Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2024年5月1日〜2024年5月15日)

4月下旬の日記(2024年4月16日から4月30日分)


5月1日
日付が変わってこの日記の4月下旬分をブログに、半年前のものをnoteにアップした。もう5月になってしまった。今年の三分の一が終わったことに実感があまりない。
残り三分の二でやろうとしていることをどのくらいまでできるか、そのために時間を使えるか。

起きてからリモートワークを開始。作業BGMとして『アルコ&ピース D.C.GARAGE』『JUNK 爆笑問題カーボーイ』『星野源オールナイトニッポン』『あののオールナイトニッポン0』をradikoで流していた。
特に印象的だったのは「爆笑問題カーボーイ」はタクシー運転手と問題を起こしたウエストランドの河本のことがあり、二人を番組に呼んだ生放送だった。
最初に太田さんの妻の社長と太田さん二人がウエストランドの二人に話をしたこと、そこから問題を起こした河本の酒の問題に絡めて落語の「芝浜」にかけて話をしていた。二人を呼び込んでからも、お客さんあっての商売だからお前ら許さないとか出てくるなと言われたらそれは受け取るしかないし、二人を擁護している爆笑問題も嫌いだと言われても仕方がないと。でも、タクシーの方やいろんな方面にちゃんと配慮した話をしながらも河本を愛のあるいじりで笑いを取っていた。
その中でも太田さんが「ウエストランドの二人には俺らもいい思いしかさせてもらってない」と話をした時になんだか泣きそうになった。後輩の二人が「M-1グランプリ」王者になったことだけではないだろうが、こういう時にそう言える太田さんはカッコいいし、粋だなって思った。
ウエストランドの二人はそう言われて言葉をなくすというか、そんなことを言われるなんて思ってもいなかったのだろうなと思える声の感じで、滅相もないですというニュアンスのことをなんとか絞り出していた。こういうやりとりを聞きながら、ウエストランドは事務所にも先輩にも恵まれているからこそ、芸人としてより笑いをとって爆笑問題や社長に恩返してほしい。
炎上をちょくちょくする発言をする太田さんだけど、やっぱり芸人としての生き様や姿勢を見せれる数少ない人だし、こういう人のラジオはずっと聴いていたいと思わせる。
金や地位や名誉で近寄ってくる人はそれがなくなれば必然的に離れていく。そうではない付き合い方というのは思いの外難しいし、そういう出会いや関係性というのは作ろうと思ってできるものでもない、そしてそれが失われた時にかけがえないのないものだったと気づく。
人間同士の関係性というものはシンプルでありながら同時に複雑でもあって、誰かに信用されるということ、誰かを信用するということはとても難しい、紙一重のバランスで成り立っている。タイミングとバランスでそれはすぐに裏表が反転するものでもある。自分でもない誰かを疑いようもなく信じれるというのはとてつもなく強い想いだから、優しくて儚い。

nicolas 13周年

いつもお世話になっているカフェ・ニコラが5月1日がオープン日、周年日ということで曽根さんがブログを書いてアップされていた。


仕事が終わってからニコラに。曽根雅典著『死者のテロワール』がお店の13周年というタイミングで発売することになった。
周年日記念も兼ねてトークイベントがあって、そのあとは常連の人たちでお店で飲みながら歓談するという感じになった。映画監督の佐々木誠さんと作家の爪切男さんと曽根さんで刊行記念トークを一時間半ぐらい、その後に俳優の藤江琢磨さんの投げ銭ライブ。
トークも三人の会話の流れもスムーズでよかったし、藤江くんも書籍の版元でDeterio Liberの橋本竜樹さんが作った『ニコラはカフェである』をカバーして演奏したりととてもいい空気を作っていた。
『死者のテロワール』はお店で先行販売しているけど、これから書店とか他の場所でも買えるようになるので手に取って読んでもらいたい。曽根さんの個人的な想いやニコラへの気持ちがこの一冊には詰まっているから。
久しぶりにお会いした人とそれぞれ長い時間話をさせてもらえたのも嬉しかったし、普段人と話をしていないから会話に飢えてるんだなって思ったりした。あんなにいい雰囲気で和やかにみんなが話せる空間というのは店主の曽根雅典さんと由賀さんのお店を維持していくという普段からの努力の賜物だし、笑顔がたくさんあって本当にいい一日だった。
ニコラ13周年本当におめでとうございます! 
また、ニコラに行ってカウンターでコーヒーを飲もう。

 

5月2日
前日何本かビールを飲んだけど、二日酔いにもならず気持ちよく目が覚めた。とりあえず、お風呂に入ってスッキリした。
TwitterことXを見ていたら、忌野清志郎さんとhideさんの命日で彼らについてポストしている人たちが何人もタイムラインにいて、二人と同じく今日がおじいちゃんの命日だったのを思い出した。
まあ、毎年、祖父のことを思い出すのは二人のことから想起されるのだけど、そのおかげで忘れないで済む。そして、その流れで高校時代にシングルが出るたびに買って聴いていたhideさんの曲をYouTubeで映像付きで聴いた。これが毎年の5月2日のルーティンになっている。

リモートワークを開始してからradikoで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を流していたら、前に佐久間さんが話したことのある一人でやってるビストロの話をしていた。そこのシェフがラジオを聴いていて、何回も繰り返して聴いていたことでお店に対しての視線が佐久間さん側の客のものになっていて、佐久間さんがツッコんでいた。あと『ゴジラ×コング』の続編の話もけっこうしていた。色々とツッコミどころがあるみたいで、全体的に佐久間さんが気になったことについてツッコんでいる感じで楽しげだった。
仕事は一時間早く始めて終業時間の一時間前に早上がりさせてもらったので、17時過ぎには家を出て渋谷へ。副都心線に乗って池袋駅で降りてそのまま地下道を通って東京芸術劇場へ。


菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール結成20周年記念巡回公演「香水」東京芸術劇場プレイハウス公演へ。
僕はコロナパンデミックがまだおさまっていなかった22年にサントリーホールオーチャードホールでぺぺを観て以来のコンサートになった。なんかぺぺはライブというよりもコンサートというほうがしっくりとくる。
去年やる予定だった公演などは菊地さんの病気や事故の治療やリハビリで延期されて、ぺぺの活動は今年にスライドした。『戦前と戦後』以来10年ぶりとなるニューアルバムも制作中で夏頃には出るようだし、そのレコ発もやると言われていたのですごく嬉しい。
このプレイハウスは普段は演劇をやる箱だし、僕は野田地図はたいていここで観ている。偶然だけど、今度の野田地図の新作『正三角関係』の会員先行が今日開始されて昼休憩の時に申し込んでいたので、なんだか取れそうな気がしてきた。
ここの劇場はどこに座っても非常にステージが観やすい。席はP列の右側の方だったけど、問題なく観えたし前の人が邪魔になったりすることもなかった。
優雅で淫靡でロマンティックでエロティックな演奏だった。色気があって気品もあるけど、淫らに踊り出したくて堪らない音楽。
アンコールではドラマ『岸辺露伴は動かない』のサウンドトラックから『大空位時代のためのレチタティーヴォ (叙唱)』『大空位時代』が披露されて全体的にも素晴らしかったし、『大空位時代』を聴きたかったのですごく嬉しかった。
オーチャードホールで初めて『大空位時代』を聴いた時に菊地さんが「大空位時代=インターレグナム」について話されていて、そのことがすごく響いて自分の中に留まった。だから、その時からちょこちょこ設定を書いたりしていた作品のタイトルは『インターレグナム』がいいと前につけていたものから変えた。それは結局中途半端に、いろんな短編を組み込んでつなぎ合わせて作ろうとしたらけど、うまくいかなかった。だから、それの短編は全部使わず捨てて、この作品の登場人物表も整理して、もう一回最初から書き直そうと思っている。それもあってこのタイミングでこの曲を聴きたかった。

コロナ期における菊地成孔のスタジオライブ(22-2)『killingtime』


この曲も演奏された。やっぱりカッコよかったし色気が漂っていた。

副都心線中目黒駅まで乗って、そこから歩いて帰った。『四千頭身都築拓紀 サクラバシ919』が23時からだったので、リアルタイムで聴きながら日付が変わって少しして寝落ちしていた。毎回木曜日はこのパターンになってる。

 

5月3日
6時過ぎに目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。体内時計がちゃんとしているのか、たいてい目覚ましが鳴る前に起きる。喉に違和感があって、風邪の引き始めは喉からくるので嫌だなって。唾を飲み込むと喉のところに痰がある感じで出そうとしても出ないのでうがいを何回して出そうするが、どうも出ないし、何か喉というか舌の辺りで止まって出てこない感じで非常に違和感があった。
これは病院に行かないとダメなのかなって思いつつ、GWだから近くの内科も休みだし喉なら耳鼻咽喉科なんだろうけど、調べても休みだ。
うーむ、どうしたものか。もう一回うがいをしたけどダメだ、痰がでてこない、引っかかる感じがする。で、姿見で口を大きく開けて喉の奥の方が見れるかはわからないが見ようとしてみた。そこで痰を出す感じで喉を鳴らしてみて、違和感の原因に気づいた。どうも舌を前に出すと喉ちんこが舌についてしまっている。よく見たらなんか腫れているというか普段よりもやけにデカい。
痰が出ないのではなく、腫れた喉ちんこが舌の付け根近くに当たるから違和感があったのだとわかった。これは病院とかで診てもらって薬をもらった方が良さげだけど、お休みだしなあ、タイミング悪いなって。
普段から風邪は喉から来るせいで喉の痛み用のトローチを置いておいたので、とりあえず痛み止めとしてロキソニンを飲んでからトローチを6個で一つのパックみたいなので舐めてみた。違和感はあるし、舌に多少は触れるが起きた時ほどではなくなってきた。
扁桃腺が腫れやすくて高熱を出すことは今まであったけど、喉ちんこが腫れたのは初めて。これは扁桃腺が腫れるほど喉が痛いとかはないけど、違和感がありすぎてすごく嫌。


TwitterことXを見ていたらトワイライライトにブコウスキーの『勝手に生きろ!』文庫新版が入荷したとのポストがあった。お昼になっていたので買って帰ってきてからご飯を食べようと家を出たら、お店に行く前のニコラの曽根さんと近くでばったり。お昼を誘ってもらって、ゴリラビルの対角線上にある蕎麦酒膳くら嶋へ。
お店の前を何度も通っているけど入ったことはなかった。鴨せいろを頼んで、曽根さんが頼んだしらすの天ぷらのせいろのしらす天を一つもらって食べたらほんのり甘くて美味しかった。
鴨せいろも美味しくてお蕎麦屋さんにほとんど足を運んだことがないので、ここならまた来たいなって思えた。蕎麦湯に鴨せいろの汁を入れて飲んだら出汁が出てるからすごくほっこりする優しい味で、喉ちんこの痛みにすごく効きそうだった。
食事の後にニコラがあるビルまで一緒に歩いて僕は三階のトワイライライトへ。


チャールズ・ブコウスキー著/都甲幸治訳『勝手に生きろ!』 旧版も持ってるけど新版を購入。祝日ということもあるのだろうけど、店内はお客さんがわりといて賑やかだった。ブコウスキーは2017年にロサンゼルスに行った際にバスを乗り継いでお墓参りに行ったぐらいは好き、というか作家の墓参りはこの一回だけ。
家に帰ってからその旨をポストしたら翻訳した都甲さんがコメントくれたので少しやり取りをさせてもらった。都甲さんは柴田元幸さんに師事して翻訳家になられた人で、他にも『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』など僕が好きな作品も訳されている。
先日、ポール・オースターが亡くなったというニュースが出た。彼の作品はやはり柴田さんが訳したものを読んでいるし、多くの作品は柴田さんの訳によって日本ではたくさんの読者が手にして触れている。そのことで柴田さんも色々と悲しい思いだろうなとか思ったり、作家が亡くなったことで新作は書かれなくなるけど、きっかけとして新しい読者に知られるきっかけにもなるので、新潮社とかうまくやって新しい読者に届けてほしい。

笹山敬輔著『笑いの正解 東京喜劇と伊東四朗』を編集者さんからご恵投いただきました。伊東四朗さんの「むかし・いま・これから」を約百年に亘る“東京喜劇史”を軸に鮮やかに描き出した本格的評伝。


『勝手に生きろ!』を読みたいけど、自分の作品の参考にするためにAmazonで中古で購入していたフィリップ・K・ディック著『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』を夕方から読み始めた。思いの外読みにくい、中々うまく世界観に入っていけない。久しぶりのディックだというのもあるのかなあ。

 

5月4日
起きてからとりあえず散歩へ。radikoで金曜深夜放送した『三四郎オールナイトニッポン0』を聴きながら代官山蔦屋書店へ。
9時にオープンしているところがそこぐらいしかないというのがそのルートになる理由ではあるが、9時過ぎに着いてもそれなりにお客さんはいるし、早い時間だけど子供を連れた親子連れも多くて二回のキッズコーナーというか絵本とかあるところでは子供が走り回っていたりして賑やかだった。
三四郎ANN0」は十手の話をしていて、よくそのトークで長くいけるなって思う。おもしろくて聴きながら笑ってしまうけど、後日何の話をしてたっけなあとは思い出せない、でもおもしろかったという余韻が残る。
最後の方に小宮さんがフリートークで話していた80歳ぐらいのちょっと家がわからなくなってしまったおじいちゃんを家まで連れていくことになったエピソードはどこでもありそうなことでもあるけど、パーティーみたいに何人かでその家を探すことになるというのはなんか使えそうな気がした。
11月24日の武道館イベントはファンクラブ先行でアリーナ席を確保しているので、楽しみでしかない。二次先行とかの結果も出てたみたいだけど、アリーナはほとんど落ちていて第二希望でスタンドを入れていた人が当選しているっぽい。やっぱりアリーナはファンクラブ先行でほとんど出しているんじゃないかな。
実際にどういうステージというかイベントの舞台を作るかでアリーナでも見えやすいところと見えにくいところも出てくるだろうし、武道館はスタンドも傾斜があるので見えやすいしステージを近くは感じるのでスタンドでも楽しめるとは思う。3月の赤えんぴつのライブ以来の武道館になる。

古川日出男大森克己開沼博が福島で制作し続ける理由 | ハマカルアートプロジェクト #1「福島芸術講」

3月22日に東大で行われた「福島芸術講」に行って古川さんと大森さんと開沼さんのトークを聞いた。司会でファシリテーターだった人が元GINZA編集長だったから、その流れでマガハの『Hanako』で記事化したんじゃないかな。あの日のレポートという感じではないけど、トークで聞いたことが軸になって構成される感じだなって思う記事だった。

実際、渋谷は大手のチェーンストアなども目立ち始める。渋谷の街としての誘引力が下がったのである。「ぶらぶらする街」ではなく、単に「便利な街」になってきたのだ。

これに加えて、2001年には池田小事件、またそれに先立つ1995年にはオウム真理教による地下鉄サリン事件などもあり、治安に対する社会的不安が増大していた。このような流れの中で、都市において、人をたむろさせないような仕組みが増えていく。

建築史家の五十嵐太郎は、2000年代に起こったこうした都市の変化を「過防備都市」と呼んでいる。街の中で防犯カメラが増えたり、トイレを貸さない場所が増えたり、路上でたむろする人々を滞留させないような都市のことである。

例えば、このような流れの中で出てきたのが「排除ベンチ」などと呼ばれるもの。普通のベンチに、わざと仕切りをつけて眠れないようにしたり、座りにくくしたりしている。つまり、若者の「たむろ」が少なくなってきたということだ。

常にガラガラ「渋谷モディ」スタバだけ満員の理由

目に入ったので読んだ記事。確かに今の渋谷は「ぶらぶらする」という感じもないし、「たむろ」する場所が皆無に近い。元々スタバはほとんど利用しないけど、お店の前を通ると大抵並んで待っているし、席はあまり空いていない。
海外からの旅行者たちがどこかの階段とかに座っていたりするのをよく目にするけど、それはちょっと休んだりする場所がないし、スタバとか一服がてら休憩するような場所が混み合っているというのが原因なんだろう。実際人手は増えているから、許容できるパイ以上の人を処理しきれなくなっているようにも歩いていると感じる。
「過防備都市」のところに路上にたむろする人々を滞留させない都市と書かれているが、流れが止まって仕舞えば濁る。流れができるような都市のデザインをしないと事故や事件が起きてしまう可能性も高まりそうだし、人が結局離れていってしまうのではないかと思ってしまう。観光客にお金を落としてもらうためにも日本人が住んだり働いたりするためにもそういうことを都市計画としてやるべきなのになあ。都市のデザイン自体の失敗というか、アップデートし損なったことで起きてる問題なんじゃないかな。

Apple TVで配信中の『シュガー』エピソード6を昼ご飯を食べてから見直した。昨日寝る前に見ていたのだけど、「あれ? 何が起きたの?」みたいな展開になっていて、今までのLAで昔ながらの探偵みたいな物語だったところから思いがけないズレかたというか、想像もまったくしてない方向になっていた。
で、もう一度見たけどやっぱり今まで見ていた探偵ものではない方向に一気に飛んでいっていて、ラストシーンで主人公のシュガーがすごいことになっていて、あと二話ぐらいだけどどうなるのか俄然楽しみになってきた。ジャンルがクロスオーバーというよりもジャンルが変わっていくというめちゃくちゃ好きなことをやってくれてるドラマだ。

フィリップ・K・ディックの作品を全部読んでいるわけではないし、本が増えていくので、もう読まないものとか好きな作家でもあまり読まないものは一時がっつり処分してしまったので、彼の作品も限られたものしか家にない。
あるのは有名どころである『高い城の男』『ユービック 』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『流れよわが涙、と警官は言った』『スキャナー・ダークリー』、「ヴァリス三部作」(『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』)ぐらい。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』というタイトルにまったくピンと来なかったのでおそらく買ってもないし、前に読んでもいない。
1965年のこの作品の発表時にすでにディックはメタバースや「VR」(ヴァーチャル・リアリティ)でもなく、「MR」(ミックスド・リアリティ)や「XR」(クロス・リアリティ)のようなものもこの作品で書いていたらしい。火星に移住した人たちが、かつて住めていた地球に実際にいるかように過ごせる装置とそれを見せるドラッグについて書いているということが『闇の精神史』に書かれていた。
僕は元々SFとかほとんど読んだことがなくて、2008年頃に仲俣さんからSFの名作みたいなものを何十作か貸してもらって読んでから、たまに読むようになった。そこで一番シンパシーがあったのがディックだった。
もちろん『ブレードランナー』の原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などSF小説の巨匠の一人だし(個人的には『ブレードランナー2049』が最高に好きだけど)、彼が好きだというとSFの通な感じはたぶんしない。あとディックが亡くなったのが僕の生まれる二十日前とかもなんか親しみを感じる。
作品からの影響はかなり受けていて、ノベライズを書いた時に『ヴァリス』からのシーンやモチーフを少し使っているし、主要キャラが双子だったのはディック自身が双子だったから。ディックは二卵性双生児で生まれた。双子の妹シャーロットがいたが、生後まもなく亡くなってしまう(その妹をモチーフにしたのがソニックユースのアルバム『sister』)だったりする。
ディックは成長していく中で、もう一人の自分だった妹のことを考えるようになる。それは「ありえたかもしれない可能性」だった。現実の脆さと個人のアイデンティティが彼の作品のテーマというか軸になるのは、もう一人の自分を失っていたことが大きいと考えられている。
そして、「可能世界」とドラッグによるトリップなどの体験とそのテーマが合わさるとのちに到来することになったネット社会を先取って描いていたように思えてくる。先見性のある作品でもあり、同時に未来への警告のようにも読めてしまう。そして、彼は晩年は神秘主義に傾倒していくが、それらの要素はやはり近年失速してしまっているが、「MCU」(マーベル・シネマティック・ユニバース)がやろうとしているマルチバースにも通じていた。

マルチバースとは、元々理論物理学における理論で、日本語では「多元宇宙論」とも呼ばれます。 その名の通り、この世界に宇宙は1つではなく複数存在していると考える理論です。 異なる生態系が存在し、私たちが生活する宇宙と交わることのない、別の宇宙がどこかに存在するという仮説が提唱されています。

この流れがあったから、ダニエルズ監督『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のあの世界は広く受け止められたし、主人公のエヴリンの他にありえた可能性を見せて、その能力を使うことは発見でもあり、作品の魅力になった。
僕がこの映画が大好きなのは、ディック作品における「ありえたかもしれない可能性」にシンパシーがあったし、そこに惹かれてたからだと思う。そういうのがいきすぎるとスピリチュアルが過ぎてしまう、だけど、何かはありそうだぞとかは思う。仏陀が悟りを啓いたと言われると、この三次元の向こう側にある四次元や五次元に行ける何かを掴んだのかなって思う方が僕には自然だし違和感がない。
クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』の終盤のあのシーンのように、あらゆる可能性やその時間(過去・現在・未来)たちが同時に存在している次元、この三次元の理とはまるで違う世界があるのかもしれないというのはSF的な想像力だとは思うけど、ないと否定することは現在の科学ではまだ無理だし、あるんじゃないかと思う方が豊かな想像に繋がると思う。
そんなわけで『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』を探していたが、いろんな書店に行ったけどないし、ネットで調べてもどこも在庫はない。諦めてAmazonの中古で旧版の装丁と書かれていないものを注文したらやっぱり旧版が届いた。早川書房のサイトでも検索したが、この作品だけ出てこなし、存在していないことになっていた。ないので理由も書かれていない。版元と著作権を持っている家族とかと揉めたか、内容的に今は出せないものということなのかすらもわからない。現在ハヤカワ文庫で出しているフィリップ・K・ディックの作品は統一されたデザインになっているので、それのパターンの新版はもう手に入らないということっぽかった。

夕方、散歩がてらいつも寄っているBOOKOFFに行ったら、新版がほぼ新品の状態であった。二日前はなかったのに、昨日から旧版を読み始めたら目の前に現れた。スピっぽいけど、僕が現実に見たい欲しいと願っていたら物質化したみたいな気持ちにもなる。もちろん、ただの偶然だけどこういうことが積み重なると必然だと思い込んでいき、どんどんスピ的な方向に行きやすくなるというのもわかる。だから、危ないぞとは意識しておく、その客観性がないとどんなことでも主観で考えて周りが見えなくなってしまう。
と書いてももちろん今しかないと思って購入したが、帯を見て色々と理由がわかった。2015年に早川書房70周年記念で「ハヤカワ文庫補完計画」というのをやっていた。実際にこのシリーズで『ファイト・クラブ』も復刊されて僕も買った。
「ハヤカワ文庫補完計画」で『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』は復刊されただけだから、増刷もされないし在庫が無くなれば絶版になったのだろう。だから、早川書房のサイトにも載っていないし、ディックの作品のラインナップに入っていなかった。どうりでどこにもないわけだ。しかし、それが現れてしまった。僕が今想像していることはたぶんうまくいくんだろう。その吉兆だといい。と思うことにする。でも、さらに結果を出すために呼び起こすためには自分ががんばるしかない。

Sonic Youth - Schizophrenia 

 

5月5日
休日のルーティンの起きたら散歩。radikoで『オードリーのオールナイトニッポン』聴きながら中目黒方面へ。ドンキホーテ中目黒店に久しぶりに寄ってみた。バスタオルとかそろそろ買い替えたいなと思っていたので、どんなものがあるかを見た。
家に帰ってからは昨日から読み始めた『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』新版の続きを。旧版は文字が小さくページにぎっしり感があるのでこちらの文字の間隔があって多少フォントが大きい方が読みやすい。

『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』は一九六四年に出版されている。『スノウ・クラッシュ」はおろか『ニューロマンサー』よりはるか以前に出版されたこの小説に、現在のメタバースを予言するような描写が数多く含まれていることに驚きを禁じ得ない。主な舞台となるのは火星。地球は温暖化が加速し、もはや人間が住めない星になりつつある(先見性!)。そこで新たな居住地候補として火星や金星に開拓移民を派遣している。索漠とした火星で暇を持てあましている惑星開拓移民たちは、幻覚剤「キャンD」を摂取してパーキーパット人形なるアバターにジャックインし、二〇世紀アメリカの都市生活をシミュレートできる模型セット、その箱庭の仮想現実生活に束の間の慰めを求める。これだけ書いても、まるで現在のVRを予言した元祖メタバースSFのように見えなくもない。模型セットは現代におけるサンドボックス・ゲームと言い換えることもできるだろう。
木澤佐登志著『闇の精神史』P255「身体というアーキテクチャ―私がユートピアであるために」より

 これまで見てきたように、メタバースは現実世界のあらゆる制約から解放されたユートピア的空間として表象されてきたのだった。しかし、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」はメタバースの必ずしもユートピア的ではない側面を予言しているように見える。もっとも、こうしたVRサイバースペースを巡る陰鬱な側面については、これまでもたびたび登場してきたVRの泰斗ジャロン・ラニアーがすでに早い段階から指摘していた。彼は、VRに取り憑く不穏なヴィジョンについて、スキナーボックスを例に挙げながら示してみせる。そう、以前に私たちが見てきた心理学者バラス・スキナーの、あのスキナーボックスである。
木澤佐登志著『闇の精神史』P259「身体というアーキテクチャ―私がユートピアであるために」より

 たとえるならば、キャンDの世界はVRであり、チューZの世界はMRだ。チューZの世界では、バーチャル空間と現実空間が重なり合う。サイバースペースが現実世界に降りてくるのだ。複合現実を生きる人々は、娯楽、仕事、社交といった日常生活全体がアルゴリズムアーキテクチャによって計測/統御される可能性に曝されるだろう。アテンション・エコノミーの台頭とともに現れた、ユーザーの行動を監視し、予測し、誘導する行動修正のアーキテクチャを、『監視資本主義』の著者ショシャナ・ズボフはスキナーを念頭に置きながら「道具主義」と名付けたのだった。
 現在、ネットとリアルはますますシームレスになりつつある。たとえば、Apple Watchなどのウェアラブル端末は常にネットとも接続しながら、ユーザーの生体内情報(心電・血圧・内臓脂肪など)や生体外情報(運動・睡眠・食事など)といったライフログを収集している。Alexa のようなスマートデバイスは、人々の生活に寄り添いながら、他方でユーザー についての様々なデータ(生活習慣、趣味、等々)を収集している。モノのインターネット (IoT)と呼ばれる現状は、ネットとデバイスが私たちの日常生活にまでくまなく浸透していくことを意味しており、それは取りも直さず個人がますますデータの集積に還元されていく状況とも相即している。こうして、生活空間と消費空間は区別しがたくなっていく。ネ ット=サイバースペースは今や、「ここではないどこか」ではなく、私たちを包囲して留め置くための「ここ」になったのである。
 私たちの世界がますますチューZ的=複合現実的な世界に近づきつつあるとするならば、その世界におけるパーマー・エルドリッチとはすなわちアーキテクチャを統べる者(それは企業やプラットフォームフォーマーであったり、あるいはそれらを所有する特定個人であったりする)に他ならないだろう。
 先に言及した、スキナーのユートピア小説『Walden Two』には、ユートピアの創立メンバーであるフレイジャーという登場人物が、村を見下ろす丘にある「玉座」に腰を下ろし、双眼鏡でコミュニティの活動の全貌を見渡しながら、村を「自分の作品」と呼び、自らを 「神」になぞらえるチャプターが存在する。
 奇しくも(?)、バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論』においても、メタバースでは人間は神に等しい力を手に入れることができと説かれていた。
木澤佐登志著『闇の精神史』P261-262「身体というアーキテクチャ―私がユートピアであるために」より

『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』に興味を持ったのはこの『闇の精神史』からだったけど、小説が残り四分の一ぐらいになってきて書かれていることにフォーカスが合うというか、わかるようになってきた。
この数日は読書用BGMはカマシ・ワシントンのニューアルバム『Fearless Movement』にしている。ディックの作品だとSonic Youthでもいいのだけど、昔のSF小説を読む時に今現在の最新アルバムを聴きながらの方が僕はより読書に入りやすい気がする。時間が混合していくけど、違う世界に入るというのは過去と現在と未来が同時にあるような方がいい。

カマシ・ワシントンが語る、より良い世界に進むための愛と勇気とダンスミュージック 


Kamasi Washington - Dream State (feat. André 3000) (Official Visual) 




18時半からル・シネマ渋谷宮益坂ピーター・ウィアー監督『ピクニック at ハンギング・ロック 4Kレストア版』を観るために家を出る。暑すぎるというほどではないが、やはり5月にしては暑い。渋谷はいつも通りの混雑ぶりで道玄坂を下るのもスクランブル交差点を抜けるのも人の多さで時間がかかる。
『ピクニック at ハンギング・ロック』は昔、小説家の窪美澄さんにオススメしてもらってDVDで見たことがあった。その後、東京創元社から刊行された文庫も読んでいたが、スクリーンで観るのは初めてだった。
この回のみの上映ということもあるしGWだし、日曜日最終回ということで1200円で観れるので八割がた席は埋まっていた。先週も同じ時間帯で『悪は存在しない』を観たのだけど、どちらもオープンエンドであり、観客にゆだねられる感じや観終わってから心に檻のようなものが溜まってくる感じが似ている。そういうものをかつては「文学」と言ったのだと思う。
レストアがかなりできていて、映像が驚くほどにキレイだった。あと終盤の方の展開を完全に忘れていたので、登場人物の相関図というか関係性とか、ラスト辺りについて観て「こんな話だったんだっけ?」と思って新鮮だった。

 ピーター・ウィアーの映画「ビクニック・アット・ハンギングロック」は寄宿舎の少女たち三名がピクニックの途中、忽然と消えてしまう物語だ。彼女たちが何故、消えて、どこに行ったのか、映画は何も説明しない。ずいぶん昔に観ただけなので、記憶が曖昧だが、確か実話に基づいた映画だったのではなかったか。
 映画が印象深かったのは消えた少女たちの中では例外的に消えずにピクニックから戻ってきた少女が一人いたことだ。消えた少女たちはあるいはどこかで永遠の少女期を生きているのかもしれないし、映画はそのような甘美なファンタジーとして読み取れなくもなかったが、ぼくは消えずに寄宿舎に戻り、そして、一人、ピクニックではなく外の世界へと再び出て行った少女の存在にこそ魅かれた。神隠しされた少女より、神隠しされ損ない、そして大人になった少女の方に、だ。
 近代に入ってからつとに神隠しが増えたと柳田國男はどこかで書いていた気もするが、では、不意に消えた者たちは戻ってこないのか。柳田の「遠野物語」にはこう、ある。

〈黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。〉

 消えた少女は老婆になって戻って来たが、真相は違った、と記す人もいる。老婆が戻る度に嵐が起きたので、とうとう村人は「道切り」をして彼女を二度と村に入れなかった。だから、嵐がくると人々は先の引用のように囁くというのだ。
 消えた者たちにとって、元いた場所に戻ることは幸福なことではない、とこの寓話は告げている。戻って来たら、「ピクニック・アット・ハンギングロック」の消えなかった少女のように、そこにもうとどまるべきではないのだ。

 自分にそういう衝動があったかと言えば正直覚えていないし、生々と自身の少年期のことを語る大人は嘘をついていると思った記憶だけはあるが、たいていの若者はある刹那、「ここではないどこか」に「消えて」しまいたい、と思う瞬間がある。それは、そう感じた当人にとってしばしば死への衝動として錯誤されもするが、少なくとも「死」は「ここではないどこか」の一つの選択肢にしか過ぎない。
「近代」とは人が村を飛び出して都市で生きることが可能になった時代だ。ならば神隠しの少女たちの出奔先は都会であったのかもしれない。無論、都会に行ったところで上手くいくとは限らないし、途中で殺されてしまうことだって多分、ある。
 だが、「死」を待望する感情の向こうにもう一人、「出発」を待望する自分はいつの時代にもいるはずだ。それがあまりにも近しい感情だから区別はつきにくいし、「死」という一番、不確かなものに確かさを感じるという錯誤から逃れるのも簡単ではない。それでも出発を焦燥する、その不確かな感情はやはり描いておきたかった。

 とはいえ、その先にはたいていの場合、「死」と同じくらいの絶望やひどく退屈な日常しか待っていないけれどね、と同時に描くこともぼくは忘れない。そういう皮肉めいた大人になろうというのは大人になってからずっと自分に課してきたことだから譲らない。

大塚英志著『夏の教室』あとがき P256-258より

窪さんにオススメしてもらう前に、2007年に刊行された『夏の教室』あとがきでこの作品のタイトルは知っていたが、観てみようと思うほどには至らなかった。だけど、「「死」を待望する感情の向こうにもう一人、「出発」を待望する自分はいつの時代にもいるはずだ」という部分はずっと残っていた。もちろん10代の思春期や青春期の方が「死」に憧れて、「ここではないどこか」へ行きたいと思うだろうし、その先の想像力もおそらくない。
大塚さんが書くように「ここではないどこか」へ辿り着いても、そこでの「日常」が待つだけということは10代の頃はわかりにくいだろう。ある一定の年齢になったり、社会に出たり働いたりするようになってからそういうことは徐々に感覚としてわかっていくものだと思う。
この映画の少女たちがどこに消えたのかは謎だ。僕も前に書いた小説に石(モノリス)の向こうに消えた女性を救いに行くというエピソードを書いたのはこの作品の影響だった。
きっと、そんな風にいろんな人たちがオマージュやインスピレーションにしていき、その時代ごとの若者や誰かに届いている母体みたいな物語になっている。

 

5月6日

ランチ友達であるSさんが関わっているリーディングシアター「シャーロック・ホームズシリーズ」の朗読劇にご招待してもらったので、『四つの署名』古川雄輝 × 名村辰を観に池袋サンシャイン劇場にお昼過ぎにやってきた。
この劇場は初めてで、こちらのサンシャイン方面に関しては10年以上ぶりに来た。最初東口に出ないといけないのに西口に出て迷った。昔サンシャイン水族館とかに足を運んだぐらいでこの辺りはまったく縁がない。池袋は舞台を観に東京芸術劇場に来るぐらいで、最近ようやく最大級のIMAXがあるグランドシネマサンシャイン池袋に来るぐらいで方向音痴というか建物や方向感覚をいまいち掴みきれていない。
Sさんから名村さんともう一人の役者さんが出る回で来れたら観てほしいと言われていて、タイミングがあったのが今日だった。
劇場は昔ながらな雰囲気もある、肘掛けが左右にあるが両隣で使うみたいな感じで席自体も広いわけではない。客層は基本的に出てくる役者が男性二人ということもあるので、ほとんど女性客だった。なんというかマダムと言っても差し支えのないような僕よりも少し上ぐらいの女性が多かった印象。二十代ぐらいの女性もいたけど、年齢層自体は高く感じた。舞台の価格設定的にもそうなるかなって思う。
あとから聞いた感じだと古川さんのファンの方が多かったみたい、ロビーでも何人かが集まって世間話みたいな感じでしていたので、彼のファンでいろんな舞台を観に行ったりしてファンダムというか、友達になって繋がっているんだろうなって。
こういうのを見ると女性はこうやって同じ趣味で集まって友達になっていく、それも年齢はあまり関係ないように見える。その世代ごとで友達になったり、離れていても共通の好きなものでやりとりができていく。でも、これが男性は難しそうな気もする。中年以降の男性が友達がいない問題のことをちょっと考えた。

道玄坂あたりのライブハウスで地下アイドルっぽい子たちのライブあとの握手やチェキ会みたいなことをしているのをたまに見ると男女どちらもいることもあるけど、中年男性でも若い男性と一緒にいて話をしていることも見かけなくもない。そう考えると舞台的なものは女性が根強いという部分もあるのだろう。
ももクロ高城れにさんが出ていた舞台はももクロのファンがたくさん来ていたが、彼女たちのファンは男女どちらもいてそこで強固な絆ができているように見えた。
男性もどこか現場に出ていくような趣味を持つと顔見知りができて、そのうち友達もできやすい部分はありそうだけど、SNSとかやらかしたり距離感を間違えたりしそうだし、その辺りの匙加減は比較的失敗しやすい気がする。
自分が実際に中年になっているけど、ライブとか基本的に一人で行くことが多いし、そこで友達を作りたいと思わない。いわゆる現場で知り合いが多いとそこのコミュニティでの自分の振る舞いをしないといけなかったりするから、誰とも関わらないで観たいものを観て、聴きたいものを聞いた方が楽だなとも思ってしまう。だから、友達があまり多くはないのだろうけど。
TwitterことXで「中年になれば忙しいから年に一回会えば親友だ」みたいなポストがあった。わからなくはない、だけど、年に一回会うかよりも普段からラインしているとか定期的にSNSでもいいからやりとりをしている方が僕の感覚では親友な気がする。僕は年に一回なんかの用事や予定で会うよりは普段からやりとりをしている人の方がシンパシーも強いし、友達だという感じがしている。
年齢を重ねると仕事や家族のこともあって、どんどん会いにくくなったり、やりとりは途絶えがちになる。だから、定期的に会うとかやりとりをするのは親交を続けるための努力とも言える。その努力をしても友達でいたいかどうか、そうならなくなっていく人は自分にとっては対して友達という感じは薄くて、知り合いって感じがするし、そういう意識になっていく。実際にこの数年、コロナパンデミックもあって直接会う機会が減ったけど、あれがいいタイミングになって多くの人にとっても友達関係が清算された部分もあると思う。

シャーロック・ホームズシリーズ」は最初の数冊読んでいるので、今回の朗読劇で朗読された二作品は読んでいるはずだった。二人が出てきて朗読が始まるのだけど、古川さんがシャーロック、名村さんがワトソンを、時折他の登場人物の声をやったり、状況説明みたい文章も読んでいく。途中休憩があって1時間45分ぐらいの上演時間だったと思うが、前半の中盤ぐらいからちょっとウトウトしてしまった。
朗読劇はどうしても動きがなく、椅子に座ったままというのもあるが、結局のところ出ている役者にどれほど興味を持っているかで集中力の持続が決まるのかもしれない。
1月に観た鈴木おさむさん脚本で酒井若菜さんと男性ブランコ浦井さんの朗読劇は緊張感があった。集中力はずっと持続はしなくてもやはり最後まで寝なかった。浦井さんが座っていたけど立って、とか動きは多少あった。今回も休憩あけからは二人が立って朗読をしていた。演劇ではないので動きはあまり付けられないとは思うが、それをどこで入れるかもけっこう重要なんだなとわかった。
二人のコンビネーションというか組み合わせ自体はたぶん良かったと思う。シャーロック・ホームズシリーズ好きなら出てくる固有名詞もすんなり入ってきやすいかもしれないが、どうしても舞台がイギリスなので登場人物たちの名前に馴染みがないので、誰が何をしているのかが分かりにくい部分もある。それを踏まえて朗読する役者の魅力や見せ方がより大きな意味を持つものなんだと思った。

鑑賞後に友人Sさんが出てくるのを劇場前で待っていたら、偶然別の友人Tがお子さんと歩いてきた。プラレールのイベントをやっているみたいでそれに来たらしく、あまりにも偶然すぎてビックリした。SさんとTも知り合いで何年も会っていないので、出てくるのを待っててと話していたが、お子さんが人見知り発動をしていてプラレールの方に早く行きたがっていたので無理強いはできずに、二人が会うのは見送りになった。
最寄り駅までSさんと帰るまで色々と話をした。休日の茶沢通りはほどほどの人手で賑わっていて、自分がずっと住んでいる町だけどここはいい町だなって思う。個人商店もたくさんあるし、交通の便もそこそこいいし、休みの日に歩行者天国になってみんな歩いている平和さがいい。
Sさんとわかれてから一度家に帰ってからスーパーに寄って買い物をしてから、もう少し残っていた『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』を最後まで読んだ。思っていたよりも自分が今書きたいテーマと近い内容だった。こういうタイミングで読めってことでしょ、って読み終わって思った。

 

5月7日
起きてから少しだけ作業をしてからリモートワーク。『空気階段の踊り場』『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』『キタニテツヤのオールナイトニッポンX』『フワちゃんのオールナイトニッポン0』をradikoで流しつつ仕事を。
お昼休憩になったので散歩がてら駅前のTSUTAYA書店へ。


前編集長の矢野優さんから新編集長の杉山達哉さんに交代した一発目は創刊120周年記念特大号だった。元々記念号なので出たら買うつもりだったのは、古川日出男さんもエッセイを書かれていることもあるし、新潮新人賞デビュー組の上田岳弘さん小山田浩子さん滝口悠生さんの鼎談も収録されているし、村上春樹さんと川上未映子さんが行った朗読劇で朗読した短編が掲載されているのも魅力的だった。
買って帰ってから古川さんのところから読もうと思って、ページをめくっていたらエッセイの方で一人だけ長い人がいるなって思って、リターンして確認したら村田沙耶香さんのもので気になって読み始めたらご自身の性被害について書かれてる文章だった。そこでも言及されていた『地球星人』は読んでいないので、描写などがどうなのかは知らないのだけど、実体験を含めてしっかり書かれているみたいで、エッセイを読んでいくと胸が苦しくなっていった。
性被害というと男性から女性というものが多い。声にならない、出せない人もいるから実際には男性から男性へということもあるし、女性から男性へということもあると聞く。
近年の#Me Too運動以降に今まで性被害にあってきたけど声を上げられなかった人たちが勇気を出して、自分の尊厳を守るために、これから生きていくために、そういう人をこれから増やさないために声を上げ始めている。
僕自身も20代から30代終わりまで影響を受けてお世話になった人が性加害者として報道をされて活動ができなくなった。自分が応援をしていたこと関わっていたことの裏で起きていたことに直接ではないが、間接的に関わっていたような気持ちになったりして苦しかった。性における問題は他の問題同様に当事者同士だけの問題では収まるものではないと痛感した。
自分が応援してきた人、お世話になってきた人、あるいは関係者や血縁関係だったり知り合いが起こす事件というのは自分自身が加害者でなくても、そのことを考え続けることになる。その場合はもうその人を擁護することができない。したいと思ってもするべきはでなくなる。そういうことも最初は心苦しいけど、まずは被害に遭っている人のことを考えないといけない。それだけはこの数年ではっきりとわかったし、二次加害をうまないようにすることは意識的にやっていかないといけない。


仕事を18時に終わらせて、急いで電車に乗って阿佐ヶ谷ロフトAへ。「宇野常寛と渡辺範明が物語りについて語る夜」を観に。
登壇者の宇野さんからご招待していただいたので、夜のライティング作業は今日はなしにしてやってきた。何度も阿佐ヶ谷には来ているし、このロフトの場所も知っていたのに実は一度も来たことがなかった。ロフトグループの中でも僕には一番馴染みがない。

評論家 宇野常寛ゲームクリエイター 渡辺範明。
共に1978年生まれの2人が昨年、小説『チーム・オルタナティブの冒険』とマンガ『ボルカルス: Kaiju on the Earth』で同時期に物語作家デビューした。これまで別分野で活躍してきた2人がなぜ今さら物語を書くのか?
どんな作品に影響を受けてきて、今なにをどのように描きたいのか?
近くて遠い2人がほとんど初対面で語る、とってもレアなトークショーです。

宇野さんの小説『チーム・オルタナティブの冒険』は発売時に読んでいたのだけど、渡辺さんのことは僕は不勉強で知らない方だと思っていたら、前に読んだ『国産RPGクロニクル』の著者の方だった。
お二人共富野由悠季信者であり、同学年なのでリアルタイムで見ているものは同じだけど、オタクになっていく過程ではお母さんの友達のアニメ好きな人から昔のアニメのビデオをたくさん借りて見ていたことで同世代よりも前のカルチャーに親しんでいた宇野さんと渡辺さんはズレがあったりもするし、同じ文化を共有もしていたのもあって、加速度的にトークは盛り上がっていき、どちらも話す話すという感じになっていた。
渡辺さんが原作をやっている漫画『ボルカルス』はサンデーうぇぶりで連載しているようで、「サンデー」という磁場というか雰囲気のこと、お互いに大好きな『パトレイバー』における押井守ゆうきまさみの方向性の違いなど白熱していたし、二人が話すのが楽しそうだった。この感覚わかるでしょ? わかるけど僕はこうなんだよ、僕はこっちが、みたいなやりとり、そこに知識の豊かさと批評性もあるので僕のような門外漢でも楽しめた。

お二人は僕よりも学年でいうと三つ上なのだけど、この80年前後生まれは特撮ものと仮面ライダー機動戦士ガンダムの冬の時代というかリアルタイムでの放送がなくなっていった世代だったりする。仮面ライダーはBLACKとRXのみ、ガンダムSDガンダムを需要していた(その対抗馬としてタカラトミーは『魔神英雄伝ワタル』を出していた)など、リアルタイムの作品がないので過去のアーカイブや雑誌や怪獣事典みたいなものを読み漁った。その飢餓感がデカかったという話をされていた。
僕はSDガンダムだけを楽しんでいたので、リアルガンダムにはほとんど興味を持たなかったが、オリジナルというものに触れずにマーチャンダイズとして展開していった玩具とメディアミックスみたいなものが原風景だった。
実際に宇野さんたちを含む僕ら80年代前半までと80年代後半以降は明らかに文化圏が違う。それは「ポケモン」と「ハリーポッター」に触れているかどうかみたいなことは大きいんじゃないだろうか。僕は一度も「ポケモン」をプレイしたことがないし、ピカチューしか名前を知らない、「ハリーポッター」も一度も読んだことがないし、映画も観たことがない。そういう大きな物語ではないけど、同時代的なカルチャーは下の世代(弟や妹世代)の共通項になっている気がずっとしている。

最初に配られた質問用紙に出来上がった作品を後から読み返したりした際に無意識に影響が出ているなと思う作品はあったりしましたかと書いた。それが質問の最初に読まれたが宇野さんは批評家で編集者であり、渡辺さんはゲームプロデューサーだというのもあって、どちらも最初にこういうオマージュとか意図的に作品に入れているからないという回答だった。そうなのか、とちょっと僕はびっくりした。
僕は自分が書いたものを後から読んでみて、思いっきりこれはあれをトレースしているなって思うことがあったりするから、視点を編集者とかプロデューサー側に寄せていった方がいいのかもしれない。
三時間半ぐらいのトークは全体的に非常に楽しめた。問題はロフトのクッション性のないスチールにずっと座っているのが辛かった。最後の方はそれで集中力が切れたのもあるけど、長時間のトークイベントをやるところはそのクッションとかはもうちょっといいものにしてほしい。
終わってから宇野さんに挨拶して阿佐ヶ谷駅から新宿へ、そこから渋谷駅で降りて歩いて帰った。23時代に夜の街を歩くのは久しぶりだった。GW終わったというけど街は賑やかでたくさんの酔っぱらいやテンション高い人たちが楽しそうにしていた。人手がいっぱいで歩くのも中々進まないのは嫌いだけど、こういう光景は好きだったりする。

 

5月8日
目が覚めてからすぐに何かする気がまったく起きなかったので寝転んだまま、radikoで『アルコ&ピースD.C.GARAGE』を聴いた。なんかタバコ臭い酒井さんがコンビニに行かされて、臭いを消す何かを買ってこいみたいなロケというかスタジオとコンビニの二元中継みたいになっていた。
リモートワークが始まってからは毎週水曜日のルーティンで『JUNK 爆笑問題カーボーイ』『星野源オールナイトニッポン』『あののオールナイトニッポン0』をBGM的に流した。いつものルーティン、同じような流れで日々が進んでいくことにちょっと安心する。
GWというイレギュラーな日々は心身ともに日常からズレてしまうので崩しやすかったり、その日常に戻りにくくなってしまう。だから、新社会人がGW明けに仕事を辞めてしまったり、とかが起きやすい。人は何かを初めてそれが習慣化するには100日は続けないといけないものらしい。だから、4月入社の人たちはまだその三分の一で日常ではない日々が数日続くだけでそれがリセットされてしまう。
僕はG Wもいつも通りではあったものの、リモートワークの仕事はスケジュール通りなので祝日は当然ながら休みだった。それでリズムが崩れたのか、やるべきことがあるけど気が乗らない状態が続いている。
でも、〆切や期限というものはやってくる。逆算してギリギリまで動かない、やっとヤバくなって腰を上げてみてもヒイヒイ言いながらなんとかなればいいけど、そうなるとも限らない。でも、どうしてもギリギリまで待ってしまう、いややるのを後伸ばしにしてしまう。よくない傾向だ。でも、気持ちが乗らない以上は難しい。でも、やらないといけないことだけはわかってる。


この二日間ほどで部屋にある本棚から処分するものをまた選んでバリューブックスに送るようの段ボールに詰めた。でも、今の状態でほとんど好きな作家さんとかで固めているのでそこからもう読まないものとかあっても読まないであろうものを出して確認していった。同時に本棚の整頓というか並びを変えたりするという気分転換。
文庫をもっとがっつり減らしたかったけど選んでみると難しい。それでもなんとか二箱分は選んで詰めた。今回は漫画の本棚がキレイになったので良かったけど、漫画家の偏りがすごい。ポストカードとかをなんか飾れないかと思って使わなくなったDVDデッキとモニターの部分に並べていて、そこにちょっとしたアイテムも置いているけど、この位置でしばらくは良さげ。

【神回】永野が再びヴィレヴァンで吠える!ついに切り拓いたサブカルの新境地とは…!? 


永野さんのヴィレヴァンで買い物第二弾、そして前回同様に長谷川さんが一緒に回っている。長谷川さん映画とか大好きだからA24とかの情報とかキャッチが早いのでSNSで知るきっかけになったりしているし、映画関連の舞台挨拶とかイベントでもちょこちょこお会いしていたりする。
二人とも情報量があって、それについて自分なりの気持ちや影響をしっかり言葉にできる人なので、二人の番組とか受容がありそうな、サブカル入門のめちゃくちゃいい入り口になりそう。
この動画の後の永野さんだけへインタビューしているもので、「サブカルチャー自体が社会だから」という話はまさにそうだなって思った。僕はサブカル的なものが好きだけど、詳しいわけでもないし深くもないから、実際そういう人たちとやりとりをしたいとはあまり思わないし、群れたいとも思わない。大塚英志関連が好きというのが核に、軸にはあるけどそういう人はそこまで多くないし、大塚さんに影響を受けてる人はいろんなジャンルにもいると思うけど群れない人な気もする。

 

5月9日
寝る前に『新潮』最新号に掲載されている村上春樹さんの短編『夏帆』を読んだ。朗読用に書かれたものだと思うのだけど、良くも悪くも村上春樹っぽいと感じられる短編であり、『女のいない男たち』の流れにあるのかなって思ったりした。
読み進めていくと左上に「木山捷平短編小説賞」という広告が目に止まった。「第20回」の下に「令和6年度笠岡市木山捷平文学選奨」とあり、その中でも「笠岡市」という言葉、僕は高校から地元の井原市ではなく笠岡市の商業高校に通っていたし、幼い頃から父がよく連れて行ってくれた釣りは笠岡市に面する瀬戸内海だった。そして祖父は僕と同じ商業高校、父は工業高校と、兄を除いた我が家の男子は高校からは笠岡市の学校に通っていた。
というように馴染みのある「笠岡市」というワードに手が止まった。ただ、この木山捷平という作家のことはまったく知らず、調べてみると木山捷平という人は太宰治と同人誌を創刊したり、井伏鱒二と知己の関係だったりと今も残っている小説家たちと交流もあり、芥川賞直木賞候補になっている人だった。
選考委員には佐伯一麦さんの名前があり、1996年から2005年までの間に設置された笠岡市木山捷平を記念した「木山捷平文学賞」の第一回を受賞されていた。その流れもあって選考委員なのだろう。その期間はまだ僕は純文学を読み始めていないから知らないはずだ。
木山捷平文学賞」が終わってから2006年から公募新人賞として「木山捷平短編小説賞」ができたらしい。短編で原稿用紙50枚以下なら何か書いてみたい。
元々今書いている長編は地元を舞台にしていて、笠岡市もちょっと出てくるからその作品を書き終えたら、スピンオフで登場人物の誰かを主人公にして短いものを書けたら応募するみたいな方がよいのかもしれない。とりあえず、木山捷平の短編を読んでみようと思って、Amazon講談社学芸文庫の二冊頼んだ。

起きてから〆切が近づいたライティング作業を開始しないと思ったが、ダメだった。寝ながら『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴いていたがそのまま軽い寝落ちをした。8時を過ぎてもう一度目が覚めたので、とりあえず体を動かそうと思って家を出た。いつものルートを『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴きながら歩く。
代官山蔦屋書店に寄って店内を物色するが、新刊も欲しいというものもないのでそのままお店を出てきた道を戻っていく。佐久間さんのラジオは大学時代の友人たちと麻雀をやるために熱海の方に四人で車に乗っていき、自動雀卓がある宿に泊まった話をしていた。大学時代のノリではあるが、子育てが一段落した40代後半の友達で行けるというのはすごく羨ましいし珍しいことなんじゃないかなって思う。
友達関係が続くのも難しいのはそれぞれの経済的な側面と家族的な側面や諸々がズレてくると昔の関係のままでいるのは難しくなる。それがズレたり離れていっても一緒にいれるというのが友達だとすると、大抵の人は友達はいないのではないかなって思わなくもない。
佐久間さんのラジオの強さはいろんなエンタメを実際に摂取していて、自分の判断基準で話せることも大きいけど、家族のことや飲食店に行った話とか極めて個人的な話をとても楽しそうに話すことなんだと思う。こういうおじさんになりたいなって思う若い男性のファンもたくさんいるんじゃないかな。

自主映画『アット・ザ・ベンチ』第1編「残り者たち」|Independent Film “At the Bench” Episode1 ‘Remnants’



自主映画『アット・ザ・ベンチ』 第2編「まわらない」|Independent Film “At the Bench” Episode 2 ‘Sushi Doesn’t Go Round’



佐久間さんがラジオの中で今週のエンタメとしてオススメしていたのが奥山由之監督の『アット・ザ・ベンチ』だった。第二作目となるこの作品は脚本はダウ90000の蓮見さんだったりとすごいメンツが集まっている自主映画。

──野田さんの作品への出演は、2021年の『THE BEE』以来2度目となる長澤さん。『正三角関係』に出演が決まって、どんなお気持ちでしょう?

「『THE BEE』の公演が終わった時から、また野田さんの演出を受けたいと思っていたので、とても嬉しいです。『THE BEE』は出演者が4人のお芝居だったので、いつか出演したいと思っていた大勢の出演者で作る野田さんのお芝居、しかも新作に参加できるというのが、また嬉しくて。どんなふうにできていくのか、その過程を味わえることも楽しみです」

──どういったきっかけだったのですか?

瑛太さんが出ていたNODA・MAPの『逆鱗』(2016年)を見に行った時に楽屋に挨拶に行ったら、瑛太さんが『この人、ワークショップに出たいみたいです』『長澤さんがワークショップに参加したいと言ってます』って、廊下でみんなに聞こえるように言ってくれて(笑)。ええっ!?と思いましたけど、NODA・MAPの舞台は前からいくつか見ていて、いつか自分も出てみたいという思いをずっと持っていたので嬉しかったです。外に出かけて行くって、いいことだなと思いました(笑)」

長澤まさみさんがNODA・MAPの舞台『正三角関係』で松本潤さん、永山瑛太さんらと共演!

先行チケットを申し込んでいるけど、取れるか不安な野田地図『正三角関係』に出演する長澤まさみさんのインタビュー記事。『逆鱗』を観て嗚咽するほどに心が揺り動かされたのだけど、『THE BEE』も観に行っていた。
インタビューでは『逆鱗』の瑛太さんが出演したことがきっかけでワークショップに長澤さんが参加することになり、『THE BEE』に繋がり、そして今回の本公演に出演ということだった。すげえ行きたい、チケット取れてほしい。
偶然だけど、上記の奥山由之監督の自主映画二作品とも衣装は伊賀大介さんで、このインタビューの長澤さんのスタイリングも伊賀さんという偶然。『正三角関係』の公式のビジュアルポスターの衣装も伊賀さんだったし、長澤さんがメディアに出る時は伊賀さんにお願いしているということなのかもしれない。今度、伊賀さんにお会いできる時があれば聞いてみたい。


夕方になってからニコラに行ってガトーショコラとアルヴァーブレンドをいただく。
一時間ほどして家に帰ってからライティング作業の続きを開始。分量が多くて削る部分がめちゃくちゃ多いのでその見極めが難しい。

 

5月10日
昨日の夜にやっていたライティング作業でなんとか終わりが見えてきた。3時過ぎには寝て7時前に起きたが、どうも体がダルい。しかし、時間があまりないのでリモートワークまで作業の続きをする。
深夜帯に『都築拓紀サクラバシ919』と『ハライチのターン!』『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』を半分聴いていたので、その続きから聴き出した。リモートワーク開始後からは『マヂカルラブリーオールナイトニッポン0』とTVerでバラエティ番組を流しながらBGMで作業を。
今週に入ってから、『三四郎オールナイトニッポンアーカイブが最新のものと過去放送回の新しくアップされるもの以外は聴き終えていたので、新しくSpotifyで『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画(オールナイトニッポンPODCAST)』を暇があれば聴き始めた。21年10月の第一回から聴き始めて今は22年8月の第44回まで進んだ。集中的に聴いていることもあってか、トム・ブラウンの二人の声に慣れてきたし、やりとりが微笑ましく感じられるようになってきた。
声から入って好きになるというのはラジオの魅力の一つでもあるんだろう、実際に番組の中でもこのPODCASTを聴き始めたことでファンになって、単独ライブに足を運んだという人もたくさんメールを送っていて紹介されていた。
僕自身も三四郎のラジオを聴いてファンになって単独ライブに行っているのでその気持ちはよくわかる。音声メディアは多くのパイは取りにくいかもしれないが、熱狂的だったりパーソナリティーへの信頼度や親近感が高まるものだというのがこの数年で身に染みてわかってきた。


昼休憩になって家から出てTSUTAYA書店であだち充著『MIX』22かんが出ていたので購入。明青学園自体に大きな試合はないものの、終盤でライバル校同士の試合が始まった。投馬と走一郎が二年生で秋季大会予選を戦っているので、この後怪我をしている投馬が完治して三年生の夏の最後の大会に、という感じだと思うのだけど、その間に大きな出来事や展開がもう一回ほどあるだろうなと思う。
あだちさんにはこの作品を最後まで描き続けて完結させてもらいたい。年齢的にも最後の連載になる可能性が高いし、今までの集大成でもある『MIX』が見事なあだち節、あだち充濃度が高い物になってくれることをファンとしては願っている。

発売中の文芸誌「新潮」に、短いけれどもホントのことと言い切れる、同じような創作についてのエッセイを発表した。しかし、こういう〈創作観〉や〈創作論〉は、随時口にしてゆきたい。たぶん作者と読者の2層が共有することで、未来の文学がゆるやかに起伏するかもしれない、と真剣に直覚しているからだ。起伏なのだから、浮上するばかりではないとの予覚があるわけだが、少なくとも〈現状維持〉の物悲しさよりは遥かにポジティブな行動だと信じている。
古川日出男の現在地』「異界・現世・夢の浮き橋」2024.04.27 – 2024.05.10 東京・埼玉

リモートワークが終わってから、一旦休憩して古川さんのブログがアップされていたので読んだ。『新潮』のエッセイは読んでいて、この文章を受けてもう一度読み直そうと思った。古川さんお創作論は今までも何度か文芸誌に掲載されているのだけど、一冊にまとまっている訳ではないで、まとまると読者だけではなく作家にもかなり有効で刺激的な物になると思う。

ano - 絶絶絶絶対聖域 feat. 幾田りら / THE FIRST TAKE 


20時からの公開に合わせて見た(聴いた)THE FIRST TAKEの動画。『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』アニメ映画化で原作者の浅野いにおさんがオーディションで主人公の一人である凰蘭(おんたん)役であのを選んだことでこの曲生まれてる。あのちゃん自体が今見たいな第ブレイク前のオーディションで選んでいるというのもすごい。
浅野さんの作品の実写映画化はぶっちゃけそこそこな作品しかなくて、一番の収穫はアジカンの『ソラニン』くらいだという印象がある。最初から制作に関わったこの『デデデデ』はアニメだし、この曲も素晴らしい。あとは後章の映画だけのオリジナルな結末がどうなるか。

一回終わった作業分を編集さんに送ったけど、もうひとつ残っている原稿をひと休憩してから始めたが、これがうまくまとまらない。テーマはわかっているけど、素材が明らかにそれとはズレているし、まとめるにはかなりうまく構築して繋ぎ合わせないといけない。集中力もいるけど、その想像力がうまく作動しないとページが進んでいかない。難儀すぎる。

23時ごろに友人Aからラインが来た。新TwitterことXのURLが貼られていて見てみると、group_inouの活動再開するパソコン音楽クラブとのLIQUIDROOMライブのお知らせだった。
活動休止の時の最後のWWW-Xのライブも行ったし、ファーストアルバム収録曲『MAYBE』は僕のゼロ年代の「心のベスト10 第一位はこんな曲だった」に相応しい一曲なぐらいに好き。友達も僕も先行抽選に申し込んだけど、LIQUIDROOMなら広さもちょうどいいし、再開する二人を見るのはベストだと思う。

寝る前にApple TVの『シュガー』エピソード7を見たら、前回の終わりの衝撃的な展開のさらに先に行っていた。このドラマ本当になんなんだろう、大好きか全否定のどちらかになるタイプの物語になっている。アメリカではトンデモ作品みたいなことも言われているらしい。日本の方がわりと受け入れやすい気もするが、どうなのだろう。

 

5月11日
起きてからradikoを流しつつ、昨日のライティング作業の続きを開始。パズルみたいに順番を入れ替えたりして、流れを調節して進めていく。ページ数も決まっているので何を削っていくか、残してまとめていくかの取捨選択、そこから繋がりなどのない部分をどうブリッジさせていくか、朝から脳みそを使うから冷蔵庫に入っているチョコレートのお菓子を一箱全部食べた。
いつもなら散歩に出る時間もずっとパソコンの前で作業して、お昼も食べずに14時前になんとかまとまったので編集さんに送信。とりあえず、一旦僕の手は離れた。

『JUNK バナナマンバナナムーンGOLD』日村バースデー!今年も星野源さん登場!歌のプレゼントは?!


バナナムーンGOLD」は今週の「星野源ANN」で星野さんが言っていたように日村さんの誕生日なのでゲスト出演。その時点でもフェスとかで忙しすぎて今回は誕生日ソングは作れていないんですよ、と言っていた。
バナナマン星野源の三人はこの日村さんの誕生日近い放送回で揃うというお約束になっている。赤えんぴつ武道館ライブでも星野さんは元赤えんぴつメンバーとして映像でゲスト出演していた。日村さんとオークラさんが星野さんの誕生日を祝いに「星野源ANN」に行った時は武道館前だったのでほとんど祝いにせずに、武道館に立つ時のことを中心に聞いていた記憶がある。
その放送の時にも、赤えんぴつの武道館前の「バナナムーンGOLD」収録放送回でも『光の跡』が流された。タイミングの問題もあるのだけど、友達が亡くなった時に何度も繰り返して聴いた曲だった。今週の「バナナムーンGOLD」でも流された。本当にいい曲だなと改めて思う。
そして、赤えんぴつ武道館ライブの話を三人でしていた。数ヶ月前だったら、この放送を聴きながら泣いていたかもしれない。でも、ゆっくりと時間が経っていて、多くはないけど心を許せる人たちには友達のことを話して聞いてもらった。話すこと自体で自分を癒すという作用があるのは知っていたけど、実感もした。
もちろん友達のことを忘れるわけでもないけど、少しずついないということを認識していくというか、受け入れていくためにも語るということが大きな役割を果たすのだと感じている。

お昼過ぎだったけど、風が多少あったので気温が高くても汗だくだくにもならなかった。いつものように代官山蔦屋書店まで歩きながら、『三四郎オールナイトニッポン0』を流した。小宮さんと相田さんそれぞれのエピソードトークがどちらもおもしろくて、歩きながら笑ってしまった。今二人ともすごく脂が乗っているというか、おもしろさが安定してきてるのかもしれない。武道館までの助走だと信じてる。もし武道館ライブで滑っても勢い余ってしまってもリスナーはたぶん楽しんでしまうけど

夕方から作業をして、寝る前にNHKプラスで『岸辺露伴は動かない』最新回の第九話を見る。原作というか、そもそも「ジョジョ」は漫画で読んだことがない。でも、仕事の関係でノベライズだけ読んでいる(そこからドラマ化されたエピソードもある)が、今回も高橋一生露伴ぶりが最高だった。あと音楽が菊地成孔と新音楽工房なのでそれも味わえた。
映画のルーブルのやつがちょっとイマイチだったし、高橋一生さんの年齢もあるだろうから、もう一回ぐらいドラマでワンシーズン(三、四話とか)やってくれないかな。

 

5月12日
7時過ぎに起きてからTVerradikoで見たり聞いたりしてから9時過ぎに家を出て、シネクイントで10時から上映の『マンティコア-怪物-』を鑑賞。客は僕とカップルの三人しかいなくて、まったく客が入っていなかった。
作家の樋口さんに前にオススメしてもらっていたのでとりあえず観ておこうかと思った。あと時間的にちょうどよかったからだが、観てみたらなんでこんなにも客が入っていないのはわかった。純文学のすこぶる出来の悪い作品みたいにしか見えなかった。

映画を観終わってからタワレコ渋谷へ。『絶絶絶絶対聖域』は発売した時に買っていたのだけど、『青春謳歌』は買っていなかった。昨日「THE FIRST TAKE」の動画も見たのでちゃんと揃えたいなと。

トム・ブラウンのオールナイトニッポン0(ZERO) | ニッポン放送 | 2024/05/11/土 27:00-29:00 

渋谷と家の行き帰りで『トム・ブラウンのオールナイトニッポン0』をradikoで聴いた。Spotifyの方で『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画(オールナイトニッポンPODCAST)を今60回ぐらいまで聴いていて、地上波(でいいのか?)の方、本家に登場するのも楽しみにしていた。こちらも昨日聴いた「バナナムーンGOLD」同様に放送の半分過ぎた頃にゲストが登場し、さらに終盤にまた別の人がゲストで出てきた。

いろんなラジオ聴いているけど、自分にとって聞ける声とそうじゃない声が明らかにある(毎週聞けるかどうかっていうことも含め)。付き合いが長くなる人とか話をあまりしなくても一緒にいれるかどうかというのもその人との関係性なんだけど、そこに声というのはけっこう大きい要素なんじゃないかな。
僕は声をかけてもらって「スケジュール的にしんどいな」と思う時でも、行こうと思う人とそうじゃない人の差ってタイミングが一番デカいけど、好きな声かどうかっていうのもある気がする。
骨格と肉とかがある種スピーカーになって声が出るから、声が好きならその顔も好きだろうし、その逆も然りということなんだと思う。もちろん苦手だった声も慣れて一緒にいるのが嫌ではなくなったり、好きになるということもあるとは思う。
僕はあのちゃんや夏帆さんの顔(と声)が好きだけど、おそらく元カノさんがその系統だったこともあって、自分の中の好きみたいなものが形成されているから反応してるのかなと思うことがある。そんな風に自分の人生における経験や関係性において好みが変わったり、出来上がってくる部分もあるだろう。僕とは真逆でタイプに拘らないみたいな、毎回付き合う人の顔も全然違うみたいな人っていろんな声でも大丈夫ってことなのだろうか、あるいはそこまで好みが固まっていない、気にしないということなのだろうかと疑問。
声を出せない障害や病気になってもその骨格から、その人が話すであろう声も生成できたりするのかなって、思ったりする。すでにそのぐらいのことはAIとか諸々最新技術で可能だったりするのかもしれない。

夜になってからYouTubeを見たら、昨日公開された「ano - 絶絶絶絶対聖域 feat. 幾田りら / THE FIRST TAKE」の動画が一日で150万回を超えていた。
アニメ映画『デッドデッドデーモンズでデデデデストラクション 前章』のエンディングでかかる一曲、作詞はanoで作曲は凛として時雨のTK。
コメント欄にも「この曲凛として時雨みたい」という人が何人かいたが、もしTKが作曲だと知らなかったのならまったくもって正しい。ある程度凛として時雨の曲を聴いていればなんとなくわかる音ではある。anoがTKに作曲を依頼しているのは、凛として時雨でTKと345がシャウトする曲が多いことを踏まえているからだろうし、普段はシャウトしない幾田りらにシャウトさせたかったと話している。
実際にanoのライブに行くとわかるが、いわゆるポップ路線(『ちゅ、多様性。』などみんながイメージする方)でも彼女はかなりシャウトしていて、デスボイス的な発声をして煽ることがままある。
ボーカルギターをやっているバンド「I's」の方はよりパンクであり、こちらでもシャウトするが演奏もあるので、こちらの方がシャウトはするが曲的にもデスボイスは向きにくいのかもしれないなあと感じる。
この動画で映画を観に行きたいというコメントもあるので、後章公開前にいいカンフル剤になっていると思うし、あのちゃんとしてブレイク寸前の時点でのオーディションでおんたんだと見つけた浅野さんの慧眼だなと改めて思う。
幾田りらが作詞した後章のテーマ曲『青春謳歌』もおそらくこのパターンで公開すると思うが、ほのぼのした曲なのでここまで勢いは多分ないんじゃないかな。

赤と青で分けられている衣装はいつもanoちゃんのスタイリングをしている神田さんで、一発撮りな「THE FIRST TAKE」でもビジュアル面で世界観を構築している。動画である以上、声や演奏だけではなくどう歌い手を見せるかが重要だとよくわかる。
anoちゃんを見るようになってから独特な衣装が気になって調べたら、神田百実さんという人がスタリングしていた。神田さんが伊賀大介さんの弟子(アシスタント)だったことを知って、anoちゃんの古着とかリメイクしてる衣装なんかを見て納得したところがある。『シン・ウルトラマン』では伊賀さんと神田さん師弟コンビで衣装に参加していた。
伊賀さんはヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』や細田守監督作品(アニメだけど衣装として参加してる)や『仮面ライダーBLACK SUN』とかいろんな映像作品や舞台作品や大手企業CMもスタリングをやっている。ある時期からスタッフロールでも衣装やってるのは誰か確認するようになったのは伊賀さんと知り合いになってからだけど、意外な作品でも関わっているので仕事量にビックリする。
北村道子さんの『衣装術』みたいな本を伊賀さんにも出してほしい。日本映画の衣装の記録の一つになる。
で、伊賀さんの師匠は僕らが思春期に見ていたファッション誌で浅野忠信さんとかKjとか安藤政信さんとか窪塚洋介さんとかのスタイリングをしていた熊谷隆志さんだから、三世代見ている気になって、歌舞伎とかで何々屋を見続けるみたいな気持ちってこれかと思ったり(違うか)。

昨日出したライティング作業がとりあえずOKが出たので、次の部分に入った。夜に数時間作業を進める。今月中に最後まで行って、自分のやることがおおかた終わると一番いいんだけど、どうなるかな。


寝る前に木山捷平著『氏神さま|春雨|耳学問』を読み始めた。一番最初に収録されている短編『初恋』は昭和8年に書かれたもののようで、僕が生まれるほぼ50年前で1933年ごろ。
木山は笠岡市の人なので備後弁でセリフが書かれていて、僕からすると違和感ゼロとは言わないけど、止まらずに読めた。書かれている備後弁は祖母の話口調を思い出させた。
木山は1904年生まれらしいので、祖母よりは年齢が上だが祖母の兄と年は変わらない。僕は祖母が話しているのを耳で聞いていたから残っているということかもしれない。でも、これって方言を聞いたことない人が読むとどういう言い方をしていて、言葉を区切っているのかわからないだろうな。

 

5月13日
起きてTVerで『有吉クイズ』を見た。フットボールアワーの後藤さんがゲストで有吉さんとメダルゲームをしながらトークをしていて、10年代に二人とも『ロンハー』『アメトーーク!』で共演していた時の話をしていた。

有吉クイズ


後藤さんは自分がお笑いをやるきっかけは次女の姉の影響だったと話していた。そういえば、日曜日の『川島明のねごと』を聞いていたら、今度後藤さんが出すカバーアルバムの宣伝も兼ねてプロデュースした藤井隆さんと一緒に出演していて、そこである曲で長女のお姉さんとディエッとしているという話があった。
元々長女が歌手を目指していたらしく、そのことを知った藤井さんがその夢を叶えたいと思って、そういう流れになったらしい。

川島明のねごと | TBSラジオ | 2024/05/12/日 19:00-20:00 


後藤さんの活動は二人の姉の影響であり、彼女たちの夢を叶えた形にも見える。家族の欲望のハイブリッドというか。そういう引き継がれる希望や願いのようなものがあるんだと思った、特に末っ子には。
以前、トークイベントに行った際に菊地成孔さんが「天才」というのは家族の抑圧によって生み出されるという話をされていた。公務員や医者だけみたいな家庭だとそれが常態化するが、その中で家族それぞれが口には出さないし、本人たちすら自覚してない欲望が芽生えるが、さらにそれを抑圧してないものとしていく。
一家の中で時折異分子的な方向に向かう子供が出てくるのは、両親や家族への反抗もあるだろうが、その子だけが家族の抑圧に隠されたものに感応して知ってしまう、無意識でもその抑圧されたものの受け皿になってしまうのだろう。一族で言えば例えば面汚しとか縁を切られるようなことをする存在は、実はその一族の欲望の体現であり可能性であるとも言える。
宇多田ヒカルのように祖母、母、娘と三代で歌い手という、濃密に引き継がれるシャーマニズム的な体質の一家もいると思う。故に才能があまりにも逸脱している存在になることもあるが、それは一族の抑圧とは言えない気がする。宿痾のようなものだと思う。呪い(闇)が強いが上に祝い(光)も他と比べようがない才能というか。だから、宇多田ヒカルはそういう意味では天才ではない。異能の方が僕はしっくりくる。



いつも通りなリモートワーク終わってから一服がてらニコラに行ってコーヒーを。ずっと雨が降っているから最初は僕だけしかお客さんがいなかったのでコーヒーを飲みつつ気仙話。おそらく気圧のせいなのだろうが、異様にやる気が起きない一日だった。

 

5月14日
涎が出ていて、それが口元から流れるのを感じて目が覚めた。雨はもう止んでいたので溜まっていた洗濯物を回した。今日中に終わらしたいライティング作業があったので、昨日の夜の続きをして請求書を作った。
いつも請求書のPDFデータはセブンイレブンコピー機のアプリで印刷して、それに判子を押したものをスキャンする。スマホにそのデータを送ってからさらにGoogleドライブに保存する。家にプリンターを置かなくなってからはとりあえずこれで足りている。
ただ、何百枚とかプリントアウトする際にはちょっとめんどくさい。一枚十円とかプリントアウト代がかかるし、誰かがいたりするのは待てばいいが、自分の後に待っている人がいるとかなり気まずい。
最近の小説新人賞は多くがネットでデータを送信することで応募できるようになってきたが、まだ一部はプリントアウトしたものを送付しないといけないものがある。そういうものに応募する時だけ家にプリンターがあったらなと思うので、年に一回か二回ぐらいの頻度になる。
請求書のデータをスマホからドライブへ送ったので朝食を買ってから帰って、作業の続き。一旦最後まで書いてからちょっと放置時間が欲しいので家を出る。


SpotifyでChildish Gambinoのアルバム『Atavista』を聴きながら渋谷まで歩いて、宮下公園だった場所の下を通り抜けてヒューマントラストシネマ渋谷へ。12時前の上映回の『Ryuichi Sakamoto | Opus』を鑑賞。
流石に平日の昼前だし、亡くなった坂本龍一さん自身が選曲した20曲で構成された長編コンサート映画なので客層は僕よりも上の人が多かった。火曜日はTCGカードで1200円で観れるのだけど、会員カードの期限が先月末で切れていたので更新した。この二ヶ月ほどヒューマントラストシネマ関連にあまり行ってなかったから気がつかなかった。今月末からは『 Missing』や『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション 後章』もここで観る予定なので安いものではある。
教授だけが出演してピアノソロ演奏をしている姿を映している。シアター1はオデッサといういい音響システムを入れていることもあって、ここで観るのがベストだろうと思ってここにした。音が良すぎて気持ちよくなってしまう。時折ウトウトしてしまって自分ではわからないぐらい寝てしまい、起きてを繰り返す。半覚醒みたいな状態になっていく。このコンサート映画はいい音響で観るとたいていの人は眠気に誘われるのではないかと思うのだけど、どうなのだろう。心地いい時間を過ごせた。
ピアノを弾いている際に指のアップも何度かあるのだけど、指が長いし手が大きく見えた。でも、亡くなるどのくらい前に撮影されたのかはわからないけど、骨ばって見えた。無駄な贅肉がなくて治療でだいぶ痩せているんだなって、という肉体的な部分は目に入るが、力強く弾く時は激しく、軽やかなタッチの時は羽毛がふわりと浮くように、その姿は威厳があるけど優しくて、時折弾き終わるとタクトを振るような仕草をしているのも印象的だった。

夏休みが終わる直前、山田が死んだ。飲酒運転の車に轢かれたらしい。山田は勉強が出来て、面白くて、誰にでも優しい、二年E組の人気者だった。二学期初日の教室。悲しみに沈むクラスを元気づけようと担任の花浦が席替えを提案したタイミングで教室のスピーカーから山田の声が聞こえてきたーー。教室は騒然となった。山田の魂はどうやらスピーカーに憑依してしまったらしい。〈俺、二年E組が大好きなんで〉。声だけになった山田と、二Eの仲間たちの不思議な日々がはじまったーー。

渋谷から帰る時に時間潰しに代官山蔦屋書店に寄って、金子怜介著『死んだ山田と教室』が出ていたので購入。
前回受賞作で刊行された『ゴリラ裁判の日』と同様にメフィスト賞という「一作家一ジャンル」をさらに拡張していく小説だと思うので楽しみにしていた。

家に帰ってから、先日提出した原稿の修正箇所が戻ってきたので、自分の保存する方にその修正案を入れながら原稿を確認。やっぱり最初に決めていた文量で抑えていたがかなりオーバーしてきた。まあ、それは僕の預かり知ることではないので、編集さんに判断は任せればいい。とりあえず、次のところを今週中に出さないといけないので作業を開始。

晩御飯を挟んでから、朝やっていたライティング作業の修正をして請求書と一緒に送信。今日は作業中にradikoで『フワちゃんのオールナイトニッポン0』(ゲスト:コットン)を、Spotifyで『あのと粗品の電電電話』『ランジャタイの伝説のひとりぼっち集団』『アルコ&ピースのしくじり学園放送室P』(ゲスト:カンパニー松尾)の最新回を聴きつつ、それ以外は『トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画(オールナイトニッポンPODCAST)』の過去回を遡って流していた。やっと現在130回越えている放送回のうち70回を越えてきたので半分を過ぎた。最新回は聴いてはいるけど、気持ち的にリアルタイムで配信したものをその時期に聴けるようにしたい。

夜はちょっとずつ読み進めている木山捷平著『氏神さま|春雨|耳学問』の続きを。北木島が出てきたり、笠岡市のことが出てきたりと懐かしい地名が出てくる。主人公の父親が癇癪持ちで、自分の機嫌で妻や子供に怒ったりあたったりするのはなかなか今の時代に読むとヤバいなと思えるのだけど、昔はそういう父親ばかりだったのかもしれない。父親(年長者男性)が自分で自分の機嫌を取れない、という問題は今も続いているんだろうけど、家父長制に胡座をかいてきた男性性という気もする。
共同親権とかで過去に離婚した夫婦にも当てはまるみたいな法律を通そうとしている与党とかやっぱり頭がおかしい。DVとかで逃げたり、家庭に問題があって離婚したのに別れたその原因をもたらしたパートナーにも子供のことに関して話して許可を得ないといけないとか、そんな法律を通したい政権与党(自民党をはじめとする)はやっぱり統一教会とか日本会議とかの家父長制を維持させたい、とか思っている奴らの手下なんだろうなって普通に思う。そうじゃなかったらどういう考えをしたらそうしたいと思えるのかまったく理解できない。
さらに議論を横滑り、目を逸らしたいのか、どちらにしても愚かすぎるけど今度は0歳児にも選挙権をと維新が言い出した。法律的にアウトだろと弁護士からもすでに言われている。子供は当然ながら選挙で候補者を選ぶ状態にはない、そうなると親が子供の選挙権を行使することになる。一人一票ということを壊すだけであり、子供の人権や権利の侵害にもつながる。それでも大阪維新とかに投票する人がいると思うと本当に絶望的な気持ちになってくる。メディアを牛耳ればプロパガンダ的に「自分たちが正しい」のだと嘘を流し続けれるので、何にも考えていない人たちは簡単に信じてしまう。テレビぐらいしか情報を取る方法がない人たち、特に高齢者は鵜呑みにしてしまう。
次の総選挙はどうせ投票率がまた下がって、そいつらは組織票があるから多少の変動があっても再建できるほど大きくは変わらないだろうなと思う。そもそも選挙権があって期日前投票もあっても行かない時点で終わってるし、自民党とか維新とかに入れるなら税金が上がって日本がどんどん貧しくなっていっても文句も言えないし、個人の自由や権利をこれから剥奪されていくのを否定しないってことになる。本当にこれからのことを考えると更なるディストピアしか思い浮かばない。
人間は生きているだけで政治的な生き物だということをみんな忘れてる。個人の自由と権利を剥奪しようとする存在や集団があるのであれば、否定し続けないといけない。それが国家であろうが時の政権であろうが。

 

5月15日
起きてから資料を読みながら、radikoで『アルコ&ピース D.C.GAGE』と『JUNK 爆笑問題カーボーイ』を聴く。爆笑の太田さんがトークの中で「本屋大賞2024」を受賞した『成瀬は天下を取りにいく』の著者の宮島未奈さんと会ったという話をされていた。何かの番組なんだと思うけど、詳細は言わなかった。そこで宮島さんがかなりの爆笑問題ファンだということがわかったと嬉しそうに話していた。彼女は爆笑問題の書籍なんかもかなり好きで読んでいて、太田さんに勧められて読んでいた田中さんもそういえば作中に出てくるものが自分たちの影響だと言われると腑に落ちる部分があると納得していた。
太田さんは自ら小説も書いているし、いつも直木賞候補の作品も読んでいたりしてラジオでよく言及している。「本屋大賞」も回を重ねてきていて文壇的な権威ではない現場の書店員さんが売りたいものを選ぶというある種民衆的なものも、今は力をかなり持っていて影響力も大きい。書店に足を運ぶ人ならよく見かけるすでに売れている小説が候補作の大半を占めているから、お宝発見的なことは減っている。売れている作品をさらに売るという感じもあるので、僕はもう何年もノれなくなってしまった。もちろん商売だから売れるものがあるのは好ましいし、少しでも話題になって書店に来ない人にも作品が知られて手に取ってもらうことが大事だ。そういうこともわかるから、余計に「本屋大賞」とかに反応しなくなっている部分がある。

リモートワークを開始してからは『星野源オールナイトニッポン』『あののオールナイトニッポン0』を聴きながら作業。
星野源ANN」は先週の「バナナムーンGOLD」で星野さんがゲスト出演して流された赤えんぴつとしての曲『色えんぴつ』がこちらでも流された。最後に読まれたあるメールで涙した。
「あのANN0」は麻雀がブームになっているという話から友達の話があったりと音楽とかタレント活動よりも普段の自分のことに関する話が多かった。そういえば、「THE FAST TAKE」には触れなかった気がする。おそらく収録したのが彼女が金髪をやめた後ぐらいだから数ヶ月前か、それで忘れているのかもしれない。

リモートが終わってから散歩へ。灰色の雲が広がっていた。夜は雨が降ると天気予想で言っていたけど、本当に降りそうだった。一時間以内に帰ることにして緑道沿いを歩いて246沿いに出てから池尻大橋駅の方を歩いて家に帰る。
途中で書店によってちょっと気になっていた。島田潤一郎著『古くてあたらしい仕事』の文庫本だけを買った。

 本は考える時間をたくさん与えてくれる。思い出す時間もたくさん与えてくれる。読書というものは、すぐに役立つものではないし、毎日の仕事を直接助けてくれるものではないかもしれない。でもそれでも、読書という行為には価値がある。
 人は本を読みながら、いつでも、頭の片隅で違うことを思い出している。江戸時代の話を読んでも、遠いアメリカの話を読んでも、いつでも自分の身近なことをとおして、そこに書いているあることを理解しようとしている。
 本を読むということは、現実逃避ではなく、身の回りのことを改めて考えるということだ。自分のよく知る人のことを考え、忘れていた人のことを思い出すということだ。
 世の中にはわからないことや不条理なことが多々あるけれど、そういうときは、ただただ、長い時間をかけて考えるしかない。思い出すしかない。
 本はその時間を与えてくれる。ぼくたちに不足している語彙や文脈を補い、それらを暗い闇を照らすランプとして、日々の慌ただしい暮らしのなかで忘れていたことを、たくさん思い出させてくれる。
島田潤一郎著『古くてあたらしい仕事』P108-109より

読み始めてあまりページが進んでいないところから自然と涙が出てきた。島田さんと同じ状況ではないけど、いくつか重なる部分があった。
引用したところは島田さんが仲の良かった従兄弟の一番下の弟と話しているところで、三兄弟のうち一番上は幼い頃に亡くなっていて、次男が島田さんとは仲が良かったが急逝していて、一人だけ残った末っ子だった。この前後のやりとりもかなり涙腺を直撃して涙がこぼれたが、僕もどうして本を読むのが好きかと言われたら大抵ここで書かれたことに同意する。

今回はこの曲でおわかれです。
Childish Gambino feat. Young Nudy - Little Foot Big Foot (Official Video)