Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『search』試写


 『search』試写。ソニーピクチャーは事前に予約制、初めて来た。
「予告編妄想かわら版」の公開週の月曜に出る 連載にも書いたけど、映画のすべてのシーンがPCとスマホなどの画面で構成されていて、行方不明になった娘を探す父は、PCとスマホを使い、娘のSNSにもログインして交遊関係を調べていく。ネット、SNS時代の安楽椅子探偵ものとして見ることができる。
 これが日本だと『スマホを落としただけなのに』になってしまう。いいか悪いかは別として。たぶん、このやり方はいろんな国で模倣されるだろうが、これがアメリカでヒットしている以上、二番煎じになる。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』からモキュメンタリーブームが来たみたいなことになるかなあ。

 若者のTwitterFacebook離れも言われるが、リアリティーのあるものだとは思う。十代二十代の子供がいる親世代のほうが突き刺さるかも。子供たちはこんなことをして繋がりがあるのか、とか。
Facebookによく投稿してる人とかはそうだよね、と納得しながら話に引き込まれていく可能性も高いかなあ。公開したらヒットするとは思う。
 なにもかもデータで残せるということは辿れば隠されたものも暴けるかもしれない。それを古書をメインにしたのが『ビブリア古書堂』かもしれない。違うか。

 これも前に試写で観た『クワイエット・プレイス』もある種のワンアイデアアメリカでヒットしてる。日本だと『カメラを止めるな!』がそれになる。もう、マーケティングして映画にしろなにか作品を作っても佳作か秀作程度しかならない。
 低予算だからいいんじゃない。作った人には金が入らないシステムはとりあえずクソだ、それは間違いなく。作る人が情念とかどうにもならない気持ちがあるもの、結局個人的なものにたどり着くんじゃないか、それをサポートする体制がオンラインなりクラファンできれば。ただ、みんなで作ることで無理な部分があるし、出てくる。

 インターネットで繋がりが簡単になると個人の概念みたいなものが簡単に浮き彫りになる、近代化する時に「私」という概念が入ってきたように、あれは個人をキャラクター化するものだった。そのキャラクターは傷つくし当然死ぬし、気持ちもある。
 キャラクター文芸とかいうけど、そもそも近代小説が自然主義を巻き込んでキャラクター小説だった。アトムの命題のらくろというキャラクターが体現してる。その辺りのことは田河水泡と現在をつないで書いたら批評的な小説になるはず。

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』


 アップリンクにて20時の回で『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』を鑑賞。原作である漫画は読んでいない。出てくる役者さんもほぼ知らなかった。タイトルが気になったというのが一番かもしれない。ある時期からラノベとかでタイトルが異様に長いものが主流になってきた流れもあるのかないのか。検索する時に他が引っかからないという話もある。

漫画家・押見修造が実体験をもとに描いた同名コミックを、「幼な子われらに生まれ」の南沙良と「三度目の殺人」の蒔田彩珠のダブル主演で実写映画化した青春ドラマ。上手く言葉を話せないために周囲となじめずにいた高校1年生の大島志乃は、同級生の岡崎加代と校舎裏で出会ったことをきっかけに、彼女と一緒に過ごすように。コンプレックスから周囲と距離を置き卑屈になっていた志乃だが、加代にバンドを組もうと誘われて少しずつ変わっていく。やがて、志乃をからかった同級生の男子・菊地が強引にバンドに加入することになり……。林海象監督や押井守監督のもとで助監督を務めてきた湯浅弘章監督が長編商業映画デビューを果たし、「百円の恋」の足立紳が脚本を手がけた。(映画.comより)

 人前だとうまく言葉を話せない、吃音と言える志乃とミュージシャンになりたいが音痴な加代との交流によって少しずつ心を開いていく。しかし、その居心地のよかった二人だけの関係にクラスでも浮いている男子生徒の菊地が関わるようになってくることで、再び心を閉ざしてしまう。
 志乃と加代が深夜から早朝に至るまでの間、車がまったく通らないバス停で待っている姿はアメリカ映画『ゴーストワールド』を彷彿させる。また、女子高生二人組がメインの物語という意味では枝監督『少女邂逅』と共にこの2018年を代表するようなガールズムービーであり、思春期の繊細すぎる気持ちを描いている作品として同時代の十代やこれから十代になる人たちの心に寄り添えるような作品になるのかもしれない。
 志乃を演じた南沙良は吃音でうまく話せないという役柄だったが、すごく難しかったのではないかと思う。志乃ちゃんは声に出そうとすると言葉にならない音がいくつも漏れて、ようやく言葉になんとかなったり通じるので、その時間は長く感じる。対する加代や菊地はその間待っている。その間は、志乃とってはもどかしく、伝えたいけど伝えられない時間でもあり余計に焦りを生んでしまう。対する相手も普段なら向き合えるがなにか感情に波があったり彼女との関係がほころび始めるとその時間はやはり苛立ってしまう。
 話せないというのはコミュニケーションがうまく成り立たないということだ。しかし、菊地のような明るいが場を乱し次第にクラスの誰かも無視されたり煙たがられるようになる人もいる。話せるからと言っても、相手のことを考える、空気やその温度を感じながら伝えないとそれは伝わらない。この作品では気持ちをどう言語化するかという部分が主題であり、言葉にして伝えることの困難さを吃音の志乃ちゃんに託している。加代が起こした行動を受けて、志乃ちゃんは心情を吐露する。その時、その困難さは一度クリアになるが、ラストでの三人それぞれの関係を思わすシーンは救いがないように見えなくもないが、とてもリアルだった。そういうものなのだ。
 『少女邂逅』のラストシーンのようにひとりの少女が繭をやぶり次の段階に移行する時に、その相手との関係やその存在はそうならざるをえないと思う。『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のラストでの志乃と加代の距離もそういう風に感じられた。

『愛しのアイリーン』


 シネクイントで13時の回を鑑賞。三連休の中日であり渋谷は祭りの只中、どちらかというと観る人を選びそうな内容ではある。こういう作品は若い人が本当は観た方がいいし、観てほしいと作り手も思っているのだろうけど。

「ワールド・イズ・マイン」「宮本から君へ」など社会の不条理をえぐる作品で知られる新井英樹が、国際結婚した主人公を通して地方の農村が内包する問題を描いた同名漫画を実写映画化。新井の漫画が映画化されるのはこれが初めてで、安田顕が主演、「ヒメアノ〜ル」の吉田恵輔監督がメガホンを取った。42歳まで恋愛を知らず独身でいた岩男が、久しぶりに寒村にある実家に帰省する。しかし、実家では死んだことすら知らなかった父親の葬式の真っ最中だった。そんなタイミングで帰ってきた岩男がフィリピン人の嫁アイリーンを連れていったため、参列者がざわつき出し、その背後からライフルを構えた喪服姿の母親ツルが現れる。安田が主人公の岩男を演じ、アイリーン役にはフィリピン人女優のナッツ・シトイを起用。そのほか木野花伊勢谷友介らが出演。(映画.comより)

 吉田恵輔監督ならば間違いはないだろうという安心感はある。目を背けたくなるような描写やシーンはあるだろう、人間の性を描いてしまうだろう、そこにはごちゃごちゃになってしまう人間の欲望や衝動や哀しさや尊さが混ざり合ってしまっている。どこを照射してもそれだけではなく、ほかのものが混ざりこんでいる。
 日本とアジアとの関係、資本主義と差別、地方社会の閉じた社会、性欲と血族、現在の日本にある問題がてんこ盛りのようにこの作品の中に入り込んでいる。

 象徴としてアイリーンの存在がある。母と息子としての関係性、姑と嫁の関係性も彼女によって母の暴力性が際立つ。途中でアイリーンが坊さんと話す中で出てくる姥捨山というワード、思いの外最後に聞いてくる。
 アイリーンが登場するまで岩男が気になっていたパチンコ屋の同僚の愛子の名前にも「あい」が含まれる。「おまんこ」させろと後半多発して言うことになる岩男だが、この性衝動はこの二人に大きく向けられる。セックスによる欲望の解放と律動がこの物語に大きく寄与している。どうしようもならないものが理性を越える時、抑えきれない時に起こるのはどうしても悲劇だ。

 その悲劇は今の都市部よりも地方都市でより如実に表れているのだろう。後継者問題と過疎化、子供の嫁と婿問題、都会にいるから人がたくさんいて結婚できるわけではないが田舎にいるよりはその問題は先延ばしにできるが、田舎では親世代の高齢化や住居の問題、病院に行くのでも車に乗れるのは誰かという生存に関する問題がそこに直結する。

 シリアスなシーンでは逆に笑いが起こってしまう。この映画は笑えるけど笑えない。誰もが抱えている問題を目の前のスクリーンに二時間半近く流し続けるのだから。間違いなく素晴らしい映画だと思う。どうしようもない気持ちや欲望のいく先にあるもの、信じたいものと信じられないもの、気持ちと金についての相関関係、観ているとどんどん気持ちがザワザワしてしまう。ああ、アイリーンも岩男も、それに母親のツルも自分の中にいるようにしか思えなくなる。

 今年の自分が観た映画でベスト上位に入るのは間違いない。