッフの声が聞こえる棚のほうに向かってちょっと声を荒げた。それで男性店員が一人出てきて、彼の対応をしていたが、その男性客は「客が一番だろうが」などと怒っていた。
朝から嫌なものを見てしまった。確かにお客さんはお店にとって大切でも、朝イチでスタッフだってたくさんいるとは限らず、何かの対応に追われていることぐらいはわかるはずだ。また、僕は防犯解除のために並んでいたが、基本的には無人レジでレンタルなどはできる。男性客は無人レジでできないのか、有人レジでないといけないのかはわからないが、俺様という感じが強かった。こういう人ってケアっていう概念がないのだろうとも思った。
彼はそういう態度で生てきていて、それが通ってきていたのだろう。だが、もうそういう時代でもないことがわかっていないようだ。少しぐらい待ってもいいものだろうし、もし待たされても店員に苛立って声を荒げるのはダサい、お客さまは神様というのは嘘とは言わないがそうでもない。接客の仕事をしたことがある人ならわかるし、してなくてもわかるものだろうが、彼のような人はそういうことがまるで理解できていないように見えた。彼らはたとえば妻や女性になにかを言ってしてもらう(あるいは言わなくてもしてもらう)ことが当たり前で、自分がケアをする側になったという経験がないのだろうか。ケアという概念がわからない人は家父長制で生きてきて、そのまま死んでいける世代なのかもしれない。そう考えると可哀相にも見えてきた。また、こういう人って友達とかいないのではないかなとその姿を見ながら思った。いても同世代の同じような人たちのだろう。なかなかしんどいなあと思う。
防犯の解除をしてもらって無人レジでレンタルをして店を出ると小雨が降り始めてきた。

中村佳穂 “MIU” ミュージックビデオ



家に帰って音源を外付けHDに取り込みながら、読書をしていた。途中から江國香織著『東京タワー』を読み始める。この小説の冒頭が雨の東京タワーだった。江國さんは『雨はコーラがのめない』という作品も有名だが、雨の風景を書いているという印象がある。主人公の透が僕よりは学年が一つ上の1980年生まれだったで、同級生で友人の耕二と共に大学2年生ぐらいなので舞台としては2000年ぐらいなのだろう。
東京スカイツリーができる何年も前の物語。スマホはまだないし、携帯もちょっとずつ持ち始めた時代だから家の電話の前で相手からで連絡が来るのを待っているというシーンがあったりするのが、今との大きな違いかなと思う。

 

4月30日

 戦争とは一つの悪ではなく悪それ自体である。人間の生産的な資源を後先もなく濫費することにはかならず、――アナーキーな暴力、無意味な放蕩、抗争、逆行、感染、異質性といったものからなる――軍事的な性格が備わっている。だからこそ犯罪は、共同体にたいする侵略という原始的な意味を保ちつづけ(その名残は強盗のなかに、あるいは逆に、犯罪にたいする刑罰の形式がもつ軍事的基盤のなかに見られる)、無意識は自ずと一つの内乱に喩えられることになるのである。サドの熱狂はこうした軍事的原理を共有しており、力、裏切り、供儀による栄光、そして堕落によって、分解的に「制御」されている。大衆にたいする中央集権的な平和化作用の崩壊こそが、サドのテクストに広がる歴史的かつ文学的な空間なのである。そのあとに悪や無秩序や崩壊を残しながら、異質的な諸力が体制の腐敗のすえに明るみに出た戦場を縦横に動きまわるにつれて、不均質に崩壊していく社会は武装した集団に変わり、強盗や法外な者たちからなる一団に変わっていくことになる。(ニック・ランド著『絶望への渇望 ジョルジョ・バタイユと伝染性ニヒリズム』P281-282より)

「世界はどこに向かっているのかな? 若い頃のわたしは、社会の進歩を信じていた。なぜかというと、自分自身が進んでゆくチャンスが見えていたからだ。だが、こうして六十になって、来られるところまでは来たとなると、後は行き止まりだけだという気がしてくる。あんたの言い分が正しいなら、社会にとっても後は行き止まりだ。しかしだね、このシドニー・ステンシルはずっと変化していなかったとしたら――そのかわり、一八五九年から一九一九年のあいだに世界はある病気にかかったが、その病気を診断できる人間が誰もいなかったのだとしたらどうだろう。兆候があまりに微妙だから――歴史を形作るさまざまな出来事の中に溶け込んでいて、ひとつひとつは何の影響もないようだから――誰にも気付かれないが、全体として見れば命にかかわる病気だったとすれば。ま、世間は先の戦争をこのように見ているわけだ。あれは新発見の奇病だったが、今は治療が成功して永遠に撲滅されたのだと」(トマス・ピンチョン著『V.』下巻P332より)


トマス・ピンチョン著『V.』下巻を読み終わったので、次は一度読んだことがある『競売ナンバー49の叫び』に。『V.』読み終わったけど、うまいこと世界を捉えられきれていない。おもしろいかおもしろくないかと言われたらおもしろい。だが、読み手である自分がそこを理解できていない、あるいは真面目に読み過ぎてしまう部分が邪魔をしているような。『競売ナンバー49の叫び』はDCPRGの曲名にも使われていたので、ちょっとだけ親近感がある。

浅野いにお先生と押切蓮介による雑談」のYouTube聞いているが、浅野さんの声って高橋一生さんの声に似てるな。ということは骨格が近いだろうから、顔も似ているってことになる。




大塚英志原作×山崎峰水漫画『くだんのピストル』弐巻を読む。高杉晋作岡田以蔵がメインとなっている。読みながら大塚さんは高校生の時に漫画家だった時期があり、その時の師匠がみなもと太郎さんだから、これは『風雲児たち』を大塚さんなりにやり直したいってことなのかなって思った。

 

5月1日

数冊を併読しているが、前に読んでいた江國香織さんと川上弘美さんの作品は読み終わったので、次のものへ移行した。『物語のなかとそと』はエッセイ、『猫を拾いに』は短編集でひとつの話やくだりが短いのでちょっとずつ読むのにちょうどいい。保坂和志著『ハレルヤ』は一編がそれほど長くない中編で、こちらも1日一編ずつぐらい読んでいくつもり。

5月1日はニコラの周年日。11周年。年末以来の皿洗いヘルプに18時から入る。24時の閉店まで賑わっていた。閉店後に常連な人たちと飲んだり話をしていたけど翌朝は仕事なので3時には帰る。まん防解除されたことで気兼ねなく集まれるようになってほんとうによかった。

 

5月2日
朝なんとか起きて9時からリモートワークで20時まで仕事をしていた。仕事だから読んでいた小説のジャンルがほんとうに苦手なタイプのもので、しかもそのジャンルのある種王道パターンだったので、辟易しながらも要約のためのメモをとりながら読んでいた。形式美みたいなものなのだろうけど、それがダメな人にとってはそれ故にしんどくなる。でも、読まれているっぽいし、好きな人は好きなんだろうなって。王道パターンという物語だからこそ、読めたり好きだという人がいるのもわかる。でも、パターンとして僕にはおもしろいとはまったく思えない。時間がかかってしまったのはそのせい。


ニコラのお二人は翌日の2日はしんどいのはわかってたから21時から皿洗いヘルプに行けますよと伝えていたからその時間からちょっとヘルプ。終わってからサルシッチャとそら豆のスパゲティーニとビールのまかないをいただく。
今年の3月11日からはニコラの上の3階に熊谷くんが店主なトワイライライトがオープンしたので、三軒茶屋に来る機会があれば、どちらも寄ってみてください。
続けていくのはほんとうにすごいことだし、いろんな要素が混ざり合うのだけど、素直におめでとうございます!という気持ちです。
僕にとってのニコラのようなお店があるなら、足を運んでお金を落とすことはとても大事なことだと思う。お店が閉店するときに残念みたいなことSNSでいうやつはさほど行ってないし金も落としていないだろうから、そういう残念な人間にならないように生きては行きたいな、と思う。

 

5月3日

渋谷まで散歩がてら歩く。ジュンク堂書店渋谷店に寄って、伊坂幸太郎著『マイクロスパイ・アンサンブル』と松波太郎著『カルチャーセンター』を購入。
伊坂ファンというのもあるが、これは「猪苗代湖の音楽フェス「オハラ☆ブレイク」でしか手に入らなかった連作短編がついに書籍化!」と謳われているように、ページをペラペラめくったら猪苗代という単語が見えたので読もうと思った。
『カルチャーセンター』は単純に表紙をSNSで見てから気になっていたもので著者や内容はまったくわからないが、帯の表は松浦理恵子さんと柴崎友香さんのコメントがあるが、裏側が保坂和志さんのコメントがあったので、『ハレルヤ』繋がりでいいかなと手に取った。

TVerオリジナルの『神回だけ見せます!』を初回の出川さんから5回目の萩本欽一さんまでを一気に見た。日テレの番組の神回を流しながら、佐久間さんと伊集院さんがワイプで見ながらコメントしていくというもの。出川さんの回は最後は知らないうちに泣いていた。見ればわかるけど、この回は現在のウクライナ侵略とも通じてしまっている。いつだって戦前で戦中で戦後であるということ。
最後の萩本さんの回もおもしろかったので、その流れでオードリーの若林さんと萩本さんがふたりでやったラジオをYouTubeで探して聞いている。
伊集院さんが言っていたけど、モグライダーの二人の形式は実はコント55号と同じであるというのは納得だった。そして、ラジオを聞いていると若林さんと萩本さんのやりとりがすごいし、若林さんがきちんとリスペクトしているからこそのツッコミが萩本さんうれしいんだろうなとわかる。


5月4日

朝散歩がてら歩く。首相官邸や国会議事堂を横目に、日比谷公園を横切って二時間ちょいで日比谷へ。『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』をTOHOシネマズ日比谷のIMAXにて鑑賞。
ここでない何処かを、一緒に居たいはずの誰かとのありえたかもしれない人生を、それを追い求めれば人は(ダークサイドに)堕ちていく、という話をサム・ライミのお得意分野で味付けしましたという映画だった。
マルチバース・オブ・マッドネス」とついているように「マッドネス」な話だけど、年を取れば取るごとにありえたかもしれない世界や未来を夢見てしまう、という「35歳問題」の話でもある。「35歳問題」を絡めて誰かがこの映画について論じるでしょう。東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』に通じる部分もあったりする。
そして、『死霊のはらわた』のサム・ライミ監督がなぜこの映画のメガホンを取ったのかも観ていたらわかる気がした。過去という亡霊や死霊や悪霊たちが「こんな未来なんて望んでいなかったのになぜ? なぜ? 私の現実はこんな状況に陥ってしまったのだ」と語りかけてくるように、そのためにサム・ライミが必要だったんだと思う。故にその亡霊や死霊や悪霊をいかに使うがキーになるし、その意味ではダークヒーロー的な要素も含んでいた。
中年以降の人間、残り時間があきらかに無くなってきたと感じてる人にはエグく突き刺さる内容になっている。観ている僕たちはヒーローでもなければ、マルチバースを開くこともできないし、ありえたかもしれない他の自分の人生を見ることもできない。
いつか確実に終わるこの人生から逃げ出すことはできない。自死を選んだからといって逃げられるとは限らない。だから、人には物語や芸術というものが必要なんだと思う。だけど、物語や芸術によって縛られてしまうこともある。だからこそ、当たり前の日常とうまく付き合っていきながら、喜怒哀楽の感情をできるだけ、内側に溜めずに外側に出すしかバランスは取れないんじゃないかなとも思う。
今の現実世界を描こうとしたら平行世界やこのマルチバースみたいにいくつかのレイヤーを重ねるしかない。僕たちの現実世界は単純な「大きな物語」から冷戦終結以降に解放され、放逐され、インターネットによって複数のレイヤーがあることを知った中で生きてしまっているから。
ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』は明らかにフィクションだけど、その複数で複雑なレイヤーは僕には違和感なかった。
ありえたかもしれない未来ほど、人の心を捉えて呪い、がんじがらめにできるものなんてないから。

 

5月5日

GW期間中、朝か晩か朝晩と仕事が入っていないのがこの日だけだった。久しぶりのほんとうに何もない休みだったので、なにか観たいなと思ったのでヒューマントラスト渋谷で開催中の「ジャック・リヴェット映画祭」の中のひとつ『北の橋』を観に行った。

セリーヌとジュリーは舟でゆく』が「不思議の国のアリス」ならば、ビュル・オジェと実娘のパスカル・オジェ共演作である本作はリヴェット版現代の「ドン・キホーテ」。ビュルとパスカルは撮影前にリヴェットに渡された「ドン・キホーテ」に魅了されたのだと言う。突然現れた閉所恐怖症の女テロリストのために、彼女の昔の恋人との連絡を引き受ける少女バチストは鎧の代わりに革ジャンを羽織り、馬の代わりにバイク、兜の代わりにヘルメットをかぶってドン・キホーテを演じてみせる。パリの街と符号する双六ゲームの上で、日常を生きながらにして幻想に駆られた俳優たちの身体と、現実の中から立ち現れてくるファンタジーが結びつく興味深い一編。(公式サイトより)

ほんとうに所々『ドン・キホーテ』みたいな荒唐無稽な行動をバチストは取ったりしていて、シュールなコントに見えたんだが、正直途中から眠くなってしまって三分の一ぐらい寝ていた。パリの街と符合する双六ゲームみたいなものは興味が沸いたんだけど、『アンダー・ザ・シルバーレイク』の謎を解く地図にもちょっと通じているという部分で。だけど、異様に眠くなってしまった。閉所恐怖症っていうのはわかったけど女テロリストにしては行動がいろいろ迂闊というかテロリストに見えなかった。


映画を観終わってから日差しが初夏じゃんっていう中を歩いて家に戻って一度荷物を置いてから、トワイライライトに向かう。小山義人さんの個展が開催中で、小山さんのイラストが装丁に使われている町屋良平著『ほんのこども』が気になっていたので購入。読み始めたけど、これは語り手が語る人物と混ざり合っていってしまうという話なのかな。

大恐慌へのラジオデイズ 第72回「アルファベット2文字の怪物」

「天才」についての菊地成孔さんの話はいつもおもしろい。前に菊池さんと佐々木敦さんとの対談の時にも「天才」とは家族(国家)からの抑圧から生まれるという話をされていたが、今回語っていることで言えば、「天才」はある種部屋の中でガスが終始充満している状態になっている人という話。あとは着火するだけなんだけど、着火しないまま世に出て行かない人もいる。菊地さんが音楽をやってきた中で見てきた「天才」との仕事の中で、自分の役割はチャッカマンなんだという話だった。
おそらく、自分で着火できちゃう「天才」もいるんだろうが、いろんなジャンルにおいてあとは着火だけという「天才」が大爆発させるきっかけとしてのチャッカマンとしてプロデューサーだったり編集者だったりみたいな存在がいるのだろう。でも、「天才」は人の意見を聞かないとも言っているから、チャッカマンの役割はコントロールすることでもなく、たぶんコントロールなんかできないだろうし、存在して関わることで着火することになるのだろう。あと「天才」は家族と仲いいって話も前に佐々木さんとの時にも話してた。


5月6日

朝と晩リモートワーク。一服がてらニコラでピスタチオと木苺のブリュレとアルヴァーブレンド。明日は雨という予報だったが、ズレたのかほとんど雨は降らないみたい。しかし、朝晩と椅子にずっと座っているのはやっぱりしんどい。

ニコラの前に本屋に行ったが、お目当ての『新潮』6月号は明日の7日発売だったみたいでなかった。町屋良平著『ほんのこども』は寝る前に読み終わった。物語を書いている町屋さんとほぼ同一人物に見える小説家が、父が母を殺し、彼もやがて人を殺めてしまったかつての同級生について書き始めるのだが、その境界線が崩れてっダブっていく、生きることを描くというよりも殺意や暴力や悪意について描いていくことでナチスドイツのホロコーストにまで想像力は及び、その歴史と作家の移行と意識がかつての友人とも混ざり合っていくというものだが、すごく心に澱のようなものを、それがなにかはうまく掴めていないが残るような不思議な、いや不穏な作品だった。その町屋さんの新連載と蓮實重彦が寄稿した「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が読みたい。

 

5月7日

雨が降りそうで降らない中、歩いて六本木ヒルズのTOHOシネマズ六本木に行く。公開日に観た『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』2回目をTCX(TOHO CINEMAS EXTRA LARGE SCREEN)で。観やすいところにしようと思ったのでプレミアシートにしたが、あれって観やすい場所でちょっとシートがいいぐらいで価格としては高すぎる気はする。
やはりディズニープラスで配信中の『ワンダ・ビジョン』を見ておいた方がいいに越したことはない作品だと思うのだが、見たらワンダことスカーレット・ウィッチにすごく感情移入しちゃうのかなって思う。だって、スカーレット・ウィッチが自分の息子たちとの生活を夢見た結果、暴走して最終的に自分でケツを拭くという展開がこの作品であり、その原因として『ワンダ・ビジョン』があるということだろうから。
というわけでMCUの拡張していく世界観に全部付き合うのはなんか嫌だ!という性格のためディズニープラスには加入しないまま映画館で公開されるMCUだけを観ようとしている人です。
そうするとどうなるか、1回目と同じでドクター・ストレンジのクリスティーンとのありえたかもしれなかった可能性という「35歳問題」について考え、最後のなんというのか悪霊たちを取り込んだゾンビフォームみたいなストレンジのダークヒーローさはカッコいいなと思いながら、大画面を楽しんでいた。作中に出てくる「イルミナティ」メンバーに関してはまったくわからないのだけど、ほかのドラマや作品になんらかの形で出てきてたキャラクターなんだろうな、でも、『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』でも超サプライズを楽しんでしまったので拍子抜けした感じはあったりした。
前回と今回で予告編を観た『ソー/ラブ&サンダー』には「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」メンバーが出るみたいなのでそれを楽しみに観にいっちゃうだろうな。これまでの「ソー」シリーズは観たことがないのだが。


毎月お楽しみな『群像』連載中の古川さんの『の、すべて』今月号は休載。先月、雉鳩荘でそのことについて話は伺っていた。その理由と休載における編集部の判断は作家への信頼だなあ、と思った。
多くなくても、自分の周りのいる信頼がおけるわずかな人には、信頼される生き方というか姿勢を見せていくしかないんだよなあ、とお二人と一緒に過ごさせてもらって感じた。
というわけで、今月は文芸誌を買わないかなあと思っていたけど、蓮實重彦氏による「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が読みたくて『新潮』を買った。
来週からテアトル新宿で『ユリイカ』のデジタル・マスター完全版が公開なので、それだけはスクリーンで観ようと思ってる。ビデオでしか観たことがなかったから。



蓮實さんの「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」を読んで、先日近くのブックオフ蓮實重彦黒沢清青山真治著『映画長話』があったのを思い出して買いに行き、最初の鼎談を読む。先日観に行って正直三分の一近く寝てしまったリヴェットの『北の橋』の話がされていた。
サム・ライミ監督が『スパイダーマン3』を撮ったという話からサム・ライミとブロックバスターについての話が出ていた。この鼎談本は2011年にリトルモアから一冊の本として刊行されている。この部分は2008年の収録のものだと最後に書かれていた。その時から14年後、刊行後11年後の2022年にサム・ライミ監督作『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』が公開されているというのが現在の時間。僕は今日2回目をTCXで観た。
この鼎談では最年少である青山さんは蓮實さんを「叔父」、黒沢さんを「年上の従兄」という感じで世代の違いについて最初に書いている。そもそもこの3人は立教大学の蓮實ゼミにおける「先生」と「ゼミ生」(黒沢・青山)であり、「監督」(黒沢)と「元助監督」(青山)という関係性でもある。『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督は学生時代に黒沢清監督に指導を受けていたわけだから、そういう師弟というか先生と生徒の流れがあったわけで、そこには当然ながら創作と批評の関係性があって、引き渡しながら引き受けた流れにおけるひとつの大きな結果だったんだろう。
しかし、青山真治監督は亡くなってしまい、蓮實重彦さんがその追悼文を書いている『新潮』を読んで、『映画長話』を読むと時間の流れを感じる、そういう日だった。

 

5月8日

第63回メフィスト賞受賞作家・潮谷験作品をデビュー作『スイッチ 悪意の実験』、二作目『時空犯』、三作目『エンドロール』と続けて読んでいる。メフィスト賞が新しいフェーズに入った感じもするし、復権を担う柱になりそうな作家さんだな、と改めて思う。時勢との距離感とある種の批評性がありながら、それらをミステリーにうまく混ぜこんでいる。まだ、第4章が読み終わったばかりだが、あるネット番組で三対三での「自殺」について肯定派と否定派が意見を戦わすという場面だったが、肯定側の「自殺」をしようと決めている人たち三人は作家、サッカー、ユーチューバーになりたかったがなれなかった人たちであり、否定側の三人(主人公たち)は同じく作家、サッカー、ユーチューバーとして成功し一定の評価を得ている人たちであり、その構図における問題や気持ちについてすごくうまいというか、読者の感情を揺らす場面だと思った。僕もそうだが、たいていの人は肯定側の人たちのように夢を叶えることができなかった人たちであり、『スイッチ 悪意の実験』の時にも描いていた「悪意」に近い人間の負の感情との付き合い方とか現実と理想の間での人の生き方をミステリーの中で書ける人が潮谷験という作家なんじゃないかなって感じた。

スーパーで買い物をして帰っている途中、ほとんど家の前というあたりで知り合いの方とすれ違った。マスクはしているものの、お互いに「あの人だ」と思った状態でおじぎして少しだけご挨拶をした。顔はわかるんだが、すぐにお名前が出てこなかった。連載させてもらっていた媒体の編集者さんで、担当の編集者さんの上司的な立場の方だった。何度か近所で会ったこともあるのに名前が出てこない。とりあえず、担当さんの名前を脳裏内で思い出し、下の名前が先に浮かんでそこからすぐには苗字も出てきた。そこからその担当さんがたまに書いていたその上司の苗字を思い出そうとした。家に着いてから、洗濯が終わったものを洗濯機から出して干していた。スマホで担当さんのメールを検索すればすぐに上司の人の名前も出るはずだが、そういうことばっかりしているからいろんなことを忘れていってしまうと思って、思い出そうとして考えていた。物干し竿にバスタオルやTシャツを干していたら、急にすれちがって挨拶した人の苗字が浮かんできた。浮かんだからなんだって話だけど、スマホに頼らなくてよかった気がした。

NHKドラマ『17才の帝国』:吉田玲子脚本(「けいおん!」「ガールズ&パンツァー」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「平家物語」等)×神尾楓珠&山田杏奈&河合優実&望月歩染谷将太(帝国の若き閣僚たち)×星野源(狭間で苦悩する政治家)×佐野亜裕美プロデューサー(「カルテット」「大豆田とわ子と三人の元夫」)という座組みの強さ、というかこの座組みができるのがNHKというか。しかも、きちんとオリジナル作品。

「舞台は202X年。日本は深い閉塞感に包まれ、世界からは斜陽国の烙印を押されている。出口のない状況を打破するため、総理・鷲田はあるプロジェクトを立ち上げた。「Utopi-AI」、通称UA(ウーア)構想。全国からリーダーをAIで選抜し、退廃した都市の統治を担わせる実験プロジェクトである。若者が政治を担えない理由は、「経験」の少なさだと言われてきた。AIは、一人の人間が到底「経験」し得ない、膨大な量のデータを持っている。つまり、AIによっていくらでも「経験」は補えるのだ。それを証明するかの如く、AIが首相に選んだのは、若く未熟ながらも理想の社会を求める、17才の少年・真木亜蘭(まきあらん)。他のメンバーも全員20才前後の若者だった。真木は、仲間とともにAIを駆使し改革を進め、衰退しかけていた地方都市を、実験都市ウーアとして生まれ変わらせていく―。」

 

5月9日
朝と晩ともにリモートワーク。途中、週一回の整骨院に行ってほぐしてもらって電気をあててもらう。椅子に座ってずっとパソコンを打っているから体がどうしても前傾になってしまい、元々肩甲骨がガチガチなので余計に体が固まってしまう。最近寒くなってきたのもあるけど、梅雨ではないのだろうが気圧の変化で頭痛かなと思っていたのだけど、それと前傾姿勢のせいで首とか肩が固まってしまって血とリンパの流れが悪くなって頭痛になっている可能性もあるという話を聞いた。毎日湯船には浸かっているけど、肩甲骨を動かさないとやっぱり悪化するだけだなあ。

9日に日付が変わる頃に『17才の帝国』一話をNHKプラスで見始めた。日付が変わる前には大河ドラマ『鎌倉殿13人』を見ていて、今期ドラマでしっかり見ているのが『鎌倉殿13人』ぐらいしかない。源平合戦最後の壇ノ浦の戦い菅田将暉演じる源義経が舟から舟へと舞うように飛んでいく、那須与一の扇の的のシーンはなく、安徳天皇三種の神器のひとつである草薙剣が海へ沈んでいった回だった。戦の天才である義経は平家を倒してしまえば誰と戦えばいいのか?と問うように、選ばれた存在だった彼はもうひとりの天に選ばれた兄の源頼朝にとって邪魔な存在になってしまう。ここから二話ほどは義経の最後へと向かっていく、源平合戦とは違う悲しい話になっていくのだろう。しかし、源義経菅田将暉が演じたのはほんとうに素晴らしいキャスティングだと思う。
同じくNHKドラマである『17才の帝国』もおそらく五話全部見そうな感じ。年を取ったらNHKへという気もしなくがないが、やっぱり放送局として強いってのは作品のクオリティに関係している。もちろん、受信料というお金があるわけだけど。


寝る前に買ったままだった内田百閒著『百鬼園随筆集』を読み始める。最初のいくつかを読んでから、最後の解説は誰が書いているのだろうかと思って見てみたら川上弘美さんだった。なんだか川上弘美さんの文章によく触れている五月。


5月10日

休憩時間に散歩がてらジュンク堂書店渋谷店に行った帰りに、246と旧山手通りの交差点で信号待ちをしていたら、電子盤みたいなところにあるステッカーにFNCYのステッカーが貼ってあった。ちょっと親近感。

FNCY - Live digest @ WWW presents dots




ジュンク堂書店渋谷店に行ったのはスタインベック著『怒りの葡萄』を書いたかったから。初生雛鑑別師だった大叔父のノンフィクションの資料として1939年ぐらいが舞台でカルフォルニア州が出てくる作品として検索したら出てきた。正直名前は知っているけど読んだことのないスタインベック。上下巻でかなりのボリューム。

文庫の新刊コーナーに文春文庫の新しく発売になったものが面出しされていた。平野紗季子著『生まれた時からアルデンテ』は前に書店で見て気になっていたやつで、食に関するエッセイとしてはスタンダードなものとして名前もよく聞いていたものだった。千葉雅也著『アメリカ紀行』は単行本の時に読んでいなかったので、『生まれた時からアルデンテ』と一緒に買うのはなんかいいなと思った。
小説も長編と短編集を何冊か併読しているけど、エッセイもあったほうが個人的には同時並行で読む際にいい気分転換になる。


5月11日
『新潮』2022年1月号掲載の古川日出男現代語訳「紫式部日記」読んでいたから、2024年の紫式部が主人公の大河ドラマ『光る君へ』気になる。

平家物語』と『犬王』のアニメ化によるいろんなメディアへの稼働で、古川さん自身がいちばん大事にしている小説執筆のスケジュールが崩れちゃったりしている部分があるんだろうなと思う。だから、話題になったりヒットするのはいい部分と悪い部分は相応にあるんだろう。
オウム真理教をテーマにした『曼陀羅華X』だって、東日本大震災の早すぎる風化とつながっているし、東日本大震災が1000年に一度の大災厄と言われるからこそ、1000年前の日本というところから『源氏物語』を描いた日本で最初の小説家としての紫式部先輩のことを学び直そうとして『源氏物語』を読み直したり訳したりしていたら、池澤夏樹さんから『平家物語』の現代語訳の話がきて、という流れがある。そして、依頼があったわけでなく、ご自身でやりたくて『紫式部日記』現代語訳を書いたものが『新潮』に掲載された。つまり、これらは東日本大震災という出来事から巡り巡っている。
もちろん、『平家物語』現代語訳や『平家物語 犬王の巻』も『紫式部日記』現代語訳も素晴らしいんだけど、『ミライミライ』『おおきな森』『曼陀羅華X』なんて異常だよ。破格な小説なのに、そういうものがもっと読まれてほしいし、きちんと評価されてほしいし、ノンフィクション『ゼロエフ』も読んでほしい。だから、アニメ『平家物語』の始まりにある現代語訳だって2011年の東日本大震災から繋がってるんだよ、あれは震災文学としても語り継がれたものなんだよ、ということの意味は大きいけど、そういうことは漂白されて消費されていく。

 


仕事終わってからニコラでアメリカンチェリーとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをば。


白石和彌監督『死刑にいたる病』をシネクイント渋谷で昨日の最終回に鑑賞。映画館に着くとちょうど前の回の上映が終わったらしくかなりの人たちがロビーを下に降りるエスカレーター待ちをしていた。若い20代前半の女性客がほとんどである。ふむ、謎だ。この映画どう考えても若い女性客がこんなにも来るようなものには思えない。なんでだっけなあと思って、主役は阿部サダヲと岡田健史だから、岡田ファンだとしても言い方は悪いが平日でサービスデーだからってこんなに来るほどブレイクしてるかな、とか思って公式サイト見たら、メインキャストの一人が三代目とエグザイルな岩田剛典だった。
ああ、これか、これしか若い女性が観に行きている理由は思い当たらない。最終的にはイヤミスな感じの作品だったから、ある程度はリーチする層なのかなあ。
連続殺人事件の犯人で死刑囚の榛村(阿部サダヲ)から手紙をもらった大学生の筧井(岡田健史)が、死刑囚に殺人事件の一件だけ自分ではない誰かが犯人でそれを探してほしいと言われるという内容。
メインキャストが阿部サダヲ、岡田健史、岩田剛典、中山美穂だから、最終的なオチはこの中の誰かなんだろうなって思うんだけど、岩田が演じた金山という人物が超思わせぶりなキャラで幼少期に顔が傷ついてそれを隠すための長髪でいかにも怪しいっていう感じだから、まあ前フリじゃんって思うし、中山美穂さんは岡田の母だから、基本的には真犯人じゃないけど秘密はあるんだろうなっていう。で、主人公の岡田が犯人とかだったら『メメント』だからありえない。死刑囚と大学生は面会室で透明な仕切り越しに話をしていくわけで、どう考えても物語のラストシーンはそこに終結するしかないから、阿部サダヲがなんかやってんだろうなと岩田がいかにも怪しい感じで出てきた時に思った。
キャストで犯人予想ってある程度できる。ドラマ『流星の絆』とかなら、東野圭吾読んだことなくてもメインの三兄弟妹と向き合って最終回で画になるのは誰だって考えれば、最初から彼らの両親を殺した犯人なんて一人しかいない。単純にミステリー小説を映像化する時にどうしても犯人はキャスティングでわかっちゃう部分がある。だから、そこの塩梅が難しいと思うし、小説で最初に読んでおいた方がミステリー的な要素は楽しめるんじゃないかなと思う。
そもそもある程度文量のある作品を二時間ちょっとで映像化しようとするとどうしても細部とか省いちゃうから、連続ドラマとかのほうがミステリーは向いてるんだろう。ミステリーがドラマ化するのが増えたりするのは、最終的に犯人がわかるっていうことが大きくて、犯罪という問いに対して犯人という答えがある。

「平成」に入ってからミステリー小説がエンタメでもより大きなものになっていった背景ってやっぱり時代がどうなるかわからなくなっていったから、人々の「答え」がほしいという気持ちと呼応してた部分もあるんじゃないかなって思う。日常の謎が定番化したのとかって日々のふとした身近なところで起きたことにも原因や答えはあるって思いたいってこともあったのだろうか。でも、人生って意味不明なことばっかり起きるわけで、答えがあると思い出したらけっこうきついと思うんだよなあ。だから、ミステリーはエンタメとして非常に優れているし、書き手にしても最高の遊戯だと思うけど、実人生と半歩ズレたリアルぐらいな気持ちのほうがいいのかも。
『死刑にいたる病』は犯人とかのネタバレとかはどうでもよくて、実際にイヤミスっぽいなと思ったのはこの作品で取り扱っている「洗脳」や「マインドコントロール」が実は大きな要素になっているところ。
死刑囚榛村のいちばんヤバいのは何十人殺して、その度に手順通りに少しずつ痛めつけて処分するっていうこともなんだけど、「洗脳」や「マインドコントロール」の力においてで、基本的にこの作品における登場人物たちはその力の支配下に置かれている。正直それが一番怖いんだよね。
これって「尼崎事件」とかいろんな事件でもあるけど、他人を「洗脳」したり「マインドコントロール」できるっていう能力がある人は実際にいて、自覚してそれを意図的に使い始めると支配下の人たちは逆らえないし、その掌で踊らされて自らの手で人を殺めたりとかしてしまう。その場合は、真の犯人は手を下さなくてもいいわけで、殺人とかで立証するのがかなり難しくなってくる。
この辺りはほんとうに難しくて承認欲求が強い人とか、自己評価が低い人なんかは「洗脳」されたり、「マインドコントロール」されやすかったりする。その際に、言われていることを実行すればいいわけだから気は楽というか、「自分でなにかを決めない、決められない」という人はそういう人に支配されやすくもなる。ある種のカルトや宗教っていうのはそういう部分がある。

【ガチトークキングコング西野 後編 なぜ僕は叩かれる?西野ぶっちゃける!

知識がない科学は宗教に見える

と佐久間さんがキングコングの西野さんとの対談の時に言われていた。
西野さんにインタビューさせてもらったこともあるし、西野さんがやっていることはおもしろいと思っている。でも、たしかに彼がやっていることをある程度わかったり知っていないと宗教には見えるというのもわかる。
僕は個人的には集団というものが苦手なのでおもしろそうだなって何度か顔を出しても、そのうち集団の顔ぶれが決まってきたり、数が膨れ出してくるとそこから基本的には距離を取る。
これは漫画家の西島大介さんにインタビューした時に聞いたことが大きくて、西島さんはゼロ年代初頭には東浩紀さんとか言論的な場所に近いところにいたけど、群れてはいなかった。僕はわりと西島さんにはシンパシーをずっと感じてる。
基本的にルサンチマンを抱えた人たちが集団になって群れ始めると、特に男性が多い場所ではホモソーシャル化して内ゲバが起きて崩壊する。一人の女性(別に男性でもありえるけど)がサークルクラッシャーとなるということもあるだろうけど、それは基本的にはキッカケでしかないような気もする。
集団が持続していくためにはそれぞれがリア充的にそれ以外の場所に居場所があって、その集団においての序列がはっきりしている場合だけなんじゃないかなと思う。
映画における死刑囚榛村の他者への「洗脳」と「マインドコントロール」ぶりを見て、場を支配する力を持つということはそういう力が少なくてもあるということだろうし、カリスマ性ってそれが基本的には軸にあるのかなって思う。他者と距離感をどう取るかっていうことの難しさについて思う。


上京して20年。ミニシアター系を観るためにゼロ年代初頭の2002年からいちばん足を運んでいる街は渋谷。エイチ・アンド・エムはブックファースト渋谷だったし、とかとか変わり続けて、開発によって渋谷は姿を留めないからかつての風景が忘却されていく、健忘症になれる街、わずかな記憶の風景たちと現在のレイヤーが重なる。マルチバースメタバースみたいなものがひとりの人間の中にすらある。死んでいった者たち、今生きている僕たち、これから生まれてくる者たち、のすべてのあらゆる可能性がどこかにあるんだと思う。それを浄土みたいな言い方をするのかもしれない、悟りを開いたらいけるのかもしれない、次元を越えるみたいなことなんだと昔から思ってる。たぶん四次元や五次元とかの先にある場所。ふつうに考えたみんなそんなところに行けるはずもないから、死んだらただの無、終わるだけ。無になるのは耐えきれないから、死後の世界と宗教が必要だった。そこにはどうしても物語の力が必要だったし、利用しなければ人は死に耐えきれなかった。そこから芸術は生まれたし、育まれた。儀式とは神話の反復であり、儀式をすることは型をトレースすることだった。前に虫歯になって詰めものをした奥歯が痛い、この痛みにわずかな人生の根拠を感じる。詰めものを外したところに四次元や五次元とかの入り口があるかもしれないが僕にはそこに入り込む力はない。

 

5月12日
菊地成孔の日記2022年5月12日午前4時記す>

菊地さんが書いた上島竜兵さんのことから、前回書ききれなかった玉袋筋太郎さんと「町中華で飲ろうぜ」について、太田プロのことから玉袋さん&水道橋博士さんの浅草キッドのことから江頭さんと出川さんのことへ、そして上島竜兵さんのことへ。

僕は何年か前に、この日記で「老いたる者の義務として、これから死を表現する」と書いた。しかしそれは、死そのものを見せることでは無い。死神とダンスすることである。

一度だけ上島竜兵さんを生で見たことがあった。しかも、その現場は芸人にとっての戦場だった。
僕は『アメトーーク』の「竜兵会vs出川ファミリー」の収録の観覧をしたからだ。応募したら普通に当たったのでバイト先の友人と二人でテレ朝に行った。『アメトーーク』の観覧席には何人かの女性が帽子を被っている。それはカメラが観客席を撮る時にわかりやすい目安としてで、その日もそんな感じで帽子を渡して被らせていた。テレビでも映る場所は基本的には女性で、僕と友人みたいな男同士で来ている人はほぼいなかった気がする。そんなわけで僕は一番上の段の一番端っこに座って観覧した。その後、テレビを見たら大爆笑をしている僕らもチラッと映っていた。だけど、今はDVDもないし、その確認はできない。
調べてみると2007年5月31日(木)に放送された回なので、その一ヶ月前とかに観覧に行ったのだと思う。
<竜兵会>上島竜兵肥後克広土田晃之安田和博有吉弘行カンニング竹山
<出川ファミリー>出川哲朗よゐこウド鈴木&千秋、
というメンツだった。
天下人になる前の有吉さんがいたようだがほとんど記憶にはない。出川さんが今みたいに好感度が上がるちょっと前だったような気がする。観覧に来ていた女性客からうれしい悲鳴ではないものが上がっていたような気がする。
竜兵会と出川ファミリーそれぞれのチームプレーを堪能し、ザリガニとのバトルを涙を流しながら笑った。あの時のイメージでは出川さんがいちばん印象に残った。
と書いたが昔書いた自分のブログで「竜兵会」で検索してみると、

2008年08月14日に

そういえば、「クイックジャパン」の最新号は「アメトーーク」特集。また「出川ファミリーVS竜兵会」やってほしいな、観覧に行って大爆笑して笑いすぎて泣いたから。芸人としての生き様を魅せてくれた出川さんと竜兵さんには本当にリスペクト。最近、元猿岩石の有吉がおもしろくなっていていい、「アメトーーク」である種復活した感じもあるしなあ。出川さんと竜兵さんは本当に半年に一度ぐらいは見たい。


2009年04月12日に

やばい、色んな映画が今月観たいけど「鴨川ホルモー」「スラムドッグ$ミリオネア」「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」とかあるんだけどこの「上島ジェーン」は観に行きたいなあ。
 なんか「その時…上島が動いた 」「ノーマニフェスト for UESHIMA」で爆笑した僕にはたぶん好きな作品っぽいし、やる映画館がシアターN渋谷のレイトショー、ここで観た過去のレイトショーは「ヅラ刑事」「少林老女」とくだらなすぎて笑えるものだったのでちょいと期待。
 地獄を見てきて復活した男、ある意味では聖闘士星矢のイッキのような有吉さんも一緒に出てるので上島さんとの絡みはおもしろそうだ。「ノーマニフェスト for UESHIMA」ではかなり爆笑したし。
 一度「アメトーーク」の観覧に行ったときが「竜兵会vs出川ファミリー」でその時の竜兵さんと出川さんのリアクション芸人として生き様を見てから尊敬できるというかやっぱり「さん」づけしなきゃって思うようになった。周りのサポートも抜群なのだけどね。


2009年07月16日に

アメトーーク」のDVDが出たので買おうか迷っててもしかしたらって思ったらもうレンタルしてた。ダメじゃん、売れないよ。ということでレンタルに走った。最新刊の4〜6巻で観たいと思うのは4巻収録の「竜兵会」、五巻収録の「出川ナイト」、六巻収録の「板尾創路伝説」だった。これが一巻にまとまっていたら即買いなんだけどなあ。
 で「出川ナイト」を見たかったので五巻を借りた。五巻には「エヴァンゲリオン芸人」と「ひな壇芸人」と関根さんのモノマネが、でも「出川ナイト」だけを見た、「出川大陸」とか久しぶりに声だして笑ってしまった。他は一切見てない。「出川ナイト」だけ繰り返し見た。これに「竜兵会」と「板尾創路伝説」があったら最高なのに、きちんとバラして収録してる。わかってるなあテレ朝というよりはプロデューサーの加地さんだっけ?「ロンハー」でもプロデューサーの人。
 本当にDVDに収録してほしいのは一度だけ観覧に行った「竜兵会vs出川ファミリー」の回。あれは笑いの神が降臨してた。


2009年07月29日に

アメトーーク」DVD4巻を借りたのを見る。「ガンダム芸人VS越中四郎芸人」「ハンサム芸人」「竜兵会」が収録。「ハンサム芸人」は放送時に見て面白くなかったので飛ばして一度も見なかった。「ガンダム芸人VS越中四郎芸人」はやっぱりケンコバさんが面白いって!!、やってやるんだって!のノリを通していて面白いし、ガンダム芸人に土田さんと品川さんがいるので安定感があり面白かった。
 「竜兵会」はメインというかリーダーなのにイジラレる竜兵さんと周りのチームワークがいい、「出川ファミリー」と同じく「アメトーーク」らしい企画でまたやってほしい。


2009年10月23日に

アメトーーク」はスペの残りというかある意味ではレギュラー放送はお休み的な「中学の時イケてない芸人」で、これは共感する人は多いだろうな、面白いし。僕は高校の修学旅行の時にずっと部屋で友達と金かけて大富豪してたな。
 以前に糸井重里さんと森達也さんが本の出版記念トークで糸井さんが「アメトーーク」は面白いと森さんに勧めてたけど「ほぼ日」で糸井さんと番組Pの加地さんの対談コーナーが出てきた。
 一度「アメトーーク」の竜兵会vs出川ファミリー観覧行った時に加地Pを観たけどめっちゃ番組中に笑ってたのが印象的だったな、笑い好きな人なのがわかるっていうか、あとすげえ背があるのに細いから記憶に残ってた。


2009年11月07日に

アメトーーク」の「TKFたむらけんじファミリー」を見る。この「ファミリー」シリーズでは「竜兵会」「出川ファミリー」と並んでファミリーの長である人物が後輩やそのファミリーの一員に逆に可愛がられている感じがする。
 芸人さんのバラエティにおけるひな壇でのポジショニングなどは一般社会においてもかなり参考になる。自分をいかに客観視してその集団における自分の仕事をいかにこなすかという部分で芸人集団は個々の力が弱くても団結力で倍増させる。
 が、一般の会社に当てはめる時に問題になりそうなのがトップだ。バラエティならば司会がいかに仕切るかという力量によって芸人集団の力量は発揮できたりできなかったりする。ここで誰に振るか、合図を送って前に出すか等は場の空気を読めて流れを構築できる人物でないと辛い。
 多々、できない人物が司会な場合には周りの芸人集団がそれすら手伝うか、補佐的な役割をする。一般の会社では使えない上司のために被害を被るのは部下でしかないし、普通は補佐できない。
 ファミリー的な集団を形成する芸人のボスであるたむらけんじさんや上島竜兵さんに出川哲朗さんは基本的に仕切りが上手いというわけでもないし、トークがそれほど巧いわけでもない。しかし、周りに人が集まると言う人望があるというのは彼らの才能だったり実力だろう。
 仕事もできなくて人望もない人間には人はついて行かないが、人望で人はついてきたりする。そうやって人が集まるという磁場を作れる人は周りの補佐や助けによって成功したりする。
 年功序列や終身雇用制というシステムが崩壊していっているのに、就職した若年層はそれを強く求める傾向が出ていると言う。同じ会社に定年まで務めたいと思う割合がロスジェネ世代が就職した時期は低くなっていたのに対してそれ以降の世代で就職した若年層は一気に上がる。
 不安が勝る時代に安定することを望むのは当然の事なんだろう。そういう時代に先輩が後輩を可愛がり、後輩が先輩を慕う芸人の集団の中に古き良き会社員の上下関係が垣間見て微笑ましく羨ましく思う人は多いと思う。
 だけど彼らは同じ事務所に所属していても基本的にはフリーランスのような仕事で実力や才能、おまけに運がないと売れない。しかも芸人と言う職業はまったくもって超不安定な職だ。人気稼業は超が付く不安定さ。
 普段可愛がっていても実力がないものはテレビにも呼ばないし出せないという現実がある。というシビアな部分が背景にあるのも事実。
 まあ、大事なのは人に可愛がられる程度の愛想ぐらいは必要ということだろう。まあそれが時に徒になるタイプの人もいるけど。
 圧倒的なカリスマ性があれば嫌でもいろんな人が近づいてくるだろうけどほとんどの人にそれは皆無だから、愛想ぐらいは必要だろうなと「アメトーーク」を見ながら考えてみたりする。


2014年05月26日に、

「格付けしあうマンガ家たち」というのが出てきたので話は少し逸れて加地倫三著『たくらむ技術』(新潮新書)の話を、まあそれが「格付けしあうマンガ家たち」の元ネタに繋がるわけで。
加地倫三という名前にピンとこなくてもテレビ朝日の『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』のプロデューサーだというとピンとくる人もいるかもしれませんし、両番組でスタッフなのにたまにテレビに映っていて指示を出してたり爆笑している人です。
この間の『ロンドンハーツ』スペシャルのドッキリVTRで酔っぱらったターゲットに呼ばれたロンブー淳さんが部屋に入ってきた瞬間に、加地さんは理由をひとことも話すことなくアイコンタクトをすると、それで淳さんは「ああドッキリね、了解」と理解したという瞬間が放送されていて改めて「この人たちとんでもない信頼関係と共犯関係を続けてるんだな」と思わされました。
新書では勝ち続けるために一定の負けをしておくとか、勝っている時にきちんと次の一手を打っておくとか、気配りやしたいことのために必要なスキルや言葉遣い、行動などについて書かれているが面白いことをするために必要なものとして体験から書かれているのでもちろん納得。
まあ実際に番組も面白いしそういう裏側がしっかりあるんだなと得した感じです。
一度『アメトーーク!』の観覧が当たって「竜兵会vs出川ファミリー」を観に行った時に涙が出てひき笑いになってしまうぐらいに笑いまくったんですがその時フロアにいた加地さんもかなり視界に入りました。
ステージというかスタッフの中では最前線にいる感じでカンペ出しながらすごく笑って楽しんでいるのを見てこの番組が強い理由がわかったような気がしてたんですが新書を読んでさらに納得したというか。
そりゃあ面白いものに貪欲な人がプロデューサーで演者と意思疎通してれば強いわと。
仕事論でもあるけどやりたいことをするために何がプラスαできてるとうまくいくかって考えるきっかけになる一冊でした。
だから『ひらマン』と共にオススメです。

ということを書いていた。この頃、特にゼロ年代後半は「アメトーーク」にめっちゃハマってたんだろうなと思う。こうやって残っているとあの時ってどうだったんだっけなと読み直せるのはありがたい。
この「竜兵会vs出川ファミリー」の前にも僕は『ダウンタウンガキの使いやあらへんで!』の「山崎邦正VSモリマン」の観覧にも当たって観に行っている。たぶん、この二つを生で観たということはお笑い好きな人には自慢できることだろう。その何年かあとに下記のようなことを書いていた。

2008年04月14日に

ガキの使いやあらへんで」の毎年恒例「さようなら山崎邦正」をバイトから帰って朝一で見てます。
 この人の顔芸っつうか顔はおもろいっすわあ。
  山崎さんがおもしろくないという人はたくさんいるけども、実際にオモシロクないことが多いけども、存在がもうおもしろい。 正直昔は彼を見てもなんで出てるんだろうと思ってました。
 年齢を重ねるとどんどんおもしろくなっていってます。最近は彼の作った顔だけでツボにハマります、たぶん病気ですね一種の。
 昔松ちゃんがこんなニュアンスのことを言ってました。「山崎邦正というすべる、おもしろくない(松ちゃんから見たらおもしろいが世間的にはおもしろいと思えない)芸人がいることで他の芸人が活きる、おもしろくなる」と。
 これは一般的な組織にも言えると思うんです、釣りバカのハマちゃんみたいなもんでしょうか。仕事はそんなにも出来ないけど場の空気をよくする人、みんなから虐められるのではなくイジられる人っていると思いますが、今の社会ってそういう人はいらないわけですよね。
 仕事ができれば問題ないみたいな、となればそういう人だけの会社の人間関係は競争相手だけの世界でギスギスしたものになってしまうわけです。
 人間はストレスを溜めると当然どこかが悪くなるわけで、今の状況はみんながストレスを溜めやすい環境なんでしょう。
 バカすぎる親やクソなPTAがお笑い番組の罰ゲームに苦情を言います。子供が真似するだろうとかイジメを助長してるだの、そんな屑みたいなことを平気で言います。子供がテレビ局のスタッフが作った罰ゲームそのまま実践できるわけないしできたらそいつはすぐに大道具とかとして就職したらいい、真似するのは親の教育ができてないだけで良識のある子供は例え真似しても限度を考える。テレビ番組見てイジメするやつは見なくてもイジめるだろうしね。
 罰ゲームでクレームを言うことでお笑い番組の企画がどんどん潰れていきます、そのことで飯が食えなくなった芸人は死活問題です。それはイジメではないですか?正確に言うとイジメどころか職を食を奪ってます。そのことまで考えてる親やPTAはいるんでしょうか?僕は不思議です。やってること矛盾してるし、考えてなさすぎて逆に笑える。
 芸人さんは罰ゲームで痛い思いしても笑い的にはおいしいと思ってます、そういう職業だから。それを理解してない奴がお笑い番組見て平気でクレーム言うとか愚の骨頂だと思うんだけど。
 僕が人生で一番笑ったのは山崎VSモリマンの観覧に当たって生で対決を観た時です。前々回ですかね。ごぼうで殴られる邦正さんを見て涙が出まくって爆笑しました。収録の後には顎が痛くて腹筋も痛いほどでした。折れたごぼうが足下に転がってきて見たら太くてびっくりしましたが。
 もしあの番組見てごぼうで友達殴るような小学生いたら逆にすごいけどね、学校にあんかけ持っていってかけてるやついたら拍手するよ。
 テレビがつまらなくなったのは作る側と見る側のレベルの低下でしょ、テレビ局は冒険しなくなったし視聴者は文句ばっか言うし、なんかどうしても法律にしろなんにしろクリーンにしたがる奴がいるんだよなあ。
 澄んでキレイすぎる水には何にも住めないのに。清潔にしすぎたら逆に抗体なくなって菌に対する抵抗力なくなるし。そういう状態で抗体も抵抗力もないのに強力な何かに出会ったら人間は一気に持ってかれるよ、思想にしろなんにしろね。ネット規制しようがガキにエロ本見せないようにしたって、ある程度のこと逆に知らないと年取ってから知った時に暴走する。
 たぶん、最近の若手芸人が好きではないのは暴走しないからなんだよなあ、良い意味で礼儀正しくて予想の範疇の中にいて、見ててハラハラしない。誰もダウンタウンにケンカを売らない、から誰もダウンタウンを越えられない。ダウンタウンのファミリーでもある今田・東野さんは昔暴走しまくってて今はあんまりしないけど、トークレベルと芸人いじりが半端なくうまいし、芸人を活かせている。
 ダウンタウンの功罪はあまりにも完全に天下を取ってしまったから下の世代(影響された世代)がファミリーに入るか憧れの存在で誰もケンカを売れなくなってしまったことで台頭する下の世代がいないこと、僕ら思春期に完全に「ごっつ」を見てた世代(なんかロストジェネレーション世代と一致するような気も)があまりの強力な毒で彼らの笑いが価値基準になってしまっていて下の世代とか(でもナイナイは違う、ナイナイはダウンタウンに反旗は翻してないが、逆に怖れている感じ(岡村さんの浜田さんに対しての)もあるけど吉本ではナイナイは別格扱いされてるし、僕らは「めちゃイケ」が「めちゃモテ」時代から見てるから共に育った感じはある)お笑い番組で笑えなくなったことなんじゃないかなって思う。
 ロストジェネレーションと「ごっつ」リアルタイム世代ってほぼ一致してると前から思ってるんだけど誰か研究とかしてないのかな。


今とあんまり変わらないというか、違う部分もいくつかあるけど、この時期はまだ松本病との距離感とか客観視できてない頃だろうなと読み返すと思う。
でも、こういう思考はある程度は残っているし、こういう最後のガラケー世代(『あちこちオードリー』でニューヨークが言ってたやつね)って基本的には一番生殺しにされていくと思う。OSアップデートできても限界があるから機種変して本体ごと変えないといけないわけで、変わるつもりがなくても世の中が変わっていくから、結局スマホ的な身体性に置き換えるか、もはやなにも持たないかみたいな感じにもなるのかな。

 

5月13日

吉川圭三著『全力でアナウンサーしています。』(文藝春秋刊)をご恵投いただきました。
店頭に並ぶは24日と少し先のようですが、吉川さん発売おめでとうございます!
テレビ局のアナウンサーという職業って不思議ですよね。会社員だけど、タレントのように世間では顔を知られていたりする。そんなアナウンサーという職業を知っている元テレビ局員だった吉川さんだからこそ書けるエンタメ作品になっているんじゃないかな、と読むのがたのしみです。

古川日出男の現在地「時間をさかのぼって、というのは見せかけで」

文章を読むとUCLA で書かれたとあった。トランプが大統領になった年に2017年の1月から3月まで古川さん夫妻は渡米されていた。僕が遊びに行ったのは3月でこのUCLAでの朗読も見せてもらった(聞いた、体験した)のが僕にはとても不思議なことだった。
異国のアメリカの地で小泉八雲が記した「怪談」を古川さんが日本語で朗読している姿を見るというのは時間や空間やいつもの日常から逸脱していて、あの世とこの世の狭間みたいな場所にいるような浮遊感のようなものも感じた。
講演と朗読をされるらしいのだが、それを見れない(聞けない)のがとても残念だ。
いま、ちょうど千葉雅也著『アメリカ紀行』文庫本を読んでいて、また、アメリカに行きたいなあと思ったりしている。
初生雛鑑別師だった大伯父のことをノンフィクションでと思って去年ある賞というかコンテストに企画書を出した。最初の書類審査は通過してウェブ面談に進んだけど、あんまり手応えがなくて、いろんなサポート(編集者がついてくれるとか)がつく入賞的な最終3つには入らず、その下のなんか微妙なサポートがつく(編集はつかない)みたいな候補になりましたって言われたので、それじゃあ意味ないからお断りをした。
先日、偶然家の近所で「週刊ポスト」で連載に声をかけていただいた編集者さとばったりお会いした。去年の夏に週刊連載が終わってから家計がずっと沈没しかけているままだ。「週刊ポスト」主催の「小学館ノンフィクション大賞」の賞金はけっこういい。初生雛鑑別師のことをどうしようかなって考えていたところ、ばったり編集さんに会ってしまったので、去年の夏からもらえなくなってしまった原稿料をぶんどるつもりで「小学館ノンフィクション大賞」を取るしかないって思ったんだけど、あと三ヶ月だった。まあ、出すけど。
これ古川さんのことと関係なさそうなことだけど、前に雉鳩荘にお邪魔した時にマイケル・エメリックさんに呼ばれてロサンゼルスに行くって話は聞いていて、「全米日系人博物館」の話もされていた。今回の学会で多少触れるようなことがあるんじゃないかなって思うのだが。
ロスに行った時に「全米日系人博物館」を訪れていたのは、大伯父がお世話になった日系移民の人たちの第二次世界大戦時のことが知りたかったというのもあった。
前に出したコンテストでの企画書では最終的にはノンフィクション本として出して、それを元にアメリカのA24に映像化の企画を売りに行くという青写真を書いていた。
コロナパンデミックになって世界中が自由に行き来できなくなったことで、移民という故郷から離れて違う場所へ向かった人たちの希望や絶望も含めて前よりも考えるようになったのが大きかった。賞金でロサンゼルスやニューヨークに行けたらいいなと夢だけ見ておく。


小学館ノンフィクション大賞」に初生雛鑑別師の大伯父のことを書いて出すつもりなので、選考委員のひとりである星野博美さんの『転がる香港に海苔は生えない』の中古本をAmazonで頼んでいたのが届いた。何度か書店で見かけて気になっていたけど、読んだことがなかった作品。はじめて行った海外は香港だったけど、返還後だったからここで書かれているのはその前の頃のことだと思う。

 

5月14日

傘を差して朝散歩。交差点近くの建設中の建物のサイドの外壁みたいなところに液晶モニターがあるのだが、エラーなのか画面がバグっていた。ちょっとだけ立って見ていた。急に画面が乱れたり、大きく動いたあとに場面になにか映ったりしないかなと期待してたのだが、もちろんなにも起きなかった。起きたらまさにSFだったのだが。

 九〇年代から二〇〇〇年代の途中までのギャルとギャル男のガングロは、人種問題が大きな声になりにくい(ようにされてきた)日本における、だからこその、虚構の人種的アイデンティティの演出だったのではないか、と思いつく。日本においてヴァーチャルな黒人――あるいは東南アジア人、ネイティブ・アメリカンなど――になる。それは、差別されうる人種性をわざと演出することで、反転的に自らを特権化するという倒錯なのではないか。
 ガングロギャルが「男ウケ」を拒否するというのは、女性というマイナー性から人種のマイナー性に軸足を移すことで外部的存在になるということなのかもしれない。ガングロとはつまりジェンダーのrace化だった、という仮説。
 なぜ、ガングロ文化は終わったのか。二〇〇〇年代の末に。その頃には、グローバリズム化によって日本でも人種的多様性がいよいよリアルになり、「逆張り的な人種ごっこ」が時代遅れになったからではないだろうか。(千葉雅也著『アメリカ紀行』P153より)



千葉雅也著『アメリカ紀行』と一緒に買っていた平野紗季子著『生まれた時からアルデンテ』を読み始める。たぶん、前に本の名前は聞いていた書籍の文庫版だったので読んでみようと思った。
料理に関する本でいうと前に借りて読んでおもしろかったのは、澤口知之リリー・フランキー著『架空の料理 空想の食卓』、アンソニー ボーデイン著『キッチン・コンフィデンシャル』がすぐ浮かぶ。『キッチン・コンフィデンシャル』は新潮の新書版で読んだけど、数年前に土曜社から新装版が出ているのでたまに書店で見かける。
僕は料理はまったく門外漢で作ることもほとんどだし、食べに行くということもしてこなかった。ニコラに行くようになって、いろいろと曽根さんたちと話をするようになってから、ああ、しっかりと料理とかお店について二十代から行っておけばよかったと思うようになった。
TBSラジオで『菊地成孔の粋な夜電波』が始まってからシーズン1からずっと最後まで聴いていて、現在も『大恐慌へのラジオデイズ』を聴くためにビュロー菊地チャンネルに加入しているのは、菊地さんが話す内容に惹かれているわけだけど、そこには音楽と食と映画とファッションがあるからなんだと思う。
とくに色気というものに関しては食と性というものは大きくて、人間というのは入口と出口があるひとつの筒であり、それを通過していくものたちによって活かされている。もちろん、音楽や衣服というのものはその筒を包み込むものでもあって、ある種の余計なもの、贅沢なものとして文化や芸術というものはある。
いろんなお店を知っていたり、食べ歩いている人もいるけど、だからといってその人たちが本当に美食家というか、いわゆるグルメな人でもないんだなと思うことも多々ある。その人が書く文章に色気があるというわけではない、イコールではないと思うのはそういう人たちが書いている文章にまったく色気がない場合があり、男性作家に多いと感じるから。僕ももちろんそうだけど。
おそらくいろんな店を知っているとか食べ歩いている人でダサいなって思うことがあるのって、スタンプラリー的な消費になってしまっていて、ある種ビックリマンシール集めみたいなことになっているからなのだろう。お店やそこの料理人や働く人との関係ややりとりよりもこれを食べました、SNSに写真アップ!どやっ、みたいな自己顕示欲みたいなことになっちゃってるからなのかなと思う。
食における解像度や、性における解像度によってその人が持つ色気みたいなものは深度が変わってくるのだろう。
100円マックとか吉野家とかの牛丼の安すぎる価格とか食のデフレ化っていうのは日本経済の失われた30年、というか平成以降ずっと下り坂で賃金も上がらずに、他国にどんどん置いていかれる中ではありがたいことではあったわけだけど、そのせいで不景気とかマジでやばいぞみたいなことを隠すことに、勘違いさせてきた一因にもなってきた。
価格が安いことが悪いわけでもなくて、その価格帯における高低差のグラデーションが感じられなくなっていく。お金があればそのグラデーションは気分次第で味わえるけど、ない人は低価格帯のところだけにしか行けないから断絶はどんどん広がっていく。

Kendrick Lamarニューアルバム『Mr. Morale & The Big Steppers』


夜のリモートワーク中はずっとKendrick LamarのニューアルバムをYouTubeで聴いていた。配信だけなのかな、アルバムはCDとかでは出さないのだろうか。このアルバムの破壊力、カッコよさとかほんとうに凄い。Kendrick Lamarの王朝はしばらく続くだろうなと思うし、やっぱり今の時代のキングオブキングなのだろう。ワールドツアーとか発表されていたが、もちろん日本にはきてはくれない。

 

5月15日
The Smile - You Will Never Work In Television Again

ちょっとしたことでやる気はなくなってしまう。というわけで起きる時にはいろんなことが連鎖的に関係なく発生して心をざわつかせる。とりあえず、怒っても仕方ないことはできるだけ心を平穏にして読書をする。一週間ほど放置プレイしていたトマス・ピンチョン著『競売ナンバー49の叫び』の続き。中盤すぎておもしろくなってきた。たぶん、なにかの焦点が合ったのかなと感じた。
BGMはThe Smileのアルバム『A LIGHT FOR ATTRACTING ATTENTION』をずっとリピート。音楽はサブスクで聴いていない。iTunesでリリースしていたシングルはすでに購入していた。アルバムにもそれらの曲は含まれている形なので、700円ちょっとで残りの9曲ぐらいが購入することができた。シングルもそれぞれの情報をアルバム名に編集したり、トラックナンバー入れたりアルバムカバーを手動で変えたりするのはめんどうくさいが。
もうすぐ『競売ナンバー49の叫び』が読み終われば、発表された年代順に読んでいるので、次は『重力の虹』になる。そのあとは『ヴァインランド』『メイスン&ディクソン』『逆光』『LAヴァイス』『ブリーディング・エッジ』という流れ。
1990年に出版された『ヴァインランド』に関しては、それ以前に二度取材を兼ねて来日したという噂もある。この辺りのことをネタみたいに入れて書いている日本の小説家ってひとりぐらいはいそうだが。

菊地成孔の日記2022年5月14日午前5時記す>

 石野陽子、優香という2人のパートナーを持っていた頃が絶頂期で、現いしのようこは絶頂期(深夜帯固定ではなかった頃の)「志村けんのだいじょうぶだあ」と「志村けんはいかがですか?」で退任、優香は「SHIMURA-X TV」(99~)から「志村笑!(~2014)」まで実に15年弱に渡ってパートナーを務め、2年後の16年に結婚。「志村座(2015)」から志村はパートナーを失う。

 僕は、(愛する。として良いと思う)パートナーを失った2015年からの5年間が、志村けんの肉体と精神を蝕んだと思っている。<独身貴族、女優との浮名、酒飲み、愛煙家>という、よくある属性が、とうとう番組の画面の中にまで侵食し始めた時代である。

 優香勇退後の「志村の時間」「志村の夜」では、「酔っ払ってセリフが落ち、そのまま真っ赤な顔の苦笑でコント終了」というテイクさえ当たり前になってくる。後の、感染症に対する免疫の弱さ、既往症による生命力の弱体化は、この時期、急速に進む。繰り替えすが、それは、久米宏がいない「テレビスクランブル」の、横山やすし謎の死亡までの数シーズンとのシンクロを見立てることさえできる(ここまでの流れに、特に、志村のもう一つの座長番組「バカ殿」は、敢えて含めていない。横山やすしに「バカ殿」があったら演芸の世界はどうなってただろうか)。

 パートナーとしてのミューズがいると生き生きと力を発揮し、いなくなると自滅してしまう。というのは、特に珍しいことではない。志村けんが、あまりにオープンに正直に開放しただけだ。

 この流れに、「ミューズではないが、支えた舎弟」の存在が浮かび上がってくる。その筆頭が上島竜兵に他ならない。

 僕は今でも、男性で志村へのご奉公を貫いたのは上島だと思っている。しかし、志村の体調の劣化=自滅化に伴い、カンフルとして投入されたのが、千鳥の大悟とアンタッチャブルの柴田である。両名は志村一座最後のシリーズとなった「志村でナイト(18)」から、<絶頂期にある若手芸人のトライアウト(大悟)>、<謹慎が解けた状態からの、緩やかな芸能界復帰(柴田)>といった意味合いで実験的に投入され、しかし両名はレジェンドである志村と、めざましいケミストリーを見せ、結果として「看取った」形になる。

 大悟は、<酒とタバコと女>を、半ば戯画的にキャラクターとしているが、芸風は明らかにダウンタウン松本人志を後継している。「テレビ千鳥」で見せる、大悟のノブいじりや、狂気のセンスは、松本による浜田いじりの正統的後継だが、<酒とタバコと女>というキャラクター(それはーまさに当世風にーギミックではなくリアルなのだが)と、マーケットのダウンタウンを知らない世代の増加によって、表面化しているのに可視化されない。

 こうして、大悟が現在、悠々と保ち続けている万能感にも似た力は、ダウンタウン松本のセンスという極左と、志村けんを<師匠>と呼び、最後の飲み友達として志村を看取り、番組中に飲酒や喫煙する逸脱を芸として見せている、という極右の、両極を併せ持った帝国感に他ならない。

菊地成孔さんの日記、今回は「芸人批評」について長く書かれていた。(上記の引用部分で千鳥の大悟さんの名前が「大吾」になっていたのでこちらで直しています)
小林信彦さんの喜劇人批評の話から、紳助竜介の亡き松本竜助の演技、GSグループの中から出てきた沢田研二井上純堺正章といった演技者との活動、その中から大穴として岸辺一徳が勝ち上がるサーガとその驚き。
ダチョウ倶楽部と出川さんと江頭さんのそれぞれの話になり、志村けんさんの話になっていく。
志村さんに関してはパートナーとしてのミューズ(石野陽子、優香がいた時が絶頂期として)、そしてミューズがいない期間に支えた舎弟としての上島竜兵を挙げている。
志村さんと上島さんの役者との可能性と存在感、また、最後に座長としての志村けんに対してのカンフル剤となった千鳥の大悟さんとアンタッチャブルの柴田さんという二人が看取った形になったこと。

大悟さんは極左としてダウンタウンの松本さんのセンスと極右として志村さんを師匠と呼び、「酒とタバコと女」嗜むことで両極を併せもった帝国感という話。たしかに大悟さんの無敵感は『ドラゴンボール』における父は孫悟空なのに、師匠はピッコロという孫悟飯的なハイブリッドであるようにも思える。つまりそこには過ぎ去った「昭和」と「平成」があり、同時代の人は普遍的でノスタルジーを感じさせ、若い世代には新鮮にうつる存在になっているのかもしれない。その意味でも相方のノブさんはやはり年々浜田雅功化している(ツッコミなのに天然的なボケが発動し愛されキャラに転化している)、そして浜田さんとは違ってツッコミだが暴力性は排除されているのは現時代的だし、いい意味でミーハーだからこそ時代との波長が合う(そのため、大悟さんの時代錯誤的な価値観と真逆になって笑いを生む)。千鳥が天下取りに近づいている理由がわかるような気がする。
最後は上島さんの演技と阿部サダヲさんの演技の話になっていく。初期三人だった「グループ魂」は「サブカルダチョウ倶楽部」だと思っていたという話が前フリになっていた。この日記は読んでいておもしろいし、菊地さんの芸人批評の長いのが読みたいと思ってしまう。

 

5月16日

仕事を15時過ぎに早上がりしてから、散歩がてら恵比寿まで歩いていく。雨はありがたいことにほとんど止んでくれたので傘はいらなかった。
コロナパンデミックで二度延期したTHUNDERCAT来日公演初日。ガーデンホールで密を避けるために一日の公演が1st setと2nd setの二部制に分かれた。しかし、いつの間に恵比寿ガーデンホールは東京ガーデンホールに名称が変わったんだろうか。床にテープでマスが作られてひとマスに一人ずつという感じになっていたが、左右ギリギリな感じで密だったのだが。ほんとうならフルで入れちゃったらパンパンになっていたのだろうけど、これだったらもう少し余裕が欲しいと思ったのは事実。
二部制に分かれたから、入場するまでもろもろグダグダで、運営!と思ったけど整理番号は早かったからまだよかった。1st setと2nd setのどちらを選びかというメールが来たのでGoogleの解答を送れるやつでおくっていたが、そのまま返信はこず、ZAZIKOのチケットでは1st setの時間帯になっていたのでそちらで入ろうとしたら、返信メールのステージがわかるものがいると言われて、もう入場っていうところで別の受付に行かされて、解答されないですねって言われて代わりに半券みたいなものをもらって、それと一緒に入場した。なんかチグハグというZAIKOのチケットで1st setの時間帯で表記されてるんだから、もうそれでよくない?と思った。すぐにその半券回収されるし、なんだかなって。

二度のライブの延期の間にTHUNDERCATはグラミー賞を受賞している。彼がもともと日本好きなので来日してくれたわけだが、違うアーティストだったらランクが上がったりしたらどうなったかわからない。普段行くライブとあきらかに客層が違う。年齢層も上だし、大人っぽいというか二十代とかが相対的に少なく感じた。音楽のジャンルも関係はしてるとは思うが。ちなみに海外のアーティストを観るのは韓国のロックバンドHYUKOH以来。
 1st setステージはたぶん二時間近くあったんじゃないかな。次の2nd setの入場が20時半からだったが20時過ぎまでは演奏していた。アルバムで聴いていて好きな曲も何曲も聴けたのは嬉しかったが、なによりもサンダーキャットの超絶六弦ベースもカッコよすぎて笑っちゃうんだが、それに加えて盟友のドラマーであるルイス・コールのドラムもとんでもなかった。ほんとうに気持ちのいい演奏で、リズムに気づいたらのって踊ってしまう、魔法のようなリズムが鳴っていた。この二人プレイヤーとしての次元が違いすぎる。ほんとうにライブで観れてよかった。

Thundercat ft. Louis Cole & Genevieve Artadi - Satellite [from Insecure - Season 5]

 

5月17日

ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』の35歳問題に心が揺さぶられてしまい、劇場で2回観てしまったおかげでTOHOシネマズのシネマイレージポイントが6ポイントになり、次回の映画が一回無料になっていた。
TOHOシネマズ日比谷が入っている東京ミッドタウン日比谷の一階に眼鏡屋のアイヴァンが入っている。去年の3月に新しいメガネをそこで買ってから何度か落としてしまい、フレームにヒビ入って割れてしまっていたので、その交換も兼ねて、『シン・ウルトラマン』をTOHOシネマズ日比谷で観ようと思っていた。シネマイレージポイントで鑑賞料金の1800円は無料になっていて、IMAXのシアターでチケットを取っていたので、IMAX特別料金の500円のみを追加で支払っていた。なんかそれだけだと申し訳ないのでパンフも買った。「ネタバレ注意」となっていたので、観る前に読むのは諦めた。
家からTOHOシネマズ日比谷まで歩いて2時間ぐらいかかった。途中、首相官邸や国会議事堂の横を歩いていったがさすがに出勤時間と重なっていたので、省庁に勤めているであろう人たちがたくさん歩いていた。そこから『シン・ウルトラマン』を観るのはなかなかよい展開だった気がする。
ウルトラマン』も『仮面ライダー』もリアルタイムでほぼ見れなかった隙間世代なので、どちらにも思い入れはないが、庵野秀明脚本なら観たいというTVシリーズエヴァ」放送時に中二だったリアルシンジ世代。平日の午前中だというのもあるが、さすがに客層は50代ぐらいが半数を占めていた。

日本を代表するSF特撮ヒーロー「ウルトラマン」を、「シン・ゴジラ」の庵野秀明樋口真嗣のタッグで新たに映画化。庵野が企画・脚本、樋口が監督を務め、世界観を現代社会に置き換えて再構築した。「禍威獣(カイジュウ)」と呼ばれる謎の巨大生物が次々と現れ、その存在が日常になった日本。通常兵器が通じない禍威獣に対応するため、政府はスペシャリストを集めて「禍威獣特設対策室専従班」=通称「禍特対(カトクタイ)」を設立。班長の田村君男、作戦立案担当官の神永新二ら禍特対のメンバーが日々任務にあたっていた。そんなある時、大気圏外から銀色の巨人が突如出現。巨人対策のため禍特対には新たに分析官の浅見弘子が配属され、神永とバディを組むことになる。主人公・神永新二を斎藤工、その相棒となる浅見弘子を長澤まさみが演じ、西島秀俊、有岡大貴(Hey! Say! JUMP)、早見あかり田中哲司らが共演。劇中に登場するウルトラマンのデザインは、「ウルトラQ」「ウルトラマン」などの美術監督として同シリーズの世界観構築に多大な功績を残した成田亨が1983年に描いた絵画「真実と正義と美の化身」がコンセプトとなっている。(映画.comより)

シン・ゴジラ』の時に若手の役人やスペシャリストが集まって、ゴジラ対策をしたように、「禍威獣特設対策室専従班」というスペシャリストたちが「禍威獣」を倒すために活躍するというラインがある。そのメンバーでもある斎藤工演じる神永が逃げ遅れた子供を助けに行った際に、禍威獣と戦っているウルトラマンの近くにいたためで実は死んでしまっており、その体にウルトラマンが入ることでひとりの人間の身体の中に神永とウルトラマンの魂が共存するという形になる。子供を命懸けで守ろうとした神永の精神に触れた、見たウルトラマンはそのことで人類への希望、滅ぶべきではないのかもしれないと感じ、「禍威獣特設対策室専従班」として行動しながら他のメンバーと一緒に禍威獣と戦っていく。
ウルトラマン長澤まさみ演じる浅見が人間のままで巨大化するなどテレビシリーズで庵野秀明が好きだったというエピソードも入っている。観る前にTwitterでも山本耕史のことが話題になっていたが、外星人メフィラスは作中でもかなりおいしい役でインパクトがあった。メフィラスとウルトラマンの戦いはある存在によって決着はつかずに、メフィラスが退却するという歯切れの悪いものになってしまう。
その存在にとって(一応ネタバレ防止のため)、投下というか地球における人間という存在が他のマルチバースの知的生命体の脅威になるということからゼットンが召喚され、地球はすべて滅ぼされてしまうという展開になっていく。そこでもちろんウルトラマンが戦うことになるが、まったく歯が立たない。そこからは人類の知を結集させることでゼットンを倒す計算式を見出して倒すことに成功する、ヒーローと人類の勝利という感じになって終わる。ウルトラマンは神ではない、だから人類が自分達の力でなにもしないことは生きるということの放棄になってしまい、そして目の前の問題は解決しないという感じになっている。この辺りはやはり『シン・ゴジラ』の終盤を彷彿させるものがあった。その意味ではお仕事ものと言えるのかもしれない。
IMAXの大画面で楽しんで観ることができた。ゼットンのデザインとかは「エヴァ」の使徒じゃんと思ったりもしたけど。めっちゃ絶賛というわけではないけど、庵野秀明さんたち特撮好きがその影響を受けて、作り直すことに成功したことがわかるという意味でもオタクという世代の強さを感じさせるものだった。同時にこれはなにかの始まりという期待感はなく、沈没していく国が最後に見た夢みたいな哀愁のようなものを感じてしまう。
浅見が最初に「ウルトラマン」を見たときに「キレイ」と言ったこと、最後に神永に体を返すとも言える行動をある存在とのやり取りの中で終えて帰ってきた時に、自分が恋をしたかのように思えたあの「ウルトラマン」ではなくなったとどこかでわかったような悲しい顔、失恋に似たような表情をしており、他のメンバーの喜びと対照的だった。そのことを鑑賞後に先に見た友人から指摘されて、なるほどなあと思った。テレビシリーズでおさらいをする方が楽しめる作品なのは間違いないが、見てなくてもある程度はたのしめるのはさすがだなと思う。
「禍威獣」とされたが、「怪獣」というもの自体が自然災害のメタファだと思えば、「禍威獣」が現れる度にどんどんいろんなものが破壊されていく日本、というのはどこかでリアルさを感じてしまうだろうから、まさに今という作品だとも思う。

 

5月18日

日付が変わってから『競売ナンバー49の叫び』を読み終えて、次の『重力の虹』上巻に突入した。上下巻で1300ページぐらいあるこのピンチョンの代表作とも言えるこの作品を読み終えるのはどのくらいかかるだろうか。ピンチョンの作品は一気に読めるところと全然進まないところがあって不思議。あと歌がよく出てくるのも特徴なのかな。
ポストモダン文学を代表するトマス・ピンチョンのこの作品は百科全書的な知識の織り合わされたものであり、英語圏内文学でもっとも詳しく研究されている一冊と言われている。噂によると二、三回読むとわかってくるらしいのだが。前回は上巻ですぐに脱落したので今回はなんとか下巻の最後まで行きたい。

第一章 赤いエッフェル塔歴史学
1 ローアングルの鉄塔の系譜学
2 「映画」的なものをめぐる見えない運動
3 板垣鷹穂の「映画的」手法
4 「後衛」たちの鉄塔

第二章 第3村問題と郷土映画
1 『シン・エヴァ』に於ける再「物語」化
2 戦時下に育まれた手塚治虫の映画理論
3 『海の神兵』と文化映画実装問題
4 柳田國男のデータベース的映画論
5 郷土巡礼

第三章 原形質と成熟
1 「成長」もアニメ的「動き」と捉える手塚の美学
2 『シン・ゴジラ』という蛭子譚
3 「変身」「変形」への執着
4 エイゼンシュテインの原形質とゲーテの形態学
5 原形質から生成される人造人間

大塚英志著『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』が来週発売。いやあ、たのしみ。このために『シン・ウルトラマン』観たところもあるし。
戦前から、そして戦中のメディアミックスと映画や芸術がどう戦争に利用され、あるいは利用(アニメ『海の神兵』は海軍だまくらかして作ったものだったりする)してきたのか。
戦争を生き延びた連中はそれを広告に転用してきたというのは今までも大塚さんが書いているけど、庵野秀明作品における鉄塔はなにからの引用なのかということとか映像学としても読み応えがありそう。これに加えて、夏には民俗学シリーズの『北神伝奇』と『木島日記』の今まで書籍化されていなかった三作品の小説も刊行されるし、大塚さんも63歳だし、やりのこしたことをできるだけやろうというモードに入ってきただろうか。

 

5月19日


青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版をテアトル新宿にて鑑賞。『Helpless』『EUREKA/ユリイカ』『サッド ヴァケイション』と続く「北九州サーガ」の第二作目。中上健次紀州サーガ」、そしてウィリアム・フォークナー「ヨクナパトーファサーガ」に連なる青山真治によるサーガ、同時代の阿部和重は小説で「神町サーガ」を書いた。
三時間半のこの作品をスクリーンで観るのは初めてだった。昔、レンタルでビデオかDVDで観たはずで、その後、古川日出男さんの小説を読むようになってから三島由紀夫賞受賞作を何作か読んだ際に小説版『EUREKA/ユリイカ』も読んだので、たぶん最初にレンタルで借りてから数年後に小説は読んだのだと思う。阿部和重さんと古川日出男さんの小説を読んだことで中上健次とフォークナーの小説を読むようになったことでより青山真治作品におけるサーガとフォロワーとしての存在は僕の中で大きくなっていた。

ストーリー:ある九州の田舎町で、バスジャック事件が発生した。生き残った運転手の沢井(役所広司)と直樹・梢の兄妹(宮﨑将・宮﨑あおい)は、心に大きな傷を負ってしまう。それから2年が過ぎ、町に戻った沢井は、2人きりで暮らす兄妹とともに暮らし始める。そこに従兄の秋彦(斉藤陽一郎)も加わり、4人の奇妙な家族生活が始まった。
そんな中、彼らの周辺でまたも殺人事件が続発する。沢井は小さなバスを買い、喧騒の町をぬけて4人でゆくあてもない旅に出るのだが...。

20年近く経った今観ても圧倒的な作品だった。遠景からバスや自転車、登場人物たちが走るシーンの映像が素晴らしくて、ショットの概念なんだと思うけど(違ったらすみません)、ほんとうに久しぶりに「映画」という映画を観たなと思えた。
バスジャックと作中で起きる殺人事件というのは90年代後期に日本で起きた出来事でもあり、二十年以上経った今ではどこか忘れそうになっていたあの当時の空気みたいなものが蘇ってきた。やはり沢井が声を荒げてでも、ある人物に「死なんでくれ」という魂からの叫びは僕にもしっかりと届いた。
宮崎あおいだけでなく、デビューした頃の尾野真千子と後の朝ドラ主演女優、現在は名脇役、バイプレーヤーとして多くの作品に出ている松重豊光石研利重剛塩見三省という面々。とくに当時四十手前の松重豊の面構えがよかった。
そして、なんと言っても役所広司がよくて、この前には黒沢清監督『CURE』にも主演しているわけで、役所広司という人のフィルモグラフィを見れば、現在評価されている監督たちの世に出る作品がいくつかあるわけで、しかもその作品が素晴らしいというのが恐ろしい、ぐらいすごい。また、今作に関わった人たちはそのことが誇りになっているだろうな、と思える。
三時間半ほぼモノクロで展開する意味が最後にわかる。
あと秋彦(斉藤陽一郎)とシゲオ(光石研)のやりとりは笑ってしまった。プラス梢(宮崎あおい)の三人は三作目『サッドヴァケイション』にも再登場することになる。もう閉館してしまったシネマライズで僕がスクリーンで観ることが間に合ったのは『サッドヴァケイション』だけだったので、今日スクリーンで観れてほんとうによかった。


青山真治監督作品で家にパンフがあるのは『サッドヴァケイション』と『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』だけだった。『サッドヴァケイション』はシネマライズで観たけど、シネマライズで公開した作品はパンフの四隅のどこかにシネマライズと入ってるから、シネマライズで観て購入したパンフは全部残してる。いちばん古いのは上京後にはじめてシネマライズで観た『アメリ』。


映画を観終わって三茶に帰ってからニコラへ。すぐに家に帰る感じではなかったので、ビールと前菜がてらスナップエンドウ塩とレモンとオリーブオイル、パプリカにつめたやりいかとほんれん草のラグーをいただく。パプリカこんなにも美味しいんだなあ、と前から気になっていたのを食べて至福だった。

 

5月20日

乙一中田永一&山白朝子&安達寛高著『沈みかけの船より、愛をこめて 幻夢コレクション』が出ていた。以前にも同じく朝日新聞出版から『メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション』というのが出ていて、その時にはもうひとり「越前魔太郎」が著者名に入っていた。
乙一中田永一、山白朝子、越前魔太郎というのは安達寛高氏のペンネームであり、ある種多重人格者の人格のひとつひとつに名前があるようなものに近いのかもしれない。
ひとりの作家がいくつかのペンネームを使用して使い分けているというのは現在はあまり多くないイメージがある。いるとしても乙一さんクラスの著名な作家でやっていて、ほかのペンネームでもヒット作を出したり、継続的に作品を出し続けているパターンはほぼないのではないだろうか。
タイトルと装丁デザインがいいので、それでもはや勝ちだなと思える一冊。前に主人公たちが海(のような亜空間)の底に向かっていくときに、この装丁デザインで描かれているような感じで、実物の倍以上のサイズのマッコウクジラたちが縦になって眠っていて、ある種ストーンヘンジのような形で浮かんでいるというシーンを書いたことがあったので、ああ、脳裏に浮かんでいた景色に近いなと思った。僕の場合は光とか届かない闇の中で発光するマッコウクジラたちみたいなイメージだったのだけど。

 

5月21日
ラジオ深夜便 5月19日(木)「雉鳩ノート」27日まで

古川日出男さんが今月ロサンゼルスに滞在(UCLAで基調講演)した時のことについて、アメリカの現在、観にいった舞台の話も聞けていい。日本とアメリカで違う自分で判断して安全を確認するということなどの話。
今、刊行順でトマス・ピンチョンを読んでいるが、舞台がロサンゼルスが出てくることも多いので親近感。僕も2017年の3月には古川さんご夫婦に会いにロサンゼルスに行き、UCLAに連れていってもらったことがあるので、このラジオを聴いていたら、また行きたいなと思う海外はまずロサンゼルスだなと思った。

古川日出男が語る、いま『平家物語』が注目される理由 「激動する時代との親和性」

古川さんのインタビューの前編が公開されていた。いろんなところで『平家物語』現代語訳をかくきっかけなどを話されているが、来週には映画『犬王』が公開されるので、ある程度の取材とかインタビューは収まっていくのかな。目の手術をしてからニット帽をかぶらず、眼鏡をしていない時の写真が増えたかな。

ピンチョンの『LAヴァイス』にしろ、デニス・ジョンソンの『煙の樹』にしろ、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』とかベトナム戦争が残した傷跡や戦地での小説を読むと、今の日本は近いものとして考えられる気になってくる。もう、日本自体が目に見えない焦土化している。
まだ、ベトナム戦争は民主主義の力やジャーナリズムで大統領とか政府が隠していたことを暴いて、終結させたし、大量破壊兵器をでっち上げてイラク戦争を起こしたことについても映画だったり小説でも書かれている。検証されている。機密文書とか破棄したら、基本的な根本が壊れる。信用できない国になっていることに気づかさないための「祭り」を続けようとしている。ドラッグとしてのオリンピックと万博にヘイトに。外に出る人が多いわけじゃないから、取り残されていくことに気づけないままドラッグ漬けにされる。海外の映画でもいいし、小説でもいい、外からの芸術に触れてる方がまだ気づける。ただ、それはもうインテリなハイソなものになってしまっている。
地獄を見てPTSDになったベトナムイラク帰還兵とかみたいな状況に経済大国から転がり落ちたことを信じたくない人たちはなっているように思えてくる。まあ、自分が狂ってしまうから世界がおかしいと思わないとやっていけないし、差別主義者にならないとしょうもない自己を守れないから中高年がもろにそっちに流れる。社会や国に安定や自分の存在意義なんか求めたら、あるのは格差だったり階級という上下を作ることに参加させられるだけじゃないか。
しかも、上にいけるような人間は自ら手を下さないよ、数字だけにとらわれて、本質を見ようとしないから何十万売れているコピペ本が数千部の小説より素晴らしいと平気で言う人たちがいる。その程度の「私」しか誇りしか持てなかったのは社会のせいなのか、時代のせいなのかは知ったことではないけど。
敗戦後に、僕は終戦じゃなくできる限り敗戦と書くけど、それまで日本国万歳と言って米国鬼畜と言っていた人たちが、アメリカは素晴らしいとコロッと態度を変えたことに、当時の子どもたちは違和感や大人は信用できないと思ったという話は読んだり聞いたりしてきた。
上記で書いたような人たちは、なにかのきっかけで、それは敗戦のような出来事になるんだろうけど、きっと態度を急変させるだろう。悪いのは自分ではなく、国や社会やメディアだと責任転嫁するだろう。そんなものだと思う。まあ、死ぬまでドラッグ漬けな人の方が多そうだけどね。
でも、自分の子どもや孫とかにそんなだせえ姿を見せるってこととかなんにも思わないんだろうか。僕とか結婚もしてないし子どもいないけど、自分の友人知人の子どもとかにそういうダサい人間に見られたくないって一応思うけどな。
やっぱり粋だとかの美意識ってやせ我慢の部分もあると思うんだよね。そういうカッコいい大人がいなくなったってことも大きいんだろうな。メルマ旬報用の日記のメモ代わりに書いてたら長くなってしまった。

3年前の2019年の5月21日にフェイスブックにこんなことを書いていた。

 

佐久間 上に立つ人の姿でいうと、本には「(最高の料理人は)ふだんから普通のように振る舞っているから、見つめる人にしか本当のすごさはわからない」と書かれていましたね。

斉須 そう、普通の人。「すごさ」を誇示したりしない、普通に生きている人なんです。ちょっと地味に見えるくらいなんだけど、忍耐力があって、決断力もあって……「すごい」ってこういうことなんだと、フランスで学びました。
とくに3店舗目でお世話になったレストランのオーナーは、ほんとうに優れた人でしたね。素材の買い出しに自ら行く。それを僕らに見せながら「これでよかったかい?」と聞く。それでお礼を言うとね、「ありがとうは私のほうだよ」って返してくれるんです。「私のために働いてくれているんだから」って。

佐久間 うーん、かっこいい! 威圧的になってもおかしくない立場で。

斉須 しかも東洋から来た、どこの馬の骨かもわからない若造にです。ほんとうは資産家なのに一切むだ遣いもしないし、慎ましやか。こういう人がいるんだって、12年間でいちばんの驚きだったかもしれません。

「才能だけでは押し切れない」、「ずっと現場」。佐久間宣行が“生き方”を教わったシェフの哲学

テレビプロデューサーの佐久間さんが仕事のやり方の影響を受けたというふれんつレストランのオーナーで料理人である斉須さんの対談。とてもいい、これをメガネブランド「J!NS」が母体のウェブサイト「J!NS PARK」で公開しているのもおもしろい。

 

5月22日

散歩がてら行った蔦屋代官山書店の料理関係の本が置いてあるフロアで前日に読んだ佐久間さんと斉須さんの対談のことを思い出して、『調理場という戦場』文庫版を探したら面出しな感じで数冊置かれていた。ある種の定番として読み継がれているのだろうなと思った。

 

古川:そうですよね。だからさっきの『平家物語』の話に戻ると、『平家物語』というのが、いろんな人が関わって作るひとつのマトリックスだったとしたら、すごく不思議なことに、僕が書いた『平家物語 犬王の巻』もまた、いろんな人がその人なりに取り組んでいく作業のマトリックスになってしまったという(笑)。たとえば、野木さんがこの原作から、登場人物を2人に絞って、彼らが出会って交流を重ねながら最後のステージになだれ込むまでの脚本を書いてくれたり、湯浅さんが僕では描写しきれない犬王の動きを、自分の予想の何倍も上回る形でビジュアライズしてくれたり……みんなが、ある意味、寄ってたかって生産的なことをしてくれたわけです。普通、寄ってたかると搾取しちゃうんですけど、寄ってたかってクリエイションしちゃったっていう(笑)。それはもう、ありがたいとしか言いようがないですよね。

古川:もし、僕の現代語訳が、今おっしゃられたような「定本」みたいな形になるとしたら……ひとまず『平家物語』が戦争礼賛の話だっていうイメージは、もうここから数年で全部覆されるのではないでしょうか。『平家物語』というのは「軍記物語」だから、戦争礼賛の話だと思われがちだけど、実はある意味、反戦文学であり……戦争か平和かという話ではなく、それとは別の何かを描いた物語なんだっていうことがわかったっていう。

古川日出男が語る、新たな『犬王』の誕生 「ある表現者の架空の自伝という思いで書いた」

古川さんのインタビュー記事の後編が公開されていた。『平家物語が』が反戦文学であるというのは、ノンフィクション作品『ゼロエフ』の終盤でも語られるのだけど、個人的には『平家物語』現代語訳と『平家物語 犬王の巻』と『ゼロエフ』は書店とかで一緒に並べて欲しい。

寝る前に『鎌倉殿の13人』最新話を見てしまい、源義経と彼の周りの人たちの最後を見ていたら、自然と泣いていた。もともと涙もろかったけど、この所さらに涙もろさに磨きがかかっている気がする。年のせいなのか、精神的に弱っているのかはわからない。ただ、確実に涙もろくはなっている。条件反射的に悲しいシーンで泣いてしまうタイプだと自覚はしていたが、最近はやはりひどい。
最後まで天才軍師として、戦うことが生き甲斐だった男として源義経を描いたのは素晴らしかったし、静御前の女としての覚悟の見せ方、正妻の里の嫉妬なども含めて、多くの伏線が回収されていた。最後に源頼朝が届けられた義経の首がはいった首桶を抱きしめながら、平家をどうやって倒したのかを話してくれ、と物言わぬ、死んでしまった弟に語り掛けるのはどうしても涙を誘う。今作において三谷幸喜脚本はずば抜けて素晴らしいと唸るしかない。

 

5月23日
羊文学「OOPARTS」Official Music Video

アルバムを聴いて気になっていた曲のMVがアップされていた。

寝起きに見た夢が少しいつもと違って変だった。道路のような場所を車のようなものが走っていると思って見ていた(見えていた)ら、人の顔が走ってきていた。トラックの荷台にかなり大きめの顔だけが乗っている、そんな感じ。その顔には見覚えがあった。女優の夏帆さんとしか言いようのない顔であり、なにかのタイミングで車というか走っている向きが変わり、僕には見えていた右側メインではなく、Uターンのように左右が入れ替わり、左側がメインになってさっき来た方へ走り出した。その際に顔は夏帆さんではなく吉岡里帆さんの顔になっていた。二人とも好きな女優さんではあるが、似ている顔のタイプには思えない。不思議だなあと夢の中で思ったら、目が覚めてベッドの上だった。僕の深層心理はいったいどうなっているのか、いつも見る夢はもうちょっと抽象的だし、有名人とかが出てくることはない。見ているかもしれないが覚えていない。ちょっと変な夢、顔だけが走っていくというのも普通に考えたら不気味だけど、そこでは違和感は感じなかった気がする。

その後、起きてからリモートワークを開始した。作業用のノートパソコンは支給されたものを使っていて、我が家にはテレビとか音楽再生用の機械もないので、自分のMacbookAirを近くで起動して画像や音楽を流している。
とりあえず、二話の途中だったParaviオリジナルドラマ『それ忘れてくださいって言いましたけど。』をもう一度一話から最新話の五話まで流していた。出演者のひとりが夏帆さんだからということもある。なぜかおやじギャグのようなものが連発される展開になり、ちょっと萎えた部分があったり、舞台である下北沢のカフェ「CITY COUNTRY CITY」に来るはずの西島秀俊さんがずっと来ないので、スケジュール的に無理で別撮りしたため、他の出演者がいるカフェに来れない設定なのではないかと思ったり、五話のゲストの物理学者役の北村有起哉さんとカフェにいるメンツとのやりとりがおもしろかった。
見終わってからはネトフリで四話まで見ていたアニメ『SPY×FAMILY』を最新回まで流してみた。コミックはたしか二巻ぐらいまで追っていたのでこの辺りは読んでいるはずだが、アニメのほうがコミカルさは増しているようで微笑ましい。


仕事終わってからニコラに行って、いちじくとマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドを。一服しながら、この日記の本日分を書く。


今月はこの曲でおわかれです。
MINAKEKKE - Odyssey (Official Music Video)



UA - 微熱 (Official Video)

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年3月24日〜2022年4月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年04月掲載『シャムロックの三つの葉』 映画『ベルファスト』を観たので、以前に北アイルランドに行った時の話を元に短編を書きました。


先月の日記(2月24日から3月23日分)


3月24日
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西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版6 孤独なたたかい』をGET。新・三部作もついに完結編が発売になった。帯にも書かれている「生きなくちゃ!」というセリフは映画『ドライブ・マイ・カー』の作中劇である『ワーニャ伯父さん』のラストでのソーニャのセリフとも呼応している気がする。

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レオス・カラックス監督『アネット』4月1日公開、エドガー・ライト監督『スバークス・ブラザーズ』4月8日公開、とスパークス祭り、確実にDOMMUNEスパークス特集やるだろうなとこの巨大な看板ポスター(であっているのか)を見て思った。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。『クロスゲーム』3回目「ゼロ年代における新自由主義の行方を描いていた『クロスゲーム』(前編)」です。
今回連載当時の2005年ぐらいの空気感をについて書いているので、あだち充論なのに浅野いにお作品について少し触れています。

 

3月25日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年04月号が公開になりました。
4月は『アネット』『ハッチング-孵化-』『カモン カモン』『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』を取り上げています。


ゼロ年代の終わりぐらいに渋谷のライブハウス(たぶん7thFloorのような)でのイベントで青山真治さんがギターケースを持っていて、charlieこと社会学者の鈴木謙介さんと一緒のエレベーターに乗っていたら、同じ福岡出身のふたりが知っている歌を口ずさむみたいなやりとりをしたのを見た記憶がある。あれはなんのイベントだったのだろうか、おそらく佐々木敦さんがやっていた「エクス・ポ」関連だった気がする。
映画『サッド ヴァケイション』初日の舞台挨拶付きをシネマライズに観に行ったし、中上健次チルドレンだった青山さん。最後の作品となった『空に住む』は正直青山真治がなぜこんな作品を撮ったんだ?と思っていたから、次は「北九州サーガ」みたいなものに回帰してほしいなと思っていたのだけど、それは叶わなかった。
『ヘルプレス』『ユリイカ』『サッド ヴァケイション』の「北九州サーガ」三部作は映画も小説もどちらも好きだし、観られて読まれていってほしい。

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青山真治著『ユリイカ EUREKA』&『Helpless』文庫版。三部作目『サッド ヴァケイション』は残念ながら単行本のみで文庫化されていない。

 

3月26日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年3月26日号が配信されました。今年の2月と3月に観た映画日記です。
『アネット』『犬王』『THE BATMAN』『愛なのに』『MEMORIA メモリア』『余命10年』『猫は逃げた』などについて書いてます。


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数日前に購入していた千葉雅也著『現代思想入門』を読み始める。近所のツタヤ三軒茶屋店でも平台に積まれていて、週間ランキングで3位ぐらいに入っていた。現代思想もビジネス書的なものを読む人も読んでいるということもあるのだろうか。千葉さんの知名度や人気も高くなっているということなのか、哲学というものに惹かれている人が多いのか。個人的には千葉さんの小説がもっと読まれてほしい。

 

3月27日

ニコラで12時からのイベント『帰ってきた駆け込みアアニコ(VOL.11)』に行く。前回のイベントから約2年ぶりとなる徳島のアアルトコーヒー庄野さんとニコラの曽根さんが雑談を話すというもの。
コロナパンデミックが起きてからニコラもイベントはほとんどやっていなかったし、徳島でコーヒーの焙煎をしている庄野さんはお子さんの修学旅行が中止になったりしたこともあって、それまでは週末は東京だけではなく日本中各地でイベントなどに呼ばれていたのに、この2年は奥さんの実家の香川に二度ほど行っただけで徳島からは出ていなかったと言われていた。
毎回の二人の雑談はその時々で思っていることや考えていることを話すものになっている。お二人ともお店をしているので個人経営のことやコロナになってからのお店のやりかたや続けていくやり方だったり、これはフリーランスの人にも通じることでもあるので毎回聞いていておもしろいし、なるほどなあと思うことが多い。
あとはロシアとウクライナのことや政治のことであったり、右翼左翼とかSNSとの距離感など、いつも話しているような気はするが、「わきまえる」というのはこの二人でのトークイベントでキーワードだなって思う。

二時間ほどでイベントが終わってから、一度家に帰って仮眠してから、夕方に再びニコラに行って、庄野さんによるコーヒー教室『コーヒーのすべて』に参加する。
コーヒーの淹れ方を庄野さんが実践しながら話をしていくというものだが、僕は初参加だった。大事なのは自分が好きな豆を選ぶこと(知ること)、ミルで飲む前に挽くこと、豆の鮮度や焙煎過程で違う苦味や酸味などの違いとか、ほんとうにわかりやすいしおもしろかった。
庄野さんは2年前まではトークイベントだけではなく、コーヒー教室もたくさんやってきているから、やはり場数を踏んでいるからうまいと思う。それは35歳で何の経験もなくいきなりコーヒーロースターになった時にもひたすら焙煎して、売れなかったりしたら捨てて、それでも数をこなすことで技術をあげていったことの話とも おそらく関係しているのだろう。
ほかのコーヒー教室はわからないけど、アットホームでお客さんがリラックスして話を聞いている雰囲気があって、それは庄野さんの人柄と話し方、そして自由に受け取って、気になるとこだけ参考にしてくださいっていうフラットさのおかげなんだと思う。

終わってから、庄野さんとニコラの曽根さん夫妻といつもの美味しいお店で打ち上げ。途中から昼のイベントに 来れなかった藤江くんもやってきて、食べて飲んでたくさん話をした。その後、お店に帰って藤江くんの音源を出したレーベルの竜樹さんもやってきて、朝の4時過ぎまで飲んで話をしていた。やっぱり実際に会って話せるということはほんとうに幸せな空間と時間だと改めて感じた。

 

3月28日

朝四時すぎまで飲んでいた気はするけど、九時前に起きて仕事開始した。こういうときはほんとうにリモートワーク様様。
13時すぎてからの昼休みに運動がてら緑道を散歩する。桜はもう満開になっていた。この緑道の先の目黒川沿いも満開になっていて、昨日おととい中目黒でイベントをした庄野さんが目黒川沿い人手がすごかったと言われていた。


漫画・おかざき真里、原作・燃え殻著『あなたに聴かせたい歌があるんだ』ご恵投いただきました。
十年一昔、「聴かせたい」という願いに似た気持ちは現在進行形で、なんとか生き延びたから感じられる想いと後悔のあとさき、読者にとってのいつかと誰かを浮かび上がらせる作品。

 

3月29日

ニック・ランド著『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』を購入。
マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』のタイトルと装幀に惹かれて読んだことでニック・ランドに興味を持ったのが最初だった。「幽霊」というのは「平成」に感じていたキーワードだったし、インターネットとグローバリズムが加速していったこと、それらと呼応するのはやはり鈴木光司さんの「リング」シリーズの貞子ことリングウイルスだったなと思う。
山村貞子は原作では半陰陽であったが、それらは映画化の際にはなくなりただの「キャラクター消費」として貞子という存在のみがまさに日本中へ増殖して広がっていったと思う。「リング」シリーズと加速主義とか絡ませたものは批評というか物語に組み込んで書いてみたい。結局加速していった先は増殖して溢れ出した綾波レイ的な「新エヴァ」の世界でしかなく、繰り返した世界の果てに日常に戻るしか想像力は向かない、あとは崩壊か破壊しかないから。
平成後期の2000年代以降に描かれた多次元や繰り返す日常の物語は、令和初期に完結して元の現実に回帰していく終わり方しかできなかった。だとしたら、繰り返されてきた日常や多次元そのものが幽界であり、そこにいた登場人物も現実に回帰した後では幽霊だと言えるのかもしれない。


菅田将暉オールナイトニッポン』と『三四郎オールナイトニッポンゼロ』リスナーなので、しゅーじまん(三四郎相田周二)の曲『Standby』がシークレットトラックとして収録されたアルバムをレンタルしてiPod nanoに取り込んだ。
この曲はサブスクで配信されておらず、そこにはシークレットトラックという概念がそもそもない、そしてCDをそもそも聴く装置がない人たち(両番組リスナーたち含め)が「しゅーじまんの曲が入ってると聞いたがサブスクにはない、あるのかないのか、何が本当なんだ?」状態になった話は菅田将暉三四郎、そしてクリーピーナッツの「オールナイトニッポン」で繰り広げられていてどの番組に聴いているので非常におもしろかった。

昨日の最終回は菅田将暉コロナ感染のため、最終回を一週間遅らせて(昇格した『クリーピーナッツのオールナイトニッポン』は一週開始がズレることになった)、菅田将暉の事務所の先輩であり『菅田将暉オールナイトニッポン』でガチすぎるデュエリストであることがバレたことで、色んな意味で人間味が溢れて好感度が上がったとしか思えない松坂桃李がいつも通りを崩さずに見事な代理を務めていた。彼がラジオに出て話しをする時には、なぜ普段ラジオをしたこともないのにできるんだという気持ちになり、同時に主役を張れる人間の圧倒的な強さと持っている感があり、松坂桃李はやっぱりすごいというアホみたいな感想になってしまう。

僕は音楽に関してサブスク使ってないから未だにCDやiTunesで買うか、レンタルをしている。ツタヤ渋谷店のレンタル階はコロナ前より人が増えた気がするけど、たぶん、気のせいではない。
アメリカではCDやレコードの売上が前年を越えたというニュースを見た記憶がある。ウイルスは目に見えない、サブスクなんかも結局のところ形はない、データだけだ。形がないものにはなかなか人は思い出や気持ちを残せない。人自体がいつか消えていく、それは遺伝子の乗り物だからとも言える。サブスクやSDGs的にいろんなものをシェアするのがよいことだとしても結局のところ人は形をほしがるし、形がないと認識が難しいという問題はある。
サブスクの大本や運営会社が潰れたら、それまで聴いていた曲は聴けなくなる(最終的にはどこか一強が残るだろうけど、使っているサブスクが安泰とは限らない。もちろんこの日記だってはてなブログが終了すれば消えて読めなくなるから、一応ワードで書いたものをコピペしてる)。しかし、世界の流れとしてはそれでいいのだろう。
スマホGAFAだけが生き延びるために世界中の人々がどんどんチャリンチャリンと課金していく。僕らはスマホの奴隷になってしまっているし、スマホが本体で操作する人間が奉仕者で外部装置みたいなことになっている。そもそもそれは今に始まったことではなくて宗教のシステム自体がそういうものでもあって、人間はなにかを自分より上位に置いて隷属しながら、自分よりも下の立場を作ることによってその狭間で安心する生き物でもある。
これからは紙の本を読むことがテロリズムに近いものになっていくだろう、分厚い本を読むことはより明らかな時代(あるいは時代精神ツァイトガイスト))に対しての抵抗になっていくと思うけど、そのことの意味や可能性すらもどんどん共有することができなくなっていくのかもしれない。また、4月以降はSNSの投稿はできるだけ控えようかなと思ったりしている。

 

3月30日

浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』12巻。最終巻の通常版と限定版。個人的には限定版のTシャツはいらないけど、作中でも出てくる漫画「イソベやん」付きなので、祝アニメ化ということで久しぶりに限定版を買った。しかし、ビニールを開けちゃうと分離してしまうので開けられない。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』のアニメが放送されたら見るかと言われたら正直わからない。人生でベスト3に入るほど好きな漫画『プラネテス』のアニメ見たことないし(なんか見る気がどうしても起きない)、実写映画は大好きだけど『ピンポン』のアニメも見たことがない。
最近最後まで見たのは『ゴジラ<シンギュラ・ポイント>』と『平家物語』ぐらいだし、前者はゴジラ×SF×円城塔という部分に惹かれたし、後者は古川さんが現代語訳したものを基にしたアニメ化だったから見たという部分が大きかった。

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』12巻では主人公の門出の父親が重要な役割を果たしていて、ネタバレになってしまうので詳しくは書かないが、物語の着地点としてはおそらくそれしかないと思った。
ディストピア的な世界を描くことで逆説的に門出たちの日常がより輝いて、それがほんとうに尊いものだったことを描きながらも、現実社会におけるSNSだけでなく差別や利害関係における構造も描写していった。この20年近くの日本を浅野いにおがしっかりと映し出した素晴らしい作品だと思うし、SF的想像力によって描いた世界は現実と確かに呼応している。

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『チ。』第7集は次巻の最終集に向けたラストスパート、カバーを外した方がカッコいいというかこの巻に出てくるセリフが描かれていて、読んだ後に再度見てみると熱い。願いや思い、誰かの希望が託されるということ、出会ってしまったということ、願いの連鎖が世界を変えていくその前夜。

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ニコラでめかじきとケッパーのラグートマトソース スパゲティーニと赤ワインをいただく。至福。

 

3月31日
PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
クロスゲーム』3回目(後編)は連載開始時当時の空気感、そして劣化版「柏葉英二郎」の大門秀悟が作ろうとしていた強豪野球部≒新自由主義の崩壊について書いています。


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昼飯を買おうと駅前に行ったついでにツタヤ三軒茶屋店に寄ると『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』完結&アニメ化もあって浅野いにおコーナーができていたが、壁に雑誌の表紙が飾られていた。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの10th Album『プラネットフォークス』をずっと流しながらこの日締め切りの「新潮新人賞」応募作の最終仕上げをした。現代から過去(1994年)へ巻き戻っていく構成にしたのは、たぶんこの30年ぐらいを描くのが自然な気がしたから。でも、やっぱり書き終えてみると逆だったなと思った。違うバージョンを書こうと思った。

 

4月1日
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今日から日記がわりにつけている新しい「10年メモ」(2022年4月1日から2032年3月31日まで)を書き始める。前の「10年メモ」は30代の毎日(2012年4月1日から2022年3月31日までの10年)の微細な記録だった。この「10年メモ」はちょうど40代の10年のことを書いていくことになる。まずはなんとか生き延びるしかないのだけど、別れも増えていく10年になるだろうなと思う。


トワイライライトでトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』上巻を購入して、コーヒーを頼んだので、そのまま屋上に上がった。
桜も散り始めているというのにとても寒く、またこの屋上に置かれているエアコンの室外機のファンががっつり回っていたので風がもろに当たってさらに寒くて暖かいコーヒーをすぐに飲んでしまった。

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公開初日のジュリア・デュクルノー監督『TITANE/チタン』をシネクイントの最終回で鑑賞。お客さんは金曜の20時半スタートだったがわりと入っていた。やっぱりパルムドールを獲っている作品だし、なんだかヤバそうな予告編だったりするのもあるのか、そういうものに惹きつけられる人や嗅覚が効く人が来ていたのだろう。

「RAW 少女のめざめ」で鮮烈なデビューを飾ったフランスのジュリア・デュクルノー監督の長編第2作。頭にチタンを埋め込まれた主人公がたどる数奇な運命を描き、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝いた。幼少時に交通事故に遭い、頭蓋骨にチタンプレートを埋め込まれたアレクシア。それ以来、彼女は車に対して異常なほどの執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになってしまう。自身の犯した罪により行き場を失ったアレクシアは、消防士ヴィンセントと出会う。ヴィンセントは10年前に息子が行方不明となり、現在はひとり孤独に暮らしていた。2人は奇妙な共同生活を始めるが、アレクシアの体には重大な秘密があった。ヴィンセント役に「ティエリー・トグルドーの憂鬱」のバンサン・ランドン。(映画.comより)

前半部分と後半部分でかなり作品のテンポが違う。
主人公のアレクシアの衝動的にも見える破壊行為によって彼女は元いた場所に居られなくなってしまい逃げることになる。それまではダンサーなのかな、爆音のクラブミュージックに合わせて車の前で妖艶に踊ったりしていた。自分の犯した罪から逃げた先で出会う消防士のヴィンセントと一緒に暮らし始めることになる。
ヴィンセントの前でほんとうのことを隠して生活をしていくのだけど(なぜアレクシアが隠していることに彼が気づかないのかと周りの人間は思う。彼もまた狂っている、いや信じたいことを信じることでなんとか生きているとも言えるのだろう)、アレクシアもヴィンセントもどちらもヤバいっちゃあヤバいもの同士のある種の共闘というかシンパシーがあったから一緒に居れたのだろう。
最後のシーンを観て、もうなんだかすごいことはわかるけど、なにを観せられたんだ?という気にもなってしまった。衝撃だけがあり、ふたりにだけ生まれた関係性とクライマックスでアレクシアの体の秘密とされているものが世に放たれる時、もう意味がわからないけどなんだかすごいものを目の当たりにする。やりたい放題だなと思って笑いそうにもなった。時間が経ってから自分の中で映像が蘇ったり、反芻してしまうものがある作品なんだと思う。

 

4月2日
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昨日『TITANE/チタン』をシネクイントで観たらポイントカードのスタンプが4つ貯まった。貯まると一回シネクイント系列で映画が観れるので、渋谷パルコに入っているホワイトシネクイントで朝イチで上映している『ベルファスト』を観ようと家を出た。
9時半からの上映だったのだが、8時45分ごろに着いてしまった。渋谷パルコ自体は10時以降にオープンで、映画館がある階への直通エレベーターも9時15分からとなっていた。30分待つのは正直しんどいなあと思って、近くの映画館で9時過ぎに上映している作品はないか検索すると、気にはなっていたジャスティン・カーゼル監督『ニトラム』がヒューマントラストシネマ渋谷で9時10分からだった。公園通りからタワレコの方に下っていき、ヒューマントラストシネマ渋谷が入っているココチビルへ。お客さんは朝早い時間だったが、20人近くはいた感じだった。

1996年4月28日、オーストラリア・タスマニア島世界遺産にもなっている観光地ポートアーサー流刑場跡で起こった無差別銃乱射事件を、「マクベス」「アサシン クリード」などで知られるオーストラリアの俊英ジャスティン・カーゼル監督が映画化。事件を引き起こした当時27歳だった犯人の青年が、なぜ銃を求め、いかに入手し、そして犯行に至ったのか。事件当日までの日常と生活を描き出す。1990年代半ばのオーストラリア、タスマニア島。観光しか主な産業のない閉鎖的なコミュニティで、母と父と暮らす青年。小さなころから周囲になじめず孤立し、同級生からは本名を逆さに読みした「NITRAM(ニトラム)」という蔑称で呼ばれ、バカにされてきた。何ひとつうまくいかず、思い通りにならない人生を送る彼は、サーフボードを買うために始めた芝刈りの訪問営業の仕事で、ヘレンという女性と出会い、恋に落ちる。しかし、ヘレンとの関係は悲劇的な結末を迎えてしまう。そのことをきっかけに、彼の孤独感や怒りは増大し、精神は大きく狂っていく。「アンチヴァイラル」のケイレブ・ランドリー・ジョーンズが主人公ニトラムを演じ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した。(映画.comより)

主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズの顔つきや佇まいはどこかニルヴァーナカート・コバーンを彷彿させる。世界に対して屈折したような諦めたような憂鬱な顔にも見えるし、無邪気で世界をまるごと愛してるような顔にも見える。そして、長い髪と着る人によってはダサくしかならない服がカッコよく見えてしまう佇まいをしている。その姿はやっぱりカートっぽくもあり、昔シネマライズで観たガス・ヴァン・サント監督によるカートの死から着想を得た映画『ラストデイズ』という作品があったのを思い出した。
この『ニトラム』は実際の事件を映画化したものだが、ニトラムと呼ばれている青年がゆっくりと、しかし確実に悲劇に向かっていく様子を描いている。ニトラムと父親と母親の関係性でいえば、母親はどこか彼に対して冷たく突き放しているようにも感じられる。その分父親が甘やかしているようなバランスだが、それも一気に壊れていってしまう。そして、サーフィンをしたいと思ったがボードが変えないために金を稼ごうと芝刈りをするために訪問した家の女性のヘレンと出会ったことで、新しい庇護してくれる存在と出会い、束の間彼は心穏やかな生活を送るのだが、彼の無邪気であり同時におそろしい行動によってそれも終わってしまう。
精神的に不安定なニトラムは薬を飲んでいるが(抗うつ剤かなにかのはずだが)、彼の不安定さや情緒不安さは元々あったものに加えて薬の副作用というか、彼自身が薬への抵抗のようにどんどん症状は悪くなっていくようにも見えた。

上記の解説にはヘレンと出会って恋に落ちると書いてあるのだが、僕は観ていて二人が恋に落ちたようには感じなかった。彼女がニトラムの母とあまり変わらない年だというのもある。もちろん年の差で恋をすることはあるのはわかるが、彼らの関係が恋人のようには見えず、母の代わりに新しく庇護する存在としての女性がヘレンだったように見えた。彼女は犬や猫を何頭も何匹も飼っている金持ちだが、ニトラムも犬と猫とそこまで違いがあったのかどうか正直僕にはわからなかった。
幼い頃から「ニトラム」とバカにされていた彼はサーフィンもそうだったし、やりたいことができなかったり、友達や仲間が欲しくてもできずにずっとバカにされてきた。そういう憤怒のようなものが澱のように心に溜まり続けていく過程が描かれている。しかし、庇護的な存在だったヘレンが亡くなったことで、彼が手にしてしまった大金は銃器を買えてしまうという無差別銃乱射事件を起こすきっかけになってしまう。その前にはやさしかった父のある願いが不条理にたち消え、その因果を作った夫婦への復讐としても彼は銃撃を放つことになる。もちろん被害にあった夫婦は勝手な難癖である。

ニトラム、彼の起こした無差別銃乱射事件は彼を阻害しバカにし続けてきた世間や社会への怒りでしかなかった。もちろん、許されるわけはない。だが、この映画はとても他人事ではない。大きく一線を越えるというよりも、少しずつ少しずつボーダーラインに近づいていき、越えてしまうともう元には戻れないということを描いている。
誰にだって彼のように世間や社会へ牙を剥く可能性はある。とても悲しい物語であり、どの国でもどの地域でもどの町にでもニトラムになる可能性はある、そう誰にだってある。この映画を観ることでニトラムのようになる可能性のある誰かがラインを越えずに済む可能性はあるはずだ。表現だから観ることでラインを越える人もいるだろうが、抑止力になる人の数の方が多いと僕は思う。

 

4月3日
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あだち充著『アイドルA』を久しぶりに読む。今月のPLANETSのブロマガでの連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」で取り上げる作品。
グラビアアイドルとして活躍する里美あずさが高校野球の監督である父に頼まれて、瓜二つの幼馴染の平山圭太と入れ替わって高校野球部挑むという内容。まあ、漫画でできないような内容だし、あだち充が好き放題にするとこういうノリの作品になるなあと思わせるものでもある。
幼少期から野球部監督の父親に鍛えられたことであずさの野球の才能と身体能力は高く、甲子園大会の地区予選で準優勝に導くほどの選手となっていた。その間は圭太がずっと女装をしてグラビアアイドルの里見あずさとして振る舞っているという入れ替わりをやっていた。しかし、あずさ(選手としては平山圭太)はプロ野球球団に指名されてプロの野球選手となってしまう。そして、アイドルとしてその球団のマスコットガールにもなった里見あずさが選手として練習や試合に登板するときには圭太がアイドルやマスコットガールをやる羽目になるというドタバタコメディ&野球という漫画である。
不定期掲載であり、最初は休刊した「ヤングサンデー」で掲載されてその後は「ゲッサン」に掲載場所を移している。あだち充作品として実は連載作品でプロ野球を描いている唯一のものとなっている。

今作と同時期に連載の始まった『クロスゲーム』での主人公のコウとヒロインの青葉の関係性とも呼応している作品になっている。青葉は小学生の頃から野球をしており、そのピッチングフォームに憧れて高校から野球を始めるコウのお手本になっていた。
中学高校と野球部に入る青葉だが、女性のため練習試合などには出れるものの、公式戦には出ることができなかった。コウは青葉の姉で小学5年生の時に亡くなってしまった幼馴染の若葉に言われたことで、青葉がやっていた練習メニューをしながら体を鍛えていた。そのことも大きな要因となって甲子園を目指せるピッチャーへと成長していく。
クロスゲーム』の前作ボクシング漫画『KATSU!』でもヒロインの水谷香月はプロボクサーだった父の影響で幼少期からボクシングをしており、並の男性では叶わないボクサーとなっていた。高校からボクシングを始めることになった里山活樹の才能に惚れ込んでいき、香月は自分のボクシングの夢を彼に託すようになっていく。
この流れを『クロスゲーム』でも引き継いでいたが、この『アイドルA』は両二作品のヒロインが男性である主人公に自分の夢を託さないでもプロになったver.でもある。そして、『タッチ』からあだち充作品にはアイドルがたびたび登場していたが、今作ではプロ野球選手とグラビアアイドルの二刀流を「主人公≒ヒロイン」がこなしていく。だが、あずさになりきる圭太に関しても彼女の父や芸能事務所のマネージャーも次第に見分けがつかないほどなっていき、彼の変装の才能というか同化していく才能にも驚かされるという描写もなされている。
確かに「コントの世界」のような設定なのだが、『KATSU!』と『クロスゲーム』があることでこの作品はコメディというよりもその二作品のヒロインたちが叶えたかった夢を叶えるような設定として描かれている部分も興味深い。

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先日トワイライライトでトマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』上巻を購入したが、トマス・ピンチョン全集は『メイスン&ディクスン』以外の作品は買っているけど、読み始めると脳みそが沸騰するような、解読不明になって結局ほとんどの作品は最後まで読めていない。
ピンチョンによる文学の複雑さと豊穣さに毎度打ち負かされているわけだが、SNSをしている時間があるなら一人の作家をしっかり読もうと思って、まずは一回読んだけど、下巻途中で挫折したピンチョンデビュー作『V.』上巻を再読し始めた。きっとある程度適当に読まないといけないんだよな、ピンチョンは。

古川日出男さんの長さで言えばメガノベル、ウエイトで言えば「重文学」を読み続けてきたことで、僕は以前よりも長くて重い作品を読めるようになっている。前よりもピンチョンの文章が入ってくることに驚いたし、読書もある種筋トレではないが、あるレベルを一定数こなさなければ読めないものもあるし、背伸びすることで読めないものに触れることでやがてそれが読めるようになる道筋を作ることもできることが体感として改めてわかった。
『V.』が執筆されたのは1959年から1962年にかけてらしく、発売は翌年の1963年となっている。約60年前に執筆中だったこのポストモダン文学を、ポストモダンももはやとうの昔に過ぎ去ってしまい、グローバリズムすらも終焉していくかもしれない時代に『V.』を読む。4月から8月末までの小説新人賞の予定とどの作品を応募するのかを再検討したのだけど、その期間中にピンチョン全集13巻読み切りたいが、たぶん無理だろう。せめて今年中にはすべて読み切りたい。

自分がずっと好きで作品にも関わらせてもらったことがある園子温監督からセクハラやパワハラを受けたことある人からの情報を募集していたり、そのことを煽っているアカウントや少しそのことに触れているニュースを見るようになってきた。
いいたいことはあるのだけど、この先どうなっていくのかはわからない。確かにセクハラやパワハラは許されないし、そのことで傷ついている人が当事者へ怒りを向けたりするのはわかる。
SNS において炎上したり、なにかで問題を起こした人には石を外部から投げろと煽る状況はかなり前からツイッターでは見るようになってきたが、正義という名の元に違うタイプの暴力が出現してきてしまう。ひたすらに悪だと、問題があるという人に石を投げたり炎上しているところにつけ火したり、新たな薪をくべることで多くの関係のない人たちが憂さ晴らしがてらしてしまっている部分もあるように感じる部分も正直ある。

ほんとうにいろんな気持ちが混ざる。そんな中、古川日出男さんがゲストに出たラジオをradikoで聴いた。番組のパーソナリティーである武田砂鉄さんとの話の中で今考えているようなことを改めて考えさせてくれる言葉がたくさんあった。
古川さんの新刊『曼陀羅華X』はオウム真理教をモチーフにして書かれた小説なので、そのことをメインに話が展開されていた。テロ事件を起こして死刑囚になった人たちを死刑にした時、それが法的に正しくとも、罪を犯した人が罰をうけるのが法治国家だとしても、ひとが一人その時には死んでいるという事実がある。僕たちがその息の根を止めるボタンを押して殺している側であるということに世間はなんら疑問に思わないし、選挙の当確が出た時のことを真似た報道さえも出てしまった。それが正しいことなのだ、と思えるのか? なんか正しさ故の暴力性のことを考える。国家だけが振るえる暴力があり、それは国民が母体にあり支持しているものだとしても、違和感を持つことしなくなったほうが危険ではないのか。という話がされていた。

オウム真理教の時に、この国のタガが外れ始めたこと、そしてオウムも東日本大震災原発事故も一気に風化していってしまう世界の問題や個人の人生へ与える影響。そういうことも考えないといけない。そのためにある一定時間を使って誰かやある対象について深く向き合うことは大事になってくるのだろうと思ったから、ピンチョンを今年しっかり読むことにした。もちろん、ほかの作家の作品も読みながら。
悪や正義という二項対立や敵や味方という考え方でものごとを考えてしまうと、分断のみが進んでいき対話すらできなくなってしまう。小説も映画も表現というのは答えを出すものではないし、答えを求めるものではない。その表現を見たり聞いたり読んだり感じたりしたことで新しい問いが出てくる。それを自分の人生において、世界や社会において当てはめたりしてその答えを自分なりに思考して探す。そういうものが芸術なはずだし、なんとかこの世界で踏ん張れる力になると僕は思うし、そういうことを古川さんの小説から学んだはずだ。だから、もっと自分の意見や考えだけでなく、ふいに僕に触れた物語の破片や裾のようなものをなんとか掴みたい。その全体像を現して、なんとか形にしたいと前より強く思うようになっている。

武田砂鉄 × 古川日出男【アシタノカレッジ】

 

4月5日
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大好きなギャグ漫画家の増田こうすけさんのコミックス『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和GB 』6巻&『ギリシャ神話劇場 神々と人々の日々』4巻&『あの頃の増田こうすけ劇場 ギャグマンガ家めざし日和』がなんと3巻同時発売になっていた。
増田さんが漫画家になるまでのエッセイ漫画『あの頃の増田こうすけ劇場 ギャグマンガ家めざし日和』は何箇所も声を出して笑ってしまった。帯に「爆笑」「感動」とあるけど、感動はまったくしなかったけど大爆笑はした。

一日中雨で寒かった。仕事はリモートワークだけど、暖房入れても机に向かって椅子に座って作業をしていると足元がすごく寒いので、毛布を腰から下にかけて床に落ちている部分を巻き込むようにしてそこに足裏を乗せて床に素足がつかないようにして、なんとか寒さから体を凌いでいる。
冬の間ずっとこうしているのだが、まさか春分の日が過ぎてこんなに寒いとか、コロナだとか地震頻発だとか知っている人の名前がニュースに出ていていろいろと考えることもあるし、向き合って本音を言えるような場所や距離感でないと思っていることが言えない世界にどんどんなっているのだなと感じてしまう。クローズな場所で限られた人との間でしか情報は共有されなくなっていくという話を聞いたことがあるが、そうなっていくのだろうなと漠然と思った。

 

4月5日
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第63回メフィスト賞を受賞した潮谷験さんのデビュー作『スイッチ 悪意の実験』を読み始めた。日曜日にジュンク堂書店渋谷店に寄った際に、潮谷さんの3冊目が出ていて、デビュー作から1年で3冊出すというスピードもかつてのメフィスト賞作家たちの量も質も速さもある感じがしたので気になって3冊買って帰った。

夏休み、お金がなくて暇を持て余している大学生達に風変わりなアルバイトが持ちかけられた。スポンサーは売れっ子心理コンサルタント。彼は「純粋な悪」を研究課題にしており、アルバイトは実験の協力だという。集まった大学生達のスマホには、自分達とはなんの関わりもなく幸せに暮らしている家族を破滅させるスイッチのアプリがインストールされる。スイッチ押しても押さなくても1ヵ月後に100万円が手に入り、押すメリットはない。「誰も押すわけがない」皆がそう思っていた。しかし……。(公式サイトより)

悪意とはなにか?という話とミステリーが混ざり合って展開していくようだが、読み始めて100Pちょっとでスイッチが押されてしまうところまできた。この作品で主人公たちがバイトがてら参加した実験における人の悪意についての話と主人公の過去が交差してかなりスリリングであり、先がどんどん読みたくなってくる展開になっている。

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昼過ぎに散歩がてら家を出て駅前に行ったら、知人とばったり会ったのでお茶をしながら、ニュースになっている園子温監督のことで話をした。知人も園作品に関わっていたことがあり、だからこそ、というか自分たちが見たり聞いたりしていたこととニュースやSNSなどで流れてくるものの「差」というもの、また、僕らの距離感ではわからない事柄もあるのだけど、このことについて話せる人が周りにいないのでいいタイミングでお茶をすることができて、気持ち的にもすごく助かった。

飲みの席などで園監督が言っていた下ネタのようなものは確かにスルーしている部分もあったから、そのことを聞いて嫌な気持ちになった人はいたのだと思う。それに関しては僕たち同じ場所にいた人たちもそれがセクハラとの認識がなかったし、そういうことを言ってもいい空間にしていたことは申し訳なかったです、としか言いようがない。
女性に対しての性加害の報道に関しては、正直わからない。「やらしてくれるなら映画に出してやるよ」と言っている場面を見たこともないし、十何人とかでアトリエで飲んだりしている時に下ネタは言っていてもそんな話は出ていないと思う、聞いた記憶がない(僕がただ聞いていないだけなのか、そういうことがその場で言われていたかわからない)。女性に対してだらしないなあということと今回の性加害の問題はまるっきり違うから混乱する。

僕のようなファンがアトリエや家での飲み会にも呼んでもらったり、イベント後の打ち上げに参加する機会があったように、男女問わず役者志望の人、映画業界に入りたい人、演劇や音楽や美術といった映画以外のジャンルの人など様々な人たちが園監督の周りには集まっていたし、どっちかというと来るもの拒まずみたいなところもあった。
ファンとして近づきたい人も、なんかおもしろそうだからという人も、映画に出るチャンスを得たい人もなにかで一緒に仕事をしたいと思っている人もいろんな思惑がそれぞれにあった。園監督周りで人間関係を把握している人はおそらくいないんじゃないだろうか、園監督自身も誰が誰だか把握してないところがたぶんあると思う。

少人数で飲んでいる時はだいたい園さんが好きな映画とか都市伝説みたいな話を聞いていただけだった。好きな詩人とか影響を受けた作品の話をしている時はうれしそうだったし、あの空間はとても好きだった。
園監督は17歳の時には「ジーパンをはいた朔太郎」と称されていた詩人だったこともあって、詩集『悪の花』を書いたボードレールなどフランスの詩人たちの影響もかなりあったはずだ。その部分がエロスとタナトスという人間にとって生に欠かせないものであり、園監督の表現にも出ていたと思う。フランスの詩人って現代なら完全にアウトな人も多いのも事実だけど。
もし、報道に出ているような性加害のようなことがあったとして、飲み会が終わったあとで個人的に女性とやりとりをしているのであれば、知りようがないから聞かれてもわからないとしか答えようがない。

園監督を中心にした同心円状があって、監督との関係性や距離感によって関わっているスタッフや関係者それぞれが広がっていく円のどこかに位置している。だから、それぞれの人が見たり聞いたり知っていることのグラデーションがあって、その濃淡は位置や関係性によって違う。だけど、違うことと知らなかったことは同じではないし、世間から見れば知らなかったことにはならないのだろうというのもわかる。
園監督の近くにいたスタッフや関係者や、作品に触れて衝撃を受けた僕のような近いところにいたファンは、何を言っても擁護しているように見えてしまうだろうし、今のこの感じをどう言ったらいいのかわからない。

急に世間から石を投げてもいいよみたいな対象に園監督がなってしまい、ある種の正義感とそれが引き起こす憎悪と嫌悪と悪意が一緒くたになって飛び交っている光景を見せられても、自分の中での園監督への感情とそれらを見た感情が入り混ざってただただ複雑な気持ちになっていく。自分の感情や想いを言葉にする以前に見なければいいけど流れていくタイムラインやネットでのニュースが心をざわつかせる。
僕自身が出来事の加害者ではなくとも、当事者ではなくとも、加害者として批判をされている園監督と一緒に過ごした時間や思い出があり、その関係性から広がった事柄もある。
園監督にはまず今回の報道で出ている事柄に関して被害を訴えている人や声を上げている人たちに誠意を持って対応してもらうしかない。それしか僕には言えない。まずそれをしない限りは、その先の話に進めないと思う。

 

4月6日

朝起きたら園監督が直筆コメントを発表しているというニュースが出ていた。このコメントを読む限りは声を出している人や被害者の人に対して残念ながら謝罪はなかった。
事実と異なる点が多く、と書かれているのでそこが引っかかっているのだとすると、表に出て園監督自身が直接答えるしかないのだろうか。
また、現時点では被害者の声だけであり、加害者とされる園監督の言い分などを聞こうという声はあまりない。こういう問題では二次加害が起きてしまうから被害を訴えている人たちは名前や顔は出せないだろうが、そうなると本当に被害を訴えていたり、声を挙げている人たちではなく、今回の騒動を面白がって虚偽の情報を言う人もいるだろうし、もしかしたら園監督ではないほかの映画業界の人にされたことを園監督にされたことにしてしまう人がいても、それが本当のこととして通ってしまう可能性もある。
やはり園監督側の言い分であったり、釈明などの機会を作った上で判断をしてもらうということは必要なのではないか、と思う。出たら出たでまた炎上というかSNSで罵詈雑言が溢れかえるだろうし、どうしたらいいんだろう。

リモートワーク中はradikoでラジオを聞いていて、水曜日は火曜深夜に放送された番組を流している。TBSラジオの『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カウボーイ』、ニッポン放送緑黄色社会・長屋晴子のオールナイトニッポンクロス』『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポンゼロ』という流れだった。

園監督の報道について触れていた、がっつり話をしていたのは『JUNK 爆笑問題カウボーイ』の太田さんで、園監督についてオープニングから怒りながら批判していた。
太田さんが園監督に対して、作品に出ていた女優さんのこと、そして映画のことについて話をしていたことも胸に響いたが、同時に太田さん自身がビートたけし立川談志太宰治三島由紀夫たちに受けた影響と作品に罪があるという話から「芸術は罪です。罪だからこそ意義がある」と話を展開していた。
太田さんの持論でもあるが、表現というのものは人の人生を容易に変えてしまうものでもある。だからこそ、という太田さんの話であり、この部分まで含んで多くの人に聞いてもらいたい内容だった。
芸術は生きるために必要な罪であり、毒である。だが、その作り手が法や常識から逸脱してしまうことがもはや許されない時代になっている。今ちょうど読んでいるニック・ランド著『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』の中でバイタユが論じたマルキ・ド・サドについての章だったので、頭の中がぐるんぐるんと回ってしまった。

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仕事の休憩中に書店で本日発売になった佐久間宣行著『ずるい仕事術』を購入する。『佐久間宣行のオールナイトニッポンゼロ』リスナーなので課金の思いも含めて、発売したら買おうと思っていた。しかし、結局、この日も仕事終わっても本を読む気にはなれずにページは開けなかった。
オールナイトニッポン」の配信もされたイベントの中で、佐久間さんが語っていたかつて大学生時代に浅草キッドと出会ったという話が水道橋博士さんのYouTubeで改めて語られていた。

 

4月7日
忘れるな。オウム真理教による無差別テロという忌むべき“物語”に立ち向かう小説『曼陀羅華X』(豊崎由美

豊崎さんの的確でありつつ今の時代に起きていることと書籍を重ねる、繋がっているんだよとわからせてくれる書評であり、『曼陀羅華X』へ興味を持ってもらえそうなレビューだった。
オウム真理教はテロを起こして国家転覆を謀り、終末を自らの手で起こそうとした集団なわけだが、オウム真理教に入信したことで知らない間に上の人間たちの判断によって、テロが起こされたことで加害者の側になって人たちも少なからずいるだろう。今はとてもその人たちがどうなっているのかが気になる。
村上春樹著『アンダーグラウンド』は2020年の夏に『ゼロエフ』の取材(福島県の6号線を踏破する)に同行するための準備のひとつとして読んだ作品だが、地下鉄サリン事件の被害に遭った方々のインタビューだった。続編でもあるオウム信者へのインタビュー集である『約束された場所で アンダーグラウンド2』も併せて読んでいたが、今一度僕は読み返さなければならないのかもしれない。

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15時30分から東映本社の試写室で辻村深月原作・吉野耕平監督『ハケンアニメ!』の試写にお声がけしてもらっていたので、運動がてら家から銀座まで約二時間ほど歩いていった。
青山一丁目辺りの青山墓地近く(国立新美術館手前)でヘリコプターが頭上を飛んでいった。前も飛んでいったのを見たことがあるが、どこに向かっているヘリコプターなのだろうか、そのまま赤坂を抜けて日比谷公園を横切って銀座へ。日比谷公園の花壇の花が色とりどりに綺麗に咲いていて、多くの人が撮影をしていたので、立ち止まって撮ってみた。


コロナになる前に何の映画は忘れたが試写で来たこともある東映本社の試写室にかなり久しぶりにやってきた。ここは働いている社員さんたちがいるフロアをふつうに横切っていくという珍しい場所。

直木賞作家・辻村深月がアニメ業界で奮闘する人々の姿を描いた小説「ハケンアニメ!」を映画化。地方公務員からアニメ業界に飛び込んだ新人監督・斎藤瞳は、デビュー作で憧れの天才監督・王子千晴と業界の覇権をかけて争うことに。王子は過去にメガヒット作品を生み出したものの、その過剰なほどのこだわりとわがままぶりが災いして降板が続いていた。プロデューサーの有科香屋子は、そんな王子を8年ぶりに監督復帰させるため大勝負に出る。一方、瞳はクセ者プロデューサーの行城理や個性的な仲間たちとともに、アニメ界の頂点を目指して奮闘するが……。新人監督・瞳を吉岡里帆、天才監督・王子を中村倫也が演じ、柄本佑尾野真千子が共演。「水曜日が消えた」の吉野耕平が監督を務め、劇中に登場するアニメは「テルマエ・ロマエ」の谷東監督や「ONE PIECE STAMPEDE」の大塚隆史監督ら実際に一線で活躍するクリエイター陣が手がけた。(映画.comより)

主人公の新人アニメ監督である斉藤瞳吉岡里帆)はかつて影響を受けて、自分の目標にしていた天才アニメ監督と呼ばれている王子千晴監督(中村倫也)と同じクールの土曜17時に違う局でアニメ番組を制作することになる。王子監督に勝ってアニメ業界の「覇権」を取ると一緒に出席したアニメフェスティバルの対談で宣言する。
アニメ業界を舞台にしたお仕事映画であるが、監督だけでなく、それぞれの作品のプロデューサーや宣伝や制作デスク、編集に作画監督美術監督色彩設計に脚本に制作進行、そして一緒にアニメを作るために仕事を依頼している会社の原画担当など、そして声優と多様な人々が登場する。それぞれの仕事と立場と関係性があり、ひとつの作品を作り上げるために協力をするわけだが、もちろん一筋縄ではいかない。

斉藤監督とプロデューサーの行城(柄本佑)、王子監督とプロデューサーの有科(尾野真千子)というそれぞれの監督とプロデューサーの関係性も見どころであり、この作品は限りなくお仕事映画になっているため、無駄な恋愛要素がほぼなく、そのおかげで非常に見やすいというかわかりやすいものとなっている。
あるとすれば、原画担当の並澤(小野花梨)と市役所観光課の宗森(工藤阿須加)が聖地巡礼企画で何度か一緒にいるうちにというのがなくはないが、ときおり真剣さを際立たせるためにコミカルな雰囲気が入るのだがその役割を担っているようにも見えた。
作品自体はアニメ業界を舞台にしたものだが、基本的にはスポ根的な構造なので非常にわかりやすく、観る人もさきほど書いたように多様な役職があるので、自分を誰かに投影しやすいので感情移入はしやすいものになっている。

主人公の斉藤瞳を演じているのは吉岡里帆だが、今作では行城プロデューサーに当初は作品作り以外のことに駆り出されて不満が大きくなっていく。宣伝も兼ねたファッション誌などの取材でおしゃれな感じにスタイリングしてもらって写真を撮ってもらう時にも「嫌だ」と彼女は不満をもらす。行城には作品を届けるためには何でもやって認知してもらおうというタイプであり、彼女は作品に集中させてくれと嫌がっているシーンも出てくる。彼は「ちょっとはかわいいんだから」とそれを利用しない理由がないという姿勢を通す。
実際に演じているのが吉岡里帆なので、どう見ても顔が整っていてパッと見で美人なので「ちょっとかわいい」レベルではないという逆ファンタジーが起きてしまっているが、創作をしている人で表に出たくない人は男女関わらずいるのも事実だ。
雑誌やメディアに出たら出たでビジュアルに関しての悪口を言われたりSNSで書かれたり、変な客(ストーカーまがいのことをするようなやつ)がついてしまうというデメリットも確かにある。だが、作品を届けるためにはそれをしないと届かない場所や人も確かにいるというのも事実だ。この辺りの問題もしっかり描いているのもリアリティがある。
吉岡里帆さんは好きな女優さんだが、映画に関してはこの作品という印象が今までなく、この作品での斉藤監督は多くの人から共感され、彼女の代表作になっていくのではないかなと思った。もちろん、彼女の存在感が出てくるためにはライバルとしての天才・王子監督を演じる中村倫也さんの存在感や天才っぽさやその実力と振る舞いがあるからこそだし、同時にそれぞれの監督とタッグを組む両プロデューサーを演じたふたりもとてもいい。

個人的なことで言えば、両監督と両プロデューサーの関係性を見ていて、おそらく試写に来ていた他の人とは違う理由で泣いてしまった。文春砲をくらってる園監督の右腕といわれている梅川治男って誰だよ、今まで名前すら知らなかったよ。
前々日に書いたけど「監督を中心に同心円状のグラデーションで監督との関係性や距離感によって関わっているスタッフや関係者それぞれが広がっていく円のどこかにいる。だから、それぞれの人が見たり聞いたり知っていることのグラデーションがあって、その濃淡は位置によって違う」んだけど、僕はノベライズを書くことになったのも脚本を手伝うことになったのも園監督から直接ラインが送られてきてやることになったし、手伝うことになったその二作品のプロデューサー以外とは関わりもないから、もう関係性とか人物相関図がどうなってるのかわからない。『ハケンアニメ!』を観て、ほんとうにこういう関係性で映画やドラマを作っていてくれたらよかったのに、としか思えなかった。

作中で両陣営が作るアニメ作品が登場するが、実際に王子監督が天才と呼ばれる所以を表現するためのアニメ作品『運命戦線リデルライト』を最初にお披露目するシーンでのアニメシーンはほんとうに鳥肌が立ってしまった。ここでしっかりと観客に彼が口だけではない天才だという印象づけができているので、この作品におけるリアリティラインが確保されて観る人に真実味を強く与えることができるものとなっていると思う。
僕はあまり多くはアニメを見ないので、もしかするとアニメ好きな人は違う反応かもしれない。そうだった場合はそこでの天才性を植え付けられるかどうかは変わってしまうかもしれないが、僕にはしっかりすごい作品を作る人だと感じさせてくれるアニメ動画だった。どちらの作品もそこを本気でプロのアニメ制作の人たちが手がけているので、出来栄えが素晴らしい。
働いている人は自分の立場と近い人を見つけて共感するだろうし、物作りのためのチームものとしてもたのしめる。かなり多くの観客に届く、素晴らしい作品だと思うのでヒットすると思う。

 

4月8日
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昼休憩で駅前の銀行に行った帰りにトワイライライトに寄って、今読んでいる『庭』の著者である小山田浩子さんの他の文庫『穴』を購入、一緒にコーヒーも頼んで一服する。解説とかあとがきから読む派です。できるだけ文庫版には解説やあとがきを入れてほしい派でもある。

一日中、朝9時から夜の22時までリモートワーク。肩と目が異様に凝った。深夜の2時前になっても眠れないので、ゴダイゴ『新創世記』をノートパソコンから流していたら落ちてた。最近のスリープミュージック。

 

4月9日
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このところ6冊ぐらいの書籍を同時並行で読み進めている。その中の一冊が散歩で行った代官山蔦屋書店の写真集などがあるコーナーで展開されていた、編集者でもある菅付雅信著『不易と流行の間 ファッションが示す時代精神の読み方』で、ちょっとずつ読んでいる。
もともとファッション業界誌で週刊誌である『WWD JAPAN』に連載していたものがまとまったものであり、連載中が全世界を襲ったコロナパンデミックだったので、ファッション業界とコロナ、そしてブランドや価値観や市場やサステナブル問題などの変化や新しい試みなどが取り上げられている。

ちょうど「13 政治がファッションになる時」までを読んでページを閉じようと思ったら、次は「14」ではなく、「対談1 ファッションは果敢に変わりながら、大事なものを守る」という著者の菅付さんと『WWD JAPAN』編集長の村上要さんの対談があったのでそこまで読んで今日のところは閉じようと読んでみた。
一神教ではない日本は、高み(ビルやピラミッドのようなもの)ではなく奥深さに価値を見出す(神社とか)強みを出していく方がいい(オタク的な価値観と通じているのかもしれない)という話もおもしろかった。ほかにもこんな部分は興味深かった。

M(注:村上要):そうですね。ことジェンダーの問題に関していうと、セクシャルマイノリティが発信側に立っているケースが多い業界だから、という理由もあると思うんですよ。だからすごくセンシティヴだし、敏感なところがある。ただしLGBTQ的なものに対しては早くから敏感だったけれど、人種や体型の問題に関して結構初歩的なところでつまづいて、炎上もしてきました。
 最近では「女性性」をどう表現するかがテーマになっています。22年春夏シーズンではもう一度曲線美を謳うというか、ボディコンシャスなスタイルが復活しました。ミュウミュウでは「オッパイ、半分見えてます」くらいの洋服が登場したり、2000年くらいのパリス・ヒルトンやブリトニースピアーズ再びみたいなスタイルがガンガン出ているんです。そういうクリエイションをした人たちに話を聞き、やっぱり「女らしさ」を謳歌したい人の存在を再認識しました。ジェンダーレスという志向は、もしかしたらそういう人たちをないがしろにしてきたんじゃないか、傷つけていたんじゃないかと反省さえしています。だからってジェンダーレスを全然否定するつもりもないんです。と同時に「男に媚びるためのセクシー」も別に否定しなくてもよくない? みたいな気持ち。双方があっていいし、そういうクリエイションがすぐさま出てきたのは、ファッションのレセプト(受容)能力をすごく発揮していると思ったんです。
その発信とレセプトの関係性が、ことジェンダーの問題に関しては高まっていて面白いと感じるのは、自分自身もセクシャルマイノリティだからかもしれないですね。

S(注:菅付雅信):ファッションは変化が激しいから、現場にいると目先の変化に右往左往しちゃうのかもしれませんね。でも大事なのは、変化しながらも、姿勢や精神は変えないことだと思うんですよね。見た目は変化しながらも、精神や哲学は変わらないブランドになっていくというか、変わらないメッセンジャーになっていくこと。そこを日本のファッション業界は見失いがちだと思うんです。
M:見失いがちですね。本当にそう思います。
S:欧米の強いファッションブランドは、まず変わらないものをしっかり決めて、あとは変えている気がします。「見た目はガンガン変えるけど、ブランドのスピリッツは変えないぞ」みたいな。そこが日本のブランドは全体的に弱い。強いのはコム デ ギャルソンとかイッセイミヤケのような、カリスマ・デザイナーの元でパリコレで戦っている人たちと、ユニクロのようなカリスマ経営者がいるところですよね。両方に共通するのは、世界で戦えているブランド。世界で戦うには、変わらない強いスピリットが必要です。でも日本の多くのブランドは、けっこう市場に合わせてドタバタしちゃう。

この書籍はファッション業界のことについて書かれているが、僕のようにファッション業界と関係なかったり、あまりファッションに関心がなかったりする、外部の人が読んでもおもしろいと思うし、他のジャンルや業界でも重なる部分がたくさんあると気づけるものになっている。

「第63回メフィスト賞」受賞作である潮谷験著『スイッチ 悪意の実験』を読了。かつては「恋愛ドラマ」の王道であった「月9」枠で放送された『ミステリという勿れ』がヒットし、4月から6月クールは『元彼の遺言状』が放送される。この二作品はミステリードラマであることも話題になっているが、この『スイッチ 悪意の実験』はこの「月9」枠でこの流れでいけばドラマの原作候補になっていたり、候補になりえる可能性があるのではないか、と思った。
映像化にかなり向いている(画の想像がかなりできた)内容であり、映画二時間というよりは連続ドラマでやるとかなりおもしろいものになるだろう。もちろんミステリーなので謎解きであるものの、いくつかの要素が重なっているし、登場人物もどんどん死んでいくというわけでもないから、主要人物はほとんど退場しない。
キーワードである「悪意」がどう展開し、物語と謎解きに関係していくのか、というのもかなりの見どころになりそう。と言っても単純にミステリーとしておもしろく、メフィスト賞受賞作らしく一筋縄ではいかない感じも好感が持てるし、もっと評価されていくんじゃないだろうか。
メフィスト賞応募時のタイトルは『スイッチ』だったようだが、刊行される際にサブタイトル的な『悪意の実験』が追加されている。このサブタイトルも実は読み手をミスリードというか、ある種の思い込みをさせる効用もある。サブタイトルはおそらく編集者が提案したのだろう。講談社文芸第三出版部の編集者ならたぶんこういう提案をして作品をさらに上に押し上げるんじゃないかな。
このサブタイトルによって、後半からの謎解きの際に「悪意」という単語にうまいことやられてしまったとわかってくる。潮谷験さんの二作目と三作目は一緒に購入していたので、そちらを読むがさらに楽しみになった。

 

4月10日
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水曜日のダウンタウン』の演出を手がける藤井健太郎さんとBISHなどが所属する「WACK代表取締役&音楽プロデューサーの渡辺淳之介さんの対談集『悪企のすゝめ 大人を煙に巻く仕事術』を買って読み始めたら最後まで一気に読んでしまった。
先日購入して読み終わっていた佐久間宣行著『ずるい仕事術』もそうだが、ヒットを出している人たちのアウトプットだけでなく、インプットや仕事に対しての考えやどう行動したのかが気になっている人が多いということだろう。
『ずるい仕事術』は新社会人の人だけでなく、部下を持つ上司の立場になったりした人など、さまざまな人へのアドバイスがあるので多くの人にとってタメになるし、実践的なアドバイスが参考になると思う。仕事をする上で知っておきたい心構えとかいかに自分がやりたいことをするためになにをしておくかが分かりやすく書かれていた。
佐久間さんが今の存在感をTV業界だけではなく、他ジャンルの人からも注目されるようになった背景には、細かい気配りなどの部分も含めてしっかりと先を見据えて行動をしていたこと、人とどう付き合ってやりとりをしたほうがいいかを考えていたからなんだと思う。

僕個人はビジネス書とか自己啓発書をたくさん読むほうではないが、佐久間さんのラジオのリスナーで番組のファンであり、藤井さんの手がけている『水曜日のダウンタウン』『クイズ☆正解は一年後』をたのしんでいるので読んでみようと思った。
WACK」所属のアイドルにはあまり詳しくないが、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃん×アイドルオーディション企画「モンスターアイドル」はとてもおもしろかったし、BISHのブレイクぶりも知ってはいるので渡辺さんがどんな人かも気になっていた。
『ずるい仕事術』と『悪企のすゝめ 大人を煙に巻く仕事術』は一緒に読むことで自分に合うものや会社や組織の中でどう動いた方が自分のやりたいことができるか、がわかるんじゃないだろうか、別に対照的な裏表という感じではなく繋がっている書籍だと思う。このところ個人的にも考えることがあるので、こういう働き方に関する本の方が実は読みやすかったりする。その中で気になったのは下記の部分だった。

渡辺 「ネガティブ反応が出ちゃうかな」って思ったときの、それでも出す、出さないの判断の軸ってどこにあります?
藤井 最後は、自分の中のバランス感覚頼りになりますよね。でも、おもしろさが突き抜けてたら気にならなくなったりするんですよ。あまりおもしろくないから悪いところが目立つっていうか(笑)
渡辺 テレビはより一層だと思うんですけど、「否」に対してのアレルギーってすごいじゃないですか。「それって、どうにかならないのかなあ」って。
藤井 「10件クレームが来たら大ごと」みたいなね。たまに、「芸人たちをつらい目にあわせてる」って、批判をされることもあるけど、それはお互いある種の「大きな合意」のもとでやっているわけで。そういうクレームを1個ずつ受け止めていると、クロちゃんとかは、食い扶持がなくなっちゃう(笑)。
渡辺 クロちゃんの生活が(笑)。
藤井 ただ、クロちゃんって不思議で、いじめられる側に立っても苦情が来ないのに、「モンスターアイドル」のときみたいに、クロちゃんが強者の立場になると、苦情が殺到するんです(笑)。そこには、外見に対する差別的なものもあるだろうし、「あのクロちゃんが偉そうにするなんて許せない」っていう、潜在的に下に見てる感じもある。だから、クレームを入れる人のほうがひどいってこともありますよね。
渡辺 全体的な傾向として、抗議が来るとみんな日和っちゃいますよね。僕の場合も、コロナ禍でライブをやるときに「なんでやるんだ!」って言われると、ズシンとくるんですよ。「こっちはガイドラインに従ってやっているんだけどな」って。「ライブに行くのが生きがいです」と言ってくれる人がいても、「なんでやるんですか!」みたいな、少人数だけどマイナスの声のほうが大きく聞こえちゃって。
藤井 テレビ局でも、ポジティブな意見ってわざわざメールをしてこないですからね。
渡辺 たしかに、「あー、おもしろかった!!」で終わりですもんね(笑)。
藤井 昔は、抗議電話がかかってくると、そのしゃべり方だったりで、あきらかに普通じゃないから「この人の話は聞く必要がないな」ってわかったんですよね。この前も珍しくクレームがハガキで来たんですけど、めちゃくちゃ細かい文字がびっしりで「絶対こんなの見る必要がない手紙」というか(笑)。それと一緒で、ツイッターで文句を言ってくる人も、前後の投稿まで見にいけば、そりゃお金配りもリツイートしてるし(笑)、「この人の意見は聞く必要がないな」ってわかるんですけど、1つの投稿だけで見ると、画一化されたフォーマットの中では一見まともなことが書いているかのように見えちゃうんですよね。

この部分は園監督の問題で僕が感じていることにもちょっと通じていた。例えば、今回の件では普通にがんばっている人が可哀想という意見を見た(もちろん合意がないのは論外で性加害と言われたら、そうでしかない)。だが、そういう風に考えている人がもしお金配りツイートをリツイートしていたら、僕はその人の言うことについて、というか言っている人には藤井さんと同様な気持ちになるだろうなと思った。

お金配りおじさんは完全な勝ち組で、ネオリベ側で財を成した人だ。ゼロ年代以降に自己責任という名のせいでいろんなことが崩壊していったわけだが、その中で手段を選ばずに金を稼いでる人が勝ち(正義)的な価値観が強くなっていった。
貧しかったり、生活が困窮している人はその人のせいだ(努力をしていない怠け者みたいなニュアンス)ということになっていってしまった。プラスで言えばそこには正社員になれなかったロスジェネ世代と呼ばれた僕ら、もはや中年にも下の世代からそれに似たような視線は向けられている。そういう人たちを救ったり手を差し伸べるが公共の福祉であるはずなのに、それが断ち切られたりして、公助しないといけないのに自助でやってくれということを政府が言い出して、さらに家族や個人に責任や対応を押しやっているのが現実だ。
つまり、何をしても勝てばいいみたいな価値観が強くなった時代に、その代表格みたいな人がやっている下品な金配りツイートをリツイートするのはその価値観の軍門に下ったようなものなのだから、手段に関して文句は言えないのではないかと思ってしまう部分もある。

今回の件で言えば、報道されているように双方の合意がなかったり、何も知らないで誰かに飲み会などに連れて行かれて置き去りにされてそこで関係を強要されたのであれば、もちろんそのことに関して擁護のしようはない。
しかし、同時に「使えるものは使う」ということが今どのようなこととして捉えられているのかとも考えたりする。金持ちだったり文化的に豊かな家だったり、そういう「持っている人」がそれを活かすことは問題がないし、問題とはされていない(アメリカであれば、富裕層は寄付をしたりボランティア活動など社会的な貢献をするのが一般的であり、「ノブレス・オブリージュ」と呼ばれるものがある)。もしかしたら本人が気づいていないところで優遇されている場合もあるだろう。そういうものがない人間は夢や希望を叶えるため、近づくためにいろんなことをする。体を使おうが何をしてものし上がるチャンスを得ようとする人だっている。

だが、いわゆる枕営業みたいものに関しては俳優(男女性別問わず)が監督やプロデューサーなどの作品を作る上で決定権などを持っている人に近づいて、そういうことをしようとしたら、それを言われた人たちは断固として断らないといけないし、枕営業をして売れると後ろめたさやずっと隠さないといけないことができるからしないほうがいいときちんと伝えないといけない。
人は何かを隠し続けるとそれが心の奥底に澱のように溜まって行ってしまう。それはやっぱりいつか爆発したり、精神的ことだけでなく心身一体だから身体にも不調が出てきしまうのだと思う。もちろん、パワーバランスが上の人は枕営業みたいなものを強要するのもダメだし絶対にやってはいけない。昔はあったかもしれないが現在においてはもうありえないということしっかり認識するしかない。

映画や映像業界で言えば、たぶん俳優部や撮影部とかでそれぞれに労働組合とかみたいなもの作るか、組合まで行かなくても第三者機関に問題が起きた時に言えるような仕組みを作る。また同時に講習みたいなものを大手の映画会社主導でやっていくしかないのだろう。
僕がスタッフをしているウェブサイトの親会社は1月から株式譲渡で変わったが、前の親会社はIT系の大手だったので毎月コンプライアンス講習みたいなものが行われていた。ウェブで資料を読んで質問に答えて合格点になるまでやっていくというものだが、ハラスメントだけでなく個人情報の取り扱いや情報セキュリティや下請法や著作権などについてのものがあった。これは大手だとコンプライアンス違反によるリスクマネジメントという側面がかなり強いし、企業として社会的に信頼を得ることで会社の価値をさらに上げるというものだった。
こういうことは大手がまず率先してやっていくしかない、そうすれば下請けの会社とかにも広がっていくし、下請けの会社の人やフリーランスの人が大手や仕事を発注している会社の人間から横暴なことやコンプライアンス的にアウトなことをされた場合に泣き寝入りせずにすむようになる。映画撮影前に講習をするとかを撮影の条件にするとかして変えていくしかないと思う。

今はできるだけSNSは見ないようにしているけどたまに見てしまう。特にツイッターは共感と悪意を増幅させて拡散させていく装置なんだなと改めて思う。
正しいことをツイートしている人がいる、指摘している人がいる。そこに群がって標的に石を投げていいと思った人たちは悪意と憎悪をこの機会に、というぐらいにぶつけている。正しいことをしようとしているのに、なぜそこに加担する人たちが書いている言葉が罵詈雑言や誹謗中傷などの汚いものが多いのか、もちろん対象に向けての生理的な嫌悪感などもあるのだろうが、それにしてもそういうことは本質を歪めてしまうと思うのだけど。嫌悪だけでなく、妬みや嫉みであったり、今まで調子に乗っていたから気に食わないみたいな感じもあるのだろう。そういう人たちを見ると虎の威を借る狐ならぬ、正義の威を借る何だろう、偽善者でもないし小悪党でもないし、なんにせよ「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉を思い出す。
今なら叩いていい、そういう感じがTHE村社会的な日本ぽさ全開で、個人の尊厳とか権利がなんだかんだ蔑ろにされてきたことに通じているんだろう。それって結局のところセクハラやパワハラに繋がっているとも思うし。個人の自由や尊厳や権利を守ろうとする国は文化を大事にするけど、日本はそうじゃない。

あとツイッターだけではないがSNSによって「書かされてしまう」問題もあるのだろう。その辺りのことは大塚英志さんの『大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム』『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』がもっと読まれるといいのに。このシステムによって思っていないことや条件反射的に「書かされてしまっている」ことはないのか、少しは疑問は持った方がいいと大塚さんなら言うのだろうなと思った。

STUTS & 松たか子 with 3exes - Presence Remix feat. T-Pablow, Daichi Yamamoto, NENE, BIM, KID FRESINO(なぜこの曲かっていうのは『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲を藤井健太郎さんがプロデュースしているから)

 

4月11日
清純派女優・夏帆が不信感を抱いた園子温監督の〝困惑演出〟 出演ドラマは黒歴史

Yahoo!を見ていたら目に入ってきたニュース。東スポの記事だが、夏帆さんがドラマ『みんな!エスパーだよ!』に出演したものの下着露出や性的なセリフがあったため、映画版のオファーを受けなかったと書かれている。
これを読んで思ったのが、夏帆さんが映画版に出ていないのはスケジュール的に無理だったという話を聞いたことがあるし、2015年公開の『映画 みんな!エスパーだよ!』には出演していないが、2017年に配信された園子温総監督Amazonプライムドラマ『東京ヴァンパイアホテル』では主役のKを演じている。
確かに現在の状況では夏帆さんにとって園監督作品に出たことは黒歴史にしたいとしても、この記事とタイトルは明らかにミスリードしている部分がある。
ドラマ版『みんな!エスパーだよ!』のあとに『東京ヴァンパイアホテル』に出演したことを知った上で省いているのか、調べもせずに書いているか。おそらく調べればすぐにわかることなので、この記事タイトルにするためにそのあとにもドラマに出演していることをわざと書かなかったではないだろうか。
せめて、こうやってネタにするなら、写真集が発売になったのだから、そのこととかに触れてあげるとかしてあげればと思うけど、でも、黒歴史とか書いている記事だから宣伝しても逆効果になってしまうのか。

夏帆が写真集に詰め込んだ、20代最後の2年間 「自分自身も世の中も、目まぐるしく変化した濃密な時間でした」

この写真集はカメラマンの石田真澄さんのツイッターやインスタグラムでどんな写真が撮られているか紹介されていて見ていて、すごくいいなと思っていた。
いろんな媒体でインタビューを受けているのも、届けたいという気持ちが強いんだなと感じさせられる。
夏帆さんは山下敦弘監督『天然コケッコー』は素晴らしかったし、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』も『RED』もよかったけど、個人的には黒沢清監督『予兆 散歩する侵略者』がとてもよかったので何回も観ている好きな女優さん。

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大塚英志原作×山崎峰水漫画『くだんのピストル』を読む。このコンビでの『黒鷺死体宅配便』のスピンオフ的な作品かと思ったらどうやら違うらしい。表紙のピストルを持っている人だけど顔が犬な人物は坂本龍馬です。この漫画は主人公のくだんとごく一部の登場人物を除いて、犬とか馬とか動物の顔になっている。
幕末における黒船来襲、そして幕府の終わりと近代化の波がやってくる明治までを駆け抜けた人物たちを描いていくものになるみたい。
明治維新とはなんだったのか? そもそも近代化したはずの日本のこの状況とは? みたいなことで大塚さんはこの激動の時代を舞台にして漫画をやらないといけないんだろうなって感じて、山崎さんと組んで、ちょっとだけ見覚えのあるキャラクターを手塚治虫スターシステム的に転用していく形で今までの読者に興味を持たせながら、物語ろうとしているんだろうなと昔からの読者としては思う。

 

4月12日
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昼前に歩いて渋谷まで行って、パルコ渋谷にあるホワイトシネクイントでケネス・ブラナー監督『ベルファスト』を鑑賞。先日発表になったアカデミー賞脚本賞を受賞した作品。
劇場横には4月22日から公開のマイク・ミルズ監督『カモン カモン』のポスターが掲示されていた。偶然だが、『ベルファスト』もモノクロであり、『カモン カモン』と同日公開のジャック・オディアール監督『パリ13区』も予告を見ると同じくモノクロみたいだったの、そういう流れが来ているのかもしれない。
モノクロのほうがより美しさが際立つみたいな部分もあるだろうし、今作『ベルファスト』のように1969年という過去を舞台にした作品はモノクロのほうが味わいとノスタルジーもさらに増す。

俳優・監督・舞台演出家として世界的に活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期の体験を投影して描いた自伝的作品。ブラナーの出身地である北アイルランドベルファストを舞台に、激動の時代に翻弄されるベルファストの様子や、困難の中で大人になっていく少年の成長などを、力強いモノクロの映像でつづった。ベルファストで生まれ育った9歳の少年バディは、家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごしていた。笑顔と愛に包まれた日常はバディにとって完璧な世界だった。しかし、1969年8月15日、プロテスタント武装集団がカトリック住民への攻撃を始め、穏やかだったバディの世界は突如として悪夢へと変わってしまう。住民すべてが顔なじみで、ひとつの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断され、暴力と隣り合わせの日々の中で、バディと家族たちも故郷を離れるか否かの決断を迫られる。アカデミー賞の前哨戦として名高い第46回トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞。第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞ほか計7部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。(映画.comより)

ベルファスト』歴史背景

この作品は予告編もよくて気になっていたが、まずタイトルでもあり物語の舞台になっている「ベルファスト」に僕自身が一度行ったことがあったので、映画が公開したら絶対に劇場で観ようと思っていた。
祖母の兄で初生雛鑑別師だった新市さんは北アイルランドのアーマー州というところに第二次世界大戦後に相棒と移り住んで、亡くなるまでその地で過ごした。一度取材も兼ねて訪ねた際に、北アイルランドへの直送便はなかったのでロンドンのヒースロー空港で乗り換えてベルファスト空港に行った。そこから電車に乗ってアーマー州の最寄りの駅まで行ったことがあり、帰りも同様だったので数時間だけだがベルファスト市内を歩いたりして、少しだけ観光をしていた。タイタニック号が出港した場所としても世界的には有名な都市だが、9年ほど前だしあまり記憶はない。

予告編を見る限りは主人公の少年であるバディ一家が故郷であるベルファストから外へ出ていく内容だなとはわかっていたが、プロテスタントの暴徒が街に住んでいるカトリック住民へ攻撃を始めた宗教上の対立であり、昔からずっと知っている顔馴染みしかいなかったバディだけでなく、彼の家族にも大切だった場所が分断されていく様を描いている。
このことは北アイルランドの歴史における大きな遺恨を残した問題であり、ケネス・ブラナー監督自身が「『ベルファスト』はとてもパーソナルな作品だ。私が愛した場所、愛した人たちの物語だ。」と公式サイトでもコメントしているように、個人的な事柄を描いているが、それ故により多くの人にも届くものとなっている。また現在の世界における人種差別だけでないさまざまな分断が連鎖していっていることにも通じている。
大事な場所を捨てても、家族が一緒に生きられる場所を選ぶまでを約100分の尺で描いているのだが、非常にコンパクトながら軸のあるしっかりした作品になっていた。
バディだけでなく、母や父や兄、そしておじいちゃんとおばあちゃんという一家の顔がとてもよくて、いい家族だなあと思うし、ベルファストで生まれて生きてきた彼らも分断されて、宗教観の対立(北アイルランド紛争に突入していく)によって隣人や顔見知りと争ったり、傷つけ合うことはしたくないと大事な土地から出ていこうと決意する。とくに最後のおばあちゃんのセリフと顔はどうしても泣けてくる。

作品自体では宗教観の対立についてメインで描いているというよりは、急に(もちろんそれまでにいろんな経緯があるにしても)表出した生活に関わる問題にどう対処するのか、大事なものがなにか、何を選ぶのかをある家族を通して監督自身の個人的な思い出と絡めているが、語りがとても秀逸だった。これが脚本賞を取ったのはすごく納得できる。監督自身が描きたいもの、見せたいものにしっかりと的を絞って無駄なことをしてないし、争いが終わらない世界へ向けたはっきりとしたメッセージになっていた。

 

4月13日
後藤正文の朝からロック)野蛮な世界を変えるには


古川日出男、地下鉄サリン題材に長編 多様な世界観示す

ゴッチさんと古川さんの新聞記事をウェブで読む。

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ニコラに行って、日向夏マスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをいただく。カウンターでいろいろ話せたので気力と体力もちょっとは復活ができた。ありがたい。

 

青山真治監督の撮影が予定されていた新作は妻のとよた真帆さんたちの手でなんとか形になるみたいだ。これはほんとうによかった。

 

4月14日
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小雨が降り始めたが昼前に散歩がてら代官山蔦屋書店まで歩いて行った。レイモンド・カーヴァー著『大聖堂』を手に取り、持っていたのかどうかわからなかったのでとりあえず購入した。
中央公論社から刊行されている「村上春樹翻訳ライブラリー」の中のレイモンド・カーヴァー作品は東京に来て、すぐに教えてもらって買い出して揃えていた。だが、数年前に断捨離がてら一度書籍をわりと多く古本屋に売った時にいくつか売ってしまっていた。そのせいで『大聖堂』が家にあるかどうかわからなかったが、やっぱり家にはあった。その時に手放したのは『ウルトラマリン』『象』だったようだ。
2007年に出された初刷と今回購入した2020年の7刷では、定価が前者は税抜きで1300円、後者が1500円だった。消費税も5%と10%と違うので約300円も同じ本でも違う、世知辛い。とりあえず新しいのは誰かにあげようと思って、古い前から家にあるやつに収録されている『ぼくが電話をかけている場所』と『大聖堂』をだけ読んで、自分の作業をそのあとはずっとしていた。


4月15日トマス・ピンチョン著『V.』下巻に突入。上巻は久しぶりの再読だったので最初のあたりはまったく覚えていなかった。ブームになってペットとして飼われたものの、次第に成長して大きくなっていくと人の手に追えなくなってしまい、トイレや浴槽から捨てられたワニたちがニューヨークの下水道で大きくなっているのを駆除する話が出てきて、それでなんとなく内容を思い出した。それにしても前よりは文章を読めるようになったと思うけど、それでもレイヤーや複数だし、固有名詞とかわからないものが多いのでやっぱり読みやすいとは言えない。でも、おもしろくないわけではなくて、このおもしろさのどのくらいを自分が理解できているのかがちょっとわからない。

『SOUL for SALE Phase Ⅱ』「奪った時間を売る方法」

「時間を奪うコンテンツが直接収益を上げる」ということではなく、「そのようなコンテンツには広告を出したい人がたくさん出てくるので、その人たちに『ユーザーの時間を奪っている』という事実が『売れる』」ということを意味している。いわゆる「三者間市場」というやつだ。

社会学者の鈴木謙介さんのブログがアップされていたので読む。もし収益を上げようとしたら「ユーザーの時間を奪う」方法を考えないといけないと思うと、なんだかなあ。


水道橋博士さんのYouTubeチャンネル「水道橋博士の異常な対談 〜Dr.Strangetalk〜」で映画評論家の町山智浩さんを迎えて、園子温監督の性加害問題についての対談が2回に分けて配信された。
町山さんが「園子温監督の作品を観てきていいたいことがあったんでこの場を借りて」と言ってから次回へというのはあんまり良くない気がする。2回目のほうがもともと再生数は下がりやすいだろうけど、これで余計に2回目のほうが見られなくなって、そこまでの見た感想でSNSに意見を書かれてしまうだろうしもったいないなと思った。

町山さんが話されているように園監督は「父殺し」をずっと描いてきた人であり、そのモチーフは庵野秀明監督もずっと描いてきている。庵野監督が一学年上だが二人は同世代であり、「大きな物語」が終わる前に映画や漫画やアニメに影響を受けた「おたく第一世代」で、彼らの父親たちは戦争を体験した世代だろう。
庵野さんを特集したNHKでのドキュメンタリーでも、エヴァなどの体が破壊されてしまったり、その体の一部が損なわれてしまうことに関して、彼は自分の父が事故で足を失って、それを見て成長したことを挙げていたと思う。
園監督もお父さんへの愛憎みたいなものがずっとあったし、それは作品にも表現されていた。それは父への反抗もあったのだろうけど、父に理解されないという気持ちの方が強かったのではないかなと思ったことがある。園監督の父への気持ちがある種、解放された(呪縛を解いた)のは『ちゃんと伝える』という作品を取ってからだったと思う。
その後に撮影した『ヒミズ』も「父殺し」の話だった。また、オイディプスコンプレックスは物語の王道パターンでもあるから『ヒミズ』が海外にも届いて評価されることにつながったのだと思う。

ヒミズ』以降に園監督がある種の権力を持って、かつてはモテなかったけどそれが可能になっていったという話もこの対談では出てくる。『ラブ&ピース』や『地獄でなぜ悪い』における主人公がなにものかになりたい人というモチーフはそれ以前のものからは変わっていないが、それらを撮影の何年か前に脚本として書いていたが、実際に撮影する頃には園監督自身の立場がその頃とは変わってしまっているという指摘もでていた。そこにはキリスト教の影響もあるだろうし、父がいなくなり、映画監督として成功を収めたことで父的な万能感を園監督が持ったという見方もできるのだろう。僕からすると園さんは父という感じはなかった。だけど、映画業界で一緒に仕事をする若い世代に対しては父的な形で接していたのかもしれない。

町山さんも水道橋博士さんも映画業界にいないから、今回報道に出ているようなキャスティングにおける性行為の強要などは知らないということ、映画業界では噂だったけど聞こえてきていなかったと言われていた。
ちょこちょこ撮影のエキストラに行ったり、お酒の席に呼んでもらっていた僕だって今回の性加害の話は聞いたことがないし、こういう噂があるんだよとも言われたこともない。
映画業界でない人でも風の噂に聞いていたという話もSNSで見たけど、映画業界の人でも町山さんや博士さんに会った時に直接そんな話をするとは思えないんだよなあ。
あるいは、もうひとつの可能性としては映画業界では噂になっていることは園監督と懇意にしている人たちは当然知った上で付き合っていると勝手に思われていたというパターンが考えられる。この二つが混ざり合っているから近そうに見える人でも知らなかったりする状況が生まれていたりしないだろうか。

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本日〆切だったものをなんとか提出した。寝る前に先日同時並行で読んでいる本のうち2冊読み終わったので新たに川上弘美著『どこから行っても遠い町』を読み始めた。
最初の「小屋のある屋上」からぐいぐいと引きつけられるものがあったが、そのあとの「午前六時のバケツ」と「夕つかたの水」を続けて読むと、連作短編小説とはわかっていたけど、「ああ、こういう風につなげてくるんだ」とうれしくなるほどの巧さがあった。
ひとつの町がより立体的になってくるし、人物の相関図が浮かんできた。もちろんほかの作家さんも場所や登場人物が連なっている連作短編小説作品を書かれているけど、川上さんの短編同士はその距離感がちょうどいいのだと思う。

 

4月16日
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シネクイントでエドガー・ライト監督『スパークス・ブラザーズ』の朝イチの回を鑑賞。昼からの予定前にちょうど終わる時間帯だったのでいいタイミングだった。

「ラストナイト・イン・ソーホー」「ベイビー・ドライバー」のエドガー・ライト監督が初めて手がけたドキュメンタリー映画で、謎に包まれた兄弟バンド「スパークス」の真実に迫った音楽ドキュメンタリー。ロン&ラッセル・メイル兄弟によって1960年代に結成されたスパークスは、実験精神あふれる先進的なサウンドとライブパフォーマンスでカルト的な支持を集め、時代とともに革命を起こし続けてきた。半世紀以上にもわたる活動の軌跡を貴重なアーカイブ映像で振り返るほか、彼らの等身大の姿にもカメラを向け、人気の理由をひも解いていく。さらに、ベックやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノス、トッド・ラングレンなど、スパークスに影響を受けたアーティストたちが出演し、彼らの魅力を語る。(映画.comより)

スパークスが原案と音楽を手がけているレオス・カラックス監督『アネット』が公開されるということと、菊地成孔さんがブロマガの日記でスパークスについて言及して興奮した文章を書かれていたことで彼らに興味を持った。
この映画の冒頭でインタビューを受けているBECKは僕もすごく好きなミュージシャンで、おそらく海外アーティストでは一番多くライブを観ていると思う。そのBECKが絶賛していて、彼らがやってきた音楽や存在について称賛しているので、「おお、マジか」と思った瞬間に引き込まれていた。BECKから始めることを決めたエドガー・ライト監督さすがだ。後半にはエドガー・ライト監督自体もインタビューに答えていて、笑ってしまった。
スパークス」メンバーであるロン&ラッセルのメイル兄弟だけではなく、初期のバンドメンバーやプロデューサーや彼らに影響を受けたミュージシャンや俳優や作家たちが「スパークス」について語っていく構成になっていた。

早くに亡くなってしまったイラストレーターだった父のからの影響やメイル兄弟が大好きだった映画、そして影響を受けた音楽(ビートルズのコンサートを2回観ているらしい)や住んでいたLA(サンタモニカや彼らが通っていたUCLA)の環境などから始まっていく。過去の映像や新聞記事なども使われ、作中ではそれらのコラージュ的なものが出てきたり、紙人形やイラストでメイル兄弟やバンドメンバーや関係者などが再現映像に登場したりして、エドガー・ライト監督らしいポップで親しみやすいものとなっていた。
50年で25枚のアルバムという異様なキャリア、そして、デビューから現在に至るまでの彼らの音楽を聴いているとおそろしいまでにアーティストであり、彼らはずっとアートをしていた。自己模倣に陥らずに作ったものをどんどん壊しては新しいものを咲かせては、興味あるものへ移り変わっていく。表面上は変わり続けているが、芯にあるものは変わらないというまさにアーティストのお手本のような活動がわかってくる。

80年代になる前にコンピューターミュージック的なクラブダンスミュージックやテクノの走りのようなものをやっていたりする。その影響を受けた世代が世に出て売れていくとそのファンからすると、ひと回りして先祖であるスパークスの存在がよくわからない、真似しているという謎の状況が起きていたりしたらしい。彼らの音楽は変わり続けていき、その蒔いた種が発芽して大きく育って影響を与える頃にはまったく違うタイプの音楽をやっているので、そのつながりが若い世代には理解ができない、これはまさにミュージシャンズ・ミュージシャンだと言える。

兄弟のデュオがここまで長く一緒に活動している例はおそらくないはずだ。二人とも音楽に真剣であり、同時に二人ではないと作れないとわかっている。兄のロンが作詞作曲、弟のラッセルがボーカルだが、兄弟でビジュアルも正反対だし、ラッセルはイケメンな感じでフロントマンという感じがあるし煌びやか、彼の衣装の遍歴を見ていくとすごくその時代ごとのブームや流行みたいなものが出ていておもしろい。ロンは初期はヒトラーチャップリンみたいな髭を生やしていたのでそう書かれていたらしいけど、ある種不気味で寡黙な博士みたいな雰囲気だが、その正反対に見える兄弟が混ざり合うとロックでポップでテクノでネオクラシックといろんなジャンルを横断できてしまう。
ほんとうにすごくヘンテコだし、なにかが逸脱しているから目が離せない、だが、同時にそれはド直球のエンタメではないから、ヒットしてもそれをずっと望む人たちをすぐに置いてけぼりにしていって、また新しいことを始める。その姿勢がやはりアートだと感じた。壊しながら作り続ける。

映画を観ているとほんとうに初期から最新作までのアルバムを聴いてみたいと思って、この後の用事が終わってからツタヤ渋谷店のレンタルコーナーによった。彼らの名前を最初に世に知らしめた『キモノ・マイ・ハウス』と『ヒポポタマス』のみしか残っていなかった。ほかはスペースがぽっかり空いていたのでレンタル中みたいだったので、少し時間が経ったらまた顔を出してレンタルして聴いてみたい。

THIS TOWN AIN'T BIG ENOUGH FOR BOTH OF US


SPARKS - "THE NUMBER ONE SONG IN HEAVEN" (OFFICIAL VIDEO)



Sparks - What The Hell Is It This Time? (Official Video)



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シネクイントを出てから青山通り方面へ向かって、青山ブックセンター本店で西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版6 孤独なたたかい』発売記念のサイン会へ。お店では『世界の終わりの魔法使い』原画展も開催されていて、こちらは26 日まで。
西島さんにはスタッフをウェブサイトの連載でイラストを描いてもらっていてが、コロナパンデミック中ということもあり、終わってからお茶しましょうと言ってからできておらず、ようやく直に会ってご挨拶することができた。

僕からイラストのリクエストは「黒い少年」で、このリクエストは初めてだなと言われていた。この「黒い少年」があれになるんですよ、ということであとはコミックスを読んでもらうしかないけど。この「黒い少年」のイラストいいよね、西島さんの描かれた漫画『すべてがちょっとずつ優しい世界』のキャラクターにもちょっと近しい。
担当編集者の島田さんもいらした。実は小学館から刊行された「漫画家本」で僕は何度かライター仕事で書かせてもらっているのだが、その編集さんが島田さんだった。だが、ずっとメールでのやりとりだったので今回はじめてお会いすることができた。cakesで田島昭宇さんのインタビューをさせてもらったのを読んでよかったので、声をかけてくれたとのことだった。そう言われてとてもうれしかった。

 

4月17日
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豊洲ピットでライブが夕方からあったので、午前中に原稿を書いて請求書(プリンターが家にないのでセブンイレブンプリントでPDFをプリントアウトして、それに捺印したものをスキャンしてスマホにデータをおとしたもの)を作って送信してから家を出る。
16時半には会場前で友人の青木と待ち合わせをしていた。家から豊洲ピットまでは3時間ちょっとだったので、渋谷―青山―赤坂―首相官邸と国会議事堂―日比谷公園―銀座―豊洲ピットという流れで歩いていった。
思いの外早く着きそうになっていて、1時間ぐらい余裕があったので晴海通りの勝どきエリアで右折して晴海客船ターミナルを見にいった。毎年元旦に井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて、秋葉原を過ぎて柳橋のところで神田川隅田川に合流し、隅田川テラス沿いを歩いて晴海埠頭で東京湾に出るという古川日出男著『サマーバケーションEP』の物語を辿るということをやっており、東京オリンピックの翌年の元旦までと決めていたので今年が最後になった。
最終地点の晴海客船ターミナルは2月には営業を停止し、今年中には取り壊されるというニュースを見ていたので今はどうなっているのかなと思って立ち寄ってみた。近くには柵が敷かれていて立ち入り禁止になっていたので建物には近づけなかったが、まだ建物自体は取り壊されていなかった。付近の東京オリンピック選手村に使用されていたマンション群はいまだに人が住んでいないようだった。これから住めるようにしていくように工事をしている感じだった。
今まで歩いたことのなかった豊洲大橋を歩いて渡っていたら、晴海客船ターミナルの建物がはっきりと見えた。橋を渡ってから豊洲ピットに向かっていき、青木と合流した。

今年元旦に「晴海客船ターミナル」に行った時のことを書いたメルマ旬報の連載

「うるさがた Vol.2」というイベントでZAZEN BOYS×CHAIの対バンライブを観る。
席ありだったのでわりと楽ちんだった。席自体は少し右側のエリアだったけど、ステージはよく見えた。最初はCHAIからだった。ライブで観るのは初めてだったが、噂には聞いていたけど、NEOかわいいとポップを撒き散らしながらもステージを自分たちのスタイルで染め上げて、観客も知らないうちにその世界に巻き込まれて自然と音にノっているような感じになっていた。海外で人気があるのもわかるっていう音とパフォーマンス、すごくたのしくてワンマンで観たいと思わせるステージだった。

CHAI - NO MORE CAKE - Official Music Video (subtitled)



ZAZEN BOYSはいつも通りなパフォーマンスだが、音源化はされていない『杉並の少年』という曲が前よりもゴリゴリな感じのサウンドになっていた。あとThis is 向井秀徳がギターを持たずに歌う時に揺れたりしている感じはちょっとNEOかわいいに寄ろうとしているのかなと思った、なんとなく。
アンコールはZAZEN BOYSCHAIが全員登場してコラボ曲の『ACTION』を披露してくれた。演奏はZAZEN BOYSCHAIのメンバーは歌とダンスという感じだった。これをライブで観れることはこの先もほとんどないだろうから、ほんとうに今日ライブに来れて、二組とも最高にたのしかったし、最後にこの曲をやってくれてほんとうにいいライブだった。最後のコラボの動画とかアップしてほしい。

CHAI ACTION (with ZAZEN BOYS) - Official Music Video



帰りはさすがに豊洲駅から電車に乗って帰ったが1日で22キロも歩いていた。さすがに歩き過ぎた。

 

4月18日

酒井若菜さんが女優として、グラビアアイドルを始めたことから芸能界や映像業界で見たりしてきたセクハラやパワハラについて、ご自身の考えをしっかり書かれた『&Q』の連載「No.70」が公開になったので読んだ。
作品を作る人がいちばん大切にしないといけないものはなにかということ、そして自分が体験したものとそれに対しての行動や言動について書かれているものになっていた。読んだあとに『JUNK 爆笑問題カウボーイ』の太田さんが言われていたことにかなり近い印象を覚えた。
若菜さんだけではなく、今回のことで声がどんどん上がっていくことで、もう以前とは違う業界や体制になっていくのだろう。俳優部だけでなく、スタッフさんたち制作部の人たちももうパワハラやセクハラに対してはっきりと声を出して、働きやすく、個人の尊厳を守ることができる場所へ大きく動き出しているのを感じた。だからこそ、声を上げた人に対しての対応をしっかりしてほしいと思うのだけど。

朝から晩までリモートワークしていたので、昨日ライブで観たCHAIの音源を流しながらずっと作業をしていた。ほんとうに会社から支給されているもの(お昼に使う)と自分のノートパソコン(普段使い)が壊れたらいろいろ終わるなと思いながらキーボードを打っている日々。

 

4月19日

下北沢駅から3回乗り換えをして東村山市まで、電車の移動時間は50分ちょっとぐらい。どこかで乗り換え移動が遅かったりしたら、もう少しかかってしまって1時間ちょっとかかる感じだったと思う。
はじめて行く場所はできるだけ早めに行けるように移動するタイプなので、約束の時間よりも30分早く着いた。暇つぶしがてら東口の志村けんの像を見に行ったり、駅周辺をぶらぶら歩いていた。東村山駅は改装中みたいで、2025年ぐらいに完成する予定らしい。
11時半に古川日出男さんご夫妻と待ち合わせをして、まずはお昼ということで野口製麺所といううどん屋さんに連れて行ってもらう。お昼だと混むかもしれないということで集合時間を少し早めに設定してもらっていたおかげで、お店の外のテーブルで食べることができた。昨日の雨とは打って変わって晴れていて、暑すぎずにちょうどよい気温だったので心地よかった。
うどんが来る前に紅生姜の天ぷらや蒟蒻のおでんなども食べたが美味しかった。僕は東村山地粉猪肉汁うどんを注文。うどんも美味しかったが、うどんをつける肉汁に入っていた野菜も美味しく、猪肉もしっかりとした味だった。
お店では採れたてのたけのこの販売もしていて、たけのこうどんというのもあった。お二人が晩御飯用に処理されているたけのこを買ったら、どの部位がなににしたら美味しいか店主のおじさんらしき人が詳しく教えてくれていた。あと産みたての卵も販売していたりして、とてもいいお店だった。

食後に散歩がてら歩きながら色々紹介してもらってから、古川さんのお宅である「雉鳩荘」にお邪魔させてもらう。園監督のことで僕が思ったりしていることを聞いてもらったり、お二人から最近のことや僕が話したことに関しての考えとかも聞かせてもらった。
僕が座っていたテーブルの位置は、「雉鳩荘」と名付けているようにつがいの雉鳩がよく舞い降りてくるお庭がいちばんよく見える場所だった。つがいのようなムクドリはやってきたので見れたが、雉鳩は来なかった。だが、その鳴き声は耳を澄ますと何度も聞こえてきていた。
ずっと話を続けるというわけではなくて、時折誰も話さずに無言の時も何度かあったのだけど、そういう時は雉鳩とかの鳴き声を聞いたり、あと近所の飼い猫とかが時折庭にやってきたり、通路がてら横切っていくと言われていたので猫が来ないかなと出してもらったお茶を飲みながら見ていた。お二人も見たことがないという新顔らしい猫が隣の敷地の少し高さがあるところの隙間から顔を出していて、僕はちょうど猫の正面だったのでしばらく目が合っていた。二人とも猫を見つけるとどうやら今まで見たことがない子だと言われていた。その猫は庭には降りてこないで帰っていってしまった。また遊びにくるといいな。僕と猫ははじめての「雉鳩荘」にやってきた同士だったから、見つめ合う時間が長かったのかもしれない。
人と一緒にいる時に何もしないでいること、時間をのんびり感じられるというのはとても贅沢なことなんだなと思ったのも今日の発見だった。
お二人からアドバイスというかいろいろと話してもらったことで、すごく肩の力が抜けたというか楽になったのでありがたかった。そこでどんなことを言ってもらったかは書かないけど、信頼している人と空間と時間を共有してもらえることはほんとうにうれしいことだし、そこに居させてもらえるというのは信頼してもらっているということだから、それを裏切らないようにしたい。あとは自分のやるべきことだけをしっかりやっていて、その姿を見てくれている一部の人だけに信頼してもらえればいいやっていう気持ちでやっていこうと決めた。

 

4月20日
矢野利裕が語る、文学と芸能の非対称的な関係性 「この人なら許せる、耳を傾けるという関係を作ることがいちばん大事」

先月発売になった矢野利裕著『今日よりもマシな明日 文学芸能論』のインタビューがリアルサウンドで公開されていた。この機会に書籍も手に取って読んでみてほしい。
以下は矢野さんから著書をご恵投いただいた際に書いた感想。

序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康いとうせいこう西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。
町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。
いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。
琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。
西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。
そして、小山田圭吾論へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。

『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な

矢野さんの本を読んだ時に書いた「芸能」の部分を参考にして書いた映画『犬王』試写観たあとの感想。

朝の9時から24時まで朝と晩それぞれの仕事のリモートワーク。休憩中の散歩で息抜き。ほんとうに家で仕事している時はradikoで深夜に放送したラジオ番組をずっと聴いている。声を聴くとそのパーソナリティが身近になっていく不思議。あと好きな声とずっと聴いていれない声があるのも不思議。

 

4月21日

先週の土曜日に青山ブックセンターで開催されたサイン会で久しぶりにお会いした漫画家の西島大介さんと「今度お茶しましょう」と約束をしていたので、夕方から池袋で舞台を観に行く前にランチ&軽く飲むことになった。
吉祥寺駅で待ち合わせをして、アムリタ食堂というところでランチをいただく。お酒の飲み比べてと混ぜ麺を注文する。昼間からスピリッツやウォッカを飲む中年二人。
西島さんの漫画『ディエンビエンフー』がベトナム戦争を描いており、アジア料理屋からスタートという感じになった。『ディエンビエンフー』に関しては、説明が複雑なので、興味ある人は以前僕が西島さんにインタビューしたこちらをどうぞ。

分岐した先にあった本当の終わりに向かう漫画『ディエンビエンフー TRUE END』――未完、と二度の打ち切りというバッドエンドからトゥルーエンド、そしてその先に/漫画家・西島大介さんインタビュー(vol.1から6)

ランチを食べてから井の頭公園近くのいせや総本店に行って飲みながら、この日から漫画の連載が始まった『コムニスムス』について話を聞かせてもらったりしながら、僕の話も聞いてもらう。
園子温原作・碇本学著『リアル鬼ごっこJK』文庫版の装丁イラストは僕が自ら西島さんにお願いして描いてもらったので、西島さんに今回のことなんかを話す。夕方から観に行く予定だった舞台を誘っていた友人が急遽行けなくなったと朝連絡が来ていたので、夜どうしようかと思っていたこともあって普通に昼飲みをしていた。

西島さんは新作が開始されたということでプレスリリースとかもろもろあったみたいだが、時間的に問題はなくなったと言われたので夜の舞台をお誘いして一緒に行くことになったので、17時ぐらいまでいせやでダラダラと飲んで話をしていた。

西島大介著『コムニスムス』

1975年、カンボジア。僕は、最強2歳児の父親になった。
1975年。ピュリッツァ賞を目指してカンボジアに乗り込んだ日本の少年ヒカル・コンデは、通信社に買ってもらえるような写真が撮れずにいた。森を彷徨っていたある日、反政府組織クメール・ルージュの一団に遭遇。そこで見たのは、彼らを一瞬にして葬り去る幼児の姿。初対面のヒカルを「ちゃん」と呼び、慕うプティという名の女児。戦時下のカンボジアで、血の繋がらない親子のサバイバルが始まる--。



18時半から開演の東京芸術劇場シアターイーストでロロ『ロマンティックコメディ』を鑑賞。やはり観劇前にお酒を飲んでいたらダメだ、という当たり前のことを再認識。一瞬、寝落ちしたと思ったら舞台にあった店の看板が「コストコ」になっていた。
亡くなった(居なくなった)人が書いた小説を彼女の妹や友人や知人たちが集まって何年かに一度読書会をして、長い時間をかけて一冊の本を読んでいく。残された者の時間経緯と共に変わっていくそれぞれが抱えた思いや感情の揺らぎのようなものを喪失を浮かび上がらせながら描いていく作品だった。
全部をちゃんと観ていないから合っているかどうかはわからないけど、「いつ高」シリーズの最後を観て、ロロの青春は一度終わってネクストステージに入るんだろうなと思っていたけど、そういう場所に行こうとしている、大人になって成熟していくという感じになっている舞台だったんじゃないかなと思う。

もしかしたらこの作品にちょっと近いのかな、と思ったのは少し前から読み始めていた川上弘美著『どこから行っても遠い町』だった。
吉祥寺駅の改札で西島さんを待っている時にちょうど最後に二編を読み終わった。最後の「ゆるく巻くかたつむりの殻」という短編を読むと、最初の「小屋のある屋上」にもう一度接続するような形の作品になっていた。
「ゆるく巻くかたつむりの殻」の語り手というか主人公は「小屋のある屋上」に出てくる魚春の大将の平蔵の亡くなった妻である春田真紀という女性であり、作中で平蔵は生きていた頃の真紀に「いつかおまえ、好きな人が死ぬと、少しだけ自分も死ぬって言ってたよな」と言う場面があった。

生きていても、だんだん死んでゆく。大好きな人が死ぬたびに、次第に死んでゆく。死んでいても、まだ死なない。大好きな人の記憶の中にあれば、いつまでも死なない。

まさにこの引用した文章と『ロマンティックコメディ』は通じている部分があったんだと思う。アフタートークでロロの三浦さんが話されていることで余計にそう感じた。


西島さんは前から行ってみたかったというお店があるというので観劇後に小雨が降る中で劇場からあまり離れていない中華料理屋に入る。中華料理屋なのになぜかエスニックカレーがあった。西島さんはこれが目当てだったらしい。
カンボジアからやってきた華僑三世の方が店主で、西島さんの新作『コムニスムス』の舞台がカンボジアでその取材というかリサーチも兼ねて、いつかこの店に来たかったとのこと。鶏肉すごく美味しいけど辛いものが苦手な僕は何度か咳き込んでしまった。ここのカレーは成城石井でもレトルトで販売もされていて、西島さんはすでに食べているみたいだった。
お会計後に少しだけ店主の方とお話をされていた。30年ちょっと前に日本に来て他の料理屋さんで修行してからお店を出されたらしくて、どうやらポルポトの時代だったので外に出たくて、本当はフランスとかに行きたかったけど当時は大使館がなくて行けなくて、日本に来たと言われていた。
まさに歴史だ。西島さんは今後も通ってお話を聞いて作品の参考にするんじゃないかなって思う。昼から晩までアジアな一日だった。

 

4月22日

夕方までリモートで仕事をしてから、ホワイトシネクイントで今日から公開のマイク・ミルズ監督『カモン カモン』を鑑賞。
最後の回で金曜日ということもあり、わりと入っていたと思う。マイク・ミルズ監督、ホアキン・フェニックス主演、A24 制作というどれかに引っかかった人がやはり初日に観に来ていたんじゃないかなと思う。僕はその三つ全部な人ですが。
上映前に去年から気になっていたA24制作『LAMB /ラム』の予告編が流れていたので秋のたのしみ。また、アカデミー賞でも作品賞&監督賞&脚本賞にノミネートされていたポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』の予告編もやっていたので7月1日の公開が非常に楽しみ。

20センチュリー・ウーマン」「人生はビギナーズ」のマイク・ミルズ監督が、ホアキン・フェニックスを主演に、突然始まった共同生活に戸惑いながらも歩み寄っていく主人公と甥っ子の日々を、美しいモノクロームの映像とともに描いたヒューマンドラマ。ニューヨークでひとり暮らしをしていたラジオジャーナリストのジョニーは、妹から頼まれて9歳の甥ジェシーの面倒を数日間みることになり、ロサンゼルスの妹の家で甥っ子との共同生活が始まる。好奇心旺盛なジェシーは、疑問に思うことを次々とストレートに投げかけてきてジョニーを困らせるが、その一方でジョニーの仕事や録音機材にも興味を示してくる。それをきっかけに次第に距離を縮めていく2人。仕事のためニューヨークに戻ることになったジョニーは、ジェシーを連れて行くことを決めるが……。「ジョーカー」での怪演でアカデミー主演男優賞を受賞したフェニックスが、一転して子どもに振り回される役どころを軽やかに演じた。ジェシー役は新星ウッディ・ノーマン。(映画.comより)

マイク・ミルズ監督は家族を描いてきた映画監督というイメージがあり、今作でも家族を軸に映画を撮っているといえるのだと思う。伯父であるジョニーが甥のジェシーを預かることになり、突如して子供との生活ややりとりを学ばなければいけなくなる。そして、ジョニーの妹でありジェシーの母のヴィヴは彼らの母親の介護を巡って感情のぶつかりがかつてあったことも描かれる。だから、やはり家族の話であるのだが、結婚をしておらず子供もいない伯父は甥との生活の中で成長していく話であり、同時に大人と子供の関係性が穏やかに描写されていく。
モノクロでの撮影はもちろんアート的に見えるし、寓話っぽさも感じさせる。そして、これは物語だと雄弁に語っているようでもある。

ジェシーだけでなく、今作ではジョニーがいろんな都市の子供たちに未来のことなどをインタビューしている映像も挟まれていくが、その子供たちは役者ではなく映画のコンセプトを話して協力してくれた学校の生徒たちだという。だから、映画=フィクションでありながら、子供たちのインタビューはノンフィクション≒ドキュメンタリー的なものとなっている。親たちが移民でアメリカで生まれ育った子供であったり、人種や置かれている環境も違う子供たちが語る未来の話、そして、アメリカだなと改めて思うのは子供たちが非常に論理的に語りながらも、自分の意見をしっかりと言うという部分である。
子供は幼いと言っても、ひとりの人間であり、その自尊心や自己顕示欲などをしっかり持っている。個人として生きること、それは村社会で集団を外れると生きにくい日本の子供たちよりも大人に見えるなあと思った。だが、僕もジョニー同様に結婚もしていないし子供もいないので、今の小学生たちは今作のインタビューに答えている子供たちのようにしっかりしているのかもしれない。あるいは、子供と触れていない僕はそのことをただ知らないだけかもしれない。

ジョニーの仕事の関係もあり、預かったジェシーもロサンゼルスからニューヨークへ、そして他の都市に行くことになる。ロード・ムービー的な移動があることで、さまざまな都市の子供たちのインタビューもされていくことで、アメリカという国のさまざまなレイヤーが見ることができる。その中でジョニーもジェシーとの関係性において成長し、ジェシーも感情を爆発させることができるようになる。
大人と子供を描きながら、人が人であるために感情を殺さないように人と関わっていけるのか、観終わるとやさしい気持ちにもなるし、「カモン カモン」とジェシーが言うように未来に、先へ先へ行くためにどんな人でありたいのか考えることもなった。もう一回ぐらい観てみたいと思う。

 

4月23日

昨夜の『JUNK バナナマンバナナムーンGOLD』を聴きながら散歩していると友人のイゴっちからラインが来た。『少年ジャンプ+』で読み切り掲載されている弓庭史路著『國我政宗の呪難』のURLが貼ってあった。彼はよくおもしろい漫画を教えてくれるので、教えてもらったものは普段自分が気づかなかったり、読まないものだったりするのできちんと読む。
『國我政宗の呪難』は絵柄でいうと『アフターヌーン』とかで掲載している漫画の感じがする。こういうのは色々と漫画を読んでいたりすると感覚がわかるもので、漫画誌はその時々の時代でカラーは変わっていくのだけど、それでもやはり連載陣のカラーだとかある種のブランドのようなものがあって、雑誌というパッケージに編集長や編集者たちの色が刻まれているなと思う。だから、この『國我政宗の呪難』を読み始めてキャラクターの造形や性格や物語の設定もあるけど、絵柄とか線とかの感じが僕には『アフターヌーン』ぽいと思えた。

少年ジャンプ+』は今ノリにノっている媒体であり、本誌『ジャンプ』には載らないような作品が掲載されて、ここでファンを集めて人気が徐々に高まっていき、爆発していく。アニメの放送も始まった『SPY×FAMILY』もだし、『怪獣8号』も『地獄楽』なんかヒット作が出ている。『少年ジャンプ』では取り逃してしまう作品や漫画家をこちらの『少年ジャンプ+』で補完することで、より「ジャンプ」というブランド力を高めていっている。王者の戦い方だといえるし、業界のトップだからこそ危機感を持って、次世代をいかに育てて世に出すか、それをしっかりとお金を使ってやっている感じがする。そして、無料で読んだらコミックを買わないという意見がかつてあったが、この無料で読める『少年ジャンプ+』で掲載されている『SPY×FAMILY』や『怪獣8号』はコミックスとしても大ヒットしている。無料で読めて面白かったから読者はお金を出して買う。家に置きたいと思う。また、新規読者が一話などはポイントがなくても読めるようにしているので、お手軽読んで気になったものは読むというお試しができることが購買にも、ファン獲得にも繋がっている。

『國我政宗の呪難』は今回掲載されているのは読み切りだが、これがたくさん読まれてSNSで話題になったらするとおそらく連載に動き出すんじゃないかな、と思えるほど完成度が高いし、世界観が作られている。これは連載されるんじゃないかな、読んでおもしろかったし、この先が読みたいと思わせる内容だった。
『呪術廻戦』も大ヒットしているので「呪」や「術」がキーワードになっていて、この作品にも多くの人は入りやすいのかもしれない。僕は残念ながら『呪術廻戦』を読んでいないので詳しいことは言えないけど、「呪」という文字がタイトルに入っている作品が大ヒットしているということ、それはかなり重要な意味や大衆の欲望や無意識でのなにかを表しているのかなと思う。
「呪い」は反転すれば、「祝い」に転化する。逆もしかり。この「呪われた」かのように感じられる時代(かと言ってもどんな時代もその時代ごとの災厄が起きている。そして生き延びた人や生き残った人たちは亡くなったり居なくなった人たちの想いや意志や思い出や記憶を引き継いで日常を送り、次世代になにかを渡してきた)に生きるわたしたちはそれを反転する力を求めている、そんな気もする。そういうことは漫画に詳しいライターさんが書いているかもしれない。なにかを表現することはその表裏一体の間にいるともいえるし、生きていること自体がそうなのだろうけど。


今月はこの曲でおわかれです。
Godiego / Yellow Center Line

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年2月24日〜2022年3月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年03月掲載 


先月の日記(1月24日から2月23日分)

 

2月24日
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栗本斉著『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』 を読む。
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読んで、『ニック・ランドと新反動主義』を再読した流れでフィリップ・K・ディック作品を久しぶりに読んでいた。そこにはネット社会だけでなく、ドラッグとスピリチュアル、実存の問題や新反動主義や加速主義なんかでつながっている。
BGMとして「失われた未来」としての鳴っている音でもあるヴェイパーウェイブや世界中で聞かれているシティポップ(70、80年代のシティ・ポップ&ネオシティポップ)なんかを聴いていた。この新書は僕のようにシティポップというものをほとんど聴いてこなかった人間にはちょうどいいカタログになるかなと思って読んだ。

 パームツリー越しに海が見えるリゾートホテルのプール、コンバーチブルに車でドライブする夜景きらめく摩天楼、流行りのカフェバーで味わうトロピカル・カクテル、ダンディな男性とセクシーな女性が主人公の大人の恋‥‥。そして、そんな風景を演出する「シティ・ポップ」と呼ばれるスタイリッシュなポップス。

中略

 そもそもシティポップとはどういう音楽なのだろうか。ここではっきりしておきたいのは、シティポップは明確な音楽ジャンルを指す言葉ではないということだ。例えば、ハードロック、プログレッシヴ・ロック、レゲエ、ボサノヴァといった音楽ジャンルは、リズムのパターンや楽器などの音色といった音楽的な理論のもとに、ある程度は定義付けられる。しかし、シティポップはジャンルというよりは、その音楽から醸し出される印象を重視している。もちろん、ソウル・ミュージック、AOR、ソフトロック、フュージョンといった音楽性の根幹があるとはいえ、それらのジャンルがそのままシティポップに当てはまるというわけではなく、あくまでも雰囲気なのだ。

 無理やり定義付けるとするならば、シティポップは「都会的で洗練された日本のポップス」ということになるだろうか。

中略

 かなり乱暴な言説ではあるが、シティポップはある種のファンタジーだと考えている。例えば、シャンソンを聴くとパリの街並みや石畳を想像し、ボサノヴァを聴くとリオデジャネイロの美しいビーチを思い浮かべるように、シティポップを聴くことで冒頭に書いたような摩天楼やリゾートや大人の恋模様の世界に浸ることができるのだ。ぜひとも、どっぷりとスタイリッシュなファンタジーの世界に入り込んでいただき、メロウでアーバンでグルーヴを感じられるシティポップの世界を堪能してもらえることを願っている。

なるほど、わかりやすい。世界中で日本のシティポップが聞かれるようになったのはインターネットの発達によって、音源が掘りやすくなったことはある。英語圏でサンプリングするものがどんどんなくなっていき、日本のシティ・ポップが再発見されたということもある。世界的なミュージシャンであるTHE WEEKNDのニューアルバム『Dawn Fm』で亜蘭和子『Midnight Pretenders』がサンプリングされていることもちょっとした話題になった。
トランプ元大統領にしろ、安倍元首相にしろ彼らのスローガンが「かつての栄光を取り戻す」ことだったように、あまりに複雑化した世界では単純だった(ように思える)インターネットが隆盛する前の時代に戻りたいという「後ろ向きな未来」を待望する人たち(既得権益や権力の側だと勘違いしている人)がわんさかいた。そこに陰謀論ポスト・トゥルースが入って来ればもう手に負えなくなってしまった。
アメリカ国内におけるストレスや不満はいつの時代も対外的な戦争によって昇華していたが、トランプ元大統領はそれを内側へのテロリズムにしてしまった。戦争は起こさなかったが、その悪意の刃は国内に向けられ、人種差別や移民差別にも向かった。といっても日本では1995年にオウム真理教がテロを起こし、その後は政権与党に舞い戻った自民党が国民へのテロをずっとしている状態なので、日本もアメリカも酷いのは変わらない。
そのこととヴェイパーウェイブやシティポップの再評価は無関係ではないと思う。ドラマや映画で80年代が舞台な作品が増えたのは、そのころガキだった僕らやその上の世代がプロデューサーになったり監督になったということだけではないはずだ。『ストレンジャー・シングス 未知の世界』の大ヒットと陰謀論ポスト・トゥルースはコインの裏表だと感じられる。

この新書を読みながら思ったのは、僕がいままで熱心にシティポップを聴かなかったことには「パームツリー越しに海が見えるリゾートホテルのプール、コンバーチブルに車でドライブする夜景きらめく摩天楼、流行りのカフェバーで味わうトロピカル・カクテル、ダンディな男性とセクシーな女性が主人公の大人の恋‥‥」という部分があまりにも自分と関係がなかったこと、理想にもしていなかったことが大きいのかもしれない。
僕は自動車の免許は身分証としてだけ持っているが、車の運転ができない。ペーパードライバー歴が20年を越えていて、免許を取ったあと何度か父親に助手席に乗ってもらって運転しただけだ。僕は運転がかなり下手くそである。そのせいで余計にこのまま普通に車に乗っていたら早々に事故る。事故って自分が怪我するだけならいいが、人を殺してしまうという考えが離れなくなってしまった。東京に上京したのも車を運転しなくても生活には不便がないということも大きい。
シティポップはドライブのBGM的にぴったりなものが多い。僕は車を運転しないという点で無意識にシティポップを外していたのかもしれない。今の僕はシティポップを「失われた未来」のBGMとして聴けるようになったのかもしれない。

The Weeknd - Out Of Time (Official Lyric Video)



f:id:likeaswimmingangel:20220224221849j:plainレオス・カラックス監督『アネット』試写を観に映画美学校へ。
ほぼ満席だったが、年齢層はだいぶ高かった気がする。レオス・カラックス監督も60歳だし、音楽を担当しているスパークスは活動歴が50年を越えているのだから仕方ないかもしれない。ターゲット層は僕よりも上になっていると思う。そもそも試写状は送ってもらっていたけど、観に行こうか悩んでいたら菊地成孔さんのチャンネルの擬似ラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」第64回「マニアの受難」スパークスとこの『アネット』について語っていたので観よう!となったのだった。

ポンヌフの恋人」「汚れた血」などの鬼才レオス・カラックスが、「マリッジ・ストーリー」のアダム・ドライバーと「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤールを主演に迎えたロック・オペラ・ミュージカル。ロン&ラッセル・メイル兄弟によるポップバンド「スパークス」がストーリー仕立てのスタジオアルバムとして構築していた物語を原案に、映画全編を歌で語り、全ての歌をライブで収録した。スタンダップコメディアンのヘンリーと一流オペラ歌手のアン、その2人の間に生まれたアネットが繰り広げるダークなおとぎ話を、カラックス監督ならではの映像美で描き出す。ドライバーがプロデュースも手がけた。2021年・第74回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。(映画.comより)

『アネット』のこの予告はたしかに物語とは筋は合っているけど、見始めたら「おおおおい!」と思わされる内容で逆にびっくりすることになる。
あとユーロスペースが製作でお金を出していることもあるのか、見覚えのある日本人俳優が数人出てくるので、短いシーンだけど意外というかそれが気になってしまった。主演のアダム・ドライバーだけじゃなく演者たちがずっと歌ってた。セリフの大半は歌っているので、ロックオペラという感じの宣伝をしているけど、わりと最初からすぐ歌い出すので全然きにならない。ミュージカルじゃないのかなって思って、ミュージカルとオペラの違いを調べたら、オペラはマイクを使わないベルカント唱法という発声法で、ミュージカルはマイクも使うしポピュラー音楽の発声法という違いがあるらしい。知らなかった。あと全然今作では踊らなかったけど、ミュージカルは役柄や感情を表現するためにダンスをするというのが一番わかりやすい違いなのかもしれない。たしかに全然踊ってなかった。
『アネット』の物語の軸のひとつは「ピノキオ」的な構造であり、それはある種のネタバレというか観てたのしむ、驚く部分なのでこれ以上は触れないけど、あとは男性性による加害性みたいなものをしっかり描いている。嫉妬という感情さえなければ悲劇は生まれないのにねって思ったりした。

 アネット役は当初から人形の予定で、日本の人形作家を含めさまざまな試作が行われたが、現場で操作可能という条件で仏のエステル・シャルリエが様々な年齢のアネットの顔を、ロミュアルド・コリネが胴体とテクニカル面すべてを担当。アネットは「父と娘、野蛮さと幼少期をつなぐリンク」というサルのぬいぐるみを抱いている。なお、ベビーアネットのステージの歌声はLYC(ロンドン・ユース・クワイア)所属の少女ヒーブ・グリフィスが担当した。(公式サイトより)

で、ネタバレなのかなって思っていたが、予告編でも意識的に見ようと思えばわかるのだけど、公式サイトにガッツリ二人の子どもでありタイトルになっている「アネット」が映画では人形として出てるって書いてる! 
生まれてからずっと「アネット」は終始人形です。だから、日本でいうと人形浄瑠璃みたいな感じにも見えるし、でも両親たちから人ではなく人形にしか見えないってわけではなく、人間だけど映画上では人形がずっと出てきてるんですよ。
で、さっきも書いたような「ピノキオ」的なものが感じられるわけです。そのため終始不気味さや異様さがある。だけど、見方を変えれば本当にアダム・ドライバーが演じたヘンリーには「アネット」はちゃんと人として認識できていなかったとも思える。だからこそラストシーンで、ということなのかも。
宣伝の方と観終わってから話をさせてもらったけど、レオス・カラックス監督ファンの人がわりと観にきているから最高傑作という人と意味わかんないという人に分かれているらしい。うん、よくわかる。

 

2月25日
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近くのツタヤ三茶のコミックコーナーの片隅に最近新たに浅野いにお作品がずらりと並べてあるのは『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻が来月出るからなのだろうか。また、なにか映像化するのか。
久しぶりに『零落』を読んだが、こんなことを描く漫画家にインタビューに行くのはかなり怖いだろうな。西島大介さんもクライアントが打ち合わせ前に漫画原稿を出版社に紛失された経緯を描いた『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』を読んできたら、かなりビビってくると言われていた。
ふたりとも批評的な視線がかなりあるし、それを取り込んだ漫画を描いていたりするから付け焼き刃で話を聞きに行ったらライター(聞き手)はおもしろいことほとんど聞き出せないだろうな。西島さんにはインタビューさせてもらったことがあるので、いつか浅野さんにもしてみたいが、かなり読み込んでいかないとボロボロになりそう。

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年2月25日号が配信されました。今年の1月と2月に観た映画日記です。『エッシャー通りの赤いポスト』『スパイダーマン』『コーダ』『さがす』『誰かの花』『ちょっと思い出しただけ』などについて書いてます。


「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年03月号が公開になりました。3月は『MEMORIA メモリア』『THE BATMANザ・バットマン-』『猫は逃げた』『ナイトメア・アリー』を取り上げています。


古川日出男著『曼陀羅華X』発売延期のことを公式サイトの日記である「古川日出男の現在地」で知る。。今日は古川さんが作家デビューした2月25日、24年目突入の一日目だ。
個人的にデビュー24年目突入のお祝いと発売延期のことについてメールでご連絡した。僕としては『曼陀羅華X』が再び「産み」なおされて一冊になるのを待つしかない。

 

2月26日
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『新潮』に掲載された『曼陀羅華X  1994-2003』と『曼陀羅華X 2004』連載第一回を読もうと取り出して、寝るまでに『曼陀羅華X  1994-2003』だけは読み終わった。

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 そして、二作めだが、二作めにしておれをデビューさせた作品、あの一九九六年の十一月の広尾の居酒屋(ビストロ)で「書き足し」が決定した小説だが、これは翌(あく)る一九九七年の九月に脱稿した(実に苦闘した)。一九九八年の二月に出版された。日付まで記せば、発売日は二月二十五日。

主人公はある教団に拉致されて、そこの予言書と黙示録を書くことになった老作家、彼は教団を抜け出す時に教祖の生まれたばかりの赤ん坊を自分の子として外に連れ出し、現在は一緒に暮らしている。
そして、もうひとりの主人公も小説家であり、「眠り病」という病を取材している。彼は「東京港埋立第13号地」にある施設にいる「眠り病」の患者である「13号」と呼ばれる者たちと共に施設にいる。彼の語りのひとつが上記のものだが、彼の作家になるまでの流れが小説家「古川日出男」自身とかなりの部分で重なっている。そして、一九九八年二月二十五日に古川日出男デビュー作『13』が幻冬社から発売されている。

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朝作業をしてから散歩がてら渋谷まで行って、ジュンク堂書店渋谷店を覗くと「古川日出男コーナー」ができていた。これは『曼陀羅華X』(28日発売予定で搬入が早いところであれば25日夕方は棚に並んでいる店にあった。ジュンク堂書店渋谷店はたぶん25 日夕方には入荷していたはずだ)に発売に合わせたものだったはずだ。少しだけ残念な気持ちになったが、『曼陀羅華X』が出るまでここにあれば、お客さんの目に触れるから古川さんの作品に未知との遭遇的に出会う人もいるはずだ。

f:id:likeaswimmingangel:20220226133543j:plainタワーレコード渋谷店でロバート・グラスパー相関図をゲットした。

Robert Glasper - In Tune ft. Amir Sulaiman (Official Lyric Video)

 

2月27日
矢野さんの新刊『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を最後の「補論 小山田圭吾と文学の言葉」の前まで読んだ。
序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康いとうせいこう西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。

町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。

現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。

いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。

琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。

西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。

そして、小山田圭吾論へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。

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アニメ『平家物語』のびわになんか既視感があると思ってたけど、『MUSIC』に出てくる猫のスタバと同じ目の色なんだ。と思ったけど、表紙だからってスタバとは限らないのかな。読み返したらスタバは灰色の毛並みだった。

 

2月28日
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前日の19時からニコラで俳優をやっている藤枝琢磨くんがフジエタクマ名義でデジタル配信で音源を出したので、そのリリース記念イベントがあった。
最初はちょっと固かった気がしたが、最近好きでよく聞いているという落語調のトークをしてからあとは声もしっかり出ていた。観ながらその前に矢野さんの『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を読んでいたこともあって、彼はやはり舞台に立つ側の人なんだなと思った。惹きつけられてしまうものを持っているし、人前でしっかりと自分の創作を見せれる気持ちと才能がある。
彼の知り合いのお客さんも雰囲気がよくて、終わったあとには打ち上げがてらお店で
いろいろと世代や年齢を越えて交流しているのもとても素敵な時間と空間になっていた。
普段話し足りないことや話をあまりしていない人と深く話し込んだのもあって帰ったら日付が変わっていた。タバコを吸う人が多かったので風呂に入って寝ようと思ったが、起きてから目覚ましがわりに風呂に入ろうと思って『テレビ千鳥』を見ながら寝た。起きてすぐに湯船を溜めて風呂に入った。睡眠時間は少ないはずだが、心地よい朝だった。

羊文学「夜を越えて」official audio

 

自分が書いている小説のキャラクター名で応募していた作品が「第二回羊文学賞〈二次選考結果〉」二次選考に残っていた。忘れているぐらいのほうが残っているとうれしい。

 

3月1日
〈北海道・国後島を臨む水際編〉

第二次世界大戦後北海道はソ連に占領、鱒淵いづるを指揮官とする抗ソ組織はしぶとく闘いを続ける。やがて連邦国家インディアニッポンとなった日本で若者四人がヒップホップグループ「最新"」(サイジン)を結成。だがツアー中にMCジュンチが誘拐、犯人の要求は「日本の核武装」――歴史を撃ち抜き、音楽が火花を散らす、前人未到の長編。

新しきサウンドトラック≒カテドラル、そしてむかしむかし、ミライミライへ。

 

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家から数分の整骨院で股関節と肩甲骨を緩めてもらってから渋谷まで行き、そのまま青山と神宮、赤坂を通って市ヶ谷のSME湯浅政明監督『犬王』試写で鑑賞。
古川日出男さんが『平家物語』を現代語訳した後、南北朝~室町期に活躍した実在の能楽師・犬王をモデルにした小説『平家物語 犬王の巻』を書き上げた。それを原作としたアニメ映画がこの作品になっている。 古川日出男作品に通じていると僕が思っているのは、「孤児と天皇における貴種流離譚」であり、今作の映画はそれがほかの作品よりもエンタメに向かっている作品だった。

詳しくはnoteに書いた。プラスでUCLAとかの画像もいれておいた。

 

3月2日
言葉が世界と現実を再構築して僕らの眼前に現す、反戦を願い平和を祈りたい。 

様々な言語で書き留められた「戦争反対」という意思が、フェイクによる分断を無効化させながら拡散されて、世界中の人々を正気で結ぶ。(「(後藤正文の朝からロック)反戦の声、ささやかでも」より)


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3月最初の書籍の購入は田辺青蛙著『致死量の友だち』、徳井健太著『敗北からの芸人論』、上田岳弘著『太陽・惑星』。

去年に引き続き、「太宰治賞」の一次は通過したみたいだけど、今年は二次以上に行けるといいのだけど。

 

3月3日
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10時半からの『愛なのに』を新宿武蔵野館で観るために渋谷まで歩いて、副都心線新宿三丁目駅まで乗って新宿に着いたが9時半前だった。早すぎたので献血をしようと思ったので紀伊国屋書店新宿本店の横にあるビルの5階の献血ルームに行って、10時半までに終わるか聞いたら、献血あとなんで急いだりしたら危ないので難しいですねって言われたので次回にすることにして、歌舞伎町方面に歩いて行って「いわもとQ」でもりそばと鶏天丼セットを食べる。そばは普段からまったく食べないけどここでだけ食べている。この店の揚げ物はすごくあっさりというかカラッとしていて具材の味がすごく出ていて美味しい。いつも鶏天を頼んでしまう。

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10時過ぎてから新宿武蔵野館に行く。お客さんは平日の午前だとそこそこ入っていたと思う。城定秀夫監督×今泉力哉脚本『愛なのに』を鑑賞。

「性の劇薬」「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫が監督、「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉が脚本を務め、瀬戸康史の主演で一方通行の恋愛が交差するさまを描いたラブコメディ。城定と今泉が互いに脚本を提供しあってR15+指定のラブストーリー映画を製作するコラボレーション企画「L/R15」の1本。古本屋の店主・多田は、店に通う女子高生・岬から求婚されるが、多田には一花という忘れられない存在の女性がいた。一方、結婚式の準備に追われる一花は、婚約相手の亮介とウェディングプランナーの美樹が男女の関係になっていることを知らずにいた。多田役を瀬戸が演じるほか、一花役を「窮鼠はチーズの夢を見る」のさとうほなみ、岬役を「由宇子の天秤」の河合優実、多田役を「よだかの片想い」の中島歩がそれぞれ演じる。(映画.comより)

去年から気になっている河合優実さんが出ているのと今泉力哉監督が脚本を手がけているということにで気になっていた作品だが、すごくおもしろかった。城定監督の作品は初めてだったが、コメディっぽさもありながらセックスシーンなどもある程度描かれていて、しっかりと見応えのあるものになっていた。さとうほなみさんと向里祐香さんのことは知らなかったけど、いいなって思えたし、彼女たちが本音をいうことが物語を躍動させていて重要な役割だった。

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映画が観終わってから中上健次全集の一巻を買おうと紀伊国屋書店新宿本店に寄ったが、改装中ということもあり4階に移動した文学コーナーは棚が少ないし、一巻がなかった。諦めて渋谷に電車で戻ってから、青山ブックセンターに寄ったがなく、MODIに入っているHMVにもなく、ジュンク堂渋谷店にもなくてどこにもなかった。
MODI前の渋谷マルイの壁に菅田将暉のアルバムの宣伝ポスターがどかーんと貼ってあった。月曜のオールナイトニッポン3組が終了したら、菅田将暉のあとは佐久間さんが昇格するのかしら、俳優&ミュージシャン枠で松下洸平大抜擢とかかしら、などとこのところ思ったりしている。結局好きな声かどうかだったりするからなあ、嫌いでも慣れることもあるし、生理的な問題がわりとあるよね、ラジオは。

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朝から全部で16キロほど歩いていたので家に帰ってからちょっとだけ仮眠してからニコラにご飯を食べに行った。
スナックエンドウ 塩とレモンとオリーブオイルをビールでいただいてから、ホタルイカと菜の花のリングイネを赤ワインでお願いした。締めはアルヴァーブレンド。旬の食材を食べるとしっかりと季節を感じられる。すっかり春だねえ。

 

3月4日
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昨日探していたがどこにもなく、アマゾンで頼んだ『中上健次集1』が届いた。『中上健次集4』は2020年に福島を踏破する古川さんの取材に同行するために読んでいた。そこには『紀州』が収録されていたから。個人的には古川さんの『ゼロエフ』は中上健次の『紀州』になると僕は行く前から思っていた。
中上健次集1』の解説が大塚英志さんだった。いろいろあって最終的に大塚さんにインタビューしにひとりで行った時に指定された場所がギャラリー「Hapworth16」というところだった。サリンジャーじゃんってことはそのあとに『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』が刊行されてから気づいた。そこで話を3時間ぐらい伺ったあとにギャラリーを少し見せてもらった。
棚に大塚さんが尽力して出版された中上健次の劇画原作小説であり、最後の紀州サーガ『南回帰船』が何冊か置かれていた。僕は実物を見たことがなかったので手にとったら、大塚さんがあげるよと言ってくれて、一冊もらって帰った。

僕が最初に中上健次のことを知ったのは『多重人格探偵サイコ』のスニーカー文庫版での章タイトルがそのまま中上健次作品のタイトルだったからで、二冊うちもう一冊は大江健三郎作品のタイトルだった。大塚さんはサブカルの中に純文学とかいわゆる「文学」への導入を意図的に作っていた人なので、僕はそれにまんまと引っかかったというか影響を受けた人間だ。そういう人はそこそこいると思う。
大学も出てなくて学歴もないし、小説も大人になって読み始めたから、基礎教養とかがほとんどないけど、大塚英志作品を読んでいたことで純文学とか海外文学とか、社会学とか民俗学にわりと入りやすい体質にはなっていたんだと思う。そうじゃないと阿部和重作品とか古川日出男作品を読んで一気にハマったり、おもしろいと思って読めなかった気はしている。

全集みたいに分厚くてそこそこ単価がする書籍は実際に目で見て買いたいものだが(帯破れたり表紙カバーが傷ついていたりするのは嫌だから)、紀伊国屋書店新宿本店にもないし(今は改装していて文学コーナーは4階になっていて全然商品がなくて地方の書店かと思うぐらいぐらいなかった)、渋谷界隈の書店にもなかったのでどうしようもない。
前まではジュンク堂書店渋谷店には全部揃っていたのだけど、文学コーナーの棚が面出しに一つ使うようになってから姿を消した。まあ、売れないのはわかるけどあると思っていたので、なくなるときついというザ・資本主義だから世知辛い。だから、本はすぐに読まなくてもある時に買わなければならないということになって、積読がたまっていくサイクル。

名前は知っているけど読んだことのない『灰色のコカ・コーラ』が読みたかっただけだったが、そもそもこの中編が入っている文庫本とかがない。
宇佐美りんさんが芥川賞を受賞してさらに注目されてから、影響受けた作家として中上健次の名前を出したので、書店とかでも河出文庫から出ている中上健次作品が帯変えて並んでいたけど、そのラインナップの作品たちの中にも『灰色のコカ・コーラ』は収録されていないので、全集ぐらいしか読む手段がない。

河出書房新社の刊行予定スケジュールを見ていたら4月刊行の『文藝』の特集が「中上健次没後30年&フォークナー没後60年」とあったので、それに合わせて中上健次やフォークナー作品が刷りなおされたり、新訳とかで出たりするのだろうか、とちょっと期待している。
去年フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」の第一作『土にまみれた旗』が河出書房新社から刊行されて、帯の後ろに『ポータブル・フォークナー』が来春刊行予定になっていたから、普通に考えれば4月に出る『文藝』の特集に合わせるんだろう。
特集が中上健次にフォークナーだから、阿部和重さんに古川さんに小野正嗣さんはなんらかの執筆するだろう。個人的には大塚さんになにか書いて欲しいけど、どうかな。あとは中上健次と同じ時代と空間にいたひとりだし、河出からこのところ何冊か書籍を出している北野武さん辺りにもなんか依頼ぐらいはしてるだろうな、とか想像はできる。
2020年は三島由紀夫没後50年で、2021年はヘミングウェイ没後50年でどちらも2021年に『100 de 名著』で取り上げていたから、中上健次はまだ30年だけどフォークナーは今年か来年辺りやるんじゃないかな。

先月の8日に『THE BATMAN』試写を観に行った。情報解禁までは内容はもちろんのこと試写を観たことを言うな、SNSにも一切なにも書くなという宣誓書にサインして観たんですけど、なんか3月になってもうOKになったっぽい。まあ、アメリカでのプレミア試写とかが終わるまではってことだったんだと思うけど、一ヶ月近く経ったら記憶が曖昧になってきた。
3時間はあるけど観れるしミステリー要素があっておもしろい。問題はポップなMCUの『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』観た後では暗すぎる。というかあの『ジョーカー』のラインなので明るいわけがない。ダークな雰囲気が好きな人にはオススメ。黒い画面が多いのでIMAXとかいいスクリーンで観るほうがいい。
でも、子供と一緒に観に行っても子供は楽しめないかもしれない。大人になってからわかるかもしれないけど、諸々難しいことが多い。
ラストにおけるバットマンの「正義」というものはすごく現在的なものになっているので見どころかな、と。まあ、トランプが大統領の任期を四年した後のアメリカでヒーロー描くとなると難しかっただろうなとは思う。

 

3月5日
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浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻となる12巻が月末に出るので、既刊11巻を昨日今日で再読。
23日には重大発表があるらしい。まあ、普通に考えたらアニメ化だろう。実写映画化やドラマ化はできる限りやめてもらいたいし、すげえ難しいと思う。日本の監督でこの内容をやったら成功するイメージが全然わかない。
クリストファー・ノーラン監督『インセプション』『インターステラー』『TENET』に『魔法少女まどか☆マギカ』要素もある。クリストファー・ノーラン監督のSF的想像力と拮抗する漫画作品になっているけど、SF大賞とかにノミネートもされていないみたい。SF村の人って『大奥』を評価するなら、この作品もマストだと思うのだけど。
気分はもう戦争』があの頃の雰囲気や空気を表現しているとすれば、この作品も現在の世界の雰囲気と空気をしっかりと表現している。ネットの発達と陰謀論や個人と集団の関係性や国家と民衆なんかは後から読み返すと今をしっかりと刻んでいると思えるものになるだろう。
緩やかに日常が終わりに近づいている感じは現在的であり、世紀末に信じられていたような世界が一気に滅亡するなんてことはなく、世界はすぐには終わらないがゆるやかに、しかし確かに終わっていくという雰囲気も今とシンクロしてる。
あとは『ドラえもん』のオマージュも入っているし、コミックの冒頭には『イソベやん』という作品が載っているのだけど...。巻数が進むと意外な展開を見せてきて、浅野さんらしいやりかたでおもしろい。
3年前の8月31日に「侵略者」の巨大な空母が東京に舞い降りてきて、世界が終わるかに見えたが、アメリカ軍が空母に投じた新型爆弾「A」によって大田区は高濃度の「A線」で汚染され、3年後に現在でも東京ではわずかな線量が確認されているが、攻撃された空母は渋谷の上空で停止し、現在はそこを中心に上空を回遊している。そんな時代の中、主人公の小山門出と中川凰蘭は高校を卒業し大学生になり、青春時代を過ごしている。漫画が始まったのが2014年だったから、東日本大震災原発事故のメタファもかなり感じさせるものだったけど、「侵略者」というワードが『寄生獣』におけるほんとうの「寄生獣」とは?ということを彷彿もさせるし、そんなのは手塚治虫海のトリトン』時代からあるが、10年代が過ぎて20年代になって、ロシアのウクライナ侵攻を見ていれば、移民のメタファにもなってくる。母船とそこから逃げている「侵略者」たちに対して虐殺するべきではないと訴えるグループがいたりするが、sSEALDs的なものが使われているけど、彼らの行動なんかはどっちかというと連合赤軍的なものが使われている。巻数が進むにつれてSF的な要素が増して物語が複雑化しているけど、違和感はない。だって、現実があまりにもSF化してしまった日常を生きているし、たぶん、漫画で起きていることはあるのだろう、起きうるのだろう、いや自分の知らないところですでに起きているのだろうと僕自身は思っている。

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『タコピーの原罪』上巻をコミックで読んでから、最新話までジャンププラスで読んでみて思ったのは、逆『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』的な内容と設定だなあ、と。

大塚:読んだあとに何かが残るとか、表現というのは自分にとって有益なものだろうって、暗黙のうちに思ってるんでしょうが、そうではありません。読んだあとに気持ち悪いものが残るのが文学なんです。たとえば、大江健三郎を読んだときにモヤモヤした澱のようなものが残って喉につっかえてしょうがないという体験です。そこから「私」や「世界」がつくり直されていく。でも「うざい」「私語りをするな」といった様々な理由で、そういうものをすべて捨ててきたわけです。お客さんに応えてものをつくるほうが楽だから。それにいま、考えさせる表現と言われるものも、基本的に「あなたは悪くないですよ」ということであって、「私」や「世界」の足元をぐらつかせるものではないわけですよ。

大塚:楽をしたいのはいまに始まったことではなく昔からです。だから気持ちいいもののほうが売れるし、それが大衆芸能になったわけです。だけど、大抵の表現というのは誤作動が起きて不愉快なものが入り込みます。それが大きな意味を持っているのです。それは処理できない情報だけど、結局は処理しなければいけない。そのためには物語という層を抜けなければいけないわけです。「私」について考える別の作法なのか、哲学なのか、どういう風に生きていくかという具体的なことなのか、あるいは別に学問体系なのか。そういった違う文脈が必要になってくる。つまり、物語のなかで処理できずに残ったものを、作品を離れてひとりで考えなければいけないわけですよね。

『広告』vol.416「虚実」大塚英志インタビューより

昔、大塚さんが作品のあとがきで「ぼくの表現はすべからく、夢を見せるためではなく、夢から醒めさせるためにある、と言える。」と書かれていて、僕の指針のひとつになっているが、それに通じる話でもあるインタビューだった。
また、旧劇場版「エヴァ」がトラウマ的に人に傷を残し、観た人に嫌悪感や吐き気すら感じさせたのは、あの時の庵野さんのどうにもまとめられないむきだしのものを観客が受け取ってしまったからであり、文学的なものでもあった。「シン・エヴァ」は成長し大人になった庵野さんがジグソーパズルを埋めていくような作業だった。だから、よかったね、とは観続けていた人になっているが、人に深く刻まれるかと言われたらそうでもないのだろう。

 

3月6日
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浅野いにお著『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』最終巻が月末に出る前に、最新号の『ビッグコミックスピリッツ』に掲載されている最終話を読んだ(コミック派なので一巻分まるまる抜けている)。ファミレスに揃っていたメンツとか見て、あれが起きて世界が崩壊しなかったのかなとか想像できた。この着地点しか確かにないのもわかる。

90年代末ぐらいにエルフから出ていたようなエロゲー(我が家には兄が買っていた『河原崎家の一族』があったので目を盗んでやっていた)だと主人公の選択によってフローチャート的に物語が進行していく。そこでは生きるか死ぬか、エロことできるかできないか(できても殺されるバッドエンドも多い)みたいな分岐点があった。まさに繰り返される諸行無常、生き延びてその終わらない日々を終わらすため、本当の結末(TRUE END)を目指していた。
その後に、『ひぐらしくのなく頃に』なんかも出てきた。宮台真司さんが言った「終わりなき日常」が繰り返されていく。世紀末は過ぎ去ってしまい、9.11が起きても世界はどうやら終わらなかった。
ゼロ年代になってから日常系的な作品、繰り返される日常と並行世界を描いたものが増えていく。新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』はまさにそういう作品だったし、円環の理が閉じて物語はようやく結実した。

東日本大震災前後には『魔法少女まどか☆マギカ』が放送されていたが、そこで描かれたのは繰り返される終末を回避するために何度も同じ時間軸を繰り返していたひとりの少女の決意と勇気だった。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』がクリストファー・ノーラン監督のSF的な作品×『魔法少女まどか☆マギカ』になっている。起こり得た可能性がすべてある世界、そこでの並行世界あるいは可能世界を描いていくと最終的な着地点は現時点でそれしかない、と思う。というかそれ以外を書けばバッドエンドにしかならない。

過去現在未来すべての時間軸と可能性があるということ、並行世界や可能世界というのは僕らがいる三次元の世界とは違う、もっと次元が増した世界でならありえることだと思う。だが、想像して表現ができてもこの肉体や精神では現状では知覚できない。
仏陀が悟りを開いたというが、それは彼が三次元の先に抜けたんじゃないかなって思うし、神様や仏様や宇宙人や未知の生命も四次元、五次元とかただ向こう側の存在なんだろうと考えればわりと整理しやすい。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』はこの20年の空気を特に東日本大震災以降の時代の雰囲気を濃厚に描いている。それだけでも読むべき価値はあると思う。

 

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『怪獣8号』6巻が発売されていたので購入する。ツタヤとかで買うとビニールされているのは前からだけど、最近のジャンプコミックスとかっておまけのポストカードみたいなものが店舗特典みたいなのがついていて、それを表紙の上にしてシュリンクするから本のタイトルが隠れていて発売していることに気づかなかった。まさに本末転倒! 
客から特典について聞かれるのもめんどくさいからついてますよってことを表明しているんだろうと思うのだけど、無駄に本末転倒だよ、無人レジにしたことで特典は商品に入れ込むということになってるわけで、いろいろわかるんだけど、なんか本末転倒! 本末転倒っていいたいだけ。
防衛隊の新人の中でも最強クラスのキコル。その父で防衛隊長官の四ノ宮功と怪獣9号の戦い、そして、キコルの母で怪獣との戦いで亡くなった元防衛隊第2部隊長だったヒカルと功とキコルの家族の話がメインになっていて、普通に考えたらほんとうに主人公はキコルなんだろうね、英雄の子どもだから。
しかし、この作品の主人公の日比野カフカはそちら側ではなく、怪獣が体に侵入したことで人類の敵であるはずの怪獣に返信する能力を持つことになる。イレギュラーな要素を持つことで『ウルトラマン』や『デビルマン』から、最近の『進撃の巨人』の系譜に連ねる主人公にカフカはなっている。やっぱり読んでいる感じだと20巻とかまでいくって長さにならずに10巻ぐらいでまとまるんじゃないかなって思う。

樋口さんがオレンジ、松本さんがグリーンな衣装で二人が並ぶとすごく上品な感じになっている。松本さんの激しさと強さが感じさせられる話でゆるいとこがなかっただけに、樋口さんの「僕は今、結婚7年目で浮気をしたことはないですが」ってわざわざ入れてるとこで笑った。

 

3月7日
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前にツタヤ代官山書店に行った時にタイトルの『246』に惹かれて購入した沢木耕太郎さんの日記エッセイ。
1986年ぐらいの時期のものみたいだが、沢木さんの自宅はわからないが、仕事場が三軒茶屋にあったみたいでその頃の三軒茶屋の喫茶店なんかが出てきてちょっとしたタイムリープになる。この頃の沢木さんは今の僕よりも一才か二才ほど若いがしっかりしすぎていて、超大人な感じがする。やっぱり、ひと昔前の三十代の成熟度が今の四十代ぐらいな感じの成熟度になっているんじゃないかな。僕が未熟すぎるのをプラスしても、しっかり大人な雰囲気を文章から受ける。
「246」というのは国道246号であり、三茶に12年とか住んでいるのでいちばん身近な道路だ。いろんな歌にも出てきたりする。wikiで見ると国道246号は「東京都千代田区から神奈川県県央地域を経由して、静岡県沼津市に至る一般国道である」らしく、総距離は125キロぐらい。一日では無理だが、二日あれば歩けるし、いつか歩いてみよう。

NHKドラマ『恋せぬふたり』をようやく見始めた。とてもいいなと思える作品で、漫画『ひらやすみ』も映像化すると近い雰囲気や温度感になるのかなと思った。
アロマンティック・アセクシュアル(アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人)という言葉。
言葉が認識され始めると少なからず世界に広がっていく。昔だってそういう人たちもいたはずだけど、家のためとかで見合い結婚させられて、結婚して子供ができて家族になって、みたいな流れに逆らえなかった人もたくさんいたんだろうな、と思う。
このドラマでいいのは、理解できない人に無理に理解してもらおうとはしない、強要しないという考えがあって、セリフにしていること。
高橋一生さんと岸井ゆきのさん出演作の当たりというか打撃率が映画にしろドラマにしろ高い。そして、監督であり役者のアベラヒデノブさんが一話で家族におけるいいクッションみたいな感じで出ていた。

 

3月8日
charlieのブログ『SOUL for SALE PhaseⅡ』 『「プーチンの戦争」のユニークさ』


『灰色のコカコーラ』を読むために『中上健次集1』を購入して読んでいる。中公文庫『路上のジャズ』にも収録されていた。見落としてしまっていたけど、やっぱり全集の方がデザインもだけど、分厚くてよい。
『灰色のコカコーラ』を読んでいると佐藤泰志の小説に近いものがあるなと思った。中上も佐藤も戦後生まれでジャズ好きな部分があるからなのだろう。前に佐藤泰志の小説を読んでいると村上春樹の初期作品に近い文体のように感じた。でも、中上健次村上春樹は似ているとは感じない。
中上健次佐藤泰志村上春樹という戦後生まれでジャズを好きだった彼らの「一人称」と自意識みたいなものは時代の空気が文章に表れているのだろう。
ただ、中上の『灰色のコカコーラ』は彼が二十代の時に書かれていて、佐藤泰志きみの鳥はうたえる』は彼が三十代になってから世に出ている。ここで時間差が生まれているから、佐藤も中上の影響はあったのかもしれない。中上は「紀州サーガ」を書いていたし、佐藤も故郷である「函館」を舞台にした作品を残した。
村上春樹は同じような時代やジャズという共通項はあるけど、サーガを書かなかった。その代わりに翻訳というものがあったのかもしれない。
中上は病死で、佐藤は自殺して共に四十代で亡くなっている。村上春樹だけが生き延びて、世界中で知られる作家になっていった。その差はなんなんだろう、とふと思う。村上春樹ノモンハン事件とか戦争について書いた。壁を抜けて、井戸の底に降りた、ということが実際にも作家としても生き延びるためには必要だったのかもしれない。そう考えれば、W村上である村上龍も戦争については何度も書いている。
村上春樹プリンストン大学の客員研究員として招聘されて渡米しているけど、以前には江藤淳プリンストン大学に留学していた。どちらもアメリカに行くことで日本を発見したと言われている。三島も同様だし、彼の場合はフェイクのフェイクの素晴らしさみたいなもの(彼のヴィクトリア朝コロニアル様式の邸宅 )、そしてディズニーランドが好きだったりして通じているところがたぶんある。
でも、島田雅彦の自伝みたいな本でニューヨークにいたときに同じくニューヨークにいた中上がちょこちょこ会いにきたみたいなことを書いていたけど、中上は江藤や村上とは違うものを見つけたような気もする。
ジャズはキーワードとしてあるはずだし、でも、子供世代はロックンロールだったから文脈が違う。ジャズの子供がR&Bで、孫がラップだとすれば、やっぱりヒップホップやラップが当たり前な世代の言葉が中上健次村上春樹世代を引き継いでいくんじゃないかなって思う。

戦後、私が手にした日本の小説は、中上健次を除いて、すべて子ゴリラの視点で書かれているように思える。太平洋戦争を扱ったものにおいて、それはことさらに顕著である。軍部やその他の支配者が描かれていないというのではない。私はずっとこう教えられてきた。軍や財閥が戦争を引き起こし、大多数の国民は引きずられて犠牲になったのだ、と。そうではないことははっきりしている。国民が望まなければ、戦争は起こりはしないのだ。教育や宣伝や報道や法律の影響はあったにせよ、当時の国民は戦争を望んだのである。狂熱があったはずだ。私が戦後の小説に激しい苛立ちを覚えるのは、その熱をはらんだ空気が暴露されていないからだ。唯一、想像をかき立てられるのは林芙美子の「浮雲」である。この小説は、戦争によって引き裂かれた被害者の恋愛ではなく、侵略した仏印の密林の熱気によって育てられた恋愛が描かれているからだ。
「この戦争は、ゆき子にとって生涯忘れる事が出来ないのだ。あの時は、本当に幸福だった……」
 戦争は悪だ。しかしその悪は現在にも形を変えて満ちている。殺されかけた子ゴリラの視点では、永久に悪を暴露することはできない。自分の空洞を直視し、薄汚れた日本語を憎み、殺す側の領地に深く踏み入って、初めて悪と向かい合う事ができるのである。
村上龍『長編のあとの疑問』 『コインロッカー・ベイビーズ』執筆後に読売新聞に寄稿した文章、『村上龍全エッセイ1976-1981』収録。

戦争という「非日常」における日々の中の狂熱については、15年戦争時に代表作となる作品の大部分を発表している太宰治がいる。彼はその熱に浮かれてもいたと思うし、だから書けたんだと思う。その熱狂が敗戦によって終わればもう死ぬしかなくなってしまったようにも思える。だって、彼が浮かれていた「非日常」は終わってしまったのだから、あとは悲しすぎて誰かを道連れにして死ぬぐらいしか狂熱は残されていない。太宰治という作家は「非日常」における浮かれた身体と時間、その終焉を体現してしまったという意味ですごく日本的な作家なんだと思う。バブルでもネトウヨでもなんでもいいんだけど、「祭りのあとにさすらいの日々を」耐えきれないメンタリティーというか。
コインロッカー・ベイビーズ』を書き終えたばかりの村上龍は「悪」について意識している。村上春樹もその後、「悪」について書くことになったけど、長編小説を書く際に、自分の内部へ降りていくという行為を得ないと、作家は「悪」について見つめて、書くことはできないのかもしれないなと思った。

一年前にFacebookに書いていたもの。その一年後に中上健次『灰色のコカコーラ』を読み終わった。

 

3月9日
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『新潮』2022年4月号掲載の古川日出男戯曲『わたしのインサイドのすさまじき』を読む。
登場人物は女性四人の戯曲。つまり俳優が四人いたらできるというのが今まで発表されている古川戯曲に比べると登場人物も少なく、舞台装置もわりとシンプルなものになるなという感じがした。
物語の中のセリフで男優とか女優とかの言い方とか、かつては看護婦だったけど今は看護師となったこと、シングルマザーでノンフィクションライターでもあった紫式部の本名は隠されたままで、藤原という名字はわかっているが下の名前はわからないということ。古い歴史において女性たちの実名がわからないのはフツーのことだった。みたいな会話がなされている。ジェンダーのことがかなり多く出てくるし、少し前に『新潮』に古川さんによる現代語訳『紫式部日記』が掲載されたことで、この戯曲が生まれたんだと想像できる。警察病院を舞台にしているが、そこに入院している舞台の演出家がいるが、彼の病室のドアは見えないが真ん中に存在しているという風になっており、看護師と女性警察官、舞台女優二人が登場人物であり、見えない演出家との関係性ややりとりが最終的に四人での舞台に昇華されていくというものだ。そして、犬と猫に関する描写がたびたび出てきて、そこにも古川日出男作品らしさがある。


最近はradioheadの『Lift』とこのバージョンの『Fog』をよく聴いているんだけど、純文学系を読む時にはradioheadがよく合うというか僕にはちょうどいいのは、たぶん読んだあとに後味の悪いものが残る(作り手の我という他者性が読み手の中に侵入してきそうになる、あるいは混ざりそうになる嫌悪感みたいなもの)という部分で共通しているからなんだと思う。

 

3月10日
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ワクチン接種3回目を近所のキャロットタワーの4階で。会場のスタッフの人たちがかなり若い感じで大学生ぐらいに見える人が多かった。このご時世だし、飲食店とかバイトも少ないだろうから、バイトとしてやってるのかなとか思いながらしっかりとした動線ですぐに注射は終わった。注射のあと15分は椅子に座って待たないといけないので、持っていっていた堀江敏幸著『オールドレンズの神のもとで』を少し読み進める。

一旦家に寄ってから着替えてバッグをバックパックに変えて渋谷まで歩く。そこから神保町駅まで行き、15時までブラブラして時間を潰す。

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まん防期間中は事前予約しないと入れない「PASSAGE」に15時直前に入店。
お目当ての大塚英志さんの私家版批評集『昔、ここにいて今はもう、いない。』がラスト一冊だった。追加を宅配便で送ったと昨日夜に大塚さんがツイートされていたが、あぶないあぶないギリギリセーフ。ちょうど堀江敏幸著『オールドレンズの神のもとで』を読み始めたので仲俣さんの棚にあった堀江さんの小説と一緒に購入した。この店はノーキャッシュレス、現金では会計ができない。棚は個人が多いけど出版社もあったりして、これからいろんな人が参入したらよりカオスで個性的なお店になりそう。

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最後のページで鉛筆でかかれていたナンバリングは9/50だった。
事前に予約して神保町に行って実際に店舗で手にとって買う。本はハードとソフトを兼ね備えている。だからこそ売り切れてたら?という気持ちにもなる。これが電子書籍なら、買いに行って帰るという時間であったり、売り切れてたらとドキドキも発生していなかった。体験も込みで書籍であり、本だと思う。

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終わって三茶に帰ってからニコラでコーヒーを。明日3月11日にニコラの上の3階にオープンする本屋&ギャラリー&カフェ『twililight(トワイライライト)』にも顔を出してお店の中と屋上を見せてもらった。いよいよ明日オープンだ。

 

3月11日
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2011年に刊行された古川日出男著『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社)、2021年に刊行された『ゼロエフ』(講談社)。2020年に古川さんが国道4号線と6号線と阿武隈川周辺を歩いて考えたこと、震災文学としての『平家物語』という思考など、読んだ人もまだの人もこの作品たちに触れてほしい。と3月11日を迎えたことで新たに思う。

 

古川日出男 × 管啓次郎 × 小島ケイタニーラブ × 柴田元幸「コロナ時代の銀河 -朗読劇『銀河鉄道の夜』-」
柴田元幸& デビッド・ボイドほか翻訳・監修
英語字幕版 & フランス語字幕版 完成
2022年3月11日 14時46分 無料配信 スタートします。

 

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ニコラの上の3階に本日オープンした『twililight』(トワイライライト)に行ってきた。
熊谷さんが淹れたコーヒーを飲んで、古本コーナーにあったレイモンド・カーヴァー著『ささやかだけど、役にたつこと』を購入した。
大きな窓から入る光の明るさやあたたかさが室内を満たしている感じで、とても落ち着ける。屋上からは茶沢通りが見下ろせて、知っているはずの道が少し違って見えた。
お店は13時から20時(まん防期間中、終われば21時まで)まで開いていて、火曜日と第三水曜日が休みでそこはニコラと同じなので、2階と3階どちらも顔をだしてみてください。

朝起きるとワクチン接種三回目の副反応なのかかるいダルさと頭痛があったので、痛み止めを飲んでから仕事をリモートワークで開始した。休憩中にトワイライライトに行ってから痛み止めが切れ始めたのかちょっとずつ頭痛が復活してきた。やっぱり三回目接種後はわりと副反応が来るという話は聞いていたが、本当だったみたいだ。
19時からドミューンの現場に行って、ジャズドミュニスターズのライブを生で見るつもりだったが、夕方以降にダルさと頭痛が戻ってきたのと、あだち充論の原稿締め切りがあるので諦めて家で試聴した。うーむ、副反応と締め切りめ。

3月12日
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昨日トワイライライトで購入したレイモンド・カーヴァー著『ささやかだけれど、役にたつこと』。
メフィスト賞に応募する時には必須項目に「人生で最も影響を受けた小説3作」というのがあって、それを自分が書くとすると、レイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』、大塚英志『摩駝羅 天使篇』、古川日出男『サマーバケーションEP』になる。
『サマーバケーションEP』は聖地巡礼のように物語と同じように井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて晴海埠頭(晴海客船ターミナル)まで行き東京湾に出るということ実際に十回行っている。最初の一回目で書かれたフィクションと自分の現実というノンフィクションが混ざり合う感覚があったし、実際に歩いてみると書かれたことよりも書かれていないことがなんなのかがわかるのもおもしろい経験だった。『ゼロエフ』では国道4号線と国道6号線はNHKの撮影クルーがいて、僕と田中くんは国道6号線を古川さんと一緒に歩いた。そして、晩秋の阿武隈川周辺に関しては古川さんと僕のふたりで川沿いを取材として歩いた。それは『サマーバケーションEP』を繰り返していた僕へのある種のサプライズでもあった。古川日出男作品で物語として好きな小説はほかにもあるけど、人生に影響を与えたとなるとこの作品になる。
『摩駝羅 天使篇』は人生でいちばん繰り返して読んでいる作品であり、電撃文庫から刊行されているにも関わらずラノベ的では全然なかった。正直やっていることが「天皇小説」なのだから、ラノベのレーベルから出ていることが不自然だった。ある時期の大塚さんは自分が原作をやっている漫画やこの小説に「天皇」を出していた。しかし、「天皇」が出てくると掲載されていた漫画誌は休刊し、この小説も3巻以降は出ていない。
インタビューでこの小説について伺った際に、ほんとうは『タイガーマスク』のメディアミックス的なことを梶原一騎の弟の真樹日佐夫あたりから持ち込まれて始まったものだったと言われた。それ故に最初の一巻では虎のマスクのリアルファイトの選手が出てきており、当時大塚さんがハマっていたUWF的な戦いが繰り広げられていた。しかし、『摩駝羅』シリーズというファンタジーに向かっていくと正直書けなくなってしまった。それは「摩駝羅」で組んでいた田島昭宇さんの絵がどんどんうまくなってリアルさが増していくと剣や魔法の世界を描くことに異和感を持ったことと同じものだったのだろうと言われていた。つまり漫画家と原作者では漫画家の方が先に自分の技量や世界観との差異を感じ、原作者も自分自身が実作者になったときにそのことに気づいたという話だった。だからこそ、多くの「摩駝羅」ファンがいまだに大塚さんに『摩駝羅 天使篇』のリブートや続編を求めているけど、単純に書けないのだという話だった。
僕は古川日出男作品について「孤児と天皇貴種流離譚」という説を用いて論じることができると思っているのだが、自分が書く作品で「天皇」に関するものが出てくるのは古川さんの影響もあるが、最初のところは大塚さんの作品によるものだと思う。その意味で影響はモロに受けているし、自分が書いたものを読み返すと無意識に『摩駝羅 天使篇』的なモチーフを使っていてビックリすることがある。
『愛について語るときに我々の語ること』は映画の専門学校時代にシナリオの先生から提出したプロットにダメ出しされたあとに読んでみろと勧められたのが『愛について語るときに我々の語ること』に収録されている『足もとに流れる深い川』だった。言われてからすぐに購入して読んで驚いた。それまで読んだことがない短編作品で終わり方もこんな作品があるんだと知った。日本ではレイモンド・カーヴァーの作品は村上春樹さんが訳しているが、僕は小説家の村上春樹に出会う前にレイモンド・カーヴァーの翻訳者として村上春樹に出会っている。そして、影響を受けたことになる。『愛について語るときに我々の語ること』を読まなければ、その後も海外文学を読んだり興味を持つことはなかったのは間違いない。翻訳した村上さんも『足もとに流れる深い川』が最初に出会ったカーヴァーの作品であり、読んで胸が震えるほどびっくりしたと語っている。カーヴァーもチャールズ・ブコウスキーにも惹かれるのは自分が最近は言わなくなっているがホワイトカラーではなくブルーカラーに近い学歴や人生であり、彼らに共感できることが多いからだとも思う。それもまた別の話だけど。

なんなんだろうな、このシングルの時のジャケットの四人の並びの絶妙さ、でもくるりでしかないっていう距離感というか、とても不思議な四人。

 

3月13日

2月上旬に『THE BATMAN』試写を観に行った。その時に情報公開(アメリカでのプレミア公開以降)までは内容はもちろんのこと試写を見たこともSNSに書いたり、言わないという誓約書にサインして観た。
本編とはほぼ関係ない最後の部分で映画には出演と言われていたけど、どこにも出ていないだろうバリー・コーガンらしき人の声が聞こえるシーンがあった。マット・リーヴス監督は続編に関しては否定はしてないが、今のところ予定はないみたいなことを言っているのだけど、どう考えてもそのバリー・コーガンらしき声の主はジョーカーでしかなく、この記事だとバリー・コーガン演じるジョーカーが出るシーンあったけどカットしていたらしい。そう考えるとカットしたのに最後の最後で姿は出さずに声だけ出演になったバリー・コーガンがかわいそうだし、続編作る満々じゃんとは思ってしまう。
ノワールものが好きな人は今作の『THE BATMAN』好きだと思う。ポップで明るいヒーローものが好きな人にはあまり受けないと思う。

〈著者より——私(古川)はここで読者の容赦を乞わねばならない。この『曼陀羅華X』の連載はすでに十回を数えて、今回で十一回めとなる。が、『曼陀羅華X 2004』および、その前身である『曼陀羅華X 1994—2003』内の二つのパート、「小文字のx」と「Y/y」を私はなかったことにする。私はいま、とんでもない宣言をしているのだとは自覚している。それでも物語の真の要請には服したい。私は『曼陀羅華X』から麻原彰晃を消す。これはその名前を消すのである。
私が「そうしてしまうこと」の真意の判断、また、当然ながら是非の判断は、読者に委ねる〉

15日に発売される単行本『曼陀羅華X』が「新潮」で連載されている時、毎号読んでいた。これは「野性時代」で連載されていた『黒いアジアたち』が東日本大震災が起きたこともあり、最終的に単行本にもならなかったことが大きかった。
好きな作家さんの作品は連載中に読んでおかないといけない、単行本にならない可能性がある。いや、連載を並走していなかったせいで形にならなかったのではないか、とすら勘違い的に感じたことで、次作『女たち三百人の裏切りの書』以降からは連載で追いかけはじめた。
上記の引用(2020年12月7日に発売された「新潮」誌(2021年新年号)の、掲載原稿の冒頭部分)で古川さんが「なかったことにする」と言われて単行本『曼陀羅華X』には入らない「小文字のx」と「Y/y」の2パートは、個人的には東京湾岸における物語として『LOVE』『MUSIC』『ゴッドスター』『ドッグマザー』に連なる物語だと思って、連載を読んでいた。
「なかったことにする」と言われているので、掲載誌「新潮」でしか読めないことになってしまっているのだが、この2パートを再生させて違うアナザー『曼陀羅華X』になったりしないかなと思ったりもする。

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散歩がてら有楽町まで歩く、気温が高くなってきたのと花粉が、花粉がすごいのだけが大変だった。
渋谷から青山墓地を抜けて、赤坂へ。首相官邸前と国会議事堂を横目に日比谷公園を横切り有楽町ビッグカメラ7階へ。
ユーチューブでもアップされている佐野元春先輩の『約束の橋』でアンコールの最後を締めたが、『自問自答』の中では1945年8月6日に広島を焼き尽くしたあの超越的な光の炸裂による破壊から現在のウクライナの若い兵士の最後に口から出た言葉「お母さん」という事柄を入れ込んでいて、This is 向井秀徳ネクストフェイズに入ったように感じた。
ウォーターフロント』も久しぶりに聴いたが前とは少し違うバージョンになっていた。馴染みある曲もアコースティック&エレクトリックのライブでは進化し続けている。

向井秀徳アコースティック & エレクトリック - 約束の橋

 

3月14日
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曼陀羅華X』の発売日は明日だけど、家から散歩がてら歩いて行けるジュンク堂書店渋谷店にお昼過ぎに行くともう入荷されていた。発売日が変更になったのだが、前の発売日に合わせて「幻視する作家 古川日出男」特設コーナーができていたので、そこに『曼陀羅華X』が収まったことで完成したぜ、という気持ちになった。
なにはともあれ、古川さん『曼陀羅華X』刊行&発売おめでとうございます!
連載で追いかけて読んできた作品だけど、やはり一冊としてまとまったものを読めるのはうれしい。『曼陀羅華X』ももちろんだけど、『ミライミライ』『ゼロエフ』など過去作もこの機会に読まれてほしい。

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古川日出男著『曼陀羅華X』を読み始めようとカバーを外したら、作中に出てくる二つの小説『666FM』と『らっぱの人』のタイトルが現れた。


渋谷に歩いていく途中にスマホで「太宰治賞」のサイトを見たら二次選考通過作品がアップされていたが、そこには自分の名前と作品はなかった。2年連続で一次通過、うーむ、二次選考の壁が厚い。送った作品はあるサーガのひとつのなので短くして一つの章として組み込もうかと思う。いいことと悪いこと両方ある春になったみたいな暑い日。

 

3月15日
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アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『MEMORIA メモリア』をヒューマントラスト渋谷にて鑑賞。

ブンミおじさんの森」などで知られるタイの名匠アピチャッポン・ウィーラセタクンが「サスペリア」のティルダ・スウィントンを主演に迎え、南米コロンビアを舞台に撮りあげ、2021年・第74回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したドラマ。とある明け方、ジェシカは大きな爆発音で目を覚ます。それ以来、彼女は自分にしか聞こえない爆発音に悩まされるように。姉が暮らす街ボゴタに滞在するジェシカは、建設中のトンネルから発見された人骨を研究する考古学者アグネスと親しくなり、彼女に会うため発掘現場近くの町を訪れる。そこでジェシカは魚の鱗取り職人エルナンと出会い、川のほとりで思い出を語り合う。そして1日の終わりに、ジェシカは目の醒めるような感覚に襲われる。共演に「バルバラ セーヌの黒いバラ」のジャンヌ・バリバール。(映画.comより)

主人公のジェシカに聞こえる不思議な爆発音のような音をめぐる冒険ともいえる今作は、音に関することからレコーディングスタジオに勤務するサウンドエンジニアに会いに行ったりなど音の原因を探ろうとしていく。そして、魚の鱗取りをしているエルナンと出会い彼と話をし始めるとそれまで謎だった爆音の正体がわかるという展開になっている。
爆発音の正体はそれまでの展開からは少し意外な気もしたが、考古学者とのやりとりなどの箇所もあるので、絶対にそれはないだろというわけでもなく、むしろ最初はびっくりもしたがしっくりもきた。だけど、ジム・ジャームッシュ監督『デッド・ドント・ダイ』にもティルダ・スウィントンは出演しているのだけど、その際に彼女がゾンビ関係なく、あるものと遭遇してそのまま消えたシーンがあり、今回の原因元がそれと限りなく近いため、偶然なのかアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が『デッド・ドント・ダイ』を観ていて、あえて彼女をキャスティングしたのではないかと思えてしまった。

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歩いて恵比寿にあるLIQUIDROOM で「D.A.N. presents “Timeless #6” 」のライブを観る。サード・アルバムがよすぎるD.A.N. とゲストはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲を手掛けたSTUTSのツーマンだったが、客層が若くておしゃれな人が多かった。
フロアの床には正方形でひとりぶんのエリアがテープで区切られていた。客数はマックス入れていないとしてもそれでもソールドアウトでかなり人がいる、圧迫感のような感じもした。コロナで客数を制限するライブが当たり前になっているから、区切っていても左右が空いていない感じだとかなり人が多いという印象を受けた。

昨日ライブで観たSTUTSはなんというか弟っぽいというか、演奏終わってMCで間違えてこのボタン押しちゃって、すみませんみたいなことを一緒にライブをやっていた鍵盤やラッパの人に言っていたりして、でも、演奏とかはガンガン攻めていくという雰囲気がその前に大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ているせいか菅田将暉演じる源義経みたいだなと思った。ようするに天才肌だけどお茶目で底知れない。そのせいでメインのD.A.Nがお兄さんみたいな、源頼朝みたいにすげえちゃんとしてる(弟に比べちゃうから)なって思っちゃった。『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング曲「Presence I」もはじめて人前でやったって言ってたけど、ライブバージョンもよかった。

LIVE FILE : STUTS “Contrast” Release Live / Digest

 

3月16日
昨日ライブ終わったあとに恵比寿の親友と飲んでから歩いて帰ったら3時過ぎていたので起きてからも多少の二日酔いがありつつも、9時からは仕事を開始。作業が溜まっていなかったので助かった。

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休憩中に駅前まで歩いて発売になった千葉雅也著『現代思想入門』と『WIRED』最新号を購入する。どちらも読めるのは明日の休みだけど、『WIRED』は特にたのしみだし、いいデザインだ。雑誌でたまに買うのってブルータスとか特集によるけど、あとは『WIRED』ぐらいな気がする。

デジタル資産を専門とする米国の法学者ジョシュア・フェアフィールドは著書『OWNED』で、スマホを所有する現代人は自らの土地をもたないデジタル小作農と同じであり、もはや所有「されている」存在だと書いている。デジタル資産の4つの権利 ──ハックする権利、売る権利、そこにCodeを走らせる権利、Codeを禁止する権利──を取り戻すことは、「所有」することと不可分だった自らのアイデンティティやプライヴァシーを取り戻す営為なのだ。

っていう部分を読むと森博嗣著『女王の百年密室』のことを思い浮かべるよね。

 

3月17日
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藤井道人監督『余命10年』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
原作は読んだことないけど、うまくギリギリのところで感動ポルノにならずに作られていた。
約二時間観ているといちばん変化するのは主人公の茉莉(小松菜奈)ではなく、彼女の恋人になる和人(坂口健太郎)であり、序盤で自分の部屋から飛び降りた男の再生の話でもある。その意味でもくさっているような人生を諦めていた男がどんどんいい表情になっていく、その顔の変化がしっかり作られていた。
その和人にとって師匠的なポジションをリリー・フランキーさんが演じている。日本映画界はどんだけリリー・フランキー頼りなんだよとは思うのだけど、しっくりくるのだから仕方ない。和人を光の方へ導くのが茉莉であるものの、人生における師匠のような存在に出会えたことがやはり大きい。
会社にしろそうでない場所であっても、年上の同性でも異性でもいいのだけど自分にとっての道標になるような存在がいるといないとではまるで違う。さらりと和人とリリー・フランキー演じる焼き鳥屋の店主のやりとりは描かれているが、そこが人が成長するには大事な部分だろうなとも思った。
構造的には本来は和人が主人公でヒロインが茉莉。一度「象徴的に死んだ」和人の再生の物語だが、主人公とヒロインの位置が変わることで茉莉視点の話になっている点がうまいと思った。
治療方法がなく余命10年、大学三年生のときに受けた手術後の10年生存率はほぼ0%な茉莉は、生と死の境界線にいる生者であり死者でもある。だからこそ和人がどちらに引き込まれるか、とも言えるが茉莉の家族が人としてちゃんとしていることもあり、彼女が和人に与える影響は光の側の方に、つまり生者の側になる。
そして、人が大人になる時には大切なものや大切だった人がこちらではなくあちら側に移行していく、まるで供犠のように。スヌーピーにおける年下なのに、みんなと同じ背格好になるライナスが幼さの象徴として手放せないライナスの毛布のように、これは和人の成長譚でもあるから、彼の成熟と共に茉莉はやはりこの世界から損なわれてしまう。それを茉莉の側から書いたことで感動ポルノにならずに済んでいたようにも感じられた。
リリイ・シュシュのすべて』における主人公の蓮見の成熟のための身代わりになる星野のように、この『余命10年』は星野の側から見た世界とも言えなくもない。この構造は蓮見と星野が入れ替わっても物語として強い。物語の王道パターンなので広く届けるエンターテイメントに向いている。

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映画観た帰りに本日発売になった大塚英志著『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』を購入。ここで書かれている田河水泡の漫画教室と『のらくろ』を読んだ若い世代が戦地に行った部分が読みたくて。

3月18日
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PLANETS刊行『モノノメ』2号が届いたので『ドライブ・マイ・カー』鼎談から読む。かつての村上春樹作品における鼠や五反田君は主人公の分身であり、負の可能性だった。『女のいない男たち』で久しぶりに出てくる主人公が友達になったり関わる男性たちは、鼠や五反田君とは違う完全な他者だが、彼らは途中でいなくなったり、自殺してしまう。その話を読んでいたら、友達がいないまま生きてきた老人の問題のようにも思えなくないのだが、『村上RADIO』っていなくなった鼠や五反田君に語りかけているようなものなのかな、と鼎談と関係ないことを思った。

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ティム・オブライエン著/村上春樹訳『本当の戦争の話をしよう』は改めて今だからこそ読まれるべき作品なのだろう。

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宝田明著『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』
週刊ポスト」の映画コーナーでご一緒していたのむみちさんが構成を手がけられていて、ご恵投いただいたもの。改めて読み返してみようと思う。

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ニコラでガトーショコラとアルヴァーブレンドを。
雨が降って寒かったから温かいコーヒーはほんとうに温まるし美味しく感じた。

寝る前に福岡にいる水道橋博士さんの元弟子の山本くんと電話をする。4月から東京に帰ってくるのでその話、オフィスと住む場所がこの間歩いた場所だった。いろんなことがうまくいくといいし、これからもいろんなことを話していくと思う。福岡に帰った頃よりも声の感じがよく、自信がついたのがわかる。

 

3月19日

1945年8月6日午前8時15分、あの光の眩しさや
1945年8月9日午前11時2分、あの雲の赤と黒の色合いや
どっか遠い知らない国の 街の空に鳴り響く戦闘機の爆撃音や
焼け焦げた赤ん坊を抱きしめた時の体温や
故郷から遠く離れた国に無理矢理連れてこられた若い兵士が
ライフルで右目を撃ち抜かれ 死ぬ間際に放った「お母さん」という叫び声や
そしてまた生まれ死んでいく
繰り返される諸行無常

13 日の日曜日に向井秀徳アコースティック&エレクトリックをよみうりホールで観た。
その日の映像がアップされていた。理由はわかる。この『自問自答』に向井さんが普段は歌わないことを、上記の歌詞を入れて歌ったから。
明らかに前とは違うフェーズに入っていたThis is 向井秀徳を見て鳥肌が立った。

 

3月20日
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ブックオフで見つけた中上健次著『鳳仙花』文庫版。
『鳳仙花』が収録されている全集は持っていないので、読むのも初めて。中上健次作品の新潮文庫版は全部絶版か権利問題が変わっているのでもう出ていないのだと思うのだけど、全集以外で読めるようになるといい。今年は没後30年だし。
今日明日で『曼陀羅華X』を読み終わるので、『鳳仙花』自体は連休最終日に読めるといいのだけど。

 

3月21日
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古川日出男著『曼陀羅華X』読了。連載時にずっと読んでいたものが単行本にまとまったものを読んだわけだが、その感触はかなり異なる。
単行本として読むとかなりソリッドな印象を受けるし、よりエッジさが増している。硬くて鋭いというのはナイフ的なものをイメージするが、それは作中の内容とも関係しているのかもしれない。

単行本になる際には掲載時には書かれていたふたつのパート(「小文字のx」と「Y/y」)が削られている。それは連載の途中である2020年12月7日発売号の『新潮』に掲載された「11回」の時に著者の古川さんが「私はなかったことにする」と宣言していたので当然といえば当然である。
「小文字のx」には本編に出てくる老作家とはちがうもうひとりの小説家(おれ)が出てくる。彼は夢遊病患者で埋立地にある施設にいる。
「Y/y」の主人公のららは本編の老作家のガールフレンドの異父妹の看護師であり、「おれ」がいる施設で働いている。このふたつのパートは東京湾岸が見ていた夢のようにも思えなくもなかった。

また、ある種の予見としてこれらのパートにはコロナパンデミックが世界中で大流行し、日本でも売れに売れたカミュ『ペスト』について語られる部分があり、現実と呼応してしまっていた。単行本でもフォークナー『八月の光』が重要な作品として登場しているが、なくなったパートではThe Jesus & Mary Chainの曲が出てきていた。そして、猫も。だが、それらは単行本では描かれていないので、この小説は犬小説の要素が大きくなっていて、猫小説の要素はなくなっている。

「小文字のx」における教団にデビュー作を盗まれたという「おれ」が語る経歴はほぼ著者の古川さんと被る、というかたぶん本人に限りなく近い。それはデビューに至るまでのことが今まで聞いていたこと、読んでいたことと大部分重なっていたからだ。
新興の出版社からデビュー作を出すまでの流れであったり、それまでどんな仕事(ライター)をしていたか、そしてデビュー日までが「おれ」と古川さんでは同じだと言える。だから、あまりにも自分のことすぎたから削るしかなくなったという可能性も浮かぶ。『ゼロエフ』はノンフィクションのルポルタージュだったから、ご自身と家族のことは書かないといけなかったから、そういう反動はあったのかなかったのか。

曼陀羅華X』となる作品の連載中には『ゼロエフ』の取材と執筆が重なっている。前述した「私はなかったことにする」という宣言は晩秋の阿武隈川に行く前に書かれていた。帰ってきて連載を読んでかなりビックリした。
そもそも『ゼロエフ』の夏の福島の取材に行く前から『曼陀羅華X』に関してはかなり難産というか、大きな決断をしないといけないとは聞いていた。たぶん、『ゼロエフ』がなければ『曼陀羅華X』は今回の単行本のような形にはならなかったと思う。

曼陀羅華X』では老作家が書いた黙示録と預言書から生まれた人物たちが現実に姿を現す。表紙カバーの「X」の後ろにいる「ペスト医師」のような人物(DJX)もその一人だ。『ゼロエフ』で登場人物として作中に登場している僕自身はそれもあってか、DJXにシンパシーを覚える。不思議と。

『ゼロエフ』と『曼陀羅華X』は東日本大震災オウム真理教によるテロという戦後日本における大きな転換期とそのあとを描いている部分もあるが、簡単に風化させていくから現実がこうなってしまうのだという強い意志も感じるられる。そして、現実をデザインしろ。という小説家がどこまでいけるかのかという気持ちが伝わってくる作品だが、ふたつでひとつみたいな部分があるようにも感じる。

読み終わってから渋谷方面に歩いていき、そのまま青山に向かう。「本の場所」での古川日出男さんの『曼陀羅華X』朗読イベントに行った。いつもの「本の場所」でのイベントとは違うようで、メールでいただいた場所は行ったことはないけど、何度もその前を通っている建物の10階だった。まん防期間中ということもあって、お客さんは全員で20人ぐらいだったろうか。
2年ぶりぐらいだと思うが古川さんの朗読が生で聞けてよかった。やっぱり朗読自体がカッコよくて笑っちゃうし、逆もしかりだった。警察に関する朗読の時にパトカーのサイレンが聞こえたり、窓の外が次第に夜に落ちていき、周りの建物の灯りが浮かび上がっていった。それは意図的でないし、演出ではないのに完璧な風に見えた。やはり古川朗読は圧倒的だしすごかった。その後、少しだけ近くのお店で軽い打ち上げに参加させてもらった。やっぱりイベント終わりにお酒を飲みながら少し緊張が解けた空気の中で話ができるのはうれしい。

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イベント終わりに古川さんご夫妻から翌日が誕生日ということでお祝いとしてトラベラーズノートブックというものをいただいた。万年筆は持ってないけど、そういうもので、なんか青いインクでこのノートには思いとか気持ちを書き記したいと思えるものだった。気にかけていただいてありがたい。
39歳の誕生日の初日は大盛堂書店での『ゼロエフ』発売に関する古川さんとのトークイベントの収録だった。そして、39歳最後の日も古川さんのイベントだったから、39歳という一年の最初と最後が古川さんのイベントだったのは感慨深いし、なにか不思議な気持ちだ。このことはSNSには書かないし、このブログを読んだ人にしかわからないけど、それでいい。

 

3月22日
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誕生日はだいたい映画を観ることが多く、今回はもともと休みだったので朝イチの回で観ようと思って二日前にチケットを取っていた。シネクイントにて今泉力哉監督『猫は逃げた』を鑑賞。雨というか寒さがすごい&先日の地震で火力発電所が止まっていて節電を呼びかけられるという春分の日の翌日とは思えない状況だったし、平日ということもあってか僕を含めて3人ぐらいだった。まあ、これは仕方ないとは思う。

「愛がなんだ」「街の上で」の今泉力哉が監督、「性の劇薬」「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫が脚本を務め、飼い猫をどちらが引き取るかで揉める離婚直前の夫婦とそれぞれの恋人、不器用な4人の男女を描いたラブコメディ。今泉と城定が互いに脚本を提供しあってR15+指定のラブストーリー映画を製作するコラボレーション企画「L/R15」の1本。漫画家・町田亜子と週刊誌記者の広重の夫婦。広重は同僚の真実子と浮気中で、亜子も編集者の松山と体の関係を持っており、夫婦関係は冷え切っていた。離婚間近の2人は飼い猫のカンタをどちらが引き取るかで揉めていた。そんな矢先、カンタが家からいなくなってしまう。亜子役を「追い風」の山本奈衣瑠、広重役を「孤狼の血 LEVEL2」の毎熊克哉、真実子役を「階段の先には踊り場がある」の手島実優、松山役を「ミュジコフィリア」の井之脇海が演じるほか、お笑いコンビ「オズワルド」の伊藤俊介、中村久美らが脇を固める。(映画.comより)

『愛なのに』では監督を務めていた城定監督がこちらでは脚本で、脚本を書いていた今泉監督がこちらでは監督をしてスイッチしていながら、作品同士に接点があるというコラボレーション企画の一作。
猫のカンタをめぐる話であり、離婚寸前の夫婦とその夫婦それぞれの浮気相手の四人がメインで展開していく。最終的にはカンタをめぐって四人が一堂に会するところでのやりとりがシチュエーションコントのようにも感じられて、それぞれの思いや気持ち、性格が一気に交差することで観客としては笑えてくるのだが、その場にはいたくないと思える感じがさすが今泉監督だなと思った。セリフや恋愛模様にある人たちの喜怒哀楽が出ていて、とても人間らしい。
『愛なのに』でのセックスシーンでのエロさと比べると『猫は逃げた』はライトな感じになっているので、どうしても比べてしまうのでこちらはもっとライトか見せなくてもよかったのかなと思ったり、それは本当に人の好き好きだとは思う。

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小説現代」最新号が発売になっていたので二次選考通過していた第二回羊文学賞の結果を見る。本が出る一ヶ月前とかに連絡がない時点で最終とかに残っていないのはわかっていたのだけど、二次選考通過作品には選評が掲載とアナウンスがあったのでどんな感じかなと思って読んでみた。
ペンネームとして使っている「汐崎宿波(しおざきしゅくは)」はこのところ書いているサーガみたいないろいろと繋がっている作品群の中心人物みたいな人物の名前。
「純文学的なお話でした。」と言われたらそうかもなあって思うし、「小説現代」とコラボしている以上はエンタメに向いてないといけないもんなとは思う。とりあえず、「汐崎宿波」に関係するサーガのひとつが今書いているものなので、今月末の〆切に間に合うようにあと一週間ほどやっていく。

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映画館を出たら雨だったものがみぞれになっていて、家に向かって帰っていくとほぼ雪になっていた。
それで三島由紀夫著『春の雪』という作品タイトルを思い浮かべた。帰る前にロフトによって、昨日誕生日プレゼントでいただいたノート用のカートリッジ式の万年筆を購入して帰ってから、カートリッジを入れて青いインクで青文字で「水、雨、雪」と書いてからノートに書くのをスタートした。


3月23日
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トワイライライトでコーヒーを飲みながら、前に来た時に気になった梅原猛中上健次著『君は弥生人縄文人か』の古本を買って読む。熊野って中上作品で知っているけど、知らないことだらけで面白い。

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コーヒーを飲んでからニコラに移動してコーヒーとイチゴとマスカルポーネのタルトを頼んだら、毎年恒例でありがたいことにお祝いプレートにして出してもらった。イチゴだけではなく文旦もモリモリに乗っていた。
まずは40歳、この10年はできるだけ健康でいれるようにしないといけないなと思う。心か体どちらかが弱るとどうしても片方ももっていかれる。基本的には精神面では強い方なので体をしっかりしとけば、ほどよい希望と絶望の間で生きていけると思おうとしている。

23日に重大発表があると行っていたけどやはり『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』アニメ化のお知らせだった。コミックス最終巻は30日発売だし、放送がいつかわからないけど、浅野いにお作品では初のアニメ化だし、アニメ次第では浅野さんの作品がもっと広く読まれていくことになると思うのでたのしみ。

コロナパンデミックになって2回ぐらい延期になっていたサンダーキャットの来日ライブのお知らせメールがようやくきた。
東京は恵比寿ガーデンホールだけど、案内メールで「コロナ禍でのイベント開催に係る規制、キャパシティ制限を踏まえて本公演の開催を実現するため、各日2回公演制 (1st Show / 2nd Show) への変更しなければならないことをご了承ください」とあって、希望時間帯を送る感じになっていた。その分ライブは短くなるだろうけど、いい判断だと思う。

今月はこの曲でおわかれです。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONYou To You (feat. ROTH BART BARON)』Music Video



踊ってばかりの国ニーチェ』LIVE@新木場USEN STUDIO COAST(2022.1.05)