Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『1987、ある闘いの真実』


 新宿三丁目副都心線で出てシネマート新宿に。前に予告編を見て気になっていた韓国映画1987、ある闘いの真実』初回を鑑賞。TCGカードで千円の日だからかすごいお客さんが開場を待っていた。ネット予約だったのですぐに発券したが8割近くが六〇歳オーバーだった。

 韓国民主化闘争の実話を描いた社会派ドラマであり、『お嬢さん』のメインだったハ・ジョンウとキム・テリのふたりも出てるし、『タクシー運転手』のいいおじさんだったユ・ヘジン、『殺人者の記憶法』や『名もなき野良犬の輪舞』の内野聖陽にも大杉漣にも似ているソル・ギョングとこの一、二年でこの映画よかったなって作品に出てる人ばっかりだった。

 タイトルの通り1987年の韓国の話だが! しかし、見ていればこれは今の日本なんじゃないかとしか思えなくなる。国家権力と大統領によって歪められる真実、弾圧と改竄にやりたい放題な政治、もちろん暴力もそのために行使される。今の日本に置き換えても成立する話だ。
 だが、この作品に出てくる検事や新聞社(メディア)と市民はそんなやつらに暴力を振るわれ、圧力をかけられながらも法を遵守し、本当のことを報道するという使命がある。市民はデモを起こして奮起する。ある青年もメインキャラとして出てくるが彼の実際の写真もエンディングで見ることができる。ああ、羨ましいと思ってしまった。

 日本人はやさしいのではなく、村社会の中で目立たないようにして思ったことは場を乱すならば個人の意見は言わない。大きな強いものに従う。次第におかしいことが当たり前になって、そのことを指摘すると村八分にされる。きっと、個人の権限とか自由みたいなものが定着しなかった結果が現在だ。
 この映画の大統領や南営警察のアカ狩りに執念を燃やすパク所長のように自分に都合が悪いものは改竄し、真実をなかったことにして違うことをまるで正しい歴史に置き換えて、自分たちが間違っていなかったように変えてしまう。

 今の日本の政治もなにもかもが対応年数が終わったのに持続させようとして無理が出て来たことを隠そうとして、どんどん膿が漏れだしている。この映画を見て、なにも思わない人は、現在の日本について疑問も浮かばない人はもう救いようがないと僕は思う。

『泣き虫しょったんの奇跡』


ユーロスペースで19時45分から開始の回を鑑賞。
ナイン・ソウルズ』にも出演していた松田龍平主演で、豊田監督作品の常連でもある板尾創路さんも出演している。たまたまだが、同時期公開の『きみの鳥はうたえる』のメインである染谷将太石橋静河も出演していた。
奨励会を年齢制限の26歳で退会し、35歳で前例のないプロ編入試験を受けてプロ棋士になった瀬川晶司棋士の実話を元にした作品でもある。豊田監督自身も十代の頃に奨励会に在籍していた。
映画予告でも「負けっぱなしでは終われないよ」というセリフを聞くことができるが、監督自身も覚醒剤で逮捕されていて、09年には監督復帰をしているがそれまでの作品を越える作品は正直ないように感じていた。『火花』では板尾創路監督を支える脚本として力量を発揮したが、やはり映画監督としての再起にかける気持ちがこの作品を作らせ、主人公のしょったんに自分を重ね合わせていたのだと思えた。きっと、豊田監督の第二期はここから始まる。

『若い女』


 ユーロスペースにて鑑賞。何度か予告編を見ていて気になっていた作品だったが、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』や『アントマン&ワスプ』を観ようかなと思ったがどうも観る気がしないのでこちらを観たという感じ。


フランスの若手女性監督レオノール・セライユがフランス国立映画学校の卒業制作として書いた脚本をもとにメガホンをとり、2017年・第70回カンヌ国際映画祭で新人監督賞にあたるカメラドールを受賞した人間ドラマ。パリで暮らす31歳の女性ポーラは、10年付き合った恋人に捨てられてしまう。お金も家も仕事もない彼女は途方に暮れ、恋人の飼い猫ムチャチャを盗み出す。猫を連れてきたことで居候先の友人宅からも安宿からも追い出され、実家に戻ろうとしても母親から拒絶されてしまうポーラ。やがて住み込みのベビーシッターのバイトを見つけた彼女は、ショッピングモールの下着店でも働きはじめ、ようやく自分の居場所を見つけたかに思えたが……。主演のレティシア・ドッシュが何者にも媚びない新たなヒロイン像を体当たりで演じ、リュミエール賞最有望女優賞を受賞した。(映画.comより)

 
 冒頭の怒り狂って、尚且つめっちゃ早口に話す主人公のポーラを見て、ああ、これDQN的な感じなのかなと思う。絶対に近くにいてほしくないし、関わりたくない女性だ。カメラマンの彼氏に追い出されて知人友人の家を訪ねるが、自分のことしか考えていない彼女はそこでも自分の気持ちに正直に他者を思いやらないので出て行く羽目になる。ポーラみたいな人はたくさんいるだろう。しかし、隣にいたらムカつくと思う。彼女が住み込みでベビーシッターみたいなことや下着屋で働き始めると知らない間に嫌だった印象の彼女への気持ちが次第に変化していく。
 と言っても後半にある大きな出来事とそれに関する元カレとの関係性などでの彼女の行動はそんなに感情移入はできずにただこういう人もいるだろうなって思いだけがあった。
 等身大なのかもしれない。年上のカメラマンのミューズだった彼女は男の言いなりになるとか彼が与えたようなものや自由に似たものなんか要らないという意思表示をしている。現代性は強く日本でもアラーキーのことで思い当たるようなこともあって、昨今のme too運動にも連動するものがあるのだと思う。
 ある種のオープンエンドは主人公に感情移入できていないと作品があまり印象深く観客には残らないのかもしれない。