Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『傘を持たない蟻たちは』文庫版


 加藤シゲアキ著『傘を持たない蟻たちは』文庫版。窪さんが解説だった。窪さんの『よるのふくらみ』文庫版の解説はクリープハイプ尾崎世界観さんだった。『トリッパー』最新号の尾崎世界観さんの対談連載の初回が加藤シゲアキさんだった。あれ、ループしてる?
 ということで『水道橋博士のメルマ旬報』で連載している「碇のむきだし」で加藤シゲアキさんの作品と窪美澄さんの作品について書いているのでブログにまとめてみた。窪さんの文庫になった『さよなら、ニルヴァーナ』についてもメルマ旬報を配信しているBOOKSTANDで書いたのでそれも再録してみた。


vol.010 「新連載・リリー・フランキー『著者都合により休載します』」 - [2013年3月25日発行]

碇本学の『碇のむきだし』

1942年2月15日のアメリカ西部軍管区発表によると敵性外国人としての逮捕数は日系人が3250人、ドイツ系人が1532人、イタリア系人が369人。日系人の数はこの国の人口の比率からみると格段に多い数だった。その上収容所の人数を決定的に多くしたのは1943年2月19日付の大統領命令。太平洋岸の日系人住民に立退きがせまられ3月27日までの自由立退期間に立ち除いたもの5396人、期日以後強制収容された人は11万2千人と発表された。これは太平洋岸への日本軍の上陸に備えて取られた処置だったと考えられる。
1931年の満州事変。
1937年の日中戦争
1941年の日米開戦にいたるこの当時の日系人の思想は一世と二世でまるで違った。
一世は日本の主張を信じて幾度も日本軍に献金等を行なっていたが、二世はアメリカ市民権に基づいてデモクラシーを主張する風潮だった。こうした風潮の中での強制立退きによって収容された人達はチーフに立つ人19ドル、その他の人は16ドル支給されていた。収容所からは二世で米軍兵役へ入る人々も多く、収容所が賑やかだった日はこの人達を送るパーティだった。一方、ヨーロッパ戦線での四四二部隊の大活躍とまた対日戦線の好転は睨まれていた一世の人達の志願参戦をも許可されるようになった。
戦後には住み慣れた太平洋岸へ帰る人もいたが大部分は戦時移転局のアドバイスで各地に集団生活ではなく転在してアメリカ人に溶け込むようにという指導をいかして、イリノイに18000人、コロラドに6000人、アイダホ、ミシガン、ニュージャージーミネソタ等に新天地を拓いた。
戦後の日系人の大きな特質は太平洋岸の人達の大量奥地移住を短い期間に成功させた事だった。そしてこれを成功させた大きな力は皮肉にも長い排日運動の中で創り出した県人会のような組織とその協力体制だった。排日運動時代の県人会のこの国での役割は善隣会を表面にして、その実は小領事館的な働きと頼母子講を中心にした経済的協力等々が今度は戦後に生かされてその力を大いに発揮した。そしてそれを助長したのがすでにそれまでに全米各地に拠点を持って大活躍していた初生雛鑑別師達だった。
 
ジャニーズのNEWSのメンバーである加藤シゲアキによる二作目の小説『閃光スクランブル』を読み終えた。一冊目『ピンクとグレー』を数日前に読み、その数日前には『ジャニ研! ジャニーズ文化論』(大谷能生速水健朗・矢野利裕、共著)を資料として読んだ。
資料として読んだ『ジャニ研!』を読んでいく中でジャニーズ事務所社長であるジャニー喜多川氏(以下・ジャニーさん)について僕が今まで知らなかった事がたくさんあった。意外というか驚きとジャニーズという事務所について納得するものだった。
 
上記のアメリカでの日系一世や二世の文章は去年僕が調べていたものからだが、これはジャニーさんの人生とも大きく関っている。彼はアメリカのロサンゼルスで1931年に生まれてアメリカで育った日系二世である。そして太平洋戦争開戦後には家族と共にカリフォルニア州内の日系人強制収容所に抑留されている。11歳の時に第一次日米交換船で日本に渡り、両親の出身地の和歌山市に移住するも戦争末期にアメリカ軍の和歌山大空襲で焼け出され日本の敗戦後にロサンゼルスに戻り高校に通う。
19歳の時に父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が美空ひばりアメリカ公演の会場になったので、そのステージマネジメント全体を担当。それを機に美空ひばりと親しく交流するようになる。これが彼の日本芸能界への進出の一歩となる。
1952年に姉(メリー喜多川)と共に再来日(ここ重要! 来日なんです、そうなんです。ジャニーさんとか言われてるしアメリカ出身だけど日本人でしょ? ジャニーさんって思ってますよね。両親は日本人だけど彼は名前でわかりづらいけど根っからのアメリカ人なんですよ)し、アメリカ大使館の陸軍犯罪捜査局に勤務した後は朝鮮戦争勃発で板門店に出向いて現地の子供に英語を教えていた。その後上智大学に進学し卒業後に芸能界に参入している。
 

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マッカーサーが日本を去って、そして、アメリカからジャニーさんがやってきた、というわけです。
戦後、アメリカが日本にもたらしたものは、まずは「民主主義」。そして「ジャニーズ」です。マッカーサーは、戦後の日本で占領政策を布き、財閥を解体、農地を解放し、おしつけの憲法と民主主義とチョコレートを配り、実質的な再軍備である警察予備隊を生み出します。その後を受け継いだジャニーさんは、顔の可愛い男の子たちのグループを次々と生み出し、芸能という分野で日本の文化の実効支配を行なったのです。
大谷能生速水健朗・矢野利裕著『ジャニ研!』より

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上記は『ジャニ研!』の一部分ですが、この本は個々のグループ、楽曲、ミュージカルや舞台、それらを仕掛けるビジネス上の戦略を研究するものです。
著者のひとりである速水健朗さんの著書『ラーメンと愛国』は国民食になったラーメンのその始まり、戦後の食糧不足とアメリカの小麦戦略にあったという所から始まります。戦争に負けた日本を統治したGHQアメリカは小麦粉が余りすぎていた。ならば敗戦国に売っちゃえばいいわ。でも日本人は米食う国民だしなあ、じゃあパンを給食に出して車で日本全国回ってパン食はいいですよ的なアピールをし、小麦粉を消費させる国にしちゃおうぜ! というパン食とラーメン文化に繋がっていった流れを記した第一章は阿部和重著『シンセミア』が元ネタだと速水さんご自身も言われていました。
シンセミア』の主人公の家系は戦後からパン屋を営んでいます。もちろん日本とアメリカという関係を描く時に、戦後の文化戦略でアメリカ的生活を受容しアメリカ化した日本を描くのにそれは最も適している職業だったのです。
 
そして、戦後に日本文化に溶け込み大衆化したアメリカ文化と言えばベースボール、そう野球でした。SMAPの中居くんの巨人好き、熱狂的な野球ファンと言うのは知られている事です。なんか毎年ジャニーズってデッカイ球場で野球大会してるよなあと思いません? 僕はなんでジャニーズって野球やってんだろうなって思ってました。そもそもジャニーズ事務所の始まりは野球だったのです。ワシントンハイツという米軍の施設だった代々木公園でジャニーさんは日本の少年たちに野球を教えていた。そこから現在に至るまでのジャニーズ事務所の歴史が始まっている。
ジャニーさんはある日その少年野球のメンバー四人を連れて映画館に連れていき、『ウエスト・サイド物語』を観て大変感動します。そしてその四人を歌って踊れるアイドルのメンバーに仕立て上げて初代ジャニーズ(僕でも知ってるメンバーはあおい輝彦さんですね)が誕生します。そこから今に繋がる日本の芸能文化、男の顔の価値や意識を変えていったジャニーズ事務所という歴史の幕が開いたのです。
僕の年齢で近いジャニーズの人はKinKi Kids堂本光一さんやタッキー&翼滝沢秀明さんで彼らはなんかずっと舞台でミュージカルやってるよなってイメージがあります。ジャニーズの始まりはそう『ウエスト・サイド物語』でした。だからこそ舞台やミュージカル、そしてコンサートという劇場でのライブ体験はジャニーズの核なのです。
そしてアメリカ人としてジャニーさんを本名のJohnny H.Kitagawaとして考えると、光GENJIや忍者や嵐といった最初に聞いた時は「マジか?」というグループ名もアメリカから見た日本のイメージでありネタとかじゃなくて本気でつけたんだ! と納得もできるのです。元KAT-TUN赤西仁さんがシカゴ、サンフランシスコ、ヒューストン、ロサンゼルス、ニューヨーク五都市を巡るツアーを行なったのは、ジャニーさんが日本で作ってきたエンターテイメントで、故郷である本国アメリカで勝負しようという気持ちの表れのひとつだったのでしょう。
 

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傷だらけの消えそうなメロディー…、
目を刺す青空達…、
あぁ、そこらにあるオレンジジュースの味…、
穢れの先で。
70’s、80’s、90’sだろうが、
今が二千なん年だろうが、
死ぬように生きてる場合じゃない。
 
そこで愛が待つゆえに。
愛が待つゆえに、僕は往く。
 
僕は死ぬように生きていたくはない。
本音さ。死ぬように生きていたくはない。
中村一義アルバム『100s』 track2『キャノンボール』より

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そんなジャニーズ所属で小説家としてデビューした加藤シゲアキはなにか異質に思えました。ジャニーズのアイドルで男前、中学高校大学と青山学院でデビュー作が12万部ってもう嫉妬しかない! しかも一冊だけじゃなくて二冊目も出て書店では平積みになっている。
一冊目はまだ興味があっても読まなかった、二冊目が出たら書店で加藤シゲアキの上半身裸の背中にダリアのようなもの書かれたポスターとよく目が合うし、もう嫉妬だらけだけどメルマガに書くから読むぞと決めて二冊一気に買った。
 
『ピンクとグレー』あらすじ
大阪から横浜へ越してきた小学生の河田大貴は、同じマンションに住む同い年の鈴木真吾と出逢い、中学高校大学と密接した青春時代を送る。高校生になった二人は、雑誌の読者モデルをきっかけにバイト替わりの芸能活動をスタート。大学へ進学した二人は同居生活を始めるが、真吾がスターダムを駆け上がっていく一方で、エキストラから抜け出せない河田だけが取り残されていく。やがて二人は決裂。二度と会うことのない人生を送るはずだった二人が再びめぐり逢ったその時、運命の歯車が回りだす…(公式サイトより)
 
多少ネタバレも含みますがご了承ください。
小学生で転校してきた大貴は親たちに「スタンド・バイ・ミー」と称される仲良し四人組になって真吾たちとつるんで遊ぶようになる。河田なので河とリバー・フェニックスからもじってリバちゃんとあだ名をつけられる。まずなぜ『グーニーズ』ではなく『スタンド・バイ・ミー』なのか? と最初に思ったのは僕が『グーニーズ』大好きだからだったからだが物語の展開上は『スタンド・バイ・ミー』を使う事で意味を持たせている。
スタンド・バイ・ミー』の語り部は誰だったのか? クリスを演じたリヴァー・フェニックスの末路は? 読みながら『スタンド・バイ・ミー』という作品名が出た事による物語の含みや役者になってスターダムになっていく白木蓮吾(真吾の芸名)はどうなるのかという興味がページを前に前に進めていく。
「渋谷サーガ」として構想されているのは、青学出身である加藤シゲアキ自身が十代を過ごした街として渋谷はもっとも書ける場所/風景であるからだろう。物語の二人もそこに通っている設定で、彼らの先輩でもあった尾崎豊レリーフがある渋谷クロスタワー二階のテラスから17歳の章が始まるのも象徴的だ。
あと読んでいて多くの人が思い浮かべるのは村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』だろう。人気俳優の五反田君と僕という関係は、鈴木真吾と河田大貴の関係に近しい。『ダンス・ダンス・ダンス』での世界の謎や羊男というメタファーはないがそれが芸能界というもの、何かを演じるというものが代わりに機能を果たしているように思える。
 
『ピンクとグレー』は死と再生を描いている。河田と鈴木の主要登場人物は加藤シゲアキの影と光の部分であると見るのが普通だろう。どちらかが失われた場合、片方がもう一方の役目を伴うようになる、あるいは人格の統合のようにもそれらを引き受けて生きていこうという強い意思表示にも読める。
本名と芸名(あるいはペンネーム)の間にあるものについて、著者は自覚的だろう。芸能人である自分と本来の素の自分を二人に分離しながらも最終的に統合して行く、本書はジャニーズの加藤シゲアキの自己セラピー的小説として機能もしている。だからこそ彼はこの作品を書かなくてはならなかったと思える。しかもそれをアイドルである自分をきちんと客観し、多くの人が読めるようにエンターテイメントに昇華しようとしている。それは彼がアイドルとしてエンターテイメントの世界で生きてきた人だからこそ、純文学のように閉じられた世界ではなく開かれた場所で届かそうとしているのだろう。という事を読んだ人が思うように設計されている小説なんじゃないかなってそれもまた思う。
 
鈴木真吾は芸名の白木蓮吾として若手スターになっていく中で、芸名の白木蓮吾として生きていくしかなかった。もう逃げだす事はできなかった。キャラを演じるように役を使い分けていくように名前と言うのは人を善くも悪くも縛っていく。
芸名で思い出すのは横山やすし・西川きよしの二人が辿った人生の話だ。
木村雄二が横山やすしを演じているうちに本来の木村が消えていき、横山やすしでしかいれなくなったためにそのキャラに支配されて行き不祥事を起こし(本人の気質や性格も災いしただろうが)破滅していったが、西川きよしは本名(漢字をひらがなにした)だったためにさほど乖離せずに生き残れたという話を前にどこかで読んだか見たことがあったのだけど、この小説を読んでいて浮かんだのはそういう「名前」にまつわるエトセトラだった。
 
閃光スクランブル』あらすじ
人気アイドルグループ、MORSE(モールス)に所属する亜希子は、自らのポジションを確立できず葛藤している。同期の卒業、新メンバーの加入と、亜希子を追い込む出来事が立て続けに起きる中で、年上のスター俳優・尾久田との不倫に身を任せていた。そのスクープを狙う巧。彼は妻を事故で亡くして以来、作品撮りをやめてパパラッチに身を落としていた。巧と亜希子が出逢った夜、二人を取り巻く窮屈な世界から逃れるため、思いがけない逃避行が始まる。互いが抱える心の傷を癒したものとは――。(公式サイトより)
 
こちらはアイドルというものの周辺を書いていて前作よりはエンタメ要素が高い。前作は気持ちのありようがメインというか大きく全体的にはおとなしいシーンが多かったのだけど今回は乱闘というか派手なシーンがあるので静と動という比較で読めるかもしれない。
あとアイドルグループのメンバーが主人公のひとりなので読み手はいろんな事が浮かんでくるのは仕方ない。
MORSEのセンターであり亜希子の親友だった水見由香が卒業していく、それは裏で進行していたが同時にスキャンダルも発覚し卒業後のソロ活動も白紙になってしまう。その中、亜希子は彼女がいなくなった分だけさらに気を張ってこのグループを引っ張って行こうとするのだがそこに自分に憧れて入ってきた新メンバーが現れる、時代は変わろうとしていた。彼女は自分のポジションや価値が見出せなくなっていく。
もう一人の主人公はパパラッチである巧だ。彼は妻を亡くしてから作品を撮らなくなっているが、仕事として亜希子を追いかけているうちに人々の欲望と現実と虚実の間にある利権や力関係、思惑に巻き込まれていく。その中で彼は失ったものを、時間を取り戻してまた作品が撮れるようになるのか? という内容です。
二作品とも喪失における再生を描いているという部分は共通している。英雄神話の基本構造である「出立」「イニシエーション」「帰還」をやっていて基礎構造がしっかりしているので読んでいて違和感もあまりない。
加藤シゲアキという作家は何かを失った人が再び生きてく決意だとか、何かを得ていくことを書き続けていく人なのかもしれない。
 
アイドルとパパラッチだと浮かぶのは阿部和重著『クエーサーと十三番目の柱』という作品。戦後のアメリカと日本の関係を書き続けてきた阿部和重という圧倒的な小説家の最も新しい単行本だ。
神町サーガ」に代表される日米関係と天皇小説の系譜に現在のネットや技術をぶち込んで世界を多層化し時にはメタフィクションを、成熟しない故に成り立ったこの国の文化を小説にぶち込める作家が阿部和重である。ただ今作は日米や天皇小説ではなく、日英と女王にまつまる小説。しかしながら読んでいてゾクゾクする展開とタイトルに込められた意味がわかり始めると物語はさらに加速度を上げて暗闇のトンネルの中へ、そしてクエーサーな干渉に似た光のプリズムに包まれる。東浩紀桜坂洋『キャラクターズ』を読んだ後に読むとさらに考えさせられる作品というか相乗効果がある作品。
この作品の冒頭はパパラッチがある一台の車を追っている所から始まる。パパラッチから逃げているのはウェールズ公妃ダイアナドディ・アルファイドが乗っていた車だった。事故はトンネル内で起きて車は十三番目の柱にぶつかり大破して、物語が始まっていく。
 
「渋谷サーガ」の二作目は渋谷のスクランブル交差点が物語の中で大きな意味を持つ。主人公の巧や亡き妻がよく聴いていたのは中村一義ピチカート・ファイヴであり作中で出てくるのもそれらの楽曲だ。著者の加藤シゲアキ渋谷系などをリアルタイムで聴いていた世代ではないだろうから後追いのファンだろう。だから巧は彼よりも年齢が上でそれらをリアルタイムで聴いていた世代にしていると思われる。
そこに関しては好きなものを自分の作品に取り込みたいという欲望と自分のファンや読者に自分の好きなものを伝えたいという願望が感じられる。だからそこは微妙に背伸びをしている風にも読んでいて思えなくはない。
パパラッチとして生計を立てている巧は罪の意識がないわけではなく、芸能人の熱愛スクープをすると贖罪のように体に(大小≒代償の)タトゥーを入れていて数は日ごとに増えていっている。この事で僕が最初に思い浮かんだのは僕が大好きなバンドのDragon Ashのボーカルであり現在はNHK大河ドラマ『八重の桜』で新撰組斎藤一を演じているKjこと降谷建志さんだった。
彼は自分名義のアルバムを出す毎にタトゥーを入れている。一枚アルバムがリリースされる毎に彼のタトゥーは増えていくのだ。僕は二十代半ばまでそれに影響されて普通に作家として自分の作品が一冊でも世にドロップアウトできたら一冊毎にKjを真似てタトゥーを入れようと考えていた、わりとマジで。ちなみに僕の体には未だにタトゥーは刻まれていない。
この一枚毎にKjがタトゥーを入れていることを加藤シゲアキは知っているはずだ。
僕はあまり書評を読まないので確かめていないのだけど、加藤シゲアキ関連の作品でこの事を指摘している書評家やライターさんはどのくらいいるのだろう。いるとしたらおそらく僕と同世代か三十代半ばの人だろうと思う。
 
1999年日本の音楽シーンは大きな転機を迎えた。
宇多田ヒカルのファーストアルバム『First Love』が空前の売り上げを記録し、浜崎あゆみもブレイクし現在のAKB48のメンバーが幼少期に見ていたであろうモーニング娘。LOVEマシーン』が大ヒットした。
Dragon Ashは『Let yourself go,Let myself go』『Grateful Days』『I LOVE HIP HOP』でブレイクしていった。ブレイク後に降谷建志は父が俳優の古谷一行だと口を開いた。
降谷建志と同じ年である椎名林檎が90年代に流行った「渋谷系」をもじって「新宿系」として『ここでキスして。』によるヒットで一躍ブレイクする。『ミュージックステーション』で頭に小さな王冠を載せた椎名林檎タモリさんが同じ画面に映っていたのをなぜか今でも覚えている。そんな前世紀の最後辺りに十代後半だったのが今の三十代半ばから三十歳ぐらいまでの人たちだ。
 
高等部で中退しているが初等部から中等部、高等部と降谷建志は青山学院に通っている。加藤シゲアキにとっては彼もまた尾崎豊同様に学校の先輩である。そしてそのタトゥーの事と物語の最後に明かされる巧の秘密もおそらくは降谷建志がモデルになっているのではないかと思われる。
「渋谷サーガ」は三部作みたいな形になるみたいなので次も出たら読みたい。この物語をどう繋げていくのか、一冊目と二冊目の接点はない。繋げるなら二作の脇キャラが三作目の主人公や物語と絡んでシェアワールド化するのが妥当だし読み続けるファンには嬉しいだろう。次はやっぱり小沢健二小山田圭吾とかその辺りの渋谷系の王道をメインに持ってくるかなあ、どうだろう。
でもそうやって上の世代と下の世代を繋げてクロスオーバーさせられる作家さんになっていくのかもしれない。それもエンターテイメントの魅力のひとつだから。
 

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君の眼に映る僕を、僕は知れない。
そう、だから、君に会うのは、自分と会うみたい。
僕の眼に映る君を、君は知れない。
ねぇ、だから、いつだって、僕だって、君だって、
そう変わりはない。
 
いろんな声が広がる、この街にさ、
君の声が聞こえてくる。
出会う人は、その声かえす鏡のように。
だから、僕はうたえる、うたえるから...。
中村一義アルバム『ERA』 track15『君ノ声』より

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vol.142 「皆様、よいお年を。 土屋敏男×水道橋博士×岡村靖幸 スペシャル鼎談掲載! 」 - [2017年12月30日発行]

『藝人春秋2』&『チュベローズで待ってる』&『最後のジェダイ』について
 
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 十九歳の時に上京してバイト先で偶然にも現れたビートたけしはホログラムのように揺蕩い身を焦がすほどの憧憬の果ての夢の端に浮かび上がった幻影にも見えた。
 ボクはこの世では生きているか死んでいるかわからないのっぺらぼうの日々に見切りをつけた。
 二十三歳で出家同然にたけしに弟子入りしボクもあの世の登場人物のひとりに相成った。
(中略)
 おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。
『藝人春秋』と名付けた本書はこの世から来た「ボク」があの世で目にした現実を「小説」のように騙る――お笑いという名の仮面の物語だ。
水道橋博士著『藝人春秋』まえがきより
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 今年最後の連載では水道橋博士著『藝人春秋2』上下巻について感想を書こうと考えていた。発売したばかりの加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』上下巻も読み終わって、この小説に書かれていた構造を考えていたらこの2作品を絡めてなにか書けないものかと思っていたので勢いで書いてみることにした。
 上旬にはある程度、原稿を書いていた。そこから時間をおいていたのだけど、先日『最後のジェダイ』を観に行った。今回取り上げる神話論と切っても切れない関係にあるのが、『スター・ウォーズ』シリーズもといサーガだったりするのでそこも絡めて書けないものかと思って、さらに見切り発車してみようと〆切間近に書き足している。
 
 芸能界に潜入したルポライターである博士さんが、『007』になぞらえて自分は芸能界に忍び込んだ「スパイ」という設定を決めて、芸能人から政治家まで根気強く事実を探って資料や言質をまるでパズルのピースを集めるようにして書いたのが新刊『藝人春秋2』である。
スパイというとやはり表舞台の人ではなく闇で動き回っていて、この現実世界にいながらも少し僕らとは違う世界で生きている人のイメージがある。半分この世の者でありながらも半分はあの世に突っ込んでいるような存在と言えるのかもしれない。
 
 冒頭に引用したのは前作『藝人春秋』のまえがきだが、師匠・ビートたけしに弟子入りしたことにより小野正芳はこの世ではなく、あの世に移行して名前も「水道橋博士」となった。また、『チュベローズで待ってる』の著者である加藤シゲアキさんはジャニーズ事務所のアイドルでありNEWSのメンバーのひとりだが、NEWSというグループは2003年結成当時には9人だった。しかし、2011年10月7日に事務所から「山下(智久)はソロ活動、錦戸(亮)は関ジャニ∞の活動に専念するため、NEWSを脱退することになりました」とマスコミ各社にFAXが送られたことにより、残った現在の4人はNEWSとしての活動を継続することを決め現在の体制になった。
 同年11月22日、彼はそれまで活動していた名前である「加藤成亮」から「加藤シゲアキ」に変更し、『ピンクとグレー』(2012年1月28日発売)で小説家デビューすることを発表した。彼もまた大きな変化の時に名前を変えた人だった。 
 
 本名と芸名を分離することの意味はかなり大きなものであるはずだ。彼らの視線はあの世(芸能界)からこの世(一般社会ととりあえずしておく)を見る人となった。といえども博士さんの場合だと、夫であり3人の子供の父である小野正芳としてこの世で生活はしている。だが、一般人からすれば普通に歩いている彼は芸人である水道橋博士なのである。これはどこかこの世とあの世が入り混じっている感覚なのではないだろうかと僕なんかは思ってしまうのだが、顔を知られているという特殊な業種や立場の人でないと経験することはない事例だろう。
 
 彼岸にいながらも同時に此岸にいるという特殊な視線と立場だと僕は想像している。
 
 博士さんが同じくまえがきに書かれていたのは、素人時代には小説を読んで非現実に耽溺していたが今ではその時の方が現実感がなくなっており、現在ではテレビの収録現場にいる方だけでフィクションへの渇望がなくなっている、と。だからこそ、博士さんはノンフィクション系の書籍は読むが今や小説を積極的に読もうとは思わないということらしい。なるほど、と思う。逆に加藤シゲアキさんはフィクションを書いているので面白い対比だなと思ったりする。
 人と人を繋ぐ「星座」(コンステレーション)の概念とそれまでの人生で起きたことを現在において伏線を回収するという言い方を博士さんはよくされている。故・百瀬博教氏に言われた「出会いに照れない」を実践することでいくつもの数えきれない星も満天の星空が広がっていく、という考え方は博士さんが書かれたり発言されることで伝播していっているのも知っている。僕もそのひとりだと自覚している。
 今作『藝人春秋2』が書き上げられたのも星という単語を使って言うのなら満天星(どうだん)である。パッと見ではわからない繋がりや時間が隔てられてしまって途切れてしまったものをいかに結びつけるか、あるいは証拠を探し当てたり、当事者の元に赴いて言質を取っていく入念な下調べがあるからこそ、パズルのピースがカチッとハマるような快感があり、「星座」の物語になっていく。それ自体は博士さんの生き方に由来しているのだろうし、ライフワークとして小野正芳≒水道橋博士の軸になっている。だからこそ、博士さんはやめないしやめられないのだろう。
 

 
 『チュベローズで待ってる』上下巻を読了して最初に思ったのは、処女作『ピンクとグレー』から彼の作品はずっと一貫しているということだった。物語には行って帰ってくる(鯨の胎内に入り戻ってくる)という英雄神話構造(キャンベルの神話論『千の顔を持つ英雄』)がある。簡単にいうと、王になるものは一度、死の国(クジラの胎内≒あの世)に行って通過儀礼をしてこの世に帰還することで現世の王になるというものだ。文庫版『リアル鬼ごっこJK』の中で小沢健二について僕は作中の登場人物のセリフでこの話をさせている。小沢健二渋谷系の王子のまま突如日本から消え海外に行って様々な冒険と経験をして帰ってきた。『小沢健二の帰還』という宇野維正さんの本が出ているが、僕はどうしても王子が王になって帰還したとは思えないでいる。
 加藤シゲアキデビュー作『ピンクとグレー』で最も印象的だったのは、アイドルとしての自分とそうでない自分が「行って帰ってくる旅」を得て統合されることで彼(主人公≒著者)は「加藤シゲアキ」になっていく所だった。あるいは書くことで当時のメンバー脱退における傷だったり悩み、そしてこれから自分はどうしていくのかという意味を含めた自己セラピーのような役割があったのだろうということは簡単に想像できる。しかし、そう想像させるようにもあえて書いている感じをも匂わしてくるからとてもクレバーな書き手だと思った。
 同時に小説できちんとエンタメを書くことができるのも、エンタメにしないといけないのも彼の本業がアイドルだからというのも大きかったのではないだろうか。どちらかというと扱っている主題や内面の問題は純文学的部分があったはずだが、エンタメ小説にするために振り切って書ききったのではないかと推測している。
 
 今作の上巻では就活に失敗した大学生(光太)が新宿のホストに出会ったことで自らもホストになりナンバーワンになっていく。そして10年後を描いた下巻ではゲーム会社のやり手のクリエイターになった未来編が描かれている。
「このゲーム(物語)の主人公は僕ではなかった」と下巻の帯文にもあるようなミステリーになっているのも楽しめるポイントだが、僕が気になったのは先ほど述べたような人物が統合されるという部分があることだった。それを今回は二重螺旋のような構図で書いているのがミソだと思う。これは少しネタバレに近しいことを書いているような気はするが、これでラストのオチなんかがわかる人はすぐにミステリー小説が書ける人かもしれない。
 また、終盤の作品のキーマンと光太のやりとりは事務所と所属タレントのようにも見えなくはない。それは深読みではなくてあらゆる関係に起きる事柄だし、読んだ人ならなんとなくわかってくれると思う。あの部分はタレントである加藤さんの本音みたいなものが一部出ちゃっているような気がした。
 この小説で最も重要なことは上下巻で500ページ以上あるこの作品を手に取って読み終わる若い世代の読者がたくさんいることだろう。長い小説を読めると今まで読めなかったものも読めるようになるし、他の小説にも興味を持ってもらえることにもなる。それができる著者はやはり多くはないから、この小説が多くの人やいろんな世代に読まれることの意味は非常に大きい。
 
 僕がまんが原作者の大塚英志さんに影響を受けているので、小説を読んでいたり映画を観ていると構造なんかについて物語論や英雄神話構造なんかが浮かぶ。世間的に一番有名なのは『スター・ウォーズ』がジョーゼフ・キャンベルの神話論をジョージ・ルーカスが採り入れたということだろう。特に「鯨の胎内」というのは多くの物語に採用されているし、現実世界では実際に死んでなくとも近い経験や違う世界での経験によってパワーアップしたり新しい人生の局面に進むということもある。
 同時に作り手の多くはキャンベルの神話論を読んでいなくても、知らないうちに多くの物語からそれを受け取っているので、その構造を無意識であれ意識的であれ書いている。例えば、水道橋博士著『お笑い男の星座2』でも読んだ人の心を掴んで離さない「江頭グラン・ブルー」だとこう書かれている。
 
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 生と死は隣り合わせである。
 江頭は覚悟どおり死を選んでいた。
 たしかに、このわずか、数分のなかに江頭という男の一生を見せていた。
 救急隊員に酸素ボンベで吸入されているうちに、ボコボコボジャーボコと口から飲んだ水を戻すと、江頭が息を吹き返した。
「うぉ〜おおぉう、うえぇえぇ〜ん、あ゛〜ぅあ〜あ゛ぅあ〜ぁあ゛あ゛」
 江頭は号泣していた。
 その瞬間、まるで水槽という羊水のなかから大きな産声を上げ新たな生命が誕生したように見えた。
 決して日の目をみることのなかった芸能界の暗黒の深海芸人が、一瞬の死を経て、再び生を取り戻すと燦々と、太陽が降り注ぐ大海原に水飛沫をあげて浮上し輝いた瞬間だった。
―――――――――――――――
 
 実際に「鯨の胎内」という物語論を他の芸人さんに当てはめて考えてみるとどうだろうか。水道橋博士さんは免許を不正取得した事件(「運転免許を笑えるものにする」というたけし軍団内での遊びがあったが、博士さんは3年に1度の免許更新を待ちきれずに紛失したと偽って免許証を3回再取得した。これが道路交通法違反になり書類送検された)で謹慎をすることになった。『お笑い男の星座2』の第4章「変装免許証事件」にこの出来事は詳しいのだが、その謹慎によって歩合制だったために給料はなくなり仕事も当然なかった。相方の玉袋さんもコンビとして同罪扱いで謹慎になり、妻子と一緒にマンションから実家に戻ることになった。謹慎があけて高田文夫さんのプロデュースの舞台で浅草キッドとして復活することになる。けっこう当てはまっているように思えなくもない。
 『藝人春秋』文庫版のボーナストラックの「2013年の有吉弘行」での猿岩石でのいきなり大スター、そして一気に人気芸能人の頂点から転げ落ちていった有吉さんの雌伏の時間と現在に至る大々復活と再び頂点を登っていく姿も物語論的に考えることができそうだ。
 なんといっても「鯨の胎内」をリアルに体現しているのは博士さんの師匠であるビートたけしさんその人だろう。バイク事故で本当に死にかけて戻ってきた男。復活後に撮った映画は『キッズ・リターン』であり、最後のセリフ「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」「バカヤロー! まだ始まっちゃいねーよ!」は観た人に印象深く刻まれている。ここからビートたけしであり北野武の再び王としての時代が始まることになったのは間違いない。という見方はわかりやすいが、実際に本当にフィクションではなくノンフィクションで体現してしまっているのだから仕方ない。王になる人には王になるべきいくつもの物語があり、それが語り部たちによって後世に伝えられていくから伝説になる。
 

 
 キャンベルの物語論 三幕の17ステップにおける「第一幕」に『チュベローズで待ってる』の冒頭を当てはめるとわかりやすいのではないかと思ったので簡単に書いてみます。
 
「ホスト、やるやんな?」
就活に惨敗し、自暴自棄になる22歳の光太の前に現れた、関西弁のホスト・雫。
翌年のチャンスにかけ、就活浪人を決めた光太は、雫に誘われるままにホストクラブ「チュベローズ」の一員となる。
人並み外れた磁力を持つ雫、新入りなのに続々と指名をモノにしている同僚の亜夢、ホストたちから「パパ」と呼ばれる異形のオーナー・水谷。そして光太に深い関心を寄せるアラフォーの女性客・美津子。ひとときも同じ形を留めない人間関係のうねりに翻弄される光太を、思いがけない悲劇が襲う――。
「渋谷サーガ」3部作で知られる加藤シゲアキが、舞台を「新宿」に移して描き出す新境地ミステリー。(公式サイトより)
 
 
第一幕 出立
 1・冒険への召命
 2・召命の辞退
 3・超自然的なるものの援助
 4・最初の境界の越境
 5・鯨の胎内
 
非日常への旅立ち:呪縛と庇護者
1・冒険の召命
広い意味での幼年期にある主人公(=「セルフの覚醒」に至っていない)は、「幼年期の終わり」を告げる出来事に遭遇する。
 
父はすでに死去しており、母と年の離れた妹がいる主人公の光太。同級生の彼女は就職が決まっている。彼は30社近く入社試験を受けたが最後の1社からも内定の連絡が来なかった。就職浪人をするために来年一年大学に行こうと思っている。単位はほぼ取っているので家族の生活費と大学費用を稼ぐバイトを探さないといけない状態になった。新宿で内定をもらえなかった憂さ晴らしで飲んでいたらひどく酔ってしまい路上で吐いてしまった。そこにやってきたのはチャラチャラした男でホストの雫だった。ホストやりいな、となぜか雫に気に入れられてホストに誘われる。
 
2・ 召命の辞退
しかし人間は本能的に変化を拒む。素直には旅立たせず、主人公自身のためらい、あるいは周囲の人間の引き止めにより出立に二の足を踏む。これは「眠り」というモチーフで表現されることもある。
 
雫にホストに誘われるたがその夜は断って家に帰った。幼い妹はゲームばかりしている。光太はゲーム会社に就職したかったが落ちた。恋人は家族ぐるみの付き合いで家にもよく来るが、彼女から妹がゲームばっかりしてて大丈夫なの、家族として注意した方がいいんじゃないと言われる。ふたりが寝ようとすると妹がやってきて3人で川の字で寝ることになる。
 
3・超自然的なるものの援助
日常の惰眠へ引き戻される主人公を目覚めさせる存在が現れ、超自然的な力やアイテムを与えて背中を後押しする。
 
悩んだ末に雫に連絡をしてホストクラブに赴く。光太から源氏名である「光也」という名前が与えられる。ホストクラブに行って挨拶を済ませた後に雫から10万円を渡されてダサくない服を買ってこいと言われる。それが体験入店へのエントリーシートになる。そこで買ってきたものを雫が見て合格になり、ホストクラブで働けることになる。
 
4・最初の境界の越境
「こちら側→向こう側」への越境。「境界線」の存在とそのハードルの高さを象徴する「境界守」が配置される。
 
雫はオーナーの次に偉い存在であり、それまでは敬語ではなかったが敬語を使うように言われて上下の関係性ができる。閉店後に雫の下のホストたちに生意気だと洗礼を浴びせられることになる。妹が中学受験をしたいと言い出す。その塾代が4年間で250万ほどかかることがわかり、それをホストで稼ぐことを決意する。同時に彼女とともにいた大学生だった世界から離脱していく。
 
5・鯨の胎内
「向こう側」というのは「(象徴的な意味での)死の世界」であり、主人公は一度死に、再生して「こちら側」に戻ってくる。「再生」のイメージと「母胎」のイメージが重なり合う。
 
ホストになるのが光太にとって最初の「向こう側」である。そこでの名前は「光也」を使うことになる。彼が「こちら側」に光太として帰ってくるのは下巻以降になる。これ以降の上巻の展開は「第二幕 イニシエーション:試練と成長」のパートがうまく当てはまっているように思われる。
 
第二幕 イニシエーション
 6・試練への道
7・女神との遭遇
 8・誘惑者としての女性
 9・父親との一体化
10・神格化
11・終局の報酬
 
第三幕 帰還
12・帰還の拒絶
13・呪的逃走
14・外界からの救出
15・帰路境界の越境
16・二つの世界の導師
17・生きる自由
 
 となっているのでぜひ小説を読んでもらってこの流れにあるか確認してみてほしいです。キャンベルの物語論は3幕構成なので残りの第3幕については下巻「AGE 32」がその役割を担っていると考えられるかもしれません。
 

 
 このキャンベルの物語論「三幕の17ステップ」を使って作られたのがジョージ・ルーカスによって作られた『スター・ウォーズ』(「旧三部作」オリジナル・トリロジー)でした。新作『最後のジェダイ』はエピソード8にあたり、「続三部作」シークエル・トリロジーの二部作目です。この三部作で『スター・ウォーズ』シリーズ、サーガは完結すると思っていたら、やっぱりというか2017年現地時間11月9日にウォルト・ディズニー・カンパニーにより、シークエル・トリロジー完結後に新たな三部作の実写映画の制作が予定されていることが発表されました。
 
『最後のジェダイ』の監督ライアン・ジョンソンが主導し、ルーカスフィルムに「三本の映画、一つの物語、新たな登場人物、新たな場所。フレッシュに始めよう」と提案したという。「エピソード1〜9」のスカイウォーカーの血統の物語からは離れた、新たな別の人物を主人公とする三部作を予定している。ライアン自身は1作目を監督する予定だが、全作を監督するかは不明。
 
 『最後のジェダイ』を公開日に観に行った最初の感想はもはやこのサーガには血筋などはいらないのだなということだった。「他者の物語」にどんどん興味が失われている世界では「自分の物語」だけにしか関心が向かなくなっているという事実がある。誰もがスマホがあればかつての方に情報をただ受信するだけではなく、自ら発信できる世界になっている。だからこそ、ある一族の、限られたエリートだったり王のような存在に感情移入する能力というか、想像し妄想して自分に重ねたりする力は失われてしまっている。奪われているとでもいうのかもしれない。
 誰もが主人公になれる、主人公であるという世界を『最後のジェダイ』では描いてしまっている。そして、シークエル・トリロジーの完結後に新しい三部作を作るということが前提である以上は、仕方のない物語の転換だったということもどこか理解できてしまう。『スター・ウォーズ』サーガがこの先、ディズニー傘下で作られていくということは今作で、『スター・ウォーズ』の軸にあったジョーゼフ・キャンベルの神話論を『スター・ウォーズ』の中で殺す必要がどうしてもあった。だからこその物語展開であるのは非常に納得できるものだった。それが面白いか面白くないかは別問題ではあるし、観客の好き嫌いも別問題だということだ。僕は正直面白いとは思えなかった。
 『最後のジェダイ』は(息子世代のライアン・ジョンソンによる)『スター・ウォーズ』が(父であるジョージ・ルーカスの)『スター・ウォーズ』殺しをした作品である。それこそがまるで神話論の構造でしかないのだが、そうやって父(オリジナル)の呪縛から解き放たれてしまった『スター・ウォーズ』だからこそ、スカイウォーカー家の血統の物語からは離れた新しい主人公を置いた三部作を作ることが可能になる。うん、そうでしょう、でもさ、それって『スター・ウォーズ』って呼べるのだろうか、否か。
 富野由悠季監督は彼自身が作った『機動戦士ガンダム』シリーズにおける架空の年代史である宇宙世紀を自ら葬るために『∀ガンダム』を作り、その中で使われた言葉が「黒歴史」だった。過去に起きた宇宙戦争宇宙世紀)の歴史を「黒歴史」という言葉で表現していた。これがいつの間にかネット用語で「なかったことにしたい」or「なかったことにされている」過去の事象を指すものとなって一般に広まっていることは意外と知られていない。でも、富野監督は自ら作り上げた世界観(宇宙世紀)を葬ろうとしたことは事実だ。そういえば、『最後のジェダイ』でのレイとベン(カイロ・レン)のやりとりってなんかニュータイプみたいな感じに見えて、アムロ・レイララァ・スンのやりとりみたいだった。だから、ちょっと今更かよとも思った。
 ジョージ・ルーカス監督は『最後のジェダイ』については「見事な出来栄え」と肯定的な感想を述べているという。それはやはり自ら殺すことができなかった、あるいは旧三部作以外は制作できなかった『スター・ウォーズ』という手に負えなくなってしまった作品の中にある自分の存在を殺してくれたからだろう。ルーカスの分身でもあったルーク・スカイウォーカーの最後が描かれているのも当然だし、ルーカス≒ルーク・スカイウォーカー≒「最後のジェダイ」がいなくなった世界では新しい何がしかの物語が始まる。
 ルーカスは父殺しをされることで『スター・ウォーズ』から解放された。父を殺してしまって王位に就くライアン・ジョンソンやエピソード9の監督のJ・J・エイブラムスたちはどんな王国を作るのだろうか。と書きながら僕は中上健次紀州サーガを含めた中上健次作品を集中して読む正月になりそうです。サーガ好きなんですよね、なんだかんだ言っても。
 
 今年もメルマ旬報1年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。皆様によってよい年末年始になりますように。


vol.002 「博士の愛した靖幸(水道橋博士×岡村靖幸対談)」 - [2012年11月25日発行]

碇本学の『碇のむきだし』

おはようございますの方、こんにちはの方、こんばんわの方、
どうも第二回「碇のむきだし」です。
原稿書いている今日は曇天模様で雨が降っています。
風も冷たくなって寒さが増してきましたが
皆様お体にはくれぐれもお気をつけ下さい。
僕は季節の変わり目にはよく風邪をひいてしまうので
今年はきちんとうがいをしようと思ってます。
と思いつつ毎年しないから12月に風邪引くんですよねえ〜。
今回僕が取り上げる作品は
11月17日より公開が始まった『ふがいない僕は空を見た』という映画と
その原作小説を書いている窪美澄さんという小説家についてです。
 
水道橋博士のメルマ旬報』vol.1の前編の
樋口毅宏さん『ひぐたけ腹黒日記』を皆様読まれたかと思いますが
その中の6月29日の日記の一文に、
 
小説新潮」の新井編集長とバッタリ。恐れていたことが起こる。
「樋口さ〜ん、いつになったらウチの連載をやってくれるんですか〜」
大阪の取材費を出させておきながら書いていないんだ俺が。
泣きながら平謝りするが、酔った新井編集長は許してくれない。
酒に酔うといつもよりさらに目が座っていて怖い。
肉厚の体型を揺すりながら、借金の取り立てだったという前職の片鱗が垣間見える。
「あんたね〜そんなんだから窪美澄とどんどん差がついていくんだよ」
てめえ俺の前でNGワードを出しやがったな。
 
↑この窪さんです。
窪美澄さんは新潮社主催の第八回R-18文学賞を『ミクマリ』にて大賞受賞し
受賞作を含む『ふがいない僕は空を見た』で2010年に小説家デビューされました。
 
R-18文学賞(アールじゅうはちぶんがくしょう)は、
新潮社が主催する公募新人文学賞である。
応募者は女性に限られており、また選考委員の作家や下読みにあたる編集者も
女性のみとしている。当初は、性について描かれた小説全般を対象とし、
女性のためのエロティックな小説の発掘を目指していたが、
第11回より、女性が性について書くことは珍しいことではなくなり、
性をテーマにすえた新人賞としては一定の社会的役割を果たしたとし、
募集作品を「女性ならではの感性を生かした小説」と定めた
(官能をテーマとした作品も受け付ける)。
最終候補作はウェブ上で公開され、選考委員の合議により選出する大賞と、
ウェブ上の投票により選出する読者賞を設ける。(wikipediaより)
 
映画『ふがいない僕は空を見た』は「元いじめられっ子で、
姑から不妊治療や体外受精を強要されている主婦・里美(田畑智子)。
友達のつきあいで行ったイベントで“あんず“と名乗る里美と知り合い、
アニメキャラクターのコスプレをして情事に耽るようになるが、
その写真が何者かにばら撒かれてしまう高校生の卓巳(永山絢斗)。
助産師として様々な形の命の誕生を見守っている卓巳の母(原田美枝子)。
痴呆症の祖母と団地で暮らし、コンビニでバイトしながら
極貧の生活に耐える卓巳の親友・福田(窪田正孝)。
元予備校教師で福田に勉強を教える田岡(三浦貴大)……。
現代社会に生きるそれぞれの登場人物が抱える思いと苦悩がリンクし合い、
やがて一筋の光が見えるラストに収束していく群像劇」(公式パンフより抜粋)。
 
監督は『タカダワタル的』、『百万円と苦虫女』、
蜷川実花監督『さくらん』の脚本を手掛けているタナダユキ監督。
脚本は山下敦弘監督の作品の多くを手掛け
タナダ監督の『俺たちに明日はないッス』でも組んでいた向井康介さん。
 
原作小説である『ふがいない僕は空を見た』がR-18文学賞から出た事もあり
性について書かれた作品で映画もそれを丁寧に描いているので
R-18指定になっています。
映画はR-18指定だけど高校生とか中学生が観てもいいのになあ
というか観た方がいいと思うんですけどね、
セックス描写もあったりするからの配慮なんでしょうけど
結局人が今そこにいる過程の最初はそれなんだから避けられようもないですし
隠す事でキレイキレイな嘘な環境の方が気持ち悪いですね。
でも、これをもし読んでいる中高生の方がいたら
映画はまだ無理だけど小説は問題ないのでぜひ読んでほしいです。
 
まずは映画から。
小説は連作短編集で同じ町を舞台にしていて短編ごとに主人公が変わります。
卓巳・里美・七菜(卓巳の事が好きな同級生の女の子)・福田・卓巳の母と
各章で視線が変わっているが物語は連続していたり、
あるシーンの裏側で他の人はどう動いていたかなども描かれる。
冒頭で卓巳と里美のコスプレセックスから始まり
その映像がバラまかれて彼らのひとつの想いや様々なものは終りを告げていきます。
姑(銀粉蝶)から不妊治療や体外受精を強要されている里美は
気持ちをうまく言葉にはできません。
日曜日に姑が新鮮な野菜を買って家に乗り込んできて料理を作り出す、
玄関で一度置いた荷物から落ちた野菜についていた土が
廊下やマットを汚している。そんな描写のひとつひとつが
日常の中で損なわれてしまう、どうしようもない気持ちを表していきます。
夫(山中崇)は卓巳とのことがわかっても離婚はしないという。
感情を出さない夫が感情を露にするあのシーンだけでも
山中さんを起用した理由なんだろうなと思えました。
 
話が少し逸れますが山中崇さんは最近よくお見かけするようになった役者さんです。
CMだとJTだとか、今年だと西川美和監督『夢売るふたり』、
北野武監督『アウトレイジ ビヨンド』、園子温監督『希望の国』、
三池崇史監督『悪の教典』に今作『ふがない僕は空を見た』と
話題作にひっぱりだこです。
山中崇さんが出ている今年の映画外れなしです。
山下敦弘監督の作品の中でも僕は一番好きな『松ヶ根乱射事件』の
主人公(新井浩文)の双子の兄で注目された役者さんなんですけど
僕の感じだと数年前の田中哲司さんや大森南朋さんが
今みたいにブレイクする寸前によく映画とかドラマで見るようになって
なんかいいなってオーラみたいなもの、ブレイクする前の何かが
匂ってくるんですよね〜。山中崇さん目当てで来年から出てる映画観るのもありです
よ、ホントに。
 
小説の流れを映画は辿っていますが
七菜視線の『2035年のオーガズム』は映画には取り込まれていません。
なので映画では七菜の存在感は限りなく薄いです。
ただ卓巳の事が好きな同級生の女の子程度の役割で。
でもこの判断というか脚本で入れなかったのは
すごく流れもすっきりして映画のルックとしてはよかった。
2035年のオーガズム』は七菜の勉強できすぎた兄が
新興宗教に入って連れ戻されて帰って来て町が大雨で
川が氾濫してやばい家が〜みたいな話で
お父さんは遠くに単身赴任しててという話です。
お父さんが単身赴任していて家にいないというのは
窪作品にとっては実は大きなものがあると僕は考えていますがそれは後ほど。
窪さんは四十代半ばですがこの新興宗教についての書き方というか
感じ方は僕とはやっぱり違うなと読んで感じました。
今の四十代半とかその上の世代の人は
1995年の地下鉄サリン事件があったのもデカイと思うんですけど
オウムとかにいた信者の人は世代的にも近かったはずで
自分達の世代的な問題の一部として
否応ながら引受けているような気がなんとなくします。
 
今年話題になった映画『桐島、部活辞めるってよ』は
同じ出来事(時間軸)を各人物から見て構成された物語でした。
ふがいない僕は空を見た』も群像劇ですが
全体的にはそういう風にはなっていないのですが
卓巳と里美の二人の出来事はそういう見せ方で展開していました。
その後に親友である福田の住む団地の話になっていくので
あの辺りの事も考えると卓巳と里美の出来事を丁寧に描いて
団地編というか福田の話と卓巳の母の話に入っていくから
気持ち長く感じたのが正直な気持ちです。
二時間半ぐらいの上映時間だと思いますが
もう少し最初の卓巳と里美の件を短くしても充分伝わると思います、
テンポがよく進むわけではないので二時間ぐらいだと観やすいかなと。
 
卓巳と里美のコスプレセックスの画像や動画が
卓巳の家や学校に送られたり撒かれたりして二人の関係は終焉していきますが
卓巳の親友である福田と彼の幼なじみであるあくつが取る行動は
確かに残酷であるのに美しく青春映画のワンシーンとしても輝いています。
そのシーンがどのようなものであるかは映画で観てもらいたいです。
小説にできることと映画にできることはもちろん違います。
あのシーンは小説でも福田とかの気持ちわかるし
自分でもそれやっちゃうだろうなって思えるけど
映像にしたらもっとわかるっていうか躍動感も含めて
残酷さの中に潜むキラキラしたものが映し出されていました。
 
あとは卓巳の母で助産師をしている原田美枝子さんの安定感ぶりが
ハンパないですね。なんだろうあの感じは。
メルマガの水道橋博士編集長とさきほどの樋口毅宏さん繋がりで言えば
原田美枝子さんはゴジさんこと長谷川和彦監督『青春の殺人者』のケイ子が
浮かんできます。
もう素敵な肉体でしたねえ、可愛いしスタイルもいいし。
今作でも田畑智子さんが絡みのシーンで脱いでるんですが
こういう先輩が同じ映画に出演されていると心強いのかな
なんて思ったりするんですがどうなんでしょうね。
青春の殺人者』に一緒に出ていた桃井かおりさんと共に
蜷川実花監督『ヘルタースケルター』に原田さんは出演されていました。
全身整形な主人公・りりこの芸能事務所の社長が桃井さんで
その整形外科医をやっていてりりこを改造したのが原田さんという役どころで、
こういう先輩が役どころとして固めていたから
沢尻エリカもやりやすかったりしたのかなとか思ったり
二人をそういう役どころで配置してさらに追い込んだのかなって。
でも、原田さんや桃井さんみたいな天然(美少女だった)が
年を経て人工的な美を作り出す役どころというのも
すごい皮肉には見えたりするんですけどね蜷川さんの。
ヘルタースケルター』では原田さんは冷たい感じなんですが
今作では助産師さんで温かいというか命について信じている人で、
生を描くためにもちろん性はさけて通れないし
性がなければ生もまたなくて命についてずっと考え続けてる人でした。
だから言葉がすごく沁みてくる。
 
観終わってスカッとするというよりはジワジワと染み込んできたものが
内面のひだに届いていろんなことを考えたり思うきっかけになるような
作品だと思います。そして役者陣はすごくよかったです。
主演の二人の佇まいもいいですし、二人の会話は少ないけど
どうしても避けられない欲情に戯れて何かを失っていくあの感じは
もちろんバカにできない、誰にだって起きうることだから。
「バカな恋愛したことないやつなんているんすかね?」と
助産師の母親の下で働いている長田が言うんですけどまさにその通りです。
永山さんは冒頭で顔が映った瞬間に
やっぱり兄の瑛太さんに似てるなって思いますね、輪郭なのかな。
特に気になったのは福田役の窪田さんでした。
こないだ放送されたNHKドラマ『平清盛』で演じた平重盛役も
素晴らしかったです、これからもっと見たい役者さんのひとりです。
 
ここからは小説というか窪さんについて
僕がなんとなく考えたことや前に読んだ時のレヴューを書いてみようと思います。
窪美澄さんの小説は現在三冊刊行されています。
取り上げたデビュー作『ふがない僕は空を見た』
(第24回山本周五郎賞受賞、第8回本屋大賞二位)、
晴天の迷いクジラ』(第3回山田風太郎賞受賞)、
最新作『クラウドクラスターを愛する方法』。
 
僕が最初に『ふがいない僕は空を見た』を手に取ったのは
単純にタイトルのセンスというか惹かれるものと装丁がよかったからでした。
僕はCDやレコードのアルバムをジャケ買いする人がいるように
本屋に行くと装丁買いすることが多々あります。
タイトルと装丁で惹かれるものがあれば自分の中にあるものと
何かしら呼応しているので大抵外れはないです。
そういう一冊が『ふがいない僕は空を見た』でした。
僕が買って読んだ頃にはある程度売れていたと思います。
出版社の担当者さんが足をつかって本屋さんに出向いて
全国の書店員さんもこれは売らなきゃと思って展開したりという
まず愛され売れていった本であるということです。
本屋大賞二位というのはその表れです。
僕も書店で二度ほどバイトをしたことがありますが
書店員が好きな作家を推す時の想いは熱く、
この作家はまだ世間的には売れていないがなんとしても展開して
すこしずつでも売るという伝道者としても
書店員さんたちは働いているのを知っています。
しかも本を読みまくっていて目は肥えていますから
本当に数年後にブレイクしていく作家さんたちを
いち早く押し上げていくのが書店員さんたちなんです。
そういう人たちにこの本をお客さんに読んでもらいたいと
強く思える小説だったんですね、『ふがいない僕は空を見た』は。
だからこそ余計に届いていった作品です。
 
第二作『晴天の迷いクジラ』はは四つの章からできています。
構造として物語の主軸にあるのは
一作から続いて章ごとに主人公(目線)が変わる部分ですね。
個人の「私小説」的な一人称で見た世界を描くのではなく
章ごとの主人公がなんらかの関係を持ちながらも目線が変わる事で、
同じ出来事も細部が変わってゆく。
同じ体験をしてもそこにいた者同士でも考える事や思う事はもちろん違う。
生きている人間の数だけ細部の異なる世界が存在しているのが
僕らの世界の成り立ちである。
窪美澄という作家はそこを丁寧に描ける作家さんです。
第一章「ソラナックスルボックス」は仕事の忙しさから鬱になり、
学生時代の恋人にも振られ、
勤めていたデザイン会社が潰れそうな青年の由人の物語。
第二章「表現型の可塑性」はがむしゃらに働いてきたが、
不景気のあおりで自らのデザイン会社が壊れて行くのをただ見守る女社長の野々花
の物語。
第三章「ソーダアイスの夏休み」は母親の偏った愛情に振り回され、やっとできた友
だちも失って引き籠るリスカ少女の正子の物語。
終章「迷いクジラのいる夕景」は
湾に迷い込んだクジラを見に行く事になった由人と野々花、
そして途中で彼らと出会い、一緒に同行することになった正子の物語。
そこで出会う人々と喪失の先にあるものが、
少し柔らかい日差しのような希望として描かれています。
「家族」という個人の最初の場所が引き起こす個人の歴史における痛みと
生きづらさ、ある種メタファーとして迷いクジラ。
それらが出会う、集う場所は他人同士が同じ場所に居る
ある種いつわりの「家族」だけれど、
そこでそれが癒され、心がほどかれていく。
 
「家族」は一番小さな社会でありコミュニティなのは誰も否定できないでしょう。
窪作品に性的な描写があるのが僕は当然だと思うのは
人の発端はそこからだし、その欲望がなければ人は生まれてこないからです。
「家族」を描く際に個人の欲望(性欲)を描かない方が僕はやはり不自然です。
作家が家族を描くことは「性」を嫌でも引き受ける事で、それが始まりであるから。
だから「家族」について描き続けている作家ほど
性のことをきちんと描き続けている。
 
各自それぞれに喪失を抱えた由人、野々花、正子の三人が訪れる場所に
迷い込んでいるクジラ。まるで先祖帰りして陸を目指すかのような
この巨大な生物の行動は、自殺に似ている。三人は「鯨の胎内」に入り、
再び出てくるという死の世界から戻って来るような通過儀礼の代わりに、
その町で(彼らと同じように)大事なものを失った人と
ある種の偽装的な「家族」のような日々を過ごします。
そして、死のベクトルから生のベクトルに向かって行く。
それは癒しに似ている生への渇望であり、
柔らかな日差しが差し込んで冷えきった体の緊張が解かれるような喜びのようです。
闇をきちんと見据えた上での光。
それは共存し、どちらかがなくなることはない。
彼らは死の側(絶望)から生の側(希望)に少しだけ向かいだす。
僕たちは出会った人たちとすべて別れて行く。
得たものはすべて失ってしまう。あなたも僕もやがて消えて行く存在だ。
だけど、いつかやって来る喪失と向かい合いながらも
諦めずに日々を生きて行くこと。
それは、死を見据えながら毎日を生きて行くということ。
そんなふうに、それでも誰かと生きていきたいと思える小説が
晴天の迷いクジラ』です。
ほんの少しの光や温かさが冷めきった心をわずかばかりに癒す、
完全には癒せなくてもそれで少しだけ笑えたら、
前に進めたらそれはとても素敵な事だなと読んでいて心がほっこりしました。
 
第三作目が『クラウドクラスターを愛する方法』。
窪さんの小説は視点の変わり方がうまくて
その視点の変化と描かれている景色や風景や何かの色彩が
登場人物に心象風景に重なっていく。
今作では主人公の紗登子の視線だが
彼女の両親と母方のおばたちとの関係、ある種の女系家族の関わりを
この小説ではメインに書いている。
家を出て行った母とやがてそこから出て行った紗登子。
どことなく金原ひとみ著『マザーズ』に通じている視線を感じなくもない。
マザーズ』はとんでもない作品なのでこちらもオススメです。
女系家族で姉妹の中で唯一嫁にいかなかった叔母と紗登子の時間。
虹というワードとその色彩に希望のようななにか期待がある。
暗闇の中にいても虹は出るのか、出すためには光を集めるのと光源が必要です。
 
光はどこから灯すべきか。
 
紗登子の弟の現在が描かれていない(出てこない)のは
女系家族の中で期待されていた母の死んだ兄のように
祖母や叔母が住んでいる家には男はいらないし、いれないからだろう。
娘たちはその家というある種のライナスの毛布があるだけ外にいける。
しかしその娘たちの系譜の家は女たちの聖域であって
男は迎えに来ても長居はできない。
迎えにくるのはその家と血縁関係のない紗登子の母と結婚したおじさんだけだった。
 
ふがいない僕は空を見た』『晴天の迷いクジラ』は傑作だし
窪さんが熱狂的に支持されていくのは読めばわかるので
人に勧めたいといつも思う。
だが心のどこかで勧めた人には重すぎるかも、
その人の精神状態によっては諸刃の刃になりかねないとも
少し思ったりしていたがこの作品はどちらかといえばライトだ。
だからといって質が落ちているというのではなくとても受入れやすい。
あと三十前後の女性にはどストレートを投げつけられているので
すごく響きすぎてしまうだうなとは読んでて感じました。
 
一緒に収録されている短編の『キャッチアンドリリース』の方が
少年と少女を主人公に置いているのに表題作よりも重い、
なんだかチョコレートを溶かしたものを飲んでいるように何かドロドロと重い。
オナニーを覚えかけの少年の父へ抱いた仄暗い気持ち、
心を置いて体は勝手に女になっていく少女。
彼女を見る大人の男が自分を女として見てくるその気持ち悪い視線。
体は大人になっていくのに
心はまだその段階に追いついていかない不安定な時期、
いつか僕らが通りすぎた季節で
ずいぶん忘れていたような思春期の入り口にあった自分の記憶と
彼らの物語とが時間軸も違うのになにかリンクしていく。
表題作の「クラウドクラスター」とはいったい何なのか、
何を示しているのかがわかった時に窪美澄という小説家の
タイトルのセンスと作家性がわかってニヤリとしてしまう。
そしてまたやられたあと思いつつページは進んでしまいます。
 
『ふがない僕は空を見た』、『晴天の迷いクジラ』、
クラウドクラスターを愛する方法』と三作のタイトルは
空がワードに関っている。これも特徴のひとつですね。
神とは空の抽象化にすぎないと考えることもできますが
どうしようもない時に空を見上げてしまうのは
そんな存在がいると信じていようがいなかろうが
自分の足がついている大地ばかり見ていても仕方ないから
ふと見上げてしまうのかもしれません。
先ほど書いた『2035年のオーガズム』では父親は単身赴任していました。
クラウドクラスターを愛する方法』を読んでいると完全に女系一族の話です。
窪さんの体験とかが無意識化に出ているんだと思いますが
窪さんの物語には父がいない、父性がない。
ふがいない僕は空を見た』の卓巳の父親は彼と母とは別に住んでいます。
福田にいたっては父は死んでいて母すらも彼氏の家に入り浸って
父の母である痴呆症の姑の面倒も息子に任せています。
この母親は園子温監督『ヒミズ』の住田の母親に限りなく近い感じです。
 
朝日カルチャーセンターで園子温監督×脳科学茂木健一郎さんの
トークイベントにて園監督が
ヒミズ』に出てきた茶沢家にあった絞首台の話をされていたのですが、
監督はいろんな女子高生に取材をしたら
実際に家で両親が絞首台を作っている家が何件かあったそうです。
次の模試の試験の結果が悪かったらそれで死ねよと。
ふがいない僕は空を見た』で出てくる里美の姑は
息子や里美のために子どもを作れとは言っていませんでした。
自分のために自分の孫が欲しくてそう強要していたのですが、
試験の成績が悪かったら死ねと言えてしまう親。
最初は子どものためだったのだと思いますが大事な事が失われてすり替わって
自分の為に何かを人にさせようとすると
人は思いやりとか温かみみたいなものから削がれて残酷な事が
言えるようにできるようになってしまうのでしょうか。
少しずつ損なわれてしまうもの。
 
窪さんの小説にはどうも父性が絡んでこないのは
読んでいるとなんとなく感じることです。
タイトルには空が出てきて女系家族ばかりではないけど父がいない家庭が多い、
あるいはあまり描かれない女性的なものや母性、その象徴は海。
空と海。
人が足をつけているのは大地。
そうやって窪さんは父性の失われていく現代を書いているのかもしれません。
 
窪さんが作家として出てきたR-18文学賞
当初は性について描かれた小説全般を対象とし、
女性のためのエロティックな小説の発掘を目指していたこともあり
僕の中ではR-18文学賞から世に出ている小説家さんの事を考えると
なにか漫画家の岡崎京子さんたちが居た場所について
考えてしまうことがこの所ありました。
前述した蜷川実花監督『ヘルタースケルター』の原作としても有名だし
代表作『pink』『リバーズ・エッジ』など90年代を代表する漫画家である
岡崎京子さん。
ヘルタースケルター』の映画化で一番よかったのは
その関連で過去に発売された漫画が新しく刷られて
数冊の岡崎京子の作品について書かれた本が出た事でした、僕的には。
 
 
そうよこれがB-Girlの品格
ど真ん中 プラスNo.1
自分を誇るのが基本 乙女なキラ目の主人公の
少女マンガの中に後ろ姿 見つけられなかった仲間達のため
(RHYMESTER B-Boy+Girlイズム feat. COMA-CHIより)
 
 
この歌詞がなぜか岡崎さんの居た場所を考える時に
どうもBGMとして浮かんでしまう。
岡崎京子のメジャーデビューの舞台になったのは
ロリコンマンガ誌『漫画ブリッコ』でした。
今では『多重人格探偵サイコ』などの漫画原作者でもある大塚英志氏が
編集者でいた雑誌で中森明夫さんが「『おたく』の研究」という連載を始めて
ここから「おたく」という言葉が生まれたと言われています。
少女マンガでは自分達の書きたいことは書けずに
漫画を書く場所がなかった岡崎京子白倉由美桜沢エリカらは
男の論理で作られたロリコンマンガや自動販売機だけで売っていたエロ本などに
書きながら世に出て行った。
今本屋に行けば少女漫画とは別に岡崎京子たちが出してから一般的になっていた
少女マンガのコミックよりも青年誌連載のコミックよりも
小説のハードカバーよりも少し大きいA5判コミックが並んでいるのは
彼女たちが作っていった足跡の軌跡の形だ。
岡崎京子が出している物語集『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』や
コミックのあとがきに書かれていた彼女の文章を読むと
小説も書いてほしかったと思う、この人が小説を書いたら
新しい何かは生まれたのかななんて思えたりするから。
大学在学中にエロ劇画誌『漫画エロジェニカ』でエロ漫画家とデビューし
同期だったまついなつきさんと女子大生エロ漫画家として取り上げられていた
山田双葉名義で世に出てその後小説家になった山田詠美さん。
その事を思うと余計にそういう可能性もあったんじゃないかと思ったりもする。
そんなのはもちろん後の祭りだけども。
 
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彼ら(彼女ら)の学校は河ぞいにあり、それはもう河口にほど近く、広くゆっくりと
澱み、臭い。その水は泥や塵やバクテリアや排水口から流れこむ工業・生活排水をた
っぷりとふくんだ粘度の高い水だ。
流れの澱み、水の流れが完全に停止した箇所は、夏の水苔のせいですさまじい緑とな
り、ごぼごぼいう茶色い泡だけが投げこまれた空カンをゆらしている。その水には彼
ら(彼女ら)の尿や経血や精液も溶けこんでいるだろう。
その水は海に流れ込んでいくだろう。海。その海は生命の始原というようなイメージ
からは打ち捨てられた、哀れな無機質な海だ。海の近く。コンビナートの群れ。白い
煙たなびく巨大な工場群。風向きによって、煙のにおいがやってくる。化学的なにお
い。イオンのにおいだ。
河原にある地上げされたままの場所には、セイタカアワダチソウが生い茂っていて、
よくネコの死骸が転がっていたりする。
 
彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。彼ら(彼女ら)は事故のように出逢う。偶発
的な事故として。
あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つこ
とを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした
書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決し
てなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。
 
一人の少年と一人の少女。けれど、彼の慎ましい性器が、彼女のまだ未熟なからだの
なかでやさしい融解のときを迎えることは決してないだろう。決して射精しないペニ
ス。決して孕まない子宮。
 
惨劇が起こる。
しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るよ
うに。むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。
 
彼ら(彼女ら)は決してもう二度と出逢うことはないだろう。そして彼ら(彼女ら)
はそのことを徐々に忘れていくだろう。切り傷やすり傷が乾き、かさぶたになり、新
しい皮膚になっていくように。そして彼ら(彼女ら)は決して忘れないだろう。皮膚
の上の赤いひきつれのように。
 
平坦な戦場で僕らが生き延びること。
 
リバーズ・エッジ』あとがきより
 
 
人影もまばらな夜に通りを抜けドーナツ屋に入ったとたん、そうだ、
あそこに行こう、とおもいたった。
町で一番高いマンションへしのびこむことにしたのだった。
びくびくしながら門をくぐり、わたしたちはガラスのドアを開けた。
管理人部屋を横目でにらみ、誰もいないことを確認した。
エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
ごとんごとんと機械の音。
手にはふかふかのドーナツと熱いコーヒーの入った袋。ドアが開く。
息をひそめて通路を曲がると、わたしたちの目の前に、夜明けの東京がひろがって
いた。
群青から薄い青、そして茜色へのグラデーション。
雲はひとつもない。わたしは空を見上げた。
おはよう。おはよう。
 
『チワワちゃん』あとがきより
 
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居場所がない中で自分達の表現をしていく中で
最初はエロ漫画であろうが出て行った彼女たち。
でも性をきちんと描こうとすることで生に対しての真剣さも尊さも儚さも書いて
自分達のジャンルを形成していった岡崎京子さんたちのように
R-18文学賞出身の小説家の強みってあるんじゃないだろうかと考えていた。
第11回から女性が性について書く事はもはや特別な事じゃなくなったので
女性ならではの感性を生かした小説を募集要項になったみたいです。
女性と男性の役割やできることが違うように描ける世界も感性も違うし
女性のためのエロティックな小説の発掘にしたほうが
より個性的な才能が集まるような気はする。
だってエロティックな小説という縛りがあってもそれを書いていたら
他はどんなジャンルであろうが書いていいわけだし
SFであろうが純文学でもラノベであろうが
書き手は脳内ドーパミン出まくって逆に応募者の作家性が
うまく出るような気がするのだけど、そうじゃないのかな?
 
ふがいない僕は空を見た』の中で卓巳が出産を手伝って
生まれてきたばかりの赤ん坊についている小さなペニスを見て思う事。
小説では最初に収録されているR-18文学賞受賞作でもある『ミクマリ』の最後に、
映画では最後に卓巳の台詞として言われる。
あれは男としてはたまに思わなくもないけども
たぶん言葉にしたり文章で書いたりしないかもなって思う部分があって
あれを書けたのは息子さんがいる母でもあって
女性な窪さんの視線だからって気がした。
映画は脚本の向井さんは男性だけどタナダ監督は女性で
あれはどうしても外せない部分としてきちんと台詞にしたんだと観ていて感じた。
 
窪さんは作家としてデビューする前に妊娠、出産、子育てなど、
女性の体と健康を中心にした編集ライターとして活躍していた事が
作品にもかなり影響して現れているのは間違いない。
その普遍的であり永久的に先鋭的なそのテーマを彼女は書き続けていくのだろう。
だからこそ僕たち読み手は小説に出てくる登場人物たちと
環境や生まれは違うけど、気持ちを重ねることができる。
読んでいてしんどくなることもあるけれど、
それでも前に進んで、時には逃げる彼らが愛おしくすら思える。
それは僕らの一部分でもあるから。
窪美澄という小説家の名前は
嫌でもこれからもっと聞くようになっていくのは間違いないと思います。
まずは『ふがいない僕は空を見た』の文庫も出ましたし皆さんオススメですよ〜。
窪美澄さんと樋口毅宏さんの小説がもっと売れて
お二人の作品を読む人が増えたら面白い事になっていくんだろうなって
ファンとしては思いますし小説の世界も新しい風が吹いてくんじゃないかなと
期待しています。
僕は作家志望なんで好きな作家さんたちと殴り合いして
本屋の平台を奪い合うバトロワに参加できるようにしなきゃなとも思います。
 
次回は樋口毅宏新刊『ルック・バック・イン・アンガー』が刊行されるので
読んだ感想を書きます。



いつか誰かと居たことを懐かしむ前に、差し込む光のように(BOOKSTANDニュース)


https://bookstand.webdoku.jp/news/2018/05/18/170000.html

↑文字数多すぎて途中で切れるのでリンクで読んでください。