Spiral Fiction Note’s diary

ライター&「monokaki」編集部スタッフ。「水道橋博士のメルマ旬報」で「碇のむきだし」、「週刊ポスト」で「予告編妄想かわら版」、「PLANETS」で「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」を連載中です。

『リバーズ・エッジ』


 映画『リバーズ・エッジ』を公開初日にTOHOシネマズ渋谷で観る。
 観ながらつくづく感じたことは岡崎京子さんという漫画家は、手塚治虫が戦後に漫画に持ち込んだまんが・アニメ的リアリズムだったり「アトムの命題」におけるキャラクターの傷つく身体、24年組が少女漫画で「内面」をいかに漫画で描くかという歴史を正統に受け継いで、あの時代の空気を取り入れながらアップデートしようとした漫画家だったということが、彼ら生身の俳優によってあの物語が演じられてしまうことで証明してしまった、いやそもそもそうだったんだけど、今回めっちゃ強く感じたし今まで以上にわかった気がした。

 漫画読んでなかったら、たぶん問題ない90年代の話って感じだろうけどさ。観にきているような十代や二十代前半の女の子にはこの映画や登場人物はどう映ったのか、感情移入はできたのか、どんな気持ちになったのかは気になる。この作品において観音崎というキャラをどうするかってのがかなり大きな問題ではあると思う。最低であるが、人間らしくはある。感情の上下が一番激しいということもある。あとの人物は基本的に冷めた視線で毎日を過ごしている、それは死んだように生きるというような漫画が書かれた当時の気配を孕んでいる。

 漫画から実写映画に翻訳する際に抜け落ちてしまう部分、それを映画ではあるシーンを度々導入することで補おうとしたのかもしれないし、批評性を行定監督は取り入れようとしたのかもしれない。僕には蛇足に見えてしまった。
 なぜ、原作の主題を見据えてオリジナルシーンでも新規のキャラクター(それはかなり困難だが)でも、新しいエピソードをぶちこまなかったのか? 時おり読者を突き放すような岡崎京子作品にあるものはどこにある? 行定監督が撮る意味ありましたか?
 ただ原作通りにしてもあそこに描かれていたものは漫画的な表現だったんだから。漫画は何十年も前から文学になってるし、吉本ばなな以降は完全に小説とか文学ってものは漫画の影響化にある。行定監督は文学好きで何作も原作もので映画してんだからさ、わかってるはずなんだよ。それでもできないのは製作委員会のせいなのだろうか?
 もう、『リバーズ・エッジ』と『pink』はセルフリメイクで今の中国を舞台にして撮った方がいいよ。その方が描かれている世界の雰囲気とすごくマッチすると思うし、届くものが多いのでないだろうか。