Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

文学と小説の狭間でナイフは意味をなくせ

 八王子の書店で女性店員が会社員の男(33)に刺されて亡くなったというニュースを今朝見る。
 書店に強盗が押し入る小説なら伊坂幸太郎アヒルと鴨のコインロッカー」がある。「アヒルと鴨のコインロッカー」は書店に主人公たちが強盗に入る理由がある、明確な思いが、過去の出来事が。この物語はかなりせつないが。


 実際の世界で起きたこの事件は刺した男は仕事がうまくいかず、両親に相談したものの相手にしてもらえずに、むしゃくしゃして人を殺そうと思って包丁を買ってそこの書店に入って、バイトの大学生の女性を刺して、女性客に軽傷を負わせた。バイトの大学生の女性は亡くなっている。


 なんでそういうことが起きるのか、怒りや虚無感はなくならないままにゼロ年代は過ぎてしまう?


 お前が苦しむことを他の事に、他の人にぶつけて解消してもお前の苦しみはなくならない、むしろ増える。
 逮捕され刑務所に入れば仕事のことに悩まなくてもいいだろう、しかしもし出れても今度はまた仕事のことで苦しむ。
 前科一犯の人殺しという闇は一生つきまとう。そして何も悪い事もしていない20代前半の女性の命を奪ったことは償えきれない。


 書店に押し入って人を殺すということ、図書館や書店は知の象徴だ。
 そこで事件を起こすようなやつは知の欠片もない、あるいはないことを無意識に感じて破壊するためにそこで凶行に至ったのか、だとしても救いようもない。


 本屋で二度ほどバイトをしたことがあるが、僕は本屋の空間が好きだ。そこを血まみれにしたやつは許せない。
 なんで仕事でうまくいかなくて両親に相手にしてもらえないという怒りが他者に向かうんだろう、自分を包丁で刺して自害すればその悩みは永遠に解消されるのに。

 
 ロストジェネレーションの世代の作品をぴあフィルムフェスティバルで観た審査員が彼らの世代の作品にはどこか怒りがある、社会や何か大きなものに対してといったというのを聞いた事はあるが、世代の問題ではなくて国に漂うこの生きづらさは大きな枠組みが壊れて信頼感が失われたことによるのかもしれない。


 怒りや不安が消える事はないけれど、他者に向かうようなことはなくなってほしい、他者を殺して社会的な自殺をする弱さを認めたくもない、死ぬなら自分で自分を殺せ、周りを巻き込むな、それだけは人間としての最後の誇りだろ。それすらもないやつが一生懸命にこの戦場のような毎日を生きてる人間を傷つけている。救いがなさ過ぎる。


 そんなやつに届く表現があったらよかったのにとだけは思う、そんなことに至らずにすむような文学や映画や音楽や様々な表現がなぜなかったのか、あるいはなぜ届いていないのか。


 本屋で人を刺す前に手に取った一冊の小説で君の人生が変わればよかったのに。