Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

「破」二回目、「ケータイ小説的」

 幸せは歩いてこないだから歩いて行くんだね〜ってことで朝一でバイト終わった後に家に帰ってなんとか寝ないでレッドブルに助けられて渋谷まで歩いていった。いつもの緑道のせせらぎ?にはカルガモ親子がいました。


 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を前に観たのは公開2日目っていうのがあって九時からの初回に三十分まえぐらいに着いたら何十人と列を作って待っていたけど公開一ヶ月後だとそのぐらいの時間に行くと僕らが最初でした。


 実際には初回の客十人ぐらいだったかなあ。僕はゲーセンバイトの時の知り合いの平尾さんと観に行ったんだが、平尾さんにはもちろんネタバレをしないでおいて。
 次は「ディケイド」と「20世紀少年」観ますかって話をしてました。良い加減にライダーって女の子が主人公でいいんじゃないですかねって話をしたり。


 恋するライダーでいいんじゃないかとかシャドームーンはカッコいいですよねって。僕初めて敵役でカッコいいって思ったがシャドームーンだったから。


 年齢差が15歳あるのでってもあるので庵野さんと同じく特撮ものとかの方が平尾さん好きでJACジャパンアクションクラブ)にも関係してたのもあるんだけど、平成仮面ライダーは平尾さんに聞いて見た。とりあえず悲惨な終わり方のやつとか見たいって言って。


 一人で観にきてた女の子が二人ぐらいいた。リアルシンジ世代(アニメ放映時にシンジたちとほぼ同じ年)は僕ぐらいか、あとは僕よりも年上だろう三十代半ばのリーマン、あとは大学生の数人って感じで、最初の祭りに間に合わなかった人たちの多いかった感じだった。

 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」+「文化系トークラジオLife
http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20090629


あの素晴らしい愛をもう一度
http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20090630


式日
http://d.hatena.ne.jp/likeaswimmingangel/20081117


ヱヴァンゲリヲン新劇場版 今日の日はさようなら 翼をください


 二回目なんで冷静に観れたかなあ。↑「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」+「文化系トークラジオLife」でネタバレというか物語の展開を書いているんで観るまでは内容知りたくない人は読まない方がいいと思う。



 まず冒頭の真希波・マリ・イラストリアスが登場するシーンは彼女はエヴァに乗って使徒と戦うのにワクワクしている、テンションが高い辺りなどここからは違いますという制作者の意思表示として見える。あと彼女には心情的なものがないように感じる。


 彼女が戦う理由は明かされないが、彼女からすれば大人(ネルフやゼーレ)を利用して自分の目的を果たそうとしているらしい。そんなことをしようとしてる時点でただの子供じゃないというかやっぱり使徒なのかなとか、カヲルの片割れなんだろうなあって。


 名前が式波・アスカ・ラングレーに変更されたアスカもマリ同様にキャラ説明も兼ねてエヴァに乗ってソッコーで使徒を殲滅する。アスカはかなり思春期の女の子的な子になっている。シンジとレイの関係に嫉妬したりと。


 旧劇場版やアニメ版と違うのは加持リョウジとほぼ関わりがない、思春期の女の子が背伸びして年上と付き合うような、同世代の男の子がガキに見えるから年上にみたいなのはなくなっている。その分ストレートにシンジの方に思いがいっている感じ。


 みんなで食事するシーンが多いのは旧作に比べてやっぱり印象的。「繋がり」過剰の現代と言われるが、ネットや携帯で繋がりやすくなったのになぜか寂しさや孤独感に多くの人が不安を持ってさらに繋がりを持とうとする。


 集団の最小単位である家族、そこにあるのは同じ家に住んで同じ物を食べるということ。食事を一緒に取ると言う事は同じ場所に集い同じ時間を共有するということ。みんなで食事を取るシーンが、当たり前な日常が印象的なのはそれすらも失われていっている、だからこそ求めていると感じれる。


 カセットテープの25、26曲目をひたすらリピートするのが何度も描かれ、マリが空中から落ちてきて「眼鏡、眼鏡」とやっさんばりにするシーン以降はテープはついに27曲目になる。


 「エヴァ」という繰り返しの物語がネクストフェイズに入った非常に明確な表明、冒頭から「幸せは歩いてこない、だから歩いて行くんだね」って歌ったマリ、この物語においてネクストフェイズの象徴が新キャラのマリである。


 そのせいか旧劇場でのアスカのキャラはマリに大方持っていかれている。アスカがかなり地味目な存在になっているのは否めない。アスカファンには納得のいかない扱いになっている。


 旧劇場版での世界観ではシンジの母はエヴァの機動実験で死亡、そのため初号機に乗ると「母さんの匂い、綾波の匂いがする」と母体回帰装置になっているエントリープラグ、今作でもそれはあるが。


 父親には育てられず、「先生」と称する人物にシンジは預けられて育てられる、これはゲンドウによるネグレクトだと言える。そのためシンジは「父親の権威」の失われた時代の子供の象徴のよう。


 トラウマを抱え人と向き合う事はせずに内面に引き蘢る、当時流行ったAC(アダルトチルドレン)の趣がある。


 アスカもまた母親が二号機の実験により精神が二号機に持っていかれ、残された肉体には狂気しかなくなり首を絞められ殺されそうになる、母は自殺。それゆえに自立するため、自分の存在証明としてエヴァに乗る。
 誰かに認められたいと思う。アスカもネグレクトではないが親に対するトラウマを抱えていた。


 今作ではアスカのトラウマは最大限に発揮されずにシンジに好意を持っていきながらも素直になれない等身大の女の子として描かれる。トラウマの箇所は所々見られるが。


 そして今作ではアスカは前の世界ではトウジに降り掛かった不幸を背負う。このシークエンス自体はシンジの父ゲンドウへの怒りへと昇華されるきっかけになる。トウジが、アスカが乗っているなら僕は戦えないと、殺すぐらいなら殺された方がマシだと。


 しかし、ゲンドウはダミープラグに変えて、彼らはシンジの友達が乗ったエヴァは圧倒的な力で破壊され、彼らもまた。ここは子供の意見など通らない、キレイごとでは世の中生きていけない現実世界が描かれる。


 その後エヴァで駄々をこねるように本部を破壊し恫喝したシンジは手錠をされゲンドウと二人で対面する。


 そこでゲンドウはシンジに「自らの願望を叶えるためには障害を排除していくしかない、大人になれシンジ」とニュアンスは違うがそういうことを言う。


 このシーンでは左側にシンジ、右側にゲンドウという配置なんだが、どちらのキャラも庵野さんの分身のように思えた。子供でいたい自分と、大人にならないといけない自分が対比として描かれる。


 好きな事だけしてて何が悪い、自分のやりたいことだけして生きていたんだよ。だけど商売として成立させないといけないんだ、これは自主制作じゃない、商業映画だ。という庵野さんの葛藤に見えなくはない。


 この後シンジはわかりませんね(大人の都合なんて)とネルフを後にし、ミサトとの同居の部屋からも出て行く。
 アスカ同様にもう一人の主人公であるミサトが今の所弱い、キーマンであるはずなんだが、彼女もまた父を亡くしている、シンジとゲンドウの関係性を一番身近で理解できる人物。


 その後、最強の使徒が表れてマリが勝手に二号機に乗っちゃたり、ビーストモードで戦ったりしてレイが爆弾を抱えて突っ込み、使徒に零号機ごと捕食されるのをシンジが見る。


 そして自分の意志でエヴァに乗ろうとする。「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジです」と。「綾波を返せ」という今までは考えられなかったシンジの発言ととも覚醒する初号機なんだが、わりと公開時に多くの人が泣けたと言ったシーン。
 バックに「翼をください」がかかりシンジがレイを使徒のコアから助け出すシーン。その前に「せめて綾波だけは」と言っている。アスカを救えなかった自分の不甲斐なさをかなり感じている。


 A.T.フィールドは心の壁。そこから先に踏み込み、綾波をこちら側に引き戻す。そういう意味では心と心が重なった(レイに心がとリツコは言うだろうけど)。セックスでの肉体と肉体の簡単な接合よりも心と心が重なる方が難しいのだということを実体験上知ってしまっている人たち、ある程度の年齢層が上の方がたぶん大学生とかよりも泣いたのはそのためだろう。


 旧劇場版でのシンジと比べて泣けるというのはあるんだろうけど、大人になってしまった故に知ってしまった事。最終的に心と心で繋がりたい、繋がる事がどんなに難しいかをシンジとレイを見て無意識下に感動したんじゃないだろうか。


 でも、レイは母ユイのクローンだからレイと一つになるのはやっぱり近親相姦的なものがある、母体回帰のようなものだ。シンジはそれを知らないから仕方ないけど。


 で毎度お馴染みのカヲル君が最後に美味しい所を持っていく。今の所繰り返しを知っていて言葉に出しているのは彼のみ。まあゲンドウも知ってそうな気はするけどね。だが、カヲルはどうやってシンジを幸せにしようとしてるのかは「Q」以降に。何年後だろうか。



 劇場を出るとけっこうな雨。リブロによって速水さんの「ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち」を買う。本谷さんの新刊を買うとサイン会の整理券をくれたみたいだけど、やめといた。


 ケータイ小説というものが浜崎あゆみの影響下にあって、郊外のファスト風土化、携帯依存、デートDVなどと結びついて「再ヤンキー化」している少女たちを書いている。


 僕はケータイ小説を読んだ事がないのだが、これらの小説に頻発するエピソードが「援助交際、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛」と言われているが実はデートDVがけっこう多くの作品で見られるそうだ。


 出てくる男の束縛に始まり、お前のためだと殴り始めればそこから加速していく、彼を怒らせる自分が悪いんだというのと、殴った後の優しい言葉で本当の彼は優しいと思っていくうちに事態は悪化。最終的には逃げ出すか殺されるか殺すしかなくなるまで追いつめられるらしい。


 上記の七つとデートDVなどが女子高生にとってリアル、と言っても身近に起こる可能性が高い、実際に起きまくっているとは考えにくい、それはリアルに感じられるかどうかで、売り文句が実話を基に作られたという言葉があればリアルに感じられる一因にもなっていたらしい。


 そういえば「1Q84」にもDV被害者を守る人が出てきたし、DV被害者って出てきてたなあ、もともとは家の中に隠されてきた事が徐々に明るみに出てきたってことらしいんだけど、あの時代にはない言葉だから。


 ケータイ小説とあゆの歌詞の類似性から彼女がかなりの影響を与えたって部分。回想的モノローグ、固有名詞の欠如、情景描写の欠如というのがモロに影響をしているのもわかるし、歌詞の内容まんまじゃんみたいな。


 なんだっけなあ、固有名詞がないってのはコブクロの歌詞読んだ時に感じたことと同じ。仕事をもらって「音楽誌が書かないJポップ批評 コブクロ 恋愛ソングで泣く!」の短編小説書く時に資料でそれまでに出たアルバムの歌詞とか渡されて読んだ時に感じたのが固有名詞ねえ〜って、あと抽象的。


アマゾンの↓でなか見!検索で僕の書いた短編「僕らがいた季節」がweb上で読めますよ、僕も知らなかったんだけど。というか知らされてなかった。
http://www.amazon.co.jp/gp/reader/479666808X/ref=sib_dp_pt#reader-link


 あゆは書かれていることには父親が出て行ったことによるトラウマがあるみたいで、その事を本人も雑誌で語っているらしい。コブクロ小渕健太郎は母親を亡くしたことを歌にしている。


 郊外のロードサイド問題、ファスト風土化が広がったことがコブクロが売れた要因の一つだと僕は感じていて。それはあゆが売れたのと似たようなことではあるんだけど。
 歌に固有名詞が出てこないことは、もはや東京に目を向けなくてよくなった地方の人間には受け入れやすい。東京の知名なプレイスポットの固有名詞に憧れはない。ネットの普及もかなり絡んでるけど。


 「地元つながり」が一般的になったのは「木更津キャッツアイ」だった。ぶっさんは東京にすら千葉に住んでいて行った事がなく、それでも仲間がいる町にいれば全て事足りる。終わらない日常のような毎日を過ごして野球してビールを飲むという生活。


 この作品が共感を得たのはその部分だったんだろう、この作品はしかしながらそんな生活にも終わりは来るよとぶっさんは奇跡的に映画化で生き返ったりするが結局の所は死ぬというどうしようもない現実を視聴者に投げつける。


 いつか終わりますよ、この人生はと。


 コブクロの歌詞は固有名詞が出てこないし、抽象的な感じが強く、現在から過去を振り返っているモノローグ的なものでできている。これはどういうことかいうと多くの人が自分と照らし合わせやすい歌詞であるこということ。
 固有名詞の排除、抽象的な言葉は人を限定せずに多くの人に当てはまる。だからこそ共感を呼び多くの人が聞くという流れ。
 映像として思い浮かべるにはかなり抽象的、しかしある程度生きていれば思い当たる、想い出と重なる部分のある歌詞である。あとコブクロが売れているのは支持されているのは都市部よりも地方っぽい、20〜30代をメインにフォーク好きな年齢層の高い世代にも聞かれているみたい、歌詞も自分の人生に照らし合わせることがしやすいからだろう。


 なんかまとまりなく書いてたらよくわかんなくなった。後は「ヤンキー文化と相性のいい相田みつを」ってのがあって。そういえば速水さんが「Life」に出てた「地方を考える」の回にもう一人さきほど出た本谷有希子さんもゲストで出てて彼女の芥川賞候補になった「生きてるだけで、愛」って作品の中に描かれていたのを思い出した。


 その主人公の女の子はメンヘルなんだけど彼氏の元カノに連れ出されて行った家族経営のイタリアンレストランで働く事になる。そこの若夫婦がいかにもヤンキー上がりでアットホームで、客は若夫婦の仲間たちが来てくれているから経営が成り立っているような店なんだけど、トイレにあるんだよねえ、「相田みつを」の額縁が。


 最終的には耐えきれなくなってトイレの陶器の蓋投げて額縁をトイレに投げて粉砕するというシーンがあった。本谷さんが実際に行った事ある元ヤンな夫婦が経営している飲食店で見たのか想像で書いたのかは知らないが、たぶん本谷さんはヤンキー的なものを受け入れないだろうから相田作品も嫌いかもしれないから想像で書いた可能性はあんだけど。


「文化系トークラジオ Life」8月10日放送「地方を考える」part1〜外伝2
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810part1.html
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810part2.html
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810part3.html
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810_1.html
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810part5.html
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810_2.html
http://www.tbsradio.jp/life/2008/08/810_3.html


 うわ、これもう一年前なんだ。


 で、あとがきに担当が大西さんって書かれてて。僕が初めて「Life」飲みに誘ってもらって行った時に帰り道が同じ方向だったから仲俣さんと大西さんとタクッて途中まで帰ったというか、それから飲み会に呼んでもらうようになったんだけど。大西さんは何度も飲み会でお会いしてるし、小説がんばりなよって言ってもらったりしてて、仲俣さんと話したことあるけどこの世界って広いようでやっぱり狭い。なんとか足を突っ込めばそこは繋がってるし狭いと感じてくる。


 もっと突っ込めるように動かないとなあ。

Cut (カット) 2009年 08月号 [雑誌]

Cut (カット) 2009年 08月号 [雑誌]

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

あの子の考えることは変

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