Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

<メルマ旬報>『朗読劇 銀河鉄道の夜』南相馬公演

 古川日出男さんの新著『ミライミライ』が早い所では書店で並び始めた。去年の今頃は『新潮』で連載中であり、古川さん自身もUCLAで日本文学の短期授業のために渡米されていた。去年中に単行本になるのかと思っていたが、デビュー20周年の2月に出ると言われたのはいつだったか覚えていないのだけど、それはすごくいいことだと思った記憶がある。
 『水道橋博士のメルマ旬報』というメルマガで「碇のむきだし」という連載を創刊時からさせてもらっている。先月の1月30日に配信されたvol.145で『朗読劇 銀河鉄道の夜南相馬公演について書いていたのだが、2月28日には僕のいる「ま」組も配信されるのでこのブログに転載しようと思ったのは、今日は古川さんのデビュー20周年を記念する期間限定特設サイト【古川日出男のむかしとミライ】がオープンしたというのが一番の理由だったりする。ネットで誰でも読めるようにしておけば、何か引っかかってどこかに繋がっていくかもしれないとも思うので。

デビュー20周年を記念する期間限定特設サイト【古川日出男のむかしとミライ】
http://furukawahideo.com


水道橋博士のメルマ旬報』
https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=s_hakase



 7年前の今頃のことをちょっと思い出してみる。
 3月の早生まれなので29歳になる少し前。もうすぐ三十路だなあと思いながら、上京して9年近く経っていて思い悩んでいた時だった。30歳までになんとかなっていたいという思いと裏腹に現実はそうはいかないフリーターとしての毎日は、ゆるやかに諦めに向かっていくにはもってこいの日々だった。そういう時に、1月の終わりに電報が来た。見たこともないのになぜか赤紙みたいだと思った。実際には応募していた新人賞の連絡だった。応募した時になぜか電話番号を書き忘れていて、編集者さんが連絡手段として電報を送るという手段を取るしかなかったのが赤紙が送られてきた理由だった。電報には「シキュウレンラククダサイ」と電話番号と一緒に書かれていたので、すぐに電話をした。
 新人賞は取れなかったが、最終に残っていたので会って話をしたいと言われて、数日後に文京区の音羽に初めて行った。30歳を手前にギリギリなんとかなるのかもしれないと思った。かすかに希望が見えたのが2011年の1月の終わりから2月頭のことだった。
 2月の末には一般で申し込んでいた東京マラソンに当選していたので、マラソンを初めて走った。練習せずに出たら27キロ過ぎには股関節とか炎症したみたいで走ることもできなくなって、ひたすら痛みに耐えて残りの距離を足を引きずりながら歩いて6時間ちょっとで完走した。帰りが地獄だった。駅の階段の上り下りが本当に大変で、練習しといたら終わった後も普通に動けるんだなってことを知った。
 目標には達成していないけど、今年はわりといい感じにいくんじゃないかなって思っていた時にあの地震が起きた。あの日は中目黒のガソリンスタンドでバイトをしていて、見上げた空が青空と真っ黒な雲で境界線を引いたようにはっきりと分かれていた。
 大きく揺れてから近所の会社の人たちが、アリが巣穴から一斉に湧き出てくるかのように道路に飛び出してきた。駅近くの超高層のビルがグルングルンと回るように揺れていた。帰り道の246を自転車で横切った。246沿いを歩く人たちが歩道を埋めていて、車はスローモーションみたいにのんびり進んでいた。それは死者の群れが地獄の閻魔さまの元に足取り重く進んでいくみたいに見えた。

 2011年の震災以降には、実家の岡山に2回ほど帰郷したが、福島には4回ぐらいは足を運んだ。基本的には郡山に行っていた。小説家の古川日出男さんが学校長として『ただようまなびや』(http://www.tadayoumanabiya.com)というワークショップと言えばいいのか、「自分の言葉」をどうやったら持てるか、発信できるのかということについて考えたり実践する文学の学校を地元の郡山で開催されていた。

学校長・古川日出男「ただようまなびや宣言」
http://www.tadayoumanabiya.com/declaration/


 僕は開催された2013、2014、2015年の3回とも参加した。古川さんをはじめとする多種多様な講師の方々、そしてボランティアスタッフの皆さんが作り上げたこの文学の学校は、受講者(生徒)の学びたいという意欲に溢れていたし、参加した人たちと関わる人たちが震災後の東北だけではなく、日本について、そして海外に向けての自分の言葉について考える場所だった。
 毎年、郡山に行っていたのでスタッフの方にも顔を覚えてもらって、行く度に声をかけてもらえるようになった。僕にはそれまで関係のなかった、知り合いのいなかった郡山という街に親しみを強く感じるようになった。スタッフの方々もいろんな想いが当然あったはずだ。改善されない状況だったり、風評被害原発の問題、善と悪という簡単な二項対立ではない様々な事柄が入り混じってしまった中で、地元の郡山に来る、県内だけではなく県外から来る僕たちを歓迎してくださっていた。
 古川さんは高校時代に演劇をやっていて有名だったらしく、『ただようまなびや』のスタッフの方々は古川さんの高校の後輩にあたる人が多かった。皆さんが「日出夫先輩」と慕っているのを見るとなんだか勝手に嬉しい気持ちになった。2015年が今の所、最後の『ただようまなびや』になっているが、最終日のことはニュースになったので見たり聞いたりした人もいると思う。

村上春樹氏「文章を書く、孤独な作業は『1人カキフライ』によく似ている」、古川日出男氏「見事にカキフライの話をされてしまって…」
http://www.sankei.com/life/news/151129/lif1511290050-n1.html


 初日にいろんな講義に顔を出している人がいて、どう見ても村上春樹さんだった。参加している僕たちにはまったく知らされてなかったので、当然ざわついた。1日目の終わりのホームルームで、古川さんがみんな気づいていると思うけど、村上春樹さんが来られています。このことは明日が終わるまではSNSなどに書いたり言わないでください、と言われた。確かに参加していない人たちが来てしまうと対応ができないし、諸々と学校に支障が起きてしまうのは目に見えていた。そして、それは守られた。
 二日目の終わりに上記の記事のような話を村上さんがされて、ご自身の短編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うということについて』の朗読も披露された。たまたま参加していたハルキストの人は宝くじにあったような喜びようだった。そういう時にたまたまいた僕はなんかラッキーってぐらいの感じだった。僕が好きな小説家である古川さんが影響を受けている村上さん。そのお二人が壇上で話をされているのを見ると、間接的に自分も村上さんに影響を受けているんだよなって思った。
 村上さんの小説をきちんと読む前の20代前半の僕は、村上さんが訳されていたレイモンド・カーヴァーを好きで読んでいた。だから、村上さんのイメージはカーヴァーの訳者だった。僕が好きなアメリカの小説家はレイモンド・カーヴァーチャールズ・ブコウスキーフィリップ・K・ディックとかでみんなアル中だったり精神的にヤバかったりして、貧乏なブルーカラーの人たちだった。
 ブコウスキーなんか郵便局でずっと働いていて作家として売れたのはだいぶ年を取ってからだったし、僕が彼らに共感するのはそういう部分もやはり含まれているのだと思う。出版業界の人って基本的に大学出てるしブルーカラーに対して言えば、ホワイトカラーな人たちだ。昔は感じなかった学歴コンプレックスみたいなものは、それがあるのが当たり前の世界に顔を出すようになると無意識のうちに自分の内側に広がってきた。だからと言っても、どうにもならないものなのだけど、インテリな人たちの中にいると自分はまったくそうじゃないのにどさくさに紛れ込んでるなあって思う。
 今、小説を読んでるような人たちってある程度、教養があったり学があったりする人たちが大半で、ひと昔だったら紙とペンがあれば小説書けるしってことで書くことで成功する若い人(ブルーカラー)たちも少なからずいたんだろうけど、今だったらそれは小説という文学の形ではなくて、ラップとかになってるのかなって思ったりする。
 ラップもやってて小説も書いているという人になるといとうせいこうさんになるんだろうけど、もっと若い世代で20代とかの、例えば団地育ちとかのラッパーの人が小説を書いて賞を取ったり評価されるようになったら、日本の小説もなにか大きく変わっていくのかもって何年か前から思ってる。言葉ってことを考えたり、小説好きの友達と話すとそういう話をよくする。きっと、新しいリズムと文体の問題になってくるんじゃないかなあって。

 郡山に行ったのは『ただようまなびや』の3回ともう1回あり、それはメルマ旬報vol.28の時にも書いたのだけど、古川さんの母校である安積高校で『朗読劇 銀河鉄道の夜』公演を観に行った時だった。この朗読劇は、
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宮澤賢治の不朽の名作を小説家・古川日出男がオリジナル脚本に仕上げた朗読劇「銀河鉄道の夜」が誕生したのは、2011年の聖夜のこと。
古川自身の朗読に、音楽家・小島ケイタニーラブの音楽と歌、詩人・エッセイスト管啓次郎の書き下ろしの詩、そして翻訳家・柴田元幸バイリンガル朗読が加わり、まったく新しい「賢治」の世界が生まれました。
http://milkyway-railway.com/about
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 というもので東京だけではなく、東北各地や西日本でも公演を20か所以上回っている。河合宏樹監督によって、『ほんとうのうた 〜朗読劇「銀河鉄道の夜」を追って〜』(http://milkyway-railway.com/movie/ )という映画にもなっている。

 この『朗読劇 銀河鉄道の夜』がまったく新しく書きかえられて上演されると聞いたのは去年の11月とか年末近くのことだった。新生『朗読劇 銀河鉄道の夜』の第一回は去年の12月に青森の八戸公演だった。僕はそちらには行けなかったので、同時に発表されていた1月の南相馬公演に行こうと決めてチケットを取っていた。郡山には行ったことがあったが、南相馬には一度も行ったことがなかったのも行こうと思った大きな理由だった。


『朗読劇 銀河鉄道の夜南相馬公演
http://milkyway-railway.com/2956

ある時、バスに乗ってみてください。そして、おもむろに周囲を見回してみてください。窓の外に目を向けることはよくあることかもしれないけれど、車内を眺めてください。すると、知らない人がいっぱい乗っています。そして、知っている人も乗っています。友達の顔も、一人、見つけます。でも、何かがおかしいのです。あなたは「何がおかしいのだろう?」と考えます。その友達とは、ここで会えるはずがないのに、同じバスに乗っている。その友達は、本当に本当に、遠いところに行ってしまっていて……。『銀河鉄道の夜』とは、そんな物語です。さて、いま南相馬にいるあなたは、死者たちと同じ列車に乗り合わせてしまったら、何を考えますか? ―――古川日出男


 20日の午前中に渋谷から大宮まで電車に乗って、そこから新幹線(はやぶさ)に乗り換えて仙台まで行った。大宮からの新幹線で福島で降りて、南相馬までの高速バスもあったが便の数と時間帯の問題があった。僕は新幹線で仙台まで行って常磐線に乗り換え、南相馬の原ノ駅まで行くほうが時間に余裕があったのでそちらの方から向かった。


 常磐線宮城県を南下していく。途中で窓の向こう側に海が見えた。乗客の人たちはほとんど地元の方だったのだろう。いろんな年代の方が乗っていた。そこから見える景色、あの日のことを想像してみた。ほとんどの乗客は見慣れた景色なのだろう、外を気にしていないようだった。あるいはあえて気にしないで見ないようにしているのかもしれなかった。
相馬に近づいて行くときに、スマホを取り出してspotifyくるりの『soma』を聴こうと思った。アルバム『坩堝の電圧』(2012年)に収録されている曲だ。アルバムの発売当時は福島にまだ行ったことがなかったし、テレビやネットの中で東北の状況を見ていたり聞いたりしていた。それでもこの曲を聴いたときに心に響いてきたものがあって、岸田さんの歌詞が優しくて「相馬」という単語を聞くとこの曲が浮かぶようになっていた。だから、いつか相馬の方に行くことがあったらその景色を見ながら聞きたいと思っていた。
 曲を再生し歌詞を表示させながら聴いていたら、泣きそうになってしまった。電車の中で泣くわけにもいかないので我慢していた。外の景色は次第に海から田んぼに、町の方に南下していく。海から離れてもう一度歌詞を見ながら聴いた。



 1時間20分ほど電車に揺られて原ノ町駅についた。宿にチェックインするのは15時でまだ時間があったので、大通り沿いにあった食堂でラーメンを食べた。そこから夜に『朗読劇 銀河鉄道の夜』の公演をする南相馬市民文化会館ゆめはっとまで歩いてみた。15分ぐらいでついた。ゆめはっとの前には市役所があって、市長選があったのか二人の候補者のポスターが貼られていて、遠くから選挙カーのスピーカーの音が聞こえていた。そこから一度泊まる予約をしていた「もりのゆ」まで歩いて行って場所を確認してから近所にコンビニがないか時間潰しに歩いてみた。
 南相馬という初めてきた町、土曜日だったけど歩いてる人はほとんどいなくて時折車が通り過ぎる。とても静かな午後に一人のんびりと歩いていると不思議な気持ちになった。知らないはずの町なのに、どこか知ってるような気がしてくる。誰も知っている人がない町を歩いていると、いつの間にか歩いている自分が溶けるような、自然と消えていってしまうような気になる。僕以外の誰もいないようでもあるし、僕以外のすべてがあるようにも思えてくる。
 どこでもそんな気がしてくる。
 郡山もそうだったし、北アイルランドのポーターダウンやロンドン、地元の井原市もだし、ロサンゼルスのダウンタウン高知市竹林寺まで歩いた時も、毎年元旦に神田川沿いを歩いて隅田川まで歩く時もそう、歩いているとどこだって同じような感覚に陥る。車社会では道路によって土地が区切られているから。だから、違うはずの町もずっと歩いていると重なってくるのかもしれない。砂漠をロバに乗っていったり、アマゾンの中を歩くとその感覚は違うものになるんだろう、きっと。
 移動するということはいつも自分がいる世界ではなく、外の世界に触れることになるので客観視できるということもあるのだと思う。知らない町や場所ではいいことあるし、嫌な思いももちろんする。価値観や常識の違いもあるということを実際に体験するということで、多様性みたいなことを考えたりすることって大事なことだと思う。
 グローバリゼーションの波が世界中を覆って、誰もが国家とか大きな枠を飛び越えて交友や経済を以前よりもより自由にできるようになった。そして、行き来がより簡単になっていくと、それができない人たちのルサンチマンが爆発するように、アレルギー的な反応として先進国でナショナリズムが台頭しているのが僕たちの現在の社会だ。だからこそ、僕は移動をするってことが大事なんじゃないかなって、以前よりも強く思うようになった。インスタグラムでもなんでもいいのだけど、自分の物語をスマホがあれば世界に発信できる世界では他者の物語への興味は少なくなっているし、影響力も弱くなっている。
 他者への想像力が薄れていくこと、多様性の失われていく世界ってやはり息苦しいものになってしまう。僕は自分がそうならないために創作による物語や他者の物語を受容するし、時折何かのきっかけで移動していくことを続けていきたいと考えている。だからこそ、こういうきっかけで行ったことのない町に行くというのは楽しいし面白くて、移動っていいなって思う。



 コンビニを発見して飲み物や食べ物を買ってから宿に戻ってチェックインした。素泊まりの一泊で、風呂トイレなしだった。風呂は大浴場があり、トイレは各階に男女別の共同のものがあった。ふかふかの布団に寝転がると寝そうになってしまう。寝たら18時半開演に間に合わないかもしれないという恐怖が襲ってくる。スマホで18時前にアラームをセットして、もしも寝てしまっても起きれるようにしていた。実際は20分ほどうとうとしたぐらいでアラームが鳴る前に目が覚めた。ここまで来たのに寝過ごして公演を観れなかったらという思いがどこか緊張感を持たせていたのかもしれない。
 外に出るともう真っ暗になっていた。歩いて10分ほどの南相馬市民文化会館ゆめはっとに向かった。専用の駐車場には車がかなり停まっていた。『朗読劇 銀河鉄道の夜』の公演は一階のホールだったが、二階ではBEGINのライブがあったらしく、両方のお客さんが来ていたので駐車場に車がたくさん停まっていたということを終わってから知った。



 ゆめはっとの中に入ると「銀河チーム」と呼ばれている知人のスタッフさんたちが関連グッズの売り子さんをしていたのでご挨拶をした。古川さんの奥さんのチエさんが男性の方とお話をされていて、僕もご挨拶をしたのだけどチエさんとお話をされていた方は、『ただようまなびや』をお手伝いされていた古川さんの後輩である松本さんという人だった。
 僕がTwitterとかブログなんかで『ただようまなびや』について書いたりしていたので僕のことを知ってくださっていた。松本さんはフェイスブックで今回の公演のイベントページに僕が参加にしていたのを見ていたらしくて、なんと『リアル鬼ごっこJK』文庫版を持ってきてくださっていた。サイン書いてくださいと言われて、書かせていただいた。ほんとうにありがたいな、と思った。文庫にサインを書いてると自分のオリジナルの単著を出したいという気持ちが湧いてくるような、前面に強く出てくるような気がした。
 最初に『リアル鬼ごっこJK』のノベライズ単行本が出た頃、イベントに行った時にいらしたチエさんにお話を聞いてもらったことがあった。古川さんもデビュー作『13』の前に『ウィザードリィ外伝II 砂の王』というゲームのノベライズを書かれていた。それはある種、黒歴史とも言えるのかもしれない。だけど、それをベースにした小説『アラビアの夜の種族』(第55回日本推理作家協会賞、第23回日本SF大賞受賞作)という作品がある。それを見ていたから僕がその時に悩んでいたことを聞いてもらって、チエさんにアドバイスをしていただいたのを思い出した。
 『ただようまなびや』に毎年行っていたので、松本さんに覚えていただいてるのもうれしかったし、同時に不思議な感じもした。人のご縁というのは移動することで生まれるのかなあ、とも思ったりした。
 チケットは売り切れていて満席だった。ご高齢の方から子供まで幅広い年代のお客さんがいらしていた。僕のように県外からきた人もいたはずだ。19時半ちょうどぐらいから公演はスタートした。

 『朗読劇 銀河鉄道の夜南相馬公演を鑑賞した後に、以前よりも物語が立体化している印象を受けた。事前にアナウンスがあったように古川さんが今までの公演とはまったく違う脚本を書かれていた。最初に登場したのは「さそり」=「翻訳家」=「柴田元幸」と「いたち」=「音楽家」=「小島ケイタニーラブ」の二人だった。彼らが舞台の左右にいて「銀河鉄道の夜」を観察するように見るという構図がまずあった。そこに「ジョバンニ」=「小説家」=「古川日出男」と「カンパネルラ」=「詩人」=「管啓次郎」が真ん中に現れて「銀河鉄道の夜」の物語が進んでいく。その構図自体は前の公演の時も基本的には同じ役割だった。
 しかし、新生『朗読劇 銀河鉄道の夜』は過去と現在が共に現在進行形として未来に進む形になっていた。そのことが僕に立体的に感じさせることになったのだと思う。宮沢賢治が書いたフィクション(物語)としての『銀河鉄道の夜』がまずベースにある。そこに小説家、詩人、翻訳家、音楽家の四人の出演者たちのノンフィクションが入り交じる形になっていた。
 小説家、詩人、翻訳家、音楽家の四人の現実の姿が物語の中では「前世」として扱われているのも今回の新しい部分だった。だから、メタフィクション的な要素が入り込んでくる。そういう意味では今までの公演よりは少し話としてはわかりづらくなっている部分もあるのに、構造がはっきり見えてきてわからなさも含めて物語の世界に観客も一緒に溶け込んでいくようだった。
 さそりといたち、ジョバンニとカンパネルラの二組が舞台にいることで宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と古川さんが脚本を書いた『朗読劇 銀河鉄道の夜』の世界が徐々に重なり合っていった。ある意味で、どちらも半透明で重なることで細部は違うのに重なり合う部分ははっきりとして、違う部分もより強調されていた。そこに過去と現在、そして未来が孕まれているような、それこそ宇宙みたいな空間が広がっていた。二組が時には混ざり合いながら銀河鉄道の夜を色付け、音を鳴らして、言葉が煌めいていって星々みたいに輝いた。そして、最後の古川さんと柴田さんのセリフと同時に鳴っている音で少し泣いた。ほんとうに凄まじいものがあった。
 公演が終わったあとに古川さんと柴田さんとお話できたので立体的に感じたということをお伝えした。そして、郡山に車で帰られる松本さんとゆめはっとの前でお別れをして歩いて宿に向かった。

 知らない南相馬の道、夜だからまっくらな場所もあった。通り沿いの公園近くで夜空を見上げると冬の星座が輝いていた。僕にわかるのはオリオン座の3つ並んだ星ぐらいだった。南相馬に公演を見にきてよかったなと、夜空を見て歩きながら改めて思った。自分がとても優しい気持ちになっているのを感じた。古川さんたち出演者の方々や銀河チームの皆さんに会えたのも嬉しいことだった。
 宿について寝る前に園さんの懐刀だった船木さんからラインが来た。僕が南相馬にいることを知って連絡をしてくれたみたいだった。園監督『希望の国』の舞台になった鈴木さんのお宅の場所をラインしてくれて、泊まっている宿からは6キロぐらいしか離れていない場所だった。歩いても1時間ちょっとぐらい。翌日の朝に東京に帰ることにしていたので行けなかったけど、福島から原ノ町への高速バスで山間部とかを通ると復興しているところとしていない場所が見えるということも教えてもらった。さすがにこの距離は車がないとちょっとムリだなって思ったけど、また福島には来るだろうし、船木さんと今度一緒に南相馬とかに行きましょうと約束をした。




 翌朝9時前には宿をチェックアウトして原ノ駅に歩いて向かった。日曜日の午前中は人気がなくて、自分がなんだか異邦人みたいな気になってちょっとワクワクしながら町を歩いた。原ノ町駅から仙台までの常磐線に乗った。帰りも『soma』を選んで聴きながら車窓から見える海を見た。聴き終わってからはアルバム『坩堝の電圧』の最後の曲『glory days』を何度もリピートした。口ずさみながら窓の外の景色を見ていたけど、停車する毎に乗客が増えていって車内は人でいっぱいになっていった。