Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年1月24日〜2022年2月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年02月掲載 今回は映画日記(1月&2月)


先月の日記(12月24日から1月23日分)


1月24日
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「メタヴァース」と言葉が生まれたSF小説スノウ・クラッシュ』がもう出てないかと書店に行ったらまだなかったけど、大友克洋著『童夢』があったので購入。この赤いビニールというかカバーが独特な匂いで懐かしい。

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チャック・パラニューク著『サバイバー』を読み終えた。
ファイト・クラブ』の3年後に発表された作品の新訳版だが、主人公ともうひとりの主人公みたいな存在or役割が可能な人物(分裂したもうひとり、今作では双子の兄)とクレイジーにしか見えないヤバいヒロインとカルト集団という設定と構造はほぼ同じで『ファイト・クラブ』の語り直しみたいな話だった。『ファイト・クラブ』は映画化されたことでビジュアルイメージもあるから強い。どちらも世紀末における終末感と世界を破壊したいという願望や期待みたいなものがある。

PLANETSブロマガ連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」の最新回が公開になりました。
クロスゲーム』2回目は月島四姉妹の原型となった「居候」シリーズ、ヒロインの月島青葉とあだち充作品のヒロインについて取り上げています。

 

1月25日
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朝イチで『コーダ あいのうた』をTOHOシネマズにて鑑賞。さすがに8時20分からの回なので10人ちょっとぐらいだった。でも、シネマイレージデイなので1200円。

とある海辺の町。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる女子高生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は、幼少期からさまざまな場面で家族のコミュニケーションを手助けし、家業の漁業も毎日手伝っていた。新学期、彼女はひそかに憧れる同級生のマイルズと同じ合唱クラブに入り、顧問の教師から歌の才能を見いだされる。名門音楽大学の受験を勧められるルビーだったが、彼女の歌声が聞こえない両親から反対されてしまう。ルビーは夢を追うよりも家族を支えることを決めるが、あるとき父が思いがけず娘の才能に気付く。」(Yahoo!映画より

タイトルのコーダは「Child of Deaf Adults」(ろうあの親を持つ子供)の意味らしい。劇中でも一度だけど言及されていた。このままでは日本だと意味わからないから「あいのうた」となんとなくよさげな副題がついたのだろうが、そういうのが感動ポルノと結びついちゃってんだろうね、素晴らしい映画なので蛇足だなあと観終わってから思った。
コロナになる前に計画されたり作られていたりするorこの最中で作られた映画だと濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』には韓国手話が出てきたし、まだ観れていないが韓国映画『声もなく』の主人公は話せなく、そして手話もしないかできないらしい。そして、この『コーダ』が公開されていることは時代的なものも含めて通じてる気はしている。
まずは語り(ナラティブ)がある。その拡大や可能性として手話がある(当然ながら映画は映像なので手話は画になるし、手話のやりとりの場面ではスクリーンから目がより離せなくなる)。
そして、マスクという仮面は人から表情を奪った。それに対してより雄弁なコミュニケーションとして手話が際立つ部分もある。基本的には会話するときに相手の顔を終始見ていなくても、表情から多くの情報を得ながら会話をしている。この前に、仕事関係でウェブ面談をした際にはじめてやりとりする相手のうち二人が社内だからかマスクをしたままだった。知らない人でPC上での動画のやりとりで顔の表情わからなかったら、自分の言葉がどのくらい届いているのかわかんないから、手応えがまったくなかった。
コロナ大流行における語り(ナラティブ)とマスクという表情を隠す仮面がより、『コーダ』という映画と呼応している部分はおそらくあるのだろう。
事前に手話での下ネタが多いとは聞いてたけど、たしかに多かった。ある意味ではおおらかなんだけど、耳が聞こえるルビーと聞こえない家族における違いもあって、ルビー以外は性に貪欲というか前向きな感じでもあった。
娘を持つ父親が観たら号泣すんだろな、とも思うので、娘を持つ父親やかつて娘だった人が観たらどんな感じなのか知りたい。
あとメキシコ出身の音楽の先生が素晴らしかった。ルビーの才能を見出すんだけど、彼女が抱えているものをレッスンによって吐き出させる。それが見事というか、あらゆる芸術っていうのは感情の発露が始まりにあるわけで、芸術を軽んじる人や国家なんてもんは、人の感情を蔑ろにして舐めてるわけでしょ。人はただ経済を動かすコマだと、ただの数字としか見てない。芸術が人の感情とともにあることが基本的な人権と平等に結びついていると思うし、それを最低限教えてる国は芸術をしっかり保護している。で、嘲笑う国は芸術を守らないし、数字は書き換えるしデータは証拠隠滅で破棄する。
だから、『コーダ』みたいな映画(オリジナルはフランス『エール!』)は日本の大手映画会社では作れないだろうなと思うし、もしリメイクしたら感動ポルノに成り下がるんだろう。


1月26日
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ニール・スティーヴンスン著『スノウ・クラッシュ』新訳文庫版上下巻。文庫で上下巻で出すときは二冊で一つのイラストになるのがやっぱよいですね。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年02月号が公開になりました。2月は『ゴーストバスターズ/アフターライフ』『ちょっと思い出しただけ』『リング・ワンダリング』『愛なのに』を取り上げています。


1月27日
f:id:likeaswimmingangel:20220127183807j:plainお昼前に家を出て12時から上映の片山慎三監督『さがす』をシネクイントで鑑賞。前作『岬の兄妹』をトークイベントに出演した樋口毅宏さんからお声がけしてもらってスクリーンで観た。すごく笑ってしまったし、同時に社会からこぼれ落ちてしまった兄妹の生きる力や脆さや世間というもの、人の欲望について描ける監督なんだと思ったのを覚えている。ユーモアはある種の残酷な時に笑いになったりもする。そして、その片山監督の新作ということで気になっていた作品。

「岬の兄妹」の片山慎三監督が佐藤二朗を主演に迎え、姿を消した父親と、必死に父を捜す娘の姿を描いたヒューマンサスペンス。大阪の下町に暮らす原田智と中学生の娘・楓。「指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言う智の言葉を、楓はいつもの冗談だと聞き流していた。しかし、その翌朝、智が忽然と姿を消す。警察からも「大人の失踪は結末が決まっている」と相手にされない中、必死に父親の行方を捜す楓。やがて、とある日雇い現場の作業員に父の名前を見つけた楓だったが、その人物は父とは違う、まったく知らない若い男だった。失意に沈む中、無造作に貼りだされていた連続殺人犯の指名手配チラシが目に入った楓。そこには、日雇い現場で出会った、あの若い男の顔があった。智役を佐藤が、「湯を沸かすほどの熱い愛」「空白」の伊東蒼が楓役を演じるほか、清水尋也、森田望智らが顔をそろえる。
映画.comより

平日の昼までまん防適用されているのもあると思うが、それでも十人以上は観客がいたと思う。
楓がいなくなった父を探すというタイトルのまんまの話かと思いきや、かなり早い段階でそれは裏切られていく。父が見つけたと言っていた連続殺人犯の山内と楓が出会ったところから物語はほんとうの意味で動き出す。父の名前を使って日雇い現場で働いていた山内は父のスマホを持っており、彼は父が経営していた元卓球場の一室で寝泊まりしていた。
物語はここから3ヶ月前、13ヶ月前、と父と山内の関係性について時間を遡っていくことで描き出すことになる。ネタバレになるので詳しく書かないが、前作『岬の兄妹』とも通じる事柄が出てくることになる。

父がどうしてお金が必要だったのか、なぜ彼が卓球場を再建したいのか、という理由が明らかになってくる。遡ることで過去になにが起きていたのかがわかるのでちょっとミステリーっぽさもあるのだが、現在に時間軸が戻ってからある種のどんでん返しがいくつか起きる。途中でそれってどうなのか?と思わされた箇所もあったが、その部分ものちに違う意味があったのだとわかる。
楓が自分のことが好きな同級生に父がいるかもしれないある島に一緒に行ってほしいと頼んだ際に、一緒に行ってくれたら付き合ってあげると言われ、彼はじゃあ、胸見せてえやと言う。彼女はそれを承諾し、胸を見せて二人は島に向かうことになるのだが、言うこと聞くから胸見せろやっていうのはなんだか非常におっさんっぽいというか、今の中学生もそんなことを言うのだろうか、言うかもしれない、なんだかなって思ったのがその場面だった。その場面も伏線的に回収はされるのだけど、なんだかモヤモヤした。

楓が父を「さがす」という話だったが、しかし、彼女がほんとうに探していたのは誰なのか? というダブルミーニング的な要素も出てくる。終わり方やいろんな伏線が回収されていくのだが、この前に観た『コーダ』と近い部分がいくつかあるせいか、この作品をすごくよかったとどうも言いにくい部分がある。片山監督が『岬の兄妹』に引き続き描こうとしているものはわかるのだが、時間軸を現在、3ヶ月前、13ヶ月前、そして現在と進めていく構造のせいなのか、前作のように人に観た方がいいよと勧めるかと言われれば、悩みどころ。前作を観ている人ならば勧めるかもしれない。
だが、二度、三度とどんでん返しがあり、日本映画であのコミカルでおもしろいおじさんというイメージがついている佐藤二朗が見せる喜怒哀楽と狂気と欲望の行き先を見せてくれるので観る価値は充分あると断言できる。ただ、内容についてまったく受け付けない人もゼロではないだろうなと思う。

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最近は中島らも著『僕にはわからない』や穂村弘著『整形前夜』などのエッセイを何冊か併読しているのだけど、そこに今日ゲットした燃え殻さんの新刊『断片的回顧録』を加えた。表紙の装丁デザインだと思っていた写真の部分は実際表紙に直張りしてあって、すごくいい。
ニコラでアルヴァーブレンドときんかんといよかんマスカルポーネのタルトをいただく。柑橘類好きなんで最高に好きな組み合わせ。


1月28日
水道橋博士のメルマ旬報』連載の今月の原稿は「晴海埠頭」について書こうと思って、『二〇一八年のサマーバケーションEP』を読み返した。東京湾岸の話なので『曼陀羅華X』にも通じてるところがあるし、『ゼロエフ』の原点みたいなところがある。

『二〇一八年のサマーバケーションEP』vol.1


『二〇一八年のサマーバケーションEP』vol.2

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ブラックボックス』を三分の一ほど読んだ。なんとなくだが、砂川さんは純文学から出てエンタメに移行する作家さんになるような気がする。

 

1月29日

TLで流れてきた資生堂150周年企業広告の動画を見た。声が出そうになる、やっぱ資生堂すげえなって。
ブランディングとしてすごいし、広告にしっかりお金を使える企業としての体力と見せたいビジョンを伝えようとする精神があるからこそできるんだろう。それは資生堂にとっての意志であり中軸にあるものがしっかり受け継がれていることでもあるのだろう。

f:id:likeaswimmingangel:20220128211302j:plainちょうど『花椿』のアートディレクターをずっとされていた仲條正義さんの『僕とデザイン』を読んでいたので、おお、上記の動画を見て資生堂って思ったのだった。
花椿』の作り方だけではなく、仲條さんの仕事への態度や考え方、生来の粋な部分と洒落っ気があるのもわかって、これは勉強とかでどうにかなるものではないなと思いながら最後まで読んだ。
もちろん、今から考えるとお金があった時代に豊潤な予算の中で、仲條さんは遊んでいる、しかし、できたものはクオリティがたかいからこそ、どんどんいい才能が集まって、それが伝播していくという好循環が生まれていた。今こういうことはなかなか難しくなってきている。だからこそ、というか仲條さんがずっとアートディレクターとして関わった『花椿』、そして最初に就職した資生堂の150周年企業広告を見ると納得できるのだと思う。

 

1月30日
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奥田裕介監督&カトウシンスケ主演『誰かの花』舞台挨拶付上映をユーロスペースで鑑賞。

鉄工所で働く孝秋は、薄れゆく記憶の中で徘徊する父・忠義とそんな父に振り回される母・マチのことが気がかりで、実家の団地を訪れる。
しかし忠義は、数年前に死んだ孝秋の兄と区別がつかないのか、彼を見てもただぼんやりと頷くだけであった。
強風吹き荒れるある日、事故が起こる。
団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃し、救急車やパトカーが駆けつける騒動となったのだ。
父の安否を心配して慌てた孝秋であったが、忠義は何事もなかったかのように自宅にいた。
だがベランダの窓は開き、忠義の手袋には土が…。
一転して父への疑いを募らせていく孝秋。
「誰かの花」をめぐり繰り広げられる偽りと真実の数々。
公式サイトより

かつてと同じ人であるはずなのに、記憶が混濁し、忘却しつつある父(高橋長英)に兄と間違えられる次男の孝秋(カトウシンスケ)、交通事故で亡くなった兄のこととその痛みが終始家族の中にずっと、ただある。
居た人が居なくなった空白は家族が年を取り、老いていくとより露わになってきてしまう。居なくなった人はその時から時が止まってしまうから、老いとは対極になっていってしまう。その人が若ければ若いほどに。そして、孝秋たちが被害者家族ということも時間が薄めてくれるだけでなく、時に濃くなり孝秋の感情を揺さぶる。
植木鉢が落ちて人が亡くなった事故は実は父による事件かもしれない、そうなれば加害者の側に、加害者家族となりえる可能性が出てくる。しかも、被害者は父と母(吉行和子)が暮す上の階に越してきた楠本家の若い父親だった。
孝秋はその楠本家の母親(和田光沙)と息子(太田琉星)と交流が始まることで、被害者家族である彼らともしかしたら加害者家族であるかもしれないという自分、しかし、兄の事故で被害者家族でもあるという中で、さまざまな感情を抱えていくことになる。

最近、たまたま大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」で刊行された『童夢』を読んだ。団地を舞台にしたサイキック同士の戦いを描いているが、この『誰かの花』も団地が舞台になっている。
かつて団地というものは高度経済成長と共に増えていった。しかし、それはもうだいぶ前に終わっており、失われた30年と言われるように終わらない不況が続き、子供が減っていった日本において団地も老朽化などの問題を抱える場所となり、海外からやってきた人たちが集団で住むようになったりとかつてとは違うものとなっている。

観終わってからこの映画について考えたのだけど、そういう団地が舞台であり、認知症を患っているはずの70代ぐらいの老いた父がもしかしたら意図的に、隣の部屋のベランダにあった植木鉢をそこから下の道を歩いていた上の階に住む若い父親に当たるように落としたとしていたら、というこの物語は、より深刻で怖いものにも感じられた。というのはそれはまるっきり今の日本そのままであるようにも思えてしまったからだ。

老いた父(父性)はヘルパーさん(村上穂乃佳)や妻に介護をしてもらい、生き長らえている。時折、はっきりと物事を言ったりして、完全にはボケてはいない。だが、記憶は混濁している時の方が多い。そのことで実の息子である孝秋は父が本当に認知症なのか少しは疑う時もあったはずだ。
だが、その父の世代はある意味では幸福であるといえる。戦後に生まれて経済成長と共に青春や若い時期を過ごし、上の世代にあった敵国となったアメリカへの愛憎もなく、ただアメリカの文化を当たり前のように受容して日本の戦後における青春を謳歌した。そして、幻想としての一億総中流の時代を年功序列と生涯雇用がある時代で働いてきたから、もちろん家父長制を疑うことなく生きてこれたとも言える。
そんな時代を生きた老いた父性が、それらが崩壊した時代を生きる若き父性をもし意図的に殺めたとしたら、その可能性があるのだとしたら?という物語にも見えてくる。

そして、タイトルにある「誰かの花」はダブルミーニングのように幾つも重なるものとなる。そこにはもうひとつの父性が加わる。それは孝秋の父と母が住む隣に住む男性の岡部(篠原篤)である。植木鉢をベランダに置いていた人物であり、彼は自ら手を下したわけではないが、彼の家のベランダにあった植木鉢が上の階に越してきた一家の父親を殺してしまったという事実がある。そして、劇中で彼もまた父であることが描かれるが、上の階に越してきた楠本家とは真逆の家族関係であり、植木鉢もそのことと関係があったことがわかる。だからこそ、悲しい余韻を残す。
被害者のこと、加害者になりうること、それらを描いた映画だが、意図的なのかそうではないかはわからないが、僕はこの作品に今の日本社会における父性の移ろっていく様、そして老いと責任について描いているように感じた。それを自分と近い世代の息子がどう受け止めるのか、どう対応していくのかというのは他人事ではないからこそ、深く染みる。


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木澤佐登志著『失われた未来を求めて』をちょっとずつ読んでいる。もともと、マーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』が出た時に、何にも知らずにタイトルに惹かれて&ジャケ買いしてから、前作『資本主義リアリズム』を読んだ。レディオヘッドをずっと聴き続けている人であれば、『資本主義リアリズム』の表紙には親近感を持つだろう、僕もそうだった。木澤さんの『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』もその流れで読んだ。
それ以降、基本的に木澤さんの書いているもので書籍になったものは読んでいるが、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』はマーク・フィッシャーの書籍と関連しているのでまあ気になる人は読んでみたらいいと思う。ただ、『闇の自己啓発』はそこまでおもしろくはなかった。
そういうラインに早川書房というかSF的な想像力も加わってきていて、編集者の溝ロカ丸さん辺りが関わっていたり、「SFプロトタイピング」であったり、「世界のリーダーはSFを読んでいる」フェアみたいな、ちょっと自己啓発的なものとそういうものがくっつき始めた気はする。「世界のリーダーはSFを読んでいる」っていうのが気になるのは、じゃあ、こんな世界になった原因ってSFになっちゃうよとも思わないのだが、めんどくさいからつぶやかない。
前に書いた長編『浸透圧』はマーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』自体を作中に出したし、「平成」という時代を「昭和の亡霊≒幽霊」というものとして描けないかなって思っていたところがある。なんで「昭和」からして未来である「平成」が幽霊なのかということは、『失われた未来を求めて』というタイトルとも通じる部分もあるし、『インターステラー』で描かれたような3次元よりも先の次元では、すべての時間軸が同列に存在しているのが描かれていた。過去も現在も未来もそのすべての可能性が同じように同じ場所で存在している。それはなんか想像としてわかる気がした。そういうのも関連してる。
2月に書き上げようと思っている小説は『浸透圧』をバージョンアップさせたものにしたいので、『失われた未来を求めて』を読むとなにかヒントがありそうな気がしている。

 

1月31日
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ぶ厚い雲に覆われ陽が差さなくなった遥か未来の地球。
植物が枯れ酸素も薄くなった世界。
しかし人類は、人を植物に変える技術を開発し、わずかな酸素を作り出して生き延びていた。
先の見えない世界でも人として生きるか、苦しみを捨て植物として新たな生へ踏み出すか。
人々は選択を迫られるーー

安田佳澄著『フールナイト』を最新刊の3巻まで買って読んだ。
めちゃくちゃおもしろかった。今同時期に連載しているものだと、ジャンプ+の大ヒット作品『怪獣8号』とかなり近しい。『寄生獣』や『進撃の巨人』や『亜人』、古くは『ウルトラマン』と『デビルマン』的なものの後継、派生的なものが『怪獣8号』にはあるが、『フールナイト』は『亜人』や『寄生獣』の植物バージョンという感じもする。人類にとって脅威となるべきものと同質のものが主人公に宿るというパターン、あるいはそれになってしまうというものの系譜。
『怪獣8号』も『フールナイト』も別種の「トランスヒューマニズム」的な想像力であったり、現在の世界と呼応している部分があるんじゃないかなと思ったりもする。
『フールナイト』では寿命がつきかけた人間に「転花」という技術を使うことで、2年以内に徐々に人が植物になっていき、「霊花」と呼ばれるものになっていく。そうしなければ陽がほとんど差さなくなった世界では酸素が手に入らないからでもある。そのため、「酸素税」は異様に高く、貧困と格差がより広がっている舞台になっている。
主人公のトーシローは精神を病んだ母と暮らしており、貧しさと絶望の中にいた。彼は心の豊かさ(転花すると1000万もらえる)のために体に種を入れ、2年後には植物になってしまう手術を行うが、金はすべて奪われてしまう。だが、トーシローには転花したかつて人間「霊花」となったものの声が、意識を感じる不思議な力が備わっていた。そして、彼の同級生だったヨミコが働いている国立転花院でその力を使って、かつて人だった「霊花」を探すようになるのだが。という話。
「希望とは常に救いようのない絶望に支えられている」という『摩駝羅 天使篇』の懐かしいセリフを思い出した。

講談社が主催している「漫画原作大賞」に4作品応募できた。大賞なら連載確約+20万だが、優秀賞なら10万、奨励賞なら5万。奨励賞以上で賞金もらいたい。去年『週刊ポスト』の連載が終わったこともあり、今年はどう考えてもライターとしての原稿料は三分の一になってしまう、いろいろヤバすぎる。連載も原稿料もほしい。なにか引っかかってほしい。明日からはメフィスト賞応募作品に1ヶ月しっかり取り組む。

 

2月1日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2022年2月1日号が配信されました。
毎年元旦に井の頭公園神田川の源流から川沿いを歩いて東京湾へ歩いていく(古川日出男著『サマーバケーションEP』の物語を辿る)、そのラストにある今年閉鎖されて解体される「晴海客船ターミナル」についてです。
今回で神田川沿いを歩くのは10回目になりました。ラストの目印である「晴海客船ターミナル」というランドマークも無くなるし、東京五輪も終わったし(晴海埠頭付近は選手村のマンション群が建ち並んでいる)、これで完了です。
東京湾岸の物語はいつか長いものを書いてみたい。古川さんが『新潮』で連載していた東京湾岸を舞台にした『曼陀羅華X』が今月末に出るのでそちらもたのしみ。連載時にあったあるパートは途中でなかったことにすると宣言されたので、連載バージョンと単行本バージョンではかなり読み味が変わってくる。僕はなかったことにしたパートの物語がかなり好きだったのだけど。


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去年試写で観たけど、もう一度スクリーンで観たくなっていたのでシネクイントでウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を鑑賞。映画の日なので、なにか観たいということもあって。
お菓子みたいなカラフルさで可愛らしさとセンスが人気なウェス・アンダーソン監督の最新作だが、今回はある雑誌のメイン記事3つ(としてストーリー三本)と編集部や創刊者でなくなった編集長(ビル・マーレイ)の話とで構成されている。
試写で観た時同様に一番最初の牢獄のアーティストであるモーゼス・ローゼンターラー(ベニチオ・デル・トロ)と看守であり、彼のモデルとなるミューズのシモーヌ(レア・セドゥ)と画商のカダージオ(エイドリアン・ブロディ)が出てくる美術の話が楽しかった。これがもっと長いと話的には難しいのかもしれないけど、けっこうお腹いっぱいになるところもある。でも、あとの二つの学生運動と警察署長の料理人の話もポップでたのしい。108分の上映時間のはずがそれよりも長く感じられるのは内容が込め込まれているというのもあるのだろう。出演者が多く、構造が割とパッと見ではわからないということも関係していると思う。
ウェス・アンダーソン監督が雑誌文化に敬意を持っているし、影響を受けてきたことが伝わる話なので、出版業界の人やライターや物書きの人は見るとよりいろいろと感じ入ることがあると思う。ちょうど、ライター仕事で思うことがあったので、前回より編集長のセリフが沁みた。

映画を観終わってからTwitterを見たら石原慎太郎氏が亡くなったというニュースが流れてきた。それで下記のインタビューのことを思い出した。
「メディアの時代のメディアミックス的な人間としての石原慎太郎」とかの話は自分が大塚英志さんにインタビューしたけど、今読んでもおもしろい。
大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談」

 

2月2日
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休憩で外出した際に前から気になっていた大和田俊之著『アメリカ音楽の新しい地図』を購入。The Weekndのニューアルバム『Dawn FM』を聴きながら読もうと思ったけど、彼はカナダ出身のアーティストだった。

3月公開の映画の試写が来たので申し込みをした。ネタバレとか内容に関してはかなり厳重な対応をするというのが文面とか資料から感じられる。果たして、どんな感じなのだろうか。とりあえず、試写の初日を申し込んで予約をした。

前に応募していたもので一件進展があったのだが、今後のことを考えるとどうしようか悩む。いろいろと微妙なところがある。

 

2月3日
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浅草ロック座に川上奈々美ストリッパー引退興行を観に行こうと杉山さんに誘ってもらったので浅草に行って、14時の公演の前にSPICE SPACE UGAYAというスパイスカレーのお店でランチを。牛すじとドライキーマのあいがけのご飯大盛りを注文する。牛すじはとろとろだし、キーマとパクチーがよく合う。最終的には混ぜて食べるとさらに新しい美味しい味になって、三度楽しめた。
その後、近くの喫茶店でコーヒーを飲んでからロック座に向かう。

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着いたら13時半少し過ぎていて2階にあるチケット売り場への階段にちょっと人が並んでいた。僕らは男女だったのでカップル割で9000円だった。普通に一人で入るより男性は1000円安くなったのでラッキー。

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一回の公演が1時間50分(休憩10分)で1日に4ステージ。一回入れば入れ替えはないので、ずっと中にいることはできるというシステムらしい。14時からの回はお客さんは40人程度で女性のお客さんは10人近くいたと思う。
前にストリップを観に行ったのは数年前の新宿だったが、やっぱりとても不思議な空間である。女性が丸見えになった、ご開帳の時にポーズを決めると常連ぽいおじさんのお客さんたちから熱い拍手がなっていた。そういうルールなのか、そうなのか。踊り子さんたちはやはりアスリートに近いという印象があり、あれだけ踊るのを1日で4回の1ヶ月公演というのはすごい体力だし、体はどんどん引き締まっていくのだろう。
正直なところでいうとご開帳したりしても性的な興奮はなかった。どう見ていいのかわからないという部分もあるのだろう。踊り子さんたちの姿は美しいと思うけど、やはり空間自体が不思議なだと思っている自分がいる。女性たちの体の半分はあるであろうミラーボールがステージの奥で回ってライトの光を乱反射するように光を踊り子さんやステージ、そして客席に投げてくる。そのミラーボールが真ん中で分かれていて右と左の左右で縦に違う速度で回っていたりするし、球自体もふつうのミラーボールのように横に回っているので、光が乱れまくっていてそれがとても印象的でもあった。
川上奈々美さんの引退興行の月間であるのだが、彼女が出てきた2回とも歌をしっかり歌っていた。なぜ2回も歌ったんだ?と思ったりもした。そういう売りなのかな。また、全体的に『ベルサイユのばら』をモチーフにしている演出と構成だった。やっぱり場内にいるおじさんたちの行動が気になって踊り子さんのポーズ、おじさんたちの反応を見てしまっていた。どういう気持ちで見ているのだろうか、それも不思議に結びついていた気がする。

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帰りにニコラに寄って、アルヴァーブレンドモンブランをたべる。ずっとメニューにあって見ていたけど、食べたことはなかった。「はじめて食べました。ずっと食べてなかったんで」と言ったら、「一回食べたことあるならわかるけど」と言われたのだが、僕の中では「(メニューで見てたけど)ずっと食べてなかったんで」というニュアンスだったけど、そこは省いちゃダメなんだなと思った。

 

2月4日
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木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読んでいると、マーク・フィッシャーと「資本主義リアリズム」の話から、カウンターカルチャーの亡霊やLSDと知覚の扉なんかの話に展開していく。失われた未来とサイケデリックやメランコリー、ジョセフ・ヒース『反逆の神話』で描かれた「反体制と消費資本主義」、世界からの阻害と生の意味の喪失という現代的な話などマーク・フィッシャーの遺作となった『アシッド・コミュニズム』について、どんどんわかるようなわからないような難しい話になっていく。
かつてのカウンターカルチャーとヒッピーたちが夢見た神秘主義(スピリチュアル)とサイケデリクスの欲望の先にあった地球の外側にある宇宙ではなく、精神世界(内的宇宙)へのトリップという自己革命の夢、それがインターネットへと結びついた先の現在。
この評論を読んでいると、後期のフィリップ・K・ディック作品を読み直すほうがわかりやすい気がしてきた。2000年以降にディックを読み始めた人間としては、オールドSFの書き手である彼の作品はまるでインターネット的なものであり、それは当然ながらインターネットとなる前にその要素となった神秘主義LSDなんかのサイケデリクス的なものが彼の話には描かれているからだったのだろう。
というわけで、『ヴァリス』シリーズを読み直したくなってきたので、『ヴァリス』とは構造自体はあまりかわらない『スキャナー・ダークリー』と『流れよ我が涙、と警官は言った』も引っ張り出してきた。

ヴァリス』(と、その続編)が、今日考えられるかぎりの「宇宙と脳と神秘哲学をめぐる情報システム」を扱った最初で最大の唯一の文学思想的な試みであったことからは、読者は逃れようはない。面倒なのでここには書かないが、カルトを脱出するのはそんなに困難なことではないけれど、そんなことを考えるより、やはりいったんはディックの周到で狂気に満ちたPKDカルトに浸ることである。そうすれば、これだけは請け合うが、読み終わったのちに何が何だかわからない自分がそこにぽつんと取り残されるのを感じることだろう。

 

f:id:likeaswimmingangel:20220204215804j:plain大盛堂書店で橋本倫史著『水納島再訪』をゲット。

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塩田明彦監督『麻希のいる世界』をユーロスペースにて鑑賞。劇中歌をThis is 向井秀徳が作っているので観ようと思った作品。
前作『さよならくちびる』同様に音楽の話であり、女性二人と男性一人の関係があり、というのは同じだが、年齢が下がって高校生になっていた。男が窪塚愛瑠なんだけど、笑いそうになるぐらいに父の窪塚洋介みたいな話し方だった。あれはわざとなんだろうか、ふつうにやってるとしたら父のコピーすぎる。で、彼の父親が我々にはARATAだと未だに思ってしまう井浦新さん。未だに渋川清彦さん見てもKEEさんだと思っちゃう現象だ。映画『ピンポン』でのペコの息子が育って、スマイルが父親役ですよ、時が経たなあ。

映画は前作同様に塩田監督の性感帯を寄せ集めて煮詰めたような内容だが、観ているのが正直しんどくなるほど破綻していた。3時間ぐらいあるのを半分ぐらいにしてるのか、なんか端折った?みたいなことが多々あり、ご都合主義が連発する。
たぶん、主役の女の子ふたりの撮りたいシーンありきで作って、それを優先させたらしっかり破綻したみたいな、正確には破綻すらしてなくて、なんだこれ?みたいな話になっていく。
メインの女の子の麻希がテレキャスを鳴らす音はThis is 向井秀徳なんだけど、それも演奏と歌うとこはフルでは流さないし、あと主人公の由希が麻希の才能(歌)を信じて突き進んだけど、正直説得力が感じられないからただ痛い。『コーダ あいのうた』観たあとだと、よほどの声か歌唱力がないと納得もできないし、フィクションの前提や土台が固まってないから、観てる方はしらけてしまう。
歌ものの難しさはそこもあるし、百合がしたいのかしたくないのかも微妙で振り切らないと観る方も困る。

 

2月5日
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朝と昼のご飯は浅草に行った時に買ったペリカンの食パンとベーコンとスクランブルエッグ。このパンかなりふわふわしていて美味しい。

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田島昭宇画業35周年記念画集『冬暮れの金星』(写真はついてたポストカード)&『プラネタリウムの天使』届いた。

大和田俊之著『アメリカ音楽の新しい地図』を読んだので、アリアナ・グランデとテイラー・スウィストとラナ・デル・レイブルーノ・マーズのアルバムを散歩がてらいったツタヤ渋谷店でレンタルしにいった。一緒にブラッド・オレンジも聴きたいと思ったので追加した。MacBook Airに外付けのCDとDVD読み込みをつないでiTunesに音源を入れている。どうもSpotifyとか音楽ストリーミングサービスを使いたいという気がおきない。たぶん、スマホだけで完結する感じとかにならないようにしているのが自分には大きいんだと思う。

 

2月6日
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オススメされたタイムリープもの『明日への地図を探して』をアマゾンプライムで観た。
去年映画館で観た映画ベスト10にタイムリープものの『パーム・スプリングス』を入れたが、どちらもヒロインが理系というか、近しい部分がある。『パーム・スプリングス』のヒロインがタイムリープから抜け出すために取ったまさに「たったひとつの冴えたやりかた」が僕的にはリアルだし、とても好きだった。この作品はどんなやり方でリープから抜け出すんだろうと思いながら見ていた。
ビデオゲームがヒントになるという部分は『アンダー・ザ・シルバーレイク』を思い出したが、爽やかな青春タイムリープものっていう感じで、長さ的にもちょうどいいと思った。
主人公のマークとヒロインのマーガレットという風に物語は進んでいくが、実は主人公は、という展開になる。『ブレードランナー2049』みたいに主人公が選ばれし者(救世主)ではなかった(今作ではマークがタイムリープの原因ではなかった)パターンだが、その理由やタイムリープを断ち切るためにマークはマーガレットに寄り添って力になっていく。
見ながらタイムリープ、ARGと陰謀論にディズニフィケーション、がうまく組み合わされたSFミステリもどきのアイデアが浮かばないかなあ。とか考えていたら鈴木光司さんが「リング」シリーズである程度やっていた。現実はシュミレーションとかも含めて。リングウイルスだった貞子が映画によってその存在だけが飛び抜けてしまったせいで、一連の小説がちゃんと評価されてない人だと思う。

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KATO CHA
その場で当たる!をやってみたが、最後の仲本工事さんだけ外れてゲットできなかった。

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小林信彦著『ムーン・リヴァーの向こう側』という小説がほぼ新品に見えるぐらいで200円だったので購入。1995年の初刷だから27年前だけど、売った人は読んでなかったんじゃないかなって思うほど。小林信彦さんというと『日本の喜劇人』しか読んでいないから小説は読んだことがない。
一緒に買ったのが村上春樹著『アンダーグラウンド』の単行本。こちらは文庫版を持っているが、単行本の分厚さがいい。『ゼロエフ』の取材に同行する前に文庫版と中上健次著『紀州』と共に参考資料して読んでいた。

 

2月7日
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画像は『マトリックス レザレクションズ』(https://wwws.warnerbros.co.jp/matrix-movie/news/?id=2)より
自己啓発としての陰謀論 『マトリックス』のモーフィスがネオに渡すレッドピルとブルーピル。

 主にオルタナ右翼陰謀論者のコミュニティでは、”TAKE THE REDPILL”(レッドピルを飲め)は彼らにとっての符丁のように機能している。主流メディアと知的エリート層によって捏造された、偽りと仮象の世界から目覚め、この世界の「真実」にアクセスすること。言ってみれば、このレッドピル的な世界認識と、先に述べたARG的な世界認識とが結びついたところにQアノン陰謀論は、存在している。ARG的な世界認識は、現実世界に別のレイヤーとして物語世界を重ね合わせる。他方で、レッドピル的な世界認識は、この二重化された現実世界/物語世界というヒエラルキー的な階層構造を反転させる。つまり、Qアノンが紡ぎ出す物語世界=陰謀論的世界こそが「真実」を写した世界であり、現実世界と呼ばれているものは実のところ偽の世界に過ぎない、という転倒した世界認識が、レッドピルがもたらす「覚醒」によって獲得されるのである。
 想像(力)と現実とが価値反転するという構造は、しばしばポジティブ・シンキングの領域においても見られる。ポジティブ・シンキングとは、乱暴に一言でまとめれば「強い思考やイマジネーションはものごとの原因となる」という考え方で、たとえば成功哲学で知られるナポレオン・ヒルの著書の邦題『思考は現実化する』は、ポジティブ・シンキングの要諦を簡潔に示したものだ。他にも、一九〇三年に原著が刊行され、現在でも盛んに翻訳されているジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』では、私たちは思うことは必ず現実になるし、そのことに例外はひとつもない(ただし努力すれば)、と説かれる。このように、ポジティブ・シンキングにあっては、いわば想像が現実の条件となっている。言い換えれば、未だ現実化していない想像の領域にこそ最大の強調点が置かれるのだ。付言しておけば、ドナルド・トランプは、ポジティブ・シンキングの唱導者として知られる牧師、ノーマン・ヴィンセント・ピール(彼は十九世紀アメリカの霊性運動ニューソートから霊感を得ていた)に学び、とりわけ著作『積極的考え方の力』を若い頃から熱心に愛読してきたとされる。
 自己啓発書には、そのメッセージの受け手(読者)と同時に、送り手(著者)が常に必要となる。教育社会学者の牧野智和によれば、現代は、目標とするべき、規範となる自己のあり方や生き方を断定し、そこへ向けて読者を導いていくようなメッセージが大量に発信・消費される時代であるという。いみじくも、牧野は著書『自己啓発の時代』の中で、自己啓発が氾濫する情況から、この世界全体を一つの原理のもとに単純化してくれるようなメッセージと、それを断定的に与えてくれる権威へのニーズの、現代におけるかつてない高まりを剔抉してみせている。陰謀論もまた、「世界全体を一つの原理のもとへと単純化する」ニーズに支えられた最たるものであることは、今さら指摘するまでもないだろう。
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』205-206Pより

ある時期に須藤元気さんの自己啓発本にハマっていた時期があった。近い時期に園子温監督に実際に会いに行ったりして、そこからいろんな人と出会うきっかけができたりしたこともあったので、自己啓発の効果やバタフライエフェクトというのはわりと信じていた。
でも、生粋のネガティブが根底にあるので、どこかで冷めた目で見ていたり、客観視できてしまうために一瞬熱が高まっても持続はしないし、引いた目で見れてしまうので自己啓発は自己暗示として使えなくもないが、けっこうヤバいと思ってもいた。
トランプが支持されたこともQアノン支持者がいることも、日本維新の会の支持者がいることも上記の引用を読むとよくわかる。
それらが跋扈して勢いを持ってしまうのはもちろん(主流メディアと知的エリート層が多い)リベラルの側の問題もあるが、実際はそれまで白人至上主義だったのに移民たちによって仕事などが奪われてしまう(本人が努力してないことが多いわけだが)ことが許せない彼らの自己啓発としてのトランプがいたし、大阪と維新の問題もおそらくそれと被るものがあるはずで、だからこそすごく難しい。
水道橋博士さんが『藝人春秋2』で書いたように関西のテレビ制作会社と作っていた番組というメディアによって、長い時間を使ってやってきたことと維新は結びついているので、外側に出るかそれについて客観的な見方ができなければ、陥った自己啓発的な状況からはたぶん抜け出せない。だが、自己啓発にハマった人がそれを抜け出しても、不安定になった精神を支えるものや場所や時間が必要になる。
複雑化する世界に耐えきれないから単純化する方向に向かう。

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TAKAGI BOO
今日も最後の仲本さんところで外れた。

 

2月8日
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前に見かけたときに気になっていた『東京百年物語2 一九一〇〜一九四〇』を購入。

明治維新から高度経済成長期までの100年間に生まれた,「東京」を舞台とする文学作品を時代順に配するアンソロジー.社会制度,文化,世相・風俗などの変遷を浮かび上がらせ,「東京」という都市の時空間を再構成する.第2分冊には,谷崎潤一郎川端康成佐藤春夫江戸川乱歩堀辰雄岡本かの子ほかの作品を収録した.

田河水泡のことなんかを調べたいと思うと約百年前の1920年ごろの東京のことが知りたいし、調べる必要があったので、収録されている著名な作家の作品はわりと読んでいないのでちょうどいい勉強にもなる。

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映画の試写会場まで2時間かからないぐらいだったので歩いて行く。映画については3月以降に。
早めに試写会場に着いたので周りをうろうろしていたら、日比谷公園が近くだったので久しぶりに行ってみた。今年のGWには去年と一昨年中止になってしまった「MATSURI SESSION」やってほしい。

 

2月9日
木澤佐登志著『失われた未来を求めて』を読み終えて、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』を久しぶりに再読したので、その際にBGMでヴェイパーウェイブを聴いていた。その流れでNight Tempoの曲も聴いた。
僕はスポティファイとか音楽ストリーミングサービスがどうも苦手で、いまだにiPod nanoを使っている。有線イヤフォンだし、MacBook Airに外付けHDDを繋げてCDのデータを取り込んで、iTunesで音楽を聴いている。だから、いまだにCDはレンタルするので、ツタヤ渋谷店に行っている。けっこう、レンタルスペースには人がたくさんいる。
書籍にしても著者名とかタイトルをあまり覚えていなくても、装幀デザインでその作品を覚えている。たぶん、それがあるので、装幀デザインが(僕からすると)ダサいと思うものはよほど人に勧められないと手に取りたくないのかもしれない。装幀とかCDジャケットって中身からのインスピレーションだったり、作り手が手に取って欲しい人を想像して作るわけだから、それが自分にとってどうかなって思うものはたいていの場合、いい意味で予想を裏切ることは少ない。だけど、自分のそのセンスがマジョリティでないこともよくわかっている。
アメリカではCDとヴァイナルの売れ行きがコロナになってから上がったとのニュースを前に見た。結局のところ、人は目に見えるものを欲しがるし、物がなければ存在を把握しにくい。このフェイスブックもそうだけど、結局のところサービス元が終わったらデータは消えるし使えなくなるし、音楽ストリーミングサービスも同じだ。OSがバージョンアップし続けて行くので、それをやめればサービス的に無理なものもあるし、バージョンアップして行く中で支えていたものが急に使えなくなることもある。
結局のところ、トランスヒューマニズムが推し進められ、肉体が滅びなくなって(機械との融合)、脳や記憶のデータをどこかに保存し再生できるようになってしまえば、ある意味で人は死ねなくなる。そういう未来がユートピアなのかディストピアなのかは人によって違うだろうが、そういう未来が予想できてしまう時代の中で(Apple Watchの馴染み方もAirPodsのようにコードがなくなっていく先を考えれば、そのうち当たり前にスマホは体内に入って行くだろうし、ハイスペックなコンタクトレンズがその役目を果たすのかもしれない)、今のところインターネットの功罪はあるが、世界がいい方向に行っているのかと言われると頭をかしげてしまう、だから、それが始まる前の時代や黎明期の希望があった頃を懐かしく思う、そういうものとしてレトロフューチャーを消費するということはあるのだろう。80年代とはインターネットのなかった時代であり、もしやり直すならそこからという意識はゼロではないのではないかと思う。
Night Tempoは「シティ・ポップ」と呼ばれる1980年代の日本のショー、歌謡、ディスコを再構築して「フューチャーパンク」(Future Funk)というジャンルを誕生させ注目を集めた。日本の歌手竹内まりやの「プラスチックラブ」をリエディットしたバージョンはユーチューブで700万以上のクリック数を記録した(wikiより)。
彼は韓国のDJ兼プロデューサーだが、『82年生まれ、キム・ジヨン』を訳された斎藤真理子さんにインタビューをした際に『ピンポン』の著者であるパク・ミンギュは村上龍高橋源一郎の影響を受けていると公言していると言われていたし、村上春樹吉本ばななの小説は直訳文体で韓国では読まれたこともあって、直訳文体的なものの影響を受けた書き手が現れていく流れができたとも教えてくれた。文化は合法であろうが海賊版であろうが、アンダーグランドなところからでも国境を越えて影響を与えあう。
まあ、日本が他国に影響を与えれるのはその時代が特に強いとは思う。金持っていた時代だからこそ、他国にとっての失われた未来でもあったし、サンプリングとかもされていない、掘りがいのあるものとして日本の音楽は掘って海外で新しく知られていっているのも事実。
KADOKAWAのメディアミックスについての研究だって日本じゃなくてカナダとか他国の学者とかのほうがちゃんとやっているし(摩駝羅関係のメディアミックス資料はマーク・スタインバーグにたいてい渡してるって言ってた)、戦前戦中の超有名作家の未発表原稿はたいてい中国とかに残っている大東亜共栄圏におけるメディアミックス的に作っていた雑誌とかに載っているものが多い、向こうは資料としてきちんと残しているけど、日本はやべえ資料は廃棄して証拠隠滅してたから残ってなかったっていうオチだったりもする。


ポニーキャノンが公式で許可してアップしてる。こうやって許可して再生数を伸ばした方が利益になるとわかっている。

新田恵利って言われても、『めちゃイケ』とかで岡村さんとかおニャンコ直撃世代の人が憧れていたアイドル的なことでテレビ出てた人だよなって感じしかない。

 

2月10日
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小林信彦著『ムーン・リヴァーの向こう側』読了。内容は「男は39歳、辛口で知られるコラムニスト。離婚歴あり。東京・山の手に、今は独り住まい。内省的な性格。性的な悩みを抱えている。そんな男の前にあらわれた女は27歳、古めかしい言葉をさらりと使う。六本木や西麻布の喧噪が苦手。新潟の出身だというが、その挙動はいたって不可解…。かくて、瀕死の巨大都市「東京」の光と影とに彩られた、物哀しくもユーモラスな恋愛譚が始まる。」というものなのだが、読んでいくとなんというか出来損ないの村上春樹作品みたいな印象を受ける。小林さんのほうが村上さんよりも年上だということもあるだろうし、いろんな面で当時の村上春樹さんと比べてもどこか古臭いという感じがした。
ただ、祖父の時代から青山に住んでいて現在(1995年辺り)は渋谷に住んでいる主人公が出会った20代のライターの女性の謎を追いかけていくうちに自分の出自がわかってくるという意味では、タイトルもそうなんだが、ポール・オースター著『ムーン・パレス』にも通じている。都市計画というものや変わっていってしまう東京について書きたかったんだろうなと思うし、東京生まれの著者が知っているかつての東京の姿を物語の謎に結びつけているのはおもしろかった。隅田川を渡る渡らないというそれだけがかつて深川とかに住んでいた人からしたらまったく違う場所、「異界」だったというのは現在だとわかりにくいものだろうけど、こうやって残すことが大事なことだと思う。小林さんは村上春樹作品やポール・オースター作品をどのくらい意識したのか、まったくしてないのかと言われるとさすがどうかなって思える感じの内容ではある。
でも、今書いているものに活かせる要素がいくつかあったので、読んでよかった。

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仕事が終わってからニコラでお茶をしてから歩いて渋谷に向かって、『ゴーストバスターズ アフターライフ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
主役のフィービー(マッケンナ・グレイス)はいわゆるリケジョ的な才媛で眼鏡っ娘役だが、顔が整いすぎてて、このまま成長したらものすごい美女になるんだろう。高1ぐらいの冴えない兄貴のトレヴァーだがアメリカは免許取れる年齢ってのがデカい、ゴーストバスターズの車を運転する大人ではないフィービーに近い存在が必要になるから。フィービーの同級生であだ名がポッドキャストなムードメーカーな少年はアジア系で『グーニーズ』のデータに近い(彼よりメカニックというわけでないが)。あとは兄貴が一目惚れした彼より2つ上のバイト先のアフリカ系の女子高生の四人が新しいゴーストバスターズ的な存在となる。

フィービーの祖父である元祖ゴーストバスターズだったイゴン・スペングラー博士が田舎町で封じ込めようとしていたゴーストの封印が解かれそうになって、新生ゴーストバスターズが活躍するという物語になっている。
シリーズの1と2のアイバン・ライトマン監督の息子であるジェイソン・ライトマンがメガホンを取っていることも大きいのか、家族というか親子の話にもなっている。変人で家族を捨てた父親だとずっと思ってきた娘のキャリー(フィービーの母)と父との関係性の再生も軸にある。

なんにも知らないままで観たけど、楽しめた。あとあれはどこまでネタバレしてんの?っていう。それもあるから某メジャー作品同様に過去から現在という時間の積み重なりが大きく作用している。
オリジナルが難しい時代、祖父の血をある種隔世遺伝的に引き継いだ若き科学者のフィービー、祖父の遺産を孫が使うということは物語として強い。しかし、キャリーは家賃が払えないからずっと疎遠で少し前に亡くなった父の田舎の屋敷に子供をふたり連れて戻るしかなかったという設定でもある。
シングルマザーであるキャリーは僕と年は変わらない、カート・コバーンビリー・コーガンも親に捨てられた、両親の離婚が当たり前みたいに増えたアメリカのジェネレーションXはグランジオルタナの筆頭となった。キャリーも年齢からすれば、ジェネレーションXの最後尾辺りになる。日本だとそれはロストジェネレーションと呼ばれた世代と重なる部分がある(ジェネレーションXのほうが長いのだが)。

僕は基本的にはロストジェネレーション≒ごっつ直撃世代(松本人志病)だと思ってる。冷笑的に世界をひねくれて見る癖がついてしまった。最後のガラケー世代とも言える。そして、上と下の世代のハブになるはずの役目はインターネットが果たしてしまい、宙ぶらりんになってしまった。だからこそ、キャリーにいちばん感情移入をしたような、こんなことを書いてる。
どんな時代でも間に合わなかった遅れてきた青年ばかりだし、救われなかった人たちのほうが多い。だけど、救われなかったからといって誰かを救えたりするならば救いたいし、なにかで手を差し伸べることができる時には手を差し伸べる人ではありたいと思う。たぶん、そういうことを今はなにかの形にしたいのかもしれない。
結婚していないパートナーもいない子供もいない、そういう自分がこの数年、35を越えてからよく考えるようになったのは引き継がれるものだとか、されないものだとか、いろいろあるんだけど、たぶん、その辺りの事についてこれから付き合っていくんだろうな。

 

2月11日
去年の12月に『水道橋博士のメルマ旬報』の連載「碇のむきだし」で書いた『2021年映画ベスト』 をnoteに転載しました。


f:id:likeaswimmingangel:20220211122621j:plainオススメされた『デジタル・ファシズム』を読む。なんとなく聞いたりしていたことがわかりやすく書かれている。THE新書という感じもした。
お金に関しての部分はほかの本で読んでいたので、わりと知っていた。税金を納めることの意味みたいなことをなんの本で読んだか忘れたが、日本で税金を納めるためには円で収めることしかできない。つまり、税金があるから日銀が発行する紙幣には信用と価値が生まれているし、それによって支配が可能になる。だからこそ、ビットコインなんかの国というものを超えたものが当たり前になると、当然ながら円の信用は落ち価値がなくなっていく。というか日本に住んでいる人を支配できなくなる。だから、中国系のキャッシュレス機能が知らない間に入ってきて、利用者が増えていくと円が元に知らずと置き換えられてしまう(中国化されてしまう)という話だったはずだ。
資本主義の諸問題を解決するためには、GAFAをはじめとする企業なんか資本主義をさらに推し進めて、資本主義の持つ国家や因習などを解体する作用に期待すべきとする思想が加速主義だった気がするが、それはリバタリアニズム(個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場)とも関わっている。
この『デジタル・ファシズム』読む前に久しぶりに『ニック・ランドと新反動主義』を読み返したので、脳内でいろいろと混ざってる。
この新書でも最初にSF作家であるアーサー・C・クラークの話が出てきていた。もちろんSF的想像力に関しては疑わないけど、そこまでみんなSFってちゃんと読んでるのだろうかとも思ってしまった。結局のところ『デジタル・ファシズム』で危惧されているようなことの行き着いた先は伊藤計劃さんが『ハーモニー』で書いてるんだよなあ、改めてこの新書が売れるなら『ハーモニー』はもっと読まれてもいいのになあ。

 

2月12日
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友人の鎌塚くんが原案で、糸井のぞさん作画のコミックス『僕はメイクしてみることにした』が発売になったので買いにいった。残り一冊だったけど、かなり動いているみたい。
何話かはWebで読んでいたけど、こんなに早く形になるんだと驚きもある。まずは出版おめでとうございます! めでたい。
僕はトモズとドン・キホーテでバイトしていた期間が10年以上あるので、けっこうコスメ関係は売っていたのでなんとか名前とかはわかったりする。防犯シールとかめっちゃ貼ってたもん、高額商品とかに。
この漫画の内容はすごく映像化に向いていると思う。そもそもウェブでのPV数もすごかったみたいなので、すでに話は来ていそうだが。
『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』で先々週あたりの放送回で元テレ東佐久間さんがブログかなにかを読んで40歳を越えてはじめて化粧水を使ったという話をしていた。なんで今まで誰も教えてくれなかったんだよ!みたいな話だったので、僕がコミックスの担当なら『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』に献本で送る。で、読んだらおもしれえって話になってラジオとかで話してくれるかもしれない。
その流れからテレ東深夜枠とかTBSでドラマ化とかいけそうだし、総じてParaviはけっこうオリジナルコンテンツを作っているので、この『僕はメイクしてみることにした』はドンピシャな気がする。佐久間さんがParaviで『考えすぎちゃん』(ワンクールだけTVでもやった)とかやっていたのを見ていて、けっこうテレ東とTBSのドラマ班が出ていたし、『生きるとか死ぬとか父親とか』はプロデューサーだったので、そういうメディアミックスもいけるんじゃないかなと他人の作品で青写真を描きながら、読んでます。

 

NHK+で『星野源のおんがくこうろん』を見る。解説員がふたり(パペット)いて、ひとりはTBSラジオでお馴染みと言っていいのかな、高橋芳朗さんで、もうひとりが先日ちょうど読んだ『アメリカ音楽の新しい地図』の著者の大和田俊之さんだった。
第一回はビートメイカーのJ・ディラだった。なんとわかりやすい。スパイク・ジョーンズのMVは流れるし、Eテレっぽくない気はちょっとするけど、これ民放だとたぶんできないんだろうな、星野源さんならなんでもやっていいですみたいなスポンサーいないだろうし。
以前『おげんさんといっしょ』でサンダーキャットのことを紹介してたのを思い出した。コロナでいまだに来日公演は延期されたまま(チケット取ってるけどもはやアナウンスがない)だけど、来日したら絶対に星野源とサンダーキャットはコラボかなにかするだろうなと思う。


AmazonプライムでやっていたやつがYouTubeに場所を移したのね。
プロレスものではないけど、有田さんの語り手は好きでこのシリーズはAmazonプライムでは全部見ている。
相方としての福田さんの相槌もかなりいいし、有田さんの語りはやっぱり知らない人にも伝わる熱量とわかりやすさがありながらも、話術としてうまいなあと思う。
平家物語』だったら平家にも源氏にもなりたくないけど、琵琶法師にはなりたいっていうか。
語り部の使命はできるだけ生き延びて見たり聞いたりして後世に残すことなんだよね。
伊藤計劃著『ハーモニー(新版)』の最後にある伊藤さんを佐々木敦さんがインタビューしたのを読んで、語り部のことをちょうど考えたばかりだった。

 

2月13日
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松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』をヒューマントラスト渋谷で鑑賞。
毎年のある日だけを定点観測の逆回転していくことで、今は別れてしまった二人(照生(池松壮亮)と葉(伊藤沙莉))の日々と想いの変化、コロナで変わった東京が描かれていて、すごくよかった。
クリープハイプの曲が主題歌で尾崎世界観さん出てるし、中央沿線や座・高円寺も舞台になってるし、ニューヨークの屋敷さんも出てるので、水道橋博士さんは観たのだろうかとちょっと観ながら思った。とツイートしたら博士さんが反応してくれたので、観てもらえるといいな。

照生の後輩のダンサーの泉美役が河合優実さんだった。僕が彼女を認識したのは『サマーフィルムにのって』からだったけど、松尾大輔監督『偽りのないhappy end』にも出ていて(こちらのほうが撮影とかは先だったはず)、2月末公開の城定秀夫監督『愛のなのに』も予告編見るとかなりメインだし、一気に来てるなあと思う。
実際にキャスティングされて撮影が終わって、それを観て僕がそう思っているというタイムラグはあるから、映画関係者の中ではもっとだいぶ早く評価されたり、使いたいという人がいるはずで、それがどんどん増えている状態なんだろう。

そのタイムラグにとって、観客には「あれ、この人このところめっちゃ観るな」という状況になって、ブレイクして知名度が上がっていくというサイクルがおそらくある。『偽りのないhappy end』にちょいと出ていた三上愛さんも最近めっちゃ見るようになったし、バイトしている「monokaki」の主体である「エブリスタ」で投稿していた小説が原作となっているドラマ『Liar』の主役になっていた。

『ちょっと思い出しただけ』は物語的には『花束みたいな恋をした』や『ボクたちはみんな大人になれなかった』と比べやすいものでもある。
『ちょっと思い出しただけ』は中央線で、『花束みたいな恋をした』は京王線、的な物語である。もちろん舞台がそうだからであり、僕個人としては『花束みたいな恋をした』の舞台に馴染みがあり、住んでいた近くだし、主役の麦と絹に近いものがあったのでかなり沁み入ったし、最後のファミレスは号泣してしまった。
『ちょっと思い出しただけ』はメインふたりのやりとりがすごくよくてけっこう笑う箇所が多かったのが対照的に思えた。ちょっとオフビートな感じもするのだけど、それは後述するこの映画がオマージュしているジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・プラネット』(原題『Night on Earth』)と関係があるのかもしれない。
でも、どちらも横浜の観覧車が見える場所が物語の大きなポイントになっているので通じている。

どちらの作品でも猫を飼っている。
『ちょっと思い出しただけ』は二人が別れたあとに猫は照生が引き取って育てている。物語として毎年彼の誕生日という一日を遡っていくため、飼い猫はどんどん小さくなっていく。
逆にというか『花束みたいな恋をした』では、二人が同棲し始めて神社で拾った黒猫はどんどん大きくなっていく(当たり前だ。時間が進む方向として)が、黒猫はどんどん大きくなり、ふたりが心の距離が離れていくような不吉さのメタファーのように見えてしまう。
同じようなことは城定秀夫監督『愛のなのに』と同じプロジェクトで制作された今泉力哉監督『猫は逃げた』の予告編を見た時に感じた。離婚寸前の夫婦が飼っている猫が逃げてしまう。猫は愛に置き換えられる。「愛は逃げた」というわかりやすさとして、猫はたぶん登場している。猫は映画に向いているのはメタファーにちょうどいいからだろう、あと一軒家であろうがマンションであろうが屋内で飼えるからなのかな。

『ちょっと思い出しただけ』は『ボクたちはみんな大人になれなかった』と重なる部分がある。それはヒロインが同じく伊藤沙莉であり、時間軸が過去に巻き戻っていくという手法を取っているからだ。
ただ、『ボクたちはみんな大人になれなかった』は燃え殻さんの小説と映画では構成が違う。現在から過去に巻き戻っていくのは映画版のほうである。
そういえば、どちらにも篠原篤さんが出ている。先日観た奥田裕介監督『誰かの花』にも出演されていた。篠原さんは橋口亮輔監督『恋人たち』で知ったけど、映画館で観ていると偶然的に同じ役者さんが立て続けに出ているのを見ることがあるけど、あれもさっきのキャスティングとかのタイミングみたいなものと近いなにかがあるんだろう。
映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』も『ちょっと思い出しただけ』も現在のコロナパンデミックの状態からそれより前の時代に遡っていく。
僕が映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』を観た時に思ったのはその手法を使っているせいでヒロインである「彼女」が出てくるのが遅く感じられてしまったことだった。たぶん、そのせいで「ボク」にうまく感情移入できなかった部分がある。原作である小説にあるエモさみたいなものはやはり「彼女」と出会ってからの「ボク」の言動や気持ちにあるので、それが遅れてしまうとある程度成功した人が過去を振り返っているように見えてしまう面もある。

『ちょっと思い出しただけ』はクリープハイプ尾崎世界観さんが自身のオールタイムベストに挙げるジム・ジャームッシュの名作映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』に着想を得て書き上げた曲を基に松居大悟監督が書き上げたオリジナルストーリーになっている。
作中にも『ナイト・オン・ザ・プラネット』が出てくるし、伊藤沙莉が演じる葉はウィノナ・ライダー同様にタクシードライバーである。また、ジム・ジャームッシュとも親交があり、彼の作品に出ている永瀬正敏さんも出演しているが、彼は公園のベンチでずっと妻を待っているという役どころだが、それはジム・ジャームッシュ監督『パターソン』のラスト近くで永瀬さんが出てきたのを彷彿させる。
つまり、ジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』があり、そこから着想を得て尾崎さんがクリープハイプとして『ナイトオンザプラネット』という曲を作り、それを元に松居大悟監督がオリジナルストーリーの映画にした。
故にジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』をオマージュしながらも、それぞれの作り手の思いが各自のクリエイトに昇華されている。それもあって、尾崎世界観自身も映画に登場し、重要な役回りになっていた。

松居大悟監督は舞台もやっていることもあって、作中に舞台の場面がいくつかあったりして、コロナパンデミックの現在の舞台の状況も描きたかったのかもしれない。
あと葉がタクシードライバーだけど、東京五輪に向けてタクシーが新型タクシーになったけど、外国のガタイのいい人も乗り降りするのにいい大きさのやつね、時間が遡るからタクシーも新型から昔のものになっていくのもよかった。そう考えるとフィリップ・K・ディック『ユービック』みたいなとこもある。
観終わったあとには心地よい気持ちになった。外は雨だったから濡れながら家まで歩いて帰ったけど。



手話通訳付きの映像を観ていると、その通訳者たちの肉体性にしばしば感動する。聴覚に障害があるがゆえに、むしろ肉体が雄弁になっているという現実を目の当たりにしている、と感じるというか。私は半年以上が経ってから再度視聴する東京オリンピック2020開会式に呆れると同時に、通訳者たちのその存在感に感激していて、いったいこういうギャップはどこから来るのだろう、と考えざるをえなかった。

手話ということだと最近だと『ドライブ・マイ・カー』や『コーダ あいのうた』とアカデミー賞にノミネートされた作品に共通して出てくる。
古川さんの新刊『曼陀羅華X』に出てくる老作家と彼がかつて拉致された教団から脱出する際に連れ出した教祖の息子(赤ん坊だった)は聾なので、その血の繋がらない親子の会話は手話であり、それが描写されていた。
『コーダ あいのうた』について感想を書いた時にも書いたのだけど、「語り/ナラティブ」ということがよく言われるようになった先に身体性を伴った手話の「語り/ナラティブ」というものが改めて表現の世界でも意識的になってきているのかもしれない。

 

2月14日
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人生初の歌舞伎はコクーン歌舞伎『天日坊』シアターコクーンにて鑑賞。10年ぶりの再演だが、前回は観れておらず、今回がはじめてとなった。
宮藤官九郎脚本であること、そして主演であるメインキャスト三人が中村勘九郎中村七之助中村獅童という布陣であるので観たかった。
もともとTBSドラマで宮藤官九郎脚本『池袋ウエストゲートパーク』をリアルタイムで見てから、その後のクドカン脚本ドラマはほぼ見ているし、彼の映画監督作品もほぼ劇場で観ている。舞台は数回しかないが。
池袋ウエストゲートパーク』から何度もクドカン脚本ドラマの主演を務めたのは長瀬智也さんだったが、去年の『俺の家の話』をもって芸能と表舞台からマスクを脱ぐように降りていった。ドラマ自体もそんなことを感じさせるメタフィクション的なものもありつつ、「能」と「プロレス」を交ぜながら一家の伝統と意志を次世代に引き継ぐ話として描いていて素晴らしかった。それは『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』同様に20年という時間の積み重ねと言える層ができたことで、その流れを知っているものにはより深くに沁みこんで届くものになっていた。

宮藤官九郎はその名前の通り、「大人計画」主宰の松尾スズキさんから、先代の中村勘九郎さんに似ているということから付けられた芸名だったはずだ。まあ、20年以上前のことを思えば似てなくはない。
今回の再演には前回同様にメインの売れっ子の歌舞伎役者が三人いる。
先代である五代目だった中村勘九郎中村勘三郎)の長男の現・六代目の中村勘九郎宮藤官九郎が初監督した映画に長瀬智也の相手役として出演した次男の中村七之助シネマライズで「僕たちの日本映画が始まった」と思わせてくれたクドカン脚本映画『ピンポン』に自らオーディションに応募してドラゴンの役を勝ち取ってからブレイクしていくことになった中村獅童、この歌舞伎にはそういう文脈がある。
Bunkamuraの先行で取ったら前から一列目のど真ん中だった。ここの先行はわりといい席がくる確率が高い。近いから希望の人にはフェイスシールドお貸ししますと紙が貼られていた。昔、「ガキ使」で山崎vsモリマンの観覧に行ったときに前のほうだったから、ゴボウとかいろいろ飛んでくるから、来たら防いでくださいとシートが足元にあったのを思い出した。

ストーリー:ふとしたきっかけから将軍頼朝の落胤になりすまし鎌倉を目指す法策(後の天日坊)。 旅の途中で盗賊・地雷太郎とその妻お六と出会い、思いもよらぬ自分の運命を知る… 狙うは天下!若者たちは壮大な野望と純粋な希いを胸に疾駆する。彼らの人生を賭けた大勝負がはじまる――。

観終わって、すごすぎて帰りに歩きながらいろいろ考えていた。
最前列のどセンターだったので、中村勘九郎さんが舞台の一番前まで来て見栄を切る時に二メートルほどという恐ろしい距離で、そのせいで拍手も何度も遅れてしまった。
いわゆる歌舞伎座で観る歌舞伎とコクーン歌舞伎は違う部分が多いのだろうけど、やっぱり舞台はおそろしい。沼にハマるのがよくわかる。
中村獅童さんは僕が思っていたよりもずいぶん大きくて、目力が強かった。中村七之助さんは女形としての色気があり華があるんだなと改めて感じれたし、なんといっても主役の中村勘九郎さんの最後の立ち回りとか見ながらずっと鳥肌が立っていた。

今月最初にロック座に行ってストリップを観て、今日はシアターコクーンで歌舞伎を観た。どちらも僕はあまり縁がないものだけど、ストリップも歌舞伎も舞台の上の演者が型を決めた時に観客から拍手が起きる。どちらも様式美っていうのか、型があってそれを観客は「よっ!でました!」みたいな気持ちで観ているのだろう。

ストリップだと回る舞台のところで踊り子さんが足をピンと上にあげて止まる、周りながらポーズを少しずつ変えながらほとんど300度ぐらいにいるお客さんたちに女性器がしっかり見えるようにする。そうするとその角度に入った観客が拍手をしていく。
今日の歌舞伎も役者が見栄を切ったりすると拍手が自然と沸いていたから、それでストリップのことを思い出した瞬間があった。
歌舞伎はもともと出雲阿国から始まり、遊女歌舞伎となって広まってから幕府に禁止され、やがて男性だけが演じるものとなっていったので、通じるものはあるだろう。
だからなのか、ある時期にストリップを観るのが一部で流行って、その人たちは歌舞伎などの古典芸能も熱心に観ていた(観るようになった)のか、と今更気付いたけれど。

芸人や風俗というものは河原乞食と変わらないというか、そもそもそういうところから出てきたものだ。
芸とは本来は見せてはいけないものを見せるものであり、民衆が見たくてたまらないものを見せるものでもある。そこには明らかな自由が演じる側も見る側にもあった。権力がもっとも恐れるものが芸にはある。だからこそ、時の為政者は寵愛して囲うか弾圧して禁じてきた。

『天日坊』は主人公の法策による「俺は誰だあっ!」という叫びがずっとある。物語としては将軍頼朝の落胤になりすますという嘘をついたことで展開していくのだが、実は貴種流離譚の形式を取っていることがわかる。その意味ではど定番の王道の話になっているが、最終的には大岡裁き的なものへなっていく。そして、最後にはメイン三人による大立ち回りが繰り広げられ、そこに法策の「俺は誰だあっ!」という自分の存在への確認と疑問が重なっていくことで超絶エモーショナルな場面になっていく。
感情を見せるか性器を見せるかは別物だという人もいるかもしれないが、僕は内なるものを見せるということでは同じベクトルであるように思える。
人は圧倒的なものを見せられてしまうと揺さぶられてしまう。このところ、劣化した感情ということについて考えていたのだけど、このタイミングで『天日坊』を観れたのはほんとうによかった。まだ、感情はしっかりとゆれた、ゆれた、ゆれた。

 

2月15日
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今年の、3年ぶり開催のサマソニの第一弾アーティストが発表されて、リバティーンズの名前があった。
フェスには行きたくないからワンマンしてくれるのが最高なんだけど、どうだろう。僕がリバを観に行ったのは2回だが、その頃はフロントマンのひとりであるピート・ドハーティはドラッグだけじゃなくさまざまなトラブルを起こしていたため、来日できなかった。ツインボーカルなので、もうひとりのフロントマンであるカール・バラーが二人分、ふたつ置かれたマイクを行き来するように歌っているのを観た。その後もカールは別名義のバンドで来日したりして、その時は出待ちして写真撮ってもらったりサインをアルバムにもらった。だけど、一度もピート・ドハーティを生で観たことはない。
ラインナップに名前を見て『リバティーンズ物語 ピート・ドハーティカール・バラー悪徳の栄え』を久しぶりに取り出して読もうと思った。
この本は11年前のものだから増補版とかで出してほしい。このあとのリユニオンとかね、いろいろあって今に至るわけだし。誰も死なないでオリジナルメンバーが全員揃っていることがある種の奇跡でもあるバンド。
しかし、ピートって来日できるの?って思ったらドラッグやめてるから来れるみたいだ。だけど、最近の写真とか見ているとめちゃめちゃ太ってしまっている。ドラッグやめたら太ったっぽい。そのせいでカリスマ性は失われて親しみやすくなっている。彦麿さんの大昔と現在というぐらいの落差がたぶん一番近い。
ピートと付き合っていたせいでスーパーモデルだったケイト・モスは経歴に汚点ができてしまったけど、あの時期はディオールオムのデザイナーだったエディ・スリマンがピートにベタ惚れで彼の服とかを提供していたぐらいにファッションのアイコンにもなっていた。あの頃ディオールオムで細タイやスキニーパンツが出ていて、それがその後世界中に広まって定着していった。今、いわゆるロックっぽいテイストのおしゃれな雰囲気というのはエディ・スリマンディオールオムでやっていたことの影響下にあり、その廉価版だと思う。
あの頃、「ロックンロール・リバイバル」と呼ばれたゼロ年代を代表するロックバンド(ストロークスリバティーンズが筆頭)はハイブランドと近いところにあり、ロックはかつてのものとは違うになっていた。その後、世界中でロックではなくヒップホップが席巻していくことになる。でも、ヒップホップのレジェンド級とかカニエ・ウエストとかはハイブランドとコラボとかしてるのにな、ジャンルの問題も大きいんだろう。
今回のサマソニのラインナップを見て喜んでいるのは僕ら世代やその上がメインだとTwitterのタイムラインを見て思った。ゼロ年代に十代後半から二十代だった、現在は中年のおじさんとおばさんとなった世代。洋楽ロックをリアルタイムで聞いて強く影響を受けていた最後の大きな塊だから、しかたないんだろうけど。
四人フルメンバーで揃ったリバティーンズを観たら泣いちゃうだろうけど、どこかで観たくないという気持ちもある。

 

2月16日
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朝イチでベルサーレ渋谷まで歩いて行って確定申告done。毎年PCに打ち込んでプリントアウトして提出して帰る流れだったが、スマホで提出するのを推奨ということで、スマホで打ち込んで送信して終わった。あれ上の世代のスマホなれてない人は意味わかんなくて、テンパると思う。

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コクーン歌舞伎を観た流れで野田秀樹さんの戯曲が読みたくなった。去年の12月に再演されて観に行った『THE BEE』が収録されている『21世紀を憂える戯曲集』と今まで観た舞台でいちばん心が揺さぶられた『逆鱗』(『新潮』2016年3月号掲載)をAmazonで購入して届いていたものを読む。

『Q』以来2年ぶりの野田地図。番外公演『THE BEE』(演出・野田秀樹、出演・阿部サダヲ長澤まさみ、河内大和、川平慈英)を東京芸術劇場シアターイーストにて鑑賞。野田さんが出演せずに演出だけに専念してる野田地図観るの初めてだな。

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件に触発された野田秀樹が、筒井康隆の小説「毟りあい」を題材に、イギリス・ロンドンで現地演劇人とワークショップを重ねながら書き下ろした英語戯曲。2006年にロンドンで初演され、2007年には日本語版が東京で上演された。

平凡なサラリーマン・井戸が我が家の前で遭遇したのは、警察とマスコミの喧騒だった。脱獄囚・小古呂が井戸の妻子を人質に取り、井戸宅に立てこもっていたのだ。井戸は妻子を救出しようと、どこか頼りない警察と共に行動を起こすが、事態は思わぬ展開を迎える。

たった四人しかいない出演者、阿部サダヲさん以外の三人は一人何役かを兼ねる。舞台装置はほぼなく、大きな真っ白な紙が天井からぶら下がっていて、舞台の前方まである。そのうえで展開されていく。真っ白な紙にプロジェクトマッピングのように映写されるドアやテレビなど、シンプルだが紙という特質を使うことで舞台の小道具にも変わっていく。
妻と息子を人質に取られた井戸は小古呂の妻子がいる家に刑事と出向くが、小古呂の妻は夫を説得してくれるように井戸が頼んでも断る。刑事をバットで殴り倒し拳銃を奪った井戸はそれを持って小古呂の妻を脅すことになる。被害者家族であった井戸は自分の家族を人質にとった小古呂と同じことをすることになる。つまり被害者でありながらも加害者へと変貌する。俺は被害者に向いていない、と。互いに家族を人質に取って交渉をするものの、互いに引かないために暴力や悪意は人質である相手の家族に向けられる。小古呂役であり、小古呂の子供を川平慈英さんが演じているので、その一場面の中である時はどもりがひどい小古呂になって井戸とやりとりをして、そのまま泣き叫ぶ子供になる。極めて舞台らしい演出と一人の役者が複数を演じることで場面転換をせずに、二つの場面がひとつのシーンの上で共存している。これは観客が舞台というものを見る時における信頼がないと成り立たない部分だ。
小古呂の妻を毎晩犯し、小古呂の子供の指を一本ずつ切り落として警察に自分の家に立てこもっている小古呂に届けされる。相手も一本ずつ指を送り返してくる。それがルーティン化していく、子供は治療もされずに死んでしまう。小古呂の妻はその狂った環境の中で自分で股を開いていたが、その指さえも今度は井戸に折られていく。部屋に入っていたハチの羽音が複数に重なっていく、すべてが破壊されて報復が報復しか生まずに終わっていく。
9.11のアメリカ同時多発テロ事件に触発されたことで作られたというのも観ているとわかるし、マスコミというかメディアによって伝えられるものは正しさばかりではなく、好奇心や悪意など被害者であるものを苦しめて、それを見て満足する名もなき視聴者たちがいる。それがネットでも変わらない。悪意は伝播してさらに被害がただ弱いものへ弱いものへ向けられていく、その悪循環。しかし、この暴力性と悪意はある種わかる。怖いけれども暴力はいつもそこにあり、いつでも被害者になり、加害者に僕らはなってしまう。

↑が観た時の感想だが、戯曲も四人だけなのでシンプルなものであり、不条理さと共にテンポが増していき、心に澱のようなものが残る。これはそういう舞台であり、戯曲集でも野田さんが2007年の公演パンフレットに書いた文章が転載されている。

 劇場にいい夢を見に行くのか、悪い夢を見に行くのか、それはまあ趣味の分かれるところであろうが、ミュージカルなんて能天気なものが全盛の昨今、どうやらいい夢志向の観客が劇場を支配しているようだ。
 私はそれが気に入らない。
 感動する為にこの芝居を見に来たお客様、ごめんなさい。この芝居を見ても感動できません。涙は流せません。いや感動させてなるものか。涙など流させてなるものかという心意気で作っています。だから、感動はできませんが、後にはかなり尾を引きます。そのことがどうしても納得いかないお客様は、叶恭子が出てくる悪夢を見てしまったと思って諦めてください。そして尾を引いたものというのは、なんでこんな夢を見てしまったのか考えることになると思います。たまには、涙を流してさっぱりしないで、そんな悪夢も見てください。

こういうことを書く人を僕は信用している。『逆鱗』は舞台でのイメージが強いのでどうも字面がうまく入ってこないので、少し間を置いてから読もう。

 

2月17日
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ガイ・ドイッチャー著『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を購入。タイトルと装幀で気になっていた本。

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ニコラでバレンタインデーなチョコとしてデザートを出してもらったので、アルヴァーブレンドと一緒にいただく。チョコの下に金柑が隠れていたけど、食べた時にはあんずかなと思った。

 

2月18日
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仕事の休憩中に書店に行ったら、一條次郎著『チェレンコフの眠り』が出ていたので購入。一條さんの小説は今の所、デビュー作である新潮ミステリー大賞受賞作『レプリカたちの夜』と『ざんねんなスパイ』と『動物たちのまーまー』と書籍になったものは全部読んでいる。
共通するのは動物が出てくること、動物が人のように物語に登場している。そういうとファンタジー的な感じもするが、ちょっとシュールだし、どこかアイロニーとコメディさもあるという感じでとてもおもしろい。装幀も全部動物のイラストで通しているのも新潮ミステリー大賞で一條さんを推した伊坂幸太郎さんの新潮社から刊行されている書籍同様にレーベル的にデザインを統一している感じも好感が持てる。

昨日の『ナインティナインのオールナイトニッポン』の中で、今80年代の日本のシティポップが世界中で流行ってるんですよって投稿があって、そこでも泰葉さんの『フライディ・チャイナタウン』が外国のクラブとかで流れて、それを聴いて若い子が踊ってるってことかみたいな話があったけど、読書のBGMでNight Tempoの動画流してたらNight Tempo Edit版が聞こえてきた。確かにロスのクラブとかで流れていても違和感なさそうだ。


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仲條正義さんの『僕とデザイン』を読んだ流れで穂村弘さんの『もしもし、運命の人ですか。』を読んだ。穂村弘という人がモテるのがよくわかるエッセイ。
微細な部分をちょうどよく刺激する、気にさせてしまう、それをわかっているのにわからないようなふりをして女性はほっておけなくなる、そんな人なんだろう。真似できないというか、こういう人は本能的に理解して行動できちゃうし、言葉にできるだろうから、そのラインには行ける人と行けない人の間でしっかりと引かれている。


2月19日
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フィリップ・K・ディック作品を読み返しているとドラッグと神秘主義、実存の問題(ディックは生まれた時は双子(もう一人は女児だったが、生後半年ほどで亡くなった。そのため自分がいない可能世界であったり、彼女が生きていた可能世界、ありえたかもしれないという思いがある種の双子的物語に(意図的なのか、無意識なのか)転化していく))とかが描かれていて、総じて今のインターネット文化じゃんってやっぱり思ってしまう。
ずっと前に買って序文しか読んでいなかったマシュー・コリン著『レイヴ・カルチャー──エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』はヒッピーカルチャーからの流れもあるだろうし、ディックの作品世界から現在の世界の間にあるような気もして読んでみようかなと引っ張り出した。
ヒッピーカルチャーであったり、そこと親和性の高かったドラッグやスピリチュアル(精神世界への没入)とか、ここではないどこかというフロンティア(宇宙ではなく仮想世界)を目指すっていうものがインターネットにつながっていくわけだけど、そのもうひとつの形としてのレイヴ・カルチャーだったのだろうか。
まあ、ガンガンにドラッグきめて踊り狂う世界よりもネットでの陰謀論や誹謗中傷やネトウヨだとパヨクだのやりあってる世界のほうが間違って狂っているとは思う。レイヴ・カルチャーは身体性を伴うものだったっていうのが大きかった気はする。

昼前に雨が降る前に散歩に行こうと思って渋谷まで歩く。ツタヤ渋谷でサマソニに出演する「THE 1975」と「beabadoobee」のCDをレンタルした。
もう一枚で五枚になるので、日本のヒップホップコーナーでなんとなくベッドサイドミュージック的なことが書いてあった「鈴木真海子」という人のアルバムがなんとなくよさげなだと思って一緒に借りた。
帰ってからPCの外付けHDにデータを読み込んでいる時に調べたら、おぎやはぎのJUNKに何度か出ていたラップデュオ「chelmico」の人だった。全然知らなかった。とてもいい声だから、「chelmico」も改めて聴いてみたいと思った。



コンビニに買い物に出かけて家に戻ってきたら、ずっと空いているはずの隣の部屋の玄関のドアが少し空いていた。そこからおじさんが出てきたので挨拶をしたら「明日から越してくるなになにです」と言われたので、こちらも名乗った。
徒歩数分の商店街の辺に住んでいたのだけど、そこが取り壊しになるので近くのここに決めたと言われた。仕事のこととか互いに話をしていたのだが、「でも、ここも6年までなんですよ」と言われて、「ううん?」ってなった。
契約したあとに最長でも6年までしかできないと言われたから、それだったらここにしなくてもよかったんだけど、とおじさんは言った。
年齢は60歳を越えているというので僕よりは20歳以上は上だ。だからこそ、ある程度の年齢を越えると家を貸してくれるところも減るというし、残りの時間を考えれば、できるだけ引っ越しもせずにそこで生活したいと思うのはわかる。
しかし、問題は「6年まで」というのはそのおじさんに対してのものなのか、このアパート自体が建て替えかなんかでそういう期日が決まっているからそういう話なのかということだ。ぶっ壊して建て替えるという話はいまのところ聞いていない。
今の時点で僕は12年以上は住んでいるので、このまま更新を続けていって、その6年住めばほぼ20年近くになってしまう。それはそれで問題だが現状では引っ越しする余裕はない。
人は内的要因よりも外的要因によって日常や生活が変わっていくことのほうが多い。そう考えれば、もし建て替えとかで壊すのが6年後であれば、それまでに出ていけるように経済的な蓄えや今後どうしていくのかを考えて実行しておく、というきっかけにはなる。
年齢的な問題なのだろうが、後始末とか始まることよりは終わることについて考えたりすることが増えていく。

 

2月20日
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先日、双子のライオン堂さんのオンライントークイベント「本と暮らしとコンピューター」(出演:仲俣暁生×西島大介) を見たので久しぶりに西島さんの『凹村戦争』を読もうと取り出したら、サインに日付があった。『新現実』で西島さんが漫画を描き始めた時から読んでたけど、実際に西島さんにお会いしたのは震災後なんだよなあ。
ディエンビエンフー TRUE END』刊行時にインタビューさせてもらったり(DBP電子書籍に収録もされた)、ノベライズ『リアル鬼ごっこJK』の装幀イラストをお願いしたり、といろいろお世話になってる。
ハヤカワJコレクションで刊行された時は、今はなき渋谷のブックファーストのSFコーナーで買った気がする。

 

2月21日
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仕事終わりにニコラで文旦とホワイトチョコとマスカルポーネのタルト&アアルトブレンドを。柑橘類が好きな人はきっと好きな組み合わせ。

40歳の誕生日が近づいてきた。30歳になる頃にはその気持ちをマリッジブルーにかけてミソッジブルーと呼んでいたが、今回の方がわりと切ないというかさびしい気持ちになっていることに気づく。
「35歳問題」というのがある。人生の半分が終わった、折り返したという起点として、残された未来よりも過去の方が多くなっていくという時期であり、結婚していないとか子供がいないとか諸問題も含めてなにもないまま折り返していると余計に孤独感であったり、未来への希望を持ちにくいということがあるのだろう。そういう話もニコラの曽根さんたちに聞いてもらった。
もし、この先の状況次第で田舎(故郷)に帰ってもそっちのほうが精神的にヤバくなってしまうというのもわかっている。人生の半分を東京で過ごしているのも大きいけど、田舎はヨソからの人間にはいちげんさんみたいな感じならいいが、住んだりするとなかなか心を開いたり、仲間意識を持ってはくれない。出戻りに関しても近いものがある。また、ずっと田舎にいた人と東京で生活している僕では興味だけではなく、共通言語が少ないということもある。車も運転できないとなるとかなり絶望的になる。僕は歩くのが好きだが、田舎で1時間とか2時間歩いている人は変人か狂人扱いされるのが関の山だろう。
東京で生活を続けていけるようなコミュニティや人間関係というのがこの先とても大事になってくるということがよくわかる。
昼前にキャロットタワーに行ったら何年もお会いしていなかったアートディレクター&グラフィックデザイナーの加藤賢策さんとばったり偶然で少し立ち話をさせてもらった。ニコラのカウンターで時折同じ時間を共有させてもらう人とも町中でばったり会うこともある。そういう風になるまでには時間もかかるがいろんなタイミングが重なっているから起こる。田舎に帰るということはそんな「ばったり」が失われるということでもある。

ちょうど一ヶ月後に古川さんと書評家の豊崎由美さんのイベントが行われるのですぐに予約をした。朗読自体を生で聴いてないのはもうどのくらいだろう。コロナになってからは朗読をするイベント自体には行ってないはずだ。お二人がB&Bでやったトークイベントはオンラインではなくお店に行って聞いたけど、古川さんの朗読はなかった気がする。そうだとすれば2年から3年以上近くは朗読を聞いてないはずだ。だからこそ、生で聞きたい。

アジアンカンフージェネレーションのゴッチこと後藤正文さんのnoteが更新されていて、いわきや南相馬という浜通りへ取材で行っていたと書かれていた。なにかの形になったらぜひ読んだり聞いてみたい。
『Route 6』と『海岸通り』は国道6号線を歩いた記憶と結びついている。3月11日にはその曲を聴きたいなと思う。そして、アジカンのニューアルバムがすごくたのしみ。

 

2月22日
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昨日から今日へ日付が変わる頃に三島由紀夫賞を受賞した上田岳弘著『私の恋人』を読み始めた。なんとなく今の自分のモードに合いそうな気がした。久しぶりに読んだが、内容は読み進めていくとかなり思い出せることができて深夜に読み終えた。
物語は二人称で読者に問いかけるように展開していくが、その語り部である主人公の「私」は今世で三人目の「私」という設定になっている。知識が飛び抜けていて未来を予見できた知能を持ち、壁画を描いていたクロマニョン人が一番目の「私」、第二次世界大戦ユダヤ人だったことでナチスによって強制収容所に入れられて死んでしまった二番目の「私」、そして平成の日本を生きている三番目の「私」。
一番目と二番目が思い描いていた運命の「私の恋人」と境遇がうりふたつなオーストラリアからやってきたキャロライン。彼女の栄光と挫折の日々、そして日本にやってきた理由とかつての「私」の二度の人生と人類の転機(人類が進んできた歴史)が結びついていく。
ここでは人類の先として「彼ら」と呼ばれるものたちに、人は世界や様々なことを橋渡ししていくことになるであろうという話が出てくる。「彼ら」とは人工知能であり、シンギュラリティは2045年に来ると言われているのは有名な話だが、その辺りのネタは上田さんらしいとも思う。IT関係の仕事をしていて、作家業もしていることもあって他の作品にもIT系のことは通じている。
二度の大きな人類の転機とキャロラインがある人物と旅をしてきた(人類が地球へ広がって行ったことをトレースする)流れをロマンティックな物語に昇華していると思う。個人的にはこの人の語り口は好きだ。

そして、続けて読み出した『塔と重力』は阪神淡路大震災を経験している著者だから、書きたかっただろうと思える作品であり、タイトルにもある「塔」というモチーフは何度も上田さんの小説に出てくるものとなっている。
村上春樹の影響を公言していることもあるが、やはり村上春樹はジャズ的なものやリズムや海外小説がその文体に影響を与えているが、上田岳弘の場合はそれがジャズやロックなどの音楽ではなく、IT(ネットやテクノロジー)となっているところがとても現在的だと思う。だからか冷静であり、熱はあまり感じられない。セックスの描写というか場面も村上春樹作品と似ているといえば似ている。
設定などにSF的なものが感じられるのはIT(ネットやテクノロジー)というものが根っこにあり、現在の生活や環境とのほぼよいリンクがあるからだろう。読めば読むほどに現在の村上春樹的な存在だなと思うし、おそらく翻訳されると世界でも通じる作家だと思う。

進化とは螺旋階段を上っていくものだろうし、創作をする人は基本的には同じことを繰り返していく。螺旋階段の真ん中の空間にそれがあるというイメージ、家族であったり父や母との確執であったり、恋愛であったり、革命であったり、歴史や時間の層についてだったり、その真っ直ぐと伸びた光(作家性に近い繰り返される核でありテーマ)の周りをぐるぐると螺旋階段が上へ向かっていく。
階段を上っていく中でジャンルや見せ方や規模は変わっていくが、その伸びた光は同じだが、最初にいた頃よりは上の部分に触れることができるようになる。
上田岳弘作品は「塔」がモチーフと出てくるので意図的なのだろうが、読んでいるとかなりそういうことが感じられる。人類が生まれて地球各地へ広がって行ったその旅時、その果てにある現在、それらの行程が「バベルの塔」を彷彿させる。この先の未来において「彼ら」がやってくるのはもはや防ぎようもないのだ、人類から彼らへバトンが渡されるその過程にすぎない、というある種の諦観が客観的な視線を生んでいる気がする。その冷めた視線はとても僕には心地いい。

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「Do you have trouble remembering your dreams?」
トム・ヨークのアルバム『ANIMA』購入時のステッカーが出てきた。

 

2月23日
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矢野利裕著『今日よりもマシな明日 文学芸能論』をご恵投いただきました。ありがとうございます。自分で買おうと思っていたのでうれしい。

大事なことは、《芸能》の世界が少なからず、現実の世界なり社会なりと異なっている、ということだ。逆に言えば、現実の社会を追認するような《芸能》は物足りない。退屈な社会を生きるわたしたちが、ほんのひとときでも、《芸能》に触れて日常から抜け出す。その逸脱による解放的な喜びこそ、明日以降を生きるための活力となるのだ。
いち生活者の僕は、だからこそ、小説を読む。だからこそ、音楽を聴く。明日以降の生活を少しでもマシなものにするために。――(本書序論より抜粋)

講談社のところからコピペ。ここを読むだけでワクワクする。
《芸能》とは芝居や歌だけじゃなく詩や小説やほかの創作も孕んでいると思うし、誰もがクリエイターになれる時代の《芸能》について考えることが増えているので、矢野さんのさまざまな論を読むのはたのしみ。
政(まつりごと)と芸は切ってもきれない。大手芸能事務所や新聞と行政がズブズブでアイロニーを込めたことさえ言えないとかって異常なんだけど、非常階段にいる人がきちんと異議を唱えている状況があまりに皮肉的だ、とか水道橋博士さんのこのところの維新への動きを見て改めて感じていた。
『群像』の「群像新人文学賞評論部門」で矢野さんは受賞して批評家デビューしているけど、今の『群像』は「文」✕「論」と謳ってるのに「群像新人文学賞評論部門」を休止してるのはどうなん?とは思う。
コーネリアスを聴きながら小山田圭吾についてのところから読もうかな。と思ったら小山田論は最後の補論だったので、最初から読みます。

「2000年代前後には、“安藤政信が出ているからおもしろい”といえる時代が確かにあった。」≒たいてい安藤くんの役は死ぬっていうイメージがあるけど。安藤くんが活躍してるのは十代からのファンとして非常にうれしい。


今月はこの曲でおわかれです。
フジエタクマ『木陰で』 music video



chelmico『三億円 / Easy Breezy』at Zepp Divercity 2021.11.22 -for J-LOD-

Spiral Fiction Note’s 日記(2021年12月24日〜2022年01月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」

ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記はこちらに移動しました。一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2022年02月掲載(公開が遅れて2月になってしまった) 


先月の日記(11月24日から12月23日分)


12月24日
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乗代雄介著『皆のあらばしり』を購入。装丁デザインがいいのは個人的にポイントが高い。
2021年下半期の芥川賞候補作品。乗代さんは今年刊行された『旅する練習』で三島由紀夫賞を受賞している。2018年には『本物の読書家』で野間文芸新人賞も受賞しているので、芥川賞も取れば、純文学系の主要な賞である「三賞」制覇することになる。
読み始めたが、関西弁のキャラクターと高校生の朴訥な会話の微妙にズレたやりとりでなかなか味わいがある。

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岡山の高校の同級生がライブを見るためにバスに乗って上京(前日は大阪)してきたので、シャワーを貸して、その後一緒に渋谷に歩いて行って長崎飯店のちゃんぽんを食べた。『孤独のグルメ』とかにも出ているお店らしくて、終始お客さんが入っていた。特製ちゃんぽんは具沢山でとても美味しかった。

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友人はライブの開場が17時以降で時間があるというので、以前観た濱口竜介『偶然と想像』をオススメした。ル・シネマまで着いて行って、前にどこにあったのかわかっていなかった「銀熊賞」のトロフィーを撮って、そこで別れた。
18時からニコラで皿洗いのヘルプに。この日から三日間初のクリスマスコースをやるので、お客さんも予約のみだが、準備だけではなくオペレーションなど初めてのことでニコラのお二人とも疲れていた感じもした。

ひとつの転機は、バンドの人気が最初のピークを刻んだ『The Bends』(1995年)から『OK Computer』(1997年)にかけての時期だと思う。

世界中をツアーすることで目にしたさまざまな発見・理解もそこには作用しただろうし、自らの影響力を自覚した彼らは公的なプラットフォームに参加していった(たとえば戦地の子どもたちを援助する団体「War Child」のチャリティー作『HELP』への参加など)。

それに伴い歌詞の視点はパーソナルなところから外の世界へと向かい、物質主義やテクノロジーに対する恐れ、政治への疑念、ディストピアなイメージがちらばる『OK Computer』は現代人の抱くパラノイアを鋭く照射した。

チベタン・フリーダム・コンサート』出演、トム・ヨークの「Jubilee 2000」(※4)への協力など、1990年代後期〜2000年代前半にかけてRadioheadは政治性と社会意識を強めていったと言える。

このいわば漸次的な「目覚め / 発動」がより明確に作品と活動の双方に反映された成果が、先日21周年記念再発された『Kid A』『Amnesiac』(2000年 / 2001年)だろう。

再発に連動したデジタル・エキシビションに関する取材で、『Kid A』のアートワークを制作したスタンリー・ダンウッド&トム・ヨーク両名は90年代末の時点で地球温暖化〜気象変動を意識していたことを示唆している――ダンテの『神曲』地獄篇を想起させる同作のジャケットと“Idioteque”の「氷河時代がやって来る」の印象的なコーラスはその危機感を端的に伝えるものだ。

 

12月25日
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園子温監督『エッシャー通りの赤いポスト』初日舞台挨拶付鑑賞をユーロスペースにて鑑賞。まさにこれが観たかった園子温作品だった。
詩的でカオティックで繊細なくせに手に負えない、むきだしで笑っちゃうけど心に触れてしまう。走って叫ぶ、初期自主映画から繋がるものだった。出演者が多いのもあるし、それぞれのキャラクターや数人がチャプターになっているのもあって、二時間半ぐらいになっている。もっと削れる部分はあるんだろうけど、ワークショップに応募した俳優たちの見どころをできるだけ使いたかったという園さんらしい愛情も感じた。

2008年初頭に『愛のむきだし』の初日舞台挨拶付上映を同じくユーロスペースで、同じくシアター2で観たことを思い出した。園監督に、AAA西島隆弘満島ひかり安藤サクラ渡部篤郎渡辺真起子というメンツだった。座席は西島ファンの女子高生ばかりで、舞台挨拶後は映画に集中できずにご飯食べたり、動き回っていたりしたのも今ではいい思い出だ。その子たちがもう30歳前後なのだから、時が経つのは早い。また、満島ひかり安藤サクラは無名と言って差し支えのないの知名度だった。あの日から、そこから園子温監督の快進撃が始まることになった。満島ひかり安藤サクラも今や日本で知らない人がいない俳優になっている。

再びのユーロスペースからの上映、園さんもそのことを意識されていた、また、ここから始まるんだとコメントされていた。再びのユーロスペースから『エッシャー通りの赤いポスト』の上映、園さんと出演者の方々の20年代における快進撃を見れそうでワクワクする。
今回のワークショップの応募に落ちた人とパンフに入っている劇中にも出てきた『仮面』の応募用紙送った人たちから『赤いポスト2』というか、新しい映画を2022年に撮ると言われていた。
ユーロスペースのフロアは僕が観た回の観客と次の舞台挨拶付き上映を観るために待っている人と、映画関係の関係者とかがあふれて混みすぎてるし、時間がなくて園さんには直接ご挨拶はできなかった。そのあとラインで感想を送った。

渋谷から急いで歩いて帰ってニコラで17時から24時まで皿洗いヘルプ。ニコラのお二人とも前日の疲れが残っていたみたいだが、なんとかうまく流れとかいったみたいでよかった。

 

12月26日
起きて作業をしてから朝散歩がてら代官山蔦屋に行く。少し前に江國香織さんの『きらきらひかる』を読み始めたので、年末から来年にかけて江國さんの小説をいくつか読もうかなと思って棚を見ていた。
前に古川日出男さんが『とても短い長い歳月』刊行時のブックファースト系列店でフェアをしていた際に、古川さんが選ぶ「一作家三冊」という選書コーナーに江國作品があって、『がらくた』『抱擁、あるいはライスには塩を』『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』が選ばれていたのを覚えていた。
『がらくた』は前に買ってずっと積読なんだけど、『抱擁、あるいはライスには塩を』は三世代百年の物語で文庫版だと上下巻だから大晦日に読もうかなと思った。大晦日の午前中に買いに行って、そこから寝るまでは読書というのもいい。


12月27日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年01月号が公開になりました。1月は『弟とアンドロイドと僕』『ハウス・オブ・グッチ』『さがす』『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を取り上げています。


朝から晩までリモートワーク。夜は作業しながら、菊地成孔大谷能生の「SUPER JAZZDOMMUNE♯41」& 「NEO × STREET × SALSA~サルサ第4世代到来!」を聴く。
昼間はビュロー菊地チャンネルの『大恐慌へのラジオデイズ 第59回「質問/何でも」』を聴いていた。夜は菊地さんが音楽を担当しているドラマ『岸辺露伴は動かない』が放送と、菊地成孔DAYだった。

菊地:はい。少なくとも日本のポップスの世界では例がないと思いますが、ギルドで作品を作ることは古くから行われていて。つまりレオナルド・ダ・ヴィンチ葛飾北斎も一人で描いてるわけではない、ということです。作品は代表者の名前で発表されますが、ギルドもしくは工房にいた人の名前は、よほどの研究家じゃないと知らない。そういう慣習は今もありますが、それを打ち破ろうとしているのがアメリカのヒップホップやR&Bですよね。オーバーグラウンダーのアーティストの楽曲クレジットを見ると、10人くらいの名前が並んでたりするでしょ。あれはつまり、フックを作った人、ドラムキットを組んだ人、リファレンスを提供した人、ネタを探した人を含めて、関わった人の名前をすべて並列に記しているわけです。日本は全然そこまでいっていないですよね。

「必ず、僕を超えるフェイムとプライズを手にする作家が現れる」というサブタイトルがあるが、菊地さんはある種預言者なのでそういう作家が「新音楽制作工房」から現れると思う。

 

12月28日
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キングスマン ファースト・エージェント』鑑賞。今年スクリーンで観たのはこれで90作品。
前二作を観ていると楽しめるエピソード0という時間軸の物語だった。ラスプーチンが踊りながらのオックスフォード伯爵とのバトルがいちばん見どころかな。ロシア帝国の終わりとレーニン台頭、それを裏で操る謎の集団にキングスマンが立ち向かう。
世界の「右」と「左」すらもすべてが、というエンドクレジットの辺りは蛇足に思えなくもなかった。

アトランタ』ファンとしてはペーパーボーイがMCUのヒーローになった!なわけだが。


この日の深夜にTOKYO FMで放送される『TOKYO SPEAKEASY』で水道橋博士×加藤シゲアキの組み合わせでのトークがあるので、博士さんがNOTEに前に僕が『水道橋博士のメルマ旬報』に書いた「『藝人春秋2』&『チュベローズで待ってる』&『最後のジェダイ』 について」をアップされていた。

 

12月29日
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木村綾子さんが店主の「COTOGOTOBOOKS」で注文した井戸川射子著『ここはとても速い川』が届いた。
前から書店で見て気になっていた中原中也賞を受賞した詩人の初めての小説集、装丁がどこか懐かしいというか昔の雰囲気があるのもわりと好感が持てる。


12月30日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2021年12月30日号が配信されました。今回は2021年の映画ベストです。スクリーンで観たものだけにしています。画像は『ドライブ・マイ・カー』ですが、一位ではないです。
今年の一位は作家性の集大成であり、正しく狂ってるなあ、と勇気をもらった作品です。


年内最後の整骨院に行ってから、そのまま渋谷方面に散歩。
芥川賞候補になっている『皆のあらばしり』の著者である乗代雄介さんの書評集『掠れうる星たちの実験』という新刊の装丁がとてもいいので買いたいと思って、数件書店に行ったがなかった。
帰りがけにAmazonで注文したので明日には届くことになった。できれば実際に手に取ってから買いたかったのだが、ないのだから仕方ない。刷り数が少ないのかなと思うし、買う人は24日の発売日あたりに既に買っちゃっている感じかもしれない。

晦日は『テスカトリポカ』を一日で再読しようと思っていたので、ちょうどいいタイミングでの対談記事が公開された。『ルポ川崎』も単行本で読んでいるけど、文庫版で新しく買い求めて再読しようかな。

毎年元旦には古川日出男著『サマーバケーションEP』聖地巡礼がてら、井の頭公園神田川の源流の始まりから川沿いを歩くのをやっている。

古川日出男のむかしとミライ』の特別寄稿「私的古川論」でも掲載してもらった『二〇一八年のサマーバケーションEP』


神田川柳橋のところで隅田川に流し込んで合流していて、隅田川として東京湾に出ていく。『サマーバケーションEP』のラストは晴海埠頭の晴海客船ターミナルになっているので、元旦はそこまで歩いている。
東京五輪が終わった翌年の元旦までやろうと考えていたのだけど、去年は延期され実際に今年開催された。もう歩かなくてもいいかなと思っていたのだけど、12月頭に『ゼロエフ』に書かれた阿武隈川沿いの取材の打ち上げで古川さんご夫婦と打ち上げをしたこともあって、やっぱり最後に2022年元旦に歩いて終わろうと思っていた。そこにこのニュースを見た。
もし、2023年元旦に歩いても晴海客船ターミナルは姿を消している。やっぱり元旦にその姿を見届けたい。それで僕の『サマーバケーションEP』が完了する気がする。

 

12月31日
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nuの2022年版「10年メモ」が届いた。今使っているのは2012年版の4月始まりで2022年の3月までだから10年ぶりに購入した。
3月生まれだから30代の10年の毎日はそれに書いていた。今日届いたのは40代の日々のことになる。毎年書いていくと一行ずつ増えるから年輪みたいな層になっていく。

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乗代雄介著『掠れうる星たちの実験』が今年最後に買った本。芥川賞候補作『皆のあらばしり』は読みかけ中だが、この書評集はタイトルと装丁が抜群だったので買っちゃおうと思った。
カバーがクリアで下の本体の金色が透けたところから見える装丁なんだけど、問題はこの手のクリア素材カバーは擦れると傷がつきやすいし白く跡がついてしまうこと。

 

2022年1月1日
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井の頭公園から始まる神田川柳橋神田川隅田川に合流する。隅田川テラスを歩いて月島へ、そして晴海客船ターミナルへ。

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↑晴海埠頭近くにそびえる東京五輪選手村だったマンション群

あけましておめでとうございます。2022年もよろしくお願いいたします。
毎年恒例な井の頭公園から始まる神田川沿いを歩く「ウインターバケーションEP」ですが、6時前にスタートして先程浅草橋と柳橋に辿り着き、神田川隅田川に合流しました。神田川の源流からはだいたい28キロぐらいでした。
隅田川テラスを歩いて月島に、そこから晴海ふ頭前の東京五輪選手村だったマンション群を見ながら晴海客船ターミナルまで歩いた。

古川日出男著『サマーバケーションEP』の聖地巡礼に近い、この「ウインターバケーションEP」だけど、本家のラストシーンでもある埠頭にある晴海客船ターミナルが2022年2月20日に閉館し、7月から解体作業に入るというニュースを年末に見た。
今年22年にもし歩かなかったとして、来年23年に歩こうと思ってもラストシーンであるこの場所はすでに無くなってしまっている。
東京五輪が終わっても人がまだ入居していない選手村がゴーストタウンのようにそびえ、そして今年後半から姿を消していく晴海客船ターミナルを見ることができる元旦は22年だけだと思うとなにがあっても最後まで歩こうと思ったし、一番いい終わり方になるとしたらやはり今年なんだろうとそのニュースを読んで確信した。

井の頭公園神田川の源流から始まるこの歩行は基本的にはいつもとほとんど変わっていなかった。川沿いのお店が無くなっていたり、新しくなっていたり、といつもと同じ多少の変化はあるけど、大きな変化はなく、いつものように自分の歩く音と川沿いの鳥たちのはばたきと鳴き声、遠くから聞こえる車の走行音、時折通り過ぎるランナーの吐息と毎日のルーティンとしての散歩がうれしい犬とその飼い主たち。
一昨年と去年はコロナで晴海客船ターミナルは閉鎖されていて入ることができなかったけど、今年は開いていたのが一番の違いだった。最後なので展望台にも上ってみた。一番上は少し潮風のような強い風が吹いていた。この「ウインターバケーションEP」が終わっていくんだなとその風が教えてくれているみたいだった。

家に帰ってから古川さんご夫妻に今年のレポートを含めた年賀メールを送ってから、少し仮眠した。起きてからニコラの曽根夫妻と毎年恒例な新年会で美味しい料理とお酒をいただいた。

 

1月2日
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22年の小説の読み初めはポール・オースター著『偶然の音楽』から。文庫裏面にある小説の説明文のところに「妻に去られたナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。すべてを捨てて目的のない旅に出た彼は、まる一年赤いサーブを駆ってアメリカ全土を回り、〈十三カ月目に入って三日目〉に謎の若者ボッツィと出会った」とあった。
去年個人的によかった映画のベスト1がヴィム・ヴェンダース監督『夢の涯てまでも ディレクターズカット版』、ベスト3が濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』で、このふたつを合わせたような内容に思える説明文だったので年末に買っていた。三つに共通しているのはドライブすること。
去年から書いている小説『セネステジア』もドライブしている所から始まっている。僕自身は免許取得から今までずっとペーパードライバーであり、自分の下手な運転で車を走らせたらすぐに事故ったり、誰かを殺してしまうのではないかという恐怖心がずっとある。だからか、この所、車を運転するシーンを何度か書いているのはその意識の反転なのかもしれない。
『偶然の音楽』と『夢の涯てまでも ディレクターズカット版』はほぼ同時期の作品だし、発表された1990年前後にはインターネットは一般的ではなかった。年々ネットが断絶を広げていき、敵か味方だけにしていく中で、近過去としてのレトロな80年代はさまざまなジャンルで再び掘りこされていった。その時代にはインターネットがなかったから。
僕もそういうものがあるんだと思う。
同時に車とはなにか?ということになれば、フォードシステムによって大量生産が可能になって、庶民でも車が買えるようになったことで道路が整備され、人々はレジャーとしてドライブをたのしむようになった。
都市部や地方の道路が血脈となり、血液として車が人や物を運ぶことで第二次世界大戦後の戦勝国も敗戦国も栄えていった。そして、それはある時期を境に沈んでいくことになる。当然ながら、道路にしろ架けた橋だって何百年も、何十年ももたない。
宇宙というフロンティアをめぐる冷戦の終了、その後は人の心や精神に領域に向かおうとしたインターネットがあり、さらに拡大していくものとしてメタバースがある。人は身体を捨てることができるのか否か。
車によるドライブは物質の移動であり、当たり前だがトラブルが起きれば車は大破し人は死んでしまうし、誰か関係のない人を巻き込んでしまう。そのことはメタバースとは対極にあるようにも思う。
現代やインターネットについて書く時に補助線というか、ドライブについても同時に描くことで自分の中ではバランスを取っているような気がしてきた。そういう意味でかつて書かれたドライブする物語に惹かれているというのがあるんじゃないかと自己分析はできるのだけど。
全然関係ないけど『偶然の音楽』ってタイトルがいい。

 まだまだ本調子じゃないが、コロナで最も強い禁圧を食らったクラブカルチャーは蘇生しつつある。よく泣き、よく寝て、よく食べた僕は、なんとか元気を取り戻し、瀬川先生のご加護を感じていた。瀬川先生。お優しい先生が、どの御著書でも強い怒りの声を以て訴え続けておられた戦争に向かう事への警鐘を、僕は今までの人生でも、この後の人生でも忘れません。あらゆるナチズムによる快楽の禁圧に反逆し、フロアにダンスの力を全開放して、遊ぶことを取り戻します。見守っていてください。

 この2年間で、夜遊びは失われた。「遊ぶ」ということは神々と戯れることだ。民が遊ばない社会は、民が神々と戯れない社会だ。だがドミューンの尽力もあり、遊戯の快楽を知っている人々の欲望によって、クラブカルチャーは瀕死から急激に蘇生しつつある。僕は興奮のスイッチが入り、音楽をする直前に訪れる、全能感に似たドラッギーな気分が湧き始めるのを感じていた。少なくともオレが回す盤は全部最高級だよ。

↓より引用。

 

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2022年の映画初めは園子温監督『エッシャー通りの赤いポスト』舞台挨拶つきをユーロスペースにて。公開初日だった12月25日に観て、今回二回目。初日に引き続き、園監督が登壇する役者さんの代わりに司会をやっていた。
二回目を観ると時系列と登場人物の関係図がわかっているので、前回よりも「人生のエキストラでいいんかい!」という叫びがより響く。
今日も登壇者以外の役者さんが駆けつけていた。かつての自主映画時代や東京ガガガ時代も園さんと作品に関わる人たちの熱狂があり、園さんを筆頭にみんなで作品を広げていった。
今、近いものだと意識高い系な自己啓発やオンラインサロンだし、やりがいの搾取的なものも無意識に含んでいたと思う。今作でもそれがゼロではない、いいか悪いかは別にしたら、なにかが広まるときにそれは間違いなく介在する。
やりがいの搾取はどこでも起こるし、トップが神格化してカリスマ性を帯びていくとその直近のナンバー2とかその下で自己顕示欲とトップに対する承認欲求によって対立や内ゲバや裏切りが始まり、やがて集団は瓦解する。
園さんはある時期や周期に関わる人が入れ替わるし、カリスマ性はあるけど教祖的ではない。たぶん、だらしない部分を見たり聞いたりしてきたからというのもある。
僕のこの距離感はスタッフをやってきた人とはもちろん違うし、その愛憎に関しても違う。だから、こういう考え方も違うよ、という人がいるのもわかる。だけど、園さんが新作を取り続けられるのはその循環というか入れ替わりが大きいんじゃないかなとは思う。
園さんに終わってから新年のご挨拶して(メインこれなんだけど)パンフにサインしてもらった。還暦で僕とは20違う。お疲れだった気はするが、それでも60には見えない。僕が初めてあったのは2005年だから17年前だから、その時の園さんは今の僕よりも年上だ。改めて驚くしかないのだけど。
僕は『ハザード』観て人生が変わってしまったからわかるんだけど、『エッシャー通りの赤いポスト』観て人生変わっちゃう人がいるだろうな、とワクワクもする。だから、たぶん僕にはなんだかんだ渋谷って大切な街なんだろう。

 

1月3日
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神田明神にお参り。いつもの正月行事もこれで終わり。

 

――平清盛の娘で、安徳天皇の母となる徳子ら、女性を取り巻く描写も特徴的です。

古川 女性が主役という意識はありました。平家物語の時代の背景にあるのは、身分格差やジェンダーギャップ。わざわざ現代語訳をするならば、現代の視点で切り込んでいきたいと思った。通して訳した時に、これは戦争なんか嫌で、そんなものがない社会がいいと語り継いでいる作品なのに、意外と誰もそれを言っていないと思った。だから女の人たちに前に出てもらわないといけないと思ったんですよ。

山田 (自分自身が)女性として何かを訴えたいということは特にはありませんでした。虐げられているというよりは、女性強し、のイメージ。キャラクターたちの存在や美学を素直に見たとき、正しい場所に正しく収まったという印象です。

古川 僕も重盛以降の下の世代が印象的ですかね。清経の死は象徴的。維盛の死までつながり、あれで平家の運命は予言されていると思う。

人間って兄弟とか家族関係とか、クラスの中のメンバーとかで自分のキャラクターが決まるじゃないですか。清盛がイケイケだったから、重盛にはまともなところがあってどっしりしていく。重盛がちゃんとした人間で清盛がイケイケで、時子が超ビッグママだから宗盛がダメダメ息子になってしまうとか、そういうところって現実なんだと思う。歴史の真実だと思って、アニメでああいう描かれ方をされるとよくわかる。そこの造形が印象的だったし、好きでしたね。

山田 確かにちゃんと家族物語になっていました。

――後白河法皇や、清盛は憎めないおじさんですね。

山田 「トムとジェリー」みたいな感じで、本当に大好きです。

古川 あー、なるほど。

山田 そういう、やんちゃなおじさんたちがあれこれやっているように見えたらな、と。そこで、ギャグアニメの「ハイスクール!奇面組」に出演していた千葉繁さんに後白河法皇玄田哲章さんに平清盛をそれぞれ演じて頂きました。すごくチャーミングなお二人になりました。

↓「古川日出男×山田尚子対談 「平家物語」とあの作品の共通点」より引用。無料会員登録すれば最後まで読めます。

 

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『偶然の音楽』を途中まで読んでから、『バタフライ・エフェクト ケンドリック・ラマー伝』をケンドリック・ラマーのアルバムを流しながら読んでいる。彼の音楽性やリリックが人種問題や住んでいる街や白人至上主義や両親との関係性と深く関係し、黒人として生き延びてきたこと、そして死んでいったコミュニティの仲間や同胞のように自分がなっていた可能性、その辺りが丁寧に書かれている。
何年か前からたまたまサンダーキャットを聴くようになったのもあるし、カマシ・ワシントンとかロバート・グラスパーとかジャズの新世代も聴いたりするようになると、フライング・ロータスとかそういう人たちがコラボしているのを知るようになった。それもあって音源だけはiTunesに入れていたケンドリック・ラマーも改めて聴こうと思って評伝もいいタイミングかなと思って読み始めた。
ラップもR&Bもほとんど聴いてきていないけど、ケンドリック・ラマーやザ・ウィークエンドは音を聞くとやっぱりカッコいい。二人ともまだ30代前半だった。カマシ・ワシントンは日本で言うと一学年上でフライング・ロータスは二学年下だった。見えない。
あとサンダーキャットは『ドラゴンボール』とか日本のアニメ・漫画カルチャー好きだし、カマシ・ワシントンもアニメやビデオゲームからインスピレーション受けている辺りは世代の近さは感じる。
しかし、コロナ感染爆発前に発売になって買っているサンダーキャットの来日ライブは再延期したままで、サンダーキャットは来る気満々だから中止にはならないだろうけど、アメリカの今の現状だと今年もまだ来日怪しい気がする。
アメリカの現代史における黒人差別問題、この数年で広がって行ったBLMについてかなりページを使ってくれているのでそこを知れるのは読みながらいいなと感じた。
創作や表現は極めて個人的だけど政治的なものだし、法治国家で生きているだけで人は政治的な生き物なんだけど、どうしても日本だとそれが蔑ろというか脇に追いやられてしまう。
書類を改竄したり、破棄するような政府を支持することが自分達の尊厳や個人の自由を奪うことに繋がるってことがわからない人をちゃんと育て上げることに関しては、うまくやってるよね、彼らは。
だから、敗戦後の日本とアメリカとの関係性とか天皇制とか、そもそも勝てない戦争を軍部の上だけで決めて撤退もできなくなって焼け野原にしてんじゃねえよ、戦後もそもそもお前ら反省してねえだろとか、そういうことを個人的にずっと考えて、創作や表現で問い続けてる人にはやっぱり敬意を抱くし、尊敬する。どうしてもバランスが崩れているというか悪くなり過ぎていると他国のラッパーの評伝を読みながら改めて感じる。

 

1月4日

「この世はな、知らんことには、自分が知らんという理由だけで興味を持たれへん、それを開き直るような間抜けで埋め尽くされとんねん。せやから、自分の知っとる過去しか知らずに死んでいきよる。八十でくたばる時に考えるんは八十年間のこと、つまり頭からケツまで己のことや。己のことを考えるから苦しむっちゅうことには気付かず、今に通用する身の振り方だけを考えて、それを賢いと合点して生きとんねん。情けない話やのー。青年が、そんな退屈な奴らを歯牙にもかけんと生きていけるよう、わしは願うばかりやで」

『皆のあらばしり』が芥川賞取ってほしいな、とこのセリフ部分を読んで思った。

バイト先が株式譲渡されたので転籍することになって、明日入社する際に必要な「年金手帳」とか諸々を家にあるいろんな書類を見ながら探す。ゴミがたくさん出た。「年金手帳」以外に必要なものは前の会社の人にSlackで聞いたら解決した、あぶねえ。
たくさんいらなくなった書類が出てきた。一年も行ってない大阪商業大学のものとか東放学園専門学校入学の時に必要だった書類とか高校卒業した証明書とか、東京で最初に住んでた住所が書かれている契約書とか、今の家の前に住んでいた代田の書類とか。驚くほど昔のことは忘れている。
おばあちゃんからもらった手紙とかってやっぱり捨てられない。他の人からもらったものもだけど。僕ひとりの生活でこれほどものがあって、捨てられるものも多いけど、捨てられないものもある。一人暮らしで家族や親族と離れて暮らしていると自分がなにかあって急に死んでしまったら、このワンルームにあるものだけでも片付けるのは大変だよなって思う。
サインとか入ってない本は古本屋とかに引き取ってもらえばいいんだろうけど、名前入れてもらってるサイン本とかって処分するのに困りそうだな。

 

1月5日
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メディアドゥは竹橋のパレスビルに入っているので、休憩の散歩がてらケンドリック・ラマーを聴きながら東京堂書店神田神保町店に向かう。
青山文平著『跳ぶ男』文庫版を購入。侍×ヒップホップだから『サムライチャンプルー』だなあ、なんて思った。

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仕事帰りに新年初のニコラに。梨のマスカルポーネのタルトとアルヴァーブレンドをば。

 

1月6日
リモートワークのお供でradikoで深夜に放送していた『あののオールナイトニッポン0』を聴いた。思いのほかおもしろかった。あと自分の歌も最後に披露していたけど、いいギャップもあったし。
菅田将暉オールナイトニッポン』が3月に卒業して終わるから、あの枠は佐久間さんがやりそうな気はするけど、どうだろう。
アミューズとか大手事務所所属の役者(かミュージシャンだろうけど、星野源が前日にいるからたぶんミュージシャン来なそうな)がやりそうな気もする。でも、ひと枠は減るし、そのうちあのちゃんは「ゼロ」か「クロス」にいても面白いんじゃないかなと思った。
菅田将暉の枠で出ていた『松下洸平オールナイトニッポン』でDJを勤めていた松下洸平の声をラジオでの声だけ聞いていたら、松坂桃李の声に似ている気がした。声が似ているなら骨格も近いだろうから、顔も似ていると思うのだけど、どうだろう。

 

1月7日
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スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の最速上映(24:00~26:45)をTOHOシネマズ渋谷に観に行く。家から渋谷に歩いて向かう途中、凍結した道路を渡っているときに見事な滑り方して転けた。笑っちゃうぐらいに見事な転け方だったが、どこも痛みはなかった。不思議。
おそらく上映初日の日付が変わる瞬間からの上映を観るのは『SPEC』劇場版の最後の後編以来だと思う。あの時は終盤の世界の終わりのような戦いのシーンでほんとうに地震が起きたので、場内がちょっとざわついた。4DXではないのに4DXみたいなことになっていたし、物語とシンクロしすぎていて、それもいい思い出だ。
コロナの状況もあるし、また感染拡大していくといろんなことができなくなるから、祭りとしての最速上映を楽しみたいというのがわりとあった。あと土日、月曜も祝日で映画館は混み合うだろうけど、どうも週末の映画館はあまり好きではないというのも大きかった。

27時、深夜の3時少し前に観終わる。深夜だけど寝オチをしてられないおもしろさだった。いやあ、とんでもない作品になっていてめちゃくちゃ満足した。とりあえず、ネタバレを踏まずにみてほしい、と思った。
この日記がウェブで公開した時には公開から二週間以上経っているだろうから、問題ないと思うが、やはり中盤以降に魔術によって空いた穴からある人物がMJとネッドのいるネッドの家にやってくるところで、場内は一気に湧いて、多くの人から歓声と拍手があがった。そして、それがもう一回来るわけだが、ネタバレを踏まずにほとんどなにも知らずに初日に観に行ってよかったと心から思えた。
また、笑いどころが大きいのも今作の特徴であり、マルチバースの扉が開いてから、ピーター・パーカーにおばであるメイおばさんが「大いなる力には、大いなる責任が伴う」と告げる。そして、このセリフはサム・ライミ監督版でトビー・マグワイア主演『スパイダーマン』に通じているし、大事な人を助けられなかったという後悔はマーク・ウェブ監督版アンドリュー・ガーフィールド主演『アメイジングスパイダーマン』に通じていくという見事な展開で、観客の多くは泣いていたと思う。

2時間40分ほどで2002年から始まったサム・ライミ監督『スパイダーマン』と2012年から始まったマーク・ウェブ監督『アメイジングスパイダーマン』から今回のシリーズであるジョン・ワッツ監督によるMCU版までをある意味で網羅した集大成になっており、それが驚くべきほどの多幸感を観客にもたらせてくれた。そして、そんな作品を真夜中のほぼ満席の映画館で観れて、ほんとうによかった。期待値上げまくってる人たちの反応も最高な空間にしてくれていた。もう一回観るならIMAXで絶対観たい。

 

1月8日
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ありま猛著『あだち勉物語 ~あだち充を漫画家にした男~』2巻。
赤塚不二夫サーガのひとつとも言える天才・あだち充を世に出した破天荒な兄・あだち勉の物語。今回出てくるとある少女漫画家がその後編集者の武居さん(赤塚番&最初のあだち充担当であり、ある種父的な存在。)と関わるなら、「少女コミック」で描くことになる「花の24年組」の誰かなのかな。

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『群像』2022年2月号掲載の古川さんの連載『の、すべて』2回目を読む。この連載のために『群像』を購読しているわけだが。少し前までは『曼陀羅華X』を読むために『新潮』をずっと購読していた。
2回目でこの作品の語り部となる人物が出てきた、というかわかった。やがて政治家になるのかな、たぶん。そのコーエンについて語っている人物を早めに出した方がスムーズということなのかも。そういう役割が出てくるのは不思議だったり、特別なことではないけど、確かに今までの古川作品と気色が違う感じがする。

 

1月9日

しかし、力というのは、大きければ大きいほど周囲に及ぼす影響も大きくなる。
大いなる力を持つということは、同時に大いなる責任を伴うことでもあるのだ。
これは私が考えたフレーズではなく、映画『スパイダーマン』(02)からのパクりである。DNA操作された蜘蛛に噛まれスーパーパワーをゲットしスクールカースト最底辺のいじめられっこから一夜にして下剋上、フィーバーしまくるが調子に乗るあまり大きな選択ミスをやらかし大切な人を失ってしまう主人公、ピーター・パーカーに捧げられた言葉だ。

「monokaki」で王谷晶さんに執筆してもらっていた「おもしろいって何ですか?」の「自由って何ですか?」より。公開された『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を観た時にもこの連載のことをちょっと思い出したのだけど、王谷さんが4日ぐらいに記事の引用ツイートをRTしていて、その日一気にGoogleアナテリックスのviewがめっちゃ伸びていた。
医者で小説家の人が「私を含め多くの創作者は『社会に影響を与えよう』などと思って作品を作っていません。エンターテイメントは読者・視聴者を楽しんで頂くことが何よりの目的です。」とツイートした件で、いろんな人が引用ツイートでコメントしたりしていて、あえて王谷さんがRTしたのが流れを見てみるとわかった。それに対して小野時系さんは「「創作で社会に影響を与えろ」と言ってるのでなく「創作は社会に影響を与えるもの」だと言ってるんです。」と引用RTで返していた。その通りとしか言えない。この辺りは各自でツイートやそれに対してのいろんな人の意見を見てもらうしかないが。

僕は個人的にあの医師作家さんの小説を読もうと思ったことはない。装丁がことごとくダサいから金を払いたくないというのが一番の理由だ。装丁というのはその作品から装幀家やデザイナーがイメージするものなので、それで表出されるものが自分と合わないものは、基本的に読んでもおもしろいなと思える可能性はかなり低い。これは経験則だ。だから、信頼している人とかが薦めてくれた場合は、自分では買わないものを読むようにしている。そこは我慢する。そうすることで、自分から手を出さないものに手を出す、イレギュラーであったり未知との遭遇が時折あるから。
でも、書店に行くとあの作家さんの新作はたいてい面出ししてあるし積まれている、エンタメ作品として売れている人というのはわかる。だから、僕の感性が世間とはズレているのだろうと思う。だが、これは仕方ない。ダサい(わかりやすい)ぐらいのほうが売れるというのはあるのかもしれない。エッジがあるものはカッコよくても売れないというのはどんなジャンルでもある。

あれだけ売れている作家なんだけど、編集者とか周りの人はなにも言わないんだろうか、それも不思議だ。
あの作家の人はコロナとかでも医者として積極的に発信しているのにもかかわらず(そういう部分はしっかりしてんのに)、創作に対しての考え方とかがわりと「?」だ。
売れているものはいやでも世の中に影響を及ぼすし、そのことに無自覚っていうのがよくわからない。漫画『ブラックジャック』が医療業界になんの影響も与えなかったのであれば、エンタメは現実に影響を与えないと言えるかもしれないけど、それはありえない。
これって貴族とか代々家柄が金持ちな人は貧しい人に寄付したりとかそういう精神があったというが成り上がりが増えていくとなくなっていく(日本だとちょっと違う部分もあるし、キリスト教圏内の文化的なものでもあるが)みたいなことに似ているような。

おそらく、批評とかに対して理解がない(ただ攻撃される、悪口を言われていると勘違いしている)表現者が増えているのもつながっている事柄なんだと思う。それは教養(教育)の問題なのか、新自由主義的ななにやっても稼いで勝ち口が正しい的な自己責任論を押しつけるような価値観の浸透のせいなのかはわからないが。
スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は超どエンタメな作品だが、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということをしっかりと描き、主人公が責任を取る主体としての大人になるという見事な成長譚となったシリーズ第三作目だった。また、ヒーローというものへの批評性や過去作から連なっているものへの自問自答や新しい解釈や希望があるし、同時に批評されることを恐れていない。しっかりとそういうものを受け入れていく姿勢を感じた。
僕は早い時期に大塚英志原作漫画を読み始めて、その流れで大塚さんの批評とか自然に読むようになったのが大きかったんだと思う。そこはすごく大塚さんに感謝している。
大塚さんの本読んでなかったら、大江健三郎中上健次三島由紀夫も読まなかったし、社会学とかそういう関連の書籍への入り口もだいぶ違ったものになったと思う。たぶん、読めなかった。

『ボクらの時代』の鈴木もぐら×嶋佐和也×坂井良多(高円寺芸人)をTVerで見る。
小説で言えば、ある時期の「メフィスト賞」や「R-18文学賞」、最近だと「文藝賞」みたいに才能が集まったような感じが「高円寺芸人」にもする。ある時期そこに集まった人たちが連鎖的に台頭してくる磁波みたいな。
何人かが世に出て台頭してしまう(そのジャンルにおいて認知されてしまう)と後からそこにやってきてもレッドオーシャンみたいなものになってしまっているから、もう間に合わない。僕もそうだけど、ほとんどの人はそういう所には間に合わない。その後、なんとか形になっても「遅れてきた青年」状態になる。
だから、今芸人になりたい人が「高円寺」に住んでチャンスを、というのは違うだろうし、おそらく「高円寺芸人」の弟分にしかならずにたぶん売れない。小説家を目指す人が「文藝賞」に出しても、すでに世に出ている出身の芥川賞作家以上のインパクトは出せないし、出せる人ならどエンタメ(文藝賞は純文学でもエンタメでもいいから)の側を書く人だろう。
「遅れた」側の人はすでに王道ではないので、周辺から、僻地からじわじわと中央に向かって、王道になんとか寄生して、あるいは吸収して取り込みながら、ど真ん中に行く人か、周辺か僻地でその人だけの王国を作るしかない気がする。

 

1月10日
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スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』2回目をIMAXで観るために、前2シリーズ(サム・ライミ監督&トビー・マグワイア主演『スパイダーマン』シリーズもマーク・ウェブ監督&アンドリュー・ガーフィールド主演『アメイジングスパイダーマン』)をアマプラで見返している。
アメイジングスパイダーマン』の主役のアンドリュー・ガーフィールドとヒロインのエマ・ストーンの二人って、このシリーズが事実上打ち切りになって(MCU版が始まるため)、その後にそれぞれが出演した映画にある共通点があるよなって思った。
エマ・ストーンが出演した『ラ・ラ・ランド』とアンドリュー・ガーフィールド主演『アンダー・ザ・シルバーレイク』は共にロサンゼルスを舞台にしていて、ショービジネスの世界に関係している物語であり、舞台がわりと被っているというところだ。

ラ・ラ・ランド』日本公開後、鑑賞した翌月の三月にロサンゼルスに行った時に、『ラ・ラ・ランド』に出てきたハリウッドをネットの情報を頼りに歩いて見ていた。
ラ・ラ・ランド』はそんなに好きな映画ではない(デイミアン・チャゼル監督作品がそこまで好きではない)けど、時間もあったしいい暇つぶしになった。
その流れでロケ地になったグリフィス天文台にも行った。アスレチックコースみたいな道を歩いて上った。そこからは有名な「HOLLYWOOD」サインがよく見えた。
その翌年ぐらいに『アンダー・ザ・シルバーレイク』が公開された。都市伝説や陰謀論を描いた映画だが、個人的にこの数年で観た映画でもいちばん好きかもしれない(僕にしたら珍しくDVDソフトを買っている)。『ラ・ラ・ランド』と同じくロサンゼルスが舞台だからロケ地が被るのは仕方ないのだけど、その前に実際にハリウッドに行った時に見て歩いた場所が映画に出てくるのだから、個人的にもリアリティがすごくあった。そして、こちらでもグリフィス天文台は非常に重要な場所として登場していた。また、天文台までのアスレチックなの?と思えるかなりの山道(普通は車で行く場所らしい)も映画に出てくるので、あの都市伝説的な物語に僕はリアリティを感じた。
今、書いている新人賞へ応募しようと思っている『インターレグナム』は『アンダー・ザ・シルバーレイク』東京版みたいな意識もある。

 

1月11日
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短歌の本を先月とかに買ったのを読めてないのに、書店で『穂村弘対談集 どうして書くの?』を少し立ち読みしたら最初の高橋源一郎さんとの対談がとてもよかったので購入して読み始めた。その流れで新書で出ている高橋源一郎×斎藤美奈子『この30年の小説、ぜんぶ:読んでしゃべって社会が見えた』もおもしろいかもと思って読み始めたらそっちを先に読み終えてしまった。

穂村弘対談集 どうして書くの?』に戻って、一青窈さんとの対談を読み始めたら、感情や思いを言葉で伝えようとするときの話があった。
「情報」ははっきりした形で、コップとかの器にいれて渡すことができるけど、感情や思いっていうのものはそういう器では渡しきれないということを穂村さんが言っているのがすごくいいな、と思った。そもそも個人的な感情や思いがある文章って渡し方や入れる器が違ったりする。「情報」ではないから。
渡す方が考えた渡し方であったり器について、渡される方もイメージとかを共有できてないと受け取れないというのも大きい。それはセンスかもしれないし、感受性とかのレベルが近いとかなんだろう。
親しい人だからって渡そうとしてもそれが違えば、渡しても相手は理解できなかったりする。友人知人以前に家族でもそれはよく起きているはずだ。
ここで例えになっているように感情や思いをスポンジに染み込ませて渡していても、相手がそれを握ってくれたら水(としての感情や思い)が出てくることに気づかずに、ずっとコップを持ったままということもありえるんだろう。
コップを持って、とりあえず「情報」をくれと言っていても相手が「情報」ではなく「情緒(感情や思い)」を渡そうとしていたら、それは伝わらないわけで、逆もしかり。
小説を続けて読んでいるとちょっとしんどくなってきて、ノンフィクションとかこういう対談集とか読みたくなるのも、「情緒」を受け取るのに疲れて、「情報」がいいなとかって感じなんだと思う。コップを持ってずっと「情報」を求めていくと、たぶんスポンジを握るって発想ができなかったり、それすらめんどくさいみたいなことはあるんだろう。

 

1月12日
アニメ『平家物語』オープニングテーマ曲。羊文学のライブを一度だけ観たのは下北沢のベースメントバーでの、メジャーになる前のワンマンだったけど、きのこ帝国ぐらいにはなるんだろうなと思ったんだけど、もっと上にいきそうな気がする。



2016年末に現代語訳『平家物語』刊行&『犬王の巻』を執筆し、トランプ大統領に就任した2017年にUCLAに招聘されてアメリカに渡った古川さん。
UCLAでの朗読は小泉八雲『怪談』(英語の同時通訳)&小林正樹監督『怪談』の「耳無芳一の話」の映像が流れていた。まさに異界みたいな空間だった。UCLAでの朗読は動画を誰も撮っていないからないのだけど、2017年に高知県竹林寺で行われた古川日出男×向井秀徳×坂田明平家物語 諸行無常セッション」は撮影してあるので、なにかのタイミングで見れるといいな。
アニメ『平家物語』は本日24:55からフジテレビ系で放送開始。


講談社クリエイターズコンテスト」一次選考通過していた。次は面接だけど、コロナもあるし講談社にみんな行けるわけでもないから公平にするためなんだろうか、次の面談はウェブ面談になっていた。
ウェブで会議とかやりとりするの苦手だけど、まあ、仕方ないので自分がこのコンテストに出したことで考えている未来像とかやりたいことをしっかり伝えるしかないな。

 

1月13日f:id:likeaswimmingangel:20220114120259j:plainf:id:likeaswimmingangel:20220114120316j:plain
スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』二回目をTOHOシネマズ日比谷のIMAXで。
スパイダーマンがニューヨークをスイングで飛び回る躍動感とかはやっぱりIMAXのスクリーンで観たくて、新宿は混む可能性があるから日比谷に。街的に年齢層が高く、平日だとかなり空いているからコロナ的にもバッチリだと思ったのもある。
この作品はネタバレをしていても面白いと思うけど、何も知らずに観たときの興奮とか、劇場公開時のスクリーンでしか味わえないだろう。

アメリカだと去年末公開だから、去年観ていたらベスト2にしていたと思う。ベスト1はやっぱりヴィム・ヴェンダース監督『夢の涯てまでも ディレクターズカット版』なんだけど、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』と実は共通点がある。
二回目の今回は一回目より泣いてしまったが、それはきちんと前二シリーズ(サム・ライミ&マーク・ウェブ監督の五作品)を復習して観たからヴィランについての背景がわかったこともあり、感動が増幅し深化したのは間違いなくあると思う。内容に関して言いたいことはあるんだよ、マルチバースについてとかさ。でも、そんなのが気にならないぐらいの強度のある作品になっている。
初日の最速上映の満席の劇場はよすぎたけど、今日の日比谷もお客さんは多くはなかったけど、みんな同じ箇所で鼻をズルズルさせて泣いていた。
二時間とか三時間閉じ込められた場所で全然人生で交差したり、関係性が始まらないであろう他者と空間を共にする、その経験としての映画館が好きだし、やっぱり映画館で映画観たいんだよな。
劇場に行くのもめんどくさいし、下手したらクソな他の客とかいるけど、世界が便利になってお手軽になっても、自分や他人って手に負えないし、お気軽じゃなくてめんどくさい。たぶん、それありきの空間が好きだし、手放したくない。だから、観たい映画は観に行きたいし、ライブも聴きに行きたい、それがあるからひとりで向き合う小説も同じぐらい大事。

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日比谷から家まで歩いて帰るなら2時間程度だし、皇居のお堀沿いを歩いていけば赤坂なんで、途中にある豊川稲荷にお参りを。昼間なのにわりとお参りの人がいた。

 

1月14日
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朝から夜までリモートワーク。途中でニコラに行って、スコーンとアルヴァーブレンドをいただく。
コロナのオミクロン株が一気に拡大しているのか、東京もまた3,000人とかを越えてきた。すぐに5,000人は行くんだろうな、と思うけど、特に新たな政策や支援を政府がすると思えないし、もう運の問題でしかない感じになっている気がする。このまま行くと春先までぐらいは緊急事態宣言とか出て、制限されてしまうのだろうか。

古川日出男さんへのインタビュー記事がアップされていた。平清盛はシステムを変えて新しい時代を作ろうとしていたという話、だから、一つの方面では描けない魅力的な人物でもあり、それは革命者であり破壊者という側面を持っていた。という話などアニメをより楽しめるものとなっている。
もちろん、ネトフリなどでも配信が始まったが僕が一番願いのは古川さんが現代語訳した『平家物語』を読んでもらうことだけど。

 

1月15日
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清田隆之著『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』を読み終えた。
10人の「一般男性」が語るそれぞれのアイデンティティジェンダーに関すること、親やパートナーとの関係や仕事や学生時代のこと、みんな違うわけだが、そこに通底しているのはやはり昭和末期や平成になって生まれて育った世代という気もする。
僕もだが、彼らの親世代が戦後生まれの今でいう戦後の復興期に成長し日本がよくなってきた時代を生きてきた人たちだから、今の時代よりも安定していたり、大きな枠組みや物語があった。それが崩れている時代に、その親世代に育てられていると呪縛というか当たり前だったことが時代的にアウトになっていったりするので、うまく転向や考えを改めることができない人が多いんだろう。そこでうまく他者との関係性が取れなかったり、最終的な信頼をすることができないなどの弊害は起きているのだろう。
まったく他人事ではなかった。アメリカとかでよくある同じ悩みや症状がある人の話し合う自助グループのようなものが普及したら多少は楽になりそうだけど、なんかそこでもマウントを取り合ったりするような気もしてしまう。でも、こういう形でも誰かに聞いてもらうというのはすごく大事なことだと感じる。

 

1月16日
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リドリー・スコット監督&レディー・ガガ主演『ハウス・オブ・グッチ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。7階のスクリーン1という小さなところだったが、金曜日に公開したばかりだからか、7割方客席は埋まっていた。
実話を基にした作品であり、グッチ家の3代目社長であるマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)が射殺された事件を裏で計画していたのが、妻であったパトリツィア・レッジャーニ(レディー・ガガ)という話であり、庶民出のパトリツィアはパーティで出会ったマウリツィオがグッチ家の御曹司だとわかると猛アプローチをして結婚する。しかし、マウリツィオの父のロドルフォ・グッチ(ジェレミー・アイアンズ)からは反対され、夫婦はパトリツィアの実家の運送業者で働くことになる。
グッチ家を捨てたマウリツィオは未練はなかったが、パトリツィアは夫を再びグッチに戻して、自身もその名門の一人になりたいという欲望を捨てなかった。そこにマウリツィオの伯父であるアルド・グッチ(アル・パチーノ)の誕生日に夫婦は呼ばれたことで、彼女は伯父に気に入られて、夫の一族復帰を画策するようになる。

はっきり言ってしまうとパトリツィアという外部の遺伝子を名門グッチに取り入れたことで、一族間での争いや権力がマウリツィオに集まり、彼は外部資本とパートナーシップを結ぶことによって新たに再生しようとするが、その時、妻ではない女性と暮らすようになり、パトリツィアと娘はグッチ家から関係のない状況になってしまう。そこで逆恨みのようにパトリツィアは夫の殺害を依頼することになる。マウリツィオが死亡し、のちにパトリツィアや彼女に殺害犯を紹介した占い師やその実行犯たちはのちに逮捕され、世界に知られるブランド・グッチはグッチ家の人間が誰一人いないという状況になって、今に至ることになる。最後ら辺でグッチを再生させる才能豊かな若いデザイナーとしてトム・フォードが出てくる。
パトリツィア・レッジャーニがマウリツィオ・グッチと出会ったことで名門は自身のブランド経営から手を引くことになる。外部資本でパートナーシップを結びグッチを再生させた人たちからすれば、自分達の手を汚さずに彼女が動いてくれたおかげでグッチが手に入ったといういろんな意味で皮肉的な物語となっていた。
最初はレディー・ガガとかファッションも素晴らしいし、魅力的なのだがどうも最後がわかっているので盛り上がりに欠けた気がして、よくもなく悪くもなかったという印象になってしまった。

 

1月17日
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中央公論社中央公論』2022年2月号を上林さんからご恵投いただきました。
友人のパン生地くんこと高畑桑名が寄稿した『Tシャツの裾から見る時代の背景 平成のタックアウトから令和のタックインまで』が掲載されているので送っていただいた。
彼の展示を一緒に見に行ったのはパン生地くんと同じく園組だった杉山さん(彼女がキャスティングで参加しているNetflix『新聞記者』もぜひ見てください)で、さきほど5代目金田一少年決まったねとラインしたら本が届いたので、すごいタイミング。さて、バディとなるみゆきは誰が演じるのか。
ではなく、この記事が気になる方はぜひ『中央公論』読んでみてください。僕もこれから読みます。

 

1月18日

2020年夏、「帰還困難区域」に元なし農家の鎌田さんと車で入ったあとに、鎌田さんと親戚なのかな、縁戚である木村紀夫さんが今日は家にいるだろうと鎌田さんが言われて、木村さんのお宅にアポなしで行くことになって、僕たちは木村さんの家に急遽お邪魔させてもらった。
亡くなった汐凪(ゆうな)さんのためにお地蔵さんが建立されているところでみんなでお参りをした。この記事の写真でも出ているけど、そのすぐ下にベンチがあって、古川さんと鎌田さんが座って話をはじめてNHKのクルーはそれを撮影し始めたので、木村さんと愛犬は家のほうに降りていった。
鎌田さんと木村さんが近い関係というのもあるんだろうけど、アポなしなのに木村さんの家なのに、木村さんを無視しているような気がして僕はなんだか嫌になってひとり撮影を見ないで坂を降りた(古川さんには僕のICレコーダーを渡していて、ずっとRECにしていたから僕がいなくても録音できていたのもあるが)。
ご挨拶をして、横に座らせてもらって犬を撫でながらお話を聞かせてもらった。残念ながらその話は僕だけしか聞けなかった。もともと国道6号線の帰還困難区域を含んだ前後ではGotchことアジアンカンフージェネレーション後藤正文さんも一緒に歩く予定だった。しかし、コロナの影響などもあって後藤さんは福島に来ることができなかった。
古川さんと後藤さんは以前に木村さんにお会いしていると聞いていたので、僕は「ほんとうはゴッチさんも一緒に歩かれる予定だったんですよ」と木村さんに伝えるとアジカンの話になって、一番好きな曲は『海岸通り』だと教えてもらった。
歌詞の中に「夕凪の最後には優しく揺らぐ風 海岸通りに春が舞う」とあり、「歌詞の中に「ゆうな」って入っているでしょう」と教えてもらった。
『海岸通り』はまさしく海岸の話であり、春の話である。この曲自体は東日本大震災前の2004年に出たセカンドアルバム『ソルファ』に収録されているから、前から木村さんが知っていたなら、その歌詞の意味も沁み入り方もあの日からだいぶ変わったのかもしれない。
その後、ツイッターでゴッチさんには木村さんが歌詞の中に娘さんの名前が入っていて一番好きだと言われていたと伝えた。彼はこれからも大事に歌っていきますと僕もリプライをくれた。
この記事を読んでそんなことを思い出した。たぶん、このことは前にも書いたと思うけど、『ゼロエフ』には書かれていない僕のエピソード。

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1月19日
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田河水泡著『少年漫画詩集(復刻版)』を読む。去年、書店で見かけて資料として買っていたもの。しかし、買っておいてなんなんだが、今これ需要あるのか謎さもある。
田河水泡については『みずのあわ』というタイトルで小説を書きたいなと思っているのだけど、全然書けないので「講談社漫画原作大賞」という賞に企画書を送ろうかなと思って、ちょこちょこやっている。田河水泡の歴史を考えれば講談社の何らかの賞に送るのがどう考えてもまっとうというか。
この詩集読み終わったけど、おそらく田河が幼少期に見たような景色とか感じたような気持ちが表現されているのだが、どこか物悲しい。彼の出自というか育った環境が出たんだろうと思う。
田河水泡は生まれてすぐに母親が亡くなり、父が再婚するため伯父夫婦に預けられて育った。伯父が落語に出てくる大家さんみたいな人だったという。彼が落語や講談が好きだった影響を高見澤仲太郎(田河水泡の本名)も受けていて、そのユーモアのセンスが『のらくろ』に活かされていると言われている。
個人的には大塚英志チルドレンなので、大塚さんに何度か新刊が出た際にインタビューに呼んでもらった時にお話を聞いていたことが田河水泡に興味を持った。
大塚さんは民俗学の始祖である柳田國男の孫弟子というかそういうラインにいて、日本の民俗学の最初にいた柳田國男折口信夫小泉八雲が出てくる「民俗学三部作」などの原作を手がけている。それをKADOKAWAから出している皮肉にKADOKAWAの社員って誰も気づかないんだよなと愚痴ってもいたが。
KADOKAWAの初代である角川源義は折口門下であり、二代目の角川春樹(この名前は島崎藤村の本名の島崎春樹から取られている)とどこかのパーティーで口喧嘩になって「じゃあ、おたくでメディアミックスやってるよ」と大塚さんが言って、デビューして間もない田島昭宇さんと藤原カムイさん連れて徳間書店から角川書店に活動の場所を移した。
結局、三代目となる角川歴彦を周辺にいたメンバーで担いでメディアワークスを作るという角川お家騒動にも関わることになる。そういうことも含めて、KADOKAWA大塚英志をめぐる物語の始まりには民俗学というものがある。
その3人の民俗学者は「捨て子」幻想を抱いていた。実母が自分の母ではない、自分には本当の母がいる、本当の故郷があるという想い、かつては「あんたは橋の下に捨てられていた」と言われていたことに通じるもの。
夏目金之助も生まれてすぐ里子に出され連れ戻されるが、すぐに養子に出される。近代文学を代表する夏目漱石もまた「捨て子」であったと言える。日本の近代って「捨て子」たちの自分探しであり、母なるものや家を再構築する物語だった。と考えるのであれば、田河水泡もまさにその一人だと言える。ポストモダンっていうのは彼ら「捨て子」たちが作ったシステムが常態化して、時代に合わなくなっていくというものだったのだろうけど、その呪縛は強すぎて歪な形だけが残骸として残ったという気もする。
漫画の神様と言われる手塚治虫でさえ、幼少期には『のらくろ』を真似て描いていた。神様の父ならば漫画のゴッドファーザー的な存在と言えなくもない。
と考えると田河水泡について描くことは日本の近代を描くことになる。彼の人生は波乱に満ちていて、いろんな創作に関わっている点もおもしろい。
仲太郎は生まれて一年ほどで実母が亡くなり、父の再婚のために伯父夫婦に育てられる。伯父の息子であり、浮世絵の複製版画の仕事をしていた従兄の高見澤遠治に絵の道具一式を買ってもらったりしたことがのちに絵描きとなるきっかけとされている。
しかし、父も伯父も彼が大人になる前に亡くなり、尋常小学校を卒業してからはすぐに働くしかなかった。その後、徴兵されて朝鮮と満州に渡る。除隊後には日本美術学校図案科に入学して、抽象画を描くようになり、前衛芸術集団「マヴォ」に参加している。このころは「高見澤路直」と名乗る。
マヴォ」は関東大震災の直前に村山知義の呼びかけで結成されており、仲太郎は熱心には参加していなかったと言われているが機関誌『マヴォ』の表紙の抽象画をデザインしたり、メンバーとパフォーマンスをしている写真などが掲載されている。つまり、なんだかんだ言って楽しんでいるし、青春を謳歌しているのが感じられる。大学時代には大御所になっていた竹久夢二を呼び出して露天で売っていた自分達の絵を買ってもらった上にお酒を奢ってもらっていたりする。
大正15年にのちに講談社となる大日本雄辯會講談社にアポなしで行って自分の書いた創作落語を持ち込み、『面白倶楽部』に掲載(採用)され、落語作家として「高澤路亭」を名乗るようになる。創作落語として『猫と金魚』という落語を残している。
創作落語を持ち込んで2年後の昭和2年講談社の雑誌に漫画を描き始めるようになる。落語の原稿の隙間にイラストとかを描いていて、美大出身だから絵が描けるし、漫画も描けるんじゃないと編集者に言われたらしい。
そんなわけで本名の「高見澤」のもじった当て字で田川水泡(た・かわ・みず・あわ→たかみざわ)を漫画家としての筆名にするが、周りは(たがわすいほう)と読み、訂正をしなかった。その後、田河水泡(た・か・みず・あわ→たかみざわ)に変更するも読み間違いと誤植が多く、結局本人もタガワスイホウと書くようになって定着した。出世魚みたいに名前が何度も変わる。
企画書に書くものをメモがわりに書いていたら長くなった。

 

1月20日
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夕方からのウェブ面談が終わったのでニコラに行く。外はかなり寒い、翌日からまん防になるということで飲食店はお酒は20時で営業時間は21時までになってしまう。もともと面談が終わったあとには行こうと思っていたのだが、ちょうどその前日になってしまった。
お腹が空いていたのでさわらと菜の花のリングイネロゼワインを最初にいただく。菜の花のわずかな苦味がさわらの甘みをより強くさせてくれるみたい。食後にはバレンタインブレンドを飲む。最近書店で見かけて気になっていた中島らも著『僕にはわからない』をお借りした。

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「あなたという存在とこの世界とは、互いに混ざり合い、溶け合っている」という印象に残るフレーズがある中島らも著『僕にはわからない』収録「がんばれダーウィンⅢ」というエッセイ。このページの前には今考えるとそれって3Dプリンターだよね、ということがコンピューターの世界も「実在」であるという話から展開されていた。最初に出版されたのが1992年だと考えると改めてすごい。


1月21日
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上空で燃料が底をつき、エンジンが一基ずつ停止を始めた航空機のコクピット。ただ独り残ったハイジャック犯である僕は、ブラックボックスに自身の半生を物語る。カルト教団で過ごした過去。外の世界での奉仕活動。とある電話を通じて狂い始める日常。集団自殺で崩壊した教団の生き残りとしてメディアから持て囃される狂騒。それら全てが最悪の方向へ転んでしまった人生を――『ファイト・クラブ』を超える傑作カルト小説

チャック・パラニューク著『サバイバー』を購入。『ファイト・クラブ』の3年後に発表された作品の新訳版、解説が北村紗衣さん。おもしろいといいのだけど。

 

1月22日
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積読していた『1920年代の東京』を読み始め、いろんな本を併読しながら読むタイプ。小林秀雄中原中也とかのことも知りたいというのはあるのだけど、やはり震災後の文学に関わる人たちの動きとモダニズムについて知りたくて買った本。

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『協奏曲』懐かしいと思って一話から見始めたが、脚本がずっと遊川さんだと思ってたけど違う人だった。なんで勘違いしたままだったんだろう。
個人的には二十代前半まで野島伸司信者だったので、田村正和主演だと『美しい人』が一番好きだし(あの時の常盤貴子さんは最高に美しかった)、最後に主人公が壊れてしまう辺りに惹かれてしまうというかシンパシーを感じる辺りが僕のダメな部分なんだろうな、と思うぐらいは時は経った。
たしか『協奏曲』はわりとシンプルな三角関係で、田村さんとキムタクはある種の師弟関係になったような気がする。この前の1995年はキムタクと浜ちゃんで『人生は上々だ』が同じくTBSでやってたけど、この頃のキムタクは年長者を相手に彼らからなにかを受け継ぎ(影響を受けて)、彼らを越えていく若者みたいなポジションだった気がする。

 

1月23日
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昨日散歩がてら行った書店で購入した穂村弘著『もうおうちへかえりましょう』を読了。穂村さんの歌集や短歌に関係する書籍を何冊か買っていて、『短歌の友人』という文庫を読み始めたのだが、どうもあまりうまく読み進められないので、このエッセイを先に読んでみようとこちらを読み始めたらすぐに読み終えてしまった。
年齢的に僕よりも20歳上の穂村さんは1970年代が思春期であり、1980年が大学生から社会人になっているので、村上春樹直撃世代だった。このエッセイにも書かれている村上春樹カンガルー日和』の話の部分における村上春樹さんの文体とその影響が穂村さんたちの世代に直撃してしまった光と闇について書いているのはおもしろしかった。
また、穂村さんの文章を読んだ人が会った際に「意外と背が高いんですね」と言われる話も興味深い。穂村さんの文章を読んでいる人は、今は違うだろうが当時は小太りの人となぜか思っていたのではないかと本人が推測している。なるほど、その人が書く文章からイメージする書き手の人物像というのは確かにあるような気がする。
固いというか隙のないような文体で小説を書いている人が意外にポップな服装で明るかったら、「へえ、意外と怖くないんですね」とか言ってしまいそうだ。

今日は「メルマ旬報」の原稿締め切りなので、元旦に行った「晴海客船ターミナル」について書いてみようと思う。

今月はこの曲でおわかれです。
Robert Glasper - Black Superhero (Official Music Video)



The Weeknd - Sacrifice (Remix) ft. Swedish House Mafia (Alternate World)



Little Simz - Point And Kill feat. Obongjayar (Official Video)

Spiral Fiction Note’s 日記(2021年11月24日〜12月23日)

水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」


ずっと日記は上記の連載としてアップしていましたが、日記というか一ヶ月で読んだり観たりしたものについてものはこちらのブログで一ヶ月に一度まとめてアップしていきます。

「碇のむきだし」2021年12月掲載 2021年映画ベスト10


先月の日記(10月24日から11月23日分)

 

11月24日f:id:likeaswimmingangel:20211125201828j:plain
矢作俊彦著『ららら科學の子』の文庫版が届いた。注文したことを忘れていた。
Twitterで前に「ALL REVIEW」で豊崎由美さんが紹介されていたのが上がっていて、気になったのでAmazonで中古で頼んでいた。届いて帯文を見てしったのだけど、この作品って「三島由紀夫賞」受賞作だったんだ。映画化っていうのはたぶん流れたんだろう、まったく聞いたことがない。

バブル景気という誇りなき見せかけの勝利に酔った挙げ句の、行き当たりばったりの九〇年代。そして、未来に何の展望も抱けない現在。この小説で、矢作さんは「もう終わったんじゃないの、日本は」という厳しい最後通牒を突きつけている、わたしにはそう読めるのだ。

 

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14時から竹橋駅直結のパレスビルにあるメディアドゥ本社に出社した。
「エブリスタ」の親会社が株式譲渡によってDeNAからメディアドゥに変わったため、転籍などの手続きがあり、すでに面談などはすんでいるが書類を持っていき、会社を案内してもらった。たまたまだが、社内には手塚治虫作品がいろんな出版社から出されたものがどんだけあるんだというぐらい陳列されていた。

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竹橋駅から電車で帰ってからリモートワークをしてからニコラへ。
猪のラグーとなると金時のスパゲティとトスカーナの赤ワインをいただく。猪が山から降りてきて畑の芋とかを掘って食べたりする、からその猪とサツマイモを一緒にして食べるという曽根さんの文学的な発想の料理。
さつまいもが甘くて、猪は臭みもなくて美味しい、そこに赤ワインが口の中でくわわるととてもそれぞれの味が際立ってより美味しさが増した。

 

11月25日

作品に寄り添うとどうしてもイラストレーションが増えていくでしょう。寄り添うというのはテキストの内容にというだけではなくて、営業の方や編集者などみんなが安心するものに寄り添うという意味も含めて。どんどん角が丸くなって、個性を削いでいくことになる。後で詳しくお話しすることになるかと思いますが、僕はそうなるのがいいか悪いかで言うと悪いと思っています。

今、純文学や人文書は売れないけどビジネス書のタイトル数は増えていて、ベストセラーになるのもそういう本が多くなっています。アマゾンなどのベストセラーランキングを見ても分かる通り、そういう本にはデザイナーの作家性はほとんど必要とされていなくて、頑固に主張をしない人に仕事が行きます。そことは逆にいかなきゃいけないという思いがあって、デザイン案も一つしか出しません。電子書籍の需要が増えてきて、雑誌もウェブに移行するか休刊が相次いでいます。紙である必要がない本は電子書籍に食われていくのは目に見えています。言葉は悪いですが、作家性を獲得できていないデザイナーの仕事も電子書籍やウェブに食われてまうだろうという危機感が先ほどから申し上げている勝手な戦いを支えている感じです。ビジネス書は回転が速いので、数日〜数週間で書店に置かれなくなりますが、タイトル数が多いので受注する数も多くなります。そういう本を作り続けることが人の営み、デザイン事務所の営みとしては正しいと思いますが、そこを追いかけていてはデザイナーとしての成長はないというか、目的が変わってしまう。仕事を成り立たせるスキルは上がるけど表現者としての力はつかないと思います。

装幀家の水戸部功さんのインタビュー。古川日出男作品では『南無ロックンロール二十一部経』『とても短い長い歳月 THE PORTABLE FURUKAWA』『大きな森』『ゼロエフ』など何作品も担当されているのもあって、知っている方でもあるし、水戸部さんの師匠である菊地信義さんのドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』も以前観に行っていて、その作品でも装幀について話されていて勝手に親近感を持っている。
水戸部さんが手掛けた装幀は書店でふと目をやる、手に取ってしまう、知らずと惹かれてしまうものが多く、書籍を開いて装幀が誰かを見るとたいてい水戸部さんだったりする。このインタビューを読むとよりその姿勢がカッコいいし、いつか自分のものも手掛けてもらえるようになりたいと思う。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」12月号が公開になりました。12月は『彼女が好きなものは』『ラストナイト・イン・ソーホー』『偽りのないhappy end』『エッシャー通りの赤いポスト』『明け方の若者たち』を取り上げています。

 

11月26日f:id:likeaswimmingangel:20211126210234j:plain
ヴィム・ヴェンダース監督『都市とモードのビデオノート』をば。ヴィム・ヴェンダースレトロスペクティブの七作品目。あとは『東京画』『夢の涯てまでも ディレクターズカット』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』。
『都市とモードのビデオノート』はファッションデザイナーの山本耀司さんを追ったドキュメンタリー。ヨウジヤマモトの服は持ってないので、ヨウジヤマモトブランドのひとつ「Ground Y」のカーディガンを着て観に来た。

『都市とモードのビデオノート 4Kレストア版』
1989/西ドイツ・フランス/カラー/スタンダード/81分
出演:山本耀司ヴィム・ヴェンダース
企画:ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター
パリ、ポンピドゥー・センターからの依頼により、“黒の衝撃”で世界を席巻したファッションデザイナー、山本耀司のパリ・コレクションの準備過程を追ったドキュメンタリー。旧型のフィルムカメラとビデオカメラが入れ子状に組み合わされた大胆な構成と、監督との対話によって、山本耀司の服作りからファッションに対する真摯な姿勢が紡ぎ出される。

ビデオカメラのざらついた映像、小さな画面の再生機に映る山本耀司氏の姿、その画面の奥に大きなモニターで別の風景を映し出したり、あるいはパリの道路を固定カメラで撮っている映像だが、ヴィム・ヴェンダース監督の手にあるHi8などのモニターに映る東京での高速道路や街を映したものをさらにもう一台で撮っている映像など、現在のように映像編集が進んでいなかった時代だが、意図的にモニターが重ねられている。そして、アナログテレビなどにあった砂嵐の状態の画面が使われていた。かなり実験的な映像にしようと監督が試みていたのを感じた。彼のモノローグというか語りもよかった。
山本耀司氏のインタビューを聞いていると、服ではなく人生を着ているかどうかなど彼の話をもっと聞きたいし知りたくなった。彼が服を作る際に参考にしていたのがアウグスト・ザンダー撮影『20世紀の人間たち : 肖像写真集 1892-1952』だった。表紙の写真は有名で、リチャード・パワーズ著(柴田元幸訳)『舞踏会へ向かう三人の農夫』の装幀写真にも使われていたので僕でも知っていた。

f:id:likeaswimmingangel:20211126211856j:plainアニメ『平家物語』#11「諸行無常」鑑賞。終わった〜、先行配信を見るために入っていたFODを解約した。
2022年1月からフジテレビの深夜アニメ枠「+Ultra」で放送されるので、FOD入らなくても来年からふつうに見れるので、興味ある方はぜひ。


2016年12月に古川日出男訳『平家物語』が刊行されて、その発売の翌日ぐらいに「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」第2期完結記念トークイベント「今の言葉で古典! 枕草子から平家物語まで」というものがあった。その翌月から古川さん夫婦はロサンゼルスに行くことになっていた。古川さんがUCLAで講義をするために。その12月中に『平家物語 犬王の巻』を古川さんは書き上げて渡米した。帰国後に『犬王の巻』は発売された。
そのイベントの帰りの中の電車でロサンゼルス遊びに行ってもいいですか?と聞いて、準備を始めた。2017年1月にトランプが新大統領に就任することは決まっていたから、トランプ政権になったアメリカとはどういうものなのか見て、感じてみたかった。そう考えると4年はあっという間だった。
平家物語』も2022年からフジテレビでアニメが放映され、湯浅監督による『犬王』のアニメ映画が公開される。正直なところうれしいようなムカつくような複雑な気持ちが入り交じる。

 祇園精舎の鐘の音を聞いてごらんなさい。ほら、お釈迦様が尊い教えを説かれた遠い昔の天竺のお寺の、その鐘の音を耳にしたのだと想ってごらんなさい。
 諸行無常、あらゆる存在(もの)は形をとどめないのだよと告げる響きがございますから。
 それから沙羅双樹の花の色を見てごらんなさい。ほら、お釈迦様がこの世を去りなさるのに立ち会って、悲しみのあまりに白い花を咲かせた樹々の、その彩りを目にしたのだと想い描いてごらんなさい。
 盛者必衰、いまが得意の絶頂にある誰であろうと必ずや衰え、消え入るのだよとの道理が覚れるのでございますから。
 はい、ほんに春の夜の夢のよう。驕り高ぶった人が、永久(とこしえ)には驕りつづけられないことがでございますよ。それからまた、まったく風の前の塵とおんなじ。破竹の勢いの者とても遂には滅んでしまうことがでございますよ。ああ、儚い、儚い。
古川日出男訳『平家物語』より

 

11月27日f:id:likeaswimmingangel:20211127201225j:plain
町屋良平著『1R1分34秒』文庫版。芥川賞受賞作。単行本のときとは打って変わってポップな装丁イラストになっていた。町田康さんの解説がよかった。

f:id:likeaswimmingangel:20211127201253j:plainヴィム・ヴェンダース監督『東京画』をル・シネマにて。土曜日で15時40分からの回だったがほとんど埋まっていた。レトロスペクティブも第二部に入ったが、観に来やすい時間っていうのもスケジュールみるとわりと限られているから仕方ないのだろう。

『東京画  2Kレストア版』
1985/西ドイツ・アメリカ/カラー/スタンダード/92分
出演:笠智衆厚田雄春ヴェルナー・ヘルツォーククリス・マルケル
1983年4月、東京で開催されたドイツ映画祭のために来日したヴェンダースは、小津安二郎の描いた“東京”を探して街をさまよい歩く。撮影のエドワード・ラックマンと録音のヴェンダース二人だけの旅は、パチンコや竹の子族食品サンプルなど当時の“日本的”なる風景を写し、『東京物語』主演の笠智衆、小津組の名カメラマン厚田雄春との対話を通して、小津の“東京”と、近代化した当時の東京を描き出す。

前日の『都市とモードのビデオノート』同様に東京も舞台になるドキュメンタリー的な要素が強い作品であり、音楽がファミコン的な80年代のコンピューターゲーム的な電子音みたいな感じで、レトロフューチャーって感じがすごくした。
撮影は1983年とかだと最初にあったと思うが、街の風景が懐かしく感じてしまう。僕が生まれてすぐの頃だが、東京も今みたいになる手前でなにかいびつさを含んでいて、今よりも未来都市っぽい。

 

11月28日

NY発・クリエイティブなプロジェクトに年間約800億円(2020年実績)の支援金が集まる、世界最大のクラウドファンディングサイト[Kickstarterキックスターターは“クリエイターによる” “クリエイターのための” グローバルプラットフォーム。
バッカー(支援者)の数は世界中に2000万人超。
講談社は2019年からグローバルパートナーシップを締結しています。
2021年10月1日より講談社クリエイターズラボはKickstarterと、クリエイターが夢を実現するためのコンテストを共催いたします!
Kickstarterでプロジェクトを立ち上げて「世界デビューを果たしたい!」というクリエイターを大募集中です!!

朝起きて昼過ぎまで、この「講談社クリエイターズコンテスト」に送る用の企画書と資料を作成した。昔小説を書こうと思って集めたり、話を聞いていたものを改めて形にしたいと思ったのが大きい。「初生雛鑑別師」について以前は小説で書こうと思っていたのだが、去年取材に同行した古川さんの『ゼロエフ』体験もあり、ノンフィクションで書いてみたいという気持ちになっていた。応募したがさて、どうなるのか。
講談社の企画だけど、来年の2月にはメフィスト賞の〆切があるので、そこも応募しようと思っているし、なんらか繋がったりいい流れになるといいのだけど。

 

11月29日
水道橋博士のメルマ旬報』連載「碇のむきだし」2021年11月29日号が配信されました。今回は「『藝人春秋Diary』書評のようなもの」です。ほかにも兼近大樹著『むき出し』、加賀翔著『おおあんごう』、古川日出男著『ゼロエフ』などを取り上げています。


朝から晩までリモートワーク。
作業中はずっとParaviで『あちこちオードリー』を流していた。オールナイトニッポンチームの人はゲストで来ているからJUNKのレギュラー陣とかも出てもらいたいな。

 

11月30日
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乙一著『一ノ瀬ユウナが浮いている』を読み始める。
若干17歳でデビューした乙一さんのデビュー作『夏と花火と私の死体』を彷彿させる花火と幼馴染の幽霊の話。もともとはアニメ映画『サマーゴースト』の脚本を乙一さんが手掛け、そのノベライズもしているのだが、その作品の姉妹作として書かれている。
だが、ややこしいのは映画の脚本では本名の安達寛高名義で、ノベライズは乙一になっている。
もともと乙一(安逹寛高)さんは山白朝子、中田永一名義でも執筆している。最近では中田永一名義のほうが発表作が多くなっているような気もする。本名の安逹寛高だと映像関係で監督や脚本をやっている。昔はいたんだろうけど、近年で複数のペンネームで作品をこれだけ発表している名前がそもそも売れてる作家というのはほとんどいない気がする。
僕が20になる手前ぐらいで小説を読み始めた時に伊坂幸太郎さんと乙一さんだったが、乙一さんはハートフルだったりホラーとラノベでも違うタイプのものも書いていた。ラノベ出身の作家(米澤穂信桜庭一樹など)が一般小説に移っていく時期だったこともあって、僕も移行したあとの彼らの作品を読んでいて、乙一さんもどっちかというとラノベから移行していったように見えた。もともと僕が読んでいたラノベ大塚英志関連作しかなく、あとは乙一さんぐらいしかいないので、スニーカー文庫電撃文庫系の作家はまったく読んでいない。
『花束みたいな恋をした』の麦と絹にとって「神」だった押井守乙一さんには義理の父だが、映画についてとかの対談とかしてほしい。

堤幸彦監督『恋愛寫眞』(主演:広末涼子松田龍平)という映画自体は失敗作だと思うが、コラボレーションした市川拓司著『恋愛寫眞 もうひとつの物語』という小説はとてもできがよくて、結局その後、それを元にして映画『ただ、君を愛してる』(玉木宏宮崎あおい)が作られた。
ということが強く印象に残っているので、この姉妹作『一ノ瀬ユウナが浮いている』も映画で公開されている『サマーゴースト』とは別にアニメなのか実写なのかわからないが、映像化したらヒットしそうな感じがする。
でも、『ただ、君を愛してる』は恋をすると死んでしまう病の女の子の話だったし、この『一ノ瀬ユウナが浮いている』は主人公の幼馴染の女の子も高校生で死んでいるが、幽霊となった彼女との交流になっている。もう、主人公とヒロインの関係性はほぼ絶対的なもので、他者は入り込めない。
わかるんだけどなあ、なんだろうなあ、エモさって喪失感とセットだったり結びついているからそういう設定としては物語としても確かだし強固なんだけど、自分が中年になってみて考えてみるとそれってレイプファンタジーに近いような、弱い男性における女性への所有欲と関係しているとかいろいろ考えちゃうんだよなあ。
『一ノ瀬ユウナが浮いている』は中盤だからどう着地するかはわからないけど。

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2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件に触発された野田秀樹が、筒井康隆の小説「毟りあい」を題材に、イギリス・ロンドンで現地演劇人とワークショップを重ねながら書き下ろした英語戯曲。2006年にロンドンで初演され、2007年には日本語版が東京で上演された。

平凡なサラリーマン・井戸が我が家の前で遭遇したのは、警察とマスコミの喧騒だった。脱獄囚・小古呂が井戸の妻子を人質に取り、井戸宅に立てこもっていたのだ。井戸は妻子を救出しようと、どこか頼りない警察と共に行動を起こすが、事態は思わぬ展開を迎える。

たった四人しかいない出演者、阿部サダヲさん以外の三人は一人何役かを兼ねる。舞台装置はほぼなく、大きな真っ白な紙が天井からぶら下がっていて、舞台の前方まである。そのうえで展開されていく。真っ白な紙にプロジェクトマッピングのように映写されるドアやテレビなど、シンプルだが紙という特質を使うことで舞台の小道具にも変わっていく。
妻と息子を人質に取られた井戸は小古呂の妻子がいる家に刑事と出向くが、小古呂の妻は夫を説得してくれるように井戸が頼んでも断る。刑事をバットで殴り倒し拳銃を奪った井戸はそれを持って小古呂の妻を脅すことになる。被害者家族であった井戸は自分の家族を人質にとった小古呂と同じことをすることになる。つまり被害者でありながらも加害者へと変貌する。俺は被害者に向いていない、と。互いに家族を人質に取って交渉をするものの、互いに引かないために暴力や悪意は人質である相手の家族に向けられる。小古呂役であり、小古呂の子供を川平慈英さんが演じているので、その一場面の中である時はどもりがひどい小古呂になって井戸とやりとりをして、そのまま泣き叫ぶ子供になる。極めて舞台らしい演出と一人の役者が複数を演じることで場面転換をせずに、二つの場面がひとつのシーンの上で共存している。これは観客が舞台というものを見る時における信頼がないと成り立たない部分だ。
小古呂の妻を毎晩犯し、小古呂の子供の指を一本ずつ切り落として警察に自分の家に立てこもっている小古呂に届けされる。相手も一本ずつ指を送り返してくる。それがルーティン化していく、子供は治療もされずに死んでしまう。小古呂の妻はその狂った環境の中で自分で股を開いていたが、その指さえも今度は井戸に折られていく。部屋に入っていたハチの羽音が複数に重なっていく、すべてが破壊されて報復が報復しか生まずに終わっていく。
9.11のアメリカ同時多発テロ事件に触発されたことで作られたというのも観ているとわかるし、マスコミというかメディアによって伝えられるものは正しさばかりではなく、好奇心や悪意など被害者であるものを苦しめて、それを見て満足する名もなき視聴者たちがいる。それがネットでも変わらない。悪意は伝播してさらに被害がただ弱いものへ弱いものへ向けられていく、その悪循環。しかし、この暴力性と悪意はある種わかる。怖いけれども暴力はいつもそこにあり、いつでも被害者になり、加害者に僕らはなってしまう。

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小泉今日子著『黄色いマンション 黒い猫』新潮文庫版。
数年前にSwitchから出た単行本を読んでいたけど、今改めて文庫版を読んでみたら以前よりも沁みるというか、ほんとうにいいエッセイだなあ、と思った。
アイドルの歴史には「花の82年組」という言葉があり、小泉さんはその代表的な人だ。82年3月生まれの学年は81年組な自分は、「花の82年組」と聞くと、この人たち自分が生まれた年にアイドルになったのかぁ、と不思議な気持ちになる。彼女たちや彼らたちの全盛期は記憶にはない、脱アイドルとして生き残ったごくわずかな人たちの過去として紹介されるVTRの中で見ただけだが、たしかに自分はその時には生まれていたはずだから。
1982年生まれは来年40になる、つまり彼女や彼らのデビュー40周年である。長く続けること、生き延びること、人との出会いと別れのことがこのエッセイには書かれている。
小泉今日子さんは坂元裕二さんの朗読劇と坂元裕二さんが戯曲を担当された舞台でお見かけしたことがあるが、周りの人がキョンキョンだ!(めっちゃうれしい)となっていてスターとはこういう人なんだな、と思った記憶がある。

 

12月1日
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12月に突入した。今月は「太宰治賞」が10日に〆切なのでそれぐらいで、あとは少しだけある原稿〆切とリモートワークでの仕事の隙間でどうやっていくかというスケジュールを組まないといけないが、後半はしんどくなりそうなので早めに処理したい。
「monokaki」で取り上げるので何年か前に一度読んでいる保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』を再読し始めた。数ヶ月前にブックオフでかなり美品で見つけて買っていた『小説の自由』『小説、世界の奏でる音楽』『小説の誕生』も読み始めるタイミングかもしれない。

朝から晩までリモートワークだった。先週、口唇ヘルペスができていたので、あっストレスたまってるわと思ったので昼休憩の時にのんびり息抜き。ストレスたまるとすぐに口唇ヘルペスができる。わかりやすい身体。

 

12月2日
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最果タヒ著『神様の友達の友達の友達はぼく』を休憩中の外出で購入。いい装幀だ。祖父江慎さんとコズフィッシュ。久しぶりに最果さんの書籍を買った気がする。今はなんだかエッセイとか読みたい期間なんだよなあ。
たまたまだけど、昨日から再読し始めた『書きあぐねている人のための小説入門』の著者である保坂和志さんが帯を書いていた。勝手にシンクロを感じてしまった。家に帰るまで帯文誰が書いているか見てなかった。

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神田桂一著『台湾対抗文化紀行』が出ていたので購入。
台湾には行ったことないのでどんなことが書かれているのかたのしみ。
台湾というとこの数年だとそれまで観ていなかったエドワード・ヤン監督『台北ストーリー』『牯嶺街少年殺人事件』を劇場で観たり、『台北暮色』という作品も観た。小説家でいうと邱永漢著『香港』と呉明益作品は二冊ぐらい読んだぐらいだろうか。
新型コロナウイルスの新たな変異株「オミクロン株」によって、空の向こうに飛び立つこと、そして戻ってくるのは難しくなりそうだから、紀行文とか旅行記を読むっていうも乙なのかもしれない。
台湾も日本も島国だから、外界と閉ざされると簡単に孤立する。だからこそ、内側と外側への想像力が必要になるし、そこから飛び出していった人たちがいた。
先月、自分の大叔父の初生雛鑑別師のことについてまとめていたのでそんなことを思ったのかもしれない。

ササダンゴ:藤井さんって人間の悪い部分とか醜い部分を煮詰めて凝縮したような番組を作っている印象があるんですけど、それでも実は藤井健太郎っていう人間の中では社会性のある、人に見せても良い部分だけを出していて、表に出しちゃいけない部分はちゃんと隠しながら作っているんですよね、『水曜日のダウンタウン』とかも。その辺のバランスが本当に秀逸だなと思っています。

— 時代によって必殺技の流行り廃りみたいなものがあるんですね。

ササダンゴ:ありますね。けど、一番大事なのは人と被らないこと。オリジナル技が大事なんですよね。それこそ、ただのエルボードロップも魅せ方を工夫するだけで、ピープルズエルボーになる訳ですから。そういう意味では、武藤敬司さんの必殺技とかは圧倒的にオリジナリティが高いですよ。ピープルズエルボーですら、武藤さんのフラッシングエルボーをベースにしている部分はあるので。ここ30年くらいのプロレス技の基盤にあるのは、間違いなく武藤さんの技です。

藤井健太郎のoff-air 第7回:スーパー・ササダンゴ・マシンより


夜はイゴっちとニコラでおいしいお酒とおいしい料理をたのしみながらたくさん話をして、なんか憑いているものが落ちるというかよい気分転換になった。信頼している、この人には何でも言えるという人と実際に会って話をすることってほんとうに大事だ。

 

12月3日f:id:likeaswimmingangel:20211203143426j:plainf:id:likeaswimmingangel:20211203143442j:plain
『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』を朝イチで観に来た(「エブリスタ」が株式譲渡されたので親会社がDeNAからメディアドゥになって転籍するから、残った有給使い切ってる)。なんかデカいカードくれたけど、ポストカードでこれで年賀状送られたい人いるかな。
映画は犯罪カップルのボニー&クライドみたいな敵キャラと戦うのだけど、話としては大味な感じで。最後にテレビでスパイダーマンが出てきたから1月公開の新作にヴェノムも関わるのかな。どうだろう。唯一いいのはMUC(マーベル・シネマティック・ユニバース)にしては短いってことかな。

『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』観た後に発売日が3日って見てたから買って帰ろうと思ってたオークラ著『自意識とコメディの日々』だが、渋谷の書店何件かアンド池尻と三茶の本屋寄ったけどなかった。
週明けの6日入荷なのか発売ってことなのかな、Twitter見たけど書籍で買えてる人いないし、早くても明日なのかも。Kindle版は出てるっぽいけど、Kindleで読んでも読んだ気がしないから、Kindleオンリーでない限りは書籍で買って読みたい。
来週の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』にオークラさんがゲストだからそこには間に合うだろうけど、今日深夜に『バナナマンのバナナムーンゴールド』あるのに。たぶんリスナーは仕事帰りとかに買って帰って読みつつ、ラジオを聴きたいだろうし。深夜聴けなくても土日で本を読んでラジオを聴きたいはずだから、今日書店に並んでないといけない書籍ではあるんだが。
発売前重版かかったから発売にに並ばないっていうことってあるのかな。

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松本直也著『怪獣8号』5巻読了。この巻から新キャラとして第1部隊隊長の鳴海玄(表紙)が登場、実生活はダメダメだが対怪獣への戦闘能力は最強クラス。怪獣8号であることが防衛隊にバレた主人公の日比野カフカは防衛隊隊長である四ノ宮功に戦力として処分されずに活かされ、第1部隊に所属することになったが、現れたのは人間に擬態できる怪獣8号だった。
5巻で累計550万部突破と破竹の勢いで『少年ジャンプ+』発のヒット作となっている。同じく『少年ジャンプ+』発のヒット作『SPY×FAMILY』が来年からアニメ化なので、この二作品がどこまで広がっていくのか。
個人的にはジャンプ作品はハマらないのだけど、『怪獣8号』だけ読めているのは不思議だ。内容もだけどこの絵を自分は受け入れれるというのもあるんだろう。

 

12月4日
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ヴァニラ画廊で開催中の「田島昭宇 画業35周年記念展<Side: B>『冬暮れの金星』」サイン会に行ってきた。今回の目玉になっている画集『冬暮れの金星』は幻冬舎から出ていた『パピルス』に掲載されていたものと、同じく幻冬舎文庫で出ていた清涼院流水著『トップラン』&『トップランド』の装幀イラストなどが収録されているもの。
なつかしい。『パピルス』はたまに買っていたけど、田島さんのイラストは見てたし、『トップラン』&『トップランド』も装丁買いしていた。
田島さんにサインしてもらっている時に話したのだけど、来年『多重人格探偵サイコ』の25周年らしい。まあ、僕が高一になる時にスタートしているからそのぐらいか。
でも、田島さんに中島さんとcakesでインタビューに行く前に初めてお会いしたのは『多重人格探偵サイコ』の終わりの数巻が出るごとのサイン会だったから、連載が長かったから間に合ったところもあるんだよね。1996年スタートで2016年終了だから20年連載してた。
好きなクリエイターにはしっかりお金を払うしかないというのがずっと読者だったりの側の僕の気持ちで。だから小説だったら好きな作家は単行本持ってても、文庫版が装丁もそのまんまで解説もあとがきもなくても買うのはある種のお布施で、少しでも金を〜という感じ。
漫画家さんのこういう場所での展示会&サイン会は基本的にはアイドルの握手会的なアイドル商法に近い。アイドルと握手する話をする写真をとる、そういうことができることに価値がある。漫画家さんだと作品にサイン入れはもちろん、自身の作品のイラストなんかのグッズも展開できるし、単行本だって持っていてもサイン本をということになる。
田島さんは基本的には個展でイラストなんかをもとにしたオリジナルグッズや新しい画集を作成して販売しているし、オリジナルなイラスト原画も価格はかなりするがそれも売っていたりする。こういう時に、それは漫画家さんだからできるんだよなってなんだか思う自分もいる。
小説家ってイベントやろうがサイン会やろうが数が知れてるし、あとは漫画も小説も複製芸術で読者の手元に届くのは元のデータから作ったものだけど、田島さんだったらPC使わずに手で描かれているからオリジナルの原画が存在する。
オリジナルとコピーをめぐる問題っていうのはある時期の、ある世代には大きな問題や主題でもあったんだろうけど、大塚英志さんが原作だけど、『多重人格探偵サイコ』はまさにオリジナルとコピーをめぐる物語だった。西島大介さんの初期の作品もオリジナルとコピーをめぐる問題だった。西島さんの場合は渋谷系の影響が多いから、サンプリングや元ネタというものがどうしても作風に入ってきてた。
エヴァ』だって庵野さんが好きなものが核にあって、その影響を受けたものを考えれば、その庵野さんが『ゴジラ』『ウルトラマン』『仮面ライダー』を「シンシリーズ」でやることでオリジナルとコピーをめぐる問題はすでに飽和して無効化しているようにも思える。
まあ、小説と漫画はアプリやデバイスで読むのはやっぱり目が滑るのでできるだけ紙で買いたい。書物ってただそこに存在していることに価値があって、デバイスとかネットワークの中にデータだけあってもハードがなければ読めないからやっぱりハードとソフトを兼ねる書物には勝てないんだよね。まあ、いろんなものがフリーになっていけば飯食えなくなる人が増えるわけで、フリーになった分いろんなものが変わりに奪われていくのもなんか解せない。

田島さんにcakesでインタビューさせてもらったのが5年前だった。月日経つのはやっ。


午前中の作業中に深夜の『バナナマンバナナムーンGOLD』聞いてたら、オークラ著『自意識とコメディの日々』は初刷7,000部で予約でほとんど終わって発売増刷で+1,000部でそれもダメで増刷して倍の14,000部になって今刷っている感じらしいことを話されていた。
太田出版どんだけ絞ってたんだろう。期待値が低かったのか、あえて刷り数を少なくして増刷って感じにしたかったのか。
佐久間さんのYouTubeチャンネルでもゲストで東京芸人青春期をドラマでやったらという妄想キャスティングとかしてるし、ラジオでも今まで三回はオークラさんがゲストで話してるし、そこにバナナマンおぎやはぎラーメンズ東京03劇団ひとりザキヤマとかの若い頃の話するんだから、どう考えても売れるのになあ。
勝負は佐久間さんのオールナイトニッポン0に間に合うかどうかな気がする。そこから一気に伸びるか、書店になくて飢餓感じゃなくてがっかり感で伸びなくなるか。

 

12月5日
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ヴァニラ画廊での田島昭宇さんのサイン会まで時間があったのでGINZA SIXに行って銀座蔦屋書店に行って時間を潰してた。

一枚の写真で人生が変わることがある。
 
写真家・藤井保による、JR東日本の広告ヴィジュアル「その先の日本へ。」という、東北の原風景を捉えた作品に心を動かされ、18歳の瀧本幹也は藤井保を師と選び、また藤井保は瀧本幹也を弟子と選びました
 
それから29年の月日が経ち、2019年春、MA2Gallery(東京・恵比寿)から二人展の開催を依頼されたことをきっかけに、二人の写真家による「写真と言葉」による往復書簡がスタートしました。新型コロナウイルスの流行など激動の社会状況の中で続けられた二年にわたる往復書簡。そこには、日常で感じた些細な事、仕事の事、写真への考え方などを互いに伝え合い、率直な意見を述べ合える関係性が紡がれています。

と紹介があったところにこの往復書簡が置かれていたので、このお二人のことはまったく知らなかったのだけど『藤井保 瀧本幹也 往復書簡 その先へ 2019年6月26日ー2021年8月19日』を買ってみた。
師弟関係の写真家が互いに「写真と言葉」を交互に送って対話していくというもの。読み始めたけど、これすごくいい。
師弟関係における往復書簡シリーズとかどこかの出版社でやったら面白いんじゃないかな。例えば、装幀家だったら「菊地信義 - 水戸部功」とかね。漫画家だったらアシスタントがいたら、そういうので師弟関係ってのもいけそうだし、いろんなジャンルでできるし、働き方っていうか思想や生き方がでてきそうで読んでみたい。

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『皮膚を売った男』をル・シネマにて鑑賞。

2011年シリア。サムは不用意な言動から当局に逮捕されてしまい恋人アビールとも会えなくなってしまう。なんとかしてレバノンに出国した時には既にアビールは金持ちと結婚しベルギーへ。難民となったサムは、ある日偶然出会った芸術家ジェフリーから、背中にタトゥーを施し、生ける"アート作品"とならないかとの申し出を受ける。芸術品となれば大金を得ることが出来るが自由は制限される。だが、金もなく国境を越える手段も無いサムは、愛する恋人に会うためにオファーを受ける。難民としては国境を越えられない人物も、芸術品として商品になれば、自由に取引され国境を越えることが出来るのだ。だが、管理されオークションにかけられたサムは精神的に追い詰められてゆく。高額で取引されるサムにはいかなる運命が待ち受けているのか...。

予告編でずっと気になっていた作品。アートの価値、人権&難民問題をある種のダークユーモアを含めて描いてる。
最終的に起こるどんでん返しににも似た展開はシステムに関することで心地良い。社会や法みたいなシステムに組み込まれるしかない人間がシステムを破壊ではなく利用してその枠組みから出ていく。そういう意味では伊坂幸太郎著『魔王』&『モダンタイムス』にも通じてる。

ポール・トーマス・アンダーソン監督最新作『Licorice Pizza』米予告編。
日本でも公開してくれないかな。

 

12月6日
仕事早上がりして三茶から阿佐ヶ谷まで1時間50分ほど歩く。阿佐ヶ谷駅近くのイタリアンレストランで去年の『ゼロエフ』の「国家・ゼロエフ・浄土」パートの阿武隈川取材の打ち上げを古川さんご夫婦と。料理もワインもデザートもすべて美味しかった。ふたりとも久しぶりに来れたみたいでとてもうれしそうなのが見れてよかった。
いわき出身のふたりの『サクマ&ピース』をオススメしてたら二回目以降は間に合ったらしく見て、面白かったとの反応が。
コロナとかで諸々一年伸び伸びになってたけど、ようやく打ち上げできた。長かったようなあっという間だったような。古川さんが訳した『平家物語』が出たのも、そこから派生した『犬王』書き上げたのも2016年末だったから、あっという間だ。トランプが大統領に就任したのが2017年。初めてのロサンゼルス、UCLAに行ったのもその年、あっという間だ。
来年の二月三月に引越し先の東村山市に遊びに行かせてもらうことにした。年始はやっぱり東京五輪終焉後の晴海埠頭見たいから歩くかな。

 

12月7日
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オークラ著『自意識とコメディの日々』読了。オークラさんが『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』に三回ゲストで話をしていた東京芸人青春期をメインとした自伝的なエッセイ。
オークラさんが組んでいたコンビ「細雪」は彼がバナナマンのコントを手伝ったりユニットライブをするようになって、相方が来なくなって終わった。そこからオークラさんはバナナマンを手伝うようになる。相方の人は「A」とイニシャルのみ記載されており、ライブに何も言わずに来ずにそのまま音信不通になった。「A」は当時大学生だったオークラさんより10歳上の元劇団員だった。オークラさんは彼に自分が知らなかったり、リアルタイムでは見れなかった夢の遊眠社など上の世代の舞台や音楽やカルチャーを教えてもらったという。
これは高校生の時に大人計画のワークショップに行った際に少し上の男性から細野晴臣や知らなかった音楽を教えてもらった星野源ともちょっと通じる。ある時期までは年上のお兄さんやお姉さんからふいに、未知との遭遇が起こされてその後の運命が変わる、そんな偶然があった。ネットが出てくると少しは変わったのかもしれない。
「A」が来なくなり、やがてコント作家に放送作家になっていくオークラさんの人生において、「A」がお笑いをやめたこと、なにかを諦めたことはオークラさんの身代わりのようなものだったようにも見える。代わりに誰かが死ぬ(そこから出ていく)ことで人は新しい扉を開く。
バナナマンラーメンズおぎやはぎ劇団ひとりバカリズムアンタッチャブルの山崎、東京03というオークラさんの同世代の近い芸人たちがいたこと、彼らが今に至るまでの青春時代とも言える若手時代のことが書かれているが、彼らは大きな波には巻き込まれなかったし、ある意味では間に合わなかったり、自ら飛び込まなかった。ボキャブラ天国ブームがあった時に彼らはコントや舞台をやることを選んだり、選ぶしかない状況にいた。
大きなムーブメントは時代を作る。しかし、勢いがなくなっていくと一部のものを除いては古いものとなってただ死屍累々の山になって、その上に生き延びた王たちが立つ。
時代を追いかけると基本的には間に合わない。そこはただのレッドオーシャンだ。どんなジャンルでも雌伏して時を待ちながら、中央ではなく周辺からジワジワと真ん中に動いていき、知らない間に中央、中心になる人がいる。その人たちは自分という時代に左右されない武器を持っているから、ムーブメントが起きて消えてもあまり影響を受けなくなる。
この本の中でオークラさんは「細野晴臣になりたい」と書いていて、「ラジカル・ガジベリンバ・システム」みたいな才能をもった人間の集合、アベンジャーズ的なものに憧れている。そういう思いでバナナマンラーメンズおぎやはぎで『君の席』を作ったり、おもしろいカルチャーの融合として『ウレロ☆未確認少女』をやったりしている。
当然だが、大事なのはその時そこに居れるかどうかであり、居なくても「あいつはさ」と認識されている、声がかかる人なのかがデカい。才能が集まる時期というのはどうしてもあって、だけど、集まらない時期のほうが多いわけでもある。たいていの人はそっち側だ。そういう問題というか現実に起きうることについて、「自己啓発本」とかはなにかを肩代わりしてるのかなとふと思った。
松本人志病を患いまくっていたオークラさんたちの世代、僕らもそこだろう。基本的にその病にかかると皮肉的で冷笑的になる。誰かがやっていることに素直な反応を示すことができなくなる。
松本人志病にまったくかかっていなかったおぎやはぎの矢作さんが当時の人力舎内のでアンジャッシュの小嶋派と渡部派に分かれていがみ合っていたところにやってきて、普通に「おもしろいね」と笑い、おもしろくないものにはおもしろくないと率直に告げることでその緊張関係を破った話はとても象徴的だ。そこから矢作さんはみんなに信頼されるようになって、人力舎は仲の良い事務所に変革された。
おそらく、松本人志をある時期からトップにした吉本興業トップダウン的な先輩後輩のピラミッド的な上下関係になった。NSC以前は芸人になるためには師匠に弟子入りするため、まず師弟関係という強固な関係性があり、そこに所属事務所があった。だから、優先すべきは会社ではなく師匠だった。そして、システムを作りゲームマスターでありプレイヤーとして松本さんが君臨することでシステムはより強固で頑丈なものとなり、下剋上は不可能となった。
キングコングの西野さんやウーマンラッシュアワーの村本さんやオリエンタルラジオの中田さんが外側に出ていくのは当然でもある。ゲームマスターに自分がなるかシステムを構築しない限りは松本人志吉本興業から自由にはなれないのだから。
矢作さんが行った変革は違う言い方をすれば、当時の人力舎にいた芸人たちを松本人志病から解放し、その呪縛を解いた。そのことが、現在の『ゴッドタン』など佐久間さんやオークラさんが関わっている番組に出ている芸人さんたちが生き延びて非吉本としてそれぞれが確固たる存在となったようにも思える。
M-1グランプリ」1回目に東京勢として唯一決勝に進出したのがおぎやはぎだった。最低点だったが、彼らがあそこに出たことは反撃の狼煙の始まりだったのかもしれない。

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お昼過ぎにこのところちょっと気になっていた体のことで歩いて行ける距離にある病院にいく。なんとなく思い立ったら吉日というか15時から午後の診察が始まるのというのはネットで見ていて、そこで日中は混み合うときがあると書かれていたので散歩がてらTUTAYAによって『世界の終わりの魔法使い 完全版 5 巨神と星への旅』を購入し、トートバッグには午前中に買っていた『群像』最新号を入れていった。
着いたら14時40分ぐらいだったので表のベンチに座っていたら院内に案内されるまでに数人は並んでいた。中で十数分ぐらい待っていたら二番目に呼ばれた。その間に家で少し読んでいた『群像』で新連載が始まった古川日出男さんの新作『の、すべて』第一回を読み終わった。
『の、すべて』はバブル後の東京を舞台に主人公の大澤光延ことコーエンの「恋愛」と「時代」を描くものになっていて、どうやら帝王学というか、彼の父がある権力者のトップに近い場所におり、コーエンにはやがてその座、王の座についてほしいと願っているということがわかる。腹違いの10歳下の弟がいたりするが、その兄弟と最後に出てきた巫女の服を着ていた女性を中心に物語が動くのだろうと予感させて1回目は終わった。これから『大きな森』連載以来となるが、毎月連載を読むために『群像』を購入する。続きがたのしみだ。

名前を呼ばれて、ずっと気になっている皮膚が赤くなっている場所のことを診断してもらった。何年か前から口唇ヘルペスがストレスがたまりはじめると出るようになっていて、それとも関係があるような気がしていた。実際には感染るようなものではないという話だが、口唇ヘルペスのように身体がストレスを感じ始めるとそれに反応して赤くなっているようだった。
発疹や水ぶくれではないので特に問題はないと言われて塗り薬を処方してもらった。それだけで一安心だった。大事なのはネットで見て、こういう症状だから問題ないのだろうと安心することはできなくもないが、自分でわからないことは専門の人に見てもらって判断してもらうのが一番精神的に安心ができる。しかし、ストレスを身体が感じ始めてそれに口唇ヘルペスとかみたいに反応するっていうのは不思議なものだけど、身体と精神では身体のほうがさきに反応するっていうのがわかりやすくていいなとも思った。

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西島大介著『世界の終わりの魔法使い 完全版 5 巨神と星への旅』を読む。魔法のおける複製と「影」、オリジナルとコピーをめぐる冒険。西島さんがデビューから描いている事柄であり、それはアートとも密接に関係している。だから、西島さんがアートに関するのも当然なのだなと改めて思ったり。

 

12月8日
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若林正恭著『ナナメの夕暮れ』文庫版を読む。
単行本は読んでいないのでほんとうに初めて読む文章だった。自分の内面との向き合いと外界である世間との関わりの中でのあらわになる「個」をどう受け入れて、自分の疑問や不思議に思っていることと照らしわせて、納得したりしなかったり、とても人間としての逞しさのようなものを感じる。それはとてもうらやましい。
大人になるというよりもより人間味を増していく若林さんの思考と行動がまぶしい。自分だけでもよくわからないのに、自分自身のことが、でも、結婚したり家族になったり、別に異性とでなくても同性のパートナーであったりでも、他者と共にいること、より自分よりも得体の知れないけど、近いところで一緒に生活を共に時間を過ごす人がいることで進める場所もあるんだろうなと結婚した若林さんの文章や、この2年ちょっとだけど聴き始めたラジオで感じる。

f:id:likeaswimmingangel:20211208223426j:plain『新潮』2022年1月号には阿部和重著『Neon Angels On The Road To Ruin』に古川日出男現代語訳『紫式部日記』が掲載されている。僕にとっては好きな作家の上位であるお二人が並んでいるだけでも最高なのだが、古川さんに関しては現代語訳の『紫式部日記』を読む。シングル・マザーでフィクション・ライターな紫式部の日記を古川さんが現代語訳している。
約千年前と現在で通じているものがあり、日本を象徴する者たちについて、文章を書くことについて、書くことは読まれてしまうことについて、書かれてる。
紫式部に関しては『女たち三百人の裏切りの書』がかつて『新潮』で連載していたから、これが『新潮』に掲載されたのもよかった。

 

12月9日
本来は17日を有給にしていたが、その日には会社のZOOMでの月例ミーティングが入ったと昨日連絡がきた。もともと10日にそれがあったので有給を17日にしていたので、入れ替えて急遽10日を有給にすることにした。今日一日と明日の午前中に太宰治賞応募作を仕上げて投函するスケジュールにした。わりと最後に集中できる時間ができたのはよかったのかもしれない。

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午前9時過ぎに一旦散歩がてら代官山蔦屋まで歩く。なんとなく内田百閒著『百鬼園随筆』を購入する。内田百閒は岡山出身の作家なのだが、きちんと読んだことがないので年末年始に読んでみようかなと思った。代官山蔦屋が10周年ということで周年記念の文庫本『言葉の森』も一緒にもらった。
その後はずっと加筆と修正。

 

12月10日
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エドガー・ライト監督『ラストナイト・イン・ソーホー』をシネクイントで鑑賞。金曜日に有給使うと公開初日の映画を朝イチで観れるのがいい。エドガー・ライト監督『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』を観たのは前のパルコ内のシネクイントだったのを思い出した。
作品としてホラーなんだけど、主人公のエリーに見えてしまう亡霊がまさに『ショーン・オブ・ザ・デッド』的なゾンビの亜種というか別バージョンとも言える演出がされていた。
現代と60年代のロンドンのソーホーが重なる。都会に生きる生きづらさというよりかは、若い女性の生きにくさと性的な搾取を描いていて、それは現在でも変わらないのだと重ねることでより感じるものとなっており、エリーが見えてしまうものたちの存在がホラー要素を持ち込んでいるし、同時に性的な搾取や男性からの性的な視線のようにも見えてくる。
最後のオチをどう受け取るかで評価はわかれそうだなと思った。女優と娼婦についてのセリフとか、結局エドガー・ライトは男だし、お前も消費してる側だろうとのツッコミや批判はあるだろう。作品としては見せ方もうまくてホラー要素もうまくハマっていて、映像としてもおもしろかった。
エドガー・ライトから権利を買えば、「ラストナイト・イン」シリーズということでほとんどの国でこれは作れるはずだ。たとえば、『ラストナイト・イン・アカサカ』『ラストナイト・イン・ソウル』『ラストナイト・イン・ハリウッド』とか。芸能と関連している都市ならできる。しかし、エドガー・ライトは音楽を使うとすごくイキイキしてテンポがよりよくなる監督だ。ほんとうに音楽好きなんだろうな。

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あだち充著『MIX』18巻。30年ぶりの明青と勢南対決は甲子園予選準決勝。この巻で試合は終わる。そして、同日発売の『ゲッサン』で続きを読もうと思ったら、18巻の最後が108話で今月号の『ゲッサン』では110話が掲載されており、109話だけをサンデーうぇぶりで読もうと思ったが、18巻までのものしか話売りもしておらず読めなかったので諦めて110話から読んだ。
『タッチ』の登場人物でもある勢南の西村(現在は野球部監督、息子がエース)が同じく『タッチ』の登場人物である原田正平を見かけて、過去を回想する。西村は浅倉南を思い出して、『MIX』には今の所登場していない新田と原田と自分の三人を失恋仲間だと息子に言う。今回はノスタルジー的な回なのかなと思ったら、最後の最後に109話でなにが起きたかがわかった。
あだち充作品では定番である「あの出来事」が起きており、ストーリー上では高校2年生の夏だが、これは高校3年生の夏にあれをやりたいというフラグなのだろう、たぶん。
『MIX』はあだち劇場のデータベース消費的な作品でもある。そもそもこの作品には『タッチ』と『みゆき』の登場人物が出てきている。3年の夏に『タッチ』ではできなかったあの戦いをすることになれば、『みゆき』的な要素がさらに増すことになる。
この感じだとあと2年以内には終わるんじゃないだろうか。
しかし、『MIX』18巻読んで思ったけど、あだち節というか省略の美学がより際立っている。熟練の技としかいいようがない。

 

12月11日
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2021年最後に劇場で観るのはユーロスペース園子温監督『エッシャー通りの赤いポスト』になりそう。公開が楽しみ。去年も最後はユーロスペース林海象監督作を観た気がする。

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ヴィム・ヴェンダース監督『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』をル・シネマにて鑑賞。土曜日だったのもあってか、6、7割方埋まってた。
タイトルも知っててレンタル屋で何度もジャケット見てるのになんだかんだ観たことなかった作品。ライブとバンドメンバーそれぞれのインタビューがわりとスムーズに流れていき、全然知らないのに老成し、忘れられていたはずのレジェンドたちが語る自身の一生によって、鳴らす音がより響いてくる。ライブドキュメントとして素晴らしかった。
レトロスペクティブあと一作品でコンプリート。

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松尾大輔監督『偽りのhappy end』試写にお声がけしていただいたので、久しぶりの松竹本社に行った。松尾さんが監督された『東京ヴァンパイアホテル』で僕も一応脚本でクレジットされているのだけど、最後にお会いしたのはその撮影の時だった気がする。

ヒミズ」から10年間、園子温監督のほとんどの作品で助監督を務めてきた松尾大輔の長編監督デビュー作。それぞれ妹が行方知れずなってしまったエイミとヒヨリが事件の真相を探るミステリーをベースにしながら、姉として生きる2人の心の揺れを描いた。中学を卒業後に上京したエイミは、故郷の滋賀で暮らす妹のユウに東京での生活を勧める。最初は拒みながらも、なぜか急に東京に来ることを受け入れたユウだったが、引っ越し早々に行方不明になってしまう。そんな中、エイミは同じく妹が行方不明になっているヒヨリと出会う。やがて地元の琵琶湖で若い女性の遺体が見つかったとの連絡が警察からエイミに入るが、その遺体はユウではなくヒヨリの妹だった。エイミ役はNHK朝の連続テレビ小説なつぞら」でドラマデビューした鳴海唯、ヒヨリ役はマドンナのバックダンサーとしてワールドツアーに同行した経験を持ち、映画「ドリームズ・オン・ファイア」では主演も務めた仲万美。そのほかユウ役で「由宇子の天秤」の河合優実らが共演。

メインの女優さんたちが表情がよい(『サマーフィルムにのって』でいいなと思った河合優実さんがその撮影前にこちらに出ていたみたい。この人はなにかで一気に大ブレイクしそうな気がする、というかそう思わせる存在感がある)のだが、中盤以降にエイミとヒヨリが出会ってから滋賀を舞台に移してからが、わりと端折った感じが何度かして、上映時間が97分ぐらいなのだけど、ほんとうは120分以上あるだろうなと思った。
最後のシーンでエイミが感情を爆発させているのはいいし、謎は謎で回収していないのもありだと思うのだけど、そのために必要な箇所が切られているのか、観ていてそこまで感情移入できないのが惜しい。画はすごくいいから感情移入がもっとできたらよかったんだけど。個人的にはもっと長かったほうが余韻が増幅するんじゃないかなと思った。

試写観てる時に隣のクソバカ男が何度も何度もスマホの画面を光らせやがったので、それで気が散った部分はある。試写に来てスマホの電源切らないのはいいとして、普通はポケットとか鞄にいれないか、なんでずっと外に出して手で持ってて、画面を下に向けないで上に向けてるのかマジで謎だ。コケてスマホの画面バリバリに割れて、そのまま大怪我とかしたらいいのに。あれで役者とか映画関係とかだったらほんとうに終わってると思うけど、なんだろうなライター系かなあ、とりあえず琵琶湖に沈めばいいと思う。

家族であったり、血がつながっていても知らないこと、わからないこと、教えていないことはある。だから、家族といえど他人であり、自分ではない。わかっていると思っているとドツボにハマると言うか、知らないうちに心は離れていったり、もうどうにもならなくなってしまう。そういうものをミステリーベースで描いていて、最後に伏線回収というか作中に仕掛けていたものが繋がる部分があるのだけど、おそらくそこに至る部分がちょっと足りないというか短いので唐突な感じもした。好き嫌いがはっきり分かれる作品だろうから、好きな人はもっと長くてもいいと思うだろうし、長い方がこの作品にあるものがもっと深く届いたんじゃないかな。
終わったあとに松尾監督にご挨拶した時に聞いたら、実際はかなり長かったと聞いた。いろんな理由で短くはされたみたいだが、個人的にはその長いバージョンのほうが観たいなと思った。
最初にこの映画の設定を聞いた時に妹を探す姉っていうので、松尾さんが師事している園監督『紀子の食卓』が浮かんできて、それを意識してるのかなと思ったのだけど、実際のところはどうなんだろうか。おそらくなんだけど、園監督も主人公を女性にしたほうが感情を乗せやすい部分が初期作品の頃は多かったと思う。松尾さんも長編映画デビュー作で男性よりも女性を主人公にしたほうが自分の思っていることとか考えているものを託せたり、形にできると思った部分はあったんだろうか。
映画は12月17日(金)よりアップリンク吉祥寺から順次全国で公開。


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ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』からの〜、『偽りのhappy end』からの〜、松竹本社から晴海通りまっすぐ歩いて豊洲ピット。今年のライブ締めはZAZEN BOYS
整理番号は900番台と遅かったが、一メートル四方をテープで囲んであって、そこにひとりずつな感じだったんで一番前のフロアの一番後ろのところ、ちょうどステージの真ん中ラインが空いていたのでそこでみた。
セトリは基本的にいつも通りだと思うし、最近だと『杉並の少年』が新しくセトリに入った感じか。年々同じ曲なのにメンバーの技術の高さと息がより合うことでとんでもない演奏になっている。向井さんちょっと声がかれていたような気がしなくもなかったが、気のせいか。今回はいつも一緒にライブに行っている青木は来なかったのでひとりでライブに行ったのだけど、やっぱり隣でアホみたいに踊ってるやつがいるほうが自分ももっとゆれたりできたのかなと感じた。でも、今年のライブ締めが ZAZEN BOYSでよかった。

 

12月12日
書評家の豊崎さんのTikTokerのけんごさんについてツイートしたことでいろいろと考えるのだけど、それをSNSに書くのは違うなと思った。揶揄してるのも違うし、老害とか言っている奴らの大多数がそもそもツイッターフェイスブック使ってる時点で中年とか老害だから、自覚してねえなとしか思えない。
たしかに読書人口を広めるためには入りやすい方がいい。だから、TikTokerが紹介することもすごく必要で大事だと思う。
その中でけんごさんが休止しますみたいなことをツイートして豊崎さんが炎上したわけだが、彼は見せるのがうまい人なのだから、傷つきましたということを表明して小説紹介やめますといえば、豊崎さんが炎上することはわかっていたはずだ。自分からは攻撃しなくても、その行動を取れば外野が勝手に攻撃してくれると思っていないはずがない。そこだけ気になった。
Twitterでやりあうのがいいとは思わないが、それぞれがエアリプのような形で応酬し、周りが勝手に引用リプやリプライで参加してしまう状況はよろしくない。ただ、正義か悪か白か黒でしか物事を判断できない、そういう形にしかならないSNSでやったってロクなことにはならない。
あと、一番の問題はけんごさん含め小説紹介のTikTokerや『アメトーーク』にフリーライドしている出版社が一番問題じゃないのかなって思うんだけど、そこはみんなどう思っているのだろう。
僕はTikTokも見たことないし(意図的にはない)、YouTuberもヒカキンって名前は知っているけど、いわゆるYouTuberと言われる人のチャンネルを見たことがない。見るのはミュージシャンのライブやMV、元テレ東の佐久間さんや水道橋博士さん、鬼越トマホークやさらば青春の光のチャンネルぐらい、あとはオールナイトニッポンの過去回とかラジオとか昔のものぐらい。
みんなそんなにYouTubeとかTikTok見てるんだなと不思議な気持ちにもなる。スマホの小さい画面で映像を見ることに耐えられない。あと無料であることで売り渡しているものについて考えてしまうから。単純にスマホにすべてが持っていかれることに危惧があって、ほんとうに森博嗣著『女王の百年密室』のミチルとロイディみたいなに人間とスマホがなってしまうのが怖いけど、みんな気にしていないみたいだ。

f:id:likeaswimmingangel:20211212183027j:plainf:id:likeaswimmingangel:20211212183042j:plain© Wim Wenders Stiftung 2015

ヴィム・ヴェンダース監督『夢の涯てまでも ディレクターズカット』鑑賞。
287分の長尺。ヴィム・ヴェンダースレトロスペクティブとして公開された10作品のうち最後に観ようと決めてスケジュール組んで10作品目に観たのもほんとうによかった。

『夢の涯てまでも ディレクターズカット4Kレストア版』
1994/ドイツ・フランス・オーストラリア/カラー/ヨーロピアン・ビスタ/287分
出演:ウィリアム・ハートソルヴェイグ・ドマルタンサム・ニールジャンヌ・モロー笠智衆
1999年、制御不能になった核衛星の墜落が予測され、世界滅亡の危機に瀕していたなか、ヴェネチアからあてもなく車で旅に出たクレアは、お尋ね者のトレヴァーと運命的に出会う。目的不明の旅を続けるトレヴァーに惹かれたクレアは後を追うが、彼は父親が発明した装置を使って世界中の映像を集め、盲目の母親の脳に送り込もうとしていた……。世界を股にかけて繰り広げられるSF大作の完全版。

ロードムービー三部作や『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』だけじゃなく、今やレトロになってしまった『東京画』『都市とモードのビデオノート』辺りのビデオ画像、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』的な音楽も、全部入っていた。
休憩前のパート1はロードムービー的にいろんな都市を駆け巡る(東京も出てくる。こどもの城やカプセルホテルにパチンコ屋、竹中直人さんもカメオ的に)、パート2のオーストラリアはアボリジニ的な幻想的なものとコンピューター画像、なんかヴェイパーウェイヴが見た夢なのか?と思える。
『東京画』『都市とモードのビデオノート』で使ったビデオカメラ撮影手法が活きてる。音楽がRadioheadの『OK Computer』『Kid A』『Amnesiac』が流れていても違和感のないカオスでサイケな映像がかなり続く。
盲目の人に電気信号で映像を見せる実験がいつしか自分の夢を記録して小さな再生機で起きている時間に見るようになる。しかし、それが中毒になり、再生機を手放せなくなる。もう、スマホにしか見えない。
鏡は自己愛を増長していく、スマホはその最強装置だ。写真だけじゃなく映像も撮れる。今の世界は自己愛だけが高まり、敵か味方に白か黒かにわけるほうに加速してる。自己愛は中間を損なわせる。
映画が最初に公開されたのは日本だと1992年みたいだからバブルの最中かな。まだ、インターネットが普及してない。ここではないどこか、アメリカ大陸発見以降のフロンティアとしての宇宙開発戦争、冷戦は終わりフロンティアを宇宙ではなく精神世界、電脳空間に求めたことでインターネットが広まる素地を作ったはずだが、これ全部作品に入れちゃってる。
車移動としてのロードムービー、宇宙の話としてSF、インターネット的な夢を記憶し再生させる装置。30年後の今見たら予言的にしか見えない。でも、このディレクターズカット版は金かけて世界中を飛び回って、ヴィム・ヴェンダースがほんとうにやりたい放題してる。だから、パート2のカオスでレトロなビデオ映像的なもの見てたら笑いそうになって。最高だよ、やりたい放題、こういうもんが観たいんだよ。
作家が作りたくてたまんねえもんが形になってる。
時間とかフォーマット無視してやる。作家性とはほんらい暴力的で横暴なものだ。それを思い出させてくれた。みんなが欲しいものを、欲しがるようなものをマーケティングして作るとか愚の骨頂だよ。そんなものいつだって欲しくなかった。飼いならされたらそのわかりやすく作ったものが心地よくなる。スマホがいまはそれだから、距離は取らないとわたしがスマホと情報として搾取されるだけだなあ、と改めて。
ヴィム・ヴェンダースは物語と音楽の力を信じてるのが伝わってきた。それがわかる話でもあって、オーストラリアパートのジャム・セッション的な音楽は素晴らしいし、登場人物のひとりが再生機中毒になった主人公を取り戻すためにひたすら彼女の物語を書き続ける。ほんとうに今、この時点で観れてよかった。

 

12月13日
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クロスゲーム』についての2回目は「四姉妹」の話にしようと思って、なんとなく作業BGMがてら是枝監督『海街diary』を流す。
キャスティングによるぼろガチ感が改めてすごい。
あだち充作品では「居候よりひとこと」シリーズという銭湯を営む家に主人公の青年が転がりこむ作品があって、それがおそらく最初にあだち充作品で書かれた四姉妹もの。あだちさんの地元の近所に美人な四姉妹がいて、それが印象に残っていたとインタビューで言われていた。
その後は『H2』の明和第一のマネージャーの小山内美歩が実は四姉妹の末っ子だったという設定があった。『クロスゲーム』ではヒロインが四姉妹の三女になっている。ストーリーが「逆『タッチ』」なのでヒロインの一人になるはずだった次女が亡くなってしまうのだけど、そういえば、四姉妹っていうと近年だと『海街diary』と思った。
若草物語』があるし、それを元にしたグレタ・ガーウィグ監督『ストーリー・オブ・マイライフ』は素晴らしかった。もちろん、谷崎潤一郎細雪』もあるし、なかにし礼の『てるてる坊主の照子さん』もあった。四姉妹だと日本だと季節それぞれに当てはめることができるっていうのもあるんだろう。
ほかに思い浮かぶ「四姉妹」って「ポッキー四姉妹」かなと思って調べたら、安藤(政信)くんが相手役だったような気がしていたが、そちらは奥菜恵さんとの「ポッキー恋坂物語」のほうだった。
ふと思い出したのだけど、うちのばあちゃんが四姉妹の三女だった。

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『POPEYE』最新号立ち読みしてたら、松尾大輔監督『偽りのhappy end』の出演していた河合優実さんが出てて、そういえば水道橋博士さんのインタビューが掲載されてるなとペラペラめくってたら、「あれ、この子知ってるな」と思ったらドライブデートのページがBEBEちゃんと藤江くんカップルだった。赤い車だとクリスマス感もあるけど、今年だと映画『ドライブ・マイ・カー』な感じもしていい。
博士さんのインタビューは『POPEYE』ウェブ上で出てるものと一緒かな。で、そのすぐ後ろのページが元シャムキャッツの夏目さんの部屋紹介ページだった。夏目さんソロでは「summereye」っていう名義でやるのね。というわけですげえ久しぶりに『POPEYE』を買った。




浅草キッド』鑑賞。中盤以降、特に引きつけられて、ズルいよと思いながら何度も泣いてしまった。

 

12月14日
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小雨の中、池尻大橋すぎて間に合いそうにないのでタクってタワレコ渋谷まで行き、そこから歩いてヒューマントラストシネマ渋谷が入っているココチビルへ。ヴィクトル・コサコフスキー監督『グンダ』を鑑賞。

ある農場で暮らす母豚GUNDA。生まれたばかりの子豚たちが、必死に立ち上がり乳を求める。一本脚で力強く地面を踏み締める鶏。大地を駆け抜ける牛の群れ。研ぎ澄まされたモノクロームの映像は本質に宿る美に迫り、驚異的なカメラワークは躍動感あふれる生命の鼓動を捉える。
そして迫力の立体音響で覗き見るその深淵なる世界には、ナレーションや人工の音楽は一切ない。ただ、そこで暮らす生き物たちの息づかいに耳を傾ける。普段誰も気に留めないようなその場所が、"無限の宇宙"に変わるー誰も観たことのない映像体験が待ち受ける。

ナレーションもないので説明もなく、音楽も農場で聴こえる自然音(車などが通る音も入る)だけであり、モノクロの映像はまさしく映像美だと感じさせるほどにキレイなものだった。
横になった母豚のグンダの乳を我先にと食いつく子豚たち、小さな小さな子豚たちは生命力に溢れていてほんとうに光そのもののようなエネルギー体であり、美しい。
農場にいる一本足の鶏の姿や集団で走り抜ける牛たち、そのフォルムはどうやってデザインしたのだろうと思えるほど、個性的で魅力的だ。しかし、神がデザインしたのか、と思いながらも、いや、自然界において生き残る術としての進化の最新版としてのその肉体があるのだと思い返す。
子豚たちも大きくなっていき、それぞれに顔や体の大きさや色などが変わってくる。それでも母の乳を求める。子豚たちと母豚の息や鳴き声が農場に響いていく。最後に子豚たちは農場のトラクターのようなものがもってきた箱のようなものに入れられて運ばれてしまう。母豚は小屋やその周りを何度も何度も回りながら、子豚が一頭もいないことに諦めようとしない、何度も何度も回り、大きすぎるその体を揺らしながら歩いて鳴く。彼女の光たちは失われてしまい、小屋の中へ入って母豚が見えなくなると物語は終わる。

 

12月15日
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真造圭伍著『ひらやすみ』1巻と2巻を読む。なんだこれ、めちゃくちゃいい。
1巻の帯で田島列島さんの名前があるのもよくわかる内容でもあった。『水は海に向かって流れる』が好きだった人は確実に好きだろうし、あとはオカヤイヅミさんの『ものするひと』好きだった人もたぶん好きになると思う。
ヒロトは元俳優なんだけど、勝ち負けの世界があわずに辞めて釣り堀でバイトをしている。従兄弟のなつみは高校から美大に進学して上京してきたけど周りとうまく馴染めない。だけど、ひとり友達ができて徐々に東京の暮らしになれていく。彼女は漫画を描いていて実は漫画家になりたいという夢を持っていた。
と東京の阿佐ヶ谷でイトコの二人暮らしを中心に描いていくのだけど、エピソードがいいものばかり。
ヒロトの学生時代からの友人のヒデキのキャラもいいし、12回目の表紙のタイトルが「サマーフィルムにのっかっちゃって」とか最高だなあ、まさしく今年なタイトルだし、内容も『サマーフィルムにのって』とかかっている。
不動産屋で働くOLのよもぎも味があって、ヒロトとの距離感とか関係性がおもしろい。なんだかふいに笑ってしまうし、日常があたたかい。NHKで『阿佐ヶ谷姉妹』終わったら、これを続けて実写化しても何の違和感もなく受け入れられそうな。
真造圭伍さんって『トーキョーエイリアンブラザーズ』を描いてた人なのか、タイトルだけ知っていて読んだことなかったけど、読みたくなった。

生田ヒロト、29歳、フリーター。定職なし、恋人なし、普通ならあるはずの?将来の不安も一切ない、お気楽な自由人です。そんな彼は、人柄のよさだけで、仲良くなった近所のおばあちゃん・和田はなえさんから、タダで一戸建ての平屋を譲り受けることに。そして、山形から上京してきた18歳の従姉妹・なつみちゃんと2人暮らしを始めました。しかし、彼の周りには生きづらい“悩み”を抱えた人々が集まってきて……

 

12月16日
古川日出男・新連載】音楽が禁じられたアフガニスタンと「私」をつなげてみる
越境する力を恐れる社会、その居心地の悪さ


朝起きようとしてもうまく目が覚めない、そんな不思議な感覚があった。その間にも何度か短い夢のようなものを見た。なにかの誌面で名前が並んでいて、その中に自分の名前があったような、でも、最後に選ばれていないような、そういう字面を見たような、覚えがある。なにかの予見なのか、無意識化で作り上げたこれまで見たなにかの合成物なのかわからないが、なんだかリアリティがあった。

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夕方すぎてニコラに行く。一階のパン屋の上にあるお店の窓ガラスの下にある看板というか正四方形のニコラの看板に明かりがついていた。一階のお店の営業時間の前につけないといけなかったり諸々でしばらくの間は明かりは営業時間になっても灯っていなかった。コロナがどうなるかわからないが、少しずつ前とはまるきり同じではないけど、日常が帰ってきてるように思えた。
苺とマスカルポーネのタルトとクリスマスブレンドをいただいた。

 

12月17日
昨日に引き続き夢を見た。眠りが浅いのだろう。今朝見た夢。
オードリー若林、呂布カルマ環ROY鎮座DOPENESS、と僕の五人で遊んでいるという謎の光景。
どうやら僕と呂布カルマが免許更新に行くというところでなぜか五人が集まって、坂道の多い町で遊んでいるというもの。免許更新はどうでもよくなって、知らない家に入ったりして遊んでいる。
どうやら僕はオードリー若林さんとは気心が知れていて、他の三人よりは会話が多い。
確かに寝る前には、『あちこちオードリー』の最新回をTVerで見ていたし、『Creepy Nutsオールナイトニッポン0』に呂布カルマがゲスト回をradikoで聴いてたし、最近は鎮座DOPENESSが組んでいるユニット「FNCY」ばっかり聴いてたし、その曲の合間には環ROYのアルバム『Anyways』とそこに収録されているRemix曲を聴いていた。
だから、無意識に脳が見たり聴いたりしてたものをミックスして見せた映像なのかなって思わなくもないのだが、夢の中で思っていたのが、「あっ、これ2回目だ」っていう。明日『マトリックス レザレクションズ』観るのが少し怖くなった。

 

12月18日
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園子温監督のお誕生日だった。園さん今年で60歳、しかし若い。新作映画に関してのニュースで写真とか見てもやっぱり若く見えるなあ。20代とかかなり下の若い人たちと仕事をしているってのは大きいんだろうな。
「東京ガガガ」時代にいろんな人たちの夢や希望や熱狂や喪失や絶望や汗や涙や性液や経血や、若者たちから溢れ出したいろんな種類のものが園さんという杯の中に注ぎ込まれた印象があって、この時代を映画にしたのは『BAD FILM』だったと思う。
初期作品集のDVD-BOXに収録するために再編集していて、編集が終わったら編集に関わっていない人間の意見が聞きたいと真夜中に呼ばれた。で、編集全然終わらないで夜明け前ぐらいに編集が終わった『BAD FILM』観たのとか思い出した。あの頃はなんだったんだろうな、なんだか不思議な思い出だ。
25日からユーロスペースで公開される『エッシャー通りの赤いポスト』も役者志望の人たちを集めたワークショップから作られたインディーズ映画らしいので、初期の園さん作品の自主映画的な要素もあるだろうし、すごくたのしみ。
FBとかで人の誕生日とかのお祝いをしなくなった(自分の誕生日も表示してないので誰にも気づかれない)ので、園さんには久しぶりにラインしてお祝いを。公開初日の『エッシャー通りの赤いポスト』舞台挨拶のチケットを取って観に行こうと思う。



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ラナ・ウォシャウスキー監督『マトリックス レザレクションズ』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
たしかに第一作『マトリックス』の預言者の言ってたネオが救世主じゃないというのと辻褄合うんだよなあ。
マトリックス』トリロジーをトーマス・アンダーソン(ネオ/キアヌ・リーブス)がゲームクリエイターとして作ってることになってんだけど、今年『フリーガイ』というゲーム空間を舞台にしたモブキャラが自分はコンピュータープログラムであり、自分のいる世界は仮想空間であることに気づくという、現代的なリアリティを描いた素晴らしい映画があったから、『レザレクションズ』の世界がかなり古いものに見えちゃったとので絶賛とかはできない。
あと監督が性転換してるから、第一作作った時は男性だったけど、今作では女性になってる。前シリーズの監督を務めたウォシャウスキー兄弟がともに性転換してるからウォシャウスキー姉妹になっていて、リリーは今作作品に参加してないんだけど、彼が彼女になったからあのラストなのか、あるいは第一作の時点でどこまで今回のことは考えられていたのだろう。とある超有名なSF映画の何十年か後に作られたあの続編(『ブレードランナー2049』)みたいな終わり方なんだよね、救世主の存在が。「俺じゃなかったのか!」っていうオチというか。
まあ、最後に映像業界とか観客に対して皮肉を言ってるのはよかったな。

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逢坂冬馬著『同志少女よ、敵を撃て』読み始め。アガサ・クリスティー賞受賞作で第166回直木賞候補作。アガサ・クリスティー賞って推理小説の新人賞だよな、冒頭と一章から一気に持っていかれてるけど、推理小説になるのか?
デビュー作で直木賞を受賞したら、『GO』の金城一紀さん以来になるのかな。

 

12月19日
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濱口竜介監督『偶然と想像』をル・シネマで、満員だった。
ヴィム・ヴェンダースレトロスペクティブと『皮膚を売った男』があったから2ヶ月でル・シネマに12回来た。さすがに来すぎた。最低でも予告編を10回以上観てるんだけど、予告編からはまったく想像できない内容だった。
約40分の短編が3つ。連作短編とかではないから、3つの内容や登場人物たちがリンクすることはないけど、3作品とも笑い声がかなり出てた。
良質なコントとも言えるかもしれない。アンジャッシュのすれ違いコント(その元ネタはネプチューンになる前に名倉さんが組んでいたジュンカッツというコンビのネタだとオークラさんがラジオかなにかで言っていた気がする)にあるような登場人物たちの気持ちやセリフがある時点からズレていったり、気づかなかったこと、その差異で笑いが生まれていた。
基本的には画面に映るふたりのやり取りが展開されていく。そこに誤解や思い込み、会話から出てきてしまった感情や気持ちが相手に突っ込ませ、あるいは心の奥に触れてしまう。
観ていてすごくたのしかった。
付き合いが長かったり深い関係だから話せること話せないこと、知らないからこそ言える本音と見栄や嘘、そういうものがあった。自分の核みたいな、本人も気づかなかったり忘れたりしているものや、思い込んでいるもの内側に相手が触れたり、自分も相手に触れることができたら、それはたぶん人生でいちばん素晴らしい時間なんだろうけど、それはまさに偶然と想像からしか生まれない。
そんな人と出会えるかはわからない。でも、この世界のどこかにはいると思ったほうが気は楽だ。
年末年始に観るといいんじゃないかなあ、と思うのでオススメです。

 

12月20日
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仕事終わってニコラでシュトーレンとアアルトブレンドをいただく。

「ことばと新人賞」が第4回からリニューアルというのは少し前に出ていたが、選考委員が編集長の佐々木敦さん以外に、江國香織さん、滝口悠生さん、豊崎由美さん、山下澄人さんと直木賞作家と芥川賞作家と書評家、男女率が3対2とバランスのよいメンバーになっていた。
応募枚数も原稿用紙30〜100枚だったのが、70〜200枚と増えている。この枚数なら芥川賞候補に入る長さということなのだろう。締め切りが4月15日なのでしっかり書いて応募する。

 

12月21日
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豊洲駅に近い場所にあるチームラボ豊洲に誘ってもらったので行ってきた。場内では基本はすべての観客は裸足で進んでいく、普段ソックスに靴を履いているので足の裏の感覚が刺激されるのが新鮮だったし、エリアごとで匂いが違ったりするのも感覚を意識させるものだった。視覚への驚きもあるのだけど、そこからそのエリアごとのテーマに身体を没入させていく、境界線がなくなっていくような感覚になる。不思議だけど、わりと身体を使うのでそれなりに自分の体という枠をより意識した部分もあった。すごくたのしかったし、境界線がなくなるのはおもしろくもあり、やはり怖さもあった。

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古川日出男著『平家物語 犬王の巻』文庫版をGET。来年映画公開ということもあるし、1月からはフジテレビの深夜枠でアニメ『平家物語』も放送される。
文庫版の解説は池澤夏樹さん。池澤さんが「個人編集 日本文学全集」を編む際に『平家物語』現代語訳を頼むなら古川さんしかいないと編集部に言ったことで、実際に古川さんが現代語訳し、それがなければ、『犬王の巻』はそもそも生まれていなかった。だから、とても正しいというか真っ当な解説になっている。解説では湯浅監督の映画には一切触れていない。
映画化するから文庫を原作として刷るのはメディアミックスとして当たり前だし、ある時期までは宣伝も帯だけだったものが次第に全カバー帯みたいになって、映像化した際のメインビジュアルが元の装丁を覆い隠すようになってきている。
海外の映画祭などでもかなり好評な映画『犬王』だが、まさかこれがメインビジュアルなのか、これはダサいけどこのままなのか?
もともとの『犬王の巻』の装丁イラストは松本大洋さんで、カバー外すとあるんだけど、「犬王」松本大洋描き下ろしアートって前に発表してたけど、あれがメインビジュアルでよくない?

 

12月22日
「ビュロー菊地チャンネル」のブロマガ<菊地成孔の日記 2021年12月22日午前7時記す>が配信されたのを読む。


日記は「何か全てが遠い過去のようだ。僕は神田沙也加氏とスパンクハッピーをやろうとして動いたことがある。まだマネージャーが長沼ですらなかった頃だ」という文章から始まる。
僕は現在のファイナルスパンクハッピーしかライブも音源も聴いていないので、かつての「スパンクハッピー」がどういうものだったのかはわからない。ラジオなどで何度か触れられているからなんとなく知っているというぐらいだ。

僕は諦めた。当時から僕は、彼女が生きているだけでキツイだろうな、とは思っていた。彼女以上に突き抜けてダークサイドを感じた女性は、のちの宇多田ヒカルさんだけだ。

ピカピカに輝いて、元気いっぱいで、とてつもないスキルを完全にコントロールしていても、「この人は生きていて辛いだろうな」というメッセージをキャッチするアンテナが僕にあるのは確かだ。宇多田さんは全く辛そうではなかった。宇多田さんの悲しみは結晶化していて、憂いに血が通っていなかった。

二組の母と娘の物語でいえば、沢木耕太郎さんによる藤圭子さんについて書かれたノンフィクション『流星ひとつ』があり、彼女の母親、宇多田ヒカルの祖母の話も出てくる。現在の世界では宇多田ヒカルを知らない人はあまりいないわけだが、そのおかげで書かれていない孫娘まで連なるサーガとして読者には読めてしまうものにもなっている。
松田聖子さんについてはどうなのだろうか、そういう書籍とかがあるのかは知らない。でも、wikiで少し見てみた家系や両親の教育方針なんかは抑圧にはなったのだろうとも想像もできる。天才は家族の抑圧と隠し持った欲望の発露として現れる、という。それはなんとなくわかるような気がする。家族ではなくても、それが国家や社会に置き換えてもいい。
しかし、天才だったり、時代を象徴する、時代を変えてしまった才能たちの子供が引き受ける、生まれながらに刻まれたものは想像を遥かに超えているのだろう。しかも、そんな子供たちは同じ境遇のような人がほぼいないに等しいわけだから、傷を舐め合うことも難しいのだろう。

菅田将暉オールナイトニッポン

2022年3月で菅田将暉が「オールナイトニッポン」を卒業すると生放送で発表していたらしく、なにも知らずにradikoで聴いてびっくりした。コロナになってからまたラジオをradikoではあるが、聴きながらリモート作業するようになったことで、聴き始めた番組のひとつだった。
3月まではもうワンクールあるけど、裏が伊集院光さんの番組だとしても、「オールナイトニッポン」の枠がひとつ空くわけで、ほかの「クロス」「ゼロ」の枠の人が上がってくるのかもしれないし、急に誰かがこの枠をやるのかもしれないけど、リスナーによって好きな声嫌いな声、合う声合わない声っていうのがあって、そのパーソナリティーの声次第で次の人で聴くか聴かないは自然と決まってしまうんだろうな。

 

12月23日
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江國香織著『きらきらひかる』を読み始める。タイトルは知っているけど、読んでなかったシリーズというか。最初に単行本が出たのが1991年で30年前。その頃はゲイという言葉は使われていなかった。主人公の笑子の夫である睦月は同性愛者だからホモという単語が使われている。当事者である睦月自身がホモと言っている。時代は変わる。でも、30年前の作品がいまだに文庫の棚にあるということの凄さを改めて感じる。

アトランタ』シーズン3と4を見るために「Hulu」に入るしかないのか。めっちゃ見たい。

渡辺ってめちゃくちゃ面白いんです。大喜利トークもネタも、全部完璧に高いレベルでできるヤツなんです。コイツ(長谷川)は、ただのゴミカス(笑)」だと2人の関係性を解説し、「たぶん、渡辺はとりあえず、まさのりにスポットをあてて、そのうち(長谷川のターンが)落ち着いたら俺が行こうかくらいに思ってると思うんです」と分析。先に目立つほうが脚光を浴び、その後ゆっくり「じゃない方」が確かな地位を確立していったオードリーやフットボールアワーの例をあげるも「それはあの方たちが若かったから」と小峠は注釈を挟みつつ、「40超えたおっさんが様子見るな!」と一喝。「悔しいんです。コイツの面白さが世間にバレてないのが!」と語る。
『お笑い実力刃』(テレビ朝日、9月15日)でも渡辺を「影のバイきんぐ」のような存在だと紹介。必ず新ネタを作った際は渡辺に見てもらい「もっとなんかない?」と、ダメなところや、ボケなどを相談していたと明かす。実は『キングオブコント』の優勝ネタのひとつ「自動車学校」の中のタイムカプセルの中から車の鍵が出てくるというボケは渡辺の発案だそう。ザコシショウの単独ライブも手伝っており、いわば「SMAの頭脳」だと評す。

『あちこちオードリー』で実は渡辺さんはオードリーのふたりと同学年で芸人としても同期で、日大付属のラグビー部同士なので高校時代に対戦している可能性についても話していた。小峠さんたちが「SMAの頭脳」だと言っているのを見たこともある。遅咲きと言われているが、結成して10年で王者になったのだから、やはり努力もあってもその才能はすごいのだろう。あと人柄もすごく慕われているのもわかるし、こういう人たちは一回上がれば強いんだろうな。


仕事をしながら『お笑い実力刃』の最新回をTVerで見た。ボキャ天で活躍した「フォークダンスDE成子坂」について特集をしていた。コンビを組んでいた桶田敬太郎さんと村田渚さんはどちらもすでに亡くなっている。
僕も当時テレビで見ていて好きだった芸人さんだったが、番組では爆笑問題の太田さん、ネプチューンくりぃむしちゅーの有田さんなど当時一緒に活躍していた面々などが彼らのコントや笑いに対して素直な感想を言っていた。フォークダンスDE成子坂綺羅星のような才能だったが、わずか9年でコンビは解散している。
天才と同期だけではなく先輩や後輩にも影響を与えた彼らがコンビでなくても生きていれば、個人でも彼らのように帯番組を持ったり司会として才能を振るったであろうとコメントされていた。
錦鯉とフォークダンスDE成子坂はどちらがいいか悪いかとはいえない。ただ、笑いを目指して世に出たということだけでもすごいことだ。芸人として生き延びること、戦い続けること、あるいはフォームを変えて違う笑いや創作に向かうのもその人それぞれだし、人生がある。人がなにかで夢中になって輝ける季節は年齢どうこうではないのだろう、その瞬間のような時間をリアルタイムで見ることができるとしたら、とてつもない幸福なことだ。

 

今年はこの曲たちでおわかれです。
古川本舗「yol feat.佐藤千亜妃 (Music Video)」


D.A.N. - Fallen Angle (Official Video)



サカナクション / プラトー -Music Live Video-



CHAI ACTION (with ZAZEN BOYS) - Official Music Video