Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ブレードランナー2049』


リドリー・スコット監督がフィリップ・K・ディックの小説をもとに生み出した1982年公開の傑作SF「ブレードランナー」から、35年の時を経て生み出された続編。スコット監督は製作総指揮を務め、「メッセージ」「ボーダーライン」などで注目を集めるカナダ出身の俊英ドゥニ・ビルヌーブ監督が新たにメガホンをとる。脚本は、前作も手がけたハンプトン・ファンチャーと、「LOGAN ローガン」「エイリアン コヴェナント」のマイケル・グリーン。前作から30年後の2049年の世界を舞台に、ブレードランナーの主人公“K”が、新たに起こった世界の危機を解決するため、30年前に行方不明となったブレードランナーのリック・デッカードを捜す物語が描かれる。前作の主人公デッカードを演じたハリソン・フォードが同役で出演し、「ラ・ラ・ランド」のライアン・ゴズリングデッカードを捜す“K”を演じる。(映画.comより)







監督/ドゥニ・ビルヌーブ
原作/フィリップ・K・ディック
原案/ハンプトン・ファンチャー
脚本/ハンプトン・ファンチャーマイケル・グリーン
出演/ライアン・ゴズリング(K)、ハリソン・フォード(リック・デッカード)、アナ・デ・アルマス(ジョイ)、シルビア・フークス(ラヴ)、ロビン・ライト(ジョシ)、マッケンジーデイビス(マリエッティ)、カーラ・ジュリ(アナ・ステライン)、レニー・ジェームズ(ミスター・コットン)、デイブ・バウティスタ(サッパー・モートン)、ジャレッド・レト(ニアンダー・ウォレス)、エドワード・ジェームズ・オルモス(ガフ)、ショーン・ヤング(レイチェル)ほか


 公開からしばらく経ってしまいましたがタイミングがあってようやく観に行けました。平日のTOHOシネマズ渋谷で3割か4割程度はお客さんがいたような気がします。僕は原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の著者であるフィリップ・K・ディックが好きなので観たいなって感じでした。正直に言えば、今ドラマでやっている『高い城の男』はどうも観ても合わないし、前作の『ブレードランナー』も観たような観ていないような記憶がありません。
 『ユービック』を映画でやってほしいなとずっと思ってます。ミシェル・ゴンドリーあたりで。しかしながら、『ブレードランナー』以降のSF映画はこの世界の延長戦やこの作品によって確立されたものなので、ある意味で多くの人には見慣れてしまった景色になっているという驚くべきことになっていますが、それが当然になってしまうというオリジナルティはもはや自然すぎて驚かれないという逆説的なものこそがオリジナルであると言えるのだと思います。


 僕は『週刊ポスト』で「予告編妄想かわら版」というミニコラムを書いていて公開前に『ブレードランナー2049』について以下のような妄想を書いています。


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 1982年に公開された『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー2049』(10月27日)。この世界では、レプリカント(人造人間)が奴隷労働をしているが、製造から数年後には彼らには自我が芽生え、人間に反旗を翻すようになる。その対策として寿命を4年としたが、人間社会になんとか紛れ込もうとする彼らを解任する任務を追うのが専任捜査官ブレードランナーだった。
 予告編では前作の主人公・デッカードハリソン・フォード)に今回のブレードランナー・K(ライアン・ゴズリング)が会いにいきます。新旧主人公が顔を合わせる、ワクワクします!
「いつも言ってるじゃない。あなたは特別なの」と言うのはKと一緒にいる今回のヒロイン。  
 SF作品は近未来などが舞台ですが、根本的なテーマは普遍的なものだったりします。歴史修正主義者だったりナショナリズムに走る人々、都知事が平気で「排除」と言ってしまう時代に、人種、思想、国籍などで簡単に人を区別し、カテゴライズして優位に立ったと思い込むことが自分や大事な人を「特別」な存在にするわけではないはずです。妄想できませんでしたが今だからこそ観るべき一作だと思います! 僕が人間だって保証なんか一つもないよなあっていつも妄想はしているのですが(笑)。               
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 この中にある<「いつも言ってるじゃない。あなたは特別なの」と言うのはKと一緒にいる今回のヒロイン>という部分ですが、このセリフを言っているジョイ(演じたのはアナ・デ・アルマス)はある意味ではヒロインなのですが、ホログラムというか現実の人間でもなくレプリカントでもないのです。しかし、主人公のKの恋人であり心の拠り所です。
 今作において<人間>であるのか<レプリカント>であるのかという問い、生きているのか死んでいるのかということ、本物であるのか偽物であるのかという真実が何層かになって物語られています。
 前作の主人公であるデッカードにKが出会うまではかなりの時間が経ってからだと思います。おそらく半分ぐらい経ったぐらいか、1時間以上は物語が経ってからだと感じました。前作の最後でもデッカードレプリカントであるかどうかという謎がありましたが、今回の主人公であるKは旧型ではない新型のブレードランナーであることは冒頭で明かされますが、今回の物語の大きな軸は30年前にレプリカントの子供が生まれていたということです。その子供がどうなったのか、父親はデッカードなのか、そしてKは何者なのかという点です。子供が生まれるということはレプリカントの製造会社となっている組織の希望です。いくらでもレプリカントという製造の難しい彼らにとっての奴隷が作りやすくなるからです。


 本物であるか偽物であるか、
 人間であるかレプリカントなのか、
 主人なのか奴隷なのか、
 この物語の最後には<人間>らしさを持っているものは誰なのかという問いが改めて観客に提示されることになります。主人公であるKの存在とはなんなのかということは観客である僕たちに突きつけられてきます。自分という存在について悩む人たちはKに感情移入するはずです。
 誰もが特別な存在でありたいと願っている、そして同時に凡人であるということを受け入れて生きていくかしないという事実。この『ブレードランナー2049』で描かれてしまっているのは近未来のSF的な世界ですが、それは壮大なメタファーをまとっているだけで限りなく現実のこの世界にいる私たち自身のことを描いてしまっています。


 僕たちはいつだって特別な存在でいたいし、誰かにとっての特別な存在でいることを願います。それは瞬間的には叶うのかもしれないし、叶うこともある。だが、運や努力や才能のすべてをつぎ込んだとしても特別な存在になれないという現実もあります。それでも僕らは誰かにとっての特別な「何か」になりたいと願ってしまう生き物です。
 Kは僕たち自身です。
 だからこそ、彼は最後まで駆け抜けていきます。たとえ願いが叶わないものだとしても、たとえ自分が特別な存在でないことを知ってしまっても、そこの先には奇跡みたいなものが起きる可能性があるならば、自分がその奇跡を見れなくても。
 誰かにとって特別な誰かに出会うために僕らは生きているのかもしれません。