ひとつの年を三で区切るとすでに残りは一になっている、二は通り過ぎた。
なにやら早い、位置が明確に感じられない。
それは来る来る年に増していく、焦燥感、抗えない何か、物質ではなく、存在、見る事はなしに、感じられる、気配、あるいは臭気、触感、肌触りのような焦燥感、増していくが癒される事はなし。
焦りは禁物か、禁物なものはなにか? 焦りによって歩を進めて、帆を張って気運を掴んでうまく流されるか、自ら咆哮を、いや方向を見据えて進むのか、シンクロニシティのアンテナを張るのがもっとも自然な気運の掴み方、最近少しだけそれがうまくできてないように思う、でも少しだけは感じてる、残響している僕の内側で。
これを驚喜に繋げる為に動け、多少の焦りは起爆剤になれ、動かなければ置いていかれる? 動かないものは時間と人に置いていかれる、それがいいのなら動かなければいい、でも動かなかった分はのちに倍乗せ以上な負担としてハンデとしてのしかかる、その覚悟があればいいか?
覚悟はやがて揺らぐ、同じものはない、同じように見えるものは日々わずかに緩やかな経過を経て変化し続ける、変わらないものなど何もない、変わらないものは死んでいるものだから。
生きている/進んでいるものは森羅万象、刻一刻と変化し偏在し、揺らぎ続ける、変わり続ける、停まる刻、それは死す、死んだ物は停止している、時間の隙間にエアポケットに冷凍保存されたマンモスみたいに固定される。
記憶として誰かの中に保存されるメモリー、しかし生きているものの中で記憶、メモリーは変化する、記録は変わらずに記される、が、記憶は変わる、記憶は変化する、持ち主が生きている限り、変わらないという保証は何ひとつ、どこひとつない、停まらないものは変わる。
変わることを恐れないで変幻自在に、なりたいものになる。さあ、どこまで可能か?
残るは1/4以下になった「聖家族」の仮綴本、読める日に一気に読んでを繰返し、もうすぐ手紙のような物語のラストへ辿り着く。BGMはZAZEN BOYSと中村一義(100s)にしている。
古川日出男氏の文体はやっぱりカッコ良くてきっと拒絶反応を出す人がたくさんいるだろうが、逆に僕のように一度受け入れてしまうと笑ってしまうほどのカッコよさだ、カッコいい事はある部分を線を越えると笑えてくる、自分の想像を超えると人は笑うしかなくなる、僕は笑ってしまう。
句読点の打ち方、文体の精度、海にやがて流れいく川のように合流し交わり速度をあげて幅を大きくしていく、物語の展開。
古川日出男以前・以後と言われる理由もなんとなく感じられる。「聖家族」がリリースされるこの9月にアルバム「ZAZEN BOYS4」もドロップされる、産み落とされ流通する、古川・向井シンクロニシティ? 相互関係?
でも、やっぱり古川文学も向井音楽もカッコいいがやはり毒なのだ、強力すぎる毒性、は価値感と趣向を変える、変わらないものはないが、変わる理由になるものはこの世に存在する、変化を促すものはいつ出会うかが大きく作用する。