渋谷HUMAXシネマにて。あまり人が劇場に入っていないと聞いていたが土曜日の17時前の回でわりと人が入っていたような気がする。観た人からは面白いと聞いていたが上映時間が160分あるのが足運び辛い要因かもしれない。
監督脚本・沖田修一
共同脚本・前田司郎
出演・高良健吾/横道世之介、吉高由里子/与謝野祥子、池松壮亮/倉持一平、伊藤歩/片瀬千春、綾野剛/加藤雄介
「悪人」「パレード」の吉田修一による青春小説を、「南極料理人」の沖田修一監督が映画化。1980年代を舞台に、長崎の港町から大学進学のため上京したお人好しの青年・横道世之介や、その恋人で社長令嬢の与謝野祥子らが謳歌した青春時代を、心温まるユーモアを交えながら描く。主人公の世之介に高良健吾、ヒロイン・祥子に吉高由里子ほか、池松壮亮、伊藤歩、綾野剛らが出演。劇団「五反田団」主宰の劇作家で小説家の前田司郎が共同脚本を担当。(映画.comより)
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『今を生きて』
世之介が長崎から上京して来る所から始まる。新宿駅、もちろん今とは違う景色、外観の八十年代。電車に乗って下宿先に向かい初めての一人暮らしをいきなりぶち壊すのは隣りの家の目覚まし時計。この人がいるのかわからないし近隣から苦情の紙を貼られている隣人がのちの世之介の人生を大きく変えることになるのだけどそういう意味では冒頭の電車と隣人の目覚まし時計は物語というか世之介の人生を端的に繋げていて後から考えるとうまい始まり方だと思えた。
二つ隣りの住人である江口のりこ演じる女性とのやりとりも最後に向かっての大きな環における彼の成長を語るために必要なものであり、隣人の目覚ましの話をして今シチュー作ってたんだけど食べていく?(いちおう断ると思って聞くだけ聞くみたいな)と言われて世之介はいただきます!と言うと「本当に?」みたいな微妙に噛み合ずにでも世之介の正直さというか世間を知らずに純情な人柄が見てとれる。だからこそ観客は世之介に良いイメージを持てるし世之介と出会った人々が話す会話ではおひとしでもある彼と友だち達の会話で笑いが出てくる。
沖田修一監督作品をまったく観ていないのだがこの監督はこういうのがうまく撮れる人なのだろうか、あるいは共同脚本である前田司郎の手腕なのだろうか、僕にはわからないのだが。
入学式で出会った池松壮亮(倉持一平)と世之介がサンバサークルに入り池松と同様に出会ったあくつという女の子の話から入るわけだが世之介と池松のとかけあいというかやりとりはなにか懐かしい友人の温度に似ていて現在の彼が思い出すあの感じは温かい。そして人は時折思い出すような誰かがいて、忘れていく人たちの集積として現在を生きているのだと思う。
実際にこのパートで現在の池松とあくつが描かれてこの二人が世之介を思い出すという感じになり、その後のパートも世之介×誰かの80年代を描きその誰かの現在を描いて世之介のことを思い出すという構成を繰り返していき現在の世之介がどうなったのかを少しずつ描く。
87年ぐらいが舞台なのかな。綾野剛が演じた加藤雄介がウォークマンで音楽聴いてるけどまだ出た当時かな。誰も携帯もウォークマンも身近ではなかった時代。斉藤由貴のマクセルだっけのポスターとか背景とかも80年代が出ていてよかった。
世之介の同郷の友人のこのスーツはマルイの20回払いとかねるとんに出ようぜ!とかそういう台詞もきちんと時代背景出ていて四十代の人とかもろに染みちゃうんだろうなあって思った。
彼らの二十代の季節が描かれているから。僕らだと九十年代後半ぐらいの季節がそうなるんだろう。
伊藤歩演じる片瀬千春の現在パートで世之介の今がわかる。そこから吉高由里子演じる与謝野祥子と世之介の関係が描かれていくのだが現在の世之介がどうなったかを知ってしまった観客には輝いている季節がノスタルジーでもあり愛しく感じられて来る。
この映画観てたくさん笑った。長く感じなかった、テンポや役者同士の間とかかけあいが心地いい。
そしていつか自分がいなくなった時にふいに思い出されて思い出し笑いが起こるような人になれたらいいなと観ながら思うけどそれは中々難しいよねとは思う。あああんなやついたよなあって自分がいない場所で時間を共有した誰かに笑いながら語られると言うのはキャラの問題もあるんだけどその人の人生の中に記憶の中にきちんと僕という存在が何かを残せたりしたことなのかもしれない。
公開前から『サニー』や『桐島、部活やめたってよ』の映画を推していた映画関係の人や映画好きな人が『横道世之介』が面白いって言っているのは観ているとわかる気がした。やっぱりこの三作は確かに面白いし出来もいいと思うけど二十代よりは三十代、三十代よりは四十代の人が余計に好きだよね、響くだろうし。人生経験を得ていろんなものを得て失ってきて哀愁だとかノスタルジーに対して客観的に見える年齢になったほうがこれらの作品の良さは増すと思うから。ただ面白いと思うけどそこまで評価するものなのだろうか?という疑問もあったりする。
人にオススメしたいとかこんないい映画が全然客入らなくて打ち切りになるのは嫌だとかそういう気持ちが次第に集まって大きなムーブメントになるのは正しいことだしそういう映画に詳しい人たちが推すから実際に観に行こうと思う人もたくさんいる。
だけどそういう強い気持ちに対してなんとなく乗れなくなっちゃう天の邪鬼な人もいるんだよね、僕みたいな。