Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』


 『週刊ポスト』のミニコラム「予告編妄想かわら版」でも書いた『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』をTOHOシネマズ渋谷初日の9時台で観る。
 妄想だと失恋した妻夫木が作務衣を着て民生の地元・広島に。カープ女子みたいに広島カープのユニフォームを着た水原希子に再び出会って可愛さにやられてしまう。みたいな無理矢理な着地をしたけども、映画はほぼ原作通りの展開でした。


 途中で、企業タイアップのコラムが結局のところ「山内マリコさんになりました」「妥当だね」みたいなやりとりがコーロギと新井浩文演じる先輩の間であったけど笑ってしまった。原作の帯文にも山内さんはコメント寄せているし、最後の方でも名前が出てくる。しかし、彼女の名前がここで使われるということに関しては出版界隈といってもサブカル方面になるだろうがみんな納得と頷くだろう。そのくらい彼女はそういうポジションにいる。菊地成孔さんの新刊『菊地成孔の欧米休憩タイム』で『アズミ・ハルコは行方不明』の映画について書かれているが、そこでも菊地さんの山内さんの評価は高い。


 映画公開前にヒロインであるあかりを演じた水原希子さんのCMにヘイトコメントがいくつもあって炎上案件になっていたが、そういうバカは本当にバカでしかない。日本人の出自を遡ったらほぼ大陸から来てんだろうがってのもあるし、「わたし」に自信がないから他国や誰かを貶めることで自分が差別される側ではなくする側としていてもいいことにしないと耐えきれないのだろう、「わたし」なんてものは愛国とかで満たされるものではない。
 太宰治は戦時下(中国との戦争以降)の小説家で彼の書いたほとんどの作品は戦時下のワクワクの中で書かれ、空っぽの「わたし」をそれが満たしてくれて担保してくれたからで、戦争が終わってワクワクがなくなってしまうともはや自殺するしかなかったという話を批評で読んだことがあるが、ヘイトとか愛国などと言って人種差別や他国について差別的な発言をしている連中は「わたし」探しをそこに求めた愚かすぎる人たちで、もはや自分の頭で考えることをやめた人たちだと思う。救いようがない。
 神武天皇とか神話の人物だからね、架空の存在だからね、もうフェイクストーリーが現実に入り込んで来ていて考えることをやめた連中の劣化がひどい、にもかかわらずそいつらが跋扈しているのが現在でありゆでガエルのようにゆっくりと引き返せなくなって僕たちは死んでいっている。オリンピックだって買収してる問題をテレビで見ない。もう引き返すつもりはないらしい、オリンピックなんかずっと反対だしいらない。だけど、するんだろう。日本の遥か上空を飛んでどう考えても被害ほぼない場所に落下したミサイルの話を延々に報道している、何を煽っているのだろう。アラームの意味なんてないのに。もう、、この国の今の総理大臣と自民党一強の政治を見れば僕らは愚民でしかないし、もはや柳田國男が選挙後に言ったように「魚の群れ」でしかない。明治維新後、この国は近代化できなかったということがこの20年ほどで明らかになっただけだ。



 水原希子で言えば公開前のインタビュー『「女子がモテを必要としない世の中になってほしい」冷静な水原希子と、女に狂わされたい男性陣の温度差』(http://wezz-y.com/archives/50008)を読んでいたのもあって、最後のある人物たちが一堂に会するシーンであかりはみんなが求めるからという感じのセリフを言っている。モテとは自由ではない、男が求めるものを意識して、あるいは通り越して無意識に演じることでモテる。服装にしても仕草にしても。



「結局、モテって女性が自分のやりたいようにいられる環境ではないっていうことだし、世間的にモテを押しつけている側面もあると思うんです。そういうこととは全然違う方向で生きてきた自分があかりを演じるのはすごく面白くて、全国のモテ好きの男性たちにはザマアミロっていうのも込めて演じたかった(笑)」
「こんなふうに外見だけで勝手に理想だと思う女性を追い求めたって無理だって。ちゃんと心と心の付き合いをして、キレイじゃないところも受け入れて。お互いギブ&テイクの関係を作らないと続かないと思います」


↑ということをインタビューで言っている。今回の作品では男が好きな女の子としてあかりは配置されている。だが、それは無意識にしていた自分の男性性というか女性への視線に対して考えさせられてしまうもので、自意識の問題とかっていうことよりもそちらの方について考えながら観てしまった。そうするとかなり違った問題提起というか意識について感じ方が分かれてしまう作品なのかもしれない。