Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』アニメ映画化


岩井俊二の傑作「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」、大根仁×新房昭之でアニメ映画化!
http://eiga.com/news/20161208/1/


打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」予告


公式サイト
http://uchiagehanabi.jp



 『水道橋博士のメルマ旬報』(https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=s_hakase)の連載で『碇のむきだし・岩井俊二園子温の時代』を今書いている。今月の終わりで最終章で終わりなのだけど、第一回は岩井俊二監督の初期作品について書いていて『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のことも取り上げているのでブログにアップしてみる。長いけど、初期の岩井作品についてのこと、冒頭は平成が終わるっていうことについて書いているが、「生前退位」とSMAPの解散について大塚英志さんにインタビューさせてもらった時に話したら、元号が変わることとSMAPの解散が同じような感じで語られるっていうのを聞いて、これがポストモダンかって思ったと言われました。はい。


以下は『水道橋博士のメルマ旬報』vol.085 「メルマ旬報が、初夏をおしらせします。若菜と綾子」 - [2016年5月10日発行]より


岩井俊二園子温の時代』
 

第一回
第1章 岩井俊二園子温の初期作品たち(テレビ深夜ドラマ&自主制作作品)
岩井俊二/『見知らぬ我が子』『蟹缶』『オムレツ』『GHOST SOUP』『FRIED DRAGON FISH』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』『undo』
 

 「1989」年以降の世界で

 
 幼い頃の記憶でいくつか思い出せるものがある。
 しかし、それは本当に私の記憶なのだろうか。母が聞かせてくれた「あんたはあの時、〇〇じゃったんよ」という言葉によって、作り出されたかもしれない記憶という気がする。
 人の記憶とはいったい何なのだろうか。私たちが記憶と思っているものは本当に実際に起きたことの想い出なのだろうか?
 母が思い出したかのように小学生の高学年や中学生、高校生になった私に言っていた過去の出来事と幼少期や思春期の頃のことを少し思い出して書いてみる。
 

 私は1982年3月生まれで34歳になった。最近では『1982 名前のない世代』という書籍も出ているようで、まだ読んでいないが少し気になっている。
 1982年前後に生まれたのは神戸連続児童殺傷事件の元少年A、西鉄バスジャック事件のネオむぎ茶秋葉原無差別殺傷事件の加藤、パソコン遠隔操作事件の片山、STAP細胞騒動の小保方などがいる。
 今年になって復活した宇多田ヒカルも同世代だが、彼女が「1998年」に音楽シーンに登場して新しい時代を切り開いていったのとは逆に、アナキン・スカイウォーカーのようにダークサイドに落ちていった面々がいて社会に与えた悪い印象は突出している。私はずっと自分はロストジェネレーションの最後尾にいると思っていたしそう言っていた。
 あきらかにゆとり世代ではないので、ロスジェネだと感じていたしそう思いたかったが、実際はその両者の間の、狭間の世代だ。それは「名前のない世代」ということらしい。
 実際に名前をつけるなら「サカキバラ世代」だ、でも、それは使い勝手や印象が悪すぎる。「宇多田世代」はまず無理だ。あまりにも有名な連中がダークサイドに落ちすぎていて、宇多田ヒカルのような圧倒的な才能がもう数人いればよかったのかもしれないが、いない。名付け損なわれたのではなく、名付けると諸々の問題を孕んでしまうキャッチーすぎる名前をあえてつけられなかった世代なのかもしれない。
 1981年度生まれである私たちの学年は1995年の時には「14歳」で中学二年生だった。阪神・淡路大震災やオウム地下鉄サリン事件があって、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放映が始まった。主人公たちは「使徒」と呼ばれる未知の敵と戦っていた、彼ら「チルドレン」もまた「14歳」だった。
 それから20年経って『新世紀エヴァンゲリオン』はリメイク版『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』として『序』が2007年に公開された。二作目『破』、そして三作目『Q』と作られた。最後である四部作目『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は未だに公開されずに、監督の庵野秀明は新作『シン・ゴジラ』を今年7月末に公開する。
 ちなみに庵野秀明徳間書店から刊行されているアニメ雑誌アニメージュ』に劇場アニメ『風の谷のナウシカ』が人手不足のために作画スタッフを募集している告知を見て上京し原画担当として採用される。宮崎駿監督に採用時に持参した大量の原画の評価が高く、クライマックスの巨神兵登場シーンの原画に抜擢されている。
 この『アニメージュ』は幼年向け『テレビランド』を出していた徳間書店児童少年編集部が新雑誌を発売しようとしていたところ、テレビランド増刊『ロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト』が40万部を超えるヒットになり月刊のアニメ雑誌の創刊許可が下りたことにより発刊された。
 当時はまだ一部のアニメ好きにしか知られていなかった宮崎駿をいち早く特集をし、『風の谷のナウシカ』の連載を始める。この時の担当編集者が現在ジブリ代表取締役である鈴木敏夫である。また、宮崎の意を受けて鈴木敏夫高畑勲にプロデューサーを引き受けるように説得し『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。この前史である徳間書店の二階でのことは後述する『二階の住人とその時代』を読んでいただければと思う。
 庵野秀明スタジオジブリの第二レーベルとして設立されたスタジオカジノの第一回作品として『式日』という実写映画を作っている。この作品には今回取り上げる岩井俊二が初めて俳優として出演している。また、岩井は高畑勲の遠縁の親戚でもあり、業界に入る際に岩井は高畑に相談して止められている。

 
 話を幼少期のことに戻す。幼い私はテレビを見ながら「飛行機が落ちた、飛行機落ちた」と言い続けていたと大きくなって母に何度も言われた。時系列で考えるとその飛行機が落ちた事故は「日本航空123便墜落事故」だろう。3歳だった私はテレビで群馬県高天原山の尾根に落ちた飛行機を見ながらそう言っていたようだ。
 自分では覚えていなかった過去の話だが、母から何度も聞かせられるうちに私の記憶として定着してしまったと思う。確かに自分自身で経験した(テレビで見た)はずの出来事だが、他者の語り(言葉、文章でもいい)によって記憶として定着してしまうことは多々あるのだと今になればわかる。
 もう一つ印象深く聞かされて覚えているのは、1989年の正月過ぎのことだ。
 テレビに映されたある聖老人の崩御を小学生低学年だった私は見ていた。
 小さすぎてよくわからなかった。有名な人が亡くなったということだけは分かっていたのだろう。母が言うには「日本航空123便墜落事故」同様にテレビを見ながら「ねえ、このおじいちゃん死んだよ、ねえ死んだんだって」と無邪気に言っていたようだ。
 大人になっていろんな書籍を読むと昭和の終わりにはプロレスでも流血という言葉を自粛し、テレビでも血などを彷彿させないように表現も規制していたと書かれていた。そんな事は知らなかったがそう書かれたことを読めば、そういう現実があったのだと私の中で理解されて定着した。
 私は「昭和天皇」や「1989年」という言葉を聞くとその幼少期の出来事を思い出してしまう。実際に確かにあった日々や時間が私を通り過ぎていった。だけど、その実感はない。しかし、その時間は確かにあったはずなのに。
 小舟が湖に浮かんでいるようにゆらゆらと揺れている。
 何かを書き残すという行為はその小舟に碇をつけるようなものかもしれない。記憶や出来事や妄想を現実にタグ付けする行為が記録だろう。
 記憶と記録は似ているが確実に違う。
 戦前、戦中、戦後という長すぎた「昭和」という時代の象徴であった人物が亡くなったのが1989年だった。そして新しく始まったのが今、私たちがいる「平成」という時代だ。最近、てれびのスキマ著『1989年のてれびっ子』や大塚英志著『二階の住人とその時代』という一昔前が舞台の書籍を読んだ。
 前者は1989年に起きたバラエティの新しい始まりと終わっていくものについてだった。『笑っていいとも』の最終回でのバラエティ史に残るお笑い芸人たちはタモリがいるからこそ、「その場」に集結した感動的なフィナーレが起きたことの前史や始まりについて書かれたものでもあった。
 最終回のその場にいて仕切っていたのが芸人ではなく、アイドルで歌番組がなくなっていった時代にデビューしたが活動の場がバラエティしかなく、そこで居場所を見つけていって国民的な存在になったSMAP中居正広だったことはとりわけ印象的だった。
 後者は徳間書店の二階という「場」に居たおたく第一世代と第二世代の話でありサブカルチャーの歴史とも言える、漫画原作者・小説家・批評家でもある大塚英志の私史でもある。今や日本のマンガやアニメというカルチャーは海外の大学では学科があり研究されるほどになっている。この『二階の住人とその時代』はそういう人たちにとっても重要な研究資料になるはずだ。
 クールジャパンということをほんとうに信じているのはKADOKAWAの重役ぐらいだろうと大塚は皮肉るが、日本の漫画やアニメというカルチャーがどこに届いているのかと言えば、テレビや雑誌で報道されるようなイベントではない。確かにそこにも届いているが報道されずみんなが知らない部分がある。海外に行って実際に漫画の作り方を教えている大塚は各国のそれぞれのマイノリティーに届いていると肌身に感じているという。きっと、そこに日本の文化やカルチャーの本質が隠れているはずだ。
 そして、日本のアニメーションの歴史がスタジオジブリ角川書店に分かれていく流れとそこに関わった人たちの話でもある。そこでも「1989年」という年が大きな変革の始まりだったことが書かれている。

 
 それから27年が経ち、「平成28年」になったのが今年、2016年である。
 新年早々に起きたのはSMAPの生放送での解散報道への謝罪だった。この謝罪に関する一連の事を書こうとは思わない。ただ、私がSMAPという国民的なアイドルグループの解散報道を初めてニュースやSNSで知った時に思ったのはただ一つだった。
「ああ、これで平成が終わる」
 さすがにその事はSNSには書かなかった。拡散される可能性のあるメディアでそう書けば粘着質なネトウヨや自称愛国者に絡まれると思ったからだ。幾人かの人と生放送での謝罪を見た後にこの事を話したら同意してくれる人が少なからずいたし、同じように思っていた人もいた。
 「1989年」に昭和天皇崩御して元号が「平成」に変わった。その年に亡くなったのが昭和の歌姫であった美空ひばりであり、日本の漫画界巨匠であった手塚治虫だった事は多くの人にある時代が完全に終わったという印象をもたらすには充分すぎた。
 大きな喪失とバブル終末とその崩壊が「平成」という元号の始まりだった。
 1988年にSMAPは結成され、1991年に彼らはCDデビューをした。私が小学生の中学年、高学年になると同級生の女子がアイドルについて話をするようになっていた。それがSMAPだった。中学生になるとKinKi Kidsになっていった印象がある。
 同時に『美少女戦士セーラームーン』が大ヒットしていた。男子はセーラームーンの中だったら誰が好きかなんて言い合っていた。アニメの事はほとんど見ていなかったので青が好きだからセーラーマーキュリー水野亜美がいいと言っていた記憶がある。
 SMAPの曲はなんとなく知ってはいた。アニメの主題歌だったりもしたから聞いてはいたが、きちんと意識してSMAPという存在がすごい人気があるとわかったのは高学年に入ってからだった。
 クラスでする文化祭か何かの出し物か劇でのワンシーンか何かを失念しているのだが、女子が全員で衣装を作って踊る時の曲が『$10(テンダラーズ)』だった。その時、初めてアイドルの曲が女子に人気あると思ったのかもしれない。
 小学生の時には気がついたらSMAPはいて、バラエティ番組での活躍を足がかりにしてどんどん人気者になっていった。中学生になりドラマを見るようになると同時期にキムタクが大ブレイクしていくのを思春期に見ていた。だからSMAPが世界にいるのが当然だった。
 解散となればSMAPが結成されて実際にデビューとなった1991年はもう「平成」になっていた。「昭和」の終わりにその時代を象徴するスターや巨匠が亡くなったように、活動時期が「平成」であり、この元号を象徴する唯一の存在であると私には思えていたから「ああ、これで平成が終わる」と思ってしまった。しかし、SMAPの解散は免れたし「平成」も終わらなかった。
 あのまま解散していたら本当に「平成」は終わっていたのかもしれないと思う自分がいる。そして、誰かが本当にこの時代を終わらせないために解散させないために暗躍したのではないかとすら疑っているぐらいだ。
 違う時間軸の世界ではSMAPが解散して新しい「元号」での2016年が始まっているような気がしてならない。それはただの妄想なのかもしれないし、『if もしも』の世界は起きているのかもしれない。
 なぜ、ここまで「1989年」とSMAPについて書いたと言われれば、これから書こうと思っている映画監督・岩井俊二の最初のテレビでやったドラマ『見知らぬ我が子』の放映年がSMAPのCDデビューと同年の1991年だからだ。
 岩井俊二もドラマを作ったりする活動は「平成」に入ってからということになる。その前にミュージック・ビデオなどを制作してこの業界に入っているが、後の映画を作る前史にあたるテレビドラマはやはり1991年からだ。
 90年代に十代になり思春期を迎えた私にとっても気がついたら名前を知っていて、高校生や十代の終わりにレンタルで作品を観て影響を受けた人物でもある。
 次号の25日に配信される号での園子温監督の初期自主制作作品は80年代のものがあるが、転機となるぴあスカラシップ作品である『自転車吐息』は1990年公開作品だ。
 それでは、岩井俊二監督の初期の作品について書いてみようと思う。これらの作品は初期作品集に収録されているし、単独で映像化もされているので今でも観ることのできる作品である。これらの作品の名前を聞いて90年代を懐かしく感じられる人には、そういう作品があったと思い出して欲しいし、またこれらの作品を見返してもらえるきっかけになれば嬉しい。
 思い出せばその時、誰といたのか何をしていたのかも同時に思い浮かべることになるはずだ。そして、映されている風景はもうなくなっているか変わってしまっていて、同じものは存在しない。記憶の中にあるものはもうどこにもまったく同じで存在しているということはない。
 時間が経過し、生きていくということはそういうことだと思う。
 今ある景色や匂いや感情や関係性は永遠じゃないから、だから愛おしいと思うし、おざなりにして後になって後悔してしまうこともある。
 すべてのことがゆっくりだが確かに移りゆく。
 私たちはいつかの光景や誰かのぬくもり覚えていたいと思うのに、その記憶さえも時には脳内で自分の都合のいい内容に書き換えてしまうから厄介だ。
 そして、まだ見たことのない人が見るきっかけになればいいなと思う。かつてあった見知らぬ風景の中で起きる物語が、新しい世界への扉を開くものに繋がれば最高に幸せだ。私自身も久しぶりに見る作品たちで思い出すものと今になってわかることがたくさんあるはずだし、最初に観たときにはわからなかったものや感じられなかったものを捉えることができるのか楽しみだ。連載にかこつけて好きな監督の作品観たいだけじゃないのかと言われたら、「はい、そうです」と言うしかない。
 

 岩井俊二に影響を与えたもの
 

 映画監督・岩井俊二は1963年1月24日生まれ(53歳)。
 宮城県仙台市出身。父が「宮城ダイハツ」の販売営業をしており幼少期は県内を転々としていた。
 一番最初の記憶は2歳1ヶ月の時に生まれた妹を見に病院に行った日で、「あれがお前の妹だ」と言われたが赤ん坊がたくさんいてどれが妹かわからなかったという。
 小学1年の冬から高校1年生までは仙台市内の一軒家に家族で住み始めた。一つ上の兄と同じ部屋だった。三歳の時に見た『ウルトラQ』を一話から覚えているとインタビューなどで語っているようにアニメやドラマの映像を鮮明に記憶している。
 兄とのテレビのチャンネル争いもありながら、『猿の惑星』のファンになった。その物真似である小松左京原作『猿の軍団』が始まる。兄は『宇宙戦艦ヤマト』を見たがり、妹は『アルプスの少女ハイジ』を見たがった。妹は力関係で諦めたが、『猿の軍』と『宇宙戦艦ヤマト』を毎週交互に見ることになった。
 一回ずつ飛ばしてみるとどっちかわけがわかなくなったが、『宇宙戦艦ヤマト』は途中から見ても面白くて最後は『宇宙戦艦ヤマト』で良いですと言って毎週見るようになった。その頃の岩井は頭で怪獣を妄想して、思いついた姿や形を学校から帰って絵に描いていて、それを自分の頭の中で戦わせていたらしい。
 大人になって映画監督になった岩井には『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化企画の脚本が任された。執筆を進めたが主人公である古代進が登場しないアニメよりも前の話になってしまっていたので降板させられた。
 『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は岩井が降板後に『シン・ゴジラ』で庵野と共に監督、特技監督を務める樋口真嗣監督が抜擢されるもまたも降板し、山崎貴監督になり『SPACE BATTLESHIP ヤマト』として2010年に映画化された。『SPACE BATTLESHIP ヤマト』で主演をしたのはSMAP木村拓哉である。
 岩井は木村拓哉について「『あすなろ白書』に出ていたキムタクを初めて見たときに、ついに日本にもこういう芝居が上陸してきたかと。こいつうまいなぁ、と思って。わかってる、こいつだけはと。ほかの出演者は一挙手一投足に歌舞伎的な動きを入れていかないと、仕事した気になれないみたいな感じなんだけど、キムタクは全然それをやらない。俺なんかはハリウッド映画をふつうに見て、映像の在り方だとか、音のつくり方、演技の仕方とか、もうこんな水準をいってるんだ、いちいちすごいなぁとチェックしてたんです」と語っている。
 小山ゆうのマンガである『あずみ』も広末涼子主演で実写映画化の企画が進んでいたが、一年近く準備していたものの頓挫した。あずみの名前の由来など脚本が原作にない部分に踏み込んだために降板させられたと言われている。数年前のトークイベントでこの時のことを岩井は原作であるマンガの一コマからどんどん物語が広がっていってしまって、全く原作と関係ないものになってしまったと話している。
 小学五年生ぐらいになった時に小さな映写機をクリスマスプレゼントで買って貰ったが、フィルムが壊れてしまい、ライトが光るだけのものとなった。少年の岩井はセロハンテープに自分で戦闘機などを描いて一人上映会をやっていた。
 喘息持ちだった少年は週二回ほど遠方の病院に通っており、その空いた時間はH.G.ウエルズの『宇宙戦争』など海外のSFシリーズを図書館で借りては読んでいた。
 岩井は少年時代に一人上映会をしていたが、彼より少し上の「おたく」第一、同じ世代でもある第二世代が思春期を迎え大学生になると、ドラマにもなった島本和彦のマンガ『アオイホノオ』などにも描かれているが、この頃はビデオもまだ普及し始めたばかりでリバイバル上映も少なく、アニメ作品などはフィルムを借りて人を集めて上映会をよく行っていた。ここでいつも顔を合わす人たちなどが「ファンマガジン」を作り始めたりしていくようになっていき、彼らが集まってきた場所の一つが前述した徳間書店の二階だったりもした。
 中学生になると『ジョーズ』などのパニック映画を兄と観に行くようになった。
 初めて一人で観に行った映画は市川崑監督『犬神家の一族』だった。市川崑は岩井がもっとも敬愛する映画監督になる。岩井は2006年公開された『市川崑物語』というドキュメンタリー映画を撮った。また、横溝正史の原作を岩井が脚本化し、市川崑岩井俊二の共同監督する企画『本陣殺人事件』があったが、市川が降板を申し出たために中止になっている。
 中学生になった岩井はパニック映画や市川崑作品だけではなく、井上靖のエッセイを読み強烈に惹かれ純文学も読むようになっていき、一番の好みの作家は太宰治だと語っている。
 仙台一高一年生の時に仙台市の作並に両親が初めて家を建てた。よく山の中を散策していて、当時読んでいた堀辰雄の小説の風景と重ね合わせていた。
 太宰治の『人間失格』にはカルチャーショックを受け、谷崎潤一郎芥川龍之介などを読んでいた。黒澤明が監督した『羅生門』では「誰が嘘つき、誰が本当のことを言っているのか、その答えは藪の中」だが、小説の方は様々な人物が出てきてどのシチュエーションでどのアングルでこのポルノを見たいかと誘っているという。しかし、黒澤明監督の『羅生門』での「嘘」についての話は岩井俊二作品に多々見受けられる要素にもなっている。
 岩井が映画を撮りたいと思ったのは本当に突然のことだった。
 高校三年生の時に桃井かおりが出演していた『もう頬づえはつかない』という映画を観に行った。同時に上映していた『Keiko』という映画も観た。観終わった後には『頬づえ』のよさだけが残っていたが、1ヶ月ほど経つと『Keiko』だけが心に残っていた。このとき初めて、映画って人が撮っているんだなと体感し自分でも撮ってみたいと思うようになった。そして大学に入ったら映画を撮ろうと決めた。
 高校を卒業し横浜国立大学教育学部美術学科に進み、映画サークルに入って映画を撮り始めた。しかし、この時、岩井が思い浮かべていた将来の職業は漫画家と小説家だった。
 応募したマンガで『少年マガジン』の漫画賞で佳作に入り『少年マガジン』に持ち込みをするような日々が始まった。岩井は本気で漫画家を目指していた。
 ネームを描いては講談社に持って行く。編集者のアドバイスは「絵はあとからうまくなるから、ひたすらネームを描け」ということだった。しかし、中々ネームにOKが出なかった。『AKIRA』が出始めた頃で並の画力では戦えない時代になってきていたのだ。
 編集者も辛抱強く見てくれたが自分も納得がいかない日々だけが過ぎていき、白い紙と向き合うのが嫌になってしまった。映画が撮りたいと思うようになっていく。
 学生時代からアルバイトをしていたイベント会社の倉庫の空いているスペースに岩井は住んでいた。ケーブルテレビでアイドル番組を作り始めるようになると収入が上がるが、人が住んでいることがバレて倉庫から追い出されて川崎に引っ越しをした。そのどこか複雑な、殺伐とした下町の雰囲気は最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』のロケ地にもなっている。
 二十代半ばの岩井はアイドル番組やミュージックビデオを作っていた。当時のアイドル番組はいつも同じことをしていてインタビューをしておけば終わりみたいな感じで出来が悪くゆるいものが多かった。
 毎週やってるんだから頑張ってやろうと漫画の持ち込みをしている時のような衝動がわいてきた。オープニングタイトルから自分で作り直し、アイドルを公園に連れ出してミュージッククリップを撮るようになった。それを見たレコード会社から次々と企画が来るようになっていった。
 そして、岩井が弱冠27歳、1991年に関西テレビの深夜枠「DRAMADOS」で初のドラマ『見知らぬ我が子』を制作し一気に業界内でその名前が知られていくようになった。
 
 
『見知らぬ我が子』(『岩井俊二初期作品集』initial1収録)
放送局・KTV 制作:関西テレビ=サン・レモプロダクション
放映日:1991年4月17日
監督・脚本:岩井俊二
出演:小暮洋平:津村鷹志、吉田雅子、山本直子、松居詩織、鈴木亮介、永嶋淳、坂部文昭、早坂直家
 

物語・会社員の小暮洋平は、心身症で精神科に通っている。毎晩のように、知らない女の子を自分の娘と思い込む、奇妙な夢を見てしまうのだ。
ところが家に帰ると、その女の子・まどかが家族の一員として暮らしていた。
家族もそれを疑問に思わず、妻も自分の娘だと言い張る。
それどころか、まるで自分を病人のように扱う。
しかし翌日から二人の息子、娘、妻と、家族が次々に姿を消していく。
驚く洋平を“パパ”と呼び、にっこり微笑む“娘のまどか”。
一体この少女は・・・。
 

 岩井俊二の記念すべきドラマ演出デビュー作。知人のプロデューサーに請われて提出した企画が「DRAMADOS」という深夜枠でドラマ化されることになりそのまま演出も担当している。予算も限られている深夜ドラマの枠の中で、ほぼ室内のシチュエーションで撮られているSFサスペンスホラー。
 バブル景気は1986年から1991年の2月までの好景気と言われているので、その時期に撮られた作品としてはとても暗いイメージを与える。
 冒頭から精神科での診療から始まるが岩井作品にはこの精神科、心療内科モチーフはこの後『undo』『PiCiNC』にも出てくることになる。
 このデビュー作を見ると後にも頻繁に出てくる岩井俊二という作家の重要なモチーフがすでに出てきていることに気づく。まずは「子供」だ。
 主人公は会社員で父親である小暮洋平だが、知らぬ間に我が家にいるまどかによって、娘も息子たちも、そしてそのことに気づいていたSOSを出していた妻さえも吸収されていってしまう。まどかの正体は最後まで明かされない。「子供」によって物語が起動していく。
 まどかによって小暮洋平以外の家族は吸収されて消える。しかし、小暮は妻のSOSに気づき家に向かう途中に徐々に本来の目的を忘れてしまう。「記憶喪失」「記憶と現実」についてその後も岩井が描くモチーフがこの不条理を描く際に使われている。何かを得ると何かを失っていくということは岩井作品の軸の一つとなる。
 ミュージックビデオ畑からやってきた斬新な演出を求める若手監督の岩井の意図ややりとりは撮影スタッフとうまくいかず、かなり苦労し喧嘩をしたらしい。
 

『蟹缶』(『岩井俊二初期作品集』initial 2収録)
放送局・CX 制作:ザ・ドラマチック・カンパニー
放映日:1992年12月7日
監督:岩井俊二 脚本:柳田剛一
出演:大沢末吉:高田純次、警官:酒井敏也、不動産屋:岩松了
 

物語・ある晩、大沢末吉が営む大沢酒店に強盗が入った。
被害は「蟹缶」一個だけだったが、末吉は見栄を張り「150万円盗まれた」とウソをつく。
ニュースや新聞で撮り沙汰され、商店街でいっとき人気者になる末吉。
けれど嘘をごまかすための嘘が重なり、気づけば土地を売り、店の場所も移ることになってしまった!
蟹缶ひとつで、一体どうしてこんなことに・・・!?
 

 現在も放送されている『世にも奇妙な物語』の一編であり、脚本は岩井ではなく柳田剛一。
 小さな嘘から始まり主人公がどんどん悪い方向に転落していくシチュエーションドラマであり、会話で状況が自然に動き出してその世界の背景が現実的であるので逆に奇妙ではなかったりする。ああ、そういう風に事態って悪化していくよなと納得さえする。
 岩井はこの作品を手がけたことでプロットとキャラクターの作るリズムで作品が転がっていく演出法に繋がったと述懐しているが、ラストも含めあまり振り返りたくない作品のようだ。
 酒屋の店主である大沢末吉を演じるのは「ミスター無責任」こと高田純次。高田はこの頃に何作も岩井俊二作品に出ている。強盗に入られたが盗まれたのはたった一つの蟹缶だった。しかし、末吉は知り合いの警察官(酒井敏也・彼もまたこの頃の岩井作品の常連になる)に見栄を張って「150万円盗まれた」と言ってしまったことから、商店街の組合費を払っていないのにそんな金を溜めこんでいたのかと近隣トラブルが起きていく。
 その大金はなんなんだ?と不動産をやっている岩松了に聞かれると、自分の所有している土地を買いたいという人が置いていった金だと末吉はさらに嘘をついてしまう。その土地を転がそうとする岩松によって、売るつもりのない土地を手放すことになって店も移転する方向になっていく。
 

 このドラマが作られた1992年はやはりバブル終末期であり、作品自体が「バブル経済」というものを描いているように今だと思えてしまう。本当はそこまで価値がないものに価値があるということにして金だけが回り回って実体はなかったということの皮肉として「蟹缶」というドラマでもあるのだろう。
 終盤にテレビで「150万円盗まれた」という末吉の発言を見た強盗が蟹缶を返しにやってくる。もう何もかもが手遅れになっているが強盗は蟹缶だけを渡して帰っていってしまうという部分も含めて「バブル経済」のパロディになっていると言えるだろう。
 不動産を営んでいる岩松了と大沢末吉が末吉の土地で話していることは駅前にできるショッピングモールのことであり、岩松は今のうちは土地を転がせばいくらでも金になるが、そのうちその作られるショッピングモールすらもダメになってしまうだろうと語っている。
 ドラマが放送されて実際にそういうことが全国の「郊外」でそれから十年ほどたった「ゼロ年代」と呼ばれるディケイド(十年間)に起きた。そのゼロ年代にはツンデレヤンデレメンヘルなどの言葉も流行り、もはや一般的なものになった感じもする。誰もが精神を「病んでる」時代もこの『蟹缶』のあとにやってきたので現在になって90年代初頭の岩井作品見ていくととても予見的に見えてしまうのも面白い。
 

『オムレツ』(『岩井俊二初期作品集』initial 3収録)
放送局・CX 制作:フジテレビ=ザ・ドラマチック・カンパニー
放映日:1992年10月9日
監督・脚本:岩井俊二
出演:ヤマダ(父):高田純次、ヤマダダイジロウ:山崎裕太、ナカガワ(姉):中川彩、ナカガワ(母):桂木文
 

物語・両親の離婚で姓が変わった姉“ナカガワさん”と弟“ヤマダくん”。
弟は、毎日泣き暮らす父親が引き起こした「恐怖のオムレツ事件」を語り始めた。ある朝オムレツを作った父親は、妻の味とどこかが違うと気づくと、何かに取り憑かれたように、ひたすらオムレツだけを作り続けたという。
誕生日会のビデオから、妻の、そして母のレシピを見つけた父と息子。
出来上がったオムレツはやっぱり違う味だったけれど、二人の心はどこか晴れやかだった。
 

 「料理」をテーマにした深夜テレビドラマシリーズ「La cuisine」の一本。
 『蟹缶』の高田純次とこの後の作品『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』に出ることになる山崎裕太が離婚し、同じ家に残った父と息子を演じている。
 『クレイマー、クレイマー』を岩井が意識して撮ったと言われている。が、その時には岩井はまだ『クレイマー、クレイマー』を観ていなかったらしい。
 山崎裕太については岩井が子役について聞かれたインタビューで、「山崎裕太を『オムレツ』で使ったときそうだったんですが、うまく台詞を言う奴はいるんですけど、もう次元が違うんですよ。そういう次元の違う奴って、どうにでも自分を変えられるんで。それはたぶん劇団の先生が、もっと感情を込めろとか、もっと滑舌をよくしろとか、そこでニコッと笑えみたいなことを言っていて、それに対して『あ、この人はこういうことを求めているんだ』とけっこう冷静に反応できるようになっているんだと思う」と発言している。
 一方、山崎は最初に出会った時の岩井について「変な兄ちゃん」だと思った。見かけは年上なんだけど話をしていても違和感がない、不思議な人だったと語っている。
 

 離婚のショックから立ち直れない父としっかり者の息子。
 姓が変わった姉の“ナカガワ”さんに弟である“ヤマダ”くんが語る「恐怖のオムレツ事件」とは、かつて妻の作ったオムレツの味が忘れられずにどうやったらあのオムライスが作れるのかとずっとオムレツを作り続ける父の話だった。
 この父のある種、何かに偏執し依存し暴走していく様は『undo』での山口智子演じる女性とも通じている。このパラノイアな父が出てくる不条理なコメディ作品だが、暗いという印象は起きないのは子供達の生き生きとした会話のリズム、「恐怖のオムレツ」事件という本筋と脇筋の両方の日常の映像のリズムがそれらにうまく混ざり合っているからだろう。
 情けない父をずっと罵倒し続けていた息子がやがて父に共感を覚えるまでを描く。どこかほのぼのしていてコメディちっくなこのテイストは『GHOST SOUP』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』に繋がっていく。
 
 
『GHOST SOUP』
放送局・CX 制作:フジテレビ=ザ・ドラマチック・カンパニー
放映日:1992年12月21日
監督・脚本:岩井俊二
出演:Ichiro:渡裕之、Angel-nana鈴木蘭々、Angel-marl:デーブ・スペクター、サカタ一等兵光石研NHKの集金人:高田純次、管理人:藤田弓子
 

物語・クリスマス返上で引越し作業に追われる鈴木一朗の元に、突然おかしな二人組・ナナとマールが現れた。聞けば今夜、この部屋でパーティーをすると言う。
支離滅裂な話に激怒した一朗だったが、すったもんだの末、一朗の方が部屋を追い出されてしまった。
ほうほうのていで部屋に舞い戻ると、キッチンではナナの作ったスープが湯気を立てていた。その匂いと味に、一朗の脳裏にある記憶がよみがえってきて・・・。
 

 「料理」をテーマにした深夜テレビドラマシリーズ「La cuisine」のクリスマス・スペシャル版で岩井にとっては初の1時間ドラマになった。
 『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の検証ドキュメンタリー映画『少年たちは打ち上げ花火を横から見たかった』で初期の岩井作品に関わっている当時の企画やプロデューサーたちは「料理」をテーマにした「La cuisine」というシリーズの時も、『オムレツ』『GHOST SOUP』共に料理がメインではなく最後になった『FRIED DRAGON FISH』もタイトルに魚って入っているぐらいで岩井監督が悪い言い方だとやりたい放題にやっていたということを語っている。
 今、『GHOST SOUP』を見てもこの作品が「料理」をテーマにして作られたドラマシリーズの一つだと思う人は少ないだろう。
 今作も不条理ドラマである。引っ越しをしてきたらその部屋でパーティーをするとおかしなふたりに言われて追い出されてしまう主人公の鈴木一朗。『オムレツ』同様に台詞のリズムが気持ち良く物語がどんどん進んでいく作品。
 クリスマス・スペシャルということもあるが、鈴木蘭々演じるナナやデーブ・スペクター演じるマールたち非日常的なキャラクターたちに翻弄されていくが最終的には寓話的でファンタジーな物語は優しい終着をすることになる。
 ナナとマールというおかしな二人組とパーティーをしている部屋にいるたくさんの人たちは鈴木一朗以外には見えていなかった。ふたりは部屋で不思議なスープを作り始める。タイトルが物語っているがこのスープを飲むと地縛霊が成仏していくのだった。そして、彼らの正体は最後に明かされることになるが、一朗は幼い頃に亡くなった祖父のことを思い出す。その時にこのゴーストスープをもらいにいった記憶が蘇ってくる。その時にもこのふたりを見ていたのだった。
 ここで描かれているのは「見えないもの」について。
 他の人には見えていないが当人には見えている。しかも、それが自分の部屋を勝手に占有してしまっている。「見えないもの」を見てしまう人、しかし彼は壊れてはいない。ドラマ初作品になった『見知らぬ我が子』では本来居るはずの人が消えていってしまったが、今作では本当は居るはずだが普通の人には見えない人たちについての話で近しい部分がある。『見知らぬ我が子』はSFサスペンスホラーだったが、『GHOST SOUP』はハートウォーミングファンタジーになっている。物事の表裏一体、見方を変えることで世界は反転する。
 ナナ演じる鈴木蘭々の美少女さがハンパなく可愛く撮られている作品でもあるが、ちょっとふくれっ面で強気な女の子というのは岩井俊二作品に出てくるヒロインに共通する部分でもある。アイドル番組を撮っていたことで業界に注目された岩井俊二だからこそ、少女をより魅力的に撮ることができたのかもしれない。『リリイ・シュシュのすべて』で映画初出演した蒼井優もその系統に入るだろう。
 岩井俊二作品の不思議なところは描かれている物語が見ている側の、個人の内面に滑り込んできて、それと手を繋いでしまうことなのではないだろうかと小説家の角田光代岩井俊二のこの作品を見たときの新鮮さや新しさについて語っている。
 

『FRIED DRAGON FISH』
放送局・CX 制作:フジテレビ=ザ・ドラマチック・カンパニー
放映日:1993年3月22日
劇場公開:1996年6月15日
監督・脚本:岩井俊二
助監督:行定勲
出演:プー・リンウォン:芳本美代子、夏郎:浅野忠信、相田:酒井敏也、トビヤマテツ:大口広司、桐生:光石研、セールスマン:田口トモロヲ、配達員:山崎一、トーマス・アーウィング:ALAN CASEMORE、ビル:DERRIK HOLMES、キャスター:青嶋達也
 

物語・データバンクのオペレーターとして、探偵事務所に派遣されたプー・リンウォン。
ある盗難事件に興味を持った彼女は、高級熱帯魚“ドラゴンフィッシュ”に隠された秘密をつかむ。探偵ごっこに乗り出したプーは、水槽に囲まれて暮らす謎の少年・ナツロウと出会う。するとその部屋には、捜していたドラゴンフィッシュの姿が!
サカナ目当てで彼に近づくプーだったが、ナツロウの本当の正体を知り・・・。
 

 エンディングに使われたCHARA『break these chain』に想を得て作られた「La cuisine」シリーズの最終回スペシャル版として1時間枠で作られた。この作品に出演した浅野忠信はこの後に制作された映画『PiCNiC』でCHARAと共演することになり、撮影中に付き合いだして結婚することになる。人の縁とは本当に不思議なものだ、大事なのはその時どこに居たかということに尽きるとも言える。
 ドラマが放送後には問い合わせの電話が殺到し異例の反響を呼び、同年8月に「岩井俊二ドラマナイト」と銘打った特別番組が旧作3部作と共に再放送された伝説がある。のちに一部に手を加えられて『PiCNiC』と併映作品として劇場公開もされることになった。
 この『FRIED DRAGON FISH』について岩井が語っているのは、それまでハリウッドにはあったカッティングの技法やカメラワークの技法が日本のドラマにはまったく存在してなかった。ミュージックビデオではマイケル・ジャクソンのPVのような手法は当たり前だったがドラマ界には本当になかったのでミュージックビデオからの流れからも含めて、ドラマを撮るのだったら、ハリウッド流の画面の切り返しは欲しいというレベルでやり始めた。そうするとみんながそれやってよかったんだと真似をし始めたと語っている。
 

 芳本美代子演じる派遣オペレーターであるプー・リンウォンはちょっと勝気なふくれっ面ガールだ。どこの出身かわからないが、のちに作られる『スワロウテイル』の多国籍な雰囲気をこの作品も持っている。
 水槽に囲まれて暮らす謎の少年・夏郎を浅野忠信が演じている。その正体は時価一千万と言われるドラゴンフィッシュを盗んだ戦争ブローカーであるトビヤマに飼われている暗殺者だった。浅野忠信の佇まいがすべてを物語っているような気がしてくる。夏郎という人物の中にある暴力性と無垢な部分が共存してしまっていることを見る側に納得させてしまう存在だった。
 私が東京に上京してきたのは2002年で映画の専門学校を卒業した後に、バイトをしながらシナリオセンターに通ってシナリオの勉強をしていた。その頃、三宿にあったダイニングバーでお酒や会話の勉強をしようと深夜に働いていたことがあった。そこの社員に広末涼子似な強気なふくれっ面ガールなお姉さんがいた。ミスをしまくっては怒られまくっていたので本当に怖かった。
 何かの映画について話をしていた時に、浅野忠信についての話になると彼女はこのドラマを見たことのことを懐かしい恋人を思い出すように語り始めた。
 深夜にテレビをつけたらこの『FRIED DRAGON FISH』が放送されていて見入ってしまったこと、そして何よりもこの夏郎役だった浅野忠信を見つけた感動についてだった。私たちの時代の役者がやっと出てきたと思ったんだよって彼女は言った。そして、その話は他の幾人かの人からも聞くことになっていくことになる。一様にこの時に浅野忠信を見つけてしまったかつての女の子たちは遠い場所を見るような、恋している女の子に戻っていくようだった。
 今作は多国籍な部分やエンターテイメントさなど『スワロウテイル』の前史のようなものがある作品だろう。両作共にお金に翻弄される人々を描いている。『FRIED DRAGON FISH』ではプー・リンウォンも探偵事務所の所長(酒井敏也)たちは金を得ることはできない。『スワロウテイル』では得てしまったお金が元で人々の人生や関係性がガラリと変わっていってしまう。
 また、一見すると価値がないようなものに実はお金になるものが隠されているという部分も共通している。一千万もしない普通の“ドラゴンフィッシュ”や“カセットテープ”に隠されたものを見つけていく冒険的なプロットも同じだ、しかしお金を得るか得ないかという部分では真逆の方向性に向かっていく。
 私はこの作品を見返すと狂気と無垢の両方を内面に飼っているように見える若い浅野忠信の存在感に驚き、彼を思い出して語っていた彼女たちのことをやはり思い出してしまう。
 
 
打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
放送局・CX 制作:フジテレビ=共同テレビ
放映日:1993年8月26日
劇場公開:1995年8月12日
監督・脚本:岩井俊二
助監督:行定勲
出演:嶋田典道:山崎裕太、及川なずな:奥菜恵、安雲祐介:反田孝行、林純一:小橋賢児、和弘:ランディ・ヘブンス、稔:桜木研仁、三浦靖子先生:麻木久仁子、栗田先生:光石研ナズナの母:石井苗子、ノリミチの母:深浦加奈子、ノリミチの父:山崎一、ユウスケの父:田口トモロヲ、青年(マコト):小山励基、ヤスさん:酒井敏也、おでん屋:こばやしせつまさ、おでん屋の客:蛭子能収
 

物語・夏休みの登校日、典道と祐介がプールで競争を始めた。審判はなずな。彼女はその勝者の祐介をそっと、今夜の花火大会に誘った。
花火を横から見ると丸いか平べったいか、言い争う級友たちは、岬の灯台へ確認に行くことになる。典道と祐介も仲間だ。
集合前に典道は祐介にすっぽかされたなずなに出くわす。トランクを抱え、勝った方を誘うつもりだったと語るなずなは、目の前で母親に引き戻されていった。
あの時、俺が勝っていればー。
 

『「if もしも」は史上初の「結末のふたつあるテレビドラマ」です。
つまり、主人公の判断やちょっとした偶然の選択による「運命の分岐点」を描き、
そこから全然べつな方向に別れていく
Aの場合のストーリーと
Bの場合のストーリーとを
両方ご覧にいれようという企画です。
 

ですから当然、
Aの結末とBの結末と両方あるわけで、台本を読んで戸惑う方も多いと思いますが、
この番組ではAもBもどちらも現実に起こっていることとして描きます。
つまりどちらかが主人公の空想であったり、
Aを選択して失敗した主人公が、人生をもう一度やりなおすためにBを選択しなおす、
と言う意味ではないのです。
下のシンボルマークが示すようなドラマ、それが「if もしも」です。』
(Yの文字を下の一本線から分岐点で上でふたつに枝分かれする、そこにAとBがあり、一本線に主人公らしき人がいるのがそのシンボルマークだった)
 

 とあるように『if もしも』は1話完結シリーズのドラマでタモリがガイド役でドラマの半ばから物語の行く末をAとBの2種で提示する一種の実験ドラマだった。
 今作では岩井は中盤のタモリの案内を省いてしまった。Aの現実を見た少年・典道がもしもあの時俺が勝っていたならと想像するかたちでBの現実へ導入される。この時点でこのドラマシリーズのセオリーを無視する形になっている。しかし、それは典道の空想では終わらずに、花火に関する少年たちの疑問を解決する全体のエンディングに向かっていくことで、もう一つの現実として描いた。

 
 私の記憶の中で初めて岩井俊二作品を見たのはなんだったのか思い出せないままだった。この『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を見返すにあたって検証ドキュメンタリー映画『少年たちは打ち上げ花火を横から見たかった』も見直した。そこで思い出した。私が初めて岩井俊二作品を見たのは間違いなくこの『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテレビ放映だということを。このドラマは毎週木曜日の20時から放送されていた『if もしも』というオムニバスドラマの一回として放送されている。
 検証ドキュメンタリーで当時の企画やプロデューサーの話の中で、岩井が『if もしも』にあったお約束である縛りを全く守らないで脚本を書いてタイトルも違ったものにしてきたという話がある。タイトルは最初の岩井がつけた『少年たちは打ち上げ花火を横から見たかった』から『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』に変えられて放送された。だから、台本をもらって出演した子供達も放送するまでそんなタイトルになっていたことを知らなかった。
 『if もしも』のルールを守ってなかったこともありこれで視聴率が悪かったら一体どうなるかとプロデューサーたちはヒヤヒヤしていたが、当日は台風が来て裏番組だった巨人戦のナイターが流れた。そのおかげもあってか14%取ったのであまり怒られなかったとインタビューの中で語っている。それを見ながら私の脳裏に浮かんできたのは実家の居間にある炬燵(兼食事を取るテーブル)に膝をついてテレビを見ている自分だった。
 巨人が好きだった父はナイターがないので早々に風呂に入っていて祖父母もウトウトしていてチャンネル権は私にあった。他の回のことを覚えていないが『if もしも』という番組名はよく覚えているのでナイターがない時なんかにこのドラマを見ていたのだろう。
 ずっと今までこのドラマに出ている人たちは私と同学年だと思っていた。主人公の典道を演じた山崎裕太も同学年だと思っていたが、学年は一つ上だった。しかし、どうしてかこのドラマに出てくる小学生たちが自分と同学年だとずっと思い続けていた。見返してそう思い続けてきた理由がわかった。
「早生まれのくせに。戌年のくせに」という台詞があった。
 私の同学年は81年度生まれの酉年で、3月生まれの私は戌年なので似たようなことを言われた記憶があり、ドラマの中でこれが出てきて彼らは自分と同じ年なんだということを長年思い続けてきたのだとわかった。

 
 テレビドラマとしては史上初の日本映画監督協会新人賞を受賞することになった一作であり初のゴールデン枠、岩井俊二知名度を一気に上げた出世作である。この作品の舞台となった千葉県海上郡(現在は旭市飯岡町は2011年の震災で被害を受けた土地の一つであり、復興の願いを込めて本作が無料で動画配信もされた。また、「聖地巡礼」として放送後から何年経っても典道の家に使われた民家にはこの作品のファンが訪れているということが『少年たちは打ち上げ花火を横から見たかった』でも紹介されており、根強いファンのいる90年代を代表するドラマのひとつだと言えるだろう。
 地震津波の被害などがあった舞台の飯岡町ではきっと建て替えなども行われて復興も進んでいると思われるが、『少年たちは打ち上げ花火を横から見たかった』で典道役だった山崎裕太となずな役だった奥菜恵が撮影から6年後の1999年に訪れているが駅自体もその時点ですでに改装されており、なずなが着替えていたトイレなども無くなっていたりした。この瑞々しいまでの作品に描かれた景色は震災前にもすでに失われてしまっていた。それがいいとか悪いとか言いたいわけではない。
 大事な想い出がある場所なんかが少しずつ変わっていくし急になくなってしまうものだということはどうしようもないし、誰も抗うことができない。多くの人にとって懐かしいと感じられるこの作品の景色は固有の何かだったという感じはしない。
 この作品に描かれた田舎の夏の風景、友達との夏祭りや約束、好きだった女の子の浴衣、蝉の鳴き声と青い空と口うるさい母、深夜に飛び込んで泳ぐプール、どれもがもはや類型的なものになってしまった。これらの景色はドラマというよりはアニメの作品の中で何度も描かれることになり継承されていったイメージがある。
 それは終わらない夏を描いていた『新世紀エヴァンゲリオン』だったり「セカイ系」と呼ばれるようになった『ほしのこえ』や田舎の夏の青春を舞台にした『ひぐらしのなく頃に』などだ。かつて社会学者の宮台真司が言っていた「終わらなき日常」とも言える。思想家・東浩紀は2011年の震災を「終わらなき日常」が突然断ち切られてしまった瞬間だと表現した。
 そして、岩井自身もこの終わらない夏のイメージを『リリイ・シュシュのすべて』などにも使い回している。そのために岩井俊二作品というと田舎の田園風景やこれらの類型的なイメージが観客にも湧くようになっているのだろう。
 角田光代が『GHOST SOUP』を初めて見た時に感じたことを「見ている側の、個人の内面に滑り込んできて、それと手を繋いでしまう」と表現していたが、この『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の舞台は飯岡町だが、観客にとっては自分の幼少期の景色と結びついてしまっているのではないだろうか。だからこそ、自分の作品だと思えるのであって、固有の場所である飯岡町は聖地にもちろんなりえたが、それぞれの観客の故郷の風景と重なり合うことで想い出として強固なものとして個人史に組み込まれていっているのかもしれない。出演していたかつての子役たちにも出演した作品としてだけではなく、子供時代の懐かしい風景の一部となってしまっている作品でもあるという。
 

 冒頭でなずなは両親の離婚によって二学期から転校することが示唆される。だからこそ、夏休みの登校日にプール掃除をしていたのに遊びで50メートル競争始めてしまう二人のうち勝った方と駆け落ちをしようと思う。彼女は典道が勝つと思っていた。しかし、彼が負けたために祐介を誘うことになる。
 浴衣を着て大きなバッグを持って待っていたが祐介が約束を反故してしまった結果、母親に見つかって典道の前で家に連れ戻されてしまうバッドエンディングを迎える。そして、あの時俺が勝っていればと思ったところからプールで典道が祐介に勝ってなずなに誘われるもう一つの世界が始まる。
 田舎という場所は閉鎖的であり、どこにも行けない。ましてや大人にもなっていない子供には限られた場所しかない。岩井作品には多くの「子供」が出てくる。
 『オムレツ』では両親の離婚によって姓が変わってしまった姉と弟が出てくるが、彼らではどうしようもできないことによって人生が強制的に決められてしまう。今まで美味しかった母親のオムレツを食べることができなくなってもそれは抗えないことだった。同様に今作のなずなも両親の離婚により母に連れて行かれることでいきなり転校を余儀なくされてしまう。子供は両親の決定に逆らうことができない。
 なずなに残されたのは駆け落ちという逃避行を典道とするという反抗だけだった。駅のトイレで浴衣からスカートに着替える彼女は「16歳に見える?」と典道に聞き、私が夜の仕事でもして稼ぐと典道に言う。彼女に翻弄されてしまう典道も子供であるがなずなもまた子供でありその案はどこも現実性がない。
 ふたりは電車にも乗らずにやってきたバスに乗って家がある方に帰っていく。子供たちは自分の意志で田舎から出ていくことはできないのである。そう考えると祐介が勝って連れ戻される現実と駆け落ち未遂したこちらの現実もあまり大差のない結果にも見えてくる。どうしようもならないという居心地の悪さと、田舎の風景が絡み合うことで見る側の内面にあった記憶に物語が接触してしまうような構造になっている。
 家の近くに帰ってきた二人が最後に夜のプールに忍び込んで泳ぐシーンがある。このドラマを見た私と同世代の人間は大抵青春ものだと深夜のプールに忍び込むシーンを入れたがる傾向にある。そのくらいに印象的なシーンだった。
 プールに忍び込むシーンは最初には脚本には書かれていなかった。岩井が書いた脚本には最後はトンネルで典道となずなのやり取りにしようと思っていたが、飯岡町にはいいトンネルがなかった。撮影時間もなく一度撮影していたプールを使うことになる。その場で脚本を書き直したという。しかし、時間の問題もあり一度解散し別日にプールでのシーンを新たに撮りなおすことになった。
「今度会えるの二学期だね、楽しみだね」
 と、なずなは言って向こうのプールサイドに泳いでいってしまう。水面とそこに当たっているライトをぼかして撮っていく。彼女の発言にどこかざわつきながらも彼女といた時間が幻想的な心情風景のように彼に刻まれてしまったようなシーンになっている。
 二学期になってなずながいないというシーンも撮影されたがそれはカットされている。検証ドキュメンタリーでは見ることができる。ドラマでは蛇足になってしまうと判断したのだろう。実際、プールの向こう側に泳いでいったなずなを典道が見ているはずだが、その後もう会えなくなるなずなという余韻のためにもそこでふたりのシーンが終わっていくことがこの物語がイノセントな印象を与え続けている所以だろう。
 そして、懐かしい日々の記憶や風景はその個人の中にしか存在しない。もう、それは現実の世界では失われてしまっている。
 

『undo』
フジテレビジョンポニーキャニオン作品(制作協力:ROBOT)
劇場公開:1994年10月7日
監督・脚本・編集:岩井俊二
撮影・篠田昇
出演:萌実:山口智子、由紀夫:豊川悦司、カウンセラー:田口トモロヲ
 

物語・仕事で多忙の由紀夫にかまってもらえない萌実は、身の回りの物をヒモで縛り付けるという不可解な行動をとるようになった。
その欲求は高まる一方で、ついには、時間や空気といった見えないものまで縛り始めた。
悪化していく症状に、由紀夫はある行動に出る。
 

 『世にも奇妙な物語 冬の特別編』での一本だった『ルナティック・ラブ』という作品がこの映画の前に放送されていた。主演は豊川悦司、ミュージックビデオで組んだことがあったカメラマンの篠田昇と組んでおり、以後岩井美学は篠田カメラマンと共に紡がれていくことになった。
 篠田は肝不全のために2004年6月22日に享年52歳で死去している。岩井と篠田の最後の作品は2004年公開になった『花とアリス』である。『undo』から約十年間、彼らは岩井美学を紡いでいったのである。
 ちなみに『ルナティック・ラブ』は豊川悦司演じるカメラマニアの妄想殺人の話である。彼のモノローグで進行されるが、彼が語る恋人は実は恋人ではなく、彼がストーキングをしている女性だったという岩井作品のダークサイド物語。これもまたパラノイアの話であるが、トヨエツの妖しい雰囲気が作品テーマと一致している、故に狂気的な部分が出てくると犯罪者であるはずなのに美しく見えてしまう危険な作品。
 その主演のトヨエツと篠田カメラマンと組んだのが『undo』であり岩井俊二の初映画作品。
 

 『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の後には映画作品として『スワロウテイル』の企画に取り組んでいたが、先に『Love Letter』製作の方が先行してしまったが撮影には雪がないと進められなかったために空いた期間に掌編を手がけることになった。それが今作『undo』と『PiCNiC』の二作になる。
 この企画はピアノを縛ったCM「音楽美學」から始まり、『ブルータス』誌での山口智子主演のフォト・ショートストーリーに発展し、豊川悦司を交えて話が盛り上がって映像化に至ったという経緯がある。
 山口智子が少しずつ壊れていくように、いろんなものを縛り始める。偏執的になっていくという意味では初期岩井作品にあるテーマのひとつである。そして初のフィルム作品で映像美の中に愛の不可能性が描かれていく。当初はオリジナル・ビデオとして発売する予定だったがレイトショーで限定公開すると宣言活動も特別にしていなかったが連日の満員で関係者を驚かせたという。
 ブルーレイで再発されたジャケットにもなっている坂道での夫婦のキスシーンは岩井俊二作品でも多くの人が思い出すショットだと思う。実際私もこの作品で浮かぶのはそのシーンだった。
 


 夫が忙しく寂しい想いをしている妻は犬を飼いたがったが、マンション暮らしの二人にはそれは無理だったので亀を飼った。夫は多忙で暇な妻は徐々に精神のバランスを崩してしまっていく。
 強迫性緊縛症候群という奇妙な神経症にかかってしまう妻はいろんなものを縛りたいという欲求にとらわれる。亀もワープロも何もかも。やがて、彼女は夫に自分を縛って欲しいと言い、夫はそれに従うのだが・・・・。
 病んでしまった妻と向き合っていくことで少しずつ自分の中の何かも失っていく夫。妻の願いを聞き入れて、彼女を壁に縛り付けるが夫が起きると妻が消えていた。夫はこの病的な世界から解放されるが、同時に妻を、愛を失ってしまう。
 岩井俊二作品には何かを得るためには等価値の何かを失うということが形を変えて描かれ続ける。最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』にもそれはもちろん引き繋がれている。映像美だったり色々な評価があるが、岩井作品の物語自体は非常にシンプルな構造を持つものが多い、そして寓話的なものが多いのも何かを得るためには何かを失うのだという岩井自体がずっと貫いている感性によるところが大きいのかもしれない。
 

今回の初期作品について書くのにあたって、『キネ旬ムック フィルムメーカーズ17 岩井俊二』『ユリイカ 2012年9月号 特集 岩井俊二』『テレビブロス 3・15−3・25号』『週刊文春 3月17日号』、サイト『岩井俊二映画祭』を参考にしています。