Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『三月の5日間』リクリエーション


 KAATで上演中のチェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションを観に行った。チェルフィッチュの舞台は観たことがなかった。同時に周りからの高評価はずっと聞いていた。主宰の岡田利規さんが書いた小説『わたしたちに許された特別な時間の終わり』は何度も読んでいて収録されている『三月の5日間』の小説版はかなり好きな作品だ。舞台は2003年イラク戦争が始まる頃、もうひと昔のことで観終わった後に同じ回を観にいっていたニコラの曽根夫妻と最寄えきに戻ってきてファミレスでご飯を食べながら話をしていたら、その頃の20代前半ていうとまんま僕ぐらいの年齢のやつの話なのだと思った。小説を読んだときはそうは感じられていなかったのに。それはなぜだろう? 上京したのが2002年だし、2004年には映画の専門学校を卒業してフリーターになっていたらから最初に上演された2004年とかまんまそのまんま僕みたいなやつが出てくる作品ではあるのだとわかった。上映後に小説家の平野啓一郎さんと主宰の岡田さんとのトークがあって、そこで2003年ぐらいの若者の話ってもう時代劇みたいなものですよねって話と、当時の若者と今回のリクリエーションに出ている役者(25歳以下)って同じなのか違うのか、イラク戦争の時の感じとこの安倍政権とトランプが大統領の空気感って違うのかって話があって、シールズ以降のデモと2003年のデモって明らかに違うよねって話があって、大きなことって何かなって僕が考えるはやはりリーマンショックだったと思う。もはや大学生はモラトリアムを過ごせなくなったって事がまずデカイ。『三月の5日間』リクリエーションの登場人物たちのような存在はやはりどこか時代劇的だなって思うのは、僕ぐらい(1981年生まれの)から40代の人間ってすごく適当だったと思う。適当にやっていたし、適当にやっていけたというか。今の20代も適当ややつはいるに違いないのだが、人口比率を考えればわかるが団塊ジュニアという最後の人口多い層に至ってはその比率は高いし、90年代とか日本の豊かさの最後の木漏れ日で青春を謳歌したわけだから感覚が違う。トークの中でも今の20代ってきちんとしてるって話があって、シールズのある種の真面目さってそこなのかなって思ったりもする。40代や30代中頃の、僕の感覚だとリーマンショックまでにモラトリアムを過ごせてしまった連中は一応にどこか屈折している、故に怠惰さとアイロニーを持っている。下の世代にはそれがなくどこか真剣さとまっすぐさがある、眩しいし真面目すぎる気はしている。空気を読むことにいかに対応するかで存在を現実でもネット空間でも消されてしまうことを知っているからだろうか、適当に書いているかそうなのかどうか検証もしようがないのだけど、今たいていネットで炎上する間違えたことを書いて非難轟々になるのがわりと地位や名誉とか社会的に裕福な40代や50代の男性っていうのはそれと関係あるのかもしれない、感覚がズレてしまっている事に気付いていなくて昔の感覚で物事について書いたり批判するからだったりするのだろう。舞台での彼らのセリフは平野さんも言っていたが「〜〜なんですけど、〜〜っていうのはこういう事で、〜〜だと思ったりします? 〜〜っていうことかもしてないですよね」という全方向から来るツッコミに対して言い訳や自分ではこう思ったんだけど、誰々はこうかもしれないし、こういう考え方もあるって思いますよねという誰かを見上げて話しているような語り口調になっている。そして、演じる役者たちはキャラクターを明け渡すようにしていき、同じセリフでも違う役者が言ったり、時間をおいてリプレイされる。そこではある種の置き換え可能性が示されているし、反復されるというのは極めて演劇的だとは思う。他のジャンルでそれは可能だけどされない、のは身体性という目の前に役者の身体があって空間を観客に想像させ一体感、リアルな演劇としてあるからで、受動的なメディアでは不可能というか白け方が半端ないから物語から遠ざかってしまうものになるだろうからで、ただ演劇の場合はそれがより演劇と観客の距離と世界を半ば強引に同一化していく。置き換え可能といっても舞台で演じている役者は当然オーディションで選ばれた人たちであり置き換え可能ではない、という固有の存在なのに置き換え可能に見える存在として演技をキャラクターを、セリフを告げていく。そういうことはやはり現在進行形ではないというか当然なものとしてあるから、さっき出てきたような時代劇という言葉は当てはまるのかもしれない。2003年の渋谷とその当時の若者っていう近過去の話として、ブックファーストも渋谷にはもうないし、ラブホはあるけどミニシアターもほとんどなくなってしまった。あそこにあった空間は当然ながら都市の記憶としてはどこかの層にあるけど、現在にはもう失われている。近過去と現在を結びつけるとどうなるのかを岡田さんは知りたかったんだじゃないだろうか、意味があるとかないとかではなくてそれをやってみたら何が起きるのか、どんな感覚が観客に沸き上がるのかが知りたかったんじゃないだろうか。浮かんできた言葉を一筆書きで書いてみたら見事にまとまらないけどそういう感覚のことだけは観劇して思った。帰りのみなとみらい線から渋谷に向かう特急っていうか通勤快速のわりと多くの乗客がいる中でどこか酸っぱい匂いがしてきたなって思って菊名かどっかでお客が一気に降りたら少し向こうになにを食べたらそうなるのかというピンク色の吐瀉物が、かなり大量に撒き散らされており、酸っぱい匂いが充満しみんな隣の車両に移っていった。途中で停まった駅から乗り込んで来る人も空いてるなって顔して入ってきてまずは匂いと無題に空間がある事を感覚でわかって、ピンク色の吐瀉物を見て、違う車両に行ったりできるだけ連結部近くにいた、僕らもそうだったのだが、その空気感というか匂いというのは記憶にたぶん残って、僕は昨日見たこの舞台とピンク色の吐瀉物にことをいつかリンクさせて思い出すのだろう、渋谷に着いたらすぐに駅員さんが粉を撒いて、すぐに固まるやつなんだと思うが素早く掃除していてピンク色の吐瀉物は灰色だったかそういう粉に覆われていた。