Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『寝ても覚めても』


 シネクイントで朝十時の回を鑑賞。
 かつての恋人(鳥居麦:東出昌大)にそっくりな人(丸子亮平:東出昌大)に出会った主人公の泉谷朝子(唐田えりか)は彼とやがて付き合いだすという話だが、麦と朝子の出会いも一気になにもかもが吹っ飛ばされるように出会い付き合い出すのが大阪編、友達も含めて学生時代を謳歌していたが、突如麦がいなくなる。
 物語は二年数ヶ月後に飛び、東京の喫茶店で働いている朝子が麦と瓜二つの亮平に出会う。最初は避けるような朝子だったが、次第に二人は付き合うようになる。そして、東人大震災が起きる。五年後、同棲している二人。そこに....。

 好きだった人にそっくりな人が現れたら人は絶対に動揺する。そして惹かれた時に顔が似ているから好きなのかどうかという悩みが生じてしまう。物語の最後の三十分ぐらいか、いなくなったはずの麦が現れることによる朝子が暴走する、かなり彼女の気持ちについていけなくなって、その行動による周りの人間の気持ちというのもよくわかる。
 なんだろうな、もはやそれは問題ないのかもしれない。感情が揺れ動いていくのだから。あと、震災後に仙台とかの復興祭の手伝いを朝子と亮平がしているのだが、そこにいるおっさんが仲本工事さんで、最初全然わからなかった。

 引っかかるのは震災、あの時帰宅難民になった人は多かった。僕自身も当時付き合っていた彼女が実家には帰れずに新橋から数時間かけて歩いてうちまで来た。だから、路上で亮平と朝子が帰宅難民が歩いている中で出会うのはいい、わからなくもないし、そうなるでしょうよ。あの時いろんな場所であんなドラマは確かに、間違いなくあったのだから。が、復興祭というボランティアがなんだか唐突でもある。現実を代入するのは悪いことではないが、なんだか恩着せがましい気がしてしまう。
 そこに加えて麦と朝子が付き合い始めた頃に一緒に遊んでいた岡崎(渡辺大知)がある病気になっているのだが、あの岡崎と彼の母、懐かしい思い出がある岡崎家に朝子が訪れるシーンはどこか感動ポルノのような居心地の悪さがある。その後の朝子の行動と亮平の気持ちとどう彼女と対するかということを考えると観てる人の感情はいやでも揺さぶられる。だが、それはいいことなんだろうか。


仲本工事 77歳 今だから語る「いかりやさんとの“バカ兄弟”が一番難しかった」
http://bunshun.jp/articles/-/8757

77歳 仲本工事が語る“ドリフ秘話”「加藤は天才、志村は秀才」の理由
http://bunshun.jp/articles/-/8758

↑この仲本さんのインタビューすごくよかった。

“カンヌ女優”唐田えりかが感動した「仲本工事さんの声」
http://bunshun.jp/articles/-/7311?page=3
主演の唐田さんのインタビューにも仲本さん話が出てきてた。

『きみの鳥はうたえる』



 三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』初日舞台挨拶を新宿武蔵野館で。原作の小説を少し前に読んでいた。
 佐藤泰志作品にあるものは屈折した気持ちや暴力が描かれるが、日常の些細な描写なども素晴らしいのは、最初は例えば部屋の中など三人称で描写しながら、その部屋の中にいる主人公などの一人称からの視線や感情、五感の描写からまた彼を含んだ空間の三人称という風にスヌーズに移行していく。そこがほんとうに文章として端正だし、詩のように滑らかに世界を描写している。

 その作品を現代に置き換えて、小説では東京だった舞台が函館になっている。予告編を見る限りは、朝焼けの中を歩く主要人物である「僕」(江本佑)と佐知子(石橋静河)と静雄(染谷将太)のシーンは美しい、青春という響きがよく似合う、同時にかつて自分も体験したような懐かしさすらも連れてくる。原作とラストはだいぶ異なっている。そこの解釈はわかれるところだろう。

 静雄と母親、彼が病人に向かって行う行為などが省略されている。三人の関係性の変化はあるのはわかるが、「僕」が数字を数える最初の出会いの反復の部分でほんとうの気持ちを告げて、佐知子がというオープンエンドで終わる。屈折した主人公が出てくるのが佐藤泰志作品ではあるが、映画では最後にその屈折を覆す。それがほんとうにいいのか悪いか。
 舞台が現代でクラブみたいな場所で酒を飲んで楽しんでいるのはまったく問題ないというかいいと思えた。問題は函館って感じが特にしない。夏なので雪も降らないのは当然だが、函館じゃなくてもよくない?という感想がどうしても出てしまう。佐藤泰志の地元が函館で三宅監督も北海道出身だからっていうことぐらいではないだろうか。おそらくまったく北海道に行ったこともない、地域的にも遠い場所の人が観たときにこれは北海道だ、函館だってたぶん思わない。

 原作で描かれている佐知子と静雄がバーのマスターたちと海に遊びにいく、映画だと山にいったってことになっていたかな、その前から二人はどうも好き同士になっていったみたいな予感、そして帰ってきてからそのことを告げられる。それはいいのだが、気持ちは変わるから。映画だと佐知子が静雄を好きになった描写や変化があんまりわからないので、えええ?いつよ?みたいな感じになって、置いてけぼりにされる。クラブでふたりが一緒にDJが鳴らす音にのってたけどさあ、あと同居人の彼女みたいなセックスしている女の子とそうそう付き合うかしら、その部分の三人があまりにもさっぱりしているのでドラマがなくて、そのわり最後に感情爆発してしまうので、から回っているような印象を受けてしまった。

『クワイエット・プレイス』試写


 東宝東和試写室で『クワイエット・プレイス』鑑賞。

泣き叫んでもいけない、
愛してるとも言えない、
エンド・オブ・ザ・ワールドで生きるある家族の話。

 アメリカで大ヒットしたみたいで前に試写も前評判高いから早く行った方がいいと言われてたけど、超納得。
 めっちゃ怖いけどおもしろい。『IT』を越えた ヒットというのもわかる。日本だと『IT』中高生や大学生が連れだって観に来ていたけどそういう客層に届けばヒットしそう。

 『クワイエット・プレイス』は『カメラを止めるな!』同様にネタバレ禁止的な内容で、ワンアイデアが作品の核にあって長さも90分ぐらい。音を立てたら即死という世界が舞台のホラー作品。観た後にネタバレができないけど、観た人と語りたいという欲望が生じる強さも共通してる。
 そもそもホラー映画なのに、登場人物が音出したらもうアウトって設定は当然ながら、劇場で映画を観ているこちら側も同じわけで、もう絶対にここでヤバいこと起きますよねってところがより余計に怖い。というか怖すぎる。
 『クワイエット・プレイス』が公開されたら、たぶん、『カメラを止めるな!』がちょっと引き合いに出されると思う。ある種同時多発的なものも感じられてくるんじゃないかな。アメリカで大ヒットしたのも、日本で『カメラを止めるな!』のムーブメントを知っていたらどこかわかるような気がするのかなって思ったりした。