Spiral Fiction Note’s diary

ライター&「monokaki」編集部スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「週刊ポスト」で「予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『つつんで、ひらいて』

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装幀家菊地信義を追った記録映画『つつんで、ひらいて』をイメージフォーラムにて。広瀬奈々子監督は今年デビュー作『夜明け』を今年アップリンクで観ていた監督さんだった。


紙の本、デザインと物質、意識と身体性、僕が今考えたり関心があることが映し出されていた。
言葉はものだから、声にしたり文字にしたり、した瞬間こぼれおちていく。だからこそ、器は必要になる。

すべてが溶け合う境界線が奪われた場所は行き来自由だけど、他者性が損なわれてしまう、他者がいなくなる世界では当然ながら自分が失われていく。
しかし、資源は限りがあるから本というスタイルは少なくなっていくけど、紙の本はハードウェアとソフトウェア療法を兼ねていて電源もいらないし、充電の必要もない。


インターネット的な思考やシェアみたいことを言っている人たちの言葉はなんだかんだ言っても紙の本として売って届けている。彼らはウェブの可能性がわかっていて、同時に不可能性もわかってるから本で届けようとしてる。


所詮、人はやがていなくなるのに形あるものを欲し続けて、死んで跡形もなくなる。精神と身体性、肉体は心臓停止から腐り始めて放置されれば鳥に啄まれて、獣に食まれて、菌類に分解されていく。骨は残るとして内に秘められていた心はどこに向かうのか、蒸発するようにただ消えるのか。
言葉による思考、思考や物語の断片は言葉によって表されていくのに、どんどん意識とズレて落ちていく、なんとか叩きつけて刻みつけて言葉から引きずり落とされないように、足掻いてもがくから息も絶え絶えになるとこまで行かないといけない。


かつては石に刻み、紙に著し、ウェブには漂う。人の身体性がなくなる世界ならば、問題はないのだろう。それはもはや人ではないホモ・デジタリアンとか、違うヒト科の亜種だから。
自分にとっていい装幀の本は、呼ばれてるのがわかる、だから手に取る。装幀家が著者への扉を僕に開いてるから。