Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「BOOKSTAND」で「月刊予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『終わりゆく一日』『わたしはロランス』

雨降りの水曜日、レディースデイで場内は女性が圧倒的に多かった。初めてシネマカリテに行ってグザヴィエ・ドラン監督『わたしはロランス』を。
その前に先週木曜日に試写で観たトーマス・イムバッハ監督『終わりゆく一日』のことを少し。



スイスのインディペンデント映画界で活躍し、ドキュメンタリーとフィクションの境界を超えた作品作り挑み続けているトーマス・イムバッハ監督が、自伝的作品としてあるひとりの映画監督の15年間を追った。1995年から2010年の15年間にわたり撮りためた、スイス・チューリッヒにある映画監督Tの仕事場の窓から定点観測した都市風景と、88年から03年の間に集めた留守番電話のメッセージというパーソナルな素材を組み合わせて作られ、映画作りにおける葛藤や親の死、子の誕生、パートナーとの別れなど、Tの人生が浮かび上がってくる。(映画.comより)




六本木のシネマートにて古川日出男さんの『東へ北へ』や『朗読劇 銀河鉄道の夜』などのお手伝いをしている浦谷さんが宣伝で関わっていらしたので試写状をいただいていた。
『終わりゆく一日』は定点観測映像がずっと流れていく。音声としては吹き込まれた留守電と物語の主人公であるTの内面を表すさまざまな音楽の歌詞達ということになるのだろうか。




冒頭はなにが起こるんだろうと観ていたが慣れてくると同じ映像というか景色が続くので少しうとうとしてしまったのは事実だ。留守電から流れてくるTの知り合いだったり妻だったりの声で、あれけっこうこの人ダメ人間なんじゃねえ?と思いながらも急にうとうとが止まって集中できるようになったのはどこだったか忘れた。



↑この女性は何度も何度も出てくるのだが彼女が会社に行ったりどこかに行く様子を監督は撮っているのだが、なんとなく自然な風に観れるけど観ながらここのどこかではこの女性は仕込みなのかなって感じられたり、でもそれはわからない。


定点観測で映される景色はさすがに15年経つと変わっていく。というか大きな煙突という象徴的な建物だけではなくなっていく。時の移り変わりと時間の流れを感じさせる。この作品はボケーと観てると世界の車窓からみたいにただ流れて行く景色みたいに心のひだには引っかかりづらいものであるように思える。定点観測されていない側、映されていない場所への想像力が必要な作品なのかもしれない。だから、意識的に観なければこの作品に良いイメージは持たないだろう。
終わった後に浦谷さんと話していたのは演劇などあると想像するジャンルなどの表現者の方が、演劇などに親しんでる人の方が捉えやすい作品なのかもしれないよねって。


で、雨の中、今日観に行ったのは『わたしはロランス』という作品。小説家の樋口毅宏さんが観てよかったとツイートされていたのでその流れにノって観に来てみた。レディースデイということもあるので女性客が多いのは仕方ないのだけど普段だとどういう男女比のお客さんなのだろう。でも、女性のお客さんの方が受けがよさそうな感じもしなくはない。



監督・脚本/グザビエ・ドラン
キャスト/メルビル・プポー/ロランス・アリア、スザンヌ・クレマン/フレッド・ベレール、ナタリー・バイ/ジュリエンヌ・アリア等



23歳の気鋭カナダ人監督グザビエ・ドランが、女性になりたい男性とその恋人の10年にわたる愛を描いたラブストーリー。モントリオールで暮らす国語教師ロランスは、恋人フレッドに「女になりたい」と告白する。そんなロランスを非難しながらも、彼の最大の理解者になることを決意するフレッドだったが……。ロランス役に「ぼくを葬る」のメルビル・プポー。フレッド役のスザンヌ・クレマンがカンヌ映画祭ある視点部門で最優秀女優賞に輝いた。(映画.comより)



↑このポスターでポップな作品なのかなって思ってたんだけど濃厚なというか主人公のロランスと恋人のフレッドの心の有り様を丁寧に描いている作品だった。トランスジェンダーである事を自覚し恋人のフレッドに「女になりたい」と言ったロランスを彼女は受け入れるが、真実と共に生きようとしても心は自由になっていっても世間というか周りがそれを祝福するわけではなかった。




監督の年齢が若いとかゲイだとカミングアウトしてるとかはまあどうでもいいというか、それは根本的には非常に重要でもあることはわかった上でこの作品は、彼の作品はこれしか観てないのだけど総合芸術としての映画を目指している人なんだろうなって感じられるものだった。
まず、情熱的なフレッドと国語教師で小説も書いているロランスのカップルのいわゆる「普通」な日常を描いていて、そこから物語はロランスの告白によって大きく変わり始める。雨の日の美容室でのパーマのカーラーをまいたおばちゃんたちとかそういう髪へのロランスの視線とか。
ビジュアル面でなんか古い映画にあるような色彩感覚みたいなものが感じられる気がする。そういう部分とかも監督が意識しているはずだ。


付き合っていた彼氏に「女になりたい」と告白され、今までの関係や時間を否定されたような気持ちになったフレッドはそれでもロランスとの関係を失いたくないために、いろんな感情がごちゃ混ぜになりながらも彼を応援していくことにする。それは女装をして町に出て行く彼に注がれる視線を共に浴びることでもあり、土曜日のランチでの溜め込んだものが爆発するシーンでのあの感じは蓄積した怒りやどうしようもできない不満や絶望だったり理解してあげたいけど完全には受け入れることができない彼への気持ちが他者の存在や言葉や視線によって沸点を越えてしまって向けられるシーンだった。あのシーンはやっぱり凄かった。



フレッドはあることをロランスに隠しててそれは後に再開した時にわかるのだけど、それでまたロランスもフレッドも傷つくし混乱する。だけどロランスは境界を一歩踏み出して自由というか本当の自分に歩み寄って行く。だけど、母親が言うように真実や本当の事でいままであった関係が終わっていったり壊れたりする。
そして、精神的にもしんどくなってくるフレッドとロランスは離れていく。物語自体はどこかで想っている二人の気持ちを再開し、また別れ、そしてと十年近い日々を描いていく。


途中で二人が話してる時かな、ロランスの口から蝶が出て飛んでいったりとかフレッドにロランスの詩集が届いて読んでいると部屋の上の方から洪水みたいに水が流れ出すとか印象的なビジュアルが急にインサートされるのもグザビエ・ドラン監督が映画が第七芸術と呼んでいるのと関係しているのだろう。最後のフレッドとロランスの再開で二人の行動は最初から物語を観ていると自然な流れだし、時間の経緯を丁寧に描いていたから響く判断になっていると想う。
これは注目されるわって思う。なんかわからんがすごいものがあるぞって思わすものがこの作品からは溢れ出ている。僕にとって最高の作品だ!とは言えないけどこのグザビエ・ドラン監督の作品に僕はこれから嫌でも注目して気になってしまうそんな監督になってしまった。