Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『世界で一番ゴッホを描いた男』


シネマカリテで『世界で一番ゴッホを描いた男』鑑賞。
芸術家か職人か、オリジナルかコピー(orフェイク)かという自意識の問題は僕が二十代の頃にはまだあったような気がする。『多重人格探偵サイコ』や西島さんの『アトモスフィア』はオリジナルとコピー(orフェイク)を巡る物語だった。
最近話題になった『ドラゴンボール』はじめて読んだけど的なネタも、伊藤剛さんのかつての漫画家を若い世代がまったく知らないというツイートは、オリジナルはもはや当たり前の風景になりすぎて認識すらされなくなった状況を認識させるものだと思う。
どんなジャンルにおいても、そう。
サンプリングとオマージュは元ネタという文脈をわかるからこそ、それをする者のセンスや個性を見いだした可能性の先には、インターネットとコピー&ペースト、教養は金がないと繋がらないという本質。それはこの三十年で一気に加速して軌道から逸れてこっぱみじんになった。
この映画の主人公はオランダで本物のゴッホの絵を見る。ある意味彼は覚醒する。守破離の守を二十年以上生活のためにしていた男は、それまで培ってきたもので未来へ爪痕を残そうと破り始めていく。それだけで感動的だが、写真とかを学んでいたであろう監督たちのカメラワークも素晴らしい、一枚の絵画みたいな構図がある。

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』


大根監督『SUNNY 強い気持ち・強い愛』をば。大根作品だし伊賀大介さんスタリストで参加してるし、観ないとなあと思いつつ観てなかった。最後のかつてのサニーのメンバーが斎場で踊るシーンの前に哀しいほどに、彼女たちの現在が浮き彫りになる辺りは辛い。夫たち男性はまるで頼りにならずに金銭的にも追い詰められている数人を救うのは余命一ヶ月で亡くなってしまった芹香であり、現在の根本的なものを突きつけてくる。と同時にその後のエンディングに至るまでのダンスによる高揚感と多幸感でそれを覆い隠しているようにも見えなくない。
ダンスが小学校でも授業に取り入られたのは華やかさに満ちたように見えた90年代が終わった後のゼロ年代以降だったこと、エグザイル的なマイルドヤンキーのような都市部ではなく、地方で幅を利かせるような人たちが好むものが席巻したのは繋がってるんだろう、たぶん。
サニーというかつてのコミュニティが再集結することで、家族や親族には救われない人が救われるというのはたぶんインターネット黎明期にあったような趣味なんかが共通で繋がるゆるやかだけど、信頼がおけたものに近いのかもしれないなあ。
プロデューサーは川村元気さんだが、この作品をリメイクする時に男子版として早見和真著『95』も同時に作ればよかったのに。『95』はタイトルまんまな時代の話で『サニー』同様にいけてる男子高校生グループに主人公が入って仲間に恋に青春もの。野島伸司脚本『未成年』が作中で大きな意味を持つことになる作品でもある。『サニー』と『95』一緒にやって、90年代リバイバルに止めを指してほしかったなあ。
大きな物語を共有できたのが90年代までだし、三浦春馬がレッドウィング履いてるし、とか反応できるのもロスジョネ最後尾まででしょ。
わりと冒頭に主人公の奈美の引きこもりで90年代にエヴァにハマっていた兄貴について、現在の入院中の奈美の母が「あの子は今モー娘。にハマってんねん。なんか原点回帰や!ゆうて」みたいな台詞があって、この二十年近くのサブカルチャーを一言で言わせた大根監督はさすがだな、と思いました。

『止められるか、俺たちを』


火曜日はTCGカード提示したら千円で鑑賞できるDayなんで、『止められるか、俺たちを』観にテアトル新宿に観に。若松監督の作品で劇場で観たことがあるのはここ、テアトル新宿で上映してた『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』ぐらいだと思う。
主演の門脇さんや井浦さん、小路監督『ケンとカズ』に出演していた毎熊さんや藤原さんとかみんな面構えがよかった。居心地のいい、自分が好きな場所や関係性はいつか終わるし変わるから、過ぎ去ったあとに残された者には眩しくていとおしい。
音楽が曽我部さんだった。帰ってからエンディング曲をiTunesで購入した。
だいぶ前に園子温監督が「東京ガガガ」時代のことを園さん役を染谷将太さんで撮りたいなって言われていたことを思い出した。そのためにはかつて関わっていた人の協力も大事になるし、ある程度時が過ぎないとできない部分もあるんだろうか。