Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

Spiral Fiction Note’s 日記(2023年1月16日〜2023年1月31日)

1月上旬の日記(2023年1月1日から1月15日分)


1月16日

前日に長い間使っていなかったデジカメを起動させて保存されていた画像を見たせいか、夢の中に保存されていた画像に写っていた友人が出てきた。彼とはもう何年もやりとりも交流もしていないけれど、元気にやっているらしいことはSNS とかで少しだけ見ていて知っている。
その夢は当時の続きのような内容だったけど、夢にしてはどこか変なところもなくあの頃の日常の地続きみたいだった。
去年買っていたリディア・デイヴィス著『話の終わり』を起きてから、少しだけ読んでから朝仕事のリモートワークを始めた。

バカリズム脚本『ブラッシュアップライフ』の二話をTVerで見た。前回の一話では主人公の近藤麻美(安藤サクラ)が友人の門倉夏希(夏帆)と米川美穂(木南晴夏)と一緒に過ごした帰りにトラックに轢かれ死んでしまい、死後の世界で受付係(バカリズム)に来世はオオアリクイですと言われ、戸惑っていると今世で徳を積んでいないからと伝えられる。もう一度近藤麻美として生まれ直して二回目の人生で徳を積めば来世はオオアリクイにはならないという話から生まれ直しを選択して二回目の人生を歩み始めたという所で終わっていた。

二話は二回目の人生の幼少期から始まり、記憶にあるバッドな展開にならないように裏で動いていくというものになっていた。友達の父親と保母さんの不倫を止めるとか、そういうことをしていき小学生となり中学生となり高校生になっていく。仲良し三人組は二回目でも友人関係となって一緒の日々を過ごす。
一回目は市役所で働いていたが二回目は薬剤師となり薬局で働くなど、前回は違う人生を進んでいる。一回目で付き合っていた田邊(松坂桃李)がギャンブルばかりするようになって最後には五万貸して別れたという記憶が残っていたので二回目では彼に近づかないで知り合いになることもないという選択をしていた。そうなると一回目での彼といた時間や記憶も存在しないこととなる、というありえたけどありなかった可能性へそれを選んだ本人がノスタルジーを感じるという複雑な状況になっていた。

一話ではポケベルがキーアイテムとなり、二話ではゲームボーイアドバンスがキーアイテムとなっていた。近過去の今は存在しない、使われることがなくなった懐かしいアイテムが重要なアイテムになることも今作では大事な軸となっている。麻美たち三十三歳の世代やその上の世代からすれば「あったね、そういうの」というものであり、それより下の世代からすれば「平成レトロ」と呼ぶようなものが出ていて、この辺りのバランス感覚はさうがバカリズムさんだなと思う。
麻美役の安藤サクラ、夏希役の夏帆、彼女たちの同級生でありラウンドワンでバイトしている福ちゃん役の染谷将太など園子温作品の常連や作品に出ていた人がメインどころにいて、ちょっと複雑なきもちにはなる。

水道橋博士の辞職で注目される国会議員の「責任の取り方」…活動なしガーシー氏の去就は 

水道橋博士さんが議員辞職というニュースがスマホのポップアップに出てきた。11月にうつ病を公表して活動を休職していたが、辞めるという判断を下したとのこと。このニュースにあるガーシーはそもそも政治家として問題外だし、いろんな処分か逮捕なのかが早急に行われて早く辞職してほしいとしか言うことはない。
個人的には博士さんが立候補する時にれいわ新選組から出馬するというのを知って応援はできないと思ったので、れいわも博士さんの名前も投票時には書かなかった。僕は山本太郎を一切信用していないから。
しかし、僕の周りの博士さんの友人知人や関係者の人たちは博士さんにがんばってほしいから投票したとSNSでも表明していたが、今どう思っているのだろう? 誰も責任取らないだろうし、そもそも取れないわけだが。

議員辞職すれば議員としての給料はもらえなくなってしまう。政治家になったことでレギュラー番組はなくなったし、メールマガジン水道橋博士のメルマ旬報」も終わってしまっているから当然ながらお金の問題も出てくると思う。でも、うつ病を治すことが最優先だから表に出るような仕事ができるのは少し先なのかな。
だから、政治家になるずっと前からご本人が書きたいと言っていた師匠であるビートたけしさんについての伝記「たけし正伝」と「PRIDEの怪人」と呼ばれていた百瀬博教さんの人生を描く「百瀬博教伝」を書かれたらいいと思うし、そのサポートを周りの人たちがするのがベストなんじゃないかな。
前に休業した時も復帰するタイミングで春日太一さんの『あかんやつら東映京都撮影所血風録』文庫版の解説を書いたことが大きな要因になったはずで、だから今回もその二つの博士さんが書きたいと言われていたことを書くことがキーになるんじゃないかなと勝手に思っている。文章を書くのは体力も必要だし精神的にも大変なことだから、うつ病の時には非常に難しいことだとはわかってはいる。でも、それが再生や復帰には重要なことになってくると僕は思う。

好きな本のジャンルはミステリー。巨匠といわれる作家の本も読むし、若い作家の本を読んで新しい風を感じるのも好き。好きな作家の新刊が出たら、いてもたってもいられず、すぐ買いに行っちゃう。

実は二十代の頃からミステリー小説を読み漁っていたのだが、そのあと女性関係のほうが忙しくなっちゃって(笑)、ちょっと離れた時期もあった。また熱心に読むようになったのは六十代になってから。「自分の時間」の作り方が上手になってきたんだと思う。

読書は寝る前に、目がしょぼしょぼする寸前くらいまで。夢中になってストーリーを追いかけて、犯人は誰だろう?どういう結末になるんだろう?と考える、楽しい時間を過ごしている。そして僕の推理はけっこう当たる。

井上順の渋谷さんぽ~ありがとう、東急百貨店本店①~|さんたつ by 散歩の達人 

井上順さんは東京百貨店付近で何度かお見かけしたことがあり、気になって調べたら父と生年月日がまったく同じでちょっと親近感を勝手に抱いている芸能人。たくさん本を読まれているのは前から記事などでも知っていたけどミステリー好きというのもいいな。
井上さんもインタビューで言われているけど、ほんとうにMARUZENジュンク堂書店渋谷店がなくなったら本好きにとってはかなりきつい。

二日ほど前から唇周りに口唇ヘルペスができ始めた。水ぶくれが三つほど潰れて今はかさぶたになっている。口唇ヘルペスって疲れやストレスで免疫が落ちている時に症状が出るものなのだが、知らない間に疲れやストレスを感じていたと思うと体は正直だ。明日はちょっと高めのチョコラBBのドリンクを飲もう。

 

1月17日
1995年の阪神・淡路大震災から28年、当時は中二だったが岡山県広島県の県境の我が家もちょっと揺れた。まるで他人事だったが、テレビで被害を見てもリアリティが沸かなかった。東日本大震災は東京で揺れを体験して、福島県にはその後に何度も足を運ぶようになったけど、やっぱり年齢というのが大きかったのだとは思う。あの時二十歳とか過ぎていたらもっと感じ方も違ったのかもしれないと今なら思う。

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』本予告【3月3日(金)公開】 


おっ、エブエブの本予告きた。アカデミー賞授賞式の前に公開になるわけだが、この作品とスティーヴン・スピルバーグ監督自身の自伝的な『フェイブルマンズ』が本命なんだろうけど、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が作品賞とか取ってほしい。


十五時半から佐井大紀監督『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』の試写を角川試写室で観る予約をしていたので、お昼の一時過ぎに家を出た。距離とすると二時間ちょっとだったので歩いて行くことにした。
渋谷まで出て宮益坂を上ってからは246沿いを外苑前駅近くまでまっすぐに歩いて、明治神宮外苑方面に少し北上してから元赤坂の北側を沿うような安鎮坂を進んでいくと四谷駅に出る。そこから市ヶ谷駅に向かって少し通り過ぎて新見附橋を渡ると総武線と中央線が下に走っていた。目の前に法政大学の市ヶ谷キャンパスが見えてきてコロナパンデミック前に何度も試写で行っていたKADOKAWAがある富士見のエリアに入ったのがわかったので、角川第二試写室へ。

寺山修司が構成を手がけた1967年放送のTBSドキュメンタリー「日の丸」を現代によみがえらせたドキュメンタリー映画

街ゆく人々に「日の丸の赤は何を意味していますか?」「あなたに外国人の友達はいますか?」「もし戦争になったらその人と戦えますか?」といった本質に迫る挑発的な内容のインタビューを敢行した同番組は、放送直後から抗議が殺到し閣議でも問題視されるなど大きな反響を呼んだ。

TBSのドラマ制作部所属で本作が初ドキュメンタリーとなる佐井大紀監督が、自ら街頭に立って1967年版と同様の質問を現代の人々に投げかける。ふたつの時代を対比させることで「日本」や「日本人」の姿を浮かび上がらせていく。(映画.comより)

かつて1967年に放送されたものと現在の2022年というふたつの時間軸で同じ質問をしていく、というアイデアはおもしろく、異なる時間それぞれを対比させることで時代や世界の状況が違っても(冒頭で語られているが1967年と2022年はオリンピック後、万博が決まっている、ベトナム戦争ウクライナ戦争ということでは相似形ではある)急に無機質な感情を入れないインタビュアーから「日の丸の赤は何を意味していますか?」「あなたに外国人の友達はいますか?」「もし戦争になったらその人と戦えますか?」など矢継ぎ早に質問された街行く人たち。彼らは普段考えてもいないことをきなり聞かれて戸惑いながらも自分の意見や考えを話す。もちろんどこか困惑していたり、怒りにも近い感情を露わにしている人もいる。
まさしく十人十色の回答があり、それぞれの人たちが質問について自分の意見を言う時の間や空気感、表情や仕草などが質問の答えよりも全てを物語っているかのように見えてくる。
スクリーンに映るものを観ながら、自分にもこの質問が来たらどうしよう、どう答えるのだろうかと考えていた。それはとても居心地の悪いもので文学と似ている。他者が入り込んでくる嫌な感じが文学の本質だし、それが自分の本質を揺らがしたり、変容させるきっかけとなる。この映画はその意味でインタビュアーが質問する姿とそれに答える人たちを通して、観客へ入り込んできた居心地の悪さが非常に重要なものであり、寺山修司が仕掛けたものなのではないだろうか。

普段考えていないことを聞かれて口から出る答えは無意識で思っている本音に近いものだとは思う、同時にいきなりカメラを向けるという暴力性についても考えていた。
古川日出男さんのノンフィクション作品『ゼロエフ』の中で、僕が実際に古川さんに言った「カメラには暴力性がありますからね」と言う言葉が活字になっている。それはやっぱりフィクション作品を作る時のカメラで撮るという行為とノンフィクションで被写体を撮るということは意味がまったく違う。スマホを急に向けて撮ることも非常に暴力的であり、その意味をわかっていない人も増えているとは感じる。
このようなドキュメンタリー作品において作り手がどのくらいその暴力性をわかっているのか、わかった上でどのように解釈しているのか、それは大きな違いとなっていく。
今作ではインタビュアーは佐井大紀監督自身が行っている。そして、寺山たちが1967年に行った際には、その前にも急にインタビュアーが一般の人に質問をして答えたものを集めたドキュメンタリーが放送されており、それで手応えを掴んだ寺山たちが「建国記念日」の前に「日の丸」に関するインタビューを行ったドキュメンタリーを作って放映していたことが作中でも語られる。
今作ではその前の作品でインタビューをした女性に佐井大紀監督が話を聞きに行っており、日の丸でインタビュアーを多くしていた女性について話をしていた。ここでわかるのはカメラに急に撮られることも暴力的であるが、機械的に感情を出さないで人にインタビューするということは限度があり、それも暴力的だったということがわかる。
詳しくは映画で観てほしいが、そのことがわかっていた佐井監督はインタビューを他人には任せないで自分でやることにしており、そのことを話しているのを見て僕は信用できると思った。そこについてしっかり作品内で言及するかどうかは大きなことだと思う。

また、今作では寺山修司の作品だけではなく、ある特撮ヒーローの作品も取り上げている。そこでは沖縄にかかわること、そしてインタビューを受けた人の中にはアイヌの血筋の人もいる。そう、北海道と沖縄という土地について考えることは非常に大事なことで外せない。
「日本人」とはなにかと考えるときに、「外国人」とはなにかという問いがどうしても出てくることになる。そういう事柄についてこの作品では答えを出すのではなく、観客へ問いかけてくる。あなたはどう思うんだ? あんたはなにものなの? 
佐井監督の主観によって彼が見せたいものを見せる、問いたいことを問うための過去と現在の対比があり、観客自身の中に入り込んでくるそれらの問いがあった。その確信犯的なやり方に非常に好感を持ったしおもしろかった。

「日の丸の赤は何を意味していますか?」という質問、途中で赤と白による日本国旗の真ん中の赤が筒のように伸びて行くアニメーションの場面がある。そう赤い筒は空洞である。僕はその赤は太陽であり天皇だと思ってしまうから、そこが空洞であるということはまさに日本そのものだなと思った。
終わってから佐井監督から試写に来た人への挨拶があり、試写室を出てから少しだけお話をさせてもらった。次の作品も今撮っているとのことだったのでそちらも非常にたのしみだし、どんどんおもしろいことやご自身が興味あるところに足を踏み込んでいく人だと思うので、これからも作品を観たい。

帰りはさすがに歩いて帰るにはしんどかったので九段下駅で渋谷駅まで半蔵門線に乗ろうと待っていたら、信号トラブルかなにかで十数分間とかホームで待つことになった。うしろにいたサラリーマンのおっちゃんがなんかぶつくさ文句を言っていたので気になったが、「日の丸の赤は何を意味していますか?」って質問したらどんな顔をするかなって想像していた。
渋谷駅で降りてから歩いて帰ろうとしたら小雨が降っていた。週末にかけて寒くなるらしいが、雪が降ったりするのかもしれないなあ。

本書は、2022年12月16日に回収を決定し、12月18日に概要を自社HPにて掲載いたしましたが、それぞれの対応決定につきましては、弊社判断で行い、樋口氏に事前に報告や確認をしておりませんでした。自社HPでの掲載内容では、説明が足りない面が多く、さまざまな憶測が発生し、樋口氏に多大なるご迷惑をお掛けしましたことを改めてお詫び申し上げます。

『中野正彦の昭和九十二年』回収について

イースト・プレスから樋口毅宏著『中野正彦の昭和九十二年』についてのコメントが出ていたが、今回の対応に関して著者に事前に報告や確認してないっていう時点でまるでダメだし、お話にならない、本当になにやってんだろうね。著者のことなんかどうでもいいですって言っているようなもんだけど、出版社として大丈夫か、それ以前にこの文章を読んでも今回の回収における責任の所在もなんらはっきりしていないし、ただ会社の信頼を失うだけの誰に対してのお詫びなのかわからない文章。

Creepy Nuts、2023年3月をもってオールナイトニッポン卒業を発表「このラジオがなかったら今の俺らは絶対いない」 

今日起きてから最初にニュースで見たのはこの話題だった。そっか、クリーピー三月まででオールナイトニッポン卒業か、残念だけどしょうがないなって放送を聞いたら思った。前にやっていた菅田将暉の後を引き継いだわけだけど、音楽活動をしっかりやっていきたいという話はよくわかるものだった。
菅田将暉クリーピー三四郎の絡みが非常にたのしかったし、コロナになってからradikoでラジオを聴くようになってからクリーピーもラジオを聴くことで興味を持って音源も聴くようになったので残念なのは残念、さびしいね。
三月の「東京 03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館」が元々放送作家のオークラさんの発言がきっかけで、オールナイトニッポンで発表されたものだから、これがCreepy Nutsオールナイトニッポン関連の最後のイベントということになるのかもしれない。

三月末までは今のラインナップで四月からの改変で誰がCreepy Nutsのあとに月曜第一部をやることになるのか。佐久間さんが昇格するか三四郎が再び一部に返り咲くという可能性も浮かんだけど、二部で今の温度感でずっとやってくれたほうがリスナーとしては嬉しい気もする。
わりとマヂカルラブリーが昇格するんじゃないかっていう人もSNSには多いけど、ネームバリューや知名度とかからするとやっぱりそうかなと思ったり。でも、今は月曜日がCreepy Nuts、火曜日が星野源、水曜日が乃木坂46(久保史緒里)、木曜日がナインティナイン、金曜日が霜降り明星、土曜日がオードリーだから、マヂラブが月曜日になると芸人が四組になってしまうとちょっとバランスは悪そうな、と思うと裏方の星である佐久間宣行さんという気もしなくがないが、どうなるんだろう。佐久間さんが月曜日になっちゃうと裏のTBSラジオのJUNKは伊集院光さんということを考えると、ずっと聴いてきたラジオパーソナリティーの裏はやらないかなって気も。
Creepy Nutsのあとにやっているフワちゃんが昇格っていうのはおもしろそうだけど、ダメかな。今回の放送も卒業を発表したあとにフワちゃんがやっていたけど、クリーピーのリスナーを労う発言をしていたり、すごく優しいというか根がいい人なんだなってわかるものだった。

Creepy Nuts / よふかしのうた【MV】 

 

1月18日

朝晩とリモートワークで仕事。昼休憩の時に駅前のTSUTAYAで野﨑まど著『タイタン』文庫版を購入。単行本で出た時に気になったが読まなかったのでこの機会に。
単行本の時の装幀デザインのほうがAI感は出ていたようには思えるのだが、文庫版はかなりデザインが違う方向に舵を切っている。

作業中はいつものようにradikoで深夜放送のラジオを聴いていた。『星野源オールナイトニッポン』で55周年記念のジングルで未発表だったオードリー若林さんとのコラボ曲を発表していた。

リリックにオールナイトニッポンの歴史を詰め込んだ粋なものとなっていた。三月で卒業し、デビュー前から『オードリーのオールナイトニッポン』のリスナーだったCreepy Nutsの松永とR-指定の名前が入っているのも今回の状況もあって感慨深い。

Tシャツをめくるシティボーイ 第10回  同調圧力の時刻表・その2 / 文:高畑鍬名(QTV)

パン生地君の連載の最新回。歌人穂村弘さんのエッセイから前に取り扱っていた『脱オタクファッションガイド』が改良版だったことに気づいたという話はおもしろいし、よく気付いたよなあ。
機動戦士ガンダムX』と『機動戦士ガンダムW』という一年違いの作品におけるシャツのタックインとタックアウトの違い。そして『男はつらいよ』シリーズにおける満男のファッションの変化など文化として漫画やアニメや映画における90年代のタックイン&タックアウトの変容を資料をもとに検証していた。
スタイリストの伊賀大介さんなど映画やドラマやファッション誌などでスタイリングを長くしている人にもぜひ話を聞いてもらったらおもしろそうだなと思う。スタイリストの人たちが一番早くファッションの変化を感じ取っているはずだし、その変化の理由とか流れも知っているんじゃないかなって。

 

1月19日
起きてから散歩がてら渋谷まで歩いて丸善ジュンク堂書店渋谷店や帰りに代官山蔦屋書店に寄って本を見る。家に帰って昼ごはんを食べて洗濯をしてから、読みかけだった小川哲著『地図と拳』の続きを読む。どう考えてもこれが今日発表の直木賞受賞作になると思う。
『地図と拳』は史実と虚実(創作)が多層的に積み重なり、混ざり合っている素晴らしい小説だと思う。現実ではポスト・トゥルース以後の世界であり、歴史修正主義などの問題があるから、そのカウンターのように読める。それらにはこうであってほしかったという願望やある種のロマンティシズムみたいなものが孕まれている。『地図と拳』は構造的に書くことでそれらを廃していながら、多層的な時間を描いたエンタメ小説になっていた。


十六時少し前にトワイライライトに行って装幀から気になっていたリチャード・ブローティガン著/中上哲夫翻訳『ここに素敵なものがある』を購入。店主の熊谷さんと今日の直木賞芥川賞どうなるだろうねとちょっと立ち話を。
ニコラがオープンしたので下の二階へ降りてビールとサルシッチャとラルドのクロスティーニを頼んだ。曽根さんが前にも教えてくれたのだが、イタリア産の生ハムなどが輸入できない状況になっており、このサルシッチャとラルドのクロスティーニに使われているラルドも輸入できなくなっているので、今後食べられなくなってしまう。

イノシシの豚熱でイタリア産生ハム輸入停止の事態、現地の状況と根絶計画と管理措置


出来上がって食べている時にその話になった。輸入が復活するとしても四、五年はかかる可能性があるらしく、そこまでの時間かかるとイタリアで生ハムとかラルドを作っている業者の方が先に廃業してしまうかもしれない。あとラルドってあまりそこまで使われるものではないので、輸入もなくなってしまうかもしれない。
コロナのことだけでなく、世界的な経済のことだったりなど複合的に物価はあがっているから、それほど需要のないものは高くなってしまうか、なくなってしまう可能性も高くなってしまう。
曽根さんからある提案をしてもらったので、それが今年の大きな軸になるかもしれない。自分でもまったく想像もしていなかったことだったのでうまく反応できなかったというか、一瞬「え?」と思ったんだけど、うまくいくといいな。

「青山の体の状態もありましたので、クランクインできるか、できないかの瀬戸際でした。すごく有名な方が主演することを快諾してくれたので、スケジュール調整に入ろうとしたら容態が急変したんです。プロデューサーの仙頭武則さんは『最後にスタートを言わせたい』とおっしゃってくださり、遠隔でも青山のいるところと繋げて撮影をするような話までしてくれていました」

青山監督がメガホンをとる予定だった今作は、「話はまだ生きています。監督は青山ではなくなるけれど、脚本は青山。今年、ゆっくり形にしていければいいなと思っています」と現在進行形の企画であると、とよたは明かす。

新作は実話を描くといい、「脚本が壮大で、戦後の復興の感じをロケするとなると、相当な製作費が必要になってくる。別の監督で、どのくらいコストを抑えながらやれるかでしょうね。映画関係の話なんですが、ひとりの人間が成長していく青春映画でもあるし、親子の話でもある。色々な要素が入り込んでいるから映画好きの方々に届けるだけではなく、多くの方に届けるために、ぜひ映画化できたらいいなあと考えているんです」と説明してくれた。

青山真治監督との出会いから別れまで… 妻・とよた真帆が明かす新作映画の存在

青山真治監督が亡くなる前に撮ろうとしていた映画の話などを妻のとよた真帆さんが話している記事。ほんとうに映画ができあがるのを願っている。

芥川賞は井戸川射子著『この世の喜びよ』&佐藤厚志著『荒地の家族』、直木賞は小川哲著『地図と拳』&千早茜著『しろがねの葉』と受賞者が四人だった。『荒地の家族』は気になるから読みたいな。

 

1月20日
朝晩とリモートワークで仕事。夜はシフトが削られていたので二十一時という中途半端な時間で終わった。金曜日の二十一時に仕事終わっても出かける気もしないし、働いた時間もわずかなので大したお金にもならないのでなんというかすごく微妙な気持ちになった。

朝の仕事は来週のインタビュー仕事の準備でずっと小説を読んでいた。シリーズものなので最初のストーリーからその後に展開していく際に、前に解決した謎と残された謎をどう組み合わせて新しい謎や目的を作っているのかなとか考えながら読んでいた。
「終わりなき日常を生きろ」by 宮台真司という時代が九十年代後半にはあり、その後のゼロ年代はまさしくエロPCゲームのフローチャート的な繰り返しの物語がそれを物語っていたように思える。ひとつしかないTRUE ENDを目指すがほかはすべて主人公が死んでしまうや目的が達成できないBAD ENDが訪れ、何度も死んでもコンテニューのたびに生き返った主人公はすべての可能性を試して繰り返される日常の先に向かって行った。そのひとつは『ひぐらしのなく頃に』だったと思う。
今日読んでいた作品も『ひぐらしのなく頃に』に近い要素がいくつかあった。たぶん、九十年代という時代を知っている人は、過ごしてきた人にとって繰り返される日常というモチーフは馴染みが深すぎるのだと思う。その後、東日本大震災が起きて世界は一気に崩壊はしないが徐々に崩壊していくということを体験してしまうと、「終わりなき日常を生きろ」的な繰り返されるモチーフのリアリティは徐々に失われていったように思う。作者はどのことについてはどんなふうに感じているのかは聞いてみたい。

Steve Lacy - Bad Habit (Official Video) 

昨年10月頃、「Bad Habit」のライブ動画が英語圏Twitterで大騒ぎになった。最前列にいる観客は「Bad Habit」のワンフレーズしか歌えず、他のヴァースでシンガロングを促しても沈黙。「TikTokでバズった箇所だけ知ってて、それ以外は興味のない人」が争奪戦となったチケットを入手していることに、ファンはSNS上で怒りとショックを露わにし、音楽メディアもこの出来事を「事件」として大々的に取り上げるなど、TikTokヒットの新たな問題が浮き彫りとなった。

SNS強者たちは「スティーヴ・レイシーが今イケてる」と気づくと、TikTokやインスタなどで「『Bad Habit』生で見た!」みたいな投稿をするためだけに最前列を陣取ってしまう。彼らはコンテクストの上澄みのみを消費しているだけで、アーティストに対するリスペクトは微塵も感じられない。

ここで大事なのは、アーティストにとって何が本当に「良い人気」なのかを再認識することだ。実績も才能も備えたスティーヴ・レイシーのような人が、「TikTokアーティスト」として認知されることで、本当に彼の音楽を愛する人たちがライブに行けなくなるという構造的な問題が生まれつつある。TikTokがアーティストの発掘に大いに貢献していること、新たな音楽がかつてないスピードで生まれるイノベーションの現場になっていること、新たな音楽との出会いの場になっていることが、非常にポジティブな要素であることは間違いない。ただ一方で、このような「アーティスト/曲の表層的な消費」が生まれる原因の一つにもなっており、「音楽の新たな楽しみ方」とどう向き合うべきか考える必要がある。

スティーヴ・レイシーが体現するクィアなZ世代らしさ、TikTokヒットが生み出す新たな問題

仕事中にこの記事を読んだ。スティーヴ・レイシーというアーティストは去年友達に教えてもらったので知っていたが、TikTokでバズっていてこんな状況になっていたのは知らなかった。
消費のされ方とスピードが変わり、かつてのようなアーティストとファンの関係性もSNSと自分を発信する(他者の物語ではなく自分の物語がメインとなった)という文化によって大きく変わってしまっている。こういうものを見ているとバズってしまうのは「ブレイクするのはバカに見つかることだ」と有吉さんがかつて言っていたことを思い出す。しかも、見つかってしまうと一気に骨の髄までしゃぶられてすぎに捨てられてしまう可能性が高くなっている。

boygenius - $20 (official audio) 

こちらもTwitterで見て知ったのだけど、時代が一回りも二回りもしたという感じもするし、こうやって歴史の層が積み重なっていくというのを見ているとも言える。Boygeniusの曲を聴いたらかなりよかったので三月に出るアルバムも期待できそう。

 

1月21日

目が覚めたが寒くて二度寝。起きてからリチャード・ブローティガン著/中上哲夫翻訳『ここに素敵なものがある』の途中から読むのを再開する。ひとつひとつの詩は非常に短いので、最後の訳者かいせつやあとがきのほうがたぶん本文にあたる詩の文字数よりは多いと思う。
ブローティガンの小説だと『アメリカの鱒釣り』『西瓜糖の日々』『芝生の復讐』は前に読んでいて、詩集だと『東京日記』はニコラでだいぶ昔借りて読んでいた。ビート・ジェネレーションを代表する詩人だが、解説にも書かれていたが本国のアメリカよりも日本やフランスの方が読まれていて評価が高いというのもなんとなくわかる気がする。
日本だとやっぱりチャールズ・ブコウスキーがある時期にすごく読まれていたとか、ある種ビート・ジェネレーションやパンクさを感じる詩人や小説家の翻訳がされてある世代にはかなり読まれて影響を与えていると、それがある程度経つとまた取り上げたりすることで世代を超えて読まれていき、忘れられていっている本国アメリカよりも影響力やいろんな世代の読者が存在するようになるのだと思う。おそらくフランスも日本と似ているのではないかと思う。
リチャード・ブローティガンの詩を読んでいるとなんだか寂しがり屋というか、人のことは好きなんだろうけどどこかドライな視線があって、世界や自分を客観視しているような、そういう自分が好きでもあるけど嫌でもあって、それが糞とかののしるような言葉になっているように感じた。とてもミニマルな自分の目の届く範囲の日常を、足元を見ている視線を詩にしてたんじゃないかなって。

十四時から新宿でタロット占いの予約を入れていたので、天気もいいし歩いていくことにして十一時半過ぎに家を出た。一時間半ぐらいで新宿には着く感じだったので、最初は『三四郎オールナイトニッポン0』を聴きながら歩き、着いてからは『バナナマンバナナムーンGOLD』を聴いた。
前者は『Creepy Nutsオールナイトニッポン』が三月末で終わることを最初からずっとイジっていて、愛があるというか同じオールナイトニッポンブランドでやってきた仲間というか同志という感じがあって微笑ましかった。その後は風俗ネームの話に展開していっておもしろかった。後者は日村さんの正月休暇の爆食いの話の続きとスタッフのヤバい話だった。
渋谷で東京百貨店に寄ってMARUZENジュンク堂書店渋谷店で人にプレゼントするようの書籍を一冊購入。月末で東京百貨店が閉店ということもあり、棚も書籍がなくてすっからかんというかスペースができているところもある。ここだけでも渋谷のどこかに移転してくれるとうれしいのだが今の所そのニュースは出ていない。
芥川賞を受賞した佐藤厚史著『荒地の家族』は品切れになっていた。それはこのあと足を運んだ新宿の紀伊国屋書店本店でもそうだった。おそらく受賞するかどうかわからないということもあっただろうし、純文なので最初にそこまで冊数を刷っていない状態で発売したらすぐに芥川賞を受賞したので一気に書店にあったものが売れてしまって棚から消えたパターンなのだろう。


渋谷のNHKのほうから代々木体育館を横目に山手線沿いに原宿へ向かって歩いていく。原宿付近では人がかなり多く、マスクはしている人はさすがに多いけど、コロナによる外出自粛というのは遠い昔なんだと思える賑わいだった。
この春からコロナが5類に移行するというニュースが出ているが、また感染爆発とかするんだろうなとなんとなく思う。その浮いた分の金はアメリカから武器を買うための防衛費に回されるという話も出ているが、たぶんそうなんだろう。
第二次世界大戦で敗戦国になってからずっとアメリカの属国である日本、その政治をずっとしてきた政権与党の自民党アメリカに逆らうことはない。阿部和重さんの「神町トリロジー」は小説であり、フィクションだが日米の関係性をずっと描いてきているから、もっと読まれればいいのにといつも思う。安倍政権や自民党の多くが統一教会の犬であった事実以前に、そもそも日本はアメリカの犬であり、その属国であり自分たちの意志で決めることは今までずっとしてきていない。

阿部和重著『オーガ(ニ)ズム』文庫版上下巻

神町トリロジー」完結篇の『オーガ(ニ)ズム』が文庫版になって二月に出る。
最初に単行本が出た時に読んでいるけど、文庫版で少しでも多くの人に読まれてほしい。僕は著者にお金を払いたいので文庫版も買うけど、解説とかは佐々木敦さんとかかなあ、単行本刊行時にインタビューしていたからそれがそのまま掲載というのもありえそう。

原宿駅を過ぎて線路沿いに千駄ヶ谷方面へ歩いていく。以前にも何度も歩いたことのある場所なので、リトルモアはこの辺だなとか思っていると見かけたりした。副都心線北参道駅あたりで明治通りに出てから、そのままその通りを北上すると新宿高島屋が見えてくる。
タロット占いの場所はその付近だが、時間に余裕をもちまくって家を出たので十三時ぐらいには着いた。そのまま時間つぶしで紀伊国屋書店方面に歩いていって、二階の小説コーナーを見たりしていた。その後は新宿高島屋を中心にその周辺をぐるぐるまわるようにして時間を潰していた。十四時に占ってもらう場所(とあるマンションの一室)に行ってピンポーンとチャイムを鳴らして部屋に入った。

前に来たのが二〇二〇年九月で二年四ヶ月ぶりぐらいだった。二〇二〇年の前後五年の運勢を占ったものをその前の二〇一九年の年末にもらっていた。それで去年が断捨離の年でいろんなものと縁が切れたりするのでエゴや人間関係を手放すことになり、人間関係を再構築する年と書かれていたのだけど、それがかなり当たっていた。
僕からではなく、向こう側の都合やもろもろで続いていたものが終わったりしていたので、二〇二三年は嫌でも新しく種を蒔いたりしないといけないし、そもそもこれまでとは人間関係が変わるだろうなとは思っていた。こういう時はタロット占いで占ってもらうことも楽しみではあるのだが、そのことを踏まえての話を聞きたいし、自分が考えていることを話すことで気持ちのデトックスみたいなことをしたいなって。

例えて言うと、マッサージや整骨院とか自分の体を預けている(相手に殺意があればすぐに殺される状況)とその信頼感もあってか、他の人には話さないことを話すということがあると思う。体に触れられるのはある種の信頼感につながると思う。それもあってか人はマッサージや整骨院とか歯医者でもいいんだけど、そういう場所で本音を吐露したりする。
風俗もそれに近いものだと思っていて、いきなり裸で向き合うとそれが終わったあとには隠すものはゼロではないけど、知り合いにでも言っていないこととか油断とは違うんだろうけど、言えてしまうことがある。そういう演技というかプレイにも見えるかもしれないが、人間というのは体を曝け出した相手には通常の知り合いや家族とかにも言えないことをさらりと言えてしまうんじゃないかなって。
それは占いも実は同じで、裸を晒していないし、触られていないけど、心の部分で自分のことを占ってもらうし相談とかすることで中身を曝け出しているので本音が言いやすいんだと思う。占いに関しては女性の方が多いと思うけど、曝け出して本音を言うことでデトックスになっている部分がかなりあると思っている。

二年四ヶ月ぶりの美音さんのタロット占いは四十五分でお願いしていたので、最初は今年の運勢と今やっている仕事ってどうなるかということから聞いた。以前にも見てもらっているので仕事関係とかは話していると思い出してもらったりしたのもあって話がスムーズに進んだのもよかった。
元々は今働いているWebサイトスタッフに呼んでくれた友人が占いに行って当たるという話から興味を持ってここに半年とか一年に一回ぐらい足を運ぶようになった。もちろん人間だから合う合わないもあるけど、僕はここの占い師さんの話し方とかも落ち着けるというのが足を運んでいる一番大きい理由かもしれない。こういう仕事だと相手に波長を合わせるという能力も高いのかもしれないけど。

去年は終わっていく年だったから今年はしっかり種まきをしておくと三年後、二〇二五年に芽が出たり、大きな成果になるよと言われた。本業というか自分が書きたいものを今年から本腰入れて書くしかないとも言われて、自分でも元旦に決めていたことだったので一安心。実際誰かにそう言って欲しいみたいな気持ちもあったことだった。
占いが当たる当たらないというよりも占いはある種の統計学だったりする部分はあるから、言われたことを当事者がどのように捉えるかでだいぶ変わる部分もある。
占いに依存しすぎてしまうと芸能人とか有名人で時にある洗脳みたいな話にもなってしまうし、占う側に悪意や思惑があれば簡単に人を誘導もできるとは思う。かつての王という絶対権力者に進言できたのは占い師だったわけで、それゆえに占い師は王が気に食わないことを言うと殺されたり、邪魔者にもされる存在だった。そういう意味でも多少の距離感は残していないといけないとは思うし、こういう時は気持ちとしては主観と客観が半々ぐらいで聞くのがいいとは思っているところはある。

僕の誕生日は春分の日の翌日なのだが、春分の日前後に新しい小説をスタートさせるといいよと言われた。今書いているものとは違って、その日前後から書き始めるというのではなく作品を始めるということ、資料を集めたりこういうものを書きたいと決めると長く向き合うことになるものになるらしい。その時期になにか書いてみたい作品のアイデアとかイメージが沸くのかもしれない。そうなったらいい。
あと引っ越しも勧められたんだが、今年は部屋の更新はするけど引っ越しするお金もないんですよって話をしたらカーテンとかベッドシーツみたいな面積の大きなものを変えるのもいいよって言われた。ずっとワンルームに住んでいるので部屋の中で面積の大きいものってカーテンやベッドシーツというのは確かで、誕生日ぐらいになったら変えてみようと思った。気分転換にもなるし、自分で変える時期を決めちゃえば、その時からのモードチェンジの始まりも自分で流れが作れそうだなって。

あとは自分の今の働いている会社のことだったり、ほかの仕事のことも聞いてみた。ライターの仕事で言えば、本当は毒づきたいのにやってないからそれができるところとか探してみればと言われた。ほかの執筆関係だと今いろいろはじまりそうないくつかのことについても聞いてみると、いろいろと自分の考えていることと一致していたので、このまま進めよう。
恋愛のことってほとんど聞かなかったけど、それも最後に聞いたら二〇二五年の形になって以降だし、今興味ないでしょって言われて、僕は今後なにか形になってからでないと恋愛もしないし興味が出ないらしい。ということは今年来年で種蒔いて芽が出て花が咲かないと僕は何も得ることはないっていう恐ろしいことになるって話ではある。
四十五分はあっという間な気もするけど、話を聞いている時はゆっくりな感じでもあった。その場にいる時はなんだかおだやかで早くも遅くもない時間が流れていた気がする。終わったあとに占いってどのくらいの頻度でくるもんなんですかって聞いたら、来たい時にタイミングが合う時でいいよって言われた。だから、次はいつになるかはわからないけど、二〇二五年までには一回は行こうかなって思った。

夕方から仕事だったので帰りは副都心線で渋谷駅まで乗って帰って、そこから道玄坂をのぼって246沿いを歩いて帰った。
土曜日ということもあるけど、人がどこもいっぱいでコロナパンデミックになってからだいぶ時間も経ったこともあるんだろうけど、みんな油断しすぎじゃないってぐらい以前と近い状態に戻ってきている。これからどうなるんだろうと不安にはなる。
僕はなんとか生き延びて種蒔きをして水と肥料をやりながら自分の作品が形になるようにしていくしかない。アドバイスでほんとうは情緒的なものを書きたいんだろうけどそれがあまりできてないから、そのために恋愛じゃなくても立場や環境が違う人には会ったほうがいいよって言われたんだけど、色々複雑ではある。でも、SNSをやったり見る回数が減っていくのと反比例してリアルに人とは会ってお茶したり話したりをやりたいんだよな、たぶんコロナの反動もあるだろうけど。

 

1月22日
一時間ちょっと散歩がてらradikoで『オードリーのオールナイトニッポン』を聴きながら歩く。
帰りにスーパーで惣菜を買ってお昼を食べてから、昨日占いでも言われたことも後押しになって、お話をいただいている件を前に進めるためのメールを一つ書いて送信。
このあとどう転がるのかはわからないが、ずっと凪だったものに変化が、水面に小石を投げて波紋ができるようなことになれば、それはそれでいい。あとはメールした相手側からの返事を待てばいい。その返事次第でどう動くかはある程度は考えているのでこちらとして問題は今の所ない。

「いいですか、日本の仕組みについて、この点を理解する必要がある」。とある高名な学者が、私にこう言った。

「武士は1868年に刀を手放し、髷(まげ)を落とし、西洋の服を着て、霞ケ関の役所にぞろぞろと入っていった。そして、今でもそこに居座っている」

1868年の日本では、欧米列強によって中国と同じ目に遭うのを恐れた改革派が、徳川幕府を倒した。それ以降、日本は急速な工業化へと邁進(まいしん)することになった。

しかし、この明治維新は、フランス革命におけるバスティーユ陥落とは全く異なる。明治維新は、エリート層によるクーデターだった。1945年に2度目の大転換が訪れても、日本の「名家」はそのまま残った。圧倒的に男性中心のこの国の支配層は、日本は特別だという確信とナショナリズムに彩られている。第2次世界大戦において、日本は加害者ではなく被害者だったのだと、この支配層は信じている。

たとえば、殺害された安倍晋三元首相は元外相の息子で、岸信介元首相の孫だった。岸氏は戦時下に閣僚を務め、戦犯容疑者としてアメリカに逮捕された。それでも絞首刑は免れ、1950年代半ばに自由民主党の結党に参加した。この自由民主党がそれ以来、日本を支配し続けている。

日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている BBC東京特派員が振り返る

明治維新ってエリート層のクーデターだったし、その末裔がずっと政治の中枢にいるし、第二次世界大戦においての戦犯であるにもかかわらず、その血筋がいまだに権力を持っているというのはただの事実。海外から日本にやってきた特派員の人がニュートラルな意見を書いているがこのことすら多くの人は気づいていないし、知ることもない。もちろん、知らせないようにしている支配層がいるというと陰謀論みたいだが、自分がそちら側だったらそうするでしょって話。
だからサッカーはそもそも嫌いだけど、日本代表をサムライブルーとか言っているのはほんとうにバカみたいだなって思うし本来の意味を考えろって思うし、WBSCの野球でもそうだけど、侍ジャパンって呼び方もバカみたいだなって思う。侍って支配階級であり、たいていのやつの先祖は士農工商の士以外だしさ、そのエリート階級が明治維新というクーデターをして未だにそれが続いているって思ったら、そんな名前つけられないのになあ。
まあ、みんなそういうことに興味も関心もなくて、サッカーでも野球でも応援できるものが欲しいし、それを誇りみたいに思えて感動できればいいんだろう。だから、僕はまったくそういうもの(特に日本代表とかのもの)に興味が湧かない。
エリート層によるクーデーターによって近代化しようとした明治以降の日本ではフランスや韓国では起きた市民による革命は一度も成し遂げられたことがなく、第二次世界大戦以後の日米という関係性は市民にはさほど関係がないように見えるのに政治上ではずっと続いていて日本はアメリカの属国として従属し続けている。だから、この国はバカみたいに単純に見えるのに見えないところで複雑さを抱えている。その複雑さは日本に住んでいるとわからなくなってしまう。

 

1月23日
仕事は今週あるインタビューのために資料読みをずっとしていた。先日までは小説を読んでいて、今日はそれを元にコミカライズした漫画だったが、二十二巻ほどあったが小説で概要はわかっているのもあって読み始めたらわりと進むのが早かっや。両方読むとどちらのよさもわかるし、物語が相互に補強されるような感じもある。
小説では時系列が刊行順ではわかりにくいところがあるものの、漫画ではその流れが整理されているのでわかりやすくもあった。文章で読んでいるとどうしても空間把握能力がある程度ないとわかりにくい部分はあるので、執筆時にそれぞれの登場人物はその時どこにいるかというタイムライン的なものなどを作っていたりしているのだろう。
基本的には空間と時間の制限があるパニックものだと作る時にはある種のパズル的なものを作っている時には感じているのかなとも思ったりした。

昼間に少し買い物がてら家を出た。明日が十年に一度の最強寒波が到来で日本海側大雪や暴風雪、太平洋側でも積雪を要警戒という天気予報が出ているが、確かに肌寒いし風がこの数日と比べてもかなり冷たいものだった。
大雪が降って積もってしまうと交通機関がマヒしたりといろいろな弊害が出てしまう可能性があるが、大きな事故とかが起きないでほしいなと思う。あと今週中にインタビューさせてもらう人は関東在住ではなく、東京に仕事かなにかで来ているタイミングで話を聞かせてもらうことになっているのだが、大雪が降って交通機関とかアウトになるといろいろとバラしになる可能性も出てくる。その時はその時の対応をするしかないのだが、どうなるんだろう。無事に実行できればいいに越したことはないが。

——Q/N/Kが動き出した直接のきっかけは何だったんですか?

菊地:まずはコロナですね。あらゆるミュージシャン活動が緩慢化するなかで、「そろそろやろうか」と。僕は良くも悪くも、ですが、世相とか時代とがっつりリンクするところがあって、コロナの直前夜である2018年に『粋な夜電波』(菊地がパーソナリティーを務めていたラジオ番組『菊地成孔の粋な夜電波』)とTABOOレーベルが大企業に止められて(笑)、今から思えば、コロナに向けて待機した格好になるんですが、それがあくまで僕の中では、ですが、一通り終わって、DC/PRGも解散して、よっしゃあまたいろいろ始めよう、と思ったら戦争が始まって。後から出てくる「ラディカルな意志のスタイルズ」の初演の前夜に(ジャン=リュック・)ゴダールが亡くなって。世の中に動かされてるところがあります。

——なるほど、松丸契さんとの出会いが起点だったんですね。昨年9月に最初のライブ(『反解釈0』)、11月に2度目のライブ(『反解釈1』)が行われましたが、音源リリースの予定は?

菊地:今のところはないです。まあ、名は体を表すというか、ラディカリズムを表明しているので(笑)。曲名すらアナウンスしてないですね。アルバムを聴き、曲の内容がわかったうえでライブに来るという情報の共有をすべてはぎ取ろうと。「この曲、地味に好きなんだよね」「キラーチューン来たー」「ライブのがやっぱすげえ」みたいな状態を、起こさせない。という。消費の快感を変える一つの方法だと思っています。自作解説もしません。僕はこれまで自分の音楽について語り続けてきたし、「菊地の音楽をいちばん上手く語れるのは菊地だ」と言われたりしてきましたが、ラディカルな意志のスタイルズに関しては、自己言及は一切しないつもりです。

——DC/PRGとのつながりも感じていましたが、まったくアプローチが異なるバンドなんですね。

菊地:転換ですよね。フレッシュネスの津波というか。結局、僕が今やっていることは、最初に言ったように、ポストコロナ、ポスト夜電波、ポストTABOOレーベルなんです。男性アーティストをプロデュースするのも、自分の音楽に言及しないのも、コロナ後の僕の自然体ですし、何せ、今年は還暦になるので。自分でも信じられませんが(笑)。老いの自覚も含め、あらゆることが全部フレッシュ過ぎて(笑)。

菊地成孔が語り尽くす、Q/N/Kとオーニソロジーの同時制作 ラディカルな意志のスタイルズ始動の経緯も

大恐慌のラジオデイズ」でも話をしていたリアルサウンドでのインタビュー記事がアップされていた。
Q/N/KはMVとか「大恐慌のラジオデイズ」で流れた曲を聴いてはいるのだが、まだライブでは観れてはいない。オーニソロジーの2ndアルバム『食卓』リリース記念ライブは予約しているので三十一日に観に行く。場所が代官山の「晴れたら空に豆まいて」というイベントスペースで、名前も場所も知ってるんだけど一度も行ったことがないのでどういう雰囲気なのか楽しみではある。

 

1月24日

年末に届いて少しだけ読んでいた「メフィスト2022 WINTER Special Issue」号に収録されている須藤古都離著『ゴリラ裁判の日』の続きを読んでいる。
単行本としての発売は少し先の3月15日。Amazonを見ると概要が出ていた。

カメルーンで生まれたニシローランドゴリラ、名前はローズ。メス、というよりも女性といった方がいいだろう。ローズは人間に匹敵する知能を持ち、言葉を理解する。手話を使って人間と「会話」もできる。カメルーンで、オスゴリラと恋もし、破れる。厳しい自然の掟に巻き込まれ、大切な人も失う。運命に導かれ、ローズはアメリカの動物園で暮らすようになった。政治的なかけひきがいろいろあったようだが、ローズは意に介さない。動物園で出会ったゴリラと愛を育み、夫婦の関係にもなる。順風満帆のはずだった――。
その夫が、檻に侵入した人間の子どもを助けるためという理由で、銃で殺されてしまう。なぜ? どうして麻酔銃を使わなかったの? 人間の命を救うために、ゴリラは殺しもてもいいの? だめだ、どうしても許せない! ローズは、夫のために、自分のために、正義のために、人間に対して、裁判で闘いを挑む! アメリカで激しい議論をまきおこした「ハランベ事件」をモチーフとして生み出された感動巨編。第64回メフィスト賞受賞作。

「ハランベ事件」とは↓
米動物園ゴリラ射殺、責任は母親にあるのか

久しぶりに小説を読んでいて笑ってしまった。中盤でいかにもアメリカが舞台らしい場面があって、その件はそれが好きにとってはやりたかったことのひとつだろうし、コントにも見える。いや、よくよく考えてみたらこの小説は『ダウンタウンのごっつええ感じ』の「トカゲのおっさん」に通じているものがある。
「トカゲのおっさん」はおじさんの哀愁を笑う(『働くおっさん劇場』に繋がっていく)という松本人志的なものだったが、『ゴリラ裁判の日』では主人公をゴリラのローズにしていることで、男性優位社会における女性の尊厳や自由を描きながら、そもそも人間と動物の違いとは、人権とはなに?というテーマを重ねている。そして、メインテーマに正義と法律の問題が入っているので非常に現代的なモチーフになっていた。
また、このところ映画やドラマや小説でもよく出てくる「手話」が今作でも重要なものとなっていて、ローズは手話(とそれを認識して言葉を話す装置を使って)人間と会話をすることで意思疎通ができる。
やっぱりこの数年での「ナラティブ」という言葉が使われるようになって、「語り」の概念の幅が広がった(意識されるようになった)ことでボディーランゲージや手話というものも創作物でもよく見かけるようになってきたということなのだろうか。
そう考えると『ゴリラ裁判の日』という作品はいろんな要素から非常に今日的なテーマやモチーフを孕んでいるけど、どう考えても「メフィスト賞」以外の他の新人賞で送るところはないとも思える小説でもある。

演劇モデル・長井短が見た『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』(東京都現代美術館)。宙ぶらりんのまま世界を肯定する

友人が観に行っていてとても絶賛していた『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』についての記事が出ていた。
長井さんが俳優の仕事の現場で、一個人として生活の中で感じたことも言葉にされていたのも素晴らしいと思うし、展示の詳細も書かれていたので早めに行かねばという思いを新たにした。

くるり - ばらの花 

「ばらの花」は、2001年1月24日にシングルで発売された楽曲で、これまで様々なアーティストによるカバーやリミックス音源が発表されていたり、教育芸術社が発行する「令和5年度 高等学校用教科書 音楽Ⅱ 高校生の音楽2」への掲載が決定しているなど、くるりの代表曲として語り継がれている1曲です。

Music Videoは福島県いわき市の海岸で撮影され、岸田繁佐内正史が監督を務めています。これまでYouTubeではショート尺が公開されていましたが、この度、1月24日のリリース日に合わせてフルサイズが公開となりましたので、ぜひご覧ください。(くるりオフィシャルサイトより)

何度もくるりのライブで聞いている曲だけど、MVはそっか佐内さんが手掛けていたのかと思いながら映像を見ていると知らないうちに口ずさんでしまう。そしてなぜだか涙が出そうになる。
この曲を一緒に口ずさめる、同じような気持ちになる人と過ごしたいなと思いながら夕方からの仕事をしていた。途中でコンビニに買い物に行ったら強烈な寒波による強くて冷たい風が僕たちの町で暴れるように遊んでいて、人はほとんど見かけなかった。

 

1月25日

今年になって初の出社したのはインタビューのためだったけど、しかし、外は寒い。九段下駅で降りて少し歩いてパレスサイドビルについたのはお昼前。そこから色々と準備をして十四時から作家さんにお話を聞かせてもらう。いつもお願いしているフォトグラファーさんにも来てもらっていたのでインタビュー中の撮影と終わってから何枚か撮ってもらった。
インタビューをさせてもらった作家さんがいろいろと話してくれる方で話も弾んだし、横道とかにも逸れたりもしながらいろいろ思っている本音に近いものも聞かせてもらえてよかった。あとは文字起こしして横道に逸れたものなどもいくつか本筋に取り込んで構成原稿を作ればかなりおもしろくなりそうだなって思う。
写真は会社の入り口のスペースに置いてあった筒井康隆著『残像には口紅を』の生原稿。こういうものがあったことも今日初めて知ったけど、なんだろう譲ってもらったって感じもしないけど、どういう経緯なんだろう。右上の小さな紙に書かれてそうだけど、読んでいる暇はなかった。

仕事が終わってからニコラに寄ってきんかんといよかんマスカルポーネのタルトとあるヴァーブレンドをいただく。去年の同じ時期にもいただいているが、季節のくだものを食べるというのは、季節の食材を食べるというのはとても気持ちがいい。もちろん、美味しい。
カウンターは僕だけだったので曽根さんと由賀さんといろんなことを話せて、それもよかった。人間というか個人事業主やお店って義理って大切だよねって、不義理をしないようにしていかないとヤバいよって話とかをしていた。

「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2023年02月号が公開されました。2月は『すべてうまくいきますように』『Sin Clock』『別れる決心』『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』を取り上げました。

Tシャツをめくるシティボーイ。
第11回は「電車男とは何だったのか」。

1990年代にはジーンズの外に出していたTシャツの裾を、
2020年代にはジーンズの中へ「イン」するようになった。
30年間で起きた若者たちのTシャツの裾の変化の真ん中に『電車男』の2005年があること。

この重要性を繰り返してきましたが、肝心の『電車男』の内容、
登場するオタクファッションそのものに触れておりませんでした。
2005年に社会現象を巻き起こしたTシャツの裾の表現を、しっかりと見ていければ。

今回は『電車男』を軸に、オタクファッションとは何か、
さらにいえばTシャツの裾にとってオタクファッションとは何だったのか考えていきます。

まずは、この30年間に若者たちの間で生まれた同調圧力の流れをもう一度。
1991年、Tシャツの裾出しは「ダラシない」。
2005年、Tシャツの裾を入れるのは「みっともない」。
2021年、Tシャツの裾を出してると「笑われる」。

それを出そうが、入れようが、
流行現象になった瞬間から同調圧力を生み出すTシャツの裾。

脱オタクファッションの必要性を世に知らしめた『電車男』では、
どのようなファッション指南によって脱オタクをしていくのでしょうか。
そもそも、主人公たちは脱オタクするのでしょうか。

じつは、映画版ドラマ版ともに、
タックインをやめるよう呼びかけるシーンは出てきません。
むしろ映画版ではTシャツはずっとタックアウトされています。
ドラマ版でも、家着ではTシャツはずっとタックアウトされているのです。

Tシャツをめくるシティボーイ 第11回  電車男とは何だったのか 前編 / 文:高畑鍬名(QTV)

友人パン生地くんの連載最新回。『電車男』の映画とドラマで描かれたシャツの「タックインorタックアウト」についての深掘りと考察。いい視点だなと思うし、時間が経っているからこその文化論にもなっている。

水道橋博士さんが久しぶりにツイートされていた。まずは心身とも少しでも良くなってほしい。このツイートに対してたくさんの人たちからあたたかい言葉がいっぱいあって、博士さんも勇気づけられたんじゃないかな。博士さんは正義感も強い人だから声に応えようとして無理しないでほしいなとも思った。

『ラヴィット』に梅田サイファーが登場して「キングオブコント2022」のオープニングを飾った曲のリアレンジ版の『KING』を披露。
見取り図の盛山さんとR-指定さんが並んだり、盛山さんの席にR-指定さんが座るチェンジなどバラエティらしい展開もあってほんとよかった。こういうことができるのが『ラヴィット』の強さだしおもしろさになっている。

 

1月26日
普段は休みにしている木曜日、昨日のインタビューの文字起こしをするためにリモートで作業(出勤)をしていた。自分がインタビュアーだったから、覚えてはいるんだけど、細かい部分とか自分が話した時の温度感とか相槌の入れ方とか聞いていると反省するところが多々あるけど、創作に関しては興味深い話があってうまく構成できたらいい記事になりそうな気がする。

チャック・パラニューク著/池田真紀子訳『インヴェンション・オブ・サウンド
「全世界の人々が同時に発する悲鳴」の録音を目指すハリウッドの音響技師ミッツィ、児童ポルノサイトで行方不明の娘を探し続けるフォスター。2人の狂妄が陰謀の国アメリカに最悪の事件を起こす――(ハヤカワオンラインより)

休憩時間に渋谷まで行って東急百貨店本店MARUZENジュンク堂書店で『ファイト・クラブ』の著者であるチャック・パラニュークの新刊『インヴェンション・オブ・サウンド』(18年ぶりの新刊邦訳作)を購入。

文房具売り場とかは31日の東急百貨店の閉店に合わせてセールをしていてかなりスカスカになっていたし、お客さんも平日のわりにはかなり多かった。
書籍の棚も徐々にスペースが広がっていて、並んでいる棚の左側は何も置かれていなくて右側に少なくなったものがまとめられている感じになっていた。
『インヴェンション・オブ・サウンド』と一緒に芥川賞を受賞した『荒地の家族』も買おうかなと思ったんだけど、今じゃなくてもいいかなって思ってしまった。このままMARUZENジュンク堂書店渋谷店での最後の買い物は『インヴェンション・オブ・サウンド』にはならないだろうし、最終日は休みだからたぶん東急百貨店には足を運ぶと思う。本を買ってすぐに帰ってからまた文字起こしの続きをやった。

渋谷へ行って帰る間はradikoで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴いていたんだけど、そこで佐久間さんが『大竹伸朗展』の話をしていて、そういえば行こうと思ったままで行ってなかった。できるだけ早めに行こうと思ってサイトを確認したら、2月5日までだった。今月末に行ってその帰りに東急百貨店に寄る感じになるんだろうなとスケジュールを脳内で立てた。 

世界最高峰のラッパー、KENDRICK LAMARがヘッドライナーに決定!


Kendrick Lamar - N95



Twitterのタイムラインで音楽好きがかなり反応していたが、サマソニにケンドリック・ラマーがヘッドライナーに決定したことが発表されていた。ああ、たしかにケンドリック・ラマーは観たい。
でも、去年のリバティーンズの開催一週間前のキャンセルとか忘れてないし、もちろんバンド側にもあるけど主催者のクリエイティブマンに不信感が残っているのもあるし、フェスには行きたくはないし、とか考えるとサマソニには行かないかな。
というかケンドリック・ラマーでワンマンやってくれたらチケ代一万とかではもう無理だろうけど、二万ぐらいなら行くしさ、単純にフェスってものが嫌なんだよなあ。行き帰りもめんどくさいし、ほんとうに金があってケンドリック・ラマーのパフォーマンスが観たいならアメリカ行けばいいって話でもあって、こんな時代の金ない日本によく来てくれるよなとは思うんだけど、やっぱりサマソニに行きたいって思えない。

 

1月27日
寝るまで『インヴェンション・オブ・サウンド』を読み進めた。第1章まで読み終わったので半分とは行かないが五分の三ほど終わっているが、メインの二人はまだ出会っていない。一人からもう一人の存在を認識というか見えているという描写はあるが関わってはおらず、それぞれの話が展開している。
娘がいなくなった男のフォスターはダークウェブなどで非合法のポルノや児童虐待のサイトを見て、いなくなった娘を見つけるヒントを得ようとしている。ただ、ダークウェブが出てくるがそこに関しての詳しい話はなくて、それを使うことで非合法なものにアクセスできるという使い方になっていた。
もう一人のハリウッドの音響技師である女性のミッツィは「音」を取るためにすでに法律や常識の向こう側にすでに行っている。また、肉体破壊や暴力的なセックスなどの描写に関してはこちらが担っている感じになっていた。フォスターのいなくなった娘がミッツィというオチはないだろうし、次元を飛び越えていたとかもなさそう。第2章でフォスターとミッツィが出会ってからアメリカ中の人々を殺すためになにかを仕掛けたりしそうな雰囲気ではある。『ファイト・クラブ』のラストシーンも崩壊というか終わりを描いていたので、その流れの20年代版になるのかなと予想。

(ぜひ遊びに来てください。あなたがどんなに、祝祭と分析に飢えていて、盛り上がり、萌え狂うことと、情報を整理する快楽に身を奪われているか、僕は知っています。あなたは悪くない。しかし、だからこその、またしても、音楽は必要なのです。あなたに「余裕」が生じたので、余裕のある音楽が聴けるようになるのではありません。「余裕のある、遊んでいるような、しかし本当は最高品質な音楽、それがあなたの中に「余裕」を生じさせるのであります。こんなん一番いいたくないけど、「ミラーボールズ」とかもやっちゃうよーん笑)

菊地成孔の日記 2023年1月27日午前3時記す> 

オーニソロジーのライブは予約をしているのでたのしみではあるが、チケットがさほど捌けていないらしい。『ミラーボールズ』やっちゃうんだって思うんだけど、菊地さんの活動を追いかけている人たちからするとこの曲やるなら足を運ぼうという人は少なからずいるだろうな。

仕事の前にNHKオンデマンドでドラマ『大奥』第三話を見る。漫画の原作は読んでいないが、ほんとうに男女逆転「大奥」だが設定や人物配置がうまくて、今回のドラマは役者陣がハマりにハマっているというのがちょっと強すぎる。
八代将軍徳川吉宗を演じている冨永愛、三代将軍徳川家光を演じている堀田真由とメインがほんとうに素晴らしい存在感で、その相手役の男性の俳優さんたちももちろんいいのだけど、彼女たちをキャスティングしたことがまずドラマを作っている人たちが手応えを感じたのだろうし、民放だとこの二人をメインにするかというとネームバリューや実力があっても、もっと有名な女優にスポンサーとか利害関係でせざるを得なかったのではないか、と思ってしまう。NHKの強さがそういう部分にもしっかりでているからより見応えのあるドラマになっているように思える。

続いてParaviで『Get Ready!』を一話と二話を見た。演出/監督が堤幸彦さん、プロデューサーのひとりが植田博樹さんという僕ら世代としては『ケイゾク』から始まるいろんな作品で組んでこられた二人が座組に入っているドラマ。
お二人が過去にやった医療ものドラマだと『ブラック・ジャック』『ハンドク!!!』があったけど、今回の『Get Ready!』は集大成的なものも感じるようなストーリ展開になっているようにも見える。
プロデューサーの一人には先日『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』の試写でお会いした佐井大紀監督の名前もあったりして、複数人のプロデューサーが関わっているから、幅広い世代が集まって作っているんだなって感じるし、今の時代にどんなドラマを作ってそれを見てどう感じて欲しいのか、何を考えて欲しいのかということをしっかり考えて作られているのも伝わってくるので早めに第三話を見て、リアルタイムで追いかけていこうと思う。今クールは『大奥』『Get Ready!』『ブラッシュアップライフ』の三作品のドラマを見ているけど、前クールに引き続き僕としては久しぶりにドラマを見ている。


昼休憩で西友に行って惣菜のアジフライを買った。トレイに銚子市産とあって、菊地成孔さんの日記を午前中に読んでいたからか、普段はほとんどアジフライを食べないんだけど、その連想ゲーム的に繋がって気がついたら買っていた。その帰りにトワイライライトに寄って、前に他の書店で見かけて気になっていた横道誠著『ひとつにならない 発達障害者がセックスについて語ること』を購入した。

Thundercat / サマーソニック2023、第一弾アーティスト発表! サンダーキャットの出演が決定!

昨日のケンドリック・ラマーがヘッドライナーという発表のあとに次はサンダーキャットがきた。おおっ、と思ったけど去年普通に遊びにきていたサンダーキャットを渋谷で見つけて写真を撮ってもらって握手もしてもらったし、そもそもコロナで二年延期になった恵比寿ガーデンホールのライブには行っていたのでサマソニは行かなくてもいいやって思えたし、もう一回ワンマンで東京やってくれたら行きたいかな。彼は東京、日本好きだからワンマンは絶対にやってくれるだろうからそちらに期待したい。

小説『の、すべて』は、あと10日ほどで第4部の始まりのパートが活字になる。この連載を誰がリアルタイムに読んでいるのか、私はわからない。わからないけれども、この小説はここまで来ている。そして、その10日後に活字になるパートのさらに先を私は書いていて、それは、さらに恐ろしいところに来ている、と記す。あのさ、俺は基本的に小説家なんだぜ。だからさ、まだまだ成長するんだぜ。わかってるの? ……って誰に怒っているのだ。うーん、鎮めねば……。

その小説家だからこそ、私は朗読する。私は脚本も書き、詩も書いた。まだ書く。評論だって書いているし、もっとやる。それで朗読や脚本だけれども、今度の朗読劇「銀河鉄道の夜」はいちばんコアのメンバーが多い状態で、いちばん創造的な側面を拡張して、発表は今年3月から夏の8月頃までを見据えて、たぶん展開する。考えてみると、私は2011年12月からこれをやっているのだった。そして、まだやっているのだった。「いつまで?」とは考えない。そういうことは問わずに、いま、ここ、現在、そこらじゅう、みたいなところだけを考える。このプロジェクトは、助けてくれる仲間、共振してくれる表現者たちが欠けたら、たぶんストップする(それはそれでかまわない)。いまは、こんなにも、いろんな人たちが集まってくれている、ということだ。

古川日出男の現在地」<軽さと重さ>

連載小説『の、すべて』をリアルタイムで読んでいる読者のひとりだが、いつも古川さんの連載を読んでいて思うけど、毎回思ってもいないような身震いする物語になっていく凄みがあって、もちろん単行本になってから読んでみすごいのはすごいけどリアルタイムだとほんとうにびっくりすることが毎月あって、今月頭に出た号に掲載してあったものから次はフェーズが変わりそうだなって思っていたので、次からの第4部がどう展開していくのか楽しみであり、怖い。
『朗読劇「銀河鉄道の夜」』はおそらく3月からということなので、3月11日に行われて、そこから8月までいろんな場所で行うのだろうなと予想はできる。もちろん、東日本大震災が起きた3月11日に朗読劇が行われるだろうなは思っているので予定は空けて待っている。夏までの中で東京ではない場所でも観たいと思っているんだけど、今は正直夏頃に自分の環境がどうなっているかちょっとわからなくなってき始めている。でも、行きたいな。

朝晩とリモートワークしてずっとイスに座っているから体がバキバキ、寝る前に熱めの湯船に浸かって少しでも疲れを取りたいし、寒いので体が冷えているのもあって毎日のように湯船に浸かってなんとか生き返っている。

 

1月28日【柳井イニシアティブ】展示とトークセッション「ここにいた」

小説家、彫刻家、工学者、メディア・アーティスト。
それぞれがそれぞれの視点から。
4人のアーティストによる展示とトークセッション

講演者・小田原のどか、筧康明、古川日出男藤幡正樹
藤幡正樹・マイケル・エメリック

起きて十一時ちょっと前に家を出て渋谷駅まで歩く。高田馬場駅までで山手線に乗ったが土曜日ということもあるがかなり人が多かった。駅を降りてから早稲田大学まで二十分ぐらい歩いて向かう。この半年ほどで早稲田大学には三回ほど来ているが、そもそも僕は大学も出ていないし、早稲田大学にも縁がほとんどなかったけど古川さん関連で足を運ぶようになったのは不思議な感じであるが、学べなおせよということなのかなって思ったりもする。
今日は早稲田大学小野記念講堂というところで展示とトークセッション『ここにいた』を鑑賞&拝聴。

十三時に開場&展示スタート、入り口に藤幡正樹さんの全米日系人博物館(JANM)で行われた「BeHere / 1942」展の映像が三つのモニターで流されていた。
2017年にロサンゼルスに行った際にリトルトーキョーと全米日系人博物館にも足を運んでいた。大叔父の初生雛鑑別師の新市さんが日系移民の服部さんに呼ばれて渡米したのが排日運動が高まっていた1934年(ボニー&クライドが殺された年、カーネル・サンダースはまだ自経営のガソリンスタンドに併設した食堂で母直伝のフライドチキンを提供していた)だったこともあり、日系移民の強制収容所のことも見ておきたかった(その服部家は開戦後に日本に帰っていたが、終戦後にアメリカに戻るが交通事故に遭ってしまい家族全員が亡くなってしまったらしい)。
リトルトーキョーには高野山米国別院があり、そこで戦後のジャニー喜多川は仮住まいをしていて、美空ひばりなどがそこの舞台に立ったことあって彼はプロモーターのようなことを始めることになる。リトルトーキョーと全米日系人博物館という場所(地域)は戦後日本の芸能ともかなり密接な関わりが、始まりの萌芽があった所でもある。
日系移民の強制収容所送りから50年以上経った1995年、ロサンゼルスに本拠地があるドジャースのユニフォームを着た野茂英雄がそのマウンドに立ち、それまでアメリカ人が見たこともないトルネード投法奪三振ショーを繰り広げることになる。それを日系移民の人たちの視線で、それまでの移民の歴史から野茂英雄メジャーリーグのマウンドに立ったことまでを繋げて書いている人はアメリカにはいそうな気がする。日系移民の人たちにとって野茂英雄という存在はほんとうに大きかったはずだから。
2017年にUCLAに行った時に会ったエリックさんは現在は「早稲田大学 国際文学館」助教だし、今回のファシリテーターのマイケル・エメリックさんもその時にお会いしていて、イベント後に古川さん夫妻と一緒に車に乗せてもらって駅に送ってもらって、カーステからRadioheadが流れていて、やっぱり聴くんだって思った記憶がある。六年経って早稲田大学ってところで繋がっているのは不思議だけどおもしろい。

筧康明さんの展示は数メートル離れた二ヶ所に紙コップが二つずつあり、それぞれがモードで繋がっていて真ん中に機械があった。一方にビー玉を入れて振ったりすると繋がっているもう一方の何も入っていない紙コップを持っているとまるでビー玉が中に入って回っていたり、なかにあるかのような感覚になるというもの。紙コップの底に装置がつけられていてそれがもう一方の振動をそのまま伝えていた。
もう一つはモニターに映った紙にえんぴつで文字を書いたものが映し出されているが、台に置かれている紙とえんぴつがあり、そのえんぴつを持つと、モニターに映っているえんぴつが動く感覚が自分の持っているえんぴつに伝わってくる。モニターに映っているえんぴつの文字を書く動き、それは他者の文字の書き方であり、自分とは違うものであり違和感がある。書いているものを真似てもいいですよとは言われてもやはり違う、身体性が違うということがわかる。
小田原のどかさんの展示は白い正方形の紙の真ん中に拡大鏡かな、ついていているものでそれが何ヶ所かにあった。説明を聞いたのだけど僕がうまく聞けていなかった。あとはこれは小田原さんなのかどなたの展示かわからないのだけど、映写機が男性とコップを壁に映しているもの。そこに人が座ったりすると一方は存在してるがもう一方はいないけどいるみたいなことになっていた。ちなみに偶然小田原さんが座った時にいたので写真を撮っていた。

十四時に開始されて早稲田大学小野記念講堂の地上部分の階段を降りてくる古川さんが壇上の壁に映し出されて音声も聞こえてくる。テキストを読みながら展示されているものに触れたりしながら、地下にある僕ら観客がいる講堂にやってくるというパフォーマンスをした。iPhoneで撮影していたのは河合宏樹さんだった。古川さんの撮影だし、河合さんが一番上手くできると思うし、信頼もされているから彼しかできないだろうなとも思う。
途中の階段では講堂の画面よりわずか前に古川さんの朗読する声が聞こえ、わずかに遅れて講堂のスピーカーから声が聞こえる、それはちょっとしたズレなのだけど、そこにいるけどいない、いないけどいるというあとのトークセッションで出てくる亡霊的なものがあった。講堂に入ってきてステージの上まで行ってパフォーマンスは終わった。
そのあとは藤幡さんのパフォーマンスで、録音した女の子の声をあるボタンを押すと聞こえてくるというものともうひとつはおじさん(藤幡さん)の声で、ボタンを押しながら会話をするというものだった。
そのあとに筧康明さんのご自身がやってきたこと(「Air on Air」など)の話、小田原のどかさんの「生命の河 原子病の話」と「矢羽型のモニュメント」についての話をされた。その後はファシリテーターのマイケル・エメリックさんの話があって、ほかの四名も壇上にあがって五人でのトークになったという流れ。

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2023年1月28日 早稲田大学小野記念講堂
『ここにいた』

古川さんパフォーマンス・藤幡さんパフォーマンス

メディア、テクノロジー発展 人を阻害してしまう 

筧さん「ここにいた」 「BeHere / 1942」に親子でエキストラ参加
テレイグジスタンス 
Air on Air


小田原さん 生命の河原子病の話 46-48年 矢印
爆心地

マイクル・エメリックさん 
全米日系人博物館(JANM) 「BeHere / 1942」展

AR拡長現実 自分の作品『インターレグナム』のLAパートに「BeHere / 1942」展を入れてみる?

メディアテクノロジー 繰り返し
近さ・もの・遠い・イメージ
インタラクション 亡霊


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コップ(展示されていた筧さんの作品について)・不気味 VR・近づく動く←iphone使うと

関係を整理するまで

タブレットを使うことで(「BeHere / 1942」展における)アメリカ人の(日系移民強制収容所へ行くためのバスに乗る前を撮っていた)カメラマンの立場に(政府に監視されている)
ひっくり返し、筆跡、 加害者ににひっぱられる 

「不気味」なのはつながらないものがつながってしまうから

触角-知覚にすぐくる 
アクセプトできると他者になれてしまう
ARのタブレットを自分で使う「LA」(JANM) 他者が入る←カメラマンを操作する 
亡霊と憑依は違う

(「BeHere / 1942」展を体験した日系移民三世や四世の人たちは)おじいちゃんおばあちゃんはそこにいた と感じた 

触覚は閉じれない
肉体をなくす・環境を作ると憑依する
ipadで「BeHere / 1942」展のARをみて、終わって誰もいない(JANM前の)広場を見るとより感動する、何かが変っている

いたはずの自分の存在が消える、いないはずの人たちがいる 

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彫刻を触れる/触れないとき
像を見ていた人たちがいた(現在の自分の前に過去にいた人たちの存在を感じる)⇆ARとつながる? 通じるところ

最初に原子爆弾が投下された広島|二番目に原子爆弾が投下された長崎にはGhostを感じる・宗教(浦上天主堂など)・偶像を作り出す

作ったものがモニュメントになると困る/藤幡さん 
半永久的に残る

形がないほうが残る・亡霊的
「BeHere / 1942」展をARで見ていた人たちはバスに乗るために待っていた人々が見える

(古川さんの朗読パフォーマンスで読んでいた紙を切ったことに関して)テキスト切る・壊される・ハサミを出すということの暴力 

デジタルは残らない・身体的記憶に沁み込むから残る

消えてしまう、人が残そうとするかしないか
エネルギー表現しだい

・物を置くとそこに立てない・外側から見るしかない
視点 AR自分で取りにいく

台座の問題・見上げる/見下される像


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台座の問題・モニュメントになりたくないに通じる
物があって永遠に見ればいいということでない
銅像を見上げる、引きずり落とされる
広場で誰が最初にくいを打つかから始まる(フランス・メタファー)

SNS 像が向く同じ方向に立ち 操られる/像を見なくなってしまった

自分を保持したままで聖なる空間に入る
モニュメントのあり方が変わる
木に文字刻むということ ここにいた/けど/そこにいない
「セルフィー」→ここにいなかった証拠になってしまう

時間の話 BE HERE/命令形
ipadを持っていると現在にいると思ってる
→ARで見ると1942年(「BeHere / 1942」展の写真が撮られた時代)のLAにいたと思ってしまう 

現在から80年前に戻ってカメラマンが撮ったものを現実に持ち帰る
カメラマンの存在

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ネガを直接デジタイズするとなぜか新鮮ものに見える

LAの前 香港で「BeHere」を藤幡さんはやっている  香港とは何か?という問い
文化大革命でやってきた人たちによって人口が11倍になった
イギリスは香港に興味がなかったから「歴史がない」記録されていない

ロジャー・ガルシア(映画祭ディレクター)が「BeHere」がいいと言った

BE時制がない どこにでも使える
1942年の亡霊へ←「BE」参加してください 命令ではなく、誘いのニュアンス

HERE/THEREの違い

Be Here・裸でいる・像の前にいる

「デジタル」フレッシュ 毎回フレッシュなのは危険
物なしているかどうか、身体と関係できる、かさぶた・傷

デジタルは傷つかない・フレッシュ・ゼロから始まる

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ディスプレイの鮮度・遍在化
テクノロジーの力でポストモダン化して歴史が消える
過去と現在が重らない、無意識

80年前と今が一緒に在ると歴史化できない。
Googleフォトなどで個人が)統一していなかったものがデジタルで勝手に統一されてしまう←時間が串刺しになってしまう

「わたしは何なのか?」が狂う。

・差異化する努力をフラットにされる(デジタル)
一環性がないと思ったら、ある?

「↓」の矢印にすべての人が見えることがある(小田原さん) 
加害者(GHQ)でも46年から48年まであった長崎の「↓」(原爆落下中心地にあった「矢羽型のモニュメント」)で写真を撮っている。
矢羽型のモニュメントの傾きで時間がわかった 

矢羽型のモニュメントとGHQの兵士たちが写真を撮っているという一場面だけで見ると、取り出すと意味が残る
「一面から見せないこと」

藤幡さんの「BeHere / 1942」展における立ち位置

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一番の観客、日系アメリカ人

・(日系人の強制収容される)子供の瞳の中にアメリカ人のカメラマンと政府の人間が見えた(映り込んでいた)からできると思った。

これはメディアの問題だとわかったからできる

政府が従順に従った日系移民にしたいから彼らの笑顔を使った。その意味がわかるということ 
ある女性はバスに乗り込む時に夫へ渡してもらうということでカメラに向けて笑顔を、しかしその写真は夫に届かずに80年後に藤幡さんに届き、インスタレーションとなる その時に感じる笑顔の意味、一場面だけではわからないこと

見る側の責任、受け手の問題
「複数の問いを出すアート」(藤幡さんの作品「BeHere / 1942」)

テキスト、言葉にする・わかったようなふりをする
視覚情報は読めない・文字よりも長い歷史

哲学が技術を扱ってこなかった。
技術哲学の時代が来る 
感じるかどうか、表現者のスキル テクニックで感動はしない 

余白を残すこと、人に委ねること、
完璧に作ると神様が入ってこない


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ナム・ジョン・パイク、ケーブルをあえて見せていた ←「余白」
モニター面だけが作品だと思われていた(当時展示をするとケーブルなどは邪魔だと工事関係者が勝手に隠したり見えないようにしていた)

デジタルになると(「余白」をどう見せるかが)難しい

体験をなくさない・意思を持っていないと見れないもの 
手助け AR/VR

歴史が消える?

「最初にあったものが 消えてしまう時代」

3.11以降「伝承」(メモリアル)というものが言われるようになった。

記憶の継承でどんどんこぼれ落ちていく

広島 伝承者←被爆者のテキストを語る

伝承とメモリアルは違うと思う(小田原さん)
語り部は憑依されない、祈りにはならない

テキストを読んで伝える、憑依はされない
アートとしてカウンターとしてやらないと残らない

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テクノロジーを最優先すると過去が消える(かも) データがあればいいわけではないが、
意味のない写真、集めれて大量にあれば
未来には価値をもたせれるかもしれない。

誰かのためにやっていたことが違う形で届く

芸術はそこに向ける

1942年の写真 インパウンドされていた 公民権運動では使えなかった
1980年以降- 50年後には見える(アメリカらしい)民主主義・公文書(日本は無理、廃棄する、大戦から現在に続くこと)

データのありか、誰が開けられるのかが問題かも

質問者:「BeHere」体験後に体調を崩した
過ぎ去る過去を作る ←「BeHere」はそうではない

シャーマンみたいな人が各国にいる・普通にあった
過去とのつきあい方

近代の過程で歴史や過去が出てくる

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「BeHere」=「お盆」と思った(藤幡さん)
実感がないことを真面目に考える(未来は存在しない)という哲学者 ← 本当の未来は現在化しないもの、別の場所にあるんじゃないの?

表現する場所・置く所
場所はコンテクトがある・作品は場所性を作るものでない→「曲り角を作る」

小説・本・場所を問わない 読んでいくと肉体を失う シャーマン化している

音読でスタートした日本文学『源氏物語』→コピー(手移し)して渡すプレゼントだった(その立場や権力を誇示できるものだった)

基本的には宗教的意味付けがないと残らない/お寺に寄贈とかのものだった。

そもそも最初から文学はパトロンがいないとなりたたないものが小説という芸術だった。しかし、活版印刷後に変わった。

終わってから古川さんと千枝さんにご挨拶をして少しお話を。古川さんのパフォーマンスを撮影していた河合くんとスタッフのエリックさんにも会えたので挨拶をしてから高田馬場駅まで歩いた。
渋谷駅を降りたら十八時ぐらいだったけどすごい人手の多さだった。

LCD Soundsystem - All My Friends (Official Video) 


日記を書いていたらなんだかこの曲が急に聴きたくなった。

 

1月29日
朝起きてから散歩がてら代官山蔦屋書店まで行って新刊とかなにかないかなと見てから、帰りにスーパーに寄って昼ごはん用の惣菜を買う。家についてNIKEのRUNアプリで距離を見たら今日の時点で1月はあと数百メートルで300キロに届く距離を歩いていた。これはちょっと歩きすぎだなと自分でも思う。
ご飯を食べたあとにチャック・パラニューク著/池田真紀子訳『インヴェンション・オブ・サウンド』の残りを最後まで読んだんだが、これはイマイチというか最後の終わり方もあんまりノレなかったなあ。もっと分厚い物語にもできたと思うんだけど、わざとそこを避けているのかなあ、なんか物足りなかった。

夕方の仕事前まで西寺郷太著『90’s ナインティーズ』の第2章まで読んだ。帯にもコメントを寄せている曽我部さんのバンドであるサニーデイ・サービスの曲をBGMとして流していたら、章の終わりに曽我部さんが出てきた。
自伝的小説なのだが、90年代の下北沢を舞台にしていて当時の東京の景色や文化が描かれているので、出てくる固有名詞が懐かしいものもあるしまったく知らないものもある。
同じくメルマ旬報チームだった小説家の樋口毅宏さん同様に郷太さんは団塊ジュニア世代で日本において一番最後に人口が大きい層ということもあり、「失われた30年」を青年期から体験しているが、インターネットはまだ黎明期であり、経済大国日本という景色を大人になる手前から二十代ぐらいでギリギリ体験しているというのは大きいだろう。
固有名詞が使えるというよりもそれが通用するパイがデカいというのはあるんだろうな、樋口作品と物語の感じは違うが固有名詞の使い方がどこかしら通じている気がする。そういうこともあって、ときおりエッセイと小説が混ざっているような読み感がある。

 

1月30日
寝る前に『90’s ナインティーズ』を最後まで読んだ。郷太さんがかつて見てきたもの、その主観による90年代の下北沢の風景とそこに集まってきていたバンドマンたちとその友人や仲間やファンたちの姿がしっかりと綴られていた。
下北沢に足を運ぶ理由になった憧れの、師匠のような先輩バンドマンとの出会いと別れが書かれていた。それが主軸にあるのでストーリーとして入りやすく、読み終わったあとにカタルシスが残る。思春期でも青年期でもいいのだけど、自分にとって大切だった存在を失ったり、その人が自分の代わりに(象徴的でも)死ぬことで人は大人になっていく。だから、先輩バンドマンとの別れはまさに象徴的な死であり、かつての自分の一部が死ぬということでもある。
もちろん自伝的小説であるので、もちろん書けないことは山のようにあっただろう。そこから自分がどうしても書き残したいこと、書かないといけないこと、書きたいけど書けないことなどを取捨選択して物語にうまく落とし込まれていると感じた。
ひとりの青年が下北沢という町と当時勢いのあったバンドシーンの中で青年時代を過ごしながら、プロミュージシャンになるために必要なものを見つけていく。同世代への嫉妬や仲間意識などあらゆる感情が混ざり合いながら、自分だけにしかできない音楽を見つけていった。
もちろん、書いた郷太さんは生き残った側の人であり、多くの、ほとんどの人たちはプロにもなれず、なったとしても長く活動はできずに辞めていった。ミュージシャンであろうが小説家であろうが、いわゆる創作系の人が描く自伝的な物語は生き残った、なにかになった人が何者でもなかった時代の話となる。だからこそ、そうなれなかった人たちの憧れと嫉妬を生むことにもなる。輝かしいステージの下にはおびただしい骨が、骸骨が眠っている。光と闇は同等であり、創作は生と死をよりくっきりと浮かび上がらせる。

起きてから朝晩とリモートワーク。休憩の時に銀行に行ったら月末だしかなり並んでいた。ウェブで家賃を振り込めばいいのだけど、住民税の支払いがあってコンビニでも払えなくもないけど、銀行の税金の支払いできる機会ならキャッシュカードが使えて、残高が減るからそちらのほうが都合いい。
最初に住民税払うために前に三人いたので座って待ってから、次は家賃振り込みしようとATMに並んだら人が多くてなかなか自分の番が来なかった。なんだろうな、ウェブで振り込むこともあるけど、紙の通帳に馴染みがあるからそちらに記載したいっていう欲望の方が勝るというか。
家に帰ってから仕事を続けていたが、夕方前から何度かくしゃみが出た。これはもしかすると花粉なのか。コロナパンデミック以降はいやでもマスクをするようになったから春先になっても花粉症の症状がでないということが続いていたのに、風邪の引き始めなのか花粉症なのか、部屋の埃が原因なのか謎だ。

最近ちょっと気になっているのは、大塚英志さんのTwitterが5日以降一度もツイートされていないということ。もしかして体調を崩されているのかなとも思ってしまうのだが、どうなのだろう。例えば中国に行っていて通信の問題でしていないとか、出版する作品のために缶詰になっているとか、の可能性もあるが、中の人は大塚さんと事務所のスタッフさんの二人なわけだからまったくツイートしていないというのもなにかあったのかと心配にはなる。
去年、吉祥寺でお会いしたさいには「来年、原作を手がけられている『東京オルタナティヴ』が刊行されたらインタビューさせてください」とお願いしているので、また直にお会いしてお話を聞かせてもらいたいから、何事もないといいのだけど。

数日後の予定確認でラインしているが、まったく既読にならない人が知り合いに数人いる。僕はメールでもラインでも来たらすぐに返さないと気持ち悪いと思ってしまうので、メールも迷惑メールは全部拒否してゴミ箱に入れていて、すべてのメールは開封しているし、ラインも全部既読にしている。
でも、明らかに既読になってなかったり、その数字がアイコンに示されていたりしても気にならないという人はいる。そういう部分で自分とはまったくタイプが違うんだなと改めて思うのだけど、既読にもならないと生きているのか死んでいるのか、なにか起きてるのかと心配になってしまう。だけど、気にならない人はそういうことも気にならないし心配にならないんだろうなと思ったら、まあしばらく待ってみようかと思えた。

 

1月31日
東京国立近代美術館で開催中の「大竹伸朗展」を鑑賞するために八時半前に家を出て渋谷駅まで歩いて、半蔵門線永田町駅で降りてから東西線竹橋駅方面に向かって歩く。東京国立近代美術館と会社は目と鼻の先だが、火曜日は仕事休みだけどほぼ会社に行っているような気持ち。ちょうど開館時間の十時前に着いて数分待つだけで中に入れた。ウェブでチケットを買っていたのでそのQRコードを入り口で見せてから展示エリアへ。

もともと行くつもりだったが先週の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』で佐久間さんが観に行った話をされていて、調べたら2月5日までだったので、今行かないと最終日前の週末は激混みになりそうだなと思って平日にした。人が少なくてのんびり見るとしたら平日の午前中がいいだろうなと思った。大竹さんの作品で言うと「ニューシャネル」という有名なロゴのTシャツを一時すごく着ていた時期があった。それはスタイリストの伊賀大介さんが着ているのを見ていいなと思ったからだったが、文芸誌「新潮」のロゴも大竹さんが手がけられていて、たぶん2010年以降になってからだと思う。矢野さんの編集長だからこそ大竹さんという感じもするし、その矢野さんがもう二十年編集長だからそろそろバトンタッチするとしたら、おそらく表紙やロゴのデザインも変わるんじゃないだろうかは思う。
展示を見ているとそもそも展示されている作品の量がすごい。ひとつひとつが平面ではなくて立体というか何層にも重なっているものが多くて、時間や空間などを融合したり層を作ったものが作品として現れている感じがする。なんだか、吸い込まれるようなものもあるし、こわってなるようなものもあるし、その圧倒的なパワーがなによりもすごいし素晴らしい。この世界における破壊に対しての創造性を見せつける、作り続けるという意志の表明に見えた。


東急百貨店 渋谷・本店が最終日だったので、大竹伸朗展を観た東京国立近代美術館から国会議事堂と内閣総理大臣官邸を横目に歩いて赤坂から青山墓地の南端にあるかおたんラーメンえんとつ屋へ。


昼食がてら塩ラーメンを食べてから墓地中央から西方面にある青山橋を渡ってから246に出て、青学前から北上してMIYASHITA PARKとタワレコの横を通り抜けてPARCO渋谷とWWW横の道を下って東急百貨店へ。最終日なのでどの階もにぎわっていた。

MARUZENジュンク堂書店渋谷店で最後に買ったのは古川日出男著『ベルカ、吠えないのか?』文庫版と井上順著『グッモー!』の二冊。
曼陀羅華X』朗読イベントでお会いした書店員の植田さんが帯コメントを書いている『ベルカ、吠えないのか?』文庫版。僕はこの文庫版が出た2008年にはじめて古川さんにお会いした。その年、『聖家族』が発売されたデビュー10周年だった。今年は25周年なので15年も経っている。
『グッモー!』は何度も東急百貨店近くで井上順さんをお見かけしていて、偶然だが井上さんと父の生年月日がまるっきり同じ。渋谷生まれの渋谷育ちで、MARUZENジュンク堂書店でミステリー作品などたくさん買われて読まれているのも記事で知っていたので記念というか。
これから東急百貨店が解体されて、新しく再開発されていくのを定点観察がてらこの数年は見ていくことになるんだろうけど、上京してからの20年でさえ、渋谷はあまりにも変わりすぎていて、止まると死んでしまう生き物みたいに風景が留まることがない。だから、場所と記憶が年々ズレていってやがてどちらも消えていく、いや行方不明になってしまう。懐かしいとかそんなものすら笑われるように資本による破壊と再生がただ繰り返されていく。思い出だけが性感帯だとしても、その思い出が彷彿されるはずの場所が失われて、変わり続けていくから渋谷には性感帯がない。だから、円山町にはラブホテルとライブハウスがある、肉体が揺れて触れて気持ちよくて悪くてどうしても他者性がないと成り立たないものが、太古から人間の快楽とともにあったセックスと音楽が、とか書いているとできそこないのチェルフィッチュ『三月の5日間』みたいだなと思った。


「オーニソロジー2ndアルバム「食卓」リリース記念ライブ」を代官山「晴れたら空に豆まいて」へ観に行く。出演はオーニソロジー(vo,g) / 宮川純(key) / 小川翔(g) / 守真人(Dr) / Yuki Atori(E.Bass) / 菊地成孔(sax&more)というメンツ。

2023年初ライブ、オーニソロジーのアルバム『食卓』はiTunes」ストアで購入して聴いていて、ライブが発表になった時にすぐに申し込んでいた。この「晴れたら空に豆まいて」という場所の名前は知っていたけど来るのは初めてだった。メールで申し込んで整理番号が送られてくるので、その番号順に並んで入り口で会計してから入るというもの。
お客さんはどのくらいだろうか、はじまったらかなり埋まっていたから百人ぐらいはいたんじゃないかな。オーニソロジーは聴いていたけどライブでは観たことがなかったけど、声に特徴があるけど、すごくカッコいいなと思った。
バンドではなくひとりでやっているユニットで、今回はプロデューサーの菊地さんと録音の時のメンバーでのバンドスタイル、途中でひとりでも歌ったりしていた。ソロとバンドではそれぞれのよさもわかった。何曲か菊地さんがサックスを吹くものがあったが、やっぱり管楽器が鳴るとメロウで艶やかな感じになって、夜がより深くなっていくみたいだった。まあ、そうするに色っぽい。
最後はオーニソロジーと菊地さんと二人でDC/PRGの『ミラーボールズ』のカバーを演奏してくれた。ライブで心地よい揺れがあって、いい空間になっていた。オーニソロジーの声はとてもいいなと改めて思ったし、これからもライブがあれば行きたい。


ライブ前にfacebookを見ていたら、親友のイゴっちが恵比寿のバーで働いているというのがタグづけされていた。週一回このお店で働いているみたいなのは知っていたが、「晴れたら空に豆まいて」からお店までの距離を見たら歩いたら七分ぐらいと出たのでライブ終わったら何も言わずに行って驚かそうと思って久々の恵比寿へ。
Bar driftはマップ見ながら歩いていたらすぐに見つかって、窓から中が見えてイゴっちの姿も見えたので入りやすかった。前にイゴっちと一緒に行ったバーの店主の人も来ていたのでその隣のカウンターに。そこから深夜『空気階段の踊り場』でのもぐらさんの離婚について彼は話をしたかったみたいでその話をしてから、「JUNK」「オールナイトニッポン」のラジオについての話を三人で話していた。彼の奥さんとその友達でお店を手伝っていた友人も合流して、いろいろと話をしながら日付が変わるまで飲んでそこから歩いて帰った。
一人で飲みに行くこともそもそもないし、今日はなんといいうか「かおたんラーメンえんとつ屋」と「晴れたら空に豆まいて」という初めて行った場所が二つあって、一月末だし二月へ勢いをつけるというかこれからの変化も期待をこめて、二よりは三の方がいいなって思って、「Bar drift」に行こうというのもあった。そうすると初めての場所が三つになって、なんかいい感じでおもしろいことが始まりそうな気になるから。


酔いはほとんどなかったので歩いて帰ったらナイキランアプリでの一月の走行力(走らずに歩いてしかいないけど)初めて月間で300キロを越えていた。さすがに歩きすぎだ。

今回はこの曲でおわかれです。
Gotch, GuruConnect - Heaven - MV 

Spiral Fiction Note’s 日記(2023年1月1日〜2022年1月15日)

12月の日記(2022年11月24日から12月31日分)

 

1月1日

年越しの瞬間はradikoで『三四郎オールナイトニッポン 年越し初笑いスペシャル 2022→2023』を聴いていた。実際にradikoは一分ほど遅れているので三四郎が漫才をしている時に新年を迎える形になった。
晦日に小川哲著『地図と拳』を読み切ろうと思っていたが、どうも今日読む日ではないなと思ってしまって、マーク・フィッシャーの最後の著書『奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集』を読み始めた。最後まで読んでわからないことが多いが、その中でとりあげていたフィリップ・K・ディック著『時は乱れて』がおもしろそうだった。
その後、新年まで数時間あったのでチャールズ・ブコウスキー著『郵便局』を読み始めて、それが2022年最後の読書となった。自伝的な要素が強いこの作品の最後の最後でブコウスキーの分身であるヘンリー・チナスキーが小説を書こうと思うところで終わった。なんというかちょうど今の自分に合う作品だったし、この小説が年内最後の読書でよかった。
この『郵便局』は光文社古典新訳文庫のシリーズで出ている。フォークナー著『八月の光』やドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』などは積読のままになっている。2023年は古典を読んでいこうと考えていたので、この流れで『八月の光』を新年に入ったら早めに読もう。


毎年元旦は井の頭公園から始まる神田川沿いを歩き、柳橋隅田川へ合流後は隅田川テラスを歩いて月島へ、最後は晴海客船ターミナルからお台場方面の東京湾を見るという古川日出男さんの小説である『サマーバケーションEP』の舞台を辿っていた。それをやるのは東京五輪が終わった最初の元旦までと決めていた。
選手村だった高層マンション群近くの晴海客船ターミナルも去年二月に閉鎖されたのでタイミング的にもちょうどよかった。
今年はのんびり元旦を過ごそうかと思ったけど、誰もいない(ように静まり返っている)場所を歩きたくなったので目黒川沿いを歩いて天王洲アイルに向かった。そこは帰るのがややこしい(交通の便が悪い)場所なので東京タワーを横目に豊川稲荷東京別院まで北上してお参りしてから半蔵門線に乗って帰宅した。

今年は生き延びること≒書き続けることを第一に優先しよう。去年は驚くほどなんにもできなかったからというのが大きいのだけど。芽が出るとしても運が良くて来年や再来年以降になるだろうけど、戌年だから雌伏期間ということでわかりやすく吠えたりもせずに、ただただ力をつけて蓄えて爆発させるための下地を作ろうと思った。

ブログは半月に一回は更新するけど、SNSはほとんどやらないことにした。
SNSはそれぞれのプラットフォームに適した言葉を当人は無意識なままに呟いたり書いたり、画像や映像データをアップさせて情報を収集していく。以前はさほど悪いことには思えなかったけど、今はやはり人間よりもそちらの側の方が立場が上になっていっているようにも感じるし、良い所と悪い所どちらもあるが悪い所がどんどん人間の大事な部分を奪っているようにも感じる。もはやSNSは居心地の良い場所ではなくなっていると思うのもあって、それならSNSからは少し離れて自分の作品を書いていきたいし、そのことに文字を費やしたいと考えることが増えたというのが大きい。

家に着いてからすぐにお風呂に入った。体がほぐれたのかリラックスできて夕方までうとうとしていた。三十分ぐらい寝て起きてまた寝るみたいなことを繰り返していた。
十九時過ぎにニコラの曽根夫妻から連絡があったので、茶沢通りにあるトリビアという鳥料理メインの居酒屋に行って新年のご挨拶をして軽く飲みながら食べた。
毎年元旦に行っているお店があるが、そこのマスターが体調を崩されてしまったので元旦の営業はお休みになってしまって、いつもと違うお店になった。そういう意味でも毎年のルーティン的なものが全部違う正月になった。
お店の鳥雑煮を最後に頼んで食べたら、柚が効いていてとても美味しくて正月って感じがした。お店が遅くまでやっていなかったのでわりと早めに解散したけど、二人と一緒に新年早々ご一緒させてもらってよかった。こういう繋がりがあるだけでも僕が東京にいる理由になる。

 

1月2日
初夢らしきものを見た。古い日本家屋のような家の廊下を歩いていたが、廊下の木は腐りかけているのか軋む音が大きく聞こえる。実際に歩いていたら沈んでいくような感覚だった。廊下の途中に不気味な人形のようなものが置かれていたが、その人形が上下左右に動きだした。おそらくそれを見ている登場人物である僕は恐ろしくなってその場から動けなくなって、ただその不気味な光景を見ているしかなかった。揺れ出していた人形の目玉の片方が落ちた。それが服の一部について白目の下半分の中で黒目が左右に揺れていた。声を出しそうになったらその夢が途切れた。

起きてからあの目玉に見覚えがあるなと思っていたが、おそらく寝る前に見ていた『あらびき団 あら-1GP2022』に出ていた「さるひげさん」の目だろう。
たぶん、3月公開のA24制作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でも主演のミシェル・ヨーの額についているあの目玉も同じものだと思う。でも、「さるひげさん」を見ていたから、それが無意識の中でよくわからない物語の一部へ反映されたのだと思う、たぶん。

目覚ましが鳴る寸前にその夢から覚めて起きた。もともと今日は神田明神に行こうと思っていたので着替えて最寄駅から表参道駅まで乗って、そこで銀座線に乗り換えて末広町駅まで乗車。そこから五分ほど歩くと神田明神に着いた。

新年の参拝の人がたくさんいた。まずは本堂でお賽銭を入れてお参りをしようと列に並んだ。後ろの家族が話していたけど、確かにこの数年って東京の正月は雨が降っていない。たしかに毎年元旦は神田川沿いを歩いていたけど、一度も雨に降られたことはなかった。
二十分ぐらい待っていたら自分の順が来た。その後は大黒様と恵比寿様にもお参りをした。早めに家を出ていたので帰りは電車に乗らずに、歩いて帰ることにした。二時間半ちょっとの距離だったのでちょうどいい散歩になる。


神田明神から南下して御茶ノ水明治大学前の通りを下って神保町方面へ。そこから靖国通りをそのまままっすぐ西側に向かって歩いた。左手には武道館、右手には靖国神社を見ながら市ヶ谷方面へ。市ヶ谷駅から四谷駅を通って元赤坂の赤坂御所を沿うような形で明治神宮方面へ歩いて行った。
そう考えると前日に豊川稲荷東京別院に来ているので、自宅から見て東側にある東京の中心地を二日で歩いている形になっていた。明治神宮方面から国道246号へ出てから青山方面に、そこから渋谷に出てから東急百貨店渋谷本店へ。丸善ジュンク堂書店渋谷店で今年最初の小説を購入した。


マーク・フィッシャーの書籍でも紹介されていたフィリップ・K・ディック著『時は乱れて』を。

 

1月3日
『時は乱れて』を読み終わったら深夜の一時半ぐらいになっていた。正直そこまでは面白くはなかったが、設定は主人公たちの日常が実は外部によって作られていたものだとわかるというような、映画『トゥルーマン・ショー』のような設定だった。
主人公のレイグル・ガムが住んでいる町の外側へ出ようとするきっかけや、彼がずっと勝ち続けている新聞の懸賞クイズ「火星人はどこへ?」の全国チャンピオンの本当の意味などは読み手の興味を持続させるもので楽しめた。
もちろんディックが書いたこの作品や他のSF小説の影響を受けた作家たちの更なる影響を受けた人たちの作品を読んだり見たりしているので、わりとオーソドックスな作りだなとは思ってしまうが、原型がここにあるという感じがする。だからこそ、読んでおいてよかった。

そのあとフィリップ・K・ディックウィキペディアのページを見ていたら、アメリカのオルタナティブロックバンドであるSonic Youthのアルバム『Sister』がディック作品からの着想で、タイトル名『Sister』はディックの生まれてすぐに亡くなった一卵性双生児の双子の妹を意味していると書かれていた。
Sonic Youthの名前ぐらいはさすがに知っているし、アルバムジャケットのデザインをプリントしたTシャツは今まで何度となく見てきていたが、ちゃんと聴いたことはなかった。ギター・ボーカルであるサーストン・ムーアのソロアルバム『Demolished Thoughts』は出た当時になんとなく気になって聴いてすごく好きなアルバムだったが、このアルバムをBECKがプロデューサーしたから買ったような記憶がある。
このタイミングはなにかありそうだなって思ったので起きてからTSUTAYA渋谷店に行って、『Sister』も含めて他のアルバムも十数枚レンタルしてきた。

二月末に仕上げたい作品のある章で登場人物が「コロナ」という単語が使われているアルバムについて他の登場人物と話をする場面があり、そのアルバムを手掛けたのがSonic Youthに一時在籍していたジム・オルークだった。
「シスター」という単語が脳内にあるせいか、登場人物表(僕は書き始める時に作っていて、そこにはイメージキャストとして役者などの画像を入れて生年月日や身長や血液型、作品における他の人物の関係性などを書いている)を改めて見たら姉妹が何組かおり、「妹」というワードを入れるとサブラインでもおもしろい展開ができるんじゃないかなと思ったので新しく書き込んだ。
作中にSonic Youthのアルバム『Sister』を出すことでそれができそうな気がする。だから、この作品のBGMはこれから仕上げまではSonic Youthでいくのがいい気がする。

昼間に歩いている時はradikoTBSラジオ伊集院光深夜の馬鹿力』を聴いていた。歩き始めて最初の頃は『広瀬アリスオールナイトニッポン』を聴いていたが、彼女がインドアなオタク気質な趣味というのは前から知っていたが、それでもテンションが高いのと声が明るくて爽やかな印象で、ちょっと歩きながら聴くのは合わないと思って『伊集院光深夜の馬鹿力』に変えたら、正月早々どうかしている内容の放送で残念ながらそちらの方が僕には心地よかった。

夕方からの新年初の夜バイトのリモート作業中に『空気階段の踊り場』を聴いた。ゲストが後輩芸人のレインボーであり、そのまま『レインボーのオールナイトニッポン0』へと繋いで聴いたが見事なコンビネーションのようになっていて、レインボーのミニコントもラジオ内でやっていた。
空気階段の踊り場』で何度かレインボーが出ているのを聴いていてどういうキャラとか、どういう話をするかは知っていたけど、コンビでラジオをやっても充分楽しませてくれるものだったので、このままレギュラー入りしてくれたら僕はリスナーとして毎週聴くだろうなと思った。それぞれのキャラも魅力的だし、いい意味でダメな部分もトークで上手く話せるのでラジオに向いていると思うのだけど。

そのあとは毎年正月にやっている特別な組み合わせの『欽ちゃんとオードリー若林のあけましてキンワカ60分!』を聴いた。この組み合わせでは三回目だが、若林さんだからこそ萩本欽一さんが話せることがあるんだろう。その二人だけの空間や雰囲気がとても羨ましく感じられるラジオであり、今回も「芸人」というものだったり、欽ちゃんが今まで言わなかったことをさらりと話していて、それを若林さんが心から楽しんで、聞かせてもらってよかったというのが伝わる返しややりとりをしている。こういうやりとりを聴かせてもらえるのはほんとうに素晴らしいことだと思う。そして、聴いていてめちゃくちゃおもしろかったので友人にオススメした。

STUTS - Expressions feat.Daichi Yamamoto,Campanella,ゆるふわギャング,北里彰久,SANTAWORLDVIEW,仙人掌,鎮座DOPENESS

 

1月4日
寝る前にTVerで『ゴッドタン』第20回芸人マジ歌選手権を見ていた。バカリズムが歌う際にその後ろの大きな画面で役者の夏帆さんがサプライズ的に出演していた。バラエティなどで先輩俳優などに褒められたりする際に画面のワイプに映った時に謙遜しがちみたいなネタの歌に合わせたものだった。
終わってから夏帆さんからバカリズムへのことを聞かれたVTRが流れてワイプに映るバカリズムが歌ったことを繰り返すみたいな展開だった。その際に夏帆さんは前に一緒にドラマに出たことの話をしていたが、バカリズムのことを升野さんと呼んでいた。そうか、普段とかはバカリズムさんとは言わないものなのか。『ゴッドタン』のプロデューサーの佐久間さんとかも升野さんって言っているのを聞いたことがある。「バカリズム」をバカリズムさんと升野さんという使い分けはどのくらいの彼との距離感で分かれるのだろうか、と思いつつ寝落ちした。

起きてから昨日レンタルしたCDを返却するために渋谷へと散歩がてら歩く。十時前にはスクランブル交差点前のツタヤ渋谷店に着いたので返却ボックスに投函して、またきた道を戻った。
正月というのもあるけど、渋谷駅付近のお店はまだ開いていない店舗が多くて出勤らしい人たちがたくさんいた。まだ買い物や遊びにくる時間ではなかった。
帰る前に九時からオープンしている蔦屋代官山書店に寄った。アメリカ文学の棚を見ているとジョン・アーヴィングの『神秘大通り』上下巻が目に入ったので裏面や帯を見てみた。この本が出たのは数年前だったはずだが、その頃は興味がわかなかった。その隣には『ひとりの体で』という単行本も上下巻で置かれていた。
書籍の著者紹介のところを読むと『ガープの世界』『ホテル・ニューハンプシャー』『サイダーハウス・ルール』などを書いたのがこのジョン・アーヴィングだとわかる、というか思い出した。著者名や作品名をそれぞれ知っていても読んでいなかったりするせいで、うまく結ばれていないけど、なんとなく知っているというあのあやふやさ。

ガープの世界』は『爆笑問題カーボーイ』の中で爆笑問題の太田さんがその話の筋を講談のような感じで最初から最後まで話をしていたのを前に聞いた気がする。それもあって作品を読んでいないけど、読んだ気持ちにちょっとなっていた。
ポストモダン小説の大家であるピンチョンの作品は新潮社のシリーズで揃えているが、まあ進まない。難しすぎるというか詰め込まれているものが膨大すぎるから全部読み終わるのがいつになるかはわからない。だから、今年は古典文学の海外小説をできるだけ読もうとは思っているけど、ジョン・アーヴィングをひとつの軸にするのはいいのかもしれない。そこから帰る時に調べていたらデビュー作『熊を放つ』は村上春樹さんの訳で中央公論社の「村上春樹ライブラリー」から刊行されているようなのでそこから入るのがいいかなと思ったが、そのあとに周った書店にはどこにもなかったので仕方なくAmazonで注文をした。


家まで帰ってきてから昼ごはんを買いに行く途中に去年閉店した「天政」さんの前を通ったら、シャッターにお客さんたちからの寄せ書きのようなメッセージが追加されて貼られていた。これを見るとあたたかい気持ちにもなるけど、お店のおじちゃんやおばちゃんも年齢的にも体力的にもしんどくなってお店を辞めたのだろうからそのさびしさのようなものもあって、そういうあたたかさと老いについて考えるとその寂しさみたいなものが入り混じるような気持ちになる。
あとメッセージってもちろんお店の人に向けたものではあるけど、こういうことをやっている私たちというアピール感も若干感じられてしまい、子供が書いているものなどは親が書かせたっぽいし、など汚れた心でそんなことも考えてしまう。
僕が親だったら逆に恥ずかしくてやらせないし、ほんとうに感謝していたり、子供が可愛がってもらっていたら直接メッセージを書いたものを渡しにいく(それはそれで迷惑だが)と思わなくもないのだが、この辺りは人によって意見は分かれるんだろうか、どうだろう。

Tシャツをめくるシティボーイ 第8回  時代劇としての1990年代/ 文:高畑鍬名(QTV)

パン生地くんこと友人の高幡鍬名くんの連載の最新回が今朝アップされていた。
今回は現在映画公開中の『SLAM DUNK』の漫画からTシャツのタックイン、タックアウトについて論じるというもの、同時期に連載されていた『幽☆遊☆白書』も取り上げていた。
年末にお茶をした際に直接この話を聞かせてもらっていたところであり、『SLAM DUNK』のジャンプコミックスのものとその後に出た完全版や現在書店でも置かれている新装再編集版におけるタックインアウトの違いなどを詳しく書いていた。これは読みながら本当に偉いなと毎回思ってしまう。そこに目をつけて読んでいたのはたぶんパン生地君だけだ!と思うんだけど、だからこそ特別な視線がおもしろい。

夕方から日付が変わるまで仕事。その最中に友人と一件打ち合わせをした。明日から朝の仕事も始まるので徐々にいつもの日常に戻りつつある。

 

1月5日

今日から朝の仕事も開始。とりあえず今月のスケジュールを確認したり、下旬にある仕事の準備や予定を打ち合わせしたりする。
昼休みに外に出て、その帰りにトワイライライトに寄ってコーヒーで一服。日差しが差し込んでいてやわらかな光が窓際を照らしていた。
新年初だったからなにか書籍を買おうと思い、店内を見ていた時に戌井昭人著『沓が行く。』の帯に書いてあった「超短篇オン・ザ・ロード」に惹かれて手に取った。
もともとは連載していたものをまとめたと「はじめに」の部分で書かれていたが、毎回戌井さんが撮影した写真が掲載されているため、写真を載せるために紙の質が小説のものとは違っていて手に持った瞬間に「重い」と感じる重量だった。一枚一枚の紙が普段読んでいる小説の紙よりも明らかに重いからだろうが、このズシリ感がなにか呼んでいるように思えて購入して、淹れてもらったコーヒーを飲みながら冒頭だけ読んだ。
店主の熊谷夫妻と少し話をしてから家に帰った。今日から仕事始めのところも多いみたいで正月の雰囲気はかなり町から消えていたと思う。風は冷たくて大きく息をすると肺に冷たい空気が流れ込んできて冬だなって。だけど、新年ということもあって嫌な気持ちにはならなかった。

岸辺露伴 ルーヴルへ行く」映画化!高橋一生・飯豊まりえやスタッフ続投


音楽はドラマシリーズ同様に菊地成孔さんとこの間のシーズン2というか二話やったときに菊地さんと共にクレジットされていた新音楽制作工房だった。
たしか十二月の「ビュロー菊地チャンネル」内の「大恐慌のラジオデイズ」の中で、ドラマ『岸辺露伴は動かない』の音楽の〆切りの話をしていたが、その際に音楽を確認するはずのプロデューサーたちがパリにいるみたいな話をしていた。その時にはこの映画『岸辺露伴ルーヴルへ行く』の撮影が始まっていたが、情報解禁前だったから詳細は話していなかったのだなと勝手に合点がいった。

夜仕事をしていたら昨日Amazonで頼んでいたジョン・アーヴィング著/村上春樹著『熊を放つ』上下巻が届いた。
村上春樹翻訳ライブラリーの新書サイズだが、レイモンド・カーヴァーの作品もこのシリーズなのもあって僕にとって村上春樹さんは翻訳者というのが強いし、そちらのほうに僕は影響を受けているとは思う。新書サイズの上下巻って珍しい気がする。

 

1月6日

夕方に今日から今年の営業開始になったニコラへ。曽根さんに聞いたら市場の関係で飲食系は六日から始めるところが多いとのことだった、たぶん。もしかしたら市場の開始は五日だったかもしれないが。
最初はカウンターにひとりだけで誰もこないかなと思って持ってきていた『熊を放つ』を取り出して読みつつ今年一杯目のアルヴァーブレンドを。
いよかんと金柑、マスカルポーネのタルトが出てくる頃にカウンター友達というか知り合いの藤江琢磨くんもやってきた。彼は今年主演した映画が公開されるだろうから飛躍の一年になると思うし、それをきっかけにめちゃくちゃ売れてほしい。そういうポテンシャルは彼にはあると思うし、二十代、三十代と飛躍できずにおっさんになってしまった人間としては本当に祈りに近い気持ちで彼には役者として表現者として大活躍してほしいと思っている。
野間文芸新人賞を受賞した町屋良平著『ほんのこども』の装幀イラストを描いている小山義人さんもその後やってきてカウンターに。僕が二人の真ん中にいたのでそれぞれと話をしていたけど、ある時点で藤江君と小山さん二人に話を振って交流というか、二人も含めて三人と少し話をしたりした。こういう馴染みのお店で偶然同じ時間を共有している雰囲気とかタイミングだとか、そういうものをもっと大切にしたいし楽しみたいと思っていたから新年早々藤江君と小山さんとご一緒できてよかった。


今日から公開になった城定秀夫監督『恋のいばら』をシネクイントにて鑑賞。去年は城定監督作品を三作品観て楽しませてもらったので予告編を見てちょっと楽しみにしていた作品。

「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫監督が、1人の男性とその元恋人と現在の恋人のいびつな三角関係を通し、誰もが抱く嫉妬や恋心を繊細かつエキセントリックに描いた恋愛ドラマ。

図書館に勤める富田桃は、自分を振った元恋人・湯川健太朗のSNSを見て、彼に真島莉子という新しい恋人がいることを知る。自分とは正反対の洗練された莉子に興味を抱いた桃は本人を特定し、ある理由から彼女に直接会いに行く。桃は莉子に、健太朗が撮った自分との秘密の写真データを取り返したいと話し、桃と莉子は秘密の共犯関係に陥っていく。

松本穂香が桃、玉城ティナが莉子を演じ、「ブラックナイトパレード」「鋼の錬金術師 完結編」の渡邊圭祐が健太朗役を務めた。「愛がなんだ」などの脚本家・澤井香織が城定監督と共同で脚本を担当。(映画.comより)

一人の男(健太郎)を巡って今カノの莉子と前カノの桃の三角関係を描くのではなく、二人の女性の共犯関係を描いていき、二人の関係はやがてはシスターフッド的なものになっていく。最後の方で桃が莉子の存在を知った理由や彼女の本心がわかるので百合っぽさもなくもないが、健太郎をめぐる話のように見えて実はそうではないということが徐々にわかってくる。
僕が見ていておもしろく感じたのは健太郎の祖母(白川和子)の描写であり、メインの三人以外では一番多く出演していた。彼女が捨てられていたゴミから拾い集めたもので作り上げたもの、そして孫の健太郎がいないところでの桃と莉子との交流がとてもいいシーンだった。そこはとても魅力的だったが、脚本が『愛がなんだ』など今泉力哉監督作品にも関わっている方だったのでもうちょっとポップさもあるのかなと思ったけど、微妙に感情が乗せにくかった気がして約百分の作品だがもとはもう少し長かったのをテンポ良くするために短くしてるんじゃないかなって思ったりした。
城定秀夫作品を見始めたのが最近だけど、バスに乗っているシーンがよく出てくるような。あと作中でシネクイントが出てくるのだが、メイン三人がエレベーター乗って降りる描写の時に明らかにシネクイントのエレベーターではなく、ガラスで外が見えるものとなっていて違う場所のものだったりとか、撮影に適していないから場所を違うところにしたんだろうけど、知っているだけにすごい違和感があった。

 

「小説は本を閉じたところで終わらず、物語の前の時間も後の時間もある。一方で詩は、切り取られた何かであり、独立している。前や後ろがないから、永遠と接触して、不滅のものと手を結んでいる」
古川日出男が初詩集「天音」 詩は永遠と接触する

古川さんのインタビューが日経に掲載されていた。長篇詩『天音』もっと広がって届くといいな。

まさにニコラス・ウィンディング・レフン監督の世界 “ネオンで溢れるノワール・ドラマ”『コペンハーゲン・カウボーイ』

ネトフリでニコラス・ウィンディング・レフン監督の新作の配信が始まっていた。Amazonプライムで以前は『トゥー・オールド・トゥー・ダイ・ヤング』のドラマもやっていたけど、彼は闇社会を描くのが得意だろうし、そこに彼特有のネオン的な配色とかその色合いが闇と混ざり合うことで艶かしさがあって、それが生(性)と死(詩)のグラデーションみたいで僕はとても好き。
コペンハーゲン・カウボーイ』は六話とわりと短めなので早めに観ようと思う。その前にあと二話の『First Love 初恋』を見終わらないといけない、今は夏帆のターンみたいになっているところ。

 

1月7日
寝る前にTverで3日に放送された『家、ついて行ってイイですか?』新春SPのオナニーマシーンイノマーさんのパートナーだった女性、ヒロさんのその後の部分を見た。
以前に放送した部分がそのまま放送されていたので再放送かと思ったが、現在の彼女の状況を見せる前にイノマーさんが亡くなる瞬間をとらえた映像を放送するのは見ていなかった人にも親切だし、前にも見て衝撃を受けた人にも再度人間が生きて死ぬとはどういうことなのかを新年早々に見せる意義はあると思った。見ながら前の時のように知らない間に泣いていた。
イノマーさんが病院で危篤状態になった時にバンド仲間であり、彼が会いたがっていた銀杏BOYZの峯田さんがやってきて彼に呼びかけて体を触った時に、危篤状態のはずのイノマーさんの体が動き峯田さんと抱擁するような互いに抱き締めるような形になったのを見ると号泣してしまっていた。前の時もそうだったし、今回もそうなるとわかっていても自然と涙が出て止まらなくなってしまっていた。あの時本当にイノマーさんは黄泉の国にほとんど行きかけていたはずなのに、峯田さんの声と体温によって呼び戻されたのだと思ったし、彼がまだまだもっともっと生きたいのだと思っている、体は心がそう望んでいるのだということがわかる場面だった。
人間の生命の生き物の根源的な力を見せつけられたように思える、そんなシーンだった。彼が亡くなって三年が経ち、パートーナーだったヒロさんは彼と一緒に住んでいた部屋を出ることにした。その引越しの当日を撮影したものが流された。
なにかを一度しっかり終わらせないと始めることができない、だけど、喪失はあまりにも大きすぎて決断することも幕を閉じるためにもそれほどの時間がかかったというのがわかるものだった。

少し前にB&Bのイベントページに「ヒロ×上出遼平 「STILL REMEMBER THE イノマー」『BAKA IS NOT DEAD!! イノマーGAN日記 2018-2019』(国書刊行会)刊行記念」というものがあって、詳細の箇所に「イノマーさんのパートナー・ヒロさん、日記に書き込まれた最期の日々にイノマーさんを密着取材した映像ディレクター・上出遼平さん、そしてもうお一方ゲストを迎えて、トークイベントを開催します」と書かれていたが、先日そこに峯田さんも参加することが発表された。
上出遼平さんは元テレ東でイノマーさんの最後をドキュメンタリーとして撮影した人であり、ヒロさんと上出さんならもう一人は峯田さんだろうと思っていた。もちろんイノマーさんオナニーマシーンのファンだった人がB&Bへ見にいくのがいいイベントだろうなと思う。

峯田さんのファンもイノマーさんとの交流とかはわかっているはずだけど、あまり峯田さんファンばかりになってもいけないというのもあったのか、参加する発表を遅らせた部分もあるのかなと思ったりしていた。
この放送を見てはじめてイノマーさんの存在を知ってイベントに行こうと思う人もいるだろうし、こういう時ってとりあえずお客さんがたくさんくることが大事だけど、彼のファンだった人にとっても一つの区切りになるだろうから、そういう人ができるだけ多く参加すると素晴らしいものになりそうだしなってほしい。
最初にイベントページを見た時に『家、ついて行ってイイですか?』で知っていたから興味を惹かれたが、もうひとりの登壇者はたぶん峯田さんだろうし、僕はそういうところで峯田さんを見たいなって思ってしまうミーハーなところがあるから、行くべきではないよなって。かなり涙が出たせいか見終わった後にはすぐに眠りに落ちていた。

銀杏BOYZ - 光 (Music Video) 



九時前に目が覚めたので歩いて代官山蔦屋書店へ。今日は文芸誌の発売日なのでそれを買う目的で散歩へ。目当ての『群像』以外にも『文學界』『新潮』『すばる』『文藝』と五紙揃っていた。
『文藝』で今回から古川さんの新連載も始まるので『群像』と一緒に購入した。文芸誌は年々分厚く定価が上がっているので二冊購入すると三千円ぐらいになる。『文藝』は季刊誌なので毎月でないが、古川さんの連載がやっている間は買う。
あとは用事もなかったので帰りに池尻大橋のスーパーで昼ごはん用の惣菜を買って帰った。行き帰りの間はradikoで『バナナマンバナナムーンGOLD』を聴いていた。占い師の島田さんの占いだとバナナマン設楽さんがほんとうに売れるのは2026年らしい、今出演番組数年間一位の人がもっと売れるっていう次元がどんなことかもう意味がよくわからない。


『群像』連載中の古川日出男『の、すべて』第十三回から読む。
前回は都庁でテロに遭った大澤光延こと「スサノオ都知事」の臨死体験、そして「スサノオ」という名が示す黄泉の国との逸話、神話を反復するような話を彼の伝記を執筆中のアーティストである河原真古登が聞く/知るというものだった。
今回は河原が新宿を舞台に彼も黄泉行きを試すというものとなっており、そしてこの伝記における大澤光延に関する関係者の中でいまだに出てきていないある人物に焦点をあてるものとなっていた。その人物を河原が自身にトレースすることで物語はひとつさらに深いところに向かおうとしているのがわかる。次回からフェイズが変わる、そういう雰囲気があった。


『文藝』2023年春号、『文藝』はリニューアルされてから本誌を購入したのはこれがはじめて。どうしてもこの装幀デザインはイヤだ(ダサい)なって思ってしまう、ポップなのがダメというわけではないんだけど、滲み出すものが僕は対象ではないなと感じてしまう。
最初に目次を読んでいて目に入ったのが今回の瀬戸夏子+水上文責任編集の特集「批評」の中になった大塚英志ロマン主義殺しと工学的な偽史」だった。工学化していくもの(インフラとしてのSNS)と偽史との相性の良さ、Qアノンとは文学の問題であるというのは前から大塚さんが言われていることだが、それがここでも改めて言及されていた。

 村上春樹は断片的な挿話を重ねていって、初期三部作を一緒の「サーガ」として見せながら、同時にデレク・ハートフィールドという、虚構の人物の上に小説を上書きすることで、読み手の拠り所をすかしてみせたわけでしょう。初期三部作において架空のサーガをつくることによって、代替歴史への欲望を批評してみせた手際は、やはり見事だったと今も思います。
(中略)
 このフェイクの歴史をつくる欲望が問題なのは、それが「私」の拡張になること。つまりロマン主義です。だからフェイクはフェイクなんだと一度騙した後で、そのテーブルをひっくり返してあげなきゃいけない。そういう「義務」をあの時点での村上春樹だけはやってみせたわけです。だからオウムをあの世代で唯一、自分の方法の問題と言い切れた。「偽史」は文学の問題なのですから。
大塚英志ロマン主義殺しと工学的な偽史」P125より

この大塚さんの文章はもうちょっと経ってから読み返してみようと思えるものだった。
今まで何度か大塚さんにはインタビューをさせてもらっているが、今年は『東京オルタナティヴ』もコミックとして出るだろうからその時にはお話を聞かせてもらいたい。去年お会いした時にはそのことは伝えてはいるが、どうなるかはわからないけれど。

その次はまだ古川さんの新連載には行かず、創刊90周年連続企画1『阿部和重が語る「J文学とは何だったのか」』を読み始めた。
ここで興味深いのは90年代の「J文学」を語る際のマップの真ん中に村上龍さんがいるということ、多くの「J文学」の書き手と呼ばれた人たちは村上龍さんの影響を少なからず受けていたという話を阿部さんもしている。

 今また時代が似通ってきているところはありますよね。要するに当時は、サブカルに影響をあたえた文芸作品、ストリートカルチャーに最接近した文学の代表格として村上龍の小説があったと思うんですね。村上龍がデビューする1976年に何を持ち込んだかというと、それまでの文芸誌では見られなかったような、あるいは『太陽の季節』以来となるような銅時代の風俗や生々しい若者像だったと。そして80年代に入り、『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』といった決定的な近未来SF作品でユースカルチャーを先導し、文学外のジャンルに対しても多大な影響力を持つほどになる。そういうこともあり、おそらく中上健次村上龍に嫉妬していた。『異族』がなぜ失敗し未完に終わったかというと、中上には村上龍のようなポップでサブカル的なセンスが欠けていたからかもしれない。村上龍の作風がフューチャリスティックであるのに対して中上健次はノスタルジックであることが、80年代バブル文化への対応に中上が苦労する要因だったとも考えられる。だから、中上健次にはストリート感覚はあっても都市化されたサブカル性ではなく土着的な路地のセンスなので、そこに立ちもどって現代性を捨てて書いた『奇蹟』が大傑作になったという経緯になる。いずれにせよ、そうした潮流を経て出てきた90年代の作家というのは、多かれ少なかれ、村上龍のつくった磁場の中で書いているので、このマッピングになるというのはひじょうに理に適っていると思います。
阿部和重が語る「J文学とは何だったのか」』P294

大塚さんのところでも中上健次の話は少しだが出てきており、ここで村上龍の影響下にある世代である阿部和重さんが中上健次について語っているのは興味深い。
その後、聞き手である「文藝」の元編集長だった阿部晴政さんがこのマップの中心が2000年代に入ると村上龍からセカイ系の先駆とも言われることになる村上春樹になると話をされていて、さらに90年代のストリート的なものからゼロ年代になるとサブカルやオタクカルチャーに移り変わっていったというのはまさにそうだったと思う。それが10年代も続いていって、今は阿部さんがいうようにサブカルもオタクカルチャーもネット文化も包括しながらのストリート的なものが、アンダーグランドなものや「戦争」や「内戦」的なものが90年代と似通っていると感じられる要素があるのだろう。

そのあとに古川日出男新連載『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』を読む。内容は『文藝』サイトの紹介文では【「桁外れの物語力を持ったはずの京都が、ふいに敗れた」――何に敗れたのか。それはパンデミックという「物語」に。観光都市・京都を舞台に日本史と人類史が交叉する。古川日出男のシン・ノンフィクション、開幕。】とあった。
これは小説(フィクション)ではない、『ゼロエフ』の次のノンフィクション作品となるみたい。タイトルにあるように「京都」という場所をメインにしたものだが、画家の伊庭靖子さんやメディアアーティストの藤幡正樹さんとの対話ややりとりなども入っており、芸術というものと歴史というものを重ねていこうとしているのかなと少し思ったりもした。『の、すべて』の語り部である河原真古登もある種のメディアアーティスト的な総合芸術家だったりするので、その辺りもリンクしているようにも並行して読んでいると感じられる。

早稲田大学国際文学館主催【柳井イニシアティブ】展示とトーク「ここにいた」

小説家、彫刻家、工学者、メディア・アーティスト。
それぞれがそれぞれの視点から。
4人のアーティストによるパフォーマンスとトークセッション

年末に国際文学館(村上春樹ライブラリー)のサイトを見ていて一月二十八日に開催されるこの展示とトーク「ここにいた」を見つけたので早速予約をしたが、こちらに古川さんと藤幡正樹さんも登壇される。
藤幡さんと古川さんがUCLAで会ったことや、全米日系人博物館での藤幡さんのインスタレーションの話も前に古川さんの日記(ブログ)で読んでいた。
僕も2017年にロサンゼルスに行った際にこちらには寄っていたので記憶とお二人の邂逅がなにかリンクしている、そんな気すらした。僕の大叔父で初生雛鑑別師だった新市さんが日系移民だった服部さんという人の元で1939年の一年間お世話になっていたこともあって、ここは見に行かないといけないと思って訪れた場所だった。そのこともいい加減にまとめないといけないから三月末には仕上げるつもり。

話を『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』に戻すとこの作品の中で、古川さんはご自身が色弱という話をされている。これはある時期にトークイベントか何かの対談かで話されていて僕は知っていたが、あまり公に言うことでもないので知らない人も多いのかもしれない。
僕が二十代でずっと追いかけていたバンド・Dragon AshのフロントマンであるKjこと降谷建志さんも昔雑誌かなにかで色弱かそういう先天的なものがあるという話をしていた記憶があって、ニコラス・ウィンディング・レフン監督も色覚障害があって色彩コントラストの強い独特な画面になっていて、それに惹かれる部分が僕にはある。
不思議と僕が惹かれる才能の人はそういう部分がある、普段はそんなこと思わないし、思いだしもしないのだけど。
今作では現代語訳された『平家物語』のことだったり、紫式部の話など現在のパンデミックと千年以上前の世界などを繋げていく、思考を深めていくというノンフィクションになっていくのだと思う。そしてこれがデビュー25周年に開始された新作ということになる。

 

1月8日
七時ぐらいに目が覚めて十時ぐらいまで作業をする。昨日の夜にやっておこうと思っていたが、なんだか頭が働かなかったので起きてからやろうと思っていた。やりはじめたら思ったより時間がかかった。
その作業中は深夜に放送されていた『オードリーのオールナイトニッポン』を流していた。年末のTBSでやっていた『クイズ 正解は一年後 2022』での春日さんの娘さんとロンブー淳さんの娘さんの走りっこ競争の裏話もあったが、若林さんが渋谷の東急百貨店が一月末に閉店になることについて話していたのが興味深かった。

若林さんがル・シネマでバイトしていたことは知っていた。僕の知っている人が彼と同時期にそこでバイトをしていたので、少しだけ当時の話を聞いているのもあったし、ラジオでも何度かそのことについて話もしていた。
Bunkamuraと東急百貨店は通路でつながっており、バイトをしていた若林さんはカップラーメンとおにぎりを持って、東急百貨店の屋上で昼休憩をしていたという。その後、芸人となってから稼げるようになったら車で東急にやってきて八階のレストランフロアでちょっと高めの料理を食べたいと思っていて、実際にそれはかつて行ったとも話をしていた。

僕にとっても渋谷という街は東急百貨店がわりと中心にある。若林さんも話していたように渋谷という一等地であれほどの広さを誇る丸善ジュンク堂書店は本好きには大切な場所だし、実際に僕は週に何度も足を運んでいる。いろんなジャンルの書籍がしっかり揃っている稀有な場所だった。それもあって渋谷という場所を思い浮かべると起点が東急百貨店渋谷・本店になっている。
ヒカリエには以前職場があったが、あの辺りや今も再開発中の駅の南の渋谷川方面や桜丘方面というのはあまり馴染みがなく、さほど足を運ばない場所だったため僕にとっての渋谷という感じがしない。今月末で一度閉店して現在の建物は壊してから高層マンション付きの大型の施設になるみたいだが、それができるのは2027年となっておりその間の空白はどうしたらいいのだろう。

百貨店というものは古き良き時代の象徴だからどんどん無くなっていくのは仕方ないかもしれないが、なにもかも新しくしていった先にほんとうに若い人やかつて足を運んでいた人が戻ってくるのか、あとBunkamuraという場所は演劇やクラシック系のコンサートなどでは非常に大事な場所なのでそこがすぐではなくても最終的には開発されてある期間使えなくなるのはそれらの関係者は頭が痛いだろうなと思う。
ル・シネマは宮益坂を上る手前の交差点にあった「渋谷TOEI」が営業していたところに移転することはすでに発表されている。2002年に上京してから渋谷はミニシアターがたくさんあったから僕には大事な場所となっていったが、この20年でほんとうに映画館の場所が変わっていき、何館もが閉館していった。だから、昔の記憶の場所と今現在建っているものと重なり合って僕の知っている渋谷はダブってみえてしまう。

東急百貨店本店跡地の再開発、詳細発表 地上36階複合施設に外資系ホテルも
https://www.shibukei.com/headline/16835/


午前中の作業が終わってから、このタイミングならと思って散歩がてら東急百貨店渋谷・本店へ向かった。昨日文芸誌も買っているので特に買いたい本はなかったが、大きな書店という場所は僕にとってはオアシスというか、心の落ち着く場所でもあるので毎日行ってもいいぐらいだ。それにもう一ヶ月も営業をしないのだから、できるだけ足を運んでおきたかった。

店舗に着いてからまず書店がある七階のフロアまで行ったが、いい機会だから屋上へ登ってみた。『オードリーのオールナイトニッポン』を今朝聞くまで、僕はなぜか勝手に屋上には夏の時期のビアガーデン以外では上がれないと勝手に思い込んでいた。フロアガイドを見ると屋上(RF)にはペットサロンとガーデニングが入っていたが、僕には関係のない場所だったのでそのことすら把握していなかった。ペットサロンとガーデニングってあったんだ!という驚き。
八階のレストランフロアからル・シネマに直通でつながっているエスカレーターがあるから使用することはあったが、さらに上へということをまったく考えていなかった。意識が向いていないと存在していても、そこにあるという認識ができない。それは存在しているのに見えないということでもある。視野狭窄。去年の夏で終わってしまったビアガーデンには早めに気づいて足を運ぶべきだったと後悔はしている。

丸善ジュンク堂書店でこの前はなかった『カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻』の文庫があったので購入して帰った。
屋上にはちゃんとしたカメラを持って撮影している人もいた。僕みたいに若林さんのラジオを聴いて訪れる人もこれから来るだろうし、今月末の閉店までは懐かしむ人たちがたくさん訪れるんだと思う。そうやって思い出になって、建物自体は消えてしまうから記憶の中や写真や映像の中で存在するかつての場所になる。

寒竹ゆり監督が語る “あの時代”を描き、いろんな世代の記憶や感覚とリンクする『First Love 初恋』

あらすじ:1990年代後半、北海道の田舎町で野口也英と並木晴道は出会う。ふたりは瞬く間に恋に落ち、きらめくような高校時代を過ごす。卒業するとCAになる夢を叶えるため也英は東京の大学へ、晴道は航空学生として自衛隊に入隊し、離れ離れに。さらに境遇の違いから気持ちも徐々にすれ違って、ある日些細なことでケンカ別れしてしまうのだった。それから20年の歳月を経て、運命はもう一度ふたりを引き合わせるが―。

夏帆ターンが始まったかと思えた『First Love 初恋』第八話、そしてその次の最終話を見た。あれ、也英が昔晴道と一緒にいうメタタイムカプセルをひとりで掘り出して、そこに埋められていたマルボロのケースに入っていた晴道の高校時代の思いを書いた紙(手紙)を読んだ也英はいつの間に記憶が戻ったんだろう。いや、当時の記憶は戻っていないけど再会した晴道のことが好きになったという気持ちに正直になったということだったのか。なんかよくわからないけど、どうなったんだ。ここで出てきたタバコを彼女も仕事終わりに自分で買って吸ったりする。その匂いの記憶が記憶を呼び戻すキーになったってことだろうか、宇多田ヒカルの歌詞に出てくる「最後のキスはタバコのflavorがした」ってことにかけているのはわかるんだけど。

晴道は結婚間近だった恒美(夏帆)と別れる(恒美はあっさり身を引く。これは同じ夏帆さんが演じた『silent』の奈々にもちょっと通じている)が、也英の想いを知っても彼女から離れて海外へ旅立った。
最終回は昔のトレンディドラマみたいに海外にいる晴道の元へ也英が会いに行ってハッピーエンドを迎えるというものだった。三年経った最終回は也英の息子の綴が音楽で成功していたり、彼が恋心を抱いていたダンサーの詩と再会して、そこで晴道の居場所を知った也英に会いに行くという展開になっていく。父と息子の葛藤などは端折られており、綴の父はもう息子の成功を喜んでいる描写が言い訳程度には入る。
最終回は話がどんどん進んでいく感じだった。ちょっと急にクライマックスに向かっていくご都合的なものも感じられるが、今まで下地を作ってきているからそこまで気にはならないし、大事なのは也英と晴道の想い(初恋)の行方を描いているのだからという強気さも感じる。

也英と晴道が最初に出会った、互いに初恋を抱くきっかけの十代のシーンと現在の三十代の二人のシーンが交互に展開していく。東日本大震災やコロナパンデミックも作中に取り込んでいるあたりは丁寧に作られていたと思う。僕も同世代に近いので主人公たちの高校生時代から二十年を描いているから小道具やいろんなものにリアリティがあった。
也英を演じたのは二十代中盤以降から現在までを満島ひかり、十代から二十代前半を八木莉可子だった。二人とも素晴らしいと思うのだけど、やっぱり八木の顔と満島の顔の系統は違うで年齢を重ねてもそこが一致しなかった。
演技力とかもろもろで選んんでいるのはわかるんだけど、月日を経た前と後の役者さんの顔に違和感があると物語にどうも入りにくい、あと過去と現在が交互に展開しても同一人物には感じられないため感情移入しにくい。それだったら過去編は過去編で最初の方の回でやって現在は中盤以降でやるという方がまだよかった。
問題は話の展開場、過去と現在が交差することで二人の初恋を描こうとしているため最終回のようなストーリー展開になるのはわかるんだけど、どうしても同一人物には見えない。そこだけがなあ。

幻想の画家、夫婦の共鳴と差異。特別展「藤野一友岡上淑子」が福岡市美術館で開催へ|美術手帖 

少し前にフェイスブックツイッターで回ってきた美術手帖の記事。恥ずかしながらこの藤野一友さんと岡上淑子さんのことをこれを見るまで知らなかったのだけど、この記事の一番最初に紹介されている藤野一友『抽象的な籠』という作品のことは知っていた。
『抽象的な籠』はフィリップ・K・ディック著『ヴァリス』の装幀イラストとして使用されていたものだったから見覚えがあった。現在は「ヴァリス」シリーズ(『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』)はハヤカワSF文庫になっているが、最初はサンリオSF文庫から出ており、その際に使われていたのがこの『抽象的な籠』だった。

このツイート(2019年のものだった)を見て知ったが、サンリオSF文庫版の「ヴァリス」シリーズ三部作の表紙はすべて藤野一友さんの絵を使用しているようだ。長いことその神秘的でありながらなにか違和感をも感じさせる絵のインパクトが印象に残っていたが、三部作全部同じ方が描いていたのか、知らなかった。この絵はディックの世界観にとてもよく合っている。
現在のところサンリオSF文庫は消滅していて、ハヤカワSF文庫で刊行されているのでこの作品たちが表紙の本は一般的には流通はしていない。
昔からのSFファンだったら知っているだろうけど、今は使われていないってことを考えるとこの『抽象的な籠』『眺望』『卵を背負った天使』の三作品を装幀イラストに使う人がいてもいいのに。『抽象的な籠』はすごく目を引くし、絵の構造としても物語が濃く漂っていて、こういう絵を使った小説だったら誰が書いていても僕は一度は手に取る。

 

1月9日
九時前に目が覚めたが、寝起きまなこのままでTVerで昨日放送したバラエティを流していたらうたた寝してしまい、気がつくと九時を過ぎていた。
今日九時から販売になる「NIKE SNKRS」で販売されるスニーカーを買おうと思っていたので、サイトに接続するがサイズと購入方法を選ぶと順番ですと表示が出て少し待っていると売り切れとなっていた。サイトを見てみるとほとんどのサイズは残っているように見えるが、二度ほど試したが売り切れているようだった。
そのスニーカーの名前で検索するとすでに定価よりも高い価格でスニーカー販売サイトで売られていたりした。転売ヤーがそうしていると思うのだが、そこで買うのは嫌なのでもう買えないかなと思って、名前で検索すると普通の「NIKE」のサイトのほうも検索の上のほうにあったのでそこで見てみると今回の2カラーと以前に出ていた2カラーの4種類が表示されていて、欲しい色をクリックしたら在庫はあるみたいだったので普通に注文できた。
NIKE SNKRS」はアクセスが集中するので売り切れみたいなことになっていたのかもしれない。今履いているスニーカーも一年半ほど履き潰していて、ソールもすり減っているし右靴の親指の辺りは穴が空いてしまっていたのでそろそろ新しいものが欲しかった。
2020年の夏に福島県の6号線を歩いたスニーカーは今回購入したのと同じISPAシリーズのものだった。個人的にはこのISPAシリーズはデザインもカッコよくいい意味でNIKEぽさがないのも好みだったりする。


今日は何にも予定がなかったのでとりあえず家を出た。数日前から足腰を鍛えるための運動を始めたのでプロテインを飲んだ方がいいのかなと思って、ドン・キホーテ中目黒店まで行くことにした。渋谷方面に行くのと中目黒方面に行くのも距離的にはあまり変わらないからちょうどいい距離と時間だ。
お店についてプロテインをいくつか見たがあまりしっくりこなかったので、今度でいいやと思って店を出てから中目黒沿いを歩いて駅方面に向かった。川の水が流れているところに鉄板が敷かれていてそこをブルドーザーみたいな車種の工事用の車が音を立てて走っていて二度見した。そのまま進んでいくと水を堰き止めていて、写真のように工事なのか整備をしていた。初めて見た光景だったので新鮮だった。
そのまま前にパン生地くんと今度行こうと話していた飲食店前で店の名前を改めてチェックをしてから、坂を上って都道317号に出て、そのまま代官山蔦屋書店に寄って中をふらふらとしてから池尻大橋方面に戻った。


一度家に帰ってお昼ご飯用のお米をセットしてもう少し歩こうと思って駅前に。キャロットタワーの三階にある生活工房ギャラリーに行ってみた。
現在は「岡本仁の編集とそれにまつわる何やかや。」という展示が開催されていた。岡本さんは『ブルータス』あんどマガジンハウスで雑誌編集に携わっている編集者。
イデアというかイメージを具現化するための思考をどうインプットしているのかアウトプットしているのかというのを展示にしている。写真がすごくよくて見入ってしまった。その場所に行きたいなと思えるお蕎麦屋さんとか場所があった。


家に帰ってくるとポストに「TBSテレビ」と印字してある封筒が刺さっており、なんだ?と思って開けてみると二月公開のドキュメンタリー映画日の丸~寺山修司40年目の挑発~』の試写の案内だった。
映画館で特報みたいな短い予告を見ていたこともあって知っていた作品だったこともあり、試写の予定日の中からスケジュールで行ける日時があったのでウェブで予約した。

「ダシュウッド・ブックス」のお客さんは対話を求める人が多いので、AIやアマゾンではできないコミュニケーションが必要になります。マーケティングの視点だけで本を紹介するのではなく、対話を通して専門性を共有できる場所が実店舗の意義だと思います。会話を通して新たに発見できるものは多々ありますし、マーケティングやAIとは異なる観点から見えてくる写真や写真集は確実に存在します。

創造力というものは1+1が3にも4にもなるもので、何気ない会話や偶然によってもたらされることが多いと思います。実店舗はそのような対話を生み出せる。その点も「ダシュウッド・ブックス」の魅力だと思います。

須々田:現在、SNSインフルエンサーの影響が強くなり、与えられる情報だけをそのまま鵜呑みにして、自分で経験したり考えることが希薄になっているように感じます。また、多くの人が便利で効率的なものだけを求めたり、拝金主義であったり……マーケティング重視のものづくりや進め方はビジネスとしては理解できますが、アートの分野はそれだけではいけない。アーティスト自身や購入者がそういう考え方だとすると、本当に作品の良さは伝わらないと思います。

私は「ダシュウッド・ブックス」でコンサルティングを担当し、セッション・プレスでは写真集も制作していますが、効率だけを求めて仕事に取り組むことをしては、人を感動させるものは作れないと思っています。私は、売れるかどうかよりも人の心を動かすことを重視しているので、たとえ、世の中の基準から外れていても、作品に人の心を打つ強さがあると感じた時、その感動を伝えたいと願い写真集を制作します。それは、人が記憶として心に覚えていることは、どう感じたかが全てであると思うからです。感動というのは、事実の正確さに感動するのではなくて、自分の心がどう動いたかに拠ります。生きた記憶というのは、どれだけ個々人の心に響いたかを指し、それが芸術であることの全てだと思います。

また、現在さまざまな場面でSNSの声や大衆の目に対して過度に敏感になっているように感じます。「清く、正しく、美しく」のような風潮が強くなっていて、それは生き方全般に関わることについて至る所で見受けられます。自分が関わっている写真の分野では、たとえそれが「清く、正しく、美しく」なくても、人の心を揺さぶるようなものであれば、積極的に世の中に出していきたいと思っています。つまり、生身の人間というのは、もっと複雑で不合理で不確かであやうい存在であるのだから、それを封印するのは、アートという本来のあり方の逆のベクトルのことだと思うからです。

リアルストアの重要性と写真集の可能性とは 「ダシュウッド・ブックス」須々田美和インタヴュー

Twitterで見かけていた記事を読み直した。数は大事だが、それによって操られているようなSNS隆盛の時代においてアートとは創作とはなにかということをしっかり経験によって答えられていて読んでよかったと思える内容だった。
大事なのは人の心打つ強さがあるかどうか、揺さぶれないのであれば芸術ではないという真摯な声と思いがある。

Frank Ocean - Nikes | (music video) 

 

1月10日
日付が変わって寝る前に年末から読むのが止まっていたトマス・ピンチョン著『重力の虹』下巻とウィリアム・フォークナー著『ポータブル・フォークナー』を少しだけ読み進める。
重力の虹』はもはや何を読んでいるのか、何が起きているのかわからないところもあるが、日本人兵が出てきた。ピンチョンは執筆の取材の日本に滞在していた時期もあると言われているし、日本人の感じとかはおそらくわかっているのだろう。
ある翻訳家の方がTwitterでピンチョンの話から映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』はピンチョン風味と言われていた。僕はこの映画がかなり大好きなのもあって、ピンチョンを読むことにそれなりに意味を見出せるかもとちょっと期待はしている。日本人兵が出る前の部分で主人公とたぶん十代の少女との性交についての描写があったが、なんとなく村上春樹さんの作品の描写にも通じているような気がした。
『ポータブル・フォークナー』は第五部の「1902年 ザット・イヴニング・サン」を読んだが、短編としてもわかりやすい内容だった、このまま読んでいくと五部には『エミリに薔薇を』や『響きと怒り』のある一部分が収録されているようだ。これらは以前に読んでいるのだけど、この「ポータブル」は時系列順に並べてあるので前に読んだ時とは違う感触を覚えそう。

朝晩とリモートワーク。仕事中はいつものようにradikoで深夜放送を聴きながらの作業。『Creepy Nutsオールナイトニッポン』ではR-指定さんの大晦日のコロナ感染の話や婚約指輪を渡す件などもあって、去年の終わりからの繋がりがあった。松永さんは年始の休みでラジオ大阪の『四千頭身 都築拓紀のサクラバシ919』にハマった話をしていた。
僕は『三四郎オールナイトニッポン0』からSpotifyラジオ番組『83Lightning Catapult』(アルコ&ピースの酒井健太三四郎相田周二)を経てから『都築拓紀のサクラバシ919』を聴くようになったのだが、三四郎の番組からの流れってかなりあると思う。
ラジオのおもしろさはそれぞれのパーソナリティたちの仕事のことやプライベートなこと、総じて人生というか今を生きていることが生の言葉で、自分自身から発していることだし、それがもちろん大きな魅力。
コロナパンデミックになってから再びラジオを聴くようになってからは、そのレーベル(オールナイトニッポンとかJUNKだったり)だけでなく、他の局の番組とのリンクやパーソナリティ同志のやりとりや関係性を楽しめるのは他のメディアにはあまりない特徴だと思うし、ハマっていくとどんどん他の番組にも派生していって聴くようになってしまうのもよくわかるようになった。

アントマン&ワスプ:クアントマニア」本予告 


MCUマーベル・シネマティック・ユニバース)のフェーズ5の一発目となる作品『アントマン&ワスプ:クアントマニア』の本予告が公開されていた。
わりと「アントマン」シリーズは好きなのでたのしみ。これが今年一発目のIMAXで観る映画になるのかもしれない。量子化学と家族の話だから、東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』のことがちょっと脳裏をよぎる。

今日は休憩中に行った整骨院で毎週お願いしている先生以外とは誰ともちゃんと話をしてないことに気づいた。レジとかでありがとうございますとかは会計後にいうけど、それはパブロフの犬みたいな習慣化されているだけで会話にはなってないし。かといって出社しても人と話さないで作業しているから同じか。
誰とも話さないことよりも家にずっといるほうがストレスは溜まっていそうな気がする。一日の間にやっぱり一時間ちょっとは散歩がてら外を歩くのが一番リラックスしている瞬間なのかな。

 

1月11日

先日注文していたNIKE「ISPA センス フライニット(ミネラルスレート/ラタン/マグマオレンジ)」が届いた。ぶっちゃけすごく履きにくいので慣れるまで時間がかかりそう。
アッパーのくるぶしの部分がその上まであって、伸縮する素材でちょっとソックス感もあって、つま先から入れるところがわりと狭いのでかかとを踏んで足を入れるみたいなこともしにくい。デザインとカラーリングは好きだし履き潰す。
履いた感触だとかなり軽いけどホールド感はあるし、足裏の感触の反発感ではないが弾力がちょうどいい。明日はこれを履いて肩慣らしならぬ足慣らしで少し距離を歩いてみようと思う。

Tシャツのタックイン/タックアウトを
「流行」「風俗」「習俗」の三段階で見ていくと、次のようにまとめることができます。

もともと下着だったTシャツは、人前で一枚で着るものではなかった。
そんなTシャツを外着として一枚で人前で着る行為は日本に定着した「習俗」である。
Tシャツの裾にを「入れる風俗」と「出す風俗」が時代ごとにあり、
「流行」という亀裂が入ることによって風俗は断絶、そして反転する。
1980年代の末までは当たり前だった「タックイン」という風俗が、
1990年代に流行したタックアウトによってひっくり返され、
タックアウトが次なる新たな風俗となっていく。

Tシャツをタックアウトする「流行」が「風俗」として定着したこと。
裾を出すことが単発の流行で終わらなかったこと。
何年も続いて風俗になったこと。
これが大切です。

「ダッドスニーカー」の人気に火をつけたのがBALENCIAGAの「TRIPLE S」でした。
2010年代の後半には「ダサいのがいい」という気分が醸造されたのは、
なんとなく生まれた気分ではなく、あるデザイナーが大きな役割を果たしていると思います。
それがBALENCIAGAの現アーティスティック・ディレクター、デムナ・ヴァザリアです。
彼は2015年にバレンシアガの舵取りを任されてから、チープなアイテムをモチーフにした作品で世間に衝撃を与え続けています。

Tシャツをめくるシティボーイ 第9回  同調圧力の時刻表/文:高畑鍬名(QTV)

パン生地くんの連載の最新回が更新されていた。Tシャツのタックインタックアウトについての論考をここまで書けるのは彼だけだろうしやはりおもしろい。時代ごとの移り変わりについての話とBALENCIAGAのスニーカー(この手のデザインは本当に一時から異様に見かけるようになった)が象徴する「ダサいのがいい」というのはわかりやすいし、いい切り口だと思う。
確かに90年代に思春期を迎えた僕たち四十代前後からするとそれってダサいよねっていうものが今の十代や二十代のファッションに取り込まれていることは多い。ただの90年代リバイバルだけではないものとの融合が起きていて、ファッションってほんとうに時代というものに照らされて変化していると感じることは自分が若者でなくなったからのほうがよくわかる気もする。

 

以前からミシェルが明かしているように、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主人公は本来男性であり、最初にジャッキー・チェンにオファーされた役だった。しかし、最終的にはミシェルが役をゲットし、同作が高い評価を得ることになった。

ミシェル・ヨー、エイジズムに言及「年を取れば取るほど、能力よりも年齢で見られてしまう」

元々はジャッキー・チェンにオファーされていたのか知らなかった。でも、彼が断ったことでこの作品はまさしくマルチバースの別の可能性が現れて成功したのだと思うし、ジャッキーがオファーを受けていたらここまでの評価や全米でも当たらなかった可能性もある。それは結局のところはわからないのだけど。

日本時間1月11日(現地時間1月10日夜)、アカデミー賞の前哨戦とされる第80回ゴールデン・グローブ賞の授賞式がロサンゼルスのビバリーヒルトンにて3年ぶりにリアル開催。A24作品の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』がミシェル・ヨーキー・ホイ・クァンの俳優賞受賞で2冠、『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』で女王ラモンダを演じ、助演女優賞を受賞したアンジェラ・バセットのスピーチなどで会場が沸いた。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』からは主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)にミシェル・ヨーが選ばれたほか、キー・ホイ・クァン助演男優賞を受賞。

ミシェル・ヨーは先日も米の番組で、ハリウッドでは年齢を重ねることで役を得る機会が減ってしまうことを語ったばかりだが、アジア系女優として自身の闘いをふり返りながら40年立ってきたこの舞台に立ち続けることを力強く語っていた。

第80回ゴールデン・グローブ賞ミシェル・ヨーが 『エブエブ』で主演女優賞!『犬王』は受賞ならず

今年映画でたのしみにしている『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の主演のミシェル・ヨーが主演女優賞に選ばれ、その夫役のキー・ホイ・クァン(『グーニーズ』のリッキー・ワン(データ)役)が助演男優賞を受賞したといううれしいニュース。これで日本での三月三日の公開ももう少し拡大されるといいし、IMAXでの上映回数も増やしてほしい。

ハリウッドにおけるアジア人差別についてミシェル・ヨーはスピーチで語ったというニュースも見たし、アカデミー賞の前哨戦と言われているゴールデン・グローブ賞でこういう結果が出ているので、アカデミー賞でも彼女や『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の快進撃がたのしみ。
アメリカにおけるアジア系移民の問題などもこれでもっと語られたり関心は持たれたりするだろう。日本にいるとやはりそういうことに鈍感になりがちで他人事のように思ってしまうが、自分が海外の映画や小説を読むことでわずかながら知っていることは現実の表象のひとつであり、海外にいけば自分も差別されたりするという意識がないと世界で起きている出来事や事件もどんどん理解できなくなってくる。
もちろん、日本に住んでいる海外の人たちへの差別とかそういうものだってゼロではない、差別主義者にならないために知らないといけないことはたくさんある。もっと自分の内側に沈み込めることと同様に外側に飛び出ていくこともしていかないといけないなと思う。なにはともあれ映画がほんとうにたのしみ。

朝晩とリモートワーク。多少仕事が進んだし、先週よりは脳みそも動いている気がするし、やる気が全くなかったモードから通常モードへは戻っていると思う。

 

1月12日

起きてからTVerで『あちこちオードリー』を見た。マヂカルラブリーとランジャタイという地下ライブ芸人出身の二組がゲストだったが、今回は非常におもしろかった。『あちこちオードリー』はゲストによっての当たり外れというよりも何回も見たい時と一回でいいやって時が極端に分かれている。だからこそ、続くものになると思うしマンネリ化しないのかなって思わなくもない。
木曜日は休みにしているので特に予定がなかったので、昨日届いたNIKE「ISPA センス フライニット」を履いてできるだけ距離を歩いて足に慣らそうと思った。というわけで元旦に寄ったけど本堂にはお参りができなかった豊川稲荷東京別院まで歩くことにした。だいたい一時間半ぐらいの距離なので足と靴を馴染ませるにはちょうどいい。
新しいスニーカーだからソールでアスファルトとかコンクリとか地面の感触がよくわかった。歩き潰してソールがすり減るとこの感触はなくなってしまう。

家を出てからすぐにradikoで『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聴き始めた。番組の時間が約一時間半なので聴き終わることにちょうど到着する感じ、佐久間さんの2022年の映画やドラマや舞台のベスト10の話とか、映画の一位があれなんだ!という驚きもあったり。見事に聴き終わる頃には赤坂御所横の歩道を歩いていたので、豊川稲荷に着く前にイヤフォンを外して中へ入った。
平日だけど、わりと参拝しに来ている人がいたのでちょっと賑やかだったし、やっぱりここにお参りする人は多いんだなと改めて感じた。本堂へお参りしてから、元旦に参れなかった七福神の何柱かと三神殿(宇賀神王・太郎稲荷・徳七郎稲荷)と愛染明王と招福利生大黒天にお参りをする。あとは財布に入ったままの融通金を返して新しいものに交換させてもらった。
財布の小銭もほとんどなくなったし、新しいスニーカーで歩くのが心地よかったのでこのまま家まで帰ることにした。赤坂御所前で急に radikoがプチリと一瞬切れたりするのが続いたんだけど、なにかの思い過ごしだろうか。

GAGA近くの道を曲がって青山霊園の入り口へ、いま書いている作品にも出てくる場所だし、それもあって今日歩いたというのもあった。実際に久しぶりに来てみるとアイデアが浮かんだ。そして普段は歩かない場所を歩いて渋谷方面に向かった。

ほとんど家に帰った時にNIKEのRUNアプリで距離をみると18キロぐらいだったのでこのまま終わるともったいないなと思って駅の方に行って距離を稼いだ。家に戻ってくると20キロ超えていた。新しいスニーカーでこの距離を歩いても靴擦れもなかったし、歩いたぶんだけ馴染んだ気がした。


夕方にニコラに行ってアルヴァーブレンドとガトーショコラをいただく。


ニコラにいる時に昨日買っていた団鬼六著『死んでたまるか 団鬼六自伝エッセイ』を読んでいた。
晦日に賭け将棋で勝ったあとにその金がないという相手の家に連れていかれて、女房を代わりに抱いてくれという話とか、最初の戦時下の捕虜になっていたアメリカ兵との交流とかエピソードがどれも強烈なインパクトがありながら、人間の業や欲望や哀愁、喜びや悲しみが散りばめられていてどんどんページが進んでしまった。

【あの声優がまさかの特別ナレーション担当】『オナ禁エスパー 竜丸短編集』コミックス発売記念PV【漫画】 


帰る前にTSUTAYAのコミックコーナーに寄ったら竜丸著『オナ禁エスパー 竜丸短編集』が出ていて手に取った。この表題作は以前イゴっちから教えてもらって読んだ作品だったので、コミックスが出ていることをラインしたら、このプロモーション動画のURLが送られてきた。
売る気満々なのか?どうなんだろう。そして動画を最後まで見ると超大物声優がナレーションをしていた。これはシンジくんを彷彿させたいのか? この『オナ禁エスパー』はオナニーを我慢すればするほどにその超能力が強く高まっていくというバカバカしいものではある。そう考えるとシンジくんはアニメシリーズで病室にいるアスカを見ながら出してしまったので、これは出しません!みたいなことを深読みさせたいのか? どうなんだ、だとしたらかなりおもしろいぞと思っていたら、また新しいURLが送られてきた。

[特別読切] ゆまりのなか - 竜丸 | となりのヤングジャンプ 


同じ作者の読み切り短編で僕は読んでいなかったものだった。『オナ禁エスパー』はそのまんまオナニーをテーマにしているのだが、こちらはこちらで同じベクトルではある。
幽霊に襲われそうになる少年と少女、二人が助かる方法がもうバカバカしくてこの漫画家さんが自分の好きなことだと思うがやりきっていてもはや清々しい。もうお手上げというか拍手するしかなかった。

 

1月13日

リモート作業中に郵便物がポストに入らなかったので、ということで郵便局の配達の人がドアをノックして教えて渡してくれた。その中に文藝春秋社からのものがあって、『水道橋博士のメルマ旬報』でもご一緒させてもらっていた編集者の目崎さんから西寺郷太さんの新刊『ナインティーズ』が送られてきていた。
郷太さんも「メルマ旬報」チームだったので知っている方だが、この自伝的小説は連載中には読んでおらず発売されたら買おうと思っていたものだった。目崎さんご恵投ありがとうございました。

ノーナ・リーヴス西寺郷太さんが、アマチュア時代のさまざまな愛すべき人たちとの出会いから、プロデビュー後のバンドの華麗なる飛躍までを赤裸々かつドラマチックに描いた自伝的小説です。1990年代の下北沢をメインフィールドに数多くのバンド、ライブハウスが実名で登場します。「僕には野心しかなかった」と語る主人公のゴータ。彼の目に映った時代の景色とは? 読むとあの頃の音楽が聞こえてくる疾走感あふれる作品です。(担当編集者より)

90年代の下北沢のライブハウスを舞台にした自伝的な小説ということなので、とても楽しみ。今下北沢で遊んでいる二十代や十代の人からするとまったく知らない景色だろうし、今の下北沢とは被らないのかもしれない。そのぐらいこの三十年でかなり変わっていると思うし、僕自身は2002年に上京してからの下北沢しか知らないけど、この二十年の間で電車が地下を走るようになってからの再開発で全く違う景色になってしまった。それがいいのか悪いのかはわからないけど、たしかにあったものはもう失われたということだけは確かだ。

仕事で文字起こしをして構成していたある人のスピーチというか言葉がさらりとすごいことを言われていて、とても感動した。この言葉を読んだ人たちは勇気づけられるだろうし、同時に文章を書くということに対して畏怖の気持ちも覚えるものだった。

映画『別れる決心』予告編 2023/2/17(金)公開 


夜は仕事がなかったので「月刊予告編妄想かわら版」の原稿を書いた。
二月も気になる作品はいくつかあるが、一番は『オールド・ボーイ』や『お嬢さん』を手がけたパク・チャヌク監督『別れる決心』かなあ、『アントマン&ワスプ:クアントマニア』と同じ日の公開だったはず。
『別れる決心』はル・シネマで観て、『アントマン&ワスプ:クアントマニア』はTOHOシネマズの新宿か日比谷でIMAX上映あればどちらかで観ようと思っている。

私は『曼陀羅華X』で誌上のオペラというのを産んでいったのだと感じる。あの小説のクライマックスは東京湾岸・天王洲での歌劇「サロメ」の上演だったので。そして、結局のところ、こういう「産めなかった作品、プロジェクト」が、あの長い『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』という新作のタイトルにまで連なっていて、私はまたもや〈誌上オペラ〉に向かっているのだ。やるしかないでしょが。

ところで朗読劇「銀河鉄道の夜」だが、つぎの企画の出演者は、合計6人である。新年からみんなでオンラインで顔を合わせて、何時間も作業した。あと数日したら、対面でその顔を合わせて、スタッフも全員揃えて大人数となって、とんでもない〈基礎〉を作る。これは来月後半、ちゃんとインフォメーションを出します。大丈夫、ポシャらないから。さてさて、今年も「文学のリミットは一体どこにあるのか。どこまで(俺は)拡張しうるのか?」を、試すかねー。試すしかないでしょが。明るい気持ちで行きます!

古川日出男の現在地>
第92回「ども新年ですねー、とホント軽く挨拶したい」

古川さんの「現在地」が更新されていて読んだ。そうか、『曼陀羅華X』のクライマックスで天王洲で『サロメ』の上演シーンがあったから、無意識に僕は目黒川を歩いて天王洲に向かったのか、と思ったりした。
正確な年月は忘れたけど、目黒川沿いを歩いて天王洲まで行ってそこから東京タワーまで行くと言うのは一度やったことがあった。たぶん、十年以上前のこと。

目黒川沿いを歩いて天王洲へ行くのは『LOVE』の舞台を歩くみたいなことだった。でも、池尻大橋から天王洲にはわりとすぐに着いてしまったから、距離を延長して東京タワーまで歩いてから浜松町駅近くの世界貿易センタービルに行った。そこの展望台から東京湾を見た。
当時付き合っていた彼女が浜松町駅近くで働いていたから、少し会おうということになって浜松町駅に向かったはずだ。彼女が来るまでの暇つぶしで「9.11」で旅客機が突っ込んでいったツインタワーと同じ名前のビルに惹かれて上った。そのことは自分の小説に取り込んで書いて、受賞はできなかったけど最終まで残った。それから編集者さんから連絡をもらって編集部へ話をしにいった。それが2011年1月とかだったはずだから、書いたのが前年だから歩いたのは2010年か2009年ぐらいか、干支も一回り前のこと。時間はあっという間に過ぎ去ってしまうことだけは確か。

朗読劇「銀河鉄道の夜」は今年も3月11日に上演されると思うのだけど、出演者も増えているし、どんな作品に変わっているのかこの目で観たいけど、どこでやるんだろう。

二月三月と少し先の予定が決まり始めてきた。このまま一気に三月が過ぎ去って春から梅雨に入っちゃうまであっという間だろうと思うからしっかりやるべきことをやって準備をしていないと今年もなにもできないままになってしまう。

 

1月14日

起きてから二日前にチケット取っていた『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』を観るために渋谷PARCO内にあるホワイトシネクイントへ。
少し肌寒かったが雨は降っておらず、十時ぐらいの渋谷は人もそれほど多くはなかったが、パルコ前のベイシングエイプの店舗前には人が並んでいた。ほとんど転売ヤーなのかと思いつつ、映画館直通のエレベーターに乗って八階へ。昨日の13日から公開で朝イチだったがそこそこお客さんは入っていた。

映画プロデューサーのハーベイ・ワインスタインによる性的暴行を告発した2人の女性記者による回顧録を基に映画化した社会派ドラマ。

ニューヨーク・タイムズ紙の記者ミーガン・トゥーイーとジョディ・カンターは、大物映画プロデューサーのワインスタインが数十年にわたって続けてきた性的暴行について取材を始めるが、ワインスタインがこれまで何度も記事をもみ消してきたことを知る。被害女性の多くは示談に応じており、証言すれば訴えられるという恐怖や当時のトラウマによって声を上げられずにいた。問題の本質が業界の隠蔽体質にあると気づいた記者たちは、取材対象から拒否され、ワインスタイン側からの妨害を受けながらも、真実を追い求めて奔走する。

「プロミシング・ヤング・ウーマン」のキャリー・マリガンと「ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ」のゾーイ・カザンが2人の主人公を演じる。「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」のマリア・シュラーダーが監督を務め、ブラッド・ピットが製作総指揮を手がけた。(映画.comより)

この映画で描いているようにミーガンとジョディを中心としたニューヨーク・タイムズ紙でワインスタインを告発した記事が出たことから世界中で#Me Too運動が広がっていった。この映画でも記事が出るまでワインスタインを告発した女性たちはいたが、ほとんどの場合は泣き寝入りをすることになったり、あるいは晒し者のようになったり、記事自体を握りつぶされたりしている。地位と金をもっているワインスタインと性的な被害にあった人よりも性的加害者を守るシステムが存在していた。
示談に応じている女性たちは口外できないという約束を結ばされている。あるいは警察も届出を出しても協力的ではない(ワインスタインからの圧力や金によって)という事実があったため、ワインスタインによる悪事や被害は止まらなかった。

ミーガンとジョディは共にニューヨーク・タイムズ紙で働く記者でありながらも、母親である。ミーガンは冒頭の時点では妊娠中であり、出産して母となるが産後鬱を経験することになる。ジョディはすでに二児の母であり、ミーガンの鬱のことなども理解しているというバックグラウンドも描かれており、そこも大事な核となっている。
過去にワインスタインから性的な暴行や暴力を受けた女性たちに二人はアプローチしていくが、次第に二人や取材対象者たちも誰かに見張られているような気持ちになってくる。実際に映像業界には彼のスパイがたくさんおり、彼女たちが動き出したことを伝えていたこともわかってくる。この取材は記者もインタビューや話に応じた人たちも危険な目にあっていた可能性がかなり高かったようだ。

この作品で大きなキーマンとなるのは冒頭の90年代のアイルランドで映画の撮影をしているところに犬の散歩中に見つけて、その後映画業界に入ったある女性である。彼女は途中からまた出てくることになるが、彼女が抱えている病気と娘たちのこともあり、最終的に実名を出すことを承諾することになる。
実際にいろんな被害者に記者が取材に行っても多くの人たちはオフレコとして話すしかなく、声を上げようとしても名前を出すことができなかった。示談金を受け取っている場合には法的に口外できないこともあるし、自信が性的な被害に遭ったということを家族にも言えない人が多かった。それが映画では丁寧に可視化されているし、性被害は被害者が肉体的にも精神的にも追い詰められていき、長い時間をかけて人生や心を破壊されてしまうものである。そのことも映画では描いていた。

悪いのは明らかに加害者であるのに、被害者の人の方が責められるという現状がある。この背景というか基盤にあるのは家父長制であったり男性優位というものだ。
「傷物にされた」という言い方を聞いたりしたことがあるが、それは女性は嫁いで子供を産むということが前提であり、それを決めるのは一家の主人である父だという意識がなければ使わないものではないかと思う。
昔からずっと続いているこの悪しき流れがあり、父がパートナーである妻や娘の性に関与(自由に)していいという一家の主人の意志が彼女たちの性を縛っていた。家父長制と男性優位社会においては男性にとって都合のいいシステムが構築されてきたのは事実であり、それが女性たち、映画においてはミーガンやジョディたちのまえに巨大なレンガとして立ち塞がることになる。

記事として出すために、報道として正しいあり方としてミーガンたちはしっかりと取材をして証拠と証言を集めていく。だが、オフレコの証言者の名前が実名でないものはその信憑性が揺らいでしまう。だからこそ、ニューヨーク・タイムズ紙は最後まで取材した中で口外しないと約束をしていない人物からの実名を出していいという声を求めていた。
勇気ある一人の女性が実名で出すと話したことでこの記事の一撃でワインスタインの悪事は一気に広がり、それまで声を出せなかった多くの性的な被害に遭ったことのある人が自分に起きたことについて公表するようになり、世界中の女性たちが連携していくようになった。#Me Too運動はそうやって全世界的に広がって行った。

去年は日本映画界でもセクハラやパワハラ、性的被害について多くの声が出て問題が明るみになった。僕がずっと作品を観てきた園子温監督もその加害者のひとりとして取り沙汰された。何度も一緒に飲ませてもらったこともあるし、個人的な付き合いもあったが、この映画の最後の方に出てくるワインスタインと知り合いの男性がワインスタインに抱いているイメージに近いものだった。
正直当事者同士が好意や興味を持っていて、互いがそういう関係になってもいいというのであれば結婚してようが子供がいようが恋人がいようが当人同士の問題であり責任だとは思うし、そう思っている。だけど、監督やプロデューサーが映画の仕事に関して出演させてやる(仕事をあげる)とかいって誘い出して性的な関係を強要するのはまったく話が違う。それは立場を利用した最低の行為であり、擁護のしようがない。だから、やはり被害に遭った人たちにきちんと謝罪をしてほしい。そこからしか始まらないと思っている。
もちろん、いろんな流れがあって告発というか性加害の問題が取り上げられたのだけど、でもあの時SNSで罪人には石を投げつけてもいいというように自分が100%正義の側だという風に勘違いして事件とはなんの関係もなく、ある側面からしか見えていないのに罵詈雑言を投げつけていた人たちのことは本当に軽蔑しているし、それを煽った人たちも正しいという言葉に酔っていたように思えて気持ち悪かった。
それでも、ワインスタインの問題でも顕になった加害者を守るシステムを変えようとしている人たち、被害に遭った人たちをケアする制度やシステムを構築しようとしている人たちがいた。そういう人たちを尊敬するし敬意しかない。

この『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』は今の世界に違和感を感じている人は観た方がいいと思う。作品としての出来も素晴らしいし、ここで描かれていることは実際に起きたことだ。実際に声をあげたアシュレイ・ジャッドは本人役として出演もしている。ほんとうに勇気がいることだったはずだし、彼女のような人がいたからこそ記事は世に出ることになった。
自分にはそういうセクハラやパワハラとは関係ないと思っている人がどのくらいいるかはわからない、あっても自分や組織のためになかったことにしているかもしれない。だけど、そういう人こそ観ることでまず知ることができる。いや見てみないフリをしているこのおかしなシステムを改めて認識し、被害者が声をあげられないで苦しみながら生きていることから目を逸せなくなる、そんな作品になっている。

ミーガンとジョディによって書かれた記事によって大きなムーブメントが広がっていったように、この映画が公開されてより多くの人に届くことでそれはもっと広く深いところに届くといいなと思う。
映画に関してなんら文句はないが、邦題の副題につけた「その名を暴け」というのは観終わるとあんまり内容とは合っていないというか邪魔だなと思ったんだけど、みんなどうなんだろう。
敵というかミーガンたちが立ち向かうのはワインスタインだとわかっているから「その名」っていうのがいまいちよくわからないんだよなあ。『SHE SAID/シー・セッド』で充分意味が伝わってくるし、この映画に興味を持つ人は#Me Too運動のことも少なからず知ってはいるだろうからシンプルなほうがより強く深く届きそうな気はする。

映画を観終わってから同じ階のトイレに行ってから帰ろうかなと思ったら、同じ階にあるギャラリーで「MOTHERのミュージアム」というイベントが開催中だった。無料なので中に入ってみた。ゲームの「MOTHER」シリーズの主人公たちが歩いていくマップというかゲーム画面としてみていたものがレプリカ・スクリーンというものとして展示販売していた。
ゲームというとシリーズ全部を買って実際にプレイして最後までクリアしたものは「MOTHER」シリーズのみだ。プレステ1を買ってからはそれ以降新しいハードは買わなかったが、『MOTHER3』発売の時にゲームがやりたくてゲームボーイアドバンスを買った。というぐらいゲームと言ったら「MOTHER」シリーズぐらいしか思い入れがない。
でも、グッズを買うかというと何年か前のほぼ日手帳「MOTHER」柄を買って使ってからは買わなくなっていた。同世代の人間は「MOTHER」好きな人が多いからかぶるっていうのもある。気にはなるんだけど、色々思うところがあってこの数年は買っていない。


基本的にはレプリカ・スクリーンが展示されていたが、金色に輝く怪しい像が展示されていた。これは『MOTHER2』に登場した「マニマニのあくま」と呼ばれるものだった。
記憶というものは恐ろしいもので、これを見てすぐに「フォーサイドの裏側にあったムーンサイドを作り出していたマニマニのあくまだ」と思い出した。これらの固有名詞がすぐに出たことにも驚いた。ビットのゲーム画面でしか見ていないし、こういう立体で見るのは初めてだというのに僕の中に残っていた記憶が浮かび上がってきてこの立体と一致したのだから。

『MOTHER』については「1」のラストのほうでわかる過去の出来事の真相(主人公の祖父母のジョージやマリアに何が起きたのか)を彷彿させるものを自分の小説の中で小ネタとして使いたいと前から思っている。
映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』の中で物語の中で大きなキーとなるのがゲーム『ゼルダの伝説』だったので、そのオマージュとして僕の好きな任天堂のゲームを出したいというのもあるし、ラスボスであるギーグという宇宙人という存在と僕が想像している多次元を行き来できる存在は近いから使えるんじゃないかなって。

Nes EarthBound Soundtrack 

 

1月15日
起きてからスマホを手に取ってからYahoo!ニュースを開いたら高橋幸宏さんが亡くなったというニュースがあった。僕は高橋さんの活動をほとんど追えていないし、YMOも申し訳ない程度ぐらいしか聴いておらず、METAFIVEの音源はわり好きでと聴いていたというぐらい。
「WORLD HAPPINESS 2011」に行った際に「Yellow Magic Orchestra with Fennesz,小山田圭吾,権藤知彦」が高橋さんの演奏を聴いた最初で最後だったような気がする。

「奇跡の世代」と音楽やってきた先に 高橋幸宏(前編)


躊躇なく、いろんな世代と新しい音楽を 高橋幸宏(後編) 


門間雄介著『細野晴臣と彼らの時代』という書籍が出た当時に読んでいたが、インタビューで高橋さんが語っているような日本の音楽シーンを作っていく、中心になっていくことになる人たちとの出会いと交流がまずあって、それが今につながっている。その時そこに居たかどうかというまさに運命としかいいようのないものによって、日本の音楽が一気に鮮やかに花開いていくことになった。そして、彼らの影響は日本だけでなく海外にも広がっていった。
細野晴臣と彼らの時代』は細野さんの歴史(個人史)で、YMO好きの人はすでに読んでいるだろうけど、僕のような門外漢が読んでもおもしろくて読むのが止まらなかった。二年ぐらい前に出ているから来年とかには文庫版とか出たりするのかも。
SNSを見ると僕よりも年上のリアルタイム世代の高橋さんファンの人が追悼の言葉を書いていたり、寄せていた。やっぱり人間は亡くなった時に残された人たちからどう思われていたかで生前の生き様や人間性がわかるものなんだなと改めて思った。いろんな人に慕われていて影響を与えていたことがわかるものばかりだった。

METAFIVE - Don’t Move -Studio Live Version- 



起きてから夕方の仕事まで時間があるので、午前中は散歩しようと思ってradikoで『オードリーのオールナイトニッポン』を聴きながら代官山蔦屋書店まで歩いていく。
雨は降っていなかったが肌寒い気温で曇天模様の空だった。往復すると一時間半ぐらいなのでちょうどいい。蔦屋に近づくと駐車場から行動へ出る道のところにクラシックカーが並んでいた。たぶん、クラシックカー愛好者たちが自分の愛車を持ち寄ってどこかのルートを一緒に走るみたいなイベントなのだろう。前にも見たような気がする。
車には興味ないので書店に入ってブラブラして、二冊ほど欲しい本があったけど下旬になってから買おうかなと思って装幀は覚えておいた。
帰る時にスーパーに寄って卵があればできるCook Doの元と豚バラ肉を買って帰ってから、出る前に炊いておいたご飯と一緒に食べて昼ごはんにした。

スマホのカメラが高画質化するに従い、その存在が忘れ去られつつあった「デジカメ」ことデジタルカメラが、若者の間で再流行していると、米紙「ニューヨーク・タイムズ」が報じている。
(中略)
スマートフォンと比較すると、古いデジカメは画素数が少ないため、被写体の質感を詳細に捉えることができず、また、内蔵レンズの口径が大きいゆえに光を取り込むことができない。これらの理由で「写真のクオリティ自体は低くなる」が、この粗さが「スマホにはない魅力」として、若者たちを魅了しているのだと、同紙は説明している。

Z世代の若者はなぜ「20年前に親が使っていたデジカメ」を欲しがるのか?

なんとなく目に入った記事を読むとレトルブームの流れなのかデジカメがアメリカの若者の間で再流行しているらしい。
そういえば部屋にまだ昔使っていたデジカメがあるので探してみた。充電がなくなっていたのでバッテリーを充電してから本体の電源を入れてみるとSDカードに保存された五百枚強の画像データが残っていた。


偶然だろうけど、元旦に歩いた目黒川沿いを初めて歩いた時の画像から残っていた。その日付は2008年11月17日だった。約十四年前のものでそこからスライドショーで画像を見てみた。


東京タワーのあとに寄った世界貿易センタービルとその展望台から見た浜松町駅付近の光景の画像。

2008年の目黒川沿いから2012年8月7日の豊田利晃監督『I’M FLASH!』の舞台挨拶付きの上映を観にいった際の舞台挨拶を写したものが残っていた。
何年も前にデータを移行するためにある程度削除していたりするから思ったほどなかったり、Googleフォトに移行したものを多かったけど、存在すらも忘れていたような画像があったりして懐かしい気持ちになった。若いなあとか、こういう場所にも行ったんだな、とか、この時はこの人たちと一緒にいたんだなとか思って。

2012年に北アイルランドとイギリスに行く際にはじめてガラケーからスマホに変えてはずだから、それ以降はスマホで写真を撮るようになってデジカメを使わなくなった。スマホにいろんなものがまとまっていく便利さはあるけど、その便利さはつまらないって思う人はそれなりにはいるはずだ。
僕もiPodで音楽が聴きたいけどもう生産は終了していてサブスクで聴けって言われてもなんか嫌だからスマホで音楽は聴かないようにしていて、代わりにラジオを聴いている。なんかわからないけど、スマホでサブスク使って音楽聴く気にならない。

夕方の仕事前に大晦日に読むつもりだった小川哲著『地図と拳』をようやく読み始めた。第一章まで読み終えた。この厚さでこの先もっとおもしろくなって展開していくなら、すでに山田風太郎賞を受賞しているけど、直木三十五賞も間違いなく受賞すると思う。

今回はこの曲でおわかれです。
Sonic Youth - Schizophrenia - A-D-D 



METAFIVE - The Paramedics (Live at METALIVE 2021) 

Spiral Fiction Note’s 日記(2022年11月24日〜2022年12月31日)

先月の日記(10月23日から11月23日分)

11月24日

古川日出男長篇詩『天音』を朝起きてからゆっくり読む。『ゼロエフ』の終盤から通じるものも感じられたし、「日本」について内外の空と陸と海から詠うリズムと言葉と視線があった。不思議な読み応えだった。
「日本」というものを描くとすると「天皇制」の起源となる日本神話に、国産みの話は外せない。そこには空と陸と海があるから、彼方の宇宙へと向かう意志と物語がある。空の海は彼岸であり、大地は此岸であり、人間とは空と大地の間で生きている。浮かび続けることはできないから何度も飛び跳ねてその重力に抗う。やがて肉体が滅べばそこから解放されて空へ、宙へ、彼岸へ向かう。
古川日出男論を書くとしたら外せないものとして「捨て子たちの貴種流離譚としての天皇小説」というものが軸になると前から思っている。フィクションから始まった国だからこそ、その連なりにある「天皇制」と「国家」を描くことが外で戦う時には限りなくドメスティックで世界に通じる特殊なものとなる。だから、この長篇詩は内外に開かれているし向いている。
長篇詩にカブトガニが出てくる。一般的にはどうなんだろう、馴染みはあまりないものなのだろうか、僕が高校で通っていた笠岡市にはカブトガニ博物館があったし、小さい頃からカブトガニという存在には馴染みがあった。それもあって偶然だが先日実家に帰った際に、図書館でカブトガニについてちょっと調べていたからシンクロしているようだった。
作品を並べてみると『天音』は持ち運べるサイズなのがわかるが、『おおきな森』がほんとうに鈍器というのがよくわかる。


『天音』を読み終えてから休みだし映画でも観に行こうかと思って家を出て渋谷に向かった。映画の上映の一時間以上前に渋谷についたのでSyrup16gのニューアルバム『Les Misé blue』が出ているからちょっとタワレコに寄ってみた。
ドラマ『silent』で主人公の紬が働いているので聖地というか、お客さんも増えたりしているのだろうか、平日の午前中だったし新譜が出るという日でもなかったからお客さんはそこまで多くは感じなかった。
昨日からYouTubeSyrup16gのチャンネルでアルバム収録曲全部聴けるようになっているが、やはりCDを買ってお金を払いたい。今はMacBook Airに繋げている外付けHDが修復不可能でそこにiTunesのデータを入れているので新しくは音源を読みができないが、来月には新しい外付け買うし、そこに今使っている外付けのデータを移行させてから読み込ませればいいやって思った。とりあえず、出てすぐ買うことがいちばんのファンとしての貢献なので購入した。映画を観るという気はしなくなったのでそのまま家に向かって歩いて帰った。

 

11月25日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2022年12月号が公開されました。12月は『ワイルド・ロード』『MEN 同じ顔の男たち』『ケイコ 目を澄ませて』『ジャパニーズスタイル』を取り上げました。


古川日出男の現在地」2022年11月25日「依然、熱も出さない」

私は、私の朗読というアクションには〈文学〉があることを信じていて、かつ、あらゆる音楽、そのうちの力強さを秘めた〈音楽〉には〈文学〉を駆動させるものがある、本源にあるのだと確信できているからだ。私は何を言っているのか? ほとんどの人間は言語を用いて思考していて、つまり、その人というのは言語から成り立っていて、だから〈文学〉とは人にじかに触れるものなんだよ、それでもって〈音楽〉は人を直接揺さぶるし。ほら、言いたいことはわかるでしょう? ということだ。

明日は読書会「古川日出男、長篇詩『天音』譚」がLOKOGALLERYで開催される。朗読をされるのかはわからないけど、そこで僕は〈文学〉に直に触れることになるはずだ。刺激的で魅力的な時間と空間において。



今月中旬過ぎに出ているのに気づいて購入したマリオ・バルガス・ジョサ著/寺尾隆吉訳『ガルシア・マルケス論 神殺しの物語』を少し読み始める。
インスティトゥト・セルバンテス東京で開催された『「ラテンアメリカ文学のブーム」の原点―マリオ・バルガス・ジョサ『街と犬たち』の魅力』を聞きに行った際に話に出ていた一冊。長い間、絶版になっており、研究者でも読むのが難しい感じになっていたものが復刊された形だ。
しかし、二段組で500近くある。マリオ・バルガス・ジョサこんなにも書いたということはやっぱりガルシア・マルケスについて興味がかなりあったし、彼が書いたものとコロンビアとか南米の歴史からその背景を解き明かしたいという欲望もあったのだろう、この論でいろんなことが描かれてしまったガルシア・マルケスはマリオ・バルガス・ジョサとその後ケンカ別れすることになるのも冒頭を読んだだけだがわかる気がちょっとした。

ウーマンリブ「もうがまんできない」新キャストに仲野太賀・永山絢斗皆川猿時


主人公は旅するロバ、イエジー・スコリモフスキの新作「EO」公開

二作品とも舞台と劇場公開が来年四月と五月だから先だなあと思いつつも、半年後だと思うとわりとすぐな気もする。
ウーマンリブの舞台は大人計画の先行申し込んで取れたら観に行きたい。『EO』は前にロバが出てくる映画があると言われていて気になっていたので、公開日が決まったというニュースに反応できた。2023年の春はコロナの次のおおきな波が来て終焉している頃ぐらいだろうか、それとも冬場にインフルエンザが大流行した後だろうか、なにかが終わったあとのような気がしてしまう。


朝晩のリモートの合間にニコラで一服。アルヴァーブレンドと苺とマスカルポーネのタルトをば。

 

11月26日


近藤恵介・古川日出男|読書会「古川日出男、長篇詩『天音』譚」を LOKO GALLERYにて。
先週イベントが発表になったのだが、今日は17時から仕事入れていた。とりあえずすぐにシフトを調節してもらった。16時に家を出て歩いてLOKO GALLERYへ。散歩がてら行く蔦屋代官山書店とほとんど同じエリアなので40分ほどで着いた。

読書会だけどどうするのかなと思ったら、ギャラリーにあるzenta coffeeの一階と地下一階とふたつの場所に分けて、近藤さんと古川さんが上と下を行き来して行う形です、と最初にコーヒーとお菓子をもらったさいにスタッフの方に教えてもらった。
近藤恵介×古川日出男による「譚」シリーズの展示とイベントに何度か来ているので、なんとなく地下のほうがいいなと思った。ここは一階のカフェエリアの横に展示エリアがあり、そこの階段を上って二階も展示エリアがある。地下一階も使おうと思えば展示ができるという三層になっており、以前の画廊劇「焚書都市譚」 でも観客は3グループに分かれてアテンダントによって下から上へ上から下へとそれぞれのグループごとに移動しながらそれぞれの3つのエリアで行われている同時に行われている劇を観るというものがあった。その時には地下は冥界ぽかった。冥界ー地上界ー天界、長篇詩のタイトルは『天音』だから、上から音が響くイメージ、だから下から上に上るほうがいいかなって(終わったら上に上がるのは確実だし)。

地下に降りていくと近藤さんが準備をされていたのでご挨拶をして少しお話をさせてもらった。カブトガニの話と実家に帰った時の話から平櫛田中のことを話したら、反応してくださったので嬉しかった。美術関係の人なら知っているけど、一般的にはそうでもない、でも地元には田中美術館があるので昔から馴染みがあるのが人間国宝だった彫刻家の平櫛田中。身近なことほどの当たり前になって価値がわかりにくいということはあるよなって感じたから、調べたり興味を持ったわけだけど、そうか美術関係の人だったらその話もできるのか、と思った。僕が美術史とかそういうことに疎いから意外だと思うのだけど、美術畑の人ならこの話できるんだなって自分の狭さを知るわけでもあるが。
その後、一度一階に上がってから近藤さんの展示「絵画の手と手」を観た。木の枠組みで作られた立体、にいくつかの色紙がいくつか貼られ、中にも作品が置かれている(孕まれている)。ほかにも顔が描かれているが半分が違う紙で隠されているものなどがあった。二階ににあった金色の紙を使ったものが作品は大きくないけどインパクトがあった。たぶん、そこに描かれていた(写真なのかな?)手が紙を持っているという構図なのだけど、色合いと構図がなにかしっくりきた。サイズ感も含めて好きな作品だった。

17時近くなったので再び地下へ降りていく。地下チームの最初は古川さんで一階は近藤さんで、20分ごとに2回入れ替わる。20分×4のあとに二人で合作をするという流れだった。
古川さんは参加者にこの『天音』はほかの小説などの書籍となにか違う場所があるのですがわかりますか?と問うた。この長篇詩の書籍には帯がない。そして小説を読む人には作家になりたい人とそうではなくただ読みたい人、あとはどんな人がいると思いますか?と問い、それは例えば書評家と呼ばれる人や編集者がいると、そして帯文は編集者が考えたものがつけられるのだ、ということでみんなに紙を一人ずつに配った。そこには

左側には

小説家・古川日出男、初の[          ]
混乱するな、この詩篇
混乱するな、この記述!

右側には

圧倒的な[     ]、天の音が[     ]
ハロー、アマテラス日本
ハーイ、猿田彦19

と印字されていた。帯の惹句についての話があり、読んだ上でこの二つだとどちらかが帯にあったほうがいいと思うのか、参加者に挙手で聞いた。僕は右側だった。左側よりも右の方が多かった。そこから選んだ理由をひとりずつに古川さんが聞いていく。

僕は古川さんの作品を読んでいたら「混乱」するから「混乱するな」というのは違うと思ったし、右側だとアマテラスとかカタカナがあるから漢字もカタカナもひらがなも、数字もあるからバランスがいいし、「ハロー」「ハーイ」という呼びかけの方がいいなと思った。そちらのほうが開かれていると思った。
下には10人ぐらいいたのかな、みんなの意見を聞いてそれぞれに古川さんが感想とかを話していく。それで一回目は終わって、上と下が入れ替わって近藤さんが降りてきた。

近藤さんは今回の装幀の表紙になった作品についてから話を始めた。ビジュアル的なものと古川さんの作品との呼応や反応、今回の展示の準備中に装幀の話が来たのもあって繋がっているということ、そして詩人・古川日出男の原初とも言える、彼の師匠のひとりでもある吉増剛造さんとの関係性の話を展開していく。
2006年ごろに出た『ユリイカ古川日出男特集号における吉増剛造さんの詩集『草書で書かれた、川』を古川さんがノヴェライズした『川、川、川、草書で』と今回の『天音』の連なりと相似性、いや原初があるのではないかと、近藤さんが過去の作品から今のこの長篇詩を紐解いていく、いや発見したものを僕らに伝えてくれる形だった。
だから、そういう層が、過去と現在が重なり合っているということに近藤さんが自覚的であり、読み解こうとしているのだなと思えた。近藤さんと古川さんの合作ではいつも大事なものとして「層」が重なること、パッと見では一面に見えるものの後ろ側には幾重の層があるという表現がなされている。それは時間であり空間であるから、そこに留まりながら超越するものを表現したいのかなと僕には感じられる。少し質問タイムがあって、また一階と地下一階が入れ替わった。

一階もさきほどの地下一階での挙手で右側か左側かで挙手して分かれた意見をそれぞれに聞いたということだった。地下一階で出た意見が一階では違うものへ反転していたとか、あるいは宗教的だということも人によっては違うということ、それらを聞いて意見は変わりましたか?と再び聞かれる。
さきほどは右側が多かったが左側のほうが良くなった人が二人ほどいた。変わった人の意見を聞きながら、変わらない人の意見を聞く。そして、ほかにも長篇詩の中から帯に使うとしたらどんな文言がいいかという問い、それを二人ほど答える。そこでタイムアップ。

近藤さんと古川さんが交代して最後の時間。『平家物語』現代語訳からの手書きでいくつかの作品を書いたこと、一緒に作品を作る際に書かれた文字が毎回違うことなど、小説家として文字を書くということ以外に古川さんはその形などを使おうとしているのではないかという考察。それはたぶん近藤さんと通じて一緒に作業ができることにも通じているのだろうなと思った。近藤さんは用意してきたものが多かったのか時間が足りないという感じだったけど、古川さんと違うアプローチでこの長篇詩をどう感じたのか、物質としてそこから中身について考えることを伝えることで、あなたはどう思いますか?という問いをずっとしていた。



一階と地下一階のそれぞれ二セットが終わり、地下で二人の作業が始まるのを誰も声を発せずに見ていた。古川さんが書いた文字を用意した板に近藤さんが糊で貼っていく。その紙は近藤さんによって切られていくし、貼られて重なっていく。以前にも二人のこの作業を見たことがあるのでちょっと懐かしい気持ちにもなった。
「層」を重ねるということ、この行為は極めて現代的だと思う(インターネットが当たり前になった世界では人々だけでなく歴史すらも異なる層が積み上がっている、かつてならば多重人格的だったものは分人化と言われるように、人はそもそも対する相手ごとに自分がありその層の重なりあいが一人の人間だし、生きていることはそもそも多層的であるということがネットで可視化されてわかりやすくなった)。そういう感覚を持った上で時間や空間を捉えることは非常に創作的だし想像的でありながら批評性もある。
さきほどの帯分で出た作品の中からどれか選ぶとしたら、という問いで出たものも書かれていたが、それを近藤さんが知ることはないので、貼る際には切られて分かれていく。
たとえば「GOD IS DOPE DOG IS HOPE」と上下に並んだ言葉は真ん中で切られたりもして片方が貼られたりする。ふたりはお互いに何を話していたかのかを知らない。その打ち合わせはされていない。ということが例えばそういう一つの行為でもよくわかった。その発端を知らなくても書かれた文字列やどこに配置するのかを近藤さんが決めて貼るということは別々のものがひとつに交わっていたことを視覚的に見せているようだった。
そして、できあがった作品をどこに置くのかを近藤さんが一階へあがり、二階へあがり、もう一度一階に戻ってきて場所を決めた。


それから締めというか近藤さんから古川さんに三つほど質問があり、最後は第一刷発行日が2022年11月22日なのか、その日付の意味を問うと古川さんからなぜその日付にしたのかという答えがあった。なるほどなと思った。やっぱりそれに関わるのだなって。だからこそ、この長篇詩は移動し続けているしカブトガニが出現もする。
そのあとに近藤さんが今回の展示への批評を古川さんに聞いて終わるという流れだった。僕からは木で作られた立体の向こう側に二人はいるんだけど、その空間の中に二人が孕まれているような、同時に孕まれていないような、内外同時に存在しているようにも見えた。
「層」と「境界線」というのはお二人の作品で感じるものであり、冥界ー地上界ー天界それぞれに境界線はあるとしても、それはグラデーションのようなものだと思うし、もちろん彼岸と此岸の間にもグラデーションはあるだろう、世界に宇宙に次元に孕まれながらも孕まれていないというところで人間は生きている、それが生命だと思う。
「境界線」で漂うこと、行き来することがある意味では芸術的なことだろうし、「境界線」を行き来することが人間的な生命力(イマジネーション)だと考えるようになったのは古川さんの作品を読むようになったからだ。だからそこにはマクロもミクロももちろんあるし、涅槃も娑婆もあるけど、それらをズームアップもしダウンもして行き来できる。この一連の流れを見て、読書会に参加できて感じたことを書いてみるとこんな感じになる。


終わってから古川さんに持ってきていた『天音』にサインを入れてもらった。カブトガニの青い血ということのイメージから持ってきていた三色ボールペンの青で書いてもらおうと渡したら、なぜか最初に赤色が出ていた。古川さんからあれこれって言われて、ボールペンの色変えのところをくるりと回して青色に変えた。赤で書かれたところに青で一部分重ねて書いてもらってなにか今回っぽいと思った。
長篇詩『天音』にはカブトガニが出てくるのだが、今月実家に帰った際に図書館でカブトガニについて調べ物をしていたからとてもシンクロしているようだった。笠岡市にある高校に通っていたが、そこにはカブトガニ博物館があった。
幼少期から笠岡の海に父と釣りに行っていたり、同じ福山市の生活圏内なので笠岡市の海(瀬戸内海)とカブトガニ井原市平櫛田中美術館と田中さん同様に僕には馴染み深いものだった。だから、地元ネタとして調べようと思って図書館で干拓したことで瀬戸内海のカブトガニが減少の調査とそれによってできた「カブトガニ保護センター」ができ、「カブトガニ博物館」になったということを書いた資料を読んでいた。
平家蟹よりも昔から瀬戸内海にはカブトガニがいたのだろう。その青い血と装幀にある青はかかってはいないらしいけど、その部分は色合い的に青が選ばれているのだが、みようによっては空であり海であり青い血である。その青い血がなにに利用されているのか、それが発行日の日付に関係している。
そして、この長篇詩は日本からアメリカやイタリアへと移動する。コロナパンデミック以後の世界では移動は困難だった、ということも踏まえて考えれば世界の国々は空と海でつながっている。

この詩には「天音」という存在が出てきた。僕がはじめて読んだ時には『ゼロエフ』における終盤の「ゼロエフ」とこの「天音」が結びついた。僕が古川さんの取材に同行して一緒に歩いた阿武隈川において、『ゼロエフ』では古川さんと僕と「ゼロエフ」は一緒に行動を共にして湾岸を歩いていた。その部分が書かれた章である「国家・ゼロエフ・浄土」が掲載された『群像』を読んだ時に一瞬驚きはした。でも、「ゼロエフ」は一緒にいただろうな、と思えた。
僕には見えずとも感じられなくても、古川さんが幻視していた、いや感じていたのであればいてもなんら不思議はないと思えるのは一緒にその背中をずっと見ながら歩いていたからだ。そのことがあるせいか僕には「天音」が「ゼロエフ」と限りなく同質な存在というか、イメージが近いものとして読んだ。ノンフィクションの『ゼロエフ』があり、そのことによって小説をさらに広げることを、ある種の限界に来ていたものから解き離れたタイミングで管啓次郎さんから詩のお誘いがあったと考えれば、ノンフィクションと長篇詩はある種の双生児でもあるような気もする。そこから連想的ではあるがタイトル同士の言葉の響きが呼応していることを伝えた。

「ゼロエフ」は英数字では「0f」と表現されている。「天音」は英数字にしたら「10on」である。「0f」は「オフ」を想起させる言葉だ。「0f」の二字を倍にしてみたら「00ff」となり、「0 0ff」ともみえる。そうすると「10 on」と呼応している気になる。もちろんこれは言葉遊びだし、古川さんも意図していることではない。だけども、「0」と「10」という数字の幅が、「off」と「on」という対する英語があるということを読者である僕が感じる。これってすごい豊かなことだしおもしろいことだろう。
と書いたが、実際にはそこまでしっかり説明はできないままで古川さんに伝えたけど、『「0f」の二字を倍にしてみたら「00ff」となり、「0 0ff」ともみえる』ということはしっかり伝えたかった。
そのあと一緒に写真を撮ってもらってちょっとだけ別のことを話ししてから僕はギャラリーを出て家へ歩いて向かった。シフトを調節したけど、単純に間五時間を空けて家に戻ってから21時から三時間作業をリモートでするようにしていたから。
もう一回『天音』を読む前に近藤さんが言われていた『川、川、川、草書で』を読んでみようと思う。


この前のThundercatとのツーショットの時も思ったけど、さすがに痩せないとこういう時に自分が太っていることがすごくわかってしまうので痩せようと思うよね。

カブトガニの「青い血」が医療分野で重宝される理由とは?


「生きている化石」カブトガニ 人類救う不思議な生き物


映画『キラーカブトガニ

この映画は現在のコロナパンデミックにおけるカブトガニの青い血が消費されていることへの皮肉ではなさそう。ある意味で皮肉的なものを勝手に孕んでいるのがこういう映画だったりしそうだけど。

 

11月27日

先日買ったジョン・グリシャム著/村上春樹訳『「グレート・ギャツビー」を追え』を少しずつ読んでいる。主人公の作家のマーサーがフィッツジェラルドの生原稿を盗んだ一団からそれを裏で手に入れているかもしれない書店店主のブルースに近づいて真相を探るという内容。
最初に泥棒の一味がプリンストン大学の図書館から生原稿を盗み出すまでもかなりボリュームがあり、その次にはブルースが書店を開くまでが描かれてからマーサーが出てくるという流れになっているので、マーサーの主人公感があまりない。ようやくマーサーがブルースと出会ったというか交流が始まったところに入った。ここまで長くは感じたけど、けっこうおもしろい。


菊地成孔さんの新バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」のライブ「反解釈1」を観るために新宿BLAZEへ。ここの箱は初めて来たがもともとコマ劇場があったところすぐにこんなライブハウスがあったのか。キャパ800人ぐらいのちょうどいいサイズのキャパだった。
以前の「反解釈0」は渋谷WWW Xで行われたそれはプレ公演的なものだったが、今回はメンバー全員がブランド「ハトラ」がデザインのしたユニフォーム、というかそれぞれのパーソナリティに合わせた衣装(メンバーごとにそれぞれパーツが違ったりして全部同じということではない、ただ全体的に見ると統一感のあるものとなっていた)を着てライブをするという意味では本公演という形になっていた。

ハトラ、菊地成孔主宰バンド「ラディカルな意志のスタイルズ」の衣装を制作 


「ラディカルな意志のスタイルズ」は今の所音源をリリースしていないので、前回のライブで曲を聞いただけであり、一曲はYouTubeでもアップされているが、彼らの音を聴こうと思えばライブに行くしかない。

菊地成孔の最終バンド<ラディカルな意志のスタイルズ>「反解釈0」より(長尺) 



前回の「反解釈0」と今回の「反解釈1」はほとんどプレイした曲は同じだったと思うのだが、今日は終盤で去年の4月にスタジオコーストでラストライブをして解散した「DC/PRG」の『FKA(Franz Kafka's America)』をやった。バンドが違うからカバーというのか、ほんとうに心地よい音に満たされた。「DC/PRG」大好きだったので、この曲をまたライブで聴けるとは思いもしなかった。
ライブの最初から最後までたのしくて最高なリズムと空間になっていて、来てよかったと思いながら音に揺れていた。
アンコールはメンバーのパーカッション担当のダーリンsaekoさん主催のラテンバンド「ロマンティック・ババルー」のメンバーと大儀見元さんを加えた演奏となった。ラテン的なものもありながらパーカッションの乱舞が最高に踊れたし、すげえたのしかった。でも、あれはラテン文学っぽいんだよね、いやこのバンド自体が文学ぽいんだけど、そういう意味で文学と混ざり合った音楽の揺らぎがある。
次の「反解釈2」は未定みたいだけどライブやるなら観に行くつもりだし、この「反解釈」シリーズは数字が毎回増えるという形になるけどできるだけライブで観たい。

 

11月28日

休憩中に駅前の銀行に行った帰りに三茶TSUTAYAのコミックコーナーで山本直樹著『定本 レッド 1969-1972』1巻を見つけたので購入。
Amazonプライムで配信中の『仮面ライダーBLACK SUN』が全共闘世代、学生運動が激しく、そして終わっていた1970年代を描いていたのでこの機会だし、山本さんの描いた連合赤軍を読んでみたいと思った。


その帰りにトワイライライトに顔を出して前から気になっていた堀静香著『せいいっぱいの悪口』とレジ近くに置かれていたホルヘ・ルイス・ボルヘス著『詩という仕事について』を購入した。
最近はいくつか小説を並行して読んではいる。ピンチョン著『重力の虹』とフォークナー著『ポータブル・フォークナー』という分厚い作品がその中に含まれているのでなかなか読み終わらない。息抜きというかエッセイや日記は味変ではないけど、すごく読みやすくて読みだすとわりとすぐに読み終わってしまう。フィクションかノンフィクションかという差もあるけど、物語への集中具合が落ちているのかもしれないし、この世界における誰かの日常や視線のほうが今は求めているのかもしれない。
お会計後に店主の熊谷くんと少し話をして帰る。

菊地成孔の粋な夜電波』のリスナーなせいで(?)赤坂イコール「力道山の刺された街」というイメージがこびりついてしまい、おまけに今バイトが赤坂で連載させてもらっている『水道橋博士のメルマ旬報』の編集してる原さんは博報堂ケトルでBizタワー勤務で思いっきり上から見下ろされてるっwっていう状態で昨日はバイト先の隣りの店(韓国系)が警察の摘発にあって屋上からうちのトイレに逃げ込んだ店員がいたりしたらしい、まあ御用になったらしいけど。
周りは韓国系のお店が多くて、こないだ飯を食いに行ったら一緒に行った人がその店の隣りのビルの会員制のイタリアンかフレンチレストランがあってそこに知り合いに人に連れて行ってもらったらスタイル抜群でキレイどこがバニーガールの格好でいるらしい(都市伝説か!)なお店もあったりするらしい、まあ日本のヤクザ的な匂いがするが。で韓国の人があの辺り買い占めて韓国街にしようとしてるとか。
赤坂舞台にして日本人と韓国人の抗争とかノワール的なもん書けたら面白そうだなって。日本人と韓国人の恋とか抗争とか、逃げだしたバニーガールが赤坂を走るとか。
日本人の男が韓国人の女に「いいよ、俺韓国人になるわ」って言ったらその女の兄貴が韓国のヤクザみたいなもんで「お前国捨てれるのかよ!」って言ったら「余裕ですけど、何か?」「ええ!いいのそれで。愛国心とかないの」「たかが場所ですし」「い、いやあ、そういうこと言われると今やってることむなしくなるだろ」「価値観の問題ですね」とか。
つうわけでいい加減読もう読もうと思って読んでなかった『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を買おうと思いました。

10年前の2012年11月28日にFacebookでこんなことを書いていたらしい。「メフィスト賞」用に応募しようと思っている長編の完成させられていない作品があって、その最初の部分で赤坂からバニガールが逃げるところから始めるというのは書いているのだけど、この時のイメージが元みたいだと過去から教えられる。なんとか2月末までに終わらす。

朝晩とリモートワークだったけど、また最近腰と背中がバキバキになってきている感じがするから、整骨院で教わった体操とか一連の動作を寝る前とか仕事が終わってからやっていかないとこの先ほんとうにきつくなりそう。あと急激に寒くなってきたので余計に体が縮こまりそうだから、できるだけ動かさないとより固くなるかもしれない。

 

11月29日

『エルピス—希望、あるいは災い—』第六話を寝る前に見る。卓朗が取材した証言者の元妻へのインタビューによって死刑囚として収監されている松本に冤罪の可能性が出てきた。そのVTRを報道ではなく、バラエティの『フライデー・ボンボン』で流すことを元報道のチーフプロデューサーの村井が決める。そして、報道されるや否や拓朗や恵那が思いもしなかった反響が起きることになる。
恵那は報道の『NEWS8』に取材をしてきた記者として番組に出ることになるのだが、そこで村井がかけた言葉はタイトルにもある「災い」を感じさせるものだった。それは恵那とよりが戻ったかのように見える政治部の官邸キャップの斎藤は副総理の大門の側に行っており、その溢れんばかりの才能は災難でもあるのだと告げる。つまり才能というものは希望でもあり災いにもなると言っているのかもしれない。そして恵那が『NEWS8』に出演する直前に斎藤からLINEが届く
というのが今回の流れであり、最終的には少女連続殺人事件が起きた八飛市は副総理の大門の地元だとわかり、事件の隠蔽と松本を犯人にしたのは彼の力が働いたのではないか、と匂わして終わる。
『フライデー・ボンボン』はリニューアルする形で終わる。それは証言者の妻へのインタビューを勝手に流したことの責任でもあり、会社組織における粛清のようなものだった。いつもの打ち上げのスナックのようなところで恵那が最初はひとりで、その後拓朗とふたりで歌う『贈る言葉』を歌う。今の部署から飛ばされることになった村井へ恵那が向けて歌うシーンも心に響く。そして、同時に制作から違う部署に飛ばされることになった拓朗も彼女と歌うシーンは非常にエモーショナルだった。あとは元々佐野PがTBSにいて、そこでできなかった企画のドラマがこの『エルピス』というのもいろいろ感じさせるものがある。
この六話で前半戦終了のようになっており、恵那は『NEWS8』のメインキャスターへと復帰することになる。ここで一緒に取材をしてきた恵那と拓朗は局内において立場が真逆になってしまう。次回の後半戦からその違う立場になった二人がどう絡んでいくのか、この事件の黒幕であろう大門に迫っていけるのか、そして局をやめて大門のところにいって政治のほうに向かった斎藤と二人がどう絡んでいくのか、非常に楽しみな展開になってきた。
拓朗役の眞栄田郷敦は今まではなんとなく名前ぐらいは知ってるだけだったけど、このドラマに出たことで明らかに役者として知名度があがり、信頼度のようなものが視聴者に感じられてるのではないかと思う。それは次のドラマや映画につながるはずだ。
その時にそこに居るということは、運とか出会いとかをどう引き寄せるかということが大きくて表現者には重要な要素なんだよな、と改めて感じた。

Mirage Collective "Mirage - Collective ver. feat. 長澤まさみ" (Official Music Video)




デヴィッド・ロウリー監督『グリーン・ナイト』をTOHOシネマズ六本木にて鑑賞。TOHO系だとあとは新宿と日比谷のシネシャンテで上映しているが、どちらもスクリーンが小さかったので大きめのスクリーンで上映している六本木で観ることにした。

指輪物語」の著者J・R・R・トールキンが現代英語訳したことで知られる14世紀の叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」を、「スラムドッグ$ミリオネア」のデブ・パテル主演で映画化したダークファンタジー。「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデビッド・ロウリーが監督・脚本を手がけ、奇妙な冒険の旅を通して自身の内面と向き合う青年の成長を圧倒的映像美で描く。

アーサー王の甥であるサー・ガウェインは、正式な騎士になれぬまま怠惰な毎日を送っていた。クリスマスの日、円卓の騎士が集う王の宴に異様な風貌をした緑の騎士が現れ、恐ろしい首切りゲームを持ちかける。挑発に乗ったガウェインは緑の騎士の首を斬り落とすが、騎士は転がった首を自身の手で拾い上げ、ガウェインに1年後の再会を言い渡して去っていく。ガウェインはその約束を果たすべく、未知なる世界へと旅に出る。

共演は「リリーのすべて」のアリシア・ビカンダー、「華麗なるギャツビー」のジョエル・エドガートン。(映画.comより)

ダークファンタジーとして映像の素晴らしさ、キャラクターの造形なども魅力的だった。原作というか元になっている「サー・ガウェインと緑の騎士」を読んだことはないのだが、今作ではサー・ガウェインを主人公に英雄神話構造のラインをしっかりとやっている展開になっていた。
クリスマスの日にアーサー王と円卓の騎士やその知り合いたちが集まって団欒を過ごしているところに異様な姿の斧を手にした緑の騎士が馬に乗ってやってくる。アーサー王の甥っ子であるガウェインがクリスマスの遊び事として彼の挑発に乗ってその首を切り落とす。だが、その首を手に持った首無しの緑の騎士は一年後のクリスマスに自分を探してその首を同じように切り落とさせろと言って去っていく。ここはいわゆる旅への誘いであり旅への召喚になっている。
実際にはガウェインの母でありアーサー王の妹であるモーガンがなんらかの魔術で緑の騎士を出現させているような描写があり、怠惰な生活を送り未だに騎士になれない息子にはっぱをかけているように見えた。その意味ではグータラな息子を旅立たせ、通過儀礼をさせて大人(騎士)にさせようとしている内容なので、息子はずっと母の手のひらで彼は踊らされているとも言えるかもしれない。
モーガンも可愛い子には旅をさせよ的に送り出すわけだが、その旅において彼を守護するアイテムとして腰紐を持たせたり(途中で盗賊(バリー・コーガン)に奪われたりもする)するなど過保護さも見せている。また、ガウェインの恋人のエセルと途中に出てくる城の主人の妻(奥方)である奥方はアリシア・ヴィキャンデル一人二役で演じており、彼との性的な関係やそれを匂わし、彼女たちは彼に力を与える/奪うような対の存在のようになっていた。
母とエセル/奥方という女性たち「妹の力」に庇護されているのが主人公のガウェインであり、その部分も英雄神話では英雄は女性たちに庇護されながら冒険をするという定番となっているのでデビッド・ロウリー監督はかなりこの辺りも意識しているのではないかと思った。そういう部分も含めてガッツリと通過儀礼のお話だった。
途中までは馬に乗っているが、わりと早い段階からガウェインの冒険を導く存在として動物のキツネが出てくる。A24作品は神話的なモチーフが多いから動物が比較的よく出てくるのだが、逆説的に言えば動物を出すというのは神話のような物語を作りたいという意識の表れなのかもしれない。

緑の騎士がいる朽ちた教会のような場所には川を下っていくというか小舟で渡っていく描写があるが、それは此岸であるこの世から彼岸であるあの世に行くという「鯨の胎内」に入る的なモチーフだろう。緑の騎士と対峙する場所は此岸、あの世でもあるといえる。その前にきのこを食べて幻覚を見たりする、あれはマジックマッシュルーム的なものなのか、という風にガウェインの旅はどこまでが彼が体験している現実なのか、もしかすると夢や幻ではないかという可能性もいくつかのポイントで感じられる。
緑の騎士に首を差し出せと言われ、二、三度ガウェインは恐怖から緑の騎士に待ってくれと懇願する。つまり決意と覚悟がない。そこで彼はある未来を見ることになる。自分がアーサー王亡き後に王となるが、息子を戦で亡くし、自分たちも敵によって滅ぼされ自分の首が飛ぶというビジョンを、そしてそれを見た彼は覚悟を決めて緑の騎士に身を任せると首は切り落とされずに故郷へ帰れと言われる。つまり、騎士未満であるガウェインには覚悟がなかった。しかし、この旅を通じて覚悟を持った。だから騎士となる資格を得たという通過儀礼を果たしたというものであり、きちんと旅に出た故郷へ帰るという「行って帰ってくる」という物語の基礎をなぞるようにして、匂わして物語は終わる。
ダークファンタジーのダークさは全体のビジュアルなどにあるが正統派なファンタジーともいえる。そして、今作でも「扉」が象徴的なものとして出てくるが、デビッド・ロウリー監督作品では繰り返されるモチーフであり、監督は扉を開けること入って出ていくということが物語の核にあるのだろうと思われる。A24ブランドの素晴らしさを堪能できた作品だった。

終わってから19時から池袋で友人と飲む約束があったので渋谷まで歩こうと思ったら思いのほか雨が強く、コンビニで傘を買って青山を抜けて渋谷へ向かってJRに乗ったところで友人からラインが来ていたのを知った。映画を観ている時間帯に予約していたお店が大規模な水漏れで営業ができないと電話がきたので他の店を探すというものだった。池袋にはすでに向かっていたので、とりあえず池袋でいいかを確認した。
ジュンク堂書店池袋本店で待ち合わせをして、その近くにあるお店に入った。ヒューガルデンばっかりを飲みながら今年のことと来年の話をした。彼が来年やろうとしていることはおもしろいのでなにか一緒にできればと思ったけど、その話に関わるものと僕がつい最近関わりができたこともわかり、これはやるしかないという感じになった。
偶然なのか必然なのか、捉え方はその人次第だけど、四十代の最初の一年が加速できなかっただけに来年はしっかりやろうと二人で話せたのはとてもうれしかったし、テンションがあがった。こういう時間や関わりがあるかないかで全然違うものだから。

 

11月30日
朝から竹橋駅近くの会社に行く。今使っている作業用ノートパソコンは親会社が変わる前にリースされていたものを使わせてもらっていたが、そろそろ今の会社がリースしたものにしないといけないとのことなので交換しにいった。
基本的にはリモートで作業をしているのでできるだけ出社はしたくない。という気持ちがあるのでこういうことは早々に終わらすのが一番なので早めに動いたという感じ。
前の機種はPanasonicレッツノートだったが新しいのはDELLのものでキーボードの配置が微妙に違うので慣れるまでちょっと時間はかかりそう。あとレッツノートはかなり軽かったが今回のDELLはわりと重い。これは持ち運びしたくない感じの金属的な重さがある。
移行作業をして、前のものを社員に渡して回収してもらったので昼休憩も兼ねて会社を出て家に帰った。帰りが遅くなると田園都市線は混むし、早く帰ってリモートしたほうが気楽。

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』特報【3月3日(金)公開】 


A24×ミシェル・ヨー『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の予告を『グリーン・ナイト』上映前に観たけど、これ特報観たら最後にIMAXで、とあるのに気づいた。
絶対にIMAXで観たら最高なやつだ。と思ったら監督は『スイス・アーミー・マン』の人か、大丈夫かな。でも、公開日にIMAXで観たいな。
この作品に『グーニーズ』のデータ(中国系の少年)役のキー・ホイ・クァンが出ていて、それもあってこのところ彼の名前をよく見るようになったということなのだろうか。

最先端のカオス!A24「エブエブ」特報披露 ダニエルズ「多くのアジア映画へのラブレターでもある」

あらすじ:破産寸前のコインランドリーを経営する中国系アメリカ人のエブリン(ミシェル・ヨー)。国税庁の監査官(ジェイミー・リー・カーティス)に厳しい追及を受ける彼女は、突然、気の弱い夫・ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)といくつもの並行世界(マルチバース)にトリップ。「全宇宙に悪がはびこっている。止められるのは君しかいない」と告げられ、マルチバースに蔓延る悪と戦うべく立ち上がる。

アメリカでの公開から約一年遅れだけど、日本で確定申告が始まる三月ってのは内容ともピッタリではあるんだな。
A24はアメリカの映画制作会社だというのもあるだろうけど、移民とかの話をしっかり作ってきていて、新しい才能を世に出そうとしていてほんとうにクリエイティブ。

 

12月1日

8時半前に起きて家から出て渋谷に向かう。道玄坂草間彌生さんの宣伝用のフラッグというか、左右にいっぱい見えた。自分と同じ誕生日の著名人が草間彌生さんと大橋巨泉さん、マルセル・マルソーなんで少しだけ親近感がある。


『すずめの戸締まり』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。
1日は映画の日なので1000円。昨日、仕事の週一のミーティングの中で前にこの映画を観て感じたことを社員さんが話してくれていたこともあって、話の流れから僕も観てその感想を来週教えてほしいと言われたのでノリで観ることにした。そうでなければたぶん観ることはなかったと思う。

鑑賞後に帰り道を歩きながら作品について考えたのは、主人公のすずめは最初は登校のために自転車に乗っていて、住んでいる九州からミミズを封印していたダイジン(猫っぽいなにか)を追って椅子に姿を変えられた宗像と共に四国へ船(フェリー)で渡ることになる。見知らぬ土地で出会った女の子は原付きバイクに乗っていた(一度乗せてもらう)が、そこでひとつイベントをこなしてから再びダイジンを追いかけて神戸へ向かう。バスを待つが偶然通りかかった女性の車で明石海峡大橋を渡り本州へ渡ってそこでも封印のイベントをこなしてから、神戸から新幹線に乗り東京へ向かう。そして宗像の家と東京でのイベントを終わってから東北までは宗像の友人の車で向かうことになり、すずめの故郷に着く前から途中から叔母と二人乗りした自転車で、という風に北海道を除いた日本列島を南から北へさまざまな移動手段ですずめは北上することになる。
基本的にはすずめは出会った人の善意のみで支えられている、今の日本がギリギリまだなんとか姿を保っているのを見ているようだった。それも悪意がなさすぎるというファンタジーにも見えた。
すずめは日本列島を縦断するが飛行機には乗らない。だが、空から何度かは落下する、ショジョは飛べはしない。ただ、落下する、先進国からもう浮上することはない日本のメタファみたいに。
ジブリのヒロインは飛ぶことができたし、彼女たちと一緒なら男の子たちも飛ぶことができた。男性は自分ひとりでは飛べない、飛べるのは呪いを受けた者だけ。宮崎駿のように機械芸術論の影響下にあり飛行機(戦闘機)という機械の美しさに惹かれるが戦争は描けないように、それ以後の新海誠はもう少女たちが飛べないことを知っているし、少年たちが彼女たちから庇護されることも期待していないし、通過儀礼のようなストーリーラインを使いながらそれすらも諦めているように見えた。
あと父親の存在が皆無なのはもはや「父性」的なものは消失していることの表れなのだろうか。すずめにも宗像にも父の存在がない、育ての親として叔母と祖父がそれぞれにいる。
すずめが宗像のどこに惹かれたのかわからない、イケメンという以外では一緒に困難を共にした、という吊り橋理論ぐらいか。しかも、彼女は自分が封印解いたことにはなんら反省もない。宗像もそのことはあっさり許して自分が見つけるのが遅かったからだと不問にしている。
セカイ系でしかないその世界で震災を扱いながらも表面しか描けないのは宮崎駿が戦争を描けないのに似ている。そういう意味ではまさに今の日本ぽい。
一番の問題は主人公と相手役の宗像に感情移入ができないことなんだと思う。一番人間らしいのが叔母。すずめは他者や世界の事を気にしているようで、基本的には自分のことしか興味がないからこそ、セカイ系にしかならない。なんというか違和感ばかりが残る。
右大臣と左大臣は人身御供的な存在であり、一時的に宗像がその役割になるが、それを外すことが彼への好意だとして外すことがドラマティックに見えるが、君と僕だけがいればいいというのは大人が子供に向けて作る作品としては危険だとは思う。それは世界や社会がどうなろうがいい、金や数字を稼いで勝ち組になればいいというものと通じてしまっている価値観にも思える。
もののけ姫』でダイダラボッチの首を返して終わるのに似ていることも含めて、あの頃も劇場で観てダイダラボッチは許さずに人間滅ぼした方がいいんじゃないかって思ってしまったが、今回もちょっとそれに近い気持ちになってしまった。

渋谷から帰るときにヤマダ電機によって外付けHDの前と同じ容量の2TBのカード型というか薄い横置きのものを買って帰る。帰ってから一度フォーマットしてから修復不可能になっていた前の外付けに入れていたiTunesなどのデータを移行した。
ようやく先日買った Syrup16gのアルバム『Les Misé blue』をiTunesに取り込むことができた。とりあえず問題はなさそうだったのでご飯を食べに家を出る。昼間に降っていた雨のせいかかなり肌寒くなっていたが、もう12月に入ったのだから当然の寒さなのかもしれない。


ニコラでアンコウとブロッコリーのオレキエッテとそれに合わせてもらった白ワインをいただく。アンコウの身も美味しいし、ブロッコリーがそこから出た煮汁というか出汁のように吸い込んでる感じでわずかな苦味とその旨味が混ざり合っていた。
ワインは嗅いだらちょっと塩味がありそうな感じだったが飲んでみるとナシとかの感じに近い風味でオレキエッテによくあって美味しかった。

 

12月2日

朝起きてから昨日放送された『silent』第八話をTVerで見る。この三回くらいは奈々(夏帆)がメインというか見せ場をほぼ持っていっているし、セリフがキラーチューンぐらいすごいものを連発していて視聴者を揺さぶっている。
スマホGoogleのDiscoverをタッチするといろんなニュースや僕が興味持ってそうな話題などが並んでいるが、このところこのドラマにおける夏帆さんの凄さや女優として改めて評価されているなどのものが出てきて、ずっと好きな女優さんなので正直うれしい。でも、これも検索履歴とかから僕用にアルゴリズムで出しているわけだろうけど、まあ、日記で書いたりするときに調べたりするから、まあそうなるよな。

このところストーリー自体はあまり進まないでメインキャラの近過去にあった出来事と人間関係を描いてる。たぶんそのことでエモさが強まってるし、登場人物たちと同世代の人にはより響いてるのかな。
前回の最後に主人公の紬(川口春奈)が通っている手話教室の先生である春尾(風間俊介)と奈々が知り合いだということがわかる感じで今回に続いたが、二人は大学時代に同じ大学であり、春尾は就職のためにノートテイクボランティアをした際に奈々と出会って、その笑顔に惹かれて自分も手話を彼女に教えてもらうようになった。そして、二人の距離は近づいていったが、春尾は知り合いたちにも手話を教えて大学で手話サークルを作ろうとしていると彼女に話す。そのことを知った彼女は怒り、そういうことのために自分は手話を教えたわけではないということなどを伝える。画像の善意の話はその最中のものであり、春尾は話せるのに手話するのが大変で口から「めんどくさ」と言ってしまい、奈々はその口を読んでしまう。そこから距離ができた二人はせっかく手話でやりとりもできるようになったが以前のような距離には戻れなくなり、春尾は手話教室の先生へとなっていた。紬と想(目黒蓮)と春尾と奈々は知り合いであること、そういうつながりから数年を得ていろんなことを体験して大人になった二人は再び向き合って話を、手話でやりとりをするというのがこの回のメインだった。

ここまで奈々の存在が大きくなるとちょっとWヒロイン的な感じもしてくるが、ここからは想と母の律子(篠原涼子)の息子とは母の関係性についてになってきそうな感じ。息子への思いなどもこれまでに見せてきているし、篠原涼子を母親役に起用している時点でそこでのやりとりは終盤の大事なものになるのは間違いがない。
今回の放送分を見ていると登場人物たちのように二十代中頃から三十代手前までぐらいが、十代や二十代前半で一度別れた人との再会の最初の時期であり、その後もらせん階段を上るようにそれが時折起きるのだけど、人は病気になったり亡くなったり、仕事や金銭的なことや思想なんかの違いから会っていた人ともまったく会わなくもなることが増えていく。どちらかというと再会は減っていき、必然的に別れが増えてくる。だから、このぐらいの世代の再会と別れが一番いい時期なのかもしれない。
僕個人が今年はそういう別れが多い一年だった。お久しぶりに再会できた人も何人かいたけど、全部自分が足を運んだところで会えたなあ、と思う。結局のところ、SNSはきっかけにはなるけど実際に会えるかどうかっていうのがデカすぎることをコロナがこれでもかと僕ら人類にわからせてしまったのだと思う。


昼休憩の時に昨日レンタルで借りていたCDを返却しに渋谷に行って、帰りに丸善ジュンク堂書店渋谷店でリチャード・パワーズ著/木原善彦訳『惑う星』を購入した。レジの近くで書評家の豊崎由美さんとばったりお会いしたので、ご挨拶。

パパ、この惑星に僕の居場所はないの? 地球外生命の可能性を探る研究者の男、その幼い息子は絶滅に瀕する動物たちの悲惨に寄り添い苦しんでいた。男は彼をある実験に参加させる。MRIの中で亡き母の面影に出会った少年は、驚くほどの聡明さを発揮し始め――現代科学の最前線から描かれる、21世紀の「アルジャーノン」。

と新潮社の公式サイトには書かれているが、実際に帯の後ろに書かれている概要では、

地球外生命を探る研究者シーオの幼い息子ロビンは、母アリッサの急逝で情緒不安定になっていた。シーオは、妻の知人が取り組むfMRI(機能的磁気共鳴映像法)を用いた実験に息子を参加させる。生前のアリッサが残した脳のスキャンデータを元に、母の感情をロビンに追体験させ、彼の精神を解放しようというのだ。その効果は目覚ましく、ロビンは周囲が驚くほどの聡明さを発揮し始め、母が生涯をかけて取り組んだ動物保護への意識も研ぎ澄まされていく。彼の眼には、人間がこの惑星にとって有害と映っていた―――ブッカー賞最終候補作。

とあり、あれ帯文のほうがかなり詳細な感じで書かれているし、母から受け継いだ動物保護の意識と地球にとって有害な存在としての人間っていうのがもっとわかったほうが読み手は興味がそそられるような、僕はそそられるんだけどな。
あと母の脳のスキャンデータを追体験するというのはA24×コゴナダ監督『アフター・ヤン』のことを思い出した。こちらはAIロボットのヤンが故障し直せなくなってからそのメモリを一家の父が見ることになる。そしてメモリを見ることで父が知らなかったヤンの一面を知っていくというものだった。

こういった小説や映画で描かれるような誰かの脳にある記憶などを見ることができる世界がやってくるのかもしれない(昔からSFでは描かれていた気はするが)。この経験は自分ではない誰かの人生を追体験できることを意味するが、それは小説や映画という創作物がずっとずっと前からやってきたことでもある。だけど、今よりももっと極パーソナルなものを人は求めていくのだろうか、どうなんだろう。でも小説って作家のパーソナルな意識と無意識の集合体だからそっちに回帰はしないのかな、と書いてみてそういうのは僕が小説が好きだからであって、マジョリティではなくなっているものなんだよなあ。
あと関係ないけどリチャード・パワーズっていう名前が強いよね。彼の『われらが歌う時』はもう絶版だしさすがに文庫版で出してくれないかな。出た当時はあれほどオバマ大統領の出現を予感したとか言っていたんだし、ブラック・ライヴズ・マターが盛んになっている今だからこそ、あの小説は十代とか大学生ぐらいが手に取れるような形になっているほうがいいと思う。


昨日買った竹田ダニエル著『世界と私のAtоZ』を少しずつ読み進めているが、トラヴィス・スコットってそんなことになってたんだとか知った。Z世代における意識についてかなりわかりやすく書かれていておもしろい。
僕はここで出てくるミレニアム世代になる(アメリカの世代では、日本だとロスジェネ最後尾)けど、彼らの方がレトロなものに惹かれる理由とかも、スピリチュアルなものにフラットに、というかライトに触れているのはアメリカにおける多民族で移民が多いと両親や上の世代が信仰している宗教を熱心には受け入れないし信仰しない人が多くなるけど、ある程度はマインドのためにちょっとしたお守りが欲しいというものはわりとあるんだろうなってわかる気がする。特にアメリカだとそうなるだろう。
アジア系の活躍と連帯の話とかも日本いたら全然わからないことだし、そういうことを体験していたり、身に染みている人たちがブラック・ライヴズ・マターを支持するのは黒人の人たちだけではなく、自分たちも同じ状況であり白人至上主義がまだ強いというのがデカいんだな。
近年は映画業界でもアジア系の俳優がメインになったりした作品がハリウッドでも賞を取ったりすることがアメリカに住むアジア系への理解を推し進めているのはとてもいいことだし、アメリカはほんとうにどんどん変わっていっている。

 

12月3日
昨日に引き続きレンタルしていたCDを返却するついでに散歩がてら渋谷まで歩く。9時前には家を出たのでTSUTAYA渋谷店に着いた時には開店前だったので返却ポストに入れてからきた道を戻った。
途中で246沿いを左側にある旧山手通りに曲がって代官山蔦屋書店を覗こうかなと思った。ドラマ『silent』で夏帆さん演じる奈々がこの通り沿いにある西郷橋を歩いているシーンがあったが、橋に近づいていくとロケバスが何台かあり、撮影スタッフさんが何人か見え、交通整理をしていた。本当に何かロケしてるんだなって思って、橋を渡り切るというか通っていたら本当に夏帆さんが奈々の衣装でスタッフと一緒に立っていた(通行人がいなくなるのを待っていて)。おお、昨日ドラマを見たばかりだったのもあるし、ここでロケしてたなって思ったら本当に偶然通りかかったら撮影をしていて驚いた。でも、この西郷橋を代官山のほうから246方面に歩いているということは奈々は代官山か恵比寿方面に住んでいるってことなのだろうか。
西郷橋はドラマや映画やAVとかいろんな映像作品にも出てくるし雑誌のモデルさんが撮影しているのを時折見る場所だが、ロケバスが停めやすいっていうのがデカいんだろうか。


山崎峰水 漫画/大塚英志 原作『くだんのピストル』参巻。
黒鷺死体宅配便』も巻数ごとに収録されている各タイトルが同じアーティストの曲名で統一されていたが、今回は壱巻が藤田敏八監督(『危険な関係』『もっとしなやかにもっとしたたかに』『にっぽん零年』『帰らざる日々』『十八歳、海へ』)、弐巻が黒木和雄監督(『祭りの準備』『夕暮れまで』『とべない沈黙』『日本の悪霊』)、参巻が長谷川和彦監督(『迷い鳩どもの凱旋』『悪魔のようなあいつ』『青春の蹉跌』『青春の殺人者』『夢見る力』)とそれぞれ映画監督で統一されその作品名が付けられている。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ』(角川スニーカー版)の二冊の章タイトルが大江健三郎中上健次の作品から取られていて、僕は彼らを知るきっかけになった。出会うことのなかったものに読者が出会うかもしれないといういたずら心というか、タイトルを毎回考えるのがめんどくさいのもあるだろうけど。

そのことをツイートしたら大塚さん引用RTで答えてくれていた。『迷い鳩どもの凱旋』『夢見る力』は連合赤軍について長谷川和彦監督がかつて撮ろうとしていた映画のタイトルなので、いまだにこのタイトルの作品は存在していない。


『くだんのピストル』と一緒に買っていた安田佳澄著『フールナイト』五巻を読む。
僕個人は『チェンソーマン』に疎く、漫画は読んでいないのだが、アニメの第一話を見た時に感じたものとこの『フールナイト』は根本のところでは一緒な気がしてきた。
集英社のジャンプ的な王道エンタメが好きか小学館のちょっとサブカル的なエンタメが好きかという違いな気もするのだけど、僕は集英社的なジャンプ的なものはそこまでハマってきていない。
みんなが『ドラゴンボール』『幽遊白書』『ワンピース』とかが好きで語っているのをみるとなんというかすごく不思議な気持ちになる。リアルタイムでかつての黄金期と呼ばれていた時期のジャンプを毎週リアルタイムで読んでいたけど、読んでいただけだった感じだった。今日から映画で公開された『スラムダンク』も読んではいたけど思い入れがない。
『フールナイト』『チェンソーマン』のどちらも描かれているのは親世代やさらにその上の世代たちが受け入れてきたフォードシステムによって完成された大量消費と大量生産という資本主義以降の世界からの遺産という名の負債を背負わされた者たちが主人公であり、『チェンソーマン』においては「悪魔」という異種の要素と結合した主人公が同じく「悪魔」と戦っている。

『フールナイト』はぶ厚い雲に覆われ陽が差さなくなった遥か未来の地球が舞台になっており、植物が枯れ酸素も薄くなった世界において生き残った人類は、「転花」(人を植物に変える技術。死期の近い人間に「種」を植え込み、約二年かけて「霊花」と呼ばれる植物にする)を開発してわずかな酸素を作り出して生き延びているという舞台設定になっている。母親の手術代のために「転花」という技術を受けた主人公のトーシローは「転花」して二年経ったあとに人間がなる「霊花」と呼ばれる植物たちの声が聞こえるようになり、幼馴染みのヨミコが働く国立転花院で臨時職員として働くことになる。
物語では「植物」になることで貧しい人たちは金銭を得ていたり、残された家族に金を渡そうとしたりするが、そこには政治的な思惑も絡んできて「転花」に反対する勢力や「霊花」となっても動き回るアーヴィという存在が現れる。『フールナイト』は『寄生獣』に近いもの、現在的な背景を取り込んで進化させているようにも感じる。
どちらも若者(主人公)が奴隷のように搾取され虐げられている構造があり、何もかも失った主人公は「悪魔」となり、「転花」の施術を受けることで人間でありながら人間ではない者へとなることで生き延びているというところが、極めて現代的であり『ウルトラマン』『デビルマン』から続く系譜にもなっていると思う。ジャンプ+初のヒット作のひとつ『怪獣8号』もこの系譜にある。個人的には『フールナイト』はTBSの金10でドラマやったらバッチリな感じだと思うんだけど。

 

12月4日

山田詠美著『私のことだま漂流機』を寝る前から読み始めて、夕方に読み終わる。
昨日代官山蔦屋書店に寄った際に購入していたもの。帯には本格自伝小説とあるが、読んでいる感触としてはエッセイに近いものだった。
幼少期から小説家となり、文壇で出会った大物たちの話や尊敬している宇野千代さんのこと、恋人や慣れ親しんできたブラックカルチャーであったり、黒人の恋人との付き合いで知った差別や偏見について、そして作家を目指す人へのアドバイスみたいなものが書かれていた。
毎日新聞連載だったこともあるのだろうが、ひとつひとつがちょうどいい長さで非常に読みやすい。山田詠美さんが宇野千代さんに憧れたように、エイミー(なんかエイミーと呼びたくなるね)が下の作家にも多大な影響を与えているのはわかるので、そういうふうに手渡されていくものが確かにあるのだなと納得もした。

 けれど、ひとりの人間が取り込めるものには限度がある。追い付かないよ、さあ、どうする?
 そうなった時には、自分の書いているもの、あるいは、書こうとしているものが、もしかしたら、もう、とうの昔に誰かによって書かれてしまっているのではないか、という恐れを持つべきだと、私は思う。そんなふうに怖気付くだけで、剽窃から一歩遠ざかることが出来るだろう。すると、そこにはオマージュが残る。
 誰だって、人の真似から入るのだ。大好きな作家の本を読み込み、こんなものを自分も書いてみたいと切望し、あれこれとなぞってみる。その結果、似たようなものは書けるかもしれない。けれども、それは、あくまで、かつて誰かが書いたものに「似たもの」なのである。
 そっか、ただの似たものに過ぎないのか、とがっかりする。でも、私は、その「がっかりするもの」を知らないと「がっかりしないですむもの」を書けないと思うのだ。
 どんどん書く。読んで、また書く。
「小説家を志すきみへ」(P275より)

 しかし、時と共に、その悲しみの腫れはひき、やがて、しんとした凪の時間がやって来る。痛みの芯は、永遠に心の中に残り、時折、疼くに違いない。けれども、時が経てば、そんな状態を諦めと共に受け入れられる。
 もしも、小説を書きたいと思い続けて来た人ならば、それに気付いたあたりが「書き時」であると、私は思う。誤解を恐れずに言えば、大切な人の死は、小説と驚くほど親和性が高い。もちろん、その喪失の体験が、小説の言葉を獲得するまでには、長い時間をかけてクールダウンが必要なのだが。
 私は、自死した三人を思い出さずにはいられない。何故、私だけが生き残っているのかと、考えることから逃れられない。たぶん、一生、そうなのだろう。そして、その秩序を失った感情の渦に、ひとつひとつ正確な言葉を与えて、整えて行く。それが、私にとっての「書く」という行為だ。
 とてつもなく緊張を強いる作業の連続ではあるが、辛抱強く続けていると、やがて、物語が立ち現れて、死んだ筈の人々が生き返るのである。その瞬間、ただ「書く」が「小説を書く」に進化する。そんなふうにして、私は、自分の内なる領域で、多くの人を生き返らせて来た。
 小説とは、甦りの魔法のようなもの。私には、私だけの言葉をまとって、甦って欲しい人がいっぱいいる。
「君よ知るや創作の糧」(P297-298)

以前読んだ島田雅彦著『君が異端だった頃』は最近文庫化になっていたが、山田さんと島田さんでは年齢は山田さんの上だが作家デビューは島田さんの方が早いものの、同世代で文壇バーなどにも顔を出して昭和の大御所の作家との交流があった最後の世代であり、山田さんのこの本にも何度か島田さんの名前が出てくる。どちらの作品にも出て来る重鎮の作家として中上健次がおり、島田さんの方ではその付き合いはかなり濃く二人の関係性などは少し憧れるものがあった。山田さんも中上さんと会った時の印象をしっかりと書かれていてそこも楽しめた。
『私のことだま漂流機』と『君が異端だった頃』は今は大御所の作家となった二人のデビュー前から小説家となってそこから関わった人たちの思い出や交流などが書かれていて、どちらも読むとその時代を知らなかった、間に合わなかった世代でもその輪郭が少し浮かび上がって来るものとなっている。
上記で引用したものは読んでいて、これは覚えておきたいと思ったので引用する形で自分で書き写してみた部分。

 

12月5日
Tシャツをめくるシティボーイ 第4回  ルシンダ・バラード、下着だったTシャツの運命を変えた女 / 文:高畑鍬名(QTV)

12月になったので都築響一さんのメルマガ「ROADSIDERS' weekly」を登録して連載が始まっていた友人のパン生地くんの連載の最新回まで読んだ。雑誌『POPEYE』の表紙から見るこの50年近くのTシャツの裾のカットインorアウトの歴史から始まる第一回目から楽しめた。この4回目は映画『欲望という名の電車』におけるマーロン・ブランドの存在がいかにTシャツの運命を変えたかという回だった。 この連載は全22回連載されるみたい。
パン生地くんは2021年10月末には新宿眼科画廊で「1991年の若者たちがタックアウトしたTシャツを2021年の君たちは」展を開催した。それはファッション史であり若者文化論であり、ある種の戦後史でもあると感じたので、この連載もどこかの出版社から一冊の形で纏まるといいなと思う。

 

 さて、Lilla Flickaの歌詞は、フェミニズムも、リベラリズムも、ダイバーシティも包摂した、非常に現代的で、ジェンダーのみならず、肉体やその経年変化(実年齢)も手放す臨界にまで至っています。しかし、「20世紀は唾棄すべき不自由で不平等な時代だが、21世紀はそれを撤廃しよう。そして自由と平等を普通に共有できる社会が素晴らしいのだ」といった、些かながらユートピアックに過ぎる理念への、パップミュージックからの回答にもなっています。21世紀は、20世紀に比べて圧倒的に自由ではありますが、自由であるが故の苦しさも存在する。そこを言語化されているように感じました。

 Lilla Flicka氏も加藤咲希も完全なバイリンガルです。つまり彼女たちの中では日本語と英語の歌詞が同時に立ち上がって、並列して頭の中に流れている。リリックというものは取扱説明書や論文とは違います。多言語国家だったらありうるかもしれませんが、日本ではそんな脳の使い方をするリリックはあまりない。もしかしたらLilla Flickaの21世紀的な感覚はそうした脳の使い方にも関係があるのかもしれません。それこそ20世紀までのバイリンガル歌手たちは、「本場風のワンランク上の英語発音」を誇る以上のことはできなかったと思います。バイリンガルトランスジェンダーバイセクシュアルに相当するもので、本作にはその感覚が横溢しています。

菊地成孔も賞賛するシンガーソングライター Lilla Flickaとは何者? <新音楽制作工房>と作り上げた『通過儀礼』の世界に迫る

【MV】Lilla Flicka & 新音楽制作工房『HAL9K』(Official Music Video) 



外付けHDを新調してからまたiTunesにCDを借りて音源を取り込んだりしていて、その流れで菊地成孔さんがプロデュースをしているオーニソロジーの新譜『食卓』をiTunes Storeで購入した。CDなどでは販売していなかったから仕方ない、そのまま来年一月のオーニソロジーのライブも予約した。それもあって、菊池さんが主宰している「新音楽制作工房」が関わったアルバムが出るというのを上記の記事で知ったのでBASEで注文してみた。CDが届くのは少し先のようだが、菊地成孔さんが関わる音楽には触れていたいと思う。

コロナパンデミック以前から僕が追いかけていたのは影響を受けていたのは、古川日出男さんと向井秀徳さんと菊地成孔さんの三人だった。古川さんであれば朗読などのイベントや書店で行われるもの、向井さんと菊地さんはそれぞれにいくつかの音楽のプロジェクトがあるので、ソロであったりバンドであったりと自分が好きなものはライブにできるだけ行った。それはパンデミック以降になってからも変わらない。
以降になってからはライブやイベントは中止になったり延期されたりもしているが、それでもこの三人に関しては何度も足を運んでこの目で見て耳で聞いてきた。そのことで僕はなんとか生き延びてきたような気がしている。そういうわけでLilla Flickaというミュージシャンの音楽にも興味がある。まずはそんなきっかけでいいと思う。

「あののオールナイトニッポン0」三回目やるんだ! 前の二回とも聴いていてすごくおもしろかったので今回もたのしみ。正直あのちゃんは「オールナイトニッポン」の「0」か「X」のどっちかでレギュラーになってほしい。

ano「ちゅ、多様性。」Music Video 


最初に聴いた時に「すげえ相対性理論っぽい」と思ったら、あのちゃんと元相対性理論の真部さんによる共作曲らしい。
アニメ『チェンソーマン』第七話のエンディングテーマでその回の中身とリンクしているらしいがアニメは一話で止まってしまった。この曲はポップさとその歌詞の内容の真逆だからキュートでダーク。

 

12月6日

ナマモノはずっと苦手で食べても美味しいと思えずにいた。年齢もあるだろうし、出されたものは残さないようにできるだけ食べるようにしているので少しずつ食べる機会が増えてきたこともあるのか、この数年で少しずつ美味しいと感じられるようになってきた。そういう人間なのでお鮨屋に行くという発想はまったくなく、小学生高学年の頃に友達と一緒に回るお寿司のチェーン店には何度か行ったがその時にはエビフライ巻とコーン巻、タマゴやアナゴだけを食べていた記憶がある。
ランチとお茶を数ヶ月に一回行く友人から、12月に入るし年末ということで豪華に鮨ランチに行こうと誘ってもらったので行くことにした。こういうきっかけがないと行くことは永遠にないし、誘われたら行くという姿勢にはしている。
というわけで約30年ぶりぐらいにお寿司を食べにいくことになった。三茶の肉のハナマサのすぐ近くにある鮨かんてらさんへ。カウンターだけのお店で、おお大人って思いながら職人さんが握ってくれたお鮨をいただいた。ランチは旬の握りが十品と巻物とお吸い物というメニューだった。
赤身とかマグロとかの脂が多い具材には赤酢のシャリ、白身とかイカには普通の白いシャリという風にシャリもそれぞれに合わせたものだった。いくつか食べてから写真をという感じで撮ったけど、イカは歯ごたえがあって乗っていた炭塩とも合っていたし、旬ではないけどサンマのいいのがあったからと言って出してもらった炙った握りも大間マグロの赤身もすごく美味しかった。おお、鮨うまいって初めて思いました。今年40歳にして。
目の前で握ってくれた職人さんも聞いたら魚のこととかも短いけどわかりやすく話をしてくれる人だったし、お店もすごく居心地もよかった。
食の解像度が低い人間で外食をほぼしないのだけど、こういうお店で美味しいものを食べられるのは幸せだし、誘ってもらえてよかった。そのあとの喫茶店に移ってからたくさん話もしたけど、こういう時間があるから東京にいるんだろうな。


先日渋谷に行った際に道玄坂を下っていると「ルイヴィトンと草間彌生」のコラボした広告フラッグが等間隔で設置されていた。僕と同じ誕生日の有名人が草間彌生さんと大橋巨泉さんとマルセル・マルソーなので、多少親近感があったが、現代美術と世界最大手の大手ブランドのコラボって現代美術が大資本に飲み込まれてる証明でしかなくないと思いつつ気になっていた。
二日前に読み終えた山田詠美著『私のことだま漂流記』の中で、エイミーの親友であり担当編集者の石原正康さんの話があった。石原さんは今や幻冬社の取締役兼専務執行役員/編集・出版本部本部長なのだが、見城徹社長の角川書店野性時代』編集長時代に編集者として山田詠美さんの『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』を担当しており、直木賞受賞へと導いたことでバイトから社員になったと書かれていた。
そもそもそれ以前に石原さんは小説を書いていて、「野性時代新人文学賞」最終選考に残ったことで見城さんと知り合いになって受賞を期待されていた。そして、その時に新人賞を受賞したのが草間彌生さんの『クリストファー男娼窟』だった。それによって小説家を諦めた石原さんは編集者となり、エイミーの親友であり担当編集者となった。だからエイミーは草間さんに感謝しているという文章があった。
だいぶ前から『クリストファー男娼窟』のことは知っていて気になっていたから、そこの部分を読んですぐにamazonで注文していた。さきほど家に帰ると届いていたのでペラペラとめくる。
草間さんの1984年当時のあとがきがあり、2012年の文庫版のあとがきがあった。その後に解説があり、解説を書いているのが古川日出男さんだった。まったく知らずに注文していたのでちょっと驚いた。それは角川書店(現KADOKAWA)と幻冬社の関係性のことがちょっと脳裏によぎったからでもある。
幻冬社角川書店にいた見城徹さんが独立して立ち上げた出版社であり、彼が「野性時代」編集長時代に多くの直木賞作家やヒット作を出していたことで、ベテラン作家たちも新規のその出版社で書くことになったのは有名な話である。
古川さんのデビュー作『13』と二作目『沈黙』と三作目『アビシニアン』までは幻冬社から出ている。そのことは公式サイトの読み物にある「特別寄稿「最初の編集者の告白」」というもので最初の担当者だった幻冬社の志儀保博さんが当時のことを綴っている。

四作目となる『アラビアの夜の種族』は角川書店から発売となり、『13』と『沈黙/アビシニアン』はその後角川文庫となって出されることになり、それ以降古川さんの小説は幻冬社からは出ていない。
草間彌生さんの『クリストファー男娼窟』文庫版の解説を古川さんが書いているというのは角川書店幻冬社を関係性と古川さんと幻冬社の関わりを知っていると、歴史を感じるものだった。

 

12月7日

仕事が終わってからニコラでラ・フランスマスカルポーネのタルトとアイノブレンドをいただく。薄切りにしたラ・フランスとそのコンフィを固めたものがタルトとマスカルポーネの上に乗っていたが、水々しくて甘くて美味しかった。

『「グレート・ギャツビー」を追え』を読み終えた。文庫の帯の裏に著者のジョン・グリジャムの作品『狙われた楽園』の紹介がされており、そこに今回の重要人物であり書店の店主であるブルース・ケーブルが作家の不審死の謎を追うと書かれているので、ということは今作では盗品であるフィッツジェラルドの直筆原稿の行方を知っているかもしれない彼が捕まったりバッドエンドな終わり方ではないのだろうなとちょっと思っていたけど、まさにその通りな終わりだった。まあ、そうなるわな。

「新人作家の犯すもう一つの間違いは、第一章で二十人の登場人物を紹介することだ。五人で十分だ。それなら読者の頭も混乱しない。次。もし類義語辞書(シソーラス)に手を伸ばしたいと思ったら、三音節以内の言葉を探すべきだ。僕はかなり立派な語彙を有しているが、そんな僕でさえ未だ目にしたこともないような難しい言葉をひけらかす作家くらい腹立たしいものはない。次。お願いだから、頼むから、会話にはクォーテーション・マークをつけてもらいたい。そうしないとわけがわからなくなるんだ。ルールの第五条。たいていの作家は語りすぎる。だから常にそぎ落とすことを考えてほしい。センテンスを短くするとか、必要のないシーンを削るとかね。もっと続けることはできるけど」
『「グレート・ギャツビー」を追え』P412より

上記の引用は作家のマーサーへブルースが伝えた小説を書くポイントだが、これはとても実用的だと思った。そぎ落とすのは難しい、僕には。でも、語りすぎてもいけないということも段々わかるようにはなってきた。


『群像』2023年1月号に掲載されていた町屋良平さんの野間文芸新人賞受賞のことばを読んで、『ほんのこども』もう一度読み返したいと思った。あとは先日読み終わった『私のことだま漂流記』の著者の山田詠美さんのインタビューがタイムリーだった。古川日出男さんの連載『の、すべて』第十二回読んで、スサノオ都知事と呼ばれた大澤光延と彼の病室を訪ねてきた面会人の河原真古登との会話を読んでいて、光延の発言で「ああ、スサノオの大事なとこ(逸話)それあった!」と納得した。

仕事の休憩中に外に出た時にこの日記は24日に始まり翌月の23日までが一ヶ月分となっているけど、それを守る必要はないよなとふと思った。もともとは日記を『水道橋博士のメルマ旬報』に掲載する際に原稿締め切りが23日だったのでそれに合わせている形がずっと継続していた。それもあって一回分の日記が長くなり容量も大きくなっているのもそろそろ考えなきゃなと思った。
水道橋博士のメルマ旬報』も終了したわけだし、もう、その縛りを継続しなくてもいいし、替え時だなと思ったので今月はちょうど12月なのでいつもなら23日で終わるけど、31日の月末までにしようと思った。来年の1月からは半月を一回として月に二回分に日記をわけることにした。

 

12月8日

10時少し前に新宿三丁目駅に着いた。映画は10時半からだったのでちょっと時間があるので歌舞伎町の方へ歩いていき、新宿で映画観るときはお約束な「いわもとQ」へ。朝ご飯と昼ごはんを兼ねるので天ぷらそばを注文した。
値段はそこまで高くないけどほんとうに天ぷらの揚げ加減が絶妙というか、そばも美味しいんだけどやっぱり天ぷらが食べたくなるお店。ちょっとお腹いっぱいになったので歩いて新宿シネマカリテへ向かって歩く。


どのくらいぶりか思い出せないが新宿シネマカリテでジュリオ・クエスティ監督『殺しを呼ぶ卵 最長版』を鑑賞。
前に予告編を見たときに気になっていて、養鶏場が出てくる映画ということもあり、初生雛鑑別師だった大伯父のことを調べたりしているので興味があったという感じで、ジュリオ・クエスティ監督についてはまったく知らなかった。

「情無用のジャンゴ」で知られるイタリアの鬼才ジュリオ・クエスティが、巨大養鶏場で繰り広げられる愛憎劇を通して資本主義社会の非情と人生の虚無を描いた猟奇サスペンス。

ローマ郊外にある巨大養鶏場。社長マルコは業界の名士として名を知られていたが、経営の実権と財産は妻アンナに握られている。マルコは同居しているアンナの10代の姪ガブリと愛人関係にあり、妻への憎しみを女性へのサディズムで発散していた。やがて3人それぞれの隠された欲望が暴かれ、事態は予測不可能な方向へと転がっていく。

「男と女」などの名優ジャン=ルイ・トランティニャンがマルコ、「わらの女」のジーナ・ロロブリジーダがアンナ、「キャンディ」のエバ・オーリンがガブリを演じた。1968年の初公開時に世界配給された国際版ではカットされた残酷描写などを含む「最長版」を、2022年12月より劇場公開。(映画.comより)

正直なことを言うと途中から何度か寝てしまった。前の列のおじさんはいびきをかいていた。映画を見る前に天ぷらそばを食べたことでお腹いっぱいになって眠くなったこともあるだろうけど、眠気が吹き飛ぶぐらい夢中になるという内容ではなかったのかもしれない。音楽がフリージャズっぽいのとか前衛音楽みたいな感じでそれはけっこう心地よかった。
B級サスペンスって感じではあり、作品説明にあるようなオートメーション化と資本主義社会みたいなことはやろうとしているのはわからなくないが、メインの三人の欲望がわりとありきたりであり、そのせいでB級ぽさが強まっていた気はする。眠気がない時に観ても多少退屈だったような気もしなくはない。レトロな映画を観たって感じになるのかな。


燃え殻&二村ヒトシ著『深夜、生命線をそっと足す』を渋谷に戻ってから帰り道がてら立ち寄った丸善ジュンク堂書店渋谷店で購入。
二村さんには今までに、二回か三回ほど飲み屋さんとかイベントでお会いしたはずだが、話をたくさんさせてもらったわけではないけど、懐の深そうな人だなってイメージ。燃え殻さんとのやりとりはおもしろそうだなって。


家に着いてから荷物を置いて、駅前のスーパーへ。うちの近所の天ぷらとフライのお店「天政」さんの前を通ったらシャッターになんか張り紙がしてあった。年末の営業日のお知らせかな、大晦日とその前の日とか地獄みたいなことになるから。朝イチからひたすら天ぷらをあげていて、お客さんもずっと並んでいたので。去年はあえて大晦日は営業していなかった記憶があるけど。
駅前に向かっていたので歩きながら、張り紙を読んだら「閉店いたしました」って書いてあって、「閉店します」じゃなくて閉店したんだってわかった。帰りも通る時に読んだら12月4日に閉店されていたみたいで、お店は55年営業されていたことがわかった。
先週はメンチコロッケと肉詰めハンペンを買ったけど、そんな様子もなくいつものお店の人もなんにも言っていなかったので、ほんとうに近しい人とかすごい常連さんだけには話していたのかなと思った。僕は月に一、二回程度買っていたぐらいでお店の人とは町中ですれ違ったら挨拶するぐらいには顔を認識していた。
「天政」さんはテレビの「アド街ック天国」とか雑誌の三軒茶屋特集だとだいたい出てくる有名なお店。この数年はお店のおじちゃんやおばちゃんも体調を崩したりとかで営業日も金土日とか週末ぐらいになっていた。でも、こういうお店の締め方がいいなって思う。前もって閉店しますって言ったら、普段は来ない人や昔は来ていたけど遠くに住んでいる人とかが押し寄せてきたらお店の人も疲れちゃうし、普段から買っている人にも迷惑になっちゃうだろう。
事後報告って形のほうがいいよな。お店が閉店する時には思い出がある人とか寂しがったりするけど、普段から買い物していた人がそういうのなら理解もできるし、逆にちゃんとお店に通っている人の方がわかっているから言わないよねってこの数年で思うことが何度かあった。
だから、今んとこ東急百貨店渋谷店に入っている丸善ジュンク堂書店渋谷店が百貨店と文化村の再開発で来年の1月末で営業が終わってしまうのはマジで寂しい(僕は年間で十数万は丸善ジュンク堂書店渋谷店で本を買っているので言っても許されるはず。
「ピンチョンとかフォークナーとか高いんだよ、海外文学」と昔は思ってたけどこんなにもいろんな国の文学が母国語に訳されて読める国なんてほかにないだろうし、知的好奇心と豊かさのひとつだったのが海外文学だと思う。もちろんかつての海外への憧れも含まれていた時期があるのも事実。でも、もはや先進国でもなく30年を越えて失われ続けていくのに加えて円高とかもあるから翻訳されていく海外文学ってどんどん減っていくだろうし、読む人も減っていくから出してくれるだけでもありがたい、とりあえず気になっていたら発売したら早めに買って少しでも実数販売に協力したいって気持ちになる)。
海外文学がしっかり揃っている書店って渋谷だとやっぱり丸善ジュンク堂書店だったし品揃えも幅広かった。ル・シネマが渋谷東映の跡地にはいるように、どこか渋谷で移転してくれるといいけど、あの広さはなかなか確保できないだろうから難しいのかな。となると海外文芸が古典から最新作まである程度網羅しているのが近くだと青山ブックセンター本店ぐらいしかなくなってしまう。代官山蔦屋書店は文芸コーナー自体が年々小さくなっているから海外文学自体も減っている(ある程度古典作品もあるにはあるが、なんせ文芸フロアが広くない)。

風が泣いている(生演奏)  ザ・スパイダース 1967

東急百貨店渋谷店付近でよく井上順さんを見かける(調べたらうちの父親と生年月日がまったく同じだった)のと「天政」さんが55年の営業ってことで開店時の1967年ということでザ・スパイダース
「メルマ旬報」チームのてれびのスキマさんが出した『芸能界誕生』を読むとその時代がよくわかる。僕よりも上の世代の人からしたら当たり前なんだろうけど、戦後の芸能界というのものがどういう風にできていったのか、芸能プロダクションの始まりというものだって戦争で生き残ったジャズメンたちが進駐軍のどさ回りしたところからなわけで戦争が大きく関わっている。
日本初の長編アニメ映画といわれる『桃太郎 海の神兵』だって当時の海軍をある意味で騙くらかして作っちゃってるわけで、今に続く日本の芸能やエンターテイメントは第二次世界大戦が大きく関わっているし、始まりでもあるんだけど、僕が行っていた映画学校でもそんなことは教えてくれなかったし、エンタメ関係の人もそんなことを知らないか気にしていない。そういうバックグラウンドとか知らないで創作するのって怖いなって思う、それは海外の作品に触れることで知れる部分やきっかけがあるはずなんだけど、そのきっかけが減ったままでなかったことして消費していく世界はやっぱりロクなことにはならないと思う。

 

12月9日

本日公開のアレックス・ガーランド監督『MEN 同じ顔の男たち』をシネクイントにて鑑賞。
前からシネクイント系列で予告を見ていたしA24制作作品なので観ようと思っていた。お客さんはそこまで多くはなかったけど、おそらく僕と同じようにA24だと思われる。じゃないと初日には観に来ないと思うんだが。

エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドが監督・脚本を手がけ、「ロスト・ドーター」のジェシー・バックリー主演で描くサスペンススリラー。

夫の死を目撃してしまったハーパーは、心の傷を癒すためイギリスの田舎町へやって来る。彼女は豪華なカントリーハウスの管理人ジェフリーと出会うが、街へ出かけると少年や牧師、警官に至るまで出会う男すべてがジェフリーと全く同じ顔だった。さらに廃トンネルから謎の影がついてきたり、木から大量の林檎が落下したり、夫の死がフラッシュバックするなど不穏な出来事が続発。ハーパーを襲う得体の知れない恐怖は、徐々にその正体を現し始める。

ダニエル・クレイグ主演の「007」シリーズでビル・タナー役を務めたロリー・キニアが、同じ顔をした不気味な男たちを怪演。(映画.comより)

夫が死んでから田舎でリフレッシュしようとした主人公のハーパーだが、廃トンネルから謎の存在に付きまとわれるようになる。その人物は全裸(全身金色っぽい)で一度は警察に捕まえられるが、釈放後には体に葉っぱを植え付けるな謎の行動をして再度ハーパーの元に現れることになる(精霊とか人ではない存在っぽい)。そして、管理人のジェフリーと同じ顔をした牧師(神父かも)や高校生などが次々と現れる。そして、彼らに追われて襲われそうになるがなんとか逃げていくハーパー。彼らの左手は中指とクリス指の間から肘にかけて真っ二つになるが、代わる代わるカントリーハウスでハーパーに襲い掛かろうとする彼らの手はどれも同じであり、足も右足が折れていたという共通点が見え、どうやらひとりが全員であり全員がひとりという存在であるらしい。

カントリーハウスで仕事をしつつリラックスしようとするハーパーだが、亡くなった夫との最後のやりとりを彼女は度々思い出す。口論の最中、夫に殴られてしまったハーパーは彼に家から出ていくように伝え、もう二度と会わないと言い放ち家から彼を追い出す。だが夫は上の階の部屋に押し入りそこのベランドから彼女がいる部屋のベランダに飛び移ろうとしたが失敗し地面に叩きつけられて死んでしまう。
夫が落ちる瞬間を彼女は見てしまっていた。そして、地面に落ちて彼が死んでいる姿はジェフリーたちの手のように柵によって裂かれて真っ二つになっており、右足も同様に曲がらないはずの方向へ折れていた。つまり、彼女を襲う謎の彼らは亡くなった時の夫と同じ状態になっていた。
最後の二十分ほどはグロいものが苦手な人にはかなりきつい描写になっていた。僕も見ながらちょっとしんどかった。その描写は何度も繰り返されて最後に「ええ? そうなるの、どういうこと?」と思うような状況になって終わる。

庭になっていた林檎をハーパーが勝手に食べたシーンがあるので、どこかアダムとイブ的なモチーフを入れ込んでいるのかなと思っていたが、そこまでシンプルなものではなかった。いろんな場所でハーパーを見ている、追いかけてくる全裸の謎の男(男ではない可能性もあると思わされることが終盤に起きる)やジェフリーたちによってハーパーは恐怖を覚えるので、これは女性が普段生活する際に男性の発言や行動によって加害されているというのを劇的な描写にしているのかとも思った。
もちろんそういう部分は亡くなった夫との最後の別れ話でも描かれているように感じられたが、最終的に起きる出来事が見事にそれを吹っ飛ばすというか、彼らがなにものなのかなぜそんなことをしているのかという説明がないので、この作品をどう捉えたらいいのか、あのシーンや登場人物はなんなのかと考えることになる。
あとカラスが途中で出てくるし、冒頭だったか森で死んでいた鹿(だったと思うんだけど、四足歩行の動物で大きくはなかった)とかは『グリーン・ナイト』同様に神話ぽさもある。同じくA24制作『ミッドサマー』とか好きな人にはオススメできるけど、あれが無理な人は観ない方がいい。

SZA - Nobody Gets Me (Official Video) 

 

12月10日

昨日『MEN 同じ顔の男たち』を観た際にシネクイントのポイントカードが4つ貯まって一回無料券となったので帰り際に城定秀夫監督『夜、鳥たちが啼く』の11時25分上映回のチケットと引き換えた。


寝る前に原作小説である佐藤泰志著『夜、鳥たちが啼く』(『大きなハードルと小さなハードル』収録)を読んでいた。
映画を観に行くので久しぶりに文庫本を引っ張り出して再読となったが、今作もそうだが佐藤さんの小説は三人を描くものが多い。映画化された『そこのみにて光輝く』『きみの鳥はうたえる』はそうだったし、『オーバー・フェンス』『草の響き』は二人がメインなせいかアンバランスだった気が(小説が元々そうだし)。

『夜、鳥たちが啼く』を書いたときの佐藤さんは今の僕と同じ40歳で、翌年首を吊って自殺した。没後は全作品が絶版になっていたけど『佐藤泰志作品集』が出て『海炭市叙景』が映画化されてから、いろんな作品が映画化されたからそれに伴ってその度文庫版は新たに刷られたり、帯が付け替えられて絶版にはならないで手に取ることができる。
佐藤さんは生きている間に評価されたかっただろうなあと思っちゃうけど、彼が亡くなっていることで今も読まれたり、映画化される一因でもあるからモヤモヤというかなんだかなあとも思う。でも、映画化されてなかったら読まなかったし知らなかったままだったのも事実なんだよなあ。

「アルプススタンドのはしの方」の城定秀夫監督が、作家・佐藤泰志の同名短編を映画化。同じく佐藤泰志原作の映画「そこのみにて光輝く」などの高田亮が脚本を手がけ、人生を諦めかけた作家とシングルマザーの奇妙な共同生活を描く。

売れない作家・慎一は同棲していた恋人に去られ、鬱屈とした日々を送っていた。そんな彼のもとに、友人の元妻・裕子が幼い息子を連れて引っ越してくる。恋人と暮らしていた一軒家を母子に提供し、自身は離れのプレハブで寝起きする慎一は、これまで身勝手に他者を傷つけてきた自らの無様な姿を終わりのない物語へとつづっていく。一方、裕子はアキラが眠ると町へ繰り出し、行きずりの男たちと身体を重ねる。互いに深入りしないように距離を保ちながら、表面的には穏やかな日常を送る慎一と裕子だったが……。

主人公・慎一を山田裕貴、裕子を松本まりかが演じる。(映画.comより)

原作を読んで観たことでわかったのは主人公の慎一と元カノの文子との過去が映画では多めにオリジナルで描かれていた。映画は115分で約二時間あり、原作を読んだ感じではそこまで長くなるような内容ではないのでなにかエピソードを追加しているのだろうなと思ったらそこだった。現在、過去(回想)が繰り返されていて偶然だが前の日に観た『MEN 同じ顔の男たち』と同じパターンだった。

正直なところ、その過去が余分だったように思う。慎一と文子(中村ゆりか)、そして裕子と邦博(カトウシンスケ)という二組のカップルの過去を描いたことで余白がなくなってしまい、慎一と半同棲のようになった裕子の二人の男女の関係性や緊張感がなくなってしまい、原作では描かれていたエロティックが過去を描いたことで消えていたように感じた。
過去を詳細に描かないことで読者(観客)への想像力を膨らませ、妄想させることで半同棲の二人の緊張感とか距離感におけるエロティックを感じさせていたものがお話にするために描いてしまって色気がなくなってしまった。原作とは裕子の元夫の邦博が浮気する相手が映画では違って慎一の元カノの文子にしてしまったせいで、残された二人がセックスしてもなんというか、ありきたりになってしまった。映画として出てくる登場人物がそうなるとわかりやすいし、まとまって見えるからそういう設定にしているのだと思うが、そのせいで世界があまりにも狭くなってしまった。慎一と裕子がはじめて一線を越えるシーンがあるが、やっぱりそこが全然エロくないからもったいない。それは過去を描き過ぎたせいだと思う。

 

12月11日
二度寝をした。いい加減に起きようと思ったらもう10時過ぎだったので眠気覚ましに近所のツタヤの本屋まで行く。昨日から購入しようと思っていた浅田弘幸著『完全版 I’ll―アイル―』1&2巻を。
ジャンプコミックス版はBOXに入れたままずっと保管している。僕にとってバスケ漫画は『I’ll』しかない。この作品を読んで高校はバスケ部に入ったぐらいには影響を受けているし、ほんとうにあの当時は毎月たのしみにしていた。
浅田さんには一度だけ田島昭宇さんの展示でカイマンに行った際にお会いしてご挨拶をさせてもらったことがある。
今回の完全版はもともとの集英社ではなく小学館クリエイティブからの刊行。編集者の島田一志さんが巻末にインタビューなどをしているのでそういう繋がりがあったのかなと思ったりした。僕も小学館から刊行されていた「漫画家本」で何度か執筆させてもらったが、その時は島田さんからご依頼してもらったので、いろんな繋がりや縁は感じる。


14時から田島昭宇さんの挿画展のサイン会の抽選に当たっていたので阿佐ヶ谷へ向かう。電車に乗ると下北沢に出ても、渋谷に出ても最低2回は乗り換えをしないと阿佐ヶ谷まで行けない。休日の電車には乗りたくないのもあって、家から阿佐ヶ谷まで歩くと一時間五十分ぐらいだったので散歩がてら歩いた。三茶からだと井の頭線も中央線も北上するとわりと近い距離にある。自転車があればかなり近い。なぜか電車に関しては北上するものがないので電車移動すると無駄に遠くなる。
地図アプリを見ながら井の頭通りや甲州街道を横切ったり沿って歩いたりして阿佐ヶ谷商店街へ辿り着く。途中で毎年正月に歩いていた神田川を一度横切って善福寺川も見えた。善福寺川神田川と合流するポイントでしか見ないので新鮮だった。


14時の少し前に田島昭宇 挿画展「夢限PAYAPAYA黒白〈KOKU-BYAKU〉」を開催中の阿佐ヶ谷ギャラリー白線に着く。数人のお客さんが待っていた。ちょうど田島さんがタバコを吸いに出てきたのでご挨拶してちょっとお話をさせてもらった。
時間になってからこの時間帯のサイン会に当選した人が中に入って商品などを購入してから田島さんにサインをしてもらうといういつもの流れになっていた。
画集のデザインもされている奥さんのヨーコさんにも挨拶して、並んで順番を待ってから装画集にサインしてもらう。みんなひとりひとり田島さんと話をしているので多少時間はかかるけど、そのことは全然気にはならない。みんな仲間意識があるのもデカいんだろうけど。
僕は『多重人格探偵サイコ』の最初のサイン会からずっとサイン会には足を運んでる(TSUTAYA渋谷店に朝早く並んだり、毎回のサイン会の抽選も当ててきた)。今はなきcakesで田島さんにインタビューをさせてもらい、今はなき『水道橋博士のメルマ旬報』の自分の連載(「碇のむきだし」)では当時書いていた岩井俊二監督と園子温監督の作品に関するイラストを描いてもらって、その度にイラストを取りにいき毎回飲み屋でご一緒させてもらうというファン冥利につきる誉れ(使い方間違ってるか)だった。
僕は好きなものが多くないし、世間的に受け入れられているものにあまり好意的な反応ができないけど、好きになったものや惹かれた人に関してはわりと猪突猛進型で、関係者に近い感じになりやすい。それは関係者に近いファンであって関係者ではない。田島さんや古川さんについてはこれからもスタンスは変わらないだろうけど、今年終わっていったものに関しては変わるだろうな、と思う。


田島さんにサインしてもらいながら色々話をしていたら、サインしてもらう際の名前入れのひとりずつに渡される自分のやつがあって、すでに終わっている人の名前を田島さんが間違えて書いてしまったので、間違えてますよって言ったら、「あっ」みたいな顔になって、でも修正はうまいんだよって黒ペンで修正して上から新たに名前を入れてもらった。こういうのも会ってサインしてもらっているからできるコミュニケーションだった。

終わったあとは曇っていてかなり冷えてきていた。帰りも歩くのはしんどそうだったので西永福駅まで歩いてそこから井の頭線下北沢駅まで電車に乗って、そこから歩いて帰ることにした。
家の近所の銭湯の前で文春の編集者の目崎さんとバッタリお会いしたので少し立ち話。年末ですねって。そのあと17時から22時までのんびりと仕事をした。室内にいてもかなり寒いから師走っていうのと冬感が出てきた。

 

12月13日
朝晩とリモートワーク。その合間や休憩時間にTVerで『silent』第八話を見る。想と母親、そして家族の話になっていて泣いてしまった。感動的なシーンは条件反射的に泣けてしまうので仕方ない部分もあるのだが。
昨日寝る前に見た『鎌倉殿の13人』の北条政子の演説シーンでも涙が出てしまった。あのシーンのために今までがあったとも思えるし、三谷脚本すごいと改めて感じるものだった。こちらはあと一話で最終回であり、すでに終盤だが最初からずっと北条一族の家族ドラマを描いてきたともいえる内容であり、これあと一話で終われます?みたいなことになっている。どう終わるんだろう?
主人公である小栗旬演じる北条義時の最後がクライマックスでは描かれると思うが、妻に毒殺されるのか、あるいは家族たち全員によってある種の人身供養的に殺されてしまうのか、などの予想もあるがどれも違う感じがする。アガサ・クリスティーのある作品に脚本を書いた三谷幸喜さんがヒントを得たという話があるので、残った全員が犯人とかの説なども出ているわけだが、今のところは息子の北条泰時が執権を握るとこが最終のラストにあると想像できるので彼の手にというよりも義時が自ら死んだり、殺してもらうように企んでいて、息子が執権になるのを後押しして終わるのかもと思った。でも、あれだけ人を殺してきた義時だから殺されたりする終わりも充分にありそう。

『silent』の今回は家族回であり、耳の聞こえなくなった想とかつて耳が聞こえていた頃に彼にとって大切だった音楽(紬と付き合う上でも大事なアイテムとなった)への想いが溢れる内容になっていた。もちろん、音楽は今の彼には聞こえないが、CDにあった歌詞カードの歌詞を読むことはできる。彼はそうやって新しい音楽にも触れようと動き出していて、紬に最新のものを教えてほしいと話すシーンもあった。前向きに彼が動き出したという面でも感動的だった。
ドラマを見ているとiPodやCDで音楽を思春期にリアルタイムで音楽を聴いていた想たちの最後の世代にとっての音楽は、サブスクのような見えないものではなく、CDジャケットや歌詞カードなども含めて音楽であり、それは見えるし触れるものだった。
紬が作中でCDが好きという発言をしていたし、彼女が働いているタワレコという場所はCDに囲まれていて、どこか憧れに似たものをかつてはみんなが持っていたという象徴の場でもある。
耳が聞こえなくなってもCDや歌詞カードがあれば想は音楽を感じることができるし、どんなことを歌っているのかも歌詞を見ればどんなものかがわかる。そういうシーンを見ていると二十代の若者が主人公であっても僕のような四十代の人間にも通じるものがある。
サブスクによってどれだけ便利になっても、音楽への間口を広げてくれても、いろんなものを手軽に聴けるようになってきても、それだけでは物足りないのだ。形や触れることができることで人間はそれらを記憶して大事な思い出として自分に残っていくものとなるから。サブスクはその辺りがめちゃくちゃ弱いというかやはり難しいと思う。このドラマはコロナパンデミック以降の世界のコミュニケーションの難しさやどう他者と接していくのかということを描いてしまっているが、同時に音楽というものへの接し方が変わったことにも意図的なのか無意識なのか視聴者に考えさせてしまうものとなっている。

この間、鮨ランチを一緒に食べた友人からおすすめされていたネットフリックスで配信中のドラマ『First Love 初恋』のエピソード1を仕事が終わってから見た。
佐藤健演じる主人公の妹が聾者であり、彼らは手話を使って会話をしていた。一話では出てきていないがこちらにも『silent』にも出演している夏帆さんが出演しているのは知っていたが、一話には出てこなかった。二話以降に出てくるようだ。彼女が今作でも手話を使うのかはわからないが、同時代性と言ってもいいのだろうが共通点があるなと感じられる。

 

12月13日
『エルピス―希望、あるいは災い―』第八話「少女の秘密と刑事の工作」を日付が変わってから寝る前に見る。組織について描くということに関しては、同じく渡辺あやさんが脚本を手がけたNHKで放送された『今ここにある危機とぼくの好感度について』は大学組織をコミカルさを入れていたが、今作でのテレビ業界組織に関してはよりシリアスに描いている。組織は一枚岩ではないし、それぞれの個人がそれぞれの思惑や動機や理由で動いているので表面上で見えることの中側は多様であり、一致していない。だが、それを外側から見るとわかりにくいものであり、表面上でしか外部には判断ができない。
少女連続殺人犯の本当の犯人と思われる人物の父と元警察庁官僚出身の副総理が繋がっており、副総理が事件を裏で握りつぶしているという黒幕感をわざと出しているが、どう考えもそれは撒き餌のようなもので大事なのはそこではない。この作品で描こうとしているのは組織と個人、利害と真実、社会と自由における現代の僕らが置かれている状況なんだろう。
岸本拓朗役の眞栄田郷敦どんどんいい面構えになっていっている。あと拓朗にとってのキーパーソンが桂木信太郎(松尾スズキ)っていう、松尾さんおいしいよね。

河出書房新社からドラマのシナリオブックが出るとのことで非常にうれしい。このまま渡辺あやさんが書かれた過去の映画やドラマの脚本もシナリオブックで出してくれたら最高なんだけど。

『エルピス』を見てからすぐには眠れなくなっておそらく2時半ぐらいに寝落ちした。朝8時ぐらいに目覚ましをかけたが、もう少し寝たかったので二度寝をした。起きると10時10分ぐらいになっていた。眠りが浅かったのか、夢を見ていた。内容は忘れてしまったが、また芸能人のような著名人が出てきたような気がする。
10時20分からのTOHOシネマズ渋谷で上映される映画『月の満ち欠け』のチケットを取っていたが、もう間に合わない時間だった。そして、9時から販売抽選予定だったNIKEとsacaiのコラボのズームコルテッツもすでに完売で終わっていた。それが取れなかったら買おうかと思っていた「ラディカルな意志のスタイルズ」の「反解釈1」のフーディーのLサイズも売り切れていた。こういう時はもうどうにもならないので諦めるしかない。
とりあえず、TOHOシネマズ渋谷まで歩いて行ってチケットだけ発券しようと思ったが、上映開始していると発券はできなく、スタッフに尋ねてくださいとのことだったので諦めた。シネマイレージポイントはこの場合は貯まるんだろうか、と思っていたが帰ってからTOHOシネマズサイトを見たらポイントは追加されていた。そのままなにもせずに帰るのも癪だし、スニーカーもフーディーも買ってないので浮いた分で小説を買おうかなと丸善ジュンク堂書店渋谷店に向かった。


チャールズ・ブコウスキー著/都甲幸治訳『郵便局』が発売されていた。
僕が唯一墓参りにいったことある作家はブコウスキーだけなぐらいは好きだし、訳が都甲さんなら読むしかないっていう一冊。

夕方から22時までリモートで仕事をする。仕事の合間に今後のスケジュールを確認してみると残り半分ぐらいだが、ちょこちょこ人と会う予定があってその辺りは嬉しいしたのしもうと思う。もろもろ来年のことを考えているが、変えていくことと変えないことをそうしていくかが大事になりそう。

 

12月14日

防衛費を増額して「トマホーク」を購入するっていうニュースを見ると戦後日本はずっとアメリカの属国だったのを改めて思い出す。
阿部和重著『オーガ(ニ)ズム』文庫版上下巻が来年の2月に出るので、『シンセミア』『ピストルズ』をいろんな人に読んでもらいたいなと思った。年末年始に「神町サーガ」読み返すのもありかもしれない。
しかし、岸田首相の防衛費増額とその責任は国民という発言は自殺願望のような、もう首相辞めたくて仕方ないんじゃないかんと思ってしまう。アメリカと自民党とかいろんなものに板挟みになって無茶苦茶な判断をすることで逃げ出したいようにすら見える。

園子温監督『エッシャー通りの赤いポスト』
ジョン・ワッツ監督『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
リドリー・スコット監督『ハウス・オブ・グッチ』
シアン・ヘダー監督『コーダ あいのうた』
片山慎三監督『さがす』
奥田裕介監督『誰かの花』
ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』
塩田明彦監督『麻希のいる世界』
ジェイソン・ライトマン監督『ゴーストバスターズ アフターライフ』
松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』
レオス・カラックス監督『アネット』
湯浅政明監督『犬王』
城定秀夫監督『愛なのに』
マット・リーヴス監督『THE BATMAN
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『MEMORIA メモリア』
藤井道人監督『余命10年』
今泉力哉監督『猫は逃げた』
ジュリア・デュクルノー監督『TITANE/チタン』
ジャスティン・カーゼル監督『ニトラム』
吉野耕平監督『ハケンアニメ』
ケネス・ブラナー監督『ベルファスト
エドガー・ライト監督『スパークス・ブラザーズ』
マイク・ミルズ監督『カモン カモン』
ジャック・オーディアール監督『パリ13区』
サム・ライミ監督『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』
ジャック・リヴェット監督『北の橋』
白石和彌監督『死刑にいたる病』
樋口真嗣監督『シン・ウルトラマン
青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版
ジョセフ・コシンスキー監督『トップガン マーヴェリック』
佐向大監督『夜を走る』
青山真也監督『東京オリンピック2017  都営霞ヶ丘アパート』
ヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー
ドミニク・グラフ監督『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』
青山真治監督『サッド ヴァケイション
狩山俊輔監督『メタモルフォーゼの縁側』
ポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』
フランチシェク・ヴラーチル監『マルケータ・ラザロヴァー』
ヨアキム・トリアー監督『わたしは最悪。』
タイカ・ワイティティ監督『ソー︰ラブ&サンダー』
神代辰巳監督『宵待草』
タイ・ウェスト監督『X エックス』 
城定秀夫監督『ビリーバーズ』 
バンジョン・ピサンタナクーン監督『女神の継承』
工藤梨穂監督『裸足で鳴らしてみせろ』
エリック・ロメール監督『緑の光線
ヴァルディマル・ヨハンソン監督『LAMB/ラム』
石原海監督『重力の光』
タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ
セリーヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』
ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ
ジャン=リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ
久保田直監督『千夜、一夜』
コゴナダ監督『アフター・ヤン』 
ジョーダン・ピール監督『NOPE/ノープ』
ジャニクザ・ブラヴォー監督『Zola ゾラ』
デビッド・リーチ監督『ブレット・トレイン』
沖田修一監督『さかなのこ』
川村元気監督『百花』
深田晃司監督『LOVE LIFE』
ウォン・カーウァイ監督『花様年華
ウォン・カーウァイ監督『2046』
ニック・モラン監督『クリエイション・ストーリーズ 世界の音楽シーンを塗り替えた男』
今泉力哉監督『窓辺にて』
ライアン・クーグラー監督『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『バルド、偽りの記録と一握りの真実』
デヴィッド・ロウリー監督『グリーン・ナイト』
新海誠監督『すずめの戸締まり』
ジュリオ・クエスティ監督『殺しを呼ぶ卵 最長版』
アレックス・ガーランド監督『MEN 同じ顔の男たち』
城定秀夫監督『夜、鳥たちが啼く』

年末になったらマイベストを作ろうと思って今年劇場(試写会場)で観た映画をリストアップしてみた。
青山真治監督とジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなったので追悼上映を観にいったがやっぱり『EUREKA/ユリイカ』は別格だった。
新作なのに城定秀夫監督作品を三作品観ている。もう一作上映されていたはずなので四作品公開されているはず。あとはA24制作か関連作品はできるだけ観に行っている。


樋口毅宏著『中野正彦の昭和九十二年』をご恵投いただきました。『水道橋博士のメルマ旬報』で連載していたものを加筆修正したもので、メルマガの連載から単行本になった最後の一冊になるかな。

 

12月15日

数日前に購入していた菊地信義著/水戸部功編『装幀百花 菊地信義のデザイン』を読む。菊地さんは今年亡くなられて、その弟子といえる水戸部さんが編著されたこの一冊は興味があった。
水戸部さんは古川日出男さんの大作(ギガノベル、メガノベル)などの装幀も手掛けられているのもあって認識した好きな装幀家さん。この講談社文芸文庫のデザインは菊地さんがずっと手掛けられていたが、水戸部さんが引き継いでいる。こういう師弟の流れも感銘を受ける。


数年前にドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』を観て、知らないうちに自分が読んでいた小説や書店で見ていた装幀デザインをずっと手掛けられていたんだなって知った。僕は弟子筋というか水戸部功さんのほうを先に認識していた。
年譜を見ていると古川日出男著『聖家族』(デビュー10周年目の出版)は菊地さんが装幀を手掛けられていて、僕はずっと水戸部さんが手掛けたと勘違いしていた。
古川さんのデビュー15周年に出版された『南無ロックンロール二十一部経』、20周年の『とても短い長い歳月』、『おおきな森』や『ゼロエフ』という節目や重要な作品は水戸部さんが手掛けているからそう思っていたわけだけど、菊地さんが装幀した『聖家族』の流れを水戸部さんが引き継いでいるともいえるのか。

先月、村上春樹ライブラリーを案内してもらったエリックさんと会う約束をしていたので家を出る。トワイライライトの前で待ち合わせをして三階にあるお店へ。店主の熊谷さんとエリックさんを引き合わせることができれば、と思っていたので二人がこの先なにかしたりという縁ができればと思う。
店内の書籍を見てからコーヒーを頼んでしばらくエリックさんと小説の話をした。お互いに興味があることとか近いので話も弾んでどんどん話してしまった。


カフェタイムが終わってから店を出る前に安堂ホセ著『ジャクソンひとり』を購入した。安堂さんのトークイベントも26日にあるので店内では選書フェアをやっている。
偶然だが友人のパン生地くんからそのイベントに行かないかとちょうどラインが来た日だったので気になったというのもある。イベントの日は仕事が入っていて行けないけど、おそらくこの作品は芥川賞候補になるだろうし、読んでおこうと思った。


三茶から駒沢大学駅へ246方面にまっすぐ歩いて20分ほどのほとんど駅前にある「CORI. VEGAN FOOD & CRAFT BEER」へ。
エリックさんはヴィーガンというわけではないらしく、たまに一ヶ月とか肉とか取らないことをやったりはするみたいだった。そういう話をしていなくて、前に行ったことのあるお店ということで行くことになったのでどうなんだろうかと思ったので行く最中に聞いてみた。どちらかというとこのお店で出している長野県軽井沢で作られているクラフトビールKOKAGE」が好きでそれを飲みたいという感じだった。
僕もビールは好きなのでお店で三杯ほど違う味のものを飲んだ。澄んでいる感じもあり非常にマイルドで飲みやすい。調子に乗って飲みすぎて気がついたら酔っ払ってしまう感じだなと思った。
エリックさんからクラフトビールの話を聞いたりもして、ほかのものも飲んでみたいなって思ったし、トワイライライトに引き続き小説の話とか文化のこととかそれぞれの家族の話なんかもできて、すごくいい時間になった。また、次はクラフトビールを飲む約束をして別れた。来年はいろんなクラフトビールを飲むというのもたのしみのひとつにしてみようかな。

 

12月16日
起きたら直木賞芥川賞候補が発表になっていた。安堂ホセ著『ジャクソンひとり』は芥川賞候補になっていて、読むのがたのしみになった。

仕事前に『silent』第十話を見る。先日、代官山の西郷橋でドラマの撮影をしているのに偶然出くわして、夏帆さんが待っているのを見たがこのシーンの撮影だったみたい。
今回は紬と想の関係において耳の聞こえない想が紬と一緒にいることで寂しそうな表情が以前よりも多くなっていて、またなにも言わずに離れてしまうのではないかと感じさせるものとなっていた。その二人の相似形として未来の可能性として春尾と奈々の関係性も描かれていて、二人が飲んでいるところにやってきた湊斗が加わったことで奈々が本音を言うシーンなどもあってそこはとてもよかった。
ある時期が過ぎて再会した春尾と奈々だからこその空気、それもあって主人公の紬と想の関係性が今はとても危ない、終わりに想が向かっているように見えて効果的であり、あと一話で最終回なのでどこまで二人が信じられるのかと描くのだろう。


仕事が終わってから歩いて青山にあるブルーノート東京に行く。Rei presents "JAM! JAM! JAM!" 2022のライブ。メンバーはRei(ヴォーカル、ギター)、YUNA [CHAI](ドラムス)、TAIHEI [Suchmos, 賽](キーボード)、岩見継吾(ベース)、Special Guest(東京のみ):タブゾンビ[SOIL&"PIMP"SESSIONS](トランペット)という面子。
地元の友人と彼の昔の仕事の同僚の三人だったが、席がステージまん前の最前列だった四人テーブルで僕の右側は数十センチにないところにステージがあり、ライブ中にReiとタブゾンビのセッションもギターやトランペットが当たるかもしれないという緊張感があるぐらいの近さだった。
CHAIのYUNAさんによるドラムも気持ちよかったし、タブゾンビさんのトランペットはカッコよくて色気があった。ベースの岩見さんの指遣いも見惚れてしまったし、TAIHEIさんのキーボードがメロディアスな部分を支えていた。Reiささんはパッと見は小さいがギターを演奏している時の勇ましさとそのプレイスタイルはとてもブルーノートのステージに映えていた。音楽として聴いていてただただ心地よかった。

 

12月17日

朝起きてから渋谷まで歩いて行って円山町にあるユーロスペースへ。昨日から公開が始まった三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』の初回を鑑賞。
次の回の上映後とその次の回の上映前に三宅監督と岸井ゆきのさんの舞台挨拶があったがほとんど席はうまっていたので初回なら舞台挨拶もないから人が少ないかなと思って二日前ほどにウェブでチケットを取っていたが、行ってみると注目作ということもあるのかかなり埋まっていた。

きみの鳥はうたえる」の三宅唱監督が「愛がなんだ」の岸井ゆきのを主演に迎え、耳が聞こえないボクサーの実話をもとに描いた人間ドラマ。元プロボクサー・小笠原恵子の自伝「負けないで!」を原案に、様々な感情の間で揺れ動きながらもひたむきに生きる主人公と、彼女に寄り添う人々の姿を丁寧に描き出す。

生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコは、再開発が進む下町の小さなボクシングジムで鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。嘘がつけず愛想笑いも苦手な彼女には悩みが尽きず、言葉にできない思いが心の中に溜まっていく。ジムの会長宛てに休会を願う手紙を綴るも、出すことができない。そんなある日、ケイコはジムが閉鎖されることを知る。

主人公ケイコを見守るジムの会長を三浦友和が演じる。(映画.comより)

今年はシアン・ヘダー監督『コーダ あいのうた』に始まり、TVドラマ『silent』にネトフリドラマ『First Love 初恋』と聾者が出てきて手話を使う作品が多かった印象があるが、今作も主人公のケイコは生まれつき耳が聞こえないので家族とのやりとりなどは手話で行っている。物語は耳の聞こえないケイコの日常が淡々と進む。ホテルのルームキーパーの仕事をしながらほぼ毎日のようにジムに通ってボクシングの練習をしている。荒川と都電荒川線だろうか、電車の走る音、という流れるものの近くでの生活、ケイコが放つパンチの音とリズム、そして見据えている景色や人たちの顔や仕草や動き、とても静と動が刻まれている作品だなって思った。終わり方もとてもよかったし佇まいの素晴らしい映画だった。もしかすると何年か経ってからもう一度観る方が染み入るような、スルメイカ的な作品のような気も少しする。

樋口さんの新刊『中野正彦の昭和九十二年』が販売元のイーストプレスが発売前の回収を決めたことについて、樋口さん自身の意見というかコメントをツイートされていた。
僕は献本を送ってもらっていたので家にあるし、昼間映画を観終わって丸善ジュンク堂書店渋谷店に寄ったら数冊は棚にあったのを見かけた。書店にすでに届いているものも回収ということなのだろうから、タイミングよく買えた人もゼロではないはずだ。
しかし、この件に関しては数日前にイースト・プレスのこの書籍の担当編集者ではない人がヘイトスピーチやツイートなどをそのまま使っていることは許されないという内容をツイートしていた。そのことで会社は回収という判断を下したのだろうが、すでに刷って発売を待つという段階だった時点で印刷するという判子は押されているのだから、それを判断した上の人たちは表現とか出版ということにどういう考えがあるのだろうか。
「今後、献本した方たちが読んで、世間に感想を伝えることで、イーストプレスが方針を改めてくれることを期待します。」と最後に書かれていた。僕は送ってもらっているのでこの本を読んだ上でこの本が差別やヘイトを助長するのか、そして小説としておもしろいかどうか、を書かないといけないよなあ。

読んだ上で『中野正彦の昭和九十二年』がヘイトを助長しているのかどうか(しているわけないんだけど、)はわかるし、その上でおもしろいかおもしろくないかっていうことなんだけど、もはや回収されてしまっては一般には普通に読めないのでその判断はできない。
偶然だけど、KADOKAWAから刊行した『クウデタア 完全版』の前のバージョンである『アンラッキーヤングメン クウデタア』はイースト・プレスであり、そこのあとがきで「国内では、イースト・プレスが引き受けてくれたが、そもそもこの企画を持ちかけ、当初はいたく乗り気だったサブカルチャー系の相応に知られる出版社の編集者は、テスト版が描き上がった時点で全くメールが戻ってこなくなった」とあって、その辺りぐらいから今回の件に繋がるものがあったんじゃないかなって思った。違うかもしれないけど。

大塚英志×西川聖蘭『クウデタア 完全版』刊行インタビュー:アンラッキーなテロ少年と戦後文学者をめぐっての雑談


「クウデタア」が一人の人間の内部で起きること------戦後文学者と少年テロリストたち/『クウデタア』原作者・大塚英志さんインタビュー(前半)


「クウデタア」が一人の人間の内部で起きることーーーー戦後文学者と少年テロリストたち/『クウデタア』原作者・大塚英志さんインタビュー(後半)

 

12月18日

古川日出男×管啓次郎×小島敬太「天の音をみんなで聴け」長篇詩『天音』(Tombac)全文朗読会

古川さんの長篇詩『天音』の朗読イベントを聞きに、見にB&Bへ。先月の26日のLOKO GALLERYでの近藤恵介さんと古川さんの読書会に引き続きという形で参加したが、前回はワークショップに近い形だったので朗読自体はなかった。
僕が今回一番気になっていたのは今までの朗読(&朗読セッションなどのコラボ)では古川さん自身が書いた小説がメインだったし、朗読劇などの画廊劇なども物語という核があったが、長篇詩だと朗読をする際にはどう変わるのだろう、変わらないのだろうかというものだった。

最初は古川さんによる『天音』全文朗読があり、その後のパートで管啓次郎さんと小島敬太さんとの鼎談という流れだった。
座っていたのは古川さんが朗読する際にマイクに向かってまっすぐ立つと体の左側が見える場所の一番後ろの端だった。マイクー古川さんー僕がちょうど90度ぐらいな感じ。お客さんたち全員が座って見ていたのもあってとても見やすかった。
『天音』自体は三度ほど読んでいたのもあったし、目の前で朗読している著者がいるのに手元にある本の文字を追うのはやっぱりなにか違うなと個人的には感じた。
トークイベントなどで登壇者の発言をメモすることに夢中になるとその時々の言葉を話している人の顔を見る時間がなくなったり、その時に醸し出すものやリアクションがわからないほうがもったいないと思うようになってからはメモは基本的には取らなくなった。だからそれに近い。
始まる前に手に持って用意していたが開かずに、朗読している古川さんを見ていた。
朗読のあとに管さんがお話しされたことの中に、小説は人間を描くものだが、詩は人間だけではなく動物や植物や自然や天体やすべてを描くものだというものがあった。そう聞いた瞬間に宮沢賢治だと思ったし、古川さんの小説がどこか詩を感じさせるのは宮沢賢治をリスペクトしていることもあるし、賢治同様に人間以外のものを小説に書いてきたことがあるのだろう。それゆえに古川日出男作品は世界文学になると僕は信じているし、そういう未来を待っている。

2008年の『ベルカ、吠えないのか?』文庫版の刊行イベントではじめて朗読を聞いてから14年、何百とは言えないけど何十回と古川さんの朗読を聞いて体験していた僕が今回の長篇詩の朗読で感じたのは、「あっ、怖さがない」というのであり、いつもの此岸と彼岸の境界線に連れていくようなものではないということだった。
いつもながらの凄みはあるんだけど柔らかいしポップさもあった。この日はじめて古川さんの朗読を聞いた人はたぶん驚いたと思うけど、いつもとモードが違うというかフォームが異なっていたと僕には感じられた。
終わったあとに古川さんにも朗読の感想を短く伝えたのだけど、いつもの小説を読む際は古川日出男という人物から(物語における登場人物の感情や文体のリズムや展開などから)のいろんな色だったり光や闇が放出されるようなイメージがある。
放出される時の色や光や闇が此岸と彼岸を繋げてしまうから境界線がなくなっていく。その狭間に古川さんと朗読を聞いている人たちはいるような感じになる。だからそれが僕のいう怖さであり、今までに何度か本当に怖さもありながらゾクゾクするようなゾーンを感じさせてもらったことがある。

今回の長篇詩の『天音』は朗読する姿を見ていて真逆に感じた。いつもは古川さんから放出されていたが、古川さんに入ってから出て行っているようなイメージ。
古川さん自体は透明な筒みたいになっていて、そこに長篇詩で書いた文字たちによって生み出された色や光や闇が様々な角度で透明な筒の中に入っていき、乱反射してもう一度外に出ていく。だからなのか、怖さはなかったし、狭間に連れていかれるような感触はなかった。
いつもよりもポップさをより強く感じたのは、トークでも話に出ていたように小説は句読点で区切るが、詩はそれが基本的にないということも関係しているのかもしれないけど、どうなんだろう。

とても不思議だった。最初は正直古川さんの体調が悪いのかと思った。それぐらいにいつもとは違うモードかフォームだった。終わったあとにそんな風にいつもとの違いを伝えると、「そうか、器になっていたのかもしれないね」と言われた。なるほど、器か。
透明な筒というのは僕のイメージだったが、トーク部分で小島さんが人間というのは洞窟であり、そこで鳴らしたものが出るという話とも繋がっているようにも思えた。

例えば顔が似ている人の声は似ているというか近い、それは骨格が近いからだろう。骨格というのは洞窟であり筒でもあるし、楽器にもなる。骨格というのがスピーカーなら似たような声が出る時点で顔などの姿も近いはずだ。
ある人の声が好きというのはその骨格が好きということかもしれない、ならその声と似ている人のことも好きなっても当然だ。顔が好きということは声が好きであり、声が好きということは顔が好きということだ。自分が好きな顔というのは自分が好きな声ということだろう。
ということを考えたのはB&Bがあるボーナストラック付近はドラマ『silent』の舞台で聖地みたいな感じになっていることの連想でもある。『silent』は高校時代の恋人が東京で再会するドラマで、かつて主人公の紬と付き合っていた想は高校卒業付近から「若年発症型両側性感音難聴」を発症したことで音のない世界で生きることになったことで、彼女や同級生たちに知られたくないとそのことを言わずに関係性を断ち切っていた過去がある。そもそも高校時代に紬が最初に想に惹かれた、好きになったきっかけはその声だった。そして、彼が好きだった音楽を聴くようになった彼女は現在タワレコ渋谷で働いている。閑話休題

小島さんが話されていたように洞窟の中で声を出してみる。らー、らー、らー、と。洞窟の内部で反響する、それに合わせたりずらしたり、違う言葉を重ねていけば音楽が生まれる。
あるいは内部に感情というものが描かれる、その時々の気持ちや想いや外部からの影響を受けたものが何かの図形やイメージや物語となって現れる。
人間という洞窟の中に生まれたものは芸術と呼ばれるものの種子のようなものであり、人間が人間であるという根本を支えるものだ。それを洞窟の外に出して、この個人の身体性を伴いながら言葉にしたり絵を描いたり演奏したりすると他者に届く可能性が出てくる。もちろんそれには好き嫌いがあるし、相手に届くことも届かないこともある。

洞窟から生み出された長篇詩であり、天音が朗読することで器になった古川さんの元にパッと戻ってきてすぐに外に遊びにいったような(小学生が家の玄関を開けてランドセルを置いてすぐに友達の家に遊びに行くような)軽やかさが非常にポップに感じられたんじゃないかな。
鼎談の時に古川さんが朗読して小島さんがギターを弾いて一緒にやったあとに、管さんがここにいるみんなもそれぞれ好きなところを朗読しようと提案された。
古川さんの朗読と小島さんのギターとみんなの朗読が混じった時にこの澄みきった明るさが『天音』の持つ力であり、詩の持つエネルギーなんだろうなって思うと知らずと微笑んでしまっていた。

 

12月19日
日付が変わってからNHK大河ドラマ『鎌倉殿13人』の最終回をNHKオンデマンドで見る。主人公である北条義時の最後を描いたものとなったが、私怨から毒をずっと盛られており、弱ってしまった彼と姉の北条政子のやりとりの中で義時は頼朝から引き継いだ鎌倉のために自分の手を汚して殺してきたものたちの名前を告げる。そこには政子の息子である頼家の名前があり、薄々感じてはいたが弟が手を下していたことを知ってしまう。そして、その者たちが13人いることがタイトルのダブルミーニングとなっていた。
毒のせいで体が動かなくなる義時は姉に飲むと動けるようになる飲み薬を取ってくれと頼むが、京都にいる幼い帝の血を引く者を鎌倉の邪魔になるために殺すと決めている彼の手をもう汚させないためにその場で床に中身を全部落とす。それを一口でも舐めようとなんとか動かない体を動かして床にこぼれたそれに舌で触れようとするが、政子がそれを着物の裾で払うようにして飲ませなかった。義時は死が来ることをもう認めるしかなくなり、頼朝から授かった小さな観音像を息子の泰時に渡してくれるように託けて死んでしまった。ここまで偉くもなりたくもなく、自分の手を汚していなかった政子が最後の最後にその手を汚して弟の義時の命を結果的に奪うことで自分の手を汚す、それは彼女の覚悟の現れであり、ずっと手を汚し続けてきた弟にできる最後のことだった。
アガサ・クリスティの作品が最終回のヒントのように語られていたが、一人の犯人ではなく複数人によって、義時は最終的には命を奪われた形となった。彼が今まで殺してきたものたちが多すぎた。だから、最後の最後は英雄としては殺さない、こういう終わり方にした三谷幸喜は素晴らしい判断をしたと思った。

TVerで『M−1グランプリ2022』が全部配信されていたのでそれを最初から見る。スマホはもう結果が出ているので見れないので最後の優勝が決まるまでは手も触れなかった。
個人的には真空ジェシカのネタが好きだった。
さや香の一本めのネタもおもしろかったし、最終決戦におけるウエストランドロングコートダディさや香の三つ巴はウエストランドの勢いがあったが、僕はさや香に入れたかなと思えた。

ウエストランドの優勝を見届けてからTwitterにゃんこスタースーパー3助のツイートを見た。
今週金曜深夜に放送した『三四郎オールナイトニッポン0』で小宮さんが言ってたことが実現したんだから、嬉しいよなって思った。ラジオを聴いてるからこの動画見てもらい泣きしてしまった。というかウエストランドの優勝とかよりもこの動画いちばん泣けた。


仕事が終わってから家からわりと近い場所にあるニューマルコで『水道橋博士のメルマ旬報」の副編集長だった原カントくんさんとプチ忘年会。
今年はちょっといろんなことが多すぎた。だけど、それについて話せる人は思いのほか少ない。飲み終わってから原さんの家の方まで散歩がてら歩きながら話をした。夜風が気持ちよかった。

 

12月20日
起きてから昨日放送された『エルピス—希望、あるいは災い—』第九話「善玉と悪玉」を見る。ほんとうはTOHOシネマズ新宿で8時台の『THE FIRST SLAM DUNK』のチケットを取っていたが起きれなかった。でも、シネマイレージポイントが6になったので一回無料なので金曜日に『THE FIRST SLAM DUNK』を改めて観にいけばマイナスではないということに自分の中でしておいた。
今回のドラマの主人公は村井(岡部たかし)であり、彼がかつて報道からバラエティに移動させられた理由がわかる。それも大門副総理に関するものであり、村井は拓朗(眞栄田郷敦)へ自分が撮影したデータなどを託すことになる。
だが、その取材対象者である大門の娘婿の大門亨とやりとりを拓朗がするようになるが、最後に最悪の展開が訪れる。そして、村井の怒りが爆発するラストは恵那(長澤まさみ)がずっと抱えていたものを破壊するようなものとなっており、村井によって恵那は解放されたように見える終わり方をした。次回は最終回だが、どのように思っていくのか、期待しかない。

上出 すごくよくわかります。俗に言う「自主規制」などもそうですね。これはやってはいけないということがなんとなく蔓延していて、膠着していく。私事ばかりで恐縮ですが、「家、ついて行ってイイですか?」(テレビ東京)という番組で、イノマーというバンドマンが死んでいくという瞬間まで放送したことがあります。最初はやはり「それダメだよ」と言われました。人が死ぬ瞬間なんて流していいわけがないと。

 でも、ちょっと待ってくれ、なんでダメなんだっけということを問えば、問われた方もわからないわけです。ちゃんと議論することができれば、違う結果も出る。実際にその放送は大きな反響があって、人の死を映すなというクレームは1個もないわけですよ。やってみたら案外、いろんな扉を開けることができるんですよね。そしてその効果の大きさを思えば、地上波放送のテレビはやはり大きな存在です。そういう意味でも、テレビはまだまだやりがいがある世界ではあるんですけどね。

上出 ちゃんと届けるということもそうですが、自分の伝えたいニュアンスでちゃんと届いているか、ということもつくり手として気になります。だからこそ、僕は自分が伝えているメッセージの「確かさ」も常に気にしています。ただそこは本当に自信がないので、基本的には逃げているかもしれません。「こういうものだ」「こうあるべきだ」ということはなるべく言わないですね。無理に結論を出さずに「現実にこういうことがある」ということに留めざるを得ない。

渡辺 うんうん、わかります。テレビの仕事をしていると、とにかくわかりやすさを求められることが多い。さっさと答えを提示して視聴者に考えさせるなと。でも受け取り手のリテラシーはそこまで低くはないと信じたいんですよね。答えのない問いを自分で解きほぐすことこそ面白いし、心の底の探求や成長につながるのだと思います。さらに誰かと話したくなって対話が生まれたり。

テレビはもう本当にダメなのか? 渡辺あやと上出遼平は、視聴者の 「答えが知りたい」欲求に抗う

上出 宗教でお金を稼ごうとしているのと、今テレビがやっていることは僕にとってはすごく近いと思っています。安易な答えを与えることでお金を稼いでいるという点で。一部の宗教がしているのは「なぜあなたが生きているのか」「なぜあなたが病になったのか」「なぜあなたが今不幸なのか」ということに無理やり答えを与えてあげることですから。テレビは概ね同じことやってるような気がしてます。

渡辺 たしかに。今思ったんですけど、私は生い立ちとして人間の複雑性みたいなものをずっと考えなくてはいけない境遇にあったんですね。そこで多少鍛えられたので、人間に対するわからなさはある程度受け入れられるんです。ただ、こと経済であるとか自然の危機であるとか、その問題の大きさであるとか、そういう複雑さにはたぶん耐えられないんですよ。なので、それらに関してははっきり言ってもらえると安心するというところがあるなと思いました。

渡辺 先日、 岡山県の片田舎でトマト農家を続けている、兼業映画監督の山崎樹一郎さんと対談したんです。そこで出てきた話なのですが、都会だと表向きのその人とだけ付き合っていればいいのですが、田舎にいるとお互い思想とは別の部分で人付き合いをしなくてはいけなかったりする。

 たとえば昨日はすごく立派なことを言ってたくせに、今日は二日酔いでグダグダだとか、もっと丸ごとの人間としてお互い見せあわざるを得ない。それの真逆がおそらくSNSのような場所で、そこではその人の思想など一面だけでのやり取りが先鋭化されていく。それでは話したようで話したことにならないんじゃないかと思うんです。その人が本来どういう人なのか、どういう姿形をしていて、どんな人生を歩んできたのかなど、立体的にわからないと本当の対話は成立しないのではないかと思います。

 田舎ってすごいなと思うんですが、たとえば祭りとか、右であろうが左であろうが今日はそれを置いといてなんとか成功させなければいけない、みたいな状況が年に1回あったりするんですよね。そしたらホリエモンひろゆき内田樹先生みたいな人がみんなでひとつの祭りを盛り上げるというようなことが起こるわけで、なんだか非常に豊かなことですよね。

渡辺 テレビというか、表現がそのまま持っている原罪については私も同じことを思っていました。私たちは基本的に、人の不幸を搾取しながら仕事をしています。しかも、そんなことは見せずに「いいことをしている風」に仕事をしてきてしまっている。それは視聴者にはあまり共有されてないことでもあるので、今回、上出さんがおっしゃったことが視聴者の方々に読まれることはとても意義のあることだと思います。私自身もこれをいつ打ち明けたらいいだろうとずっと思っていたので、いい白状の機会を与えていただきました。

視聴者に無理やり答えを 与えるテレビは宗教に近い? 「エルピス」のエンディングに迫る 


観終わってから渋谷方面に散歩。丸善ジュンク堂書店渋谷店に寄って窪美澄著『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』を購入。
装幀イラストが宮崎夏次系さんなのでかなり雰囲気もあって、どんな作品になっているのか気になるものでとてもいい。先週の土曜日に寄った時に見かけた樋口さんの新刊『中野正彦の昭和九十二年』は一冊もなかった。回収されたのか売れたのかはわからない。

夕方から24時までリモートワーク。寒さが増してきているので終わると体が冷えているのもあって湯船にお湯を溜めてバブを入れて浸かるのがルーティンになっている。湯船に浸かるのが一番のリラックスというか、体に必要なことになっている。

STUTS “90 Degrees” LIVE at 日本武道館 June 23, 2023 

『エルピス—希望、あるいは災い—』のエンディング曲でも大活躍しているSTUTSの武道館ライブがあるのを知った。これはめちゃくちゃ行きたい。
2023年6月というと半年後。半年後のイメージは今はあまり沸いていないけど、たぶん来年は生き延びることと書き続けることをテーマにしないといけない、いやそうしようと思っているのでこのライブも観たいし、それまでにいくつかの作品の最後にエンドマークを打って終わらせたい。

Mirage Collective – "Mirage Op.5 - tofubeats Remix (feat. 長澤まさみ)" [Official Audio]

 

12月21日
深夜にTBSラジオで放送した『爆笑問題カーボーイ』のゲストが爆笑問題の事務所の後輩であり、今年の「M-1グランプリ」チャンピオンに輝いたウエストランドだったのでそれを聴きながら朝からリモート作業。
太田さんが「M-1グランプリ」当日に収録で一緒になったさんまさんや他の芸人の方々に「おめでとう」と言われた話をほんとうにうれしそうに話しているのが印象的だった。
もちろんウエストランドが期待されていて愛されていたこともあるのだろうが、太田プロから独立してタイタンを立ち上げて、今の場所を確立した爆笑問題への、太田さんという人物が愛されているということも感じた。ラジオを聴いているとよくわかるが本当に田中さんのほうがヤバい、サイコパスよりな思考の人であり、だからこそこの二人はやってこれたのだろうし漫才師としての強さにもなっているのかもしれない。
以前に松本さんが太田さんに「M-1グランプリ」の審査員やらないかと公の場所で言った時に「マジで、やめてくれ」と思った。太田さんが審査員になってしまうと松本人志ゲームマスターであるゲームの中に取り込まれてしまう。そうすればそのゲームを覆すことはできない。太田さんは自分は人の漫才を評価できないと言っていたが、本能的にそのゲームに関わらないことを選んだのだろう。もし、審査員になっていたら同じ事務所の後輩であるキュウとウエストランドの結果も変わっていた可能性は高い。

僕自身が小学校の中学年以降から思春期にかけてダウンタウンに強い影響を受けている。ダウンタウン松本人志の祝福&呪縛を受けた世代としては、「M-1」「キングオブコント」「ドキュメンタル」「人志松本の○○な話」などで勝ってもゲームマスターの松本さんより上にはいけない、みんな松本人志に認められておもしろいと思われることが誇りになる。だけど、それはある種軍門に下ることになる。
だから、自分と同世代といえるキングコングの西野さんやオリエンタルラジオの中田さんはそのゲームで戦っても自分が王になれないことがわかって、吉本を離れて自分がゲームマスターになる方向を模索して成功した。そう考えるとふたりは太田プロを辞めてタイタンを設立した爆笑問題や太田さんに近い。
日本の「失われた20年」はもはや30年となっていて、その時代にずっとお笑いで天下を取ってきたのが松本人志だった。僕が松本人志の呪縛が抜けたのはいつだったのだろうか、ラジオ番組『放送室』が終わって、体を鍛え始めた頃のような気がする。
たぶん、一強というものが好きではないし、そういうところから自分の興味が離れて行ったのも2000年代以降だったし東京に来てからだった。
爆笑問題がずっと漫才をやり続けたことが今回の結果だと思うし、そういう先輩後輩関係があるからこそ、今回のラジオでの四人のやりとりがほんとうに微笑ましいし、おめでとうございましたという気持ちになった。

朝晩とリモートワークで『爆笑問題カーボーイ』だけでなく、『アルコ&ピースD.C.GARAGE』『星野源オールナイトニッポン』『ぺこぱのオールナイトニッポン0』を聴いていた。ラジオが自分の生活の中の一部にだいぶなってきた、沁み込んできているなと思う。それにしても男性のパーソナリティーばかりを聴いている。女性だとふわちゃんぐらいか。霜降り明星を聴いていないのは、彼らの声は僕にはちょっと高く感じてどうも聴きやすい声ではないと感じてしまうから。

TVerで何度か見ている味ぽんの CMで、皿にもやしを敷いてその上に豚薄切り肉を重ならないように上に置いてラップをして数分チンした後に味ぽんをかけて食べるというメニューがある。それを昨日お昼にやってみた。そこそこの味だった。
豚肉ももやしもしめじも半分残したので今日もお昼に作って炊いたご飯と一緒に食べた。チンしたあとにラップに穴を開けて皿に溜まった水分や脂分をシンクに捨ててからポン酢をかけてネギと卵の黄身を乗せて食べてみた。昨日はその水分がかなり残っていたのでポン酢とか薄まってしまったので、捨ててからポン酢をかけるのがいいのだとわかった。これは果たして料理なのかは疑問だが、簡単。

 

12月22日

ニコラでシュトーレンとアルヴァーブレンドをいただく。一口齧ってから写真撮ってなかったと思って撮ったので左上が欠けている。クリスマスっぽいことはないもないのでこのシュトーレンが今年のクリスマスらしい唯一のもの。

それがなぜ「奇妙なもの」に見えるのか?
「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」という混同されがちな感覚を識別しながら、
オルタナティヴな思考を模索する
H・P・ラヴクラフトH・G・ウェルズフィリップ・K・ディック、M・R・ジェイムズ、
デヴィッド・リンチスタンリー・キューブリックアンドレイ・タルコフスキー
クリスタファー・ノーラン、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
ザ・フォール、ブライアン・イーノゲイリー・ニューマン……
思想家、政治理論家、文化評論家マーク・フィッシャーの冴えわたる考察がスリリングに展開する、
彼の生前最後の著作にして、もう一冊の代表作。

マーク・フィッシャー著/五井健太郎訳『奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集』が出ていることを知って休憩中に書店に行って購入。同じエレキングブックスから刊行された『わが人生の幽霊たち』の装幀に惹かれてなんとなく手に取ったことで読み始めたマーク・フィッシャー。これが生前最後の著作らしい。年末にのんびり読む。

樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』を最後まで読む。
普通に読んだらヘイトを助長しているようには読めない。主人公である中野正彦は安倍晋三を安倍お父様と尊敬しているヘイターであり差別主義者であり、男尊女卑の人物である。彼の視線から見えているものや彼が称賛しているものは間違いなく現実で起きているものであり、それを90年代サブカルに影響を受けている樋口さんが当時の悪趣味や鬼畜系みたいなものの延長戦で皮肉強めに書いているという感じの反ヘイト小説になっていた。
作中では石原慎太郎三島由紀夫について何度も言及されているけど、大江健三郎の『セヴンティーン』やその第二部『政治少年死す』的な要素も感じられる。この二作品の主人公にとっての「天皇陛下」がこちらでは「安倍お父様」になっていて、トルコ風呂と中野がいく五反田のある特殊な風俗店とか、テロリストを描いていることもあって通じる部分はいくつかあった。大江の作品は山口二矢がモデルだし、『中野正彦の昭和九十二年』にも当然ながら彼の名前が出てくる。
確かに今の日本の現実を見たくない人には嫌なものかもしれないし、実際の新聞記事や雑誌やツイートなどを取り込んでいるので記録としてはいいのかもしれないとは思った。
特に終盤のあたりの地獄絵みたいな展開は読んでいて気持ちのいいものではないけど、樋口さんがそれがもし起きうるとしたらというシミュレーション的に描こうとしたのもわかる。でも、個人的にはそれをやりたかったのはわからなくもないけど読んでいてそこは冷めちゃった。

樋口作品でいうと『さらば雑司ヶ谷』『日本のセックス』『民宿雪国』の系譜にある。そういう作品でも差別主義者とか中野正彦みたいな思想や行動している人物はたいてい因果応報の報いを受けるわけで、樋口さんの今まで書いてきたものと格段『中野正彦の昭和九十二年』が違うというわけでもない。だから、回収というのは本当によくわからない。これはさすがにヘイトや差別を助長しているとなるとマジで読者がなにも読めないって出版社が言っていると思われても仕方ない。
安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」と帯にあるぐらいだから、まあ扇状的に煽ることで興味を沸かそうとしていたと思う。結局のところ、この書籍が出るのに反対だったイースト・プレスの編集者が担当編集者にこのヘイトを助長するような本が出るのは許せないみたいなやりとりをした個人的なライン画像をツイートして、それを世間に晒して自分の意見を言ったことで発売前回収になってしまったわけだけど(そのツイートは削除されている)、その人のやっていること自体が山上容疑者の銃撃みたいだし、それで統一教会問題がバレてしまった自民党や安倍政権を支えていたものが世間に知られたように、イースト・プレス内で意思疎通ができていないとか諸々の問題が世間に知れ渡ったっていう相似系になったのがとても皮肉。
ぶっちゃけ著者が悪いとは思えない内容だったし、イースト・プレスが「刊行における責任の所在が曖昧」だということが発覚して協議の上で回収することにしましたって文言を出してるんだから、責任の所在をはっきりして刊行するしかないんじゃないかな。

 

12月23日

朝起きてから渋谷まで歩いて、副都心線新宿三丁目駅まで乗って歌舞伎町方面へ。TOHOシネマズ新宿で井上雄彦監督『THE FIRST SLAM DUNK』をIMAXで鑑賞。

1990年から96年まで「週刊少年ジャンプ」で連載され、現在に至るまで絶大な人気を誇る名作バスケットボール漫画「SLAM DUNK」を新たにアニメーション映画化。原作者の井上雄彦が監督・脚本を手がけ、高校バスケ部を舞台に選手たちの成長を描き出す。

湘北高校バスケ部メンバーの声優には、宮城リョータ役に「ブルーロック」の仲村宗悟三井寿役に「ガンダムビルドダイバーズ」の笠間淳流川楓役に「ヒプノシスマイク」の神尾晋一郎、桜木花道役に「ドラえもん」の木村昴赤木剛憲役に「僕のヒーローアカデミア」の三宅健太を起用。1990年代のテレビアニメ版も手がけた東映アニメーションと、「あかねさす少女」のダンデライオンアニメーションスタジオがアニメーション制作を手がける。

ロックバンドの「The Birthday」がオープニング主題歌、「10-FEET」がエンディング主題歌を務め、作曲家・音楽プロデューサーの武部聡志と「10-FEET」のTAKUMAが音楽を担当。(映画.comより)


否定的なファンも抱きしめる。『THE FIRST SLAM DUNK』が描いた「震災」と「スラムダンク論」|照沼健太

↑これ読んで興味を持った&すでに観ていた人から勧められたこともあって観に行くことにした。僕みたいにネタバレ気にしない人は読むと興味湧く内容だと思う。そもそもストーリー自体はある世代以上ならなんとなくは知っているからこの作品にあるサプライズ的な部分を知りたくない人は何の情報もいれないで観た方がいいと思う。
あと『SLAM DUNK』を知らない、読んでない若い世代でも登場人物たちの関係性とかがわかる構成になってはいるから漫画とか読んでなくても観るのは問題ない作品になっていた。

「少年ジャンプ」で連載していた漫画『SLAM DUNK』では赤毛桜木花道が主人公だったが、今作ではその主人公が違う湘北高校バスケ部の宮城リョータであり、彼の視線や漫画では描かれていなかった家族などのバックグラウンドが描かれていることで同じ物語だが新鮮な体験ができるものとなっていた。
リョータの幼少期と家族の話と彼ら家族が暮らしていた場所、そして喪失から違う場所での生活、一年先輩である三井寿との最初の出会いと衝突、赤木剛憲との信頼関係、一年後輩である天才プレイヤーである流川楓と問題児の桜木花道との関わり、とレギュラーメンバーとのエピソードも現在進行形としての試合の間に挟まれていく。
連載時にリアルタイムで読んでいたがめちゃくちゃハマっていたわけではなく、最初から最後まで読んでいたので内容は知っているけど、映画を観ているとその時々のセリフやシーンを思いの外覚えていたので自分でも驚いた。
いいファンではないとは思うけど、映画を観てすごく満足したしおもしろかった。絶賛の声しか聞こえないのも納得できた。あと試合のあとの漫画では描かれていないシーンもよかった。

The Birthday - LOVE ROCKETS【MV】(映画『THE FIRST SLAM DUNK』オープニング主題歌) 



10-FEET – 第ゼロ感(映画『THE FIRST SLAM DUNK』エンディング主題歌) 


SLAM DUNK』で音楽がThe Birthday10-FEETって合わないだろうと思ったが映画館で聴いたらとても合っていた。IMAXで観たので音も良かったから余計にそう思えたのかもしれない。

「いわもとQ」でそばを食べて帰ろうと思ったら店舗の周りに車が何台か停まっていて工事をしているみたいでお店はお休みだったので諦めて駅に向かった。

家に帰ってから一時間ほど仮眠してから中目黒駅に向かって、友人のパン生地くんと駅前でお茶をした。喫茶店を出てから行こうと思った別のカフェが年末で閉店時間が早くなっていて閉まっていたので駅前のスタバでコーヒーを買って目黒川沿いを歩きながらのんびりと話しながら歩いた。
月曜日もプチ忘年会をして中目黒まで散歩がてら歩いたので週に二回目黒川沿いを歩くという珍しいことになった。
『THE FIRST SLAM DUNK』の話になってパン生地くんも観ていてその感想と井上雄彦さんのロングインタビューなどが掲載されている今回の映画についての本を読んで、インタビューがすごくよくて創作欲を刺激されたと教えてくれたのでそれも読んでみたくなった。来年も会おうという話をして別れて家に向かったが風がほんとうに体の芯を冷やすような寒さで冬だねえって思った。



家に帰ったら「メフィスト特別号」が届いていた。第64回メフィスト賞受賞作の須藤古都離著『ゴリラ裁判の日』が一冊にまるまる全文掲載されている。編集者座談会を読んでめちゃくちゃ気になっていた作品。

 

12月24日
2022年映画マイベスト

一位・ジョン・ワッツ監督『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
二位・城定秀夫監督『愛なのに』
三位・サム・ライミ監督『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』 
四位・吉野耕平監督『ハケンアニメ』
五位・マイク・ミルズ監督『カモン カモン』
六位・タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ
七位・三宅唱監督『ケイコ、目を澄ませて』
八位・コゴナダ監督『アフター・ヤン』 
九位・松居大悟監督『ちょっと思い出しただけ』
十位・工藤梨穂監督『裸足で鳴らしてみせろ』
新作ではないが別格・青山真治監督『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』はサム・ライミ監督「スパイダーマン」シリーズ三作、マーク・ウェブ監督「アメイジングスパイダーマン」シリーズ二作、今回のジャン・ワッツ監督「MCUスパイダーマン」三作という歴史の積み上げ(層)によるクロニクルが今作品である種の集大成としてまとまったこと、コロナパンデミックによる映画館での観客の人数制限などが明けた際に公開初日0時からの最速上映の満席の中で観て、あのサプライズで観客から歓声と拍手が深夜の映画館を満たしたという体験。
映画の出来プラス観た時の情景としてコロナをいつか思い出す時に僕にとっては象徴的な一場面になったと思えるというのがやはり大きい。

『愛なのに』は出演してたさとうほなみさん、河合優実さん、向里祐香さんの女優さんがとてもよかったし、観ながら何度か笑ったけどちょうどいいリアルさとかあって好きだった。

ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』 は今年珍しく二回観に行った作品で最後のほうのゾンビフォームみたいなダークサイド版千手観音verみたいなストレンジがなぜか異様に好きになってしまった。あとマルチバースという概念自体は違和感はないし、四次元とか五次元ってそういうものだろうしなあって。人は過去から逃れられないっていうのだけリアル。

ハケンアニメ』はお仕事映画として楽しめた。アニメ好きではないのでアニメ好きな人からするとツッコミや不満はたくさんありそうだけど。
試写を観た当時はいろいろ起き始めたころだったので、こういう優秀なプロデューサーがいたらなって思っていた。

『カモン カモン』は『トップガン マーヴェリック』同様に父にはなれない(なれなかった)中年の男(あるいは初老)と甥っ子や友人の息子という存在によっていかに「父」になれるのか、という問題意識が通じていて、このタイプの作品はアメリカだけではなく、日本でもちょこちょこ出ているのでかつての先進国の問題であり、同時に家父長制の問題とも結びついているように思った。マイク・ミルズ監督はフェミニズムとか現代の問題についてちゃんと描ける少ない男性監督だよな。

『マイ・ブロークン・マリコ』は漫画も素晴らしかったけど、無駄にエピソードを追加して二時間とかにしなかったのも好感が持てるし、喪失を受け入れるために残されたものは日常から逸脱してまた日常に戻るしかないのだということを改めて教えてくれた。友情の話だけど、死んでしまったマリコは男性性による加害による被害者なので、その原因を考えるとけっこうしんどくもあった。

『ケイコ、目を澄ませて』は『コーダ 愛のうた』や去年の『ドライブ・マイ・カー』や今年のドラマ『silent』など聾者が登場する作品であり、作中で手話が使われているものが増えていると感じる今年最後の締めくくりのように思える作品だった。ただ、映画の佇まいが素晴らしく、音の聞こえないケイコがボクサーとして練習する際に放たれる音が心を何度も震わせた。終わり方も好きだった。

『アフター・ヤン』はSFなんだけど、人の記憶とはなにか?という話であり、近未来の話ではあるけどとても現在性のある物語だった。A24らしいとも思えたし、映像としても素晴らしかった。

『ちょっと思い出しただけ』は去年の『花束みたいな恋をした』に通じるものでもあるのだけど、ある恋人たちの一年のある日を過去に遡って描いていく。別れることになった二人の愛しい時間や出会った頃の距離感を描いていくことで僕たちはもう戻れないのだと思うと二人がより愛おしく感じられた。

『裸足で鳴らしてみせろ』は優しい嘘をついてある人の願いを叶えようとする青年二人の物語なんだけど、優しくて甘酸っぱい話になっていて、印象的なシーンが多くて観終わってしばらく経ってもあの二人元気かなって思える、そんな作品だった。ラストシーンがとても沁みた。

今年亡くなった青山真治監督の『EUREKA/ユリイカ』デジタル・マスター完全版はやっぱり映画館で観るべき作品だと思った。追悼もかねて「北九州三部作」のふたつを映画館で観れたのはよかった。
九州バスジャック事件を予見した作品でもあるが、そのネオ麦茶とかサカキバラとか1982年生まれの少年犯罪事件が90年代後半とゼロ年代だけでは終わらなかったこと(成年後もなぜかその年の生まれの人たちが秋葉原やもろもろで事件を起こすことになる)、今年になって山上容疑者も含めて考えてみると1980年代前半生まれが凶行をしていったことはけっこう真剣に考えないといけないんだよなって。

木曜日に放送したドラマ『silent』最終回をTVerで見る。最後まで微笑ましい内容の恋愛ものになっていたが、基本的には悪者的な人は存在しない作品になっていた。
恋敵的な人たちの恋愛や人間関係や過去も描いたことでそれはできなかったし、時代的にももう恋敵を悪く描くというようなものは視聴者受けが悪いというのもあるのだろう。その上でライバルも人間として魅力的に描くことで作品自体に好感を持ってもらえることが大事になっていた感じもする。個人的には夏帆さんファンなのでこの作品で女優として再評価されたのはうれしかった。
それにしてもピュアすぎる関係性に見えたのだけど、視聴者はそういうほうがいいのかな、どうなのだろう。最後は紬と想が卒業した校舎の中で互いの思いを伝え合うというものだったが、二十代になってもそこまでピュアなのかと思うところはあった。
紬は想の変わってしまったものを見ていて、想は紬の変わらないものを見ていた。だからこそ、紬が高校時代の象徴であるポニーテールではない結ばない髪型で彼と会うということなど芸が細かない描写が多くて、非常に丁寧な作品だったと改めて感じた。

飯塚 あとそれとは別で、オークラとはしょっちゅう飲んでて、そこでオークラはいつも、コントと音楽の融合みたいに別のジャンルと一緒にライブをやりたいってことをよく語ってたんですけど、俺はコントはコントとしてやりたい人だから正直ピンとこなくて。でも、キングオブコントで優勝させてもらったことで「東京03はコントをやる人たち」っていうイメージが徐々についていく中で、「コントだけじゃない別の何かがあればな……」と思い始めたときにちょうど10周年記念公演があって、そのときにやったのが「悪ふざけ公演」だったんですね。そうやってオークラがずっとやりたかったことと、僕が「そろそろそういうことをやったほうがいいのかな」と思った時期が合致したって感じです。

オークラ クリーピーのラジオでも話したんですけど、FROLIC A HOLIC自体をどう括っていいのかわからないっていうのがあるんですよ。日本ってジャンルが決まってないものに対する評価ってなかなかしないじゃないですか。でも、そこを突き進んだらそれはそれで面白いんじゃないかって思ってきて。

──なるほど。

オークラ それに、自分たちがこれからやろうとしていることについて「なんて言っていいかわからない」って言ってしまえば、観てる側にもちゃんとそういう目線が生まれるじゃないですか。

──たしかにそうですね。

オークラ あと、僕らの時代って、ライブでウケました、テレビに出ました、バラエティ番組で成功しました、冠番組を持ちましたっていう流れが芸人の王道としてあったじゃないですか。でも、東京03ぐらいからそれがちょっと崩れ始めたんですよ。今の若手からすると東京03は新しいタイプの芸人のモデルケースみたいになってるという事実もあって、そういうところも「括れないもの」として見てもらうことでまた新しい評価がされるんじゃないかなと思って。Creepy Nutsみたいなラッパーの世界も「売れたらダメ」みたいなところがあるじゃないですか。そんな中でこの人たちも括りというものに対して悩んでるのかなって勝手にシンパシーを感じたので、それもこのタイトルにつながってます。

東京03×構成作家・オークラ×プロデューサー・石井玄 インタビュー】 どうなるかはわかんないけど、面白そう。

東京03 FROLIC A HOLIC feat. Creepy Nuts in 日本武道館 なんと括っていいか、まだ分からない」の一次、二次先行と全部抽選で落ちてしまったが、一緒に行こうと誘っていた友人が二次で注釈ありのS席をゲットしてくれたので観に行けることになったのでめっちゃうれしい。
STUTSのチケットを先行で取った日にわかったので、来年武道館に行く日がすでに二回あり、三ヶ月ごとというのもなんか生き延びろと言われている気持ちになる。

 

12月25日
TBSラジオ爆笑問題の日曜サンデー』のゲストに伊集院光さんが出ていて、その中で伊集院さんが今年を漢字一文字にすると「終」だったと言われていた。
レギュラーだった朝のラジオが終わって、三遊亭圓楽師匠が亡くなっていろんなものが終わっていき、来年のための布石のような感じだったと話されていた。そこからご自身の師匠が亡くなられたことで親子会で再び始めた落語についてどうしようかという話を太田さんとずっと話されていて、田中さんはほぼ口を挟まないで二人のやりとりを聞いているという感じで、そういう自然な三人だからこその空気感もよかった。
僕も今年の漢字を一文字で選ぶとしたら「終」だと思う。園子温監督のセクハラパワハラ問題があって、水道橋博士さんが政治家になってそしてやく十年続いてきた「水道橋博士のメルマ旬報」が廃刊となった。やっぱり三十代になってからの繋がりや続いていたことが特にこの二年ほどで終わっていったけど、今年でほとんどクリアになってしまったという感じが強いから。伊集院さんのような多忙な人間ではないけど、僕はラジオで話されていることに共感したし、僕自身が来年からまた少しずつ積み上げていくしかないのだと12月が近づいてきて、そして来年がすぐになってきている今はそんな風に考えることが増えている。これまでとは違う関わりとか新しい場所で何かが始まるように動くために、まずは体調を崩さないように意識的に動かしたりしないと持たないなとは思う。

 

もっとも、8月の時点で兆候はあった。データインテリジェンス企業のMorning Consultが、2021年11月と2022年7月のデータを比較して、「スーパーヒーロー映画を楽しめていない」と答えた人の割合が増えていることを報告したのだ(※2)。7月の調査では、マーベルファンの18%、また一般成人の41%が「楽しめていない」と回答。2021年11月から、それぞれ5%ずつのポイント増加が見られた。このときも、マーベルファンの31%は「数が多すぎて少し疲れた」と答えたのである。

マーベル・スタジオは、MCUという巨大なユニバースそのものに注目させる戦略を取り、『アベンジャーズ/エンドゲーム』までの「インフィニティ・サーガ」を成功に導いてきた。しかしフェーズ4が終わりを迎えたいま、ファンの3分の1以上が「ユニバース疲れ」を感じている。確かにあっという間の3年半だったが、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の世界的な盛り上がりを思えばこそ、この変化は重い意味を持っている。

もっとも12月の『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、名実ともにフェーズ4最高の評価を得た一作だった。RTでは批評家93%・観客98%、CSでは「A+」という最高評価を記録。ただし、同作はマーベル・スタジオ単独ではなくソニー・ピクチャーズとの共同製作。しかもマルチバースの強みと、映画版『スパイダーマン』の歴史をフルに活かした、言うなれば禁じ手めいた魅力にもあふれる作品だったのである。

マーベルファンの3分の1以上が疲弊している。その原因は? MCU「フェーズ4」を総括(前編)

ちょうど前日に今年の映画マイベストの一位にジョン・ワッツ監督『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を選んでいたので読んでみた記事。
僕のような半端なMCUシリーズ観客からしてもあの量は生粋の熱狂的なファンには大変そうだなって感じていたが、この数年はコロナパンデミックで公開日がズレたりしたことなども影響しているのでちょっとかわいそうなところもある。
ディズニーチャンネルに入りたいと思えないので、ドラマシリーズはなにひとつ見ていないけど、作品としての出来はよくておもしろいとは見ている人たちからは聞く。だけど、どうも興味が沸かないんだよなあ。ミーハーなファンなのでドラマは無視して映画館だけで新作を観ている。『アントマン&ワスプ』の新作は予告編を劇場で観るとIMAXとかで観たいなとは思うんだけど、今後はすごく気になるシリーズやヒーローは今の所ないかな。まあ、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の三作目はもちろん劇場で観るつもりだけど、それで僕の中では一つの終わりを迎えそう。

 

12月26日
「BOOKSTAND映画部!」のレビューコーナー「月刊予告編妄想かわら版」2023年01月号が公開されました。1月は『ファミリア』『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』『キラーカブトガニ』『イニシェリン島の精霊』を取り上げました。


3月17日(金)公開|『零落(れいらく)』長尺予告 


浅野いにおさんの漫画を竹中直人監督&斎藤工主演で映画化した作品。原作がかなり好きなのでキャスティングとかもろもろ思うところはあるのだけど、劇場で観てしっかりどんな風になっているのか確かめたい。主題歌がドレスコーズになっていて、予告編ではフリーライターの役で志摩さんが出ているのが確認できる。そういうのはしなくてもいいんじゃないかなって思ってしまうが、いろんな要因や理由があるんだろうから映画さえ面白くなっていてくれたらいい。

 

大根:まず、カメラがソニーの「VENICE 2」っていう、今のシネマカメラの最高峰のもので……。さらに、めちゃくちゃ高級なレンズをいっぱい持ってきて、なおかつ照明部として、重森さんがよく一緒に組んでいる中須(岳士)さんっていう、映画を中心にやっている凄腕の照明の方を連れてきて。そこまで予算があるわけじゃないから、限られた機材で、いろいろ工夫しながらやろうって言ったのに、日本でもトップレベルの機材とスタッフを持ってきて、「あの脚本には、多分これが合っていると思う」って。

大根:そうですね。だから、その「ポップ」っていうのはどういうことかって言ったら、大衆的であり、刹那的であり、セクシーでもあり……っていうようなことだと、僕は解釈していて。セクシーっていうのは性的に捉えられがちですけど、僕の中では人間的な魅力ということで、色気って言葉に置き換えてもいいんですけど。

大根:ですよね、「#村井さん」がトレンド入りしてましたからね(笑)。でも、それは結構明確なポイントが見えていて。第6話で、恵那が『ニュース8』に出ることになって、放送前に自販機のところで斎藤のLINEを読んでいるときに村井がやってきて、「今だったら、やめられるし、代わりに俺が出てもいいぞ」っていう、そこそこ長いシーン。ここが肝だなっていうふうには思っていたので、ここはとにかく村井をカッコ良く撮ってやろうと思って撮ったんですよね(笑)。実際、岡部たかし史上、いちばんカッコ良いシーンになったと思うし、あの村井はセクシーですよね。

大根:そうですね。僕の中にあるサブカル的資質っていうのは、やっぱり一生剥がれないものではあるんですけど、その一方で、そういった趣味性とか、自分の得意技を作品に反映させる仕事は、ある種やりつくした感じもあって。もう自分がいちばん喜ぶような仕事は、終わったかなっていう。最近は、自分のためではなく、誰かのために仕事をしたいというモードに入っている感じはありますね。

『エルピス』大根仁監督ロングインタビュー 画期的な撮影から長澤まさみとの再タッグまで

朝晩とリモートワークで休憩中に見つけた記事。『エルピス』は今夜が最終回。リアルタイムというよりは翌日に見ることになると思うが、大根仁監督のこのインタビューはかなり読み応えがある。
岡部たかしさんがどんどんカッコ良くなっていったし魅力的になっていたこともこのドラマのおもしろさを加速させたと思う。菊地成孔さんと新音楽工房が音楽を手掛ける『岸辺露伴は動かない』のドラマと同時刻で放送というのもちょっともったいない気はするのだけど、リアルタイムではなくてもTVerNHKオンラインなどで見られる環境がいくつかあるのでありがたくもある。

30日まではずっとなんらかの仕事が入っているのだけど、気分的には上がらないまま、来年の目標とかも考えたりはしているが、心と体がうまく一致していないので無理はしないでとりあえず大晦日と新年を迎えて、すっと何かから抜けるように心と体が一致してうまく動き出せればいいなとか思っている。無理してもよさそうな雰囲気はないとこは雌伏しておくのが一番いいだろうから。

 

12月27日
朝起きるのがとても億劫になってきた。とりあえず、冷たい水で顔を洗って口を濯ぐと目が覚めるような気がする。寒さで布団から出たくないということはあるけども、なんだか気持ちの問題のようにも思えなくもない。早く今年が終わってしまえば、来年になったら気持ちが変わるかも、一新できるみたいなことも思っていたりする。でも心の奥の方ではそれらは実際のところはただの日常の続きでしかないから、いつだって変えればいいのに、何かで区切ろうとしていることの方が問題ではないかという思いもあるのがわかる。
やる気が起きないという時には無理した方がいいのか、しないで雌伏的にテンションやモードが変わるのを待つのがいいのか、どちらがいいのかは今はよくわからない。ただ、起きてとりあえず、リモートで作業を開始する。


休憩中に駅前に行ったのでTSUTAYA三軒茶屋店でニック・ホーンビィ著/森田義信訳『ハイ・フィデリティ』を購入する。昔、この作品を原作にした映画を二度ほど観ているはずなのだがあまり記憶にない。ただ、90年代のレコードショップを舞台にしている今作はもはやその時代がレトロフューチャー的に消費もされるようになった20年代ではちょうどいい距離感なのかもしれない。中年には懐かしい時代であり、若者世代には生まれる前のインターネットすらほとんどないと言える親世代が見てきたものを追体験できる作品となっているのだろうか。

寝る前に『エルピス』第十話、最終回を見ていた。前回の善玉と悪玉の話が効いている。恵那は元恋人で大門副総理の元にいる斎藤とある取引をする。その際にも斎藤から恵那は明日病気や事故になって放送には出れない可能性があるとすらりと言われている。これが大門側にいる人間の発言であり、非常に恐ろしいことだ。
斎藤は彼女のしようとしていることを理解しているが、それを含めて将来まで向けて考えた自分の案をしっかりと話して伝えた。ここは魅力的な見せ場だった。
恵那が冤罪事件を解決する方向へ舵を切った、そちらの案を取って副総理の息子婿の告発を報道しないという相手側の意見を飲んだことでいろいろな賛否両論が出ているようだが、今までの流れからもそれが嫌なほどにリアルであり、彼女や拓朗にとって追いかけていたものをひとまず選んだということなので僕は違和感はなかった。結局、冤罪事件のほうが最終的には大門への疑惑の目は広まっていくし、相手が時間稼ぎはするかもしれないが、どちらかの二択ならそちらのほうがこれからのことを考えても最良だろう。
最後には牛丼屋に誰かがやってくるがわからないというラストだが、公式のSNSではそれが村井だったというのがわかるようになっていた。これで眞栄田郷敦の評価は一気に高まっただろうし、若手の中でも顔と名前がドラマ好きには知れ渡ったはずだ。そして、村井役の岡部たかしさんはさらにいろんな作品に引っ張りだこになるだろう。坂元裕二戯曲の舞台で観てから僕は認識したのだけど、こういういぶし銀的な俳優さんが注目されるのはとてもいいことだと思う。そして、大根仁監督が撮ると魅力がさらに増すことが再証明された長澤まさみさん、これが三十代の代表作になるはずだしさらに躍進していくと思うと次作もたのしみになってくる。俳優さんってほんとうにいい脚本と監督や共演者に恵まれるかどうかが大きいなと改めて感じた。
これを見ていたから昼ごはんはセブンイレブンの冷凍コーナーで売っている牛丼の具を買ってきて食べた。ドラマに出てきたあの牛丼屋さんいつか行ってみたい。

朝晩とリモートワークをしているけど、やっぱり気持ちが乗らない。早く新年になってほしいと思ってしまう自分がいる。最近のリラックスはほんとうに仕事終わりにバブを入れた浴槽に浸かることだけだ。

 

12月28日
朝の仕事の最終日、仕事納め。来年の仕事の準備も思ったよりもスムーズに進んだのでよかった。仕事中はradikoで深夜ラジオを流していてプラスでお昼過ぎたら『ラヴィット』の前半部分を見ている。昨日のラストで川島さんからいきなり司会を任されることになった山添さんだ。しかし、今日の放送は年間のベスト発表みたいな感じでVTR振り返りがメインだった。夜の生放送スペシャル『ゴールデンラヴィット』の準備でいつものスタッフよりも人数が全然いないし、レギュラーもゲストもいないから山添さんにという形なんだろうか、夜のスペシャルでどうなっているのかが楽しみだなと思いつつ見ていた。

kjとMEGUMI夫妻、ほんとうにカッコいいわ。昔ピカソドン・キホーテ)でレジしてるときに二人来たけどkjを前に冷静にいつも通りしようと逆に緊張してMEGUMIがいたことに気づかず、他の人に言われて知ったのも十何年か前か。

 

林 あります。作家さんが売れてくると周りがどんどん言わなくなるから、作家さんから逆に言われることもありますね。「ちゃんとこれ面白いですか?」とか「ファンが面白いと言っているからって面白いとは言わないでください」と言ってくる方もいらっしゃるので、逆にピリッとさせられるというか、ああ、遠慮したらダメなんだと。たぶんここでつまらないと言わなかったら、僕の役割はほぼいらなくなっちゃうので。作家さん自身、本当につまらないと確信しているものをあえて見せてくることもあって、そういうときに面白いと言ってしまったら、信頼がなくなるんですよね。とはいえ、べつに無理やりつまらないと言う必要はなくて。なので、迷いながら、でも自分の本心に従って、ちゃんと面白いかどうか、つまらなかったらどうすべきなのか、面白かったら何を強化すべきなのか、そういうことは伝えるようにしています。

佐久間 一緒に仕事する作家さんで、「この部分をもっている人とは何か一緒にでかいものをつくれるな」という共通したものっていうのはあるんですか?

林 それがないんですよね。ヒット作家で共通点とか、ヒットする作品の共通点とかよく聞かれるからちょいちょい考えるんですけど、ないんです。愚直にマジメに、ということですね。マンガの仕事がそもそもそういう構造になっているので、机に向かい続けている人しか生き残らない。描くのがしんどいという人はなかなか難しい。でも、そういう人でも売れている人がいるんですよね。こればっかりは本当にわからないです。

佐久間 売れる、売れないはわからないですよね。だから、僕は芸人のネタには口を出さないようにしているんですよ。責任を取れないから。芸人から「ここの部分どうですか?」と言われたときには正直に意見を言うし、自分の才能といわゆる現行バラエティの折り合いが付かない人にアドバイスみたいなことはするけど、ネタはその人本人の宝物だから口は出さないようにしている。それもあって、審査員の仕事は極力やらないようにしています。

佐久間 そうそう。それをしているから、本当に信じられない飛距離の大ホームランを打てるんだと思います。自分の得意分野という話で言うと、お笑いの場合はやっぱり松本(人志)さんがヒットメーカーになってくるんですけど、松本さんの場合、本人が天才で面白いうえに、自分でルールをつくっちゃっているじゃないですか。だって、大喜利の『IPPONグランプリ』もトークの『すべらない話』も、すべて松本さんがルールをつくってますよね。これはオードリーの若林くんが言ってたんですけど、天下を取る人って自分の教科書を世間に押しつけられる強さがある人なんですよ。じゃないと、天下は取れない。他人のルールで戦っているかぎりは覇権を取れないんですよね。

佐久間宣行(テレビプロデューサー)×林士平(『少年ジャンプ+』編集者) 【仕事術からエンタメの未来まで】炎の20,000字対談!

佐久間さんと林さんの対談がアップされていたので読んでみた。いい加減に『チェンソーマン』の漫画も読もうかなという気にもなってくる。
売れる売れない問題は本人の努力や才能以外にも運やタイミングの問題があるので、そこだけは誰にも決めることができない。ほんとうに女神が微笑む瞬間に飛び込めるのかどうか。

夜の作業中の21時からリアルタイム配信で『ゴールデンラヴィット』が放送されていたのでそれを聴きながら(映像を見れるものが仕事のパソコンしかないので)作業をする。ほんとうに『ラヴィット』という番組は「令和の笑っていいとも!」だと思えるし、そういう存在になっていくのだろうと改めて感じた。ただたのしい笑いの空間になっていて、司会の麒麟の川島さんとTBSアナウンサーの田村真子さん、曜日ごとのレギュラー陣との掛け合いがとても好きだし、今この番組出ている芸人さんやタレントさんたちにとってはものすごいプレゼントというか、キャリアの中で大事な番組になっていくだろう。来年以降もTVerでしか見れないが平日のたのしみとしてずっと見続けていきたい。

朝晩とリモートワークで朝が本日までだが、夜は30日まであるので仕事納めになるのは明後日。いつもの元旦の新年会的な飲みは行っているお店の都合でなくなったと連絡があった。そういう部分でも毎年とは違う始まりになるんだなって思うと、2023年はいやでもこれまでと違うフェーズに入ることになりそう。

 

12月29日

起きてから夕方まで予定がないので、散歩がてら蔦屋代官山書店まで歩く。二階の漫画や音楽関係のフロアにあった井上雄彦著『THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE』を購入。
先日映画を観たあとにお茶をしたパン生地くんからオススメされた一冊。井上さんのインタビューを読むといいよと言われていたので読んだが、創り手としての気持ちや今作に至る過程がしっかり語られていた。背中を押してもらったようなやる気が出る話だった。
読み切り短編『ピアス』も収録してある。こちらは宮城リョータが主人公の作品で今回の映画にも関わってくる設定が出てきているものとなっている。読みながら「ああ、こういう話だったんだな」と思い出したが、ピアスを開けるところは覚えていたのに、そういう彼の細部の設定のことはすっかり忘れていた。
さほど『SLAM DUNK』の熱心なファンではなくなんとなく毎週読んでいた僕が覚えているのは、最初に「週刊少年ジャンプ」に掲載されたのが1998年の2月であり、僕はその3月の誕生日に自分でピアスを開けたから余計に記憶に残っているんだと思う。この漫画の影響ではなく、安藤政信さん憧れで開けたのだけど。


一階に降りてから小川哲著『地図と拳』も購入した。大晦日に読もうと思った。640Pというそこそこ分厚い本。たぶん、直木賞受賞するんじゃないかなって思うんだけど、小川さんの作品だと今年出た『君のクイズ』はおもしろかった。
でも、前の『ゲームの王国』はおもしろいと思えなかった。よく考えたら『三体』もおもしろいと思えなくて一巻で諦めてしまった。
パン生地くんとも話をしていたんだけど、僕は小説内ゲームがそもそも好きではない、というかゲームというものに興味がない。最後にやったのはゲームボーイアドバンスとセットになっていた『MOTHER3』で、その前はプレステ1で最初に出たFF(ジャンプで応募者に当たるやつ)だった。みんながゲームとかアニメとか好きすぎるんじゃないかなって思うのんだけど、そういう人の方が少数派になっているのもわかる。こういう分厚い小説をお金を出して買う人のほうが絶対少ないからこそ、分厚い本を出せる作家を応援したいという気持ちもある。

Tシャツをめくるシティボーイ 第7回  日本で一番Tシャツの裾をインしにくい場所 / 文:高畑鍬名(QTV)

そのパン生地君こと高畑鍬名くんの連載の最新回がアップされていたので読む。今回は「オタク」と呼ばれる人たちのTシャツのタックイン、アウトのことについての考察と歴史のことを書いていた。

菊地成孔の新バンド ラディカルな意志のスタイルズとは何なのか? 二度のライブから〈反解釈〉のアンサンブルを考える

「ラディカルな意志のスタイルズ」について菊地さんは今の所音源を出すつもりはないと「大恐慌へのラジオデイズ」でも言及されていて、ライブでしか体験できない音になっている。次の「反解釈2」は都内かあるいはどこかの地方なのか、都内でやる限りは行きたい。


17時半ぐらいに家を出てトワイライライトに寄って、石川直樹著『全ての装備を知恵に置き換えること』を購入してから店主の熊谷君と少し話してから二階へ。


18時からニコラに行って皿洗いのヘルプを。24時までの営業で年内最後だったので最後の方は常連や顔見知りの人たちばかりになっていたが、とてもいい雰囲気でそれぞれのテーブルやカウンターのお客さん同士が話をしていたのもよかった。
24時すぎにいったん落ち着いたのでまかないサラダとワインをいただく。今年は上の三階に熊谷君が店主の書店のトワイライライトがオープンして今までと人の流れというかお客さんも新規の人が増えていたと思う。トワイライライトはこれからいろんな人たちが混ざり合い交流していく場所になると思うのでとてもたのしみ。

 

12月30日

結局お店をあとにして残っていた常連二人と去年同様のパターンを繰り返し、終わったら朝の6時を過ぎていた。そこから家に帰って11時過ぎまで寝たがけっこう二日酔いな感じで気持ち悪かった。でも、夕方から夜バイトの年内最後のリモートワークだったので、このまま家にいたら家から出ないで終わると思って重い体を無理やり起こして渋谷に歩いて向かった。円山町のライブハウスの壁にSAPPOROビールの宣伝ポスターが貼ってあり、その中の一枚がDragon AshのKjだったのでつい写真を撮ってしまった。やっぱり男前だなあと当たり前のことを思った。
Kjの隣のさとうほなみさんはゲスの極み乙女のドラマー(そちらは「ほな・いこか」名義)でもあるが女優業でも大活躍している。今年彼女が出演した城定秀夫監督『愛なのに』はとてもよかった。

SOPHIA / ゴキゲン鳥~crawler is crazy~(Official Music Video)


昨日ニコラの曽根さんとソフィアの話をして、そのあともなぜか90年代のビジュアル系の話をしていた不思議な年末。

 

12月31日

ドストエフスキー著/亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』1〜4のバリューブックスのポイントで購入したもの。
年末に読まなくなった書籍を引き取ってもらった際に今までのポイントが貯まっていたのもあって、読んでこなかったものを買おうと思ってこれにした。来年は古典をできるだけ読もうと思っていることもあって。このシリーズはこのあとの「5エピローグ別巻」というのもあるらしいのでそれも来年購入して全部読みたい。

起きたら10時過ぎだったのでとりあえず家を出たが、渋谷に行くのもどうかなって思って池尻大橋の辺りで引き返して三茶方面に。スーパーで蕎麦用のイカとエビの天ぷらを買って書店も覗くが何も買わないで家に買ってきた。大晦日だし、このブログをアップしたらこのあとはずっと小川哲著『地図と拳』を読んで、本日中に最後までいければと思っている。
今年は基本的には去年からの続きで何年か続いていたものが終わっていくという一年だった。僕自身に力もなく、その時期の幸運な最中に努力もしていなかったから、終わっても次に何かつながったり、始めることができなかった。自業自得だろう。
ということもあって、来年は生き延びることと書き続けることに注力したい。もし、何かの芽が出たりするとしても時間はかかるだろうし、再来年以降になにかの形にするために地味ながらやっていくつもり。まずは体調面のこともあるので人生でマックスの体重になってしまっているので徐々にでも減らしていかないといけないし、生き延びることを考えるとそのどちらも意識的にやらないともうダメだろうなと思う。
来年は雌伏の年でいいから、雪の下で春を待つ植物のように見えないところで根を奥深くまで伸ばしたい。

2022年はこの曲でおわかれです。
syrup16g - Everything With You (Official Audio)