Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『幼な子われらに生まれ』&『三度目の殺人』


 水曜日にテアトル新宿にて、浅野忠信田中麗奈主演の『幼な子われらに生まれ』を観る。重松清原作小説を映画化したものらしい。原作は読んでいなく、予告編で観ていただけだったが「家族」についての物語だった。互いに再婚同士の夫婦には、妻の連れ子の娘たちがいる。中学生と4歳児ぐらい。夫にも前の妻との間に中学生の娘がいる。
 夫婦には子供ができる。そうすると彼らの血の繋がった子供、そして父と血の繋がらない娘たちという構図になる。実の娘にも妻が妊娠したことを言えずにいる。思春期に入った長女は反抗期も重なり、偽物の家族、嘘の家族が嫌で仕方がない。だから、自分の本当の父親に会いたいと言い出す。
 次女が生まれた時に暴力を振るって妻はもう関わりたくない元夫、娘は今の父であるパパへの当てつけのように会いたいという、お前も娘に会ってるくせに会わないでほしいなんていう権利はないと。
 「家族」の始まりが一対の男女から始まる。別に、男同士でも女同士でもそれは変わらない。だが、恋人が「家族」になって子供ができたり、あるいはどちらかの前の「家族」の子供だったり養子を迎えると二人だけの関係から変化が起きてくる。この作品も他人同士が一緒に住んで時を過ごしていく中での変化の話になっている。物語は夫の元妻が再婚した相手の病気に関することで一気に大きな変化を遂げる。タイトルどうりなラストはある意味では喜びの象徴だが、その瞬間は確かに幸福に満ち溢れている。しかし、時が過ぎればまた何か問題は起きてくる。夫の仕事の問題だとか、娘たちの成長や妻の想いなんか、が。淡々と描かれている。だからこそ、インクのシミが滲んでいくように観客の中にざわざわとしたもの、それがそれぞれの「家族」感とリンクしたり相違が起きてくる。地味ながらも良い作品だと思う。妻の元夫は宮藤官九郎が演じているが、見事にダメな人を演じているが『カルテット』でのダメ夫とは違う典型的なダメンズであるがクドカンが似合いすぎているのはなぜだろう。




 本日公開になった是枝監督・福山雅治主演の『三度目の殺人』は、メインが福山雅治演じる弁護士とかつて殺人を犯したことがある殺人を自供している男を役所広司、父を役所に殺された足が悪い娘を広瀬すず。広瀬の母親が斉藤由貴で今ちょうどタイムリーなのはたまたま。
 証言が毎回変わる殺人犯、広瀬すずが自分に起きたことを法廷で証言しようとする。母への反発もあり、大人たちの汚さにうんざりしているようにも見える。殺人犯にも娘がいた。弁護士にも別れた妻との間に広瀬すずと同年代の娘がいる。母が隠そうとしたことと娘が明らかにしようとしたこと。それぞれの思惑の中ですれ違うように、犯人の想いは誰にも届かないように、いや、彼自身が「器」であり対する人たちはその「器」に何を求めるのか、見ようとするのか。
 本当のこととはなんなのか? それぞれの信じたいもの。日常における雑務に追われるように慌ただしく過ぎてしまう中で真摯に向き合われない事柄。
 少女の願いと、殺人犯の想い、弁護士の勝負ではない信じたい思い。強盗目的に見えた殺人事件の本当の目的とは何か、それは法廷で明らかにされるのかという作品。


 
 『幼な子われらに生まれ』&『三度目の殺人』は共に父と娘の関係が作品の大きな軸になっている。「父性」についての話が最近増えてきたように感じるが、父と息子じゃなくて父と娘なのは物語構造として「貴種流離譚」および「王殺し」から離れるためなのかなあ、違うかもだが。
 きっと、そこにも何かがあるんだろうと思う。