Spiral Fiction Note’s diary

ライター&Webサイト編集スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「BOOKSTAND」で「月刊予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

「サグラダ・ファミリア」

 今日からいよいよTBS金10野島伸司脚本「ラブシャッフル」が始まるのだけど、野島信者な僕だがあまり期待感が沸かない。
 今、お昼にフジで「ひとつ屋根の下2」が再放送しているのはきっと江口洋介の新しいドラマがしている流れだろう。
 フカキョン表紙のアンアンの最後の方に野島さんのインタビューが載っていた。恋人に大事なのは相性だと、この人しかいないと思っているよりも他の人と出会うことで違う可能性が出てくるかもしれない、ある種のモラルを壊して出てくる真実。
 まあ、おそらくはラブコメの体裁を取りながらも伏線を散りばめながら最終的にはタナトスとかそういう野島伸司脚本らしさを出すためのフェイクとしてのラブコメかもしれないというか、というかそうであってほしい。


ラブシャッフル」公式
http://www.tbs.co.jp/loveshuffle/


 「われらが歌う時」上巻を読み終わる。途中から乗ってきて(僕が)読み進んだけど、上巻の最後の方でようやく妹の存在感が出てきた。しかし、この本に夢中というか読んでいてある種の圧倒をされて自分で書いている作品があんまり進んでない。
 下巻を借りる前に終わらさないと借りたらきっと気になって読んでしまう事はわかっている。だから数日内に終わらす、とりあえずボケーと仕事中とかに浮かんでくることをあてはめていくと物語の細部が埋まってきて、軽めのプロットって書いてたけどそれとは違う方向に行ってしまう。やっぱり何かを書くって書く時間よりも書くためにかかる時間や想像とか思案の方が何倍もかかっている。
 

 頭の中にあった物語とか事柄は生きているんだけど、それを言葉にして、字にして、キーボードで打って現すと死んだような気がする。字として現す時にそれらは死んで墓標のように示されたものになるっていうのは古川さんの「東京REMIX」のスピンオフで聴いてなんとなく共感できてたんだけど、もうちょっとわかったような気が勝手にしてる。
 あと自分にとっての過去ってものは亡霊のようなものだなあと昨日ボケーとレジしている時に急に思った。いっつも僕に張り付いていて消え去ることはなくて、しだいに膨らんでいる。たまにそいつから昔のことを教えてもらうように昔のことを思い出す。だからその亡霊は記憶のハードディスクでもあって、時折僕の都合のいいように記憶を書き換えるし、あるいは僕の思い込みで実際よりもひどい事柄に変えている。


 過去は亡霊の記憶っていうのはうまいこと書きたいけど難しいなあ。


 「われらが歌う時」で過去の事を書いているんだけど、父と母が出会った時のこととか、「私」の現在からすれば全て過去の事だけど、「私」や兄のジョナが二十代のときの事とか、現在・過去・未来がサンドウィッチされていくことで僕らは歴史という亡霊の教科書を手に取って知る事ができる。


 本当にこの作品と古川日出男「聖家族」で描かれていることって近い、物語の内容は違うけどひとつの「家族」の歴史。つまりは記憶と血の繋がりにおける「家族」と彼らの亡霊による記録書。しかし、どちらも長いので気合いをいれないとたぶん最後まで辿り着けない。


 「聖家族」の仮綴本に古川さんがこの本はサグラダ・ファミリアみたいなものだって冒頭に書いていた。建設中なんだよね、たぶん終わらない物語。血がつながる限りはその物語は途絶える事はないから。しかしサグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味するのか、だとしたら「聖家族」が翻訳されて海外で売られることになったらタイトルは「サグラダ・ファミリア」に必然的にはなるんだろうな。

われらが歌う時 上

われらが歌う時 上

われらが歌う時 下

われらが歌う時 下

聖家族

聖家族