Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『Restless - 永遠の僕たち』

 二日ほどの寝正月で一日の夜から二日にかけて十数時間の爆睡で見た初夢は長方形な場所にプラモが積まれていて八ヶ所に座っているどうやら昔あったらしいことがある人達と円卓の騎士のように会議をしながらその人達がまたひとりまたひとりと去って行くという何の暗示?的なものでした。


 さすがに買い物以外で街で出ようと思ってて今年一発めの映画を観ようと年末に観れてなかったガス・ヴァン・サント監督『永遠の僕たち』のチケをwebで取っておきました。この作品は『SPEC』のドラマがリアルタイムでしてる頃に加瀬君が出てるというのをネットで知ってた。


 ガス・ヴァン・サントはあまり好きな監督ではないけど観ようと思っていてその時はこの邦題は付いてなくて『Restless』だった。
 邦題は悪くはないのだけど『永遠の僕たち』というとあまりにもイノセンスなロマンチストすぎる感じがしてしまうのは僕だけなのだろうか。


監督: ガス・ヴァン・サント
キャスト:ヘンリー・ホッパー、ミア・ワシコウスカ加瀬亮 etc.


ストーリー:交通事故によって両親を失い、臨死体験をした少年イーノック(ヘンリー・ホッパー)のただ一人の友人は、彼だけにしか見えない死の世界から来た青年ヒロシ(加瀬亮)だけであった。他人の葬式に参列するのが日常的なイーノックは、ある日、病によって余命いくばくもない少女アナベルミア・ワシコウスカ)と出会う。(シネマトゥデイより)



 ガス・ヴァン・サント監督作品の味であるワンシーンを切りとればその光景が美しい写真に見えるような映像で進むボーイミーツガール。そして別れを描いた作品で彼がずっと描いてきた生と死のコントラストと「喪失感」を丁寧に撮った作品だった。



 たいていバスのシーンがある映画は良いものが多い気がしますね。バスという公共機関が走る風景はその土地の日常の延長線であり自分で運転する車というある種の超プライベートな空間よりも世界に開かれているせいかもしれません。


 この作品におけるイーノックアナベルという二人は共に「生」の側よりも「死」の世界に近い所にいる。
 彼は両親を車の交通事故で失い臨死体験をしてこちら側に戻ってきたが昏睡状態の時に両親の葬儀は終わっていて、叔母が彼の面倒をみるためにこのポートランドにきたけども彼女に心を開こうとはせずに「死」に誘われている。
 アナベルは余命を三ヶ月と告げられ出会ったイーノックとの日々を生命力豊かに過ごして行くが肉体はどうしようもなく「死」に向かっている。誰も救えないその状態にいてイーノックと恋をする、最後の恋を。 



 この作品には加瀬亮が演じる旧日本兵のヒロシが幽霊としてイーノックだけには見えているという設定があって、アナベルと出会って彼女に心開くが彼にとっての友だちと呼べるのはヒロシぐらいしかいない。
 ヒロシはカミカゼとして自分が死んだ事は知っている。なぜ彼がイーノックにだけ見えないのかなぜ現れたのかその理由は映画出では明かされない。


 少年は目の前の少女が死んで行く事に耐えられなくなっていく。そのどうしようもない苛立ちと無力さで彼女の元から一度は離れようとする。そこで自暴自棄になった彼を正すというか叩き潰すのがヒロシの役目なんだけど、観始める前から彼の幽霊というポジションにいろいろ思う所があった。



 ノイタミナで放映された『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(通称『あの花』)ではかつての幼なじみで現在はバラバラになった「超平和バスターズ」の元に幼少期に死んだ芽衣子<めんま>(その姿は成長した高校生ぐらいの彼女として)が主人公の仁太<じんたん>の前に現れる。がめんまはじんたんにしか見えず他のメンバーには見えない。
 バラバラになった彼らはじんたんにしか見えないめんまの存在を信じるかどうか、その幼少期に壊れた関係性をどう修復していくかを描いてた。
 最後の『しゃべり場』みたいな各自が泣きながら自分の想いを告げるシーンでそれまでハマっていた僕はげんなりしてしまった。きっとそういう時期さえも通りすぎてしまったからかもしれない、主人公に近い世代の方が最終回感動したという話も聞いたりして年取ったんだなって思ったり。


 宮藤官九郎の最新作だった『11人もいる!』では亡くなった前妻であるメグミ(広末涼子)が後妻である恵(光浦靖子)の子供である(彼だけが母親が恵)才悟(加藤清史郎)だけにしか見えないという設定(後半に実はもう一人見えていた人物が判明するが)だった。


 去年のアニメの中では地震後の世界とのリンクという事もあり95年の『新世紀エヴァンゲリオン』と比較される事が多かった『魔法少女まどか☆マギカ』では魔法少女が戦う魔女が現れるが、その正体は実は魔法少女のなれの果てだった。そういう意味では魔女はゾンビだと言える。


 花沢健吾アイアムアヒーロー』ではゾンビが世界に溢れ出し彼らに噛み付かれるとその者もゾンビ化する世界を描いている。


 『永遠の僕たち』のように主人公が「終わりなき日常」から失われていく、永遠に見えた日にも終わりがくるというものを書いた傑作として前述の宮藤官九郎脚本『木更津キャッツアイ』のぶっさんは通常ドラマではきちんと死ぬというかとりあえずのちに亡くなる事は明記される。が劇場版の二作目の完結編では死んだはずのぶっさんとオジー黄泉がえりしたゾンビ的な存在として描かれていた。



 特定の人物にしか見えない幽霊や甦ってきた死んだはずの人物のゾンビとは一体なんなんだろう。
 一番わかりやすいのは「近過去」としてのメタファーとして。
 人は「過去」という地層がどんどん積み上がって「未来」がどんどんなくなっていく。年齢を重ねれば想い出は増えるし起きてしまった「過去」に捕われてしまうことも多い。だけどもそれが無くなる事はなくてそれと共に生きて死んでいく。


 「現在」に躓いていたり「未来」に躊躇している時にのしかかる「過去」という遺物。それは決して無くなりはしないがいかに上手い具合に手放して、きちんと別れを告げて「現在」と「未来」に比重を行動を向けられるかということを描く際のメタファーとしての幽霊。
 あるいはトトロ的な幼少期の空想上の友だちやライナスの毛布として描かれているようにも思える。


 ゾンビはこの十年ぐらいの世界の雰囲気のある種の不気味さの物質化や過去の復讐としてのような気もする。この辺りは未見だが『ゴーストの条件』とかに詳しく書かれているかもしれない。



 この作品を観終わる頃には泣いてしまいました。
 イーノックが大事な人を失うという「喪失感」を得てそれを受け止める事で大人になっていくという成長譚でもあって、アナベルというどうしても死から遠ざける事ができない大事な存在の「死」を受け入れる事で彼は受け入れる事ができなかった両親の「死」も受け入れて少し大人になっていく。


 ヒロシという存在の幽霊はよくよく考えると死神みたいなものなのかなって思ったり。彼は彼女を長い旅になるからついていくよみたいな件があるけどそう考えると彼はたぶん最初はイーノックが「死」に近いから彼をあちら側に連れて行く役割として彼に見えるようになった。
 が彼はアナベルと出会う事でそちらから離れていく。だからヒロシはアナベルをいざなう役割になったのか。
 最初からアナベルを連れて行く役割で彼女と出会うイーノックにだけ見えたのか、まだ「死」ぬには早い彼からはそれから遠ざけて、逃れられない彼女に最後のプレゼントして彼と出会わせ、彼を「生」きる側に向かわせたのか。などと色々な憶測はできる。


 たぶん脚本家にはある程度の明確な答えや設定はあるんだろうけどそれが明らかにされたらこの物語のよさが増すというものでもない。そこは不明瞭な謎としてあるほうがなんだかしっくり来るのかも。


 世界の全ては明瞭になればなるほど救われるというものではないし、謎があるほうが想像力でそれを補完することもできる。世界の見えかたは十人十色なように。


 主演のヘンリー・ホッパー(デニス・ホッパーの息子!)ミア・ワシコウスカのコンビが美しいというか画になりすぎ。
 ガス・ヴァン・サント作品の空気感にはこういうイノセントな感じの役者が使われるからこそ彼独自の映像になってるんだなって思う。だから邦題タイトルが『永遠の僕たち』なんだろうけどね。


 ヒロシの手紙の部分とかそりゃあ泣けるわっていうシーンはズルい、あれたいていの人は泣きそうになるだろって。


 あとイーノックアナベルって現代っ子ぽくなくて彼らが携帯とかすら使ってるシーンほぼないんじゃないかなって。とても浮世離れしてるとも言えるし彼らはそういう意味で現実世界に開かれてない存在のようにも感じられる。だって外部との繋がりはほぼ皆無だから。


 だけども「喪失感」を得て少し大人になったイーノックはどっぷりと現実世界に浸からないだろうけども不器用にも外部と繋がりきちんと現実世界に戻っていくのだろうと思えるそんなラストの表情だった。

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