Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「黒いアジアたち」第十話「緑が呼吸している」

 青山真治著「Helpless」を読了。北九州サーガ三部作の第一部にして青山真治監督の劇場デビュー作でもある「Helpless」の小説だけど、この作品に収められている三編は「Helpless」の主人公の白石健次(三部作目の「サッド ヴァケイション」でも主人公で演じたのは浅野忠信)ではなく、彼の中学の同級生であり北九州サーガ「Helpless」「ユリイカ」「サッド ヴァケイション」に全て出ている秋彦(演じたのは斉藤陽一郎)が関係している、表題作以外では秋彦が主役である作品だった。三部作を読んでいるか観ていると表題作以外の二篇での秋彦の存在が、その後がわかりよけいに世界観が深みを増してくる。


 秋彦の存在自体は「多重人格探偵サイコ」における「笹山徹」と同じであるだろうか、ある種の狂言回しとして。主人公たちの一番身近に、あるいは接していたり関係性があるのに自分自身は中心人物になることはない、全ての出来事を手をこまねいて見ながらもどうしようにできない、しようとしても彼らは動いている出来事をなんとか、できない。ただ一番近くで傍観者として全てが終わるのを確認するのが彼らの役割である、物語上では。


 サーガ的な作品には狂言回しとして、傍観者として中心にいながらも中心にはなれない、あるいはどうしようもないがただ見守るという存在がいる。彼らは危険な目に遭っても死なない、あるいは死ねない。彼らは生き延びてしまうことが宿命づけられている。語り部として残されていく。
 大事な仲間や友、恋人に彼らは、彼女たちは置いていかれてしまう。時の此岸に取り残されたまま、どこにもいけないという感じがこの手のサーガでの彼らに感じるイメージだ。とくに大塚英志的なサーガ、「摩陀羅」サーガ、「笹山サーガ」(これに至っては大塚氏がギャグっぽく言っているので逆にマジだと思う)、柳田國男狂言回しの「北神伝綺」、折口信夫狂言回しの「木島日記」、小泉八雲狂言回しの「八雲百怪」の三部作などからの。


 僕は普通にサーガ的なものが好きであるのは世界観が次第に構築されてく感じが物語として互いに他の作品を補完しながら奥行きを増す所にある。


 「野性時代」一月号の古川日出男「黒いアジアたち」第十話「緑が呼吸している」を読む、立ち読みしようと思ったが来月は休載みたいだし、休憩中だから早く休憩室に帰ろうと思って板尾創路さんが表紙の「本人」と一緒に購入した。


 豚男と猪男、テーとタオが邂逅する。この作品の広がりというか物語は世界史というかやっぱり歴史を内封しながらも膨張して溢れ出してきている。「聖家族」よりも長くなるだろう、そういう歴史を含んだ、孕んだ物語として二、三年後には世の中に一つの書物として産み落とされるはずだ。



 スマトラの熊の爪が脱落した。
 福建の天眼ちゃんが脱落した。
 ブギス人の天下一が脱落した。
 海南人の天下一が脱落した。
 ジャワ人の天下一が脱落した。
 福州人の天下一が脱落して、これで実質「天下四分の一」が全員、ぬけた。


 
 という箇所を読んで笑った。やっぱり古川日出男と言う作家はマジメに真剣にふざけている。だからこそカッコいい、そして逸脱して違う景色を見せる事が可能だと笑いながら思う、いや文章から感じる。