Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

さよなら、リバーズ・エッジ

likeaswimmingangel2008-10-10

 休憩中に深夜のツタヤでradioheadの余韻でDVD付きの「In Rainbows」とトム・ヨークのアルバムのリミックスを買ってしまう、うーむ仕方ないがやはり買った方がいいと思う、もう数年は観れなそうだし。

 「アメトーーク」の持ち込み企画「アダルトビデオ芸人」とか深夜っぽいしいいな。女子がドン引きするような企画だってすべきだし、そっちのほうがバカバカしくて男子のアホさ加減がわかって面白いと思うんだけど。やっぱり有吉さんはいいポジションについてるなあ、一度底まで堕ちて戻ってきた男は強い、スペシャルでmisonoに「地獄見たことねえだろ!」って発言は素晴らしく、そして最高に面白かった。



 岡崎京子の代表作の一つ「リバーズ・エッジ」のハードカバー愛蔵版が出ていた、普通のやつを持ってるからなあ、買うべきなのか。

 しかしながら、「リバーズ・エッジ」自体も素晴らしいのだけど、岡崎さんのあとがきの文章は逸品というか、このまま文章を書き続けたら山田詠美のように漫画家から小説家になっていたのかもしれないなあって。


ノート あとがきにかえて

 彼ら(彼女ら)の学校は河ぞいにあり、それはもう河口にほど近く、広くゆっくりと澱み、臭い。その水は泥や塵やバクテリアや排水口から流れこむ工業/生活廃水をたっぷりとふくんだ粘度の高い水だ。
 流れの澱み、水の流れが完全に停止した箇所は、夏の水苔のせいですさまじい緑となり、ごぼごぼいう茶色い泡だけが投げこまれた空カンをゆらしている。その水には彼ら(彼女ら)の尿や経血や精液も溶けこんでいるだろう。
 その水は海に流れ込んでゆくだろう。海。その海は生命の始源というようなイメージからは打ち捨てられた、哀れな無機質な海だ。海の近く。コンビナートの群れ。白い煙たなびく巨大な工場群。
 風向きによって、煙のにおいがやってくる。化学的なにおい、イオンのにおいだ。
 河原にある地上げされたままの場所には、セイタカアワダチソウが生い茂っていて、よくネコの死骸が転がっていたりする。

 彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発的な事故として。
 あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマに生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。

 一人の少年と一人の少女。けれど、彼の慎ましい性器が、彼女のまだ未熟なからだのなかでやさしい融解のときを迎えることは決してないだろう。決して射精しないペニス。決して孕まない子宮。

 惨劇が起こる。
 しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るように。むしろ、穏やかに起きる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。

 彼ら(彼女ら)は決してもう二度と出逢うことはないだろう。そして彼ら(彼女ら)はそのことを徐々に忘れてゆくだろう。切り傷やすり傷が乾き、かさぶたになり、新しい皮膚になっていくように。そして彼ら(彼女ら)は決して忘れないだろう。皮膚の上の赤いひきつれのように。

 平坦な戦場で僕らが生き延びること。
 

 と書きながら読むとやはりこの文字の文章のセンスで長編小説が書かれていたらと思ってしまうわけだが。

 浅野いにお「虹ヶ原ホログラフ」は僕が思うに岡崎京子の「リバーズ・エッジ」の現代版で彼女の影響を受けているように前から思っているのだけど、お互いに短編がうまく、下北沢周辺の小田急線の雰囲気、匂いがする漫画で、人間の感情の描き方のセンスも近いし、僕は浅野いにお岡崎京子の後継者だと思うんだけど。

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

虹ヶ原 ホログラフ

虹ヶ原 ホログラフ