Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『アンチポルノ』


 新宿武蔵野館にて、日活ロマンポルノリブートプロジェクト作品の一つである園さんの『アンチポルノ』を観た。先月に試写で観たから二回目。園さんの作品は『ハザード』以降は劇場で全部観てる。試写で観せてもらっても劇場で一回は観る。パンフレットを買うということもあるのだけど、やっぱり試写だけ観終わるとなんか違う。『アンチポルノ』はパンフ売ってなかった。作ってないのか。
 主人公の小説家である今日子は園監督自身を思わせる。目覚まし時計の音が鳴っている。目覚まし時計の音が鳴っていた初期8mm園作品があった。かつて自主制作時代の園さんは自分で出ていた。それが最も金もかからずに撮れたからだ。
 『自殺サークル』で商業映画に進出してからは園さん自身は出演はしていない。その前の『BAD FILM』にて『自転車吐息』でも自身が演じた登場人物の北士郎が死んでから自らの作品には出なくなった。自主映画と商業映画の差なのかもしれない。が、『ラブ&ピース』の鈴木は園監督を強く感じさせる主人公だったし、物語自体が園子温だった。また今作の今日子もかなり園子温という一人の人間が香り立っている。そして、園さんを少しだけでも知っているとわかる。今日子は園さんだ。
 タイトルに「アンチ」がつくこと、ポルノ映画のリブートにも関わらず観に来る男性客に対して投げかけるもの、虚実と現実を行き来する。冒頭の国会議事堂は映されるだけで政治的なニュアンスを含む、この国では政治的な意見をいうことはなぜか拒否される。トランプに対して「NO!」というアメリカの著名人同様に、日本では安倍首相に対して「NO!」とテレビで言える人は、メディアで大声で言える人は少ない。政治的な発言はいつのまにかタブーになっている。視聴率が取れないから? 客数が伸びないから? この「アンチ」は消費される女性からの視線でもあり、この国の現状に対してであり、もちろんポルノ映画に対してもである。
 ポルノ映画だと観に来れば冷や水をかけられたような気持ちになるだろう、それで今日子が叫ぶ言葉や虚実が入り混じる物語の境界線のなさは園監督の自我だ。だから観ているとざわつく。表現とは夢を見せるためではなく醒まさせるためにある。他者の自我は気持ち悪くて怖い、だけどそれを拒絶してわかりやすさを求めて行く、お手軽なものだけを消費しようと、させられ続けている今はどうだ。世界中が瓦解している。
 自分のアイデンティティがない者はことさらに国や生まれた場所や民族を誇る、それしかしょうもない自分の拠り所が見つからない。そして他の国や違う国籍の人を差別し、同じ国でも立場の違う人を執拗に攻撃する。明治維新以後に近代化したこの国に「私」という概念が持ち込まれた。近代化はやはり失敗したのかもしれないと近頃よく思う。この映画を観ればわかる。他者の自我とはこういうものだ。だから、観ている自分にも同じような自我がある。ねじれすぎた世界に「アンチ」を掲げる。園さんらしい一作。